ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

遊山まぢか

 
 
【遊山まぢか】
 
 
はなのたよりだけでもこの時期の
ここらあたりがさくらいろにかわる
点の分布ではなくいきている帯が
たてに列島を移動しているとわかる
その帯には叫喚や微醺やかくれがあり
ぜんたいが邪恋でひんまがっていて
なかにいるとだれもがうすあわく
かたるじぶんのまえにじぶんをこぼす
あることがおいかけることになって
それがかおりある回帰だとあきらめる
ひそかにうつくしく同調するのには
ころものゆれるのものぞましいが
数人とかぞえられるかくれでありたく
きみとよばれると興ざめしてしまう
せいぜいがながめのへりに身をゆらし
けんたいのように口端へときどきのぼる
ほどけた第三者でそんざいしていて
しぐさをしばらないのはひとにも
みずからにもたえずおなじだったから
たよりさながらながれてゆくのだ
それにしてもながれは北へとむかう
みやこおちしたひとのむなもとは
風いがいのなかだちでひかっているが
ちいさくかがやきでうずまいているので
そこへたよりがとどこおるにすぎない
なかみよりもうつりゆくがすべて
しかもだまってさだめられたすうにんが
べつのすうにんになりかわるのが
けむりにまなぶにんげんの秘法という
ほんとうはわれわれとはすうにんのこと
うたげではおもいつきを発句しあい
となりびととのべんべつをなくす
しみいるなにかが個性をうばいさり
うえでさくらがひろがっているものだ
かいながうでをよぶありかたの連枝
しゅうだんでいるとみえなくなる
この世のさくら以上にもみえなくなり
不可視のさかいのまじわりじたいが
帯でできたせかいを微醺している
ここらあたりではさくらよりもうすく
おうごんでひかりがなだれるだろう
 
 

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2017年04月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

一本

 
 
【一本】
 
 
まぶたふたつがおもくさがり
なみだぶくろが濃ゆくなる
くりやに立ってじぶんの手が
ひくさを掬うのをながめる
前方にたかさあるのをおぼえず
おれまがってゆく感覚がある
そびえているはずのものも
よこたわっているとおもいなし
ねどこへはこびいれてゆく
ろくなものをゆめみないまえにも
ひとの立ちすがたがすこしある
まぶたふたつがおもくさがり
ふうけいが檻のむこうとみえて
蝋齢にはそれでも縦にのびる
なにかの揮発へこころうばわれる
まといなくはだかであることは
ひとの死をおもいいたらすと
わかいむすめをわるくもちいて
かんがえにわるい信をいれる
ねむる寸前でくずれること
ならぶ空き壜のようにせかいは
うちがわだけでできている
核心が澄んでありつづけるのは
まぶしさだけでみたされた
へだたりがかつてあったため
うばう挙にまで出なかったのは
そこへ刃むかうふるまいが
根拠をうつろにしたからだった
ながければながいほどきれいな廊下
線になろうとおくゆきをすすむと
くらさすらふと発散している
どうぶつだったんだとふりかえる
くるみひとつをもってゆきつづける
ひとつをためらわずつたえようとする
蝋齢ではそれがみずからへむけられ
そんざいの不動におちついてゆく
うけとめるためのなみだぶくろ
かおの奥からそれをひく涙骨
うごきとしてはひきしおがつづいて
あらわになった川床もかおにある
くるみがてのひらからころがり
ないものをたばねるだけの
たった一本となりねむるのだ
そのためにおのれをまやみにし
したしたしたのひびきをきくのか
廊下でねむるふかいわざわい
 
 

2017年04月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

背後論

 
 
【背後論】
 
 
めのまえをとおくみはるかすと
いつのまにか背後に雨がふるとわかる
まえからはただ浸透があるだけで
あるきにおいては背後がのび
それが蕭条と降雨にしろくぼやけ
うしろからひとときを吸われるのだ
うしろはほそくしかもうすまり
身からはなれるほどにきえてゆく
あまみずつたうあさいぼんのくぼが
そんなさだめをおぼえつくす
くさのはえるからだの分布では
さけめをおおうかなしさもあって
盆と窪のであっているあたまに
かんがえのすぎゆく会陰をかんじる
からだをさかいにしてそのまえを
うしろへとながしいれているときには
こころからの感情がなくなっている
塔をたてていきるほこらしさではなく
筒をまよこにしつづけるおそれや
みずに砂糖のとけてゆくありさまが
つぎつぎにものおもいを襲いだし
かんがえがうごきをささえるならば
からだはあらわれよりさらに遅れ
そのあかしに背後がいわばうつくしく
からだいろの尾をひくことになるが
ところどころ横形が縦形をまねき
この世もみずからぬれるためにこそ
あめの枠組へあめをおおくふらし
ざんこくに存分に交錯しつくす
かなめのぼんのくぼをいためつけながら
ぜんしんのところどころを索引する
ひとのからだはしかし再帰性ではなく
その背後によってうごきつづけて
それじたいくるしいゴーストとなり
ぬらす二重のあめのなかさらに
ぬれる二重としていれられてゆく
とどのつまり雨の背後、ひとの背後も
移動のうちにひとしくなるだけだ
 
 

2017年04月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

小さな巨人

 
 
昨日から始まった、TBS系の日曜ドラマ『小さな巨人』、すごい。みていて、肩や眉間に力がはいる。『半沢直樹』メソッドを、本庁捜査一課vs所轄の枠組でやる新機軸。ハイテンション、シーソーのような逆転つづきの超アレグロ展開、陰謀感どろどろ…やっぱりそうなると「最大悪役」が香川照之になってしまう。
 
本庁から所轄に落ちるエリート長谷川博己は、片眉をつりあげて顔を左右非対称にする演技を多用(『夏目漱石の妻』でもやっていた)。『半沢』堺雅人とちがい、ポジションのゆれる不安定感も面白い。「倍返しだ」的な決め科白、いつ出るか。見得を切って発声される香川の「その勘に覚悟はあるのか?」が良い味だった。岡田将生のバリューと役柄が見合っていないのは、今後への伏線だろう。安田顕(またも役得)や手塚とおる(またも悪役)や落語家(今度は春風亭昇太)もこれまでどおり出ている。
 
今クールのドラマは刑事系と原作少女マンガ系のガチ対決だ。前者には上記のほか『4号警備』『犯罪症候群』(これ大傑作)『CRISIS』、後者には『人は見た目が100パーセント』『ボク、運命の人です。』、それにもうじきはじまる波瑠主演の『あなたのことはそれほど』がある。なんと、不倫する人妻の役らしい。情感の薄いのが味なのが波瑠だが、さてどうなるのか。
 
 

2017年04月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

対面

 
 
【対面】
 
 
どうしてちかくにみることが
顔をわからなくさせるのだろう
ひかりに疲れたそうもくのように
ほつれているさまの全体なのが
それをひらかれた憔悴へとかえて
目鼻をひとつのおとろえにゆるがす
きれいでもかなしさをつたえ
みえるかたちは痕跡にすぎない
ふくらみでもさけめでもなく
つまりはわけられる部位でもなく
集積のなかに集積がかくれるだけで
ほおやひたいがかがやくのすら
はだをもつ肉が芯をめぐりながら
顔のときのまを憂いているのだ
テーブルは顔へのまあいをつくり
ひとのおさまるその気配もしずかで
くびが顔をたてているときにも
からだからのひかりの反映が
ひとみをしろく抹消させている
きえゆくものが髪のながれにあり
顔のかこまれかたはたとうれば
じかんの箱庭を標定するだけ
ねむけをたつまばたきのもたらす
ときのきざみも顔のじかんへ
およべぬさざなみにすぎないなら
顔がなんら水面たることもなく
むしろ汲まない井戸の涸れる
不作為のふかみをしるすだけだ
顔をながめておもう、顔がないと
単一でないさまのうしなわれる
そんなおんがくてきなこと以上に
ありのままながめられてゆく
ものである顔のすずしい固着が
表情からごくわずかにくずれるのを
顔以外からのはるかさとした
おのれになにひとつ作用しない顔は
作用なき対象としてあらわれて
みずからに似ることだけをおこなう
せいよくにまとめられない感情が
つつましいおおきさでひろがっても
うしろに顔はおきざりにされる
けれどすこしずつさらにちかづき
性質がべつのなにかでまぜられると
はじめてためいきもあらわになる
きっと対面者のなにかが映ったのだ
はんぶんだけ顔から不如意がなくなり
はんぶんがうつくしかったりする
 
 

2017年04月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)