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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

バス停考

【バス停考】


《立ったまま沈んでゆく塔》
のかわりに、(花弁の流れ)
春先から昨今までの沈みが
ここに猶予されているのか

女房とは一日乗車券で
バスの終点から終点を乗り継いだ
城東に乱立する銀の狼藉もみた
南砂町の巨大 商店街はどこ
花売りは 《微笑する井戸》はどこ
見上げれば天心も引き絞られて
疲れた真夏の真夏、
その黒い底心を指針している

怒りにもう躯が重たくなって
昨日みた白鷺を微醺にはなち
週末をひたすら寝てすごす
商店街はどこ――自問自答が残響し
《剖かれたウヲかいまみた》《夢のあと》

この世のちいさな足溜まりとしては
立て続くバス停も恣意にすぎる
ただ通過の通過を謂うのか
浅草雷門-平井乗り継いで、
平井-東大島乗り継いで、
東大島-門前仲町乗り伏せて、閉じた瞼に
富岡八幡前の古本屋消えている

《九界に九官鳥充つ、虚辞ばかり》
たままん句会の題詠をふと考えてしまい

もうわたしはアダ わたしはアザ
天の仇 字十二番地
極点で息を切る、
伸びたつはものの

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2007年08月27日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

可愛いおばけ

【可愛いおばけ】


《交接に錆びて
やがて詩話となり皺となっても》、

そこに「混ざって」あるものが
いつも「おばけ」のたたずまい
(未来函からとりださなかったので
すごい ぼろぼろだった)
そこからは生も明滅する
たぶんこんなふうに前田英樹が
樹にも託して書いていた
(白昼そんなふうに読んでしまった)

縮めばまた膨らむのか
夏の終り知る ふとしたこころ、
夏の終り知る ふとした犬の陰嚢、
宇宙大に考えるべきなんだろう

とっておきの果実とりだして
割符併せするカタラヒの只今
うってつけの過日とりだして
貝合せするララバヒの只今
悪い生き方の二重国籍も
刻々の突端でシワヤセなのか

《アダプタのコード噛んでたら夕方
胃が伏して蝉落ちて死んだ。》

斜光世界、聴えないほどの大音響
この身密が四囲にもぼやんと拡がって
すべてが「潜在性と同じなのである」
可愛いおばけといる暮れ方には
色塵や声塵も ほぼ無限に流れる
なんだこの宇宙の風向き、
十界にひとつ足りない、
九界や旧界かもしれんぞ

2007年08月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

キラキラ歩く

【キラキラ歩く】


明けた朝に ふとしたこころ、
ベランダは ほとけのてのひら充つ
微光で開かれようとしている

去った夜のかわりに
生ぬるく地上におりているのは
おほいなる跛足をもった神の下身だった
その足がキラキラ歩いて家々をこする
人ら微妙にひしめきかたむく気配
歩行は鯰のひと踊りをキラキラ呼びだす
歌のようには 地から 力、

越後や能登の三連発
「なゐ」なら欧語の否定形で
地の揺れのあとは虐殺と相場も決まる
昔が聴えるのは
この身の変てこゆえだろう

何もない白昼は折る、それが夏
ただエコーを買いにゆき
360度おぼろのなかを
あやかりつつ歩こうとして
たとえば田浦の底にはぐれる
季節外れに人の影が長いと気づく

(聴えたのはいつも夕方だろう、
(地軸あるかぎり犬笛が沸く
(男たるを夕闇が立小便にさそう
(構わぬ男なら 犬か幽霊になる

空が川のようにみえて
さみしさもこまかく流れるが
あんなものは空の芹、
産卵期も折ったよ
帰順なしだ、この亡命に

2007年08月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

辰砂置き、

【辰砂置き、】


冥途の皮に辰砂置き
しらほね笑うローチのドラム

「朗読」談義なぞおととい置いて
眼からこのバネ取り出して
万物の窪みを低く流し目すると
(これ、未明のヘッドホン装着の喩です)

そこ、しらほね高原に
登仙百回の寺院群、連なった
やがての朝露に互いをつなぎ
背後にはニガグスリもかすませて
銀のはしごや、みやこの蜘蛛の巣

そこ、くだりはならぬ
からだ潤ませ高みを割れば
ああこれが東南の音だなあ
いざ あない せえ
死後燦爛となった
村上昭夫の雁、

おのれを魔擦るブラッシング、
傾きかけ 一羽のシンバリング、
ぼくならば天へ墜ちる渡り
あふれる風信をとりだしても
(そんなものは空の芹ですよ、
(たんなる風媒、

音が聴えることはもはや変てこだ、
むかし下宿に漏れてきたアヘ声よりも
暁闇はいっときのローチ、小さな悼み

やがて食欲のない夏バテ女房と
昨日のかやくで冷えた朝めし
(咀嚼音がパチパチ爆ぜる、)
顔色のわるさ映すほどに朝日も昇って

2007年08月20日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

混浴案内

【混浴案内】


どうせこの世は混浴と、
演歌めくこの口がいつも禍ひ
《あとはおぼろ》のヤチマタで
巾着覗きもヤッチマッタ
覗けばいまだに背が伸びる
瀬を伸ばそうと 永遠のひとも
川べりに眠たく伏すのだが

この世に抒情の地下川、いくつ
(地図をたどるゆびなんて、)

規格外の私が気ままに炎えていた
混浴の中心に向け冷えびえ真夏を散歩
着服より着衣が許せない、お脱ぎ
おまへの服こそ閉鎖系だ、お脱ぎ
(うたう、)(言葉ある歌を)

1)観音の長衣となるまで
この長い脱糞でビホウ策を講じる、

2)厠こそ観音世界を圧縮するもの
ヤチマタの衣擦れ、ひたひたに聴え、

厠を出て泳いでいますね)、ヘイ多分
夏の内部分割を学説しようかと
んで 小ささと大きさの境をかえる?)
ヘイ多分、の3カケル3、
若冲のタイル升目の変てこ象ですわ
あの升目をつうじ
《みえないやつらが[…]
しきりにはいりたがる風呂なのである》、
この世の この世は ね

おのれを魔擦る
傾きかけの一羽の雁
も見える

2007年08月19日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

緑について

【緑について】


今年の花火の眼目は
火薬の「緑」発色だそう
はかなや暗さの境を
幽玄へかえる謀りごと
(信長が最期に見たものを感じる

「流れる記憶」を記憶するようだ、
肝臓の紫/胆嚢の緑/体内花火
白昼の夏ならいつも行く手を
規格外の緑が気ままに炎えていた
触媒され、血の胆汁化あわれ
(「踊らば踊らず」の深意とは

その緑を犬の花火師たちは
裏側から夜空に閉じようとしている
「何かが死んだ」「このことの縫い」
祝ひ・さきはひ、禍ひもみな消える
わたしもまた竹薮より大きくなって

家主が眠るそのあいだこそ
召人たちの悪戯のとき
時間を停めてギシギシと
信を機械に変えるがこのみ

「こびと」の正字に変換できぬのなら
「矮小」と打って一字バックスペース、
そんな知恵だけ緑色になって
一切の閑暇も覆われてゆく

それで額より小さな庭に累卵を置き
終わった花火から下ろす塊の鉛で
殻を割らず中身だけ潰す技も競われた
小ささと大きさの境をかえるので
いつも家の見取図が書けないまま

尻尾の夜が 雨のように焦げる

2007年08月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ヘンな風が吹く

【ヘンな風が吹く】


書くことがなければ
酔眠前の夕飯の話になる。
百日紅の咲く坂を食べました、
先駆けて地を離[さか]ってゆく
犬の吠え声も食べました、
もう胃袋にはおどろな満月

わたしに近いもの、
綺羅や松果を不敵に水で炙って
猥らに垂れる肉じるを
詩の髭をかぶった口へ立て続けて容れる。

空の反映、そこへ消えてゆくもの
を収める容器(私)、といえば聞こえはいいが
畢竟、食餌と脳のあいだに
オーバードーズの危うさ潜み
わたしは竹薮よりも大きくなったよ
女学生の描いた堤に 八月の晩に

(しらーを食べ びすまるく食べ
腹のくちた少年ヴァルターは
めいぷる・びすけっとに方陣の美しさを見た。
掌に載せると ヘンな風が吹くね、
――みらいから かこに渡る、
(壊し続ける玩具の代わりに
世紀伝来のビスケットがあるんだ

書くことがなければ、
「三年間食べなかった」話にもなる
畔で消化器官の育つのが待ちきれずに
夕映えの水に無精の卵を産みつづけた

不妊の、くだる、蜉蝣川は。

八月十六日、卵圧搾機を発明
載せるべきは何やら水っぽいもの

2007年08月16日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

輪王

【輪王】


乙二号建築では
(火災警報器の誤作動もなく)
焙られきって一日中を除外された
公園の鉄棒群が 見下ろせただけだ
それらをつなぎ白じらとした
夏状の亜空間ができた、としても

何事も空白はつくりかえるな
胤のない砂だけがそこを伏していい

密議めくことだ、《肌を鏡に》。
材料にはただ水、「水の用意」
歩くことで生じた君の亀裂を
シャワー室でしずかに均し
再び入った部屋の天井からは
輪王の架空をおどろに垂らして
鏡面が熟すのをゆっくりと待つ

女の、私の、庭が、縁どられ映ったよ
百日の紅や、ましらの滑り。
物語る夏は退屈に退屈を接がれ
一人連詩も眠るように薄まり

入院の具体報ではあったけど
こんなバカみたいに字が不足したメールで
最後なんて嫌に決まっている

(「私の犬」を知るひとだから)
俄かに「わおう」。夕方の一斉。
吠え声が坂になって
凹んでゆく闇へのなだらかな傾斜では
サカりと離[さ]かりが結ぶ
この中心、しかし
「独楽はその中心だけが回っていない、
数学的にいえば」

2007年08月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

巣穴が多い、

【巣穴が多い、】


小さなオペラ。
そこからが森になる、
はいり口というべき処がいつも好きで、
涼やかな半袖の袖口のすきまや
「夏の日傘」のなかもいつも好きで。

われわれの肉の隙間には
黒い「ましら」、さかしら。
根を鎮めようと四つ這いになり
腕も以て前脚となり、毛深。
黒い虹のようなものになろうとしていた
ひとりではなしえぬ林立へと、ふたりで。
後背位、というのだろうか

森は「オルガン」上昇する。
夏に黒鍵が空に沸き立つ。

しかし木立や梢を見上げずに
蟠る根へ 模様へ 入ってゆくのだ
昇る動きもいつしか下りへ反った

(見晴るかす平地には)
水銀蟻の巣穴あまた、
その内と外を反転させるように
驟雨来たりて
一帯が一挙に毛羽立つ絨毯になる
王が音楽のように座っているが
むろん周りの校庭に何もいない
あれが「遠く」で、あれが「夏」だ

肌を鏡にすべく
俗世は互いを擦ればいい
それを見るため 大月、生きよ
ひみつの このしたやみは
塒にはならない

2007年08月13日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

大和屋竺・愛欲の罠



8月11日(土)3時の回に、上野公園内の一角座で
大和屋竺監督『愛欲の罠(原題:朝日のようにさわやかに)』を観る。
周知のようにこれは
ずっとフィルムが紛失したといわれてきた「幻の映画」だ。
したがって誰もがもうこの世での鑑賞を断念していたはず。
しかも「天才」大和屋の計4本中最後の監督作品で、
かつ大和屋自身ではなく朋友・田中陽造が
脚本を書いた最初で最後の例外的作品でもある。
肥大した期待を抱え、女房と猛暑のなか会場へ向かった。



田中陽造が大和屋映画の脚本を書いたことについて――

当時、天象儀館を主宰していた大和屋ファンの荒戸源次郎が
大和屋邸詣ののち、制作配給を買ってでて
日活ロマンポルノ枠での公開を決め、
これまで同様の「殺し屋映画」の脚本執筆を大和屋に促がしたが、
何らかの理由でその完成が不可能になり、
演出準備に忙殺される大和屋が
やむなく田中陽造に脚本執筆を託した経緯があった。

そういう事情を知らなければ、田中陽造のこの脚本は
大和屋への愛をつうじ田中が徹底的に「大和屋になって」書き
大和屋にこれを監督しろと突きつけた、
一種の分身性・倒錯性の賜物という、美しい誤解を受けそうだ。
それまでに3本あった大和屋監督作品、並びに
大和屋中心で脚本執筆がなされた鈴木清順『殺しの烙印』からの
細部のパッチワークが明瞭にみられたのだった。



大和屋的な「殺し屋映画」の系譜については
何回か長い原稿を書いたことが僕はあるのだけども
(その決定版が渡辺謙作監督の『ラブドガン』公開を機にした
「われわれは殺されたがっている」=「ユリイカ」04年6月所載か)、
その要諦は大和屋的「殺し屋」が「世界認識者」だということだ。
よって映画の展開が以下のようになる。

〇空港への飛行機の到着のように
無時間性に時間の楔が打ち込まれることにより映画が起動する。

〇世界認識のために対象を殺さねばならぬ
殺し屋(これは先験的に画面に存在する)は
自身の「死の適格」を容認した途端に
おのれをつけ狙う別の殺し屋が自身のダブルとなる、
世界の熾烈さのなかへと即座に編入されてゆく。

〇当然その世界は殺伐としている。
消耗戦のなかで敵を徹底的に待機し、
愛人すらいつしかブルーフィルムのなかに捉えられて
中で拷問を連続的に受けることで世界の本質的無時間性を告知し、
あらゆる音声も木霊して明瞭さを失い、
それによって人形と人間の弁別もまた消滅してゆく。
世界はいつしか腐臭に満ちる――
さまざまな形象の蠅が、その事実を告げる。
世界はそうした黙示によって罅割れ、ベンヤミン型の細片となる。

〇殺し屋たちには自分たちを登用した、
「組織」が前提されていたはずだが、やがて
その「組織」そのものが不可知性の感触を湛えるようになる。
この不可知性のなかで殺し屋世界の序列も瓦解してゆく――
これが映画自体の「破局」と符節を合わせる。



田中陽造による『愛欲の罠』の脚本は
この大和屋が下した厳密な「映画法則」を完全に遂行している。
スラップスティックな軽さが一部、志向されてはいるけれども。
ではその軽さの理由とは何か。

〇この作品の主人公の殺し屋は荒戸源次郎自身で、
「組織」を裏切って遊撃的な殺しを依頼するのも大和屋自身だ。
端的にいって「俳優」大和屋の出番がとても多い。
このことで大和屋が演出の集中力を欠いたきらいがある。

(脚本に田中陽造が噛むと、俳優大和屋が強調されるという法則が
当時とくにあったとはいえないだろうか。
こののち鈴木清順が監督した『木乃伊の恋』では、
オブジェめいた木乃伊役の大和屋が画面に出ずっぱりになる)

〇大和屋映画は世界認識=恐怖を観客に注入する、
一種、熾烈な陰謀として常に機能する。
そのためには画面の垂直性(それを渡辺護なら俯瞰構図に変換した)、
魔物のような「美しさ」「瞬間性」「抽象性」、
空間の「つながらなさ」こそが要件となる。
この特性を導くのが、
画面上の全オブジェを意図的「配剤」の抽象関係につくりかえる
実はモノクロの画面なのだった
(当時のピンク映画の商業的要請で
濡れ場画面に「パートカラー」が用いられることはあったが)。

ところがこの映画は日活ロマンポルノの枠組だったので
大和屋監督作品としては初めての全篇カラーとなったはず。
脚本には空間の飛躍が盛り込まれていても、
この単純な「カラー化」によって
画面個々に具体世界からの採取の痕跡がつよまってゆき、
それにより「空間がつながってしまう」弱さを帯びることになった。

大和屋映画は通常はそれがつくられた日付など超越してしまう。
ところがここには新宿など、70年代初頭の空気が散文的に満ちた。
主役荒戸のたたずまいからも時代の風俗的匂いが明瞭に放たれる。
音楽もゆったりとしたロック系で
たとえば山下洋輔のフリージャズのような時代超越感がなかった。



演出にも精度のばらつきがあったとおもう。
以前の3本にみられた「神のごとき」演出がない。
初期3本において華々しい評価を受けた大和屋は
この『愛欲の罠』ののち忽然と映画が撮れなくなってしまうのだが
(荒戸源次郎が幾度もそんな大和屋を励起したのも映画史的事実だ)、
『愛欲の罠』の脚本を朋友・田中に託したことと併せ、
この時点からの大和屋の耳奥に、自らを意気阻喪させる
魔の「トカトントン」が響きはじめたのではないか。
よって『愛欲の罠』は最大の映画演出の潜勢だった大和屋に生じた、
ヤバい分離線を感知すべき意義深い作品でもあったとおもう。



『愛欲の罠』には不可解な物語進行がない。
田中陽造のほうが大和屋竺より「物語」を語りやすいということ。

「組織」の裏切り者・大和屋の指令によって
殺しの達成感のみで殺しを続けてきた荒戸は
殺しの現場を女房・絵沢萌子と通過する姿を見られた失策により
一挙に「狙われる」対象へと変化する。
この絵沢こそが、「組織」にとっては
彼女自身を起点に大和屋-荒戸をつなぐ糸となるのだった。

大和屋からは更なる冷酷な指令が来る――「絵沢を殺せ」。
これを荒戸が実行する(その前後の湿潤化した演出がマズい)。
ここから魔的な画面陰謀がはじまる。
あるとき、荒戸が戯れに自宅窓からみえるゴルフ練習場に向け
銃を構え、照準器内を覗いている。
そのスコープ画面のなかに「死んだはずの」絵沢が姿を現す。
荒戸は深甚な恐怖に包まれることになる。
最初の「ダブル」の痕跡はこの場面にこそ出現したのだった。



さきほど、殺し屋にとって自分を狙う殺し屋は
自分の分身の位置へと居場所を変える、と書いた。
この認識があるからこそ、大和屋映画にはダブルが仕組まれる。
代表作『荒野のダッチワイフ』では
脚韻を踏んだ「ショウ」(港雄一)と「コウ」(山本昌平)の関係が
まさにこのダブル関係の明瞭な反映だった
(本作ではこの二人がスラップスティックな対として登場する)。
そこでは相手を殺すことが自身を殺すことに「昇格」してしまう。

大和屋-田中自身も以後、このダブル同士のように
表現者として相互に意義深い暗闘をはじめたのではないか。
「ダブルは本当に見えるのか」がテーマだった。
最初の達成は田中陽造のほうにやってきた。
彼が脚本を手がけた鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』。
4人の主要人物のうち
必ず3人までしか関係を交わさないこの映画では
不可視の4人目に「ダブル」の気配が生じ、
それが徐々に人物の関係全体に拡大し、
映画の進行自体を蚕食してゆく恐怖の動勢があった。
そうした幻想劇の外側で
三人の道化がそうした劇の進行をスラップスティックに矮小化した。

これは内田百間の恐怖短篇の自由な翻案だったが、
あらかじめ鏡花の『春昼』『春昼後刻』のような幻想味があった。
『ツィゴイネルワイゼン』への評価に後押しされた
荒戸-清順-田中陽造のトリオは結果、念押しするように
鏡花世界をさらにバロック化した『陽炎座』を撮りあげる。

一方この時期の大和屋竺は
同じ鏡花原作、『星女郎』の映画化を画策していた。
「私を見た者は死ぬ」と宣言する女郎との性愛成就を願う男――
これを中心に見据えた最高の恐怖脚本を大和屋は書き上げていた
(この脚本は高橋洋・井川耕一郎・塩田明彦編の
大和屋脚本集『荒野のダッチワイフ』で、
『愛欲の罠』と同様、その全体を確認することができる)。
荒戸は自分のところでその『星女郎』を
大和屋自身の監督を条件に製作しようと図ったが、
いろいろな不如意が生じ、ついにそれは実現を見ず、
大和屋自身もまた此世の者ではなくなってしまったのだった。



明瞭に画面配剤されたダブルから、不可視のダブルへ――。
『愛欲の罠』でも表現の願望はその点に不明瞭に向かうが、
肝腎などこかで脱臼が生じていた――これを説明しよう。

絵沢萌子は「生きていた」(ここから恐怖が低減する)。
荒戸は絵沢の隠れ場所を「なぜか」突き止めてしまう。
そこに陰謀が露見した大和屋も入り込んでくる。
絵沢はその大和屋の元愛人で、大和屋の操る糸で
「殺し屋人形」荒戸がちゃんと動くかを監視する役柄だった
――そんな種明かしもやってくる(こういう因果ぶくみの整然さが
通常の大和屋映画の特質と離反している)。

以後は荒戸が「組織」から繰り出される殺し屋と次々対決する
単純展開が連続されるだけだ。
ただここで映画の進行は別の恐怖のレールに見事引き戻される。
やってきた殺し屋の異形性が、創意に満ちていたからだった。
そしてこの殺し屋の姿を見たいからこそ
大和屋ファンにとっての「幻の映画」、『愛欲の罠』が
ずっと不可能な欲望の対象となっていたのだった。

殺し屋は大きな女の子の人形を脇に抱えている。
殺意の表明は腹話術によってその人形が語る。
明瞭な「ダブル」関係がそうしてそこで可視化されるのだが、
それが殺し動作と接続されている点が創意なのだった。



前述脚本集『荒野のダッチワイフ』では
殺し屋と見えたほうが実は人形で
人形と見えたほうが殺し屋の本体だという「逆転」が
映画のほぼ終幕で鮮やかに判明する、という印象が生ずる。
実際にその腹話術師-人形と荒戸が最後に対峙したとき
蚊が人形と見えたほうの頬を食う一瞬を見逃さず、
荒戸は窮極的な二者選択の狙撃を正しく遂行する。
この映画的な展開が圧倒的だったのだ。

この作品で殺し屋を演じていたのはガイラ。
そして短躯を生かした気味悪い女装で
惑乱的な人形振りを通していたのが秋山ミチヲだ。
大和屋演出はしかしここで失調している。
発声、腹話の類別が表現されていても
裏からどちらかの背に腕が支えられることで
微笑ましくも、やがては主体-客体に逆転が生じるカラクリが
一瞥にしてバレてしまっていたのだった(笑)。

この殺し屋-人形コンビは3回登場する。
一回目は、前述した絵沢萌子の隠れ家で。
荒戸が恐怖に怯える絵沢-大和屋の別部屋での性交を黙認し
自身は敵の襲撃に備えているあいだに
ふたりの寝室へ侵入した敵に気づかなかった失策をした。
ようやく異様な気配に気づき、寝室に荒戸が近づいてゆくと
ドア越しに荒戸は撃たれ、傷を負い、逃走する
(このようにして大和屋映画では境界幕から
恐怖が一気に「こちら」に飛散してくる)。

以後、殺し屋-人形コンビは大和屋をあっさりと殺し
(これはのちのインサートショットで判明する)、
お馴染みというべきか、絵沢への執拗な「拷問」が開始される。
殺し屋が絵沢に死にいたる挿入を開始するのだが
前言したようにその男根のゾッとする機械性がバレている。
もう死体となった絵沢とのダンスシーンも美しい。
最後は血の池状態となった浴槽――
死んだ絵沢の股間に生け花が挿され死体展示芸術も完成される。



敵から逃れるためどこかの地方都市に荒戸は逃げ、
安娼窟を隠れ家に定め、そこで安田のぞみと懇ろになる。
最初は恐怖のために荒戸はインポテンツに陥っていて、
二人の交接は拷問のような無時間状態に引き伸ばされる。
荒戸はその都市で最初の追っ手との
冗談のような耐久戦に勝ち
(敵から逃れていったはずなのに
逆に敵の懐ろに近づいたという「残酷」もいつもどおり)、
恐怖を克服して、とうとう性的不能状態から脱する。
そこから無時間的な交接場面へと画面が移行する
(このとき、倒立した安田の顔が目玉を剥き、
「人形振り」を披露する細部が素晴らしい。
反面で交接そのものの演出は「おざなり」に近い―笑)。

ところが執拗な「客」が来て、
一旦、そちらにサーヴィスしようと安田が中座するが
30分経過しても帰ってこない。
荒戸が焦れて確認にゆくと、
やはり絵沢同様の死体展示がなされている。
やり手婆さんが客の風体を叙述して、
荒戸は例のコンビの犯行を確信する。

気をつけなければならないのは、
荒戸が最愛の者を「寝とられている」渦中、
その寝所に死の天使がダブルの状態で舞い込む点ではないか。
これは「寝とられること」が即、「その対象を失う」、
魔的な強迫観念の具現化だろう(しかも映画性に富んだ)。
その魔の通過にたいし主体は耳を澄ましてさえいるのだ。
ここに何か、根本的な「不如意」感を覚えるのだが、
この着想の発案者が大和屋竺なのか田中陽造なのか。



以後、映画の結末までについては
三たび出現した殺し屋-人形コンビ、
そのダブル状態の欺瞞を見抜いた荒戸がそれを殲滅し、
誰もいない映画館内でもう形骸となった「組織」の親玉
(山谷初男がそうして唐突に画面登場する)も撃ち、
映写幕の前で『愛欲の罠』の観客自身にたいし
最後に小粋な辞去の挨拶をするとしるすだけでいい。
殺し屋-人形コンビとの最後の対決場面では
完璧に『殺しの烙印』の細部が画面に導入され、
ご丁寧にも「No.1」の話題が出てきもした。



カラー画面というハンデがあっても
やはり大和屋ならではの優れた視覚性があったとおもった箇所を
最後に三つ列挙して、
この長くなってしまった記載を終えておこう。

〇冒頭、青い闇のなか、カメラがゆっくりティルトダウンしてゆく。
ビルの高層の建築現場の様子がシェイプとなって判明する。
構図の余白にスタッフ・キャストクレジットが出る。
この呼吸が素晴らしく、しかも陽光に満ちると
そこが荒戸の最初の狙撃現場となる。
新宿伊勢丹手前のビルディングだった。
それは、若松孝二『新宿キッド』よりあと、
田中登『牝猫たちの夜』と同時の「新宿」を
画面に刻印しているだけでなく、
大和屋「殺し屋映画」を継承し、加山雄三をスナイパーに据えた
堀川弘通『狙撃』への不敵な応接場面でもあった。

〇羽田に着いた外国からの要人を
荒戸が高層の駐車ビルから遠隔狙撃する場面。
クーラーが不調で代わりのクルマが手配される成行Aと
(このとき外国の要人の隣で中川梨絵がトンデモ演技をしている)、
駐車ビルへの正面ロングショットによって
トラックがつづら折り状の坂を刻々上ってゆく様子Bが
平行モンタージュされてゆく。
このBこそがその抽象的な図像反復性によって
のちのエドワード・ヤン的な恐怖場面を見事に予告していた。

〇絵沢を殺したと思い込んだ荒戸が自責の念を払おうと
自宅で乱交パーティをしている。
女の裸体の重畳のなかに荒戸の裸体がある。
このとき、大和屋から電話がかかるのだが
当時の黒い電話機が女の躯それ自体に接続されているような
妖しげな構図がしめされる。
電話は無媒介に「ここ」と「よそ」をつなぐものとして
『荒野のダッチワイフ』でも草木のない荒野の地面と接続され、
結果、地面の下に絡み合う電話線を幻視させた。
その幻視の先がこの場面では見事に女体へと移されていたのだった。

2007年08月12日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

女物

【女物】


バカと罵られつづけて「あぁあぁ」する
この夏の日傘にはそれで「女物」を奉じ
路上に投げられる微かな影に見惚れた。

七色の頬紅を塗った気分に 一挙になる
少しずつ70年代の阿呆を取り戻す
おすましした女の子たちの胸乳の稚魚。
秘密の樹の下闇でその敏感な突端が泳ぐ
よって詩はいつもあさってに打ち水、だ
がお がお  (うぁん うぁん)

幸福によろめくわれわれの乱雑な言葉
ギャオスとギャオスのように連れ合う
(朝顔のつづく朝の道で、)
癌告白するメール文に不幸の藍が滲んだ
どうしようもないことにぴかぴかした夏空の称号
是々非々が無慈悲なほど清明かもしれぬ此世で

それでも手紙文は一生かけて練習だ
《70年代は 闇のなかの光ではなく
光のなかの闇を見てました》
こうやって何事も積載しなければ(泣くのか?)

当たり前のことをいうなら
五階よりも十二階のほうが荘重です
いつかは稀薄な浅草の高層に住んで
地上を十二階下と むかし馴染んで定めるか
「正面」の花火とも向き合ってしまうだろう
なあどうするんだ、おまえ?

京子「バカバカ」「わたし、たくさんの果実」
そうだね、存在は籠から残部があふれでた狼藉。
マンゴーの隣には冷えたアレクサンドリア種が
東空には今しも周囲に溶けようとする城塔が

見えるだけだ、ただ見えるだけ

2007年08月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

三村京子がロックした



8月8日19時、渋谷7th Floorのステージに三村京子が立っている。
客席は満員、対バンの関係からか年齢層がすごく幅広い。
詩人の森川雅美さんが僕の隣にいる。
三村京子は白の可愛いブラウスと晒し紺のロングスカート。
例のごとくの「お嬢さんスタイル」(髪はショートボブ)だが
ぶらさげているギターがなんとエレキだ。
その赤いセミアコ(エレキなのに空洞共鳴がある)こそは
僕が25年以上つかっている愛器だったりなんかして(笑)。

コンセント接続。
僕の古いコードを流用したためか接続ノイズが少し出たままとなる。
意に介せずに、彼女はおもむろに弾きはじめるのだが、
その前に気づくべきは、
高校時代以来の、久しぶりのエレキ演奏とあって
三村さんの顔、とくにその眼に
ヤバくてつよい「男性性」がそこはかとなく滲んでいることだ。
客席を睥睨するというほどではないけど、
顔の中心を凛とした気概が確かに貫いている。
それでいつもよりエロっぽい(笑)。
「暴発」の予感がすでにした。

1)「孤りの炎」、2)「Birdland’s End」。
いずれも僕が補作詞した曲。
前者は70年代風の暗いイメージで、
クラシックギター奏法、途中、一音弾きが歌唱とユニゾンする。
後者は静かな朝食の光景に鳥の姿が二重写しになる、
元「ベジタリアン」だった三村さんらしい曲。
これもポール・サイモン風の、
フォークアルペジオの複雑な弦の響きが美しい。
2曲ともに、いつもよりゆっくりと唄っている。
エレキがセミアコである点が生かされている。
ただ、これなら別に使用楽器がアコギであってもいい。
実はリハのときはアコギ使用も考えていたのだが、
音が膨らみにくく、歌唱を支えにくいという判断が出て
この日はエレキ一本で通す、という路線変更があったのだった
(僕がそのように提言した)。

3)「別の肉になるまで」
よく聴くと「死にたくなる」必殺のダウナー失恋曲。
綺麗なメジャーコード進行の裏には「猛毒」が潜んでいる。
履いていた靴のハイヒールが細すぎて間に合わなかった、
相手に否定された、私は別の肉になるまで待機しなきゃならない、
それなら今のこの饐えた黒い指なぞみんなあげる、
と、信じがたいぼやき節が「ありえない」静かさのなか
流れるように連打されてゆく。
こんなヤバい詞を書いたのは誰かというと
これも実は僕=阿部なのだった(笑)。

この曲は途中からストローク奏法に変化する。
このとき初めて使用楽器がエレキである効果が前面化してくる。
ガーン、と実際に分厚い音が出て、
聴き手の「腹」が直撃される驚きが生じるのだ。
三村、すごく声が出ている。
これはアルバム制作の過程で声帯強化がうまくいったのと同時に
エレキを弾いているという意識の賜物だろう。



ここからドラムスに
「俺はこんなもんじゃない」「タラチネ」のあだち麗三郎、
それと三村さんのご近所のマルチミュージシャン(この日はピアノ)、
monobook(以下須山真怜と表記)両君のサポートが加わってゆく。
真怜くんは基本的にバンド音に厚みをもたせるためのコード奏法、
たまにカクテルピアノっぽいエレガントなおかずも入れてゆく。
流麗感勝負のひと。
一方のあだち君は、前衛音楽にも関わっているので
ドラミングの個々の打撃音の種類がすごく豊富で
展開力勝負、という印象。
しかもポップロックの演奏にも実は手馴れていて、
重たいビートでバンド音全体の底支えをもする。
この二人との共演は去年の春の、下北モナレコード以来だった。

あだち君はドラミングのときの表情がいい。
中心演者の身体に、一種、策謀的にリズムを打ち込んでゆくのだ
(これはその後の二組の演奏でも終始変わらなかった)。
だから時にその眼がサディスティックに爛々と光る気配がある。
不敵というべきか、頬も法悦に緩む。
で、そうしたリズムを打ち込まれて、
三村さんの演奏・歌からリズム上の不安定さが消える。
声もどんどんつよくなってゆく。
ゲ、三村ってまったくロックじゃん、という素晴らしい感慨(笑)。
しかも本日は調子が絶好調で、トチリがほとんどない。
バンド音全体に3ピース形態からは考えにくい厚みと力感が出ている。

4)「青い花」=ノヴァリスとは無縁のレズ疑惑曲(笑)。
「入れて」という囁きのあとに「テントに」という落ちが来るなど
スケベな味付けは、やっぱり阿部補作詞曲の特徴といえる(笑)。
三村さん、久しぶりに演奏するこの曲に
前奏フレーズをくっつけていた。
80年代ニューウェイヴ調のシンプルで綺麗なフレーズ。
で、突如、マイナーコードがガーンとストロークされる。
そのアタックがあだち、真怜両君ともぴったり揃う。
真正=純然ロックがついに幕開けとなる。

ロックバンド音というのは、アコギ一本と較べ、
当然、聴き手にとっては「歌詞の入り」が悪くなる。
ただ、間歇的に歌詞の片々が耳朶を打てばいいのだ。
むろんふと耳が聴きとったフレーズ連鎖には動悸も生ずるはず。
たとえばこんな歌詞の一連がある。
《この首筋に残る傷 それが私の首飾り/
あなたの瞳は硝子張り 煙だけ見てる》。

ロック演奏でよりはっきりしてくるのは
三村さんのコード進行の才能だろう。
この曲はA、Bメロは比較的オーソドックスなマイナー進行だが
ものすごく創意に満ちたサビメロが入っている。
僕はこの曲のラスト、
《「遅刻」にさえも乗り遅れる》という一節が
時代を撃っている、と改めて確認した。

5)「寝床の藻屑」=引きこもり少女の歌、と
よく三村さんがセルフアナウンスする曲。
「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のような
マイナー/メジャーの転調がうまく収まっている。
すごくJポップ的な印象があるが、
それは三村作曲の特徴、代用コードの効果からだ。
《大人にならない/小人でいたい》の「小人」は
阿部がベンヤミンから引用したもの。

三村さんの前奏にやはり工夫があった。
ジャーン、とコードストロークしてから
高いフレットでニューウェイヴ風のシンプルなおかずが入り、
それが連続する。
それと終奏手前に入る三村さんのアルペジオも美しい。
で、その途中はというと、ベース弦2、3本を叩くように弾く
リズミカルな奏法(こないだの下北レテで多用していた)。
あだち君のリズム、自分で刻むリズムにも煽られて
三村さんの上体が立てノリに揺れてくる。
足はいつもどおりしっかりと踏ん張って、
そこでも密かに身体の基調的リズムが刻まれている。
激しいビート。あだち君はドスッドスッ、という腹に響くリズムを
間歇的に反復してくる。
音にできる隙間を埋めているのが真怜ピアノのコードストロークだ。
「ロック度」がどんどん上昇してくる。

三村さんはリズム感がファジーとよくいわれている(笑)。
僕はなぜ普通の奏者のように上体や顎で
リズムが刻めないのか、といつも苦言を呈してきた。
足ではリズムを取るが、上体がいつも硬く、
それがリズムの狂う原因ではないかと指摘してきたのだった。
ところがこの日はそういった身体的束縛がほどけている。
ロック音、というより、あだち君のドラミングが大きい。
彼は、「ほぼ性的に」、三村さんの身体に「介入」しているのだった。



6)「僕は嘘が嫌いさ」。
一転、バラード演奏となる。重たいドライヴ感。
そう、ドスッ、ドスッ、と「あだちドラム」がズシズシ響いている。
マイナーコード主体で、すごくJポップ的な曲だが、
三村さんはコードストロークの合間にジミヘン的なおかずを入れる。
微笑ましい(笑)。ジミヘンのレコードを貸した甲斐があった。

これは「京子と二郎と麗三郎」時代には
「You」の曲名で演奏されていたが、
最近、三村と阿部二人でぼんやりした歌詞をリニューアルさせた。
歌詞には三村が平塚時代に住んでいたマンションが唄われている。
ひとさわりのみを披露。
《夕暮れの海に沈む太陽のように
この躯 密かに黒い
あすも不死を誓う》

途中、意図的にリズムが「ポリ」になる瞬間がある。
三村、あだち、真怜が別のリズムを錯綜させるのだ。
で、復帰時、アタックが揃うとき「ロック」が生じて鳥肌が立った。
三村さんはラストに少しリードギターを弾いた。
下手であるがゆえにフレーズがギザギザしていてパンキッシュ。
完全にロック・モードに入ってしまった三村は
なんとこの曲から明瞭に、潰し声でシャウトを始めた。
つまり以前の小野洋子調とはちがう、ロックど真ん中のシャウト。
本日、最重量の演奏。ちょっとブランキーをおもった。



7)「a wild horse」、阿部の作詞作曲。
ストーンズ「wild horses」の転化で
川べりの孤独な離れ馬に託し、
聖化した言葉が多用され、少女の心象風景が唄われる。
阿部の作曲だからF→Fmなど曲調がやさしく(笑)、
とくにD→Fのコード変転の美しさを自慢したい曲。

歌詞の一節をここでも、ひとさわり。
《狙われる――ひとりの者が
風満ちる――ひとりの者に
それでも思う この時が好き
いつでも願う この身よ溶けて霊になれ》
※「霊」は「零」とのダブルミーニング。

ここで三村のリードギターがついに完全炸裂した。
Am(7)→D(7)のコードを延々循環させて
三村が存分の長さであいだとラストの2回、
ギンギンのリードをとりはじめたのだった。
作った阿部がいうのもなんだが、
この曲にはニール・ヤングの曲調からのパクリが多い(笑)。
上の循環コードなど「ダウン・バイ・ザ・リヴァー」からのイタダキで
だからとうぜん三村のリードもニール・ヤング調になる。
女でこれほどギザギザに尖った、吃音のフレーズを弾く奴なんて
見たことがない。確実に「変態」が入っている(笑)。
スケールはペンタトニック。ブルーノートではない。
しかも三村さんはチョーキングが下手で使わない。
だからニール・ヤングよりもギザギザ感がつよかった。
またも鳥肌が立ってくる。
俯いてギターを弾く彼女からは妖気が漂っていた。
だから最後、歌唱もディランのように「叩きつけ」型に変化した。



8)「松本秀文『鶴町』より/詩の朗読と即興演奏」。
とうとうハイライトがやってくる。
三村も加わっている連詩のメンバーには
福岡在住の詩人、松本秀文さんがいて、
三村はそれを読んで一気に「お気に入り」になってしまった。
いつもは「阿部嘉昭ファンサイト」収録の
『壊滅的な私とは誰か』から詩の朗読演奏をするのだが、
この日は新機軸、ということ。

オープンDにチューニングを変える。
三村はたぶんその詩集から15箇所程度、
お気に入りのパーツを抜き出して、
PCで転記打ちしたものをプリントアウトしていた。
はじめて譜面台がつかわれる。

僕は松本さんの「少女」の様々な姿が抜かれるとおもっていたら
サブカルな部分、スケベで猥雑な部分、兎と亀など
全体からバランスよく詩を拾っていた。

いつもの朗読とちがうのは、
読みが速射砲のように中身が詰まって連続する点だ。
『マルドロール』のジェラール・フィリップの朗読をおもった。
優に詩集の10頁以上が読まれ、
松本詩特有の多様でディストピア的なイメージが
聴き手の耳から躯へと突き刺さってくる。
三村さんはたとえば原詩の「 」部分など
声音を変えて、全体を演劇的なアプローチにしていた。
松本詩のポリフォニー性、空間の広がりに対する着実な解釈
(ライヴが跳ねてからの飲み屋で森川さんは三村に、
松本詩はポリフォニックにみえて、
実は「ひとつの声」なんだよね、と鋭い薀蓄を語っていた)。

しかもその叩きつけるような絨毯爆撃「朗読」は
その朗読の合間ではなく渦中を
三村さんのオープンDチューニングのリードギターで
複雑に裏打ちされてゆく。
オープンチューニングだから
どこか弦全体の響きにオリエンタルな色彩も揺曳し、
ときにはドローンに近い奏法にもなる。
ドアーズ「ジ・エンド」のイントロを想起すべし。
彼女は実はこのチューニングでのリードギターが天才的に巧い。
詩の一節が終了すると間奏に移り、そこで曲想も変転してゆく。
その色づけに、あだちドラムと真怜ピアノも見事に追随してきて、
時に二人の演奏のほうがさらにアヴァンギャルドに高揚してゆく。
音と言葉の洪水。そこには「煌く厚み」がある。
緊張感漂う「沈鬱」もある。こりゃスゲエ、としかいいようがない。

これは朗読のかたちをとっているが
むろん「言葉による演奏」なのは明らか。
詩人による殆どの朗読は、こうしたアプローチの前には
顔色を失ってしまうだろう。
原詩の本来の音楽性が演奏者の知性によって拡大されている。
それで脳髄を掻き毟られ、しかも恍惚に導かれるのだ。
先のシャウトが祟り、三村の声が嗄れだしているが
それがここでは妖気の点で面白い効果もあげている。
10分以上の演奏だったとおもうが、ひたすら興奮しつづけた。
ステージ上の三村、こうなるともう、めちゃんこ可愛い(笑)。



8)「いつもそこを出てゆく」
通常のチューニングに戻った。
これも転調が見事なポップ曲。
阿部の歌詞は三村の早稲田卒業を念頭に「卒業」テーマにしたが、
安直なグラジュエーション・ブルーではなく、不敵な感覚を盛った。
尾崎「卒業」をライバル視していたりして(笑)。
ただし曲はキンクスっぽく、ちょっと脚韻も踏んでいる。
ここでとうとう三村さんの声が潰れきって、
高音部がキャンキャン声になり音程も狂いだした。
初めて、「キツイな」という印象が生じてくる。
だからもう一曲の演奏予定をここで彼女は打っ棄ってしまった。

演奏自体はよかった。
冒頭の三村のギターフレーズは
阿部が以前リードギターをサポートした今年の江古田ライヴ、
そのフレージングからの完全なパクリ(笑)。
俺のギターを弾き、俺のフレーズを無断拝借するなど太ぇアマだ。
嘘ぴょーん(笑)。



ということで、これが今のところ今年の三村のベストライヴだった。
三村は次の二組が登場したのち
フィナーレでもう一回、ステージに上った。
そのときの面子は
抜群の唄い手・ジェシカさん(三村さんとはちがう透明唱法)、
あだち、真怜、三村の面子。
あだちくん作詞作曲「あの日あの夏」
(いい曲だった――歌唱はジェシカを中心に持ちまわりで
三村/ジェシカの唄い方のちがいがすごく面白かった)、
それに何と「ヘイ、ジュード」を合奏した。
「ヘイ、ジュード」での三村のリード・ギターのために
阿部はデュアン・オールマン参加のウィルソン・ピケット版を貸し、
弾き方もコーチしたのだが、
それは可愛く不発した(笑)、と最後に言い添えておこう。



kozくん、この記事を
ブログ「a wild horse」にコピペしといてください。

2007年08月09日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

流され星

【流され星】


いずれ目鼻が消える、
紙人形のような端正さなら。
恋とはそんなものだし
下流から上流に遡れば
川も淋しさで分岐しているように
見えるだけだ、ただ見えるだけ

流され星 「流され蛍」
あくがれいづるものによる空
お化け煙突の見物場所を人は探すが
見ようとすることが
すでに流されることだとは知らない
人世はゆっくりと水になる、閼伽みたいに

ユダ温泉を起点に今度の旅(車内多し)。
誕生日を迎え中年の終りの日付にもなった
美祢線に乗り、台風を精一杯逃れ
怖ろしい厚狭川の濁流を見下ろしては
古ぼけた紙に映る字をまたも購ってしまう
中也、西脇、泉谷明。
水面に咲く旧い目鼻流れる、

《あれはとほいい処にあるのだけれど》
(ああずっと「そこ」に佇っていたんだね)
でも僕らはもう萩で荻だったから
真下から見上げた花火、潤んで大きかった

(潤むものは大きく、大きいものは潤む

間近とは海峡で噛みあう下関と門司港
西班牙と葡萄牙、ふたつの大らかな牙のように。
女房の髪も汗に濡れながら風に舞っていたし。
それで憶いだす、どこへ行っても
味噌汁の具が遥かな川海苔だったと。

来迎、いつかはわれわれの稚魚時代を)

2007年08月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)