ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

雑感3月23日

 
 
詩の構造をかんがえるにあたり、使用されている品詞を分類するというのはたぶんただしい。吉本隆明が『言語美』のはじめのほうで、それをおこなったのも至当だった。ただし、吉本のように、品詞を「自己表出」「指示表出」、それぞれの濃淡の混淆ととらえ、品詞おのおのをそれなりの座標に置くだけではもはや足りないだろう。品詞間の作用性の問題が脱落しているのだ。
 
論文作法のうえでは、「AはBである」という構文が尊ばれるが、「AはBだとおもう」としるすと途端にNGとなる(指導教員のおおかたはそのように学生に示唆する)。「おもう」の媒質が書き手の脳髄だとすると、論理によけいなもの=身体が媒介され、不純が生じるとみなされるためだ。この「不純」をつきつめてゆくと、寂寥、憂鬱、不快、欣喜、瞋恚など、そこから感情がいいあてられるよすがにもなる。とうぜん感情と純粋論理は対立する。それで動詞(身体的な品詞)は論理の対立物だという短絡が生ずる。綜合すれば論文作法はたぶん繋辞以外の動詞の極力の排除、という一種の人工性に則っている。
 
品詞への注目は、この意味で対立への注目につながる。たとえば品詞間の対立は、副詞、接続詞のような非本質を除いてゆくと、畢竟、主格を形成する名詞と、その帰趨をひといきにしるす動詞、このふたつの対立となる。動詞はほんらい不明性である名詞を、時空間化しそれを実在性に向けて開放するちからがある。さらにはそうした実在性を並立させるために動詞はさらなる連携をおこなおうとして、繋辞〈である〉を除外し、世界を動態や布置の明視性に純粋にまとめあげようとする。これはみえない主格「わたし」を基軸に構文のヴァリエーションのみを展開する哲学には成立しないことがらだろう。
 
名詞には固有名詞のほか、植物名などの一般名詞、さらには代名詞などがあるが、名詞の宿命は詩では朦朧化、さらには無名化を辿ろうとするのではないか。「さみしい葬儀屋がため息をつく」という詩文の書き出しで、恣意的に喚起された「葬儀屋」という主格がダメだといまおもうのは、主格の朦朧化が構文連鎖のながれのなかで起こるのではなく、「葬儀屋」と書きつけたその場で起こってしまうためだ。運動論でとらえるなら、その場での抹消は無運動だということになり、「さみしい葬儀屋がため息をつく」という詩文の書き出しは、以後、列挙という「運動」のみしか形成できない、と容易に想像がついてしまう。
 
主格として現れたその植物が朦朧化するのは、形状、季節、場所、それをとらえる者などが徐々にあらわになって、その植物の「そのもの性」が顕著になる一方で、それが偶有化されるためだ。見えない動因は、花がむらさきだ、葉が長い、幹が鱗状だといった形容詞・形容動詞が受けもつ。このとき実際は、その植物をしめすための主格が、その植物のみならず、そのまわりを旋回してゆく。「運動」の本質がこうした旋回=気散じにあるとすると、集中化を裏打ちされた脱集中が朦朧化の引き金になるともかんがえられ、構文は列挙よりも内化された関係性を更新するという理解がえられる。身体は、気散じにこそ介入するのだ。だから詩の本質は意気阻喪だともいえる。
 
むろん動詞には顔の系列と身体の系列がある。顔の系列の動詞は感官の反映過程をしるすもので「みる」「きく」「かんじる」などがそれにあたる。これと対立するのが身体の系列の動詞「たつ」「あるく」「なでる」「すくう」などで、顔系列の動詞が志向化をしるすとすると、身体系列の動詞はそのふかい水準では脱志向化にまきこまれてしまう。「あるく」は領域をあるいているようで、実際は領域を超えてしまうか、領域になにもしるさないか、どちらかでしかない。となると、朦朧化をしるす品詞は、身体系列の動詞であって、構文はそれを中心にして、顔系列の動詞、名詞へと遡行がさらにしるされることで、全体の朦朧を達成するともいえるのではないか(レヴィナスの「実詞化」〔『実存から実存者へ』〕とは逆の論旨なのに注意)。
 
この朦朧はちかくてとおいなにかなのだ。「ちかくてとおい」ありようは、ベンヤミンならアウラの本質と喝破する。ところがもっとあやうげなものがあり、植物でならそれをたとえば「帚木=ははきぎ」と名指すことができる。それに近づいても近づいたという実感があたえられない魔法の樹。虚子《帚木に影といふものありにけり》は源氏の出典を度外視しても「ある」のおそろしい実態を剔抉したもので、この句の作者が師・子規の《鶏頭の十四五本もありぬべし》を否定(無視)しきった理由がわからない。
 
さてこれまでの論旨で重要な品詞を書き落としている。それが「格助詞」だ。虚子《帚木に影といふものありにけり》では「に」の機能が綿密に吟味されなければならない。植物をしめす名詞「帚木」にたいして格助詞「に」を後続させることで一挙にその帚木が眼前の偶有の実在なのか一般性の提起なのかが不分明にされてしまう。この「に」は、たぶん日本語以外の外国語の品詞には存在しないものだ。「に」をもって「起こし」をおこなった最短詩文が「ありにけり」の「詠嘆=過去」へと急転直下してしまうことは一種、「抒情の暴力」とよべる。「ありにけり」の日本性もなるほど凄いが、もっと戦慄すべきなのはこの「に」なのではないか。このことと、冗語とまで印象される句の全体とが相即している。
 
格助詞は配置により、構文を見た目以上の迷宮へといざなってゆく。たとえば方向をあらわす格助詞は日本語では「に」「へ」、ばあいによっては「を」などがかんがえられるが、英語のto、on、in、under、into、over、at、forなどよりも汎用的なことで、方向内実の中間域といったものまで指示してしまう。「に」は単純に対象の表面に行き届くのか、それとも「そのなかに」「そのむこうに」までもふくむのかが分明ではなく、結果「帚木」なら「帚木」を、朦朧をともなって怪物的に実在させてしまうのだ。
 
「ありにけり」という奇怪な慨嘆はなんだろう。そうつづってしまった途端、すべてを脱力させてしまう慨嘆などありうるのだろうか。詩的には最悪の「である」という繋辞にかわり、「ある」という、ただ存在だけをしめす純粋な措辞までもが、その消滅寸前をみずからに引きうける受苦として虚子の句では再組織されている。このとききえようとしているのが、句に書かれていない主格「われ」であることも自明だとおもう。
 
「ある」はハイデガー→レヴィナスの考察をもむろん参照すべきだが、レヴィナスを拡張適用するならば、顔系列の動詞と身体系列の動詞との、唯一にして純然たる混淆体としてとらえるべきなのかもしれない。あらゆる動詞は、「ある」をふくんでいる。だから詩篇最後の聯に書かれた《帰って/泣いた》も「ある/ある」の同語反復をその裏に隠している。
 
赤尾兜子の名吟には《野蒜摘み八岐に別れゆきし日も》がある(「八岐」は「やまた」と訓むが、「やちまた」の置き換えで、造語の気配がある)。ここでは末尾の「も」が慨嘆をふくんでいる。春の日に野遊びをした、その後〔われらは〕八方へ別れ、野蒜の匂いをゆびにのこし、平穏へと戻った、そのことがおもいかえされる、あの春の日はきえた、――分解すると「卒業的な」感慨が透けてみえてくるこのうつくしく憂鬱な句は、「ある」がないのにそれが伏在性としてかんじられる奇蹟めいた一句でもあった。
 
文法破壊によって、一句は全体に片言の様相にまで畸形化されている。その哀しみも充分にあるのだが、「あった」主体は、「野蒜」でもなく「〔春の〕日」でもなく、句ではあらわれていない「われら」であるのは隠れようもなく、その言い刺しの気配が悲哀をうずまかせている。だから断言+慨嘆に、迷宮が感覚できる。
 
句を補ってみよう。そこには理想的な品詞の消長がある。A「野蒜(名詞)」「を(格助詞)」「摘み(動詞連用形)」「八岐(名詞)」「に(格助詞)」「別れ(動詞連用形)」「ゆき(動詞連用形)」「し(助動詞連体形)」「日(名詞)」「も(助詞)」B「われら(代名詞)」「に(格助詞)」「あり(動詞連用形)」「き(助動詞終止形)」。句はB以下を言外に置くことでAの最終辞「も」に詠嘆の色彩をくわえたのだ。この「も」が一句を逆流する。結果、「野蒜」も「日」も「われら」もはるかに朦朧化する――死後から眺めかえしたように。しかも身体的な動詞は陥没している。なんとせつないのだろう。
 
句の全体は名詞・動詞の錯綜を、助詞があやうく支えているその様相でしかない。その様相が喘いでいる。喘ぎながら、「ある」こそが動詞の根源だということを一句は言外の域でだが、たしかにつたえている。この呼吸に、すでに赤尾兜子を死に追いやった鬱病がみえる。泣けてしょうがない。
 
 

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2017年03月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感3月18日

 
 
一篇の詩を作者が「完成」したと自覚するときには、ある徴候がふくまれている。「それがすべて自然な発露によっている」――これはたぶん自明に属する項目だろう。同時に、「もう削るべきところがない」――これがたぶん「完成」にまつわる特有の表情なのだ。詩作者は推敲の過程で生じた多数の抹消線をそのときには記憶している。できあがった作品〔=のこったもの〕にたいする満足よりも、過程で生じたそれら抹消線の英断性を、たぶん自負の道具にするほどなのだ。だから詩篇の出来はつねに「秘密」と関連している。
 
むろん「もう縮められない」は、みじかさを価値とすることと表裏している。ただし詩脈はいわゆる通常の文章における文脈とはまるでちがう。たとえば反復は詩においてはリズムであり強意であるのだから、それが冗長とみとめられなければ、そのままに抹消要因となることなどない。逆に、文脈の論理性は詩では抹消要因となる。文脈が切断され、そこに謎や飛躍や空白や乱暴が生じれば、それがかえって詩脈の実質となることは、詩作者ならとうに経験済だろう。平叙から離れるためにまず内化されるひそかな猛威、その最初の相を抹消とよぶことができる。この意味で詩作は、自殺そのものではないが、自殺的ととらえることも可能だ。
 
抹消の欲望はやわらかさをうばっている語彙を標的にし、説明過多の構文や言外の域にあるべき形容詞、もたついている接続詞、厭味な学殖などに「褶曲」を浴びせかける。襞をつくりながら、それを奥へと消す。物質的な側面における詩の伝達可能性は、襞の秘密をのこしたままの襞の平滑化から生ずる。この作業が「そのまま」が「そのままでないこと」にまで格上げをおこなう。
 
詩作とは平叙からの格上げをそのようにして刻々加味することなのはたぶんまちがいないが、同時に抹消の欲望は、頻度の問題にも敏感なはずだ。格上げが多すぎれば、それがかえって単調を結果するとして、格上げそのものまで抹消して、一種の「整え」をさらにほどこす。「整え」が「調え」と同音なのが示唆的だろう。不必要の徴候が音韻のみだれとしてあらわれることを、詩作者の多くは知っているし、構文に負わされる荷重が、それが荷重として露呈されているかぎり音の面からみにくいともわかっている。
 
文の連鎖が「いきもの」性をもつかぎり、「もう削れない」とは、死の宣告なのだろうか、それとも放生のはなむけなのだろうか。なるほど詩作者の手には、その詩を書くまえよりもさらに、死が蓄積されるかもしれない。ところが抹消の果てに「のこされたもの」は、逆転をけみして、放生される際のはなむけにそれじたいかがやいている――この点が肝要なのではないだろうか。
 
「いきもの」として余分な肢や首などをもたないこと、それが削りおえたあかしだろう。ところがそれが人間にない尻尾や鱗や甲羅や蹄鉄をもっていたとしても、それが「いきもの」であるかぎりさらにかまわないのだから、詩は本来が可笑的というべきかもしれない。「もう削れない」ことが、わらいを惹起しているすがたが、詩の至高性なのではないか。
 
いっぽうで、「もう縮められない」さみしさといったものもある。切羽詰まってはいないが、そのときには「とつぜんのおわり」が感銘をあたえることがおおい。「とつぜんのはじまり」と同断だ。ともあれ、わらい、さみしさ、いずれであっても、もう縮められない詩篇のなかに「詩の機能」が充実している点はたしかだ。ところがその機能性は、おとなしさの表情をたたえることでさらなる至高性を得る。そうして、たとえばまど・みちおと杉本真維子とがつながれる。
 
他人の詩を読んで、感銘をうけながら、「まだまだ削れる」という判断が働き、細部をまともには読めないばあいがある。ひどいときは飛ばし読みまでしてしまう。「なにをこんなに説明しているのか」。これは一見、精神的に不衛生のようだが、みずからが他人の詩篇にほどこした抹消線が、みずからのつぎの詩作の原資にもなるのだから、やはり詩の繙読がおもしろい。残酷なようだが、事実だろう。
 
もちろん矯められていない冗長な詩が、現象としては多すぎる。逆にいうと、あらわれている詩そのものに「抹消の痕跡」をみとめ、昂奮することは、稀少な恩恵に属する。ところがいつでも「もう縮められない」詩篇を提出してくるおそるべき作者が十人ていどはいたりする。
 
 

2017年03月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感3月17日

 
 
詩集が一回性でのみ読まれることを、詩作者じしんが回避しなければならないのは、とうぜんのことがらながら、なかなかつらい仕儀とはいえる。自分自身にかんしても、寄贈されてきた詩集が一読のすえ、再読のひつようなしと判断され、部屋の隅につみあげられてゆくときたしかに後ろめたいきもちになる。残酷なことをしているのだ。だから再読誘惑性とはなにかという問題は、とりわけ自己保守にたいしておこなう体験的な設問とまずはならざるをえない。
 
再読誘惑性とちかい感触をもつのは、こう書くと意外におもわれるかもしれないが、「中間性」だろう。「わかりすぎないこと」と「まるっきりわからないこと」との中間。「魅了されすぎること」と「ぜんぜん魅惑をおぼえないこと」との中間。これら中間性を時間軸に移せば、レヴィナス用語にいう隔時性ともなる。ある細部を調伏すれば、べつの細部が目覚めてゆくような詩集空間の平定不可能性は、それらがざわめきつづけるもの、死物ではないものという詩集固有の属性をあかしする。この属性をもって、詩集が再読誘惑をもつことになる。こういえばいい――再読誘惑性とは「いきもの」にたいする殺害不能の感慨なのだ。
 
詩を別水準から分析するならば、それが多様多層な「順番」で織られていることはあきらかだろう。音の順、語順、構文の順、詩行の順、聯の順、収録詩篇の順。順番が明視的だというのはたんに物理的な眼前性に支配されているだけの錯覚で、詩篇が読者に咀嚼され、内化されてゆく段階では、記憶力の優劣によらず、順番はいつもなにか迷路のような不明性をたたえてしまう。そうおもって、あらためて詩篇などをみると、語順など微細のレヴェルにかんして「なぜこの順番なのか」がそれじたい挑発的な表情をもちだし、ことばはほとんど顔の幻惑とひとしい独自性をくりひろげている。顔では目鼻がそのように表情をもってならんでいる代替不能性が誘惑なのはいうまでもない。
 
詩は、「存在」からうまれている。同時にことばからたんにうまれている。この判断の同時性が中間性ともいえる。詩篇細部に視線をいろいろ移せば詩は隔時的な「分離層」をもちはじめ、途端に要約不能となる。さらにはその「層」こそが顔貌性をたたえている感慨まで生ずる。とすると、詩集の再読は、ほとんど会いたい顔との再会にひとしいことにもなってしまう。観念化できない残滓がそこでは残滓ではなく本体なのだった。
 
ほとんどの詩篇では意味をつたえようとすることばが、その詩篇内に一回的に生じている法則により、順番化されているにすぎない。けれども「わたしは・きのう・丘を・きみと・あるいた」などの平叙組成のみでは、書かれたものは詩文とならない(むろんこうした文体が構文連鎖で詩文に変容することはある)。順番をくもらすものが順番そのものにくみこまれて、空間的時間的な整序性がどこか「文字通り」になっていない変調が、誘惑する多くの詩にかんじられるものだ。しかもその原因がたんに昂揚ではなく、認識の練磨によるところが、ほんとうに再読誘惑性をもつ詩篇・詩集の要件となる。オブスキュアなものが逆に明白性を救出する転倒。これは少数派が多数派を解放することに似ている。
 
いいかえよう。順番は磁場に現れた途端に「非―順番」となり、ことばのつらなりはこの乱調を平定できない。ことばの物質的な現物性のすきまに「中間」がさまざまみなぎっていて、用語と用語とを、正順のみならず、逆順/間歇(隔時)/照応不能など多くの不測性へと攪乱してゆく。この面倒な事実に愛着を呼び込むのが詩文の磁力だろう。
 
愛着は想像する。詩篇の細部を書きつけている作者の手は、順番と非―順番の双面性を立体として手許に転がしていて、その平穏な表情のなかには受苦が仕込まれていると。たとえばことばのつらなりが哲学的な示唆をおこなおうとして詩は破産する。ことばの物理的な順番が非―順番として逆露呈してしまうことにより、示唆が示唆の途端に破綻する。このとき哲学文より優位なのか劣位なのかわからないのが詩そのものをとりまいている救済なのではないか。
 
語彙の謎ではなく、順番の謎。着想の謎ではなく、そのもののあらわれの謎。それじたいはほとんどがさびしい表情をしている。そこに「顔」の誘惑がある。手柄意識で書かれたものの「したり顔」には駄目な自分をふりかえるようなつらさがあり、拙劣な詩よりもさらに再読の誘惑をかんじない。読むたびにことなる表情をおびる点滅性がそうした類型の詩集では殺されている。いつもと・おなじ・したり顔。点滅性は、順番と非―順番の分離不能の交錯からうまれ、おとなしい反作用であっても、さみしい挑発であっても、全体の調伏不能を印象させる。むしろさみしさが量的なすくなさとかかわるとき、すくなさがたんにすくなさではない戦慄が、ことばの表面的な順番のあいだに、なにかの中間性を覚醒させるつよい要因となる。
 
アクセルがある。けれど、理に落ちないための、常識に復さないための、ブレーキもあり、そのブレーキは意識ではなく、ことばそのものから組織されている。行け・退け、相反するふたつの方向力のなかで、ことばじたいが割れ、表面がすでに奥行きになっている。たとえば謎〔エニグマ〕とつぶやいて、それがそのまま《沖は在る》と、なにに貢献するかわからない断言を呼び、詩篇が閉じられ、この中断が深甚な余韻となる(吉岡実「楽園」)。そこになにが起こったのかを哲学はいうことができない。
 
「在ること」の示唆はなんど挫折し、その挫折をもって読者を再読に付かせただろう。《鶏頭の十四五本もありぬべし》では「強意推量」が「十四五本」という存在論的不確定性とむすびつく哲学上の幻惑が起きている。《草二本だけ生えてゐる 時間》では時間に物象の干渉が起こり、時間の限定性が無限定性へと解放寸前になっている。順番と非―順番との交錯とは原理的にはこうした俳句的措辞に裸出されている。とりあえずこうした詩に現れている「在ること」が再読誘惑の郷愁と無縁ではないとおもう。
 
再読誘惑性はだから、書きすぎないこと、自意識を露出しないこと、下手なものを書かないことの防備からもはや生まれるのではなく、詩が詩であることの原理から生まれるとかんがえなおすべきなのだろう。そうした誘惑をもつ詩集をつくりあげることは、はたして「注意力」の賜物なのだろうか。そう自問して、気がとおくなる。自分に舞いおりてくる恩寵を頼みにせざるをえない。そうか、詩はそれで「生」なのか…
 
 

2017年03月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感3月14日

 
 
むかしカッパブックス、多胡輝の『頭の体操』にこんな命題があった。「二者のあいだで食べ物などの好物を、文句の出ないように分けるにはどうしたらいいか」。答はこうだった――「はじめにひとりが、対面する相手にどちらを選ばれても後悔のでないよう対象を綿密・完璧に等分割し、どちらか好きなほうを、のこりひとりが選ぶ」。
 
そう、隔時性をまたいで有利性を相互に付与するというのが命題を解くポイントだったが、思考上の技術的な突破口は、最初の分割実行者が、みずからつくった選択肢の双方を支持できるほど精密な分割ができると想定する点にあった。ひとつの羊羹の切れ端をふたりで分ける実際などをかんがえてみればわかるように、ことはさほど簡単ではなく、この命題の解決法は机上の空論にちかいという反論も出るだろう。
 
ましてや詩集の収録候補詩篇を、編集者が収録数を減らして再構成するといった現実的条件では、作者がどの詩篇を選ばれて、どう並べられてもいいと当初は達観していても、すごく落ち着かない心情におちいるだろうことは眼にみえている。それでこうおもうはずだ。「約束は約束だ」。あとは運命の問題へと移行してゆく。最初に案を提出した者は「よりすくないほう」を甘んじて受けざるをえない。
 
ネット発表の詩篇をオンデマンド出版などで著者が自発的に詩集化する風潮が年を追うごとによりつよくなって、詩集空間を宰領する編集者の不在が危険だ(悪書蔓延の源泉だ)とは良くいわれるようになった。「詩集は作者単独でつくられてはならない」。とりわけ夢見がちな詩作者が自己領域にたいして盲目になっているためだ。
 
編集者不在が広範にみとめられるようになると、経済的な問題を度外視すれば、たぶん詩集刊行頻度がたかまる傾向が裸出する。詩作者はオンデマンド出版や自費出版であっても詩集刊行の直前には昂揚しているから、勢いで自分のかんがえたままの詩集が出てしまう。それで刊行後冷静に再読し、構成や詩集刊行頻度の失敗に気づき、臍を噛むことにもなる。自身の冷却装置としても「正しく物のいえる」編集者がひつようだったと。とつぜん謙虚さに立ち返る反省が起きてしまうわけだ。
 
詩作はもともと奇妙な均衡に乗ったフィクションめいたところがある。たとえばひとつの詩篇を最も精密に、最もくりかえし読んでいるのは誰か、と設問を自分に投げかけてみればいい。とうぜん答は自分自身となる。だから詩作者たちの不満も、「自分が自己作品を分析しているような精度では他人が読んでくれない」という点に尽きてしまう。もちろんこの不満が自己閉塞的な点に気づかなければ、自意識地獄が延々とつづくようになるだろう。
 
詩作者が自作に「気づく」もろもろは、たしかに特定的な深度のなかにある。それらはたんなる出来不出来の判断よりももっと微妙だ。わたしのばあいならこうだ。「当初思い描いたモチベーションにたいし、自然な流露ができ、その一方で自然なズレも呼び込むことができた」「近さから遠さへの架橋がうまくいった」「他人の既存詩篇からのひそかな参照が、それが露顕することなく独自性に達した」「修辞が達成意識に落ちるところをうまく回避し、ある種の消極性へとシフト替えした結果、当該箇所があたかも他人が書いたような新鮮味を帯びた」「その意味では受け身的自走をうまく導入できた」「これまで自分の既存詩篇に使用してこなかった語彙が巧まずして出てきた」「進行中の詩論を創作にうまく溶け込ませた」「現実の存在をあたたかく救抜できた」などなど。
 
もちろん他人は、研究するのでもなければ、ひとりの詩作者の使用語彙の歴史にさえも頓着などしない。大雑把に、たとえば詩風や文体や長さが変わったくらいのことを「印象」するだけだ。とりわけ他人と詩作者自身の齟齬は、難読性にかかわる判断に乖離が出る点だろう。詩作者は自分の作品をモチベーションの段階から自己吟味し、推敲過程の逐一を手中に収めているのだから、自分の作品のこまかい機微までを十全に理解している(のが理想だ)。
 
当事者性のない他人ではそうはいかない。この「そうはいかない」点を納得し、無前提の者がいま書いているこの詩篇を読んだらどんな反応が出るだろうか、それを場合分けまでして緻密に追い詰めながら、詩篇を完成させてゆくのが、他人に向けられた詩作の良心、ということにはなる。むろん「わかりやすさ」だけの観点から、自分の詩脈を枉げるのはおかしいとかんがえる均衡意識も一方で要る。
 
そういったもろもろを視野に入れてゆくと、自意識を他人の読みに変型応用することがなんという苦行か、詩作じたいのよろこびからいかに離れているか、それらを詩作者は絶望的に捉えるようになる。盲点はたしかにある。ただしその盲点をもっと単純な領域に限定できないか。そうでなければつぶれてしまう。
 
詩作者が最も自己判断できないものとして、頁数、収録詩篇数、行数、字数など「量」に、問題をまず局限してみればいい。詩篇の巧拙ではなく詩集全体の「量」の吟味ならば、じつは詩作者自身と読者の判断はともに一回性のイーヴンだとフィクショナルにとりあえずかんがえてみること。それならば「量」の吟味を自分自身ではなく編集者などの他人の判断にゆだねればいいのではないか、とべつの方向に考えがうごきだすのだ。
 
一詩篇をつくることと、一詩集を編集することにはおおきな径庭がある。このことに気づいている才能をたとえば「詩集巧者」とよんでみよう。巧者の詩集には、いろいろな外観が共通している。装丁と内容が「つきすぎ」ではない状態で相互に補助をおこなっている。詩集空間の安定性の下支えをうけて、個々の詩篇の位置がきれいに決まって、全体が粒だった印象をのこす。ヴァリエーションもある。冒頭詩篇と最終詩篇のあざやかさ。流れが巧まざるそっけなさのなかで実際は綿密に吟味されている。章扉や白紙挿入が見事。字の大きさなど詩篇の組みに愛着がうまれる。とりわけ、文体と主題が精密に考慮されることで、詩集全体の「量感」がその詩集の幅でしかうごかない。
 
この詩集巧者のもろもろの美点のなかでなにがいちばん巧みなのか。やはり「量」の自己測定だという気がする。けれども文字量の多い詩集にも少ない詩集にも、いわゆる詩史的傑作があるから、ことは一筋縄ではゆかない(そういう詩集が、自分ひとりで出せるのがいわば「天才」なのだろう)。
 
たとえば井坂洋子の第一詩集『朝礼』はみごとな「すくなさの空間」だった。書いたこと=詩がそのまま詩行になっている詩風と相まって、そのすくなさが清潔をつたえてきた。逆に石原吉郎の第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』はその圧倒的な量感が主題選定の重みからして「正しかった」。以後の石原の詩集はすべて量感においては過っている。すくなすぎたのだ。ほかにもいろいろな例を出せるが、ともあれ「量」がひとつの批評、主張、表現内容、生き方になっているものが、その量が多/少のどちらに振れようとも、正しく編集された詩集ということになるだろう(そういえば往年の「正しかった」ころのH氏賞の授与は、そういう詩集にたいしてのみなされていた気がする)。
 
たぶんいまわたしの警戒しなければならないのは、「量が多すぎることで」「台無しになってしまう」詩集だろう。というわけで、詩集原稿を信頼する編集者にあずけ、再構成案を待っているところなのだった。最初の『頭の体操』の話題にもどると、わたしは「よりすくないほう」にむかう運命を甘受しようとしている。これが諦念ではなく論理的な問題だということをしるしたかった。
 
 

2017年03月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況3月11日

 
 
本日の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載コラム「サブカルの海、泳ぐ」が載ります。1月期のTVドラマをあつかいました。串刺しにしたのが、『バイプレイヤーズ』『カルテット』『東京タラレバ娘』。複数主役ドラマという括りです。
 
じつは、先月は2月11日が第二土曜日で、ぼくはうっかり夕刊がない建国記念日なのを失念して原稿を書いてしまいました。とうぜん没原稿。そのときはまだ放映のつづいていた『お母さん、娘をやめていいですか?』を『東京タラレバ娘』のかわりに組み込んでいました。これも複数主演、具体的には波瑠と斉藤由貴の主演でした。一か月後の原稿では、『お母さん、』を『タラレバ』に差し替え、その他も3、4回放映分までを話題にしていた内容を、7、8回分までに延長しています。
 
それにしても、『お母さん、娘をやめていいですか?』はすごかった。以前、雑誌「ユリイカ」でも母娘の相互依存がどれほどの惨状をもたらしているかをレポートした信田さよ子の著作を中心に、母娘の対構造を考察する特集が組まれ、ぼくも原稿を書いたけど、その信田さよ子を監修に、母と娘の相互依存ドラマを、名手井上由美子がサスペンスを基調に脚本化した。その手さばきが見事だった。
 
娘・波瑠、母・斉藤由貴、その夫・寺脇康文の一家がマンション暮らしから一軒家への引っ越しをのぞんでいる。購入地に新築を進めている現場の監督に、建築会社から派遣されている柳楽優弥。波瑠と柳楽が自然と恋仲になるうち、たんに仲の良いとみられていた斉藤と波瑠が虚偽を隠していたとあかるみになる。母・斉藤は娘が幸福を掴みそうになると容喙し邪魔し、娘を終始、自分の思いどおりの「人形」にすることを、つまり娘の全人格と全人生の支配こそを、欲望していた。ずっとかんがえようとしなかった現実に直面してもがく波瑠、その波瑠のかよわい抵抗にたいし無意識に糊塗をかさねようとする斉藤。母娘間の仲は回を追うごとに「最悪」が「さらに劣悪」になり(斉藤が娘の動向をうかがうストーカーめいてくる)、恐怖化、だれもが母からの娘の悲劇的な独立劇を予想するようになる…
 
ふたつの特筆すべき見どころがあった。まずは眼。波瑠の透明で吸い込まれそうになるおおきくきれいな眼にたいし、斉藤由貴もおおきく飛び出したギョロ眼のもちぬし。くわえてどういうのだろう、柳楽優弥が独特の眼をしている。眼じたいは切れ長なのだが、そのアーモンド形が全体に大きく、しかも濃い眉、濃い睫毛が相俟ってのことなのか、両目それぞれに横一筋のつよい光が走っているようにみえる、じつに不思議な印象をあたえるのだ。「眼千両」といえるのは波瑠だけかもしれないが、いずれにせよ物質的なレベルでたんに大きな三俳優の眼が、まさに「物質的に共演」しているのにワクワクした。
 
当代最高の美人女優・波瑠の演技は受け身型で恬淡といわれている。その顔を以前、ぼくは同コラムでたしか以下のように表現した。大きく透明で美しい眼。口許のうごきのおばあちゃんめいたやさしさ。横顔の中心突出性。頭蓋の形状の実存的な重み。不安の表情が刻まれるときは顔全体が魚っぽくなり、意識のたかさがドラマで強調されるときはそれが未来人っぽくなる。顔全体が和風か洋風かは一概にいえない。清潔感だけが印象につよく刻まれる、じつは不定性がつくりあげている顔。オードリー・ヘプバーン以来のショートヘア美人。いずれにせよ、「たんなるお人形さん美人」ではない複数性がつるりと清潔な顔をひそかに分割していて、たぶん波瑠のファンはその分割を女性性としてみている。
 
うつむいただけ、あおむいただけ、瞠目しただけ、瞑目しただけでふくざつな表情変化のニュアンスをつたえることのできる波瑠の顔は、実際は対面する相手の演技を「受け」、反応するだけで、いわばドラマ張力をみたすことができる。受け身こそが能動性というのは、いわばレヴィナス的な「顔」の要件でもあり、その顔は現前の領域から「みているこちら側の」痕跡の領域へと翻訳をくりかえされる。しかもその顔は分割的で、顔じたいの清潔な陰裂をこちらにさしいれる。だから美に直面した以上の動悸を現象させることになる。
 
身体的にはいつもより内股に下肢を自己設計していたとおもわれるが、基本的に波瑠の顔・挙止は一定性の振幅内部に自己を保とうとする。すくなさを微視してほしいという提案じたいが波瑠の存在性なのだ。たいする斉藤由貴は、演技の各瞬間が動物反応的で、振幅がおおきい。本来ならふたりの演技が融即されることはできないが、たったひとつ、これもレヴィナス的な条件=「近さ」がこれを可能にする。
 
最終回、波瑠が自分用に新たに買ったカップが、斉藤由貴のこのみにあわないと悶着があり、結局、感情のきわまった斉藤が平手打ちというかたちで初めて娘・波瑠に「手をかける」。そのとき波瑠が「痛いじゃない!」と条件反射的に初めて平手打ちを返す。こうして、ついに受け身に能動性の陰裂が瞬間的に生じて、そのちいさな悲劇性にぼくは泣きそうになった。斉藤由貴の能動的な演技が波瑠の受け身の演技の聖域に干渉したのではなく、波瑠のそれが、みずからが対の能動性を帯びることで斉藤のそれを「赦した」とおもえたのだった。現れたのは、近さであり、距離であり、点滅性同士の架橋であり、隔時性ではなかったか。いずれにせよ波瑠は演技の、顔のミニマリズムの価値をつたえてくれた。
 
『バイプレイヤーズ』『カルテット』『東京タラレバ娘』についてはしるす余裕がなくなった。みなカルトドラマで、とりわけ『カルテット』は回を追うごとに感銘がふかくなっている。いずれ機会があればまた書きたい。
 
 

2017年03月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)