「なにぬねの?」への二文書
【短句(自由律)五句】
天平のわれ百のうつろや
八朔重たげな春あらし
庭のさきにも庭が来てゐる
朝の千露を迷ひ鹿ゆく
覆水だらけの老いの部屋ぬち
●
【推敲】
推すも敲くも
眼前に春の扉ありて
その奥に
女の崩し字のざわめき。
跳ね糸ひとつ引けば
伽藍伽藍と
構想も緑青もなん
どたり頽れてゆく。
「S様いとし」
「やなぎがしるし」
発芽か発眼を
樹の抽象にみて
さてこの験しを
いかに女字に崩すか
結局は万字や卍になって
胡坐の身も経文だらけ。
「まだ耳のこる
はなはるの」
身を推して身を敲く、
最期めらのぽこぽこ音。
おんおんおんと
仔馬もゆくよ、
ゆたり狂気の渡りを。
遠いね、万物はとほい
身に実に
●
今日、「なにぬねの?」にアップした二文書を
説明ぬきでここに転載しておきます
倉田良成・金の枝のあいだから
94年に刊行された倉田良成の詩集『金の枝のあいだから』は
その存在がこれまでさほど重要視されてこなかったとおもうが、
じつは日本の90年代詩を代表するものだった。
この詩集の存在を知る/知らない、で90年代詩の見え方が
ぜんぜん変わってしまうような気さえする。
倉田はその意味でたとえば貞久秀紀のように重要な存在だった。
題名中の「金の枝」から民俗学的著作の嚆矢となった
フレイザー『金枝篇』をおもう読者もいるかもしれない。
卓上で書かれた民俗学という批判も仄聞するが、
倉田は秋の季節のなかでその身を実際に地上へ彷徨わせ、
金枝という具象の向こうにある季節的抽象を
時に古典文献を変型引用しつつ自らの眼前に明かし立ててゆく。
ならば題名も含意される「金枝篇」から「金枝変」へと
その姿を華麗に変えるだろう。
●
――「秋」と書いた。
収録された全18篇は、時系列、創作の日付入りで単に並べられている。
企みのないナイーヴな詩集組成のようにみえて、そうではない。
日付の最初、つまり冒頭詩篇が03年9月6日、
最終(詩篇)が翌04年1月5日である限り、
唄われる中心の季節も「秋」なのだが、
この詩集で特権化される語は、
時に金木犀や菊など具体的季題であることがあっても
やはり「秋」という抽象語なのだった(ほか「朝」の字もつよく印象に残る)。
【「朝」については
《朝になると/球と/円錐と/円柱からなる/純粋な世界が出現する》
という、セザンヌに依拠したのではないかとおもわれる美しい詩行が
第十五詩篇「河明かり」にみえる】
季節論として秋のさまざまを具象的に召喚してゆくのではなく、
抽象としての秋を詩篇内に立ち上らせ、
そこに芭蕉をはじめ古典詩句を召喚し、季節の織物を編み上げる。
秋は刻々の詩篇に伴うその微妙な推移進展のうちに重層化されて
実体として厚みを増しつつ、その厚みがまた抽象化される。
そこに倉田の現身の見聞と読書蓄積が介在しているのだから
詩篇は生身の表れと消去という緊張感ある劇を
針の穴を通るように上演貫徹しようともしている。
誰しもがおもうこと、それはこの詩集での倉田の営みが
秋季に限定された独吟連詩だという点だろう。
僕自身は自分のかつての営み、『大玉』との類似に驚愕した
(あの一人連詩の前半の主役は夏だったが
後半の主役はやはり秋だった――
ただし二つの季節に跨ったため、倉田の『金の枝』ほどの純度がない)。
類似といえばもうひとつ、詩的語法でも
「これは自分が書いたのではないか」というほどの共通点が頻出する。
ただしそれは西脇順三郎の語法が
ともに敬意のうちに継承されたという意味での共通でもある。
「秋」とは何か。地球が刻々の短日化、冷却化にともない、
懐かしく衰退してゆくその相が
生きとし生けるものに分有されてゆく季だということだ。
その反面で生き物の内部は「灯り」の様相をつよくする。
人間が人間をおもうのみならず、
秋の内部性がその内部性に向け遊星的郷愁を反射分泌する。
結果、清澄のなかに、何か奇態な湿潤を覚える
――このきりきりした撞着的体感が秋の魅惑なのだと僕などはおもう。
芭蕉は唄う――《秋深き隣は何をする人ぞ》。
虚子は唄う――《深秋といふことのあり人も亦》。
「秋隣」は成語となり、秋の空間を、憧憬を伴って内部分割する。
清澄な気のなか離れてあるものがメタ的な内部を作り、秋の郷愁が高まる。
西脇ならどうか。
倉田は10番目の詩篇「猫曲がり町で」で
西脇の詩篇「秋」を『近代の寓話』から引用する。
その「Ⅱ」を、分かち書きを省いてここに全篇引用してみよう。
《タイフーンの吹いている朝/近所の店へ行つて/あの黄色い外国製の鉛筆を買つた/扇のように軽い鉛筆だ/あのやわらかい木/けずつた木屑を燃やすと/バラモンのにおいがする/門をとじて思うのだ/明朝はもう秋だ》。
「秋」の語の裸の使用、二度の「朝」の時間化を介在させた偏差、
これらはこの『金の枝のあいだから』の倉田のものでもあるが
秋の内部性への皮膚感覚的覚醒も、「バラモンのにおい」もまた倉田のものだ。
つまり語法のみならず、感覚をも倉田は西脇から多く継承している。
具体的に詩篇細部を散策してみよう。
●
秋という
季節があるのではない
それは冬にむかって下降してゆく
意識のプロセスそれ自体だ
と少年の私は書く
いまならば言おう
秋は意識ではない
それは人の夕ぐれを生きることそのものだと
(第五詩篇「祭りの終わり」より)
●
直截なマニフェストのようにもみえる。
この詩篇を書いた当時、倉田は40歳になっていたとおもうが、
季節の老衰に身体に兆していた老いが即応し
秋の「見え方」が深化したのだとおもう。
それを彼はいわずにはおれなかったのだろう。
そして「減衰」「細り」の遍在は、世界の細部を美しくもする。
「末期の眼」と似た感覚変化がここに生じている。
その秋は第一詩篇「みどりご」、その冒頭から速やかに定着されている。
その箇所がエピグラフ的に書かれたものであることは
全体の字下げ、Q数下げを通じて明らかだ。
その第二聯までを引用してみよう。
読者は美しさに卒倒するかもしれないが。
●
ヒグラシとおなじ音階で目覚ましが鳴る
朝
事物はみな細くなる
まぎれもなく
世界は秋だ
血が垂直に立ちあがると
二階の住人が起きだす
見えない洗面器で歯をみがき
幻の朝食をとり
幻の会社に出かけてゆく
それからしばらくのあいだ
私たちは眠る
●
秋の気配の外側に自分たちを擬制して「まずは眠る」その営みは、
自らの深甚な箇所に秋の転写をまかせる積極性でもある。
詩集は94年刊だから紐育で高層ビル二棟が
派手に自壊したのが眼底に灼きつけられるにはまだ遠いが、
資本主義の減衰を「バブル崩壊」の語とともに誰もが経験していたはずだ。
だからこの「秋」は季節的減衰にとどまらないと留意する必要がある。
「秋」の内部性と書いた。
そうした内部性が意識されて倉田自身の視界が変性を受け、
次のような美しい詩句が到来する(第四詩篇「火の兎」より)。
●
画のなかに松籟を聴く
ひびきにみたされるリビングルーム
マコモカルカヤ
古地図のうえに
静脈のようにまがりくねってたどる道
たびびとはうたをよみ
ゆめにも逢わぬ恋をする
電話が鳴りつづける
深い霧のむこうの
音楽の
寺院から
●
引用中、一箇所、斜体写植で示された《ゆめにも逢わぬ恋をする》は
『伊勢物語』が出典(倉田自身が自註を巻末に付している)。
この「ゆめにも逢わぬ」の疎隔と「恋をする」の踏み外しの不均衡によって
小人化して古地図上、幻想旅行をする幼年ベンヤミンのような述懐が生じ、
室内に秋霧が生まれ、
最初にあった音「松籟」がいつの間にか「電話音」に変化している。
こうした魔術的機微が味われるべきだろう。
そして「音楽の/寺院」という美しい語句が召喚されて
記述されている場所全体が朧化してしまう。
それでいながら、真菰をかぶった刈萱という説経節の主体が残余するし、
「たびびと」からはそれ以前の詩篇の西脇的語調も相俟って
西脇的「幻影の人」の俤がかぎ当てられるだろう。
こう書いて、読者はこの一節の多時間性・多空間性を印象するだろうが、
倉田はそういう魔術的言辞をこの詩集で確かに駆使している。
引用の一節は詩空間のなかに「窓」を穿つ機能を果たしているが、
たとえば西脇『旅人かへらず』に強迫的に出てきたのも「窓」の主題だった。
その「窓」は極小化して、詩空間に松籟をめぐらせる風穴となり、
結果、詩の「内部/外部」の弁別が無効となる。
たとえば第八詩篇から第九詩篇で
倉田が自註をつけていない細部に対照表を設けてみよう。
《ファインダーには露の連山》→飯田蛇笏の句《芋の露連山影を正しうす》
《鳥は自由ではない/鳥は自らの内側を飛ぶにすぎない》→
《鳥は飛ぶ/鳥は鳥のなかで飛ぶ》(田村隆一「言葉のない世界」)
《堂の隅に匂う春/誰かが立ち去ったということだ》→
「(人が立ったばかりの)座席のぬくもりは極薄である」
(マルセル・デュシャンの「アンフラマンス」メモ=
むろん倉田は越人の句
《人去りていまだ御坐の匂ひける》が典拠と自註を付している)
このような典拠をめぐる細部のさざめきは、
たとえば《通りのむこうで秋茄子が赤らんでいる》という平叙の詩行にも
奥行を幻覚させる付帯作用をもたらすだろう。
僕ならばやはり西脇の「茄子」(『宝石の眠り』所載)をここで想起した。
以下、引用――
私の道は九月の正午
紫の畑につきた
人間の生涯は
茄子のふくらみに写つている
すべての変化は
茄子から茄子へ移るだけだ
空間も時間もすべて
茄子の上に白く写るだけだ
アポロンよ
ネムノキよ
人糞よ
われわれの神話は
茄子の皮の上を
横切る神々の
笑いだ
「移り/写り」の際どい戯れ。
倉田もまた引用行為によって、移り/写りをざわめかせている。
西脇ならそうした細部の外側に「ポポイ!」という透明な悲嘆を響かせるが
むろん倉田もそれを忘れていない。
たしかに第二詩篇には
《沈黙は絶対である/口をひらく存在があるとすれば/ヤー/肯定の声》
という運びがあって、
この「ヤー」もまた、Yesの音便であり、ヤハヴェの略なのではないか。
「秋」の細部には写り/移りによって魂が複数的に内在化する。
魂の分有によって空間が共通性で記載される――その完成形が、秋だ。
●
秋
すべての町内で祭礼が終わる
空を映す鏡のように
とつぜん神々はいなくなる
にわかにやってくる冷気のきらめきのなかで
人々に
「それ」はやどるのだ
離れていたこいびとの透明な微笑や
しずかに交わされる目礼のうちに
湯のようにあふれでる
花器の幻のうちに
【第五詩篇「祭りの終わり」より。
《とつぜん神々はいなくなる》には神無月の故事が意識されているだろう】
●
秋を二重化させる存在は、空気と同等に澄んだ水だ。
この水によって秋は無底化し、脱中心化し再(/多)中心化する。
となったとき、水は気配とか予想といった未来形の浸入をも意味する。
以下、四つの細部を引用するが、
水によって空間が狂気に傾くように軸を失うことが
そのまま詩行の運動にすり変わる様を味到してほしい。
●
ハハキギが水の野原の果てに倒立する
ありとは見えて
逃げ去る女
とびちる露の笛のひとふりで
白昼の夢はよみがえるだろう
この原を
横ざまに過ぎてゆく歌読み
ツキの木が亭々と風に吹かれている
【第七詩篇「裏山」より。
「帚木(ハハキギ)」は箒をつくる際の材料で
『源氏』や『伊勢』にも因んだ和歌が相聞形式で盛られているが、
その眼目は、遠めにしかと見えた円錐型の輪郭が
近付くと茫と消え果ててしまう独特の不安定な形状をしている点だ。
だから覚束ない恋の異名となる。
虚子の句《帚木に影といふものありにけり》も知られているだろう。
倉田はさらにその帚木を水面に写して倒立させている】
●
虹のしたには市が立つという
コノコトハ先例ナカルベシ
だが巨大な蛇は眠らないのだ
不思議な光のなかの
皿や椀
かがやく塩を秤にかけ
柳の酒はほとばしるだろう
投げられる性愛の合図のように
水の刃のオルギーを渡ってくる馬
それから
髭面が愛す
ハジカミの夜
【第十一詩篇「アダチ」より。
「アダチ」には「足立区」と「安達ヶ原」が懸けられている。
《水の刃のオルギーを渡ってくる馬》という詩句が素晴らしいとおもう。
ちなみに「オルギー」は乱交】
●
秋のなかに水の庭がある
死は生よりも巨きい
しかし
「存在」はさらに深いのだ
花々がボウルの液体を揚げている
灰色の空に
モズの叫びが翔る
私たちの内部に磔られた
かがやく虹の贄
僧形の裸眼で感じている
火の白石を撃つ音
【第十三詩篇「水の庭」より。
西脇の語調が明瞭だろう――とくに前半が。
頭韻で結ばれた「虹」「贄(にえ)」の配合にどきりとする。
高柳重信の「虹/処刑台」も念頭に置かれているかもしれない】
●
これは何だ
花喰い鳥
これは何だ
ダキニ天
あくまでも暗い山の晴天に
虹のようにふるえる水の柱が起つのだ
それを極彩色の宗教画で見た
猫曲がりで
焦げた四辻で
盗まれた心臓で
【第十詩篇「猫曲がり町で」より。
造語地名くさい「猫曲がり町」を
僕は朔太郎「猫町」と西脇の好きな語彙「曲がる」の合体と取った。
「ダキニ天」は夜叉の一種で心臓を食らう。
このイメージがその前の「花喰い鳥」と
ポオ由来の「盗まれた心臓」のあいだで宙吊られているほか、
「水の柱」には「一柱二柱」と算える神の俤があるし、
「ダキニ」は「抱き寝」に通じるし、
「晴天」が68年詩人芝山幹郎の詩集題だったりと
イメージが輻輳して飛び火する。
何よりもここでの詩行の運びがこの詩集中、最も狂言綺語めいていて
僕はここに自分の語調に似たものをとくに感じた】
●
「水」はやがて当然に「海」へと通じてゆく。
最後に、その海を脱空間的、凶暴に唄った倉田の詩行を引用して
この一文を閉じよう。あらかじめ付言しておけば、
以前に「刈萱」が倉田のイメージに湧き出したことがあったが、
ここでは説経節「小栗」での彼の愛人「照手姫」が現れ、
説経神話の宝庫・紀州の補弥落信仰が付帯し、
その盲船は南海浄土ではなくランボー幻想的に太陽に突入してゆく
(第十四詩篇「花の名前」より)。
●
不完全な肉体は
遊女の曳く車に乗せられて
海道を上る
声はわれたる笛を吹くやうになん
こんじきの湯の
暴力のような再生に巡り合うまで
あたに懼るべき幻術なり
テルテは千人
小袖で男たちをかくまう
紀州補陀落の海、か
福聚海無量、か
不生不滅不増不減、か
陸続と人々の群れがむかう西
果ては海に没し
太陽につづく
きらめく巨大な球根
花の名前はついに知らされない
その門をくぐることはなかったのだ
全天の鳶が
ガソリンの虹色の円周をひろげる
濡れた霜月の路上を見下ろしている
メタフィジカルに
飛ぶ
喇叭の声
ゆめまぼろしの
腕[かいな]
SNSの可能性を文芸化する
希望と失望の繰り返しのうちに当然、人は生きる。
この二つの事実を統合すると「諦念」がすべての支配色となる。
ミクシィから受ける精神的な重圧は、その希望と失望の反復が
過剰に高速化されることからとりわけ生じている。
どういうことか――。
あるマイミクの日記が「意に添う」ものだとする。
すると単純に喜びが生まれる。
その逆の事態では、失望が生まれる。
こういう常態を「どうしようもない」と捉え、
結局は「諦念」がすべての心性を統合するわけだ。
このことは誰しもに憶えがあることだろう。
問題は、こうした事実が「日付+時刻」付きで
僕らの前に強迫的に立ち現れる、ということだ。
マイミクはむろん複数。
この複数性が「正反」反応のギザギザを刻々、過剰にもたらし、
結局、ミクシィに接する体感を疲弊へとも導いてゆく。
あるいは「あしあと」が自分のミクシィにつく。
このことだけで、「こんな時間に家にいるのか」「起きているのか」
などといった失望を与える場合もある(僕は教師だ)。
●
掲示板上の言語とSNS上の言語が
性格上まったく異なっている点は利用者には自明だろうが
(この二つに弁別を設けていない
恐るべき尊大な詩論を最近僕は眼にした)、
SNSの本質が、書かれた日記の当該性よりも
それを対象化せしめる「書き込み」のほうにあるとは
日頃、僕が縷々述べているとおりだ。
日記は書き手の世界内存在性を
――ひいてはその身体の親密感を擬制する。
その身体擬制に書き込みの身体擬制がさらに干渉して
そこには見かけの共同性も成立するのだが、
この共同性がユートピックであると同時に、
ニューエイジ的な、「身体の垣根を取り払った神経の融合」をも
付帯させるとは利用者の多くが気づいているだろう。
「私の擬制」にたいする「私の擬制」。
その記号的な往来そのものがメタ記号化され、
それが経済の枠組にさえ守られて
華やかに記述行為を流通させているのが現状のSNSだ。
そうした本質に気づけば、やはり「諦念」が滲みだしてくる。
●
つい一昨日、僕がその才能に惚れこんでいた学生が
ミクシィを退会した。
ネットメディア上での生存の放棄は「死」に近似するから
とうぜんそこでは衝撃がやってくる。
彼女は日記で社会悪に怒ったり、恋愛の報告をしていたりした。
ただしその日記の最大のテーマは、
彼女がアルバイト勤務する受験産業の組織内で次第に重用され、
所属児童の成績アップに貢献しながらも、
正社員のおこなうべき職能に自分が追い込まれることで味わう
多忙や疎外を読み手に真摯に訴えかけることだった。
彼女は終始言外に語っていたのだ――この組織体はおかしい、
組織体の利益効率も人事もおかしい――これは組織体ではない、と。
そうした疑念は、実際に子供に接し、
それが能産的な結果を伴うことで、
常に目先を変えられ、脱力化へと導かれる。
このことまでもが経営者のプログラミングの域にあったのだとおもう。
僕は当然、そうした彼女の日記から言外の意味を摘出し、
書き込みによって、何らかの対応を図るべきだった。
だができなかった――なぜか。
彼女の書いていたのが「私の擬制」ではなく「私そのもの」だったからで、
それに対する「僕自身」をそこに用意できなかったということだ。
ミクシィでの限界を感じた事柄だった。
ともあれ、以後は後期がはじまって、
実際に彼女の面と向かっての話とならざるをえない
(彼女がミクシィを退会した以上はそうするしかない)。
●
「私の擬制」に「私の擬制」を向かわせざるをえない――
このこと自体をべつだん僕は絶望視しているわけではない。
用語を変えれば、この状態には光すら伴いはじめる。
ミクシィは日記本体と書き込みによる共同作品化なのだが、
書き込みを書くのは、「その人本人」ではなく、
いわば「抽象的な間-主観性」だと考えれば事態が如実に変化してくる。
僕は最近、ある詩的な記述の日記、その書き込みに
詩篇・短詩形そのものを対応させるということを実験的に繰り返している。
むろんそれは「面白い」などと書き付けるよりも
さらに上位の「贈与の言葉」がそこに現れると考えるためで、
それをのべつまくなしの無方向性で実現することで
ユートピックな状況特有の無政府性も付帯される、と信じてきた。
もとの詩的な記述に対して、僕が何かの書き込みをするときの基準はこうだ。
対象の批判をしない。対象よりも自分が巧いと勝ちに行きもしない。
単に対象のもつ詩的性質を荘厳しながら、
それに別方向からの光を当てることで対象の対象化に複雑さを灯す。
そのばあい僕の詩的蓄積が行為の原資となるのだが、
前述のようなミクシィ特有のスピードは
あたかも「発想の起点」が自分自身ではないように
「付け」や「対詩」を瞬間的に閃かせてくる。
これは僕がそれまで気づかなかったミクシィの効用だとおもう。
僕は「相手」にたいして「自分」を置いているのではなく、
「相手」のテキストにたいし「間-主観」的な位置から自分を立ち上らせるだけ。
その意味でそれは、自分(私の擬制)を「身体なしに」、
抽象的に相手の眼前に浮上させる、ということなのだ。
●
僕が書き込み欄に書きつけた「詩のようなもの」に贈与性がみちているのは
相手にも自明だとおもう。
ところが概ねは、以後やりとり(往還)が生じない。
書き込んだテキストが間-主観性の抽象的な光を帯びて
書き込まれた当人が、それにさらに何かを「付ける」ことで、
間-主観性の場所そのものを磨き立てることがないのだ。
ただ、これは仕方のないことだともおもう。
書き込み欄はたぶん「水平性」を予定されていて、
そこに「垂直性」が加算されると、
日記更新が損なわれるだろうと単純に予想されるためだ。
僕自身も書き込み欄が過剰に重くなることより、
相手の日記更新が「水平的に」更新されることを望んでいる。
●
この議論で中間的にいえることはたとえば――
「日記」はその読み手の「私」そのものを刺激するのではなく
読み手が延長しうる「間-主観性」を助長するものがよい、ということだ。
そこにミクシィの可能性もある。
「文芸」がそのようにして連鎖してゆけば、
「文芸」にまつわる多元的な一極支配に一石も投じられるし、
ひいてはメジャー支配が転覆に導かれる可能性だってある。
逆に、僕が嫌う日記は、別見解を生じさせないものということになる。
「私」に閉じ切っている日記、
タコツボ・コミュニケーションを前提している日記、
閉じたサークルへの隠語だけで書かれた日記――などがそれに当たる。
ミクシィにリテラシーが成立するなら
それらから弁別される日記を自身が書く、ということに尽きるだろう。
そのとき前述したような「あまりにも私である日記」が
ミクシィでは取扱い不能の重要案件となる。
ただ、それはメールなどの私信によって対応さるべきものなのではないか。
タコツボ・コミュニケーションが
ケータイメールでこそ交わされるべきなのと同様。
「死にたい」という「日記」に励ましが殺到するようなかたちは
一見、殷賑の状態で捉えられるが
むろんそれは読み手にとって何らの情報の更新も結果しない。
気のきいた寸言ではなく、ただの刹那的短章にも取り付く島がない。
印象論だけが書かれた「評論もどき」も同様だ。
SNSにユートピックな進展が希望されるとすれば
「自分から」記述行為の質を変え、
それを「友人」に波及させる以外にないのだが、
こうした相互性が期待できる点こそが、
匿名性に守られていると誤解することで
一律一様の記述形式を採択してしまう掲示板とは異なるだろう。
●
僕はさきごろ「機会詩篇集成」なるものをまとめ
それを希望者に添付メールする無料サーヴィスをおこないだした
(とはいえ対象を「詩や詩論を書く人」に限定した)。
その機会詩篇の前半は演習授業でプリント配布した自作詩篇や
連詩において自分の回だけを抜き出したものが中心だが、
後半になると、人の日記に書き込んだ詩篇・短詩形が陸続してくる。
僕もそういった書き込みをミクシィ特有の速度に駆られて
勢いに任せてやっていたので、整理するのにすごく苦労した
(おかげで廿楽順治さんの詩篇「みじかい」に当てた
俳句十句が最初のテキストから脱落してしまったりした)。
というか、このままでは整理不能となる、と危惧を感じ、
ミクシィの人の書き込み欄からペーストを重ねる集成作業に
踏み切らざるを得なかった――というのが本当のところだ。
むろんそうした営みを間接的に促がしたのは、
某詩人が詩論で書いた、
匿名性にもたれて僕が彼自身を攻撃しているという謂れのない嫌疑に、
「作品レベルで」実証的に対応しよう、という向日的な心性だった
(バカげたことだが、その某詩人の一節は僕を
「どこぞのもの書き」と匿名化しているなど
深甚な自己矛盾に一切気づくそぶりがない
――その点への懲罰として僕は彼の名を匿名化している)。
話を戻す。集成をしてみて、気づくことが多々あった。
詩集中、僕は紛れもなく「付け」を多用しているのだけど、
発想源となった元の詩篇/短詩形は、
著作権に配慮して引用をおこなっていない。
これは批判される要因ともなる――けれど僕は意に介さなかった。
オリジナルに「どのように付けたか」――
そこからこそ僕の技量が測定されるはずで、
それが見えない詩集空間は確かに不全だ。
それはたとえば連句で、前句や打越句なしに当該句が抜書きされれば
平句の集積にしかみえないのと事態が似ているのかもしれない。
ただし、僕の連句の「師匠」倉田良成さんなら
平句の「未了性」こそが連句の本質的な推進力と弁護するだろう。
つまり、僕は未了性まるだしの詩篇や短詩形を詩集の後半で連打し、
別の何かを推進させた、ということになる。
何か――「私の擬制」「私の未了性」「ミクシィの未了性」をだ。
このところ僕の構想する詩集は、
その尊大な某詩人とは異なり、
ネット、SNSなどを基盤にした際の媒体自己言及、
つまりメディア性の刻印を自ら捺そうと努めている。
これはたとえば三村京子に歌詞を提供する場合とも同様だ。
《文学的であると同時にネット特有的》、
あるいは《文学的であると同時に歌詞特有的》――
これらは、そういった二重性をまとうことで
「単一文学」の逼塞から脱したいと願う所業、といっていい。
結果、僕の「機会詩篇集成」は、ある程度のスピード感を伴って、
「それ自体」であるとともに、
SNSという環境そのものをパサージュ化する推力を付帯させたとおもう。
SNSのひとつの理想「カラフル」はたしかに
詩篇空間に多重に組織されているだろう。
結果、「作品単一的な」組成の厚顔から自作が離れることもできたのではないか。
●
このようなことをしてもいいという発想源が
田中宏輔さんの詩業だった。
古典テキストも、自分の日常も多重に「コラージュ」して
間-テクスト的な場に作品を結像させ、
結果、自我に、危機に近いまでの脱固有性を導きいれる宏輔さんの方法は、
彼の古典傾斜を軸にすると見誤りやすいが
「ウェブ社会」特有の現時性を帯びて、一種、熾烈にまで映る。
そのさい最近の彼が武器にしているものが
呼吸から文の単位わけからあるゆるところに侵入してくる「●」だった。
僕もまた、詩集ではランダムな細部を
ただその「●」でつないでいったのだった。
●
今日は書くものの予定を急遽変更して、
自作詩集をダシにミクシィのリテラシーをつづったつもりだ。
自らコラージュしうる「書き込み」が連打されれば
ミクシィは現状の逼塞――たとえば「詩壇の権威」を打開する
ユートピックな文芸環境ともなりうる
(マイミク学生にはとくにこの点を強調したい)。
書くものの予定を急に変更するにいたった理由は
前述した、僕が眼にかけている学生のミクシィからの退会だった。
最後に:彼女の「友達」へ――
この文書を「ペースト」し打ち出して
「こんな励ましがあったよ」とぜひ彼女に見せてあげてください
ジミヘンに
ジミヘンに炎色つづく翻りひるがへりする異界への扉(と)も
●
みづ色に潤む懐紙にとほく書く「花泥棒にしかと咎あり」
●
【贋「即興詩 固有な空白」】
火曜と水曜のあいだに
いつも固有な空白時がある
そのときに影が実体をむしばみ
下が上へと緩やかにのぼる
固有な空白の腕を差し出しては
虹の谷に逃れようとする
別の、おまえの腕もつかむ
分有と思考には関連があるが
やはりいつものことだ、
その輪郭を乱れるがままにした
夜間は風が碓氷を過ぎる
●
いましがたひとの書き込み欄に書いた歌と詩篇。
短歌はいつもどおり「なにぬねの?」枡野浩一さんの歌日記、
詩はいつもどおり森川雅美さんの連載「お題即興詩」へのもの。
「機会詩篇集成」を送られたかたは
しかるべき箇所にさらに補填をしていただけると嬉しい
三篇
下腹の棒の霞よ春来り心の梁の灰となるまで
●
屈託ない百花のなかに俺がゐて初めに逃れだす魅[もの]を頌む
●
【贋「即興詩 やさしいかみ」】
やさしい髪のおとこが
夕空のしたを歩いて
総身を溶かしている
外套がばさばさ
かれはこれから
豚児たちを手許にあつめ
馬おんなが跳ぶ
美田の祭にむかうのだ
やさしい髪のおとこ
眼のいろも影もうすく
いつも事物の隙間に
にじみだすものをみるが
脚をひらいた
馬おんなのそこからは
破れた神が現れるとも知る
それを下腹の馳走にして
豚児たちとともに
なかに春を挽いた
花色の腸詰を
美酒にまかせて流しこみ
楽天のなかにすべてを
喰らうつもりなのだ
(死んでゐるのに)
●
昨日は以上三篇の詩歌を他人の日記に書き込んだ。
最初二つの短歌が「なにぬねの?」枡野浩一さんの歌日記、
最後の詩篇がお馴染み、森川雅美さんのmixiでの連載、
「お題即興詩」への書き込み。
恐れ入りますが「機会詩篇集成」をゲットされたかたは
以上三つをしかるべき位置にペーストしてください。
この「集成」、今月が終わるまでは
「増殖」にまかせようとおもっています。
ご迷惑だろうけど。
●
その昨日は一日、読書三昧。
朝の終わりに読み終えた
倉田良成さんの94年の詩集『金の枝のあいだから』の
清清しい印象が、その後の読書にもずっと残った。
倉田さん、ご恵与ありがとうございます。
この詩集での倉田さんの詩的修辞は
僕のものとすごく似ている面がある。
だからこの詩集を読むことは
僕自身の詩法に援軍を受けることともなる。
そのうえで倉田さんの日本古典を中心にした博覧強記が
詩の言葉に見事に溶け込んで
秋の季節の推移が僕の眼前にやわらかく普遍化していった。
来週アタマにでも再読して
詩集評を日記欄にアップします。
本当にいい詩集だった
10句+1
晩
節
を
涜
さ
む
と
し
て
水
仙
や
●
部
屋
隅
で
鬼
と
な
る
べ
し
冬
没
日
●
売
る
も
の
な
き
日
の
も
と
わ
れ
ら
浮
寝
鳥
●
枯
蓮
の
星
座
と
な
り
ぬ
橋
ゆ
く
も
●
蝋
梅
の
さ
き
朝
の
糧
影
も
な
し
●
友
達
は
あ
た
た
か
き
ホ
ト
春
の
水
●
恋
猫
の
総
毛
尖
る
や
金
砂
集
む
●
早
変
る
遠
賀
に
あ
り
て
猫
お
ぼ
ろ
●
夏
柑
に
機
関
あ
る
べ
し
霜
下
り
て
●
月
齢
に
引
き
算
を
す
る
冬
颪
●
【贋「即興詩 腹筋」】
笑うためだった
横隔膜は鍛えられないので
腹筋を鍛えた
不安な
雲の峰のようになって
性愛のとき
下腹に夕立が流れた
都市は動いているか
足許では女が
横になっただけではなく
夏を流れている
腹筋のうえの俺(魂、)
ひん曲がりながら
どこに立ってるんだ
夕焼け ぎらぎら
●
なんか昨日・一昨日は多方面に怒っていたが
早寝して深夜に起きたら
気持が落ち着きだした。
森川さんの即興詩に
さっき、いい出来、とおもう詩篇を対したのが原因か。
どうしようかな、とおもったけど
「なにぬねの?」に発表した近作10句と
その森川さんへの即興詩を
まとめてここに発表しておきます。
今日はいい日になるかなぁ。
とりあえずまた眠くなるまでは
玉川さんが送ってくれた
浅沼璞『可能性としての連句』(ワイズ出版、96)を
ひもとくことにしよう。
玉川さんの送ってくれる本らしく
冒頭は
「切れ」から俳句と連句(平句)のちがいについて
論及がなされている
「詩の主体」(補足つき)
「詩の主体」ということに関して
とある日記でプリミティヴなことが書かれていたので、
以下、とりあえず簡単に僕の考えを整理しておく。
その一文にはこうあった――
《もはや特権的な主体のあり方はできないという形の、主体しか成り立たない》。
即座にこの書き方に撞着を見なければ嘘だろう。
まずこの一文では「特権的な主体のあり方はできない」
「主体しかなり立たない」の二層において
「主体」の存在が完全肯定されている。
文全体の意味としては
「特権的な主体」は否定されるべきだ、ということでしかないが、
元来「主体」に「特権的」という形容が馴染むとするこの見解が
すでに「特権的」なのだ、という論理の罠に
この一文は気づこうとしていない。
「主体」と「特権」が形容によって結びつくという
看過できない謬見をもこの一文は示してしまっている。
推測するに、たとえばmixi上に、
とある「主体」が一方的に他者を論難する文章があったとして、
そんな「主体」をこの一文は特権的と名指しているのかもしれない。
とすれば、それもナイーヴにすぎる把握というしかないだろう。
たとえば「日記」や「評論」に「私」を書く。
するとその「私」が即座に特権化されるのか。
――事態は逆だろう。
「私」が「私」を書くというこの再帰構造は
「書く主体」と「書かれる客体」、その関係の分離不能性が
別次元から考慮されなければならないとただ証しするだけだ。
事は論理学の問題だ。
ここでは事柄を「真」とすべき判断の軸が存在しないのだ。
だから「日記」は書けば書くほど、
「私」の不可能を引き当ててゆくしかない。
それでmixiでの日記書きも習慣化する。
●
詩的主体の不可能というか
それを論議することにすでに意味がない点は
入澤康夫がその慎重な詩論で縷々述べてきた。
詩文中に「私」と書いて、
それが詩作者の固有性から何の裏打ちも受けない――
それは詩の本質がフィクショナルなためでなく、
僕の言葉でいえば、詩言語がもともと
指示機能に代表される同定性を剥奪されているために起こる
着実な反作用だといえるだろう。
つまりあらためて「主体」という言葉を出したその場では
「詩論の継続」が損なわれているのが明瞭だということだ。
「気風の持続」とともに「詩論の継続」も
詩作を志す者にとっての重要事ではなかったのだろうか。
むろん読者は作品の背景から作者のたたずまいや個人史を
「憶測」する愉しみならもつが、
それはただ言葉によって言葉だけが書かれる、
詩作品の鑑賞の本質ではない。
この興味に横たわっているのは付帯性であり、不透明性だ。
むしろ、詩がたとえば固有名の消去などの作業をおこない、
その欠落を解釈せよ、と強制するときにこそ、
詩作品に無用な特権構造が出現した、というべきだろう。
ただ、こういう問題が「詩の主体」の領域にない点は
論理的にも理解されるとおもう。
単に「書き方」の問題、というだけだ。
論議の対象を必要以上に大きくするのも愚かしい。
●
僕は別に、詩に「主体」が想定しえないという
極論を展開しようとしているのではない。
詩にも主体擬制はあるが、
冒頭引用文とはまったく立論の順序が異なる、ということだ。
以下、すごく当たり前のことをいうことになる。
ご海容ねがいたい。
詩は書かれる――
その書かれたことによって主体が逆証される。
主体=作者の位置はそうした狭隘な範囲にしか実際にない。
この単純な事実からは、
「特権」などといった武張った言葉が関与する余地もない。
詩が言語の魔術性を志向するとすれば、
書かれた詩が作者を構造的に逆照射することによって
その魔術性も作者のほうに逆流してゆく。
結果、起こること――それは、作者=主体の破砕、だ。
(主体の消滅、という点に関しては
「われわれ」は近年、ずっとそれに腐心してきたのではなかったか。
それでなければ、ただ書けばいい詩にたいして
なぜ緊密な連絡の必要な集団の連詩を志して、
この面倒くさい主体を扼そうとなどしただろう)
●
それに主体と客体の関係がもともとそうなのだ。
《周吉は水枕を探し出せない。
しかしその水枕は周吉の間近にあった》という例文を
ここにあえて召喚してみようか。
この例文で明瞭なのは、
周吉が水枕を「見る/見ない」ではなく、
水枕が周吉を見ているという事実のほうだけだ。
そのことだけが、事実の推移の外側に
確固として存在している。
主体が(作用)客体を見る、のではなく、
(作用)客体が主体を見る――というのは
ラカンもメルロ=ポンティも考察のなかで繰り返してきた。
見解は精確で、当然それは詩作者にも評論家にも援用できるだろう。
詩においては、詩作者が詩篇を見ているのではなく、
詩篇が詩作者を見ているということだ。
このスリルなしに、詩作は悦びとならないのではないか。
このとき、書く主体「私」と
書かれた主体「私」が一見、同一な構造をもつ詩に
ただちに論理の罠が生起するとも気づく。
客体が主体を見る、という通念とは逆の経路を辿っても
「私=私」という同語反復の撞着に陥ってしまうのではないか
――警戒心は確かにその方向に発動するだろう。
ただし、入澤康夫のいうように、
詩では「先験的に」「私」の定位などは不可能なのだから
上記「私詩」に、循環構造や循環の動きを確認できても、
詩が正しく、「非定義語」で書かれるならば、そこで
主体への「特権的」膠着など何一つ起こらない、というべきだ。
つまり《もはや特権的な主体のあり方はできないという形の、主体しか成り立たない》、
そうした評言の成立する場とは、
詩作の技術が低劣な、論議に値しない磁圏にすぎず、
それをあえて言い募る評言のほうに特権性が隠れていて
それこそが意図的に等閑視されている、というしかない。
なぜこんな言説が罷りとおるのか。
「仮想敵擁立」の戦術だ、といわれるかもしれない。
ところがこの場合の「敵」とは果たして何なのか。
論議に値しない磁圏だといましがた記したが、
恐ろしいのは「敵の捏造」にすら事態が通じていないかという点だ。
敵を「捏造」して、それに対抗し、自身が「成り上がろう」とすれば
そこに「権威意識」という言いたくない語が介在してこざるをえない。
僕は往年、「カイエ・ジャポン」にその種の言説を数多く見た。
大体、敵が確実に存在するとして、詩に間近な敵など必要だろうか。
無限遠点の敵に対抗するならともかく。
俗情に、詩という上位文芸が依拠してはならないだろう、
小説ならともかく
(一見、「俗情」にまみれた詩が逆転をけみして輝く事例はある
――むろんこのことが閑却されてはならないが)。
●
私性の定位不能は
最も私性のつよいと見なされている短歌でも成立する。
岡井隆の『歳月の贈物』(78)から引こう。
《さんごじゆの実のなる垣にかこまれてあはれわたくし専(もは)ら私(わたくし)》
ここでは珊瑚樹の垣根に囲まれた
「私」だけがただ唄われている。
しかし問題は、「私」だけが唄われているという事実になく、
垣根に囲まれて私が私として純化したという
周辺関係を前提にした歌意のほうであり、
「わたくし」がつくりだす前代未聞の韻のほうだ。
歌意の中心は、
鏡の迷宮にいて「自己確信者」スティリターノが恐慌に陥ったという
ジュネ『泥棒日記』の一挿話のほうにむしろちかい。
この岡井の歌の根底にも、「自叙」は根本的に不可能だが
その不可能の周囲に詩的な残余が成立するという見解があるだろう。
●
《特権的な主体のあり方はできないという形の、主体》を操って詩を書く者が
「特権性」にまみれている点はすでに言及できたとおもうが、
その「主体」の書くだろう詩が「大袈裟な」権威意識に満ちみちている点も
上記・岡井短歌の慎ましさから単純に予想がつくとおもう。
こういうことだ――
間違った命題にたいしては
構造的に間違った解答しか出てこないのは常だが、
事は、間違った解答としてあらかじめ詩を書きつけてしまった者が
間違った命題を事後的に後づけしてしまった点にあるのではないか。
今回の僕の日記は、要約するなら以上の論点に尽きるのかもしれない。
このままではmixi上の論議が濁る、とおもったので
あえて以上のような文章をしたためてみた。
なるべく正確に端的に書いたつもりだが
果たして文意が伝わっただろうか。
★
(補足)
書き付けた日記内容が
誤読される惧れがあるのではないかと考え、
以下を補足します。
当初、僕は
《もはや特権的な主体のあり方はできないという形の、主体しか成り立たない》
の意味がまったくわからなかった。
よくよく考えてみると、
この文の奥には
「書くこと=特権性」という布置が潜在しているようなのだ。
むろん、それはモダンと呼ばれる現在
一切、首肯できる認識ではない。
たとえばフランツ・カフカの文学的営為を念頭に置くだけで
僕のそうした疑問もすぐに支持を得るだろうとおもう。
それで上記日記でした最初の作業は
「特権性」の言葉の意味/波及範囲を置き換えることだった。
そして「特権性」を言い募る者に
「特権的」の形容を再貼付しようと図った。
このあたりの経緯を読み損ねられると
日記全体の文脈を不充分に汲まれる惧れなしとしない。
だからあえて、日記にこの補足を加えました
十首(生活詠の試み)
白
鹿
の
崖
く
だ
る
見
ゆ
も
の
み
な
が
遠
さ
と
な
れ
る
時
を
愛
し
む
●
天
領
と
呼
び
た
き
箇
処
が
詩
に
あ
れ
ば
元
寇
の
徒
よ
裁
き
す
る
わ
れ
は
●
は
だ
へ
奥
に
し
づ
も
る
明
り
千
歩
後
に
帰
り
し
人
が
玄
関
に
ゐ
て
●
を
ん
じ
き
は
た
え
ず
ま
が
な
し
蓴
菜
の
類
を
浮
べ
ぬ
わ
が
食
も
な
し
●
鴨
の
あ
ぶ
ら
鍋
に
仕
込
め
ば
観
音
の
黙
想
の
ご
と
円
の
数
か
ず
●
針
山
を
何
と
も
知
ら
ね
こ
の
髪
も
を
み
な
に
縁
な
く
擾
れ
乱
れ
て
●
を
ん
じ
き
と
ま
ぐ
は
ひ
分
け
ず
辿
り
来
て
一
身
の
老
い
冬
の
野
明
り
●
狭
窄
と
胸
郭
が
似
て
搾
り
だ
す
詩
歌
な
べ
て
に
雲
の
峰
あ
る
●
的
と
な
る
徴
を
白
に
美
童
ら
の
白
は
散
る
ら
む
木
の
間
の
冬
に
●
そ
の
か
み
の
父
の
に
ほ
ひ
の
な
き
裸
ひ
と
つ
撓
め
て
昼
を
湯
浴
み
す
小池昌代・ババ、バサラ、サラバ
小池昌代の頭のなかがどうなっているのか、
時に彼女の爽やかな挙止を見つつおもうことがある。
その頭脳は柔軟で、自身の生、見聞するあれこれから
絶えず何か(「詩性」と呼ぶべきもの)を発見・確認している。
勘のいい人だとは、僕はこの日記欄で前言したが、
常に慎重で、気を許した相手以外には胸襟を開かない。
そして気を許した相手には、心中深い焔を垣間見せることもある。
その焔は真紅の絢爛ではなく、漆黒の凄みを湛えることもある。
慎ましく此世に身を置きながら、
ふと「此世にいない者」の奥行をもそこに感知させるのだ。
小池詩のファンはそうしたたたずまいの清潔を熟知しているだろう。
小池昌代の縁語は
糸、裁縫といった縫製全般に関わる語の領域にとくにある。
此世を見て、束状になっている「文」をそこから感知し、
それをどう配備するかで、詩や小説や随筆を「紡いで」ゆくのだ。
針に糸を通して文は縫われ並べられてゆくが、
彼女の織物は、するするとほぐれだすような脆い組成も時に誇り、
そうした自律性のなさが、
第一文から最終文まで綿密な組成で縛られる小説にたいし
詩文の根拠となってゆくのだとおもう。
したがって「散文脈」の論難は小池詩には固より当てはまらない。
というか、彼女は散文と詩の結婚のようなものを
はじめから志向しているといったほうが近道だろう。
新詩集『ババ、バサラ、サラバ』(本阿弥書店)には
はっきりと裁縫の縁語が連続する、
「針山」という詩篇が収められている。
針山のなかに入っているのは
椿油をしみこませた人毛だよ
冒頭から、奇怪な幻想がこのように語られてゆくが、
不審がられもしようこの二行目の語尾は
やがてそれが「祖母」の発話だったという後づけを得る。
祖母は生来の盲目だったという真偽の定かでない事実提示があり、
縫い針に糸を通す役目は幼い自身だったという述懐があって――
●
つばをつけてよって糸の先を
こころをとがらせ つきとおす
向こう側へ
裁縫はたのしい
つきさしてぬく
貫通のよろこび
●
貫通にまつわるこの「よろこび」に
「喜び」ではなく「悦び」の字も当てはまるのではと
ふと男性読者なら不安になるだろう。
案の定、この四行先から恐ろしい詩行の運びとなる。
●
わたくしはまだ 十三歳ですけれど
貫通ならもうとっくに知っています
けど それは
わたくしにとって 痛みでしかない
おとこたちが かぶさってきて
とがった針の先で
わたくしをつつく
ひとはり
ひとはり
縫いこめていく
糸を引き抜くとき
布とこすれあう音がするでしょう
しゅっ、しゅっと
火がおこる
摩擦音って官能的だ
●
問題は「裁縫」という、火と無縁の領域に
女性特有的に、火が熾ってしまう点ではないだろうか。
小池の詩ではこれまで女性性は水性と連絡することが多かったが
それがこのように発火容易性と結びつけられることで
当然、衝撃が走ってゆく。
発火は炭化とも別の詩篇で類縁を演じる。
以下、集中「歴史」の衝撃の詩行。
●
炭の母の
目鼻はもう区別できない
乳房と腹のやわらかなふくらみ
二重に描いた杏の種のような
陰唇のかたちが
股のあいだに
くっきりと残っている
それは女がお産するときの
いきみのポーズに
よく似ていた
●
この「炭の母」は詩行のそののちの流れからして、
東京大空襲の写真展か何かで小池が見聞したものから
発想源を得ているだろうと読者は見当をつける。
ただし小池はその「炭の母」に完全同化して、
結果、自らの「異相」を読者につきつける挙にも出るのだ。
引き抜いた行には、詩に特有な、言葉の変成や
律動による音楽化の痕跡ははっきりと見当たらない。
意味はどうあれ散文性を穏やかにまとっている。
だがこの「意味はどうあれ」が問題なのだ。
「意味」は容易に小池の生を超えた別次元の恐怖を
読者の眼前に召喚しだして、
それで散文の束が確実に詩文の束へと転化してゆく。
つまり散文は散文なのだが、
その文には悪意ある変貌容易性が仕組まれてもいて、
それに気づいた途端、「散文」の保証が溶けだすのだった。
小池の詩篇の多くに「随筆詩」というジャンル名を
人は重ねたがるかもしれない。
だが「随筆」にないものがそこに確実にある。
「対象同化」もまた、そのひとつだろう。
小池と思われる主体が昔、付き合っている男の留守居で無聊を感じ
書棚からフェルメールの画集を取り出したという
向田邦子の随筆のような設定の「中断された音楽の稽古」。
この詩篇タイトルはそのままフェルメールの画題なのだが、
小池はその絵のなかの女と「同調」してしまう。こんな具合――
●
女のほうは まるでいま 誰かに呼ばれたというように
手紙から顔をあげて
視線を絵の外へ あいまいに延ばしている
わたしはふりかえって 背後を見た
わたしでない誰かが
ほんとうにそのとき 彼女を呼んだような気がして。
●
ああ、「背後」がまた現れた、とおもった。
読者はかつての小池の衝撃的な詩行を忘れてはいないだろう。
《わたしの背後を/滝が落ちていく/人も。》
(『もっとも官能的な部屋』所載「背後」)。
永田耕衣の名吟《後ろにも髪脱け落つる山河かな》にも匹敵する
壮絶な「背後」だとおもう。
小池の場合、「背後」とは女性性意識のなかで堅守する領域を覆す、
「魔の領域」ということができるのではないか。
それは小池の慎重を脅かすものとしてあるのか
逆に勘の良い彼女の動物性を逆証するものとしてあるのか
いまのところ、よく考えたことがない。
ただ、手許を守ろうとして背面を晒す女の姿からは
陰唇のかたちを表して焼け死んでしまったような凄惨も現れる。
その凄惨には、「同調」とは逆、
「同調不能の孤独」といった凄みが写しこまれる。
筆者がおもわずさしぐんでしまった
『ババ、バサラ、サラバ』中の「随筆詩」と呼ぶべきものに、
「手暗がり」という詩篇がある。
小池が自分の「こども」に往年の家族写真を見せている、
という穏やかな導入からはじまるこの詩は、
ロラン・バルトの写真論と遠く触れ合うように
写真のなかの「母(つまり「こども」にとっての祖母)の不在」を
やがて主題にしはじめる。
(そろそろこの小池の詩集名『ババ、バサラ、サラバ』の由来が
この欄の読者にも朧げに感知されるようになったかもしれない。
小池は「バ」の破裂音が好きで
詩集名はそのような頭韻を踏み語の逆転も呼んだと
「あとがき」で明かすのだが、
収録詩では前の「針山」やこの詩に見られるように
「祖母」の登場が多く、「ババ」はそこからも確かに来ている。
むろん「母の母」とは女の連続性をしめす。
さらに吉田喜重の『エロス+虐殺』ではないが
「母の母の母」ならばもはや
名づけえぬ女性的連続性の漠たる領域を指すだろう。
その領域と、あとで見るように「死」が関わる。
それで詩集名に「サラバ」の語が入る。
一方「バサラ」は変貌容易性という散文のヤクザな属性に関わる)。
話を戻して――「手暗がり」。
家族写真にいつも不在の母にたいし、
小池(とおもわれる主体)は「こども」に
こんなそっけない説明をする――
《おばあちゃんは いつだって/たいてい写真にうつっていない》。
なぜか。写真撮影がその日の慶事をきっかけにしているなら
女は台所で料理に専念していたという一旦の説明ののち、
《わたしはこどもと写真のなかに入っていく》。
すると台所仕事をしている母が見えだす。
その後ろ姿に《なにをしているの?》。
今度は小池の主体のほうが女の「背後」にいる点に注意してもらい、
この詩篇の「泣ける」最終行までを一挙に抜いてしまおう。
●
彼女の手が為している
なにか、とてもだいじなこと
でも
それは聞けない、聞いてはいけない
背中のむこう
手暗がり、と呼ばれる小さな地所
母はほこりだらけの電球(六十ワット)を磨いていたのかもしれない
かさこさかさこそ
豆が煮えている
ガスの炎が 青くゆらめく
それとも泣いているのかしら
おかあさん、と呼ぶ
おばあちゃん、とこどもが呼ぶ
ぐらぐらと無関係に小さな地震がある
あんたたちはむこうへ行ってなさいよ
ついに振り向かない母が言う
茶箪笥のうしろで死んでいるネズミ
あんたたちはむこうへ行ってなさいよ
●
女の手許にのみ女が守る領域があって、
それは秘匿を宿命づけられている。
たぶんそれを盗み見れば
鹿の姿に変えられるか、
あるいは見つめられた対象そのものが塩の柱になってしまうのだ。
豆を煮るガスの炎の「青」は
女の仕事が魔女的な「調合」に関わっている点を告げる。
しかし、横に伸びる詩行にたいし
縦に参画してくる「幻想」の束は何だろう。
「電球」「地震」「ネズミ」。
その挿入がひとつのリズムをつくり、
同時に、「あんたたちはむこうへ行ってなさいよ」の反復が
その反復によって孤独から生起する「拒絶」を強調する。
背面を見られる女の凄惨がまず「泣ける」のだが、
女の背後にいるのも「女」であって、
その女にもさらに「背後」があるはずだ、という
予想の不如意が余計に読者を「泣かせる」のではないか。
埃だらけの電球を磨くことと裁縫には
手許の世界・手許の対象の創出という動作の類縁がある。
そしてこの詩集では手許の創出が不意に中断されるときに
死が舞いこんでくる。
小池は死では女の死を中心に綴り、そこから自身の死すら幻覚する。
●
金魚の世界が転倒する
金魚が死ぬ あたしが死んだ
縦のものが そのとき横になって
(「金魚」)
●
死ぬ以外は
何ひとつ起こらなかったあの日
わたしにとっての最良の一日を
わたしはいまも懐かしく思い出す
傍に誰もいないで たった一人で
(「わたしが死んだ日」)
●
このような「自己同化」的な死の一方で、
死の実相――「中断」が素っ気無く綴られる
(《中断というのは いやなものですね》という、もろの吐露も
前出「中断された音楽の稽古」中に見出される)。
《生きていることは そのように/いつも途中のことなのだから
/そして死は/途中の、いきなりの/裁断なのだから》。
「裁断」の「裁」の字から「裁縫」が透けてみえだす。
この詩集中、最も壮絶な死が描かれるのは
「針山」中の祖母だろう。詩篇ラストはこうだった。
●
針を針山にぷつっと戻すと
およびがきたよ
平成十七年十月のこと
物凄い目で
わたくしを一瞥して
襖のむこうへ消えていった
針山のなかに残されたのは
椿油のたっぷりしみこんだ
顔のない
女たちの髪
●
女は「女たち」としてしか存在しない――
つまり個別に同定できない。
ただ「死」のみは個別性として残酷に出来する。
それが、このような幻想装置のもとで語られているとおもった。
確実にここには「詩」が現れている。
この「針山」には、鳥肌の立つ罵詈雑言が一瞬現れる。
おまえの身体はおまえのものなんかじゃない
ばかやろう
「身体」は「女たち総体」の一部としてしか規定しえない
――このことが詩篇の最終相から把握されるとしても、
一旦、読者がこの二行に感じるのは小池の真面目さかもしれない。
自傷・自殺に走る少女たちは、
自己身体を自身の所有物だと錯覚している。
それへの鷲田清一的な警鐘がここにあるのではないか、と。
ただし、論語から哲学認識までふくめ
自己身体の所有不能性を多元的に語る鷲田にたいし
小池は、自己身体は名指しえぬ「時間」にこそ属していると
ただ潔癖に主唱するだけだとおもう。
●
「恐怖」を突きつけえたときに小池の詩は目覚しく迫ってくるが、
小池の詩が一回の消費で終わらず再読に値するのは
そこに哲学的な認識が非明示的に裏打ちされているためだ。
それは詩篇から詩篇への横断によってさらに強化される。
「女たち」の時間を「貫通」する非人称的な女性連続体を
吉田喜重『エロス+虐殺』のような不可知性ではなく、
実は、恩寵という布置のなかで小池は捉えている。
それがわかるのは、「反復」についての狂奔をしめす
集中の「タンカクウカン」ではないだろうか。
メルボルン詩祭での短歌朗読、
という小池自身の体験に基づくこの詩篇では、
短歌朗読が一首の二度の朗詠を習慣化している点に論及が至る。
そこで圧倒的――ドゥルーズ的な「反復」へと思考が舞い踊る。
●
二度詠めば意味がとりやすくなるでしょう。
二度詠めば印象がつよくなります。
一度目は去っていく、けれど二度目は
生き始める。
●
反復を考究するのに反復をもってする、という建前もあるが、
詩篇は次の間歇する二行で「自然発火」に移る。
ゾッとする言葉遣いなのだが、事柄は哲学的なのだ。
繰り返しは やばい、世界に拍車をかける。
つまり、二度ということは、すでにその時点で、二度以上ということなのです。
小池のこれらの言葉づかいにこそ「バサラ」を僕は感じてしまう。
そしてこの気質がもともと彼女に具わっていたともおもいいたる。
小池昌代は散文性を選びつつも、やはり「自在」なのだった。
最後に「反復」により「発火」している彼女の詩行を抜いておこう。
●
からまちまのまちの
からまちまのひとびとは
からまちまのふくをきて
からまちまをおどる
からまちまのゆめをみて
からまちまのにおいのする
からまちまのとおりで
からまちまをかなしむ
(「ねじまわし」一節)
【※客観評論を目すため、小池さんの敬称は省略しました】
佐藤友衣の日記に書き込んだ
曲
馬
な
き
汝
が
卓
上
の
サ
ァ
カ
ス
に
手
術
後
の
糸
ひ
そ
と
揺
れ
を
り
●
黒
シ
ャ
ツ
も
て
夜
へ
ま
ぎ
れ
む
針
葉
の
ゲ
ル
マ
ン
森
に
無
意
識
の
帯
●
N
O
F
U
N
と
の
た
う
ち
ま
は
る
関
節
が
球
体
だ
つ
た
イ
ギ
イ
ば
ら
ば
ら
●
秀
徳
の
念
仏
ラ
ッ
プ
や
か
う
も
り
が
婆
沙
羅
婆
沙
羅
と
電
線
に
墜
つ
●
【贋「即興詩 窓を開ける」】
長いものがぞろぞろと
わたくしの窓を開ける
満腔に春の桜田の気炎
春加減の筒と引替えた
この身の埃っぽい坂を
トラックの隊商がゆく
花ダ若葉ダ長崎学園前
●
天才学生・佐藤友衣の日記に
興がのって
ぐちゃぐちゃ短歌を書き込んだ。
ほとんどセクハラにちかい(笑)。
迷惑顔が見えてきそう。
余計に興奮しちゃう。
それぞれのじゃっかる。日記題名は
1が「サーカスに行こう」
2が「着道楽などとはよく言ったもんだ」
3・4が「『IGGY POP FUN CLUB』論」。
おまけとして5、森川雅美さんの
お題即興詩連載「窓を開ける」に書き込んだ
即応即興詩も加えました。
●
実は昨日は気分がよかった。
久谷雉の怠慢でずっとストップしていた
十二人連詩大興行が気持良く再開されたので。
僕は速攻で久谷詩篇に付けた。
詩篇もまあ自分では満足の行くもの。
森川氏、松本秀文君がメールで
僕の「速さ」を讃えてくれた。
「速さ」には運動神経以上の
何か天恵めいたものがあるとおもう。
神に近づくには手許の速さが必要なのだ。
これ、久谷はわかっているのかなあ
たままん日記に書き込んだ(2)
喩
で
も
な
く
湯
で
も
な
け
れ
ば
悠
々
と
水
風
呂
で
死
ぬ
湯
煙
り
ひ
と
つ
●
低
血
や
を
み
な
に
蓋
す
る
如
月
は
稚
魚
も
行
き
交
ふ
淡
き
精
液
●
夕
飯
は
サ
イ
ケ
デ
リ
シ
ャ
ス
白
鳥
を
泡
で
煮
〆
た
韃
靼
古
城
●
蒸
散
を
た
だ
旨
と
す
る
浮
か
れ
女
に
付
き
し
名
、
雪
を
掌
上
に
愛
づ
●
帰
る
者
つ
ね
に
他
霊
の
尾
を
曳
き
て
開
け
た
扉
の
外
(と)
に
も
闇
降
る
●
佐
渡
の
母
見
し
白
昼
の
砂
浜
は
盲
ひ
の
底
よ
り
な
ほ
明
か
り
ゐ
て
●
早
乙
女
の
早
春
の
影
ふ
と
よ
ぎ
る
野
は
広
く
し
て
黄
泉
へ
と
つ
づ
く
●
石
鹸
も
て
こ
の
倦
厭
を
洗
ふ
か
な
非
在
非
情
は
け
だ
し
桃
源
●
たままんさんの日記に
短歌をつけると啖呵を切ったら(オヤジギャグ)、
野郎、のべつまくなしにアップしてきやがった(笑)。
それぞれに一瞬で短歌をつけていったのが上。
ただし最後だけは今朝、枡野浩一さんが
「なにぬねの?」にアップしたものに付けた短歌です。
●
mixi画面を出しつづけ
たままんのアップに即応する体制でいた。
おかげで読書がいつもより進まない。
しかし、こんなに濫作していいんだろーか。
罰が当たるんじゃないかとひそかに惧れる。
たままんさんのアップした日記はすべて一節引用。
順に、
近藤弘文さん、山口昌男さん(知己なので「さん」付け)、
恋川春町さん(不詳)、三角みづ紀ちゃん、
大和屋竺(僕の神様)、二代目若松太夫(説経節?)、釋迢空と多彩。
まあ、面白いデッドヒートではあった。
電話がかかったのでアップが遅れた。
次はちがう形式の日記アップをしなければ。
みなさんもそろそろ食傷気味でしょ?
たままん日記に書き込んだ
吉
岡
や
ち
り
ぢ
り
実
る
陽
光
は
女
陰
に
目
の
玉
嵌
め
る
ス
ペ
イ
ン
●
ド
ル
フ
ィ
ン
に
乗
る
児
す
が
し
や
ド
ル
フ
ィ
の
ふ
る
う
と
の
ご
と
身
も
幽
け
く
て
●
鯖
は
悪
魔
と
並
ん
で
歩
い
た
●
音
楽
は
涙
に
似
た
り
冬
雪
隠
●
佐
渡
ぃ
す
て
ぃ
っ
く
に
横
た
ふ
女
躯
の
荒
海
や
●
怒涛のたままん日記に
ここ五分で書き込んだ五つ。
短歌・俳句・短句、とりどりです。
解説を。
たままん氏の元日記は、
それぞれを俳句的瞬間として捉えている。
典拠はいろいろ。
阿部はその典拠の脇に
分光器をかけて以上の作物を仕上げました。
たままん氏の元ネタ(典拠)→阿部の工夫を
以下に列挙しておきます。
1:バタイユ『眼球譚』→吉岡実を混ぜた
2:清水昶がアルバート・アイラーを唄った詩句
→西脇さんとドルフィにした
3:ロバート・ジョンソンのブルース
→別のジョンソンのブルースで壊す
4:シオランの一節→別のシオラン箴言を俳句に
5:蕪村に典拠をもつ加藤郁乎の前衛句→
同じ語法をもちい芭蕉句を変型
いやあ、「付け」で攪乱するのはたまりません(笑)
五首+1
人
形
は
音
よ
り
も
な
ほ
措
定
な
し
択
捉
に
零
る
絮
な
ど
無
謬
な
る
●
傀
儡
女
が
人
形
と
な
る
先
行
き
の
い
づ
く
に
か
あ
る
白
拍
子
の
歌
●
関
節
を
球
体
に
し
て
身
の
先
を
四
隅
に
向
け
る
汝
魔
方
陣
●
地
の
法
に
背
き
て
蔦
は
樹
を
繃
け
り
つ
た
つ
た
つ
た
と
鬼
界
音
色
す
●
異
界
よ
り
虹
眺
め
む
と
瞰
下
ろ
せ
ば
谷
間
の
霧
に
千
の
装
束
●
に
つ
ぽ
ん
は
棚
田
の
景
色
の
う
つ
く
し
さ
だ
が
地
球
は
ま
は
る
面
倒
だ
な
●
またもや他人の書き込み欄への書き込みで
短歌が五首+1できた。
以下、簡単な解説。
一首め~三首め:
「なにぬねの?」で僕が書いた「アニメそも」の一首、
その書き込み欄に近藤弘文さんが執拗に(笑)乱入してきて、
押井守『イノセンス』短歌を連作している。
負けじ、と僕も歌を繰り出し、
結果、僕なりの『イノセンス』歌が三首新登場した次第。
その近藤さんは「なにぬねの?」に
僕の詩集『昨日知った、あらゆる声で』の詩集評も書いてくれた。
「なにぬねの?」に入れるひとで未チェックの人はぜひ。
これも依田冬派くん、谷内修三さんに続き、
素晴らしい詩集評です。感激。
四首め:
「なにぬねの?」に発表された枡野浩一さんの
単行本未収録短歌に添うようにつくった一首。
枡野さんの主題「ほうりついはん」を拡げた。
「つたつたつた」の音は
以前、詩篇に書いたことがある。
五首め:
mixiの「じゃっかる。」日記の書き込み欄にしるした即興の一首。
「じゃっかる。」の本名は「友衣」、
かくのごとく「衣」のある名だが、
要件で丸井新宿に行き、
売場の春物服の乱舞に気圧された、
といったその日記内容が侘しく、感動した。
一部には知られているが、
「じゃっかる。」は最高の日記文を書く注目の才媛。
六首め(というか、これは短歌ではないのだけど):
森川雅美さんのmixiでの連載「お題即興詩」の今回のお題は
「面倒だな」。
その森川即興詩に付けた。
もともとは五行分かち書き詩篇だったが、
ここでは一行棒書きに。
すると自分の書いたものが破調短歌の一種だと気づいた。
●
なぜか高い視点からの作がこのところ自分に続いている
(それと短歌で一字空白を試みるようになった)。
驕慢になった、というのではない。
高みというより稀薄な孤独のなかで、
この身が霞んでいるのだ。
昨日は読書デイ。
詩集を中心に四冊を読んだ。
外界はほぼ遮断した
三人称の犬
【三人称の犬】(旧作)
低い犬の視界によって
世界が脱力的に殖えている
事前に事後がともなう視界
暗号文を受けとる方法は
犬のばあい限られている
交尾のときか もしくは臨終
主人にすりつける
野生時代の群れの記憶を
従属の文脈 その微妙なズレを
匂いにみちている そこを
通りぬけようとして逡巡する
所有という概念にこれほど蚕蝕されて
所有できないものを
本質的に所有させようとする
犬たちへの罰
耳が親しんでいるのはあらゆる遠いもの
次第に眼は領域を見なくなる
だから一歩と一歩がつねにズレる
犬はみずからを所有しない
稠密臓器を包む皮が余っていて
その形象怠惰を徹底的に所有される
遠吠えすることだってあるんだ
なずむ東空に意味不明でかかる
トランプの絵札 その宿命に
同族の瞳を照らしあうと
積年を行き交った風やリボン、
自分たちに関わらなかった唸りを感じる
「宙を唸るわれわれの駆動
われわれは自身が風景だと知っている
だが恥 風景の終点として肛門ももつ」
だからある時は陽光に暖まって睡る
自分たちの在世義務を延長しつつ
昼の温度そのものになれるだろうか
眠りながら此世の物音を聴くのが好き
遠くで星が落ち 遠くで沼が割れる
いつか時間意識の差をこすりつけようか
泥棒を見分けて哀しくなる
真面目にそれは泥のついた棒にみえる
あるいは自分を待っていた幹にも会う
主人を探し切った時が破局の時
愛玩の方法は実は以後習慣化されるだけで
犬たちの運命は単純な延長の相に入る
犬は連続
犬は重複
犬は気配
軽蔑が最初の方法だったこともあった
しかしメランコリーが代位する それで
造物主の息遣いを真似ているんだよ
認識においてはすべてを混ぜるようにした
食物と呼び声と愛撫に弁別を設けない
歩行と迷いにさえ区別をつけようとしない
だから犬たちから犬たちがあふれだす
自己同一性の失敗 本質的な余剰のように
犬たちは街角と街の隅に谺している
犬たちはきっと肯定していない
交配による過剰な差異の開花を
室内を 睡眠を妨げるさばえなす愛玩を
人間に似ない自己滅却の方法として
犬たちの歩みがたしかにある
探している場所は方位が原始を指す干潟
別の蓄財 世紀をまたぐ別の記憶 犬
別の感覚 赦しに関わる別の怠惰 犬
犬は生まされた概念だから 人間に似ない
時に 風が泣くのを真似する
時に 水があふれるのを模倣する
模倣してから うずくまっているんだ
奇癖が厄介なんだが解消できない
そこに種族の罠がかけられている
なぜ回るのか なぜうなじを垂れるのか
回って視界も回転するけれども
居場所は変わらないし 自分の尾を
自分の眼で追うのは男色的だとおもう
男色的
犬儒的
境界的
「われわれの使命は境界を提示すること
われわれは境界として在世する
人間ではないものの延長に入っておいで」
そうだ 赤い男たちとかつて獲物を追った
すばしこさに接するととても興奮したんだ
そして犬たちは斜行の効果を存分に試した
あのときは数学者だった
あのときは血がはやっていた
計測 計算 速度 が習いだった
ただ 追う脚が滅却されたいまでは
眼前ではない眼前を無数のゼブラが
静謐そのものとして疾走しているだけ
枯れ葉がとどまらない眼前もある
そこにはひたすら埋もれてゆく睡眠もある
犬たちはもう電波をつかわなくなっている
「老い」にともなう衰弱を
刻々と展覧するのがもうひとつの使命
衰弱という世界のやさしい中心に身を置いて
犬たちは自らを眠る眠りのひとつ先
死にゆるやかに入ってゆくんだ
そうしていまの犬が昔の犬に一致してゆく
世界は延長可能なのに書き込まれている
あるいは延長可能を書き込まれながら
延長可能を仕込まれておらずなお延長可能だ
あらかじめ俤だった犬たちは
あらかじめ谺だった犬たちは
人間の傍らで人間の何かを増幅した
たとえば命名行為を増幅した
その命名の真芯を少しブレて
犬たちの憂鬱なたたずまいがあった
呼び声が犬たちを存在として点灯させつつ
その形式の誤りを示唆したんだ
「ただ居る」ことにはどんな呼び名もない
●
三村京子さんが新しいmixi日記のなかで
「「犬」というコンセプト」について書いていたので
それがもっともしるく現れた僕の旧作詩篇をここにアップする。
03年につくった、『次第に眼は領域を見なくなる』の一節。
「阿部嘉昭ファンサイト」で閲覧できる旧作を
mixiにアップするのは掟破りだが、まあいいか、と。
依田冬派くんのいうとおり、
このころの僕の詩は「評論家の詩」であって、
「詩人の詩」ではないのかもしれない。
自分の詩をいま読み返して
なぜか松本秀文君の詩を憶いだした。
そうそう、「「犬」というコンセプト」については
去年、「松本秀文の犬」という日記も僕はmixiに書いている。
五篇
瞰
下
ろ
せ
ば
蝸
牛
の
殻
の
透
明
に
遊
星
ゆ
る
り
と
ま
は
り
つ
つ
あ
り
●
草
薙
や
素
子
の
延
髄
引
き
い
だ
し
梯
子
伝
ひ
に
海
へ
降
り
ゆ
く
●
梅
一
輪
遊
星
の
外
(と)
へ
咲
き
こ
ぼ
れ
●
星
蝕
や
掌
(て)
に
は
瑪
瑙
を
握
り
ゐ
て
●
【贋「即興詩 菜箸」】
菜箸を伸ばすと
鍋に野菜が
どんどん増えてくる
湯気のむこう
菊菜や菜の花
人参や太郎芋
大根の切口の
薄透明の地にも
野菜の錦絵が
女たちのように
しずんで
煮込むわたしも
あるちんぼるど
の舞姫だろう
(着物姿の)
流用転用悪用応用
その極点で
わたしはわたしを
絢爛に煮込む
わたしの菜箸が
菜箸のわたしに触れて
あらぬものも
不意に
掴む
●
他人や自分への書き込み欄に書いた
短歌・俳句・詩篇が
この二時間、日記サーフィンをするうち
アッという間に五つとなってしまった。
それらを散逸しないよう上に纏めた次第。
解説を。
ひとつめは「なにぬねの?」で
枡野浩一さんの短歌に書き込んだ柴田千晶さんのコメント
(石田波郷の句に言及したもの)に
僕が短歌を付けた。
ふたつめは僕の短歌に付けた近藤弘文さんの短歌、
それへのさらなるヴァリアント。
当然、ネタは押井「攻殻機動隊」シリーズ。
みっつめは僕の短歌に解酲子さんが短歌を付け
今度はそれに僕が俳句を返したもの。
2・3も舞台は「なにぬねの?」です。
よっつめは学生・瞳ちゃんの短歌に
僕が俳句を返したもの。
歌想と句想はほぼ同じです。
いつつめは森川雅美さんのお題即興詩「菜箸」に
僕が返した同題の(贋)即興詩。
4・5の舞台はmixiです。
●
なんか付け合いで
SNSの書き込み欄が
このように異常なことになっている(笑)。
詩がとまらない。
みんなヘン。
ただしたままんさんの書き込み短句・自由律は
「お下品」でとてもお返しできません(笑)
●
昨日は立教に採点簿を出しにいって
帰りの池袋ジュンク堂で
小池昌代さんとバッタリ。
小池さん、籠に数多くの本を抱えていた。
相変わらずの勉強家。
吊られて僕も本を買った。
俳句関連の書が多い。
虚子百句精読の本、
草田男の蕪村研究本など。
しかしジュンクの詩書コーナーは
思潮社本が我が物顔だなあ。
その帰りに小池さんとはお茶した。
このとき小池さんの旦那さんから
小池さんのケータイに電話がかかる。
鍵を忘れて、家に入れない、
とのSOS電話。
慌てて帰る小池おばさんは
まるで主婦だった(笑)。
その前、小池さんは
研究室の僕の机に
新詩集『ババ、バサラ、サラバ』(本阿弥書店)を
置いてくださっていた。
これは今日、電車のなかで読もう。
電車のなかで読むのは詩集が一番という
小川三郎さんの意見は徹底的に正しい。
●
今日は立教の試験監督。
立教の連絡が悪くて
あやうく依頼をスルーするところだった。
教師の詰所では
また小池さんのお姿を見るだろう
「詩の朝」五首
を
ち
こ
ち
の
こ
の
蛙
卵
状
か
は
づ
ら
の
無
を
孵
さ
む
と
詩
が
ペ
ン
を
も
つ
●
朝
ご
と
の
溶
明
か
な
し
眼
の
み
に
よ
る
詩
な
ど
湖
底
の
波
頭
に
も
肖
て
●
を
ち
か
た
の
ひ
か
り
は
つ
か
に
詩
の
朝
は
凶
王
の
髪
ま
づ
は
刈
る
べ
し
●
訪
ね
追
ふ
詩
心
の
先
に
田
鶴
あ
り
て
羽
間
の
雪
に
良
貨
お
も
ほ
ゆ
●
朝
を
捏
ね
顕
は
し
め
た
る
を
と
め
子
の
胸
乳
の
平
ら
に
平
成
の
詩
を
五首
遠
ざ
か
る
九
月
の
城
は
い
ふ
な
れ
ば
風
で
つ
く
つ
た
あ
ら
ぬ
虫
籠
●
性
愛
の
ま
に
ま
に
友
と
呼
ぶ
ほ
ど
の
夕
海
を
ゆ
く
帆
船
の
見
ゆ
●
成
就
な
き
恋
を
こ
の
身
に
引
き
寄
せ
て
わ
た
く
し
と
い
ふ
成
就
な
き
影
●
蝋
梅
の
黄
は
他
界
か
な
蒐
め
て
は
手
放
す
盤
の
声
さ
ま
ざ
ま
に
●
ア
ニ
メ
そ
も
同
一
性
の
破
壊
に
て
押
井
論
に
も
「危
機」
の
字
あ
ま
た
●
「なにぬねの?」での枡野浩一さんの短歌日記に書き込んだ歌三首と
今朝、風呂(朝風呂の身分です)で、脳裡速成した歌二首。
短歌は気分かるくつくるのがいい(俳句も詩もそうだけど)。
枡野さんの短歌に接すると心が柔らかくなる