あけび
【あけび】
くろいはっぱのかげにしずむ
はいいろとあおとむらさき
いろがまだらにもならずとけて
かがみのようにくもっている
くものあさににあうおまえあけびは
かぜになぐられてできたあざ
ゆれなければただけむたいだけだ
みめぐりをしぬるけはいでみたすのも
そのなりがくびつりにみえるためで
くるしみはただみのったことからくる
ひとのからだやおもいでにもにるおまえ
たいねつさえもっているおまえら
かたみにくされをきそいながら
どのあきとつながっているのだろう
しろいにくとみだれのたねの
そのうちがわもすごくみだらで
いつもたねからわれようとしている
それがおんなのかくしどころめいて
おまえはけしてたましいのたとえではない
そんなものはあらかじめないのだ
うえきのふきつなまほうというのか
せかいのしんじゅやとぱあずだって
そのすがたをまえにあざけられる
まずはおまえのまるがゆがんでいる
なにもうつさないあけびはともすると
うらがおもてにもなっているのだ
さかしまがふくろとなりほのあかるむ
やがてくろくなってゆくきせつには
わるいしたしみももうかくさない
せんことなってつらなりたいのだろう
そうすればおまえをただまとに
ひとじにのまねもくりかえされるが
そのまえにおまえはおのずからわれて
くるいなくおちることをおちてゆく
うれいのおまえをゆるりゆらせば
せかいのはんぶんだってゆれるだろう
杉本徹ステーション・エデン
キッチュ詩の美学と我慢を競う「われわれ」のあいだでは
基本的に「エレガンス」の功徳がうすく考えられている。
となって、杉本徹の詩の、地上的にして、それでも晦冥なエレガンスは
どう捉えられているのだろうか。
杉本は03年、ふらんす堂から出た『十字公園』で
果敢な詩集デビューを飾った。
稲川方人氏により薦められ即座に読んだ当時の印象では、
うつくしさが反時代的で凶暴、というものだった。
春夏秋冬の四章立てで、
各詩篇には詩語(雅語)がちりばめられている。
漢字にフランス語を付すルビの多用によって
仏文学的素養もただちに明らかになる。
季語をしるす植物や古典語も挿し挟まれる。
イメージ結像を「半分」のこしながら
おもに、都会を彷徨する者が世界にたいして抒情を繰り広げ
そこに謎も加えられる――印象としてはそんな詩篇群だ。
それだけなら気障とか高踏派とかと難詰されそうなのだが、
「…」や「……」の多用によって詩文の流れが
内側に籠もって断続する感触がある。
口ごもり、内省――どういってもよい。
体言の束は連鎖性の弱さのなかでそうして浮遊し
用語の晦冥さも相俟って詩情を中心化しない。
あるいは改行のタイミングを意思的にずらすなどして
快適さのみに詩文を着地させない。
読点で吃音性というかシンコペーションを意図する点もそうだ。
つまり既存のエレガンスから離脱しようとする不機嫌が同時的にある。
あるいは構文が疑問文や目的格終始など、ひとつの型を連鎖することで
詩行の運び全体がニュートラルに浮遊してゆく場合もある。
あらゆる詩的文法が吟味された結果、
不安定さがこころざされ、そこにこそ再読誘惑性が賭けられる。
たとえば以下のように――
●
午〔まひる〕、ほそ道を横切るとき
奥まった木の間がくれの家の、梨いろの閂、消えた
ここは二度歩かない道、…ね、そこの、鳥を連れた人
敷石に打たれて水の黒く、刻々、お別れさ
〔…〕
横切るのはそこが、ここが、鏡だから?
滑るように射す陽を避〔よ〕けた、さわさわ、袖が波打ち
振り返らなくとも、そう、西の電柱には蔓草が纏わり……
ほそ道を、横切るのはそこが、ここが、鏡だから?
(「夏の鏡」部分)
●
夏、主体は細道に舞い込む。
油照りで木の葉が鏡のようにひかる白昼の静寂時間。
ならば「鳥を連れた人」の幻想とも行きすぎるかもしれない。
そして真夏を歩くこととは鏡中を歩くことなのだ。
鏡中――(神の)胸中?
それにしても語はぎりぎりの正常性で並べられている。
いったん空中飛散していた諸語が再着地したとき
ある種の僥倖が働いて、詩文が正常性に復帰したような
どこかで禍々しい「事後性」の感触がある。
ただし詩なのだから時間が交錯しなければならない。
つまりこの「事後性」の感触は
この詩篇の次段階でもちよられる
「遠街〔おんがい〕」の語によって未来性とも刺繍され、
そこで詩の主体らしき者が諸時間中を彷徨する都市的人格だと明かされる。
上記引用の中間には省略した三行があった。
そこで杉本徹は、言葉の運びが正常性に向けて再着地しないがゆえの、
情感の原型をまるごと提示してみせる。
この聯があって、他の聯も「仮構」になる、ということだ。
○
鳥は、緑金〔りょっこん〕… 影も啼く、フーガ季の、枝から枝へ
(手紙一葉の、ような虚〔うろ〕は、空に、きっとある、のだから…)
角〔かど〕で靴の音、小さく、カペラ、カペラ… あ、点った
○
「フーガ季」という語の奇異。
「フーガ季=遁走曲の鳴り響く季節」という予想できる第一義に、
「風雅期」という造語が加わり、
なおかつコノテーションとして「氷河期」も複雑に参入する。
主体は、暑気に冷気も知覚しているのだろう。
混乱ではなく「対立を同時に相渉ること」こそ、感覚の真実なのだ。
それは変異可能性をさまざまに知る、ということでもある。
だから葉と緑鳥の弁別がなくなって
さらには手紙を数える単位「葉」から、
木々に生い茂っているのが手紙という見立ても潜在してしまう。
あるいは靴音に擬される「カペラ」。
カペラは馭者座に位置する冬の巨星だ。
ここでは昼−夜、夏−冬の反対共存が可能性として実現される。
この詩集からもう一部分、ぬいてみよう。
「だろう」の連鎖によって詩想が浮遊的になる見事な二聯だ。
●
光生〔な〕る匙、受け皿に棄てた白い生涯…
かわいた音だけが後の世の秋を、渡るだろう
あの錆びた門から… 轍と鍵、不実な歌い手など
後の或る秋、狂い咲きの花が靴底を訪うだろう
踏みしめて、睡りながら梳る陽は、もの言わぬだろう
ゆるゆると舟漕ぐ、後背のように、遠ざかるばかりだろう
○
イメージは如上あきらかにうつくしい。
しかも「後の世」が「後世」のみならず「死後の生」まで含意していると
ここで錯視されるのではないか――それが「秋」で、
そこには門があって
車なき轍、用途なき鍵、そして誠実なき歌手が解放されてくるのだ。
太陽はもう髪を灼かず、微風となってひとの髪を梳るだけ。
その澄んだ冷気のなかで舟に乗った別れが演じられると感じるが、
それはじつはたんに太陽の遠ざかりなのだった。
秋は春を回帰させるが量的に少なく、それは「返り花」に過ぎない。
杉本徹の詩句のうつくしさが
不安定性と境を接している点は銘記されなければならない。
それはつまり、現れのうちに仮構性も宣言されているということだ。
だから引用した第一聯で「匙」に「些事」を
「生涯」に「障碍」を錯視しても何ら構わないだろう。
●
その杉本の第二詩集が
今年六月、思潮社から刊行された『ステーション・エデン』だ。
まずは詩篇「if」を全篇引用してみよう。
○
【if】
杉本 徹
凹面鏡の奥へ、路地を入りこむと
草の葉の黄褐色に揺れていた、if ――
崖下の髪に薄陽こぼれ、窓ガラスの青空に問うた
そう、……あなたのほどく結び目の蝶の、ゆくえを
暮れかかると遠い火が、消えてゆく息のように凝る坂
遠い、陽に血はあかるみ、あかるんだ――晩い秋の奸計として
(コインランドリーの前を過ぎ、すずかけの木をめぐる)
このたいせつな楕円軌道、靴先に湖水も滲んだ
月曜、脆くあなたがささやいたのは、……if?
銅板の闇を疵つけるように、囮の小鳥の、ように
すると顛末を弄ぶてのひらで、孵る最後の光があった
ナナカマドを七度訪い、絶えるつむじ風があった
あれもこれも、鉄筆の刻み目から腐蝕してゆく
(草地でタクシーを降り、手を振った人影も)
筋かいに、記憶の泥濘のかがやくのなら、……もしも
凍りついた蝶のうかぶ、夜の水が、……底なしに深いのなら
●
四行四聯、定型感覚のある詩篇といえるだろう。
第四聯、最後の二行が素晴らしい。
仮定節、語尾の「なら」の並列によって
詩世界が並行性と不安定さを相俟って浮遊する感覚がある。
主体は枯葉舞う晩秋の路地に踏み迷っている。
愛に失敗したのは確かで、それが踏み迷っている理由だろうが、
蹉跌の具体は、魂の秘密保持のため描出されない。
ただ、国構えのなかに「化」の「囮」の字によって異変の感覚が伝わる。
囲った対象は囲ったその唯一事によって
ただ「化成」してしまう――この生の残酷を主体は知らなかったのだ。
季節推移の終焉まぢか、主体は
囲われた過去が「最後」にさらに孵化し輝く可能性に心を奪われている。
この想念が「もしも=if」という仮定を祈願するのだが、
第一聯二行目を遡行する効果はそこで出てくるだろう。
この「if」は世界事象の現れに、すでに組み込み済なのだった。
それで詩篇は最終的に、世界肯定性へとつながってゆく。
●
ただしこの『ステーション・エデン』では
このように明快にとりあつかえる詩篇が
前作『十字公園』に較べ減少している。
詩篇中の構文が長大化・複雑化し
意図的に言葉の運びに冗長さ・重たさがまとわれているのだった
(それと、ルビの使用も減少した)。
構文はどこかで過重部分をもち、折れそうになっている。
「という」という同格の不恰好な濫用により、関係節も輻輳する。
この感触は稲川方人における『聖−歌章』の文体変化と相即だ。
そしてそういう素地があるからこそ詩行の運びの一瞬が電光化し、
捉えがたさの印象の残存によって再読誘惑をあたえられる。
そう、稲川的ないかめしさ(の魯鈍)を杉本徹はぎりぎりで回避し、
抒情の不安定に復帰するのだった。
詩篇「走り書きの炎のように」のなかに
《わたしが希うのか、希うのはわたしではない》
というフレーズが間歇反復される。
これは希望の不在をいう修辞ではなく、
「わたし」起源でない希望がすでに先験的に世界にあふれている示唆だろう。
このとき「わたし」は希望の実在によって逆に「無化」する。
こういう慎ましさがあるから杉本詩には再読誘惑性があるといえる。
意味/非意味のあいだを明滅する詩行を
次々に解読するのは手に余る。
逃避というわけではないが、
以下、杉本的詩行の輝きをたんなる列記の束にしてこの小文を終えよう
(出典詩篇名の明記は省略)。
●
やがて薄紫のセーターにくるまれた、この一羽の鳥のために
鳥の、錫の心のために
●
ふと、果実をすら一個の牢獄と、呼ぶ、呼んでみる
●
わたしが植えたイデュメアの樹は
音のない天体に揺らぎ
……いつか人影のような昼を告げるだろう
●
寒冷地で売られる惑星の花が、ときにララと吹きこぼれる日を
路面の光輪を踏むことで思い出す――
●
しんじつ場末の銀幕に映る永遠もどきの、青など知れている
ふいに西陽ひとさじ、露店で購った濃いコーヒーにうかび
微笑もまた暮れてゆく崖と知った
●
いつも、いつまでも
此岸では澄みきった残酷な遠近法が、痛いくらいに懐かしいので
それは割れそうな時刻を水の遥かさで満たすので
朱の、記憶に打ち上げられた舗石、舟板、……
そこだけがたしかな約束であるように、足を鳴らして
●
不意の光は、暗転と消失の境界に息づいたまま
川の流れを人さし指ほどの幅で(絶えることなく)示唆してゆく
水には水の、相貌というものがあると
迷うなら時間に、と
●
地平をさえぎる風景は恒星に曳かれつつ、流れ
いつか地を鋭角で截るビル影に、光年の谺をかえすため
わたしの一秒を、翔ぶものの骨となす――
●
「ひとすじ――腐りゆく果実のしずく、秘めたナイフをつたうと。やがて
時間の檻で、鶸の秋も啼くと」
古い歌はくりかえした、くりかえしわたしは信じた
●
地下水は手すりを遡る
●
飛び石を踏んで、きのうへ翔んだオナガは
遠い小駅の窓からなら見える
反故のようなかがやきが見える
●
暗い廊下の歌わない窓が濡れる
だから一瞬だけ降下する鳥の群れの思惟は、いまも美しい
崖下の蛇口から空だけが、いまもしたたり
点々と……、まみどりの音の群れは一滴の、この昼を満たす
一滴の、まひるのがらんどうの言葉を満たす
●
あれがセタガヤのスギナミの、夢のように入り組んだ抜け道
●
真冬の射し入る文字盤に針の、ようにふれた指は
そのまま語らない――
表情もなく別れ
やがてうつむく雑踏の涯てで
風になる人もいるだろう
●
舌の痺れる酒に朝が、射し入ると
そんな光の縞模様もまた記憶ほどに狡猾で、甘く
人は置き場のないアリアを、掌からそっと放つのだ
馬の海
【馬の海】
疾駆する馬のかずだけ
野はらが縦横にながれている
馬上がうまれ馬上がきえる
秋は日に日に
水平におしこまれてゆく
まるめろの位置だけが高い
もうずっと
天でも地でもない領域を
そうして語りつくそうとして
発語を舌でふさいできた
嘔くために白いものが
口腔にはひろがっていて
しかもこのからだへの
なつかしみとなるのはなぜ
それもこれも祈りからだろう
ほのかにひかるものを追う
追うだけの、ゆく足だ
身だって馬性を滅ぼさず
電線と切り結ぶ線となるが
わたしの送信は
わたしが身であるかぎり
すすきの地まで限定してしまう
たれもいない懐旧の場所に
わたしの嘶きがいるか
つむいだ糸が逆算されて
糸ぐるまをそのようにまわすか
ただ、からからからと
馬たちは縦に走りを割って
想像をさいなんでくる
噛む噛む噛む草
走行も咀嚼に似るだろう
世界は機械がうごかしている
だから紙の裏が恋しい
わたしもわたしを
いったんは折ってみせ
内側にくりこんだ矛盾でこそ
この仰角がえられる
天にある馬のかずを
名づけようとはしたのだ
個々に火を吐く馬の表情をみたが
それらは翼を出して走りつづけ
ついには世界となって流れさった
秋にあるのはそんな変色
冬の黒までそれは存続して
とりわけ近眼にとっては
馬の海が沖に集まってくる
なんたる色彩だろう
水平もやがて遠望に変わる
反作用のわたしが倒れる
山田亮太のこと+お知らせ
たいへん時宜を逸していて申し訳なく
「今更」感もあるだろうが、
今年五月に思潮社から出た
山田亮太さんの『ジャイアントフィールド』は
客気にあふれ、かつウルトラポップな詩集で
もうとても大好きだった(刊行直後にどこかで
そのことをチラッとだけ書いた)。
同語(同フレーズ)の波状攻撃。
そのときリズムが生き生きと生起しつつ
同時に脱論理も入ってきて
同一的構文が主客や正負の軸で
アクロバティックなズレを起こしてゆく。
詩とはまずリズムであり、
同時に意味と脱意味の弁別がなくなる場所で
豊かな混乱をしるしてこそ
成就を迎えるという信念が
山田さんにはあるだろう。
何か意味と音韻にまつわる峻烈な装置がいつも働いている。
結果、山田さんの詩篇の最良のものには
同じ名前、同じ事物が脅威としてあふれかえる。
ただしそれは同一であって同時に差異でもある。
それを哲学として語るのではなく
語りの陥る豊かな逼塞として山田さんは語る。
これによりポップで現代的で、見たことのない時空となるのだ。
そこまでをふくめドゥルージアンの呼気を感じる。
けれどもこんな抽象的な物言いでは
山田詩のポップ感が矮小化されてしまうだろう。
なので例証としていくつかのフレーズを引用してみる。
●
【ポチたち】(部分)
山田亮太
夢はありますか。
はい、ふたごを生んで
両方に同じ名前をつけることです。
そんな会話を最後に留学生のリサは帰国した。
彼女がくれた赤いテレビはイトーヨーカドーカートに載っている。
それを押して家まで歩くことは一週間分のイヌの散歩をするようだったから
ポチと呼んだ。
〔・・・〕
坂口さんの家の近くに小さな橋があって
その橋の下でイヌを二匹ひろった。
黒いほうをポチ、白いほうをコロと名づけるか、黒いほうをコロ、白いほうをポチ
と名づけるかで意見が分かれたので
あいだをとって黒いほうをポチ、白いほうをポチと呼ぶことにした。
坂口さんは毎日、ポチとポチと散歩に出た。
ポチとポチはよくけんかをした。
ポチのほうがポチよりも少しだけ大きかったけれども勝つのはたいていポチのほうだった。
ポチとポチはいつも並んで眠った。
叩くとピアノのようだった。
ある朝ポチが死んだ。
悲しみにくれる坂口さんは見境なくイヌをひろってきてはポチと名づけた。
次第にひろわないイヌさえもポチと呼んだ。
やがてイヌでないものまでポチと呼ばれた。
全世界ポチ
けれど恐怖とはつねに個別的なものだ。
自分以外のすべてがポチと呼ばれて何がいけない?
〔・・・〕
●
同一的テーマはさらに別局面に伸びてゆく。
今度は詩篇【双子の誕生】から部分引用しよう。
このタイトルは『国民の創生』に似ているとおもうのだが。
●
【双子の誕生】
山田亮太
一九八二年の秋、一組の双子が誕生した。
父は、兄を太郎、弟を次郎と名づけることに決めていた。
母は、生まれたばかりの二人の赤ん坊でお手玉をした。
母の両の手の上で兄と弟が回る。
そのすさまじい速度が、兄と弟を見分けられなくした。
〔・・・〕
太郎一歳、次郎一歳のある朝、太郎は次郎に話しかける。
最初に覚えた言葉は「太郎」。
太郎は次郎を「太郎」と呼び、次郎は太郎を「次郎」と呼ぶので、
太郎と次郎は取り違えられる。
〔・・・〕
太郎三歳、次郎三歳のある朝、太郎は次郎に提案する。
きみの顔に生涯消えない傷をつけてみてはどうか。
次郎は拒否し、太郎は眠る次郎を狙う。
以後、双子は同じ部屋で眠らない。
●
リズムに既聴感がある(とくに引用した第三聯)。「あ」と気づいた。
吉岡実の「僧侶」に似ているのだった。
この詩篇の結末は引用しない。
ただ(脱)論理により、あらゆる子供は双子として生まれる、という
中間結論が出るとだけ指摘しておこう。
それは先に引用した「ポチたち」で
ポチと名づけられるすべてが世界を跳梁するのとも似ている。
●
山田亮太さんは首都大学東京の瀬尾育生が指導した
詩の講座生たちが組織する「トルタ」という同人集団の面子だ。
僕がもっている「トルタ」は部分的にしかすぎないが、
安川奈緒さんだったかの「詩の読解試験風の詩」を組み込んだ
国語教科書をパロディにした「トルタ」の増刊号を出し、
さきごろも話題を呼んだばかりだ。
その代表、これも意欲的な詩作者である
河野聡子さん(詩集に『時計一族』)から
詩篇創作の依頼があって
じつは今日の午前中、愉しみながら詩篇をつくって完成させたところだった。
先の山田亮太『ジャイアントフィールド』寄贈者への公平な依頼で、
詩集に感銘したひとに
同詩集から抜いたキーワードにつき
新たな詩篇をつくってもらい、
トータル百詩篇で「トルタ」の増刊ともいうべき
『ジャイアントフィールド・ジャイアントブック』を出すのだという。
キーワードは自分では決められない。
僕については
冒頭二詩篇「エコシステム」「雪だるま三兄弟」(これらも傑作詩篇!)に
出てくる「電話ボックス」でどうでしょう? という提案で、
一も二もなく賛意のメールを送ったわけだ。
まずは「電話ボックス」が詩篇中どう使われているかを精査する。
それに山田亮太特有の想像力(同一性連鎖)を加味し
夜にひかる「電話ボックス」にいるのは何か、
声はどこに飛ぶのか僕なりの考えを加え
最後にその電話ボックス詩の生起する場所がどこかについては
完全に僕の独壇場とした。――千葉市だ。
出来上がりが幻影的な女性描写詩にして
チープな援交詩となって
満足している。
言い換えよう。
僕がやったのは山田詩に登場する「電話ボックス」、
その登場の矛先を替え、時制的にも意味的にも
別ヴァージョンをつくることだった。
ちょうど先に書いた日記のように、
「タランティーノ的なもの」を思考していたので、
そういう思考可能性により、別の時空を接木するのが愉しかった。
それで気づく。山田亮太の詩はリズミックに読み手の身体内を打つから
読むだけで錯視のように自分の言葉もそこから湧いてくるのだった。
僕は規定どおり22字×50行の詩を書いた。
この『ジャイアントフィールド・ジャイアントブック』、
発行予定日は本年12月6日のよし。
しかし何という意欲的な同人誌増刊の発想だろう。鑑だ。
僕の詩集『頬杖のつきかた』にも援用できる方法だな、これは。
●
自分の日記に書く詩篇は俳句的欠落を抱えた難解抒情詩で、
原稿依頼された詩篇はポップ、という
二面展開は習いとなるのだろうか。
さきおととい送られてきた
池田實さんの個人詩誌「ポエームTAMA」でも
僕はポップ詩「百かばん百」を書いている。
これにも「援交」がチラリと出てくるし、
そういえば語法がちょっと山田さんに似ているといわれるかもしれない。
混乱を組み込んで「かばん」への認識がどんどんズレてゆくよう
陰謀をこらしているのだった。
「百かばん百」は、次の「ポエームTAMA」が出た段階で
「阿部嘉昭ファンサイト」中のネット詩集
『みんなを、屋根に。』にアップします。
●
ポップ詩というのがいまはいちばん良い方法なのかもしれない。
田中宏輔さんが「文学極道」にアップした
「もうね、あなたね、現実の方が、あなたから逃げていくっていうのよ。」
の素晴らしい出来をみてもそうおもう。
下をクリックしてご確認あれ。
http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?refresh=1256189928
これについてはあつすけさんに僕は感想をコメントした。
以下に貼ろう。
●
「文学極道」投稿詩、
拝読しました。
ぐわんぐわん肥ってゆきましたね。
無限の増殖形。
会話を活かしたパターンのあつすけ詩では
いつも当人というより
「都市そのものが会話して」、
どこか人が後景にしりぞいてゆくはかなさがある。
そのはかなさを「記憶」が再現しようとして苦悶する。
それで結局「生きること」「生きたこと」「あったこと」
といった主題に詩が逢着してゆく。
そのことと書式の問題。
一行アキを守りながら
字数の少ない行わけが連鎖してゆく。
読者はスクロールし、画面を下げてゆく。
何かそのときの
速度体験が精確に狙われている。
「この速度に同調せよ」と。
それってたぶん、都市や会話が
存在にたいして現前してくる速度なんでしょうね。
ここで「普遍」という問題がさらに惹起する。
「われわれ」はせつない。
●
あつすけ詩的「普遍」はどこに出るか。
おそらく「詩魂」の高さに出る。
部分的には卑俗な用語にみちていながら
その詩はたとえばボードレールのような
普遍的な孤愁もたたえていて
だから「人間として」感動に導かれてゆくのだった。
詩魂、これはすごく大切なことではないか。
僕がいまいちばん嫌っているミクシィ上の「批評家気取り」は
こうした詩魂がゼロの卑しさを感じさせる。
詩を商社の交易アイテムのように扱い、
すべての詩を代替可能と考えている趣がある。
そんなことはありえない。
たとえば山田亮太も田中宏輔も唯一無二、
――「だからこそ」普遍なのだということ。
彼=批評家気取り、は、僕がいましるした
「孤愁」という言葉をよく噛み締めるとよい。
その彼は自分の尺度でしか詩を読まない。
だから、読めない詩の範疇も多すぎるようなのに、
「なぜか」詩についてコメントをしたがる。
それでそのほとんどが頓珍漢、という結果にもなる。
僕はいまその彼を明らかに敵視しだした
望月裕二郎はやっぱ良い
夕方から
学生から出されている卒論・卒制の中間過程の
チェックをはじめた。
うち、『ひらく』と仮題されている
望月裕二郎君の口語歌集がやっぱり良い。
じつは彼は立教一年生のとき
盛田志保子さんをゲストに呼んだ僕の演習で
口語短歌に目覚めた。
以来、「早稲田短歌会」に在籍して作歌に励む。
こないだの土曜、NHKBS2でOAされた
長丁場の短歌ナマ番組でも
彼の短歌が決勝直前までのこっていた。
今回、初見だった彼の作で
「へええ」と感心したもののうち若干を
望月ファンのため以下に転記打ちしてみよう。
●
落ち合えば君の隣に僕が立つ首から下の僕のからだが
もし空が海だったらと考えて考え終わってドア閉まります
ミッキーのペニスが置かれる売店をどうしても見つけられない僕たち
さしあたり永遠であれ人間の夜の舗道を伸びる白線
寒い朝サイズの合わない靴はいて僕だけのものにならないでほしい
朝目覚め枕にキスしてもう誰が好きだかわからなくなる日曜
つり革に光る歴史よ全員で一度死のうか満員電車
染めすぎたオレンジの髪結いながら「たまたま地上にぼくは生まれた」
「来年の春またここで」うそだろうにぎるんだろうくわえるんだろう
ドーナツをそれとして齧れば齧り始めた場所で齧り終わる
●
なかなかでしょ?
スケベな歌を中心に
キリよく十首を拾ってみました。
連作を並べる構成はすっきりしている。
ただしあと50首(連作三つ分)ほしいなあ。
それで最後に「大団円」がみたい
(と、望月くんには注文しておく)。
製本は多めに、といってある。
卒制提出用に加え知人配布用だ。
彼自身いずれ注文も受け付けるのではないか




