近藤弘文・夜鷹公園
近藤弘文さんご自身から送っていただいた、
07年10月刊行の詩集『夜鷹公園』
(ミッドナイト・プレス)をいま愉しんで読んでいる。
収録詩篇の多くが現代的符牒を前面にはしている。
閉じない鉤括弧(「)の連鎖(A)、
行頭が読点(、)ではじまってしまうこと(B)、
さらには行の転換などによって、語体が入れ替わって、
そこにスパークが起こり、発語の存続性が脱臼されてしまうこと。
一行の束と一行の束の組合せが電気的な恍惚を迎える瞬間もある。
「場」の把握が行き迷う点が肝要だ。
つまり近藤さんの詩は、加算される行の場から自明性を奪い、
読者に詩原理への考察を導く点にも力が注がれている。
それでも抑制された言葉づかいが語感として素晴らしく、
リズムにもずっとしなやかな一貫性が保たれている。
上記A、Bはたとえば石田瑞穂『片鱗篇』の詩篇にも
みてとれた特徴だった。
ただ石田は詩句にたいする読みの同定性を剥奪するために
そうした文法破壊を「反響的に」もちいる。
だから、それらは複雑な字アキ、地名とも何ともつかぬもの、
あるいは植物の学名表記、稲川方人からの語彙「ヘヴン」、
そして究極はそれらの「音(おん)」とともに、
すべてが、同心円が横ずれしてゆくような反響性の枠組に置かれた。
このばあい「欠片」こそが、反響を伝える空間内の媒質だ。
石田を、その使用語彙の好みから稲川方人の流儀と呼ぶ人はいよう。
ただし反響性が線形に沿っていったかつての稲川にたいし
石田が空間性を飛躍的に高めている点には注意が促がされてよい。
これにたいし、近藤さんの慎ましやかでミニマルな手法は
字数の少ない詩行の束を荒掴みにしてばらまくような
そのことによってヒリヒリするような無造作を偽装する。
束X-束Y-束Zが、
(束X-束Y)-束Z とも、
束X-(束Y-束Z) ともとりうるような
自由な出入りをするような、ゆるめられた詩行拘束なのだ。
僕は若手詩人の動向に疎く、総体論が展開できないのだが、
近藤さんのやりかたには新しさを感じた。
証拠のような詩行変転が集中の「廃屋」にある。
「藁を
つかみなさい
とあなたのつくった巣が
ほら
あいさつしてよ
あたしは
こんなにも廃屋のなかで朽ちて
あなたの声に
「雲ひとつない
のである
一見、相当程度に病んだ文法破壊が感じられるはずだが、
(「藁)とは、藁である詩行がバラバラにされ
より少数的に「束」になっているこれら細りの詩行ではないか。
巣が藁に、藁が束に、束が一本の糸にまで解体されてゆく過程が
近藤詩読解の渦中に起こることであって、
「あいさつ」するのはそれでもその散逸を跳ね除ける詩句なのだ。
人称の場がもともと同一性を失しているのだから
ここで命令された対象(あなた)と命令した主体(あたし)には
精確な差異線など引けはしない。
従って「巣」と「廃屋」も同じトポスに再度溶融することとなる。
●
ただ、このような詩行の構想が
熾烈にすぎると考える向きもあるだろう。
だから近藤弘文も錯綜する詩行=束の場に、
それらを等間隔にみせるようなメタ次元の遠点を設定する。
それが「鳥のいる場所」だ。
詩集タイトル「夜鷹公園」の典拠=「廃屋」の「夜鷹」よりも
(それにしても近藤は「ジョバンニ」のフレーズなど宮澤賢治を好む)、
詩篇「鶫」中の「鶫」に僕などはまず惹かれる。
その最終二聯――
そのためにオルガンを燃やす
などなんでもないことでした小石を蹴って
いるわたしと、蹴られているわたしと。
雪、が降って
ダムの底にしずんでいくオルガンを
燃やしている、鶫
ここでは降雪という全体構図のなか
ダムの水の底へとゆっくり炎上沈下してゆくオルガンを
上位次元から鶫が統べている図柄が捉えられるだろう。
ところがそれはこの詩篇第一聯での
雪-小石-ダム-鶫の位置関係の部分的転位なのだった。
第一聯はこうだ――
雪をほしがる
のは鶫のとうめいないかり
ですほんとうは
みたことありません
(みたことあります)
そばで小石のようなものが
ひとりでにはじけて
いましたダムの底にしずんでいくオルガンを
燃やしている鶫の姿をとらえて
、撃ち落とした
最終行冒頭の「、」(句点)は衝撃の付与にも貢献している。
ただ、鶫はダム中に炎上沈下してゆくオルガンを統覚しながらも
一旦は雪礫が変貌したような小石によって
宙にあっけなく散乱したのではなかったか。
すると詩篇全体がミニマルな
「鶫の散った時間」→「散らなかった時間」を跡付けたことになる。
というか、詩篇は「消えるものが蘇る」媒質として
現実以上に「鶫のイデー」こそを呼び出している、といっていい。
鶫=「つぐみ」の音に注意。
「つぐみ」は「口を噤む」の「噤み」(「沈黙」)の化身だった――
だからそれは発話によって死に
死によって生き返る逆説を我が物にできるのだ。
鶫が「噤み」の色彩をわずかでも帯びて
この錯綜する賢治的童話のような詩からは「詩の骨」が浮びあがる。
さらなる鳥を召喚しよう。ミクシィの画面で
「烏(カラス)」が「鳥(トリ)」と分別的に読まれる自信がないのだが
詩篇中にあるのはみな「烏(カラス)」だ。
「鴉」の表記を近藤が嫌ったのはそれがレイヴンではなく
より卑小な「烏=クロウ」だと明示したかったためだろう。
●
【「烏が宙に】(全篇)
「あ
烏が宙に
微塵となった
「いまでもわたしたちは
数えたりしない
空き巣に入られて
荒らされた
「巻き貝
のように
くわえるべきものを
「くわえるべき
だろう
あなたの
「括弧のなかの
「夜明けに
「あ
烏が宙に
微塵となった
「わたしたち
黒い文字を散らす
から
「すきまだらけのあなたの
屋根に
そっと耳打ちします
雨が
「煙のように降りだしました
見たことあるでしょ
「オドラデク
ですよ
星形の糸巻き
「あの
工事現場
に点った
「草の根っこにわたしたちは
しがみついている
「のである
傘をさして
「あなたは
木々のうちに持続しない
「どうやら
肩にとまっていた
かたつむり
のようだね
「焦げよ
「焦げよ、と
落ち葉の記憶にまぎれこんだ
「螺旋階段に
いま木の実をこぼしている
のはだれか
ときとして
おとぎ話のつづき
「であったかもしれない
「わたしたち
閉じた目を閉じようとして
います
「あ
烏が宙に
微塵となった
「真昼の夜明けに
あなたは
「ほおずき
がきらいではない
ので
「すこしでも
自転車をこぐ
のだ
「あなたのくわえた
星形の糸巻き
こんにちは
ぼくはみたよ
「落とした名前
を拾った
手のひらが崩れている
「のであった
目をそらすな
オドラデク
「おかげで
太陽がみえないときは
とほうもない
糸くずだよ
「わたしたち
烏の中心にいて
微塵となる
烏です
「さらわれていくのかな
「ほおずき
「太陽のなかに
「黒点
「あなたの
迷子
を見捨てておいたらいい
自転車が消える
この
真昼の夜明けに
「わたしたち
閉じた目を閉じようとして
います
「焦げよ
「焦げよ、と
●
(「)が閉じられず連鎖してゆくことで
時に文節がずだずたに寸断され、
そこで意味や位置関係が不明になってゆく不安を
読者は感じるだろう。
ただ烏の座は、太陽=ほおずきを背後にしていて、
それが、巻き貝、かたつむり、
螺旋階段、オドラデグ、「手のひら」、自転車など
渦を巻く結晶体(「迷子」を内包した物体)に干渉してゆき、
「真昼の夜明け」「閉じた目を閉じ」る、など
矛盾撞着した世界変型がおこなわれようとしているとは察知できる。
ただ、近藤は欠片しか書いておらず、
電気的幻惑に「当てられて」、
熱に浮かれてその「暗闘物語」を完成するのは読者のほうなのだ。
烏はいくたびか反復シーンのなかでおのれを微塵にする。
黒い粉末を虚空に振りまくのだ。
そのときこそ、読者の位置が烏の消えた座と一致することだろう。
「オドラデグ」はカフカの短篇に現れる動物
(しかし「動物」でいいのか?)。
カフカは例によって、細密描写を試みるのだが、
近藤がしるした「星形の糸巻き」程度のことしか把握できない。
その機能が描かれれば描かれるほど
この近藤の詩篇と同じような錯綜へと導かれてゆく。
ちなみに、「カフカ」の姓はカフカが本当に所属した民族の語、
ちなわち「チェコ語」では、「カラス」の謂だった。
この詩篇ではカフカと賢治が合体したときの
影の推移が描出されている、と取った。
【提出課題】(履歴詩)蔦状ゆびの帰趨
(履歴詩)蔦状ゆびの帰趨
阿部嘉昭
0歳 曖昧に生まれる、生れ落ちる、
1歳 一番地に住んだことなどなく
2歳 曖昧さに土いじりが混じる
3歳 以後、蓮華知らず。
4歳 母親を瀧と間違えて
5歳 (せかいは放出だなあ)
6歳 きっと暁に地下鉄がくる
7歳 それまでが自宅の雛壇
8歳 近所のおんなのこになりそこねて
9歳 べーごまを半ズボンで光らせた
10歳 最初の結婚は飼い犬と。
11歳 近眼が確定すればあとは眼鏡で
12歳 おんなのこの隙間の覗姦
13歳 代わりの視覚器具に望遠鏡もなかった
14歳 吸った煙草で抒情をけむりにすれば
15歳 何たるこの世の喩けむり
16歳 学習机を暴言異言で削る
17歳 おなにぃはギリシャの盛り
18歳 「菊もってこい」と怒鳴る秋もあるさ
19歳 そろそろこの野放図に見切りがして
20歳 天が下の唯我独尊に挟まる
21歳 挟まりつづける蔦状のゆびが
22歳 「くだらん、卒業なんてくだらん」
23歳 暗い稽古場で俳優志望をみる(遠い、)
24歳 わたしは虹の脚からも遠く
25歳 文字しごとを境涯のなりわいにする
26歳 見飽きたのだ、見る前からヴェネツィアに。
27歳 ジルベルトを組み伏して倭寇
28歳 絮をひろう散歩がつづく
29歳 紊も糺も鶴川にひろう
30歳 そろそろ悪運も月暈に投げて
31歳 たてがみが無事帰るようになる
32歳 この年、愛した女が十三人
33歳 最も使徒に似た穴と暮しはじめる
34歳 信心はさるすべり百まで
35歳 エレキギターも爆音させた
36歳 矮生、自著ノ系ニ入ル
37歳 千怪、ギンマクニ唄フ
38歳 赤目でアジアン・キス見続けて
39歳 勃起ははるか異土の域に。
40歳 円の輪郭がひかるとも知ったな
41歳 十字校舎で娘と息子が百人交叉する
42歳 手が詩を書きゃ巣も騒霊でガタガタ
43歳 箪笥の脇に「穴」が仁王立ちして
44歳 弁明がもはや色惚けた爺ぃさ。
45歳 きっと十年が双六になる
46歳 百年が干拓史になるように。
47歳 雨夜に心音の歌姫降りて
48歳 もうじきが人世の三が日
49歳 ゆっくり消えかかってもいて、
久谷雉・ふたつの祝婚歌の
『昼も夜も』で天才少年詩人の称号をほしいままにした久谷雉は
以後その真摯さゆえに「詩の状況」にからげられながら、
「現在の詩にないもの」を、自作をもって検証しようとしていた。
それはなにか――「抒情」だ。
「きみ」に語りかける詩。そこに恋情の屈曲をも潜ませる詩。
この「抒情」をめぐり
同世代の中尾太一と陣地争奪が起こっているといった詩壇の内部事情は、
いつもながら僕にとって興味の対象とならないので整理を割愛する。
久谷がやろうとしていることは誤解を招く筋合のものかもしれない。
まずは、「新しい抒情」成立のため、ひかりを詩篇に招こうとする。
もっというと、ひかりによって詩行の流れを希釈させようとする。
うすくなること。かろやかになること。
それは詩の女性化、あるいはJポップ化という印象も付帯させてしまう
(「ね」「かな」「――なんだ」「――なのさ」という語尾を
久谷は屈託なく、というより確信犯的に、用いている。
その「うすあまさ」をどう処理するかで、読み手の立場も決まってしまう。
むろんそれは単純に詩の読者獲得のために貢献するともいえるが)。
ひかりの増大は、詩語をとうぜん「ひらがな」へとも傾斜させてゆく。
ここまでなら、戦略は無謀か浅慮といわれるかもしれない。
たぶん、そこに久谷のもうひとつの資質「不決断」がからむ。
久谷はそれを自覚している。
そう、久谷詩の美点のひとつは、屈折した文を行わけしてゆくことで
行の運び(文節連関)に新規感と意外性とを相盛り、
詩の技術を「喩」に集約させまい、とする意志を感じさせることだ。
ところがそれは彼が文尾を動詞終止形でズバリと切れずに
新たな節を一文の前後に呼び込んでしまうことと表裏だともいえる。
そうした逡巡の身体性がじつは僕にはおもしろい。
その実際のたたずまいを知っている、という点もあるだろうが。
ただしこの点は彼の詩の理解で大きくものをいうのかもしれない。
たとえば彼の詩には
「市場」「ふるさと」「馬小屋」「むらまつり」といった
「農民詩人」的語彙がふと混入してくる。
これは、彼の実家が北埼玉でプチトマトを生産していると知らなければ
一種、策謀的な「語彙の演技」と現在では捉えられてしまうかもしれない。
そういった「困難」を、彼は自分の真実を犠牲にすることで回避しない。
ここにはたしかな決断性がある。
それでも彼の詩行は、不決断によって屈折してゆく。ややこしい(笑)。
まあ、二重性の詩作者ということなのだろう。
●
可愛い彼のたたずまいをおもいえがくことで、少し悪戯をしてみるか。
詩集にはタイトルどおり巻頭・巻末の「ふたつの祝婚歌」に挟まれて
二十四の抒情詩が8×3の構成で端正に収録されているのだが
(『ふたつの祝婚歌のあいだに書かれた二十四の詩』というタイトルは
構成についての表示であって、内容についてのそれではない――
それで第一義的には久谷の「非説明」が感じられ、
第二義的には久谷の上述のような「不決断」が印象されるだろう)、
その23番目の詩は、久谷の「不決断」を捌き、僕なりに枝葉をとれば
以下のように集約されてしまう(元詩は詩集82-83頁を参照して下さい)。
●「ある愉しみ」
数をうごかす淋しさを
恋とは呼ぶまい
あなたは静かにばらばらになる
あたたかな蜜で
ありつづけるだろう
あいさつが形へもどる
*
僕がここでした6行の試みは男性性を決断力によって付与することだが
久谷の実際の詩はこの元枠に枝葉がついて総計20行となった。
お喋りな現代的「語調」が詩想の静かさを壊しているとおもう。
同時に「あなた」の性質を形容するための「虫」への詩想も
この試みで僕はバッサリと切ってしまった。
それでも詩の根幹が伝わるとおもったからだ。
不決断により、付属物がついてしまうという例を
もう一篇、「おとむらい」の終結聯からしめしてみよう。
通夜があけた朝は
ひまわりの林にみんなで集まって
時間をかけて歯をみがいた
みがき粉の泡であふりかえりそうな口をあけたまま
わたしはおびえた
ひまわりの種のかたまりの上で
みごもったやもりが後足をあげるけはいに
*
ひまわりの群生地に「林」という形容が相応しいのかという留保はあるが、
三行目までの詩行の流れは素晴らしい。
僕の大好きな「みんな」の用例があるのだ。
その「みんな」を定着するため通常の詩人の生理なら
四行目以下をバッサリ切ってしまうだろう。
ちなみにいうと、終結聯にいたる「*」分割前の詩篇本体では
「おとむらい」の光景が民俗的な記述で峻厳に炙りだされている。
生者-死者の合間をさらなる死者が訪問する呼吸が感じられ
だから民俗的な「恐怖」もすでに充分、活写されている。
それでいうと、終結聯が3行目で終われば
その忌み明けの振舞に普遍的なユーモアが漂っただろう。
ところが残り四行を付けたことで
久谷は現代的・実存的恐怖まで接木してしまったのではないか。
「詩の添削教室」なら「蛇足」と指弾される瑕といえる。
あなたは・不決断に・すぎる・のよ。
●
とまあ、小言爺さんみたいな物言いを繰り広げてしまった。
最初に悪癖をつけば、あとに良癖をいったとき
文勢がぐわん、と跳ねあがる、とおもったためだ(暴言多謝)。
たとえばひかりがあふれ、しかもそれが沈みだす時間を
田園の景物とともに叙した「あめあがり」には
極上の空気が流れている。その「空気」自体が抒情なのだ。
抒情と叙景の弁別が消えること。
それは、喩的修辞と、彼の心のなかに現れた光景の順序との
弁別が消えることとも等価だとおもう。
したがってこの詩に「技術誇示」を見て取る感性は誤っている。
この「あめあがり」は久谷自身の脳裡に訪れた恩寵だということだ。
【あめあがり】(全篇引用)
きのうの雨風で
梅もつばきもあらかた散って
市場へのみちは
ほんのりと あかるくなった
草木の檻にまぎれて
煙草をのまされている動物の
あまい呼吸も
でんしんばしらにこうべをあてて
地下水のゆらぎを測っている
男の背骨ののびちぢみも
あっというまに平等に
まぶしい網となって
ぼくの時間を未来から
まるめてゆく
あたまを切り落とされた鶏や
掘りたてのねぎのたぐいを
うばぐるまにどっさり積んで
市場のほうからあるいてくる誰かが
うずくまるかたちのまま
もとにもどれなくなった時間に
なんべんも
つまづきそうになっている
地球のふくらみに
足をとられたような歓びを
顔いっぱいに
うかべて
●
最終聯2行目「時間」に
重たくなるはずの形容節が「ほぐされて」ついていて
時間はそのように立派な冠をかむっている。
最終聯の隠された主語は「ぼく」ということでいいだろう。
つまり「誰か」とは「ぼく」なのだ。
土地=地球のふくらみと一体化する主体が幸福というのは普遍真理。
一見「屈曲」を感じさせても、それが直截に唄われ清清しい。
その最終聯に現れている時間が「ひかりのまぶしい網」の時間から
すでに黄昏へと傾斜していると僕は取ったのだが。
ならば、この詩の主語は、「農村部を一日歩いた時間」でもあるだろう。
「煙草をのむ」「こうべ」など古風な語彙が眼を奪う。
典拠は西脇かもしれない。
「掘りたてのねぎ」の白さが目を打つ。深谷葱だろう。
《夢の世に葱をつくりて寂しさよ》(永田耕衣)。
ただ「あたまを切り落とされた鶏」では
僕はジュネ脚本の映画『マドモアゼル』の冒頭を聯想した。
となれば、ここがアンダルシアの僻村であってもいいのだ。
というか、世界は周縁部によってこそ「平等に」つながっている。
●
ひらがなで詩に光のみちる端的な例は
冒頭に飾られたu夫妻に捧げる第一祝婚歌に現れている
(この詩篇が詩集全体にあたえる印象浸潤の効果は大きい)。
ただ、ひらがなによって「肉のひかり」を表してしまった
もっと意欲的な作品に読者が出会うこともできる。
この詩で僕は涙ぐんでしまった。
なぜこんな女の夜明けの、
同衾者への感慨が「僕のように」久谷にわかるんだろう。
読まれるとおり、感慨はちいさい。ちいさいゆえにそれが致死的なのだ
(この詩は久谷の詩が女性化したときの最大振幅をしめしている)。
【ふくらみ】(全篇)
どうやら
あたしのちぶさよりも
ひとまわりちいさななにかを
さがしているらしい
おのれのちぶさに
おのれのくびをうずめるようにして
ねむるふりにいそしむあたしを
かたほうのうでで
かくまいながら
おとこは
あいているほうのうでで
ねむりのひきだしをあけて
あたしにはみえない
あけがたのふくらみと
おうせをしようとこころみる
おふろばでひとりきり
うすべにいろにひかるまたぐらを
からだをむりやりおりまげて
のぞきこもうとした
おさないひの
しずけさのようなものが
おうせのさなかの
おとこのきんにくから
しとしとしぼりだされて
ああ
うすくひらいたあたしのまなこを
すすいでゆく
●
ここでは「肉」はひらがなによって白くひかりつつ
肉本体の闇のひかりもまた同時に分泌されている。
「あたし」の股間の亀裂の、うすい鮭肉色。
その亀裂が最後には「まなこ」に移る。
この経緯-移行に、治癒不能の死がある。
死の例証として、現在に、過去の自己身体記憶が混入してくる。
傍らで「眠る男」は、そのしずかで戦慄的な葛藤を一切知らない。
詩集にはふたつ、散文体の詩篇も収録されていて、
どちらもが素晴らしい。
「もすくわ」では「オリガ」と表記されるべきところ
「(折り、が)」と書かれる何物かがモスクワ近郊の家庭内を
意地悪に、悪戯っぽく跳梁する。
それは一家の娘によって「オリガ」と名づけられた人形か
ペットの類いだとおもうのだが、結局、結論が出ない。
このことによって、(折り、が)がカフカのオドラテクに似てしまう。
「浅倉」は「浅倉」という男の実名が現れる、
日記体、日別の、女の告白体詩篇。構成的。
むろん「浅倉」という文字が無媒介に跳梁することに驚愕する。
このうち十月十三日の日記部分のみ、全体が括弧くくりになっている。
この部分、太宰「女生徒」の文体模写じゃないだろうか。
ひととひとの躯の位置関係を幾何学的罠によって描写する作法は
上述「ふくらみ」と実は相似関係にある――詩篇が放つ哀しみも。
●
久谷雉はいずれにせよ、要約に適さない「混合体」だ。
ただ彼は技巧派だの「じじむさい」だのと乱暴な要約を受けるだろう。
僕はけれどもその「混合」の一部には同世代から下の世代に向けて
「情」の質そのものを発信しようとする鋭気をみる。
ここで最良のかたちで久谷の詩がありうべきJポップ詞に似るのだ。
ただ、そこには意外に友部正人の現在的ずらしがあるのかもしれない。
最後にそうしたフレーズを列挙的に抜き出し、転記打ちして、
この「あかるく」「しずかに」「かなしい」詩集への評言を終えよう。
《はだかの女のかたわらで/性器でも こころでもないものに/
なることだって/むずかしくはない》(「返事」)
《旅先のちいさな市場で/ふるい帽子をぬすまれてから/
ぼくはなぜか 晩年というものについて/考えるようになった》(「晩年」)
《にんげんが/からだだけで歩けてしまうことが/
けさはなんだか無性にかなしい》(「泡かもしれない」)
《たましいを/しまっておくには/すこしふくらみすぎて/
いやしないか》(「あくび」)
《ぼくのひふにもはらわたにも/加速してゆくところなんて/
どこにもみあたらないのにね》(「地下鉄を降りてから」)
《ぼくたちがこの町じゅうの草花や/こおろぎたちをまきぞえにして/
ようやく棄てることのできた尻尾のおおきさに/
かれらもいつかはおびえるのだろう》(「ほのかに明るくなるほかに」)
《ひかりとためいきのまざりものを/どっしりと実らせた枝の下で/
顔を洗っているうちに/一日が終わってしまうようなことさえも/
かんたんに起こるようになった》(「誕生日」)
《ぼくが今日書かなかった詩が/紫かがった雲のむこうに/
透けてみえる/こんぶのように/ふがいなくゆらいで》
(「今日は一日靴を磨いていた」)
これらはみな、行儀の悪さを矯められ、音数を揃えられて
Jポップの歌詞になることを希求する孤独なフレーズ群だとおもう。
こういう詩を書く久谷がいちばん久谷なのではないか。
ならば彼は、松本秀文のような「サブカル詩人」なのだ、端正だけど。
僕は集中「大人になれば」が最もJポップ的な詩だとおもった。
これは詩集を実際に買われる読者のため、出し惜しみをしておこう。
廿楽順治・たかくおよぐや
廿楽順治の「やくざ進行」が止まらない。
存在全体を賭けガネにして
日々「徘徊し」「泥酔し」「管を巻く」。
とぐろだって巻き、脱糞し嘔吐もして
手許の「にほんご」を見たこともない奇怪さにぎらつかせる。
何ごとかに恨みがあるわけでもない。疎外態も感じられない。
取り憑かれたようにことばを別の姿にする、ただそのためだけに
言葉の観音仏を撫でさすって、ときにガラガラに割ってしまう。
瓦礫度がます――この親父が歩くと瓦礫のなかの瓦礫度がます。
記憶を繰りだして、失ったまちの景観すら忍ばせて
ときに同世代の昭和への郷愁を無駄に擽って
しかも郷愁には本当の対象などない、と臍も噛ませる。
改行屋にして、調合屋。
何でも混ぜる。ただし混ぜるのは女でいえば母親、女房。
何だ、愛人すらいない実直者じゃないか、どこがやくざか。
息子も三人いるようだ。まさと、だいち、りゅうた。どこがやくざか。
整骨師の時代から脱臼師の時代へ 時は移ったようだ。
第一詩集『すみだがわ』と較べ、今度の第二詩集『たかくおよぐや』は
詩行の連絡に脱臼構造がさらに高まっている。読解が熾烈になる。
過去の景、現在の景、論理の系が脈絡なく行単位で雪崩れこみ
あやうくスポンティニアスな暴発にいたる「直前」に
改行だらけの組織体としてわずかに世界が現前している感触。
触れれば音も立てて崩れてゆくこのひらがな言葉の瓦礫群は
当然、予感体としての「火薬」だろう。
だからやくざの実体も、べらんめえ言葉の乱入などではなく
詩行組織の崩壊寸前の「直前」性にこそあり、
それに引き合わされ読み手の危機意識も水面のように高まってゆく。
火薬を前にして川泳ぎのように水に胸が濡れてしまうことをおもえば
廿楽順治の詩の読解は、ヤバい撞着体験にも似てくる。
その文脈で僕などはやはり、「郷愁」でびしょびしょになる。
やくざめ(笑)。
●
【源七堂接骨院】
1 かわなんかなんまいも脱いだつもりだったが
2 どうしてかやせない
3 じぶんと
4 じぶんがつながっているときの骨のおもたさ
5 しろいか
6 きいろいか
7 つながっていないひとにとっては
8 やるせないいいかただ
9 源七堂接骨院
10 こういうところがとつぜん
11 かわしようもなくあるということを
12 いつまで
13 おぼえていられるか
14 脱
15 というのは
16 ずいぶんなつかしい身のありかたである
17 ご きんだい
18 と院生の楊さんはいい わたしは
19 すこしおかしいとおもってしまった
20 脱いで
21 ひとの骨につながって
22 (そうしたいとおもったわけでもないのだが)
23 大正のころ
24 にほんじんはよくでんわをかけていた
25 楊さんは
26 研究のなかで
27 だいじな(もしもし)をみつけた
28 そういう骨と
29 骨のつながりかたがあってもいい
30 それからすこしたって
31 (つまり昭和のはじめのころ)
32 この年代のひとたちはね
33 みんなからだのきそができているんですな
34 大腿骨
35 かもしれない
36 こんなにながい箸ではとてもつまむじしんがない
37 くるぶしあたりのものを
38 えらんだのである
39 でも
40 脱
41 だとむやみにいえるだろうか
42 (くびで)
43 (ぶらさがっているだけだからな)
44 源七堂接骨院
45 のまえをとおりすぎながら
46 なくなった骨と
47 骨のつなぎめのことをおもう
48 おもう
49 ということだけで
50 これからどうやっていきていくのか
51 (なにをいまさら)
52 目がさめて泣いているひとはみんなそうだよ
[※以後の論議のため、各詩行冒頭には算用数字を施した]
●
「1~2」から突然だが、こう切り出されば理解がただちにうごく。
にんげんはそれ自体が脱皮を繰り返し
同一性と脱同一性をからませるようにして変化してゆくものだ、と。
2行目、少年時の廿楽順治が肥満体だったのでは、と「疑惑」が湧く。
「4~5」=「自同律の不快」がいわれている、と取った。
(と、このように解説しはじめて、
廿楽詩の読解が平易なひらがなを
生硬な概念語に「逆翻訳」することだと気づく。
ところがそうしてみて、さらにひらがなの並びの無気味さを
ひとは旨いものに直面したように不吉に啜るのだ)
「6~7」=白人と黄色人種の価値対立、と短絡的にまず考える。
ところが廿楽の「黄色」には糞便臭と郷愁が抜きがたくからまりあう。
三つあとの詩篇、「あさくさにいく」から引こう。
どいつもこいつもくびからうえに雲がかかって
しょうわのはじめか
めいじのころ
だらしないわらいごえが
川のほうからながれてきてきいろくなる
そうやってぞろぞろ
あさくさにいくのである
すこし血のついた給料ももらっている
きょくたんにきたないひとたち
のせかいにくらすということ
この箇所をふくむと、「白/黄」の対立が
「冷たさ/温さ」の対立の言い換えだ、との判断も生じることになる。
いま引いた詩の一節なら、往年の浅草が
近隣の下層民の来訪によって殷賑を呈した姿がよく「見える」。
賤業従事者、「川向こう」等、被差別イメージが歴史的に盛られてもいる。
それでたとえばそこに現れている「すみだがわ」の川が契機となり
遡行的に「源七堂接骨院」1行目の「かわ」が
「皮」のみならず数%の「川」をふくんでいるのではと恐怖する。
川の神が詩行をあるきだしてはいないか。
9行目、「源七堂接骨院」。墓石か戒名のように漢字だけで立っている。
廿楽の記憶上の「わが町」を開陳するように
詩集前半は実は「さかなまち(肴町)」と題された詩篇集合体となっていて、
そこには下町の匂いのする数々の店舗が居並び、
ねじれるような空間的連続性を組織づける。
「燃えるじてんしゃ店」「とんかつスズキ」「龍城酒家」
「かんのん食堂」「にかいや」「堀理髪店」・・・
「堀理髪店」などは廿楽の中学時代の床屋体験を
懐かしい体感とディテールとともに比較的素直に綴ったものだが、
その他は書き込まれる詩的修辞のディテールによって
書かれれば書かれるほどに実在性を奪われ、
奇怪な幻想性へと傾斜してゆく。
あるいは「廿楽(つづら)」という珍しい姓をもったことが
廿楽順治の運命を決めてしまったのかもしれない。
それは、実際を「綴ら(ない)」と宣言しようとして
ふと物書きが言いよどんだような「中断の」姓なのだった。
だから詩が彼のジャンルとなる。
「源七堂接骨院」はひらがなのなかに漢字が直立していることで
修辞的にも異質性を高め幻想存在ではないかと感じさせるが
10~13の4行、「実在性を抽象性として換言する語り」によって
実際にもその姿を変貌させてゆく。いまいちど書く。
《こういったところがとつぜん/かわしようもなくあるということを
/いつまで/おぼえていられるか》
ひとは「こういうところ」に突然、直面させられる。
ひたすら脱臼に向かう世界に、
再組織性の「源」のような「差戻し機」がある。
「源七堂」――人名が医院名の由来で、古くからつづく接骨院だろうが、
「源」が「七つ」あるという喩をふくんでいるかもしれない。
ともあれひとはやがて頽落し、復興力をもつ世界の起源すら失念する。
14~16《脱/というのは/ずいぶんなつかしい身のありかたである》。
おもわずさしぐみそうになる。数千人の脱衣の仕種をおもった。
身がねじられる動勢があり、それで世界がさわさわ鳴っている。
ただし14「脱」の一字で「改行」がほどこされたことが不吉だ。
「脱(ダツ)」であって「脱ぐ」ではないから、まずは欠落が感じられる。
骨に関わる詩だから脱衣ではなく脱臼だろうと「解釈」が伸び、
同時に「脱落」から「脱け殻=蛻変」まで、
発語の「中断」によりその余白から類推語がぞろぞろと蠢き現れる。
悪意ある「改行原則」があって、それこそが「さしぐみ」に結ばれる。
この「むすぶ」という動詞も詩集『たかくおよぐや』にかなり目立つが
「脱臼」を修復する「差戻し機」はこのようにして詩語に散見される。
17~19。とつぜん、接骨院に中国からの研修生が働いている景色になる。
魯迅留学時のような光景。
もはや廿楽個人の幼少時の記憶よりも詩篇の時制が遡行しはじめた。
つまり16-17の詩行の隙間には「切断」があるのに、
廿楽はそれを行アキなどで明示しようとしていない。
だからこそ、互いに連絡性の弱い詩行が危うく並ぶ詩の景観が生ずる。
院生・楊さんは「後漢」というように「後近代」といったのだろう。
事柄は、「モダン」が「近代」とも「現代」とも訳される不如意に関わり、
だからこそ19で「わたし」は「すこしおかしい」とおもったのだ。
たぶん廿楽は、「近代」と「現代」が連続体であって
それを分離しようとする意識がおかしいと
異議申立をしているのではないか。
連続体の根拠は、20-21、脱皮しても脱衣しても
ひとからひとへ、親から子へ、「骨がつながる」絶望的な所与にある。
むろんこんなことを考えだしたのが「近代」ならば
近代「以後」と「以前」には壊滅的な分断線があった、それだけのこと。
世界では、時間では、骨こそがつながっているという奇怪な発想。
この「つながり」が電話イメージとなり、
院生・楊さんのいる時代が23の「大正」へと確定してゆく。
不安定な詩行の運びに、22の括弧に入れられた袋のような詩行が貢献。
電話という文明利器が介在し、いったん骨が耳小骨の共振に集中してゆく。
楊さんも、この骨を契機にした「人体連続性-世界観」の虜になった。
それが25-29で示されるが、
大切なのは音声・発声によって人体=骨が連接するという認知だ。
世界は「婆羅婆羅」と音を立てるように
この詩篇では開かれた扇状にひろがっているのではないか。
30-31で時制移行(大正→昭和)の転轍がはっきりとある。
ここも行アキが消されている。
32-33、骨折蔓延の現代にたいし《この年代のひとたちはね/
みんなからだのきそができているんですな》。
会話体の、鉤括弧なしでの混入。
これが、廿楽詩がポリフォニーだという端的な証となる。
会話体語尾によって語った者が中年以上の男で、
しかもこの語尾が現在つかわれないことから
旧い日本映画に接したような「郷愁」もここから滲んでくる。
悪意のように一行一行から滲む感慨が一定しない。
ただ、ひらがなの柔らかさによってそれらが表面的に結ばれる。
ひらがなは・むすぶ。
34-35《大腿骨/かもしれない》。
この二行は、詩篇全体にたいする帰属性が薄く、「浮いている」。
この「浮き」によって次行への導線となる。
してみると、連句の投げ込み句のような機能をもつ、といえる。
36-41は、現在の火葬場の光景としか読めない。
火葬された遺骸が会葬者に運ばれてくる。
骨は施された高熱にかなり砕けているが大腿骨は原型を残している。
だから(わたしは)踝あたりの小片の骨を長い箸でつまんだ。
踝――「足」篇に、旁が果実の「果」。
このシチュエーションではそこから「星」が見えなければ嘘だろう。
そして焼かれた遺骸中、最も宝物や星に似ている小片骨が
必然的・付帯的にイメージに舞い込んでくる――咽喉仏だ。
人体で唯一、「仏」の名称のついたそこ、荒木陽子のそこを
僕自身は荒木経惟の写真集、『センチメンタルな旅/冬の旅』でみた。
涙ぐんだ記憶がある。
39-41《でも/脱/だとむやみにいえるだろうか》が切ない。
通常、人体の時間的移行は脱皮や脱毛の次元でのことだ。
ところが最終的に人体は焼かれて、皮や肉や腸をうしない、
骨として晒される「脱」を遂げる。
原型を留めない変貌――これを「脱といえるだろうか」。
奥深い自問自答。なるほど人世は骨でつながるが
人一個の躯は、表面から芯の骨へと、翻転するように還元されてゆく。
これも人の世の常。
ならば、人世もまたこの詩篇の詩行連絡のようにあやふやだろう。
42~43は、括弧の使用により、挿入性の高められた二行。
人体のあやうさがいわれているが、気味悪い、廿楽的逆説だ。
とうぜんひとは、「くびをからだでささえあげている」のであって、
《(くびで)/(ぶらさがっている)》わけではない。
40《脱》は、14《脱》の奇天烈なルフランだった。
廿楽順治は「改行原則」のひとつにルフランも挙げていて、
その実行といえる。44《源七接骨院》も9のルフラン。
ルフランは、詩行を挟んで、超越次元=メタ次元に
同音を木霊させ、詩篇の同定性に罅を入れることだ。
それは「回帰」「復帰」の安定より先験的だ――廿楽はそう言うだろう。
45《のまえをとおりながら》で、
幻想対象として欲しいままとなった接骨院が再現実化する。
驚くべきことにこの医院は大正から現在までもを存続しているのだ。
一旦、彼の想像が幻想の水面下に降りた証として、
次行から詩行が濡れだすが、そうしていい判断があるだろう。
連句的な大団円がここいらで構想されている。
46-47《なくなった骨と/骨のつなぎめのことをおもう》。
骨は如上あきらかなように火葬で「なくなる」。
だが、人世はそれでも「骨」でつながっている――とすれば、
廿楽のおもいは、「骨の脱」から「人世の脱」へと移行している。
47-48が「おもう」の尻取りつなぎ
(そう、ここには廿楽詩の「改行原則」が展覧状態になっている)。
49-50で言葉がかぼそくなる。「細り」で詩篇を閉じたいのだ。
むろん「おもう」は「実行」ではない。
けれどそうだからこそ人世の美しいたゆたいがある。
それでは虚しいとおもう作者と
それにメタ次元からツッコミを入れる作者の、「当然の」分裂
(51《(なにをいまさら)》の挿入効果とはそういうことだろう)。
52は子供の声として読んだ。一篇がまとめられるにふさわしい詩行。
《目がさめてないているひとはみんなそうだよ》。
僕も「目をさましながら」、ここで泣けてしまう――
骨がさわさわ鳴ったあとの子供の声の余韻が泣かせるのだ。
●
一篇のみの詩篇解説によって、詩集全体への評語に代えよう。
そのようにしたのは、廿楽さんの詩がそのひらがなの多さ等から
雰囲気的に「おもしろく」「屈曲している」とのみ
「類推的に」語られる風潮を事前阻止しようとしたためだ。
彼の成功した詩では、厳密な「改行」がある
(その改行と作品の組成を不安定にすることとが同時的だった)。
そして唯一無二の「語調」がある。
読解線も、いま僕が試みにしたような厳密さを実はしいられる。
ことばのために詩を書いて
希望と諦念、恐怖と笑いをひるがえさせつつ
実はそこでは独自の「人世」哲学が熾烈に語られているのだ。
このようにして読んで、ふたたびひらがなの多い詩行の流れに目を走らせ、
ことばの芳醇にさらに心をもってもゆかれる。
そうして読者は嬉しい「空白」の位置へと導かれてゆく。
無駄な雑念を生じさせない。
こうした詩の型が、「現在形」だと僕はおもう。
いいとおもったフレーズを最後に20余り抜書きしようかともおもったが、
事前に自分がおもいえがいた字数をすでに超過しているのでやめておく。
これまでの僕の書き方で
この『たかくおよぐや』が必読詩集とも充分伝わっただろうし。
【DJ授業報告2】太田裕美から始まる・下
(承前)
⑤太田裕美「しあわせ未満」
筒美先生は、フォーク(ニューミュジック)隆盛のこの時代、
ご自分の煌びやかな作曲能力をどのように「縮減」なさるかで
数々のご苦労をなさったとおもう。
相手がナンセンスゆえになんでもアリの郷ひろみならいいのだ。
ハードロックメロも、お得意の和調メロも
意想外の文脈で、簡単に連接ができてしまう。
荒井由実などの例外はあるが(あ、小坂明子だっていた!)
ニューミュージック・メロは音符上の音の飛躍が小さく膠着的。
いかにも手許のギターやピアノで安直につくりました風の曲が多く、
ただしそのメロのチマチマが「味」だったりもする。
人は、お尻が痒いと嬉しい、という面があったりするのだ(笑)。
で、太田裕美プロジェクト班も、
「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」の連続ヒットののち、
太田裕美=フォーク調のイメージを磐石にするため
この「チマチマ」を一層強固にした。それがこの曲。
となれば、プロジェクト内の作詞家・松本隆も、
当然、当時の「同棲世代」の残り火を
灰かき混ぜて空気吹き込みふたたび熾んにしようとする。
で、実に破壊的な同棲男の造型をつくってしまった(笑)。
太田裕美にマニッシュな装いをさせると倒錯的エロが出現する、と、
とうに気づいていたプロジェクト班は、
この曲で太田裕美を完全な男歌(男が主体のまま、
その一人称の位置からのみで歌が終始してしまう)に挑ませた。
それが実にセコく情けない男だったから、いやんなっちゃう。
歌詞をちょいと引こう。
20才まえぼくに逢わなきゃ
君だって違った人生
(第一聯冒頭)
はにかみやさん ぼくの心の
あばら屋に住む君が哀しい
しあわせ未満 しあわせ未満
あー君は連[つ]いてくるんだね
(第二聯=サビメロ部分)
わあ、メチャメチャに70年代の匂いがしてくる。
こんなもん聴いていては人間がダメになってしまいそうだ(笑)。
「心の/あばら屋」が喩としても浮いていて笑えるのだが、
この同棲カップル、暮らし向きがじっさい安定していない。
《あどけない君の背中が/部屋代のノックに怯える》といった
嘉村礒多的(リアリズム)ディテールだってあるのだ。
いがらしゆみこ的「あたしってドジ♪」な「きゃわいい」キャラが
貧乏神、無精髭、先行き不安の男との「お手近愛」の毒牙にかかった。
ここでは実に70年代的な悲惨が唄われているとおもう。
君たちのパパママはどうですか?
歌の主体である男は恬然と恥じない。
コイツは人間を「ついている奴/いない奴」「陽のあたる人/かげの人」
と類型二分しているのだが、
自分こそを「ツキのない」「影おとこ」にたえず分類し、
生活向上の努力すらなおざりに、居直ってやがるのだ。
ああ、こんな男に裕美ちゃん、イカれちゃって・・
と紫がかった溜息まで出そうになる
(男歌の語る「君」の位置に女歌手が代入されてゆく二重構造)。
いったいフォーク風とはいえ、これほど情けない野郎が
歌の主体になっていいものだろうか、と義憤すら感じてしまうのだが、
それをシラッとやりのけている松本隆の歌詞も実に破壊的で
それゆえにすごく可笑的なのだ、とおもいなおす。
しっかし、太田裕美、えらくヘンな匂いをこすりつけられているなあ。
⑥レナード・コーエン「チェルシー・ホテル♯2」
(『名作集』より/三浦久訳)
「しあわせ未満」(ああ、実はこの「ひらがな+漢字」の表記が痒い
――「さとう珠緒」「さとう宗幸」とかロクなことがない)の最終聯に
はにかみやさん 面喰いなのに
もてないぼくを何故選んだの
というキモチ悪い「居直り歌詞」が出てきて、アッとなる。
愛の強調効果があるとはいえ
こりゃ、レナード・コーエンの畢生の名曲、
「チェルシー・ホテル♯2」歌詞細部からのズラシじゃないか。
おまえは美男子が好きだと何度も言った
でも僕には特別にしてくれたものだ
そう、僕の記憶でも、この「しあわせ未満」のちょっと前に
来日公演を機にしたレナード・コーエン・ブームがあったとおもう。
「(ニュー・)ミュージック・マガジン」が特集し、ライヴ評とともに、
来日同行記をたぶん訳詞の三浦久が書いていた記憶がある。
じゃ、「チェルシー・ホテル♯2」が
同棲カップルのチマチマ歌かというと全然ちがう。
《チェルシー・ホテルのおまえをよく憶えているよ》の唄いだし。
だんだんと「二人」が像を結び、関係性もわかってくる。
「おまえ」は歌を仕事にして有名だった。
「おまえ」は黒リムジンでチェルシー・ホテルに乗り付けていた。
「おまえ」は麻薬注射をし、「ぼく」とセックスをした。
だが「おまえ」は「群衆に背を向けて」「去った」・・
「おまえ」は決定的に憂鬱な言葉を放つ。
We are ugly, but we have the music
(私たちって醜い、でもいいじゃないの、音楽があるんだから)
この「おまえ」が誰かは
僕らの世代からその10歳上程度までは知っているだろう。
そう、ジャニス・ジョプリンだ
(荒井晴彦の映画『身も心も』でも言及されていた)。
歌のディテールの細部からジャニスの面影が揺曳してくる。
このジャニスが麻薬摂取過多の吐瀉事故で落命する「その後」を前提に
「かつてあった面影」が唄われ、聴き手がさらに沈鬱へと導かれる。
レナードのほうは「68年当時」なら、歌手デビューはしていたが
むしろ『嘆きの壁』のカナダ人小説家として著名だったろう。
むろんロック界のビッグネームなどとは釣り合いがとれない。
なのに二人は「寝た」――なぜそうなったのかといえば、
ジャニスは・誰とでも・寝た・からだ。
チェルシー・ホテルは、ニューヨークにある。
種別を問わないアーティストが泊まる、自由精神の場所で、
最終的にはシド&ナンシーの伝説までもが付随してくる。
晶文社から以前、ホテルそのものを主体にしたような
小説体の年代記、その名も『チェルシー・ホテル』が刊行されていた。
ともあれ、レナードのこの曲は僕にとっての沈鬱な曲ベスト3に入る。
スリーコードにマイナー中心コードが入るだけの作曲だが
レナードの低く沈鬱でダンディな声がよく、
フワーッと「遠くに」「薄く」入るホーン群も素晴らしい。
何よりも「像」の刻々みえだす歌詞が歌曲史上の最高峰だろう。
⑦太田裕美「九月の雨」
当然、フォーク的チマさを前面に押し出した「しあわせ未満」は
セールス的に逼塞してしまう。
とうとう柳の下に泥鰌が全匹いなくなってしまった。
ならここらで裕美ちゃんにフォーク圏から脱出してもらって
エレガントな「女」になってもらわなくちゃ。
きらびやかなニューミュージック圏への満を持した参入。
で、いきなり都会ギャルの悋気へと飛んでしまう(飛躍が過ぎるぜ)。
歌詞を引用しまくるのも気が引けるので
シチュエーションを砕いて書こう。
女には自分が恋仲だと信じている男がいる。
勤めがハネてラブコールをした(当時だから公衆電話だ)。
電話に出た男の背後で若い女の嬌声。気が気でない。
矢も楯もたまらなくなって、女はタクシー内の人となる。
運転手に男の住所を告げる。外は暮れて、九月の銀の雨。
雨は秋の完全到来を告げるようにひたすら冷たく、
女の躯も雨に濡れ震えている。バックミラーに女の蒼褪めた顔。
フロントグラスをせわしなく往還するワイパー。
街や対向車ライトからの光も乱反射し、女の苛立ちをつよめてゆく。
気を鎮めようとすれば、男との「よかった日々」の記憶が蘇るだけ。
ますます自分が追い込まれてゆくのに
タクシーはその律儀な走行をやめやしない――
ハイ、ここでクイズを出しました(笑)。
女の職業は何で、男の住所はどこでしょう? と。
ヒントはタクシーが途中通った「公園通り」(歌詞中にある)だけ。
僕は自信満々に正答を述べた。
「公園通り」といえば渋谷です。
ならば女の職業も世間的に「尻軽」で通っているデパガに決まっている。
たぶん西武系デパート。
大卒で最初は店の「販促」に配属されたが、のち、靴売場に配転された。
クリエイティヴではなかったからだ。
男とは販促時代、知り合った。カッコつけた美大系野郎。
ならば、男の職業はモチ、商業デザイナーだ。
店内装飾、チラシデザイン、なんでもござれの全方位イケイケ業界人。
この男、女がちょっと可愛かったので、「食べた」んだねえ
当然、男の職業がデザイナーであれば住所も代々木上原と相場が決まる。
これは女がおもわずタクシーを拾ってしまったことからも読める。
女は一刻も早く男のマンションに行き、男の浮気の真偽を確かめたい。
なら普通は時間に狂いのない電車を使う。雨の日の交通渋滞もある。
それを押してでもタクシー利用しかない「もどかしい場所」――
それが渋谷にとっての代々木上原ではないか。ハイ、もう明らかですね。
なぜなら渋谷から下北沢乗換えでも新宿乗換えでも
上原への電車経路は三角形の二辺を辿らざるをえない。
その「三角の二辺」が三角関係イメージとバッティングするから
女はとりわけ癪なのだ(笑)。
タクシーは当時の料金で1000円程度だったろう。
大した散財ではないはずだが、雨天渋滞でタクシーのメーターは
もう1400円程度まで上がっている。この赤い数字すら憎い。
ここまで「見えてて」当然ですね、この「九月の雨」は――
「太田裕美=フォーク路線売り」の縛りが解けて
もう筒美先生、水を得た魚のように持ち前の作曲能力を
フルオープンになさった。
自ら「九月の雨」を浴びられて、御「水光り」なさった。
あとは「神」の道を歩むのみ。Aメロの、先生的な和調。
そして「September rain rain」以下Bメロの鮮やかすぎる展開。
もう「掴むの」「泣けるの」なんのって(笑)。
Bメロの収束のさせかたなど先生の鬼神ぶりが100%開示でした。
問題はこの歌が太田裕美のキャラに合っているかどうかだが、
そんなこたぁどうでもよろしい(笑)。
びんびんに「九月の雨」が聴き手の肌を濡らし、
嬉しいほどに体温が下がってきちゃうのだから。
ともあれ、70年代の「雨」ソングのなかでは
三善英史「雨」、八神純子「Purple Rain」と三璧、でしょう。
⑧宇多田ヒカル「Automatic」(『FIRST LOVE』より)
詳細な「Automatic」論は
拙著『椎名林檎vsJポップ』に収録されている。
なのでここでは割愛。
一応、ポイントだけ押さえておこう。
要はコンピュータ世代の「恋する身体」の変貌が唄われている。
電話のコールで、きみの微笑みで、
「オートマティックに」(自動的に)恋情が点火されてしまうわたし。
わたしは愛のロボット。カタカタ。
得恋の歓びよりもロボット的身体の哀しみが前面化するから
この歌は90年代後半、国民的なヒットとなったのだ。
で、驚くべきは冒頭からの紫色のファンキィを突き破る、
《It’s automatic》以降=サビメロの、
まったく筒美先生ゆずりのマイナーメロ展開力だろう。
最初に聴いたとき俺は、わーん筒美先生だようと
もう泣けて泣けて(笑)。
つまり⑦-⑧は「筒美先生つながり」。
講義では曲をうやむやにかけ、ここらあたりを強調してみせた。
⑨太田裕美「ドール」
太田裕美のテクノ歌謡。イントロがピコピコしている。
ドール=(愛の)ロボット、という見切り。
そう、⑧-⑨は「ロボットつながり」だった。
ただ、メロの感覚は、
「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」時代に戻っている。
太田裕美のセールスがこの時期、ますます翳ってきて、
「初心復帰」がたぶんコンセプトだった。
だから「赤いハイヒール」由来の「童謡」イメージも盛られる。
曲は短調。
まずは歌詞を砕いたシチュエーション説明から。
男と女は横浜暮らし。中古マンション程度ではないか。
結婚を望まないまま同棲を長くつづけてもう倦怠期。
口喧嘩のひとつもすれば、男は出ていって一晩帰ってこない。
女は飾り窓風にした窓にもたせかけている人形を見る。
小さな頃はあんな人形によく話しかけたものだわ。
人形が訊くの、「大きくなったら何になる?」って。「花嫁よ」。
純真だった頃の自分を思い返すと、もう涙がとまらない。
いつしかその「人形」に「私」の位置が仮託される――
ままごと遊びの日は帰らない
横浜生まれのセルロイド
心が無いからセルロイド
名字も変えずに暮らした部屋で
涙で瞳が青く染まった
Doll Doll Doll よこはま・どーる
「よこはま・どーる」という表記にかなりの問題があるが、
ここはまあ不問にしておこう(笑)。
舌津智之さんも『どうにもとまらない歌謡曲』で指摘しているが、
当然、歌の下地は童謡(題名忘れた)。唄いだしは以下だった。
《青い目をしたお人形は/アメリカ生まれのセルロイド》。
アメリカ→横浜、の転換があって
この人形が歌の主体に移り(映り)、その歌の主体にも異変が訪れる。
《涙で瞳が青く染まった》。
この「青」の一字が心を凍らせる。松本隆、手練だなあ。
この歌、2番以降は歌詞の着想が尽きてしまった感がある。
恋の幸福だった頃を、「フォーク用語」で回想し、
湿潤に歌世界が浸りすぎる感があって、取れないのだ。
「横浜」という舞台をもっと真摯に追いつめるべきだった。
女は本牧あたりに暮らしているのではないか。
港町=水兵の歓楽地なら、娼婦の居住率も高いだろう。
ただし女は「高級」の部類に入るのではないか。
男はむろん下っ端のスジ者。管轄するバーを定期的に見てゆくだけ。
いまでいえば、「黒服」だ。この男が女と相手を橋渡ししている。
――とでもいうような設定を加算すれば、
かたちだけの美男、心のない男に「性搾取」される女の、
「階級的」悲哀がそこに現れたはずだ。
「港町の女」がたんなるOLであっては歌もつまらないものね。
⑩ダミア「人の気も知らないで」
(『シャンソン・コレクション1500 ダミア』より)
これも聴けば最大限の憂鬱に陥る歌。
ヨーロッパ的短調メロに語りかけ、朗誦するような
ダミアの「演劇的」唱法が乗っている。
あんたはある夜、私に体を与えた
そう、けれどあんたの心はくれない
唄いだしはこのようにはじまる。
むくわれない恋を呪われて唄う女。
快楽だけしか求めない相手の男についに女は内心で呟く。
「あんたは愛するすべを知らない」
「春と一緒に行っておしまい」。
訣別。だがそこにいたる前の次の一節が肺腑を抉ってしまう――
私は魂を求めている
あんたの大きな眼の底に。
魂だ、それなのに、青い色しか見えないのだ
そう、ここで松本隆が太田裕美「ドール」に配した、
《涙で瞳が青く染まった》と「青」が自他の合わせ鏡のように一致し
憂鬱が凍結状に確定してしまう。
なるほど「人の気も知らないで」ではその歌詞世界に
港町をしるす縁語が一切出てこない。
それでも僕はここでの女が港(マルセイユ)の娼婦で、
絶縁を誓われる美丈夫が若い水夫だと直観してしまう。
その瞳が青で、その青も地中海の水面を移し(映し)、
変貌が停まってしまったからだとおもうためだ。
【DJ授業報告1】太田裕美から始まる・上
立教と早稲田で「歌詞」を考える授業を、
この九月からの後期ではじめている。
フォーク、歌謡曲からJポップへいたる歌詞に
どう文化的多層性が彩られているか。
旋律やリズムに乗るために
歌詞がどのように「有為な」変貌を見せているか。
たとえば「星」などの特定主題は
時代変遷やジャンルの相違によって、
その把握に変化が生じているのだろうか。
海外曲では歌詞にどのような理想形が現れているのか。
いずれにせよ、歌詞の考察はすぐれて「複合考察的」なので、
複雑なことを考えたがる僕にはすごく面白いし、
その結果が歌詞づくりの実践にも跳ね返るので余得すらある。
授業はほぼDJ方式。
カセットテープに、ある主題に即して10曲程度を録音する。
40分以内にまとめるのがコツ。
それを教室で一曲ごとに流し、止めて、喋り・・を繰り返す。
配付資料は当該歌詞をコピーし、
コラージュ的にA3用紙に貼り合せたもので、
音楽を流すあいだ、
多くの学生はかかっている曲の歌詞に目を走らせている。
たまに瞑目し、集中して聴く者もいる。
第一回授業は「太田裕美から始まる」と銘打った。
太田裕美は僕の高校時代のアイドルだった。
ふくよかなルックス・体型、お嬢さんぽい声量のない声。
それはいまでいう「アニメ声」の一種なのだが
ヘンに声の輪郭が円すぎて、声が正面に飛び出さない。隔靴掻痒感。
裏声に切り替わる瞬間も早すぎて、気合の萎む面もある。
そういったパンチのなさも考慮されたのだろう、
アイドル歌手のなかでは
比較的フォーク臭のつよい清純路線で売り出され、
それもあって、のちには自作曲も唄いだした。
現在は横浜で教会音楽歌手として活躍しているんじゃないか。
知る人ぞ知る、太田裕美は元「スクールメイツ」。
実はラン、ミキとキャンディーズを結成する予定だったのも
この太田裕美だった。年齢も合っている。
ただ声質や体型や運動神経が残り二人と揃わなかったのだろう。
結局メンバー入りを見送られ、スーにその座を譲る。
そのスーのダイエットの苦しさに残り二人が同情して
キャンディーズ解散儀式が仕組まれるのだから世の中、皮肉だ。
太田裕美にフォーク的なアイドル路線を走らせるとき
それなりの新進作詞家を起用してみせる仕掛けが必要だった。
はっぴいえんどで歌詞をずっと書いていた松本隆が抜擢される。
はっぴいえんどはJロックの嚆矢のひとつといまも評価が高いが、
「あんなのフォークじゃねえか」と近田春夫がよく悪態をつく。
僕も同意見だが、太田裕美のプロジェクトチームも
そうした特質をよく見抜いていた(ただしプラス評価だ)。
つまり、松本隆の歌詞にロック衝動がなかった点が大きい
(「春よ来い」などごく少数の例外もあるにはあるが)。
たとえばカヴァーの続く代表曲「風をあつめて」。
夜明けの空を路面電車が走ってゆく、
宮澤賢治的というか宮崎駿的光景を幻視する歌の主体がいて、
細野晴臣の唄いかたもあり
その主体の「ガロ」的不充足感が抒情的に伝わってくる。
70年代的無精ひげ、チャンチャンコ。
ジェイムス・テイラー的というか小坂忠的なアコギと
ディラン調からの一小節程度のコード的飛躍が耳を打つのだが、
「文学的」と称賛を受けるだろうその歌詞が僕にはいただけない。
「よあけ」は「昧爽」と用字され、
「がらんとした」は「伽藍とした」となる。
「風をあつめて」蒼空を翔けたい僕の心意はいいが、
どうも歌詞が翻訳象徴詩的語彙の不徹底な蒐集に見えてしまう。
この蒐集によって歌詞の情動が停まり、
結果的にロック音がフォーク性にまでひしゃげてしまうのだ。
松本隆の罪は大きい。
こういう限界にたとえばイースタン・ユースなども全然気づかず、
中央線沿線的「低回」をいまだに文学的に演じつつ
自らを高級ロックと規定しようとしていたりもする。カッコわるい。
80年代アイドル歌謡は阿久悠ではなく松本隆の時代だったが、
近藤真彦にしても松田聖子にしてもたぶんその歌詞世界は
あらかじめ代理店的コンセプトにより決定していた。
このコンセプト内で「同一的な」語彙が蒐集され、
少ない物語性の代わりに透明な心情が中心化され、
だから彼らの歌には一定の「雰囲気」があっても
何かを突き破る真の若さがなかった。
「不良売り」のマッチに不良性の実質が出たのは90年代からだ。
そういう意味でいうと
80年代的な微温性の代表者が彼らの作詞者・松本隆で、
結局、その頃の情動はパンクやフリージャズに向かうしかなかった。
雰囲気と情動とを溶かす中間形態が消えてしまったのは、
松本隆の支配圏が大きくつよかったからではないか。
で、売野雅勇、どうしてるんだ、などと思いを馳せてみる(笑)。
ところが松本隆の評価が、この夏休みに一変した。
まあ局点的なものにすぎないのだが。
松本隆が歌謡曲の作詞キャリアの出発点とした太田裕美だけは
その歌詞に「蒐集」で乗り切れるという驕慢な見切りがなく、
松本は自らの音楽的教養を積極注入して、
「日本のうた」の可能性拡大に尽力していたのだった。
この事実に気づかせたてくれたのが
夏休みに読んだ舌津智之さん(立教でも講義をしている)の
『どうにもとまらない歌謡曲』(晶文社)で、
舌津さんが引用している
太田裕美「赤いハイヒール」「ドール」の歌詞の一節では
不覚にも涙ぐんでもしまったのだった(笑)。
高校生のころ、一応それらは聴いていたのに
歌詞を再見したときの感触がすごく新鮮だったということだ。
講義では太田裕美の代表曲をかけ、
その間あいだにそこから類推される別の曲を挟んでいった
(これが松本隆の音楽的教養による「引用」を多くあかしだす)。
① 椎名林檎「木綿のハンカチーフ」(『唄い手冥利』から)
一曲ごととはいえ太田裕美の甘すぎる声が続くと滅入るので
椎名林檎のカヴァーヴァージョンを選んだ。
一曲かけ終わってクイズを出す。
エラく下手な歌唱が林檎の歌唱に混入しているが、だ~れだ? と。
答える学生がいた。「松崎ナオ」。ハイ、正解です(笑)。
北山修などフォーク陣営が定番にしていた「故郷喪失」テーマ。
田舎の少女が恋人の上京就職を見送ったのち
手紙文のやりとりが往還し、
その一回ごとの内容が、歌詞表記4行ずつでクルクル変転してゆく。
つまりそれは、源氏以来の伝統、「相聞」形式に則っていた。
つまり太田裕美は男歌を「半分」唄う。
なぜそんな方策が導かれたのかいえば、
「男」設定のほうが唄い手の女性性がエロチックに伝わるからだ。
たとえば詰襟学生服を悪戯で着用した「女子」を考えてみればいい。
太田裕美自身はカントリーなお嬢さん服を着ていたが
当時の男子はその下に豊満な肉体があるのを見逃さなかった。
運動部系男子が異様に萌えていた記憶がある。
僕はといえば麻丘めぐみ一辺倒だった(笑)。
ナンセンスと美少女の配合をシュールとおもっていたのだ。
話を戻す。
曲はザッパ、レノン、ジミヘンとともに僕が4大リスペクトする
筒美京平先生だ。
僕は絶対に筒美先生には「先生」という敬称を外さないと
講義で宣言してしまう。
筒美先生は、当時のウェストコーストロックの隆盛を横目に
曲調には明澄なカントリーロックフレイヴァーを選択なさった。
ま、「故郷」テーマだし。それが太田裕美の舌の足りない歌唱を
ヘンに真摯に響かせたりもして、大当たりとなる。
林檎ヴァージョンのほうはアレンジが亀田誠治で
ベースがゴンゴン唸っているが、オリジナル編曲は透明感一杯だ。
ただしこの「故郷テーマ」には欺瞞がある。
もともとその前段階の北山修絶頂期からしてそうだった。
北山は故郷喪失を現在形として描くことでそれを抒情化した。
だが春日八郎「別れの一本杉」の時代はとうに終わっている。
農家の次男坊以下の東京大移動時代は東京オリンピックまでなのだ。
そのころ地方の人口流出が「完了する」。
もうひとつ同じ動きのピークが明治30年代だった。
北山修は所与の諦念であるべきものを、
渦中の悲哀につくりかえてしまった。
一応はロック分野にいた松本隆は、その歌詞の型を悪用した。
事は、日本人の「泣けるもの」の計測に関わっている。
故郷-東京に分断されて、若い男女の恋愛は破局を迎える。
遠距離恋愛の克服、というテーマは現れておらず、
地理的条件にたいしまだ二人はすごくナイーヴだった。
通信機器が十全ではなく手紙のやりとりが主体だった点が大きい。
むろんそれはラスト、恋の終わりに直面して
《ねえ涙拭く木綿の/ハンカチーフ下さい》と呟くヒロインを
実像化するための方便でもあっただろう。
そこに太田裕美のルックスが重ねられる。
悲哀にメロメロにならないがゆえの、向日性の凛とした哀しみ。
カントリーガールのまっすぐな背筋(彼女自身は猫背だが)。
だから太田裕美はこの歌を明るく唄った。
そしてその最後のフレーズは
ディラン「ハッティ・キャロルの寂しい死」のラストも髣髴させる。
②ボブ・ディラン「スペイン革のブーツ」(『時代は変わる』より)
「ハッティ・キャロル」とディラン・ソングの名前が出て
同じ『時代は変わる』に収録されている曲に注意が及んだ。
あった――「木綿のハンカチーフ」の真の発想源が。
それがこの「スペイン革のブーツ」だった。
「相聞」は源氏的なものよりもむしろこの曲からの転写だった。
このディラン曲は完全なバラッドの曲調
(ディランの誠実で静かな3フィンガーと歌唱が胸を打つ)。
またもディランは作曲に密輸入を導入している(笑)。
バラッドの一形式「相聞」がここでは完全に踏襲されていた。
たぶんスペインの鉱山労働にゆく農家の息子を
イギリスの農村の娘が見送って、
以後は海を挟んだ間遠な手紙交換の日々となったのだ。
少し「大航海時代」の匂いもする。
出稼ぎ労働者は現地でカネを得る。
恋人に何かを送ろうと提案する。
女のほうは取り合わない。恋人の「存在」こそがほしいからだ。
ところがラスト、女が手紙で語る。
《そう、なにか送ってくれるのならば
スペイン革のスペイン・ブーツ》(片桐ユズル訳)。
物質的富を峻拒していた女の心変わりではない。
そう語ることで、皮肉な別れの挨拶が確定したのだ。
この歌の4聯を書き抜いてみよう(女のほうの言葉)。
おお、まっくらな夜からとった星
と ふかい海からとったダイヤモンドだって
あなたのやさしいキスのほうがいい
わたしがほしいのはそれだけだ
一方、松本隆作詞「木綿のハンカチーフ」には
こんなフレーズがあった(第二聯後半)。
いいえ 星のダイヤも
海に眠る真珠も
きっとあなたのキスほど
きらめくはずないもの
きらめくはずないもの
そっくりだ(笑)――が、
けっして「パクリ」と指弾したいのではない。
「音楽的記憶」というものがあったとして、
それが諸国・諸ジャンルの歌に飛び火するように継承されてゆく、
そうした壮観を是としたいだけだ。
もともと音楽とは「継承」の産物なのだし。
そしてビートルズ狂で通っている松本隆が実はディラン狂だった、
という事後認知が嬉しかったりもするのだった。
ただし此彼の差を超え、時代を超え、
男女相聞の哀しみをどちらがより映しているのかといえば
ディランのほうに凱歌があがるだろう。
歌詞に屈曲があるからだとおもう。
むろんそれは英語詞のほうが日本語歌詞より自在で、
韻も踏め、音調に翳りを挿しこめるからだったりもする。
③太田裕美「赤いハイヒール」
男女の相聞で当てた太田裕美プロジェクト班は
次も男女の相聞路線で行こうと決意した。
当然だ、歌謡界には柳の下に泥鰌がうようよいる(笑)。
ただし新機軸が盛られた――都会に出たほうを女とし、
故郷に残るほうを男としたのだった。
職探しの常で東京に就職したとしても
女には物質的欲望を思い描き、故郷を捨てた、
というバイアスがかかっている。
だから東京到着直後にデザインのいい「赤いハイヒール」を買った。
出だしがいい。《ねえ友達なら聞いてくださる》。
「私」の「語り」がこれから始まるという「開陳」の仕方は
浪曲から河内音頭までに共通するものだ。
下層民対象の河内音頭では冒頭開陳に自己卑下の匂いもまつわるが
この歌の主体=「女」のほうにも下層労働者の匂いがする。
「タイプライター」の用語から
町工場程度の事務職ではないか、という気配があるのだ。
故郷なまりを悟られないため無口になった山出し少女の哀感。
少女が東京勤務で精神的・外形的に変質してゆく過程が
効率性の高い歌詞で彩られる。
どんどん初心や真心を失ってゆく頽落。
故郷の男はそうした惨状に手紙で容喙してゆくが、
実は体温のある存在としてキャラクタライズされてはいない。
「思い出話」も「忠告」も「励まし」も
すべて抽象的な感触を伝えてしまうのがこの歌の弱点だろう。
ただし筒美先生の曲が出色だ。
冒頭Cメロの短調、Aメロの短調、Bメロ長調で、
このAとBが男女に振り分けられる。
Bの部分で肺腑をえぐる哀しみに歌が達する。第4聯。
おとぎ話の人魚姫はね
死ぬまで踊るああ赤い靴
いちどはいたらもう止まらない
誰か救けて赤いハイヒール
大正期『赤い鳥』圏から語彙が一旦、蒐集される。
小川未明『赤い蝋燭と人魚』。
それがホフマン・バレエ→パウエル/ブレスバーガー映画の
『赤い靴』を呼び出す。
『赤い靴』の物語、ご存知だろうか?
血紅に染まったようなトゥシューズを履いた
バレリーナ志願少女はその靴の魔力によりバレエ技術を得るが
最後、靴の魔力が自走し、「死ぬまで」踊り続ける羽目となる。
ドイツ的メルヒェンの「残酷」もかくや、という話。
上京直後に買った少女の「赤いハイヒール」は
この「赤い靴」とイメージが二重になる。
彼女の浅はかな東京傾斜が止まらない。
むろん童謡「赤い靴」も二重写しとなる。
《赤い靴はいてた女の子/異人さんに連れられて行っちゃった》。
ただし歌の少女が何によって連れられてゆくのか。
「異人さん」ではなく、「物質」によって、だろう。
「人魚姫」はアンデルセン(デンマーク出身)由来と
考えたほうがいいかもしれない。
僕はゴダールがアンナ・カリーナ(デンマーク出身)にいった
歯の浮くような(笑)愛の語りも憶いだしてしまう。
「アンデルセンの国の人魚姫が泣いてはいけない」。
ゴダールはコメディの天才でもあった。
ともあれ、この聯では、童話的な瞬間イメージが
多様な文化圏から一挙に蒐集され、
異様な加圧が起こっている。
この重みに直面して聴き手の胸が悲哀に潰れるのだ。
――というようなことは『どうにもとまらない歌謡曲』の著者、
舌津智之さんも見事な言葉づかいで語っていた。
④モールス「originalsoundtrackeasylistening」
(『モチーフ返し』より/作詞作曲=酒井泰明)
メジャーコード主体のバラード曲。
河島英五や友部正人でも唄いそうな曲にも聴えるが
エロキューションも発声もリズム切りも
ロッカーでなければこうは唄えない、と気づく。
そしてその歌唱によって「泣き」へと導かれてゆく。
モールスはパンク、フォーク、果てはジャズやロカビリーなど
多ジャンルを融合することでこそ音楽がロックたりうるという、
ロックの混合性に忠実なバンドだが、
第一観はフォーキーな印象で聴き手に迫ってくるだろう。
作詞作曲歌唱ギターの酒井の身体性が
フォーキーでボロく、古臭く、だらしない。そこが魅力だ。
歌詞の皮肉も盛られ、ジャンル定位がさらに効かなくなる。
だから僕はずっと応援しているのだ。
曲名は彼らの代表曲「backgroundmusiceasylistening」を想起させる。
《思春期に感受性ならマグロになったから》の捨て台詞ではじまるあの佳曲。
友部的バラードが一挙にパンクに変じる。
しかもあの曲では出だしのギターリフがクールジャズ的だという
「混乱」も盛られていた。「混乱」なのに、泣けた。
ただし今度のアルバム『モチーフ返し』は
全体にフォーキーな雰囲気がつよく、
「originalsoundtrackeasylistening」も一聴、そう映る。
恋愛の不成就が契機になったような男の主体の不如意が
眼に映る諸物を通じて象徴的に唄われてゆく。
語彙が平易。歌の主体の涙は、拭いても止まらない。
恋人の翻意・心変わりをなじる言葉が抑制されているからこそ、
この歌の哀しみが極上となる。転記打ちしよう。
雑踏の中で 大事なもの
かぎわけられる 君だったろ
いったい誰に ふきこまれたの
もう 僕と 会えなくなるんだぞ
実はこのフレーズが
先にかけた太田裕美「赤いハイヒール」の一節と照りあう。
「恋人の頽落」が共通するのだ。
こっちも転記打ちしてみよう(こっちは自己慙愧の文脈)。
マニキュアの指 タイプライター
ひとつ打つたび夢なくしたわ
石ころだらけ私の青春
かかとのとれた赤いハイヒール
「赤いハイヒール」で悪魔的容喙の役割を担ったのは
都会の物質的虚飾と労働疎外の落差だろう。
この感触が石ころのようにゴツゴツして、泣けるように味気ない。
そこでは松本隆の都会生活論の反映がある。
一方モールス「originalsoundtrackeasylistening」には
歌詞の片々から同様の「都会生活」の匂いがあるものの
恋人の心変わりには「都会が悪い」といった
「還元論」が用いられていない。
だから現在的通用性が高く、普遍にまで悲哀が高められている。
時代色に乗った歌は歴史考察を外せば褪色として響くが、
感情の普遍に立脚した歌は
それがフォークの装いをまとっていても永劫に効力が不変だ。
「originalsoundtrackeasylistening」は
太田裕美「赤いハイヒール」を凌駕しているとおもう。
この意味で僕はモールスのこの曲をかけたのだった。
(以下、次回)
星に聴く・金石稔
ここ数日、書肆山田からこの9月に出た
金石稔さんの『星に聴く』という詩集を
ひまにあかせて紐解いている。
この詩人について知るところは少ない。
帷子耀や阿久津靖夫や芝山幹郎、
支路遺耕治や山本陽子などとともに
「68年」に言葉を沸騰させた詩人群のひとりだったろう
――そのような「類推」がやっと効く程度にしか
その詩業全体の把握もできていない。
詩集のかたちでようやく詩を知ることができたのだった
(廿楽順治さんなら何かをご存じだろうか)。
もうその言葉に「68年」性などほぼ残っていない
(巻末の長い散文詩を別にして)。
各詩行では何かが美しく消尽していて、
残骸の枠組のようになったそこを
代わりに星の瞬きの無言や風音の無魂が
ゆるやかに、濡れるようにひたしてゆく。
天体と自然、わずかに小規模のまちが詩の空間から察知されるだけ
――そういう「詩体」も多い。
たぶん世間では「北方詩人」という分類が
有効視されているだろうが(鷲巣繁男も当初はそうだった)、
金石さんもそういう磁極にいま静かに身を置いている。
その、置いている身が、かすかにみえる――
この「像」の曖昧も畏怖に値するのだった。
読解にあたっては、他の詩人とまったく別の感慨が湧く。
言葉を組み立てる原理が即効性ではなく、
次行にいたって当該行が姿を現すような
遅効性によってつながっているのだ。
読解線には戻り筋もしいられる。
一篇を読んで、即座にその一篇を再読すらしてしまう。
存在しているのは――
大仰でない意想外。わずかに周囲に渦を発する自然原理の語。
句読点が各詩行末尾では廃されていて、
読解はだから詩に「想像参加」して、
消尽してしまった句読点を補填してゆく試みにも似てしまう。
このとき、金石さんが言葉の運びに装填している静かな律動に
読み手の躯がゆっくりと浸されてゆくことになる。
反映。移り。「その」無名性に「この」無名性が反応すること。
消尽を補って新たに消尽に出会うこと、
つまり消尽にも奥行があると直観すること。何かの「去り」。
聴えないものに耳を澄まし、世界や動物たちの秘密に触れること。
こういうのはかつて詩の読解の基本軸に置かれていたものだが、
現在ではその効果を軽視されてもいるだろう。
どういうか――金石さんのこの詩集後半では
僕には理解を超えたアイヌ語も頻出してくるのだが、
似た経験を、かつてショーン・ペンの映画
『インディアン・ランナー』で感じたことがあった。
兄弟の葛藤物語に、ふとネイティヴ・アメリカンの言葉が
「原型」で混入してくる。
鹿は直角に走り、それを追う犬は藪を抜き最短の斜めで走る。
だから犬は鹿を馳走にすることができる。
森林にはそのようにいくつかの「道」があって、
動物の運命もまたその「道」の種類別になっている。
「道」はメッセージだ――だが他種には読めない。
メッセージはいわば動物のかたちとなって
走るだけだ――それは「捕まらない」
(『インディアン・ランナー』の「メッセージ」は
いま僕の記憶のなかで上のように変型している)。
徹底的にヤラれてしまった巻頭詩を引こう。
●
【岸辺に輝くもの】(全篇)
風が生まれるところまで
坂道をのぼり
そこに星を一つ飾った
記憶は忘れられる
沸騰してひとかたまりになって
岸辺に輝くもの
それは何でもない
上昇と下降を繰り返すだけなら
この底なしのわが身までも
雨粒だとか草の匂いだとか
寄り添うもののすべてだとか書ける
色や形を飽きずに
見つめてきた
あいさつは省略し
出会いは黙殺し
そのようにか
そのようにしか
音色かぐわしい道の上では
うねりはやまない
岸のへりをつまみ胸にしまって
たとえようもない
まぼろしに
風に
なる
●
語同士の関係性を確定するために
読みが自らを緩慢化する機微がわかっていただけるとおもう。
句読点を詩行末尾に自ら補うことで
行の関係が意外に晦渋だという認知の生ずる一方で
律動が静謐で、いつしかそれを
抗しがたい魅力と捉えているとも気づく。
一旦《この[…]わが身》の語で
詩の主体の位置が再帰的に定着されるが
僕が一文と捉えた冒頭三行や
同じく一文と捉えた途中の《色や形を飽きずに/見つめてきた》、
さらには最後の4行では
主体を示す節、「わたしは」が省略されているとおもう。
この省略によって読者は
詩の主体の位置に自らを代入するのだ。
だから読者がするのは観察ではなく
「寄り添い」や「ともに歩くこと」。
すると最後、一行あたりの字数が少なくなる過程を
没入した身体までもが共有することとなり、
実は読み手そのものも美しい「消尽」へと導かれてしまう。
そうだった――自分を消すことにしか
詩の読解の歓びなど、あらかじめなかったではないか。
不要な「意識」を呼び覚まされ、
生じた雑念によって詩の読解自体が困難になる経験の煩さなど
あらかじめ詩には関わりのないものだったのだ。
たたずまいの静けさのなか滲みあがってくる詩行。
屈曲は読み手を意識しての武装などではなく、
それ自体が自らを内側にくるみこもうとする
語の本能に忠実な点によっている――そうもおもう。
たとえば、
●
それらを思い出すというのが記憶の色であり
たとえば飛び交う蜂や甲虫類の羽音は
まぶたに映る海岸線のように
青い
だからなのか
空中に巨大な円錐の形に
掘り出されている静けさを
見た気がするのは
闇の水について考え
その思いを一個の語句にするたびに
(「(夜のひかりについて」最終部分)
●
雷鳴はつかめるのに
身体のない獣たちには
耳元にささやかれる意味のあることばも
ただ点滅する永遠のまぼろし
寝返りうつことはうつ
そう思うことは思う
これらに相応しいことばの鋳型を
いつも書いている
(「点滅」最終部分)
●
まばたきの間に消えていく季節
陳腐だ
訪れた岸辺が
寝入る前のシーツみたいに白く
めくれるなどと
文字にしてみると
崩れ墜ちる
からだの回復のために
枯渇とか希望がほしい
濃い水の中の頭脳
それをいつも待っている
ゆるやかな一歩だけの
ピクニック
(「ピクニック」最終部分)
●
洪水の中で
声のあざは
うねりを増す
(「星に聴く」2、最終部分)
●
――こうして抜書き(転記打ち)してみると
もうひとつ、金石詩の特質に気づかされることになる。
僕はつまり、各詩篇の「最終部分」ばかりを抜いたのだった。
それは、どの詩も終わるために――
「終わりをしるすために」決意をもって書かれていたことの反映だ。
これほど詩篇の結末が見事な詩人など滅多にいない。
「終わり」とはむろん「たんに終わること」などではない。
それはたえず「いったん終わること」にしか過ぎず、
余韻の存在を考えればむしろ「けっして終わらないこと」なのだ。
金石詩篇の終わりの見事さは
「終わり」のそうした多重性をかならず分泌し、
「終わり」に魔法をかけているからだ。
読者はこのことにより、ときに愁殺されてしまう。
「終わり」を泣くのだ。
ただこのこともまた、多くが忘れがちな「詩の原理」にすぎない。
『星に聴く』はそうして感傷を静けさによって腐食され、
読者の心が美しくなる代わりに
ぼろぼろになってゆく体験にも似てしまう。
正しい詩は、
たんに読者を賦活するなどといった一義機能を負うだけではない。
「正しく」読者を「疲弊」させるのだ。
僕自身の体験をいうなら
この詩集では巻末に近づくにしたがい疲弊をつのらせていって、
だから詩集の終わりのほうに並ぶ作品の
全貌を掴んだという自信を授けてくれない。
たぶん詩集冒頭から末尾までを読む経験を何度も繰り返し、
前半詩篇が完全に透明になり無重力となって
それで初めて末尾の詩篇群への焦点が合いだすのではないか。
そうなるまで僕は繰り返し、思い出したようにこの詩集を
掌上に乗せるだろう。
なぜそうするのか――この詩集が一個の「星」だからだ。
僕は天にゆくために、そうする。
最後にもう一篇だけ引いて、この小稿を閉じよう、
(僕の眼に涙が滲んだ箇所だ)――
●
【河口にて】(その中途から最終行まで)
たとえ風が雨に押しつぶされて
だまるけものたちのように夜の底に
静まりかえったとしても
ここの植物たちが交わし合っている谺することばは
流れにゆだねられたまま凍る
春を待つ岸辺にそって
立ち去る者も立ち行かぬ者もともに
刈り取られるのは痛いことだ
あらかじめ失われた昨日や
どこにでも書き付けられる落首なら
やむをえず微笑でかわせるが
手触りや虹彩や痛点がまばらに思い出せるだけなら
この身体はどこに返したらよいのか
覚束ない足取りで夜のへりを歩き
あてもない点滅を繰り返すほかなにができるかと
仮に書きしるして眼をあげると
視野が風に揺れひかりもまた揺れて
背景の緑野はそっくり消えている
そこでは銀河が音もなく
一回転している
踊らば踊らず
「一人連詩」36篇を完成させて
幾度かまとめたものを読むうちに、
8月17日にミクシィアップした
9【緑について】が瑕だ、と気になってきた。
最大の問題は「花火」のイメージが
打越の禁に触れているということだ。
田中宏輔さんの連載解説が
ここに辿りつくまえに差替えようとおもった
(書肆山田の再校、頑張ってください)。
それでつくったのが以下。
――その前に一言二言だけ。
できあがってからの連詩の差替えは
たしかに気分的に少し厄介ではある。
改めて前篇に「付け」なおし、
しかも後篇がおこなった「付け」の筋合いだけは
確保しなければならない。
ただ、やってみるとそれは存外、簡単だ。
現在、「十二人連詩」でも同様の問題が起きているが、
このアップがその参考になればいい、ともおもう。
書き換えの具体例をしめすために
新詩篇【踊らば踊らず】を前に置き、
没にした従前詩篇【緑について】をあとに置きます。
●
(11月10日改訂)
【踊らば踊らず】
家主を騙す、ペッティングは何度目
失敗した肉じゃがや
シークワーサー割りのあと
夏の全盲闇がおもたく降りてきて
そこで罰当たりたちが無音を味方に
鬼神の「踊らなさ」を舞っている
互いの指先で濡れたり硬くなったりした
言葉のようなものを探りあっているのだ
額より小さな庭に累卵を置き
終った宵から下ろす塊の鉛で
殻を割らず中身だけ潰す技
小ささと大きさの境をかえるので
森下の見取図さえ書けないまま
窓のそと 竹薮が大きくなって
尻尾の夜が 雨のように焦げた
(下天は夢よ、
(「踊らば踊らず」の深意とは、
「流れる記憶」を記憶するように
あゆみが自他を混乱する
起きぬけから空回りにまわる朝
肝臓の紫も胆嚢の緑も
それなり体内の火だったが
かげろふたちのよぎる辻をまえに
ジジ、と湿った音漏れもして
身のなかへ縮むだけだわたしの身は。
白熱の行く手を
規格外のパイソンが気ままに炎えていた
添うように周辺を掠めれば
胆汁なんかもむかしの草汁
祝ひ・さきはひ、禍ひがみな消える
●
(8月17日アップ)
【緑について】
今年の花火の眼目は
火薬の「緑」発色だそう
はかなや暗さの境を
幽玄へかえる謀りごと
(信長が最期に見たものを感じる
「流れる記憶」を記憶するようだ、
肝臓の紫/胆嚢の緑/体内花火
白昼の夏ならいつも行く手を
規格外の緑が気ままに炎えていた
触媒され、血の胆汁化あわれ
(「踊らば踊らず」の深意とは
その緑を犬の花火師たちは
裏側から夜空に閉じようとしている
「何かが死んだ」「このことの縫い」
祝ひ・さきはひ、禍ひもみな消える
わたしもまた竹薮より大きくなって
家主が眠るそのあいだこそ
召人たちの悪戯のとき
時間を停めてギシギシと
信を機械に変えるがこのみ
「こびと」の正字に変換できぬのなら
「矮小」と打って一字バックスペース、
そんな知恵だけ緑色になって
一切の閑暇も覆われてゆく
それで額より小さな庭に累卵を置き
終わった花火から下ろす塊の鉛で
殻を割らず中身だけ潰す技も競われた
小ささと大きさの境をかえるので
いつも家の見取図が書けないまま
尻尾の夜が 雨のように焦げる
【提出課題】百行詩:「メデタ矢」
【提出課題】百行詩:「メデタ矢」
阿部嘉昭
一行目はいきなり飛び出して恥しい
二行目はあっさりそれに追随しもっと恥しい
三行目はこんな葛藤を無視する
四行目ははじまったものは仕方がないと歎息し
五行目がはや調整役を買って出る(お節介め)
六行目はまたもや恥しいが理由がちがう
七行目の短足
八行目のひンがラ眼
九行目胸毛の毛毛毛毛毛が恥しい
十行目にいたり恥しいものが恥しいトートロジックなケツ論も出る
十一行目は北埼玉のからっ風野郎、口癖は「ここで暮らさない?」
十二行目の横浜の歌唄いを震える声で誘惑する「ベッドにおいでよ」
十三行目の烏山親父は「なんでも呵呵大笑」が身上
十四行目はよって素直に「カカカカカ」(たまに「ワンワン」)
十五行目は不機嫌。「 」が多くなってきているからだ
十六行目、「つまり詩にはメタ構造がないとね」
十七行目、「否むしろ音韻こそが必要だ」
十八行目いうならく、「なんで安易な五七五?」
十九行目、「恥のテーマへ回帰だろ?」
二十行目は「一時期流行った《ハズい》こそ《ハズい》」
二十一行目は逆に「こそ」の語こそがいつも恥しいと指摘
二十二行目は同調派、「強調ってマッチョよ、十九行目に戻れ」と虎の威を借りた
二十三行目は心情派、「一時期がイチジクに聴えドキドキしたんよ」
二十四行目、誤解派。「西洋学はやっぱり起源からだわよねえ」
二十五行目、エッチ。「いや、浣腸の像が揺曳したんだろうよ」
二十六行目、わーん、喧々諤々。バベル状態だわ
二十七行目、いやバブルの恩恵など蒙らなかったよ
二十八行目、残業手当なかったし モテなかったし
二十九行目、おい阿部嘉昭、こんなとこで私的に嘆くな
三十行目、バッキャロ、詩がわたくしでなくて何の詩か
三十一行目はそろそろ疲れてきてインスタント珈琲を淹れる
三十二行目は単純に未来予測したが言明は次行に渡す
三十三行目はその企みに乗るものかと眉間しかめて
三十四行目は、私は数字が悪い、素通りしてください、と腰砕け
三十五行目はお前みたいな前行をもった俺が不幸とこっちもメソメソ
三十六行目になって癇癪、「焙煎珈琲で雲古が黒くなるってことだろっ」
三十七行目は元も子もなくなって(泣)
三十八行目も「元は一行目だけでわれわれはみな子供だ」と責任回避
三十九行目は怒りんぼ「日和見め、元利計算ではなく複利計算で行け」
四十行目はしかしドリカム好きで「サンキュ.」といってほしいだけだった(もう遅い)
四十一行目になって暗中模索
四十二行目は五里霧中とも換言できる
四十三行目の実体も行数稼ぎ
四十四行目はしかしとつぜん点数稼ぎの女子を押し倒したくなって
四十五行目に生じた不意の性欲が五里を走った。だが「霧だらけじゃんか」
四十六行目に一首《性欲は虚しからずや霧の灰 靄の白にも沁まずただよふ》
四十七行目はひとりごちる、dew ramblerっつのはありうるなあ
四十八行目、俺たち不穏分子、霧のなかでこの殺意を燃やさなきゃ
四十九行目にいたりさらに一喝、「拠点をえぐりだせ」
五十行目《キリキリと夢中にありて錐まわせ》
五十一行目で腹に穴が開く
五十二行目の向こうが見える
五十三行目のとおく、お城も季節もみえる
五十四行目は太陽が溶けた海
五十五行目は大安売りだよ大安売り(晴れたっ)
五十六行目はけれども腫れてしまった
五十七行目が大体「臍」の位置だったので
五十八行目ではガキのころの出べそに戻る(涙)
五十九行目でさらに臍下三寸すら腫れて
六十行目にいたりきみのおっぱいもおしりもうっとり腫れた
六十一行目はとうぜん揉む
六十二行目にふと生じた錐揉みも何のその
六十三行目の性欲もグッとつよくなってもう墜落しない
六十四行目が教材に相応しくなく猥褻だって構うもんか
六十五行目ではっきりいいたい《全魚類とヤリたや》
六十六行目はしもたや
六十七行目が出入りして
六十八行目(遊女)が薄粥を振舞う
六十九行目は大事な数字なのにいまさら倒錯できず
七十行目がボソリ、「俺たちゃ江戸のむかしからビンボー」
七十一行目の この何という侘しさ
七十二行目が前行の虱とり
七十三行目に発句、《虱去る師走の身にもクリスマス》
七十四行目に付け、《われもわれもと橋落つるまで》
七十五行目は な~んかどうでもよくなって
七十六行目、ふう。
七十七行目、ふにゃん。
七十八行目、やっぱね。
七十九行目、なにが?
八十行目、なんだかねえ。。。
八十一行目はしかしなんだかウキウキしている
八十二行目を愛していてあすはカメロットの祭りに行くのだ
八十三行目でジンジャの花を瞳に映して
八十四行目のここ、かすかに生姜の香
八十五行目では前行の打ち間違えを記録しておこう、「カカ折」
八十六行目、何じゃ「カカ折」って
八十七行目、一部のアフリカ語でカカは女陰だろ?
八十八行目、ぼぼそそ
八十九行目、由緒ただしく「ほと」といえ
九十行目、ほとほとおのれの助兵衛に疲れて、魚類まで帰っていった
九十一行目は海流の彼方
九十二行目は気宇壮大
九十三行目に鮫の投身数千
九十四行目は宇宙まで跳ねた鱶が脇見もしている
九十五行目にみえた、にんげんの物侘びた下界
九十六行目は全詩人のとぼとぼ歩きで
九十七行目、「お恵みくださーい」(ザマミロ)
九十八行目からは三行の文法が破壊だ
九十九行目、墓逝って往かず苔 イかずのかわやも
百行目の斑らなら まんだらだったからメデタ矢 (放てっ)
杉本真維子・袖口の動物
凶暴なものは連打的で長い――
そう「常識」は考えるだろう。
だが杉本真維子の新詩集『袖口の動物』ではちがう。
凶暴なものはむしろ少なく、間歇的・余白生成的で、
結局は、「見たことのない配置」によってこそ
暴力の域へ「成上がる」のだ。
部屋――そうしるせばそれは「脳」でもあっていいのだが、
ともあれ「奥津城」で女は言葉を「宰領」する。
霊性を、語同士の衝突によって手許に沸きあげて、
それをしも闇に、じつに恬淡に献呈してしまう。
言葉生み、言葉殺し。
あるいは発語を単位とした、「刻々の気配」の生殺与奪。
持統天皇とはきっとこんな女だったのだろうか。
杉本真維子の哀しみは、詩の哀しみは
意外なところから測定できる。
二度目に詩篇が読まれたとき
語の凶暴な配置はすでに読み手に記憶されていて
衝突そのものが柔らかく馴致されてゆくのだ。
凶暴なのに、馴染んでゆく語順や比喩。
「発せられたもの」は自らの再来によって
他人にあっけなく吸収されてしまう。
杉本真維子が「女」だというのは、
そうした語の宿命を自らの存在感の哀しみとして
あっさりと引き受けているからではないか。
実に、あっさりと。
自棄の気配が優雅な含羞の笑みで覆われる。
たとえば、集中、「光の塔」「笑う」「袖口の動物」
「或る(声)の外出」「貨物」「やさしいか」は
僕にとってすでに初見の詩篇ではなかった。
それらのたたずまいに初見時、あれほど怯えた記憶が
それ自体、錯誤だったのではないかと逆に戦慄してしまう。
「笑う」の乱暴な比喩、「わたし」に向けられた命法、
「身頃」の造語、異様な副詞、
「或る(声)の外出」での、転倒ではない主格助詞止め、
「やさしいか」での主格を主語にした奇怪な疑問文――
それらは詩語の運びの未聞の「発明」なのに、
いったん「やさしさ」として受け入れてしまうと
古くから見知っている存在拉致の郷愁へと
その質感を淡く変えてしまう。
こういえばいい――
異質が語る。「わたしはここにいる」「わたしをみて」。
だがむしろその声の女性性にこそもってゆかれるのだった。
こういう女性詩の声に接したことがない。
「動物性」「理知」の順序が従前のものとはちがう。
おおかたは「理知」にとどまる。
あるいは、「理知」を捨て去って「動物」を展覧する。
ところが真維子は、「動物性」の出し方が理知的で
理知の出し方が動物的だという右往左往がその本質にある。
存在を自ら血まみれにする往還がある、ということだ。
そうした本質を措辞の「少なさ」が封印して
彼女の言葉が「動きつつ」「停まっている」。
停止の空間が「部屋」の感触の実体となる。騒霊は、ない。
部屋では起点はあっても「閉じない」括弧だけが浮遊していて
だからこそそこが世界へとつながっている。
そのようにこの女は個別だが、普遍だった。
重圧をかけられ、悲鳴する言葉の群れ。
叫喚しうる言葉それ自体のもつ動物性。
だがそこでは黙語が叫ばれているのだ。
すべての場所がそれで「静かな叫喚」の撞着として音連れる。
僕はそれを、「懐かしい」とおもう。眼すら潤む。
オビ文のサブ見出し冒頭は
《獣のようにあいすることから逃れられない――》。
なるほど、わたしと相手との場が
多く詩句の、刻々の前提となる統一感がある。
だがその場のわたしが、相手が
詩句において可視的になっているか、といえば
そうではないだろう、けっして。
像の朧化どころではない、
像の消去のためにこそ、
無言の鉈が詩空間のここかしこで振るわれ、
紙が透明な血を流し、ヘンな色に濡れ、
襞を生成し、だが瞬時にのっぺらなたいらへと快復する。
事前と事後に挟まれ、時間の本質である瞬間がおめいている。
場所の詩。みえない場所の詩。みえなくなる場所の詩。
何かが何かを覆う。その不透明。その厚み。厚みなのに平たいこと。
そうした場所、場所、場所。
いったんそう捉えて、この「場所」が正しい詩篇の本質として
即座に「時間」へと換言できるとも気づくだろう。
詩においては、時間と空間の弁別など正しくは不可能なのだ。
このように恐怖と「同時に」郷愁をくれるひとのなかでは、
とうぜん、ある信念がその詩作に伏在しているはずだ。
《郷愁と恐怖など、じつは「おなじもの」ではないか》
「おなじもの」という認知からは意気阻喪を測らなければ――
むろんたおやかさによって心を誘う措辞だって散らされている。
《曇り空は
誰のものでもない声にとてもよく似て》(「坊主」)、
《まだ、
言葉も知らぬ唇をねがい
まっさきに乳頭を差し入れて
母よ あなたが
ほんとうに注ぎいれていたものはなにか》(「皿」)、
《あ、その白い手袋――
イナイイナイバアと顔を隠した
両手のすきまから
夥しい他人がこぼれ落ちていく》(「他人の手鏡」)、
《青年のような烏の声が
とどめのように
世界を整頓する》(「毟り声」)。
だが、「坊主」「皿」「毟り声」といった
詩篇タイトルの暴力はいったい何なのか。
「毟り声」といえばその最終二行、
一度もだかなかった
同音はもう、ひとではない
は、前行を次行冒頭の修飾節と捉えるか
あるいは二文連鎖と捉えるかに遂に解答が出ず、
そこにも暴力が顔を覗かせている。
措辞の論理展開が崩壊したときには
フランシス・ベーコンの絵画に接したような恐慌も起こる。
「ある冬」から、最終聯を引用――
ああほんとうはわたしたち
ころしあっていたのではないか
あのとき
轢ききらなかった半分の
片腕ももう、捨てる
暴力1:「爪」「ゆび」ガ突然「片腕」ニ昇格シテイマス
暴力2:「轢」ノ字ガ無気味デス
暴力3:片腕マデモヲ落トソウトシテイタナンテ
ソレマデ聞カサレテイマセンデシタ
怖気をふるってしまうような暴力は、
集中では「果て」に最もあふれていて、
自分の画面が不吉になりそうで転記などできはしない。
魯迅の箴言《川に落ちた犬は棒で打て》を
知人へも「培養」してしまった怒気の狂気。
このときの《Y原》という名前の書き方が呪われていて
詩神からは即刻の死刑宣告がなされるのではないか。
一篇だけ、全篇引用――
●
【いのち】
飴を噛んではだめ
ゆっくりと溶かしなさいと
そんな、声がする
ふいにかかとに落ちてきた一滴の
ように
わたしは、口のなかに
刃物があったことにきづく
まるく透きとおった、ちいさな固まりが
からころとあかるく
陽だまりのように鳴っていても
突然、歯で潰す
からっぽの一瞬がある
そんなふうにひとは
死をえらぶことがあるのだろう
ゆっくりと溶かしなさい。
そのうそだけがわたしを生かす
おまえの
飴玉は溶けない
たとえ焼かれても
黒こげの口を粉々にこじ開けて去る
●
四方田犬彦『摩滅の賦』の一節のように
順次唾液で溶け、最後にのこった飴の欠片が
うすい刃物となって自らの口腔を傷つける惧れを
詩篇が「抒情的に」唄いはじめた。
穏やかに詩が終息しようとして
では最後の四行、とつぜん噴出する黒化(ネグレド)は何か。
憂鬱が爆発してしまうことなどありうるのか。
これは誰の誰への恫喝や強請りなのだろうか。
読者を最後に谷底へ突き落とすべく
それまでの詩行が平静を装っていたのだとすれば
詩行を運ぶ動力が「悪意」だったと総括ができる。
いずれにせよ真維子は言葉を統べた。
それが完全なかたちになるようにではなく、
不完全になるように統べた。
不具へ、欠損へ、《せむし》へ、陥穽へ――
そんな状態にしてそれが愛されるように統一した。
杉本は編集をも統べた。
統一が編集だったからだ。
言葉を欠損・疫病にひたして
それが美しくなるように
その周辺を静かにさせたことも如上あきらかだ。
そうして前詩集『点火期』の弱点が克服され、無敵になった。
ほぼすべての詩篇に字数・行数上の統一感が
感じられたことが大きい。
それと詩集空間の白部分の多さに
言葉がひたされて同じ沈黙を保っていることも大きい。
だから詩篇の並びに、一瞬、連詩の運びすら錯覚してしまう。
冒頭の流れなどは、
杉本の好きな動詞「掃く」を蝶番にした
連詩かとおもったほどだった。
透かしのもよう
【透かしのもよう】
散歩ごと朝をかさねて
心はいわれぬもの無尽
棚も身のなかにあふれ
ひきだしのひきだしが
身をひろがってゆく
田――名?
眼路のたなもただ
青くなりまさった藤が
ぼんやり垂れるだろう
無風が万物の
無魂をあかしする
重力だけに統べられた
ものの かっこたる惨状
朝の分割は
分線がうすいので
区分のなかへ
きっとひかりが喚ばれる
やがてうすくして
みな分割でなくなる
つるべを借りる
桶から水も借りる
井戸べりにこうこつとして
ほいとになってゆく
さいごの棚、おしまいは
みたり笑へりき
この人数の形成を
ずっと待っていた
三様の朝を交換すれば
天道の座が あすからの
透かしのもよう