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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

連詩Bも二巻目がはじまった

 
立教の連詩連句演習・B班も
A班と同じく逆順で二巻目がはじまった。
こちらは濃い。
僕の三番目までの詩篇を以下に報告します。



【識字率の問題と小僧】
石井洋平


百八畳間を何某かで詩篇を畳んでいると
門の隙間から小僧が覗き
道楽だと罵られた
憤慨して詩篇のひとつを投げつけてやると
たちまち小僧は鳥になり飛び去った
となると急に投げつけた詩篇が惜しくなり
ひとつひとつ確認すれども
果たして何を投げつけたのかが皆目
見当がつかない
くくれどもくくれども
はてな、どの言葉を探しておるのやら
途端に悲しくなり鳴き喚くと
また別の小僧が覗き
滑稽だと罵られた
今度は渡さぬと詩篇を抱くと
たちまち小僧は風になり奪い去った

そうして換算すれば小僧の数は百八つ
私はもう詩篇がない
くくれどもくくれども
はてな、何をくくればよいのやら





【ぐぐる】
内堀亮人


女は子宮で考え、男は煩悩で考える
こうして脳味噌は彷徨って
頭でっかちの窓際族たちは
どこかに居場所を求めていく

無くしたものを思っては
この空いた隙間を埋めるために
他人の脳を検索して
こうして詰め込まれていく
ただの綿、
様々な色水を吸い込んでいって
僕は更にカラフルに
そして薄くなっていく。

色盲を患っている僕たちが
いまさら自分の色に気づいても
夜な夜な右手で検索、左手で快楽。
僕の右に出るものがいないので
無くしたものを探す事は出来ず
該当件数は未だない
こうして僕はまた一人
西口をまた彷徨う





【いらつくんだ】
阿部嘉昭


少年たちは身重になり寺院として歩く
浄財を、という口そばから
経文が乞食ごろもに変わって
こんな該当のもたせ方もあるだろう
涙目が虹を見るし

逆鱗を擦って腰をのっぺらにすれば
倒そうとする茸だらけの森だ
それをもくもくと根元からのぼってゆく
鐘楼である女たちもただ空を往くだけ
乗れば女体上の抽象往復となるまでだ
だから脳に馬糞を塗って音をもとめ
道でない色道を急に走ったりもする
どけ、前をあけろ、念仏の瓦

ざわめく身虫で運動を獅子にした
審議するな、ただ再審せよ
たてがみで雲を割って
千年のある日、香春に墜ちる
想定する瞳孔の縦線に沿おうとして

滑稽の生、ひたすらバク転して
動物の盃からは果汁をこぼす




浦沢『MONSTER』のチェックはおもいのほかかかった。
一回目の授業はデラックス版でいう4巻までと決意したが
それでもそこまで再読するのに昼を越えた。

ちょっと気が立っていて、
何か音が身に障る感覚だったので
女房と録画済TV番組を観るのを勘弁してもらい、
岡井隆の大部の歌集『ネフスキイ』を一気読み。
案の定、堪能して、ようやくに勘気がおさまった。
こんな日曜もある
 

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2008年11月30日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

連詩A班、二回目がはじまった

 
立教の演習での連詩A班、
なんとか初巻の三十六篇が終わり
(これはB班や連句の班とともに
近々、僕のサイトに全篇をアップします)、
今度は逆順で
一巡だけ流してみようという試みを開始した。
僕は二番目。
それで
各詩篇が場所を単純移動させてはどうかと
以下の連衆を挑発する挙に出てみた。
それまでの連詩はみな
「私」でズレながら結ばれる趣がつよかったので。
それぞれがつないでくれるかどうか。




【駅】
伊藤浩介


駅は生きている
駅は呼吸している
絶え間なく流れる人の流れは
熱を持った血液の流れだ
血液は酸素を運んでいる
駅が生きるために必要な酸素を
血液は黒い塊に押し込まれて
太い動脈を移動する
次の駅に送られていく
人の流れが血液なら
こうして動かないオレは
血管にこびりついた血の塊みたいなもんだ
オレみたいなのが増えれば駅は死ぬぜ

駅の中にはオレがいて
オレの中には血液が流れている
オレはえきかもしれない
えきの中にはまたオレがいて
こうしてまた寝そべっているかもしれないオレもまた
えきかもしれない

駅は生きている





【駅前から馬に乗って、】
阿部嘉昭


特急が枯田中をひたすら走り
ずっとの午後が雪もよい
この星はまるで円くなく
何もかもが外部だ
花人形ある次の町が
斜視の濡れる
深情けの女だろう、ネルの

いつかも書いたことだが
駅舎は歯科医院に似ていた
明治の歯痛は露西亜産
黒セーターの似合う
長谷川四郎のような男も立つ
冬の残部はもう屋根ではなく
停車場前からみえる
参道の廃れに移っている
燕も南方の補陀落へ去った

柱には疲れた馬が繋がれている
繋留を生きて十年、
その十年の背中に俺が乗った
芒をもとめ冬枯れをゆく(想像、




僕の詩篇は、最後の「(想像、」が命。

そういえば修辞をバンバンに張らせる書き方が
このところできなくなっている。
年齢の問題か、連句を傍らで進めているからか。



昨日は東京メトロ主宰の
ウォーキング大会に女房と参加。
新宿御苑、外苑、赤坂御用地近辺、六本木近辺と
さして新味のないコースを15キロほど歩くが、
都内の緑地を選んでぞろぞろ歩くこのコース、
さすがに紅葉黄葉が盛りだった。
例の外苑前の銀杏並木は黄金の焔が次々
遠近法構図のなか噴き上げる風情さながらで
カメラをもつ見物人が鈴鳴りだった。

途中で昼どきとなり、
赤坂近辺のうなぎやで食ったひつまぶしが
こういう香ばしいアプローチもあるのかと驚きつつ美味。
この「勢きね」は新しく、職人も若い。
つまり、例の有名店ではない。
勘が働きフリで入って、大正解だった。

返りは吉祥寺で買い物。
なんかすごく人が多かった。
冬至ちかくは一遍に日が暮れる。



これから月曜の授業のため
浦沢直樹『MONSTER』のチェックです
 

2008年11月30日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

大津仁昭・改命

 
大津仁昭さんから歌集『改命』を贈られる。
同人誌「カント」でお作は拝見しているが
同じ同人の江田浩司さんのよしみで
ご恵与くださったのだろう。

今年十一月の刊、版元は長野県佐久市を拠点とする邑書林。
当方には『安井浩司選句集』などで馴染みのある版元で、
句集上梓の際にはぜひお付合いしたい相手先だ。

読みたてほやほやの『改命』から
心にのこった歌をまずは転記打ちしてみよう。



天蓋のモザイク一つ抜け落ちてそこより空が始まりし頃



窓ごとに過去世のあかり運びゆく夜の高架を渡れる列車



香水の瓶に入りたる三日月を人知れず夜の公園に置く



青葉闇蝶々はもつれ消えたるをそのかみ愛の在処と知らず



傘さして顔を隠せる転校生転生までも雨に想はむ



痴人の愛巨人の恋の棲むところもう一回り大きな地球



角笛の音色さやかに朝の夢われの祖先に角有つ種族



南口いきなり海に接しをり亡命者のみ泳ぎ渡らむ



黄泉にては何語を話す朝焼けの葉擦れは昔聞きたる言葉



夏雲は教会〔キルヒェ〕のごとし見上ぐれどわが入る門は一つだになし



草刈れば若草色の少女らがその跡に佇つ夕べを限り



緑色の雲母売らるる四辻はおそらく黄泉の昼からも見ゆ



長毛が短毛となり皮膚のみを重ぬひとまづ人類の恋



夏は来ぬ氷菓子の底のキャラメルのなほ黒々と工業地帯



木の実降る道の奥には版画館いまだ下絵に過ぎぬ女事あり



あやめ咲く池の水位の下がりつつ根方の罪の恐ろしきほど



充電中あかく点れる携帯電話に杳き瀕死のわれが繋がる



白色と桃色と化る皮膚病も春の野中に定まりゆくも



影に住む不具なる者を愛すると新月の見えぬ部分を描く



ヘッドフォンせる娘らの髪の艶 死後の頭蓋の曲線も見ゆ



露しげき庭園に出づ 導くはいつの未来のイヴの左手



コンクリートの古小屋残る菫野はアレクサンドルと呼びたき傾斜



人の死を瞬時願はば前の世の抹殺指令の星夜まで見ゆ



ハマスとは火薬の匂ひ砂浜に浜木綿の咲く想ひを措きて



伊勢海老に塩振る今宵晩年は再〔ま〕たの幼年 汐風の涯



秋立ちぬ わが敗走の必然をやがて錦の風に隠さむ




掲出歌群、ラストは岡井隆調だが、
ロマンチックで残酷な幻視がたゆたっている名歌が多く、
さてそれが塚本邦雄起源か葛原妙子起源か
これが当面の判断となる。

まあ実際は両者が良い感触でアマルガムになっているのだが、
大津の好きな語「そのかみ(往時の意)」は塚本語で、
僕はあまり上の欄に採らなかった。
また一字空白は葛原妙子の手法だとおもうが、
これも篩から落ちてしまった歌が多い。
ただ掲出歌に「見ゆ」止めの歌が三首入っているのが
注目されるだろう。
ここを重要視すると
大津短歌は男にして葛原振りということになる。
またそこに大津の歌作の価値もあると考える。

塚本短歌の呪縛に苦しむ歌人はじっさい多いとおもう。
符牒はいくつかある。
体言止めの喩的図式歌が多く、韻律が伸びない。
世界発見はあるが、それに伴う情が欠落している。
塚本型の虚辞は一定幅のなかにあって
それ以外の調子をとる修辞がなく韻律が収縮している。
それは漢語膠着があって一首全体の情報量が重いのと表裏。

上に掲げた歌はその意味でいうと、
音律が「歌」といえるまでにたしかに伸びている。
だから愛唱の魅惑も生ずる。
つまり愛唱するこちらの身までもが
それにより伸びる効用があるということだ。

大津仁昭さんはまだまだ伸びるひとだとおもう。
塚本調を捨て、男だてらに葛原調に赴いて、
妖しい倒錯と価値逆転がさらにひかりだすのではないか。
そんな熱い期待をもったので、この日記欄に採りあげた。

それにしても掲出歌のうち
「黄泉」を詠みこんだ二首の空恐ろしさはどうだろう。
もう一度読み返してもらえれば



大津さんの歌集に接する前は
授業のため
浦沢直樹の『なまえのないかいぶつ』と
『PLUTO』の最新巻を読んでいた。

前者は浦沢『MONSTER』の設定で生じた
チェコの架空の絵本作家群(実は変名で同一人物、
ネオナチの新人類創造に関わる)に
徹底的な「信憑」をあたえる、
手のこんだ長崎尚志の「解説」付。
江戸川乱歩などがこのんだ遊びで、
そのマニアックな高尚性が愉しい。
実はこの本、浦沢の最高傑作ではないか。
入っている童話の質もすごく高い。
童話とカフカの理想的融合が実現されているのだった。
童話絵にシフトした浦沢の絵も良い。



その前は東京新聞のために
榎本了壱『東京ワンダーランド』を読み、
その書評を書いていた。
全篇を読み終わって、ダレ場もなく
これは粟津潔→寺山→ビックリハウス→黒川紀章と横断してゆく
文化の交配者、榎本ならではの時代証言だと感心する。
榎本一個の生の述懐によって
六十年代から九十年代の脱領域的地図が見事に俯瞰されるのだ。

最後に短い新聞書評では引用できなかった
黒川紀章の素晴しい語りを以下にしるしておく
(前に日記に書いたように僕は黒川の大ファンだった
--若尾ちゃんも大好きだけど、それも措いて)。



最近特に感じるんですが、われわれは日本とヨーロッパ、アメリカとの違いを強調し、日本の中では東京と地方の違いを強調しようとしますが、本当は嘘だと思います。そんなに情報はきれいに分かれていない。ヨーロッパの人々と日本人が理解できるのに、日本人同士がコミュニケートできない。こういうことをつくづく感じるようになりました。必要なのは、少人数のコミュニケーションがいろいろ出来てきて、それぞれが異質だということを認識することではないかと思います。みんなが同じならメディアは存在しません。違う考えのあるところでメディアは流れるわけです。メディアを発展させるためには、違う個性のグループを発見することです。メディア・サバイバルというのは、非日常体験を日常化し、自分と違う考えを持った人たちに対する寛容性を養うことだと思います。その可能性を持った人だけがサバイバルできる。



今日、じつはすごく嬉しいメールが来た。
この件はいずれまた書くことにします
 

2008年11月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

斬花十句

 
澎湃と海の満ちきて花斬らる



逆さ世は仏の座にも靄の乗る



てつさ剥ぐ底より生るる天の悔



汝なくて麻のひかりを引寄せる



白魚も都市魚も消えて草の鍋



アッシジに頭(づ)を置き忘れトルソわれ



松籟や天上縊死の二つ三つ



渤海や鬱勃死没墨刑者



詩を置きて翅の拠点を離れゆく



哀号に李氏朝鮮が雪もよひ



【※その後のセルフ書き込み】


近況報告:

●火曜日
三村京子邸で新アルバムに向けた
彼女のギターフレーズの詰め。
僕がどんどん見本を弾いてみせた。
エフェクターを介してエレキを弾きまくると
ギターがうまくなってゆく。
僕はとくにフレーズの線型をつくることと
フレーズによる曲のジャンル付与が得手。
一日3時間この状態で練習を積めば
半年後にはいっぱしの
ロックギタリストになっている気もするが
いかんせん時間がない。

三村京子のアルバム制作は、
サンプル音源を重ねてつくってゆくことで
彼女自身のモチベーションと体力を高めるというのが
やりかたとして固まりつつある。
大中くん、参入すればよかったのに。
いちばんクリエイティヴな瞬間だった。

ともあれロックアレンジの方向性が定まって
あとは慰労気分、中華街で彼女と食事。
こぶりの地味な店に入る(これがコツ)。
紹興酒を一本あけつつ、
蒸し鶏冷製、牛肉かけご飯、卵の帆立の炒め、
海老わんたんスープで腹が一杯になった。
やさしい味の、いい店。

●水曜日
朝は爆睡。月曜からの疲労が続いていた。
この水曜は午後一から立教で会議があり、
まとまった仕事もできなかった。
帰途、池袋ジュンクで本の大量買い。
思想がヤワになっている気が最近してて
現代思想系を中心に。

そこでふと岡井隆の今年夏に出た新歌集を見つける。
書肆山田刊。迂闊にも刊行を知らなかった。
現在、ミクシィではkeff!さんの書き込み欄を舞台に
塚本邦雄にかんする濃い談義を続けていて、
そこには岡井隆の話題も必然的に入ってくる。
そのさい、岡井新歌集に触れなかったのは
ヌルいといわれてもしょうがないなあ

●本日木曜未明
立教での連詩連句演習のうち
それぞれの班の連句が大詰め。
誰も宗匠のいない状態で運んでいて、
季題の配分がそれで甘い。
望月裕二郎君にメーリスで指摘され、
慌てて正しい配分にするため
メーリスで改作案をしめす羽目に。
結構、考えた。

連句は捌きが難しい。
季題配分が捌きの大方の役割と
以前、解酲子さんがしるしていたのを
痛感のうちに憶いだす。

その解酲子さん、
さらに蕃さんという目上の才能とともに
歌仙を「なにぬねの?」では巻き始めた。
演習の危なっかしい連句とは
もう緊張のレベルがちがうけど、
こうした緊張をかわすのがコツ。
これはもう初折裏に突入して、
丁々発止の華々しい応酬となっている。
やっぱり解酲子さんの捌きの力量、抜群だ。

学校でも連句、SNSでも連句となると
その他では句想も痩せそうなものだが、
却って俳句の作成意欲がますのがヘン。
連句と俳句を僕は別物と考えているけれど
即吟をやっていると
自らへの即吟が俳句連打となって跳ね返る。
それで本日も十句をアップ。

句作は快調なのだが、
ここのところ句風が鬱めいているのが
われながら気にはなる。
冬を目前に
赤尾兜子を再読したがっているのかもしれない。

まだ俳句に触れたい気分だ。
なので来週〆切だが
「未定」の句会選評もこれから書いてしまおう。

本当は東京新聞の書評のため
榎本了壱の自叙伝を読み進めなければならないのだが
大部でかつ大好きな人の自伝なので、
読書がなかなか遅々として進まない。

あ、この本、僕のブログ本と同じく、
晶文社、倉田さんの編集です。
『東京モンスターランド』。
装丁はとうぜん榎本さん自身。
つまりここでは小田島くんの出番がなかった
 
 

2008年11月27日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

小説の要件

 
昨日は休日振替授業だったが
どの授業も学生のほうが
この日が休みどころとばかりに休んで、
いつもの半分の出席だった。
なんでもこういう日はもともと他授業に休講が多く、
登校効果も低いので、休みを決め込む者が多いとか。
しかも学校から命じられている休日振替授業を休講にしても
教員はまったく補講をやらないらしい。
なんだ、それなら僕も昨日はすべて休講にすればよかった。

ただしそういう日にせっかく出席してくれた学生には
むろん出血サーヴィスをおこなう。
で、昨日の四限、「卒論準備演習」では
小説の要件(どういう条件があれば
書かれた文が小説になるか)を学生と一緒に考えた。

第一群の条件とは以下になる。
・物語
・キャラクター
・心情(作中人物から読者への転移)
・描写
・文体(一貫性が予定される)

ただし僕はそうしめしておいて
第二群の条件がありうる、と語った。
以下のようになる。

a自己組織化(第一行から書かれ、最終行で終わる、
そういうセルフパッケージ性に全体があることを
驚愕感と納得感で読者に承認させる)

b自己法則化(特異な設定でも
それを作品内の文の加算だけで刻々読者に承認させること)

c可変性(キャラクターによって文体が変化することなど。
上記abから必然的にもたらされる付帯要素)

dメタメッセージ(作者の事情という上位次元が読まれる点に
作者側が批評的な先手を打つ--
その結果として「これは小説である」という
メタメッセージも産出される)

たとえば川端康成『片腕』は
第一群の条件によって小説たることは危ういが、
第二群の条件によっては先鋭な小説となっている。
こういう作品を幻想小説という括りに単に置くのは
たぶん読みの退行で、
現代小説の可能性もまた
こういう分野からとくに測られなければならない
(そうすると、ライトノベルでさえ
正当な対象の範疇に置くことができる)。

むろん第二群の条件は、
ジャンル横断をできる拡張性をももっている。
「dメタメッセージ」中「これは小説である」の
「小説」部分には
「詩」「エッセイ」「戯曲」「短歌俳句」など
数多くのものまで代入できる、ということだ。
結局そうして小説の自明性が壊れてゆくことになり、
小説とは常に
書くことで創出(更新)されるジャンルだという点が明白になる
(むろんそれは詩やエッセイなどでも同じだ)。

さて卒制審査では、第一群の条件に照らして、
その進捗が管理されてゆくだろう。
ただし審査対象者は第二群の条件をあらかじめ提示、
理論武装して審査員に迫るべきではないか。
そういう実利的な戦略の方法論が
就職氷河期の再到来にどう対処するかとともに
授業では話された。

まあ雑談形式だったが、
一回で三回分の濃さをもつ授業だった
(たとえば第一群の条件中、
物語の万全ではないことについては
東浩紀の「データベース消費」などから立証してみせたし、
第二群の条件の提示では
受講者が驚くよう終始、意表をつく話し方をした)。
出席しなかった者が損をするよう
意図的に高度な内容をフレンドリーに語ったわけだった
 

2008年11月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

泥蓮十句

 
晩年の譬喩かな白き泥はちす



あふれでる身の黄水やしばし寝る



二句をすりあはせて爾後を骨とする



乞ふもの何もなき夕にて配線す



酢のごときイエスのゑみを沼に溶く



十字架は頭(づ)に立つ酌まん盗人と



半盲の犬の多さよ朝やさし



水もとめなば野分ののちの菊の水



白昼に墜ちるものなしなくて鬱



夕狩に往かむ柿の生る遠(をち)を
 

2008年11月24日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

豊穣な並列

 
前回の日記では、中沢新一の新著『狩猟と編み籠』につき
その最終読後感をセルフ書き込みした。
そこで僕は「豊穣な並列」という概念に少し言及した。

たぶん物書きとして僕が成熟したとするなら、
この「豊穣な並列」の機微を掴んだということだろう。
僕の評論は往年、
「ストーリー」を付帯的に産出することを目指していた。
小説を書かない、その意気込みの果てに評論書きがあって
たぶんそんな態度をとっていたのだとおもう。

いまや僕の評論は、物語磁力を弱め、
徹底的な段落並列型になっている。
そうすると字数調整のとき、
段落をすぱん、と落とすなど捌きもラクだ。
等質の重力を各段落にまとわせる。
段落原則は、前段落の終わりからの
「単純な想起」で終始構わない。
おそらくこの筆法は、
ミクシィなどの日記から生まれてきたものだろう。

やがて詩もそうした姿となった。
僕はつぎに出る「現代詩手帖」の展望記事でも
行単位、改行を話題の中心にしたが、
束になってばらけそうでばらけない「行」とは
詩世界での「豊穣な並列」の保証だ。

ところが物語性はそのような低い重力で書いても
原理的に詩から払拭できない。
なぜなら、ある一行を書いた結果として
次の行が終始出来するからで、
そこにはつねに柔らかな「推移」があり、
これらはゆるやかに最終行に向け収束しなければならない。
というか、こうした収束を毎回測るために
個々の詩篇の第一行が始動されるといってもいい。

現代自由詩の改行とはたぶん詩型の明白な形式。
それは短歌俳句の一行棒書き、その完成形を嫉妬し、
未完のまま次の行へつないでゆく形式的反逆だろう。
この未完性の実現のため、
「文」の散文的自足も必然的に壊れてゆく。
散文脈の詩が信じられない理由もそこにある。

不足が足されしかも充足がついに到達しない流れの成行に
なにか「時間」を記述に巻き込む自己法則も生まれる。
それでもその詩篇がある一行で終われるときは、
ずっと加算されていった「不足」が「充足完了」と
深い次元で照りあっているか、
そうしたセルフ・リテラシーでの判断が必要となる。

むろんこうした組成が生じるためには
「豊穣な並列」という意識のほか
詩の各行の措辞を「透明」にする配慮も要る。
透明とは平明ということではない、
それなら散文脈にただ措辞が低落する危惧すらある。
だから語の置換、脱意味化よりも前に、
何かを脱落させ、散文からの不足が戦略されなければならない。
このとき駆動原理となるものがある。音韻だ。

イメージの豊穣を自負するような詩は
現在只今、ただ鬱陶しい。
たぶんそうした詩史算定には立脚の誤りがある。
じつはそこでは人を魅了しない詩が無駄に書かれている。
これは「経済」にその理由を問わねばならない。

僕が連詩演習で教えている学生は縮減を生きているので
イメージの豊穣を目指す愚を犯すことはほとんどしないが、
ただ「透明化」の配慮がまだできていない。
不正確な措辞で、「なんとなく」の雰囲気を書き、
それまであった良い詩行を突然壊す勿体無さまで多く演じる。
詩行の透明性とは
実は熾烈な自己意識との闘いの果てに獲得されるものだから、
結局は自己意識が不足しているという総括にもなるだろう。

自分のためだけに詩を書くと、
自己意識が不足してしまうのだ。
詩はそんな逆説を負う。

現在、自分のサイトにある題名未定句集を受け口に、
できあがっていった句を順次、加算的にアップしている。
一句一句のあいだの行間を僕はよく眺める。
句集はあきらかに「透明な加算」や「豊穣な並列」の産物、
そうした組織体だが、
一句一句のあいだにこそ自分がいる、というこのありようは
詩篇の一行一行の展開ともさらにちがっていて、
それが僕を魅了しているといってもいい。

ところが詩集とちがい、句集の組成がどうあるべきか
それがいまだによくわからない面もある。
章立てが必要なのか、連作は肯定されるのか、
そうしたことがまだよく把握できていないのだった。
これは真剣に、誰かの教示がほしい
 

2008年11月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

カンガルー → 中沢新一

 
最近、最も愉快だったニュースは
人間とカンガルーの遺伝子に
同型配列が数多く共有されていて、
それによりカンガルーと人間が当初、同じ種で
大昔、それが分化したのだ、
というオーストラリアの研究チームの発見。
ミクシィのニュースでみた。

しかもその分化は大昔、
現在の中国大陸で起こり、
カンガルーはその後、北上、
シベリアからアラスカに至り、
今度はアメリカ大陸をずっと南下、
ついにはオセアニアに幽閉されて
有袋類として種を画定した云々。
じつに壮大なロマンだなあ。

人類の起源をアフリカ発祥とずっと信じているのだけど
その通説とこの新説がどう折り合うのかも不明ではある。

このニュースを聞きまず考えるのが
人間の妊娠期間の長さと、
有袋類が腹の袋で未熟な赤ん坊をずっと育て、
これが一種、妊娠期間の長さに
相当しているだろうという事実。
つまり有袋の子育ては長期妊娠の転化なのではないか。
たぶん現在の人間と有袋類の共通項となると
ほとんどこの点にしか見出せない。

すると、まかりまちがえば腹の袋で赤子を育てる
人類の亜種が存在していたかもしれないし、
同時に人語を操る高知能のカンガルーも
成立していたかもしれない。
そんなカンガルーをイメージしようとして浮んできたのが、
往年の山上たつひこの「八丈島のキョン」だった。
そこまで考え、
オーストラリアの生物進化研究チームのこの学説が
眉唾ものなんじゃねえか、と嬉しい疑心ももたげてくる。

そういえば馬と鹿の顔を僕は許すが、
羊、山羊、カンガルー、麒麟、駱駝の顔は結構許しがたい。
山羊はキリスト教では淫猥の象徴だが、
眼のあいだが開き、淫猥と魯鈍が化合した
異教異端の趣があったりするからだ。
ただし眼のあいだの開きは恐らく警戒の必要から生じた
視野の拡大のための進化で
たぶんそれらの草食獣は馬と同じく一様に
後方をふくめた三百度くらいの視野をもつのではないか。

ただし草食獣とある種の人間類型の類同なら
一般生活のなかで人も通常におもうだろう。
マルチェロ・マストロヤンニを
草食獣型名男優の代表と考えていたこともあった。
彼の胸毛は獣的というだけでは足りない。
草食獣的と呼ぶにふさわしい「やさしさ」があるのだった。

しかし問題は
人間とカンガルーという特異で限定的な組み合わせが
学説で証明された(されようとしている)点だ。
ともあれ、猿でも犬でも、
人間と同じ配列をふくむ遺伝子をもつ例は皆無なのだそう。
この点で、やはり自分の足許がぐらつく。

僕はぴょんぴょん地上高くジャンプして
大地や街を移動してゆく夢をよく見るが、
これは自分に残存するカンガルー遺伝子の
なせるわざなのかもしれない。



中沢新一の新著『狩猟と編み籠』を読み始める。
まだ百頁段階での感想だが、
例のごとく絢爛で、脱領域的な宗教理論。
例のごとくニューエイジ臭もぷんぷん。

ところが今回は、彼の最近の「対称性人類学」を
「映画学」に結びつけるという
新たな方向性も明瞭に加わった。
ドゥルーズ『シネマ』に示唆されたと冒頭にあるが、
事が、かつて僕が専門にした映画だけに、
中沢の本にして初めて違和感もある。

中沢さんのいう「イメージ」の定位が
宗教と映画で混在となって、論の運びに
終始、すっきりしない澱がたまってゆくのだ。

僕の考えでは映画の本質はふたつある。
「そのままを写すカメラの機能」。
「そうした撮影単位が編集で、別文脈を形成し、
詩的なイメージ連鎖としか呼べないものを出来すること」。

ドゥルーズのシネマ考察はここを原点として
映画の「運動イメージ」「時間イメージ」につき
考察を深めながら、
同時に多彩な作品論・監督論を織り上げていったのだけど
中沢さんのアプローチはそういうマニア性を欠いて
映画書としてはすごく退屈な反復にみえる。

映画書から僕は離れていったけど
たしかにいまがチャンスだ。
蓮実重彦の映画論が
映画の産業構造からも無効となりつつあるためだ。

中沢新一はかつてハリウッド版『ゴジラ』論で
誰にも書けないような脱領域的分析をした。
そのセンで書いてくれる映画論なら
狂喜して読むのだけどなあ。
やっぱりポイントはいまだにドゥルーズ/ゴダールか。。。

ま、中沢さんにかんしては
あくまでも百頁段階での中間的感想なんだけど
(そういえばこの本への言及、
ミクシィなどでも見当たらないなあ)。
たしかに胡散臭くて面白い本ではあるんだよね



ということで「胡散臭さ」二題噺の幕、



【その後の自身による書き込み】

風邪の前触れの関節痛のなか
昼寝と録画済TVドラマの鑑賞をしいしい、
中沢『狩猟と編み籠』をいま読了した。

「映画」について食い足りない、という予感は
結局、変わることがなかったなあ。

中沢新一の武器は「類推」。
人間が人間的思考を開始した新石器革命の時代に
人間の思惟領域に類推が舞い込んだとする
中沢さんの自説と、
それは当然のごとく極小極大同型の構造にもなっている。

中沢さんは「類推を武器に」脱領域を開始し、
結局は、人類学、宗教学、脳神経学、経済学、数学等の
同一的アマルガムをつくる。
この本ではそこにさらに映画学、音楽学も混ざった。
思考的完成物はむろん圧倒的で、整理も見事に施され、
人類レベルの
「次なる思考」への導きとなるようにも一見おもえる。

ところが類推による単純化、
単純化による強度化という罠が
そこには同時に潜んでいるのだとおもう。

たとえば「映画」に関わる態度は
「映画」の歴史・シーンをどう見るかを決定する。
類推による同一的全体化はまずいのではないか。
宗教とそれとの相同性を明かすのも方向が逆なのではないか。

個々の映画を不透明な異物と捉え、
そうしておいて、議論展開に
映画シーンの「豊穣な並列」を付帯的に目論む。
そうでないと個別の映画が救抜されないばかりか、
「正しい映画」(それは多様であってよい)も現れてこない。

僕はたとえば映画において現在、
物語が消滅したり類型化するのはなぜかという問題を
よく考えていて、
その思考の補助線のために
東浩紀、北田暁大、鈴木謙介、伊藤剛ラインの所説を
よく利用するのだけど、
中沢さんの「イメージ第三群」では
こうした問題にも決して行き着かないとおもう。

ところで『狩猟と編み笠』はその題名の由来を
エイゼンシュテインの最終的なモンタージュ論、
「無関心な自然ではなく」の一節に負っている。
僕は実は、
この論文をふくむ『エイゼンシュテイン全集第九巻』を
キネ旬在籍時代に編集したので、
中沢さんが最高次の映画把握として
この論文を顕彰してくれる刻々には
眼が潤みそうなほど喜びを感じたのも確かだった。

むろんエイゼンシュテインの映画(編集)談義も
フーガ、ポリフォニー、煉瓦積み、俳句、山水画、絵巻物など
類推による脱領域化によって圧倒的に進行していった。
彼が中沢新一の先駆、眷属なのはいうまでもない。

それにしても、中沢新一の本の効用というのは、
詩を促進されることだとはおもう。
「類推」が原理だから、これは必然的にそうなる。
だから恐るべき快感も伴う。
マラルメには「類推の魔」という詩篇があった。

そういえば第五章で突然、TVについての考察がはじまる。
これが僕には圧倒的だった。
301頁、映画とTVの比較表ならそれを一分ぐらい凝視していた。
これはやはり「天才」でないと書けないものだったね。
書店でぜひ
 

2008年11月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

冬枯野十句

 
蜜の棲むホトひとつあり冬枯野



太陰や凍みる総身もかぶきゆく



鏡埋むこの田畑に残る虫



縄飾る汝の裸身や塩の鮭



陰つづく其処をつはぶきまた続く



月齢を逆さ読みする手鏡に



集解をこのむ机前に旅装して



稠林や脳の疎なる日紛れゆく



世の虹も有髪の数も光暈に



西日まで家陰の虻とあはれ婚(ま)ぐ
 

2008年11月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

川上弘美・風花

 
昨日は一日中、女房に家のパソコンを占拠された。
なんでも会社の自分のパソコンが
部分故障でネットにつながらなくなり、
急遽、在宅勤務に切り替えた由。
只今の女房の仕事は英語翻訳で、
女房は辞書ではなく辞書サイトを駆使するから
ネットにつながらないと翻訳がもうできないのだそうだ。

そうやって女房にでんと居座られると
ちょこまかした家事のほか何もできなくなる。
で、昨日は買い物などのほかは寝室の万年床のうえで
小説をひたすら読んでいた

(立教での卒論準備演習が実質、小説指導となって、
なんだか、すごく小説モードが高まっているのだった。

ちなみに最近最も感心した小説が、
廣津柳浪『今戸心中』だったりする--
「明治文学全集」は字が細かく
遠近両用眼鏡購入後に読もうとおもっていた。
その眼鏡をかけ読み始めると、
明治20年代の小説パワーが如実に迫ってくる。

江戸の心中物との差異は、
心中に向かうヒロイン=花魁の
近世的価値観では不透明と映る心情が
小説描写の主体となっている点にまさにあるが、
実はそれは小説の内側に隠れている。
また、描写には濃淡もはっきりとあって、
ラストの一文が暗示的なのも明治的な振舞なのだった)。

さて昨日読んだ小説のうち、
川上弘美『風花』につき、若干のメモ風文章を。

最初、短文を無作法に投げ込んだあの『真鶴』と比較し、
文体が弛緩しているとおもった。
やがて気づく、そうではない、と。
愛人をもち在宅時間が減りだした夫によって
夫婦仲が翳りだしたヒロイン「のゆり」の日々を
間歇的に描いてゆくこの小説の文体の鈍さは、
まさにヒロインの子どもっぽさ、晩生、逡巡癖を
そのまま文自体が転写したことによっていた。
この点に気づくと
川上弘美が「たゆたい」を
果敢に文体化しようとしているという感銘も湧く。

「のゆり」は意志表示ができず、感情語彙もない。
瞬間への介入もできない。
性的にも淡白で、しかも家事の反復にのみ溶け込む凡庸な女だ。
その「のゆり」の主観を小説が数多く織りこむのだから
川上の疾走する想像力にたいし、
小説の「いまここ」は必ずたわみ、
「遅滞」を彩ることになる。

読者が「この女、煮え切らない」と苛立つ寸前に
川上のキャラクタライズが「遅れた厚み」をもちだし、
そこに読みが参入してゆくうちに
読者は「のゆり」の白い、植物性の、
存在的寂寥に包み込まれてゆくことになる。

第二章「夏の雨」で、
のゆりが子どものころ、
実母に連れられて不可解な旅行をした回想が入る。
のちその不可解さは父が愛人をつくったゆえ
家庭生活が危機に瀕していた反映だったと
娘も確信することになるのだが。
こんなくだりだ。



 旅行、という言葉の意味も、当時ののゆりにはよくわかっていなかった。
 「りょこう、どこにあるの」一時間ほど電車が走ったあたりで圭子に聞いて、笑われたことを覚えている。
 笑ってから、圭子はすぐにおし黙った。家を出てから、圭子はほとんど口をきいていなかった。
 ねえ、りょこう、どこ。どこ。のゆりはまた聞いた。
 旅行はね、もうここにあるのよ。圭子は答えた。



このちいさなくだりがのちのち効いてくる。
ヒロインのくぐもった、言語化能力のとぼしさによって、
文体の感覚が透明に屈折することとともに、
この「夫をめぐる」恋愛小説は、
あたうかぎりで場所を移動させ、その場その場に
ヒロインや、夫またはそれに代替される人物を散らし
つまりは全体が「旅体」のなかに置かれているのだった。

りょこう、どこにあるの。りょこうは、もうここにある。

現象されるものが、すでに明瞭さを帯びていながら
ヒロインのゆりはその兆候を半ば読み取れない。
「半ば」ということが大切で
川上の描写の眼目は、
いつもその「半ば」を画定するよう抑制され、
その抑制がヒロインの美質形成にも跳ね返るのだが、
ヒロインに寂しさがつきまとうのは、
夫と二人だけの家庭を営んでいても、
それが定着ではなく、
旅程的な移動性をどこかで露呈させてしまい、
万物が「流れ」の様相を帯びて、
その中にヒロインの躯があるからだとわかってくる。

ありていにいうと、万物が旅程のなかにあり、
それぞれの姿も旅装だから、
愛着はそれ自体として切ない--そういうことになる。
人と人がままならないのは、
それぞれの旅程が異なっていて、
対面対峙がかならずねじれの位置を形成するからではないか。

そうなると、この小説の法則は、
「移動」が明示されたときに
何か心情や運命の回収がある、という点に落ち着き、
それが最終的に幸福な成就を結果するかが
サスペンスの主体ともなってゆく
(それはネタバレになるので書かない)。

いずれにせよ、不倫問題が夫の姫路への転勤によって
急に収束しだしたかに感覚した途端、
夫ともに姫路に転居したヒロインが
さらにアパート独居を選択し、
永遠の旅のなかにいる夫婦のねじれの位置が際立ってくる。
この姫路舞台の場面、
それから郡山への夫婦の小旅行のくだりが
小説の中の白眉だった。

不定形なものから定型のかたまりをとりだす。
この小説での読者の作業はいつもそんな様相を帯びる。
たぶんそこに、ヒロインの名、「のゆり」の意味がある。
たとえば「突然のゆりは」と書かれると
視線は「突然の/ゆりは」という仮分節を一旦意識し、
慌てて「突然/のゆりは」と訂正を図る。
小説の冒頭はおよそそんな体験の連続ではないだろうか。
「のゆり」を「のゆり」として分節することが
「のゆり」の実体化と必然的に結びつくのだが、
このときに小説のもつ「旅体」も
付帯的に掴まれるといっていい。

つまりこの仕儀によって「のゆり」はどこかで
実体化の埒外に「流れる」。
その作用にこそ寂寥がわだかまるのだった。

今日の日本小説の問題は
物語の無効性と小説の現前性を拮抗させるという点で
保坂和志が自覚的にその一端を担っている。

川上弘美は、物語を「付帯させる」。
彼女の主眼も物語にはない。
人物のキャラクタライズにもない。
たぶん明瞭に「文体」にある。
小説の主題ごとに文体を卓抜に選択することが
小説の使命・可能性と考える点に、
保坂とは別の、川上の先鋭な小説意識があるだろう。

川上のスタートは実は詩文の小説への導入だった。
初期の「惜夜記」はこんな脱定位的な恐ろしい一文、
つまり詩としかいいようのない一文ではじまった。
《背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいるのだった》

こうした詩性を希釈し、散文的延長に耐えること。
そのなかで川上のあからさまな詩性は
日常を描写する際に
死語にちかい稀用語彙を
そっと忍ばせる程度にすら収束してゆくが、
散文はたぶん選択した主人公によって文を変性させ、
その持続を耐える精神にこそ発露される
(つまり何をどう「描写」するかの手前にある自明に
川上はするどい審問を投げかけてゆく)。

だから川上弘美を読むことが、
今日の小説の可能性を測ることに直結するのだとおもう。
小説個々によって、どのように文体が変化しているのか。
それで全冊踏破の必要もあるのだとおもう。

川上弘美は僕と同齢で、世代のポテンシャルもまた
彼女のように優秀な才能から測られなければならないだろう。
 

2008年11月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

顔写真

 
こないだ、三省堂から出る詩の本、
その原稿校正をやっていた。
それで校了なのだけど、
原稿末尾には長めのプロフィール欄があって、
そこに僕の写真が高い精度ではめ込まれてあった。

この写真について書く。

この写真は立教の研究室で
三村京子に撮ってもらったもの。
顔写真がほしいという担当者のリクエストにたいし
満足のゆく顔写真をもっていない僕は
そうして急場をしのいだのだった。
したがってバックは本棚で、
しかもマンガ本が所狭しと並んでいる。
実はピンはその後ろの本棚のほうにあって
僕の顔は少しぼけている。

チラシや原稿などで写真をもとめられることが
最近はかなり多い。
顔写真=著者アイデンティティ、
という風潮が定着しつつあるのだ。

「ユリイカ」原稿のために読んだ
香山リカの講談社現代新書などは
天地半分以上のオビに
大々的にTVでお馴染みの彼女の写真が
刷り込まれているし、
小池昌代さんの著書が売れたのも
例の美人顔が本のどこかに刷られていたこと、
これが大きいのではないか。

「詩手帖」末尾、思潮社の刊行詩集案内でも
なぜ顔写真を入れるのが慣行なのか
とんと理由が判断できないが、
ずんぐりと異貌ぶりが窺える廿楽順治の写真があったり、
少年のように気弱そうな森川雅美の写真があったり、
うつりが悪いなあ、とおもえる杉本真維子の写真があったり、で、
それぞれの刊行案内欄を実は愉しんでいる。
しかしやさぐれ色男で名高い小川三郎は、
写真を載せない英断で突っ切った。

現代俳人の高原耕治などは
もっと顔写真が流布すればいいのに、とおもう。
日本人にしてビン=ラディンに似ている珍しい類型なのだ。

著者に顔写真必要なし、
パリの五月革命で例外的に街頭の存在になっても
写真撮影をマスコミに禁じ、
終始「無名」の書き手であろうとしたブランショの故事は
いま遵守しようとすると膨大な労力を要する。
僕もブランショに倣おうとする気概を往年はもっていたが
もうどうでもよくなってしまった。

さて。
僕は写真うつりが、
杉本真維子のことをいえないほど、悪い(笑)。
自分の意識では、撮られたどの写真も
「自分に似ていない」と絶望してしまう。
そのうえでルックスがイケてないのだから、
写真掲載の申し出には気乗りせずに応じてきた。
最近は顔写真データをメールして、といわれることも多く、
女房が旅行先、ケータイで撮った僕の写真を
面倒だなあ、というように相手にしぶしぶ送る体たらくだった。

写真が当人に似る/似ない、というのは
ロラン・バルトが『明るい部屋』で
自分の母にたいして提起した問題だった。
母の死ののちバルトはその写真を整理していて、
結局どの写真も自分の母に似ていない
--自分の記憶の芯を刺激しない、と哀しむ。

で、例の有名なくだりがくる。
母がまだ自分を産む前の娘時代、温室で撮った写真、
しかもピントのぼけたそのたった一枚の写真だけが
いかなる逆説か、母の面影を完全に写していると
彼は驚嘆したのだった。
そこで浄化が訪れる。

バルトのこの感慨はわかる。
ある種の類型は、「実影」だけでは当人に似ないのだった。
「潜勢」をしめされてこそ、
当人だとおもえる写真があるということだろうが、
そういう者はたぶん「暗いひと」なのだろう。
僕の判断ではそうなる。
僕もたぶんこの人種に属しているはずだ。
杉本真維子なんかもそうなんじゃないか。

この『明るい部屋』のクライマックスのくだりは
今回、写真を撮ってくれた三村京子も知っている。
で、彼女がケータイで撮る僕の写真が
僕自身に似るためにはどうしたらいいか、
それを彼女は研究室で得々と喋りはじめたのだった。

一、肖像写真的なものを撮られるとき、
先生はまっすぐ前を見て、顎を引いてください、
とよくいわれるでしょうが、
先生の通常の水平視線は顎が若干あがっていて、
だから顎を引いてまっすぐ前を見ると
眼が三白眼になり、
人相が悪くなるはずです
〈よく見ているなあ〉

一、しかも先生が先生の顔に「なる」のは、
先生が喋り始めたときです。
ですから、これから撮る写真では何かを喋ってください。

なのでそのときは
向かいにある小池昌代さんの書棚にある本、
その書名を延々読みあげつづけ、
その刻々を三村さんはケータイの連続シャッターで
撮っていったのだった。

そうして撮れた写真をケータイ液晶画面で確認する。
たしかにそれは、画素の低さのなかで「僕に似ていた」。

こんな脱肖像写真的なものを
三省堂の担当者には送ったのだった。
ピンも甘いし、大使いできないものだし
「別の写真を」といわれるだろうと覚悟していたら
写真はあっさりと使われていた。
その担当者さんも、「あ、阿部が映っている」と
おもってくれたのだろう。

そういえば昔、『AV原論』を出したとき
著者インタビューが朝日新聞の書評欄に載って、
このときの僕の写真はインタビュアーの
その朝日新聞記者が撮った。

福間恵子さん〈福間健二の奥さん〉がその写真を話題にして
「見た見た、ビビって笑った」といっていたことがあった。

その写真は僕が熱弁をふるっている渦中の一コマという感じで
手が顔の前にヘンな指のかたちで突き出され、
なおかつ発声中の僕の口先が尖っていて、
しかも「天才的に」髪が渦巻いていた。
物書きというよりコンダクターに似ている。
恵子さんいわく、「阿部ちゃんにそっくりだった」。
女房もいっていた。「あんた、怪物っぽい」。

今回三村さんの撮った写真は、
ゲラを通して女房も見た。
写真がヘン、だという。
いかにも喋っている途中、というその写真には
僕と「そっくりの」鋭気や皮肉がたしかにありながら、
顔が大きい割りに肩幅が狭く、
何かが畸形めいていて、
それが「僕に似ている」というのが女房の言だった。
「三村さん、あんたらしい瞬間をよく掴んでいる」。

そう、その三村さんの写真は
今度はバルト『明るい部屋』中の
「プンクトゥム」の問題に突き刺さっていたのだった。

自分が一体ナンなのか、という自問は
この写真の一件で、さらに深度がました。

ついでのように女房はいう。
いずれ、名のある写真家に写真を撮ってもらって、
それで寺山修司のように
マスコミ配布用の定番写真を確保しなさい、と。

僕の今期の立教演習には
僕の大好きな魚返一真さんのお嬢さんがいて、
その魚返パパに撮ってもらいたいなあ、
とはおもっているのだけど。



近況はたいしたことない。

昨日試写で観た上映四時間の園子温の新作『愛のむきだし』が
もう圧倒的で圧倒的で。
キネ旬に長稿を書きたい、とメールしたが、
通らなかったら
いつもどおり図書新聞にアプローチ、かな。

古谷実『ヒメアノ~ル』のコミック刊行が開始。
第一巻、すげえ面白い。
『わにとかげぎす』で生じた不振の影も
これで完全に払われた、とおもう。続巻に期待。
 

2008年11月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

菊衆十句

 
菊衆と名告らんわれら草の旅



殺めの千犯して手より天に溶く



朝霧や鹿の気配ののちの金



絵師ふたり互みを描いて玄き冬



動かざる鯉よ定まる魔羅の寸



絶壁を花車がながれて処刑台



罅眼鏡悦悦と枯野枯れてゆく



しら髪に枯葉吊るして宝登のひと



岩だたみ川の区画といふは奇し



鳶高く天につくれり風の門
 

2008年11月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

体言止めを排す十句

 
秋日ふと指間の掻きの軽くなる



黄熱や昭和の舌を凩に



草を往き何の白線とどまらん



粥煮つつ厨に顔を失へり



外套の季となり息は磯に満つ



作句完了リセットをしてをみな撲つ



悪霊を率(ゐ)て花人形を野へ倒す



厩にて馬以前の苦が馬を喰ふ



魔像ひとつ像の魔となる誰そ彼に



萱草よ武尊に焼かるとただ思へ
 

2008年11月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

連詩A、二十三から三十まで

 
立教演習、連詩A班のその後。
僕の第三十篇は、
「いない」の語法で
稲川方人『聖-歌章』のエピグラフ詩を
おもわせるかもしれないが、
海埜今日子さんからいただいた
詩集の語法に負っているつもりです。



【脂のきいろいベーコン】
阿部嘉昭


犬のうずくまる橋は橋ではない
しょんべんの切なる匂いだろう
川端に柳の似合うのは無論だが
わたしも一身にふともも巻いて
ぺんぺん草の世情をたもとう
しかし頭蓋はどこなのだ

ベーコンの燻製臭が好きだから
生にて椅子をこらしめる
椅子を女にして
その悲鳴も四つ足にする
それだけ、それだけの一人獅子舞
きいろ いきろ きいろ

鳥の割れる空は空ではない
あれは六甲颪のえがくpie in the sky
指令:「チキン・パイを負え」
指令:「アリス・イン・パリスを追え」
わめきすぎた。目脂に両目縫われて
あたかも絵空事のブルドッグよだれ
性愛なんざも背後に貼りつく幻影で
きいろ いきろ きいろ





【π】  
伊藤浩介

自分で自分を愛していると
カラダが回転してしまう
円周率3.14...
ぼくの体はπしている

ベーコンの皿が
車軸になったとき
ポテトパイの
匂いを放つだろう
それも
僕のカラダが
πしているからに他ならない

回ることは
途切れない螺旋の時間である
まわれども まわれども
回転の終点は見えない
机上の地平線を
黒点から覗いたとき
初めて気付く収束の悲喜劇である

円周率3.14...
ぼくの体はπしている





【ウロボロス】
望月裕二郎


そして十一月の風は冷たくなって
サブリミナル効果をもたらすために
ウロボロスのイメージを
あらゆるメディアに潜り込ませることが
生業だった弟の趣味として
ギターを鳴らしながら「こっち」を流れると
さっきまで聴いていた曲のスネアドラムがずっと
頭から離れなくて悲しいなあって
云い始めたのは思い出が
その土地に集中しているからであり
この近所でアルバイトを始めた妹の
金勘定が楽しくてしょうがない時代を
「あっち」と言い習わせば
間をおいてやってくるパトカーの
回転灯がちびちびと廻り終えるその先で
昼食を摂るたび
「デニーズへようこそ」なんて
云われたくなかった街角に
スウィーツの香りを運びながら
十一月の風は冷たくなった





【クロス】
都野有美


頭の中で、ウリ坊のすこし滲んだ縞々を
指でなぞってみたらなんだか
ぐるりと股下からおなかに掛かった
その産毛がとまらないのを
追っていくと下からウリ坊の鼻に到ったところで
大熊さん家のイルミネーションがはらりと明滅した
霜降り前の点灯式
年の瀬という名の親イノシシが猛進する
いちょうが申し訳なさそうに
煮えたぎる高揚感の中
を、はらり、と一枚泳いだ
私たちは時間から流れてくるエキスを吸っている
大熊さんが電球のボタンを押して
気の早いジングルベルを流して
子どもがトナカイを飾り付けて
そういった力量をすべりこませた
月日のヘビィローテーションから
塩味をしぼるようになめる瞬間
ウリ坊をなぞるように
生き急いでいる





【革命のまえ】
水野 桂


革命のまえ
三拍子は禁止です
この商店街には
咳きこむ人の音楽
しか許されない
のを知ってか知らずか
私はここに引っ越してきました
素人という風
お隣の人におすそわけしました

巡り巡って
また空白が与えられました
この街に住む人は
ひたすらお辞儀をします
でもわたしときたら
一行埋めるだけで充分で
走る足を止め
親指から絞り出す
空間に広がったのは
目の奥に焼きついた
かつての火傷の痕だけなのです





【近視】
中村ふみ代


刻々と進むは近視
みかんの皮をむいたら
肌が干からびてしまったが
炊飯器も電子レンジも冷蔵庫も
電子音だけで聞き取れるようになった
私は近視
青葉より紅葉は見えづらいのでうっかり
ひかれてしまいました
自転車を引っ張り出して
けがはありませんか
ブーツだから転んではいません
そのうっかりがあと少しずれていたら
と思うとたまらず
自分の指が10本あるか確かめた
10本目をかぞえると
ほっとして
やっぱり目が見えづらかった
なぜなら近視
温かくて見えなくなる
私は近視





【春かもしれない】
三角みづ紀


一ミリの予断もゆるさない
明確な不明確さを
「僕の眼鏡には曇りがない」

あくむをみました
けつえきのささいなしっぱいにより
いもうとがわらって
おかあさんが
かたことで
ありが とうあり がとう

れんこして

僕は父と墓参りに行きます午前
隣人とはわかちあいたくなく
僕は境い目の壁を叩きます午後

しあわせだしあわせだと
言葉のみの家庭
満ちあふれる
おかあさんは何処の国の方ですか

「僕の描く線にはブレがない」

めがさめない





【母線】
大中真慶


てゆうかありがとう
もう全部の指をからめて
壁のなかで待っているよ

でもどのおかあさんですか
おかあさんが満開になってる
いつもいつもいくつもの
あなたのと僕のとみんなのと
(三村さんのおかあさんには会った)

樹のあぶらを煮て茶を回した
ついでに灰汁から煙をつみ
ゆっくりと宇宙をつくる
振りむけ、いない、いない、どこだ
そんな女はいない

まずはリズムからつくる、こっそり
おかあさん座も並べてしまえる
僕だって原子電車かもしれない

でもおかあさんとの恋はやばい
(ていうかやっぱえっちでしょ)
おかあさん、春だよ
石を吸って立ってる





【いない、】
阿部嘉昭


女とはいないものだ
いない秋にいない空にいない
かわりに裸木があって
かわりにある裸木にもいない
道のかたち、枯葉のじゅうたん

いないところに風が吹き
かつてそこに蚊柱があった
とおもうがもう蚊柱もいない
ちいさなうなりもいない
いない蜂がいないひかりに舞って
いない女のおもかげ
なにも吸えない蜜にも
いない女がいない

てゆうかいるいる
意味のいるねす
のんさんすのさんす
いない線がめのまえを
いるようにいて意味のいるねす
いないがやはりいるいるものだ
道のかたち、枯葉のじゅうたん
 

2008年11月13日 現代詩 トラックバック(0) コメント(2)

青・狂で十句

 
真青にて面たひらなりあぶら境



陰嚢の青泳がせて湯に笑ふ



青すぎる葱のそよぎよわれ千人



青革命をとめ同士が火を移す



花の青よるにまぎれてただの青



詩狂われ巣箱の脇に瑠璃を待つ



滝となるまでも背後位にて狂ふ



一咳もて判別狂ふ身の繊さ



一生(ひとよ)狂はば沼啖ふまで鯰たれ



ものものしく摂理散る日の狂の映え





このあいだの日曜日の「未定」句会に出した句。
兼題が「青」「狂」だった。
うち「一生狂はば」が最高点句の栄誉に浴したらしい
(「らしい」というのは、原稿準備に追われ
やむなく当日の句会を欠席したため)。

「未定」句会というか句会はいつも
選ばれた最高点句が凡庸、という逆説をもつ。
「一生狂はば」はつくったときから
「やりすぎ」という自戒があって、やっぱり面映い。
「花の青」のような単純句のほうが
句魂も高い、という気がするのだが。



「現代詩手帖」の原稿執筆は、昼過ぎに無事終了。
三省堂の詩の出版物での拙稿につづき、
けっきょくネット詩中心の原稿になってしまった。
マイミクでは大蔵さん、廿楽さん、宏輔さん、高塚さん、
なにぬねの?マイフレンドでは近藤弘文さんの詩を引用。
その他、中島悦子さんの『マッチ売りの偽書』から。

すべて絶賛の文脈での引用なので、
引用も諒、としていただければ

字数が足りなくて言及できない詩集が多かった。
「ユリイカ」の原稿は、
結果的にはそのフォローにもなっている。
なので、ふたつ併せて--あるいはできれば
今度の「未定」「詩は死んだのか?」特集の拙稿も
さらに併せて読んでいただければ。

紀要に加え「ユリイカ」「詩手帖」「未定」で
合計120枚以上を書いたとおもう。

怒涛の〆切連続がついに終わり
(あとは当面、東京新聞での書評をのこすのみ)、
夜というか夕方には鳥鍋を。
しこたま呑んで、即座に寝て、ついさっき起きた。

ずっと犬のように、コマ切れに寝ているなあ
 

2008年11月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

連句C、第二十二まで

 
しまひまでそぞろ往く日も藁の王   阿部嘉昭



 遥かに見ゆる曲がり路の秋     伊藤浩介



黄金にはなれぬと落つる金木犀    石井洋平



舞を踊りて服に染み付く      内堀亮人



一筋の呻きにも似た周波数      伊藤浩介



ラジオ修理も夏の月下に      阿部嘉昭



目が覚めて周囲見渡す一匹の蝉    内堀亮人



蟻に食まれむ末はわが身よ     石井洋平



半玉の請け先に梅らんまんと     阿部嘉昭



そよかに流る冬の残り香      伊藤浩介



手荷物の息を潜めし風鈴の      石井洋平



夏の懸想に我が身を削る     内堀亮人



月恋し曇天をゆく鐘の哀       伊藤浩介



見えなくなりぬ馬車の背中も    阿部嘉昭



種をまき芽吹く陽気に走り寄り    石井洋平



キャベツおもはす脳の数々     伊藤浩介



たつぷりと花も重たき頭山      内堀亮人



 寄席の帰りを茶漬けで流す     石井洋平



粥腹に力を込めて西瓜剪る      阿部嘉昭



 研がんとすれば砥石に黴よ     内堀亮人



五月雨の露滴りし原始の蒼      伊藤浩介



 田中の線の縦を横に見       阿部嘉昭





立教の「連詩連句演習」、
僕の参加しているC班の連句を初披露します。
スペースがファジーで
字下げ等がガタガタなのはご勘弁を。

修辞のよわい句もあるが、
一応、同季連続数、月の座・花の座など
歌仙の面倒な約束事が遵守されている。

三角みづ紀、三村京子、
望月裕二郎、松岡美希、都野有美などが参加している
A班、B班の連句は
まだ長句短句が「詩」になっていて俳味がなく、
付け筋も多く季節抒情に負っていて、
連句特有の物語性、意趣返しなどの華やぎを欠く。
あるいは付けに連句特有の圧縮感がなく、
平板にきれいに流れてしまっている。
こちらは早く巻を収めて次にゆきたいのだけども
う~ん、授業日数が足りないかなあ。

C班の連句は今朝見直して、
語句重複を僕の責任で若干整理。
内堀第四「路」を「服」に、
伊藤第十六「に似たる」を「おもはす」に代えた。



森川雅美さんとマイミク関係を復活し、
彼の日記をさかのぼって
松下育男さんの「初心者のための詩の書き方」
についての談義をいま見た。
何か参加者の問題設定がぼけていると僕はおもった。

松下さんの詩は相変わらず柔らかでしなやかなのだけど、
彼の最良の詩篇とちがい
たぶん「リズム」がすごく軟弱で、
違和感はそこにしかない。
あの「省略」の凄みもどこに行ったのだろう。

それに、詩としてしめされた詩作作法についても
「逆にもいえること」がたえず封殺されていて、
僕は若干だけども「独善」を感じた。

最初は怖いことを書くなあと驚嘆したけれども、
何か廿楽さんが1から10までの全体を徐々にアップするうち
気持が冷えていったのも確かだ。

こうした啓蒙はいま必要なのだろうか。
「無手勝」の豊穣のほうを僕は睨んでいる。

詩は当然いろいろあっていいのだし、
難解ツッパリ詩もまだ存続してもいいのだけど、
波及力のある詩は何か、とはいつも考える。

修辞が自然な作為によっている、
さらにはリズムが底流を走ることによって、
言葉の個々の吸着に、侵犯というべきものが起こっている
--これらの点がないと、
僕には再読の希求が詩に起こらない。
あこがれているのは詩作者の身体なのだった。

松下「初心者のための詩の書き方」は、
詩が「意味」にちかづきすぎているとおもう。
「調べ」と「非知」が拮抗するための
別の何かが僕にはほしい。

森川さんの日記に書き込んだみなさんにいいたいのだけど
もっとネットにアップされた
身近な詩のほうが擁護されないものだろうか。

松下さんの「初心者のための」が民主的でないのと同様、
書き込まれた意見の数々が民主的でないようにおもう。
森川さんの違和感は本当はそういうところにあるのでは?



これから「詩手帖」の原稿執筆です。
いま書いたことから予感されたかもしれないが
僕の「展望」はほかのひととちがったものになるだろう
 

2008年11月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

連詩B、二十五から三十四まで

 
【空のよろめき】
阿部嘉昭


ぼくらはすすむ
樹のうろを自在にとおり
一樹を虹にするまで
虫の複眼へしずかに降りて
屍を天のしずくにするまで

「橋の向うに老い先がある」
そういうものを杖でつつく
地虫が焔のように湧いて
悪縁が一斉の朝となる
渡らせすぎている橋、
その湿地回復のかたわらで
あらゆる先行も閃光と感じた

おとといが誕生日、だね
つごう三十の輪っかで
「悲哀は微笑する」を
もう金色に隠せるようにもなって
血流、あるときのある空は
飛行機雲にまったく切られてゆく
(そんなふうに君に先んじていた、

万朶のよろめき、空に。





【1+1は2にならない】
内堀亮人


直線を引いてみる
出来るだけ真っ直ぐの線
これによって
この世界を分けてみる
そうして左目と左耳
右目と右耳
別々のものとなっていく

こうやって出来たもの
足してみる
けれどもどうやっても
元には戻らない
1+1は2にならない

ある人は言う
円が書けなくなったら
もうきっと
絵は書けないという
けれども僕は
生まれながらにして
ただの直線しか
書けない





【つくばエクスプレスで幾星霜】
石井洋平


図案を提出
何度も提出
先生はまだ出さなきゃ駄目

よりどりみどりのいろどりをまえに
おうむのけいしきをまねるどれいたちの
ねいろは曲線をひたむきにただす彼らのように綺麗
彼らの綺麗をしることができるのは
無機質ながらすの管とゴムチューブの
ような生まれながら声をいうものを持ち合わせていない
お前たちのように
濁れども濁れども
透明なままでありつづける性質のどれい

論文を発表
バッシングの嵐
先生はまだ続けなきゃ駄目

空と人間を等価に
研究対象としてしまったことの
罪の意識におびえる
おびえることすらわすれてしまったせんせい
ぼくらのせんせい





【シナプス回路は環状線】
春木晶子


どれどれ見せてごらんよ
この濁った水の中には
いったい幾つの罰が眠っているのか
証明せよ

証明のためには
二項定理がふさわしいだろうか
さいんこさいんたんじぇんと
なぜグラフが上下対称に
弧線を描くのか理解できません

この導線を
幾つの夢が駆けめぐったか
おまえは何に震えているのか
夢魔苛みし
学童の
頭の中は常に公定式を否定している

理屈では説明できません
有効な式を導き出せません、だって
そもそもしきってなんですか

論理的な回答にて応答せよ
白紙回答は無効です





【ほとり】
松岡美希


目前の行動式に
代入する気安さを
ベクトルで
つつく

いけの味
と間違える
水面
底のほうで
吊るす目に
たまったにごり
振動で
砂丘が沸いた
渇く
肌の色は
合戦の模様しだいで
潤むことも
あって、
温泉

冬の池





【汲水】
佐々木綾


池の水を
呑み干したところで
わからない 溶けたもの 
濁ったんじゃなくて
最初から
色がこんなだったんじゃ
だって濾紙にのこらない

ふっとうしたら気化して乾いちゃいますよ
ゆうてんをこえれば液体ができるから大丈夫ですよ

うるおいを
止めたくてゼラチンをまぜた
(寒天は冷たいから却下)

つるべおとしをくりかえせど
波うたずゆれる表面
かわけばのこるだろうか
結晶
ではない
澱り、色つけたものだ
夏になればきっと

沼になれ





【飽き足らずに呑み耽る友人を尻目に】
輿水英里


飽き足らずに呑み耽る
友人を尻目に
温いベッドを所望している
ゼラチンみたく
でろんでろんな脳みそで
一日の終わり

濁った空気を吸い込んで
浄化してから吐き出す
肺はタールと絶望で真っ黒けなのだ
きっと
人間ドックを受けたら
みんな病気かみんな健康だ
みんないかれてるか私がいかれてるか だ

悲劇的なことに
私もあなたも
音楽や小説やアートや漫画やらと
恋人になれるわけがなくて
せいぜい友達止まり
ロックに生きるかポップに生きるか
いつも選択を迫られている





【11月】
三村京子


きらきらしながら
団地の窓辺で
秋の日が暮れるのをみている
熱いゼラチン液を注ぐ
片手鍋
せかいが固まるかもしれない
瞬間というもの

それは、あなたの前で
停まってしまった
小卓に向かいあう
にんげん
小菊も溶けている
何も知らない両足で走って
帰り道、まっ黒に沈んだ夜にいかれた

音の河に包まれて
私があるように
あなたをみつけた

拾い上げた楠葉を揉む
星を摘み取るしぐさで
おしくらまんじゅう





【茎】
井澤丈敏


ちぎれる音
ぎょっとして
振り返ると
色のない
茎が
揺れていた
向かいあう
わたしたちの
重力を
かき消すためか
いつまでも
光合成を
続けるためか
しあわせそうに走る
あなたの横で
わたしは
口笛を拭きながら
ちぎれた
茎のあとを
追った





【実と実】
阿部嘉昭


もういちど星期がくるよ
万年のむこうかもしれないが
光によって合成される澱粉には
宮殿の脂粉にもました
華やぎすら入り混じって
ギリシャではイルカを追う百人の少年に
その樹々は揺れながら変わるよ

梨の実の 糖分と水分
はにかみがそのはざまにあった
古人は実を掌上にかたむけては
陽が照ったり翳ったりする
なにごとかでただ白い畑に
いっときを思案しつくした
たぶんおもいでのようなものを
いまや空芯になった
蒼いひとみでも汲もうとして

林檎の実のなかなら
偏西風に押され白鳥が翔んでいる
人の口先にはそうして
吸えないものを吸う永遠もある





連詩B班はいよいよ終盤に近づいてきた。
このくだりは
すごくいい感じでつながっている気がする。
あとは内堀君と石井君のふたりが付けるだけ。
「祝言」を意識してくれ、とリクエストした。
ふたりの付けたこの一巻は完成し次第、
「阿部嘉昭ファンサイト」のコラボ欄にアップします。



今日の午前は詩手帖「展望」のための詩集再読。
昼寝と風呂ののち明日の授業準備へと移った。
三限は手塚『火の鳥・復活篇』分析、
四限は川端『片腕』の構造分析。
『復活篇』は『鉄腕アトム・史上最強のロボット』
『ネオ・ファウスト』とともに
浦沢『Monster』『PLUTO』へつなぐ鍵だとおもっています。

そんなとき前走の井澤くんから詩篇がメーリスに舞い込んで
いま、そそくさとつくったのでした。
 

2008年11月09日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

買おうとしている手袋

 
【買おうとしている手袋】


生活のセーターを
胸にあるまま胸に戻してゆく
あらゆる棒を
ほどきのもとと捉えて
今日ゆく脚の自らをまぶしむ
わたしは片々たる灰色だが
枯れ葉の道は渦巻いて
傍らの家々に 窓々に
濡れない海をはこんだ
そんなふうに収まる蟄居がある
多くを往路のおわりに視る

生活。十一月はせりあがり
温みに霜柱を幻覚する
地中から最後の舟が
次つぎ出発しようとして
冷たい火事のただなかにもいる
内側に折れる視線というか
つましい眼底の保持感覚で
第一の生活がつくられるなら
一人であるための漫歩は
木立の切れたあたりで
「生活の中締め」
地中と天上がふきあげ状に通じて
何ごとか後姿の
エロスのようなものも舞うから
晴れわたった透明に
血のにじむ流転を知ってしまう

伸ばさない。生活に準じて
一介の無名となる、手の収め方
買おうとしている手袋は
拳にあるこの虫の息を
ひそかに待っているだろう
ともるや




未明に起きて、また詩集をひもといていた。
水島英己『楽府』への畏怖、高まる。
渡辺玄英『けるけるとケータイが鳴く』は
改行リズムがとても良く、
終盤には目覚しい詩篇も集中していた。

そうした合間に、上の詩篇を書いた。
 

2008年11月09日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ひよめきの乱

 
【ひよめきの乱】


河原では斜行がおこなわれた
そのころ流行りの電飾の山車が出て
みな右肩をつんつん水にあてて
静電気を発しようとするものだから
少女のご神体はかしぎ揺れ 蛸めいて
凱歌は目の白黒のうち混乱として成った
すこしは尿酸に尿も混じったかしれない
凧が揚がり 褌はいつしかたなびき流れ
逆恨みを撫でるもうひとつの河ともなり
踏ん張る漢たちの下半身が見事に消える
約束の綱になった、と呼んだひとがいた
気配が伸びあがって山車を運んでいたのだ
岩のうえ躑躅で名高い西岸寺が
海を瞰下ろす風の門を開けっ放して
山茶花をだらしなく汲んでいたのが証
長さに代わる冬支度の詩茶すらご破算にして
裏庭として祭の漢たちはやがて一帯をともす
何の燭か 一過に魂まで涼しく灼いて
ほろびるとさかえるのすきまにしゃがみとおす
眼で眼を愛でて芽出の頃を眼吹いても木枯らし
天心薄日に釘刺した万客の瞠目が泣いてゆく
ひよめきの乱はこの小人段階でつづき
そうして河原では遮光がおこなわれた




今日はずっと詩集チェック
合間に上の詩を、ふと書いてしまった
 

2008年11月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

今年の女性詩

 
前の日記で
最近読んだ詩集は相互に似ていると書いたけれども、
日記をアップしてから読んだ女性詩集が
どれも傑作ぞろいだった。

●奥田春美『かめれおんの時間』
女性的感覚の繊細さがひかる。
仏教的な全体把握もある。
修辞の無駄のなさがそのまま改行にも結びついて、
詩篇の閉じ方、その鮮やかさにもうっとりする。

●斎藤恵子『無月となのはな』も
見事に修辞の無駄がなかった。
緊密な組成に向けるべく言葉の厳格な減算がありながら、
なぜこれほど見事にイメージが顕つのだろうとおもう。
詩行にストーリー性もあるのだが、散文傾斜はゼロ。
詩魂が駘蕩かつ凛冽としていて、
短歌の葛原妙子の眷属ではないかとさえおもった。
このひとの詩集は、前のものも読まなくては。

●大御所・中本道代『花と死王』は
自然描写の言葉と観念語が錯綜しながら、
ときたまヴィジョンの恐ろしい爆発がある。
咀嚼しながら読み進んでゆくたびに
そんな経験をしいられて、これまた陶然としてしまう。
詩が若い。僕は中本道代を
新川和江の流れのひととただ考えていたのだけど、
新川的「認識の大輪」のかわりに
硬派な内攻性があって、驚愕感が全然ちがう。



最近の怒涛の詩集読みのなかでは、
ちょと前に読んだ女性詩集にも忘れられないものがあった。

●中島悦子『マッチ売りの偽書』。
アヴァン・ポップ。
断章を散らすような詩の形式に発見がある。
声とリズムとユーモアが抜群で、
このひとの詩は、僕の書きたいものと方向が似ている。

●浜江順子『飛行する沈黙』。
凶暴。資質的に杉本真維子とちかいものも感じるが、
「収縮」にむかう杉本にたいし何かもっと散乱的だ。
言葉の洪水に向かうところを差しとどめる抑制が凶暴ともいえる。
大好きな個性。

●倉田比羽子『種まく人の譬えのある風景』。
一行の息の長さから、
稲川方人『聖-歌章』と対をなすという世評も出るだろうが、
僕はこちらのほうがずっと好き。
遍歴、黙示、母、歴史、祈祷といったあらゆるものが
複雑な長文のなかに渾然と溶け合いながら、
女性詩トータルの転轍が図られてゆく。
重量級。いままであげた詩集とは立脚がちがう。
今年度回顧はこの詩集を中心に
語られなければならないのではないか。



そう、「展望」を書く準備として大量の詩集を読むうち
今年度は女性詩がめざましかった、という
おもいがけない感想がもたげてきたのだった。
ほかに小池昌代『ババ、バサラ、サラバ』、
柴田千晶『セラフィタ氏』、
三角みづ紀『錯覚しなければ』などもあるし。。。

う~ん、詩手帖の「展望」、どう書こうかなあ
 

2008年11月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

中坊の頃に聴いていた音楽

 
【中坊の頃に聴いていた音楽】


ひと皿ぶんの音楽が
部屋の中空を舞う
菌糸にちかいものを耳に汲んで
分け入った足は蔦で停まる
いずれを入れ子にして
時間の模様がにじみだすと
盤の実体、声の実体をかんがえる
かなしさが照りあって
この耳とあの耳にいま差異がない
そんなふうに
音楽の地上は形成される
シルヴァーフィドル
いいじゃないか
翅を鳴らす唄声も濡れて
自慰の愉楽には演奏をかさねる
あなたは百音ぶんの音符
かさなったり散ったりもする
ならばビッグバンドが開陳され
一箇月の百皿が眼路にうかぶだろう
蕪はあるものの茸料理の饗宴
バターが照りだして
雪のような菌の麗しさもある
裏門に展かれているのは
陽に透いている東洋か西洋か
いずれも酔う、陽気な菌糸に酔う
うた腹の容器となるだろう
音楽の本体は裸身の衣擦れ
(つまり無い (黄身も。
ふわふわは卵殻のなか




「ユリイカ」の原稿は無事完成し、
「世界は一人の女に集約される」とタイトルした。
固有名詞は、途中まででいうと、
ネルヴァル→プルースト→三角みづ紀→佐藤雄一→
伊藤比呂美→小池昌代→倉田比羽子→川上弘美
とすすんでいった(あ、吉田喜重もあった)。
後も斎藤環、信田さよ子、香山リカなどいろいろ。
最後に大島弓子への讃美で幕をとじた。
メールののち山本編集長には
特集の根幹原稿、力作、と褒められた。

その後、「詩手帖・年鑑」の「展望」執筆モードへと
急いで自分を切り替える。

ここ数日はもう何冊の詩集を読んだかわからない。
薄井灌『干/潟へ』、過激に美的だった。
高塚都市魚『厩』(これは個人詩誌として郵送されている)、
これまた過激に美的だった。
水島英己『楽府』、気概と現実狙撃力に襟を正した。
高貝弘也『子葉声韻』、彼の詩集のなかで
もっとも愛らしいかそけさを感じた。
(とりあえずは単純な感想でごめんなさい)

ふだんの付き合いからだけでない。
思潮社・亀岡さんが僕のリクエストに応じてくれ
大量の未読詩集を送ってくれたほか、
どうも「詩手帖」の次号目次が契機になっているのか
(というのが小池昌代さんの意見)、
一日一冊のペースで、見知らぬ女性詩人からも詩集が届く。
女性はたくましい力をもっている。

ただ最近読んだものはその語調・内容がどれも似ていた。

ひとの詩を読むと、
どこかで自分自身のバランスがほしくなって、
忙しいのについ、上の詩を書いてしまった。
 

2008年11月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

笠間

 
【笠間】

手許のない疲れに透いて
眼路へ人柱がならぶ
昨日が最果てだったとしても
今日の氷室、この碧
斬るようにバイクを往かせ
天からの滑落も演じる
浄愛は過去とちがうこころ
芒の汀、迫りくる牙に似て
視力を失くした百眼には
憩いにつながる二度がない
うすらいの日々を擦られる
出会いはさまざまに受信され
北関東メモリーモーテルでは
見知った祈りも崩れだす
ロードサイド、土色の退屈
しずかな雲段が姿を生じ
渇いた風にはひらがなとなる
斬るようにバイクは往かせ
ゆふづつ点のひかる泪へと
流れる身もただ刺してゆく
 

2008年11月05日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

対岸十句

 
対岸は骨将千騎塵ひかる



対岸やデデ虫の冷え角の塔



対岸に芒ながれて少し寄る



対岸は韃靼産の思想満つ



超えそむるとき対岸が血と消ゆる



木炭めく魔羅もて樺としばし枕(ま)く



管物(くだもの)は線霊にして火に通ず



肉濁らぬ厚物にいま薄日あれ



笠間すぎ菊人形の嘆き曳く



鬼門へと出没しては鬼となる




昨日は女房と、原稿準備の煮詰まりを防ぐべく
袋田の滝~笠間菊祭りのはとバスツアー。
菊祭りは「日本の奇妙さ」の集約に似て、
ここで味わった霊的な鳥肌は一生蘇る気もする。

ちなみに「厚物」は菊を
首の長い肉厚の大輪の花として鉢に仕立てるもので
これは池端俊策の傑作映画『あつもの』、
およびその原作・中山義秀『厚物咲』で予備知識があったが、
線香花火の放射的な爆発を凍結したような「管物」は
僕にとっては初見参だった。微風に揺れる。
東洋的な霊性の薄気味悪さはこっちが上か。

(厚物は「羹」の語呂合わせから
管物も「くだもの」のそれから
生じたのではないかとおもった)

「菊人形」は日本人形が満身に小さな菊の花を
着物代わりにまとっているという代物。
植物-人間幻想といえば西洋的にも聴えるだろうが、
アルチンボルド的なマニエリスムを一旦感じても
まったく「解決」とは無縁な方向に妍を競い、
この無為がやっぱり東洋的だとおもう。
そう、「笑えない幽黙」、ということだ
(アルチンボルドなら笑える)。

いずれにせよこれらに接し、
自分の美学がずたずたに裂かれた。
日本、すげえ。
みなさんも笠間の菊祭り、一度ご体験あれ。



「ユリイカ」母娘特集のネタの仕込みはほぼ完了。
けふさん、naruさん、stさん、その他立教学生ら、
ネタのご教示をいただいたかたがたには感謝しきりです。
原稿は本日を過ぎた未明から書く。
母娘の身体宿命的な相互反射性から
時間の非知性へと伸びてゆく女性的静寂が僕のテーマだな。
そういう作品を数珠繋ぎにできればいいのだけど。

あ、作句中最後のものは「なにぬねの」書き込み欄で
解酲子さんとのやりとりから生じたものです
 

2008年11月04日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)