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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

今泉力哉・街の上で

 
 
今泉力哉、やっぱりめちゃくちゃ面白いや。ただし、その面白さを具体的に語るのはすごく至難だったりする。劇中、人と人との関わりの日常性がまず巧まずに差し出された上で、その展開に常軌から少し外れる小さな綻びや間があったりする。そこが観察者側のくすくす笑いの微妙なポイントになるのだが、実はそういったポイントが作中に数知れず、映画を観ながらにして、ディテールの素晴らしさがすでに記憶容量を超え、繰り返すが、映画を観ながらにして、この映画を再見したいという、ありえない欲望に悶々とさせられたりすることにもなる。観ながらにして再見したいと思ったのは、下北沢を徹底的に舞台にした(魚喃キリコの『南瓜とマヨネーズ』の記憶とも二重写しとなった)この今泉力哉監督『街の上で』の前では、サブカル固有名詞が乱発された坂元裕二脚本、土井裕泰監督の『花束みたいな恋をした』があった、今年は。
 
冒頭、若葉竜也の青が恋人だった穂志もえかの雪に浮気された上に、理不尽にも別れを切り出され、さらにしかもその浮気相手の名前を絶対に言いたくないの一点張りで、それに対して青が雪とは「絶対に別れない」と宣言、このときに雪がその対応策を語る流れとなるが、二人の応酬が常識から外れているし、雪の示す最終的な対応策の内容自体がこれまた異様だったりする。どういうか、割り算で割ったときの余りがボロボロこぼれているような「収まらない」感じ。そうして受けた奇異な感触は、それらの1秒後にはすべて笑いに転化している。人間の滑稽さを軸足にしてしか、人間愛はありえないという真っ当な言い方もありうるが、人間二人を包んでさざなみを描いている空気そのものが可笑しいと語ったほうが実はいいのかもしれない。
 
惹かれたディテールを語り出すとめちゃくちゃ長い書き物になってしまうので、割り算で割ったときの余りがボロボロこぼれて嬉しくなったシーンをいくつか書きとどめておくことにする。ライブハウスでマヒトゥ・ザ・ピーポーの弾き語りを見た後、青=若葉竜也が、ロビーで見知らぬ別の女の客(カレン)にタバコを所望され、青がない、と返事をおずおずすると、女が逆方向の見知らぬ男客にタバコを「2本」所望、その男が2本を「メンソールだけど」と女に差し出すと、一本を自ら咥え、もう一本を青に渡すが、女が友だちに気づきその場を離れ、マッチもライターもズボンのポケットに入れていないタバコを咥えたままの青がその場に立ち尽くしている。これも割り算の余り。
 
あるいは、美大系の女子大生、町子(萩原みのり)に青が古着屋で働く間暇に読書している姿の良さを見初められ、映画出演を依頼されるが、極度のあがり症で、古書店の店員・田辺(古川琴音)を古着屋に引き入れてその読書姿のリハーサルをしてもうまく姿が軟化できず、見かねた田辺が代わりに青の持っていた赤いカバーの書籍『金沢の女の子』を拝借して試しに読書ポーズをとってみるとぴったりハマるのだが、その田辺のポーズも物語の必要性からして余りとしか言いようがない。
 
あるいは映画の撮影本番、テイクを重ねても読書ポーズの提示に失敗しつづけた青がなぜか「あした撮休」の中間慰労会にいて「余り」気味に居心地の悪さを強いられていると、衣裳スタッフの「城定」イハ=中田青渚に助け舟を出され、やがては出演者控え室と見えていたが実はイハの自宅マンションだったその部屋で恋バナが始まり、青がいまだに雪への執着が解けない苦衷を語った後に、ひょんなことから青にとっては雪が初めての女で、つまりそのときには童貞で、雪の満足を導けず、AVを見て勉強して、と言われ、実際勉強に励もうとすると出演しているモデルが常に意に沿わず、それでフーゾクで体験を構築しようとして、で、そのときのフーゾクのお姉さんのやさしいみちびきに、雪よりももしかすると好意を抱いたかもしれないと思った後日、ラーメン屋・珉亭でそのお姉さん(村上由規乃)とぐうぜん出くわして、ふと目が合って微笑を交わしたなどと青はイハに語ったはずなのだが、そのときの珉亭を舞台にした、村上の半身がこちらを振り返る一瞬のインサートショットがやっぱり豊か極まりない余りなのだった。
 
余りといえば、ゲスト出演し、俳優経験者の記号を振りまくことで一件落着だったはずの成田凌の、その後の設定がすべて贅沢で笑える余りだし、朝の路上で俳優4者による疑心暗鬼と大人げない言い合いという非常に奇妙なクライマックスに出現する自転車もその後の役割付与からして余りだし、あるいは、イハの住まいにいるとき、イハが映画に使う白布を確かめたいからと青に言い、お茶のコップが並ぶテーブルの上に、青に片方の端を持ってもらって白布を拡げたとき、その白布自体がレフ板効果を持ってイハの顔を明かりさせたのだが、そのショットの崇高な美しさもドラマのストーリーのどこにも帰属しない点で、これまた却って忘れられなくなる余りなのだった。
 
総じていえば、映画の全体はそういった余りに溢れ返って、作品構造の脱中心性をしるしづけ、しかも作中のすべての偶有性の感触がどう設計されているかを考えさせ、結局、今泉演出の緻密さ、それと共同脚本の大橋裕之の企みの斬新さに、観ながらにして、掴まれまくることになる。これは、観たことのない映画だ。各シーンの連結が一見弱く、しかもそこに現実的な伏線が張られ、その回収の手わざそのものに下北沢というか世界そのものがなつかしく現れるという点では、そう、前例のない映画なのだ。それでいて角度は異なるとはいえ、映画とはディテールだけだという宣言性では、この『街の上で』はおなじ今泉の奇蹟的傑作『愛がなんだ』を方法論的にもスタッフ的にも俳優的にも継いでいた。
 
この映画で眼が眩む理由は他にもある。主たる4女優すべてが良いのだ。まさにそれは過剰に属することだった。ところが、先程記したように、メンソールタバコの女も、珉亭にいた回想のフーゾクのお姉さんも、さらにいうなら恋人の告白用の服選びに意に添わぬ助言をする女も、魚喃キリコ聖地詣の当事者と案内者の女たちもともに良いのだ。なんという、余りに満ち溢れた映画だったのだろう。幸福にならずにはいられない。
 
5月2日、札幌狸小路のサツゲキにて鑑賞
 
 

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2021年05月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

椅子

 
 
【椅子】
 
 
かおはおおまかに椅子のぶるい
より精確を期せば坐面なので
ふきわたるかぜのようなものに
すわられてぬれながらにじむ
 
からだも椅子どうよう脚あって
すわられる、がたえずうごき
そのいたましさで常づね裂けている
 
そんざいのほんしつが粗相なら
うごかないものひとつがえらばれ
 
たずねびとは、こしかけよ
地平をまえに事と無縁の
椅子一脚のみがとおくまします
 
 

2021年04月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

施主

 
 
【施主】
 
 
あぶみか鞍か、かぜがふき
たづなのゆるみも
ひとからひとへゆれていた
 
円いうごきが救いなら
駆ることなく歩をすすめ
たかく両腕をひとまわしする
操舵と制御がおきた
 
くろさだらけのおくゆきに
くるまざの
ひくいさみしさがあった
 
ゆくものの腕と坐るものの円
ふたつさみしさがあった
 
 

2021年04月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

廣木隆一・彼女

 
 
ネットフリックスの独占配信映画、廣木隆一監督の『彼女』、とても良かった。ドメスティックバイオレンスの夫を殺してもらった女(さとうほなみ)と、その殺した当人の女(水原希子)同士の逃避行なので、大枠はリドリー・スコットの『テルマ&ルイーズ』を髣髴させるのだが、当初予想していたレズビアンカップルの道行ではなかった。現在29歳と説明される水原とさとうの相愛には偏差があって、それが彼女たちと全然似ていない高校時代に設定された子役たち(水原の子役が南沙良、さとうの子役が植村友結)のエピソードを皮切りに語られるとき、運命共同体となるべき女がふたり並んでいるときの揺れや隙間がとても映画的で複雑に映った。「女がふたり並ぶこと」を極められなかった『さよならくちびる』とはぜんぜんちがう。ふたりをたえず風景が囲み、クルマやバイクでの移動によってふたりの背景が流れると、それが偏差と一体化のあいだのゆれとなって、説明しにくい情緒を放ちだす。子役が全然似ていないことはおそらく故意によっており、そういう隙間に、作品は世界をみて、その世界を揺らしていると言えばいいのか。レズビアンとはなんだろう、と観ながらふかく考えを巡らせてゆくことにもなった。たぶんその世界には「念」と「承認」の神秘的な背反がある。
 
展開が偶有性にみちている。それは俳優の出現にも現れた。真木よう子、烏丸せつこ、田中哲司、鈴木杏などは出現してからすこし経って役柄と性格が了解され、水原希子との関わりが濃淡さまざまに判明してゆくのだが、それは世界のディテールを見るときと似ている。子役と成人役が似ていないことと、作品が世界のディテールと似ていることとが相関していると気づくと、これは傑作だという昂奮が高まっていった。最初のノワール感覚にみちた殺人シーンから大胆に裸身を披露する水原希子は、これまでずっと苦手だったが、最終段階以外は実存感覚があって、初めて好きになった。それよりもさらに、これまた大胆に裸身を披露する、しかもレズビアンに「入ってゆく」さとうほなみの表情変化に息を飲んだ。ゲスの極み乙女。のドラマーと言って、イメージが結ばれるだろうか。仏頂面に刻まれる微表情がたえず良い逸材なのだが、その良さが初のレズビアンシーンで水原希子にも逆転的に反射してゆく。本作で最も夢幻的なシーンだ。そうした表情変化と、たとえばタクシー運転手の田中哲司が、逃避行を察し、水原、さとうを送り届けた地方の駅舎の空間性、そこでさらに起こる展開などに感動することになる。変化への感動という点ではすべて統一性があるのだ。子役の植村友結が陸上競技スパイクを万引して、それを追っていった南沙良がスポーツ店の店員たちともどうからむか、あるいは逃避先の別荘の二階からさらに逃げるために水原、さとうのふたりが揃って爽快に飛び降りたとき、そこにさらに鈴木杏がいることで何が上乗せされたのか。作劇の眼目は田中哲司をふくめ、「さらに起こること」にたえず置かれていて、それが世界と同等のひろがりの感触をあたえているのだと気づいた。
 
廣木隆一に関してはその近作を観なかったり観たりしているが、女ふたりが同一空間を占めることの魅惑という点では大傑作『ガールフレンド』と肩を並べ、同乗者ふたりのクルマの走行描写にかぶさる音楽の心地良さでは『ヴァイブレータ』と匹敵する面もあった。神技の撮影が桑原正祀、原作が中村珍、脚本が吉川菜美。吉川の脚本はノンシャランとみえて、じつは精緻を極めている。さりげなさや逆転に記憶の負荷を刻む方法論が貫かれ、局面局面が意想外なのに親和的なのだった。だからいずれ脈絡を忘れてもそのディテールを懐かしくおもいだすだろう
 
 

2021年04月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

三角みづ紀・休日に

 
 
嬉しいことがあった。ぼくの北大の教え子(修了生)で、上海で書籍編集をやっている唐詩さんが、中国版「花椿」掲載の詩篇等を翻訳していることが、三角さんの投稿でわかった。しかも偶然、今期の北大の授業第一回で、三角さんの授業をやったばかりだった。なんかひとり盛り上がってしまったので、その授業のハイライト部分(zoomで資料共有のパワポ)を以下に抜いておきます。三角さんの第一詩集『オウバアキル』中の詩篇「休日に」のこまかい読解です。やや長いけど、ご興味のかたは読んでみてください。
 

 
【休日に】三角みづ紀
 
薬が三日分しかなくて
どうしようもない夢をみた
男は手紙とカメラを残し
女を追って去っていった
私の体のはんぶんは
石膏でできていて
どうしても二人を探せずにいて
わたしのいちばんだいじなところから
一番大事なことは放射されずに
空は青かった
風は無かった
たばこの煙はあくまでも真っ直ぐに
(まるでお焼香のように)
のびていく
男のカメラは
未だここにある
使い切ったフィルムが
入っている
私は確かに
男を愛していたのだが
フィルムを現像できない怖さと
どうしようもなさが
平行して
休日に
乾きすぎた洗濯物を
たたんでいる
 
 
 
●「休日に」分析
 
《薬が三日分しかなくて/どうしようもない夢をみた/男は手紙とカメラを残し/女を追って去っていった》(1行~4行)
・1行目「薬」は精神安定剤か、睡眠薬かはわからない。薬を処方されるまでの猶予がもう三日分しかない切迫が伝わり、やっととれた眠りが浅いということだけがわかる。「私」の(精神)状態が劣悪だという様相が伝わってくる。2行目「どうしようもない夢」の内容もわからない。過去への執着をしるした神経質な夢か、あるいはそこに憎しみがかたどられていたのか、さらには性夢だったのか。いずれにせよ、投げ捨てたようなこの書き方によって、自己執着と自己放棄が綯交ぜになったような、絶望的な現状が浮かんでくる。
・3行目4行目。「私」から去っていった相手(おそらくそれまで同棲していたのだ)は、置手紙を残しただけで、ことばで綿密な弁解もせずに、「私」が寝ているあいだに去っていったと読める。ハードボイルドな文体。粉飾が剥ぎとられ、乾いている。「男」というこの呼び方から、「男」の冷たさとともに、「私」の冷たさも伝わってきそうな気配だ。
・「女を追って」という挿入節により、別れ・破局の理由がわかる。「男」は別の「女」に乗り換えたということなのだが、もっというと、元々の男の浮気性じたいが別れの原因だったということができるかもしれない。この書き方から、潤いのない共同生活をそれまで「私」は「男」としていたようすがかんがえられる。
・「カメラを残し」が要点。「男」はたぶんカメラ撮影が趣味だった。撮っていたのは、風景か日常生活かあるいは「私」か「女」か。東京造形大学にかよう三角みづ紀の周囲には、美大系の写真好き、カメラマン志望者は数多いだろう。要らぬことだが、そんなことまで予想してしまう(このぶっきらぼうな書き方は、かえってそのような詮索へと読者を誘導する)。のちに男が何を撮っていたと考えるべきなのか、それが問題となってゆく。
 
 
 
《私の体のはんぶんは/石膏でできていて/どうしても二人を探せずにいて/わたしのいちばんだいじなところから/一番大事なことは放射されずに/空は青かった/風は無かった/たばこの煙はあくまでも真っ直ぐに/(まるでお焼香のように)/のびていく》(5行~14行)
・6行目「石膏」も美大系には親しい。その冷たさ、可塑性、さらには乾いたときの固定性、あとは割れるしかないこと。しかし「私の体のはんぶんは/石膏でできていて」と語られるとき、「はんぶん」は含有率の問題か、部分の問題か、判断の選択が起こる。後者だろう。そうなっても人体を「はんぶん」に区切る基準が、上下なのか(すなわち上半身/下半身)、左右なのか、前後なのかと考え、混迷に導かれる。「私の体のはんぶんは/石膏でできていて」にはそれじたい迷宮をふくんだ感覚があって、「はんぶん」のひらがな表記に不可思議が籠められている。しかも全体にハイブリッドにまつわる緊張がある。
・「男」が「去っていった」あとの「石膏」だから、石膏は運動停止、冷たさ、やわらかさを喪った不如意、硬直などを印象させることになる。使われているのはむろん比喩だが、暗喩の婉曲性がなく、直截的で、「ありうる」修辞ではないか。
・石膏の導く「停止」により、7行目「どうしても二人を探」すことができないでいる。「私」は茫然と、人間にありうべき意志を喪って無為に陥っているだけだ。感情的な行動(男を追う/非難する、など)もとれずにいるのは、もともと「私」が無気力だからか、いま疲れきっているからか、あるいはプライドを保っているからか、これらもこのすくないことばからでは、確定することができない。「私」の属性をしめす修辞は冷徹に剥ぎとられ、ただ事実だけが最小限度で書かれる。詩作に必要なのはゴテゴテとした修飾ではなく省筆の勇気だろうが(そうすることでこそ書かれる細部の関係性の本質に迫ることができる)、三角みづ紀はそれを実践している。20歳そこそこにして詩から夢想をとりさっているこのきっぱりとした態度は、とても老成しているのではないか。
 
 
 
・7行目を「どうしても二人を探せずにいて」と、連用形の行末にしたことが作用する。以後、逸脱が起こるのだ。自己制御の不自由をかこつ詩の主体は、以後、連結できない「別次元」を連用形行末の連鎖によって(だらしなく)連接させる「修辞の誤り」を敢行する(このズレの生起は換喩的とよべる)。とりあえず「類似」を原理とする暗喩ではなく、「隣接」を原理とする換喩が三角詩の法則だろう。換喩は隣接の勢いにのって論理的な誤謬をおかし、たえずズレる。このズレによって、別の空間・時間を生動させる。しかもその生動の瞬間には「現下」しかないような臨場性を極めてゆく。
・8行目9行目「わたしのいちばんだいじなところから/一番大事なことは放射されずに」では8行目の「ひらがな」書き、9行目の通常の漢字ひらがな併用表記が対照される。「ひらがな」使用によってゲシュタルト崩壊を導くような恫喝は三角詩では数多く起こる。
・「わたしのいちばんだいじなところ」は一種の迂言法。それはどこか、という判定が読者には反射的に起こるだろう。一瞬、性的な妄想がよぎるが、模範解答的にそれを「こころ」とすると、9行目の「一番大事なこと」とは感情、つまりプライドを投げ捨てて懇願したり哀訴したり非難したりする切迫のことだと類推されてくる。「放射されずに」ということは、それらを「わたし=私」は外化しなかったのだが、それが意志によるものか阻喪的な不能性によるものかも判別できない。
・しかも9行目の行末「されずに」でまたもや断言=言い切りが回避され、「連用」状態で結びつけられた次の詩行がズレて生起してくる。そのときに「私」以外の「別の主語」が、「私語り」がもともと不可能だったように次々と短い単位で連続してきて、畳みかけをおこなう。10行目「空」、11行目「風」、12行目「たばこの煙」。感心するのは、「空は青かった/風は無かった」で、「私」が経験した人生上の一大事にたいし、「空」「風」つまり世界が無関心で、「私」の欠落をしめすように世界にはいつもとかわらぬ静穏がたもたれているということ、それがさらに召喚されてくる動勢だ。
・無風の室内、あるいは無風のベランダ。12行目~14行目「たばこの煙はあくまでも真っ直ぐに/(まるでお焼香のように)/のびていく」からは詩的主体がたばこに点火したものの、それが吸われずに灰皿に置き去りになっている無為の気配が伝わってくる。この無為は危険だ。自己の追悼につながり、その事実が自らの死体性を事後確定するためだ。13行目、丸括弧で挿入された(そのことでそれは遠慮のようだが、実際は丸括弧の中身が可視的に遊離して却って目立つ)「(まるでお焼香のように)」という直喩の不吉さが際立ってゆく。
・それでも煙が描く「のびていく」という動態には、ことばどおりの伸張の肯定性も同時にまつわる。
 
 
 
《男のカメラは/未だここにある/使い切ったフィルムが/入っている》(15行~18行)
・映画のひとコマのようだ、というありがちな印象は、あながち間違いではないのではないか。映画作品はその叙述が正しければ、「一旦映ったもの」にやがて役割が与えられるが(たとえば室内描写で一旦捉えられた電話機は、いずれしかるべき場面で鳴るということ)、ここでは3行目に出ていた(男の残していった)「カメラ」に再スポットが当てられる。問題はそれがフィルム装填状態のままだということ。とすると、それは去り際に「忘れていった」のでなく、文字どおりに「残していった」のではないか。つまり残っているフィルムを現像し、なにが映っているのかを確認せよ、というメッセージが存在しているのではないか(残されたカメラから装填されているフィルムを取り出し、それを現像することで時間が恢復するディテールは、最近の映画でいえば大根仁監督『SCOOP!』にあった)。
・現像してなにが現れるかはむろんわからない。たんなる日常的なもの、あるいは美的なもの、あるいは「私」の像、さらには「男」の秘密をしめすような相手の「女」の像など、可能性はさまざまだろう。その「さまざま」が却って不安を駆り立てる。
・17行目「使い切った」は「フィルムの最後まで撮り切った」と捉えるのが自然だろうが、文字どおり「蕩尽」の意味合いをも引き入れてくる。ちなみにポーには怪奇短篇の傑作「使い切った男」がある。
 
 
 
《私は確かに/男を愛していたのだが/フィルムを現像できない怖さと/どうしようもなさが/平行して》(19行~23行)
・「フィルムが装填されたままのカメラ」という具体的事物が契機となり、写真自慢の「男」のそれまでがふと蘇ったのだろう、「私」はそれまで放念されていた(無前提となっていた)「男」への感情を開陳する挙に出る。「確かに」「愛していた」のだ(19~20行)。性格かルックスか身体能力か、いずれにせよ「男」には良いところがあったはずなのだ。
・そうした良い記憶を台無しにするような、恐ろしいものが、フィルムを現像すると眼前に現出してくるのではないか。それは既知の過去から、未知の過去が分離してくる本質的な恐怖とも関わっている。
・21行~23行の構文は、実際は奇妙だ。というか意図的に熟していない。骨組だけを取り出せば、「怖さとどうしようもなさが平行して」となり、たとえば「共存して」といった語の斡旋のほうが適切だったのではないかと一瞬判断がもたげる。だが、「平行して」は5行目「はんぶん」と遠く交響している。同時性が交わらないことと不即不離になる状態が「平行」であるなら、そこから「はんぶん」であることの不如意が分泌されるし、既知の過去と未知の過去の縒り合わせは、平行世界(パラレル・ワールド)の伏在とも意識内で関連づけられる。
・「どうしようもなさ」には多様なふくみがある。「それをできないこと(不可能性)」「自己感情を平伏できないこと」「私自身をとりまとめられないこと」「何かを望んでも詮無いこと」などがこの一語の背後に取り巻いているのではないか。言いおおせないものは、言いおおそうとせずにそのまま書くというのも、三角みづ紀の流儀だ。推敲彫琢の痕跡はさほど感じられない。それよりも発語の速さによって詩行空間の動態を提示するのが彼女の眼目だろう。
 
 
 
《休日に/乾きすぎた洗濯物を/たたんでいる》(24行~26行)
・24行目「休日に」は詩篇タイトルの典拠。詩篇タイトルになったくらいだから、「休日に」という日時の限定は作者にとって意味が大きかったはずだ。休日、恋人どうしは何かをわかちあう。ところが恋人に去られた孤絶者にとって休日は、自らが世界に空白だとしるすだけの虚無的な時間のうつわでしかない。ところがそこにこそ真の静謐がある、という主張が隠されているのではないか。その日が「休日」だったことで、この詩的主体が静謐に包まれて救済されたのだとすると、「休日に」という限定は、とてもおおきな意味をもっていたことになる。
・23行目は、「平行して」という連用的な行末だった。前段階はそうしてひきずられ、換喩法則に則ってここでもズレをもった連接がなされる。それが、男との別離に関連しない日常性の措辞、「乾きすぎた洗濯物を/たたんでいる」(25行~26行)。むろん本当は「私」は男に去られた衝撃で部屋にずっと茫然としていて、前日から干したままになって、シーツなどパリパリに熱くなった洗濯物を取り込むことすら失念していたはずだった。そこには「私」以外の平穏な「世界時間の進行」がかたどられている。だからこれは日常的な描写への復帰であると同時に、どこか暗喩的なフレーズの選択なのだ(たとえば「冷蔵庫に入っていたヨーグルトの/フタをあけている」ではこの効果は出ない)。しかも「乾きすぎた」はこの詩篇の文体の選択をも形容している。
・そして最後の行、「たたんでいる」。それが詩行の時間の終結にふさわしい動作なのはいうまでもない。むろん「身をもちなおす」「修身」という意味でも、「たたんでいる」は自己の苦衷を一旦閉じるにふさわしい動作でもあった。「私」は「整然」に復帰し、次を待機できるようになる。
・そうして危機は去ったのか。いや、カメラに装填されたままのフィルムを現像するか否かの選択問題はやりすごされたままだった。ということは、この詩篇の結末は、「たたんでいる」の整然化とともに、だらしなく不作為のまま問題を放置するという雑然化をも併せもっていることになる。この混色状態(の礼讃)こそが、三角みづ紀の態度選択だ。これが女性的かどうかはむろん結論できないし、断言好きといわれる男性の場合にも充分にこうした混色状態がありうるだろう。女性に受動性を負わせるのが差別的なことははっきりしている。
・それにしても見事な余韻をもつ詩篇の終わりかただった。読者はこの最終3行によってこそ、詩篇に現れている詩的主体を慈しむだろう。論理的にそれは三角みづ紀でなくても構わないのだが、彼女のことばの引力によって、読者は三角の生活とたたずまいにじかに触れた感動をおぼえるはずだ。抑制された省筆のなかに、力をもたげてくる生々しさがある。
 
 
 

2021年04月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)