新コメント欄集成
●
他人のコメント欄に書いた自分の文章をペーストする、
お馴染み「省力日記」シリーズの第三弾です。
なんと、これもたった一日分のコメント。
今回のテーマは、「定住vsノマド」です(果たしてわかるかな?)。
ま、僕の複数性を覗いてくれるだけでもいいです。
●
近況報告。
・現在、池袋シネマロサで大ヒット上映されている
『童貞。をプロデュース』1&2の評は、
今度の土曜店頭の「図書新聞」に載ります。
・昨日は太田出版「d/SIGN」(特集「写真と都市生活」)用に
1600字コラムをずっと書いていました。
計10本中の6本が仕上がった。
mixiに関わるひとでは
廿楽順治さんや「エビちゃん」のお名前を
期せずして出してしまいました。
ご了承ねがいます。
今日はその仕事の続きです。
・サイト管理人・大月美治さんの病気が
快癒に向かいだしたのが嬉しい。
「阿部嘉昭ファンサイト」は後期講義が軌道に乗り始めたころ
別の管理人に手伝ってもらい
復活させるつもりです。
しばらくお待ちください。
学生マイミクのみなさんへ:
近々、レポートのサイト転載依頼メールをうちますのでよろしく
では、本番−−
●
【みよちんの日記「いつも同じ場所にいる人」へのコメント】
いい文章だなあ。
かつての連詩にあった着眼が延長されてもいる。
「いつも同じ場所にいる」というのは
たぶん、それが端的な「人間」の証となるからではないか。
切ないことだけど。
反面、ノマドで生きてゆくことはすごく苛烈なことだ。
ともあれ、「いつも同じ場所にいる」ことで
ホームレスがホームレス狩りのガキがいう「ゴミ」ではなく
ちゃんとした人間だということがわかってくる。
ただ、その無名性から漏れてくる体温を、どう捉えるべきなのか。
「他者論」はそこから起動するとおもいます。
『ヨコハマメリー』は、写真が物をいうドキュでした。
その点、ちょっと映画が映画として「運動」していない。
大好きな作品だったけどもね
●
【森川雅美さんの日記「ネットカフェ難民」へのコメント】
吉田一穂という先人がいるではないですか。
あのひとは貧乏に清潔な芯を貫いた。
詩人の三大貧乏って
一穂先生に加え、高橋新吉、山之口獏でしたっけ?
いまは詩人に学者が多くなった。
そのうち、評論家のすべても学者になるでしょう。
原稿生活の不能が、こういう事態をもたらしています
●
(改行屋さんへ)
ネットカフェなんてつまらないですよ。
厭な空気の淀みがある。
スーツホームレスといえば、
住むところを失って
クルマ(自家用車)に寝泊りしているひとも多いらしいですね。
(森川さんへ)
いずれ、「貧しさ」を武器にする新世代が出てきますよ。
読書や教育によらず、
行動だけでたたき上げた「教養」。
それが詩を書く。
--なんて考えると、少しゾクゾクしませんか?
●
【kozくんの日記「七尾旅人ライヴ 8/26」へのコメント】
ライヴに接した臨場感をあたえてくれる評でした。
しっかし、ぬるかったんだなあ。
しかも、新作がメロディレスだとは。
七尾旅人はもしかして、「売れないほう」に
意図的に向かおうとしてるんじゃないか?
何に焦燥を感じているのだろう。
kozくんの意見を待ちたい。
あ、旅人がカバーした曲で
「ひらひら」は和製・女ディランの史上の名曲ですが、
「夏のクラクション」が僕の大当たりです(笑)。
あれはたしか筒美京平作曲。
七尾旅人は筒美さんを微分積分するとできる
--最初、旅人を聴いたときはそうおもったもんです。
いまはちょっと感触がちがうなあ
●
【田中宏輔さんの日記「水風呂につかりながらの読書」に
引き続き書いたコメント】
漢籍の素養が欠落して、
大正文学がはじまるをえなかった点も思い出されます。
大岡昇平は先の『中原中也』で
上田敏時代と較べ、堀口大学は文語・古語のつかいかたも俗に崩れ、
それらが中也にも作用していったと述べています。
いや、中也のみならず朔太郎だって、
『氷島』などに文法ミスというのか
「創作」和文体が数々見られる。
ただし言葉への何らかの焦燥がこれらの世代を領していたのも確か。
こういう「翳り」がモダ二ズム詩では一挙になくなり、
すべてが平板になってしまう。
そうして安西冬衛の「構成」や、西脇の清澄がまた代理的に出現する。
詩の言葉ひとつとっても、教育の時代要因によって
このように変遷しているわけです。
「新しい詩人」の教養体系が知りたいのはそこです。
それは既存の現代詩以外に、何を眼目においていたのか。
僕は詩作に詰まる「新しい詩人」のKくん(大好きな詩人です)に
安永蕗子の短歌を読め、漢語圧縮の凄みがわかるといったことがあります。
彼は読んで、いうとおりでした、詩作の道のひとつが開けた気がする、といっていた。
ことほどさように問題は
「われわれ」が悲憤慷慨に陥るだけでは済まされない、ということです。
示唆によってこそ、現況に現実的に介入しなければならない。
僕は「悲憤慷慨+追懐+冷笑」の荷風が
ときにうんざりすることがあります。
たぶん、そのような非倫理性をもってしまったことが、
「をば」を多用する荷風の文体の弛緩に如実に現れていて、
荷風の見どころもエロス描写に縮約されてしまう。
とまあ、コメント数「100回」を僕も祈念して
おもいついたことを書いてみました(笑)。
話を蒸し返します。
短詩系と翻訳文学の話題。
たしか80年代末期、新聞の訃報欄に
斎藤磯雄と葛原妙子の名が連日で出て、
それで僕の眼前が真っ暗になったことがありました。
「ある教養の消滅」。
そういう不可逆性の惨事に遭遇されたことは
ここにご結集のみなさんにもあるとおもうのですが、如何
●
(Keffさんへ)
翻訳文体のたおやめぶり、って
ひでえイジメだなぁ(笑)。
僕も女性の物書きの一部に
そんな暴言を弄していた気がします。
でも、それで漢文脈へと「上昇」しつつあるのは大したもの。
漢字は圧縮です、世界の。
で、漢字と漢字がぶつかると、
そこだけでも意味のスパークが起こる。
現代思想はそこを取り込まなきゃ面白くない。
とうぜん日本化という問題があります。
それで外来概念語がどんどん漢字熟語へと造語されてゆく。
僕はその造語による「世界の壊れ」がわりかし好きです。
なぜこの分野で日本が先行し、
中国などがこうした造語をそのまま移入したのか。
ここで「言葉のノマド」、みたいな問題が出てくるのかもしれません。
僕の雑誌原稿は漢字だらけで真っ黒、とよくいわれます。
字数調整→圧縮→漢字化
が頻繁に起こるらしい。
普通は、字数調整のためには段落落としといった高度な技で対応を図るべきところ
不器用でアホな僕はそれができない(笑)。
で、ひらがなを書くために、片方で詩を書き始めた、
みたいなところがあるかもしれません。
たおやめ、に憧れているのです(笑)。
これが実はマッチョの証左かもしれません。
漢詩はつくるの難しそうです。
日本で使用している漢字からは
音韻が測れないこともあるし、
「古典」をどう織り込んでゆくかでも
ものすごい教養が要る。
某詩人が「漢詩をつくる会」みたいのに参加して
漢詩をつくったことがある、といっていましたが、
それが果たして漢詩の要件を満たしていたかどうかは
現在の詩人の「教養」からして疑問です(笑)。
(宏輔さんへ)
知識の共有が対話の前提なのは確かですが、
それだけでは
「おたく」同士のコミュニケーションにも帰着してしまう。
本当の対話が成立するために前提とされる教養とは
何なのですかね
●
【改行屋・廿楽商店さんの日記「いただいてますありがとう」へのコメント】
たしかに乱歩は「少年のお尻」がモゾモゾします。
ただし僕などは、短篇『蟲』の死体描写を筆写して小説書きの練習をしたり(どんな小説じゃ−笑)、
長篇『孤島の鬼』の作中手記をエチュードにしたりしてました。
むろん、そういうのは充分に変態に耐性ができた大学の頃で、
廿楽さんの尻こだまのような詩的鳴動は
ひたすらアホな小学生時分の僕にはなかったような気がします(笑)。
『銭ゲバ』への覚醒も廿楽さんは早いですズラ(笑)。
俺なんか、永井豪『ハレンチ学園』を読むとどうしてちんちんが勃つのかと
友だち同士で身のない議論をしてたもん。
楳図かずお『猫目小僧』は傑作な映画化もあって、
大学の講義教材にどうかと
40年ぶりくらいにこないだ読み返したところでした。
マンガは記憶どおりに素晴らしいままでしたが、
井口昇による映画化作品もお見事です。
もっといろんなものが混ざって、
僕の好きな、雲古っぽさもある(笑)。
お薦めしておきます。
ああ昔日赤面の我いづこ。
いまじゃ、そういうわけで、
スカトロなどというものにも興味が出てきてしまった(笑)。
実行していませんけどね!(ト、強調してみる)
「土曜日の男」が同級生にいたなんていいなあ。。。
●
「だったのでございます」芝居に、
僕は大学時代、関わっていましたよ。
気味悪い、怪奇芝居(笑)。
でもちょっとロートレアモン的な。
そう、先輩に熱烈で天才的な乱歩狂がいて、
それに僕も染まった。
そこから僕の学生芝居キャリアも始まったのです。
あ、手塚治虫体験は、僕と同じですね。
僕も『バイパイア』の間久部禄郎、
それと『どろろ』は全体が好きでした。
「少年サンデー」時代の、低調期といわれる手塚が。
この2作にはトラウマもつよい。
反面で僕は「ガロ」を背伸びして読んでいました。
初めて買った大判のマンガ単行本は、
林静一『赤色エレジー』です。
あがた森魚がヒットする前の話です。
(あ、『鉄腕アトム』などもあったか)
で、「ガロ」では安部慎一の熱狂的なファンになった。
これは中学1年くらいかな。
それまでは、小学生なのに、「つげ義春、神様」でした。
青林堂版の豪華作品集を
坐り読みで擦り切れるまで
日曜ごとに本屋で勝手にタダで読んでました(笑)。
何と図々しい小学生。
蒙古斑点がまだ存在していたくせに(笑)。
同じように背伸びして読んでいたのが
「少年マガジン」の山上たつひこ『光る風』と
真崎・守の『共犯幻想』でした。
このあたりは廿楽さんとの年齢2年差が関わるかもしれない。
あ、当時の永井豪は、どの作品も傑作です。
なかで僕は「マガジン」連載の
『キッカイくん』が一番好きかなあ。
『ハレンチ学園』は時代色を反映して、ラストが重くなりましたね。
洒落たマンガも好きだった。
つのだじろうの『グリグリ』とか。
そんなこんなで「りぼん」の弓月光さえ
同級生の女の子から奪って、読んでましたよ。
ここから僕のセクシュアリティが危うくなる(笑)。
え、廿楽さん、井口昇版『猫目小僧』、ご覧になってるんですか?
イマイチというなら、僕がオルグします(笑)。
僕の「図書新聞」に書いた作品評を添付メールしますよ
●
あ、僕も白土三平、大好きでした。
とりわけ僕にとって大きかったのが『カムイ伝』。
僕の周囲の同級生も熱中して読んでた。
なんであんなに難しいものを、ともおもうけど。
TVでアニメ版『カムイ外伝』をOAしてたのが大きかったのかもしれません。
そうそう、憶いだしました、その『カムイ伝』読みたさに
僕は「ガロ」を立ち読みしはじめたのです。
『カムイ伝』の影響は大きかった。
だって、網野史観を知らずに躯に叩き込んでいたわけだから。
「com」も読んでました。
岡田史子や宮谷一彦など「新人作品」にドキドキしてました。
評論家「草森紳一」の名はこの時点で叩き込まれた。
これは僕のなかでは「ガロ」の上野昂志と対称形を当時なしてました。
劇画。
劇画にはマンガにない線の稠密があった。
それがスピードとなり、翳りとなり・・
こうしたものの原型は、僕にとってはちばてつやかもしれない。
街路の汚れ、ズボンのつぎあて、畳目・・
最良期のちばてつやには、昭和のリアリズムが確かにあった。
「少女フレンド」での作品が大きい。
『みそっかす』『テレビ天使』は何度読んでも泣けてしまいます(笑)。
山上たつひこ『光る風』は当時の右翼の容喙があって
連載が突如、打ち切られたらしいです。
時代色のつよいエピソードですね(笑)。
その後、彼は作風を変貌させた。
その最初の結実が『喜劇新思想体系』です。
その普及版が『がきデカ』だった。
『喜劇新思想体系』はすごく面白いです。
廿楽さん好みだとおもいます。
当時の小学生は
永井豪によって女子のパンツを見ることがマンガ体験だったり、
弓月光によってキスと赤面を想像することがマンガ体験だったり、
日野日出志によって皮膚病の恐ろしさにゲゲッとなることがマンガ体験だったりしたんでしょう。
みんな、お尻がムズムズくるものです。
そんなお尻を原っぱの地面にすりつけて昆虫みたいに喘いでもいた(笑)。
そんなこともあり、いまの子より、ずっと「見た目」が汚かったですよね。
「女子」はどうだったのか、ともおもう。
僕より一個下の小池昌代さんは、
「小学生時分のあたしは牛蒡のように細くて真っ黒で、
誰にも見向きされなかった」といってました。
ほほう、という感じ。
光に照らされた孤独の輪郭がみえる。
しっかし、陸奥A子まで廿楽さんの守備範囲に入っていたとは意外(笑)。
「アタシってドジ♪ エヘっ」というのは
後年学習された「乙女ちっく」への定番難詰文句ですが、
ああいうところが
「女子」のわけのわからなさだと僕はおもっていました。
で、僕はどうだったのかというと、
犬の雲古の日ごとの変化を研究日誌にしたりして
担任にせっせと提出していました。
あれは乾いて風にさらされると完全な繊維になります。
それを僕が得々として「女子」に教示すると
「女子」は「男子ってバカ」と冷たかったです(笑)。
うーん、こうやって当時の自分を振り返ってみると
自分の一コマ一コマが非連続で
まるでつながっていなかったような感慨に囚われてしまう
コメント欄集成
●
少し前、
マイミクさんのコメント欄からペーストした自分の文章を、
この日記欄にアップしたら
わりかし反響があったので
今日はその第二弾です。
あえて、もとの日記やコメント欄の前後についての解説をしないけど
僕の「部分」が以下に断章形式でしめされていると
わかる程度にはなっているとおもいます。
本当はこういう日記を自分で書きたい。
果たしてこんな、mixiにとっての掟破りは
省力的に日記をアップしてしまおうという
僕の吝嗇によるものなのか?
あるいはストリップにもまごう大盤振舞の自己露呈なのか?
ご判断はおまかせします(笑)
あ、みなさんもこういう企て、やってみるといいのでは?
ではでは
●
【三村京子さんの日記「詩 直し」に書き込んだこと】
「情」のほとんどは
そこに通用性があり、俗情と結ばれるかぎり、
けっして「具体的」ではないということ。
高度な「観念」は逆に独自性・単独性をともなうことで
むしろすぐれて具体的になるのです。
これが詩というか、文学性の、大原則的な逆説。
もっと勉強しなさい(笑)
●
【三村京子さんの日記「マイナーであることに」に書き込んだこと】
「マイナー」というのは
ドゥルーズのカフカ論によれば、
既存性をつくりかえる作動要素のようなものです。
ということでいうと、
ドゥルーズは「マイナー」vs「メジャー」の二元対立など
はなから眼中に置いていない。
というか、「メジャー」など存在しないのです、
たとえばヒトラーなど存在せず、
ヒトラーに熱狂する民衆だけがいた、という言い方も成立するように。
ただし僕の歌詞はジム・モリソンのように「文学的」ではないよ。
詩ではなく、歌詞をつくっているつもり。
具体的にスローかアップかはともかく、
歌詞のスピードが楽曲・歌唱のスピードと相俟って
聴き手の固定性を侵犯すること、
それが「歌モノ」の醍醐味だとおもう。
ロックにはむろんそんな属性がつよいけど、
この感触は実は「演歌」にだって「シャンソン」にだってある。
ただしいまのJポップの概ねにはないね
●
「私は終わらない」とか「自画像が消えだす」なんかは
半分は意味不明な呪文が雪崩れている、と
聴き手に感覚されてもいいんだとおもう。
それによって、謎や電気性が生じ、
これが聴き手を惹引する要因ともなる。
歌詞のすべてが可聴的かどうかなんて
「歌」にとって実は大した問題ではない。
よくいうけど、たとえば
ローリング・ストーンズだって
ファッツ・ドミノの教えを守り、
歌詞をはっきり聴えないよう唄う強度を志向した。
歌詞もオリジナルジャケットには刷りこまれていないし、
日本版で歌詞カードをつくるときすら
ネイティヴ数人がそれぞれ持ち寄った「聴き取り案」を提出しあって
喧々諤々の議論を繰り返したという。
ただし、いまのメディア環境をリアルに見つめるなら、
まずは三村さんはライヴで曲を唄い、
「歌詞カードがほしい」と聴衆におもわせ、
会場でCDを売る、というのが第一の得策だろう。
歌詞カードをみると、また驚きが生ずるはず。
聴いただけでは判断できなかった「逆転」も仕込まれていると
気づかれるはずだから。
次がミュージックステーションへの出演(笑)。
あの歌詞テロップは聴き手に震撼をもたらすのにやはり便利だ。
--と、こないだMステをみてもおもった。
なかで林檎、吉井和哉、長瀬智也が抜群だったが、
そうおもわせたのには歌詞テロップの力が大きかった。
自分を「バカ」と開き直ったりせずショージンせよ
ハイ、「ショージン」には
「精進」と「消尽」を懸けています(笑)
●
歌の聴取の「完成」はどの次元で成立するか。
僕はそれを「記憶化」だとおもう。
記憶はむろんその者のアイデンティティの根幹で、
これなしに人は生きることができない。
犬にも不全ながら、
あらゆる匂い、主人の行動パターン、人語の響きなどの記憶があって、
これらに接して、われわれは生き物の幸福を感じとる。
犬の場合はそれが不全だから、そこに惻隠もからむ。
あるいは「空間にもそれ自体の記憶がある」。
これを小津映画の読解によって導き出したのが前田英樹『小津安二郎の家』だし、
小説空間に見事に定着したのが保坂和志『カンバセーション・ピース』だ。
記憶のまつわった肉体・空間は、それ自体「二重化」している。
一重目と二重目が干渉しあって、
それがたとえば
肉体が肉体であることを抵抗圧とともに保証する。
とすれば、肉体にとって記憶とは幸福の保証で、
ということはもっといえばあらゆる記憶は「恩寵」なのだった。
空間の恩寵もまた記憶に包まれている。
そのような空間を幾つもつかで
幸福を数値化できそうな錯覚すら起こる。
歌もまた、そうした角度からこそ人に舞い降りてゆく。
歌を聴く。幾度も聴く。あるいは歌詞カードを手にとって
意思的に歌詞をわがものにしてゆく。
そしてそれを鼻歌でも何でも「唄う」。
このとき最初聴き手、いまは唄い手となったその者の躯は
「他人の言葉」にメロディやリズムとともに貫かれる。
この「貫かれ」は、同化というより、
自分が他者になるための自己凌辱の一種だが、
やはり自他の隙間で「その身」がまるまるざわめいて、
論理性になじまない幸福感がそこに発露せずにはいない。
すべての歌は記憶による把捉をもとめている。
そこまで考えた場合、「日常語」の「通り一遍」の歌詞にある感情が
たとえ歌によって新規化・新鮮化されていたとしても
歌唱をつうじての記憶の反復に値するだろうか。
その程度の「感情」なら学習済みと
この時代の不感無覚を決め込んだ者なら即座に言い返すだろう。
新しい感情は、新しい言葉によってもたらされる。
そして、新しい感情を得るために
人は歌、詩(歌)を渉猟してゆくのではないか。
聴衆のイメージを変えるんだ
三村さんの身体は変貌しつつある。
あなたはいま、僕との共作曲を歌詞カードをみずに
30曲以上、立て続けに演奏できるほどにそれらを「記憶化」した。
あなたの躯には僕のつくったあなた用の言葉が渦巻いている。
そのこと自体があなたに、躯の変貌を授けている。
その躯の変貌完成を俟って、次に自曲の作詞にいそしめばいい。
そのときは、僕はたぶん、あなたの次の変貌を見越し、
言葉を斜めからあなたに放ってゆくだろう。
記憶が摩滅するとは、死期が近づくということだ。
振り返ると、僕の現状がもうそのようになっている。
若い頃は、現代短歌の百や二百は暗誦でき、
英語曲(ロック)も数十曲は最初から最後まで暗誦できた。
これらの「記憶」が当時の僕の肉体の幸福をつくった。
ボブ・ディランはライヴでは
あれほどの歌詞量なのに
譜面台に歌詞カードを置かない。
(若いころの)彼の「充実」は、そんなかたちをしていた。
よしだたくろうはいつも譜面で歌詞を見ていた。
その躯にすでに「充実」はなかった。
記憶力は極端な能力差がある。
蓮実重彦は一本の映画を観ればすべてのカット変換がいえたというし、
塚本邦雄は一冊歌集を読み終わり、
眼前の相手が恣意的に掲出歌の上五を読むと
以下の七・五・七・七をすべて暗誦できたという。
僕の友だちの郡淳一郎なども
石川淳『紫苑物語』の書き出しは10行くらいスラスラ暗誦できたし、
稲川方人や吉岡実などの詩についても同様だった。
ただし、これらは「記憶の恩寵」ではなく、
「記憶の魔」に属するものといえるかも。
「幸福」の視覚性はいつも少し霞んでいる。
はっきりしない記憶のほうが、ひとを自身の
曖昧な探究に導くのではないか。
プルーストの記憶がぼんやりとしたかたちで最初に現れ、
それが鮮明に全体化する手続きをいつも踏む事例に思いを馳せるべし。
なぜ、記憶が幸福にぼやけるのか。
このことが、記憶が身体にからまっている証左となるだろう。
自分の躯が邪魔して、記憶は見下ろしにくい位置にある。
ということは、「記憶の魔」に捉えられている者には
たぶん肉体がない--そういう考察をも付帯的に導きうるだろう
●
【猫侍(射手座)さんの日記「怪談」に書き込んだこと】
『怪談』は傑作だと僕もおもいました
(同時期にほかに書くべき作品がなかったら、
どこかに書いていた)。
この映画の真諦は「重複」が怖い、ということです。
「累(かさね)」=重ね。
なぜ、ひとつの同じ場所に旧悪のすべてが「いつも」蘇り、
悪によって疾走しようとする運命までが差し戻しを食らうのか。
それによる意気阻喪も見事に描かれている。
それを映画的な美しさに昇華していたのが、
女優陣の競演もさることながら、尾上菊之助の美しさです。
美丈夫は「やつれ」を演じられて真の美丈夫。
それで映画の視覚性が「運命の舞踏」にまでなった。
実に崇高でした。崇高美。
反復の恐怖は中田秀夫の『女優霊』以来のテーマですが、
今回は怪談落語の語りのリズムももっていて
(それは映画的ショッカー演出と離反しない)、
演出の成熟も感じましたね。
見ていない方は今すぐ劇場へ(笑)
●
【改行屋・廿楽商店さんの日記「うまのいるえき」に書き込んだこと】
「馬」と「沼」の詩。
その韻がたたみかけ疑問文に変化し、
しかも地理を唄っているのに
地理を唄い切れない暗い不如意もある。
こういうのが稲川さん特有の「抒情」で、
僕はそれが初期三冊全体にも通底しているとおもっています。
稲川さんは暗い磁気をもつ「動物」で、
その詩が野蛮だったときに最も読み手を直撃する。
西脇に通じる風韻、と僕がいうのはそこです。
森川さん、また相対比較してる(笑)。
とはいえ稲川さんの出発点が
言葉の問題ではない、というのは賛成です。
たぶん身体の怒りの量が他の人より多く、
それで頭に言葉が回らないんじゃないか。
そこがあのひとの偉大さの最たるもの、とおもうのですが
●
しかし、廿楽さんは実にいい一節を抜かれましたね。
僕は田中宏輔さんの日記の書き込み欄で
少々、稲川さんにキツいことを書きすぎてしまったという
反省が確かにあります。
廿楽さんはそれを調整したのかな?
ただし、稲川さんは90年代以降、実作であまり輝いていないとはおもう。
その確信が正しいかどうかを知りたくて
何しろ新詩集を読みたいとおもっています。
一行の長いことの多い最近の稲川詩は
廿楽さんの引いた詩にみられる、改行の呼吸の自己否定です。
自己財産の否定ともとれるこれは
「自己模倣」からの離脱ということなんでしょうか、森川さん?
●
たしかに悔恨を詩の原理にしていいか、という問題は
稲川方人と石原吉郎に共通する問題かもしれません。
その点では「稲川型」に詩の未来があるとおもう。
(僕は石原吉郎は危険だ、と詩の好きな学生にはいっています)。
「土地」を包摂した点では山口哲夫は
たしかに土地の詩人なんだけど、
終生、その詩が幸福だったとおもいます。
最上の方言があったのがその証左。
夭折がその事実を誤解させている嫌いがあるか。
無類の野球好きでもあったようだし。
あ、森川さんがすごくいい山口哲夫にかんするエッセイを
ブログに書いていましたね。
しかし廿楽さん、「書紀」系列のメンバーをよく掴んでいますね。
古賀忠昭については読みたかったのだけど、僕はほぼ未見です。
それと松岡正則はどういう出自の詩人でどういう詩を書くのか
まったく知らない。
不勉強で申し訳ないです
●
石原吉郎の躯には「殺気」が仕込まれていた。
それは確かに読者や周囲のひとを魅了するのですが、
生活の振舞もその「まんま」だったという特にその晩年に
僕はすごくヤバいものを感じてしまうのです。
石原吉郎の言葉はたしかに美しい。
それがだんだん晩年に向け、痩せてくる。
その痩せてくる様相も美しい。
ただ、それを突き出すことが
詩を書く動機だというのは
何か僕には逼塞的に映る。
抜群の語感をもったひとだったとおもうし、
その散文も真摯で大好きですが、
どこかで「まんま」を貫きとおして
詩が余裕をもって二重化していない。
『サンチョ・パンサの帰郷』には
たしかに喩が晦渋で、
二重化した詩があるようにもみえるのですが、
どこか他の「体験」をもとに詩を書く人間とは
根本的にちがっていて、
その謎が魅力的ではある。
以上あれこれ書きましたが、いつも矛盾によって
自分が覚えた魅惑に留保をつけられてしまうわけです。
だから僕は石原吉郎については思考停止してしまいました。
僕もふてくされているのかもしれませんね(笑)
●
【田中宏輔さんの日記「水風呂につかりながらの読書」に
その後、書き込んだこと】
(エビちゃんさんへ)
僕がいう「閉鎖系」は
たとえば「王様は裸だ!」という外部からの一言で
瓦解してしまうような、
そんな言葉や人の制度・機構だと考えてくれればいいです。
マクルーハンの「ヴィレッジ」でもいい。
そこを流通する精神性が「月並」だということでしょうか。
実はエビちゃんさんが最初に書き込まれた文(「閉鎖系」ですか)については
固有名詞や用語に暗く、
僕はたぶん半分も理解できてはいません。
詩の「形相」と「質量」という二分法を用いたとして
それは表裏のように分離できないのか。
たとえば音韻と、喩などの意味との二分が詩にあるとして
それは「形相」「質量」どちらと見なすのか。
あるいはこういう言い方そのものに単純化の悪弊があるのか。
とはいえ、虚子の
帚木に影といふものありにけり
には震撼しました。
歴史性を裏打ちされた言葉が
「現在」にこうして不意に戻ってくる生の魔的体験。
「影」に向いている虚子の現在の眼。
僕なりに言い添えれば
「といふものありにけり」という
虚辞にちかい言葉の運びが
さらにこの震撼に拍車をかける。
ここに現れている現在は「薄い」のではないか。
「薄い」がゆえに却って現在の脈動を湛えているのではないか。
ともあれそうして、森川さんのいう「歴史意識」に
エビちゃんさんは具体的に釣り糸を垂らした。
「歴史意識」とは言葉の多重性にもとめるべきだったのですね。
(宏輔さんへ)
翻訳詩の重要性が看過されているというご指摘には僕も賛成です。
ところが「詩手帖」では城戸朱理の訳業だけが繰り返し言及されるだけ。
たぶん「歴史的」な詩の翻訳については
もう済んでしまった問題だと考えているのかもしれません。
ただし、個人の詩はそれ自体が
何事かの「独自の翻訳のように」書かれるものです。
石田瑞穂などはそのように詩を書いている。
そうして言葉の霊性や翻訳不能性に迫ろうとする姿は
僕なんかにはわりと頑張っている、と映るのですが。
現代詩がブランド化が下手かどうかは微妙な問題になっています。
一般読者には一切その「ブランド」は無関係な事柄に成り下がっていますが、
詩のおたくは、そのブランドに欲望を感じて走り回っている。
それがなぜ、もっと広い裾野にまで波及しないかといえば、
端的に、「詩集を互いに送りすぎているから」のではないでしょうか?(笑)
そこで満ちてしまっている。
ホラ、またぞろ「閉鎖系」の問題が出てきました。
この「互酬制」、何とかならんか
●
先行訳のあるものは
先行訳をアレンジした
「他人の褌どり」にみえてしまうことがある。
ただ不勉強な僕がいうのも申し訳ないんですが、
読み較べて、どちらが原詩の何を強調したか、
原詩の語順をどちらが守っているかなどは
常に眼を光らせなければならない。
ここにも詩の「オリジナリティ」の問題があります。
おもえば小林秀雄と中原中也がランボー訳を競った時代くらいまでが
幸福だったのかもしれません。
翻訳者たちは逐語訳の必要をいう。
ただそれは漢籍からくる圧縮技術を放棄しての怠惰ともみえます。
七五の枠に翻訳詩を納めた上田敏以来の訳業では
西洋語とともに、和・漢もひしめいていたわけですね。
それで言語的沸騰が起こっていた。
この「沸騰」が反転して朔太郎以来の「現代詩」を生んだ。
西脇の詩の訳業もすごく(意外なことにマラルメ訳も素晴らしい)、
Keffさんのおっしゃるように、
西脇と「西洋古典」の関係を探るのはとても重要です。
むろん、西脇には、短詩系との関係の問題もある。
芭蕉でも何でもいいんだけど。
僕自身は現代詩と現代短歌を並行的に読んでいた大学時代を過ごしたので、
ずっと以前、「現代詩手帖賞」に応募したときも、
すぐに短歌的喩を詩に導入している、と
最終選評座談会で大岡信に見抜かれました。
大岡の発言だったのが癪だけど(笑)。
エビちゃんさんのいう、
語の古さの影が語の現在を突き破る恐怖のほうを考えていたのかもしれない。
学生時代が終わってちょっとした時点での話です。
詩をふたたび書きはじめたのはここ数年です。
その2、3年前にも一瞬書いたことがあり、
その詩稿が巡り巡って、詩論家として一家をなすSさんに渡った。
僕はそのとき旧かなをつかって詩を書いていたのですが、
その表面的共通性だけをもって、
入澤さんや那珂さんが好きなのですか、とそのSさんからいわれ、
絶句してしまいました(笑)。
何という表面思考だろう。
これが単純な「相対比較」とも結びつく。
こういった精神性を詩壇の中心と呼ばれる位置に垣間見て、
以後、詩作の意欲がまた数年、萎えてしまったのです。
最近、また詩を書き始め、
mixiに発表しだしたのですが、
時にいろいろ論議をかもしています。
ただそこでも、僕のつかっている喩が短詩系由来のものだと
誰も指摘してくれないのがちょっと淋しい。
同時に、詩にはパロディも数多くもちこんでいるのですが
(宏輔さんはさすがに一瞬にして見抜かれましたよね)。
「現代詩」の賦活が
翻訳詩と短詩系の両方をとりあえず視野に入れることにもある、
というのはなかなか実践的な意見で
すごく首肯できます。
Keffさん、来年に出されるという詩集、期待しています。
エビちゃんさん、
篠田一士が「背表紙」以上の情報を読み取れない、というのには
大笑いしました。
知的大食漢を誇ったひとだけど、
そのガサツさに僕は学生時代、何度も腹を立てたことがあって
彼が歴史の藻屑となった現在はすごくいいことだとおもう。
ところが、最近、四方田犬彦がまた篠田を俎上にのぼせてしまった。
けれどもそれが、
由良君美が蛇蝎のように嫌っていたという文脈上だったので安心しました(笑)。
ハイ、『先生と私』です
●
(エビちゃんさんへ)
わ、バラしちゃ駄目(笑)。
いやあ、昔の僕の詩なんてひどいもんです。
真実のかわりにパッチワークがあっただけ。
当時の下書きなど、みんな廃棄してしまったので
記憶でいってるのですが。
飯沢耕太郎はすごく投稿時代、よかったです。
ところがそれを無視して
新たに書き下ろした『茸日記』は輪をかけてよかった。
あれは評判をとったのだろうか。
飯沢さん自身の「啓蒙的」写真評論よりずっと上等でした。
芝山幹郎さんはむしろ詩人として出発してから
その筆を折り、翻訳や映画評論、野球へと
筆の領域を延ばしていったのではないでしょうか。
帷子耀の数少ない証言者。
「68年」を感じさせるひとのなかでは
僕は相等に好きですが、
『晴天』の話をすると、
そんなヘンなもん読んでるんですか、と
本人に笑われました(笑)。
加藤郁乎の現代詩文庫に解説書いてますよね。
批評と詩作が平行するというのは
ありがち、でかつ、正しい、執筆態度だとおもいます。
ところが僕の場合は、批評が有効性を失いつつあるという認識があって
詩作にいま舞い戻ってきたような自覚があります。
だから四方田犬彦のような余裕もあるわけじゃなく
●
批評家が無用だというのは
時代の必然になりつつあります。
誰もが、単に自己表現をして
気持ちよくなればいい--
こういう時代では
批評はノイズをもたらすものとして
徹底的に不要なのです。
宏輔さん、だから僕なぞは
批評性を実作が内包していると考え、
むしろ実作で批評を試みているのかもしれない。
これはリアリズムの問題。
評論集は内容がよくとも
ネームヴァリュウがないと
現状は2000部が絶対に売れません。
「そういう時代になった」というしかないんだけど
これは損益分岐点からいって
本の出版が不可能だという事態を表してもいます。
詩集の300部か評論の(ありえたとしての)千部。
これはもはや目糞鼻糞の問題にしかすぎない。
それで、僕などはいっそ詩作でいいや、と考えているのです。
ただ、こういう厭世的な物言いにたいしては生産的な批評を待ちたい。
たとえば、ネットはそういう状況を打開する可能性があるなど
●
批評が駄目になっているのは現象的な必然だ、という視点が
もはや必要になってきているのではないですか、これは。
大きいのはやはり知識のタコツボ化、
それに伴って諸分野を連接できる叡智が機能しなくなっていることでしょう。
Keffさんのつかった「おたく」の語もそこにこそ関わっている。
もう一個、自分の教養を棚上げしといて
自分の興味の埒外にある批評にたいし
「わかりませーん」と合唱する衆愚たちの「暴力」も
批評自体をげんなりさせている。
で、啓蒙ではなく、
自身のせちがらい底上げのためにのみ書かれる批評もまた
点数稼ぎであれ威嚇であれ、対・同業の枠組に「閉じて」しまう。
一体これらをどうするのか。
僕などもロック批評を書くのだけど、
以前の多くのロック批評では、
音楽の具体性がほとんど書かれなかった。
リズム、フレーズ、音色、コード、メロディ、バンド構造。
それらを具体的に組み込んで、
かつ音楽史以上の脱領域性にも伸びてゆく僕の文章など
じっさい驚くべきほど読者が少ない。
ならば、いっそ作品を・・(読者が少ないのは同じだし)
って、前と同じ愚痴を書いてしまった(笑)。
もう批評、やりたくなーい
という「気分」がいま再び蔓延しているのではないでしょうか、
大きくいうと
●
【Keffさんの日記「怪談・音痴大宴会」に書き込んだこと】
Keff-宏輔は漫才をやっているようだ(笑)。
クズ詩にも色々。
最近の僕にとって強烈だったのは「現代詩文庫・山本道子詩集」かなあ。
山本陽子と間違えて買った僕がバカだったんだけど(笑)。
学生のジャンク詩のほうが
「自称」「最前線」詩人の多くよりも面白いとき
たしかに価値の転倒が起こっている。
それで、いーじゃありませんか、という気持ちですね、最近は
音痴の歌というのはガキの絵のように認めがたいものだけど
(あ、Keffさんの論じた音盤は実に面白そうです)、
意図的な音痴で不協二重唱をするその音楽性が滅茶苦茶高いという例もある。
となると、バカ詩人のバカフレーズをあげつらうより、
バカ詩人のフレーズをパスティーシュして
もっと強烈なジャンク詩をひねりだす手だってある。
笑いとしては高度になっちゃうかもしれんが
こんなのどうですか?
点に向かっておしっこをしたいと思うのが壮年
●
(宏輔さんへ)
勇気あるー(笑)。
僕は「クズ詩」というジャンルに
倒錯的興味がすごくあるのです。
早く読みたい♪
あ、先のパスティーシュ、いま読み直すとすごくリズムが悪い。
城戸某のリズム感の悪さをひきずっちゃってる。
よって以下に訂正:
点に向かい尿ぶっ放すのが壮年だ壮年
ま、これなら阿部の詩句にもなっている(笑)
●
Keffさんはまだ真の「男意気」を知らない(笑)。
「点」は数学的には面積がないんですよ?
したがって、このパスティーシュには
「尿毒おやじ」の気分も入っているのです。
ってホントかよーっ!!!
膀胱が黄金の輝き内包し
浮かぶ夜空を夢見ました
●
【瞳さんの日記「あー」に書き込んだこと】
ほほう
バス停考
【バス停考】
《立ったまま沈んでゆく塔》
のかわりに、(花弁の流れ)
春先から昨今までの沈みが
ここに猶予されているのか
女房とは一日乗車券で
バスの終点から終点を乗り継いだ
城東に乱立する銀の狼藉もみた
南砂町の巨大 商店街はどこ
花売りは 《微笑する井戸》はどこ
見上げれば天心も引き絞られて
疲れた真夏の真夏、
その黒い底心を指針している
怒りにもう躯が重たくなって
昨日みた白鷺を微醺にはなち
週末をひたすら寝てすごす
商店街はどこ――自問自答が残響し
《剖かれたウヲかいまみた》《夢のあと》
この世のちいさな足溜まりとしては
立て続くバス停も恣意にすぎる
ただ通過の通過を謂うのか
浅草雷門−平井乗り継いで、
平井−東大島乗り継いで、
東大島−門前仲町乗り伏せて、閉じた瞼に
富岡八幡前の古本屋消えている
《九界に九官鳥充つ、虚辞ばかり》
たままん句会の題詠をふと考えてしまい
もうわたしはアダ わたしはアザ
天の仇 字十二番地
極点で息を切る、
伸びたつはものの
田中宏輔さんの日記に書き込んだこと
以下は、田中宏輔さんの日記
「水風呂につかりながらの読書」の
コメント欄に僕が書き込んだことです
(ちょっとだけ手直しした)。
自分の発言だけを抜きました。
だから文意不明かもしれないけど、
あえて前後関係の解説はしません
(実際にご覧になりたいかたは
僕のマイミクから宏輔さんの当該日記に飛んでください)。
ただ、これで「現代詩」の問題が
どのあたりにあるのかが
とくに僕の学生マイミクには理解されるだろうとおもう。
そうおもっての、あえての「蛮行」です。
僕の外部ブログ「ENGINE EYE」の読者にも
この話題を供したい。
一部、実名攻撃がありますが、なに構うもんか。
ではご覧ください。
(僕はこういう変則形式の日記アップが好きです)
●
今後、優れた文体は
倫理性をもつことによって
そうならねばならない、
とかつて柄谷行人もいってたんですけどねえ。
「若いひと」はたぶんそんなこと思いも寄らないでしょう。
大岡昇平は僕も最近読みました。
『中原中也』。
篠田一士の「いい加減書評」に反論する文章に
とくにグッときました。
怒り方が素晴らしかった
●
詩の雑誌についての感想は僕もまったく同じです。
「外部」から言葉が導入されていない。
「系」を維持するために
「系」が規定した言葉をほぼ同語反復してゆくだけで
実際には何事も語られていない。
思潮社が恣意的につくったひとつの評価に
ほぼ全員が右へならえ、をする。
「通行手形」さえ得れば
真の才能の潜在に誰も恐怖を感じないままのサボタージュを決め込む。
母語の更新、思考の更新、私の更新と関わらない愚作も多すぎる。
たまに「外し」のスタンドプレイをする奴がいるが
その倫理性すら審問されない。
云々、云々。
いまの詩壇、完全に
崩壊する前の90年代初頭の映画評論界に似ています。
50歳以上の夜郎自大が多い。
そうした逼塞を打開するために使う材料が
たぶん「倫理」「心」といったものになるのではないか。
「トガった老人」というのは
そういうものをもった人間のことですね。
このタイプが若い真の才能と連動しなければならない
●
Keffさんもおっしゃってるように
「若い人」問題って根深いです。
「新しい詩人」の「新しい」とは何か、論争など
実にバカバカしいのですが、
なぜその世代の言葉に共通項が出てしまうのかは
やっぱり大きな問題ですね。
吉本隆明は、たとえばそこに
共通して「季節」がない、と指摘した。
感情の普遍、を指しているのでしょう。
小ささのなかでまとまり、
稀用語彙に見やすいナルシズムも滲み、
それゆえセコく・・・
そうでない新しい詩人も色々いるのですが、
詩が元来は「大文学」だという点、ほぼ閑却されていますね。
宏輔さんのおっしゃるように
すべてを「同時性」によって均し、
混乱を混乱のままに平準化させるネットは
言葉の待機や熟成に貢献しない。
それで動物的反射こそが、喜怒哀楽の真諦にすりかわる。
まあそれが「時代」ということですが、
やはりネットという文明の利器は
たとえば「詩」のような、無目的なものにこそ
活用されなければならない。
僕はいつもおもう、資本が用意するものは蜂の巣状にして、
そこにユートピアをつくらなければならないと。
宏輔さん、現在年齢46歳というのは才能ですよ。
批判精神を涵養できた時代をくぐってきて、
なおかつ、シンドいけど「現在」も見渡せる年齢だから。
多くの団塊は、意外なことにそれができない。
ひとりに宛がわれた孤独の総量が少ないのです。
49歳の僕は、自分をそうおもおうとしています
●
「書くことの冒険」には多様な意味がありますね。
全篇引用もむろんそう。
作者は連結器として後景化するけれども
その「作者の位置」が読み手にとっても書き手自身にとっても
幻惑となる。
むろん現勢化の動機となる「書き手」のほうが先験的です。
書き手が自身を幻惑する--
この動機によって書かれる詩が少ない。
詩の冒険は、圧縮でも「私の複数化」でも
詩行の不統一でも、言語に危うさを与えることでも何でもいいんですが、
現代詩人の多くに感じるのは
「ありもしない大向こう」に向けたスタンドプレイというか、
受験得手の者特有のセコい「傾向と対策」の結果というか
「お勉強ちゃん」の「よくできました」だったりする(笑)。
僕が感じるのは驕ったことで濁った精神の不潔です。
その精神の駄目さに「お仲間意識」「選良意識」が関わっているとすれば
ここでも孤独の総量が少ない、という言い方ができる。
僕はやはり、詩篇をみてジワジワと熱狂したい。
そこを、「私」の傾向も同じ、語の逸脱も似通う、では
やはり、何事か冒険心で詩が更新されたとはみえない。
詩には肉体が必然的に現れるものですが、
その肉体を愛そうとしても
書き手の計算意識にぶつかるだけでは砂を噛む気持になってしまう。
僕は80年代、稲川方人の後裔として出立した
「IQ高官詩人」がとりわけ駄目だとおもう。
モチベーションがなく、同時に自己模倣の枠組において反動化している。
そして稲川方人は決して彼らにダメ出しをせず、
「詩壇」を営もうとしはじめている。
そして次に駄目なのが、
すでに「上昇志向」に眼が眩んで
その高官詩人に「憧れてしまっている」30代の詩人。
誰とはいいません(ただし石田瑞穂ではありません)。
それとは別により若い30代前半以下では
現に、新しい詩人に一定少数の清潔な才能も存在している。
ただネット時代の悪弊もあってか「お仲間意識」がつよい。
「あっちがそう打って出るならこっちは・・」の傾向がある、
「系」の内部の問題でしかないのに。
よく勉強していることと相俟って
これが彼(女)たちが「おたく」と呼ばれる原因でしょう。
逼塞と逼塞が絡んで、新しい逼塞が生まれている。
この場合、自称「冒険」は業界内の利用されやすい通貨でしかない。
詩壇を壊す潜勢力をもつのは
たぶんいまのところはネットなのかもしれないけど
あまりに無方向にすぎて把握もできはしない。。。
あ、僕がこないだ「詩手帖07年度年鑑」を読んで最も気持ちが悪くなったのは
「新しい詩人」について批判までふくめ
「個別に」正しい評価が全くくだされていなかったからです。
これが吐き気のうち最も大きなものだった。
ほとんどの年長者がそれぞれの新しい詩人を精確に読んでいない。
「傾向」を平準化して語ったにひとしい。
既存の「擬似」権威への反逆もない。
なかで杉本真維子が稲川方人に盾突いていて(笑)、
真維子だけは精神が清潔だなあと溜飲を下げました。
なんか愚痴が停まらなくなりそうなので、ひとまずはこのへんで
●
(森川さんへ)
当初の問題は、
Keffさんが文藝賞発表の「文藝」について書かれたことからです。
小説を一篇読んでいて
うっかり次の一篇に読み進んでいても気づかない--
それほど個々に差異がない、ということです。
それが、
ネット世代小説の通弊なのか、
その結果としての同時性平準化なのか(宏輔)、
教養の欠落によるのか(宏輔)、
倫理の欠如によるのか(阿部)、
閉鎖系特有の問題なのか(阿部)
といった論点を、これまでこのコメント欄で巻き込んできました。
Keffさんが「文藝」で体験なさったのと同じ問題を
僕はこのあいだ「ユリイカ増刊・腐女子特集」でも痛感しました。
論旨に微差あれど、誰の論考も「ひとしく」創造的ではなく、
腐女子文化への覚醒の順番争いを演じるだけの目糞鼻糞なのです。
これは、腐女子=おたくという「閉鎖系」特有の症候ではないか。
もうこの文化圏につきあっても収獲はないな、と僕はおもった。
これと同様の「おたく」感が「新しい詩人」にはたしかにあります。
森川さんはそこに共通して歴史意識の欠如
(あるいは肯定的に捉えればセカイ系)という症候を見出していますが、
僕は実はその発言を詩壇「内部」の発言と捉えてしまう。
森川さん、詩のオリジナリティ問題でも朗読の可否でも
「外部」から言葉を持ち込まなければ駄目です。
そうでないと、「あれはいいがこれは劣る」といった
不毛な「相対比較」に必ずなってしまう。
相対比較で事が済ませられるほど問題は単純ではないでしょう。
相対比較の図式そのものを凡庸だと笑い飛ばした
蓮実重彦の「縛り」の先例がもう忘れられている。
蓮実さん自身はもう「かつての歌」を唄うひとにもなっています。
たとえば『「赤」の誘惑』(これをアマタイが今年の収獲に挙げてたなあ)。
これは、現在、進取的といわれる海外の思想家が
想像力の問題を取り扱うとき
必ず「赤」という色彩への感覚と表現の差を例示するのはなぜか、と問題提起し、
(思想界全体の)想像力の逼塞に論旨を接木する展開ではじまります。
つまりかつての蓮実『小説から遠く離れて』で、
石川淳まで含めた多くの小説で
なぜ「双子」「黒幕」「宝探し」が共通テーマになってしまうのか、と指摘し、
高橋源一郎などの執筆を停めてしまったのと同じ事態です。
ただ、「外部を欠いた逼塞に安住する想像力」に憤慨する、
蓮実さんの態度は決定的に正しい。
同じ問題が現代詩全般にないか。
(詩作をしている僕もふくめてですが)、
たとえばなぜほぼ全ての詩人が「川」を、「水」を、
「花火」を、「犬」を唄ってしまうのか。
主題系にすでにこのような共通項があるのならば、
修辞にも「カッコを閉じない」などの共通項があるし、
日本語の破壊の仕方にもほぼ同様の傾向が見られる。
相互学習の成果、というヤツです。
僕などはそれらを逆用したいとはおもっているけど
たしかにこの閉鎖系の磁力がつよく、なかなかうまく行かない。
宏輔さんのいう
「知性的であること」「感性的であること」が十全に機能できない、
この根本原因とは一体何なのか。
このとき「歴史意識がない」というのは、
事の一斑だと自然と気づかれるはずです。
それが「外部性を欠いた言葉だ」ということも。
大体、「戦後詩からの断絶を必要以上に強調しようとした」世代が
「新しい詩人」たちだ、というのは迷妄です。
「戦後詩」というのは制度上の幻想で
ここ30年以上は機能していない、
だから女性詩なども登場できたのだ、ということは
以前、森川さんのコメント欄でも意見交換したではないですか。
森川さんの規定が詩壇内部的にすぎるのです。
森川さん、自己変革の好機ですよ(笑)。
この問題の再考をお願いします。
あ、貞久秀紀『空気集め』、読みました。
素晴らしかった。
彼は間違いなく、「現代詩」で最重要の詩人です。
このひとの新作が「詩手帖」の07年鑑で
年度アンソロジーに載っていない理由は一体何なのか。
廿楽さんの詩もなぜ載っていないのだろう
●
言い忘れました。
吉本隆明の詩がずっと下手だという
宏輔さんの意見、大賛成です。
僕はそこに鮎川信夫を加えてもいい、とおもってます(笑)。
ただ最近の吉本、「もうろく」ぶりに迫力が出てきた。
これは鶴見俊輔などとも共通する傾向なのではないか
可愛いおばけ
【可愛いおばけ】
《交接に錆びて
やがて詩話となり皺となっても》、
そこに「混ざって」あるものが
いつも「おばけ」のたたずまい
(未来函からとりださなかったので
すごい ぼろぼろだった)
そこからは生も明滅する
たぶんこんなふうに前田英樹が
樹にも託して書いていた
(白昼そんなふうに読んでしまった)
縮めばまた膨らむのか
夏の終り知る ふとしたこころ、
夏の終り知る ふとした犬の陰嚢、
宇宙大に考えるべきなんだろう
とっておきの果実とりだして
割符併せするカタラヒの只今
うってつけの過日とりだして
貝合せするララバヒの只今
悪い生き方の二重国籍も
刻々の突端でシワヤセなのか
《アダプタのコード噛んでたら夕方
胃が伏して蝉落ちて死んだ。》
斜光世界、聴えないほどの大音響
この身密が四囲にもぼやんと拡がって
すべてが「潜在性と同じなのである」
可愛いおばけといる暮れ方には
色塵や声塵も ほぼ無限に流れる
なんだこの宇宙の風向き、
十界にひとつ足りない、
九界や旧界かもしれんぞ
キラキラ歩く
【キラキラ歩く】
明けた朝に ふとしたこころ、
ベランダは ほとけのてのひら充つ
微光で開かれようとしている
去った夜のかわりに
生ぬるく地上におりているのは
おほいなる跛足をもった神の下身だった
その足がキラキラ歩いて家々をこする
人ら微妙にひしめきかたむく気配
歩行は鯰のひと踊りをキラキラ呼びだす
歌のようには 地から 力、
越後や能登の三連発
「なゐ」なら欧語の否定形で
地の揺れのあとは虐殺と相場も決まる
昔が聴えるのは
この身の変てこゆえだろう
何もない白昼は折る、それが夏
ただエコーを買いにゆき
360度おぼろのなかを
あやかりつつ歩こうとして
たとえば田浦の底にはぐれる
季節外れに人の影が長いと気づく
(聴えたのはいつも夕方だろう、
(地軸あるかぎり犬笛が沸く
(男たるを夕闇が立小便にさそう
(構わぬ男なら 犬か幽霊になる
空が川のようにみえて
さみしさもこまかく流れるが
あんなものは空の芹、
産卵期も折ったよ
帰順なしだ、この亡命に
辰砂置き、
【辰砂置き、】
冥途の皮に辰砂置き
しらほね笑うローチのドラム
「朗読」談義なぞおととい置いて
眼からこのバネ取り出して
万物の窪みを低く流し目すると
(これ、未明のヘッドホン装着の喩です)
そこ、しらほね高原に
登仙百回の寺院群、連なった
やがての朝露に互いをつなぎ
背後にはニガグスリもかすませて
銀のはしごや、みやこの蜘蛛の巣
そこ、くだりはならぬ
からだ潤ませ高みを割れば
ああこれが東南の音だなあ
いざ あない せえ
死後燦爛となった
村上昭夫の雁、
おのれを魔擦るブラッシング、
傾きかけ 一羽のシンバリング、
ぼくならば天へ墜ちる渡り
あふれる風信をとりだしても
(そんなものは空の芹ですよ、
(たんなる風媒、
音が聴えることはもはや変てこだ、
むかし下宿に漏れてきたアヘ声よりも
暁闇はいっときのローチ、小さな悼み
やがて食欲のない夏バテ女房と
昨日のかやくで冷えた朝めし
(咀嚼音がパチパチ爆ぜる、)
顔色のわるさ映すほどに朝日も昇って
混浴案内
【混浴案内】
どうせこの世は混浴と、
演歌めくこの口がいつも禍ひ
《あとはおぼろ》のヤチマタで
巾着覗きもヤッチマッタ
覗けばいまだに背が伸びる
瀬を伸ばそうと 永遠のひとも
川べりに眠たく伏すのだが
この世に抒情の地下川、いくつ
(地図をたどるゆびなんて、)
規格外の私が気ままに炎えていた
混浴の中心に向け冷えびえ真夏を散歩
着服より着衣が許せない、お脱ぎ
おまへの服こそ閉鎖系だ、お脱ぎ
(うたう、)(言葉ある歌を)
1)観音の長衣となるまで
この長い脱糞でビホウ策を講じる、
2)厠こそ観音世界を圧縮するもの
ヤチマタの衣擦れ、ひたひたに聴え、
厠を出て泳いでいますね)、ヘイ多分
夏の内部分割を学説しようかと
んで 小ささと大きさの境をかえる?)
ヘイ多分、の3カケル3、
若冲のタイル升目の変てこ象ですわ
あの升目をつうじ
《みえないやつらが[…]
しきりにはいりたがる風呂なのである》、
この世の この世は ね
おのれを魔擦る
傾きかけの一羽の雁
も見える
緑について
【緑について】
今年の花火の眼目は
火薬の「緑」発色だそう
はかなや暗さの境を
幽玄へかえる謀りごと
(信長が最期に見たものを感じる
「流れる記憶」を記憶するようだ、
肝臓の紫/胆嚢の緑/体内花火
白昼の夏ならいつも行く手を
規格外の緑が気ままに炎えていた
触媒され、血の胆汁化あわれ
(「踊らば踊らず」の深意とは
その緑を犬の花火師たちは
裏側から夜空に閉じようとしている
「何かが死んだ」「このことの縫い」
祝ひ・さきはひ、禍ひもみな消える
わたしもまた竹薮より大きくなって
家主が眠るそのあいだこそ
召人たちの悪戯のとき
時間を停めてギシギシと
信を機械に変えるがこのみ
「こびと」の正字に変換できぬのなら
「矮小」と打って一字バックスペース、
そんな知恵だけ緑色になって
一切の閑暇も覆われてゆく
それで額より小さな庭に累卵を置き
終わった花火から下ろす塊の鉛で
殻を割らず中身だけ潰す技も競われた
小ささと大きさの境をかえるので
いつも家の見取図が書けないまま
尻尾の夜が 雨のように焦げる
ヘンな風が吹く
【ヘンな風が吹く】
書くことがなければ
酔眠前の夕飯の話になる。
百日紅の咲く坂を食べました、
先駆けて地を離[さか]ってゆく
犬の吠え声も食べました、
もう胃袋にはおどろな満月
わたしに近いもの、
綺羅や松果を不敵に水で炙って
猥らに垂れる肉じるを
詩の髭をかぶった口へ立て続けて容れる。
空の反映、そこへ消えてゆくもの
を収める容器(私)、といえば聞こえはいいが
畢竟、食餌と脳のあいだに
オーバードーズの危うさ潜み
わたしは竹薮よりも大きくなったよ
女学生の描いた堤に 八月の晩に
(しらーを食べ びすまるく食べ
腹のくちた少年ヴァルターは
めいぷる・びすけっとに方陣の美しさを見た。
掌に載せると ヘンな風が吹くね、
――みらいから かこに渡る、
(壊し続ける玩具の代わりに
世紀伝来のビスケットがあるんだ
書くことがなければ、
「三年間食べなかった」話にもなる
畔で消化器官の育つのが待ちきれずに
夕映えの水に無精の卵を産みつづけた
不妊の、くだる、蜉蝣川は。
八月十六日、卵圧搾機を発明
載せるべきは何やら水っぽいもの
輪王
【輪王】
乙二号建築では
(火災警報器の誤作動もなく)
焙られきって一日中を除外された
公園の鉄棒群が 見下ろせただけだ
それらをつなぎ白じらとした
夏状の亜空間ができた、としても
何事も空白はつくりかえるな
胤のない砂だけがそこを伏していい
密議めくことだ、《肌を鏡に》。
材料にはただ水、「水の用意」
歩くことで生じた君の亀裂を
シャワー室でしずかに均し
再び入った部屋の天井からは
輪王の架空をおどろに垂らして
鏡面が熟すのをゆっくりと待つ
女の、私の、庭が、縁どられ映ったよ
百日の紅や、ましらの滑り。
物語る夏は退屈に退屈を接がれ
一人連詩も眠るように薄まり
入院の具体報ではあったけど
こんなバカみたいに字が不足したメールで
最後なんて嫌に決まっている
(「私の犬」を知るひとだから)
俄かに「わおう」。夕方の一斉。
吠え声が坂になって
凹んでゆく闇へのなだらかな傾斜では
サカりと離[さ]かりが結ぶ
この中心、しかし
「独楽はその中心だけが回っていない、
数学的にいえば」
巣穴が多い、
【巣穴が多い、】
小さなオペラ。
そこからが森になる、
はいり口というべき処がいつも好きで、
涼やかな半袖の袖口のすきまや
「夏の日傘」のなかもいつも好きで。
われわれの肉の隙間には
黒い「ましら」、さかしら。
根を鎮めようと四つ這いになり
腕も以て前脚となり、毛深。
黒い虹のようなものになろうとしていた
ひとりではなしえぬ林立へと、ふたりで。
後背位、というのだろうか
森は「オルガン」上昇する。
夏に黒鍵が空に沸き立つ。
しかし木立や梢を見上げずに
蟠る根へ 模様へ 入ってゆくのだ
昇る動きもいつしか下りへ反った
(見晴るかす平地には)
水銀蟻の巣穴あまた、
その内と外を反転させるように
驟雨来たりて
一帯が一挙に毛羽立つ絨毯になる
王が音楽のように座っているが
むろん周りの校庭に何もいない
あれが「遠く」で、あれが「夏」だ
肌を鏡にすべく
俗世は互いを擦ればいい
それを見るため 大月、生きよ
ひみつの このしたやみは
塒にはならない
大和屋竺・愛欲の罠
●
8月11日(土)3時の回に、上野公園内の一角座で
大和屋竺監督『愛欲の罠(原題:朝日のようにさわやかに)』を観る。
周知のようにこれは
ずっとフィルムが紛失したといわれてきた「幻の映画」だ。
したがって誰もがもうこの世での鑑賞を断念していたはず。
しかも「天才」大和屋の計4本中最後の監督作品で、
かつ大和屋自身ではなく朋友・田中陽造が
脚本を書いた最初で最後の例外的作品でもある。
肥大した期待を抱え、女房と猛暑のなか会場へ向かった。
●
田中陽造が大和屋映画の脚本を書いたことについて――
当時、天象儀館を主宰していた大和屋ファンの荒戸源次郎が
大和屋邸詣ののち、制作配給を買ってでて
日活ロマンポルノ枠での公開を決め、
これまで同様の「殺し屋映画」の脚本執筆を大和屋に促がしたが、
何らかの理由でその完成が不可能になり、
演出準備に忙殺される大和屋が
やむなく田中陽造に脚本執筆を託した経緯があった。
そういう事情を知らなければ、田中陽造のこの脚本は
大和屋への愛をつうじ田中が徹底的に「大和屋になって」書き
大和屋にこれを監督しろと突きつけた、
一種の分身性・倒錯性の賜物という、美しい誤解を受けそうだ。
それまでに3本あった大和屋監督作品、並びに
大和屋中心で脚本執筆がなされた鈴木清順『殺しの烙印』からの
細部のパッチワークが明瞭にみられたのだった。
●
大和屋的な「殺し屋映画」の系譜については
何回か長い原稿を書いたことが僕はあるのだけども
(その決定版が渡辺謙作監督の『ラブドガン』公開を機にした
「われわれは殺されたがっている」=「ユリイカ」04年6月所載か)、
その要諦は大和屋的「殺し屋」が「世界認識者」だということだ。
よって映画の展開が以下のようになる。
〇空港への飛行機の到着のように
無時間性に時間の楔が打ち込まれることにより映画が起動する。
〇世界認識のために対象を殺さねばならぬ
殺し屋(これは先験的に画面に存在する)は
自身の「死の適格」を容認した途端に
おのれをつけ狙う別の殺し屋が自身のダブルとなる、
世界の熾烈さのなかへと即座に編入されてゆく。
〇当然その世界は殺伐としている。
消耗戦のなかで敵を徹底的に待機し、
愛人すらいつしかブルーフィルムのなかに捉えられて
中で拷問を連続的に受けることで世界の本質的無時間性を告知し、
あらゆる音声も木霊して明瞭さを失い、
それによって人形と人間の弁別もまた消滅してゆく。
世界はいつしか腐臭に満ちる――
さまざまな形象の蠅が、その事実を告げる。
世界はそうした黙示によって罅割れ、ベンヤミン型の細片となる。
〇殺し屋たちには自分たちを登用した、
「組織」が前提されていたはずだが、やがて
その「組織」そのものが不可知性の感触を湛えるようになる。
この不可知性のなかで殺し屋世界の序列も瓦解してゆく――
これが映画自体の「破局」と符節を合わせる。
●
田中陽造による『愛欲の罠』の脚本は
この大和屋が下した厳密な「映画法則」を完全に遂行している。
スラップスティックな軽さが一部、志向されてはいるけれども。
ではその軽さの理由とは何か。
〇この作品の主人公の殺し屋は荒戸源次郎自身で、
「組織」を裏切って遊撃的な殺しを依頼するのも大和屋自身だ。
端的にいって「俳優」大和屋の出番がとても多い。
このことで大和屋が演出の集中力を欠いたきらいがある。
(脚本に田中陽造が噛むと、俳優大和屋が強調されるという法則が
当時とくにあったとはいえないだろうか。
こののち鈴木清順が監督した『木乃伊の恋』では、
オブジェめいた木乃伊役の大和屋が画面に出ずっぱりになる)
〇大和屋映画は世界認識=恐怖を観客に注入する、
一種、熾烈な陰謀として常に機能する。
そのためには画面の垂直性(それを渡辺護なら俯瞰構図に変換した)、
魔物のような「美しさ」「瞬間性」「抽象性」、
空間の「つながらなさ」こそが要件となる。
この特性を導くのが、
画面上の全オブジェを意図的「配剤」の抽象関係につくりかえる
実はモノクロの画面なのだった
(当時のピンク映画の商業的要請で
濡れ場画面に「パートカラー」が用いられることはあったが)。
ところがこの映画は日活ロマンポルノの枠組だったので
大和屋監督作品としては初めての全篇カラーとなったはず。
脚本には空間の飛躍が盛り込まれていても、
この単純な「カラー化」によって
画面個々に具体世界からの採取の痕跡がつよまってゆき、
それにより「空間がつながってしまう」弱さを帯びることになった。
大和屋映画は通常はそれがつくられた日付など超越してしまう。
ところがここには新宿など、70年代初頭の空気が散文的に満ちた。
主役荒戸のたたずまいからも時代の風俗的匂いが明瞭に放たれる。
音楽もゆったりとしたロック系で
たとえば山下洋輔のフリージャズのような時代超越感がなかった。
●
演出にも精度のばらつきがあったとおもう。
以前の3本にみられた「神のごとき」演出がない。
初期3本において華々しい評価を受けた大和屋は
この『愛欲の罠』ののち忽然と映画が撮れなくなってしまうのだが
(荒戸源次郎が幾度もそんな大和屋を励起したのも映画史的事実だ)、
『愛欲の罠』の脚本を朋友・田中に託したことと併せ、
この時点からの大和屋の耳奥に、自らを意気阻喪させる
魔の「トカトントン」が響きはじめたのではないか。
よって『愛欲の罠』は最大の映画演出の潜勢だった大和屋に生じた、
ヤバい分離線を感知すべき意義深い作品でもあったとおもう。
●
『愛欲の罠』には不可解な物語進行がない。
田中陽造のほうが大和屋竺より「物語」を語りやすいということ。
「組織」の裏切り者・大和屋の指令によって
殺しの達成感のみで殺しを続けてきた荒戸は
殺しの現場を女房・絵沢萌子と通過する姿を見られた失策により
一挙に「狙われる」対象へと変化する。
この絵沢こそが、「組織」にとっては
彼女自身を起点に大和屋−荒戸をつなぐ糸となるのだった。
大和屋からは更なる冷酷な指令が来る――「絵沢を殺せ」。
これを荒戸が実行する(その前後の湿潤化した演出がマズい)。
ここから魔的な画面陰謀がはじまる。
あるとき、荒戸が戯れに自宅窓からみえるゴルフ練習場に向け
銃を構え、照準器内を覗いている。
そのスコープ画面のなかに「死んだはずの」絵沢が姿を現す。
荒戸は深甚な恐怖に包まれることになる。
最初の「ダブル」の痕跡はこの場面にこそ出現したのだった。
●
さきほど、殺し屋にとって自分を狙う殺し屋は
自分の分身の位置へと居場所を変える、と書いた。
この認識があるからこそ、大和屋映画にはダブルが仕組まれる。
代表作『荒野のダッチワイフ』では
脚韻を踏んだ「ショウ」(港雄一)と「コウ」(山本昌平)の関係が
まさにこのダブル関係の明瞭な反映だった
(本作ではこの二人がスラップスティックな対として登場する)。
そこでは相手を殺すことが自身を殺すことに「昇格」してしまう。
大和屋−田中自身も以後、このダブル同士のように
表現者として相互に意義深い暗闘をはじめたのではないか。
「ダブルは本当に見えるのか」がテーマだった。
最初の達成は田中陽造のほうにやってきた。
彼が脚本を手がけた鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』。
4人の主要人物のうち
必ず3人までしか関係を交わさないこの映画では
不可視の4人目に「ダブル」の気配が生じ、
それが徐々に人物の関係全体に拡大し、
映画の進行自体を蚕食してゆく恐怖の動勢があった。
そうした幻想劇の外側で
三人の道化がそうした劇の進行をスラップスティックに矮小化した。
これは内田百間の恐怖短篇の自由な翻案だったが、
あらかじめ鏡花の『春昼』『春昼後刻』のような幻想味があった。
『ツィゴイネルワイゼン』への評価に後押しされた
荒戸−清順−田中陽造のトリオは結果、念押しするように
鏡花世界をさらにバロック化した『陽炎座』を撮りあげる。
一方この時期の大和屋竺は
同じ鏡花原作、『星女郎』の映画化を画策していた。
「私を見た者は死ぬ」と宣言する女郎との性愛成就を願う男――
これを中心に見据えた最高の恐怖脚本を大和屋は書き上げていた
(この脚本は高橋洋・井川耕一郎・塩田明彦編の
大和屋脚本集『荒野のダッチワイフ』で、
『愛欲の罠』と同様、その全体を確認することができる)。
荒戸は自分のところでその『星女郎』を
大和屋自身の監督を条件に製作しようと図ったが、
いろいろな不如意が生じ、ついにそれは実現を見ず、
大和屋自身もまた此世の者ではなくなってしまったのだった。
●
明瞭に画面配剤されたダブルから、不可視のダブルへ――。
『愛欲の罠』でも表現の願望はその点に不明瞭に向かうが、
肝腎などこかで脱臼が生じていた――これを説明しよう。
絵沢萌子は「生きていた」(ここから恐怖が低減する)。
荒戸は絵沢の隠れ場所を「なぜか」突き止めてしまう。
そこに陰謀が露見した大和屋も入り込んでくる。
絵沢はその大和屋の元愛人で、大和屋の操る糸で
「殺し屋人形」荒戸がちゃんと動くかを監視する役柄だった
――そんな種明かしもやってくる(こういう因果ぶくみの整然さが
通常の大和屋映画の特質と離反している)。
以後は荒戸が「組織」から繰り出される殺し屋と次々対決する
単純展開が連続されるだけだ。
ただここで映画の進行は別の恐怖のレールに見事引き戻される。
やってきた殺し屋の異形性が、創意に満ちていたからだった。
そしてこの殺し屋の姿を見たいからこそ
大和屋ファンにとっての「幻の映画」、『愛欲の罠』が
ずっと不可能な欲望の対象となっていたのだった。
殺し屋は大きな女の子の人形を脇に抱えている。
殺意の表明は腹話術によってその人形が語る。
明瞭な「ダブル」関係がそうしてそこで可視化されるのだが、
それが殺し動作と接続されている点が創意なのだった。
●
前述脚本集『荒野のダッチワイフ』では
殺し屋と見えたほうが実は人形で
人形と見えたほうが殺し屋の本体だという「逆転」が
映画のほぼ終幕で鮮やかに判明する、という印象が生ずる。
実際にその腹話術師−人形と荒戸が最後に対峙したとき
蚊が人形と見えたほうの頬を食う一瞬を見逃さず、
荒戸は窮極的な二者選択の狙撃を正しく遂行する。
この映画的な展開が圧倒的だったのだ。
この作品で殺し屋を演じていたのはガイラ。
そして短躯を生かした気味悪い女装で
惑乱的な人形振りを通していたのが秋山ミチヲだ。
大和屋演出はしかしここで失調している。
発声、腹話の類別が表現されていても
裏からどちらかの背に腕が支えられることで
微笑ましくも、やがては主体−客体に逆転が生じるカラクリが
一瞥にしてバレてしまっていたのだった(笑)。
この殺し屋−人形コンビは3回登場する。
一回目は、前述した絵沢萌子の隠れ家で。
荒戸が恐怖に怯える絵沢−大和屋の別部屋での性交を黙認し
自身は敵の襲撃に備えているあいだに
ふたりの寝室へ侵入した敵に気づかなかった失策をした。
ようやく異様な気配に気づき、寝室に荒戸が近づいてゆくと
ドア越しに荒戸は撃たれ、傷を負い、逃走する
(このようにして大和屋映画では境界幕から
恐怖が一気に「こちら」に飛散してくる)。
以後、殺し屋−人形コンビは大和屋をあっさりと殺し
(これはのちのインサートショットで判明する)、
お馴染みというべきか、絵沢への執拗な「拷問」が開始される。
殺し屋が絵沢に死にいたる挿入を開始するのだが
前言したようにその男根のゾッとする機械性がバレている。
もう死体となった絵沢とのダンスシーンも美しい。
最後は血の池状態となった浴槽――
死んだ絵沢の股間に生け花が挿され死体展示芸術も完成される。
●
敵から逃れるためどこかの地方都市に荒戸は逃げ、
安娼窟を隠れ家に定め、そこで安田のぞみと懇ろになる。
最初は恐怖のために荒戸はインポテンツに陥っていて、
二人の交接は拷問のような無時間状態に引き伸ばされる。
荒戸はその都市で最初の追っ手との
冗談のような耐久戦に勝ち
(敵から逃れていったはずなのに
逆に敵の懐ろに近づいたという「残酷」もいつもどおり)、
恐怖を克服して、とうとう性的不能状態から脱する。
そこから無時間的な交接場面へと画面が移行する
(このとき、倒立した安田の顔が目玉を剥き、
「人形振り」を披露する細部が素晴らしい。
反面で交接そのものの演出は「おざなり」に近い―笑)。
ところが執拗な「客」が来て、
一旦、そちらにサーヴィスしようと安田が中座するが
30分経過しても帰ってこない。
荒戸が焦れて確認にゆくと、
やはり絵沢同様の死体展示がなされている。
やり手婆さんが客の風体を叙述して、
荒戸は例のコンビの犯行を確信する。
気をつけなければならないのは、
荒戸が最愛の者を「寝とられている」渦中、
その寝所に死の天使がダブルの状態で舞い込む点ではないか。
これは「寝とられること」が即、「その対象を失う」、
魔的な強迫観念の具現化だろう(しかも映画性に富んだ)。
その魔の通過にたいし主体は耳を澄ましてさえいるのだ。
ここに何か、根本的な「不如意」感を覚えるのだが、
この着想の発案者が大和屋竺なのか田中陽造なのか。
●
以後、映画の結末までについては
三たび出現した殺し屋−人形コンビ、
そのダブル状態の欺瞞を見抜いた荒戸がそれを殲滅し、
誰もいない映画館内でもう形骸となった「組織」の親玉
(山谷初男がそうして唐突に画面登場する)も撃ち、
映写幕の前で『愛欲の罠』の観客自身にたいし
最後に小粋な辞去の挨拶をするとしるすだけでいい。
殺し屋−人形コンビとの最後の対決場面では
完璧に『殺しの烙印』の細部が画面に導入され、
ご丁寧にも「No.1」の話題が出てきもした。
●
カラー画面というハンデがあっても
やはり大和屋ならではの優れた視覚性があったとおもった箇所を
最後に三つ列挙して、
この長くなってしまった記載を終えておこう。
〇冒頭、青い闇のなか、カメラがゆっくりティルトダウンしてゆく。
ビルの高層の建築現場の様子がシェイプとなって判明する。
構図の余白にスタッフ・キャストクレジットが出る。
この呼吸が素晴らしく、しかも陽光に満ちると
そこが荒戸の最初の狙撃現場となる。
新宿伊勢丹手前のビルディングだった。
それは、若松孝二『新宿キッド』よりあと、
田中登『牝猫たちの夜』と同時の「新宿」を
画面に刻印しているだけでなく、
大和屋「殺し屋映画」を継承し、加山雄三をスナイパーに据えた
堀川弘通『狙撃』への不敵な応接場面でもあった。
〇羽田に着いた外国からの要人を
荒戸が高層の駐車ビルから遠隔狙撃する場面。
クーラーが不調で代わりのクルマが手配される成行Aと
(このとき外国の要人の隣で中川梨絵がトンデモ演技をしている)、
駐車ビルへの正面ロングショットによって
トラックがつづら折り状の坂を刻々上ってゆく様子Bが
平行モンタージュされてゆく。
このBこそがその抽象的な図像反復性によって
のちのエドワード・ヤン的な恐怖場面を見事に予告していた。
〇絵沢を殺したと思い込んだ荒戸が自責の念を払おうと
自宅で乱交パーティをしている。
女の裸体の重畳のなかに荒戸の裸体がある。
このとき、大和屋から電話がかかるのだが
当時の黒い電話機が女の躯それ自体に接続されているような
妖しげな構図がしめされる。
電話は無媒介に「ここ」と「よそ」をつなぐものとして
『荒野のダッチワイフ』でも草木のない荒野の地面と接続され、
結果、地面の下に絡み合う電話線を幻視させた。
その幻視の先がこの場面では見事に女体へと移されていたのだった。
女物
【女物】
バカと罵られつづけて「あぁあぁ」する
この夏の日傘にはそれで「女物」を奉じ
路上に投げられる微かな影に見惚れた。
七色の頬紅を塗った気分に 一挙になる
少しずつ70年代の阿呆を取り戻す
おすましした女の子たちの胸乳の稚魚。
秘密の樹の下闇でその敏感な突端が泳ぐ
よって詩はいつもあさってに打ち水、だ
がお がお (うぁん うぁん)
幸福によろめくわれわれの乱雑な言葉
ギャオスとギャオスのように連れ合う
(朝顔のつづく朝の道で、)
癌告白するメール文に不幸の藍が滲んだ
どうしようもないことにぴかぴかした夏空の称号
是々非々が無慈悲なほど清明かもしれぬ此世で
それでも手紙文は一生かけて練習だ
《70年代は 闇のなかの光ではなく
光のなかの闇を見てました》
こうやって何事も積載しなければ(泣くのか?)
当たり前のことをいうなら
五階よりも十二階のほうが荘重です
いつかは稀薄な浅草の高層に住んで
地上を十二階下と むかし馴染んで定めるか
「正面」の花火とも向き合ってしまうだろう
なあどうするんだ、おまえ?
京子「バカバカ」「わたし、たくさんの果実」
そうだね、存在は籠から残部があふれでた狼藉。
マンゴーの隣には冷えたアレクサンドリア種が
東空には今しも周囲に溶けようとする城塔が
見えるだけだ、ただ見えるだけ
三村京子がロックした
●
8月8日19時、渋谷7th Floorのステージに三村京子が立っている。
客席は満員、対バンの関係からか年齢層がすごく幅広い。
詩人の森川雅美さんが僕の隣にいる。
三村京子は白の可愛いブラウスと晒し紺のロングスカート。
例のごとくの「お嬢さんスタイル」(髪はショートボブ)だが
ぶらさげているギターがなんとエレキだ。
その赤いセミアコ(エレキなのに空洞共鳴がある)こそは
僕が25年以上つかっている愛器だったりなんかして(笑)。
コンセント接続。
僕の古いコードを流用したためか接続ノイズが少し出たままとなる。
意に介せずに、彼女はおもむろに弾きはじめるのだが、
その前に気づくべきは、
高校時代以来の、久しぶりのエレキ演奏とあって
三村さんの顔、とくにその眼に
ヤバくてつよい「男性性」がそこはかとなく滲んでいることだ。
客席を睥睨するというほどではないけど、
顔の中心を凛とした気概が確かに貫いている。
それでいつもよりエロっぽい(笑)。
「暴発」の予感がすでにした。
1)「孤りの炎」、2)「Birdland’s End」。
いずれも僕が補作詞した曲。
前者は70年代風の暗いイメージで、
クラシックギター奏法、途中、一音弾きが歌唱とユニゾンする。
後者は静かな朝食の光景に鳥の姿が二重写しになる、
元「ベジタリアン」だった三村さんらしい曲。
これもポール・サイモン風の、
フォークアルペジオの複雑な弦の響きが美しい。
2曲ともに、いつもよりゆっくりと唄っている。
エレキがセミアコである点が生かされている。
ただ、これなら別に使用楽器がアコギであってもいい。
実はリハのときはアコギ使用も考えていたのだが、
音が膨らみにくく、歌唱を支えにくいという判断が出て
この日はエレキ一本で通す、という路線変更があったのだった
(僕がそのように提言した)。
3)「別の肉になるまで」
よく聴くと「死にたくなる」必殺のダウナー失恋曲。
綺麗なメジャーコード進行の裏には「猛毒」が潜んでいる。
履いていた靴のハイヒールが細すぎて間に合わなかった、
相手に否定された、私は別の肉になるまで待機しなきゃならない、
それなら今のこの饐えた黒い指なぞみんなあげる、
と、信じがたいぼやき節が「ありえない」静かさのなか
流れるように連打されてゆく。
こんなヤバい詞を書いたのは誰かというと
これも実は僕=阿部なのだった(笑)。
この曲は途中からストローク奏法に変化する。
このとき初めて使用楽器がエレキである効果が前面化してくる。
ガーン、と実際に分厚い音が出て、
聴き手の「腹」が直撃される驚きが生じるのだ。
三村、すごく声が出ている。
これはアルバム制作の過程で声帯強化がうまくいったのと同時に
エレキを弾いているという意識の賜物だろう。
●
ここからドラムスに
「俺はこんなもんじゃない」「タラチネ」のあだち麗三郎、
それと三村さんのご近所のマルチミュージシャン(この日はピアノ)、
monobook(以下須山真怜と表記)両君のサポートが加わってゆく。
真怜くんは基本的にバンド音に厚みをもたせるためのコード奏法、
たまにカクテルピアノっぽいエレガントなおかずも入れてゆく。
流麗感勝負のひと。
一方のあだち君は、前衛音楽にも関わっているので
ドラミングの個々の打撃音の種類がすごく豊富で
展開力勝負、という印象。
しかもポップロックの演奏にも実は手馴れていて、
重たいビートでバンド音全体の底支えをもする。
この二人との共演は去年の春の、下北モナレコード以来だった。
あだち君はドラミングのときの表情がいい。
中心演者の身体に、一種、策謀的にリズムを打ち込んでゆくのだ
(これはその後の二組の演奏でも終始変わらなかった)。
だから時にその眼がサディスティックに爛々と光る気配がある。
不敵というべきか、頬も法悦に緩む。
で、そうしたリズムを打ち込まれて、
三村さんの演奏・歌からリズム上の不安定さが消える。
声もどんどんつよくなってゆく。
ゲ、三村ってまったくロックじゃん、という素晴らしい感慨(笑)。
しかも本日は調子が絶好調で、トチリがほとんどない。
バンド音全体に3ピース形態からは考えにくい厚みと力感が出ている。
4)「青い花」=ノヴァリスとは無縁のレズ疑惑曲(笑)。
「入れて」という囁きのあとに「テントに」という落ちが来るなど
スケベな味付けは、やっぱり阿部補作詞曲の特徴といえる(笑)。
三村さん、久しぶりに演奏するこの曲に
前奏フレーズをくっつけていた。
80年代ニューウェイヴ調のシンプルで綺麗なフレーズ。
で、突如、マイナーコードがガーンとストロークされる。
そのアタックがあだち、真怜両君ともぴったり揃う。
真正=純然ロックがついに幕開けとなる。
ロックバンド音というのは、アコギ一本と較べ、
当然、聴き手にとっては「歌詞の入り」が悪くなる。
ただ、間歇的に歌詞の片々が耳朶を打てばいいのだ。
むろんふと耳が聴きとったフレーズ連鎖には動悸も生ずるはず。
たとえばこんな歌詞の一連がある。
《この首筋に残る傷 それが私の首飾り/
あなたの瞳は硝子張り 煙だけ見てる》。
ロック演奏でよりはっきりしてくるのは
三村さんのコード進行の才能だろう。
この曲はA、Bメロは比較的オーソドックスなマイナー進行だが
ものすごく創意に満ちたサビメロが入っている。
僕はこの曲のラスト、
《「遅刻」にさえも乗り遅れる》という一節が
時代を撃っている、と改めて確認した。
5)「寝床の藻屑」=引きこもり少女の歌、と
よく三村さんがセルフアナウンスする曲。
「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のような
マイナー/メジャーの転調がうまく収まっている。
すごくJポップ的な印象があるが、
それは三村作曲の特徴、代用コードの効果からだ。
《大人にならない/小人でいたい》の「小人」は
阿部がベンヤミンから引用したもの。
三村さんの前奏にやはり工夫があった。
ジャーン、とコードストロークしてから
高いフレットでニューウェイヴ風のシンプルなおかずが入り、
それが連続する。
それと終奏手前に入る三村さんのアルペジオも美しい。
で、その途中はというと、ベース弦2、3本を叩くように弾く
リズミカルな奏法(こないだの下北レテで多用していた)。
あだち君のリズム、自分で刻むリズムにも煽られて
三村さんの上体が立てノリに揺れてくる。
足はいつもどおりしっかりと踏ん張って、
そこでも密かに身体の基調的リズムが刻まれている。
激しいビート。あだち君はドスッドスッ、という腹に響くリズムを
間歇的に反復してくる。
音にできる隙間を埋めているのが真怜ピアノのコードストロークだ。
「ロック度」がどんどん上昇してくる。
三村さんはリズム感がファジーとよくいわれている(笑)。
僕はなぜ普通の奏者のように上体や顎で
リズムが刻めないのか、といつも苦言を呈してきた。
足ではリズムを取るが、上体がいつも硬く、
それがリズムの狂う原因ではないかと指摘してきたのだった。
ところがこの日はそういった身体的束縛がほどけている。
ロック音、というより、あだち君のドラミングが大きい。
彼は、「ほぼ性的に」、三村さんの身体に「介入」しているのだった。
●
6)「僕は嘘が嫌いさ」。
一転、バラード演奏となる。重たいドライヴ感。
そう、ドスッ、ドスッ、と「あだちドラム」がズシズシ響いている。
マイナーコード主体で、すごくJポップ的な曲だが、
三村さんはコードストロークの合間にジミヘン的なおかずを入れる。
微笑ましい(笑)。ジミヘンのレコードを貸した甲斐があった。
これは「京子と二郎と麗三郎」時代には
「You」の曲名で演奏されていたが、
最近、三村と阿部二人でぼんやりした歌詞をリニューアルさせた。
歌詞には三村が平塚時代に住んでいたマンションが唄われている。
ひとさわりのみを披露。
《夕暮れの海に沈む太陽のように
この躯 密かに黒い
あすも不死を誓う》
途中、意図的にリズムが「ポリ」になる瞬間がある。
三村、あだち、真怜が別のリズムを錯綜させるのだ。
で、復帰時、アタックが揃うとき「ロック」が生じて鳥肌が立った。
三村さんはラストに少しリードギターを弾いた。
下手であるがゆえにフレーズがギザギザしていてパンキッシュ。
完全にロック・モードに入ってしまった三村は
なんとこの曲から明瞭に、潰し声でシャウトを始めた。
つまり以前の小野洋子調とはちがう、ロックど真ん中のシャウト。
本日、最重量の演奏。ちょっとブランキーをおもった。
●
7)「a wild horse」、阿部の作詞作曲。
ストーンズ「wild horses」の転化で
川べりの孤独な離れ馬に託し、
聖化した言葉が多用され、少女の心象風景が唄われる。
阿部の作曲だからF→Fmなど曲調がやさしく(笑)、
とくにD→Fのコード変転の美しさを自慢したい曲。
歌詞の一節をここでも、ひとさわり。
《狙われる――ひとりの者が
風満ちる――ひとりの者に
それでも思う この時が好き
いつでも願う この身よ溶けて霊になれ》
※「霊」は「零」とのダブルミーニング。
ここで三村のリードギターがついに完全炸裂した。
Am(7)→D(7)のコードを延々循環させて
三村が存分の長さであいだとラストの2回、
ギンギンのリードをとりはじめたのだった。
作った阿部がいうのもなんだが、
この曲にはニール・ヤングの曲調からのパクリが多い(笑)。
上の循環コードなど「ダウン・バイ・ザ・リヴァー」からのイタダキで
だからとうぜん三村のリードもニール・ヤング調になる。
女でこれほどギザギザに尖った、吃音のフレーズを弾く奴なんて
見たことがない。確実に「変態」が入っている(笑)。
スケールはペンタトニック。ブルーノートではない。
しかも三村さんはチョーキングが下手で使わない。
だからニール・ヤングよりもギザギザ感がつよかった。
またも鳥肌が立ってくる。
俯いてギターを弾く彼女からは妖気が漂っていた。
だから最後、歌唱もディランのように「叩きつけ」型に変化した。
●
8)「松本秀文『鶴町』より/詩の朗読と即興演奏」。
とうとうハイライトがやってくる。
三村も加わっている連詩のメンバーには
福岡在住の詩人、松本秀文さんがいて、
三村はそれを読んで一気に「お気に入り」になってしまった。
いつもは「阿部嘉昭ファンサイト」収録の
『壊滅的な私とは誰か』から詩の朗読演奏をするのだが、
この日は新機軸、ということ。
オープンDにチューニングを変える。
三村はたぶんその詩集から15箇所程度、
お気に入りのパーツを抜き出して、
PCで転記打ちしたものをプリントアウトしていた。
はじめて譜面台がつかわれる。
僕は松本さんの「少女」の様々な姿が抜かれるとおもっていたら
サブカルな部分、スケベで猥雑な部分、兎と亀など
全体からバランスよく詩を拾っていた。
いつもの朗読とちがうのは、
読みが速射砲のように中身が詰まって連続する点だ。
『マルドロール』のジェラール・フィリップの朗読をおもった。
優に詩集の10頁以上が読まれ、
松本詩特有の多様でディストピア的なイメージが
聴き手の耳から躯へと突き刺さってくる。
三村さんはたとえば原詩の「 」部分など
声音を変えて、全体を演劇的なアプローチにしていた。
松本詩のポリフォニー性、空間の広がりに対する着実な解釈
(ライヴが跳ねてからの飲み屋で森川さんは三村に、
松本詩はポリフォニックにみえて、
実は「ひとつの声」なんだよね、と鋭い薀蓄を語っていた)。
しかもその叩きつけるような絨毯爆撃「朗読」は
その朗読の合間ではなく渦中を
三村さんのオープンDチューニングのリードギターで
複雑に裏打ちされてゆく。
オープンチューニングだから
どこか弦全体の響きにオリエンタルな色彩も揺曳し、
ときにはドローンに近い奏法にもなる。
ドアーズ「ジ・エンド」のイントロを想起すべし。
彼女は実はこのチューニングでのリードギターが天才的に巧い。
詩の一節が終了すると間奏に移り、そこで曲想も変転してゆく。
その色づけに、あだちドラムと真怜ピアノも見事に追随してきて、
時に二人の演奏のほうがさらにアヴァンギャルドに高揚してゆく。
音と言葉の洪水。そこには「煌く厚み」がある。
緊張感漂う「沈鬱」もある。こりゃスゲエ、としかいいようがない。
これは朗読のかたちをとっているが
むろん「言葉による演奏」なのは明らか。
詩人による殆どの朗読は、こうしたアプローチの前には
顔色を失ってしまうだろう。
原詩の本来の音楽性が演奏者の知性によって拡大されている。
それで脳髄を掻き毟られ、しかも恍惚に導かれるのだ。
先のシャウトが祟り、三村の声が嗄れだしているが
それがここでは妖気の点で面白い効果もあげている。
10分以上の演奏だったとおもうが、ひたすら興奮しつづけた。
ステージ上の三村、こうなるともう、めちゃんこ可愛い(笑)。
●
8)「いつもそこを出てゆく」
通常のチューニングに戻った。
これも転調が見事なポップ曲。
阿部の歌詞は三村の早稲田卒業を念頭に「卒業」テーマにしたが、
安直なグラジュエーション・ブルーではなく、不敵な感覚を盛った。
尾崎「卒業」をライバル視していたりして(笑)。
ただし曲はキンクスっぽく、ちょっと脚韻も踏んでいる。
ここでとうとう三村さんの声が潰れきって、
高音部がキャンキャン声になり音程も狂いだした。
初めて、「キツイな」という印象が生じてくる。
だからもう一曲の演奏予定をここで彼女は打っ棄ってしまった。
演奏自体はよかった。
冒頭の三村のギターフレーズは
阿部が以前リードギターをサポートした今年の江古田ライヴ、
そのフレージングからの完全なパクリ(笑)。
俺のギターを弾き、俺のフレーズを無断拝借するなど太ぇアマだ。
嘘ぴょーん(笑)。
●
ということで、これが今のところ今年の三村のベストライヴだった。
三村は次の二組が登場したのち
フィナーレでもう一回、ステージに上った。
そのときの面子は
抜群の唄い手・ジェシカさん(三村さんとはちがう透明唱法)、
あだち、真怜、三村の面子。
あだちくん作詞作曲「あの日あの夏」
(いい曲だった――歌唱はジェシカを中心に持ちまわりで
三村/ジェシカの唄い方のちがいがすごく面白かった)、
それに何と「ヘイ、ジュード」を合奏した。
「ヘイ、ジュード」での三村のリード・ギターのために
阿部はデュアン・オールマン参加のウィルソン・ピケット版を貸し、
弾き方もコーチしたのだが、
それは可愛く不発した(笑)、と最後に言い添えておこう。
●
kozくん、この記事を
ブログ「a wild horse」にコピペしといてください。
流され星
【流され星】
いずれ目鼻が消える、
紙人形のような端正さなら。
恋とはそんなものだし
下流から上流に遡れば
川も淋しさで分岐しているように
見えるだけだ、ただ見えるだけ
流され星 「流され蛍」
あくがれいづるものによる空
お化け煙突の見物場所を人は探すが
見ようとすることが
すでに流されることだとは知らない
人世はゆっくりと水になる、閼伽みたいに
ユダ温泉を起点に今度の旅(車内多し)。
誕生日を迎え中年の終りの日付にもなった
美祢線に乗り、台風を精一杯逃れ
怖ろしい厚狭川の濁流を見下ろしては
古ぼけた紙に映る字をまたも購ってしまう
中也、西脇、泉谷明。
水面に咲く旧い目鼻流れる、
《あれはとほいい処にあるのだけれど》
(ああずっと「そこ」に佇っていたんだね)
でも僕らはもう萩で荻だったから
真下から見上げた花火、潤んで大きかった
(潤むものは大きく、大きいものは潤む
間近とは海峡で噛みあう下関と門司港
西班牙と葡萄牙、ふたつの大らかな牙のように。
女房の髪も汗に濡れながら風に舞っていたし。
それで憶いだす、どこへ行っても
味噌汁の具が遥かな川海苔だったと。
来迎、いつかはわれわれの稚魚時代を)



