瀬々敬久監督・護られなかった者たちへ
瀬々敬久の新作『護られなかった者たちへ』は連続殺人事件の犯人を追う、意外性を孕んだ刑事ドラマだが、内実は仙台を舞台に、東日本大震災の惨禍と、「生活保護」の問題をからめた悲劇のアマルガムだった。主要人物たちは辛い過去によって、現在の困難のグレードをあげられる。映画の話法も現在と過去の複雑な往還となる。実験精神を前面に出していたかつての瀬々映画なら眩暈を起こすような時制シャッフルがそこで活用されたが、いまの一般化した瀬々映画では、過去がどうズレを伴って現在化してくるかが話法の肝になる。フラッシュバックが結果的な転轍器となる。こうしたズレが蠱惑となり、人物の真情の厚みを作る。そういう時間悲劇論の文脈でこそ瀬々映画を捉えるべきだろう。
この映画の過去の原点は、大津波が引いたあと、避難所となって無数の被災者が集まる小学校の校舎だ。泥水が建物を満たしたという近過去の美術表現が見事なリアリティを持っている。記録映像に映画の人物が割り込んでいると錯覚するほど。美術で息を飲ますのは『アントキノイノチ』での孤独死の現場表現にもあった。この映画のテーマ、「生活保護」も人間の過去と現在のアマルガムとして捉えられている。生存権を主張できる最後のセイフティネットという建前に対し、人生の「自己責任」を追及される資本主義的負債だという二面性。矜恃のためにそれを拒否したい複雑な窮民の心情、適用の遅延を作品は焦点化し、この社会問題を立体的に捉えてゆく。
配役価値にズレがある。生活保護に携わって、困窮者を「護る」社会の善意に満ちているように当初みえる守護職役の永山瑛太、緒形直人は開巻早々に、廃屋で固定監禁され餓死に導かれた無惨な死体姿を描写される。やがて彼らの福祉保健事務所時代の困窮者への対応が描写されると、そこから深い諦念と冷笑が滲み出してくる。いずれにせよその無惨な殺され方は彼らの俳優価値からは倒錯している。しかもその殺され方と死体発見場所に犯人からの当てつけめいたメッセージがあると気づくのは映画の進展がかなり経ってからだろう。
主軸におかれるのは避難所で孤独をかこつ佐藤健。やがて同じように孤独をかこった倍賞美津子、さらにはちょっと天使的な少女の「カンちゃん」と疑似家族関係となる。彼はやがて放火事件(その真相は作品が終わり近くになって明かされる)で服役し、模範囚だったゆえ刑期を短縮され仮釈放で仙台に舞い戻ってくる。三白眼の鋭い目つきを多用した表情に、護られない者の危なっかしさが体現されている。子役のカンちゃんは長じて清原果耶となるが、その前に描写される現在時制で、阿部寛、林遣都の刑事たちに生活保護の現状を観察させるセンター事務員としてすでに画面に現れていて、彼女の言葉からこの制度の複雑な問題点が立体的に現実化されている。義憤がつよく印象にのこる。清原果耶は高校生時代とともに、現在の前髪を横分けした事務員姿が描かれる。現在時制では実年齢より上の役だが、難なくそれをこなす。何という懐の深い演技力だろう。
連続殺人事件の真犯人が誰か、動機が何かは、ストーリー進展上、ズレを伴って判明してくる。主要人物に滲んでいる過去の負荷により、因果がゆがむのだ。つまり、この映画でのズレは、倒錯であり、厚みであるが、これらこそが映画の組成要件と気づく必要がある。厚みといえば、やはり瀬々映画の符牒、「水性」もそこに関連する。地面に倒された佐藤健は顔半分を泥水に浸して呪詛を叫びまくる。逃走する佐藤健を追う刑事の阿部寛は、架線区の何重もの線路に渡された跨線橋を駆けるが、その際の自然の豪雨もまた、跨線橋の物理的な高さとともに、映画の厚みと言うしかない衝撃力をもつ。
俳優たちのやりとりにこんなくだりがある。「もう終わりにしよう」「もう遅い」。英語にすれば、“let it over” “it's too late”。この時制のitにこそ実は忿怒の斧が振り上げられている。現在と過去の時制が交錯する映画で最終的に現れるのは、永遠相をもつとするにはあまりに即物的かつ無名的な、このitなのではないか。それは現在でも過去でもない、ただitと口にするしかない失語の時制なのだろう。
8月23日、狸小路サツゲキ地下試写室にて鑑賞。10月1日に全国公開される。原作は中山七里の同題小説、脚本は林民夫と瀬々。
2021年08月27日 阿部嘉昭 URL 編集