ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

霜月築城

 
【霜月築城】


霜月の築城さびし脳裡には枯葉めぐらすM字開脚



さらさらと虹かかりゆく音のして白をけぶらすお前過ぎたり



馬上やがてまぼろしとなる戦記かやけふの騎乗位ほのかにしろし



嚢のなか枇杷の胤なる哀しみに をとこの不妊はつか乾くも



髭まとふわが有言は有限の色たる朱〔あけ〕もいつしか帯びて



「うそ」といふ名の鳥ならば蝋となるまで銀漠の国めぐるかな



島じまに流木〔ながれぎ〕ありぬ多島とて樹の通過点、ひとやにあらず



破〔や〕れ蝶の泣き萎るさま痛ければそこら辺から梅雨もとけだす



わがゐるは梅雨の筆倦〔ひつけん〕、花白の白消えたれば花でさへなく



泡吹に似る切口の女〔をみな〕かな泡さびし吾〔あ〕には刺細胞ある




昨日は原稿を二本仕上げた。
一本は「図書新聞」用、松江哲明『あんにょん由美香』評。
これは編集の須藤君からのメールで
「久々に原稿を頂戴したが阿部節炸裂!」とのお墨付きをえた。

映画評をしあげたあとは
川野里子『幻想の重量――葛原妙子の戦後短歌』を読み継いだ。
同人誌をふくめた歌誌にこまかにあたり、
戦後的なリアルとして葛原像を結んでゆく誠実な本だ。
葛原短歌にはそろそろ記号解析的読解がほしいとおもっていたが、
川野さんのやったことはやはり金脈の発掘だった。
やはり文献学の重要性が結果的に主張されたのだった。

途中、葛原妙子が塚本邦雄短歌の弱点を
じつに精確に指摘するくだりが引用される。
彼女の所属する「潮音」に66年9月発表された
「短歌の言葉の機能について」がそれで、
評論だから随筆集『孤宴』にも未収録だ。
あまりに適確なのが驚愕のはず、
改行を加え以下に孫引きしてみよう――



塚本の喩法偏重は、当然、喩の為にイメージを提供する
体言の過剰を招く為、
「喪章の歌」の様に一首の有機的な情緒、
つまり楽音を与ふる用言を失い勝である。
「観念象徴」は短歌に昔からあったが、
塚本の場合はこれと違い、
最も知的な詩であろうとして
西欧から「イマジズム」なる詩の技法を輸入した
現代詩の意識的摂取であった。
先ず短歌から「私性」を廃除し、
従って主情的詠嘆を現わす音楽性を極力追放し、
専ら心象イメージの構築によって作歌したので
彼の作品は彼自身の肉声が極めて希薄である。



川野は葛原の短歌は別様だと指摘する。
むろん前衛短歌の併走者にしてその倍音の体現者だったという
葛原への評価は現在ではもう定着されているだろうが、
それを「喩」から語ると次の川野の言になる。

《葛原には暗喩と現実の区別がなかった。
それは塚本のような明瞭な方法論がなかったという以上に、
前衛運動が方法論の問題として考えようとした問題を、
葛原らは魂の問題として考えようとしたからなのだ。》

川野は79年5月、「短歌研究」での葛原妙子のインタビュー記事から
次のような彼女の金言も引いている。

《私は作歌については故意に、
有機性、生理性を失わない様につとめます。
これらはいわばうたの肉体だからです》

むろんこれは僕らの詩作にかかわる記述ともなる。

やがて感動裡に川野『幻想の重量』を読み終える。
「女性性」に執する川野の葛原読解はときにごつごつとしているが
噛んでゆくとじつに腹に響いてくる。硬派なのだ。
それにしても巻末に置かれた森岡貞香インタビューが
葛原の奇怪な人となりを見事につたえて抱腹絶倒だった。



このとき女房が帰ったので夕飯を手早くつくりすぐ晩酌。
それで「ユリイカ」のための詩稿作成が起床後のこととなった。

じつは、僕にしては珍しく、詩が書けるかが不安だった。
経験則でいうと俳句に惑溺していてもすぐに詩作に転化できる。
僕の詩はフレーズ主義で乾いてもいて、しかも飛躍を必要としているから
詩も俳句の連続みたいところがあって、
俳句→詩の移行はいつも容易なのだった。

けれどもお気づきのように最近は短歌三昧。
短歌は「情」が調べに宿ることが
どんなに前衛的なものでも必要とおもっていて、
これが自分の詩作観と矛盾する。
本当は萩原健次郎さんのような
厳しい詩篇をいま書きたいのだ。

じつは対策を練っていた。
上述、川野さんの葛原論から、
あまり葛原っぽくなく、しかも引っかかった語彙を
読み進む傍らでメモ抜きしていったのだった。
何のことかわからないかもしれないが、
「袖」「部屋を花の香よぎる」「妖なる者」「瘤」「感官」などが
結果としてメモに溜まっていった。

未明に起きだしてこれらの語を眺める。
詩想が湧きだしたが、
さすがにここ一ヶ月、詩を書いてこず、
書き出しを何度もしくじる。
膠着し、葛原妙子の指摘ではないが体言節が林立し
意味の目詰まりを起こしてしまうのだ。

ようやく《葉のような者には/合成と視界がちかく/
これからは分け入ってゆく/澱粉と葉脈でいっぱいだ。/・・》
の書き出しを得て、詩作が流れだした。

黒瀬珂瀾さんの「世界」歌の向こうを張り
「世界の水槽」という語を得、
最終的には三村京子さんのために僕が作詞した
「みんなを、屋根に。」の別ヴァージョンというか
増強ヴァージョンとなった。

下層労働者が長野県を歩く、という構想が全体にいきわたっているが、
タイトルはそのまま「みんなを、屋根に。」とした。

というような瑣末なことは、まあどうでもいいのかもしれないが、
ひとによっては興の湧く、僕の詩作秘密の暴露ともなっているだろう。

詩篇トータルは原稿依頼のときしめされた上限110行に達してしまった。
この詩篇を皮切りに、また詩集を構想してゆこうとおもう。



となると作歌が沙汰止み、ということにもなる。
じつはこの一連の作歌は僕のサイトにアップしている
暫定歌集『ラジオ巍々峨々』の第二部として蓄積されていった。
ただ最初からトータル二百首という心積もりでいて、
実は今日のアップでもう190首に達しているのだった。
なので、あと一回、十首アップすれば
歌作は当面、お休みということになる。

短歌を最近、ずっとつくってきて面白かった。
一皮剥けた気がする。またつくりたい。

なお本日アップの一首目の着想源は葛原妙子。
川野さんの本から、以下の畸形的名吟があったことを憶いだし
戦慄していたのだった。

築城はあなさびし もえ上る焔のかたちをえらびぬ
 

2009年07月03日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

黒瀬珂瀾・空庭

 
黒瀬珂瀾の短歌を主知的だと印象するひとは多いだろう。

春日井建の愛弟子ゆえに
現在的な『未青年』の自己編纂を作歌の宿命とし、
同性愛ディテールをももつ「美少年短歌」を量産した
(とくに第一歌集『黒耀宮』)。
ところがそこからサブカル・ディテールをもつ歌への
自然な連続性までもが組織されてゆく。

一方、黒瀬は岡井隆のいる同人誌「未来」に拠っている。
塚本邦雄的に堅牢な喩精神と同時に
岡井→加藤治郎→斉藤斎藤→笹井宏之ライン、
現在最も刺激的になりつつある口語短歌の流れにも伍し、
後述するように深いレベルで歌が岡井調をかもすばあいもある。

時事詠も多い。しかも着眼はマスコミ報道に依拠せず独自性をもつ。
価値転覆的。しかも禁忌侵犯的。
珂瀾歌にあっては天皇家も大東亜戦犯もナチスドイツも
たとえばグランドゼロにたいする詠草、サブカル批評的作歌と
単純な等価をなしていると気づく。

絢爛たる技法、博覧強記の印象とともに
主題選択には彼の内部で単純な交易性が存在しているのではないか?
あるいは塚本=初期春日井的なものと岡井的なものとの交点で
歴史反復者のおもざしを印象づけながら
それらの変幻する中間項を体現しようとしているのではないか。

となると黒瀬珂瀾には歴史意識、批評意識があって
固有の自我がないのではという疑念も出てくる
(これは私性の問題にたえず回帰する短歌世界で地雷的存在を貫くということだ)。
あるいは自我の規定方法がちがうのではないか。
たとえばコクトーのようなプラスティック=可塑性自体を
自我の運動と珂瀾が嘯くのではないか。

そうした疑念から珂瀾の本当の自我をつかまえること、
たぶんそこに彼の歌を読む醍醐味がある。
そこで彼の美貌が生きる。表面の問題が惹起されているからだ。
つまり黒瀬珂瀾の領域は、コクトー的な創意と
その創意のもとでにじみ出てくる天使性、
この双方の域を不遜にも跨いでいる、というわけだった。



核心にあたることを一気に書いてしまった。
新歌集(第二歌集)『空庭』を贈呈され一読しての印象だった。
もっと本書を精しくみてみよう。

黒瀬珂瀾は時事詠を志向するので連作性をもつ短歌作者だとはわかる。
なかなかその連作は構成が凝っている。
まずは時間生起的な組成をもたない。
自由連想によりながら、各首は相互嵌入的、熾烈な噛みあいを演じ、
その傷口から、特定性を自ら脱する時空混合体がつくりあげられる。

詞書を駆使し計28首で構成された、
巻末近くの「太陽の塔、あるいはドルアーガ」などがその好例だろう。

最初に《池袋に住んで、もう2年》と詞書がある。
万博で岡本太郎がつくった建造物「太陽の塔」の名で
時代錯誤的に形容されているのはサンシャイン60だった。
僕らの時代ではあの高層ビルは
ロマンポルノの数々のアパートの窓から実際に捉えられ、
「お墓みたい」という形容をつねに受けてきたものだった。
池袋は新宿淀橋のように高層ビルの林立化も進んでおらず、
「お墓」の位置をサンシャイン60はいまだ独占している。

珂瀾のその連作は東池袋論へ傾斜してゆく。
おたくというか腐女子の聖地、乙女ロードがサンシャインの膝下にあれば
まずはアニメを中心にした珂瀾十八番のサブカル詠が連打され、
やがてはサンシャインが東京拘置所の跡地に建ったという歴史的事実から
今度は珂瀾の別の十八番、戦犯詠が組み込まれてゆく。
この複雑な時空体を宰領しているのが珂瀾、というわけだ。

うちに痛烈、暴力的な断言の一首がくる。

○日本はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが平山郁夫

精神的真実を言い当てていておもわず笑ってしまいそうになるが、
同時に歌の作者の体温の冷たさも感じる。
彼は二次元表現、ネット表現に親和しすぎて
その血液すらドライフーズ化していないか?
こういう疑念を珂瀾自身が誘導していて、
その反転をも彼は連作に仕込む(韜晦こそが彼の作歌動機なのだ)。

○ゲームクリエイターのパーティに吾をりて青鷺と寝るごとくさびしゑ

直喩とともに、詠嘆語尾の「ゑ」が生きている。
僕はこの「ゑ」にいつも女性性を感じる。



歌集全体が春日井建の追悼連作からはじまり、
やがてその徹底した自己対象化でもって肺腑をえぐるような師の葬儀出席を
詞書も駆使しドキュメントする
「六月の」へと流れが間歇的につながってゆく。
春日井短歌との決別はそこから印象される。
歌集中のもろもろは黒瀬がさらなる「独自性」をもとめさまよい、
時にはもうひとりの師・岡井隆をも併呑しようとする過程の提示だった。

短歌作者としての黒瀬珂瀾の位置。

○「若手」より二世代は下 王墓より響く鳴き声まとひてぼくは
※ ――現在の花壇で「若手」といえば加藤治郎の世代か。
「若手」=アラ50。
埋葬されている王は春日井建、
あるいは作歌時点ではまだ生存していたはずの塚本邦雄か。

○母語圏外言語状態 この美しき響きには強風に立つ銀河が見える
※ ――「母語圏外言語状態」全体に「エクソフォニー」とルビ

○PathosからLogosへ渡る橋にゐて神の火の一撃がまぶしも
※ ――岡井隆の謦咳に触れる幸福がうたわれているととった。
パトスとロゴスの共存者としてまずこの才能を人は数える。

○詩こそ紫紺の暮れ方にして鳥わたる静寂をわが鎮めがたしも
※ ――「静寂を鎮める」という撞着語法に注意。
詩精神は暮れ方にきてもう物音すらたてなくなりそうなのに、
そこを幻のようにいまも鳥が渡って、
作歌精神はそのありようから刺激される。
詩歌と鳥を配合し、「詩とは」と大上段に語りだす、
この歌の先例は岡井隆の例の絶唱だろう。
《歌はただ此の世の外の五位の声端的にいま結語を言へば》

○人ら等しくとらはれとしてひとやなる星にゐてまた星を眺めつ
※ ――黒瀬の本当の作歌の位置がみえる。
自らに特殊性を想定しない、ということだ。

○扁桃といふ実を持ちてわが身〔しん〕は日ごと黄泉へと溶け出してゆく
※ ――それでも作歌が反世界的行為だという自覚もある。

○ヨハネにもユダにもなれぬ皆様でDr. Ryuを囲む夕べだ
※ ――「Dr. Ryu」は岡井隆の異称、塚本が命名、岡井も自ら使用した。
岡井はイエスの位置に擬されていて、彼を囲む珂瀾たちには
ひとりのヨハネ(伝道者=道を継ぐもの)も
ユダ(大胆な裏切り者)もいないと唄われている。
そうした微温的会合を自嘲しつつ、全体は
ゲッセマニの森の十二使徒を描いた宗教画のように静謐だ。

○ われはわが歌によごれてしろたへの衣をまとふ炎天の下
※ ――「よごれ」の逆説に注意。「白妙」とうたわれ姿は汚れていない。

○ 恐るべき高みにて羽根を切り捨てし男に届かざるわがコーダ
※ ――作歌者・珂瀾にとって、先行者は洗礼者でなくイカロスだ。
「わが墜落を、自己切断を見よ、これを模倣するか」と問う者だ。
僕は珂瀾が誰を暗示しているのか実はわからない。
岡井隆、春日井建、塚本邦雄の誰かだとはおもうが――

○ あの人の玉なる声をかき消して夕立ふればそののちは蝉
※ ――岡井隆の往年名吟、その反転と受け取ったのでこの一連に掲げる。
《ひぐらしはいつとしもなく絶えぬれば四五日は〈躁〉やがて暗澹》



黒瀬珂瀾の性愛(関連)歌。

○ 君の身にわが肉片を沈めつつ脳裏に天の金雀枝〔えにしだ〕は満つ
※ ――「金雀枝」はフランス語でgenet。
よってジャン・ジュネは自分の守護植物と夢想していた。

○ 大学の前に手を振る一滴の羊水もまだなさざる妻よ
※ ――妻帯者にして子供をなさぬ者の自覚。
宗教的な立脚を考えるひともいるはず。

○ 吾がふふむ君の乳房の左右左右みぎひだりのあさひ
※ ――乳房の左右が曙光の清浄さのなかで悲哀をもって音韻化された。

○ 口でしてもらふ暮れがた雨ひとつすばやく過ぎて燈火を残す
※ ――フェラチオ、静寂、夕方は三題噺に似ている。しかし珂瀾歌は綺麗。

○ 騎乗位なる体位〔ラーゲ〕のありてもののふは矢をつがへたり宇治の川辺に
※ ――見事な二重視覚歌。そうだとして矢とは何か。
性愛の相手のどこに、宇治の川辺を見るのか。
そして「宇治の川辺」の隠喩に実質的な意味が結合できるのか。

○ 魂を注ぎ込むがに君の耳へ舌を差し入れ 花散らし雨
※ ――耳への舌挿入を「花散らし雨」と自署し
珂瀾特有の可憐、自己愛、美しさ、不気味さが揺曳する。
彼にしか許されない業だとおもう。

○死を思ひ出すたびにわが性愛の蓮咲く沼を覗かむとせり
※ ――性愛による死の抑止、それゆえの性愛の清浄。
この歌の世界観には、もしかすると折口が貼りついている。



黒瀬珂瀾の戦犯/ナチス歌/サブカル歌。
これは説明をせず、ただ投げ出そう。

○ 風吹かぬ朱夏の底なれ大東亜大臣重光葵の義足
○ えんえんと会議は続きスライムとスライムベスの差を思ひをり
○ 少年の瞳こはれてゆくさまを楽しみて見る吾は何者
○ アウシュビッツに奉職したる思ひ出のあらば明るき残生ならむ
○ 雪降ればわが身白布〔シーツ〕に巻かれつつナチスよ美〔は〕し、と思ひ至りぬ
○ 窓の外〔と〕に草薙素子立つ刹那朝地震〔あさなゐ〕の来て揺るる硬水
○ 幕間のごとくに晴るる空かつて首落とされし天皇〔おほきみ〕ありや



この歌集の著者あとがきの最後の文言は、

僕もそろそろ、《世界》を卒業せねばなるまい。

だった。
実際、黒瀬の歌には「セカイ」ではなく「世界」の語が頻出する。

手近な人間同士の間柄から何かの兆候を読み込んで、
中間項・中間手続きをすっ飛ばし、セカイと交信しつつ
そこでの自らの使命を構想する、
抽象的・独善的な外界想像力を「セカイ系」という。
『エヴァ』なら許容範囲だが、たとえば僕は高橋しん『最終兵器彼女』が駄目だ。

その「セカイ」と対峙するように珂瀾の「世界」歌はある。
ただし「世界」という用語にはもともと抽象化の危機がある。
それは哲学の危機とも同じ。
それでも「世界」の語自体は魅力的なのだ。
たとえば誰もがヘッセの詩をそのまま唄った頭脳警察の、
「さようなら世界夫人よ」の「世界」に陶然としただろう
(あれと同じ感覚を、最近ではアナログフィッシュの
「世界のエンドロール」におぼえた)。

よって珂瀾の作歌は、その世界の多様性(複数性)、殺伐感、無秩序、混在性、
さらには同語反復的になるが、その「世界性」を保証することでしか
「世界」を主題にしようとしない態度となる。
この試みに成功したとき珂瀾歌の独自性が最も保証されるのではないか。
歌集から引く。これも解説をはぶく。

○ 秋めくや僕は世界の中心のやや左にて愛をさけぶ、よ
○ 永遠に白き葉月の午後 蝉の声を残して世界は終はる
○ 晩餐のライスもてわが築くかな《世界》を容れぬための長城
○ 朝焼けは植民地にも絢爛と来て世界中朝焼けだらけ
○ 世界終ハレ世界終ハレト兇王ガホホヱムユヱニ焚キ火ヲツナグ
○ クリームシチュー甘く煮つめて混沌の世界をひとつ産み出しませう
○ 見えすぎる世界もいやでコカコーラ飲みつつ歩む闘技場まで
○ エレベーターで三十階へ行くときも世界は《性》に覆はれてゐる
○ ルーレットことりととまり平行世界沸き来るを見て部屋を後にす
○ しろがねに輝く水は傷にしみ世界がふいに戻されてゐる
○ ファインダー覗けば朝の祈りほど世界はつどふ君のまはりに
○ 華やかに世界の朝が遠くなる 仮装を解きて笑みかはすとき

同時に、「世界」の語がなくとも、「世界感覚」が迫ってくる秀歌群もある。

○ 意味消エヨ消エヨ僕ラハ朝焼ケニ架空庭園論タタカハス
○ 銃だつた、あれは確かに。緩徐調〔アダージョ〕の街との別れ際に見たのは
○ 時間は香る、だらうか昼が夜となる時を華やぎ無残なるみづ
○ あるはずさ人類愛は きみがけさペリエをついだグラスの底に



黒瀬珂瀾の歌は塚本邦雄的な喩から離れだし、
意味の空間的形成に歯止めをかけ、むしろ、
息の生起によって意味の形成にかえること、
つまりは読み下される時間性にさらに繊細となることで
より絶唱率が高まるだろうが、本人がそれを志向するかどうか。

このあたりの判断の際に驚いた歌がじつは二首あった。

○ 火の落つる地の遠ければ地を歩むものらはみえず乳の匂ひは
○ 死者はつね水際〔みぎは〕に吹けるオーボエのどこか遠くに豪雨はそそぐ

どちらも、主格助詞「は」が問題で
一首め「匂ひは」の「は」留めは、言いさしのままの切断、
二首め「死者は」の「は」は呼応する動詞のないまま空中拡散する。
文法的誤謬のような真似がなされているわけだが、
この「は」は韻律的にも意味の曖昧効果に向けても「決して動かない」。
こういうところに
黒瀬珂瀾のさらなる新境地の可能性が覗いているとおもった。



一頁五首組なのだが、圧迫感がない。
判型と字の大きさのバランスもよく、
これは歌集装丁の新発明ではないだろうか。
装丁=クラフト・エヴィング商会。
僕の詩集の装丁もお願いしたいくらいだ。

本阿弥書房・本年6月刊、2000円。
 

2009年07月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

方法の疲れ

 
【方法の疲れ】


方法の疲れ、夕日に照らされて刃傷〔にんじやう〕なのかさむい草生だ



水にしづむ夢はだいたい稚なくてわが右派左派も液状をする



七十年、辛子ガスから黄変した眼路をおもつて鷹がいま泣く。



まひるまはしろく耀く繭だから 内に青者〔せいじや〕の着衣も要らぬ



閑文字にしかないひとが邪まを得て火をはこぶ鹿となるかも



パラシュートの着地こばまれ以後夏は成層圏を流れゆくのみ



油照りのなかなる茄子の怖しさ。無を映す有の氾濫のこと。



寝姿の舟に似たるを萍が取り巻いてきて寝のかびくささ



七分裾ずぼんの跋扈、これにより嚢〔ふくろ〕の奔る像がやぶけた



照らされぬ側つねにある枇杷の庭で音声の鳥のあそび生まれた




例のごとくの日録短歌。さて――

昨日から今日ただいまにかけて加藤治郎の歌集、
『ニュー・エクリプス』『環状線のモンスター』『雨の日の回顧展』を
つぎつぎ読みおえた。

方法論にたいしずっと明敏な歌人だが、
彼はそのなかで「秀歌率」といったものも考えているとおもう。
秀歌がひしめきすぎると
歌集展開が重くなりすぎて、
鈴木一誌さんのいう「ページネーション」が低下してしまう。

ところが差し掛かかっている方法論が完全だと
収録秀歌率が高まりすぎる危機が「自然に」迎えられる。

――なにかややこしい言い方になったが、
加藤さんの98年から02年までの歌があつめられた、
彼の第五歌集『ニュー・エクリプス』も
そんな歌集だったのではないか。

どんな方法論か。
口語や幼児語により、歌に異化をあたえるのでもない。
歌が二分の組成をもつことでスパークする喩の瞬間性に、
吉本隆明以来の「短歌的喩」の効力を継承するわけでもない。

塚本邦雄と岡井隆の方法混成というのか、
二分性によらないことで一首の読み下し性を確保しながら、
語連関がそのまま平明にして、
同時に、みたこともない喩を形成するのを目指す。

僕がいまつくっているのもそんな短歌の下手糞な例だとすれば
『ニュー・エクリプス』にはそんな秀歌が目白押しだった。

うちいくつかを転記してみようか。



湖にみずしずみ居りうらわかき母の悲鳴のとどかぬところ


病む鳥のほのかに細い声となる詩の一行は苦しいだろう


囁きの春の雪ふる鍵盤のかずかぎりない柩にふれて


横書きのアラビア文字のしなやかにきみが反るとき明け方の風


青信号のひとつ向こうも青であるああ天国にもテロはあるのか


天金の白秋歌集手にとれば庭園の香ぞゆるくのぼれる


かなたから手があらわれて青年の心臓を抜くそらとぶしんぞう


たぶん今ふたりの胸はひかりあふ河のほとりにいるわけでなく


プラスティックの量器〔はかり〕に嬰児を載せるときしずかなり梨の香にみちて


ひとひらの光のように蜻蛉〔せいれい〕の羽はすずしく秋風にのる


虹のそのただひと色を抜きとってあなたは椅子を用意していた


夕ぐれのコップの水に触れてみる瞼にふれたやうなかなしさ


ミシンからしずかに垂れてゆく布の春の闇にはとどかざりけり


歳月は見知らぬ人を連れてきて車の窓をあけて微笑む


あるときは散文的にふる雨の明け方あわき脚韻を聴く




《囁きの春の雪》中の「かずかぎりない」は岡井隆の絶唱、
《人の生(よ)の秋は翅(はね)ある生きものの数かぎりなくわれに連れそふ》
に、触れているとおもう。
同じ感触は《歳月は》中の「歳月は」と同じ岡井の
《歳月はさぶしき乳(ちち)を頒(わか)てども復(ま)た春は来ぬ花をかかげて》、
この対比にもある。

《ミシンから》の一首は子規のつぎの代表吟の変奏。
《瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり》。

掲出した歌でたしかに二物衝突の印象をかもすものはある。
《天金の》における、「白秋歌集」と「庭園の香」。
《プラスチックの》における「嬰児」と「梨の香」。
ただ衝突ではなく「香」の揮発性によって
一首はことばがただ縦に流れるような気がする。

《夕ぐれの》一首も、直喩があるようで、ない。

掲出した最後の一首のうつくしさは
終生忘れることができないだろう。
 

2009年06月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

華氏摂氏

 
【華氏摂氏】


地上には華氏も摂氏もひしめけど木犀の陰、私しろがね



低原はとりわけ高温なす場所をお前と馬とで奔つて消えた。



「まほめつ」の見出し語に心ときめいてたまきはるかなこのむらぎもも



この身には口述の痕、ひそとある。川で擁かれる摩訶止観ぼく



勾玉の「まが」は曲〔まが〕なり、禍〔まが〕でなし。着飾つて聴くPerfect Dayを



わたしからわたくし去るを身罷るといへば罷免の生きもさみしゑ



僕の心、平坦にして非電導。ふるへてる、ホラ、茲の真鰈。



産道を落下の最中、逼迫し、「曲がれ」と叫んだ。余韻に産まれた。



千年来、自分を間借りし時々は夕暮のなか家具を展げた



「まかは」とは瞼なれどもこの夏のわれは総身をながれゆく川




昨日は渋谷のライヴハウスへ。
三村京子さん、それにネズミハナビの吉田諒くんという
僕の早稲田での教え子が二人出ていた。
吉田くんは、ネズミハナビのコンポーザー、ヴォーカル、ギタリスト。
フォークからもってきた、しかし色っぽい歌の節回しで
ロックとフォークの中間にある詞世界を唄う。
吉田くんは色っぽい。細身だし美男子だし。

ネズミハナビは初期、「鼠花火」のバンド名で、
ブランキー浅井的、目詰まりしたマイナーコードギターがスピーディだった。
そこにラップにも通じる吉田くんの早口歌唱が載って、
たとえば女の娼婦性をなじり、愛す、私小説的な世界が唄われた。
その他、フォーキィなバラードも得手としていた。

現在のネズミハナビはその手のアプローチ以外に、
コード進行に綾のある、パンチのきいたポップロック的なものも演る。
いずれにせよ吉田くんのエロキューション、声は健在。
終りの二曲、シングルが切れるとおもった。

三村さんは、昨日は淡々と初期曲を中心にアコギの弾き語り。
それでもやっぱり「岸辺のうた」とか魅了するなあ。
「私は終わらない」ではサビメロの歌唱に迫力があった。

僕のとなり、「銀鱈のブルース」の一節でわらっていたのが
日芸の生徒つながりで知っている俊英・高野くん(彼もミュージシャン)。
「私は終わらない」の三村ギター、
すごくジミヘンの「リトル・ウィング」ぽかったですけど、
あれ、先生の差し金ですよね、と見事に具体的に指摘された(笑)。

三村さんにはそういう「文化記号」は似合うけど
(彼女自身、レトロだから)なくてもいけますね、
という「さりげない指摘」もあった。
相変わらず、するどいやつ。
「AVに捧ぐ」、また演ってくんないかなあという
彼の願いも嬉しかった。

三村さんも日芸人脈に敬意を表し、
朗読では橘上の「花子かわいいよ」を演った。



加藤治郎さんから歌集を買って、
昨日から刊行順に読んでいる
(ミクシィでは誰でも加藤さんにじかに注文できる。
僕のマイミク一覧から加藤さんのトップ頁にGO!)。

いうまでもなく加藤さんは岡井隆門下で、
ケンカイさと音韻性のあいだに純粋にある口語短歌、
あるいは都市的情感の瞬間性をもつ喩成立の立役者だが
(つまり俵万智の善意の立ち位置とはまるでちがう)、
これほど短歌性とは何かを考えつつ、
作歌が頭でっかちにならない才能も珍しいのではないかと
読みながらずっと感動している。

あるいはこういったほうがいいかも。
バランスがある。あるからバランスを壊そうとする。
それがさらにバランスになる。
これって無間地獄みたいなものだ。
そういう自分の宿命性にたいし加藤さんてずっと果敢なのだ。

ついさっきまで読んでいたのが、
第三歌集『ハレアカラ』、第四歌集『昏睡のパラダイス』を完全収録した
砂子屋書房『現代短歌文庫・加藤治郎歌集』。
その『ハレアカラ』から有名歌をなるたけ除き、
試しに二十首ほど引いてみよう。




しろがねの剃刀の刃が水面に貼りついているようなさみしさ


限りなくつらなる吊輪びちびちと鳴りだすだれもだれもぎんいろ


鳴く鹿の喉のつやつやふるさとの母音うつろうふゆの宴は


ふりかえる鹿をおもえば森に棲む二重母音のははといもうと


台風が近づいてくるこわばったキャッチャーミットをほぐしていれば


ひいやりとした茣蓙に居る夏の日は雲形定規で母を描けり


白・黒にみだれて終る映像の「きて」「ああ」闇に顔をおこして


あたためたミルクに蜜を垂らしたり海の電車の鉄路に沿って


病葉をつまむ天使の悪戯にこのこめかみはいたむと想う


ちりとりに髪をあつめて居たりけり天安門の雪を思いて


滝壺の濁りにしずむ鹿の骨ついにカオスは幸福である


素描までいたらぬ線を見て居れば性にかかわる嘆きはあまさ


混沌のうしのちくびをつかむゆび俺は世界の苦痛になれるか


狂うから真夏のまひるもりあがる波がひかりの壁となるまで


黙りこくった女の子って指さきにたわむスライス・チーズひとひら


頂点に人あらわれておちにけり産道というにがき臨界


人生に夜明けがあれば小学校野球部入部テストの暴投


散会の男がひとりあゆみ寄るメタファーの火を借りにくるのか


われら讃えるものをもたねどろうそくの火の韻律を見まもりて居き


向日葵を描いた絵筆を洗うとき雲がひろがるようににごるよ




ご覧のように冒頭にかかげた僕の十首は部分的に
加藤さんの歌に啓発されてつくったものとわかるだろう。

ところが「摩訶止観」の語を調べるうち、
広辞苑第四版、「まか」のあたりの語を契機にした
作歌ともなってしまったのだった
(もどって、冒頭確認いただければ)。



そういえば今日は朝から
マイケル・ジャクソン死去の報を
TVでみつづけてしまった。とくにフジ。

小倉智昭、笠井アナ、デイヴのマイケルシンパ三人が
訃報の詳細伝達がすすめられるなかで
思い出を語るものだから見逃せなくなった。
出されるエピソードがワイドショーの限界を超えて豊饒だった。
これ、ワイドショーのベストじゃないか。
余勢を駆って、今夜、特番だと。

マイケルと僕は同学年。
誕生日も数日しかちがわず、思いは複雑だ。
そういえば小室哲哉も同学年だったりする。
「Around昭和33年」に共通する匂いというものがあるのだ
(加藤治郎さんは34年だね)。

ただし僕はマイケルが好きというのではない。
80年代にブレイクしたものは
流行る理由がわかってそれを仕事で分析しても
好きになれなかったものばかりだった。
クインシー・ジョーンズなどもその範疇。

だから「スリラー」のころ音楽で僕が熱中していたのは
当時のユーロニューウェイヴや
時代錯誤的だけどフリージャズだったね。
 

2009年06月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

前方後円墳

 
【前方後円墳】


前方にして後円のきみゆゑに 性愛パズルも墳然とする



蝶道に往く手きられてゐたりけり。蛾性より来る梯子を待つた。



風に鳴り焼けば焦げたるかをりする黒レインボウを骨肉といふ



鯰ひげ抜かれて逐電した先で(なゐなゐ)ある子と地震に遭つた



かげろふの数時間とは はらわたの非在が展く無身の迷路



はなつから湯疲れてゐてアヲやアカの温泉主義で眼路も霞んだ



蔵〔ざう〕と鳴る乙女を寡黙に仕立てあげ一身鏡のなかは宝界



指なかの金剛力を、朽ちた葉を割らずに掬ふ風気にもちふ。



「女流」の語に滔々と天の流れ見て 天、氾濫が女禍の国かな



一冊を伏せて亡き影さきどつて失の潮目を読むやうな眼だ。
 

2009年06月24日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)