二階ぐらし
【二階ぐらし】
ぺーじのなかへ暮らしている
ここは水面のようにもなり
二階屋のようにもなる
(「階段の存在しない
二階に置き去りになった」
そんな魂の書き方もあった)
畳へ芒をまねきいれる
その「招」の字の本質的な怖さ
いつも自分の躯を
ふくろ状にとりなして
ふくろからは唐黍をだしている
これは袋でも復路でもいいのだが
亡き韻きのすぼまる口は
用のない嚢に如かない
おかげで咳をしてみるだろう
そういうのが、冬の、懐かしさ
花粉将軍をまつひともいる
よこすかの、どこかに
あいさつのつもりで
唐招提寺のかたちをそこへ送る
いたる細道が行だとして
いつも奥にはほのひかりの
期待めいたものもあった
最後には観音の裸に出会いたい
そういうことにみのったな
みづ紀の「美代子の満開の下」は
薄荷を噛んでかんがえる
かんがえるのはうらがわだ
そういうさみしさだ
中断は いつの場合も
三階建ての無防備をおもわせる
建っているだけのおまえに
普請中のみんなは
平たい寺院をこころざして
土地でないものをひろがってゆく
読経は中断なく手渡された
みんなに、陣地というものがある
きたる年号は
はくめい だとおもう
釣り合わなさは
手塩にかけて見えなくする
そのための塩を
いまからみがこうと
二階ぺーじのなか
ひかりをおのれに
あてているところだ
世界とは軒先
恋びとは待てよ
恋びとは待つな
しらくも
【しらくも】
りんかくのこわれたひとびとが
ぼうしをとばしてだきあったり
あいしあったりするすがたを
ずっとてれびでみてゆく
「ほわいとのはっとはまずほわいと」
いくたびかひととひとがまざるので
きれいだなあといきをのむ
おたがいのからだをおもちゃにして
けんだまやてまわしおるがんをひきだす
とばしたりくるくるしたりするからだのぶぶん
あかるいおんがくもながれてくる
そういうのにおとなもこどももないようだ
けれどもりんかくがこわれているので
そのひとたちが はだかかどうかはしらない
みえているものがはだいろだとはわかる
はくいきがうえむいていろいろひびきあって
あいすることがひだりまわりか
みぎまわりかがかたられてもいるようだ
でもみんな、いのこったんだと
おろかさがそれできまったんだと
「げんごけんさくは あいについてはしない」
きえちゃえばいいのにともいっていたな
そういうあざけりまでまあるくみえた
そうそう、うつっているばしょには
みなみにむいたようなまどとかーてんがあり
そのひかりのなかでじぶんをひっかいている
かなしいおんなのこににたものもみえた
りんかくがないのでどうにもさだかでないけど
そのはだがおおうつしになって
つめでしろいきずがついてゆくとかんじた
あれはもものうちがわだろうか
そのかききずがももいろになったら
いっさいがてんごくなんだろうとおもった
みをひねっているあのこだけがすきだった
あらゆるものから帰った
【あらゆるものから帰った】
期間は三日をこのんだ
蝋梅が冬日に溶けだすのをみて
揣摩臆測をほしいままにした
バケツでからをはこび
眼と耳の通路が
冷たくなるのも知った
とおくでふたつに割れるもの
たとえば逆光の雁列を
わるびれず わたしとも呼んだ
つぼみが野菜にみえる花壇
みんなが日傘を差している国の
南国柵のあまさがいい
あまい風にふかれて
胸乳があることの女性性から
教室の隅ではぼんやりすごした
わらっている
宿題をかかえると
ものもちになったようでうれしい
部分を流出している
なみだみたいだ
へんないろとおもえるどうぶつ
そのだらしない仰臥の
いずみのひろがりもいい
出産するのだろう
黒板は妄想乱れ書き
もう書けない
そうしてあらゆるものから帰った
みずからを遣るように還った
期間は三日をこのんだ
チョコが死んだ
映画機械考
【映画機械考】
あらゆる隙間が
花びらである国が映画だ。
家具調度のみならず
スカートの典雅な襞のみならず
とりわけ齣と齣のあいだに
黒い花がびっしり。
それで一女優の愛の瞑目さえ
瞼による隙間の隠蔽であるかぎり
黒い花がそこにびっしりで
そのまま死に顔となってしまう。
おさらば。一瞑目一創造の一別離、
それが映画の発明だ。
たとえば戦闘も恋愛だと
殺伐とした拡がりが告げているが
《能く闘う者は怒らない》
闘う情況こそを美味として
それにばくばく喰いつき
おどり
叩きのめした相手自身を
ないがしろにしているのが常だ。
画が一画面として満ちているのも
指標がすでに「たらふく」で
闘いが嬉しい、ということ。
ここにも黒い花がびっしりで
それが映画の発明だ。
おさらば。一動作一満腹の一屍体、
高飛車がこうしてまわり
よって眼ではなく導管が燃える。
つねに燃え滓か、焼尽をみている。
自らの身熱とさえ錯覚して、
●
期末レポートの採点が終わり、
昨日から「詩手帖」原稿のため
気になっている詩集の再読をしはじめた。
中尾太一さんについてはmixiで論議になっていたので
久しぶりに『数式に物語を代入しながら
何も言わなくなったFに、捧げる詩集』を。
「青春」? ――なるほど、「抒情」の具体は
暗い憤怒や無力の予感と取り合わされて数多くある。
「だらしない」? ――修辞の無駄をもってジャンクを志す崇高さには
そうした形容だけでは足りないものがあるとたしかにおもう。
ただし、ひらがなに漢字のルビをつけるような一時期の流行には閉口だ。
詩脈を推進するに際し、膠着のブレーキがかかる。
それは最も安易な隠喩だ。
一行の異様に長い改行詩は或る特殊な法則に包まれる。
当該行に眼を遣った瞬間、前行が消失して気配だけになるのだ。
その気配の正体こそが律動なので、律動だけに対面している結果ともなる。
たぶん中尾さんの初期詩篇はそれを利用している。
ただそれで理路が乱れまくり、詩脈の面白さからは詩が到来しない。
一行の際立ちは一定比率で存在しているが、
それでは博打の的中比率を他人事の文脈で算段するにひとしい。
この自己閉塞、もしくは無責任な他人への預けが「だらしない」といえる。
彼のもつ語感というか別系統の言葉の集中合流はすごく好きなのだけど、
詩脈によって読者に語りかけない語法は成熟拒否、若さというしかない。
似た生成の詩集ということで、
当然ながら倉田比羽子さんの『世界の優しい無関心』を今度は再読する。
当該行による前行の消去、その結果の音律の残存という法則は
やはり一行が異様に長い改行詩だからあるのは当然として、
こちらでは構成力の緊密さと、
整合性から来る言葉の静謐さとに詩の本質をみて、唸ってしまう。
「母の死」は何重にもテキスト化され、
カミュ『異邦人』を自家薬籠中にしながら
「母の母の母」を指標する劫初、エンパイアステートビルからの俯瞰、
大拙哲学など「補強材料」が筋状に錯綜してきて、
その結果「詩が書かれるとはどういうことか」という真摯な自問が
いわば放射形に砕けてゆく「理路」が組織されているのだった。
「なぜ詩を書くか」はこのように詩作に内在化され残余をみない。
それを嬉しそうに語る者など、みな自己顕示欲だけの「贋の詩作者」だ。
中尾さんはそれでいうとひじょうに微妙な立場にいるとおもう。
合間に手塚敦史さんの『詩日記』『数奇な木立ち』を再読していた。
手塚さんはたぶん自分の詩想の美しさと端正さを知っていて、
それでシャッフルをかけたり、
挿入句を入れて詩脈を複雑に乱したりする。
しかもその「乱し」までが美しくなり
そういう自分に焦れているのだとおもう。
ただし植物とひかりと屋内をみる眼は澄んでいて
僕は彼にはずっと深い「同調」を感じてきた。
むろん彼の詩篇には熟考された理路=詩脈がある。
手塚さんは顔と詩が似ている。山梨的美男子だとおもう。
そういえばその顔の印象も中沢新一を小ぶりにした感じだ。
彼の新しい詩集、出ないかなあ。
その片鱗がこないだの「こあに舎」での朗読テキストにはあった。
以前の詩風よりも、さらに直截的な力を帯びている印象があった。
彼こそを若手詩作者の「抒情」の中心に置くべきだとおもう。
●
上の詩篇は倉田さんの詩行にインスパイアされてつくった。
若手詩作者の「映画好き」に釘を刺すものでもあるし、
最近身辺に起きた不本意な事件を詩化したものでもある。
火事座
【火事座】
幻想行は
冬火事に瞼を縫われてゆく
いまみたものを視野の底に
帰宅後数夜を眠るはかなさが
ながれる砂金とともにあること
燃えあがるどうぶつの姿態なども
風のむこうにおもった
大火災の奥で落下をくりかえす
わたしの包帯やあなたの傷
なかに往ってしまった何かがある
酸素を猛烈にすいあげて
渦で夜空を焼くそういう場は
船火事との類推から
船とただ呼ばれたのではなかったか
つねに流体は逆に昇る
微細なものに火事をみて
わたしあるきが狂ってゆく
ぶらんきだ天体の災厄
凍てついたこの大霊には
とおく髭の星座が対している



