薙ぐ
ふくざつを排すのは
なぎゆくこの身だ、
身を文にひたして
百草を編まず狩り倒せば
みなもの地紋が
足からのぼりだして
一身が炭酸の塔
風路ともつながる
そうなれば愛す身は
対象のうえに剰り
接線を崩れてゆく
コンナ愛シカタ
植物の昆虫にあったか
世に八角形のものを
めざとくみつけては
蜂の尾を振る
振って小さすぎる
水滴を頭上に爆ぜる
お前だ蜂角形
部分の植物は薙ぐ
雉の羽以下二十句
雉の羽を毟りては遭ふ風自体
衣(い)に依存するひと冬の派閥かな
終始一個の異存となりて春凝る
止まぬ雨いまし降りだす 口、羊歯だらけ
棚ならば大陸棚の墓色(ぼしき)推す
六腑中紫腑を選びて魏に献ず
酌量なし羊歯から羊歯へ山羊の旅
掌上の気楼にふとある虎斑かな
めだま拭きもて眼にやすりかけ夜墓参
舌を鎖す水銀言語嚥ム能ハズ
われ縄文なれ倭人迂路常に佳し
魂(たま)鳴りて烏鷺の飛翔へ谺せり
山野、脈に変じ虞美人草死没
身は花喰ひのひかり乞食の器かな
火野へ来てなほ太刀魚(を)提ぐ世は星斑
昂然と粉噴きあぐる奈良の芥子
笑ひあふ双つ身が筒 泥炭野
藤棚の盛りの下は倭人多し
後ろから挿す黄裸身のおから函
美夕みな哀慕この世の橋崩る
あはれ蚊以下五句
あはれ蚊よ血のなきわれとここで遊べ
晩愚われ狐狸山猫と火を焚きて
下天まほろば二門にふたつ奥ありて
糖衣せる汝の周に星の百
白き舌冀ふ鷽運搬業
盗賊以下六句
盗賊が丘下りゆく春はこべ
この荼毘も東亜の隅に位せり
月かげに濡るる壷あり芹食後
愛餐は時の諸侯と肉のいろ
円筒の蠅を手許に研磨せり
咎なくて死すといへども渡河に渡河
破調を多く含む十句
耳遠や無弦の琴に恍惚す
依然としてわれなり香水を蟇へ降る
盲腸を手づから切らん途方かぎりなく
幽門にて杏と遭ふ千じんの縊死体
海上に石浮ぶ戻りつする小さき補陀落
菱形の仔犬が膝や阿弥陀堂
不可思議のかたちに棲めり忘れ川の貝
銀銀と積み重なりぬ春霖の撲殺辞書
いつときの春ピーマンなれ汝(いまし)への挿入も
挿入は脇に挟む聖書にしてわれ偽書
ぬりかべ
いまさらに とりのないそらに
こたえるようにわたしのめ
ますますみえなくなってゆき
やぶれかぶれがとんでいます
きょねんのあのころはサイゴンだな
とりのインフルエンザでは
アジアのやきとりもやられて
くしうちのぶすりぶすりで
ばけたふすまさえどもっていた
いれずみされてないていたよ
おんなのぬれがみもおくでまいた
そういうのがホラーでしょ
へんなとこ なめすぎですよ
ぬりかべならまだしも
おまえのパジャマのむなもと
のりをぬったようにテカテカだ
ぽつねんとすすきのあいだにいる
かべだな、にしにゆけないための
かべだな、としをとらないための
ぽつねんが やしのあいだでアロハだ
木の瘤以下五句
木の瘤や万端霞みわたる日も
花眼ふと具のなき鍋を構想す
透くものを川に算へて線供養
策謀を友とす以来かぜだるま
理知などは棚上げ瘤に瘤を当つ
空中以下五句
空中に空遺りたり鳥死以後
わたくしと同寸の樹へ喃語など
涸れ川に橋遺りたる夜伽かな
別荘の百建つひかりわが黄泉は
有終は胎児に耳の生え初むる
桜波以下五句
桜波此世に白く長きこと
手は不意に手を洗ひたり海は海
此世とは女のかたちの樹間かな
桃村に魑魅激減す草二本
夕焼けがをどる阿呆に盗られゐる
霍乱以下五句
霍乱もゆかしちりぢり散る蜘蛛子
ばけもんが婆羅門の昼吾(あ)を放る
召人に生など委ねよ葉桜の庭
風韻くこの身は須磨を通るらん
壊滅して五柱の龍と天に立つ
「地」五句
地に笑ふ躑躅嫌ひで来てとほす
地に刷られ落椿あとの祭りかな
地にちから蹌踉の足吸はれけり
どぜう喰ふ山椒地帯の男かな
地の塩や今日を限りの詩人斬り
蝗以下五句
蝗一揆の蝗の果てや弔意なし
ふるとしの赤雪黄雪外(と)に男
橋が橋として落ちるあり祝儀かな
下着帯電して妹(いも)と呑むレモネード
世田谷区烏山には犬五千
万田邦敏・接吻(補足あり)
昨日は女房と渋谷ユーロスペースで
万田邦敏『接吻』を観た。
映画的緊張が終始つづいた。
主題は、「非対称性の関係が
相同性と言い立てられるときのサスペンス」だ
(とうぜんそれによってドラマがうごく)。
そうした主題構造からして
描写も陰謀のように選択的になり、
そこに豊川悦司の「緘黙」を
小池栄子が構造的に代弁するような「踏み外し」も起こる。
この意味で演出はリアリズムに依拠しつつ
異物のような想像性を時に張り巡らせてゆく。
ラストは書けないが
非対称の基軸が移り、このときの踏み外しで
映画が「映画的に」完了する圧倒的な展開となる。
50年代ハリウッド映画よろしく
「映画の悪運」に直面したような熾烈な終幕。
ここにいたるまでを構造的に支えていたのが
前言した「描写の選択性」。
機械仕掛けの神は実は最初から画面に出現していた。
ともあれそうした無気味をぜひ観るべきだろう。
ところが。
悪運への達観者とみえた豊川悦司は
その感性描写も中途から腰砕けになり、
結局は犯罪者の本当の風合を提示できなくなる。
だから瀬々敬久の犯罪映画のように
逆転や社会構造への拡がりを付帯しない。
あるいは負性を帯びたヒロインとして
一生記憶に残るだろう小池栄子も
「悪運の哲学」を最後の段階で疎外論にすりかえてしまう。
この疎外論は全体を一貫していた。
篠田三郎が語る、不要に長いシーンがその代表例。
ここらあたりが何とも惜しいのだ。
つまりは映画性が高いが、
哲学的に何らかの欠落があるという
前作『UNLOVED』の隔靴掻痒感を
万田監督はまたなぞってしまった。
とりわけ中盤から終結前の脚本吟味が甘いとおもった。
この映画を観て、
小池栄子の眼の物質的な光源性が
悪夢のように凄い、というのは実に至当な意見だ。
だが、その左利きの姿から
西部劇の映画的記憶を語る者は
かつての丹生谷貴志のイーストウッド論を
なぞっただけでなく、単に不当だ。
引用というなら
とうぜんほかにも引用の系列が多々あった。
たとえばリラダン『アクセル』第一幕、
トリュフォー『アデル』、
塩田明彦『害虫』、黒沢清『LOFT』。
宅間守の死刑までの道筋、世田谷一家惨殺事件、
大島渚『コリーダ』。
引用を言い出せばこのように歯止めがきかなくなるが、
そういう論議を誘発する評が駄目なのだろう。
「ユリイカ」掲載の蓮実重彦の評はまだ見ていないが。
「引用」というなら「悪運」を扱いつつ
そこにカフカが引用されなかったのが
最大の問題かもしれない。
カフカの言及なくカフカを現出させてしまう
黒沢清や井川耕一郎の作品と、
この映画の居場所が、実は対極的だった。
それこそが語られなければならない。
この映画でのホラー効果の高いシーンを
失敗している夾雑物と見なすのは正しい。
つまり、小池栄子が近所の見知らぬ女の子と乗る
ブランコのシーンのほうがよほど怖いからだ。
あのシーンは黒沢清を凌駕していた。
それに対話の切り返しも
万田邦敏のほうがずっと人間性と凄みがある
(逆に黒沢には出鱈目の美徳がある)。
こうした美点があるからトータルが惜しい。
●その後おこなった、
mixiの書き込み欄へのセルフ書き込み
↓
作品前半に、小池栄子の「性質」をしめす
「残業依頼」と「タクシー領収書」の挿話がある。
同僚OLが無理難題の深夜残業を
「タクシー代、払うからさぁ」と
ヘラヘラの不躾で小池に依頼し、
小池がそれを黙って呑み、
翌日、領収書を小池がその同僚に見せると
それが1万円を超える高額で
「あとで払う」と同僚が逃げ
結局は踏み倒したというエピソードだ。
のちシーンを挟み、
小池がその領収書を
コンビニのゴミ箱に丸めて捨てるという描写がある
(この映画は「手の映画」だ。
小池の手は色々な局面で綿密に描写される。
そして最後、その手の描写を映画が故意に怠り
圧倒的な映画的終結が訪れる)。
さて、そのような同僚など
世に存在しない点に注意すべきだ。
そのような依頼をするかぎり
同僚は小池の居住地を知っている。
また、あのような頼みかたでは
ほぼ相手が残業になど同意しない。
先輩社員としてその同僚が描かれていたわけでもなかった。
このシーンにみられるような「誇張」演出が
実は時にこの映画の「恐怖」を減殺している。
冒頭、豊川悦司の事件の描写のように
演出は「見せないこと」をもっと選択すべきだった。
『接吻』は見せないシーンが素晴らしいが、
見せてしまったシーンが時に「ちがう」とも感じさせた。
●マイミク「アイカワさん」の書き込み(第一弾)への返答
アイカワさんへ
いまアイカワさんの『接吻』論、
1~4までまとめて拝読しました。
こんな外部ブログ、あったんですね。
言ってよ~(笑)
さっそく、ブックマークしました。
アイカワさんの『接吻』論は
論旨展開が緊密で、見事です。
フィルムノワールとして『接吻』を考えるばあい
小池、豊川に加え仲村トオルの三角関係をまず前提にすると、
小池がトオルのファムファタール(命とりの女)となる。
このときに文字と音声の対立を映画全体に見、
トオルが出現時から敗北者として表象されていた
--そう考えるアイカワさんの考えは理路整然としています。
そう考えると、控訴決定した豊川にたいし
接見室で語る小池が
やはり喋りすぎなのではないではしょうか。
ラストで小池が有効な言葉をトオル以外には喋らない
--このことを導入するためだったのかもしれませんが。
で、小池の喋りすぎに疎外論の色彩がつよいのが惜しいのです。
映画を小池、豊川、トオルの三角関係として観るというのは
鑑賞後の飲み屋で女房とさんざん話しました。
ただそれをこの欄で書くと
字数が増える可能性があるので断念しました。
仲村トオルは「メッセンジャー」ととらえることもできます。
ジョセフ・ロージー『恋』も万田さんの念頭にあったかもしれない。
メッセンジャーは、意志をもつと罰せられる。
映画のラストにはそういう含みもあります。
ただ、意志をもたないままメッセンジャーが罰せられる
異様なカフカ的状況もあるのです。
井川耕一郎が『伊藤大輔』で紹介している
『下郎の首』(リメイク版)の田崎潤の理不尽極まりない悲劇性。
それからこの映画は「甘く」離れていた。
上の日記は映画について僕が久しぶりに書いたものです。
書き方、スタンスがすごく変化した、と自分でも気づく。
女房の話ではキム・ギドクの新作『ブレス』が
この『接吻』と同様のテーマを扱いつつ、
より「逆転作用」があるそうです。
去年のカンヌにはこっちが出た。
もしかしたら『接吻』は似た感触を難儀とされて
カンヌ出品を逃したのかもしれない
●マイミク「アイカワさん」の書き込み(第二弾)への返答
黒沢清らしいや(笑)。
豊川悦司は
『弁護士のくず』や『やわらかい生活』の残像があって、
いまはどこかで往年とは感触がちがうんだよね。
とうぜん、この映画では
いつ彼が「発声」するかが最初の興味になるんだけど
ならばなぜ犯罪現場の近所のおばさんに
能天気な声をかけてみせたのか。
万田演出は意地悪な脱臼を仕込んでいるとみました。
そこがトヨエツの人間性を印象させる
要因ではないかとおもいます。
ともあれトヨエツの発声が待機されること。
これは『アクセル』第一幕の「サラ」と同じで、
サラはただ一言、一幕の最後で
否定形の「non!」を叫ぶのです。
以後、異端糾問で有罪となった彼女は
理想=アクセルと出会う。
黄金の洞窟に最後に辿りつく二人の超地上的な愛は
トリスタンとイゾルテと相似形です。
これは豊川-小池も同じ。
小池が聞いたトヨエツの法廷内での声は否定形でした。
小池が読むことによって初めて内容開示した
トヨエツの手紙文面も否定形の連続でした。
つまり、「否定性」としてトヨエツはまず画面に定位された。
彼の「犯罪」はその間接描写で怖気をふるわせますが、
被害者から奪ったキャッシュカードで50万円を下ろし
銀行内の防犯カメラに向け顔をあげ、
ケータイで110番しつつ俺を捕まえてみよ、と嘯く。
嘯くはずが、画面は瞬時に
防犯カメラが残した映像に切り替わり、
そこで「音声」が奪われる。
ここでは「犯罪者」の自己放棄性が「直接」描写され、
それは犯罪の「間接」描写よりも
哲学的な意味性が高い、という判断が生まれました。
裁判過程で明示的な一切の改悛がない、
けれどその者が獄中結婚をした、とするならば
池田小学校事件の宅間守を当然おもわざるをえない。
彼は控訴せず、「望みどおりに」あっさり死刑に処された。
仙頭プロはこの宅間の謎を
映画で解いてほしい、といったのでしょう、たぶん。
宅間の手記だったか彼の書いた文章を
週刊誌で拾い読みした記憶があります。
演技なのか何か、恐ろしい性格偏奇が感じられた。
被害者への謝罪もない。
因果律的な怨恨(疎外論)もそこにはなかった。
彼はただ、俺の生存を停めろ、と世界に命じていた。
そのために彼は実は因果律を欠いた殺しを
「あえて」演じたのかもしれない。
この「あえて」が、宮台真司のいう「あえて」と似ていないか。
ともあれ犯罪者の自己保存性の欠落で開始され、
躯のどこかに「あえて」の覚悟のあったトヨエツが、
以後、その鼓動をこの映画では停めてしまうのではないか。
その契機になるのが
「ハッピバースデイ・トゥ・ユー」を唄う
犯罪現場での彼の記憶の蘇り(ここが世田谷一家惨殺事件)で、
ここにも因果論が紛れこんでいました。
因果論が「人間味」なんですね。
僕はこの映画の当初は、
そうしたものを予定していないと予感させていたとおもう。
いずれにせよ、トヨエツは整合性のとれないほど
映画の最終部で軟化した。
そのトヨエツの「泣き」の場面、ヤバくはなかったですか?
ただこれも、脱臼演出と捉えることもできます。
それと、ラストの小池栄子の「ハッピーバースデイ・トゥ・ユー」は
小池の地声とはちがう声で唄われ、
音声が間歇しているのに感情が持続し、
それが途轍もなく美しかったのは確かです。
この唱法がトヨエツの同じ歌の唱法と照応していたのか、
これがこの作品をもう一回観るときの注意点になります。
むろん最後、アイカワさんのおっしゃるとおり
フレームで切られていたけど
小池栄子が●●●を掴む動作に
右→左の持ち替えがあるのかどうかも。
アイカワさんに書き込みされると、
昔の僕の、映画の書き方に近づいてしまう(笑)
●さらに自らおこなった補足
「この女、何を考えているんだろう」という点では
『接吻』はブレッソン『やさしい女』と同系列にもあります。
ブレッソンは掃除のシーンで
カネで買われ鉄面皮を通していたドミニク・サンダに
たった一回、鼻歌を唄わせた。
歌は心の謎を解く「近似物」としてこそ画面に召喚された。
それで観客に「擬似」救済がもたらされた。
結局、彼女は自殺するけれども。
『接吻』の「ハッピーバースデイ」もそれに近いのか。
いずれにせよ、この歌が豊川-小池に「分有」されることに
この映画の奇抜な着眼があることは確かですね
●マイミク「アイカワさん」の書き込み(第三弾)への返答
大爆笑しました(笑)。
俺がもし誰々だったら・・と
素人臭い考えをよくするのですが、
僕はもともと小池栄子が好きなので
あの映画のトヨエツだったら
控訴決定後の接見で
小池栄子のその後を縛る
決定的なことをいっただろうなあ。
「汝のなすべきことをなせ」程度でいいのだけど。
ま、そうすると、
『アカルイミライ』の浅野忠信の反復になる。
万田さんは対黒沢と図式されるのがヤなんだろうなあ。
一瞬、川辺の遊戯施設が
『LOFT』ラストの埠頭浚渫(処刑)機械に見えた
(そのブランコがやがて小池のブランコへと「響く」)。
むろん、掌と掌の合わせも『LOFT』だし。
『LOFT』にはトヨエツと中谷美紀との
大風のなかでの『ラ・パロマ』
「山上のオペラ」的哄笑シーンがあったけど
(『LOFT』もまた『ラ・パロマ』同様、
「死の決定不能」の映画でした)、
あのトヨエツを万田さんは自分に引っ張ってきて、
一体化しない哄笑として
「ハッピーバースデイ」を
小池、トヨエツに分断したんではないだろうか。
アイカワさんが紹介してくれた先の黒沢発言、
それと今度のアイカワさんの
脳南下した発言をあえて綜合すると、
本当の三角関係は
豊川-小池-トヨエツに成立したと「同時に」、
黒沢-万田-トヨエツのホモホモ関係としても成立してた、
ということなのではないか(笑)。
こういうことをいってると
アイカワ-阿部嘉昭-小池栄子の三角関係も
成立しそうな気もしてくる(笑)
●その後、自らおこなった補足
あ、仲村トオルならラストで刺されてる。
ロウ・イエ『パープル・バタフライ』で
チャン・ツィイーに。
ラスト、フッと標的への力が横ズレする運動は
ともあれ映画史に残る衝撃なのは間違いありません。
これを具体的にいえないなんて。
ううう。。。
●マイミク「アイカワさん」の書き込み(第四弾)への返答
そっか、男同士の三角関係は成立しませんか(笑)。
ま、「おもいつき」でした。
タクシーの領収書の件については
小池の悪意による意図的な遠回りの可能性があると
僕もおもいます。
ただ、そうなった場合は相手の同僚が黙っていない。
あの残業依頼の仕方ならば
あのOLが小池の居住地を
把握しているのが設定として正しいとおもうのですが、
その前提が映画自体に抜けているから
こういう論議になってしまうのだとおもいます。
そうですね、「金運」のいい女には色気がある。
小池栄子は映画で28歳の設定でしたっけ。
大卒後、6年程度会社勤めをし
趣味も男もなかっただろうから
そうとう蓄財もあったろうと予想が立つ。
だから拘置所近くに引越しして
トヨエツへの差し入れを盲打ちで繰り返し、
薄給の石鹸工場でも暮しを成立させていた・・
ただし『接吻』では心理的・背景的な人物読解が
それほど必要だとは僕はおもいません。
「非対称間の相同」を前提に、
「照応」を中心にして、
何か不測の運動が生起する、
こうした亀裂をそのまま甘受することのほうが
大切だとおもいます。
(「ユリイカ」での蓮実さんの『接吻』論、さっき読みました。
未遂に終わった子供にたいするトヨエツの
河原での金槌の頭上振り上げが
篠田三郎を来訪の際の小池栄子の日傘の把持と
「曇天のサスペンス」において照応し、
そこには物語の要約への貢献がないというくだりには
感動しました。
けれども蓮実さんのあの文章はこのところの特徴ですが、
全体的に散漫です。
たとえばそのくだりの流れで
なぜ背中を向けている小池に仲村が話すのかを
蓮実さんは分析していません。
成瀬的な「振り返り」は禁じられている。
その後の階段のシーンで、
また背中を向けている小池栄子にたいし
トオルは自分のほうに向かせて説得をする。
これは映画の禁忌です、
つまり小池が意図したトオルとの位置関係を
トオルが侵犯したのだということです。
だからトオルへの小池へのラストシーンの
位置関係の「踏み外し」があった。
むろんそれは「報復」とは関係ありません。
蓮実さんはそういう仕種、間-身体性の政治力学を
あれだけ分量のある原稿でも分析しなかったですね。
そしてその原稿には「宅間守」の名も脱落している)。
たとえばアイカワさんは
ラストの小池栄子の「心理」を
その『接吻』論で本当に綿密に分析なさった。
何の異存もない、間然とするところのない分析で
迫力も充分でした。
ただしそういう読解は胸底に蔵い、
運動の方向が不意に横ズレする姿を
単に感動として受け取るべきなのではないか、
と僕は考えます。
「横ズレ」は、
たとえばロウ・イエ『パーブル・バタフライ』からの
横ズレとしても機能していますので。
(僕は日記本文では引用の磁場に
この映画を置くことは不賛成だ、
みたいな書き方をしましたが、
このコメント欄の流れでは
大幅にその禁を破っています。
なぜか--これは答が単純で、
「相手がアイカワさんだから」です)
話を戻します。
「心理読解を放棄してもよい」ためには
映画細部に事前に
リアリスティックな裏打ちのある必要がある。
だから僕はあんな同僚OLは
此の世に存在しない、と指摘した。
もしかするとあのタクシー領収書の挿話は
万田さんの奥さんが「効率描写」の成功、
と自負している場面でもないかとおもったので。
あれは、成瀬映画の効率描写とは根本的にちがいますね。
人間への尊厳に充ちた洞察力を欠いたエピソードだと
僕は捉えたのでした。
たしかにそうした弱点が作品全体に薄く散在しています。
●さらに自らおこなった補足
「ハッピーバースデイ」の二回にわたる、
二俳優による、間歇的な歌唱は
想像のなかへと折り込まれて
ひとつの単純な意味になるのかもしれない。
《生誕はもうすでに死である》。
そう考えるとトヨエツの哀れも顕ってきますが
両国以下五句
両国もカイツクロヒヌ鶉二羽
吾(あ)はわれの模倣犯たれ春柳
十界に蚊の嘔気ありひこばえて
井戸端やイシスいざなみ妻二匹
回診がわがこと春は粉ぐすり
聴診器以下五句
聴診器尿(しと)する背後の女かな
星飼とこの名呼ばれてクレタびと
濫作を愉しむわれの膝に魔子
春の扉(と)に鬱を挟んで色魔風
身は惚けて犬は箱なり箱を見てゐる
キプロス以下五句
キプロスに置きしさんかく胸微塵
尻魂(しりだま)や行き交ふ路の蝶や蝶
桃ながめ眼は爛々のそこひかな
騙し好き吾(あ)は一塔の春やそれ
ちちぶさを吸ひ花底ゆ襤褸見ゆ
ペラゴロ以下五句
ペラゴロを橋下に斬つて深草かな
生(あ)れ変り貧区に哭くや眼に紫塵
雁喰うて二階ばかりの此世美(は)し
春は女を二階に置いて鵺を焼く
酒すすむほどに総身も入江かな
花の聯想五句
酩酊は桜さくらの塵をゆく
アノニムのゆび触れあつてアニメかな
鯨ベーコンに薄く轟く海の脂(し)や
老いて咲く花眼や文字の花の奥
口腔に味蕾ひらきて春葛湯
「円」五句
棒客の次つぎと訪ふ円寂境
谷底で九牛が円になつてゐる
剥落は愉しからずや樹々の円
円空に雲雀の粉が光りをり
卑孤恃む潟の大円中の鯊
近況
昨日4月2日は、
本当は依頼書評を書く日に当てていたんだけど
女房から貰ってしまった風邪で
鼻水は停まらないわ
咽喉はめちゃくゃ痛いわ、で、
どうにも行けなかった。
朝、「なにぬねの?」に俳句五句をアップしたあとは
気持ちが立ち往生となった。
こんな調子の悪い日は機械的作業のほうがいい、と腹を括って
結局、予定外だった「箴言」シリーズもつくり
mixiアップしてしまった。
機械的作業はまだ続いた。
三村京子サイトの新アップに刺激されて
ずっと怠っていた自分のサイトにも
何かアップするものをつくらなければ、と突如思い立ち、
mixiにアップしてきた「箴言」シリーズを20まで、
さらには最近つくってきた俳句を
小句集「銀一頭」として計74句
「阿部嘉昭ファンサイト」にアップした。
そしたらもう女房が帰る夕方になってしまった。
食事後いつもどおり酔い寝をしたのだが、
起きると咽喉の痛みがさらに悪化している。
なのに、こういうときにこそ、
煙草が吸いたくなってしまう。
自己破壊に向くように躯ができているのだろう。
切ない。
今日(4/3)からは立教で連日
ガイダンスに臨席せねばならない。
社会的な水準に躯を切り替える必要があるのだ。
なのに、好き放題に読書し書いてきた
春休みの黄金気分がぜんぜん抜けない。
授業準備もやっていない。
あと10日ほど。
ケツに火がついてきた
ルビのある五句
渡良瀬や老寃(おいづく)を率(ゐ)て春まばら
陽炎に女を見たり尿(いばり)して
瞰(み)下ろせば肋の夢も宀(うかんむり)
即身朧と化して春滝に対(むか)ふ
椀をもつ腕の湾曲、海藻(みる)啜る