枡野浩一さん
詩の愛好者SNS「なにぬねの?」で
枡野浩一さんのマイフレンドにさせていただいた。
枡野さんはそこで単行本未収録短歌を
一日一首くらいのペースで発表しているのだが
その書き込み欄が異様だ。
たままん、近藤弘文さん、森川雅美さんらが
「乱入」し、
枡野さんからいただいたモチーフを好き勝手に発展させ
短句やら短歌やらを書いている。
枡野さん、このいきなりの無礼千万に
面食らっているんじゃないだろうか。
かくいう僕も、同様の狼藉。
ただし、僕は枡野さんの短歌に、
「対詩」ならぬ「対歌」を置くというつもりでいる。
なので少し連句の脇句とはおももちがちがっているとおもう。
作例は以下――
(一行一字表記は、枡野オリジナルを踏襲)
●
か
ざ
む
き
に
よ
つ
て
は
こ
ん
な
て
も
と
か
ら
を
ん
な
と
り
だ
し
あ
ぶ
ら
い
た
め
だ
●
霧
深
し
朝
狩
る
朝
の
塚
本
は
し
ば
し
美
髯
の
隆
ま
ぶ
し
む
●
止
血
し
て
七
穴
を
掘
り
就
眠
す
起
き
て
こ
の
身
は
真
の
渾
沌
●
鏡
持
ち
悪
心
興
る
品
川
の
植
草
某
に
女
生
徒
の
脚
●
ま、戯れ歌なんだけど、ちょっとは面白いかな。
書き込み欄は脇句の精神で、というのは
最近の僕の心情となっている。
ミクシィもなにぬねの?も
それで連衆たちのユートピアとなる。
ただしそうすると自分の書いたものが
いつか散逸してしまう。
で、吝嗇な僕はいまここにペーストをした次第。
●
近況報告:
現在、立教生の期末レポートを鋭意採点中。
お馴染み、「ブログ演習」のお子たちは
異様な「贋日記」を連打してきた。
とくに女子は講師翻弄の気配がアリアリ。
いずれ、ミクシィ日記でもさわりを公表できるかな
(「贋」とはいえ、プライバシーも絡むからややこしいが)
足摺
【足摺】
わが性を打って
枯海をゆくと
暫定が風に巻いている
わが性を叩き打って
夕闇を久遠と雁行すると
脇腹(ヘンな位置)を
乞食色の翼が暖める
昨日振り返って
今日は前を向いた
背後も祈祷の魔
むらぎもも推移
ほぐれるまでの
それだけ
胸の崖から
粉にした八角を
遠く放つと
この埼も足摺となって
木霊に円く抱かれた
停まる。
税が真の禾篇だった昔に
ひとの姿は鸞鏡に徴され
貧しさを神域に揺らす
日のゆらゆらの
没陽までの音楽
児すら小さな貧国では。
空に面目なし
森にはある
よってそこから
銛で空の鯨身を抜いた
(とある若さが
赤く聡明にみえて、
金属が周りを娶り
続々と箔になってゆく
(真向かう眼には
娥のごとし
厭だ厭だ
回収して歩くつもりが
やはり佇っている
鮫香るなか
暮れる尾長の気配に
わが水分一斗が
浅くふかく
玉を獲られて
詩集、完成。
はじめての詩集、完成しました。
『昨日知った、あらゆる声で』(書肆山田)。
今週半ばくらいから大書店の詩書コーナーにも
並ぶんじゃないだろうか。
書肆山田の詩集らしい落ち着いた装丁。
四六判というのはやはりいい。
掌上に乗せると小さな花になる。
そんな形容に相応しい「女性性」が装丁には確かにあって
同じ版元による小池昌代さんの名詩集『地上を渡る声』、
そのはにかみ屋の妹のような顔立ちもしている。
栞文は藤井貞和さんと小池昌代さん。
非常に嬉しい文だったと以前の日記に書いた。
オビは臙脂色ではないかと予想していたのだけど
茶色にちかい色。
紙質と相俟って
書肆山田のつくった文案が和紙調に暈けている。
秋色だ。それやこれやで「吾亦紅」を連想した。
何回か読んでみる。
各詩篇はもう半年以上前につくりあげたものなので
ところどころ、へえ、これ自分が書いたのかという
「他者の感覚」がある。
自分で書いたものを読みなおすときは、
こういう感覚がつきまとわなければならない。
自分自身の狭隘よりも、「遠い恩寵」のほうを体感するほうが
自己確認の際には嬉しいものなのだ。
こうした幸福にちかい齟齬があって
達成感に足許をすくわれたり目くらんだりする弊害からも
するりと逃れられるのだとおもう。
この詩集は速読可能、よって再読もしやすいと
自分では考えているのだけど、
編集に骨を折っていただいた書肆山田の大泉史世さんは
じっくり読むことをしいられる、と最初おっしゃった。
むろん詩集は、読了に時間がかからないものが一番だ。
それを決定するのが「リズム」。
やがては大泉さんも、こないだの電話で語っていた。
集中とりわけ詩篇「めらめらしてる」の音が好きで
鈴木一民さんと事務所で音読をしあっている、という。
二人のご老体(失礼)のつつましやかな競演。
この微笑ましいエピソードが、すごく嬉しかった。
書肆山田の詩集作成に当たっての精神性も伝わってくるし。
何回か読み直してみて、
論脈をつよく組織せず、飛躍に向かった言葉の隙間からは
そのかぎりで「声」が伝わってくる、という感触があった。
だから詩行の運びもそのまま歌の流れのように実質化されてくる。
たぶんそこが、僕の詩のいちばんの特徴だろう。
土曜日、明学の朗読会のあと
森川雅美さんと新宿・花園神社近く、
お婆さんがやっている小ぶりの飲み屋に行って話しあった。
森川さんは、僕の詩は引用など仕掛けも多く、
喩形成も複雑で、読解や言及には真剣な注意がしいられるという。
それはそれで敬意のしめされた嬉しい評言なのだが、
「速読再読」をこそ繰り返してくれればいいとおもう。
そうすると「馴染むもの」「空白のままに置き去られているもの」
さらには「詩篇に潜む私」「私にあらざる私」などが
意味以前の感覚として立ち現れてきて、
読解も立体化してくるのではないか。
たしかにどの詩篇も手早く書いた。
だから思考の癖がそこには瞭然としているだろう。
僕の個性が世界内でどう有機化されているのか、
それは書かれたときの早さと同調する読みの早さからこそ
判明してくる事柄ではないか、とおもう。
むろん詩集は読む時間とともに、空間をも一瞥のなかにつくりだす。
テクストと編み物の語源的一致というのは日本語にもある。
詩集を「編む」というし、何より詩集は刺繍と同音なのだ。
書物愛はそういうテクスチャーの、換言できない物質性に
眼どころか躯まで洗われる喜びのなかに灯りだす。
詩集を掌上に乗せるときに働く「勘」とは
そんな運動をあらかじめ先取りする知見の謂だ。
だから書物は美しく、慎ましい表情をしていなければならない。
詩が好きな書肆山田はこの機微を知悉している。
●
【目次】
五月の義
It makes no difference
対話篇
連祷を拒む十五聯
へちまが見える
昔 梨の花林を通過して
今日からの長い返盃
藍
昨日知った、あらゆる声で
車窓詩の試み
めらめらしてる
時の増殖
あとがき
●
こう目次をしるしてみて、以前からのマイミクさんは
「あ、あの詩篇が収められたのか」と確認するだろう
(実際はその多くが少し短縮されている
――申し訳ありませんが、みな日記欄から削除しました)。
そう、収録詩篇の初出はすべてmixi日記。
『僕はこんな日常や感情ができています』(晶文社)が
ブログ本だったように、この詩集もブログ詩集なのだった。
だからブログ詩とは何かのメタ考察にも導かれるとおもう。
定価2000円+税。
●
先週末はすごくバタバタした。
大泉さんから贈呈者リストの作成を促がされ徹夜で作成
(相談に乗っていただいた小池さん、森川さん感謝しています)、
その前後で詩集が到着、
翌日には出来上がった詩集を鞄に40冊ほど詰め込み
ギターも抱えて明学の朗読会に向かった。
これと早稲田学生からのレポートメールの受け取りが重複した。
【朗読会そのものは夢のように終わった。
十五分の持ち時間。
じかの音楽演奏を伴う唯一の朗読だったから清新に映っただろうが
最初の詩篇朗読は噛みまくって失敗
(三村京子さんとのギター合奏もタイミングが滅茶苦茶だった)、
二篇目から少し調子も出たけど、
こちらもギターの即興演奏がやはり練習とちがい空振りに近かった。
三曲目、三村さんの歌唱・ギターを
僕がサポートした際には最初のミキシングバランスが悪く
三村さんがマイクに近づき、僕がマイクから遠ざかった二番から
ようやく歌の本領が発揮されだした。
もう一曲、「みんなを、屋根に。」という新曲については
三村さんとユニゾン歌唱で披露しようとおもったけど
こちらは時間切れでお蔵入りとなってしまった。
終了後、小池さんは僕の声を褒めてくれたけど
やっぱり僕には朗読が向かないなあ(詩の質も滑舌能力も)。
こんご詩のイベントに呼ばれることがあれば
ただ唄うだけにしようか、ともおもう(あれば、の話だが)。
朗読会の打ち上げにいらした中年女性の面々も
歌はすごくよかったと口を揃えられていたし。】
●
さてマイミクのみなさんにお願い。
今度の詩集の寄贈は「詩を書くひと」にほぼ限ろう、
と考えています。
これはしょうがないこと。
詩集は贈呈されても、迷惑とおもうひとも多いとおもうし
僕自身、自分の詩集は、やはり敬愛する詩作者、
その詩精神とこそスパークするものになってほしいと願っているし。
逆にいうと、今後詩を書くだろう「暗数」については
いまのところ対応ができない。
ですので、興味をもたれたかたは
ぜひ書店で手にとっていただき、
ピンときたらご購入を、と懇願するしかありません。
詩集を出すのには費用がかかる。
僕の家にはいまこの詩集が数多く「在庫」されているのだけど、
これを僕は手売りして、そのことで
次の詩集を出す費用を捻出しなければならない。
学生の皆さんにも、この事情を知ってもらい、
買っていただくよう働きかけてゆくとおもいます。
明学の会場で最初に僕の詩集を買っていただいた
三村京子さん、依田冬派くん、明道聡子さん、どうも有難う。
それから面識のないまま、頁を少しめくっただけで
不見転買いをしてくれた名前も存じ上げないかたにも。
それから差し上げようとおもったのに、
さらりと買ってくださった渡辺めぐみさんにも感謝。
そういう善意に支えられ、
この詩集は今週半ばから地上へ航海に出ます。
なかなか書店で見つからない場合も多いとおもう。
今週末には僕のサイトに
メールでの購入申し込み方法もしめすつもりでいます。
廿楽順治・みじかい
廿楽順治のネット詩集『くっている』
http://www.tsuzura.com/kutteiru_tsuzura.pdf
には前回の日記にアップした「ねている」につづき
「東西」を主題にした奇妙な詩篇がまだある。
「みじかい」がそれで、一読、「物凄い」詩だと讃嘆した。
以下――
●
【みじかい】
廿楽順治
おどろくほどみじかいひとが
まがって
ぎらぎらとしていた
かかとから首まで
どうしてあんなにみじかいのか
(死んでいるのである)
馬をちゃんと食べてこなかったからだ
考えていることもたりない
おどろいた
きもちが青いままとどいていかない
あぶら
がながれてしまっていた
手がすべって
みじかいひとがつかめないのだ
(柿でもくっておけ)
東と西のあいだも
すこしみじかくなっていた
ひとがばらばらになってもふしぎではないが
そう
はならない
そんなにあわてて政治がひかるかよ
みじかいおじさんが
急にぶんれつしてふえた
(ああ)
たべた馬のあぶらがおもいだせねえ
●
どうして詩行の運びと言葉づかいが
これほどヤクザなのだろう(笑)。
もう嬉しくてしょうがない。
この詩篇をまた分析しようとおもったのだが、
今回は趣向を変え、これに触発されるまま
吐き出した句を下に披露することにした。
詩は25行。僕がなしたのは十句。
つまり、廿楽詩の五行から二句をひねった計算となる。
●
【短人】十句
阿部嘉昭
短人のあぶら帷子世をうごく
角まがるたび腑分けさる身の列島
踵へとからだ縮めし良夜かな
馬喰が群なし燐を啖ひをり
手すべりを地滑りにして扉推す
真青なるきもちよ柿を掴む天
東西や月は南も短かうす
政治よりひかる薄のこの辺り
短人の師走訣れもほしいまま
馬油あるわたくしの夜朽ち果てて
●
妙な句をつくったものだ。
廿楽さんが悪い(笑)。
もうひとつ、玉川さんから送られた「未定」最新号も
すこしまえに読んでいて
相変わらずの「狂犬」ぶりに接した読後ももたれた(笑)。
とうぜん嬉しさで、「もたれた」のだが。
午後になると詩集が書肆山田から届く。
明日の練習するには気持も落ち着かず、
ふと以上のような遊びをおもいたったのだった。
多謝(――って誰に?)
そろそろ気を入れ替えて
期末レポートの採点でも、しようかなあ。
廿楽順治・くっている
廿楽順治がネットに詩集をアップした。
http://www.tsuzura.com/kutteiru_tsuzura.pdf
詩集『たかくおよぐや』を上梓したばかりの彼だが
驚くなかれ、これはそれ以後の近作を集成したもので、
詩集タイトルも『くっている』という
人を喰ったようなタイトルだ(笑)
(実際に無気味で不可能な人肉嗜食のイメージも間歇する)。
ネット詩の軽視が詩壇では続いているが
(そうしない、と宣言した久谷雉の「詩誌月評」ですらそうだ)、
廿楽さんのこの挑戦をまずは果敢と喜びたい。
廿楽順治の詩は無気味で、かつ可笑的だ。
悪態も瞭然としているが、元手にしている幽黙が
彼の人生(人世)の深いところから取り出されている。
ただし詩集が出続けると、第一詩集『すみだがわ』段階では
「突然変異」だったものが(それらは「廿楽調」と呼ばれる)、
少しずつその秘密を解いてゆく仕儀ともなる。
改行が彼の詩の根幹という点はいまさら言及を要さないだろうが、
その改行法則はたぶん、
多数性とズレの生成にこそ最も多くを負っていると気づく。
●
【ねている】
1 鏡のことをかんがえた
2 ひとであるか水であるかがみえてこない
3 背景の方にすてられた集団だった
4 うつった うつった と夜までさわいでいる
5 横になっているものがどうやって
6 かたむいた東西をわたるのか
7 (ひとりひとりの味などかまっておれぬ)
8 ねているものの骨をしつこくなめていたら
9 急におれだけがその鏡にうつったのだ
●
たった九行の冒頭詩篇。主語の変転が異常だ。
一行目、省略されている主語はとうぜん法則からして
主格とならざるをえないが、
三行目、文法規則を破り省略されている主語は
抽象的三人称itだ(つまり詩篇は主語省略文の連続において
掟破りを敢行することから開始されている)。
「意味」は遡及してゆく。
二行目、《ひとであるか水であるかがみえてこない》は
その前行の「鏡」に遡及し、
この「鏡のことをかんがえた」主体は
鏡が「ひと」か「水」かをかんがえあぐねていることになる。
それにしても――鏡と水の連関は
コクトー『オルフェ』を引き出すまでもなく想像の定番だが、
鏡に人性を観る感覚の危なさが早くも主題になったと見るべきだ。
冷たく、ただ反射を習いとするだけの鏡に
ひとの温もりや運動の不形性を見るなら
その感性には狂気と呼ばれるものが混ざっているはずだ。
廿楽順治の修辞は意図的に乱暴で、それにより
三行目「背景」が空間的な多義性をもちはじめる。
語られた鏡に、鏡像はあらかじめあるのか。
鏡像内の背景というなら、四行目、その背景を形成する「集団」は
詩篇の「こちら側」では最も手前=読者の位置にいることになる。
おそらくその集団と鏡のあいだに詩の主体「おれ」(九行目)が
定位されることになるのだろうが、
その際の鏡像を考えてみると、
そこからは「おれ」と「集団」の不分離も印象されだす。
ただ《背景の方にすてられた集団だった》には不如意があって、
集団は、歴史の最前線に前面化しない不遇をかこっているのだろう。
それが「うつった うつった」と「夜までさわ」ぐのなら
(そこに無気味なものの「滑稽」への転位がある)、
彼らには死者であるか何かでもともと鏡に映る資格もないのだ。
ただし「背景」が鏡の物質性自体の背景を表すというおもいもある。
鏡は硝子と裏箔の合致によってつくりだされるが
(この「合致」感がこの詩篇にないのが妙だ)、
その裏箔の位置にこそ「集団」が潜んでいて
彼らの鏡面への可視性は、いわば鏡面の内破から生じていないか。
そう考えて、単純加算により順接で進むべき詩の位相性が混乱する。
●
ともあれ以上、1-4行目は、
主語省略の文に錯乱が仕込まれていると理解すれば可読的だが
ならば5-6行目の深甚な「脱臼」とは何か。改めて転記する。
5 横になっているものがどうやって
6 かたむいた東西をわたるのか
「横になっているもの」は集団を指すのか
「鏡のことをかんがえた」主体を指すのか。
しかもそれは鏡面に映った姿が横になっているならともかく、
それまで言及されなかった第三の主体が
鏡像のなかに横になっているとも捉えられ、
読むことの同定性がここで一挙に剥奪される。
東西は空間的には「横」の形容と馴染むが、
かたむいた東西などありえない。
「ありえない」から、第六行の疑問文も成立するのだが、
むろんそれは唯一、鏡面の置かれ方と
主体の位置関係においてのみ「ありうる」。
「東西」という言葉が罠だ。
東西は、かつては共産圏と資本主義圏の対立の方向性、いまなら
東洋と西洋の対立の方向性を視野する用語として馴染むだろう。
むろんこの点の手がかりとなる言葉など詩篇のなかにない。
ぶっきらぼうに投げ出された詩句が、謎となって魅惑を発するだけ。
しかも第二の遡行が起こる。
六行目の「わたる」の動詞の運動性が既読領域に作用して、
四行目の「うつった うつった」が
「映る」の意ではなく、「移る」の意ではないかと考えはじめるのだ。
空間は傾いていようがいまいが、今や「東西」に開けている。
そこを「わたる」もの、「移る」ものは季節推移に則った
渡り鳥的なものではないか。
鏡がそれを捉え、しかもそれが鏡を語る身の背後にあり、
なおかつ、それが死後の鳥のように元来は鏡に写らず、
規定となった空間軸=東西も病んで傾いているというなら、
もはや鏡について語りだされたこの詩篇は
「鏡において」空間が破砕されているというしかない。
●
そうしてお馴染み、廿楽詩の特徴、丸括弧に挟まれた一行、
(ひとりひとりの味などかまっておれぬ)
が第七行目にくる。
丸括弧は「内心の声」を挟んだものと当初受け取れる。
「ひとりひとり」とあるからには、複数性が内包されていて、
それを詩篇内の言葉で探すなら指示対象が「集団」となるしかない。
いずれにせよ、鏡のなか=かたむいた東西を飛翔する
季節を「わたる」(渡る=渉る)集団がいて、
その個別の味には拘泥しない、と詩の真の主体は嘯いているのだが、
三行目、「背景の方にすてられた」集団には
いつの間にか東西を動く運動性も付与されていることになる。
(ひとりひとりの味などかまっておれぬ)が暴言である点に注意。
個別の差異性がここではのっぺらな無差異性に化けている。
どれを喰っても同じ味だ、とは、存在への呪詛なのだ。
しかも「味」の陰に潜む動詞「喰う」は
(ただし「くっている」という詩篇はこのネット詩集内に別にある)、
食餌行為を当面は前提しながら、その深部では性的体験も暗示する。
個別性に惹かれながら実際に事に及べば
その同じような性器・陰毛などに辟易し、
差異体験であるべきものが同一体験へと脱色されてしまう――
そんな現代的不能がこの丸括弧のなかの呟きに混入していないか。
ただ、渡り鳥に冠されるだろう、そのまえの《東西をわたる》には
実際には救済を導く痕跡のようなものがある。
季節推移に生きるものの同質性には
いわば神の位置から逆算された普遍的等質性が感知されて、
(ひとりひとりの味などかまっておれぬ)は
(ひとつひとつの内実は神前では等質だ)にも転位するのだった。
●
8 ねているものの骨をしつこくなめていたら
9 急におれだけがその鏡にうつったのだ
そうして詩の終結部が上記のように訪れる。
これは「つけたり」というか
事後的に詩篇についた跋文に相当するのではないかとおもった
(廿楽詩のいつものように行アキがないが)。
鏡を媒介にして「位相」混乱を体験した詩の主体が
「同時に」何をしていたたが開陳されている、とみる。
彼は「ねているものの骨をしつこくなめていた」のだった。
とすれば初めて詩の「時間」が夜にあった点が
虚言ではなかったともわかる。
この「なめていた」は前行の「味」から導きだされてもいるだろう。
主体の身辺に「ねているもの」は主体の家族と印象される。
むろん白骨化しているのではない――
主体はその躯の真髄に迫りえて
「骨」=もっとも個別差異の少ないもの、を
「しつこくなめている」のだった。
つまり(ひとりひとりの味などかまってはおれぬ)は
連句のように前行(句)と次行(句)の双方にかかっている。
そうでいて、最終行でさらなる破裂が起こる。
《急におれだけがその鏡にうつったのだ》は
「裏」をとれる詩行だった――こうなる。
《鏡面に映っていた有象無象の一切が消え、夾雑物も払われ、
その最終的背景に位置した「おれ」の
姿だけがぽつねんと残されたのだ》。
このとき付帯的な恐怖も宿る。
前行で「おれ」は「ねているものの骨」を「なめていた」はずだが
その「ねているもの」の姿もここで一切掻き消えているのだ。
あるいは彼らは「寝る」という生理反応をしつつも
本当はすでに「骨の領域」にいて、
鏡像反映性すら奪われているのかもしれない。
詩の主体はもともと死者と暮らしていたのか。
しかしそう「書く」ことで詩の主体は家族殺しを敢行しているのだ。
●
このネット詩集『くっている』には共通の図版がつかわれている。
先のアドレスをクリックして確認してもらいたいのだが、
それはコンピュータ作画したバルーン(マンガにおける「ふきだし」)、
もしくは可笑的な霊魂のようにみえる。
廿楽は扉位置であれ、余白であれ、すべての詩篇に
このバルーンを介在させて倦まない――そんなレイアウトを選んだ
(バルーンと丸括弧独白の共通性)。
これはそれ自体が実体であり、シミュラクルであるもの、
存在の虚実を媒介して虚実の境を無化するようなもの――
クロソフスキー詩学(哲学)におけるダイモンではないだろうか。
これが詩篇内(間)に猖獗することで
廿楽詩篇はバラバラに砕けながら、一体化を結果している。
差異と無差異の区分を云々する無意味に突き刺さり、
ただ詩篇の運動の渦中、刻々の現在形をこそ愉しめ、
という命法(エンタテインメントな命法)だけを前面化してくる。
この点で廿楽詩が連句に接近しだす。
「鏡」を主題にした「ねている」だから
クロソフスキーの『ディアーナの沐浴』を想起したのではない。
言葉のダイモン(守護霊=主語霊)はあらゆる言葉の隙間を
めまぐるしく旋回して、論理の位相を突崩しつつ
詩の進展原理とさえなっている――
これは廿楽詩においては第一義的なことなのだ。
詩篇「ねている」でいえば、タイトルにまでズレがわたっている。
この詩篇の根幹の動詞は「ねる=ねている」ではなく、
以上の僕の読解からいえば「うつる」か「わたる」、
最低でも「かたむいている」だという点は自明だろうが、
天邪鬼の廿楽は、仕込んだ罠の上方にいて
読者がとりもちにひっつくのを観ようとするのか、
「ねている」のタイトルを選択している。
●
ひとつ実験を――。
廿楽詩篇はその行加算に一旦施された腑分けと再構成の痕跡がある
――その証明を以下にしたいとおもうのだ。
●
再構成版【ねている】
8 ねているものの骨をしつこくなめていたら
9 急におれだけがその鏡にうつっ【て】
1 鏡のことをかんがえた
4 うつった うつった と夜までさわいでいる
3 背景の方にすてられた集団【もみえたが】
7 (ひとりひとりの味などかまっておれぬ)
5 【おれ以上に】横になっているものがどうやって
6 かたむいた東西をわたるのか
2 ひとであるか水であるか【すら】みえてこない【やつらだ】
●
若干の加筆を施し、詩行の理路も整えるように
(それでも充分に変だが)並びかえてみると
意外に詩想がすっきりと迫ってくる。
こういう作業を誘惑しているのが
もともとの詩行に仕組まれた「脱臼」であって、
詩篇が無差異な詩行の並列、それに加え
その偶有的な編成に負っていた点は
こうした作業からも明らかになるとおもう。
しかも、行をこのように入れ替えて、
「ほぼ」詩篇の意味が変化しないのだった。
これと同等の組成をした芸術作品を人は即座に名指せるだろう
――キュビズム絵画だった。
●
すると僕は、廿楽詩が
再構成できる余地・不足を孕んでいるといいたいのか――ちがう。
廿楽詩は、異物にぶつかった驚愕によってまず現れているのだ。
そして行加算の脱臼もまた、彼の個性的な声を動因にしている。
ただその声は見事に一行単位であって(ポリフォニー)、
だから声を連続させている素地を捉えようとして
読者が行き迷う点が肝腎なのだとおもう。
それは肉感的にみえて、「韜晦の声」だ。
彼の含羞のポジションがそのような声を発しているといえるだろう。
それでも「声」は行の末尾変化において整えられている。
「た」「ない」「だった」「いる」
(一行おいて)「のか」「ぬ」
(一行おいて)「のだ」。
現在形と過去形の、否定形と肯定形と疑問形の、語尾単位での刺繍。
そして最終行末尾の強調。
しかしその強調は、余韻形成ではなく
「エ、これで終わり?」という衝撃付与だけに貢献するようだ。
むろん声の質は平易な言葉のみで詩篇を組織し
そのことによって、言葉の原型の肉感を露出しようとする営みから
勘案されるものだ。
廿楽詩では漢語(音)も限定される――
この場合なら、「背景」「集団」「東西」「急」しかなく、
それらが誤聴を招く語でない点も一目瞭然だろう。
●
ああ何ということだ。
冒頭詩篇だけを吟味して、すでに予定の文字量を使いつくした。
僕の書いたのは「導入」にすぎない。
以後の各論、あるいは詩集の全体像は、
http://www.tsuzura.com/kutteiru_tsuzura.pdf
に当たってもらうしかない。
しかし廿楽さんの詩を相手にすると
どうしていつも同じ事態が引き起こされるのか
(『たかくおよぐや』も一篇解説で詩集評が終わってしまった)。
それだけ組成が豊饒な解読誘惑に富むということだろう。
お知らせふたつ
ついに初めての「詩の朗読」を
ご世間さまに披露することになりました。
今度の土曜日です。
詳細をまず明治学院大学のHPから貼ります。
●
■ポエトリー・リーディング■ 現代詩に声を取り戻そう 第7回
2008年1月26日(土)
14時30分開演15時~18時
主演:
阿部嘉昭 石井辰彦 石井睦美
イナン・オネル 小池昌代 杉本真維子
ねじめ正一 東直子 平田俊子 四方田犬彦
主催:明治学院大学 言語文化研究所
明治学院大学白金校舎パレットゾーン2階アートホール
★入場無料 予約不要 直接お越し下さい。
問い合わせ:明治学院大学言語文化研究所 tel:03-5421-5213
★明治学院大学
http://www.meijigakuin.ac.jp/
〒108-8636 東京都港区白金台1-2-37
交通:南北線「白銀台」「白金高輪」都営浅草線「高輪台」下車徒歩7分
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ということで錚々たる面子です。
そのなかに混じって
なぜか若輩の阿部も恥態を晒すことになりました。
たぶん小池昌代さんが推挙し、
四方田犬彦さんが歓迎したのだとおもう。
一部に知られているように
実は阿部は「滑舌ヤバイ子ちゃん」。
早口だし、言葉も溶ける。
思考マッハで喋ると、とくにそうなる(笑)。
で、リズムキープの必要を感じ
当日はギターをもって登場する仕儀と相成りました。
惻隠の情を感じた三村京子さんも
ギターサポートしてくれる。
相互に、「パターン」を弾く、とおもいます。
三村ファンもぜひいらしてください
(その三村さんの新アルバム『東京では少女歌手なんて』の
CDジャケット用スタジオ撮影が本日、無事完了しました)
阿部は今月出る詩集『昨日知った、あらゆる声で』(書肆山田)のなかから
数篇を読みます。読むであって、叫ぶではないとおもう。
ただどうすべきか、まだこの段階であまり考えてません。
その『昨日知った、あらゆる声で』はたぶん
この詩の朗読会で世の中に初お見得となります
(書肆山田のHPに
まだ書影なし状態の近刊案内としてアップされました)。
●
お知らせ二個め。
詩の愛好者のためのSNS「なにぬねの?」で展開していた
歌仙「俳諧うすらひノ巻」が
36句のやりとりをこのほど目出度く挙がりました。
「解酲子」さん(倉田良成さん=捌き)、
「蕃」さん(水島英己さん)、「樫男」(阿部嘉昭)という連衆。
絢爛で破天荒で、しかも書き込み欄にしたやりとりもすごく面白い。
今年の一月はこの知的ゲームに本当に夢中になり、
途中からは真剣に連句の勉強もしはじめました。
いまご連衆のかたがたと
やりとりもふくめ
どうやって広くネット上のお披露目するかを思案中。
どうぞご期待ください
(「なにぬねの?」ご加入のかたは
当面の詳細を「解酲子」さんの日記で確認できます)
白蛇
【白蛇】
阿部嘉昭
御意。可変がこの命にあたえられた
その前に這うことを 泳ぐことほど
速くするよう己も呪いつくした
可変が宿命。だから私が泳ぐと
その沼がするする一個の空とほどけ
「龍が消えるまで」の留保もつきだす
御意。縛られるのを忘れた紐だった
ほどけ間違って裸のイヴのまえに
ぶらさがった慙愧が以後敗史となった
単純に単純な一条であること
この誓いの清清しさのために
私の手足が野に億万隠れて。その残余は。
御意。これより私のなづきを謂うな
眷属を知らずして白く霞むそれは
名も残らない名残、電の棲処にすぎぬ
複数か単数かもわからぬその場所を
躯の尖端にもつことの戸惑い新た
そこから伸びる舌もだから焔を真似る
御意。川の象形ということか
数千で崖を下ればそうなるだろう
茎のうえに憂いほどけずして
身を音楽に 羽虫を誘うこともある
逆さになって樹の幹へ春の鞦韆をつくり
胡蝶をさみしさで喚ぶことだってある
御意。書き忘れられたこの身だから
野に周回の恨みをただ書こうとして
字が無意味に地平までも流れてゆく
静かな草書だろう、降雨のあるまでは
女文字のひらがなの息吸いだろう
煙に似ていると謂うか――謂うな。
御意。醜い蠕動が習いとなったが
この蠕動は前進にも遊泳にも適用される
身を縮めて伸ばすだけ――滑りも加え
それがなぜ書字より進むかは運動の謎だ
中身なき運動に再帰や悔悟がただ織られ
私は前進が退屈で仕様がない。でも彼岸へ。
御意。動けば身が侵略になってしまう
見えない音楽に沿いその音楽すら喘ぐのだ
野に地に、音楽線が所与としてある
沿うことが一体なにの二重化なのか
声も身にあるのか しゅるしゅるうるさく
それは蠕動の間歇音にも満たないだろう
御意。歓喜は光集まった末の眼の退化から。
鱗なす膚が剥き出された腑よりも鋭敏で
地を無限に触覚した差異だけが記憶だ。
私は尖端の脱自としてつねに悦び動き
春の内部すら深く困惑させるが――さて、
鎌首の反りだけには攻撃の美も冠された
御意。鱗状に砕け 眺めを喪った分節の内に
矛盾の脊椎が一本貫き それが要塞だった
多数のちいさな弓手が鉛直からの光線を感じ
矢を おぼろの天心に噴こうとしている
むろん矢は継ぎすらもなく身内で折れて
蛇のうからは窪地で知れず散乱を模倣する
御意。大いなる足に踏まれた栄光
野に溶けないまま終生を全うして
蛇のうからは星型の静止に晒される
身の触覚は地へ静かに解放されて
輝きを失ったむかしの鱗のなかから
お前の好きな「世界」が分岐する
御意。それまでを それまでが往く
一身の長さ、定めとはそういうことだ
御意。御意。御意。刀身であり
獣よりも鏡である私とはそういうことだ
私をまだ盗んでいないのか、私は世界に
悪知恵を授けようとして――もう死ぬだけ。
●
「アンソロジー」部分を打っ棄って読まないままでいた
『現代詩年鑑2008』を今朝がた読了した。
幾つか惹かれる詩篇があったが
とりわけ高岡修さんの「脳の川」に戦慄した(詩集『蛇』所収)。
詩集名どおりに蛇が描かれていて
僕の上記の詩篇はそれに触発され、
蛇からのアンサーソングとして書いたものだ。
三村京子が詩誌「酒乱」のため
「私」が主体ではない歌を論考しようと
四苦八苦しているらしく
その範例提示という狙いもある。
ともあれ、また動物詩を書いてしまいました。
公平を期すため、高岡修「脳の川」全篇を
下に転記打ちしておきます。
素晴らしい詩篇だよ
●
【脳の川】
高岡 修
どんな川よりも青い川が
蛇の脳を
流れている
蛇の這った跡が
ことさらに青くけむるのは
蛇の脳を流れる川の色に
野が
にじむからである
どんな川よりも青い川が
蛇の脳から
流れ出ている
どれほど遠くへ
こころを遊ばせようと
蛇の脳を流れる川の色を
野は
出ることができない
頭上の空の売り方
喪なった四肢の爆発音
そこだけ原罪が匂い立っている場所
うつろのうろこ
蛇とは
野に溶けえざる一条のめまいである
世界はまだ
その一条のめまいを
盗めない
切通君が文章を送ってくれた
切通理作君が、明日1月18日(金)、
新宿ジュンク堂でのトークショーのレジュメともなるような、
学会発表草稿を昨日、僕にメールしてくれた。
鎌田東二さんらが参加されているモノ学会でのもの。
「レジュメ」とおもわず書いたが、論旨は緻密、分量も重厚で、
かつ切通君らしい、スピーディな「連接」で全体が運動している。
襟を正して読んだ。
18日の対談内容の主軸になるだろう「不如意」への考察が
全体の土台となるように論旨が進んでゆくけれど、
まずは人間の身体器官のなかで不如意の軸となる
「眼」に切通君の観点が集中してくる。
そして川端康成のいう「末期の眼」に注意が促がされる
(その後も川端の視覚を中心にした感覚の凄み・特殊性を
切通君はその小説細部から検証してゆく)。
――眼がなぜ不如意なのか。
切通君の論旨に斜めに上乗せするような自分の意見を
ここではまず書いてみよう。
1) 眼はたぶん自分の世界内位置を知らせる最初の感覚。
2) ということは、眼は世界内位置を単純にしめす自分の身体の
いわば「影」のなかに入っていて、自在性をもたない。
眼が十全に「見えない」ということは
自分の身体が視覚を縮減しているためだとも換言できる。
3) しかもその眼は他の知覚からの「反映」すら受けてしまう。
聴覚によって視覚が不能になる例を僕は
『僕はこんな感情や日常でできています』に書いた。
フェリーニの映画を往年の名画座で観ていたときの経験。
ニーノ・ロータの音楽が画面に響きだすと
映画字幕が読めなくなってしまったということ。
あるいは自分の性交相手の、恍惚に霞む眼が
自分をふくめた何も見ていないと知るときの
対象の美しさと、対象からの戦慄とは一体何なのだろうか。
4) 眼は自己の情緒の反映も同時に受ける。
たとえば空にある雲が瑞兆か凶兆かなど
そのときの情緒によって変わる。
事が「雲」ならば大過がないかもしれない。
それならば、眼前に裸の女が横たわっていたらどうだろう。
その女と性交すべきなのか。
それは「存在の選択」が不確かなものによって
常に恣意的に左右される「不如意」を表していないか。
こういう局面では「不如意」は情緒に集中しているのだが、
判断器官=眼にたいする負荷が現れていると換言してもいい。
5) 以上、眼の不如意は器官的な自立性が心許ない点とも表裏だが
それは眼から受けた感慨が身体に必ず還流してきて、
眼によって眼の土台、「身体」が刻々、再規定されるためでもある。
自己の眼と自己の身体は
かくれんぼをしながら追いかけっこをしているようなもので、
結果、眼は身体の刻々の移動によって感知する積分要素を
自分の躯に蓄積していって、
眼が身体を世界内定位するという大前提がその実質面では
刻々脱定位されてゆく事態を逆証しているのだとおもう。
6) 川端康成の「末期の眼」は身体の一回性と世界の表れの一回性、
それら二つを最も緊張感をもたらす位相ですり合わせ、
身体の一回性と世界の一回性に
人間の限界を超えた「憐憫」を生じさせる契機だとおもうが、
これらが同時に語られていい機縁は
眼が身体と分離できず、身体が世界と分離できない、
それら諸点から生じていると考えていいだろう。
末期を感じたとき、「自己身体」は澄みつつボロボロになっている。
それは世界が同じ様相をしていると感じるのと同義だ。
ということは、一回性とはいつも、澄みつつボロボロなのだ。
このとき涙眼になってしまうとさらに世界が見えなくなる。
●
三村京子さんの今度出るアルバム『東京では少女歌手なんて』で、
僕の配した歌詞で一回だけ「不如意」が出てくる。「岸辺のうた」。
この歌はデモクリトスの、流れゆく川のそれ自体を
常に人は見ることができない、といったような断言を
性愛に当てはめたもの。「不如意」のくだりはこうだ。
いつものhotel ものすごく汗
合わさる二人が塊になる
いつものhotel 幸せと不如意
やがて二人も静寂になる
存在が最高に達した瞬間、自他の境に
結局は《からだがひとつになれない》不如意が刻印されるとすれば
その不如意とはもう、幸福と同義だということにならないだろうか。
視覚は再考の対象になればなるほど
その不如意性を巨大化させてもゆく。
「あのとき見たものが何だったのか」と自問すれば
自問領域にあるものを即座に人は
「記憶」なのか「視覚」なのか言い当てられなくなる。
僕は映画評論家をずっとやってきたけれど、
自己身体に起源するそんな飢餓を自分の評論の動力にしてきた。
●
視覚恐怖を伝える文芸でぬきんでているのが俳句だとおもう。
たとえば僕は今度の「未定」の提出句で
《家焼いてきのふの空の新しさ》をつくった。
視覚記憶の不如意を端的な言葉で刻印しようとしたものだ。
拙句以上の怖さが盛られた句だっていくらでもある。
《晩涼に池の萍[うきくさ]みな動く》(高浜虚子)
《草二本だけ生えてゐる 時間》(富澤赤黄男)
《枯萩にけむりのごとく女立つ》(赤尾兜子)
これらでは「不如意」文学たる俳句の不敵な面目が現れてもいる。
●
送ってくれた文章のなかで切通君は
坂口安吾の短篇「青鬼の褌を洗う女」に触れている。
世界が同時的な郷愁にあふれていて
自己身体の輪郭が消失するまでの感慨に至る女の自己史的述懐を
安吾が一人称でずっと綴っていった名篇だ。
女は自分の性格がルーズなのを知っていて、
だからこそ暴君でどことなく淋しさの面影ももつ
青鬼とも擬されるような男に身を預ける。家事に励む。
このとき「退屈」が「郷愁」と絡まって積極価値に変じてゆく。
切通君が書いてくれたものに自分なりの補足をつけるとすると
これは安吾が結婚した三千代に「成り代わって」書いた
憑依型の文章だった。
読んだ三千代はだからギョッとするが、
あまりに自分が「言い当てられていて」、以後を呪縛される。
その証拠に三千代が安吾を追想した『クラクラ日記』では
まさに「青鬼の褌を洗う女」と全く同じ文体、主体の思考が
採択されているのだった(何という崇高な不如意)。
安吾についに殉じきった三千代の凄みを感じてしまう。
僕が三村京子さんに歌詞を提供していいとおもう根拠は
少なからず、この安吾-三千代の事例に関わっているかもしれない。
三村さんに成り代わって僕が歌詞を提供する。
やがて三村さんは、そこから自身の歌詞を立ち上げはじめるだろう。
僕に影響を受けたことの根本的「不如意」は
その「不如意」を貫徹することで積極価値となり、
しかもそこに自分のオリジナリティが忍びはじめる。
三村さんの歌詞をつくる僕は明らかに「中性化」している。
対して僕の影響のもとからオリジナル歌詞をつくる彼女も
自身を「少女」の枠組を超えて「中性化」する必要がある。
彼女の真のオリジナリティはこの局面に現れるだろう。
それは彼女が女性性の前面化した歌を唄うことと矛盾しない。
こうした「性」の不如意な本質がいまこの欄の読者にも
伝わっているだろうか。
●
視覚の不如意の問題に戻る。
視覚性の不如意が存在の本質を覆うものだという観点を
僕は『僕はこんな日常や感情でできています』のなかでは
収録の「眼鏡の話」という文章で展開した――幼年述懐のかたちで。
切通君がくれた文章はそこにも鋭いスポットを当てている。
主体の見るものが主体をつくりあげる(つくりかえる)。
僕はアッとおもった。
「情緒論」刊行イベントでは僕が出た次の機会に
切通君の対談者として作家の柳美里さんが出てきているのだが、
その柳さんの様子を振り返った切通君の以下の文章が
僕には圧倒性をもって迫ってきたのだった。
●
柳さんがそのときしたのは、こういう話でした。
小学生のときの柳さんは自宅でオナニーをしていました。窓の外では、父親が庭で花に水をやっていました。お父さんがこちらに向かって笑いかけます。柳さんの下半身は窓の向こうには見えません。お父さんからは、無邪気に手を振る娘の上半身だけが見えたでしょう。
そのとき柳さんの方から見えたのは、青空の下のお父さんと、ホースの先から出る水が陽光に照らされて虹を作っている美しい光景でした。
柳さんは、これが自分の原風景として忘れられないと言います。
どうしてこの光景が刻印されたのか、いくつか考えられると思います。
ガラス一枚でつながっているのに、向こう側とこちら側は手を触れられない断絶がある、ということ。その不如意感。
間に隔たりがあるという不如意感と、にも関わらず、その隔たりがないかのように見渡せる、ということ。その向こうの景色は一点の曇りもないほど明るく、綺麗だということ(そしてもう一つ、目を向けるべき要素があると思うのですが、それについては後述します)。
ただ単に景色がきれいだったというだけなら、柳さんにとってこれが原風景になったでしょうか。
不如意感と景色それ自体の美しさが、両方立ち現れていたからこそ、双方がある純粋化されたものとして結晶化した、とでも言えるのではないでしょうか。
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きっと柳さんは自分のみた光景を
安吾「青鬼の褌を洗う女」ラストの女主人公のように
「懐かしさ」の様相で驚異的に現れていると直観したのだとおもう。
同時に、ガラス越しに父親に顔のみを何食わぬ顔で向けている彼女、
その躯がオナニーで「揺れていた」。刻々の偏差を刻む躯。
その躯のもとで、彼女は庭での父親のホースによる放水をみていた。
それは窓越しであったけど、
密かに父親を中心にした光景と自分の躯を「つなぐ」行為だった
――つまり「見たもの」を自分の躯に密接に結ぶ行為だった。
このときこの密接性の獲得のために躯も揺れている必要があって、
その揺れた躯が放水の虹の美しさを「永遠」とみたのだとおもう。
この「永遠」は「原風景」とも「末期」とも呼びかえられていい。
●
切通君はこの後、ロラン・バルト『偶景』から逸話を提出してくる。
その書き出しの文章の美しさ。切通君はそのまま転記しているが、
これも下にペーストしてしまおう。
●
今日は七月七日、すばらしい天気だ。ベンチに腰掛けて、子供たちがよくするように戯れに片目を閉じてみると、大きさの感覚が乱れて、庭の雛菊が、真向かいに見える道の向こうの野原にぴったりと張りついてしまったように見える。
その道路はといえば、のどかな川のように振る舞っている。時折バイクやトラクターが走り抜ける(今ではこれが本当の田舎の物音になってしまったが、考えてみればそれも鳥の鳴き声よりも詩情がないというわけではない。たまに聞こえてくるだけなので、かえって自然の流れを引き立たせ、そこに人間の営みの証を慎ましく刻んでいる)[川のような]その道の流れの先が村外れの一角全体を潤している。
●
このバルトの文は彼の中性的な聴覚性の面目が躍如としている。
視覚と聴覚を分離できない「世界の表れ」=
徴候のように動いている眼前=「偶景」が
そのままそれを感受する者の至福だと語っているようなのだ。
先の柳さんの「世界の表れ」の至福に後続する正しい権利をもつ。
周知のように晩期バルトはエクリチュールを変貌させていた。
評論→(断片的/自己領域的)エッセイ、と変貌を遂げたのち
プルースト的「小説」をたぶん短さのなかに実現しようとしていた。
バルト同様、主人公と目される男は初老の大学教員で、
彼がモロッコでの「少年買い」によって
自分の老残を味わってゆくという――
それが事実ならスキャンダラスな内容。
ところが断章形式で書かれた小説文の体裁が、
その真偽を宙吊って、「老残の〈にも拘わらずの〉至福」だけが
最終的に印象されてきた記憶がある。
それでもこんな衝撃的な細部に小説空間は満ちている
(僕はサイト発表の「これは私ではない」という引用だけの文章に
この部分の抜き取りをした)。
●
ドリス・Aは精液を精液と呼ぶことを知らない。彼はそれを糞と呼ぶ。《気をつけろ、糞が出るぞ。》これほどショッキングなことはない。
●
視覚と聴覚を弁別しない冒頭文章は
この局面で以上のようにすり替わった。
モロッコの熱気がわーんという「顫音」を唸り上げていて
それが男色者=ドリス・Aの言葉に具体化するような、
そんな「翻訳」を試みたバルトの着眼を僕はここに感じてしまう。
それはシャルリュス男爵のソドムの末路を書くにあたり、
執拗にシャルリュスを蜂のさばえなす羽音と結びつけていった
かつてのプルーストの営みに沿うものではなかったか。
バルトのここでの書法は視覚と聴覚を混在させることで、
無効宣言させたあとの「距離」を空気のように実質化することだ
――切通君の考えに接したいまになっては、そうおもう。
そこでは、近さと遠さに弁別すらなくなる。
中性的な愛にとって、この二つを区切ることにさほどの意味はない。
切通君がこのバルトの文章の少しあとに俎上に乗せたのは
川端康成の奇妙な短篇「片腕」だった。
「腕の姿の素晴らしい」少女から老人が愛玩用に
その片腕を借り受け(何と腕は着脱可能だった)対話する幻想譚。
部分へのフェチが不随意的に全体化される愛の不如意が描かれる。
切通君はそこで、老人と片腕の会話を転記打ちしている。
これもペーストしてしまおう。
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「自分はどこにあるの?」
「自分は遠くにあるの。」と娘の片腕はなぐさめの歌のように、「遠くの自分をもとめて、人間は歩いてゆくのよ」
「行き着けるの?」
「自分は遠くにあるのよ。」
●
「遠さ」と「近さ」の問題でいつも僕が取り出すのはベンヤミンだ。
『写真小史』に書かれたアウラの定義はよく知られているだろう。
《そもそもアウラとは何か。空間と時間の織りなす不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである。》
ベンヤミン『一方通行路』の「旗」にはこんな文もある。
《遠ざかるということが、なにか染料みたいに、小さくなってゆく者のなかにしみ透り、かれを穏やかな熱に浸す。》
『ベルリンの幼年時代』の「熱」では以下だ。
《自分に関わりをもつあらゆるものの接近を、まだ遠くにあるうちから眺めたいという好み》
これは僕のテーマでもあった。
この「好み」に失敗して、視覚の現在性が奪われていると
幸福裡に悲傷するのが三村さんの「岸辺のうた」のヒロインだし、
僕の今度出る詩集『昨日知った、あらゆる声で』には
《宝玉をもった手を次第に遠ざけてゆく/この動作に魅入られて痴呆が進む》
という詩句もある(「車窓詩のひとつの試み」)。
この「宝玉」の位置と川端の「片腕」の位置が等しく、
同時に「片腕」にはアウラと複製の弁別を拒む何かがある。
それはたぶん「衰退」や「不如意」によって拒まれているのだ。
●
切通君の文章の緊張に対し、とりとめのない贅言が続いたとおもう。
――そろそろ「まとめ」に入らなければならない。
「近さ」と「遠さ」の問題は、実は日記書きのそれとも直結する。
『僕はこんな日常や感情でできています』中の
蓮実重彦『表象の奈落』書評記事に書いたように、
バルトは必ず習慣化に失敗する日記の不全に愛着した。
バルトは日記に近づこうとして遠ざかる――その繰り返しだ。
遠さ/近さはそのバルトの「運動」に瞭然と現れているが、
同時に、日記書きとは、私が感じた事実を間近に思い描きつつ、
それを「遠さ」へと放擲する試みにほかならない。
だから遠さ/近さが混在してしまい、その惑乱により蹉跌が導かれ、
同時にその蹉跌自体が幸福に転化する作用を演ずる。
「遠さ」と「近さ」にたいし、中性的な立場を保つことが
たぶん日記成功の秘訣だろうが、
バルトはエクリチュールの性差上の中性性に神経を集中していて
それを日記書きに反映させることには無頓着だった。
というか、「失敗」の喜びだけを日記に与えようとしたのだ。
日記が失敗を必然化することに関しては
冒頭、僕が書きつけた視覚の不如意がふかく関わっている。
《眼は自分の身体の「影」のなかに入っていて、
自在性をもたない。眼はそれで十全に「見えない」》。
このとき、日記では自分の近さが近さとして見えないのだ。
これを救うのが、「遠さ」だ。
この「遠さ」を管轄するのが聴覚なのだと僕はおもう。
聴覚はリズムを連打して、その遠さの領域から
「書く躯」にゆるやかに近づいてくる。
この感覚に自然になれば、たぶん「日記」が「成功」する。
この実証がきっと『僕はこんな日常や感情でできています』だった。
「不如意」は当然、「内包」されている。
というか駆動力にすらなっている。
「情緒」がすべてを書かせたと考えるだけでも傍証が可能だろう。
「憧れ」が書くとはそういうことだ。
「渇き」が書く、といっても同じこと。
It makes no difference.
――最後に切通君の文章から、以下を貼っておこう。
●
『情緒論』という本全体でも、僕が93年から書き始めて批評家と呼ばれてやっていく中で普段思っていることを書いてみたんです。世間では「情緒」を配して理性やロジックで語るのがよい批評家とされているけれど、実は情緒とロジックは不可分なのではないか。物事を分析しようとしたり、観察しようとする手前にある自分と世界との関係について、考え直す必要にかられて書いたものです。
しかしこの本は、批評対象が映画や小説といった一つのジャンルだけに留まっていないこともあり、書店のコーナーでもどこに並べられるのか予測できない本になってしまいました。
この本の刊行記念トークショーにも来ていただいた批評家の阿部嘉昭さん(58~)もまた、ジャンル越境的な著述をしている方ですが、阿部さんは拙著について書いてくださったインターネットのmixiでの日記のコメント部分に、こう記しています。
「われわれ」(あえてそういってしまうけど)は
たとえば映画や特撮ものに関わって批評活動を開始し、
その後も研鑽を積んで、
やがてはジャンル特定のできない本を次々に書き出した。
その「動力」になったものが一体何だったのか、とおもう。
一種の「飢え」があって、
その「飢え」と「情緒」に関わる認識が関わっていたのではないか。
つまり「ただの映画好き」「特撮好き」から「われわれ」を解き放ったのが
「情緒」への飢えだったのではないか。[…]
僕の『情緒論』が出てから三ヵ月後に出版されることになる阿部さんの本『僕はこんな日常や感想でできています』[…]は阿部さんがmixiでジャンル横断的にいろいろなものについて書いた文章を収めています。
僕の『情緒論』も、阿部さんの『僕はこんな日常や感想でできています』も、たしかにジャンル特定の出来ない本です。
それはとりあえずは書店の「サブカルチャー」コーナーにでも置かれるしかない。しかし僕たちは、たとえば「アニメファン」「ロックファン」がいるのと同じような意味での「サブカルファン」を意識しているわけではまったくない。否、むしろそういう既成のフィールドを意識するという姿勢とは真逆のあり方として、ただ己の「連接」機能によって対象を「つないで」いるのはないでしょうか。
そうせざるを得ない場所に来てしまったということが、阿部さんの言う「『情緒』への飢え」ゆえだったとするなら、それは、まずはなんに対する飢餓感から生まれてきたものなのでしょうか。
●
この切通君の問題提起に
彼自身と僕の双方が答えることが
1月18日、新宿ジュンク堂での二人の責務となるだろう。
この記事でイベントの詳細が気になったかたは
数回前の僕のmixi記事、
「1月18日、切通理作君とリターンマッチ」をご覧になって下さい。
電話予約の窓口の番号だけ書いておきます。
以下で明日の予約ができます。
03-5363-1300
丹頂
【丹頂】
失地を回復しようとして
田上に丹頂は降りる
はためかす翼が背景におよび
いまし田野も翔ぼうとした
睛の周りに点じられた真紅が
地上に変わらない千年を見据える
あらゆるものが赤かった残欠
補色から補色へ跳ぶ、記憶の正統
さばえ、唸り上げるものに
風景が近づける神を生じて
眩暈とともに頭上も黄金ニ入ル
鶴は翼をさばえなそうとして、
その嘴からは蚯蚓をぽたぽた落とす
災難だった――芹田に芹なくて
翼の匂いから草が湧かないのは。
空に棲むまえが湿地の一族だったのに
空を飛んで全身は冷たく凝血した
罅割れが空の罅割れを長く渡ったあと
片脚立ちしたその全身、鱗の遠近法が
風景を割って出る坂を密かに形づくる
お聞き 空には坂があまたある
わが姓は「空坂」 名は永代なし
人語を超えた語も叫喚でしかなく
遠くと遠くを結ぶ のみどが血塗れ
知るか 沼など空からは穴に過ぎぬ
地軸の傾きを身にべったり帯びるために
二羽で墜落を遊戯することもあるのだ
季節を統べる驕りはこの地軸感知による
あるとき地平に季節種が一斉に出て
その一種にしかないことは、事後の何か
翼の熾す孤独な電流に空が染みて
その影のもとにしか人間も頭もない
ささくれて天と謂えばいいのだろうか
天に八岐もあると告げればいいのか
翻意を洩らすまえに灰を帯びた双つ翼は
あらかじめ今生の身に別れていて惨憺
空に飛び出しわさわさする身に罅が入り
その亀裂が 風の遊び入る浮力となる
この姿が一個の懇情などと高を括られては
やがて雷鳴ニ入ラントスル矜持がすたる
こんもりした地上にいっとき留まって
婆沙婆沙と騒ぎ 鳥骨の構造を自ら砕く
骨は翔ばない、精神が浮力を得るのみ
溶ける大らかさで空とともに悲遊する
大悲と呼ぶにふさわしいこの恩寵は
我が身と背景から切にもたらされる
ただ種族の掟は「一過」にも満たない
おまえの眼にただ傷をつけるだけの
1月18日、切通理作君とリターンマッチ
去年の10月7日、神田は三省堂で
切通理作君の快著『情緒論』(春秋社)の発売を記念して
切通君と僕の対談イベントがあった。
僕がこのmixi日記に書評記事として書いたように
この切通君の本はある意味、怪物的。
存在そのものの「不如意」により、
情緒やエロスがいかに湧き出るかという怪物的な論考なのだが、
観念連接がまたマッハで、
切通君の学識が紡ぎ出す思考が
光速に近づいてきたという感慨を抱かせる。
柳田國男、川端康成、つげ義春、佐内正史、
瀬々敬久、石川寛、阿部嘉昭(の「散歩論」)、坂口安吾、
当然、「懐かしい」というキーワードも出されて
そこからは現今の「昭和回顧」表現へと視野がスリリングに移ってゆく・・
観念連接のマッハぶりを語るために席上、
僕はベンヤミン型の「気散じ」を話題に出し、
「書くこと」にある「それ自体」と「それ以外」の相克を指摘した。
これすらも有意な「不如意」なのではないか・・
一体、どれほどの固有名詞が席上、出たか知れない。
切通君の本同様の観念連接だった。
話が言葉特有の「不如意」に移ってから論旨のさらに濃厚になった。
出席してくれた詩人の廿楽順治さんなどは
まるで真剣な詩論に直面したような興奮だった、と褒めてくれた。
このときは一応、著者・切通君にたいし、
聴き手・僕という枠組が基本(だいぶ逸脱したが)。
で、このとき、僕はちょうど去年暮に出した
『僕はこんな日常や感情でできています』(晶文社)の校正に没頭していて
(そのなかには切通君の『サンタ服を着た女の子』の書評もある)、
読み進めている切通君の本と自分の文章を「混同」する、
という奇妙な経験も味わっていた。
そう、「不如意」のテーマに注目するなど
まず着眼の共通性があるのだが、
何よりもノンジャンルで物を書く「存在形式」が同質だ。
そうした同質性のうえに、
切通君の記憶力のよさ、
僕の能産的な記憶力の悪さといった「偏差」があり、
その同質性と偏差の兼ね合いが実によろしく
だから一旦話がはじまると延々、「展開」してしまうのだった。
どちらもお喋りだし(笑)。
本当、大切な友人だ。畏怖もしている。
さて。
その切通君と今度の金曜、リターンマッチをすることになった。
僕の『僕はこんな日常や感情でできています』刊行イベントだから
今度は逆に体裁上は著者である僕にたいし
聞き手・切通君ということになるのだろうが、
そんな方向性など構いやしない。
何しろ僕のはブログ本だ。
だから今度の対談では、切通君のメディアリテラシーが炸裂するだろう。
しかも「不如意」としてmixi日記を書いていった僕の立場を
切通君が最も理解してくれるだろう。
だから今度の対談はエロチックで情緒的な
メディア論対談――サブカル対談になるとおもう。
スピーディな対談の運動神経をどうぞ満喫してください。
ということで詳細は以下。
●
ブログ、本、人、作品……現代のカルチャーを語るということ
阿部嘉昭 × 切通理作
■2008年1月18日(金)18:30~
会場:ジュンク堂書店 新宿店8F喫茶
入場料:1000円(1ドリンク付き) 定員40名
■お申込:ジュンク堂書店新宿店7Fカウンター
お電話(03-5363-1300)でもご予約を承ります。
阿部 嘉昭(あべ かしお)
1958年東京生まれ、鎌倉で育つ。大学卒業後、編集プロダクション、映画製作などに携わった後90年、キネマ旬報社入社。同社退社後、評論活動を開始。早稲田大学非常勤講師、立教大学特任教授も務める。著書に『精解サブカルチャー講義』『実戦サブカルチャー講義』『成瀬巳喜男』(河出書房新社)、『日本映画の21世紀がはじまる』(キネマ旬報社)他多数。近刊に『昨日知った、あらゆる声で』(書肆山田)、『マンガは動く』(泉書房)。
切通 理作(きりどうし りさく)
1964年生まれ、大学在学中よりミニコミ紙「ブンブン通信」を友人と発行。1993年『怪獣使いと少年~ウルトラマンの作家たち』(宝島社)を初の単行本として上梓。その後『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『宮崎駿の〈世界〉』(筑摩書房、サントリー学芸賞受賞)、『失恋論』(角川学芸出版)、『情緒論』(春秋社)など多数刊行。現在は和光大学、編集者・ライター養成教室「編集の学校」などで講師を務める。
近年、映像・写真・マンガなど諸ジャンルに、自分の行動や感情を転写する「私語り」の表現が増えてきた。人しれず潰れていく作品は数しれないが、“雨後の筍”的に増殖するそうした表現の最たるものが、ブログという現象かもしれない。雑誌購読者も激減する現在、評論家はどこで何を語ればいいのか?二人のサブカル評論家が語る。
阿部嘉昭著『僕はこんな日常や感情でできています』(晶文社)の刊行を記念したイヴェントです。ふるってご参加下さい。
●
上は、新宿ジュンク堂のHPからペーストしました。
ポイントはジュンク堂のカウンターか電話で
予約が必要、ということですね。
僕の名の読みが「かしお」になっているのが可笑しいが、
最近僕は俳号に「樫男=かしを」をつかっていて
それで倉田良成さん、水島英己さんと連詩を進めています。
当日は僕の本のサイン即売会と切通君の本のサイン即売会も付属。
僕のほうは新著のほか、
レアアイテム本を会場に揃えてもらう運びになっています。
●
実は僕、07年後期、立教文学部文芸思想専修の二年生を対象に
「ブログ演習」の授業をやってきたので、
このイベントがたぶん、その授業の最終形になるとおもう。
切通理作という稀有な触媒を得て
論旨がどう「化学反応」するのか僕自身も愉しみ。
なので演習のお子たちはおろか、
演習を取れなくて悔しかったお子たちもこのイベントに出てくれると
「得をした」気分になれるとおもいます。
僕の現在は、ちょっと前にmixi日記欄に出した
「詩大陸への接岸」の気分。
きっと、なぜmixi日記が「詩」に傾斜してゆくのか、
その話題も出るとおもいます。
ですので、「詩作者」のかたにもぜひ会場にいらしてもらいたいです。
一両日中に、03-5363-1300へぜひ電話を――
切通君、当日はよろしくお願いします。
また盛り上がろうね♪
三村京子、ミックス完了。
1月9日(水)10日(木)は三村京子の新譜のミキシングだった。
三村さん、プロデューサー&ウッドベースの船戸博史さん、
それと僕が、閑静な住宅地にある石崎信郎さんのお宅に集まった。
ミキサー、コンピュータ二台、それに僕のわからない数々の機器が
所狭しと並んでいる森厳たる仕事部屋。
スピーカーはバカでかいJBL(往年のジャズ喫茶にあったタイプ)
のほか、ヤマハの通常仕様のものがあり、
しかもなぜか、ラジカセまでコンピュータの上部に置いてある。
ミキシングとは歌唱や楽器別の音色、音量を決め、
かつステレオ仕様のための楽器位置を曲単位で次々決め(これを「定位」という)
録られた音を具体的に混ぜる作業だ
――石崎さんの仕事部屋のなかにいてそう理解する。
最初は、三村さんが「このギター音を柔らかく」とか、
「声を円く」「リヴァーヴをもっと」とか大まかな希望をいい
あとはさらにバランスを考えた船戸さんが石崎さんに具体的に提案し、
それに石崎さんが刻々と答え、次々にミックスされた音を
具体的に聴かせてくれる、という流れだった。相変わらずの阿吽。
OKとなればハードディスクにその音源全体が収蔵されてゆく。
僕もだんだん要領を飲み込み始め、途中からは積極的に提言していった。
こういう作業の鉄則なのだが、
当然、ラクな曲――つまり楽器構成の少ない曲から始めて調子をつける。
だから三村さんのギター弾き語りの曲→それに船戸さんが加わった曲、
という流れでミックス作業を確定してゆき、
やがては二胡の吉田悠樹君やドラム&パーカッションのあだち麗三郎君の
さらに入った曲へと移行してゆく。
作業は驚くべきほどにスルスルと進んだ。
余分な加工をせず、録音現場で録った音を忠実に反映する、
という姿勢を貫いているため、もともと検討事項の分量が少なく、
かつ、楽器編成そのものがミニマルなためだ。
一音単位で音を補正したり嵌め変えたりもしていない。
ミスも身体性の顕現、ということだが
先日の記述でおわかりのとおり、
三村さんの歌はギターとほぼすべてで同時に録っていて、
歌だけを、あるいはギターだけを直すということができないのだった。
マイクは歌/ギター用の2本だが、
歌マイクはギター音を拾っているし、
ギターマイクは歌を拾っている。
それに録音の際、ダビング駆使もしていない。
そのなかで全体にリズムの枠付け
(これを「クリック」という)もしていないから
Jポップでよくやっているようなピッチの補正も無理だった。
つまり「生音主義」の現場だったから録音が二日で済んだのだった。
ミキシングがすごく早く進んだのには、もうひとつ、理由がある。
「正月、暇だったので」とおっしゃる石崎さんが
その自分の部屋で、三村さんの歌をあくまでもナチュラルな範囲で
ほんの少しの補正をしていたのだった。
緊張感を保ちながら、同時に歌を巧くするためにリヴァーヴをかける。
これでポリープ一歩手前だった当日の掠れ声がほぼ消えた。
あるいはコンプレッサーをつかって、歌唱の強弱中、不要な凸凹を均す。
その微妙な匙加減がすべてこのミキシングの段階で既に施されていて、
だから三村+船戸までの曲では、
三村さんの声にどの程度柔らかさをつけ、
船戸さんのベースの強弱をどのレベルに設定するか、
ほぼ、これらの決定だけでよかった
(例外的に「定位」の問題の生じた曲もあったが)。
歌を柔らかくすると迫力がその反面で消える。
曲想・詞想を考え、柔らかいのが相応しい曲ではそうして、
歌の粗が目立ってもリアルに迫ったほうが相応しい曲では声を硬くする。
たとえばアルバム一曲目、ということで同意を得ている「深夜の猫」。
試聴される場合も一曲目なので間口はポップにしたい。
しかももともとすごくストレンジ感覚のつよい曲。
それで三村さんの歌を柔らかくしたのだが、
それは曲調と化合して「眠たくなった」と表現したほうがいいだろう。
ジョン・レノンの歌詞に一部を依拠しただけあって
「アコースティックなのにサイケ」という仕上がりとなった。
船戸さんのベースだって弓弾き部分では不思議な猫声を出している。
一番二番の冒頭は現代音楽的に音の散乱するピチカート奏法を
船戸さんは録音時に敢行していた。
そのピチカート音をステレオ空間に
本当に散乱するようにしたらどうなりますか、
と石崎さんにリクエストし、石崎さんがそうしてみせる。
聴いてみて船戸さん、「やりすぎですね」と苦笑い、
通常に戻してくれるように頼んでいた。
特筆すべきは全体にポップ感が増したなかで
仮ミックス時には不安定さの残っていた三村さんの歌唱が
やわらかくなって「味」が滲み出し、
節回しに唖然とする巧みさが出たこと。
矢野顕子とローウェル・ジョージを足したみたいだ。
僕が「まるで詐欺だな」とからかうと、
三村さん、「あたしはもともと歌が巧いんです」(笑)。
やがてミックス作業を進めてゆくうちに
船戸さんと僕の着眼のちがいが鮮明になってゆく。
事はいつも船戸さんのウッドベースの音量に関わった。
船戸さんはベース音を小さくしたいという希望を常にもつ。
たいする僕はベース音をもっと大きく、という。
歌を大切にするのが船戸さん。
それにたいし作詞の多くを手がけている僕が、
ベース音が大きくとも歌が通じる、というのだから、
事態は一見倒立的だ。
船戸さんは確かにオーバープロデュースといわれるのも
警戒はしていたとはおもう。
あくまでも主は三村さんの歌唱で
演奏は従、それでも演奏の迫力は伝わる、とおもっていたはず。
ただしそれだけだと、フォーク的なmixアプローチに近づく。
具体例を出そう――たとえば「孤りの炎」。
これは出だしがクラシカルなバロックギター、
転調を挟み、その後、歌とギター単音奏法がユニゾンもし、
歌手の自負を語る歌詞は最初がフォーク的な印象をもたれても
次第に演歌的、さらにはシュールになってゆくという
「鵺」のように正体を掴ませない狡猾さの高い小品だった。
この曲を「フォーク」解釈すると、
三村さんの歌を堅くリアルに保ち、
さらに定位的には歌を前面化させ、ベースを下げるだけでいい。
ところで船戸さんの弾いたベースは、
三村さんのバロックフレーズに太く噛みあう
蛇のようなフレーズ部分をもつし、
ベースが不測にボーン、とつよく鳴る歪(ヒズミ)ギリギリの部分がある。
曲調はジョン・レノンの「オー・マイ・ラヴ」的なバロック曲だから
同じように三村さんの声を円く、定位を遠くさせると
「オー・マイ・ラヴ」の印象に近似してくる。
しかしそこで船戸さんのベースを上げてゆくと
三村ギター・船戸ベース、二匹のバロック蛇が絡みあい、
その「強度」によって曲のジャンル性が名指しできなくなる。
このアルバムは楽器編成的にはたしかに「フォーク」だ。
電気化された音が一個もないのだから(加えてキーボードレス)。
だが三村さんの作曲も僕中心の作詞も
「フォーク」の既存性などとうに超えている。
僕と三村さんのコラボの方向性は新しいポップをつくることだった。
すると既存の音楽ジャンル的アプローチが墨守されるのではなく、
ジャンルが融合し、脱規定されたほうがいい、ということになる。
ベースが前面に出て、三村さんの歌のフォーク部分を凌辱する戦慄
――そういうものこそが「新しいポップ」に転化する。
僕はそういう説明をし、
急進的な三村さんもそれに同意するのだが、
船戸さんは歌を大切にすべきだとの伴奏者哲学を基本的に崩さない。
この「孤りの炎」の場合は、ベース音は僕の望みの方向になった。
つまり音量があがった。
ベース音の音量調整については大体が
船戸案と僕の案の折衷になったとおもう。
で、「折衷」にすると意志の弱い中間主義に陥りがちなのだが、
そこに石崎さんの音調整の魔法が絡んでくる。
船戸さんと僕との狙いの微妙な差を感知しつつ、
僕ら双方を、音を聴かせて納得させてしまうよう
その場でどうも微調整をしている気配なのだ。
船戸さんのベースソロだけの伴奏になる「自殺のシャンソン」では、
船戸さんのベースについて
もっと音量を小さくしようという船戸さんの意見が結果的に通った。
僕は最初、それに不満だった。
船戸さんのベースはシンコペティヴで隙間たっぷり。
コード構成音を組み入れながら
真っ黒い夜の「情感で唄いあげてゆく」そのベース奏法は
ふとサックスソロではないかと錯覚する箇所がいくつもある。
どう弾いているのか、ゴーン、とそれ自身が自らに絡むように
鳴動する音が不測に入ってきて動悸させたり、
あるいはここぞというときに二音弾きになったり、超絶的だった。
これはこのアルバム随一の、船戸ファン垂涎の演奏だから
過激にベース音を上げたほうがいい、と僕は主張したのだった。
もともと歌はシャンソン調、演奏はジャズ調で、
二つの最良の「黒」が絡むのだから
僕にすれば脱ジャンル的なmixアプローチも当然だった。
このときの船戸さんの解説を聞き、僕の視点が変わる。
まず、音楽の最も聴かれる環境を基準にして
mixの方向が定められるべきなのではないか。
石崎さんの仕事場では、
ヤマハのスピーカーから通常、音が流されている。
ただ、ヘッドホンもつなげられていて、
常時、僕らはそれで自由に聴けるようになっている。
ベース音は空間を介在すれば、低音だから再生では減少されて聴える。
ところが耳を直接包むヘッドホンならそれがなく、
スピーカー音を基準にしたmixをヘッドホンで聴くと
ベースが大きすぎる場合がある、というのだった。
しかも船戸さんは自分が愛用している
iPod用のイアホンまでもってきていて、
それを通してもミックス状態を確かめている。
このイアホンの内蔵スピーカーでは
とりわけ低音が強調されるのだという。
この、現在最も音楽聴取される条件でもmixが考えられねばならない
(そういう意図のため石崎さんの部屋には
まさか、とおもうラジカセが置かれていたのだった――
事実僕らはマスタリング音源をそのラジカセを通して確かめた
――劣悪な音響機器でも迫力が出ているかを吟味したのだ)。
『自殺のシャンソン』は船戸さんのベースがデカく唸りきれば
たぶん怪物的な曲になっただろう。
精神にシャンソン、ジャズのみならず
パンキッシュな何かも加わったはず。
そうならなかったから、マスタリング音源で
それは曲名どおりシャンソンの範疇に入ってきこえる。
フラットななかに絶望的な呟きの怖さの混じる
三村さんの歌唱の不可解な魅力は
船戸さんのベースがやや小さくなって、くっきり浮かび上がった。
これはまったく船戸さんの判断が正しかった。
そしてラジカセを通しても船戸さんのベースの異様な迫力は
確かに伝わってきた。鳥肌が立った。
おわかりのように船戸さんは歌唱を演奏が殺すのを常に嫌う
(僕はロックでそういう範疇にあるいいものも知っていて、
歌唱中心性ということに結局、無頓着だったりする)。
ウッドベースは録音時にもともと音量が大きいから尚更神経を使う。
だからベース音が歌唱を覆ったときには、絶対にそれを「離す」。
このときに多く、「定位」の模索が始まるのだ。
三村さんのギター&歌唱があくまでもアルバムの中心だから
それらはセンターに定位されるべきなのだが、
定位の追求の際、掟破りも起こった。
三村さんの歌唱を左に寄せるなどした曲がわずかにある。
ただ、演奏者の人数がもともと少なく、
音場を立体的に豊かにするためこれはやむをえない措置だったろう。
「定位」でへえ、と僕がおもったのが「平行四辺形」だった。
立体概念の弱い僕は、もともと音の立体聴取が苦手で
(右耳の難聴傾向が災いしているだろう――むろんヘッドホンなら
左右聴きわけは問題なくできる)、
三村さんの不思議アルペジオ、吉田くんの亜細亜的な二胡、
船戸さんの高低二本の現代音楽的弓弾きベース、
あだち君のキラキラ音を中心にしたパーカッション、
そして三村さんの歌のバランスが最初のミックス段階のもので
ちょうどいいと、漫然と捉えていた。
ところが船戸さんが「ドキドキしない」という。
ベースが歌にカブりすぎているという判断は生じない。
「ギターかなあ」と船戸さんは呟いた。
楽器編成の配置図(俯瞰で見たものを記号化した)を
メモにサッと書いて石崎さんに渡す。
左から順に、ギター→高音ベース→歌→低音ベース→パーカッション。
で、歌とベースの間の背後に二胡。
「この配置で定位してくれますか」。
そうしてみると、確かにくっきりと歌が分離し粒立ってくる。
三村さんの弾き語り主体のアルバムなのだから
そのギターを端に振るなど掟破りなのだが
この曲だけ、ギターと歌が別録りだったのでそれも容易だった。
こういうのは定位ということでは仕掛けの多いアプローチだとおもう。
それがなぜ、ナチュラルで耳に負荷がなく聴こえたかを訊ねた。
船戸さんが解説する――「ライヴの場と同様に演奏者のラインが
空間的にできて、ライヴ感覚が出るんですよ、それで耳がラクになる」。
そうか、空間化とは人工性から立ち戻り耳の負荷を軽減することなんだ。
音響派がこういうアプローチならジャズ畑のひとはそれを
先刻承知、ということだったのだな。
Jポップでは歌を中心に諸々がセンターにぐしゃっと寄っている。
その反面でトリッキーな左右への振り定位もある。音圧もキンキンだし。
しかし編成がふえるとさすがにミックスの作業が大変になる
(似た感触は「しあわせなおんなのこ」にも少しあった
――これは切ないアヘ声のような三村さんのウィスパーが
すごく生々しく入ったとおもう)。
三村さんがミックスでの意見で活躍したのは、
9日段階で仮ミックスした音源を自宅に持ち帰り、
仮OK「平行四辺形」をチェックし、翌日、意見を語ったときだった。
順序は錯綜するが既に書いたのことの、実は前の段階。
彼女は小節どころか一音ごとにチェックし、
船戸さんの前衛的な不協和音ベースが
リスナーの耳に負荷を与える箇所を突き詰めていた。
で、結局、一番から二番のメロのABCを「分節」して
そこでベース音の強弱を微調整した。
三番では仮ミックスどおりのベース音の強さを保った。
その前の段階であだち君のパーカッションを全体で
フェイドイン→クレッシェンドにしてある。
三村さんの意図どおりに強弱をつけてみると
全体が聴きやすくなり、しかもメリハリがついて、
ラストに向けて盛り上がって、最後の余韻も充分だった。
この難曲のミックスが最後で、これが10日午後3時ごろ終了。
船戸・三村・阿部の三人は石崎邸近くのケーキ屋さんに行き息抜き。
帰ってきて、いよいよマスタリングとなる。
マスタリングとは曲順どおりに並べたうえで、
曲間秒数を調整し、曲ごとの音のバランスを
最大音幅から勘案して調整するなど
CD化に向けての最終作業の全体を指している。
マスタリングも石崎さんは経験が深く、
たとえば三村さんは前日に録った「深夜の猫」などが
歌唱を柔らかくしただけ迫力がなくなったのではないかと
もちかえったミックス音源を聴いて心配していたが、
石崎さんはあの曲はマスタリングで音量が上がります、
心配ありません、と請負い、事実、そのとおりになった。
曲順案で活躍したのは実は僕だった(船戸さんはご存知だったか)。
僕のプランがすべて通ったのだった。
曲順づくりに失敗すると、実は要らない曲が出てきてしまう。
僕は録音された曲すべてに愛着があった。
だからうまく並べてすべてを生かしたい
(その際にはすでに曲間のイメージもできている)。
曲順の着想はそれほど難しくない、と僕はおもった。
一個の曲を生かすために、その前後に別傾向の曲を配置する。
すると当面、流れにめりはりができる――これが基本。
同傾向の曲を連打し、印象をつよめることもありうるが、
やはりポップアルバムなら、王道は別から別へと振れるように
曲を配置し、飽きさせないようにするのが肝要だろう。
となると――非リズミックなものの次にはリズミック、
ジャンルは別ジャンルが噛みあうように並べ、
かつ、長調曲と短調曲もなるたけ交互したほうが得策だろう。
しかも、「歌詞」がつながってどんな付帯効果を出すか
――それも考えなければならない。
たとえば「母親を取り返しに」と「月が赤く満ちる時」、
このふたつは前半でつなげた。
フェミニズム歌詞といわれるだろうものをつなぎ
その量感によって三村さんという歌手のポジションを
聴き手に強調したかった――そういうことだ。
あるいはそれとは反対に、「少女蔑視」の細部のある歌詞がある。
「CRAZY TUNE」「女子高生ブルース」「しあわせなおんなのこ」。
これらは前半に、しかも間歇的に置いた。
敵意が集中するのをそうしてバラすとこれらはポップ効果となる。
そしてアルバム後半、スロー曲の比重が高くなるのも承知で
三村さんという歌い手の身体性をリアルに想像させる
セックスソングをふくんだ「泣かせる」抒情曲を集中させた。
これらによってアルバム全体は目先目先が幸福に変わり、
いろいろ動悸を伴って進みながら、
トータルでは「前半ポップ→後半抒情」、という流れをつくりうる。
雑誌編集経験もあり、かつ、詩集での詩篇の並べも経験して
僕はこうした流れの感覚にいまとても鋭敏になっている。
船戸さんも三村さんも別案を「一瞬」出したが、引っ込めた。
ただ、その僕の案では、「孤りの炎」が二曲目だった。
試聴されると目立ちすぎるから後置させたいと急に三村さんが言い出す。
綺麗な曲だが異形曲で、アングラと先入観をもたれると怖いという。
そんなアーティスト主体の気持を尊重することにして、
さてどこに置き変えるで思案に入った。
後ろに置けるところがあるのだけど、それでは曲の存在が沈んでしまう。
船戸さんは「大好きな曲。勿体無い」というが
三村さんは「沈んだって構わないし、収録しなくてもいい」と自棄気味。
で、僕がとうとう「ここだ」という箇所を見つけた。
二人は喜んでその順序変えに同意した。
最後は曲間をどう決定したか、について。
基本はまず曲間二秒にした。
曲を石崎さんに並べてもらって再生してゆく。
それで次の曲に入ったところで、
「つながり」の感じがいいかどうかを判断しつつ、
曲間が長いかどうかの判断もする。
0.5秒単位での修正が利く。
これはほとんど船戸さんと僕の意見が同じになった。
前曲の余韻が長い場合は、余韻をフェイドアウトしてもらった。
曲間「政策」で最も「意図」を組み込んだのは、
ラスト前の「昔みたいに」と「百億回の愛」の間か。
すべてが終わり、静寂となったなか、ついに
子守唄曲調の「百億回」が聴えてくるように
ここだけは通常よりも倍以上に曲間にブランクを挟んだ。
したがってアルバムをフルで聴けば
聴き手にはまずこの曲の静かで深い余韻が残ることになる。
曲順、曲間が確定して、とうとう曲同士でバラついていた
音量調整を中心にしたマスタリング作業に入ることになる。
コンピュータによる「計算」と石崎さんの手作業による調整が絡む。
この作業が石崎さんは驚くほど速い。
水を得た魚、というのはこのこと。
余裕をこいて僕らがしていたバカ話を尻目に、
ちょっと経つと完成、ということになった。
それで前言したように、最後はラジカセという意図的な悪条件で
アルバム全体を最初から最後までかけてもらう。
無言を保つ――気づいたことはそれぞれがメモ書きする、
という約束で、僕らには静かな緊張が続いた。
ラジカセを通すと最初は音の遜色に辟易するが
耳が慣れてくると三村さんと歌の良さと音全体の迫力を
次第に「聴きわけられる」ようになる。たしかに平板だが。
ああラジカセ聴取でも成立するアルバムだとおもった
(三村さんは「Play It Loud」とCDに記載しようかといっていたが)。
全部を聴いて船戸さんと僕が意見を交わす。
曲間のさらなる微調整は意見が全く一致。
その他、僕の希望が容れられて
一曲だけ船戸さんのベースの音量を上げてもらい、
これで最終マスタリングへと過程が移った。
それでも自身の判断から石崎さんの微調整が続いている。
完了。アッという間に僕ら三人のためのCDコピーも終わる。
空腹をかこっていた僕らは急いで駅前に行き、
打ち上げというほどではないが飲み屋に向かう。
「今日は魚」という三村さんの表情が夢見がちな感じ。
とうとう終わった。神業のような作業の速さは録音のときと同じで、
力量のある人間の仕事とはこうなんだとおもった。
若い三村さんは今回、船戸さん、石崎さん、僕という
中年オヤジトリオにサポートされた恰好となる。
アルバムタイトルは『東京では少女歌手なんて』に決定。
「少女歌手」から離れだした三村さんの場所を示しつつ
ふくみとパンチもあるタイトルだ、とおもう。
演歌調ともとれる響きが僕は気に入っている。
三村さん、よくおもいついた。
具体的な曲順はkozくんのブログ「a wild horse」に示されている。
今後、この音源につき彼の詳細な紹介や分析がはじまるだろう。
この場での僕からは少しだけ。
マスタリング音源で第一に印象されるのは三村さんの声の良さだ。
歌唱の不安定な個性は消えていないが、
そのことで生々しさがキープされている。
すごくエロチック。しかも展開のなかで偏差が示されつづける。
この基本のなかで歌詞が響き、船戸さんのベースが響く。
どうなるのか――やはり「泣けてしまう」。
情感がつよく鋭く、揺さぶられてしまうのだ。
同時に石崎さんの調整によって聴く際の「気持良さ」が保たれた。
ふと気づく――この音源、一日に何回も聴いてしまう。
本当にいいアルバムだとおもう。日本の音楽史の新しい画期か。
不安定な個性をもった少女がどう自己克服したかの記録でもある。
そうした背景要素も、聴取の催涙性につながってくる。
僕らは何て仕事を成し遂げたんだろう。
三村さん、本当におめでとう。無論あんた自身が最初の奇蹟だった。
栞文
迂闊だった。
おととい書肆山田・大泉史世さんからファックスが届いていたのに
他の映画試写ファックス(多すぎる)に紛れて気づかなかった。
そのファックスには、
僕が今月末に出す詩集『昨日知った、あらゆる声で』に挟まれる、
藤井貞和さん、小池昌代さんの栞文原稿も添えられていた。
これがもう嬉しくて、嬉しくて(笑)。
みなさんには詩集ができた暁に、
栞の現物をとってもらうしかないのだが、
ほんの少しだけ、ここに抜書きしてしまおう。
まずは小池さん。
《どの一行も、表面張力のような力でみなぎっている。その力が、片っ端から、立とうとする「意味」を壊していく。》
小池さんの栞文は、僕への暖かい人物評からはじまって
スッと僕の詩の本質に迫る運動神経が「動物のように」鋭い。
僕は動物が大好き。
たいする藤井さんは、僕が詩に配した数詞について
作者である僕自身おもいもよらなかった
分析を施してくださり圧倒された。
「数詞分析」とはしるしたが
ずっと昔に蓮実重彦が大江健三郎にした分析とは
ぜんぜん姿が異なる。
これほど短い文で、これほどの震撼。
以下、これも部分を抜書き。
《この作品集には文明の獲得にはじまる、増殖の物語があって、[…]/「時の増殖」という作品はさいごに置かれ、一種時間のゆらぎを豊富なイメージで復唱するかのようだ。》
●
以前に、田中宏輔さんやなかにしけふこさんと
現今詩集の栞のくだらなさにつき、
mixiコメントを交わしたことがあった。
仲間褒めの互酬であったり
弟子筋がそれで完全確定したりと
たしかに栞は何やかにやと「生臭い」。
その「生臭さ」が信憑すら奪って、眺めもひたすら濁る。
僕もmixiコメントをする前からそんな嫌悪をもっていたので、
詩集の産婆さん役を買って出てくれた小池さんに
「栞なんて要らないよ」といった。
そしたら小池さん、「ダメ。阿部さんは処女詩集だし、
詩集を売らなきゃならないんだからそんな贅沢はダメだよ」と
あっさり、いなされてしまった(笑)。
当然、産婆さん役の小池さんは
躯を張って、栞文を書いた。
で、もうひとりどなたかに書いてもらうことになり、
小池さんは、「阿部さんの仲間じゃダメだよ。
阿部さんと面識のないひとがいい。
藤井貞和さんなんてどう?」とひたすら挑発的だった。
詩集に栞がないというのは、
「潔癖」を守る、ということ。
ただ栞があっても潔癖は守られるというのが
小池さんがしめしてくれた卓見だった。
潔癖のために小池さんは自ら栞文を書き、
潔癖のために小池さんは貞和さんを推した。
で、面識のない貞和さんと僕が
「連接」してしまったのだった。
小池さんは勘がいいだけじゃなくて、
潔癖さで躯を張っているということ。
僕が貞和さんの栞文を見て
貞和さんのみならず小池さんにも脱帽してしまったのは
以上のような経緯による。
●
「連接」は素晴らしい。
このところ詩を書くマイミクさんがすごく増えて
出版物が立て続けに届くのだが、
そのなかで倉田良成さんの評論集(エッセイ集)、
『ささくれた心の滋養に、絵・音・言葉をほんの一滴』
(こちらはオビ文に藤井貞和さんの見事な文が入っている)も
心底、揺さぶられた本だった。
浅学な僕には書評などオコの沙汰だが
唯一、巻末付録のように納められた連句「俳諧昭和ノ巻」なら
何か言及も可能かな、とおもっていた。
何しろ、連衆の各句の方向性を調整する
倉田さんの「捌き役」ぶりが素晴らしく、
結果、見事な歌仙が巻き上がっていて、
しかもその際のメールのやりとりが抜群なのだった。
これはぜひ、書いて伝えなくては・・
そうしたら、その矢先、
僕が「なにぬねの?」にアップした一句を
発句に見立て、倉田さんが脇句をつけた。
話がそこで終われば「付け合い」なのだが、
そうしたらそのコメント欄に
僕と「面識のない」水島英己さんが
「三」を付けてしまい、
それで僕が「四」を返したことから
連句がはじまってしまった。
つまり僕は倉田さんの連句捌きを讃えようとした矢先、
いきなり倉田さんご指導のもとの「実践」に
巻き込まれてしまったことになる。
近来、これほど嬉しいことはSNS上なかった。
●
栞文の連接、
SNS上の連接の帰結として
連句がはじまってしまうこと。
そういうことがありうる、ということを
いま僕は学生に向かって
とくに書いているわけです。
●
今日をふくめた今週の残りは
三村京子のミキシング&マスタリングの立会いで
午後ずっと石崎信郎さんのご自宅へ。
プロデューサー、ペースの船戸博史さんも
京都からいらっしゃる。
なので、長いmixi文が書けそうもない。
ずっと田中宏輔さんの『The Wasteless Land.』の三部作や
前述・倉田さんから
さらに送っていただいた三冊の詩集につき
紹介書評を書こうとおもっているのだけど
これらはみな来週の作業かなあ。
申し訳ないです。
今日はこれから宏輔さんが執筆に七転八倒した
書肆山田HP近刊案内のための
「著者メッセージ」を書かなきゃならない。
サッと書きたいのだけど、
こういう文は誰もが苦手。僕も例外じゃないだろう
詩大陸への接岸(2)
(承前)
―― 文章とリズムの相関を考えることが、歌詞・詩のリズムを考えることにつながったということですね。
阿部
そうです。そのときパソコンを購入したことがすごく大きかった。いろいろな相手にたとえばメールを打つ。この作業を日常でつづけてゆくと、リズム意識が躯に昂進して、昂進のまま蓄積し、いわば余剰が出てくるのです。それでしょうがなくなって詩が生まれてくる。あるいはメール文そのものが詩の断片のようなものへと変化してゆく。というのも、詩文のほうが通常文よりも圧縮的、かつ音楽的で面白く、より少ない字数で相手の心をさらうことができるから。だからサーヴィス精神を向上させてゆくと、自然、メール文に詩が混ざってくるのですね。そのときの僕は、不自由な意識を感じることなく、行分け詩を打っていました。
ただ、それだけでは達成感が不足する。それで、一年か半年に一回くらい、一念発起して、詩のリズムを書き下ろし詩集のかたちで放出させました。いずれも数日間の作業です。そうして『あすは濃からぬ者に…』『壊滅的な私とは誰か』『悲歌の生垣』などをまとめてゆきました。それらは僕のサイトに未刊詩集としてアップされています。『あすは』だけが制作条件が少し異なるかもしれません。これは学生時代に書いた詩を再利用しつつ確定してしまおうという動機もあったからです。
―― これらの未刊詩集を『昨日知った、あらゆる声で』のように実際に刊行しようと動かなかったのはなぜですか。
阿部
ひとつはおカネがなかった(笑)。もうひとつは自分のオリジナリティへの不信から、完全な不特定多数へ自分の詩をさらけだすのを拒んだんだとおもいます。
実は、『あすは』の原稿をまとめる前に、福間健二さんにそのころ書き溜めていた詩をみてもらったことがあるんですね。福間さんはエロチックで面白いけど、瀬尾育生さんにも見てもらう、というふうに動いて、結局、瀬尾、福間、阿部で飲んだことがありました。瀬尾さんは、言葉をもっと削ったほうがいい、「68年詩」に似ている、等々の意見で、その意見には僕自身は違う、といいたい気もすこしあったけど、いずれにせよ、自分の詩が読者を魅了しきるものではないのだなとおもいました。福間さんは詩集を出すのは必ずおカネがかかる、ただ「阿部君のヴァリューなら思潮社でも詩集刊行が可能だろう」と予想してくれましたが、当時の僕はヒモの身で、出来に自信を完全にもっている詩集以外は出す気がしませんでした。
ただ、その前に、一種、詩集めいたものを僕はすでに刊行していました。『AV原論』がそれです。分かち書きに近いような改行が「本文」でところどころになされ、全体の「本文」も、散文詩的な印象をもたれるだろうなとはおもっていました。これは書名どおり、アダルト・ヴィデオを男の欲望の側から属性分けをして、それら諸点を章分けして、原理的に考察したものです。僕は、画像に現れる女の実体ではなく空隙が欲望の対象になっていて、必然的にその中和的な女の現れがメランコリーを組成し、それが利用者のメランコリーへと反射されてゆくという論旨を展開した。
しかも扱われたAVモデルたちは、80年代後半の黄金期における複数をいわば非人称的に抽象化したものでした。本を書いた時点で90年代後半になっていたので、対象は実在ではなく喪失性そのものだったのです。ところが、いくらそのような論旨・対象であっても、やはり扱われている事柄が生臭い。それを消すため、僕は自分の単行本にあっては例外的に詩的な文章で自分の記述を組織しなければならなかった。空隙だらけで流麗感に富む、ある程度難解であっても他人に愛される文章になったとおもいます。
あの本は関西学院大学出版会という版元、つまり大学出版でした。しかも立ち上がったばかりだった。営業基盤が脆弱なので、本はあまり売れなかった。だから自分の詩的文章がどの程度、評価を得たのか、わからなかった面がつよい。ただし亡くなった映画評論家の石原郁子さんがその美しさを絶賛してくれた。ドイツ文学・メランコリー研究の武村知子さんも、あの本の「本文-解説」の構造を木霊の関係と見抜いてくださり、本が緻密な論理で書かれたものである点を明かしてくれた。アダルト・ヴィデオにたいする欲望を描いた本だったのに、女性のかたが褒めてくれたのがとても嬉しかったんですけど。
ともあれ、詩大陸に接岸してようとしては逡巡、果ては別の海域に航海に出てしまうということを繰り返しながら、メールを打つうちに詩を書きたくなる衝動がつよまっていったというのが、二年ほど前の僕の姿だったといえるのではないでしょうか。
―― 「二年ほど前」といえば、先生がmixiを開始された時期。そこからまた、先生の詩への考え方が変化する、ということですか。
阿部
実際、mixiをやりだす前にいろいろ段階的な変化がありました。まずは勤めていた立教大学で少人数の演習授業を任されるようになった。要請としてはクリエイティヴ・ライティングの講座を、ということだったとおもうのですけれども、最初、ライター講座をやってみて、即座にそれが詩の創作講座に変化していった。そちらのほうが面白かったからです。少ない字数で受講者の資質がわかる。技術論ではなく魂の論議ができる。しかも集まったものを一堂に納め、コラボレーションとしてもまとめやすい。言葉そのものの面白さを相互観賞するとエロチックな授業にもなる。それで僕は福間健二さんや、映画監督の瀬々敬久なども巻き込み、詩の各行アタマを「あいうえお・・」と頭韻のかたちで流してゆく「あいうえお唄」の共同創作を、武村さんの文章の一節からまず考えた。これが僕の「改行コンプレックス」を決定的に除去するものとなったとおもいます。
それから早稲田二文の大教室授業で、「Jポップをアーティスト別にインディもふくめて考える」「60年代~70年代のロック・ジャイアンツを考察する」という講義もやりはじめた。このとき日本語・英語の歌詞を真剣に考えたのも大きかった。あなたなどとも知り合いになり、その歌詞づくりに手を染めだした。これもコラボレーションというものに、一種のユートピックな魅力を感じていたことが背景にあったとおもう。
それであなたにつよくいわれ、mixiをやりだした。自分の好きなジャンルの文章をmixiでは書けるという嬉しさもありましたが、「書き込み」がユートピックなコラボレーションとして機能している点が僕にはとりわけ魅力と映ったかもしれません。ただ、最初のうちは詩篇そのものをアップすることはあまりなかった。ただ小池昌代さんと同時に立教で特任教授に昇進し、研究室を折半するようになって、詩的な環境が当時、徐々に整備されつつあった。それまでの僕は一介の映画評論家としての活動に限定されていて、出会う詩人も、詩人にして映画評を書くひとだけ――つまり稲川さんや福間さんに、ほぼ付き合いが限られていたのです。
それよりも学生とコラボレーションをすることに魅力を感じていたかもしれない。詩的達成という点では、立教の学生だった明道聡子さんとおこなった連詩、『木霊する場所で』が最も大きかったかもしれませんね。
mixiで詩を書くようになったのは、久谷雉くんという若手詩人とマイミクになったのがきっかけのひとつだったかもしれない。その前、僕は杉本真維子の朝日新聞に発表された詩篇について絶賛記事を書いていて、それで久谷くんが僕にマイミクを申請してきたのだとおもう。むろん久谷くんは映画評論家としての僕も認知していた。その久谷くんが司会をした女性詩人の朗読会にあなたと出席し、一挙に僕は数多くの詩人とまず知り合いになる。当該の杉本真維子さん、その年、「詩手帖」で詩書月評をやっていた森川雅美さん…
自分の詩をよく読んでくれる人が周囲にできた、ということで、僕はmixiで休筆宣言をしていた時期に、例外的に詩篇を発表していった。
―― それらがのち、『昨日知った、あらゆる声で』に収録される詩篇ですね。
阿部
はい。森川さんほか、限定されたマイミクが僕の詩篇アップを応援してくれました。これが精神的には大きかったのかもしれませんね。
―― このころの詩篇は、以前の自作と較べ、どのような変化があったと自覚されていますか。
阿部
その前、前言した明道さんとの連詩の作成で自分のなかの何かが弾けた、という気がありました。すごく自由に詩が書けだしたという自覚。まず、「聯」の意識によって、書こうとした詩世界を分割し、分割を配剤することで複雑な効果がもたらされるという方法確認をしたのです。それは詩に自分の日常を盛り込むという約束から生じた付帯効果でした。それで詩が多様な単位の細部によってコラージュされるのだけど、一方、一行一行の流れには、流麗感や可読性がほしい。それがすごく自在にできるようになったのです。福間健二さんが『詩は生きている』で扱った詩人、とりわけ西中行久さんの影響も大きく、そこからは瀬尾さんが以前に指摘された「切断」ということがすでに学ばれていた。
自分ながら得心したのは、詩の細部をコラージュにしつつ全体を「流す」という感覚のなかで、その細部の詩想は以前に体験した短詩系文学の「塊」ではなく「詩想のほぐし」のようなかたちで再出現をみる、ということでした。書いてみて気づく――たとえば自分にとって岡井隆さんの影響がこれほど大きかったのかと。短詩系発想を「最小核」にして、詩篇のなかに配備することで、詩行が自在な運びへともちこめる。喩といってもいいのだけど、詩のディテールの連絡も自由に組織できる、と気づき、西脇順三郎の詩法に近づけたような気がしました。むろん西脇には音韻という、さらなる検討事項もあるのですが。
僕の代表的な北野武論のひとつに、『日本映画は存在する』に収録されている「鬱王の長旅」という文章があります。この「鬱王」が何かの詩的出典をもっていることを、この原稿を執筆した当時の僕はまったく失念していました。実は影響元は僕が尊敬してやまない現代俳句の赤尾兜子の代表句だったのです。《大雷雨鬱王と合ふあさの夢》。どうです、すごい句でしょう。「鬱王」は赤尾兜子の造語として、現代俳句界では広く認知されているとおもいますが、僕はまったく失念していて、自注を忘れました。このように記憶力の悪い僕ですが、短詩型文学の「核」は、ロラン・バルトのいうプンクトゥムのように全身にちくちくと溶けこんでいるのです。
実はあなたの歌の歌詞の制作でも同じ原理が働いている。この場合の影響元は和洋の歌詞も多い。映画なんかもあるけど。ただしこちらのほうは「歌詞」なので、可聴性の判断という別次元も動いている。だから一見すると気づかれにくいのだけど、自分としては詩作と作詞に弁別をもうけているつもりがないのです。
このような前段階があって、07年の冬から春にかけ、『昨日知った、あらゆる声で』収録詩篇を間歇的にmixiへアップしてゆきました。喩を解いてゆくとかなり複雑な次第となるとはおもうのですが、相変わらず、躯のリズムを動力にしての速書きです。
―― 森川さんは批評用語までふくめた硬い漢語が駆使されているのに、詩の文脈が柔らかくて新鮮、ということをおっしゃってましたね。
阿部
森川さんはいい意味での詩壇的感性をもっているかただから、いまの詩壇詩にないものにするどく反応したのだとおもいます。僕の漢字は、いかめしさを演出するためではなく、漢字の字意を露出しながら、世界を空間的に圧縮する道具としてつかわれています。漢字を多用する気分のときと、漢字を忌避する気分のときが、割合単純に、交互に来る、という自覚ももっています。そしてそれが、自分が同じような詩を量産しないための歯止めともなっている。だから漢字使用がすごい、と褒められると、少し面映い感覚もありました。
それよりも詩行を書く速度によって、詩行同士がスパークしながら、詩行そのものはその連絡が単純な加算性に負っていない、その点で連句が参照されている、というのが指摘として大切ではないかとおもいます。付け句のような詩行加算、向かい句のような詩行加算、見立て替え、飛躍・・・これらはたぶん、膠着的に書いていると出てこない詩的着眼で、それが漢語の負荷の高い使用と相俟ったとき、語的飛躍・行的飛躍だけが印象されて、僕の詩が60年代詩や70年代詩と似ているという、印象が書き込み欄に飛び交ったのだとおもいます。
ただたとえば「68年詩」なら言葉は変革の熱い道具として過信されていて、だから詩的沸騰を自明に正、と捉える趣があったとおもう。それで、「飛躍」も語的信頼の硬い枠組に守られていた。僕は、ちがう。飛躍をしているつもりがないのです。僕がやっていることは「運び」。それで、僕は最終行をどう書くか、どう書かれ(てしまう)か、ということに詩作時の神経をひたすら集中させていた。
それと森川さんが見抜けなかったのは、前言したように、詩行細部の核に「短詩系発想」の粟立ちがあるということです。それが詩行全体をもちあげて駆動させていた。そして各フレーズは時空を挟んで連動し、その連動の内部分割がなおかつ、詩の流れ行く肉体をつくりあげていたということです。『もののけ姫』のデイダラボッチのような詩的身体。その最もプリミティヴなかたちが明道さんとの連詩『木霊する場所で』にあったので、そこへの注意を喚起すればよかったのかもしれません。
もう一個、『昨日知った、あらゆる声で』収録詩篇を特徴づけるのは、幾何学形への志向だとおもいます。大した幾何学形ではありませんが、聯の行数を揃え、行アキで聯を連鎖してゆくという方法をすべてとりました。これは横組で頁概念なし、ただ下へスクロールされてゆくだけのmixi画面の特性を考えてのことでした。「記憶単位」をそのようにしてつくることで、愛唱性をもたらそうともしたのです。ただ僕は、愛唱性を大事だとはおもうけれども、それを詩の第一義として単純に考えることはありません。僕は、石田瑞穂の詩だって、藤原安紀子の詩だって、大好きなのです。
あと、『昨日知った、あらゆる声で』収録詩篇では自分の感情的な定位が以前の詩とはまったく別物となりました。中年になって、老いの自覚が出てきたこと、「幼年回想」などを普遍的行為としてもいいこと――これらの年齢的「保証」は、詩を書くいとなみをすごく楽なもの、同時に甘美なものにしたのです。若年に書いていた詩のように、限定一者として詩を書く気負いなどとうに消え、多数者のうちの一人として自分の「当たり前」を詩に変容できるようにもなった。これが詩に余計な荷を負わさない歯止めとなっていたとおもいます。
詩大陸への帰還は、勝者がすることなのか、敗者がすることなのか。若い詩的才能が自己にたいする勝者として詩を書き始めるというのが、詩のすべての大前提です。とするなら――僕のような年齢の者が曲折あって詩作を再開するというのは、「弱さ」から来た営為以外の、何ものでもない。ところがその「弱さ」こそが共有されなければならない。それはmixiの媒体特質にも見合ったことでした。だから僕の今度の詩集は、完全にネット詩集、ブログ詩集として遇されてよい――そのように自覚しているんですよ。
―― 先生はやがて、そのようにしてmixiに発表された詩篇を編まれて、それを小池昌代さんにお見せになる。
阿部
面白いよ、これー、詩集としてぜひ出しなよー、といわれました。ただし、長すぎる詩篇もある、収録詩篇数も多い、と指摘を受け、一日で僕は直してしまった。小池さんの指示どおりに直したのです。ズバッと切った。「全体を七割にしたほうがいい」「要らない」「ほぼこの長さでいい」というように小池さんが感覚でいった言葉をすべてメモしていて、そのとおりに切ったのです。小池さんは読者の間口の広いひとだから、そのひとの感覚にすべて従ったら自分の読者が増えるという気持もありました。ただそれよりもむろん、小池さんの視界が澄んでいる点を信頼していた。そうしたら吃驚しました。小池さんのいう比率どおり詩篇に無駄があった。だから一日で簡単に切れてしまったのです。なんと勘のいいひとだろう、とおもいました。
むろん、このように後ろ髪を引かれることもなく自分の詩篇を切れたのは、さきほどいった自分の詩篇に滲み出ている「弱さ」に関連しています。自立性がもともと弱いということでもある。だから余分な手足がスパスパ切れる。切ってみると、たとえば詩が歪形になるかもしれない。なったって、それが弱さの美しさにつながってゆく。ともあれ小池さんの助言に従ったことで、詩集は五割がた、魅力が上昇したという気が僕にはあり、大変に感謝しているのです。
―― さきほど「連詩」の話が出ましたが、先生は森川雅美さんと「共謀」なさって、小池昌代さん、杉本真維子さん、久谷雉さん、黒瀬珂瀾さんから、末席に明道さんやわたしまでふくめた総勢12人のネット連詩を構想なさる。それは詩の共同性を考えてのことですね。同時に、それと平行するようにして、同じ運びの規則による一人連詩『大玉』の連載を、さらには一篇十行でひとつの動詞の実体に迫るという規則をもつ16章(一章の詩が同音の五動詞で構成されている)80篇の連作『動詩』を、それぞれ完成なさる。
阿部
連詩の法則は明道聡子さんとやった『木霊する場所で』と同じですね。現実を盛り込む、前詩の語句やフレーズを部分的に反復して受け、前詩の発想をズラす、行アキをふくまず数えて、トータル30行を厳守する、というもの。ただ、『大玉』『動詩』の詳しい話は別の機会に、ということにしましょう。
mixi上での詩作者との付き合いでとくにいっておきたいのが、廿楽順治さん、田中宏輔さんのことです。廿楽さんは、12人連詩のメンバー松本秀文くんが同人所属誌『ウルトラ』を送ってきてくれて初めて知りました。本当に不勉強だった。その後、連詩の会合のとき、この廿楽順治というのはすごい才能だ、と僕がふと褒めた。そしたら同席していた久谷くんが「改行屋廿楽商店」のハンドルネームでmixiをやってますよ、という。調べてみると、もう僕のmixiにその名前の「あしあと」が付いている。即座にマイミク申請しました。
廿楽さんは僕より二つ下だからほぼ同世代といっていい。マイナーポエットに親しむ感性が素晴らしい。廿楽さんは当時、自作の詩と一緒に、自分が昔感銘を受けた詩篇を転記打ちして、そこに若干の解説を加えるという連載をmixiでしていて、僕は中心的な詩壇ばかりに眼が行っていた自分の不明を恥じることになった。たとえば貞久秀紀さんとか広部英一さんとかを廿楽さんはフィーチュアした。女性詩人でも川田絢音さんや日和聡子さんなど、僕が読まずにきた書き手に言及していた。廿楽さん自身は松下育男さんをリスペクトして貞久さんに限りない畏怖を覚えるという独特のポジションで、松下・貞久のもつ怖いような人世哲学のうえに、独特のやくざな改行を駆使する、一見「小さな」――そのくせ「深く怖い」詩を書く。僕は廿楽さんの紹介する詩篇に耳目を開かれ、同時に廿楽さん自身の詩にも圧倒されて、励まされるようなかたちで『大玉』を書き進めていきました。こういう出会いによって、mixiがその最良の部分では詩に開放されているという感慨を得ることになります。この廿楽さん一人との出会いによって、さらに飛躍的に詩作者との付き合いが広がってもゆきました。
もうひとりの田中宏輔さんは僕の三つ下ですけど、『みんなきみのことが好きだった。』『Forest。』の二詩集で僕がずっとその学識と自在な精神と、詩の構築力に畏怖していたひとです。あしあとをつけてくれてマイミクになりました。彼の書く日記がまた独特で、面白く、廿楽さん同様によく書き込みをしていた。瞬時の記述に、哲学的スパークがあって、何かを書かされてしまうのです。そして彼とは「空間」についての考えをやりとりすることになり、いつの間にか僕の『大玉』に廿楽さん同様、「登場」してしまう。それで『大玉』完成の暁には、宏輔さんが全36篇を、一篇ごとに解説する連載を敢行し、それを完成させてしまった。
ともあれ、mixi上での現在の詩作者たちとの付き合いを語りだすとキリがなくなるのだけど、mixiが詩のホットポイントになっているのは確かです。ネット詩無視という詩壇の悪弊は、自己の権益を守るためのものにすぎないのは自明でしょうけど、それはもうこうした勢いにより、足許から崩れ始めているのです。
―― 先生は貞久秀紀さんの詩篇「夢」(『空気集め』所収)を俎上にして、廿楽さんたちと改行原則の議論を展開なさいましたね。あれもすごく印象に残っています。
阿部
そう、それで最初の話題に戻ることができます(笑)。そのとき交わした議論の結論だけをいうと、改行原則とは、「呼吸=身体性の顕現」「景の転換」「反復」「多様性」「空間性の確定」「サーヴィス」などから複合的につくられるものだということです。とりわけ改行によって、リズムがはっきりと現れ、そのリズムが読者の躯に打ち込まれる。だからそれは最大の同調材料というか同調箇所なのです。そこに「語調」が登場する。
それに僕はたぶん連句原則を考えている。自由律無季俳句のような詩行が、連句の付け合いのように並んでゆくようなもの。僕の詩の改行でいうと、その傾向は『昨日知った、あらゆる声で』と『大玉』にとくにつよいですね。
最近、現代詩の「改行」を無意識の産物と糾弾する風潮が起こっていますが、とんでもない誤りです。「改行」にずっと懐疑を覚えていて、ようやく改行の呼吸を体感したこの僕がいうのだから、間違いありません(笑)。口語自由詩は改行こそがポイントなのです。次が「助詞」。それらが実はリズムと脱臼にみちた世界観をつくりあげる。ともあれ自分で納得のゆく改行が可能になって、僕も詩集を公にすることができるようになった――そう換言してもいいです。
僕も廿楽さんと同様、「改行の達人」になりたいとはおもう。あのひとの改行には殺気がある。それとあのひとの詩は各行が多様性によって組織されていて、それが行末語尾の口語助詞の展覧にも現れてくる。ただ、「聯」を廿楽さんは使わない。いっぽう僕の詩の本質はきっと「弱さ」だとおもいます。廿楽さんと同じオヤジ詩、人世派だろうけども。で、僕の改行のおおむねには「唄う」意識がよりつよいかもしれない。まあ、僕の大切な出自のひとつが音楽だから、そうなるのでしょうね。
詩大陸への接岸(1)
詩大陸への接岸
(なぜふたたび詩は書かれるようになったのか)
――阿部嘉昭インタビュー
(聞き手・三村京子)
―― なぜ最近、詩を書かれるようになったのですか。
阿部
本当のところはよくわかりません。90年代の終わりごろ、パソコンを購入しメールを打ってゆくうちに、読みやすさを考え改行・行アキ文を駆使していったのがキッカケになって、「改行リズム」が躯を貫きはじめ、それが自然と詩作につながっていった――そんな説明をよくしていますが、実はそれも定かではありません。ただ、「改行」が現在の詩作の原動力になったのは確かだとおもいます。
―― それはどうしてですか。
阿部
僕は実は大学のころ現代詩における「改行」というものがずっとわからないできたのです。短歌・俳句なら律があって、詩の成立要因は規則として理解できる。それぞれは基本的に一行棒書きです。改行行為はなく律だけが自立している。ところが現代詩の改行は律が外因となっているわけではなく(内在リズムがあるとは読み下せばすぐに理解ができますが)、それらの改行がすごく恣意的にしか当時の僕には映らなかった。接続詞の「が」だけの一字で改行がなされている場合などは、いくら景の転換という理解が及んだとしても、僕の吝嗇が許さなかった(笑)。紙面が勿体ない、と本気で憤ったものでした。分かち書きの空間美というものもあまり信じませんでした。
だから僕は大学時代、自分で詩を書く場合の改行原則を、偏狭に設定することでしか詩が書けないような気がしていたのです。別の言い方をするならば「定型」をもとめた。
たとえばソネットをつくって、ソネットの決まりどおりに脚韻を踏むことで、個々の改行を施したりしました。鈴木漠さんのようなアプローチですね。鈴木さん同様、「マチネ・ポエティカ」よりは複雑な脚韻を踏める自信がありました。ひらがな単位でいう、一音ではなく、一音半、もしくは二音の脚韻ですね(いまからいうと、このような脚韻詩はJラップを先駆けるものになっていたような気もします)。当時は、塚本邦雄『水銀伝説』での、短歌における脚韻実験に驚倒していましたから、それくらいのことは自分でも考えられたのです。そうして自分の詩作に、すごく実験的な人工的な条件を課し、それをクリアすることが詩作の動機になっていたといえます。字数揃えの幾何学形詩篇も、同様にしてつくりました。
ただ自分が人工物をつくっている――パズルをつくっているという後ろめたさからは開放されませんでした。ロートレアモンやらマラルメやら、その他、自分の好きな西洋詩の「精神」をもちこんだという自負があっても、それは一面、当時憶えていた稀用語彙の展覧にしかすぎず、詩作の動機が「魂」から湧き出ている感覚がなかった。とうぜん僕には「人生」が足りなかったし、それを言葉の実在へと転化する意識もなかった。すべては机上の出来事、砂上楼閣の作成に尽きていた。また、当時の僕の文学的知識は具合の悪いことに、それを「架空のオペラ」と自負して恥じない面もつよかった。振り返ってみると、あの当時の驕慢な自分、実に嫌いですね(笑)。
―― すると先生は大学時代を中心にした詩の習作期以後、詩作を断念された、ということになるのでしょうか。
阿部
まさにそのとおりです。あるとき、自分でつくっていた清書ノートを見直したことがあった。20代の半ばごろかな。見直してみて、書かれたものの殆どすべてが下らないとおもった。「青臭かった」のです。自己顕示欲やら文学的野心やらが溢れかえっていて、この「自意識」は誰にも掬されないだろう、と暗然とした。それで僕は詩篇のごく一部を例外的に転記して残したあと(これも吝嗇の賜物です-笑)、ノートそのものは破棄してしまいました。これらについては惜しい、という気もしなかった。自分の文学的出発が錯誤だった、とその当時の年齢で、醒めた眼で確認したというにすぎません。
―― 文学的出発という点をもう少し詳しく語っていただけませんか。
阿部
よくいうように、僕は高校のころ勉強ができなかったので、「不良少年」が陥るような文学愛好のパターンを典型的に踏んでいた、ということですね。詩は自分の「不良化」のアイテムでした。僕の世代ならばお定まりの、安直な詩的研鑽を積んでいったのだとおもいます。古典が苦手。だからまずは詩よりも先にロックやマンガがあった。中学時代の僕の詩は記憶にはっきり残っていませんが、ボブ・ディラン崩れや鈴木翁二崩れのような駄作ばかりを書いていた、非常に頭の悪い子供だった気がします。大学に入って、塚本邦雄をはじめとした現代短歌、あるいはフランス詩などにも出会いますが、出自の悪さは終生、僕につきまとうものです。無手勝で詩を書く悪法から逃れる手立てがなかった。
ただ、自負心だけがどうしようもなくつよかった。それで細々とながら、20代半ばまでは詩を書いてはいたのです。決定的な事柄があった。80年代前半、「現代詩手帖」の賞に自作を応募に出したのです。そのときは平田俊子さんが受賞なさいました。僕の詩は、最終選考の座談会の俎上にはのぼった。大岡信さんは「このひとは後ろ向きに詩を書いている」と指摘なさった。吉増剛造さんは、この後ろ向きのかたちは嫌いではない、と助け舟を出してくださいましたけども。それと、大岡さんは、「このひとの詩は短歌的喩を実験的に詩作にもちこんでいる」と喝破なさいました。つまらない異種交配を端的に見抜かれて、選評を読んだ僕はすごく赤面したものです。僕はすぐに識者に見抜かれてしまう、野心的な振舞をしたにすぎない。これが、僕が詩から離れる大きな動因になりました。
―― そのとき先生が応募されたのは、やはり脚韻詩だったのですか。
阿部
いえ、散文詩でした。「改行原則」を理解できなかった僕は、当時は散文詩の作成だけに活路をもとめていたのです。この散文詩への退却はすでに敗北の兆候だったとおもいます。
当時の僕はアルバイトで散文というか、コラムを書き飛ばしていて、躯のリズムに散文性が組織されつつあった。そのリズムにたいし、詩を持ち込もうとしていたのだとおもいます。
変な言い方ですが、死に損なった、という暗い気持だった。別に自殺願望はなかったですが、ものすごく不健康な生活を繰り返していましたし、躯も弱かったので、自分が早死にするという傲慢な確信をもっていたのです。ジミ・ヘンドリックスやロートレアモンの没年はいつも頭にあった。あるいはランボーの詩的夭折も。詩はその意味で「少年」が書くものだという偏った考えをしていたのです。このとき、もしかすると三島由紀夫の短篇「詩を書く少年」の影響が尾を引いていたのかもしれません。詩は少年期に書いて、その詩的少年がやがて死ぬ。あとは砂を噛むような「散文精神」で己れを組織しなければならない(とくに男の場合は)。
ポール・ヴァレリーのいう「詩=舞踏/散文=散歩」の区分については深く考えなかったままでした。「散歩」のように詩行が進んでゆく詩の素晴らしさに眼を開かれたおもいがしたのは、身近な存在だった福間健二さんの詩を読んでからです。考えてみれば愚かなほどに開眼が遅い。同じ「兆候」は僕が詩を書かなくなってからも親しんでいた西脇順三郎や稲川方人の詩にもありましたから。ただ「散歩」を端的にテーマとする福間詩に出会って、「詩行も散歩している」という驚嘆を覚えた。「雪解け」のひとつだったかもしれません。
僕は散文詩を書くと、自家中毒に陥ってしまう自覚があった。平出隆さんの『胡桃の戦意のために』などに憧れすぎていたのでしょう。逆に改行詩は「少年」、もしくは「女性」のものだ、という偏見もありました。僕の代わりに平田俊子さんが受賞なさったことは、だから実に象徴的なことでした。80年代は確かに「女性詩」の時代で、「少年期」が完全終了した自分は詩大陸から撤退しなければならない、とおもいこんでいました。
ただ、僕は当時隆盛だった女性詩が肌に合わなかった。それで俳句・短歌に「女性の声」を探したのです。俳句では、三橋鷹女、中村苑子、 短歌では葛原妙子、安永蕗子などですね。それと僕は西友というスーパーで映画製作の部門にいたのですが、あるとき製作された映画が、亡くなった熊井啓さんの『式部物語』だった。これは秋元松代さんの傑作戯曲『かさぶた式部考』を原作にしている。それで柳田國男が式部伝説を追った『女性と民間伝承』の記述にあたるうちに、和泉式部の和歌や「存在の並立・伝播性」自体がすごくいいとおもうようになりました。導きとなったのは、寺田透の著作でした。『和泉式部』。躯から「あくがれいづる蛍」、それしか「詩」がないのではないか。塚本邦雄の著作によって、式子内親王など新古今時代の女性歌にも親しんでいましたが、僕にはもともとロックジャンルでも何でも女性は表現者として劣る、という偏見がある。与謝野晶子はいちばんいいものでも絢爛すぎて臆していました。
その意味でいうと、葛原や鷹女など一時期の女性の詩がいいのは歴史的例外ではないか、ともおもっていた。不勉強も甚だしかった。そのうち、「ラ・メール」が創刊される。それで新川和江を読む。ただ、それでも例外以外に女性の詩への興味が永続しない。そういう逼塞を説いてくれたのが、僕の場合、水原紫苑の短歌でした。そのあとが小池昌代さんかな。あと、椎名林檎のデビューが大きかった。というと、もう90年代も後半の話になってしまいますが。
―― 「女性好き」だったことが詩作復活の一因となったということですか(笑)。
阿部
これは僕の魂の秘密に関わることなので、深くはいいたくない(笑)。ただ、一言だけいっておきましょう――詩を書くことは僕の場合、たしかに魂の女性化、あるいは中性化に関わっています。だから、「女になってみせる」ことで、詩作が妙に進む場合があります。僕のサイトに、『壊滅的な私とは誰か』という未刊詩集がアップされているのですが、これは立教の女子学生に自分を仮託して、その子の書きそうな詩を一気に書いてしまったものです。稲川方人の『アミとわたし』、あるいは吉岡実の『サフラン摘み』が体現している素晴らしい女性性・少女性に対抗する意識がありました(笑)。この未刊詩集中のいくつかの詩篇は、あなた――三村京子がいまライヴで演奏つき朗読をしています。こうして架空の女性性がバトンリレーされた。「してやったり」とおもいます(笑)。
―― 散文精神と詩作に関わる「その後」をお訊きしたいのですが。
阿部
雑誌コラムや業界紙コラム、あるいはレビューを僕は80年代、書き飛ばしていました。さっきからの話でおわかりかもしれませんが、僕は大学時代、映像漬け・音楽漬けとなるとともに、文学漬けとなりました。鏡花だって日夏だって江戸物だって耽読していたから語彙幅は異様です。そういう自分を韜晦して散文を書いていた。僕、自分でいうのも何ですが、コラムがすごくうまかったんですよ。情報度が高く、圧縮がうまく、しかも文章が軽く、流麗だった。いちばん気にいっていたのが、最も実験的な書き方が許されたAVレビューだったかもしれない。リズムがよくて、それだけで読者を笑いに導いた。このとき自分の文章の特質は、語彙でも凝縮力でも情報度でもなく、リズムではないかとおもいはじめた。
これがのち、単行本単位の散文を書くようになってさらにはっきりしてくる。もともと一文の発想は、自分のリズム感覚に切り込まれるように現れてくる。打っているリズムが自分の躯を強烈に覚醒させ、それをさらに錐揉むように抉ってゆくことで、文が次々に連打されてゆく。入れ子構造に入ってゆく感覚があります。疲弊でこのリズムが失われかけたときには、文頭に戻って書いたところまでを読みなおし、すでにあるリズムを「貰って」、また書き継ぐといった厄介な書法です。「散文精神」などとは程遠い(笑)。ただし多くの読者もまた、こうした潜在している僕の文章のリズムを「貰い」、酩酊にいたる、といってくれますね。
「リズムを貰う」というのは、すごく大きなことなのではないでしょうか。僕はそのことのために、詩集を繰り返して読む。最も多く読んだのは、稲川方人さんの80年代までの詩集や西脇などですね。彼らの詩集を読むと一日程度は心地よいリズムが躯に永続する。それを味わいたくてその詩集を読むということは、詩集体験がほぼCD体験とも等しい、ということになるのだとおもいます。
散文詩は、そのことでいうと、読了してしまうと達成感が出てしまい、その後を読み直すことがあまりない。その緊密な空間を、縛りを解き読み解いていった喜びを、記憶力の悪い僕はすぐ忘れてしまうのです。となった場合、詩集空間はどこかで「未了性」を残しているほうが、再読の魅惑にあふれているといえるのかもしれません。事実、完璧な詩集を僕はあまり再読しませんね。吉岡実なら『静物』も『僧侶』も打っ棄ったままになっている。逆に中期後期の詩はよく読み返す。ただ、吉岡実は後期になると、リズムが「貰えなく」なってきます。
「リズム」というのは、推敲原理と離反するものですね。フロベール的な「最良の文字運び」が世に存在するとする。ところがその意識はたぶん書く者を失語に導いてしまう。リズムは文の最良性を個体性に縮減するものです。肉体の場所はそこから鳴動する。フロベール的理想からいうと矮小化ということになるのかもしれませんが、そのような完璧な「文」もいま流行らない、のではないか。
僕は小説を習作にせよ書かなくなって久しいから、自分の書くものには散文原理がなくなっている。単行本単位の評論をリズムで書ききるなど暴挙というに等しい(笑)。ただ、出自の悪い自分の身の丈には、それが見合っていると考えています。こういう自分にとっての理想が平岡正明さんですね。
そういえば、小池昌代さんは詩も小説もお書きになる人ですが、詩作と小説執筆では逆の原理が働くとおっしゃっていた。最近出た『僕はこんな日常や感情でできています』でも書かれているエピソードですが。小池さんは、詩は「一つの息」で書ききるのだという。小池さんのいい詩はリズムが清潔で、すごく静謐です。失敗していると感じられる詩は、おそらく一つの息では仕上げられずに、説明的な散文脈が舞い込んでしまったものではないか。それでもそのタイプの詩では、「散文+詩=詩」という不思議な加算がおこなわれています。そこがあのひとの特質だとおもう。この感覚があるから、詩集の全体構成がすごく見事です。
逆に小池さんの場合、小説は、推敲しだすと、一箇所を直せば別の一箇所が必然的に動く――というような、すごく神経症的な自己改定に迫られるらしい。僕などは面倒くさがり屋なので、そんなふうに小説などはもう書けなくなっていますね、年齢的にも。
詩に推敲は一体どのくらい必要なのか。昔、稲川方人さんと、京王線の終点近くの西河克己さんのお宅にお邪魔して、その帰り、ずっと京王線に並んで座って新宿に向かっていったとき、稲川さんの詩作について僕が「インタビュー」をしたことがありました。郡淳一郎くんなどは、「よくそんな大それたことを」と吃驚していましたが(笑)。
稲川さんはご承知のように、詩誌初出の詩篇を厳密に再構成して、各詩篇の仮題を奪い、全体を連詩的に並べ替え、一冊の詩集を完成させる、という経路をとっているひとです。個別性の剥奪が普遍化につながる回路は、地名などの剥奪とともに、詩篇名の剥奪とも相即している。稲川さんの詩は、その独特の硬質な語彙に馴染みさえすればすごく抒情的に響きはじめる。「喪失」がテーマだし。「怒り」も明らかですが、その「怒り」の質も好きで、しかも言葉には動悸させるような冥府性やら脱臼やらも仕込まれる。
で、その稲川詩は、僕などはそのリズムが好きで、速読してしまうのです。だから再読もする。それで自分の流儀で稲川さんに、詩も速成するのでしょう、と訊いたら、稲川さんは怪訝な顔をした。つまり稲川さんには、血の滲むような推敲が当たり前だったのですね。詩篇発表時に推敲を繰り返し、再構成時には並べ順の検討もふくめ、そこでも推敲を繰り返す。で、リズムは「本質」として練磨の果てに顕現してくる。「エピファニー」の用語にふさわしい、一種神秘的な詩作方法が遵守されているのだとおもいました。むろん流儀にはいろいろあっていい。そういうことでいえば、練磨の果てにせよ、リズムがくっきり現れたものが、再読の誘惑をもつ、という単純事実だけを指摘すれば済むのかもしれません。
―― 先生は詩をすごく早く書く、とよく話題になりますね。
阿部
はい(笑)。というか、僕は雑誌コラムでも評論でもメール文でもブログ文でも、書くのがすごく早いですよ。ガッガッガッガッという身体リズムがある。キーボードを打つというより引っ掻くような音が自分の躯のなかにあらかじめ鳴っている。その打刻や摩擦の音に、言葉が次々とからげられだし、それが見る見る連接して、文章ができあがってしまうのです。下品な書き方、といえるかもしれません(笑)。
随分と仕事で文章を書いているから、書き出す前に、自分の書こうとするものの過半はみえています。ただ、指の踏み外しというか、フッと書いてしまったことのほうが、その文中では抵抗圧になったり命になったりしている意識もある。リズムを鳴らしながら、フレキシビリティへもってゆく、というのが、自分の中ではコツになっているかもしれません。まあ、一種、集中を要求される作業ではあります。
これを、事前認知をほぼゼロにして、それ自体の「運び」だけで自己組織を完成させるのが、僕にとっての詩作です。
とうぜん、「想起」という問題がそこに舞いこんできます。論理ではなく想起で詩行を運んでゆくことを、僕自身は「弱い」ことだと考えています。『僕はこんな日常や感情でできています』での保坂和志の書評記事にも書いたことですが、「想起」の痕跡が認められる瞬間に、その詩篇や文章が個人性の枠組で書かれた証拠が露出する。ただ、そうした「弱さ」も詩には必要なのではないか。
「私」を「想起」によって詩に登場させてもいい、とおもうようになりました。ただ書かれる「私」は、自分にとって既知ではなく、未知の「私」です。それだからこそ、自分の詩を、他者性の何かが介在したものとしてスリリングに再読ができる。そうして詩はその作者と契約を結ぶのだし、詩特有の「それ自体」と「それ以外」を同時にふくむ修辞は、かならず有形無形に「思考」自体の更新へと飛躍的な変化を遂げる。だから詩作は実利的に有効なのです。
「私」が自分にとって自明でないのはなぜか。それは「私」が複数だからです。それで、ひとつの「私」の影に別の「私」が隠されている事態が生じている。詩は、とりわけそうして隠れている「私」を書くのだとおもう。
―― 詩は「私」を書くにふさわしい文学形式だということですね。
阿部
そういえるとおもいます。ただし、そのことだけをいうと語弊の生じる惧れがあります。詩のもっと大きい権能は、「文」を切断的に変える契機をふくんでいることです。
たとえば、こういってみましょう――「想起」でひきずりだされてくるものは、そのおおむねが「文」の単位です。ただ、この場合の「文」は詩にとっての敵対要素。だからそれは自然、足りなかったり、ひしゃげたものになろうとする。そうした畸形的な「不足文」を単位として詩に喚起し、それらを切り貼り・コラージュのように自己組織してゆくのが僕の詩作の特徴かもしれません。
そのいびつな文をつなげてゆく接着剤のようなものが「助詞」です。この助詞の用例こそが発明されなければならない。助詞に負荷をかけて、助詞を変成させるのです。それで詩的な混乱状態が導きだされる。
その意味で、僕は詩篇を読み、そのなかの「詩語」に惹かれる度合が少ないのかもしれません。それに「荒地」から出発した現代詩の場合、詩語が極度に偏向している。それよりも言葉の壊れた状態に目覚め、とりわけ、助詞の逸脱に動悸する、というほうが僕には多かった。僕の現在の連詩仲間に若手女性詩人の注目株、杉本真維子さんがいますが、彼女の新しい詩集『袖口の動物』でいちばん驚嘆したのも助詞の新規な用例でした。
いっぽうで僕は「リズム的思考」というのを信じているのです。実際に、精神療法にも活用されていると聞きます。音楽療法というのもあるでしょう。音楽療法ということで憶いだしましたが、あなたは自分の音楽活動が立ち行かないようなら、「音楽療法士」の資格を取りたい、と一時期語っていましたね。
―― はい。
阿部
そのあなたの曲の作詞を僕は30曲以上していて、あなたはそれをアルバムに収録したりライヴでも披露していますが、大体の曲づくりの手順は以下のようになります。充分ご存知のあなたにいうのはヘンですが、読者のためにいいます(笑)。
あなたがコードストロークなどギターの伴奏をつけ、歌メロを「ラララ」音の連鎖で唄い、それをCDに録音してくる。僕はまず、音数を○○○…で転記し、あとはその「ラララ」を繰り返し聴く。すると5分くらいして、まさにその「ラララ」に、これしかない、という歌詞が実際に聴こえだすのです。それでやおら〇〇〇…を埋め始める。ここまでが勝負。あとはABCメロが組み込まれた複雑な構造であっても一番がスルスルとできてしまい、すると二番もその対照性か物語展開を考えることでできてしまう。最後に自分の嵌めた歌詞を「ラララ」音源を聴きながら眼で追って、唄いにくいところのチェックなど微調整をおこなうだけです。
このときの自分の作詞原理とは一体何なのか。やはりまずは「リズム」によって言葉が虚空から吸着されてくる、ということです。同時に、メロディやコードの表情というものも考慮されている。それに従順にしたがうか、対位法的組織をおこなうかはそれぞれですが、適切な言葉、というものが必ず出てくる。律動性・旋律性が言葉を確定させてしまうのですね。僕はこの作業も異常に速い。つくりかけのまま放置、ということも一切ありません。
(この項つづく)