ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

草森紳一さんが亡くなった

草森紳一さんが亡くなった。
享年70歳、死因・心不全。
あれだけ締切破りの遅筆で
あぶない原稿書きの橋を数多く渡ってきたのだから
つまりストレスフルな評論家人生を送ったはずなのだから
これは天寿をまっとうしたといっていいのではないか。

つい、相手の懐ろを読み、ストレスフルと書いてしまったが
草森さんの文章自体は発想力や飛躍に富み、
いつも唖然とするほどの柔らかさで
困難な本質を言い当てる抜群の筆力をもっていた。

僕が最初に彼の本を買ったのは、
『九蓮宝燈は極楽往生の切符』だった。
書名どおり麻雀にたいして考察を繰り返した本で
高校~大学初年まで麻雀に狂っていた僕は
何の気なしにそれを買ったのだった。

びっくりする。
麻雀の成立から中国的な卓上遊戯の数々まで
大室幹雄さんが書きそうなことを
効率的にさらりと展覧しながら
同時に当時の「話の特集」人脈で
自分がデカい振込みをした話なども臆面もなく書いて脱力させ、
かとおもったら「ツキ」に対する考察では
どこかチェスタートン=イギリス的な知性も揺曳しだす。
ぬらりひょんとしてつかめない。
それがすごい魅惑になっているのだった。

加藤郁乎の書評集『旗の台書見』に
草森さんの『日本ナンセンス画志』の書評記事が載っていて、
あの怪物ですら博覧強記と草森さんを褒め称えている。
それで大学生の僕はどこか臆し、
結局、草森紳一の本を古本屋で見つけるたびに買いだしたのは
いまから15年ほど前だったとおもう。

西荻窪にできたてだった「スコブル舎」で
大量の草森本が並べられていて、
それで女房の許可をもらい、大人買いしたのだった。
店主がその買いっぷりに瞠目している気配が伝わってきた。

周知のように、草森さんの本はノンジャンル。
おもいつくままに書いてみると、
江戸文学、江戸意匠、中国古典漢詩、三国志関係、
団地の遊園地考察、散歩、写真、イラストレーション、
女性のエチケット、アンリ・ルソー、イギリスのノンセンス、
ナチスのプロパガンダ、明治元勲の書道、永井荷風、
江戸の古地図、マンガ、日中の食客制の比較、土方歳三、
TVコマーシャル、図像学、日本人の嗚咽、詩、春画
など、著作と興味の圏域は異様な多岐にわたっている。

一行にかけられた元手が高いとはよくいわれることで、
下手すると一行一行の奥に
一冊一冊の本が伏在しているのではないか。
最近では河内紀や堀切直人が
この境地に近づこうとしている。

ノンジャンルスタイルへの僕の憧憬は
最初は平岡正明が火をつけたが、
それを確定したのが、草森紳一だった。
以来、僕の出す本も結果的にノンジャンルの集積となった。
名前をあげた人たちは実は博覧強記だが
逼塞感はすべてない(いや、堀切さんはちょっと慷慨調か)。
そのなかで草森さんはとりわけ文体が柔らかく、
しかも「自笑」の気分には東洋的な余裕もあって
読書の幸福感を導いてくれた。

編集者時代の村松友視が
草森さんの原稿を依頼しようとしたが、
ついに果たせなかったエピソードを
坪内祐三が書いていて、
その村松さんにより、草森さんへの形容「凄玉」を
教示された、というくだりが心に残っている。

草森さんの書く原稿は元手がかかっているのだから
エピソードもすごく豊富なのだけど、
不意に原理的な本質に迫る遠近変換装置もある。

「円」とは東洋ではこんな連絡をしているのか。
「三角」とはヨーロッパではこんな系譜をもつのか。
東方朔の本質はこのようにとらえればいいのだな。
食客をつくりだした東洋の共同体は
老荘的でありながら実に機能的ではないか。
書道の「跳ね」とはこんな存在論なのか。
ヤクザの起源とはこれだったのか。
表現の局面局面に現れる虎縞は東洋的な鋭気だな。
日本人は昔は政治演説会で演者も聴き手も号泣していたが
それは音声主義と根深くからまっていたのか。

――さらりと書かれたそれらの分析が
一々、腑におちて、こちらの身が灯ってくる。
本当に素晴らしい書き手だった。

永代橋を見下ろすマンションの一角にずっと住んでいた。
散歩と写真が趣味。
『円の冒険』という名著があるからというわけではないが、
草森さんの写真テーマには
木の根元で昼寝している人を盗み撮りする、
というものがあった。
陽だまりに坐って白河を漕いでいるひとと
そのひとの頭上に聳えている樹木が
全体でピラミッド型となり、
ピラミッドパワーがその眠りのなかに刻々入り込んでいる
という分析があったが、
内実は「円寂」というものをそこに見て
感入していたのだとおもう。

草森さんはひとの後ろ姿も盗み撮りのテーマにした。
エドワード・ヤンの遺作映画の少年みたいだが、
永田耕衣的な後ろ姿の寂滅をやはり感知していたはずだ。
雲が何かにみえる姿(かたしめし)も写真に撮り続けた。
アニミスティックな感応の天上化。
自分の躯が地面に投げかける影もいつも捉えた。
世界内での位置を愉しむ「少年」がそこにいる。
「少年」はそういえば、
エロチックな小説『鳩を食う少女』も書いた。

歩行渦中の草森紳一に出くわしたことがある。
神保町の古書街だった。
長身にして痩身。ぼさぼさした白く艶のない長髪。
紙袋を両手に提げている。意外に顔色が黒い。
「レゲエおじさん」度が高い。
顎鬚がしょぼしょぼ山羊みたいで、仙人ぽいのだが、
スリムジーンズにつつんだ足は大股でかつかつ歩いている。
洒落た茶色のスポーティな革靴。

眼の前を通り過ぎたその数秒は幻だったのだろうか。
青土社で一時期「草森番」だった郡淳一郎は
草森さんは神保町を利用しないんですけどねえ、と言った。
たぶん信頼できる古本屋とじか契約して
テーマ別に大量買いをしていたのだとおもう。

慶応の中国文学科に在学のときから
年齢不相応の漢籍の知識に教授連が驚嘆して、
草森さんは院への進学を切望されたのだが、
あっさりとその階段を下り在野して
手始めにやりはじめた仕事が婦人雑誌の編集だった。
鈍色の研究からカラフルな世界へ。

職業柄、ということもあったのだろう、
横尾忠則、さまざまなマンガ家、
イラストレーター、写真家との付き合いが開始され、
インタビューだったかで手塚治虫に気に入られ
『COM』でのマンガ評論が花開き、
竹中労が来日したビートルズの懐ろに入り込めず、
日本の警察管理に問題をズラしたそのとき、
ビートルズの滞在するホテルの部屋に入って
インタビューする光栄に浴していたのも草森さんだった
(星加ルミ子だけをいうのは間違っている)。

このような若い時分のカラフルな仕事が
以後、江戸・中国といった専門域の仕事にも
色彩を与えたとおもう。
だからたとえば中国を論じて
中野美代子的な重い肉弾接近がない。
飄々としていて、それは
中野美代子の弟子、武田雅哉の仕事に先駆するものとなった。

一度、正式に会っておくべきだったな、と少し残念だ。
チャンスは二度あった。
何かの映画評に草森さんの一文を引用した。
それを「草森番」郡君が、草森さん自身に見せると
ご本人が「このひとに会ってみたい」といったという。
それと拙著『実戦サブカルチャー講義』の最終章では
草森さんの奇妙な「写真行為」を大々的にフィーチュアした。
草森さんと面識のある編集の西口徹が草森さん自身に伝え
このときも「会ってみたい」という反応がつたえられた。

「ぜひに」と僕自身が積極的になれなかったのは
むろん仙人の域に達した「知の巨人」との直面を恐れたためだ。

草森さんは80年代半ばまでは馬車馬のように書いていた。
それで腱鞘炎が持病だったはず。
たとえばこのころの写真評論はのち
『写真のど真ん中』という本にまとめられるが
人も喰う草森さんらしく、
それらは「非表現写真」の考察でまとめられている。
ぜんぜん「ど真ん中」ではない印象が最初に立って、
では「写真のど真ん中」とは何か、の考えにいたり、
それはうら寂しい非人称的な視線のことだと思い至る。

しかし実は70年代の草森さんには
「写真表現ど真ん中」の評論が数多くあった。
たとえば最初に江湖に問われるはずだった「篠山紀信論」も
結局、出版化されなかったのだった。

草森さんの本は判型が自在だ。
小ぶりで可愛い本も存在する一方で、
異様に大判の派手な本もあり、
それらにはブックデザイナーとしての横尾忠則が結託していた。
『江戸のデザイン』『素朴の大砲』。

この巨大本というのは、晩年も量産した。
『北狐の足跡』『荷風の永代橋』『あやかり富士』。
書道本の『北狐の足跡』などは何部刷られたのかわからない。
そういう本の存在は知っていたが、高価だったためか
どんな大型店でも見かけたことがなく、
郡君などと「幻の本なんじゃないか」と笑いあっていたものだ。
それをサイト「日本の古本屋」で
ついに見つけたときはびっくりした。
ともあれ本がどのような姿をとるべきかの見切りが
通常人とはまったくちがう。
東洋的巨人だった、ということだろう。

そうした巨大本と
「草森方式」と呼ばれるものがかかわっている。
草森さんがある雑誌特集に書く。
それだけで大した分量なのに、
それは中途で終わってしまっていて、
「次号完結」と末尾に示される。
一種の特例措置だろうと読者は考えるが、
「次号完結」はその後も延々と続き、
実際は連載と謳われていないのに
連載が永続というに近い状態で続いてしまう
――これが「草森方式」。
担当編集者の胃袋には穴が開くだろう。
雑誌文化が沈滞して、
草森さんが編み出した奇策だとおもう。
けれどもそうして、
『食客風雲録』『荷風の永代橋』などが生まれた。

と書いて気づく。
「草森方式」で気絶的に長い時間、「文学界」に連載された
「副島種臣の中国漫遊」はその死後、単行本化がなるのだろうか。

晩年の重量級連打のなかに
新書体裁の『本が崩れる』が紛れ込んでいるのが
草森狂にとっての気軽な嬉しさだった。
あのような「知の巨人」の部屋のなかがどうなっているのか、
それがあの本ではついに開陳された。

足の踏み場もないほど床には本が散乱している。
草森さんが胡坐できるスペースと文机だけがあって
その机のうえにもすでに平積みの本が林立し
書棚にいたってはすべて本が収蔵されていても
その前が平積みの本でまったく蓋がれていて用をなさない。
廊下にも風呂場の脱衣場にも本の山脈が続き、
どこにどんな本があるかは当人の感知するのみで、
しかも草森さんは胡坐スペースに置いた身を
坐ったまま不精に回転させて、
あの長そうな腕をひょいと伸ばし、目的物を掴む。
宮崎アニメの釜爺をおもえばいい。

興味があっていずれ書くだろうテーマの本の大量買い。
絨毯爆撃のような本の買い方らしい。
どのような古本屋が背後に控えていたか
(古本屋といえば先日『月の輪書林それから』を読んでいて、
著者の古書店主・高橋徹が、
草森本を未経験だったのが意外だった)。

草森さんの自慢話にはいつも侘びた味がある。
彼は自分を、隙間なく本の山を部屋内につくる達人だという。
同じ判型のもので平積みを揃える。
ところが頁折りをしてなくてもどちらかにそれが傾く。
傾きは別の山の傾きで対抗させ、
しかも隙間なく山を連続させると
積み上げの強度がいっそう増す。
それで本でできた壁が部屋内に幾つも増殖し、
結果的にあの痩身を横向きにして通れるだけの導線が
やっと生活空間のなかに不自由に残るのだという。

自慢できないそんな話を自慢したあと、
草森さんにはとうとう天罰が下る。
詳細は読者の愉しみのために書かないが、
そのエピソードが涙が出るほどの抱腹絶倒。
書物に憑かれた者の
「あわれ」や「いぎたなさ」や「無頓着」を
これほど笑いに定着できた例も稀有ではないか。
書物狂にはぜひお薦めしたい文春新書だ。

そういえば僕の書棚の小さな自慢は
入手しにくいものもふくめ
草森本が「ほぼ」揃っていること。
「ほぼ」というのは、
揃い価格でえらく高い『絶対の宣伝』全4巻を
じれて一冊だけ買ってしまい、
残りがバラで入手できないために起こった事態だ。
ほかは『オフィス空間』とか『女のセリフ捕物帖』といった
変種の本まである。
トータルで60冊くらいだとおもうが、
これらの多くは十数年、古本屋を歩いた結果だ。

ただし『実戦サブカルチャー講義』に書いたことだが
草森本がトータルで何種あるのかは世間の謎になっている。
僕はこのようなことをしるした。
「郡君、今度草森さん自身に著作が一体何冊あるのか訊いてみてよ」
「そんな恐ろしいことできませんよ(笑)」
これも笑い話だろう。

とりあえずは、合掌――

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2008年03月30日 日記 トラックバック(1) コメント(2)

蜜蜂・近藤弘文

【蜜蜂】(全篇)
近藤弘文


だから言語的鉱物も
飴玉のように胃を照らすことはなく
青空は幽霊の噂が絶えない
あなたという装置
なけなしの万年雪としてたった一行です
誰もいない蜜蜂
って知ってますか
木の真下から空を見上げて
小声が落ちているのは
折り込まれた光のひたいに、である
じっと動かずに動かない
ぶつける木の実をさがしています
遠くから字を書くよ
を撫ぜるのはきっとわたしで
誰かが煉瓦を割っている
のもきっとわたしで
たった一行の
光をぬけていった蜜蜂は
ひとはみない瞳
そんな死体ごっこ


[「tab」9号、03年3月15日]



驚嘆する。
言語破壊、構文破壊がどのように詩として転位するか、
それが、書かれる指先や詩行をズラす作者の思念に
ずっと豊かに漂っている。
光が表象されて温みがあるのではなく、
言葉を追う心にこそ温みがあって、
それが近藤弘文さんのしるしだろう。

一行目、冒頭から
無媒介に前段を受ける接続詞「だから」が生じ、
詩篇全体が或る未了性の一角だと告げだす
(椎名林檎の歌詞に同様の破壊があった)。
二行目、飴玉が胃を照らすというのは
唾液に溶かさずに丸ごと嚥下した飴玉が
胃にもたらす幻想だとして、
その溶けない飴玉が、
奇怪な語、「言語的鉱物」と喩的に連絡をしだす。

この詩を読む作法はそれで決まる。
隣接する語の親密を測るのではなく、
遠隔する語の照応によって、
「遠隔」の運動量を測定し、
詩の空間を時間化せよ、という命法が
ここにはある、ということだ。

空間化の手法も実は見事だ。
三行目、《青空は幽霊の噂が絶えない》は
浮遊物が迅速に擦過する青空の、
虚の実質を言い当てていて、
四行目、《あなたという装置》なら
却って「あなた」からその肉体性を奪ってしまう。

その「あなた」に五行目、
《なけなしの万年雪としてたった一行です》
が接続されて、
「あなた」への思いは永遠化(「万年雪」)しつつ
アンフラマンス=極薄(「たった一行」)
だとも告げている。
詩中の「わたし」(14行/16行)は、
このようにして
アンビバランツ(「なけなし」)のなかにいる。

近藤弘文の詩は、詩行が「束」化しドライフーズ化し、
アレゴリーとなり、
そこに結像性を失う「もどかしさ」を演じながらも、
なおかつその連続が
精妙にして陰翳に富んだ「時間」を
形成する逆転に特徴があって、
それは彼の処女詩集『夜鷹公園』を読んで
最初に舞い込む感慨だろう。

五行目の文尾「です」、
七行目の文尾「ますか」といった口語体の混在は
それぞれの詩行の「束」が
異質性を経緯している自己表明となっている。
つまり乱暴なのではない。

八行目、《木の真下から空を見上げて》で
作者の位置が擬定される。
「わたし」は名指されぬ植物の樹下にいて、
空を見上げているのだった。

読む筋は遡行する。
その「空」こそが三行目、
《幽霊の噂が絶えない》《青空》で、
ならば四行目《あなたという装置》も
「幽霊の噂が絶えない青空」に属している。

「わたし」の位置の根拠となる「木の真下」の前、
七、八行目に挿入された(標題「蜜蜂」と関わる)
《誰もいない蜜蜂/って知ってますか》が奇怪だ。
「蜜蜂」は内側に折り込まれ、
この修辞のまま
不在化によって実在化までする芸当を演じるが、
この疑問文は、発語起点がどこで
投げかけられる対象が誰かを明らかにしない。
蜜蜂に付く形容詞が奇妙だという直観は無論として
空間が陥没する感覚が同時に生ずる。

七行目から八行目にゆく「渡り」
(八行目の冒頭が「って」で、
それが前行を受けている脱臼感覚)が
以後の十三行目《遠くから字を書くよ》を
十四行目で突然名詞化し
これを「を」で受けるアクロバットまで予告している。
それは十五行目《誰かが煉瓦を割っている》を
さらなる十六行目の「のも」で受ける
破壊へとも連続されてゆくが、
無政府的なのは、十三行目、十五行目のそれらが
「わたし」だと越権的に自己規定されるためだ。
「わたし」の遍在。

(間歇を横断する読解は、
必ず13行目、15行目を加算して
《誰かが遠くから字を書くように煉瓦を割っている》
という構文を「読む」はずで、
その構文の西脇的な永遠にも陶然とするはずだ)

話を戻すと、こうした遍在が経験されて、
六行目に初出する「蜜蜂」も
「わたし」ではないかという
読み筋が成立するのだが、
同一語が間歇してたえずちりばめられる
この詩篇の法則のなかでは、
十八行目にも「蜜蜂」が出てくる。

こちらの「蜜蜂」には
前行で「たった一行」という形容が付いていて、
これは六行目「たった一行」と同一。
つまり「わたし=蜜蜂」は五行目「あなたという装置」と
形容詞をわかちあっている構造も把握される。
端的にいえば、「わたし」=「あなたという装置」で、
それが「誰もいない蜜蜂」=「空間の陥没」なのだった。
それがありえないことに空間を一筋翔ぶ。

行数を指示するのが煩瑣になったので
以後はこれを省くとして
この詩では喩的な意味での言語の同一群を
詩行の束とは別次元で束ねる必要があると
察知されるだろう。

「幽霊の噂」と
空→木という経路を通じて落ちてくる「小声」が
とうぜん同一群を形成するのは見やすい。
小声=噂=ささめき=せせらぎといった
小さな音の鳴動は
自然界を「それ自体」以外に変えるように
副次的に充たしているもので、
「あなたという装置」の存在に
思いを馳せる作者「わたし」は
自然を受容する心的余裕のなかにいる。
そこでも西脇的な立脚が感じられる。

もうひとつ、別系列の語群に着目してみよう。
「言語的鉱物」「飴玉」「木の実」、
(もしかすると「煉瓦」)、「瞳」だ。
それはのちに「小声」が示そうとする運動「落下」を
「木の実」が「ぶつかる」という形容で奪うことで、
全体が「落下」可能性のなかに畳まれる。

「落下」は「わたし」の
「折り込まれた光のひたい」を狙っている。

「折り込まれた光のひたい」という詩句の
何という素晴らしさ。
加齢の皺もふと幻覚されるが
(ところがそれは木の葉の濾過装置を介在して
実際は木漏れ日が「ひたい」を
折り込んでいるだけかもしれない)、
ともあれ「わたし」が
ひかりの至福のなかにいる、という
位置判断のほうへと
読みは落ち着こうとするだろう。

むろん樹下に仰臥して、
木の実の自然落下が急所の眉間を直撃して
それで自殺を目したのは古賢のアイデアだった
(こういうアイデアを踏襲するところも西脇的だ)。
それは死を「他在」させようという
究極の目論見だったろう。
ところが、木の実は《じっと動かずに動かない》。
「死」にこそ最大の未了性が与えられているのだった。

考えてみれば前言した《誰もいない蜜蜂》もまた
未了性をそのままに俳諧的に実質化したような言葉だった。
とすれば「わたし」「あなたという装置」は
蜜蜂と木の実によって、未了性、
とりわけ「実現しない死」に結びつけられる
(だからこそ最終行の《死体ごっこ》も
幸福な遊戯となる)。

ここに、「わたし」の名によって
外界が悉皆の遍在にまで導かれ、
結局はそれらが「ひかり」の至福のなかで
たゆたう感慨が接続されていないか。
希臘的、といっていいとおもう。

最終行の「死体ごっこ」は
偶有としてある世界のなかで、
おのが肉体を優雅に、
仮初の宿りとすることと響きあう。
「響きあう」と書いたが、
そうした音響は詩篇全体に遍満して
詩篇の正体も
あらゆる不定形が蜜蜂の唸りとなる変貌過程だった。

最後から算えて二、三行が問題となるだろう。
「光を抜けていった蜜蜂は/ひとはみない」だけなら、
自己も対象もみない(つまりは感じるだけの)
生の叡智に直結するとおもうが、
「ひとはみない」で構文が終わらず、
「ひとはみない瞳」の体言止めへとずれこんでいる。
掛詞が横行した和歌の文法をおもうが、
では、「ひとはみない瞳」の「意味性」とは何か。

単純に目的格の省略で、
「ひとは瞳をみない」が圧縮されている
と考える第一観ののち、
不穏な認識が導かれる。

これは文字通りの「A is B」の構文で
「ひと」と「みない瞳」は結果的に同格なのではないか。
同格関係を引き離して散らしてきた
この詩篇が最終部まで来た――
およそそんな感慨があるなら、
同格と考える向きも多くなるとおもう。

「ひと」そのものが「みない瞳」である、とするなら
ひとの身体全体に視覚が張り巡らされつつ
かつその視力が奪われている不如意に――
つまり、のっぺらぼう
(アルトー的な「器官なき身体」)のなかに――
「ひと」全体があって、
その事実が何がしかの明晰な抒情によって諾われている
図式もここに浮上してこないか。

同時に最終一行前の構文は最終行と連動して
「ひとは/死体ごっこ」という新規の構文もつくる。
ならばついに讃歌の対象になっているのも、
ひとのつくりだす「偶有」だとおもう。

だからひとは、
「ひかりをぬけて」ゆく「蜜蜂」と同義となり、
その「蜜蜂」には
「誰もいない」ことになるのではないか。



詩句が謎めいて美しいだけではない、
詩が隠しもつ認識が美しい詩篇。
『夜鷹公園』で
「詩行の束」の文法をつくりあげた近藤弘文は
いまや別次元へと
新たに踏み込もうとしているようだ。

2008年03月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

五句(08.3)

葱なびく常世闇にて舟寝せり


右手にある愁ひ恃むや春鬱金


散らさずと雲峡の手に扇置く


緋すすきの百を算へて火所を去る


拷の字に吊し斬りせり銀一頭

2008年03月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

三村+阿部50行詩

弟子にして有望歌手の三村京子さんと
(三村さんは4月13日に新譜発売)、
「なにぬねの?」の書き込み欄に既報のとおり
華々しい「詩の実験」をした。
相互に一行ずつチャットをつかって詩行のやりとりをして
つなげて全体の詩篇をつくりあげるという試み。

で、できあがったのが以下。
トータルで50行。
少々乱暴だけど
連句につうじる呼吸もあって、面白い仕上がりだとおもう。

どの行が三村さんで、どの行が僕だかわかりますか?

もったいぶってもしょうがないか(笑)。
――三村京子が奇数行で、阿部嘉昭が偶数行です。

この試み、こんご参加を募ります。





【此の世が太鼓になって】
三村京子/阿部嘉昭



洗って洗って剥げた身体に、紙を漉きだす
流れでる巻紙には夜明けの文字を書き流すかもしれない
ここから何を? 銀河の手本を嵌め込んだ、最後の頁で
断髪のわたしは来歴の最初をただ「渦」にして滲ませた
待つのは審判か、回り続ける黒焦げのオドラデク
橋は橋である自分をふとやめて とおく谷底に砕けた
遠くで女の叫び声もする。踊る川水は速度を増しながら
さかのぼってゆくと滝壷のうえには世界が億万並び立った
光の淋しさを前に、掌の奥で、運ばれてゆく音を聴いた
左右のいろの違うわたしの瞳は点滅しつつ爆発を起こし
破片の流れゆくのが見える。泡の糸で手繰りよせては消え、
消えては現れる洗い汚した下着を洗剤で千に裁断する
洗濯機の中にアイスキャンデーを常備しているので、
水玉模様のスカートには事欠かず、日傘も丘にまわる
家を出る時に、脚の片方が無いのに気づいて
駅に集まったあらゆる落とし主と仲良しになる、猫好きの。
水玉を猫に与えつつわたしが猫になってゆくのを知る
開闢の噂を語りあうふるさとの訛りが鉛よりもなつかしい
猫語、水語、昨日の飲み残しの乳。あなたの身体に乳を塗り
みんな舐めて便器ではないほんとうの泉にたどりつく
みえるのが黒い渦だったから、そこへなんども唾を吐き捨て
足許のものは透明な壷にした。「裕美、何度も生き返って」
泉水に触れたわたしの片脚から天上のオーロラが翻る
「拓郎、何度も死に変わって」、続々と来る薄緑の霊柩車
逃げ出す彼の屍。壷が歩き出し、自ずとわたしの骨を納め
一切合財が収まってわたしの夏も盆地を長なが行列する
仏に被せる白布のうえに米粒の人々が泡立っているので
縮むくだものにミルクをかけて伸びる咽喉へと掻っこんだ
せつないです。甘い味が、虹の向こうへ。足袋が剥けて
脚も剥け胴も剥け 幹になった猛暑がせつないです
顔ものっぺらぼうになって明りの灯る祭りを通り抜けては
無名の境遇を細長い鬼たちと分かつ。天の気分で草が揺れた
たのしや。雷を齧り、此の世が太鼓になって
「車」三台で ゆかしや、援交都市も平気で轟く
「指三本」で、今夜はどう? なんて寄っても軽くいなして
聖書にいわく「お前が援助すべきなのはお前自身だ」
身体半分、頁をめくって読んで。だけどそばから縮みそうで
「手乗り」となる身分の少女たちは花粉を台風に飛ばす
朝顔の蕾の影。胚種から灰の女に変わるだろうか
いや胚種はとおい面影、そこからは収穫期の女神が微笑む
胞子の階級へ貶められた絶望が、彼女らを死の地へ囲い
やがては薔薇の一揆が川のあふれる畔にも音連れるだろう
それとも手を繋いで、せーので線路に飛び降りるか百人自殺
乳首も空間に飛ばしちゃえ どうせ此の世は模様だもの
鏡張りのここで何重にも現れ 木霊する 声が 身体が
しずくする国家が 少女が。鏡の森ではアリスぐるぐる
これが身体なのか、これはあなたなのか、謎解きを
何にせよスペードの女王は両性具有だろう アメリカだ
今から始めます。手術でしょうか。勉学でしょうか。
あすは手術を。肺に百合を。ひとみなに学びのともしびを

2008年03月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

mixi規約改正問題の推移

前掲日記は当然のことながら
マイミクさんから反響があり、
コメント欄では多数のやりとりをしました。
そのなかから自分自身の書き込みを抜き出し、
ただ時系列で下に貼っておきます。

今回の問題が「ユビキタス・ディストピア」の一環で
mixiはそれへの強行を
利用者の「総意」で一応は阻止されつつあるという中間総括で
当面いいのではないかとおもう。





いま、上の18条にたいする「追記」が
mixiから発表されたと気づいた。
下にペーストする。



mixi運営事務局です。

昨日お知らせいたしました 利用規約の改定 につきまして、『mixi』のサービス内にユーザーのみなさま

が書き込まれる情報に関する取り扱いに関して多数のお問い合わせを頂戴いたしました。この場を借りて

お詫び申し上げます。

特にお問い合わせの多い【第18条 日記等の情報の使用許諾等】に関しまして、誤解を避けるため、当社

が想定している具体的な使用について補足説明をさせていただきます。

上記の条項につきましては、ユーザーのみなさまが『mixi』のサービス内で作成した日記、著作物等の情

報について、従来どおりユーザー自身が権利を有することに変わりはありません。

また、ユーザーのみなさまが投稿した日記等の情報(公開している自主作成の映像やイラスト、テキスト

等)の使用に関しては、当社の以下対応について同意いただくもので、当社が無断で使用することではあ

りません。



投稿された日記等の情報が、当社のサーバーに格納する際、データ形式や容量が改変されること。

アクセス数が多い日記等の情報については、データを複製して複数のサーバーに格納すること。

日記等の情報が他のユーザーによって閲覧される場合、当社のサーバーから国内外に存在するmixiユーザ

ー(閲覧者)に向けて送信されること。

なお、ユーザーのみなさまの日記等の情報を書籍化することに関するお問い合わせもございますが、こち

らの点につきましても、従来どおり、ユーザーのみなさまの事前の了承なく進めることはございません。

なお、利用規約につきましては、今後もご利用いただくお客様にご理解いただきやすい内容になるよう引

き続き検討してまいります。

以上、何とぞよろしくお願い申し上げます。



姑息なものだ。騙されてはいけない。
利用者の著作物については
mixiから利用者に事前同意を得るという補足だが、
条項内の「 」部分、

当該日記等の情報を日本の国内外において「無償かつ非独占的に」使用する権利(複製、上映、公衆送信

、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします

には何の改善もみられない。

誰がタダで自分の製作物をmixiにやるか、
当面はそんな拒絶姿勢を貫き、
単純に18条全面撤廃を要求するだけでいい




以前クローチェさんが個人的にしてくれた報告が
当然、うえの僕の日記の念頭にありました。

今回の愚挙が
資本家がひたすら驕慢な「今の日本の現状」の
鏡というのはよくわかります。

ただし僕は絶望することなく
社会運動が成立するのか
その可能性もみてみたい。

自分のポジションがmixiから抹消されないかぎりは
3月末日まで「18条全面撤廃請求」を続ける決意をしました。
ふつうの日記はもう書きませんよ

僕は詳しい時期の認識がないんだけど
mixi資本がケータイアクセス・サーヴィスに
踏み切ったのはいつだったのか。
掲示板のかわりの安全・多方向な掲示板として
mixi日記のコメント欄が利用される動きを
mixi資本は予想していたとおもう。
そうして利用者の愚民視が強大化した。
そしてそのときからこうした絵図を描こうと
mixiが、てぐすね引いて待っていた気もします




あ、Keffさん、mixiケータイのいろんな機能つかってるんだ(笑)。

僕はケータイは電話とメールだけしかしないので
実はmixiケータイの事情をよく知らず、
学生からの見聞だけなんですよ

mixiが壊滅するのは実は何の問題もないけど
多くのひとがくれた書き込みはやっぱり財産。
いまKeffさんからいただいた書き込みにしてもそうです。
その意味で即座に退会する蛮行ができないですね。
mixiにたいしては僕ももともと嘲弄的だけど
マイミクが大事なのです




あ、たくろーくんのコメント、見逃した(笑)

運動参加表明、嬉しい。
君たちの世代が最も力になる




マイミクが大事なんだけど
不満もある(笑)。

つまりそれが
mixi空間が「社会」だということ。

社会変革の予備動作になる案件かもしれない、今回は




しかし今回は
あしあとのつきかたが異様だ。
起きているマイミク全員が
あしあとをつけている気配。
一分間に2、3個ついている。
ということは日頃
いつものタイプの僕の日記は
倦厭されてたな、と逆にわかる(笑)

さっきからあしあとの増殖をみるのが愉しく
あしあと欄をみてきたんだけど、、、

あ、もうダメ、晩にがぶ飲みしていた焼酎がたたって
眠くなってきた、、、
一分後には沈没ぢや(笑)

みなさんひとまず




近藤さんへ

お早うございます。

21条の条項はこうですね




第21条 本利用規約及びその他の利用規約等の有効性

1 本利用規約及びその他の利用規約等の規定の一部が法令に基づいて無効と判断されても、本利用規約及

びその他の利用規約等のその他の規定は有効とします。

2 利用規約等の規定の一部があるユーザーとの関係で無効とされ、又は取り消された場合でも、利用規約

等はその他のユーザーとの関係では有効とします。



つまり、砕いていうと知的財産権という法的保証よりも
mixiの規約のほうが優先するという
mixi側からの一方通告ですね、これは。

法的権利よりも上位の「会員」束縛を一企業が宣言するなど
完全に反社会行為だし、その法的根拠も薄弱。
この条項そのものが違法性が高いのだから
この条項の明示で訴訟上mixi資本が有利になることはありえない。
法律の常識です。
子供が書いたんだろうか。実に笑止です。

繰り返しますが、第18条にたいし
mixi側がいくら「追記」をおこなっても
18条の撤廃もしくはその代案条項を公けにしなければ
一切意味がありません。

そして撤廃があっても、今回の騒ぎを起こした経営陣の責任が
「監視機構」の存在を論点にして問える、ということです




みちちゃんへ

自分たちが利用している対象にたいし
こういう問題が生じたとき
いまの大学生がどうすべきかが
あんたたちの場合、問われています。

たくろーくんたちと
いろいろ考えてみ。
「ただ退会する」というのは
最も受動的で、つまらない対応かもしれないね




アキさんへ

引用、ペースト、ぜんぜん構いませんよ。
怒りを多方向にぜひ広げてください。

僕の予想ではmixiはマスコミに叩かれて
問題のある規約改訂条項をすべて
出しなおしせざるをえなくなるだろうけど、
この問題は世のSNS全体に実は共通するものだったようです。

SNSの多くで、その利用規約に
書かれた日記文の著作権は
そのSNS自体に帰属すると明記してあるものが多いらしい。
出版物などに再利用したい、というよりも
(僕はよく知らないのだけど)
「ランキング」などを出すときに
それを無断ペーストする場合が考慮されているらしい。

それと、加入が無償のSNSにおいて
SNSが何によって利益を得ているかが考えられなければならない。
当然、「広告」です。

企業収益を考える場合、
ある項目で記事をSNSが集成して、
それを広告主に提案、
その広告のなかに日記を無断引用させる
媒介にmixiがなる--
などの可能性が考えられているのではないか。

「出版物」が当初は前面に出ましたが、
よくよく考えるとこれは隠れ蓑、
本心は代理店との連動をしたいのだという気もする。

グーグルが構想するネットユートピアでも
「機械」が記事内容を自動的に読み、
ブログ空間に無媒介に広告を入れる、
など「選択余地なし」の方法論が出てきます。

広告数×ヒット数で
そのブログに金額が振り込まれる、というのですが、
僕はよくよく考えて、それがありえないのではないか、
と考えはじめました。
機械の読解は単語検索にすぎず、
記事の本質を把握できない、とおもうからです。

あんたたちへの演習では
10年後にブログライターが乱立しているという前提で
ブログ演習をはじめたのだけど、
来るべき記述空間はもっと企業的見地以外から
考える必要があるようです。
「自分たち」のメディアが真につくられなければならない。

ただし紙媒体は当然に「ほぼ」消えてゆくでしょう。

つまり今度の問題では
「われわれ」がどのような媒体に何を書いてゆくか
そうしたヴィジョンが問われているということになります。
改正要求の目標は遠大。
そこにリテラシーが関連してもいる。

多くのSNSで日記作者当人の著作権がないのはなぜか、など
ネット企業の根幹を考える時期が来たのかもしれません。
「巧言令色」に注意、ってことだね




18条の改訂案については
すでにmixiを利用している法律の専門家から出ているようです。
当面の目標はこの文言を
利用者が獲得すればいいのだけど。

マイミクyuka*さんの日記から
孫引のかたちになりますが
下にペーストしておきます
(方向性の良い整理となるので)



上述のBeyond words:krhghsさんの第18条規約改定案がとてもわかりやすかったので引用させて頂く。

------------------------------
第18条 日記等の情報の使用許諾等

1. 本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿した場合、日記等の著作権は創作したユーザー

に帰属するものとします。

2. 前項に規定にかかわらず、ユーザーは弊社に対して、本サービスの提供及び利用促進、又は、本サー

ビスの宣伝及び広告のために必要とされる場合に限り、ユーザーの著作物を無償かつ非独占的に利用する

権利を許諾するものとします。ただし、ユーザーが公開範囲を限定する設定を行った日記等の著作物につ

いては、「プライバシーポリシー」で弊社に許可された利用目的を除いて、ユーザーは弊社に対し、第三

者が閲覧できる形で利用することには同意しないものとします。

3. 前項の規定に従い弊社がユーザーの著作物を使用する場合、ユーザーは弊社に対して著作者人格権を

行使しないものとします。
------------------------------




瞳さんへ

うん、mixiメールがとつぜん消された、
という例も僕は聞いたことがあります。
それから昔の日記が一挙に消えた、という例もあった。
ただしこれらは、監視の結果ではなく
システム上の誤作動かもしれない。

あんたたちはユビキタス社会において
人間の意志がどうなるのかを考えなきゃならないね。

たとえばあんたがイタメシを好きだとする。
それ関連のサイトを開いたから
傾向の結果としてネット上に記録されている。

そのあんたが吉祥寺を歩く。
するとあんたのケータイに続々メールが届きはじめる。
「この角を右に曲がるとここにイタメシ屋〇〇があります、
お薦めはウニスパゲッティです」
「三つ先の角を左に曲がると別のイタメシ屋××があります、
お薦めは前沢牛のカルパッチョ」
云々云々。

ユビキタス社会は利便性の追求結果なのではなく、
資本がひとの行動から選択肢を強要し、
徹底管理するためのものです。
性犯罪の記録の残った者が小学校に近付くと
アタマに埋め込まれた電極が
その者に頭痛を起こさせる仕掛けと
ただ方向性がちがっているだけ。

mixiはそういう傾向と結びつこうとしているのではないか。
膨大な日記記載から「単語」を検索し、
たとえば現在の若い女の子がどんなチョコが好きなのか、
その集積記録をお菓子メーカーに売る。
僕の大嫌いなものに「紀伊国屋データベース」なるものがありますが
(説明省略)、それと似たようなことをやりたがっているのではないか。

個が名前なしの状態で「傾向」として売り飛ばされてゆく。
mixiが手続きの煩瑣を厭うために
個人の日記の著作権を交渉なしに奪取しようとしているならば
この問題はユビキタス・ユートピアの虚偽とも
係わり合いがある、ということになります。

もう一度、「顔が見えて」「時間軸のうえに生起する」
人間の通常の出会いのほうに戻るべきかもしれません。

コメント欄に上述したように、
日記の著作権を書いた当人に認めず、
そのSNS自体にあるとするSNSは数多い。
ただし、mixiは加入者一千万人を超える巨大SNS。
それが加入者個人から日記記載の著作権を奪うなると
ネット資本の専横を決定づけてしまうことにもなる。
だから今回のことは深刻な防衛ラインなのです。

闘いの火蓋が切って落とされようとしているのなら
対抗運動がここで始まらなければならないのかもしれない。
ひとつの方法は、「退会」「不使用」などの戦術化です。

で、たとえば瞳さん、
あんたはケータイなし、SNSなしの日常に耐えられるか、
という問題になっていきます

ああ、ネット資本ってすげーな(笑)
人間を家畜にしての、電子牧場の経営だよ




靄齡子さんへ

そうです。
結局、書かれたテクストが誰のものかわからなくなると
(このこと自体はユートピックな状況ではありますが)
結果的にグチャグチャになりますよね。
二次使用が三次使用に、四次に・・

その意味で18条に
「翻訳」が入っているのが象徴的です。

あ、学生レポートではその事態がすでにはじまってます(笑)。
ウィキペディアの引用、既存ブログの無断貼り付け(盗作)・・・

mixiの今回の愚かな表明は
そういう時代の象徴だといえるのかもしれません




瞳ちゃんへ

なるほどなあ、という事例だね。
6つ準備されたアカウントが消えるときの時間推移が
面白いなあ。

たぶん用語検索で
要注意語彙があるんでしょう。

そういえば特定のH用語を使うと
書き込み欄にスパムが入ったりするのと同時に
あしあともふえる、という現象を
結構いろんなひとが報告しているよね。

見知らぬあしあとの多くが
検索した上でのH目的なんだろうけど
うち一人くらいは監視員かもしれんね




昨日の段階でmixi資本は以下のような「追記」を出した。
貼ります。



mixi運営事務局です。

利用規約の改定に関して引き続き検討をおこない、以下の件につきまして対応を進めさせていただくこと

となりましたのでお知らせいたします。

・mixi利用規約第18条の条文修正
 -ユーザーのみなさまに著作権があることの明記などについて検討しております。
・Q&Aの作成、公開
 -寄せられたお問い合わせ、用語などについてのQ&Aを検討中です。

早急に対応を進めてさせていただき、進捗につきましては本ページにて随時お知らせいたします。

以上、どうぞよろしくお願いいたします。



「善処します」の宣言。
一応は利用者の「騒いだ勝ち」という雲行になりそうだ。
むろん具体的に18条の改正条文をみてみなければ
判断できないという留保つきだし、
・mixiの監視機構の存在
・日記の本当の利用目的の明示
・21条の併せての撤廃
これら3点も勘案されなければ
mixiへの不信感が消えないだろうが。

「日記」→「出版」を前面に押し出すという欺瞞
(その著作権を日記作者にあたえないという恫喝つきだった)
をまずmixi資本が演じたのだから、
僕などはそこを攻撃ポイントにすべきかもしれない。

mixiよ、出版社をつくれ、
俺の日記を本にしろ、
印税をくれ、と。

ま、中間報告的ではあるが
今回は意外に「市民運動」が成功した例なんだろうな。
mixi資本は大幅に「折れよう」としている。

他のSNSやブログサーヴィスも
日記作者ではなく自分たち自身に著作権があると
多く主張し、その旨「利用規約」に明示してあるが
mixiのこのドタバタの一件で
強硬姿勢を貫徹できない流れになったろう

さて、完全に一件落着となるか。
それまでmixiには僕は日記を書かないつもりだ




アイカワさんへ

おっしゃるとおりです。

しかし書いた当人の著作権が自明ではない、というのが前提になって
ネット社会がはじまった、という捉えかたも確かにできるのです。

つまりそこで生じた最大の利便性が
コピー&ペーストだった、と。

しかもこのコピペは猛威をふるった。
画像、写真、音楽すべてにたいして「適応可能」だったのだから。

mixi資本はそうした現況に眼がくらみ
判断力を失ったのだと解釈することもできます。

「日記文」がこのようにして脅威に晒される以前に
たとえば「歌」がもう脅威に晒されている。

i Podによって「歌」はアルバム文脈を寸断され、
多くはシャッフル状態で
利用者の身体的快楽を刺激するものとしてだけ
聴かれる、というよりも「利用されだして」いる。

このときメディア連動した大資本の画策した音楽だけが大手を揮い、
そこだけに使用料が蓄積されてゆく。
結果、「歌」という中間領域だったはずのものに
「貧富格差」が歴然と刻み込まれてゆくのです。

ユビキタス社会は感性的には人間の無判断化をもたらしますが、
経済構造的には格差社会の強化をもたらす。
そして最終的に、ネットに接続できない
情報難民が社会の吹き溜まり部分に残存する
--そういうことになるのではないでしょうか。
TVの地デジ化によって
TVから遮断される層が出てくる、と予想されるのと
事態は同じなのだとおもいます。

書かれたもの、唄われ演奏されたもの、
撮られたもの、描かれたもの・・
これらは「作品」なのか
情報上の「ツール」なのか。

「作品」だとするならば
たぶん構造的には
「われわれ」はネット的な利便性を手放し、
足を稼ぐかたちで
作品現物に接さなければならない
--そんなふうに今後が変わってゆくのではないかとおもいます

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mixi規約改正問題

まずはmixi資本が一方的に通告してきた問題の条項を下に貼ります。




[利用規約全面改定]

来たる2008年4月1日(火)に、mixi利用規約の全面改定、mixi動画利用規約の一部改定、有料サービス利用規約の新設を予定しております。
新たに施行される各利用規約につきましては、こちら よりご確認くださいますようお願いいたします。

http://mixi.jp/rules_sample.pl

利用規約

[中略]

第18条 日記等の情報の使用許諾等

 1 本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。

 2 ユーザーは、弊社に対して著作者人格権を行使しないものとします。

[中略]

附則

 1 本利用規約は平成20年4月1日から施行します。
 2 本利用規約の施行前にユーザーによって行われた行為についても本利用規約が適用されます。



乱心、自殺行為としかいえない規約改正だ。

僕はたとえばmixi日記をもとに
ブログ本『僕はこんな日常や感情でできています』(晶文社)、
詩集『昨日知った、あらゆる声で』(書肆山田)の2冊を出しているが、
今後、そのような本を自ら出す権利など一切喪失し、
よしんばそのような本をmixiが出して「くれても」
僕はその本にたいし一切の対価を請求できない
--そういうことにまずはなるらしい。

物書きがmixiを草稿発表の場とする例も
僕の周囲には少なからずある。
その草稿すらmixiに一方的に奪われてしまうとするなら
皆が自衛手段として、
mixiを退会するしか手立てがなくなるだろう。
由々しき問題だ。

ということで、mixiにはただ無害なお喋りや嘆き日記の垂れ流し
--読むに値しない「残骸」だけが残ることになるだろう。

「書き込み」行為によるmixiの文芸化を提唱していた
一週間前の自分が滑稽なピエロみたいだ(笑)。

しかしこの衝撃的一報にたいする書き込みをみると、
いま最も心配されているのは、
mixiによる不当な著作物奪取よりも、
mixiの「勝手な」出版化により、
セキュリティが重大に侵害される、ということだろう。

たとえば、「友人のみに公開」という設定でアップされた
「顔入り」写真が
mixi資本の不当な介入により
撮影者当人や被写体の与り知らぬところで公開されたときの
訴訟もろもろの案件をmixiはどう処理するというのだろう。
明らかなプライバシーの不当侵害なのだから
mixiには一切の勝ち目がない。

もともとmixiは、友人招待の延長によって
閉鎖性を保証された社交空間だった。
そうした条件から生まれるセキュリティが信頼され、
利用者を拡大させてきた経緯がある。

そのセキュリティがいきなりゼロになる。
--ということは、mixiはこの乱心によって
自らの存在意義をも放棄した、ということになる。
ならば物書きのみならず、
普通にmixiにさまざまなものを発表したきた者も
退会に踏み切らざるを得ないだろう。

よく考えてみよう。
実はmixiは馬脚を現したのだ。
mixi内に出現したあらゆるものを
mixi資本が独占的に再利用できるということは、
mixi資本が「もともと」(「つまり現在も」)
それらを「監視」してきた、という事実の裏返しにすぎない。

mixiは自らの機能によって
セキュリティを保証していたつもりだったのかもしれないが、
すくなくともわれわれ「当人」のセキュリティは
「すでに」mixi資本にたいし危機に晒されていたわけだ。
利用者の愚民視、道具視。
mixi資本の傲慢な姿勢がいまやこうして明らかとなった。

この事実判明によって最も衝撃を受けるのは
「友人にのみ公開」の条件を遵守してきた者たちだろう。
彼らの「秘密」でさえ一切保護されていなかったのだから。

実際、きな臭い話をごくたまに聴いた。
中傷要素の入った自分の日記を
mixi資本によって勝手に消去された、という不平は
たしかにあったのだった。

これからとるべき手段は以下のように段階的になるだろう。

・改正規約第18条撤廃要求運動を全加入者的に組織する。
「どうせ」mixiは個々の日記を「監視」しているのだから、
それを逆手にとって、
利用者全員はたとえば毎日、mixi日記のタイトルと本文に
「改正規約18条撤廃をmixi資本に要求する」としるせばいい。
(むろん、mixi資本の個々の日記への「監視」が明らかになった以上、
その不信の念を動機に
現状即座にmixiを退会するのも自由だ。
ただしこのような「社会運動」が
こうしたSNS空間でいま機能するのか
「実験」してみる価値もあるのではないか)

・自分がmixiに発表したものが大切な者は
既存の日記その他をファイルにしまっておくなど
避難準備を怠ってはならない。
3月末日までにmixi資本が規約改正の強行突破姿勢を崩さなければ
加入者「全員」が、その直前でmixiから「ただ」退会すればいい。
mixiは加入者という「実質」を一瞬にして失い、
形骸化どころか壊滅にいたるだろう。
その後、依然としてmixiに加入している者は
社会性のない「バカ」とただ見なされることになる。

・つまり規約改正は
このような総意があれば
mixiの血迷った自殺行為に転ずるのは明らか。
なので「常識的には」mixiは規約改正18条を
自己撤廃するという流れが予想される。

こうした混乱を招いたことにより
mixi経営陣は退任・引責を余儀なくされるだろうが、
そうなった以上は利用者側からの責任追及対象も変わる。
mixi資本が日頃、
利用者のプライバシーをどこまで監視していたのか、
それをも情報公開せよ、と
利用者全員が突きつける、さらなる闘争姿勢が必要となる。
このときの判断によっては、
「mixi全員退会」の真の引き金が引かれるかもしれない。

・SNS空間の心地よさに馴染んだ者でも
「身を切られる淋しさ」など感じる必要はまったくない。
即座に利便性の高い、ほぼ同形式の新たなSNSが出現し、
mixi加入者の多くはそこに移行するだけだろう。
このようなクールな認識によってこそ、
これから加入者のとるべき行動が正しく規定される。
この点、お忘れなきよう。

さて、「社会運動」を募った以上、
この日記がmixi資本によって危険視され、
即座に消去されたり、
あるいは僕のmixi上の身分消去が起こるかもしれない。
そのときこそが
mixi資本の「監視機構の存在」とその「恐怖性」が
露呈したと判断する時期だ。
つまり僕のこの日記は一種の実験台。
消えたら、その事実を加入者に広める運動を起こしつつ、
バトン形式でmixi退会の動きを
加入者全員に波及させていけばいい。
mixiの理念とは加入者全員が
「友達関係でつながる」だったのだし。

さてmixi資本、この日記を見てるかな?(笑)



みなさんへ:
僕がこれまで書いた日記が消滅してしまうと
心配してくれなくても大丈夫です。
自分の書いたものは最近は外部ブログに貼ってあるし、
貼ってない古いものでもファイルに文書が入っているし、
その文書を外部ブログに復活させる用意もあります。

そういう位置にいるし、
mixi日記をもとに2冊の本を出したという「特殊例」でもあるから
あえてここでmixi資本を挑発してみました。

この日記を読まれたかたは
今後は自分の日記書きなどを自制して
とりあえず毎日、
「改正規約第18条撤廃をmixi資本に要求する」という一文を
日記のタイトルと本文に書いて
アップをつづけてください。

この日記アップのあと、
朝がきたら
とりあえず僕から先頭を切るつもりでそうします。
誰かがすでに別のところで
そんな運動を開始したかもしれないけども

2008年03月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

混ざる

三村京子さんと共謀して僕のほかに
『点火期』『袖口の動物』の詩人、杉本真維子さんにも
三村さんの唄う曲の作詞陣へ加わってもらった。
昨日はその杉本さんの歌詞を三村さんが唄うデモ音源で聴いていて
杉本さんがすごくいい歌詞をつけているとわかり
気分が一挙にいいほうに戻った。
杉本さんも僕と同じくコードストロークと「ラララ」だけで唄う
三村さんのデモ音源から歌メロの「感情」を計測し、
それに字数を合わせて歌詞をつける方法をちゃんと選択していた。

その曲は「くつをとばせ」と杉本さんによってタイトルされた。
ひとりの女が入浴し、自分の躯をみるときに生じる寂寥の述懐が
歌想の中心になっているが、
その女の恋の情況、その女を取り巻いている世界へと
歌世界は見事に延長されてもいる。

杉本さんは「欠性」「暴力性」「助詞発見」に富む
現代詩での自らの言葉の方法をギリギリまで縮減して、
歌の可聴性ということを考えていた。
その杉本さんに僕が送った絶賛メールは、
三村さんの活動を伝える大中真慶くんのkoz blogに転載されるとおもうので
杉本さんの歌詞についての細かな評価はそちらに譲るが、
大切なのは、杉本さんが作詞陣に加わったことで
三村-阿部の混在状態にさらにひと色が添えられた、ということだ。

「混在」――僕が志向しているもののひとつが、まさにそれだった。



三村さんのCDジャケットのデザインが
僕が紹介したマルチデザイナー(マンガ家やミュージシャンですらある)、
小田島等くんのもとで着々と進んでいる。
サンプル音盤も聴いている小田島くんは、
少女性や透明性といった三村さんの基盤のうえに
不定形で動物的な何かが「混在」しているとよく見抜いていて、
それで二色印刷という(経済的)条件のなかで
印刷のインク色に、通常のスミに加え、特色ピンクを選択した。
表1、三村さんの「カワイ子ちゃん」モノクロ写真には
そのピンクが不定形に侵食することになって、
結果「昼か夜か不明」「室内か戸外か不明」「従順か不敵か不明」
「田舎臭いか都会的か不明」「天使か娼婦か不明」といった
魅惑的な「中間地帯」がCDの顔――表1に実現された。

「フォーキィなアヴァンポップ」、というジャンル印象は
何とか保たれるだろうが、
実質、そのアルバムが演歌かサイケすら心許なくなるざわめきもある。
「同定性」が過激に剥奪されている、という、
作品で一番伝わってほしい芯の部分は
この小田島デザインにも現れているということだ。

アルバムタイトルを書いてこなかった。
『東京では少女歌手なんて』、四月には店頭にもお目見えです。

このデザイン作業もまた愉しい。
メールでは小田島くん、三村さん、僕がつながっている。
最初、ほかに写真ない? と小田島くんが訊ね、
三村さんが出してきた写真に、
僕とは性質のちがうポップ少女ぐるいの小田島くんが
「聖子ちゃんみたい」と狂喜した(笑)。
これを使いたい、という小田島くんに
そういうデザイナーの前向きの欲望が大切、と僕も応じたことから
以後、軽快な相互提案の流れができてしまう。

たとえばその次段階でインレイ(CDケースの裏にみえる部分)や
オビのデザインを小田島が送ってくる。
僕はもともと雑誌編集体験をしたときから
デザイナーとはもう25年は丁々発止状態でわたりあっているので
デザイナーが示したデザインの範囲内で
デザインの偏差値を上げる付加提案をするのも好きだ。
それをメールで伝える。
すると小田島くんも「それ、いいですね」となる。

もともとCDジャケットの写真素材はとうぜん三村さんなのだが、
それに小田島くんのデザインが上乗せされ、
さらに僕の発想が部分的混在的にそのうえに足跡をとどめる。
この製作過程もまた、僕は素晴らしいとおもっている。



三村さんはアルバム発売に合わせ、自分のサイトを
デザイン、コンテンツ、機能ともリニューアルする決意をした。
で、webデザイナーをどうしようということになり、
去年前期の僕のweb編集演習で「赤」班のデザイナーとして大活躍した、
立教現役生にしてマンガ少女・市川香織さんを紹介した。
ここでもたぶん市川さんのデザインのうえには
三村さんや僕の「混在」がさまざまなかたちで実現されてゆくのではないか。



昨日からマンガ評論集の初校ゲラを見だした。
編集は、立教卒業をした元・生徒で、僕の連詩仲間・明道聡子さん。
彼女は編集プロダクションに勤務している。
その編プロは書籍の請負編集や自社編集本の版元譲渡もしているが、
自社での出版コードももっていて、
今度の本はその自社出版コードで出す、ということになった。
社長さんが明道さんの情熱に感じ、
より本を編集しやすい環境を整えてくれた、ということだろう。

明道さんはまだ編集者としては駆け出しだが、
難解さで鳴る僕の本を、より多くの若い読者に向け「砕きたい」という
攻めの姿勢で最初から編集作業に臨んだ。
「四六判主義」の僕にたいし、
マンガ画像を大きく引用したいからより大きいA5判型にしたい、
というのは当然かもしれないが、
加えて、読解の手助けになる精密な註を文(版面)の下部に
満艦飾に施したい、という。
そうすると僕の本がもっと営業的に好転すると信じているのだ。

それで結局「著者註」「編集部註」が交互するような註構成を実現しよう、
という意見一致をみた。
当然、「編集部註」は明道さんが書く。
「著者註」は僕が書く。
だからここでも以前明道さんとやった連詩同様、
「抱き合わせ」に近い「混在」が
紙面の見た目にまた実現されてゆくことになるだろう。

以上、何から何まで「混在」つづき、というわけだ。



このマンガ評論集は著者校正がいちばん
これまでの本のなかで厄介かもしれない。
版元の意に添う頁数までの原稿圧縮はさほど難儀でないのだが、
考察の材料とした原典マンガとの細部照応確認や著者註の作成など、
完成までに面倒な手続きが数多く予定されている。
おまけに僕は映画資料などとともに
マンガ資料を研究室に集約してしまっているので、
ゲラチェックが本格化する段階になれば
そのための研究室への「出勤」をも余儀なくされてしまう。
ミクシィなどで仕事がだらだらする、などということも
その条件であればおのずから断ち切られるとおもう。



ということで、来週はほぼミクシィでの日記書きはやらない予定。
他人さまの日記への書き込みもままならなくなるのではと予想している。
不義理に映るかもしれないので、あらかじめ謝っておきます。

二月一杯で、他人の日記の書き込み欄に詩歌を書く、という
ミクシィの文芸化も「休止」です。
その書き込んだ詩歌を集成した「機会詩篇集成」も
さきの段階でつくったものを増補して内容を確定してしまった
(詩や詩論を書くひとでそれをほしいかたは
どうぞ僕のミクシィメールにアドレスを書いてご連絡ください)。

ということで、ミクシィ小休止の前の言い訳を
実はこの日記で付帯的に書いたのでした

2008年03月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)