棚を考える
【棚を考える】
蜜柑の実るまちだったと
不意に気づいても
思い出は呂律がまわらない
空だって 見たという実感が
終生湧かないままだった
物書きには背景が紙と拡がるばかり
皺だらけのそこ、
トリモチでたどられた折れ線にも
奥ふかく鴉一羽が刺さっている
こんにちの、空のきぃきぃ
なんにも統べはしない、
愛の形式は でも手渡しに尽きます
どうぞこの糸車を発煙筒を。
自分を化かさずして何の死後想起か
鏡というすきまもすべて破砕した
賑わっている賑わっている
穫られ損ねた糸瓜が霊体となって
庭の棚状をぼんやりとゆれている
(謹啓――昨今、「棚」を考えています)
ゆれるものがやがて線となるから
予感も賑わっているというのだ
王冠をかぶらずして王
が往還音痴のままゆきかうから
ありふれる地上の乞食[かたゐ]なのだ、
一糸が別糸を待つ、
この緊張で裁縫師の手許も交易も
澄んでゆるがないだろう、秋は。
もうじきおわるよ――何が?
暗い白に暗い白をかさねるマラルメ型が。
「白から白へ、に移行なし」(校庭碑文)
港そだち
【港そだち】
港みなとに舟、
それだけで補陀落がかいやぐらする
何柱の塔 おのれに向かう岬を
海岸線によびだし
いやおうなく水面も盛りあがる
たたらふむ をんな肴に
それらを呑もうじゃないか
土がななめになって
水が屋根をふくらみ
骨すかすかの巷ができる
虹をわたったのちは
橋というすきまはすべて爆破した
それが 港そだちということ
ともだちを送る 死地へとおくる
住む都はゴダール、町の人がいう
情の節は 情の悴は。
死んだ映画館から蕭蕭と
まだ剣戟音がもれている
まなうら疥癬だらけの
しらす腰越、
老婆こゆるぎ
兄貴、詩が下手ってことは
心に正義がないゆえかい
(こくりこくりと白河を漕ぎな
一空間は他空間を保証しない
無限のひみつもそのあたりにあって
だえきをかためてぬったのちは
橋というすきまはすべて爆破した
うまれたときからけだもの
材木座も侠や福のにぎわい
もののけ
【もののけ】
もともと動きとは
こんなものではないかと
ただ動きをみていた
「首が飛んでも動いてみせる」
そうだろう、動きとは
「首が飛んでも笑ってみせる」
そうだろう、笑いとは
万象はあるが
いつも全体などない
ひそやかにゆれているだけだ
ゆれるからみなが同じになる
酒場の隅だって同じになる
あくまでも仮だ
全体がここにあふれていることは
《ゴーストが川辺の草といっしょに
川の水を覗き込む》
「こちら」の意識なきこの文で
場所がいっきょに非場へつうじた
葉裏から魅[もののけ]が湧く
にじりあがるゴーストの通い路
躯の虚数がぞろぞろ動き
むこうの七草にも七種の雨脚が立った
益体なき焼きトン屋にて同じ者たちは
同じたくさんのものを食べた
追憶的にすきとおった血管で
かこわれた胃の森にも
秋の同じ がゆれていた
塹壕からわれわれを送るだろう
何かの墨書のおわりへむけ
ひとからげを縦にして
池袋から
【池袋から】
街路の最新で待つが
遭う形式にすでに魔
子供ですら辻を怖れている
池袋、辻だらけ
条理なきかさぶたに
発眼の初源を塞がれて
産まれ落ちた
ファッショナブルな柿いろが
標的の盲目になっている
むろん信号にすぎないのだが
冷たくてあたたかい
あらゆる中間
人や人が交差した
みな一刻さきを擦れようとして
背離のケースに詰められた婦人
のふとうめいな硝子体
(そこも急ぐな、)
去り際ふりかえっておもった
折られても膝枕までだろうと
来信アリ「深谷はなにもないです
「空なんてないですただの穴です
敗色を片づけ直して
唾液が動くだろうか、舌が。
「点滅の歩く」領域が渚だと
いぜん返信した気もするが
条件が正午からたちこめた
暮色とは打たなかった
絵にも僕にも――全体がないな
いわば池袋から鎌倉をどの線で行くか
身に負った旅程を鎮めるために
駅舎
【駅舎】
輪になると
子供たちが消える
もともと気配なのだ
たてもののなかなど
よこぎってはいけない
はーめるんの笛音がもう
おーろらのスカート
あたまのなか北極もへこむ
おとなだって鎧をきれば
一瞬にして事後
すぽんてぃにあすな
けむり、ばかりの巷に
印刷ずれした鉄路がのびている
まだあけがたなのに
おおかたの生きも
うすい髭根を生やして
ぞうりむしよりとうめい
つとめて握手はするけれども
つながる朝がなんと
苦いかんしょくなのか
歯科医院に駅舎を感じた
(それが秋のおとない、)
ほら口を開けてみて
歯なんてないですただの穴です
電車はしかし口から出る
ぼくら躯のない子供たちと
すこしのびた不全をのせて
駅でしょう駅でしょう
輪のかたちに馬のつながれた
きりたちこめるすべての朝も
トリガー
【トリガー】
口髭にしろいものがますますまざり
顔のしゅうへんも白風になってゆく
(なんだかさむいな――パウロの手足が)
研究室でペットボトル緑茶のみつつ
朝のおわりをふと見当てた
そうか、廿楽さんは「円」で来たか
《とつぜん晴れわたった はなれたところ》
ひそかに光の傷みをみてるなんて凄いな
でもその立ち位置がどこなのか
来訪は婆沙婆沙、と音がして
ブラインドに天誅が折れこんでくる
なんで一瞬にして事後だろう
鍋底をまわす手のように
塵や霞がくうきにわらっている
講義では 毛に毛が馴染むと
けだもの同士の親愛を頌めた
セル画に狩りだされた「紅い花」の少年が
結局おんなのこの初潮を見そびれる
だからおんなのこは山猫バスにのって
夕暮れの電線をうぃんうぃん伝った
飛ぶ電気 火花、それでみんなが
電気使用法の間違いをゆめみる
至純を自己伝説にして せるふらぶ完了。
《怪異は子供のころにだけ現れる》
みえない蝙蝠のせいか
講義中、教授的な空想に悩む
重なるものの怖ろしさ
《鳥に鳥が。》《鳥に鳥が。》
ひそかにトリガーを引きつつあった
チョークをもっていたはずの指が
改行原則
SNS「なにぬねの?」での僕の日記がきっかけとなって、
「詩における改行」談義がいい感じになってきた。
いろいろ考えたのだけど、
書き込みまでもふくめたやりとりを
ミクシィのこの欄にペーストすることにした。
「いろいろ考えた」のは、
こういうことをすると
SNS「なにぬねの?」の独自性が失われてしまう、
というのが第一。
ただ、これは同SNSの普及をも目しているということで
主宰者たちにはお許しいただこう。
「書き込み」を無断転載するのも
道義上、どうかとおもった。
僕はこれまでも書き込みをコラージュして
ミクシィ日記欄に発表したことがあるが、
それは著作権上、自分の文章だけにかぎっていた。
ところが今回、それだけでやろうとすると
流れが失われる、という弊が出る。
実際みんな、素晴らしい、気迫のこもった書き込みをしてくれている。
なぜか、日記の書き込み欄というのは
日記の傘の下に隠れて自立性を弱められてしまう。
それを申し訳ない、より人目に触れたほうがいい、とおもい、
エイヤ、とばかり、この日記欄での一挙掲載に踏み切った。
手間を省いて無断転載のかたちになりましたが、
書き込みをしていただいたみなさんが
諒とされると信じています。
なお、この話題は、「なにぬねの?」では
まだまだつづけてゆくつもりです。
ただ、ミクシィへの転載はここで打ち止め。
むろんミクシィ利用者は
自由に書き込んでいただいたら嬉しいです。
前置きもそこそこに、それでははじまり--
●
【改行原則(4)】10月13日
貞久秀紀の詩集『昼のふくらみ』『リアル日和』を
さきごろ、古本サイトでゲット。
今日は、そのうち『昼のふくらみ』所収の詩篇「夢」から
改行原則を考えてみる。
まずは全篇引用。
*
【夢】
貞久秀紀
夢のなかに身のまわりがひろがる
ように
あるとき
ふと
身のまわりがひろい
はてなく
ひろいところに身をよこたえている
と
身のなかに夢がひろがる
ように
あるとき
ふと
身のまわりが身のなかにひろがる
菊をつみに
はてなくひろい
身のなかをあるいている
夢からさめて
*
「身」「まわり」の
最もすごい用語例だとおもう。
原理的でクラクラするのだ。
おそらく「身」の語は、
現代のエッグヘッド(インテリ)なら
市川浩経由でないと使えないだろうが、
貞久詩はその境界をあっさりと越えている。
5行目の《身のまわりがひろい》のあとに
句点「。」をつけると整理がつくとおもう。
2行目・10行目の「ように」は
単なる直喩ではなく、
視座を別次元に移してゆく「接着剤」で、
ゆるやかであっても
実はその機能が凶暴だ。
思考に積極的な錯視を導入するものだからだ。
この「ように」の魔法によって
第一聯の最後、
《身のまわりが身のなかにひろがる》という
脅威的な認識が定着される。
*
改行原則。
2-4行と12-14行の
《ように/あるとき/ふと》は
通常、少字数であっても行効率をもとめてしまう、
吝嗇な僕なら許容しないところだ。
ところがここでは、修辞が
視座のズラシと時間継起の間歇の質を告げるため
詩篇のなかで峻厳に必須化されている。
そして、その反復にも意識的だ。
8行目《と》にいたっては一字改行。
ところがそれにも「無意識」を感じないのは
貞久詩の一詩行の字数がもともと少なく、
彼の修辞が認識装置的だと
読み手がずっと意識しているからでもある。
ゾゾッという恐怖がないとこういうことが許容されないだろうが、
それがいつも確実にあって、
貞久詩が好きなものには
行内字数の少なさこそが崇敬の対象となっているのだろう。
同語が多い。
詩篇トータルの字数が少ない。
だから同語が循環し、
読み手の頭のなかの舌が
頭のなかの歯で噛まれそうになって、
それを避ける経緯が呪文化し、
結果、魔術的な意味変容がもたらされる。
詩篇は眼下を通り過ぎそうになって
ふと「とどまれ」と言外の声を発する。
とどまった途端、読み手は詩的恐慌や光明に包まれる。
そして離れられなくなる。
*
ともあれ、「息」というより
意味変容へ向けられた、魔法の改行原則なのだ。
こんなシンプルな修辞には
厳しすぎるくらいの「厳密」を感じてしまう。
その証拠に、
貞久秀紀では「改行原則」と「一行アキ原則」も
機能的に峻別されている。
第二聯に移ったとき、
場所も移り、詩の相が具体化した、という感触が生ずる。
「菊をつみに・・」ではじまる
その第二聯の美しさを他と比定するのは難しいだろう。
そして一行だけの第三聯。
そこではまた場所が移ったような感慨が生じるが、
実は、第一聯と第二聯の関係が
結語的に解き明かされているのだと僕はおもう。
*
貞久秀紀のこんな「改行」は果たして通用可能なのだろうか
【タカノさんの書き込み】10月13日
改行によって終止形と連体形を二重に響かせているみたいに見えます。改行後にはっきりした体言を配置していったらまた変わってくるのでしょう。
【阿部嘉昭の書き込み】10月14日
あ、そうですね。
いったん成立した詩行終わりの動詞終止形を
改行が曖昧化・朦朧化している。
動詞の「足」が、そうして幻影的に林立してます。
で、ラスト一行がくっきりとした連用止め。
そうして連用形であることによって
さらなる拡がりが獲得されている。
「拡がり」の二様。
ここに、体言止めが混在すると
句点がはっきりと成立し
それが詩行全体の「染み」になってしまう・・・
なるほど、なるほど。
タカノさん、僕のくだくだ書いたことを
実に端的に射止められた。
感謝、です
【森川雅美さんの書き込み】10月14日
貞久さんの詩の手法はそんなに特殊ではなく、現代詩ではよく使われる手法です。基本的には、言葉を前と後ろに違う意味で掛けることと、同じ言葉の意味がずれながらの繰り返しです。ただ、貞久さんの場合、このずらし方が絶妙で、同じ言葉、ここでは「ひろい」「ひろがり」、が詩のリズムを作りながら、少しずつ意味がずれていき、読み手は自然にその意味のずれに引き込まれます。また、前後の意味にしても微妙な段差があり、時には離れたところにつながるような構造もある。かなりの荒業です。
最近、目に見えない改行を考えます。一行が長い詩や散文詩には表面に見えない改行があるということ。稲川[方人]さんや瀬尾[育生]さんが、中尾[太一]さんの詩に、改行をするところで改行せず、言葉の軋みや屈折を作り、今までにない言葉の、思考の接続を表す、ことを指摘しています。足し算と引き算の違いで、案外このことは貞久さんの詩にもいえるかもしれません。
【阿部嘉昭の書き込み】10月14日
うーん、森川さんの書いたこと、考えてみます。
「見えない」改行と可視的な改行では
「英断」の質が違うと僕はいまおもっています。
「見えない」改行は
息の句点までふくめれば
散文詩の一字アキなどにもたしかにあるわけで、
瀬尾さんの詩ではそういう精妙もじっさい感じます。
ただ、自分の詩を微視してください、と語り
しかもその詩がレイアウト上の強度を回避している、
そのような詩に
いとおしさをじっさい僕は感じてしまう。
「息の句点」と改行が一致している詩の、すがすがしさというか。
小ささをまとっているものが好きなのです。
「改行」が「陰謀」や「解釈の要請」であっては
作者が偉すぎる、ということですね(笑)。
現状の詩はそこまでの「信憑」を獲得してはいない。
ただ僕はまだ、この「改行原則」の連続記載で
「ズラシ」という問題を語っていません。
廿楽さんの意見なら
それは荒川洋治の詩などに顕著だという。
そんな「ズラシ改行」にも魅力を感じる。
この魅力の源泉を何かと考えることが次の命題になるとおもうのです
【廿楽順治さんの書き込み】10月14日
「見えない」改行と可視的な改行では
「英断」の質が違うと僕はいまおもっています。
このあたりのことは大変難しいですね。可視的な改行を隠蔽することで、逆に軋みや屈折をつくるといったことは、その通りだと思います。
ただ、それは改行という地を前提にしているように思えます。つまり、詩であるはずなのに改行されていない。しかし、散文ではない言葉のきしみと屈折、あるいはイメージを媒介にした意味の切断や飛躍があるもの。
こういう「読み」が成立することは事実だけれど、これは読者への負荷がけっこう大きいでしょうね。
わたしは怠け者の読者なので、そういうのはよほど面白くないと最後まで読めない。
散文詩はまた少し違うのかもしれません。
【阿部嘉昭の書き込み】10月15日
そうそう、読者への「負荷」という問題がありますね。
「見えない」改行の多くがそれに無自覚だ、というと言いすぎでしょうが、
結果的に、そういう詩篇ばかりの詩集は
再読を促がされなくなる。
愛そうとするときの突破口が明示的ではない、ともいえる。
散文詩と散文の区別もまた
「改行原則」の考察とともに難しい。
粕谷栄市が読みやすいのに
粒来哲蔵が「ほぼ」読みにくいのはなぜか
あ、森川さんの書き込んだことについて、ここで。
貞久秀紀の詩の技法は
現代詩のなかにあって
決してオーソドックスではないとおもう。
改行方法にしても、何にしても。
意味の繰り出し方、無駄のなさ、反転、事後判明、語彙の限定・・・
すべてが「勢い」では書かれていない。
推敲の鬼、という感じもします。
でも生得のリズムがある。
一行の字数の少なさとリズムが離反しないというのも凄い
【阿部嘉昭の書き込み】10月15日
いや、一行の音数の少なさは
それ自体に内包的なリズムを繰り込むか。
それで複雑な味わいが出る。
眼下がゆっくりと沁みてくる。
逆に一行の音数の多さは
「たたみかけ」以外にリズム的な解決を見出せないかもしれない。
散文脈の詩ならばまた別だけど
【廿楽順治さんの書き込み】10月15日
粕谷栄市が読みやすいのに
粒来哲蔵が「ほぼ」読みにくいのはなぜか
確かに。なぜだろう。
改行は意味や像、視野、人称の転換の記号として機能することで、「読み」にドライブをかけるわけですが、それによって読者の負荷が分散する。これは詩に分かりやすさという錯覚を与えます。長い行の連続では、韻律や音数律、微妙な屈折などが形態的な「読み」の加速の要素となるのだと思いますが、これがどのようなあり方をとれば正しく機能するかが、今のわたしには見当がつかない。しかし、長くておもしろい詩は確かにある。
いずれにしても、イーザーが読書行為論で言うような空白、省略などのテクスト戦略がなければ能動的な「読み」は起動しない。個々のテクスト戦略が希薄な状態で「読み」を現象させるには、「現代詩」というジャンルの強迫性がなければ難しいでしょうね。「これは現代詩という前衛なんだから少しへんで難解でも、とにかく最後まで読んでみよう」ということです。しかし、再読にまで至らない。これはあまりに理に落ちた分かりやすい詩が、一読で消費されてしまうのと結果的にたぶん同じです。
「現代詩」内部にいた読者が崩壊し分散してしまった状況では、「現代詩」や「現代詩」のなかにあらわれる語り手が、今では聖性も強迫的な力ももてなくなっている。少し悲観的かな。
旅の一日
西脇順三郎
すかんぽの坂をのぼって行くとそこ
はアモリの春であつた林檎畑の石垣
によりかゝつてみたが何も考えたく
ないアネモネの根のように頭が岩の
中へ沈んで行くばかりだ夏が来ると
この曲がりくねった枝から没落の天使
が透き通つた舌を出してたれさがる
のだが今は鳴いているばかりだ
この詩は原文では下が揃えられていて、一見すると散文詩に見えます。改行という観点からするとおもしろい詩です。で、この詩の読者はどういう層なのだろう。
【阿部嘉昭の書き込み】10月15日
廿楽さん、濃い(笑)。
もう酔ってしまったので、あした必ずカキコ対応します。
ごめんなさい
【阿部嘉昭の書き込み】10月16日
掲げられた西脇の詩、失念してました。
こりゃすごい。
散文詩のようでひそかに「改行」してる。
行末揃えで、このことが韜晦されている。
うーん、「改行原則」は
やっぱり西脇接近になるなあ。
なぜ、廿楽さんのカキコが濃いとおもったかは
シラフにもどって即座に判明。
どんな詩にせよ、ひとのカキコ欄に
詩を打つやつぁ濃いのだ(笑)。
さて。
改行
=像や人称などの転換
=読者への統御力の発生
=その一方で、読者への負荷の軽減・分散
(「同じもの」への膠着は逆に魔力的である)
という廿楽理論には大賛成。
ここで先日の切通理作君とのトークイベントでの
もうひとつのテーマ「気散じ」も出てきますね。
「気散じ」こそが「気散じ」を読む--
しかもこの図式、美しいのではないでしょうか。
脳に視野があるとして、
それが動くことで
読書には「生」の色彩が生まれる。
さきに「それ」を書いたものは
このことを先験的に知っているから
詩が「受け渡し」の文脈にも置かれる。
このとき「普遍」とは何か、という視点が発生するはずです。
いずれにせよ、「改行詩」は音律の束のかたちに「ほどけている」。
読者は眼で一行一行の「リボン」をゆらす。
ゆらして、自らに風を送る。
いっぽう散文詩は、ときに文と文が硬くむすばれていて、
ほどかせないほどに堅固なものもある。
この証明は簡単で
掲出の貞久詩でも廿楽さんのどの詩でもいいんだけど、
それを散文詩形に送りなおしたら
それは即座に空気なしの状態で硬直してしまう。
(ならば西脇の「旅の一日」とはいったいどんな奇蹟なんだ?)
ともあれ、ということで新説(笑)
《改行はサーヴィスである》
こうおもうことが
気持よく詩を読むコツかもしれない。
こうしてイーザーが打っ棄られる(笑)
もう一点、逆証。
各行を送っても印象に変化のない散文脈改行詩は
やはり「詩性=ことばの魔術性」が欠落している、ということですね
【森川雅美さんの書き込み】10月17日
廿楽さんの引用した西脇さんの詩は確かにある種神業的。改行するところでしないで、その少し前や後でする。言葉そのものが襞になり、二重三重の意味のぶれとして現れてくる。意味の多重性は時間の多重性にもなる。「旅人帰らず」や「失われた時」の時間も、存分にこの多重性を孕んでいる。
貞久さんの技巧が特殊ではないといったのは、あくまで方法という意味で、その現われはきわめてユニークだと思う。西脇と同じようにように、言葉のひだ、多時間を作っている。やはり普通の改行とはずれたところで改行されている。短く改行されているだけに、その改行されなかった部分のきしみが強調されている。
ひろいところに身をよこたえている
と
身のなかに夢がひろがる
ように
当たり前に改行すると
ひろいところに
身をよこたえていると
身のなかに
夢がひろがるように
となるが。明らかな意図的屈折が多重に施されている。見えない改行と、見える改行の間のずれを読むことになる。
特殊ではない技術を、自らの技法として溶変させるのが、優れた詩なのかもしれない。
【阿部嘉昭の書き込み】10月17日
特殊ではない技術を、自らの技法として溶変させるのが、優れた詩なのかもしれない
そのとおりですね。
貞久秀紀は、昨日、『石はどこから人であるか』を
読んでいました(これがいちばん新しい詩集?)。
こちらは(たぶん初めて)散文詩形をふくんでいる。
これを読むと、通常の身体観(自己限定域)を
どのような詩的発見によって覆すか、
これを詩法の問題として繰り返そうとしているのがわかる。
不意打ちの認識。その提示。しかもそれが詩としてゾッとさせる。
してみると、貞久さんの「改行」が
まさにその身体と相即している点がわかる。
尊重すべき、唯一無二の個性だとおもいます。
上、森川さんがしめしてくれた「通常」の改行法は
熟さない言葉でいうと、「助詞切り」。
いっぽう貞久詩のほうは「動詞完了形切り」。
その動詞を次行の何が受けるか。
その直前に宙吊りがあり、
次行開始直後に「屈折」が来る。
森川さんのしめしてくれた例は
たぶん論脈構築的で隙間がない。
実際の貞久詩のほうは
動詞が詩行の終わりに「脚のように」伸びて並立し、
それだけで眺めが亡霊的・夢幻的になる。
とうぜん、そこに隙間が生じる(空間のみならず時間にも)。
これは、貞久さんの修辞上の「好み」の問題ではなく
やはり存在の真芯を貫いている「感覚」の問題だと僕はおもいます。
時空に「ヘンなもの」が見えているんだとおもう。
いずれにせよ、森川さんは
考察に足る提起をしてくれたとおもいます。
多謝
【阿部嘉昭の書き込み】10月18日
今日、ミクシィに詩篇「てつぶり」を書いていて
新たな「改行原則」に気づく。
詩行末に置かれるべき助詞を
次の行の行頭にズラす「改行」は
動詞の連立あってのことだと。
名詞が多い場合にそれをやると
詩行末が「体言止め」の連鎖のように
いったんは読まれてしまう。
それが意外に辛いのだ。
昨日は佐藤友衣ちゃんという、
岡井さんの結社「未来」に入っている子が
飲み屋の面子にいて、
短歌における体言止めは
往々にして関係性の複雑な提示になりがちで
歌の調べを阻害するという歴年の僕の主張に
大賛同をえた。
卒然として気づく。
掲出の貞久詩には名詞(の種類)が極端に少ない。
「とき」「はて」を除外すれば、
「身」「まわり」「なか」「菊」しかないのだった。
なんという峻厳。
だらしない僕にはとても真似ができないや(笑)
【廿楽順治さんの書き込み】10月19日
像的なイメージの氾濫か、または音なり声のイメージの氾濫か、という極のなかで現代詩は蓄積されてきたかと思いますが、これらはやや飽和状態です。動詞や形容詞といった述語相互の異化作用にイメージの磁場を移していく、という道もあろうかと思います。その場合、像としての名詞は最小限でよい。
貞久さんの詩には、そういう「述べる」ことそのもののおかしさを感じます。改行の変則は、この「述べる」ところのずれ‐衝突に「読み」を焦点化させる装置となっているのだろうと思います。
わたしは実は最近そんなことをするのが趣味になってきて、少し困っています。このままでは貞久さんに吸引されてしまう。
【阿部嘉昭の書き込み】10月19日
像的なイメージの氾濫は
60年代詩で収束を迎えた、と
僕は詩史観的にはおもっています。
それから荒川[洋治]・平出[隆]・稲川がやってきた。
これらはイメージの脱臼を仕掛けた。
当初この3人の「改行」(「見えない改行」)はあまりにも見事でした。
脱臼から「縮減」に向かったのだろうとおもう、現代詩の一種は。
貞久さんの詩は、そうした「縮減」に
深甚な「認識装置」をからませる。そうして笑わせもする。
「像としての名詞が最小限であること」は貞久さんの場合、必然ですが、
それで独自の改行原則ができあがっている。
この域に達している「縮減詩」はあまり多くないとおもう。
みな、言葉を愛しすぎている気がします。
俳味という問題もあるとおもいます。
僕が掲出した詩ならば
菊をつみに
はてなくひろい
身のなかをあるいている
が、多行形式の俳句にみえる。
みえるけれども、それは
一節がたしかに多い。
この「多い」は実は「少ない」と同根です。
二句がしめされ、
縮減が起こり、
このかたちのフレーズに変成した、と考えてもいいから。
こういうのが僕の考える「ズレ」です。
廿楽さんのいう、
「述べる」ところのずれ
とリンクしているでしょうか。
ま、わざわざ厳密に書いたら
ヘンなことになった、というのが
「述べる」ところのずれ、の第一義だとおもいますが。
廿楽さんは貞久さんに吸収されませんよ。
平易な言葉で「原理」をゴツッと出し
残余のない点に詩が成立するという個性は共通しますが、
廿楽さんには別の武器「ポリフォニー」がある。
一行一行の「別角度」がある。
最近、( )を多用なさるのも
その表れだと考えているのですが
てつぶり
【てつぶり】
短歌と映画をやる友衣
音楽で眼が燦めく大中とで呑む
いつもの早稲田 モツ焼き屋
店頭の赤提灯のなかに
丸はだかにされた貴婦人の背中が
ほろほろ泣いていて、
取り巻く愛語もいっぱいだ
《臓物は天からの寄贈物》
《はらわたの透くまで泪を》など
歯で串を抜く野蛮
横へ横へ食餌が伸びるから
しぜん会話が縦になり
僕の歴代日記が頌められる
世辞には唐辛子をかけるくらいが
鱶鱶した地口に合ったりする
つられて友の衣をおもうのか
手許から滲みだす 秋のはがね
秋には明視の一点がおもく
「手瞑り」がまぼろしの鉄鰤にふれる
泳げない類別が いろくづにある
それを流しやり わかめの底にしずめ
楽をゆきかわせることが
われらの《八岐に別れゆきし日》
春に野蒜を摘まず
秋に枯れ蔓をはらって
十指によごれた幼名の名札を
古壁にあきらかにする
この声のあいだに千のからだがある
かえるさ。
白風に垣根のただしさパウロ来る
金木犀
【金木犀】
かどをまがると
べつの秋があらわれる
垣根沿い ゆくあゆみ
だがときに足なくて
垣根へかくれ
ころん、
秋なりのかげも
午後がふえて
片踏みに銀のうつる
いつでも片から方へ
身をとおしたが
ひょうたんの鳴るきせつは
明視のそこがぬける
さざんかの垣根も
ひなの蓋どころか
天体へのきざはし
ころんころんと何処をあるいて
うすまるよ、秋が
千のからだ並べる白が
順番に金木犀見ゆ破滅以後
くうかんの序列が
ふもとまでしるく澄む
くうきも香りにかわり
いまさらすこし死ぬために
いまさらすこしそれを吸う
おもいだすなかで
金木犀のかずとおなじ
かぞえればはつ恋も
十指にあまりだす
十指の花に
轢死
【轢死】
もう毛細血管のように
鉄路もろーかるを
はなやかに縫ってはいないのだが
(戦前が消えた、
(猿田彦の最後のあしあとが
あそこも汨、
ここも汨と屈原し
くうかんをくるいでゆくべく
食卓へむぞうさに置かれた
ぽいんとおぶ「びゅう」のチラシとる
(朝から はらくちていた
(それに女房はいつも
この世を出たがっていた
どれどれ水郡線 釜石線 左沢線
さすがに血紅がいっぱい
最後の緑からそんなのが噴きだせば
いいしゃしんと網膜も沿わんとするよ
ひとが老眼鏡を買うのは秋、
という隣人のことばを
むねから紐ひりだし
水差しに添って憶いだす
せつなさや手許の橋を列車が渡った
みにちゅあの座にみちのく収まり
チラシ文言、《横丁へ、旅深まる。》
書けんな、こんなくうかんの折込は。
列車も手足だけ運べばいい
秋の真髄を列車と手足でわかち
たましひは野へ置き去りに。
この身がばらばらになれば
短日の花もそこに数本が咲くか
滝は各処に
(これはmixiでは10/10の記載)
【滝は各処に】
落ちるところが定まっての滝なのだ
だが女はきょとんとしている
わからない女の少なさを見ぬふりして
眼前では 茛のけむりにかえてみた
近さが懐かしさか、遠さがそうか
難問に出会えばひとも歩度を変える
いつかは雲の峰が背後でダアダア落ちていた
誰かが北区へ帰宅した
配置だって憂鬱をつよめて換えるだろう
《鏡の前にても脂肪のなき梨よ》
女の泣きそうな顔に梨の素朴をみて
白糸を引いて呼び寄せた、「おいで」
《部屋は五階だったから
ぼくよりたくさん沈まなければならなかった》
愛する女は横だが 女友達はいつも縦
縦のものを呪文で横にして
だが「田」の字は脳裡でぐるぐるまわって
自身の姿を点滅のなかに温存する
怒気が梨の香気よりまさって
ちょっとした室内通路を凌辱の畦にしたんだ
いつかは雲の峰が背後でダアダア落ちていた。
水洗便所で何度も自分を取り替えて
垂れ落ちようとするズボンを引き上げた
ロボットめく前面も設定を更新した
なのにいうなよ、限度のない愛を
「滝もゆっくりと落ちれば川」なんて。
とどこおった泪が汨羅になってしまう
ついに後方確認して
夢のなかでのように 凶暴に
投身なき汨に 投身をみた
尾行
(これはmixiでは10/8の記載)
【尾行】
《この世の果てまで後をつける
その人を殺してしまうために》
女の行く道に沿っては
格子戸が無数に並んでいる
木から白糸が噴きでている
あれがかつての花の位置
「空」といわないために、
女の匂いが電線にからんだ。
――長い髪束を懐中にしてゆく
電信柱は木造で
ブリキの傘に裸電球、
淀へ淀へと 歌を懸けても
喉仏が暮れるのがかくも早い
《喉仏の代わりに踝》
だから少ない女が嫌いなんだと
夕光の直中 髪束を握り
懐かしい女をずっと尾けてゆく
否 女ではないだろう
それは風景の空漠で
厚みすらないのだから
たいらに展[の]せない
かげろふな何かなのだ、
夕空にこの移動が触れる
僕は晩年のグレタ・ガルボの
「ああ、この家だったのか」の話を
壇上でしました(とっておき、さ)
おかげで切通理作の角がぴくぴく動き
廿楽順治の縦もさわさわ揺れる
そいつらだって やはり
《一人と数えられるかは疑問》だろう
切通理作・情緒論
【トラブルというか勘違いあって、
こちらへのアップが遅れました。
mixi上は10/4の日記です】
切通理作くんの新著、『情緒論』をたったいま読み終わる。
重量級パンチを食らったように、頭のなかが混乱している。
それがすごく、いい気持ちだ。
切通君の著作は深いレベルの未来形成力をもつ――
最初にそう確信したのが彼の初期評論集、
『お前がセカイを殺したいなら』を読んだときだった。
僕は彼の「連接能力」に注目した。
そこでは歴史上の敗者、または現在の潜勢の個々が
着実に結びつけられて、
ある星座型の模様を刻々えがきだす。
その模様のなかに、来るべき未来が着実に透視される。
それが「勝利者の未来」でない点がミソだ。
「存在」の絶対(孤独)が感知すべき未来、というべきか。
これは、ベンヤミンが歴史に関わる手法と同様ではないか。
切通君の扱うものは当時多く、サブカル的無ジャンルだったが、
サブカルを哲学(社会学)するというのではなく、
サブカルをサブカルのまま現前させて
その連接にこそ意味をもたせてしまうこの手法に
学者には及ぶこともできない倫理的なものを感じた。
●
『お前がセカイを殺したいなら』では
サブカル個々から主題論的に採取された「空」が
メインテーマの回帰のように出てきた。記憶で述べる。
というか「模造記憶」にまかせて以下「切通的《空》」をしるす。
「空」とはあらゆるものの投影幕だ。
だがそれは覚束ない。実体がないから。
それはわれわれの自由の延長線の集束。
だが、同時に、「天蓋」の言葉のあるように、
それはわれわれ地上の捕囚の思念的限界でもある。
だいいち、鳥ではないわれわれは「そこにいた」験しすらない。
空はわれわれよりずっと古く、
新しいわれわれは空によってこそ齟齬を自身に投影されている。
というか、空はわれわれの齟齬によって投影されている。
だからそれは「せつなさ」の根源であって、「懐かしい」。
ハルカナ星ガ フルサトダ・・・
最近の僕の詩句を対置させてみようか。
《最初っから鳥の翔ぶかたちは
鳥ではなく空の残心だろう》
新著『情緒論』の扉写真には
「阿部嘉昭ファンサイト」にも掲載されている
仙台在の女性写真家Keiさんの写真がつかわれている。
彼女が撮った壁のうえの影。
影の自写像(草森紳一にも同様の写真テーマがあった)。
「不如意」が滲み、写真行為の豊かなだらしなさも潜む。
わたしが影法師だという「転換」は
わたしが鴉だという「転換」のように「不敵」なのだが、
不敵さに甘んじられず、他人からも懐かしさの芯を見透かされる点、
「不如意」が最終的に枠づけられてしまう。
こういうものに対処すべき態度は「全肯定」だ。
僕のファンサイトには「空の無名」という
空をテーマにしたkeiさんのプチ写真集もアップされた。
見てもらえればわかるのだが、
まったく凄い「空」を撮るひとなのだった。
ぼかんと開き、同時にそのかけがえのなさが懐かしく、
催涙にまで導いてしまう空の顔貌の数々。
位置をしるすものの一切ない空「だけ」の碧空は
写真家の署名性を拒絶する、という絶対逆説をもつ。
その周囲にKeiさんの写真は自身を張り巡らす。
一期一会の一瞬の空を捉える彼女の運動神経は、
同時に彼女が場所をめぐる個体(場所)でしかない、という
「不如意」も抱えていて、
それで「単なる空」が幾層もの「情緒」を帯びてゆく。
――ふと憶いだす。
そのKeiさんの「空の無名」の解題を書こうとしたとき、
誰か若手論客が書いた「屋上論」が
書棚のどの本にあったのかを探そうとした。
空に最も近いその場所が、空によってこそ幽閉されている。
あるいは階段を昇った分だけ、屋上は稀薄さや死に近付いている。
そして建物屋上の構造自体が落下しなければ幽閉的で
そこでこそ人は「空」に捕囚され、宇宙的にせつなくなる。
そして若者の場所はその屋上にいよいよ近付いている――
そこでは、そんな文が書かれていたはずだった。
記憶力の悪い僕はそれを探しだすことができなかった。
それは豊田利晃『青い春』の作品論を書こうとしたときも
すでに体験していた挫折だった。
今度の切通君の『情緒論』で、
その文章がどこに掲載されていたか端無くもわかる。
――宮台真司『世紀末の作法』だった。
宮台は「開かれた密室」という端的な形容を
屋上空間にたいし、つかっているようだった。
●
以上の僕のエッセイ的文章では
最終的・大団円的に「空」の領域にやはり入ってゆく
切通君の新著『情緒論』のキーワードをちりばめている。
では何が「情緒」なのか。
「エロ」がそれだ、と切通君は果敢に綴る。
「残酷」がそれだ、とも、柳田國男『山の人生』の一挿話から綴る。
それが『文学のふるさと』で安吾が引いた『伊勢物語』の挿話と
遠く交響していたりもする。
主体が見る「風景」ももともと主体を投影されていて、
主体と不分離だ――その不如意が情緒の本質だという点を
切通君はつげ義春の談話などから高度に概念化する。
「過去は過ぎ去って戻らない」――
このことも切通君の思考のなかでは「情緒」だ。
怖ろしい言葉が綴られる。
《因果律のハッキリしているものは情緒を削ぐ》。
茫洋としたものの不如意感、その残余・揺曳が情緒なのだ。
つまり貶価的にいわれる「情緒的」の「情緒」ではない。
「論理的」の対義語「情緒的」の「情緒」ではないのだった。
ここにあるのは情緒の怪物的な論理化――そういっていいだろう。
情緒を回転させる滑車のその役目を「不如意」が引き受けている。
僕の頭のなかでは、とりわけ安吾『青鬼の褌を洗う女』の
奇怪であるがゆえに情緒的な結句が響いていた。
《すべてが、なんて退屈だろう。
しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。》
ここでは「退屈」の語の価値が転倒されている。
こうした転倒の手捌きのリアルが切通君の新著にも渦巻いている。
●
文学発見という点で、切通君に急所を突かれたのが川端康成だった。
僕は映画百年の刊行物で西河克己『伊豆の踊子』を扱い、
そのさい川端の原作も再読していた。
「いい人はいいね」という
波の同一運動のような言葉を語る少女を中心に、
それは水の縁語に貫かれた短篇だった。
主人公・一高生の「みなしご根性」が云々されるその小説は
被差別民の通路が地上に別に設けられているという
峻厳な視座にも同時に立っている。
水はつづらおりの坂への通り雨とともにくるが、
旅芸人一座の「水」は梅毒流産によって流れた、
「水子」の「水」から定位される。
その「水」が転位によって、
主人公の脳を水のように浄らかにさせるまでを作品は描く。
その際に、一座と主人公の別離が物語上、取引されるのだ。
川端『みずうみ』は中学一年のときだったかに読んで、
読み返していない。「気持ち悪い小説」の意識だけが残る。
それを自由に翻案した吉田喜重『女のみづうみ』に熱中するだけで
原作を度外視し、事足れり、としていた。
切通君は、僕が忘れていた途轍もない原作末尾を過たず取り出す。
そう、主人公は女の尾行者だった。
「内面」などない。彼にとっては女が風景だから。
その彼がある美少女を尾行する。
ついに彼女が欲しがっていた蛍籠を渡す。そして去る。
主人公の心にはその少女の瞳の「みずうみ」が揺曳している。
そののち、主人公「銀平」は安酒場で
尾行した少女との聖性と対照的な中年女と懇ろになる。
《銀平は夢幻の少女をもとめるために
この現実の女と飲んでいるような気もしていた。
この女がみにくければみにくいほどよい》。
ああ、こうしてわれわれの「不如意」「懐かしさ」が摘出されている
――そうおもった。
これはわれわれの行動の、欲望の常ではないか。
この小説には、銀平を客観描写の軸から外れて規定してしまう、
途轍もなくヘンで怖ろしい文章もあった。
それも切通君は過たず、抜き取っている。
《桃井銀平がその少女の後をつけていた。
しかし銀平は少女に没入して自己を喪失していたから、
一人と数えられるかは疑問である》。
ああ、ここにも「われわれ」の姿が定着されている、とおもう。
論理的に銀平に川端自身がすでに重なっていて、
だから「一人」ではない、という解釈をするまえに、
欲望によって自己喪失しているから
「一人」はすでに「一人」ではない、としたほうが面白い。
●
ともあれ、この一連で僕は切通君が本で出した名、
それに乗じて僕が出した名と、固有名詞を濫発した。
実際、「連接」によって思考を伸ばしてゆく切通君のこの本では、
施されている巻末索引にふさわしく、
固有名詞が思考ごとに通過して、ときに回帰までする。
だから、混乱の強度と快楽の弁別がなくなる。
たとえば先に柳田國男の名を出したが、
それは文中の固有名詞レベルでは次のように「つながる」。
《藤原正彦→ブレイク→イエイツ→宣長→柳田→
養老孟司→茂木健一郎→小林秀雄→田山花袋》。
酩酊をおぼえずにはいられない。
●
《しかし銀平は少女に没入して自己を喪失していたから、
一人と数えられるかは疑問である》という川端の奇妙な文は
ラカン学者の喜びそうなものだろう。
欲望を感じる主体は主体を喪失する。
それは対象が実は欲望によってこそ喪失するのと鏡像的関係にある。
対象はいつもaであって、主体と対象は
aの座の奪取をめぐり虚無的な取引を繰り返すのだった。
これが『情緒論』の顕著なテーマ、「ノスタルジー」と関わる。
切通君のこの本で僕、「阿部嘉昭」の名は、
まず写真家・佐内正史の言及箇所に
僕の『実戦サブカルチャー講義』を引用しつつ現れてくる。
そこで展開した「散歩論」で僕がしるした「不如意」から
切通君は自分の思考を組み立てていったとものちに綴る。
つまり僕自身は『情緒論』で過褒ともいえる扱いを受けている。
同時に『情緒論』はギャルゲーなど僕の守備範囲外もあるが、
永沢光雄『AV女優』、瀬々敬久『HYSTERIC』、中田秀夫『女優霊』、
石川寛『tokyo.sora』、つげ義春、中平卓馬+森山大道といった
僕の親炙したものにも溢れかえる。
ただ、僕が警戒し、度外視していた領域に論及を開始する
――これが、「ノスタルジー」だった。
僕のこれにたいする態度は偶然というべきか徹底していて、
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』も
『ALWAYS 三丁目の夕日』も結局観ていない
(だが『ALWAYS』は倦厭の対象ではないかもしれない――
切通君がインタビューをおこなった同作・山崎貴監督の発言は
「時間」にかんし実に叡智に富むものだとわかるためだ)。
僕がノスタルジーに対比させるのはアナクロだ。
前者をとらず、後者を戦略化する。
音楽分野でいうなら、「昭和歌謡」は結局、
クレイジー・ケン・バンドにしても
GO! GO! 7188にしても音楽シーンの更新に結びついていない。
ノスタルジーを「資本」が商品化し、
それに自己愛者が自己同一化させる枠組がまずあって、
それをそのノスタルジー対象を知らない世代までが
戦略転用するやりかたが世代補完的で、好みではなかったのだ。
むろん時間軸の攪乱は必要だ。
よって元も子もない「アナクロ」が時間操作上の唯一の戦略となる。
そこでは、一定時間への同一化が起こらず、主体が散乱する。
散乱、――すべてはそれでいい。
このときに前述したラカン的な思考が導入されると効率が高まる。
ラカン学者、スラヴォイ・ジジェクはこう綴った。
《ノスタルジーは「見えない」。
それを見ようとすれば「自分自身」を見てしまうからだ。
それはポルノグラフィと同様である》。
さすがに切通君もそれと同様の言葉を
自分の対談相手・唐沢俊一の発言から取り出していた。
ただ、この『情緒論』はノスタルジーにたいする僕の警戒を
別次元にときほぐすものなのかもしれない。
この分析がまだで、だから読後感にわずかな混乱がある。
切通君の書いた「行間」が把握されなければならない。
たとえば、こんな言い方はどうか。
・ 「時間」は寸刻と寸刻のわずかな隙間に人が住めない、
そのことによってすでに「不如意」だ。
・ この不如意を拡大し、中心化に引き戻す心性がノスタルジー。
よってそれは人間普遍的にしか捉えられない。
・ これを資本操作から自発的にわかつことができるのは
不如意の意識を最大限拡大したときだけだろう。
・ ノスタルジーは現代的情緒の典型だが、
不如意の介在を通じてのみ、断罪されない。
切通君はそのように示唆しているのか。
日曜日のトークイベントまでに
本に付箋を入れ、さらに細部を確かめてみなくては。
●
いま「日曜日のトークイベント」と書いた。
その概容は以下。
切通理作×阿部嘉昭
せつないって、いいよね!~中年二人、情緒を語る
日時:2007年10月7日(日)午後3時開演 (午後2時30分開場)
場所:三省堂書店神保町本店 TEL 03-3233-3312 http://www.books-sanseido.co.jp/shop/kanda.html
入場料:500円
一度、別の日時・場所を一旦この日記欄に
お知らせでアップしたことがあるので
間違いのないようにご注意ください。
僕の学生は誘いあわせて、こぞって来てほしい。
出席をとりますので(笑)。
僕の本も会場に取り揃えられるようです。
サイン本ゲットも、ぜひこの機会に!
杉本真維子に誘われて
昨日10月2日(火曜)は三村京子と、
新宿・紀伊国屋画廊で開催されていた
版画家・落合皎児さんの個展最終日に行った。
連詩仲間・杉本真維子の誘いを受けてのものだ。
杉本真維子の詩と落合さんの版画がコラボしている連作が
一部に展示されていたのだった。
ちなみに両者はともに長野の出身。
ただし落合さんの活動はすでに世界的だ。
杉本真維子もいずれそうなるだろう。
会場は全体に「三幅対」型の展示を貫いていた。
真ん中に落合さんの版画、もしくは絵画がある。
その左右に、より号数の小さい、
短冊形の落合さんの作品が構えている。
杉本さんとのコラボ部分でも、
落合さんの版画を取り囲むように、
杉本さんの詩の一節と、フランス詩の一節が
その左右に並べて展示されていた。
なお、フランス詩は杉本さんの詩の翻訳ではなかった。
落合さんの作品はアブストラクトとも具象ともとれない。
波濤の飛沫が画布全体に飛び散っているようにみえる絵。
曇り空の向こうに満月がうっすらと浮かびあがるような絵。
ただ、それはそのように類推が利くというだけで、
やっぱり全体が幽玄なアブストラクトと捉えられる。
たしかにイメージが自然や天体から摂取されていて、
その宇宙的な感触にこちらの肌の感覚がざわめくけれども、
そこからは「像」が周到に差し引かれていたのだった。
特徴は、粉を吹いたような金や銀の絵の具が
随所に用いられている点ではないだろうか。
藍色系の暗色にもそれらはどこかで漂っていて、
その混在によって、すべての色が鈍く沈む。
沈んでいるから浮き上がってくるような動勢が画の細部にあって、
それが刻々、見る側にリズミックに迫ってくる。
覆る運動――覆る運動。圧倒的な迫力だった。
会場に展示された、
ガラス貼りの額縁に包まれた号数の小さなものが版画だったろう。
そこでも金や銀が、表現物の細部に吹き上がり、
しかも藍色を中心とした色彩も「沈みつつ浮き上がっている」。
こちらはとくに、イメージの具象性がない。
これらの版画がどのようにつくられたのか、
まったく見当がつかなかった。
やがて会場にいらした落合さん自身と
杉本さんの紹介で、話をさせていただく機会を得る。
版画の制作過程はこうだった――
落合さんも最初は配色刷りや重ね刷りなどをしていたのだという。
だがその作業にやがて飽き足らなくなる。
彼はフランスでつくられている特殊で精密な版画インクを得た。
銀や金、
あるいは植物的な感触のある鈍い藍染め素材のようなインクは
そこでのみ、手に入れられるものだという。
インクそれぞれは比重がちがう。
金・銀は藍よりも重く沈むのだ。
秘密の露呈になってしまうが、
版画専門家でも方法のわからなかった
落合さんの版画制作の手順とはたとえば以下のものだった。
銅版ではなく、独自の紙型を用意して、
そこに針で傷をつけるように
イメージにまかせた抽象模様を施してゆく。
当然、タッチや個性や比例性がそこで綿密に発揮される。
次に、藍と銀のインクを丹念に混ぜる。
それを、傷をつけた紙型へ丁寧に載せてゆく。
染物のような作業なのだろう。
前述したように色のちがうインクは比重が異なるので、
重い銀なら、傷のなかにより深く沈む。
つけられた傷が深ければ深いほど、そこでの銀の分布率が高くなる。
混ぜられた全体のインクには、銀と藍の混合が保たれているが、
そこでも紙型に施された傷をつうじ
風合に精妙なグラデーションもできるわけだった。
むろんこの説明でわかるように
刷り上がりは事前に完全に計算できる態のものではない。
「偶然性」が導入されている。
「刷り」に移ってからの落合さんの話がさらに面白かった。
落合さんは埼玉の工場にそれだけで何トンもある
ローラー型の版画印刷機を特注したのだという。
1センチ平米あたりで7トンもの圧力がかかる機械。
この加圧によってこそ、紙型の傷に沈んだ銀が
版画紙にようやく隈なく定着されるのだという。
という説明があって、
なぜ傷を施す素材が銅版ではなく紙型なのかがわかる。
7トンの重さを加えられると
柔らかい銅版ならば10円玉も千円札になってしまいます、
と落合さんは笑いながらいう。
金属の「展ばし」をおもえばいいのだろう。
むしろ圧縮されても厚みが縮減されるだけで、
表面の細部が温存される紙型のほうが
印刷の際の異様な重圧に耐えられる――そういうことだ。
破れやすい紙、の柔らかさをおもうと意外だが。
7トンまで行かなくとも加圧式印刷の版画では、
素材が銅版ならば十枚程度刷って、摩滅してしまうという。
紙なら80枚程度が理論的に刷れるらしい。
ただし落合さんが刷るのは15枚程度。
「刷り」に労力と綿密さが要求されるからそうなるのだが、
もう一点、大量に刷ると刷り上った一枚一枚の単価が下落し、
版画家としての活動が不能になるのではないかともおもった。
会場には版画に用いられた紙型そのものが一点、展示されていた。
触ってみる。
当然、紙型に施された細かい傷が指先に伝わってくる。
そうだ、落合版画の像の朦朧化とは、
視覚性が触覚性に逆還元されて起こった変化なのだった。
それは刷り上がった版画それ自体にも共通する。
杉本詩とのコラボとして展示されている作品の表面も触ってみた。
同じように指先から幽玄な波動が伝わってくる。
刷り上ったものと元の紙型は相互に触覚性を鏡像化していた。
そういえば案内状にも、こうあった――
《作品は手で触れて材質と版の圧力などをお楽しみ下さい》。
こう書いてみて、落合さんの版画と杉本真維子の詩の共通点が
判明するだろう。改めて整理してみる。
・ 両者ともに「像」がない。
・ 紙に「傷をつけること」が作業の端緒となる。
・ 紙への異様な加圧によって作品が完成する。
・ その加圧の介在を察知して、「暴力」が享受者に伝達される。
杉本真維子と落合さんのコラボ部分。
引用されている詩は、
杉本の第一詩集『点火期』所収の詩篇「発色」だった。
最初、落合さんの版画に杉本さんが詩を施したとおもったのだけど
だから順序は杉本さんの詩に落合さんが版画を添えたのだった。
全体が二聯で構成されている杉本「発色」を
落合さんは五聯に分けなおした。以下のように――
●
【発色】
杉本真維子
少年の
垢まみれの刃は
柄の部分だけがずっしりと重く
怒りのようにみえる
わたしの一本のしらがは
とおい物語を聴くように
うっすらと重みを帯びて
ひだりまわりに裂けてゆく胸の
ちゅうしんに赤い
鳥の足がとまる
ねんどを切るように歯茎がぬれる
ひと殺し
とは誰のことをいうのか
言葉で
なぐりつける瞬間は
ひとが割れる
飛沫すら見えている
●
曖昧で像を結ばぬ修辞、直喩の乱暴、
「言葉で/なぐりつける」など杉本さんのヤクザぶりが満載。
しかも幽玄だ。
冒頭「少年」と二聯目「わたし」の遠近法が測れない点も
そうした印象を深めるとおもう。
この聯ごとに、落合さんの一枚一枚の版画が対応している。
一聯目の「刃」、二聯目の「しらが」、三聯目の「鳥の足」など、
「らしきもの」は版画の細部にも認められるのだが、
それらはあくまでも「らしきもの」であって、
具象性を自ら覆している。
全くの具象再現など怖くない。
あるいは全くの抽象化も凡庸だ。
問題なのは「らしきもの」の近似性、
それがもたらす極薄の厚みの差に伏在する
「非似」=ズレの恐怖のほうではないだろうか。
杉本真維子の詩行の運びにはもともとそれがあって、
だから彼女の詩がヤクザなのだが、
そのヤクザぶりを落合さんは版画に過たず転換し、
やはりこちらの距離感を豊饒に狂わせるのだった。
しかも、向かって右の杉本さんの詩にたいし
向かって左には同様に裁断されたフランス詩がある。
翻訳ではないことは、そこに
朧ろげに知っているフランス語の単語を認めただけでわかる。
落合さんによると、そのフランス詩「にも」
個々の版画が「照応」しているのだという。
つまり真ん中の版画を中心にして、
日仏ふたつの詩が「分岐」していた恰好となる。
なぜそれが可能なのかといえば、
イメージにもともと定型がなく、
だからそれが無秩序に「継がれ」うる、ということだろう。
「継がれて」はじめて、世界が(脱)整合的な連続性を得る。
落合さんと、杉本さんたちと進めている連詩の話になって、
落合さんが連句に非常に詳しいとわかった。
僕らの連詩の方法に納得もしてくれた。
それは「連鎖」が何かを知る落合さんからして当然だった。
落合さん自身、杉本詩とフランス詩の「あいだ」をつなぎ
橋渡しする連句を版画で提示した、といっていい。
杉本詩-落合版画の共示部分は
だから最後に歌仙36句めのような「祝言」を迎える。
5つに分断されていた杉本さんの詩の全体が初めて提示され、
それにも落合さんの版画が「付いた」のだった。
たしかにそれは「企み」なのだが、
人間の想像力の真芯を突き、
イメージや作品を「救済」していたとおもう。
素晴らしい個展だった。
●
なお、杉本真維子は思潮社「新しい詩人」シリーズの枠組で
この秋、カフカ的なタイトルの新詩集『袖口の動物』を上梓する。
その出来上がりを僕は心待ちにしている。