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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

松本秀文の少女



(承前)
「図書新聞」用、井土紀州監督『ラザロ』三部作評の
原稿執筆・送付がいま終わったので
昨日のつづきで松本秀文『鶴町』についてこれから書きます。



「鶴町」的な多孔質空間に出没するもののなかで
「犬」の次、僕の視覚に強烈に灼きついたのが「少女たち」だった。
変幻性に傾斜する時空に出入りする者たちは
むろんそれ自身が変幻可能性を注入される。
「少女たち」に関しては決定的なのが、71-72頁の次の聯だろう。



「非=停滞」という名の三角ビルの屋上で
同じ顔をした少女たちが 愉快に/不愉快に踊る
不協和音の中でペラペラの薄さになって 不完全燃焼を繰り返しながら
毒と蜜を吐き出しては 「オリジナル」になろうと
もがいている



しかし「少女たち」は決して「オリジナル」になれない――
これが『少女機械考』で少女を考察した僕の結論のひとつだ。
論旨の反復になるが、こういうこと――

資本運動はその機械性において
死と一緒に少女性をも「機械的に」増殖させている。
少女をおもう者は少女になる。
少女の触れるものも少女性になる。
よってそれは単数化から常に逃れ
たえず「複数」、つまり「標的性を欠く標的」として
(脱)定位されるものにすぎない。
少女性を「欲望」対象とさせるには
こうした布置こそが大事だと既に資本が知っていて、
資本運動は自らの時間性の波を少女性にすら変え、
いまや自身を高度に資本化=少女化させるにいたっている。

少女は「消費主体」であって、「生産主体」ではない。
だから「死」さえも自らの領域に書き込もうとする資本にとって
「消費単体である死」=「少女」こそが欲望のイコンに相応しい。
自己目的的な運動を継続してゆくだけで
自己拡張という資本の単純使命が果たされる。
その運動のために刻々の少女のすげかえが必要だ。それだけ。

このようにすげかえの効くものにはオリジン性がない。
というか、「初期決定」されたのちの
運動の抽象状態であるしかないこの資本主義下では、
すべてに亘り、もう「起源」など存在していない。

個別性を脱色され、複数性のつくりだす「領域」としてしか
いまや認知されない「少女性」においては
もう個別差異すらなく、それらはすべて「同じ顔」「同じ躯」
「同じ肌」「同じ膣」で存在しているだけで
(古屋兎丸『ショート・カッツ』を想起のこと)、
しかも回転装置がその運動を下支えしている現在では
少女はセックスによる少女性の消滅によって
むしろ自身の少女性を補強する逆説をも生きている。
ここにもまた「オリジン」不在の根拠があるだろう。

まあ、僕が拙著で詳述した「少女機械」についての考えの骨子は
およそ以上のようなものだが(ドゥルーズ的「機械」論の転用です)、
上記・松本さんの詩句も僕の考えを精確に反響している。
松本さんは『少女機械考』ではなくたぶんドゥルーズ=ガタリ、
とりわけ『アンチ・オイディプス』を読んだのだろう(笑)。



もちろん、松本さんは僕の世代以上にサブカル狂だろうから
その少女性描出にはアニメ的な悪夢がさらに混入してくる。
たとえばエロチックで大好きな聯に次のようなものがある(82頁)。



少女Aは「自分」の平和なベッドに
怪物を招待しようとしている
少女Aの可愛らしい性器には
血まみれの戦車が溢れている

[※連接容易性を体現する少女自身は
怪物と自らをも容易に連接させるだろう。
それが自らの怪物化の実現なのか
怪物の少女化を志向するのかはもう争ってもしょうがない。
また「少女A」の表記は匿名的・犯罪的・愛者を志向した
中森明菜「少女A」へのオマージュというより
少女本来の殺伐とした無名性・代入可能性を示唆するものだろう。
性器に溢れる戦車は、少女の少年への変転可能性や
「有歯膣」幻想の現在的転変を告げてもいる。
ただ「平和なベッド」の一語でこの聯は
一切が少女自身の夢想の領域にあると告げるかのようだ。
この夢想性が松本さん自身の夢想に反射しているからヤバイのだ]



頁を追ってゆくと『鶴町』初期段階では
「少女性」は松本さん自身の孤独な「少年性」の、
「定位された」対象物――そんな色彩も濃いとおもう。
たとえば以下(45-46頁)。



「CONVENIENCE」という鋼鉄の城
不眠症の発光体
「この世界に傷つかないでいられる場所はないの?」
閉塞する日常のくすぐったい息詰まり
闘争する少女たち
鉄パイプを片手に町を駆け巡る

戦闘少女セノビちゃんは
あらゆる「背後」と戦う
最後の敵キャラは
いつまで経っても現れない

あらゆる「COPY」が
個室で
つめたい自分をあたためている
濁った路上で少女が飛ばす
「WONDERLAND」のシャボン玉
「ヒロシ君とセックスしたいな」

[※掲出3聯はすべて細罫囲み、
1聯3聯が網かけ、2聯が尻揃えのレイアウト。
思想的な参照はブルセラ少女に向けられた
宮台真司「終わりなき日常をまったりと生きろ」の
「まったり革命」と、
斎藤環が論じた「戦闘美少女」の錯視的融合ではないか。
ただし斎藤は、美少女の戦闘性を
無為なおたくの力弱さの願望投射(代行性)としたが、
松本詩の少女はもっと「自体的に」生きてもいる。
それで「少女」が現実とモニター画面上に
フラフラ揺れる幻惑を演ずるのが、聯の運びの妙だろう。
掲出3聯目の最初の3行はシンプルだが素晴らしいとおもう]



むろん松本秀文の少女は電気体だ。
それはリラダンの自動人形のように火花を散らす。
ただリラダンの時代的制約では
火花は梳る髪に出現するほかなかった。
この時代ではもっと淫靡な場所に火花が散るが、
それは淫靡すぎて、火花の存在も証明できないような
秘儀の領域へと立ち入る(笑)。
たとえば短詩として【火花】とタイトルしたい次の聯(67頁)。



通りすがりの戦闘少女のスカートの中で
点滅しながら侵入した蠍が
少女のフトモモの念力によって
ふわふわと「存在」を消去される



松本秀文が少女性の認識論・状況論の提示にすぐれているのは
以上のような引例でよくわかるだろう。
ただ、前回の「犬」に対してのような
悲哀と危機に満ちた「同調性」によって
読者を真に圧倒する局面はないのだろうか。
やはりあった――。
「鶴町」中、(メタリック・フルーツ)と断章化された部分。
「機械仕掛けのオレンジ」をふと錯視するこの「金属製果物」は
むろん「少女的組成」への賛辞を形成するものだろう。

ラスト2聯を割愛し一篇の詩として引用してみる(109-111頁)。
詩行のなかに畳みこまれ、
角度を刻々と変えてゆくこの少女性の継続描写は惑乱もしていて、
その惑乱そのものが哀しくもある。
少女はだから実は平面還元できない立体像をここに結んでいる。

その点、実は僕には既視感があった。
ベルメールの挿絵を想定して書かれた
マイナー・シュルレアリスト、ジョルジュ・ユニェの詩、
『枝状に刻みこまれた流し目』がそれだ。
この詩は『夜想2号/ベルメール特集』に松浦寿輝訳で掲載された
(僕の『精解サブカルチャー講義』にもその抄録引用がある)。

あ、もう一個、以下の冒頭にも注意を――
以前の掲出例にもあったが、
松本秀文においては「三角」と「少女」が強迫連合するのだった。
なぜなのだろう。Hな何かがあるんじゃないか(笑)。



三角形の家に
鉄のドーナツを頬張る眼鏡少女たちが群れている
少女たちは楽器を
肉の突起ざわめく身体に埋め込み
楽器になろうとしている

身体的な改造を
物質としての至福と考えている少女たち
(変身はいつも
外部へ向けて視覚化されなくちゃいけないの)

バラバラになった「自分」

不安定が安定化してしまった少女たち
(不安という不可視なもののために
このまま黙って死んでなんかいられないわ)
ピストルを片手に男から性器を奪い
草原で埋められない「自分」という「穴」へ
「恐怖」を笑いながら挿入する
それだけが世界への最も狂おしい「接近」である

オブジェ的思考の爆発

アクビについての対処法を
宝石店の真珠のネックレスに問いかけ
アンモナイトの形をした通信回路を使って
星になれなかった先祖たちの声を集め
逃走する魂の記録を追いかけながら
今日も昨日のようにふわふわと死んでゆく

バラバラになった「自分」

「自分」というものが砕け散っていることを
認識できない少女たち
血の色のシャボン玉の内部で
洪水のようにふざけてみたりして
消えないために消えるための準備を
冷静に行うことは愚かに優れている



「自涜」「自傷」の現代性のイメージがつよいが
4聯目に僕は往年のルー・リードも想起した。
『ベルリン』所収、「キャロラインの話2」がそれ。

音楽ついででいえば三村京子に
僕の『壊滅的な私とは誰か』(部分)とともに
オープンチューニング伴奏で歌唱朗読してもらいたい詩だ。
あ、『壊滅的』は「阿部嘉昭ファンサイト」にアップされてます。



ただし、僕はもう齢なので、少女に関しては煩悩を絶ちたい(笑)。
つまり僕の「泣ける」ポイントは
僕自身をも包括する「祝言」「大団円」のほうへとズレだしている。
ところがそんな詩句をも松本さんは書き付けていたのだった。

横に組まれた、25-24頁の「虹(化石こそ生きている)」。
この詩は、時間表示を施された一日単位の、
松本さん自身の備忘録の体裁を一見しているが、
時間泥棒-脳内での鳥の失墜、等、ゴワゴワした変転幻惑を打出す。
たぶん単独詩篇としてはいちばん安定感と客気を謳われるだろう。

その最後の3聯を以下に引用するが、
僕が「泣いて」しまったのはむろん最終行の祝言だった。



6:00pm
黄昏が来ないほど町は盗まれている

10:00pm
眠れない音楽を持つ女を抱く
女は時間の砦で踊っていた崖だ

0:00am
「鶴」のように女は光る泥の虹だ
女の手を虹のようにあたためる
この世は女の虹を讃えるための庭だ



以上で、「鶴町」から蒐集した別の動物「少女」「女」についての
僕の拙い考察を終わります。
結果的に「少女」を「犬」と同列の動物の位に置いたことになるが
僕は何の痛痒も感じていない(笑)。
おそらく松本さんもそうだろう。

前回の日記にも書いたが、松本さんの「鶴町」には
さらに多様な種類の「動物」が出没してもいる。
その「動物誌」を綴るような作品分析が可能なのではないか?
――バシュラールがロートレアモンにやったような。
誰か奇特なかたにおまかせします。
これがホントのmixiバトンだ(笑)。

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2007年06月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

松本秀文の犬



いずれ詳細が決定し、やりとりが進みだしたら
この日記欄にもしるすことになるとおもうが、
森川雅美さん、久谷雉くんらと画策した
ネット上の「連詩大興行」で、
僕はこれまで誌面上の名でしか知らなかった詩人歌人と
いま次々に(メール上の)交友を開始している。
そのなかのひとり、松本秀文さんについては
僕が悪戯で「詩手帖」に拙詩を投稿し掲載されたとき
同じ投稿欄に彼の詩も選ばれていて、
そのラディカルな作風を意識していた。

その松本さんが詩集を送ってくれた。
『鶴町』(思潮社刊/06年11月)。
不勉強な僕は、松本さんが投稿を続けているものだから
まだ詩集を出していないものとばかり錯覚していたのだが
何とこれがすでに第二詩集だった。
すごく面白く読んだ。
以下はその感想。メモ書き的になるかもしれないけど。

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2007年06月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

石田瑞穂のように



立教文思一年生向き「入門演習」でのこと。
石田瑞穂『片鱗篇』のレジュメを
一班から提出発表してもらったのち、
僕が出した課題は、やはり前回の荒川洋治と同じく
「石田瑞穂のように詩を書いてください」だった。

難度の高い語彙を蒐集し
(これは辞書をアトランダムに開く、
などの対抗策を用いてもいい、といった)、
全体で「謎」を組織しながら、
しかもリズムをずっと言葉の流れに打ち込むことで
「解らないのに魅惑的な」詩を書いてほしい、と。



――なぜ、こんな要求が罷り通るのか。

僕はかねがね、詩への「創意」は
詩への蹂躙に似た面ももつ、とおもっていて、
「純真な」(笑)学生にこのような課題をやらせると、
とくに詩の可能性が忽然と見え出すのではないか、
と期待したのだった。

詩の創造は、詩の捏造と本当に区別ができるのか。
たとえば既存の詩に置換を繰り返すことだけでも
「全てを包含する」詩はそれを詩として許容するのでもないか。

参照系というものがある。
創造者にとっては、それが多く「既存作品」となる。
その参照系への距離が近すぎるとたとえば盗用等の問題も招くが、
参照系自体を分断し、
参照系同士の個別距離に「遠さ」を組織したときには
その際の人工的手つきが証拠隠滅され、
それは「独創」と選ぶところがなくなるだろう。
ということは、辞書のシャッフル使用などは
そういった創造に向けての方策となるともいえる。

むろん人はそのシャッフルの経験をすぐに忘れる。
すると、あとに残るのは崇高な偶然性だけになる。

むろん、石田瑞穂さんの詩は、
全くこのような手続きで書かれたものではない。
彼の詩は、謎とリズムの組織に向けて
ずっと緊張した意志を貫いていて、
その意志の強さにも読者はもってゆかれる。
ただ、石田さんと近似的な詩は
上記のような方法を用いればできてしまうはずだ。



実験結果は、いつもどおり、やはり面白い出目を出した。
今度爆発したのはT・T君とK・Kさん。
K・Kさんなどは何と2篇も提出してきて、
どちらも晦冥な魅惑を湛えている。

T・T君のは文脈を幽かに追える。
だが最終聯のカッコよさが只事ではない。
そう、詩は一面、そのカッコよさにより
感覚的には第一にうべなわれる。

K・Kさんの2篇はより石田瑞穂調だ。
参照された括弧や読点の規則外の使い方も奏効している。
語彙が冷やっこく曇り、
意味の結像の直後に結像の崩壊がある。またその逆もある。
そのことすら詩のリズムになっている。
手練に感じられるかもしれないが
やはり講義でご本人は偶然の産物、といっていた。
むろんその偶然は素養と結びついているはずだ。

とうぜん僕(阿部)もそのような課題提出にたいしては
「対抗」しなければならない(笑)。
で、つくってみた――。
一篇目「ピエタ」は「ピエタ」の着想を
別の人が出した提出課題からもらった。
これは辞書を引かずにつくった。
がーん(笑)。全然、意味不明の謎が出ない。
これが自分の資質なのか。
苦し紛れになって鷲巣繁男調に流れた反省もある。
二篇目「死出」はこれではまずい、とおもい
辞書のランダム開きを組み入れ、
同音異義語の連鎖を試みたが、こちらも意味が通じる。
しかも同音連鎖が、呪文化せず、
中国風とはいえ、むしろスッキリとしてスタイリッシュな
モダニズム詩調に堕してしまっている。
そうなのか、石田瑞穂風につくれないのが僕の資質なのだな。

ともあれつくってみて判明したのは
僕がT・T君やK・Kさんに惨敗したってこと(笑)。
詩はやはり難しい。
以下は最小の詞華集のように
T・T君、K・Kさん、僕の作例を並べたもの。
前2者についてはその美しさを賞玩してください。
僕のは「惨敗の記録」として読んでください
(ただしmixiの日記欄では文字が詰め打ちになるなどして
スペースが精確に出ない――この点はご寛恕ねがいます)。
それじゃ、また――



【無題】
                    T・T

指先から放たれた軌道は半円弧を描き
雑駁とした知識の海を流れる瞬きに
また、朝の木漏れ日が滲む色に溶け合う

数多の慷慨を振り切り、異人達の声が滾り
交わされた約束は失った薬指を捜しに行く
足元から聞こえる 七色に触れる
艶冶な舞い姿に愁いの雨を降らせ
その音は無機質な紐帯となり
重ねて手を翻す


幻影は凋残な風を戯れに
鮮やかなメロディーに舌鼓を打つ
あなたという主体は汀に打ちつけられた睡蓮のように
夜毎繰り返される祭りに兆節を添える

一瞬、ふと 揺らぐ

半透明な伝達から創造へ
沿ってゆく、溶ける青に
一つ一つ拾い上げて、また棄てて
楓葉荻花の風景を描く
かの蒼茫たる様相に思いを寄せて


強かな瞳は律呂を整えて燦爛の時を待つ
満ち足りた寂莫 竹箆の香り
呼びかける声を解き放ち
渇望を無上の喜びへと昇華する

わたしは今、無碍に包まれて
ただ一人歩哨に立つ
飲み干した暁のように



【青】
              K・K

紺碧が崩れ
蕗の薹が円蓋型の海泡石を作る


結晶化された、鋭角の文殻


行動の前後に消された鼈甲色の体制は、どこへ行くにも溶けては溶けて
(旋律を記録する、日にち、の反射板を噛み砕く)
隔絶を予期するあの鳥の御神を静臥すべき、


波間が紛れ込む(それを見る、誰か (という、誰か    ))


ただ覆いかぶさる、明確なざわめきを持ち
音節を石膏が固め
振り鼓の小葦切が、つつ、つ、と、 、
一度きり
睡蓮が群青を
感光紙に染み込ませる


見果ては片影に掻き消され
  (   (不可視、の夢想が退 廃 していくにつ、れ、)
その煽情を優艶にも言葉へと進行していく、
夙に、連日は(連鎖の跫音で植え付け )その幻想を、
つかのま
真菰の下へ埋めて、醒めて、


折れる、波状の芙蓉峰
劣化した後も同じく(石灰に濡らされ)
零の鮮烈をひたと見つめている



【夜明けの連立】
                K・K

墝埆に滴れ落ちる、煉瓦の細やかな硝煙
片時雨の蠢く眩暈を滲ませ
弾けていく
    密度の方位


精確な連動を呼び寄せ
嬌艶、な、数奇  と名乗る、たったひとり
盲目へと零れ
 (蛋白石の禍福を前提に
  長い、その放物線さながらの、合意
巴を伝う蜜の甘さに
蓮華は密やかな痙攣をおこす


癸に向かう吾亦紅
阿羅漢の慟哭を流す、流す、
ひとたび

彩雲


 相槌を潜ませて( み、なも、行方の 知れぬ  )


浅い楕円は
( 犇く所作の)晦冥、を、
贖える ま で 
、開かる細微となる(終幕の晨鐘が、今


滑りゆく明暗の最中、
半減し、朗詠し
       交われぬ白夜
             百花の廻る、帰途に濡れる



【ピエタ】
                阿部嘉昭

降架!    ――砂礫の払暁をさまようわたしの層状紋を、
胸乳へのその汚辱のべえぜで、
                平叙へと戻すな  産土、
    えやみの闇肉に沈む おまへ、摩倶陀羅
   涙眼で下方から上に救索を垂らす重い矛盾よ

            ↓
心奥で割符が噛む だけの この(アンドロ)/ギュノス)の
    蟠る索がいま猥褻な浚渫で解かれようとしている
曇る 裸身が 翻って 光の 裸身と なる 前に 無 無

  追慕のなすがまま この長征を無惨に昏れのこらしめよ
  ((ここでは羊歯軋み  龍涎の馨る森には歯も遍く
この藍甕に喪宙さえ充ちて、、  、口も朽ち 鼻 放たれる》
            ↑

(絶命の窮みで)
   (暗示をかけられたのだ、))
        //死なずにただ洟垂れてをれと
だから【追慕のなすがまま】 
            この身に餞別を) 導か)しめよ

            〇

         うづゆるやかに
        わたしを まくもの
         てえぜとしての
           【別】
          別の直面が
         別れも しめす

         ふたみが割れる地、
           許斐!

            〇

……………………砂礫では水分に血迷ってきた
くちづける唾液の…………わずかな湿りはかくも冥い…………
「地点」で水を分けよ………仝仝……やがて再会する日まで

  水は分かれるだろう
  許斐!



【死出】
             阿部嘉昭

この一個の、冬扇夏炉。
 陶潜を気どろうとも
  盗泉の罪が消えず
   登仙すら遠くして
    ひたすらに東遷してゆく。
     彼方には灯船がみえた

     渇 喝 褐 活。
     撲 僕 卜 牧。

浅才も善哉だろう
 千歳を剪裁についやして
  鮮菜には顔をうずめた
   浅黄のわたし
    跣行のまま閃光に出会った
     行き交う旅びと みな染工。

     周 州 囚 愁。
     宮 旧 球 窮。

繁木のさなか
 世を煩った私隙を
  ことごとく刺撃する
   確乎たる詩劇
    詩は自剄を逃れて。
     耳刑の響きも懐かしみ。

     汪 懊 往 王。
     筝 奏 蒼 葬。

やがて水霧がおおう。
 酔眠は水明にいたらない
  掛け違えられた翠嵐として
   衰齢してゆくのだ、
    この推問に推問を接いで。
     ――垂露。――垂露。

2007年06月27日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ホントですか?



『赤い文化住宅の初子』(タナダユキ監督)、
『16』(奥原浩志監督)と、
新進女優、東亜優の主演作が立て続けに公開されている
(後者は前者からのスピンアウト企画、
前者撮影中の東の日常を描くというのが後者の一応の基本設定)。

この2本について僕は
6月2日付「図書新聞」に絶賛する作品評を書いたのだが、
字数の関係でオミットしていたことがあった。
以下は、それについて書きます。



2作品を続けて観ると、
奇妙に耳に残る、主演・東の言葉というか科白がある。
「ホントですか?」がそれだ。

この「ホントですか?」については
最近よく学生の言葉としても僕は耳にする。
これがまさに「女子」の言葉だ、とおもう。



言葉上は「猜疑」を含むともとれるんだけど、
この言葉は疑問の語尾上げもそこそこに
手短に、間投詞的に発せられるのが正しいようだ。
それでも、それは本当に本当なのか、という自分の疑問にたいし
相手からのさらなる介入を求めている面もある。
この意味では「言葉の内実」ではなく
まずは抽象的な「受動性」のみを意味形成としてもっている。

それでこの言葉を聴くと
「虚心」を超えた「無防備」を意識する。
ただし自分が相手の言葉を考えているという自己演出要素もあり、
非常に単純なかたちで愛着効果も現れる。
で、少しドキッとさせるところもあるのだが、
男子がこの言い回しを使っても同様の効果が出ない。
これは僕がべつだんスケベ、ということではないだろう(笑)。



この言い回しは僕のサイトの管理人などももう使っていたから、
90年代の末期には女子学生のあいだで既に蔓延していたはずだ。
単純疑問ととられれば「失礼」にもあたるだろうその言葉を
何か「溜息も含んだ」生物的(電気的)信号と発しうるすべを
もうこの時点で日本の女子学生が知っていたことになる。

この時代の女子学生はいまの女子学生とはちがい、
「同様の意味で別の言い回し」を使い分けてもいた。
「マジっスか?」がそれだ。

「マジっスか?」はむろん男子学生に蔓延していた言葉。
語尾が「かァ」と伸びれば伸びるほどバカっぽくなる。
女子学生はそれを揶揄的に模倣しながら、
語尾の伸ばしを遮断することで、
言葉の「溜息度」を上げ、「女子言葉」に転用していた
――どうも僕にはそんな印象がある。
「マジっスか・・」も多かったのだ。

「マジ」そのものに言葉の歴史的な厚みがあるだろう。
むろんそれは「真面目」の短縮形なのだが、
「本気」「本心」のほうへと意味がシフトし、
形容詞直前に付属することで「very」の意味ももたされてきた。
「マジ怖ぇ」などがその用例。
で、「本気」の意味の「マジ」はいわば不良たちが
専売特許的に推進した言葉の乱脈だったはずだが、
「very」の意の「マジ」にいたっては男子の間に一般化し、
それが「ホントですか?」の意味をもつ「マジっスかぁ?」へと
爆発的につながってゆく。

むろん「疑問文の相手が目上」という擬制があり、
そこには男子運動部特有の
やや乱暴な感触もある長幼序列の匂いも発せられている。
それで語尾「かぁ」の伸びが
阿諛追従や媚態に通じているとの判断も出る。
女子はそれを使うことで、
「男子社会」の硬直性を面白がってからかっていたのではないか。
つまりそれは「文科系女子」にこそ可能なことであって、
男子運動部と同様の序列社会にいる
「運動部系女子」には使いこなせない言葉だった――そうおもう。

ただし、使用自体は難度が高い。
間違うと相手(とくに目上)の機嫌を損ねることになるから。
逆にそれをうまく使うと
この簡略な言い回しが文化的に複雑な余映を受けて
さらに独特のマニッシュ(中性的)な輝きをも放つだろう。

「女子」は一面で言葉遣いから
性差の刻印を外したがっている。
もう一面では言葉の女性性を特権化したがってもいる。
ひとつは自らの媚態演出のために。
いまひとつは女子社会の特権的な閉鎖性の確立のために。



むろん、女子の「マジっスか?」は
それ以前、80年代後期から90年代前期に席捲した
「ウッソぉーっ!?」の言い換えでもあるだろう。
これは「ホントですか?」「嘘でしょう」の
疑問文の意を早くから解かれた言葉と理解されるだろう。
これは実は驚愕の共有を強いる信号的発語なのだ。
間投詞であり、しかもそこでは展開の要請も免除されている。
それは、友達同士の場の共有性の確認のためだけに
発せられている言葉だったといったほうがよくはないか。
だから驚愕も些細な事柄に対してのほうがより素晴らしい
――そういう判断を当時の彼女たちはしていただろう。

言葉の欄外には、別の分泌物が滲みでる。
それは何か――「動物性」だ。
たとえば東浩紀はこの言い回しからも
彼が卓抜に拡大した概念「動物化」を発想したのではないか。



この「ウッソぉー!?」の使用を
現在の「女子」は完全に拒否する。
「ギャル言葉」の忌避、というプライドの問題もある。
自らが動物性を発散するのが気持ち悪いのだ。
「肉体」を度外視されて社会内に存在したいという自己欲求が
こういう精神態度を推進する。
少なくともある程度の偏差値の大学キャンパスでは
だから「ウッソぉー!?」は聞かれないだろう。
それは「歴史の遺物」的「古めかしさ」、
「時代性から無惨に外れてしまった」痛ましさを伴う用語でもある。

ところで、このように捉えたとき、
「ウッソぉー!?」の忌避には
「女子」の集団性に変化が相即していると
さらに社会分析的に考えるべき余地が生ずる。
つまり、それは自分たちの動物性を周囲に浮上させないという
相互の約束である以上に、
まず「自分たちの集団性」自体を忌避したい表れなのではないか。
「ウッソぉー!?」の否定は、孤独の肯定とセットなのか?

「ウッソぉー!?」は喜色満面、多幸症的に発語されるのも
約束だったろう。
とすると現在の「女子」は、意味のない喜色
(俗にいう「箸が転げても笑う」)をバカらしくおもうほどの
リアリストへ昇格したということにもなる。



「ギャル言葉」は平俗だが、
実は可笑的な創意を誇っていい側面があった。
80年代前半、大学の後輩が夕方の総武線に乗っていたときのこと。
友達同士の「わいわいきゃいきゃい」の下校過程で、
最寄駅に着いた女子高生の一人が電車を下りる。
そのとき互いに「オナニー」「オナニー」と言い合っている。
当然、その後輩は自分の耳を疑った(笑)。
だが次の駅などでまた同様のシチュエーションが惹起されると
「オナニー」「オナニー」の相互呼びかけがさらに続く。
文脈からいって、この「オナニー」は
「サヨナラ」「バイバイ」の意味に用いられているのが明らかだが、
いったいいつから「オナニー」がそんな語意を
越権的にもつようになったのか(笑)。
日本語がここまでおかしくなったか、
僕はアタマがガンガンしました、というのが彼の結論だった。

ひとりの女子大生が「あ、それ知ってる」と口を挟む。
「それ、略語なの」。

彼女の解説によると
英語で習った「Have a nice dream」(おやすみ)を
悪戯心で「ハヴ・ア・ナイス・オナニー」に転化させ、
それが定着してから
略してその語尾だけが使用されても
「おやすみ」の意味を生じるようになったとか。
事実を解説されて唖然の状態をみなが解いた。
当時であっても「ギャル」は
決して怪物などではなかったのだ。



「ホントですか?」に話を戻す。

見てきたとおり、
それは「ウッソぉー!?」や「マジっスか?」の否定のあと
出現してきた
ツルッとした言葉の原盤だということだ。
動物性の忌避、という悲願が「女子」の間にあるとは前言した。
同時に、言葉の遊戯性がその分、失われもした。
というか、もともと現在の女子は
以前のギャルや女子に較べ、
ニュアンスに富む言い回しが困難になってきているのではないか。
発語の恒常的なフラット感覚。
だから、「ホントですか?」なども極度にフラットに発声される。
この際の「無防備」「受動性」が聴いた者を動悸に導くと書いたが、
実は「フラットでしかありえない」痛ましさにこそ惻隠を覚え、
心が高鳴っているのでもないか。
このあたりは自己分析も含むので実は結論が出ない。



いずれにせよ、『赤い文化住宅の初子』『16』の東亜優は
「ホントですか?」を最も見事に発声できる若手女優だ
――そうおもった。

2007年06月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

へちまが見える

【へちまが見える】

くだらないことがしたくなって心はするめ
草原のポポイー がこの足許を擽ってゆく
くろがねの帽子をかぶる頭で考えたのだ、
「二、三の風鈴が浅く沈む川は心なし深い」
せっくすをしようとべっどを両端で運び
森の手前を動く男女が一瞬風に掻き消えて、
辞書中に眠る万語を果物のようにおもった
映画だった 以後とりたてて言葉はない
優雅なブラウンの縦笛もとめ (古代)
この口がおちょぼに伸びるだけ
以後とりたてて言うことはない
キッスを憶いだしてこの口がおちょぼに

猥褻か否かを問われれば 「哀切」
作業工程中の浚渫もひじょうに重い
「犬の一杯いる坂って?」――「わんさか」
くだらないことが言いたくて心はうるめ
詩篇の一節に疣があったので撫でてやる
昔からそういうことが好きだ (古壁)
カツを褒める詩に古来、傑作はないなあ
皿の端にこそ串を並べるべきでは。
べらんめえで書かれた新説「ベラミ」
このくらいの洒落と春雨が必要だった
春の宵の口には――雨の酔いのうちには。
ダッシュして神棚の枇杷を奪取した

モノホンの貞操帯だよ、これは(ウワずる)
銀とはいえあっさりした紐状だったんだね
意外な結末は推理小説のみの特許でもなく
たとえば鈴木正子の影踏みのさみしさ。
食い込むものは食い込みをひりひりさせて
鈴木正子の足もまた影のなかへ沈んだ夕暮
ぼくらは唄う、ろーろーまいしゃどう
はーめるんが笛のように側溝を流れてゆく
七面倒を考えて必ず出現するヴィジョン
七面鳥に顔が七つある? べらんめえ
十一面童子が銀粉を振ってあげてるようだ
いずれにせよ季節の一節、ぬばたまの。

あれれ、ちゃんとベッドが置き忘られている
衣通姫と信長の森だったんだね、きっと
まぶしい白がそのシーツだとして
我国は白旗を国旗に掲げたかったのでは。
いやん いやんと ヴァイオリンの弓が
身震い中の気がして不謹慎に笑ってしまう
壬生類と呼ばれるもののふの中気あはれ
死ぬ前に脛骨をしゃぶりたくってなあ
くだらないものが食べたくて心はむすめ
誰しもに憶えはあろう、身は錆でしかない
唐傘をぐるぐる回し遠くの寺塔を見る
この場合すでに塔に「遠(く)」が含まれて

福間邸と伏魔殿は一見似ているが
奥さんのモツ煮絶品だった(ふと憶いだす)
あのころのわたし羸弱か強弱
いろんなドアを開け閉めしてきたものね
国立を七つ発ち 江ノ島を九つ発ち
「友達たち」を「友人たち」に変えろと
真心で告げたものだった。「言葉たち」不可
風の吹く場所を存分に歩いた
とうぜん朝立ちは俳句には適合する
《朝立ちやへちまの見ゆる狭き庭》
カバレロよ、煩悩はあと十年かあと百万円
ヒョータンヒョーロンカ クワレロ

瓢箪からコマの 「コマ」って何?
駒か独楽か狛か齣か 言うことが細かいな
「齦」は実際に見るのも字も怖い
確かに笑い方に問題のある少女性が増えた
くだらないとこを揉みたくて心はみるめ
川海苔の蒼いなびきで川水もより流れる
わたしは わたしに わたしを
そのようにしてデュランス川も流れれば
時たまの追憶にロンパリが泪する
霞むものあり――自叙の「最深」には。
わたしは わたしに わたしを。
いつだって膳では最後、鶉卵を取り置いて

《日が暮れて未知と牛》
牛たちの合同文集「秣ものがたり」如何?
肥満体は食事でぼろぼろこぼす
笑ってばかりいられない残酷がある
ひとつの遠くと 別の遠くが
かこーん、かこーん、で連動する
そのとき地上全体に埒を感ずる
痴情にもまた徒歩[かち]があり
妾宅行きにハイヤーを使わぬのが主義だ
そうして俤から重い影を解き放つ
軒下の若者めいて葉桜が揺れる
ヒョータンヒョーロンカ クワレロ

2007年06月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ポップスとは何か



マイミクkozくんが、
三村京子の音楽の魅力を禁欲僧侶のように伝道する(笑)、
通称「kozブログ」(「三村京子サイト内」)で、
三村京子の曲を媒介に
ポップチューンの何たるかを探究しようとして
いま実は四苦八苦している。
僕は最近の書き込みで助け舟も出したのだけど、
それすらフラッシュアイデアの叩きつけで
却ってkozくんを混乱させたかもしれない。
――ということで、以下に問題を整理する必要を感じた。



(1) まずビートルズ以前のポップス(50年代中心)。
単純に平易で解読可能な楽曲に
平易で解読可能な楽曲が乗るという例が確かに多い。
ゴフィン=キングの楽曲が、その好例だろう。
そこでは崇高な俗情が崇高な俗情と結託して
最も素晴らしい音楽体験の型をつくる。
ただし、ガーシュイン・ミュージックなどは
クラシック、ジャズの楽理を満身に集め、煌びやか極まりない。
日本では中村八大などをおもい浮かべるべきかもしれない。



(2)むろん、ポップスは
ルーツ(ジャンル)ミュージックの連関のなかにこそ出現する。
そこで機能するのが当然ジャンル法則だ。
そこからまず「聴いた記憶がある」という認知が生ずる。
ただ、多くのカントリーミュージックがそうであるように、
それで一聴して全体が把握されてはポップスではない。
記憶不能の部分(不整合部分)が反復的聴取を促がすような
渇望状態が組織されなければならない、ということだ。
聴いたことがあるのに憶えきらない、という渇望が。
ということは、ポップスは既聴感と未聴感の
「まだら」の状態を生きている必要がある、ともいえる。
これは「歌詞」についても同様だろう。



(3)そして60年代黄金期ロックがポップスの概念を更に変えた。
フランク・ザッパがポップだという感銘がありうるのだ。
音そのものの可食性も当然そこに貢献しているが、
楽曲発想に奇矯さの滲むこと、
あるいは曲が細分されて編集されてくる目まぐるしさには
異質な細部に「内部分割」されることで
細部同士がスパークを繰り返し、
その電撃性が美学的な憧憬に変ずる、という別局面も生じている。
ここまできて、「掴みえないもの」というポップスの属性が
より強化された、といえるだろう。



(4)この摩訶不思議なものが皮膚に密着して、
それが逼塞とならずに(変態的)快感となる例も
黄金期ロックは更に紡ぎだした。
たとえばマーク・ボランのへんちくりんな声と
ファズのかかったブギー・ギターの配合は
もう音の波形の科学分析をしても、
ポップスが何かの結論を導かないのではないか。
それでもそれを誰もがポップだと感じた。
ここではキッチュ、ソンタグのいう「キャンプ」などに通じる、
美学の変貌がむしろ語られなければならないだろう。
「不快の快」という概念を導入してもいい。

ビーフハートの音楽もまたこの領域を上り詰めていった。
ボランは奇矯だが愛される歌詞を書いた。
いっぽうビーフハートは奇矯オンリーの歌詞で通した。



(5)ただし、(3)(4)だけではポップスは変型を繰り返し、
次第に悪い方向にインフレ化してゆくだろう。
レジデンツ、ペール・ユビュ・・・
アシッド・フォークを棚上げするなら
一部ユーロ・ニューウェイヴが「ネオ・フォーク」の嚆矢だった。
それは逼塞する商業ポップスと前衛ポップスの「隙間」に
清涼剤として一見、入り込んできた。
フォークのみならず、ボサノバやシャンソンのルーツを
まとっている――そのように認知された場合もあるだろう。

ところが、それらこそが「同定」できない。
標的にしようにも元々「自体性」を欠いていたのだった。
歌/演奏の冷たい機能性が、
実は情念レベルで音楽の正体を隠している。
僕がおもいうかべているのは、
絶頂期コクトー・ツインズやアイソレーション・ウォードなど。
それが、端倪すべかざる「柔らかみ」を伴って
ブラックボックス・レコーダーの1stなどにもつながってゆく。
ここでのポップスは、くっきりした輪郭ゆえに
把握不能、とでもいった逆説を演じることになる。

いずれにせよ、(2)-(5)のポップスの要件はクール/ホットは別に
総じていえば「狂おしさ」にある、ということになるだろう。



「偉大な」小室哲哉はその歌詞偏差値の低さを度外視するとして、
サビメロから曲を開始することにより、
(2) の既聴感と未聴感の「まだら」を実現し、
それが複数メロの融合であることで
細部スパークの(3)も組み入れた。
(5)の特徴、ユーロビートは密輸入的に使用したものの
ヒットチャート主義に囚われていたため
曲・演奏から同定性を奪取するまでに至らなかった。
その意味で資質的に同定性の危うい華原朋美が
小室音楽のパフォーマーとしてはベスト、ということになるだろう。
トモちゃんには(4)の魅惑もちょっと感じる(笑)。

「フォーク」から出立した三村京子はどうか。
(2)(3)は現在つくりだす楽曲にあらかじめ備わっている。
(4)の気味悪い快感をもたらしているのがその独自の地声だろう。
三村さんの声は不安定で弱く、弱いがゆえに気持ち悪く、
気持ち悪いがゆえに快楽的に響くのだ(笑)。
それでアナーキーなバカっぽさにも行き着く(笑)。
――ってトンでもない言い方をしているだろうか(笑)。

(5)の同定不能性がそこに関わってもいる。これはキャラの問題。
凄みが効きながら、ヘナヘナするように「弱い」三村さんに対し、
誰もが遠近感を形成できないだろう。
同定不能性はむろん彼女の楽曲にもある。
たとえば彼女はフォーク発想で始まったかとみえる曲に
ロック的な不思議な響きのある(これが本当の記憶誘導要素となる)
Jポップ的な代用コードを引き入れてしまう。
彼女自身が(自分の)フォーク性を蹂躙しているのだ(笑)。
そうして「見えないもの」が彼女の音楽に加算される。
つまり、「自らの処女性を犯す指」とでもいったものが。
「女子」が彼女に好意をもつ真相はここにあるのではないか。
フォークなのに、パンキッシュだ、と。

僕は、この同定不能性に着目して、
彼女の音楽に歌詞を提供してきたつもりだし、
あるいは自分で曲もつくった場合は
転調を用いることで同定性をゆるがせたり、
既存音楽を一瞬貼り付けることで驚愕を盛ったつもりでいる。

というようなヒントで、kozくん、
三村音楽のどこが具体的にポップなのか、
その考察に行きつけるかな?



ここからは三村さんの曲を例示せずに、
ジョン・レノンを例示してみるか。
俎上に乗せるのは
『ホワイト・アルバム』収録、「アイム・ソー・タイアド」。

Aメロのコード進行はGで開始したとなると大まかにこうなる。
《G→G♭→C→D7/G→Em→Am→D/G→G♭→E→Cm》
コードが半音下がる出だしが規格外れだし
(三村曲にもこのパターンが数多くある)、
これがビートルズコードの真骨頂なのだが
定番のコード進行にたいし
マイナー/メジャーのコード配分もズレている。
つまり(5)と似た感じで既に同定性が危ういのだった。

ただし、曲は20-30年代ポップスに規範をもつのでは、と感じ、
聴き手はルーツポップスの記憶強迫にも翻弄されることになる。
そうして、上記(2)の要件も満たされる。

歌メロ自体は、
『トランスフォーマー』時点のルー・リードがつくりそうな
ダンディなエレガンスメロだ。
それをジョンは、ダンディズム50%、掠れた囁き50%といった
抜群の配合で唄う。
その後者によって、「tired」の語の響きが、語のままに
「疲弊」として聴き手をくるむことになる。
その「疲弊」にイカれるのだから歌唱のもたらす作用は倒錯的だ。
こうして上記(4)の要件も満たされることになる。

むろんこの曲には周知のようにBメロがある。
このBメロでガテン的なロックへと曲は突然変貌する。
主調音が同じだとはいえ、合わない細部のキメラ合体。
こうして細部の軋みといった(3)の要件も一挙に埋められる。
G→Am→C→Gと、フレットを上がってゆく単純コード。
その上昇によってジョンのシャウトが割れだし、
最後は圧倒的な「ロック」が炸裂してしまう。
ここでAメロの一切が突き破られた恰好となる。
またも、ポップ要件(5)を体現すべく同定性が崩壊したのだ。
しかもこのシャウト自体には(4)のような
歪んだ魅惑もつきまとっている。

総じていうなら、「アイム・ソー・タイアド」は
(2) -(5)のポップ要件を展開のなかに不整合に刻印することで
ポップスそのものを吟味するメタポップスだといえる。
このメタ性は一見本能的にみえる三村楽曲にもあるだろう。

(ちなみにいうと、ジョンが同定性を最良の状態で崩壊させるのは
実は「♯9ドリーム」のような複雑な楽曲ではない。
要素が足りないゆえに同定性が崩壊した奇妙な楽曲があるのだった。
三村さんがkozブログで褒めた、
「ホールド・オン・ジョン」などがそうだが、
僕にはたとえば「もっと全く足りない」、
「マイ・マミーズ・デッド」にすらポップを感じてしまう)



むろんジョンの表現力はロック史上随一だ。
ファジー三村(「不思議」三村)をジョンの傍らに置くだけで
たとえばアポロンが希臘神話から飛び出して
猛全と怒りだすだろう(笑)。おいコラコラコラ!

まあ僕は、ジョンの楽曲にたいして詳述を繰り返した。
いってみれば、その特徴は「反転的」だということ。
これを僕は三村さんの歌詞でも、ある程度表現したつもりだ。

そこらへんの詳しい分析は
こののちkozブログで展開されてゆくことだろう。
そう、kozくんは三村さんの曲と歌詞が
どのように順を追って「展開」し、
耳朶を打つかをまず分析するといい。
このとき「曲の自体性」を超える別次元の何かが
メタ的に、パフォーマンスの上方を模様化するだろう。
アレンジはこの部分も補強しなければならない。

2007年06月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

贋の履歴を詩にする



ここのところ、立教・文芸思想専修一年生向きの入門演習では
毎回変えるテキストに現代詩(現代詩集)をつかっている。
過激といわれるかもしれないが(否、必ずいわれるだろう-笑)、
荒川洋治『心理』と石田瑞穂『片鱗篇』とを
立て続けに使用したのだ。ありえない?



荒川洋治『心理』に対し一班から予め発表されるべきレジュメは
講義内ではしかし実現されなかった。
はしか休講で班員の意見を統合する機会をもてなかったのが理由。
ただし、その詩が面白いけれども言語化できない面もあったようだ。
これでいい。対象化の困難にこそ、詩への憧憬が実は宿るのだから。

で、そのときの講義では、荒川洋治の概略を
「技術の威嚇」「IQ高官」「口語の時代は寒い」「稲川方人との論争」
といったお馴染みのアイテムでまず説明した。

それから『水駅』『娼婦論』時代の荒川詩の説明に入る。
漢語過多、語(とくに助詞)の意図的誤用による文脈の脱臼、
そこに「置換」の操作も認められること、
虚無感と遊戯感覚、(安西冬衛型)モダニズム。。。

では荒川詩の個性とは何か。まずは「地図」との親和だろう。
荒川は地図をイメージに描きながら
その架空の景観を鳥瞰的に浮遊してゆく。
語尾の断言が、空間を截(き)り、空間の連続性が想像域にズレだす。

体言止め、用言止め、相等しい簡略な詩的文体が
天才的なリズムを刻々につくりだしてゆく。
読み手の視界は豊饒なイメージに差し込んでくる音律の断線により
イメージを同時に失う――この体験が蓄積するなかで
詩篇の見事な結語に出会ってもゆく。

荒川の詩文には陰謀のように散文との脈絡もある。
これが実は「高官」用語なのではないだろうか。
荒川の散文は、政府文書のような素っ気無さを一見纏いこむ。
たぶん彼には文章の無駄や過剰形容を厭う資質がある。
その文体に似ているものは何か。
たとえば「履歴」文体だろう。
よって荒川詩では空間の変転と時間の複層、
このふたつの弁別が不可能にもなる。



『水駅』『娼婦論』の荒川初期詩には度肝を抜かれるだろう。
ただし、荒川に見られる詩語への不信が
過激に言葉に信を置いた60年代詩への「威嚇」だ、
という時代意識を棚上げにしてしまえば
そのモダニズム詩への先祖返りは安定の産物とも総括される。

荒川がその詩風をさらに過激にするなかで
人間の血をかよわせはじめたのは、
一旦確立した詩風を「雑」によって揺らせはじめた
『あたらしいぞ、わたしは』以降ではなかったろうか。

ただ平易な語や俗な言い回しが連ねられながら、
その詩行の重ねの不統一が、晦渋な謎になってもゆく。
初期詩想の把握できない不透明も多くの詩篇につきまとった。



その荒川の詩に幸福な「大団円」が訪れたのが
05年、みすず書房から刊行された『心理』ではないかとおもう。
入門演習のテキストでは
「宝石の写真」「心理」「葡萄と皮」の3篇を抜いた。

とりわけ郵便番号簿で具体的地名を「置換」していった
「宝石の写真」では初期荒川の「地図」詩のリズムが蘇っている。
そこには「様々な」「日本の」「生」が輻輳しだす。
それらがまた、例のごとく「履歴書文体」で描かれる。
《すべての事実は日本でしか起こらない。》
それで日本という閉域をしいられた生に
寛大な愛着もまつわってゆく。
2000年代に書かれた詩で、
これほどのスケールをもつものは少ないだろう。



「贋・履歴」をテーマとした詩の着想は、
実はライバル稲川方人にもある。
長大詩篇の一部分を形成するにすぎないが。以下に示そう。



(……年記……)

昭和二十四年、夏
私はとりのこされていく。

昭和三十一年、春
風雪を苦しむ鳩に殺意の石を握りしめる。

昭和三十三年、夏
川の深みに耳を傾け、この世の音階を覚える。

昭和三十三年、同じく
生きるべき月日の多さに驚き、鼻と口をふさぎつづける。

昭和三十四年、春
地の揺れ。泥に立ちすくみ稲妻を見る。

昭和三十五年、秋
線路を渡り、別れていく人に手を振る。

昭和三十五年、冬
鹿!

昭和三十七年、冬
火を絶やさぬよう生きることを習う。八通の手紙を読む。

昭和三十八年、春
憎しみはそれ以外の何にすがたを変えるだろう。

昭和三十九年、夏
海の突堤に眠り、幸福な悲鳴を聞く。

昭和五十九年、春
生きる者たちのささやき。私はとりのこされていく。

――『われらを生かしめる者はどこか』部分



テキストに噛みきれないものをブチあげておいて、
それにたいする課題が脱力的にテイカイする(笑)例が
この「入門演習」には多い。
今回もテキストとして掲げた荒川詩への精密な読解を
受講者にレポート提出させるのには予め疲弊してしまった。
それではあまり意味もない。
「荒川調」になれ、という試練を設けたほうがいい。
それで「自らの「贋・履歴」を30行程度の詩にしてください」。
ただこれでも僕の偏屈が収まらない。で、続けた。
「男子は《女子になって》、女子は《男子になって》、
贋の履歴詩を捏造してくれると嬉しい」。
ったく、トンでもない教師だ(笑)。

で、さっきまでの未明、提出された詩篇レポートに眼を通していた。
どこまで本気かわからぬ教師のまえには、
爆笑を誘う、「贋・履歴詩」が連続して立ち現れてくる。
散文脈を駆使したものには卑俗な笑点が満載されているが、
なかには詩文のリズムを見事に加えているものもある。
以下、転記打ち――
(作者名は個人情報保護のためイニシャルにした)。



【自筆年譜】
K・T

平成19年6月18日、仲澤ヨーグルトは産声を上げる。
看護婦は赤い服。左手には携帯電話。右手はどこだ?
夏空に黒い雲。黄色いから親近感が。大声出すな。
鼻水が白くなる。教室には撒き散らせない。ティッシュはどこだ?
ゾウさんが青くなる。黄色いのは危険信号。大声出せよ。

邦栄3年11月15日、仲澤ヨーグルトはラッキーセブン。
帯解きに厚化粧。千年もたぬ銀色の歯。ホルマリン漬け。
両親は馬の顔。すり鉢には人が殺到。指紋が消える。

郁陽6年4月3日、仲澤ヨーグルトはモラトリアム開始。
無意識に殺人鬼。幾らかだが手傷を負った。だけども勝った。
邂逅で閉口か。頂上とて最下位疾駆。期待と不安。
初めてのフェンシング。突かれたから疲れた様子。抱けども逝った。
雪解けの濁り水。東宮御所直行経路。不安と期待。

環華4年6月10日。鷹野ヨーグルトは寿退社。
踏みつけた赤の道。足元には無数の小指。赤いが臭い。
装束は白いまま。両親なら刺身で食った。肥えても不味い。

悠興11年2月22日、仲澤ヨーグルトは新陳代謝。
余りはない、恨みもない。血潮がない。
いや、ある。まだ、ある。流、れる。

隆輝14年6月4日、樋口ヨーグルトは上がり症。
ささやかなフェンシング。疲れてても突かれる予定。分身したい。
掛け捨てじゃありません。手書きだから覚えていません。機械化したい。
物憂げなマッサージ。突かれてても疲れる気配。硬直肢体。
ポイ捨てはいけません。金槌でも竜宮旅行。硬直死体。

衛翔7年4月5日、樋口ヨーグルトは息を引き取る。
看護婦は白い服(顔)。右足には無数の小指。阿婆擦れ女。
病室の青い花(鳥)。左手には無数の指輪。ロリコン男。

衛翔7年4月8日、満月はほくそ笑む。
十字はいない。銀貨もない。ユダはいない。
いや、いる。また、いる。流、れる。



スゲエ。狂ってる。笑える。リズムがてんで素晴らしい。
むろん「リズム」は、反復と短文重畳と擬似脚韻が作った。
当然、僕にも対抗心が芽生える。
ならばまたもや自分で出した課題に自分で挑戦だ(笑)。
ただ気分がずっと鬱なのと、
可笑性を打ち出したレポートの連続にたいし天邪鬼が芽生える。
「泣ける」ように書くか。
おかげで自分の「贋・履歴詩」がちょっと「本気詩」に近づく。
ただ出来上がって振り返ると、K・T君には負けたかもしれん。
以下――。



【自筆年譜】
阿部嘉子

明治46年、阿部嘉子はミシシッピ水郷デルタに鰐とともに生を享く。
いつも傍らに糸車、気さくな叔父「虹鱒」が第七天国を水路に紡いで。
「大正」は来ない。デモクラシーも米騒動も来ない。ただ紙人形の春。
茫洋の生を浮く。小舟でミッションには通う。茫洋の生を浮く。

5歳にして聖歌隊の紙屑に。丸められて「球」の実在を知る。
最大の球が天球ならば 最小の傾度にこの転がりを放って。
視野から水が消えてゆく。鉄道工夫・張の、生前の溜息を聴く。
ピロウトークとポピュラー音楽と映画で米語を覚えた。

教養の可変性、儚さ。同等にそのワンピースの花模様が身に添う。
髪が巻いてゆく。声も巻いてゆく。「髪の毛が肥るほど怖い」。
孤客を前にして ニューオーリンズ、少女娼婦の眼には
こんがらがる鉄路しか見えない。「コレガ未来ダ」。4打席4四球。

15歳、物質転換の手術を受け ヒヤシンスとは無縁の「風信」となる。
唄え、と悪魔に魂を売った 南部巡回中のロバート・ジョンソンがいう。
「揺れるだけじゃ駄目なの?」と訊いた。深夜、十字路上の初恋。
天山の天頂に 初恋する千の菫が揺れている。偏西風に群青を見て。

流れて「群をなす」青の一員となる。見分けられぬことが身上。
ニューオーリンズからの上海就航。その唐黍船は阿片の匂いもした。
流れて「群をなす」青の一員となる。偉大な水を作り出すいろくずたち。
船客のゴスペルをブルースが裂く。「沖縄へ帰るんだ」に意味なく唱和する。

この鍵穴に自ら鍵を挿しても プレパラート視界が晴れない。
入れ子が問題になったのが20世紀思考。唱和する――昭和しない。

一攫千金を望む小作農四男・阿部嘉昭と上海で式。ジャズバンドが伴奏する。
阿部嘉子はもう35歳。世界大の年号などない、とおもう。租界で。
式では日本女子らしく紙を纏った。さわさわ。存在の水が滲んでゆく。
その股間に普遍性があるか。傍ら、阿部嘉昭はサーチライトを遠目に見ている。

大陸浪人からは気味の悪い屍臭がした。裂かれるべきものが存続する。
双子の形式、希望の集団性、苗床、芸術の自己言及・自己愛など。
その意識の隙間に 八路軍が糞尿を撒く。「上海蟹は通常の蟹に非ず」。
伴侶・阿部嘉昭の赤色化には 密かな藍を刺したいとねがう。

あれからずっと エノラゲイが唐突に出現する。そうした雲間が怖い。
阿部嘉子の空を見上げるその仕種には確かに催涙性があった。
大陸に不在のまま阿部嘉昭が頭髪を爆発させ死んだのはいつか。
――阿部嘉子も確かにビートルズの最後のアルバムを聴いていない。



こうしてレポートの白眉を公表してみて、
まだ今度の提出課題が出がらしにならないところが凄い(笑)。
今年の一年生、刻々と化けはじめている。
この「贋・履歴」も秀作を「阿部嘉昭サイト」に転載しようかなあ。

2007年06月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

言葉の誤用・誤記



昨日、女房と家で夕食がてら
何かのTVバラエティを見ていて、
僕が「いも・くり・なんきん」といったら
女房が「えっ!?」となった。
それ、「いも・たこ・なんきん」じゃないの、と。

「巨人・大鵬・玉子焼き」みたいに
婦女子の好きな食べ物の典型を列挙し、
所詮、婦女子の好みなんてそんな子供じみたものよ、と
一種の揶揄すら籠めている成句だ。

僕は婦女子が甘くモコモコしたものを好きだから
(だから便秘も多い-笑)こういう成句があるんだ、
従って構成物も「芋・栗・南京豆」だというと
女房が呆れ顔をする。「あんた、やっぱりバカ」。
曰く、それは「芋・章魚・なんきん」であって、
しかも「なんきん」は「南瓜」を指している、と
僕にとっては意外な知見すら披露する。
つまり「くり」「たこ」の構成物の違いだけでもなかった。
「そんなことも知らないの?」

僕が論理的に怒る(笑)。「なんで章魚が入ってるんだ、
八百屋さんで売ってるもののなかに
魚屋さんのものが入ってるなんて統一性がないじゃないか」。
僕はこれでもスタイリッシュな統一性を
割と気にかけるほうなのだ(笑)。
対して女房がいう。「そこがミソなんじゃないの、
もともと好物にすら統一性のないほど
婦女子は気まぐれ・気楽に生きてるってことでしょ」。



がーん(笑)。何か納得してしまう。
「桃栗三年」と混同したかもしれない。
大体、僕には言葉の憶えちがえの事例が数多くある。
辞書に当たってないが今回も女房の主張が正しいのだろう。

女房と結婚当初、僕は「スキャンダル」の「醜聞」を
「しゅうもん」と語り、女房が怪訝な顔となった。
とうとう口を出す。
「あんたのいおうとしているの、【しゅうぶん】じゃないの」
意地になって辞書で調べたら読みは女房のいうとおりだった(笑)。
「聴聞=ちょうもん」から類推した読み間違いだった。
もともと単語は耳からじゃなく黙読で憶えたわけだし。

なんか「俺は言葉で仕事している」みたいなエラソな顔をして
やっぱりあんたってバカ、と女房は攻撃の手を緩めない。
僕は、えへへーっとだらしなく笑う。
実はバカと呼ばれると嬉しくなる妙な倒錯もあるのだ(笑)。



恥を上塗っておこう。
こないだ、立教の人文科学研究室にメールを打とうとして
「じんもん・かがく・けんきゅうしつ」とひらがなを打ち、
変換キーを押したら漢字が正しくでない。
エ、まさか!? とおもい、
「じんぶん・かがく・けんきゅうしつ」と打ち直したら、
今度は正しく変換された。がーん。
「人文」も「じんもん」ではなく「じんぶん」だったのだ(笑)。
むろん「天文=てんもん」から横滑りした読み違えだった。
これは女房には黙っていようと姑息に考えたが(笑)、
今こうして日記で天下に自身の恥をさらけ出してしまっている。

どうも僕は「ぶん」を「もん」と読みたい深層の欲望があるらしい。
果たしてカフカのように
「掟の門」のイメージがちらついているのか、
はたまた「悶」の字が文中に多く入った危ない本を
少年時に耽読しすぎたせいなのか(笑)。



いま女房がどこかの古本屋で買った向田邦子を読んでいる。
書名、『夜中の薔薇』。
歌曲「野ばら」の訳詞歌詞中、「野なかの薔薇」を
「夜中の薔薇」と聞き違え、憶えちがえたエピソードが
集中の一エッセイに入っているらしい。
あ、『眠る盃』と同じか。
これは土井晩翠「荒城の月」中の「巡る盃」を「眠る盃」と
聞き違え、憶え違えたエピソードだった。
向田さんの筆力は、人間観察力を基軸にして
自己の残酷な対象化に反転させる機微にこそ宿る。
言葉の憶えちがえを笑劇にするときに必須の作法だ。



それでいうと、僕はよく夕飯の料理をつくっているときに
鼻歌を唄っていて、歌詞を出鱈目のまま通している。
聞きつけた女房がすっ飛んでくる(我が家は狭い)。
「やめて、気持ち悪い、お願いだから」。
僕がアバウトで、女房は肥満してるけど几帳面(笑)
――そんな対立軸もおわかりいただけるとおもう。

僕はそんな女房を意図的に刺激することがある。
「寸止め唱法」と勝手に名づけているのだが、
よく知られた歌詞の語尾を意図的に唄わないのだ。

たとえば童謡「金太郎」ならこうなる。
「まさかりかついだ きんた(ろう)
くまにまたがり おうまのけい(こ)」云々。
この( )部分を発声せず、
歌に宙ぶらりんの居心地の悪さを導くということ。
最初はこれを間近にして、女房がキレた(笑)。
いまでは学習し、知らん顔で通しているが。



言い間違いが「無意識」を露呈させるとは
フロイトの所説だが、
僕はそうした心理逼塞を打っ棄ろうとして
脱力的な言い間違いに自身を傾斜させるらしい。
ま、デリダもdifferenceをdifferanceと綴り変えたことで
彼のいう「差延」に、多元的思考を集中させたわけでもあるし。
って、自分と引き比べての例示がカッコよすぎるか(笑)。

言葉の連なりが変容可能性を秘めている、という様相は
それ自体が磁場形成的でもある。
思潮社『荒川洋治全詩集』(01)では
巻末にこんな編集部からの注記があった。
《本全詩集は[・・]誤字、誤植は訂正したが、
著者慣用の表記は尊重することにした》。

これは荒川や稲川方人ら、先鋭的70年代詩人の詩風、
その問題圏に突き刺さっている事柄。
たとえば稲川の処女詩集『償われた者の伝記のために』中で
忘れがたい詩句にこんなのがある。
《あらゆる拿捕は遅れよ。》
命法「遅れよ」は、かなり文法的に危うい。
この危うさを取り込んでの修辞なのだった。
第三詩集のタイトル、『われらを生かしめる者はどこか』も
「どこか」が「だれか」のズレではないかという
そんな不安を幽かに生じさせる。



そういうことでいうと、
「危うさ」が謎と絡まって、
しかも「意味」に向けての破綻をずっと見せない
稀有な精神力の詩人がいる――
「新しい詩人」のひとりとして
『片鱗篇』という処女詩集を上梓した石田瑞穂だ。

一読して稲川方人の詩法を「現在」に拡張する意欲を感じるが
集中「舞=鶴」などは冒頭が無媒介に「、」から始まり
誤植に直面したような動悸を生じさせる。
この動悸すらが、詩を読み進めてゆくときの
「律動」転写に加担しているとおもう。
霊性と高電圧の双方があって、
イメージの結像不能性が多くのように「淡さ」へと流れない。

この詩篇にしても、例えば別詩篇「秣と韻律」にしてもそうだが、
危うさが護持されて
詩篇中の地名が実在なのか非在なのか判断も揺れてしまう。
その揺れのなかで地名「舞鶴」がタイトル「舞=鶴」に分岐し、
鶴の舞いが詩行の裏側を幽かに覆ってゆく。
「秣と韻律」ならば、数行の空白を置いて示された最終行、
「御生」(「みあれ」とルビされる)が、
地名なのかどうなのかの判断軸が立たない。
ただ、「み」に神聖、「あれ」に存在への祈祷の残骸を見つつ、
それが未知の地名表示に近い謎を帯びている点を
読者は美しい強度として受け取ってしまう。
なぜか「御生」の記載から光があふれだす感覚もある。

思潮社「新しい詩人」シリーズを一からげにして
若い世代の詩風の共有を指摘する言説が
部分的に再生産されている。
抽象的、弱い、自然の発露がない――などと。

ただ、その個々には微視的に検討すべき差異がある。
そして石田瑞穂は「新しい詩人」の水準を数段抜けている。



ということで、言葉が誤用されている磁場に
詩的な生産性も付帯する、というまとめになるのだが、
最近の僕をひどく哀しませた事件があった。
日記に書こうか書くまいかずっと迷っていた事件。

実は太田出版『d/SIGN』の新号(特集「小さな画面」)が
ようやく出たのだが、
そこに掲載されている僕の原稿が
30枚の分量にして誤植が40~50箇所と異様に多いのだった。
大好きな雑誌。ほかの原稿と通読しようともおもったのだが、
とても哀しくて読めやしない。

もともとファックスされてきたゲラに
異様に誤植が多かった。
たとえば丸囲み数字や空白がすべて飛んでいた
(これはたぶんWINDOWS→MACの過程で生じた)。
僕は直しの指示を入れゲラをファックスしなおしたのだが、
そのファックスをなぜか編集部がさらにスルーした。
ただ、ゲラ自体を素読みすれば
文意の通じない箇所が連続し、
また一見してヘンテコな文字の混入
(これも元原稿には皆無)もわかったはず。
ということは編集部の誰ひとり、原稿すら読まなかったのだ。

掲載誌のそんな状態を確認し、
僕はとりあえず編集部にメールを打った。
抗議の文面ではなく、哀しい、と打ったのだった。
正誤表の次号掲載要求もしてない
(大体、それは煩雑すぎて掲載が無理だろう――
やるなら正規原稿の再掲載しかない)。
僕はそちらの編集システムに何か問題があるのでは?
そうも書いた。
大至急調べて再メールします、と平身低頭の返信が来る。
来て、それだけ。すでに2週間近くが経過している。
この不誠実にも僕は哀しくなった。
これが最近の僕を襲った「最も・哀しい・事件」。

「阿部嘉昭ファンサイト」に正規原稿を転載しようか。

――お笑い文脈で書きはじめたのに
何か最後が悲痛になっちゃったな(笑)。
おしまい

2007年06月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

僕の身体の、左右の差異



こないだの日曜は、
「会田誠 山口晃展」→上野精養軒ののち、
新宿高島屋に女房と行って、夕食材の買い物を
(この時点ではもう豪雨が嘘のように晴れていた)。

ふとメンズコーナーに向ってみる色気が出てしまう。
改装中には(しかしあれは正式な改装というよりも
実は紛れもない耐震補強だったのでは?)
「アルマーニジーンズ」がコーナー縮小になっていて、
改装後、もとの売場が完全復活しているのか
それを確かめたいという欲求が生じたのだった。

厭味に聞こえるかもしれないが、我慢あれ。
実は僕はアルマーニジーンズを
(デニム地ではないタイプ――色は概ね黒)
たぶん8本程度もっている。
1シーズン2~3本の換算で、
中には履き潰したり色焼けしたものも混ざっているが。

このむ理由:
1) 風合いが肌に馴染み、軽い(コムラがごわごわしない)
2) カッティングが良く、おかげで脚が細く見える
(むろん長く見える、というほどの魔法を演じたりはしない-笑)
3) ブランドジーンズにしては比較的安価
4) ヨーロッパジーンズの色物はフォーマルな場所でも着用可能
(デニム地とちがって至近距離でないとジーンズに見えない。
よって大学出講時にも愛用しているが
反面、地面にじか坐りできる気軽さもある)

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2007年06月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

会田誠と山口晃



日記風に――。
昨日日曜(6/10)は女房と上野の森美術館に
「アートで候。会田誠 山口晃展」を見に行った。
盛況。とりわけ若い「女子」が多い。
とうぜん現役美大生などもいるのだろうが、
「サブカル好き」「感度良好の」女子高生が多い、とおもった。
絵を見ながら小声できゃあきゃあいっていて、
おっさんとしてはその反応も「鑑賞」要素になってしまう(笑)。

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2007年06月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

めらめらしてる

【めらめらしてる】

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2007年06月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

私は美しい



先の日記、「頭髪形成」で話題にしたように
ロートレアモン『マルドロールの歌』中の記念碑的修辞、
《手術台のうえで出会ったミシンと
蝙蝠傘のように美しい》の「直喩破砕」を念頭に、
「私は〇〇のように美しい」という構文を30個連続させて、
全体で一個の詩篇を構成せよ、というのが
今日の3限入門演習、受講者たちに公開されるレポート群だ
(ヘヘッ、ということでこの日記の記載、フライングしてます[笑]
――ただ受講生たちはもう登校していったろう)。

今日の未明に、提出されてきたそれらをじっくり読んで、
これが集中ベストだなあとおもったのが下の詩篇だった。
まずは引用。
個人情報保護を考え、名前はイニシャルにしておこう。

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2007年06月04日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

頭髪形成



立教でのそれぞれの講義が佳境に入ってきた。
月曜日の3コマ連チャン。
3限→4限→5限と進むうちに
いわゆる「講義ハイ」になって
自動記述状態で速射砲的に
口から出まかせを喋っている自分にハタと気づく(笑)。
間違いなく、毎週月曜午後に
「世界でいちばん喋っている男」は僕だろう。

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2007年06月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)