ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

禁煙日記・もっと

 
禁煙は順調につづいている。一箇月を超えた。
際限なく進行するとおもわれた禁煙肥満もストップした。
現在はベスト体重の上4キロを
±1キロの幅で前後している。

要因は新学期が近づいて出歩く用事がふえ
そこで早歩き、階段のぼりを励行しだしたことと、
昼めしのバカ喰いをやめたこと。
夜の食事量も少し減らしてみた。
するとあっさり体重が落ちた。
女房は、意外に自制心がつよいと僕を感心している。

禁煙の副作用はいろいろある。
会うひとごとに「顔色がよくなった」「白くなった」といわれる。
体重増でも呼吸が深くなり、脂肪燃焼の比率が高まって
やや筋肉質になった気もする。
あるいは筋肉質になったのは精神かもしれないが。
体重増を牽引しているのは
もしかすると筋肉かもしれない。
そう、躯をうごかすのがラクなのだ。

それと慢性下痢の僕にしては
快便比率が高まってもきた。
この点は前の禁煙外来のときにも自己申告した。
お医者は、喫煙が下痢に結びついていた可能性、
ありますよ、といってもいたけど。
ラーメンをたべて即座に便意、
ということさえなくなってきた。

まあともあれ、禁煙肥満予防を兼ねて
このごろはよく女房と週末を歩いている。
最近のパターンは都バスの一日乗車券を購入し、
しかもその行路の途中ふんだんに
ウォーキングを加える、というもの。

もっと春めいて暖かければいいとおもう。
ソメイヨシノは最初の開花があっても
花冷えつづきで満開にいたらない。
一部咲きの枝に小さな葉まで芽吹いたり、
一部咲きの小花なのに花芯がもう深紅に染まったりと
ちょっと異変を演じている。
今年、天変地異がないといいのだけど。

ためしに一昨日=土曜日の行程を書いてみようか。
女房のケータイ内在の万歩計によると
家を出て帰ってくるまでが三万四千歩のコース。
「ちい散歩」が毎回四千歩くらいだから
すさまじい、といえるかもしれない。

渋谷駅→(バス)→慶応大学(三田)→(バス)→目黒郵便局前
→(以下徒歩)碑文谷桜並木→サレジオ教会→立会川緑道→
武蔵小山商店街(「三ツ谷製麺」のつけ麺で昼食)→
中延商店街→戸越銀座→大井町→
(バス)→蒲田(「ぼっけもん」=鹿児島地鶏料理で晩めし)
→京浜蒲田駅→品川→(バス)→目黒→帰宅

通過した区は渋谷区、目黒区、港区、
目黒区、品川区、大田区など。

新宿をターミナルにする市区、
たとえば世田谷、杉並、武蔵野の街路に
一定のイメージがあるのにたいし、
京浜東北線に沿う区にも共通点がある。
基本的に目黒、品川、大田各区の街路が似ているのだ。
道路は直線的で、家区分はわりに細かく、
旧い町工場も点在している、という感じ。

碑文谷桜並木と立会川緑道は桜の名所と知られていて、
僕ら以外にも気の早い訪問者(みな中年以上のカップル)が
ちらほらいたが、残念ながら
上述のように桜は一部咲きだった。
曇天や北風と相俟って、すごく寒々しかったけれども、
緑道では桜の幹を間近に見ることができた。
老木が並ぶゆえだろうか、
ほとんどの樹に桜の花がひこばえている。
その姿は可憐で、ケータイ写真にいくつか収めた
(その途中にあったサレジオ教会は
たしか三浦友和と山口百恵が結婚式を挙げた場所のはず)。

行程全体でいうと、品川区の二大商店街、
武蔵小山(最大のアーケード商店街は新小岩に似ている)と
戸越銀座(こちらは長さと庶民性が砂町に似ている)を行路に納め、
しかも池上を通って、ディープ蒲田まで踏破、という贅沢ぶりだ。

武蔵小山の商店街はずれでは
往年の三軒茶屋・らま舎をも上回る
カルト古本屋・九曜書房を発見。
宮西計三の旧いマンガ、大野一雄の豪華本、
中村宏の画集などを一挙買いしてしまった。
何しろ客が牛腸茂雄『Self and Others』の紙焼きのセットを
箱から出して確かめているんだから(幾らするんだろう?)。

試しに坐る店主の後ろにあった
森山大道『写真よさようなら』について
(後学のため)お幾らですか? と訊いてみた。
「45万円」の由。
たしか20年ほど前、上述・らま舎では
同じ本が15万円だったと記憶している。
森山さん、このあいだの特番効果もあるのか
人気もうなぎのぼりだなあ。

蒲田では本当は餃子を狙っていたのだが、
東急線ガード下のディープな飲み屋街、
その妖しい誘惑にとっつかまる。
最初、からあげが売りの店を狙ったのだけど
店主が六時を過ぎても未出勤。
ぼっけもんで食べ終わってから
もう一度その店の店内をのれん越しに覗くと
今度は馴染みらしい老男女で賑わっていた。
以前、心底感動した新潟のからあげ飲み屋と同じ匂いがする。
次に蒲田に来たときには要チェックだな。

晩食後、寒いなか京急蒲田まで歩いて、
その駅近くのアーケイド商店街で
たぶん地元人気No.1とおぼしい餃子屋を見つける。
「金春別館」。絶対旨いとおもう(もう常識かもしれない)。
誰か、京急線文化のひとか横浜のひと、
今度、ご一緒しませんか?

--さて禁煙日記に話をもどす。
喫煙イメージはたまに起こるが、
飲み屋にいても、同席者が喫煙者でなければ
それをあっさりと打っ棄ることができるようになった。
これで日常生活での心配が消えた。
べつにおしゃぶりなんて必要なし。
イメージが現れても深呼吸一回で解消に足りる。

こないだは三村さん、大中くんと
思い出の早稲田のもつ焼き屋さんでしこたま飲み食いしても
別に喫煙イメージとは闘ったという感触ものこらなかった。
落ち着く相手と一緒だととくに良いみたいだ。

精神的に最も変わったのが
コンビニ灰皿前の喫煙者、
あるいは歩行喫煙者らに向ける自身の目に
変質が加わったという点だろう。

前回もちらりと書いたが
これが哲学的考察に値するとおもう。
自分も一箇月ほど前まではその一員だったのに
彼らがともかく敗残者、虫けら、汚辱者といった
負性にまみれてみえるのは一体なぜか。
それは自分がその領域から脱出しえたという優越感の
裏返しにすぎないのだろうか。

いずれにせよ、喫煙者にたいして
現在の僕は感性的にすごく不寛容なのだった。
煙たがって敵意の眼を向ける、というのではない。
異様に憐憫を感じ、そうして憐憫を感じた自分を憎む、
というのにむしろ近い。

ひとつは美学上の変化だとおもう。
首都圏JRのホームでも今度全面禁煙になる、
と今朝のニュースにもあったが、
たとえばその喫煙所はホーム端に置かれている。
入構案内が出れば煙草を消し、
わざわざ乗車に急いでおもむかなければならない
不便な場所にそれはあり、
彼らが一服のために電車一台を乗り過ごす姿も
よく車窓から見かけることになる。

喫煙者から美学を奪うために
ホームの端に喫煙所を設けたことは正解だった
(田舎のJRではホームの真ん中に
喫煙所があることもままあるけど)。
つまり彼らは人間性の「辺境」にいる、という
場所分断が政治的になされたのだった。
そうされると、彼らから一挙に光が奪われる。

とうぜん灰皿が不便な場所にあれば喫煙者も
「急いでいるために」ホーム喫煙を断念するひとと
「それでも」ホーム喫煙を挙行するひとにわかれる。
その「それでも」は傍目からの観察でも感じられる。
それは即座に「妄執」といった語に転化される。
自己制御ができない愚者というより
妄執の凄さによって彼らは風景内に有徴化してゆく。

もともと喫煙者が漸減しているうえに
ホームでまで吸わなくてもいいという喫煙者も多いはずだから
ホーム喫煙の「彼ら」はすでに少数者の地位に置かれる。
「少数派」への風当たりのきつさは
日本的風土の閉鎖性によっても明らかだが、
時代精神に濃厚にネオリベが混ざってきてさらに強化された。

このとき煙草を吸う仕種は
集団的ではなく、個別のそれの集積へと変化する。
ホーム喫煙所の人影はもう重ならないのだ。
そしてその仕種を虚心にみると、
それは口唇愛を人前に晒す恥知らずなものとみえる。
惑溺を導く嗜好のなかで
とりわけみすぼらしく見えるのが
口を尖らして小さな棒状のものを
鴉のように「嘴に咥えている」喫煙なのではないか。

喫煙者は煙草を指で挟む体感もほしいから
手袋などはしない。
冬ならば手許の冷たさに耐えて喫煙をする。
その「痩せ我慢」もこちらに伝わってくるが
(とくに一箇月前までは僕は喫煙者の側にいたのだ)、
この「痩せ我慢」の姿は
予想的には彼らの不平傾斜性へとさらに短絡してしまう。
そのように擬制されてしまう。

そうした辺境・不平の場所に彼らを置いてみると
(じっさいはその置き換えが恣意にすぎないのに注意)、
彼らの社会的階層性が何ランクも下がってみえ、
服装にしろみすぼらしく見えるから不思議だ。
これが「場所分断」の政治的効果だといいたいのだった。

喫煙者が闘わなければならないのは
嫌煙ファシズムにたいしてでは本当はなかった。
この「場所分断の政治的効果」にたいしてだった。

そう、喫煙者は嫌煙の横溢には敏感だった。
だから分煙提案にはあっさりと武装解除する。
しめされた喫煙場所が
電車一台を乗り過ごすほどの不便な場所であろうと
食事の円滑なリズムを壊すものであろうと
分煙提案には「乞食のように」情愛の存在を感じ
彼らはいそいそと提案された喫煙場所に赴いてしまう。

そうしてそのような場所に囲いこまれて、
彼らは檻のなかの動物のように観察される羽目にもなる。
その観察に蔑視がふくまれていると感じるのは
嫌煙者よりもじつはたとえばホーム喫煙をする喫煙者自身のほうが
度合いがつよいはずなのだ。
「卑屈」が植えられる。

だから僕のように喫煙を経験していて、
禁煙に踏み切った者の喫煙者への視線のほうが
精神事情を把握しきって
「内在的に」冷たくなるのだとおもう。

これが実は巧妙な精神的加圧だった。
なぜ分煙としてはじまった喫煙者対策が
一挙に嫌煙・全面禁煙へと雪崩れうってゆくかといえば
たぶん「プアの等質性確保」のためだろうが、
実際は全面禁煙の一挙の強制よりも
分煙提案のほうに効果があったのだろう。

喫煙者は囲い込まれないところで
喫煙の歓びを味わう必要があった。
喫煙はもともと自由に属しており、
それを行動の自由と兼ね合わせることはできないか。
となって、歩行喫煙だけが光のみちる領域になる。

市区条例が「子供の眼と下げた腕の煙草の場所が同じ」
などを論拠に歩行喫煙をまず禁止したのは
(携帯灰皿をもつ者の混雑しない場所での歩行喫煙の自由、
という基本的人権にかかわる論議は巧妙に封殺された)
歩行喫煙を認めると喫煙者を賦活させ
全面禁煙化にブレーキがかかるからにほかならないだろう。

試しに昭和最後の日々の新宿駅から伊勢丹あたりの
地下道をタイムワープして「いま」歩いてみる。
地下道は紫煙濛々とし、視界十メートル程度。
たぶん半数以上の人間は男女問わず歩行喫煙していて、
吸い終わった煙草も地下道・床に捨てられ、
吸った当人以外にもそれを続々と踏み潰してゆく。
地下道はそれ自体が灰皿のように吸殻だらけだった。

この光景は、煙草を吸う習俗のなかに
煙草を吸う種族が誇らしげにいたということだ。
この誇らしさのなかでは
べつだん煙草を吸う仕種もいまのようにみすぼらしく映らない。
数/比率の問題はそのように作用する。
喫煙が男性の知性の印象を演出することもあったろうし、
女性のバサラや決死の覚悟を、
色気のうちに印象づけることもあっただろう。

喫煙者は非喫煙者の寛容性のなかに幸福裡に「混在」していた。
それを非喫煙者の鷹揚さの土台のうえに君臨し、
ふんぞり返っていると言い換えられて
嫌煙運動がスタートしたのだった。

これが通商摩擦問題が繰り返された80年代の日米関係のなかで
顕著なアメリカ的干渉のひとつだったのも
いまとなってはすごくはっきりとしているだろう。
「健康」の語を担保に副流煙の恐怖とともに
経済エリートの自己責任論がプラスされた。
その根が80年代、ゆっくりと植えつけられていって
90年代の細川内閣、ゼロ年代の小泉内閣と
段階的にネオリベ的精神風土が蔓延してくれば
喫煙者の理論立脚がガタガタになるのはいうまでもない。

JRホームでの「分煙」が全面禁煙になり、
市区条例のレベルだった歩行喫煙禁止を
神奈川「県」が一挙に全面禁煙のレベルに
いま格上げしようとしているのは
段階的禁煙運動が完全勝利に終わった結果だとおもう。

繰り返すがその勝利の要因は
実は「分煙」という場所分断の政治効果を
為政者が知っていた点に尽きる。
そして歩行喫煙禁止条例で、喫煙と自由の結合を不能にし
喫煙者から退路を断ったのだった。
人ごみで吸わず小型灰皿も携行していた彼らは
あたうかぎり紳士的に喫煙を続行させていたのに
彼らの協調努力一切が無に帰した。

さて、禁煙成功者が喫煙続行者に
なぜ冷たい視線を向けながら
それが嫌煙ファッショとはちがう道筋を辿るのか、
この点がもっと精しく考察されなければならない。

嫌煙ファッショとは、喫煙経験のない者(多くは女性)が
副流煙からの離脱-自らの健康維持を論拠に
眼前の他者の喫煙をやめさせるよう権利行使することだ。
これはそのままなら正当な権利行使であるはずなのに、
喫煙者、もしくは喫煙文化といった
「他者領域」への想像をいちじるしく欠落させ、
その欠落を補填するため「声高」な身振りだけをまとうから
ファシズムが印象されることになる。

禁煙成功者の喫煙者への視線はこれとはちがう。
つまり前者は後者を隈なく想像できる、ということだ。

禁煙成功者はその喫煙時代に
嫌煙主張者がいかに不寛容だったかを身に染みて知っている。
嫌煙主張者は「本質的他者」で、
そのあいだでは「説得」の可能性が今日的に試されていたのに
(たとえば原理主義同士の角逐と同じ問題なのだ)、
その機会もまた「今日的に」やりすごされてしまった。

じつは「不寛容」という精神悪弊の隣にもうひとつ、
いうなれば「不同化」という精神性が並びたっている。
「不同化」を独立不羈と換言するとそれは精神的美徳と映ずるが、
「不寛容な者を説得するために同じテーブルに着くことを
検討もせずに拒否すること」を翻訳すれば、
それは協調領域の拡大にすら寄与しようとしない愚昧に転ずる。

よくぞいった、とおもうのが「KY」の流行だった。
喫煙続行者は「KY」の位置に置き換えられたということだ。

「KY」にも二義がある。
とうぜんネオリベ的精神風土のなかでは、
「安全」を保証する等質性の蔓延によって
「勝ち組」の領土が占有される要請があるだろう
(実際は勝ち組の勝ち組たるゆえんは少数性にあるのだから
この論理機制が虚偽だとも気づかれるはずなのだが)。
ともあれそのために「空気の読めないひと」は
とりあえず負け組へと編制されてゆくことになる。

もう一方で「空気が読めなければ」
眼前の他者と対話ができない、という
コミュニケーションの本義に立ち返る必要も出てくる。
たとえば煙草を吸う者が、
「あなたの嫌いな、協調性のない、自分勝手なあのひと」と
喫煙事実の如何に関わらず、本質的に似ているといわれるとしたら。

こういう「決め付け」が暴力的な認知であっても
「空気読めない」といわれたくない自己演出のために
「あえて」喫煙者の領域から自立的に離れてみる
--近年ものすごい勢いで増えた禁煙移行者の精神機制は
たとえばこういう言い方で表現できるのではないかとおもう。

つまりアメリカ的画一強制
(実際は格差が助長されている)にあらがうために
協調的自己を錬磨すべく禁煙に踏み切る道筋があるということだ。
このときたぶん認識の逆転が要る。
喫煙文化とはその本質が植民主義の遺制で略奪的だから
墨守には当たらない--歴史的に消滅していい一つだ、と考えること。
もっというなら喫煙とたとえば纏足が同根だと看做すこと。

たとえばイギリスのパブ文化に喫煙がないとは考えられないと
歴史文化の擁護者が口を尖らす。
しかし僕は予想できる。
喫煙者の姿が消えても紫煙がなくなっても
下層者用パブは下層者用パブであるかぎり
労働者で和気藹々としているだろうと。
喫煙しないで飲み屋にいる自分自身を考えれば
こんな簡単なことはすぐわかる。

最近、中谷巌の話題の書、
『資本主義はなぜ自壊したのか』を読んだ。
中谷は非アメリカ的価値観によって
「幸福」を維持している国として
キューバとともにブータンを挙げていた。

貧困国ではある。
チベット高地の国土では細々とした農業しかなく、生産性も低い。
農地集約に適さない国土だろう。
国民はみな敬虔な仏教徒。物欲がない。
いっぽう地縁のなかで濃厚なコミュニティを築き、
地域住民はたぶん相互の個性差をも「寛容」している。

本で記憶に残っているエピソードを幾つか。
立憲君主国だったが「君主の薦めで」先ごろ民主制に移行した。
電力非供給の村で電力導入是非をめぐる住民投票があった。
導入は否決された。
理由は、電線をめぐらすと飛来する鶴に感電死の恐れが生ずるため。

といって通信手段が不便極まりないわけではなく
多くの国民は携帯電話を保有している。

森林資源の伐採は徹底的な許可制。
国をあげて自然資源の維持につとめている。
国外からの観光客の受け入れも数量制限されていて、
観光客からの精神感化がない。

その至純性が希少性・自然の美しさとともに評価され、
ブータンの観光価値は世界的に高まる一方で
外貨も倹しい生活水準を維持するなら充分に獲得されている。

国業の基本が農業という構えは終始崩れない。
それでもインフラは行われている。
けれどもたとえば道路工夫を誇り高いブータン国民はやらない。
それはインドからの季節労働者によってまかなわれる。

このブータン国民の幸福自覚度がすごく高い。
それは彼らが自然を読み、文明を読み、
必要以上を自覚であれ本能であれ遠ざけているためで、
むろん欲望抑止にあずかっているのが仏教理念だ。

ところで「自然を読む」ことと
「近隣同胞を読む」ことは同じ精神性の賜物だろうし、
それは当然、「他者を読む」こととも地続きだろう。
そうして彼らは観光客を歓待しながらそれに染まらない。
彼らの隠し持つ植民者的欲望と無縁のままでいる。

そう、この日記の結論が予想できただろうか。
「ブータンでは法律で喫煙が禁止されている」のだった。

喫煙の自由を謳う者が反体制的だという図式はもう成立しない。
反帝国的=反アメリカ的ブータンが
価値的に世界体制の外部なのは明らかだろうが、
そこでは他者と自然理解と地続きの状態で
喫煙が法律でこのように禁止されているのだった。
これこそが現行喫煙者の銘記すべき事実だろう。

文意がとりにくいかもしれない。
こういおう。
《今後、他者への想像に長けた者は
必然的に喫煙者の姿をとらない》。
 

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2009年03月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ゼロ年代詩集ベスト

 
マイミク・孤穴の孤児さんから
「ゼロ年代の詩集ベスト5を教えてください」とmixiメールが来て、
綴ったのが以下の文章。
ベスト5にはならなかったし、
公平性も欠いたとおもうので、
まずは自分の日記欄にアップしておく。

こんな規格はずれのものでもアンケートに利用できるなら
孤児さんは自由にコピペしてください。



ゼロ年代の優秀詩集の特徴は
マイナス成長時代にふさわしい
詩の結構の小ささだとおもう。
詩人事大主義の恥しさに気づいた者から
詩の些細な栄耀域へと順に入っていったようにおもう。

詩語の尊大癖、散文詩の晦渋などもとうぜん忌避され
「軽い時代」の哀しみがそこかしこに行き渡っていった
(こう書いて、誰を選定で嫌ったかがわかるかもしれない)。
程度問題で詩集の出来不出来に差が出るのみ。
これも民主的で良いことだとおもう。
80年代的「文名」はもうほぼ無効となったろう。

ただしとうとうベスト5には絞れなかった。
僕のように偏って詩書を読む者でも、
20~30は候補詩集をかぞえあげてしまうのだ。
僕以下の詩書愛好者が
幅のない読書ゆえに得々と詩集五冊を掲げうるとすれば
それは厚顔、夜郎自大の振舞とだけ注意しておこう。

そうだ。
別に倉田比羽子や小島数子や杉本真維子や藤原安紀子や中島悦子には
何の恨みもないのだけれど
選定から女性詩作者を落としてしまえばいっそ眺めもすっきりする。
つまり詩の領域から半分を度外視し、
かつ選定数を倍にすることでようやく要求に応えることができた。

ところで一般にゼロ年代(世代)詩人と目される者のみを選ぶのは
ティピカルにみえるが内実はナンセンスだ。
上述、「小ささ」が
肉体感のうち見事に貫徹されている詩集をこそ強調すべきだ。
結果、広部英一、金石稔、荒川洋治などベテラン詩人も選に組み入れてみた。
反面、まだ詩観が定着していない若手詩人は
その意気軒昂を買ってもやはり割愛した。
愛すべき知己も多いが、僕のなかで重量がまだ響かないということだ。

これらの傾向の先駆にして純粋形としては
じつは貞久秀紀や故・西中行久がいる。
ただ貞久の素晴しい詩集群は90年代後半に刊行が集中しているし、
西中の代表詩集『街・景色』も98年7月刊で割愛せざるをえない。

本当はゼロ年代詩集ベストより
90年代詩集ベストを企画したほうが、
既存価値にたいして転覆的でスキャンダラスなものができるだろうに。

なお掲出にあたっては何がゼロ年代的かも一言のみ、しるしておく。
順位はない。ただ刊行順に並べただけだ。



松本圭二『詩篇アマータイム』(00年08月、思潮社) ※映画性

田中宏輔『みんな、きみのことが好きだった。』(01年08月、開扇堂) ※都市内口語性

下村康臣『黄金岬』(02年10月、ワニプロダクション) ※対女性執着

飯田保文『ムルロワ』(03年03月、砂子屋書房) ※やんちゃさ(破壊性)

広部英一『畝間』(03年07月、思潮社) ※形式

杉本徹『十字公園』(03年09月、ふらんす堂) ※エレガンス

荒川洋治『心理』(05年05月、みすず書房) ※地名性、人名性

廿楽順治『すみだがわ』(05年10月、思潮社) ※脱臼型レトロ

石田瑞穂『片鱗篇』(06年10月、思潮社) ※散乱性

金石稔『星に聴く』(07年09月、書肆山田) ※祈祷性

【番外】
高島裕『薄明薄暮集』(07年09月、ながらみ書房) ※抒情性(歌集です)
 

2009年03月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

禁煙日記・もう一回

 
禁煙生活に入って
そろそろ四週間になる。
たまに自分をフッと襲う
「喫煙イメージ」は相変らずだが、
のど飴なし、たとえば深呼吸でそれを
数秒ていどで消すことができるようにもなってきた
(後述するように酒席がやはり大きな例外だが)。

いま自分を襲っている幻想はもっと別にある。
「自己浄化幻想」とでもいうべきものだ。

「顔色が白くなってきた」などと指摘する女房も悪いのだが、
ニコチンが躯から消えはじめた体感変化がたしかにある。
チャンピックスの説明書にも
この時期、肺奥深くにからんでいた痰が
のどに次々浮上してきて痰がのどにからむとあり、
実際に昨日からとくにそんな感じだ。

嗅覚が増したのかどうか
脱糞時、自らが嗅ぐ糞臭が何か焦げくさいにおいだとおもっていて、
これも躯に蓄積されていたタールが
うんこと一緒に排泄されだしたのではないかと
勝手に解釈している。

この自己浄化幻想が
排他的な選良意識をどうも生むようで
コンビニ前などの灰皿にたむろして
衆人環視のもと不自由な戸外喫煙をつづける者たちが
哀れどころか、それ自体が害毒のようにもみえだした。

ニコチン依存がフィルター煙草特有の
産業構造的なものだと考えることがある。
たとえば煙管で煙草を吸うには
生活にそれなりの閑暇や余裕の生じる必要がある。
煙草は労働時間の「隙間」で吸われた。
遊女にしても商家の旦那にしてもそうだろう。
また煙管は用具の構造からいっても
「のべつ吸う」行為そのものを予定していない。

かつての執筆時の、
自分のチェーンスモーキングのおぞましさをおもう。
「たてつづけに」吸っているのは
喫煙による煙の座布団に坐るようなもので
それを執筆時特有の安定とも錯覚していた。

ところが実際は自分が吸っている煙草と別に
火をつけて副流煙を発している残り長さのちがう煙草が
灰皿に二、三本もあったりする。
執筆自体が喫煙によって点火されている意識が「自走」して、
自分ではなく喫煙が執筆主体となり
自分自身は乗っ取られていたと感じる。
こういう喫煙があるときは喫煙本数もはねあがった。
通常、一日二箱強程度のものが
ひどいときは五箱ぐらいになったりした。

喫煙と執筆が相補的と考えるのはむろん書き手の自由だが
あきらかに「吸いたい」気持以外に
「依存」が猛威をふるって
ものを書くときの思考と喫煙の関係に
人間性を超えた構造がもちこまれようとしていたとおもう。
異様に自己励起的なのだ。
その姿は虚心にみれば「人外」だったはずで、
この人外性を、コンビニの灰皿前の者たちに感じだしたのだった。
彼らの要素は「倦怠」のほうにあるだろうが。

僕は文章を書くとき全体構造はあらかじめ予想している。
書きたいフレーズが数個用意されていることもある。
ところが執筆それ自体は想起にまかせる。
つまり直前の文章が直後の文章を喚起するのが中心で
自分自身はそうした能産運動の観察者でありながら
後景に退いているという感覚になるのだった。

前文が後文をスパークを伴いつつ規定するとすると
文の発生自体は渦中的ではなく
究極では事後的になる。ほんのごく僅かな事後だが。
それで執筆が膨大な「遅延の蓄積」になる。
これがどこかで精神の負債になるのかもしれない。

このときたぶん「単にいまここに
同時性が延長されているだけ」という感覚が必要になる。
連続性の絨毯に乗るような執筆時のチェーンスモーキングとは
そういう意味合いをもっていたのではないか。

これがおぞましい。
「チェーンスモーキング執筆」が石炭動力と同じ、
「産業の比喩」で語られることはしばしばあるが、
これは生活から「余裕」を排したうえで
さらにそこには狡猾な「特権意識」も
無意識ににじみでているとおもうのだ。

執筆が特権と結びついて碌なことはない。
そうやって書かれたものはいつも濁っている。
しかしそのようにいまおもうことに今度は
喫煙続行を誇りにしての「自己浄化幻想」が
たしかにからまってもいる。

関連していうと、喫煙なしでも詩が書けるようになって、
いちばん鋭さを増したとおもうのが「詩行加算感覚」だった。
これは上に書いた事柄からその理由を類推できるだろう。
いずれにせよ、清澄のなかで一行一行が足される体感がある。

さて金曜夜は横浜・生麦での飲み会だった。
詩を書くひとたちの集まり。
うち秋川久紫さんだけが喫煙に依存経験がないが
残りの倉田良成・廿楽順治・近藤弘文諸氏は
揃いも揃っての「禁煙成功者」。

そういう面子だからして酒席に煙草がないのも自明だから
喫煙イメージが出ても貰い煙草ができず
禁煙がストップするとは考えず安心していた。
安心していたら、逆に喫煙イメージがほしいままに湧きだす。
あるいは詩の諸般にわたる話題が
喫煙イメージに直結してゆく傾向があったのかも。
箸をもちい喫煙仕種をさんざん披露してしまった。恥しい。

おおむね詩の話をするなかで面子をみながら
禁煙成功者の類型を考えた。
たとえば倉田さんは背後で誰かが煙草に点火すると
「ほら始まった」と振り返りもせず即座にいう。
たまたま店にいる見ず知らずの客にたいしてだ。
反応しているのは聴覚ではなく嗅覚。
煙草への感覚ということでは
禁煙成功以後のほうが鋭くなっているのだ。

前にも書いたが、
禁煙成功は「煙草を意識から消すのに成功すること」ではない。
禁煙しても煙草は常時意識される。
やめて何年経っても喫煙イメージが湧きあがり、
そのたびにそれを消去しなければならない。
喫煙している夢はやめて何十年経っても見るそうだ。
性交不能になってからの性夢が
喫煙の夢と同じ頻度でみられればいいのにね。

チャンピックスの特効薬性を僕につたえてくれたのは
じつはその日の面子のひとり、近藤君だった。
彼はもうやめて半年以上経つ。
激しさをました不況感に関係があるのかどうか
08年に禁煙に踏み切った者はすごく数が多く、彼もその一人。
こないだの高見順賞の会合でもそんな人が四、五人いた。

ところで意外だったのは
近藤君のチャンピックスとの相性が抜群なわけではなかった点。
チャンピックスは最初の服用三日ののち
当初は夕食後だけのものが朝夕食後に変わり
一週後には倍のつよさのものの服用となる。
この倍のつよさのものが近藤君には合わなかったらしく
(吐き気が出た、といっていた)、
服用をその時点で彼はあきらめてしまったという。
それでも最初の一週で禁煙レールに乗って彼は禁煙に成功した。

その近藤君がいう。
禁煙して一箇月して(僕の場合はもうすぐだ)、
煙草を吸っていないことがどうしようもなく、
狂おしいくらい急に淋しくなり、
猛烈な喫煙イメージと闘う輾転反側の一晩がきっと来ます、と。
あれはつらいですよ。
僕は茶化した。
それは独身の近藤君がただ淋しかっただけじゃないのと。
しかし気になる予言ではある。

禁煙が瓦解するときはじつに脆いとは廿楽さんがいった。
廿楽さんは現在の禁煙持続の前に
禁煙持続に成功していたことがあったという。
ところが彼が多忙で帰宅できなくなりサウナに泊まったときのこと。
サウナにはサーヴィスで煙草とライターが置いてあるらしく、
それまで禁煙状態を保っていた彼は
つい多忙ストレスから、置いてある煙草に手をだした。

翌日はそのサウナから出勤。
自販機で煙草まで買ってしまう。
出勤後はその煙草を吸って、
完全に彼の禁煙堤防が決壊した。
以後は喫煙生活がまた戻った由。

発端はサウナにサーヴィスとしてあった煙草への
ほんの小さな出来心からだけだったと強調する。
たしかに人間の嗜好は精神性だけではほぼ統御できない。
これはやはり怖いことなのだ。
精神的存在とだけ人間を意識すると純化された世界構造ができるが
実際は恐怖にみちた世界はそうなっていない。
その証左のひとつが「嗜好の動物性」ということ。

僕は酒席などで喫煙イメージが沸騰したときは
数本吸ってもいいんじゃないか、とおもっている。
ただし銘柄選びが大切。
便利なことに最近はニコチン0.1mgの
ニコチンを摂取した感じがしない「もどき」煙草が
自販機などに勢揃いしていて、
これを吸うと喫煙の仕種をしたい欲望がみたされつつ
喫煙後のニコチン依存へのアクセルが踏まれない。

ただしそれに安心してそういう煙草を
酒席にあらかじめ準備してはならない。
あくまでも喫煙者からそういう煙草を
一本一本いぎたなく「貰い」、
済まないです、という惨めさを
自分のいる空間と自分の心奥に
刻々植えつけてゆく必要がある。
そうすると四時間程度の酒席での貰い煙草が
四本程度で済む、というのが自分にできた経験則だった。

つまり喫煙も禁煙も高度に精神生活にかかわる。
だから惨めさ・(自己/他者)嫌悪・文明批評などは
たとえば禁煙の持続にも最大限利用されなければならない。
自己浄化幻想から反射的に出てくる喫煙者蔑視は
それが先鋭化すればいやなファシズムになるが
その軽度なものは自己精神への「冗談」として
活用されなければならないのかもしれない。

むろん「もののあわれ」みたいに
喫煙続行者への憐憫感覚が、構えの広いものになればなおいい。
しかし最終的に「あわれ」を感ずべき対象は「歴史」だろう。

その金曜の酒席では、禁煙で肥ることも再三話題にのぼった。
じつは僕は禁煙移行三週間強にして五キロ肥ってしまっていた。
経験者の近藤君はいう。
禁煙して十キロ肥るなんてアッという間です、
禁煙肥満は本当にアッという間に起こりますよ。

これまで書いてきたことから分かるように
禁煙に踏み切ると、
禁煙によって生まれる反射行動・反射幻想には
ほぼまったく個別差などない。
誰もが先に経験した者と同じ道を歩み、
自らたのんでいた「個別性」なども消し飛んでしまう。
逆にいうと「人間は(自分は)普遍性でしかない」と
自笑するほどに自覚できるもののひとつが禁煙なのだった。

僕自身は禁煙肥満で10キロ増は覚悟していた。
肥満の原因はよくいわれるような
「空気も食べ物もおいしくなるから」ではない。
チャンピックスの服用が朝夕食後に義務づけられいて、
それで僕は普段食べない朝飯を食べる。
朝飯を食べるとその日の胃が動きだし、昼も食べてしまう。
このことだけでカロリー摂取量が
朝食抜きの日と較べ格段に多い。

それと僕はこの禁煙は確実に「治療」だと考え、
禁煙に入っていわば自宅静養をほぼ続けてきた。
外に出ると要らぬストレスから喫煙イメージが湧く。
これを避けたわけだ。
家では腹ばい姿での読書三昧。
眠くなれば寝る。
朝飯食って寝て、昼飯食って寝て・・・
とうぜん肥るわけだが、禁煙を優先したから
そうした自堕落な生活を気にしなかった。
春休みしかできない生活の贅沢だし。

そうしたら三週間強で五キロ増。
十キロ増なんて当たり前、
それも感覚的にはほぼ一瞬でそうなります、と近藤君はいう。
いや僕の場合、この肥満のスタートダッシュの良さから
アッという間に15キロ増になるかもしれない。
そうなると着られていた服も着られなくなる。

さすがにヤバイとはおもった。
それで昨日土曜は女房と京王線ウォーキングに参加。
11キロくらいを歩く。
大勢の参加者による、街なかのゾロゾロ歩きだから
有酸素歩行はなかなかできないが、
それでも背筋を伸ばし、丁寧に足の裏で地面を蹴るなど
歩き方に工夫をこらして、
結果、帰ってみたら二キロの体重減少に成功していた。

あ、そうそう、僕の躯はすごくゲンキンで、
体重がころころ変わる。
授業を三連荘した翌日も二キロ減っている。
この話をすると女子学生にうらやましがられるが。

体重がそれほど変化するのは
躯のなかの水分比率が高いからではともからかわれるが、
僕自身は「自分の躯の精神性が高いから」だとおもっている。
精神により可変的なものが僕の身体。
って書いて、この日記の前の細部と矛盾していると気づいた。

最後に。
近藤君へ:
「煙草買ったら?」としつこくいってごめんなさい。
廿楽さんへ:
帰りがけにもらった「ミンティア」が
帰り電車のなかでの喫煙イメージを消すのに
すごく役立ちました。
さすが禁煙経験者はよくわかっている、
酒席後に乗る空いた電車って、すごく煙草が吸いたくなるのですね
 

2009年03月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

禁煙日記・終わりに近づく

 
虎ノ門の禁煙外来に行ってきた。
いつもどおりカウンセリングからはじまる。
いの一番に、月曜未明、
虚弱煙草とはいえ四本吸ったことを告白。
お咎めはなかった。

それより、それ以前に十日ほど完全禁煙が続いたことを
これまでから考えるとすごいことではないですか、と褒められた。
そのようなポジティヴ・シンキングの対応だろうとは
第一回目の診察時から予想のついていたことだった。

なぜ禁を破り、自分の直前の達成を裏切って吸ったか。
それは前の日記に書いたとおりのことなのだが、
これほど副流煙のある空間なら
吸っても吸わなくても同じだ、という考えには
狡猾さが見事に巣食っていたと感じる。

自己の問題を環境の問題にすり替え、
「主体化」を放棄することで
慣性のほうに後戻りしている。
これがもし政治的選択肢であれば
実は僕の最も嫌うところだったはずだ。

ただカウンセリングでは詳しい説明を省いたが、
眼前に煙草を吸うひとたちがいて
(一本の映画を観終われば
喫煙習慣者はとうぜんそうした仕種をする)、
自分に烈しい模倣衝動が起こったのだった。

模倣とは何かについては、いろいろ難しい問題がある。
「まなぶ」と「まねぶ」の近似についてはよくいわれる。
僕が好きなエピソードは半年くらい前に見た、
TVの動物番組にあった。

犬と狼を較べる。
狼の性癖を知りたいから
その狼は家で飼い(餌付けをした程度)、
一応は人間への警戒心を取り払ってから、
犬と狼の行動差異を吟味したのだった。

犬は飼い主がたとえば右を見れば
気配を察知して、
「何があるのだろう?」とかならず右を見る。
精神論的にいえばこれは模倣となるが
表面的にいうなら「仕種の映り」となる。

逆に狼にはそれが人間に慣れたものであっても
こうした同調力が一切ない。
つまり人間が右を向いても
ずっと自己の圏域にとどまって「知らん顔」なのだった。

僕自身は狼ではなく犬の習癖を数多くもっている戌年だから、
やはり眼前の喫煙者の仕種を映そうと衝動が走ったのだろう。

当面、落ち着くまでは喫煙者のそばに寄らないほうがいい、
とはカウンセラーと僕の共通結論。

ただしもうそろそろ禁煙治療と称して
家籠もりというわけにもゆかなくなるから、
未調整の外界に無媒介に接する、ということにもなる。
そうすると世界の人種が
喫煙者・非喫煙者に截然とわかたれてしまう。
これは区分としては実は熾烈な眺めで、
そういう二分性は通常の僕の感覚に反して
混在状態でないほうが穏やかだったりする。

マクドナルドに入り、禁煙フロアに進むときの
不思議な安心感がやっと理解できた。
その手の空間庇護という点では
実は喫煙未経験者と脱喫煙者では
まったく感覚がちがうものなのだろう。
つまり僕の場合は
模倣誘惑のない空間が目指される、ということになる。

喫煙未経験者がただ禁煙空間から禁煙空間へと移動し、
夾雑的空間を避けるのは
ファッショ的=排除的純度の保持というより
ただ継続的自己保持の感覚のせいだという気もする。
その感覚を語る言葉が間違って
ファシズム的になるのではないか。
とすると嫌煙ファッショも感覚の問題というより
第一義的には用語の問題だったという気がする。

話をもどす。
「模倣を促すもの」についての考察だった。
僕は以前、犬は待機に倦みつづけ
眼前の水溜りまでふと模倣しようとして、
その水溜りの前に打伏すといった意の
詩篇を書いた記憶がある。
そうした世界では
いつも路上や庭に
同じような水溜りがふたつ並んでいることにもなるのだが。

まあそれは詩だ。
現象的(感性的)にいえば
TVばかりみている人はTVになり、
映画ばかり観ている人は映画になり、
音楽ばかり聴いている人は音楽になる。
盆栽ばかりいじくっていれば
その者の風采まで盆栽じみてくるだろう。
そういうのは滑稽の功徳、その領分におさめていいことだ。

模倣は通常は功徳の領分に入る。
ところが唯一、それを跳ね返す魔的領域がある。
いうまでもなく「鏡像」だ。

左右対称なれど鏡が自分の仕種や表情を真似る。
その真似が遅延を介して生ずればまだラクだろうに、
事は光速の世界に属している。
つまり時間的差異のない対が先験的に生じている。

となると「オリジナル」は鏡像に波乱を与えようとする。
右手をあげていれば左手をあげ、
笑顔をつくっていればしかめっ面をしてみようとする。

鏡が「即座に」そうした自分を真似ているという確証は
しかし果たしてそれほど自明なものかどうかはわからない。
なぜなら、自分が鏡像を真似ているといっても
時間差がないのだから。
「意志」の出発点の感覚を失えば、
鏡像はたちまちに、自分自身を支配するだろう。

ラカンの鏡像段階は
鏡像こそが赤子が自我を発見する契機だというが、
「私の意志が私の挙動の原因だ」ということは
光速の世界にあって、
それほど自明に測れる事柄ではないはずだ。
そう考えるのは、孫引きばかり齧っていて、
たぶんラカンの根本理解がないせいだろうが。

ただし以下のことはわかる。
フロイトのホムンクルスの矛盾ではないけれど
喫煙は身体内のマジックメモ部分に
喫煙する自身の像を縮減内在させる営み、
つまり永遠の鏡像段階の営みだろうということだ。

煙草は自意識の覚醒の道具であるか
自意識の忘却の道具であるかどちらかで、
何にせよそれは自意識に関わる。

食べ物なら通常そうはならない。
「通常」と限定したのは、摂食障害者ならそうなるためだ。
となると、食べ物が入るべき口腔に
ただ煙が入ってゆく喫煙は
その本然からして摂食障害的であって、
だからこそその自意識も
最後の先が腐蝕するまで
枝状に分岐をじつは繰り返してゆくことになる。

先の日記で、喫煙時の肺と脳の一致を
たとえば僕はいったが、これも方便だ。
最終的に肺と脳はガタの来方のこまかい差異により分岐し、
先にガタの来たほうに腐蝕というマイナス価値がまつわる。
腐蝕でなければ石化のようなものでもよい。

となると永遠の一致のためには
脳と肺の双方に「同時に」ガタが来る、という
千載一遇の僥倖が偶発しなければならない。
「喫煙は自己性のやがての分岐を隠匿している」。

喫煙イメージは喫煙する自己像を
脱喫煙者に「模倣しろ」と迫ってくるイメージだ。
僕のようにすでに禁煙も十日をすぎると
そのイメージは十秒ともたない。
のど飴を舐めるまでの時間が大体、十秒だからだ。
その十秒はやがてのど飴なしでも学習され、
最終的には深呼吸で喫煙イメージの消去が果たされるだろう。

というようにズラズラ書いたところで、
新規展開もふくめて論点を整理してみよう。

1)脱喫煙者は喫煙者の喫煙の仕種を模倣しようとする衝動に苛まれ、
世界を喫煙空間と禁煙空間へと熾烈に二分する。

2)それは行動選択の指針ともなるが、
じつは喫煙の仕種の模倣の淵源は
自分自身の記憶・行動パターンのなかにこそある。

3)その意味では喫煙と「鏡像段階」とは深い連関があり、
喫煙は鏡像に実像が呑まれる過程と似る。
だから禁煙治療が精神科の領分に入ってくる。

4)喫煙者も、脱喫煙者も「鏡像段階を手放さない者」だ。
喫煙の決定性はそこにある。
禁煙成功者は鏡像段階をその性質のまま
馴致する(生け捕りにする)ことに成功した者の謂にすぎない。

ニコチン摂取によって「性質」までつくりあげた者にとっては
禁煙が意志によって絶対に成功しないのは明らかだ。
自己の性質による自己の性質の否定がすでに論理矛盾で、
それは唯一、「自己による自己の否定」=自殺を招くのみ。

わかりやすい例をいえば、
自己殴打や自己絞首が自己死をいたらしめる前に気絶を招くように
自己は自己の枠組によって温存されていると同時に
自己が自己であることにはすでに保護が入っているのだった。
この「保護」を取り払うとそれはもう自己ではなくなり、
そういうものは即座に憤死してしまう。

となって禁煙治療には
精神科治療と同じように
脳内物質をコントロールする投薬しかない、という
「アメリカ的」結論も出てくる。
その向精神剤の処方は
作用範囲が最もアイデンティティに関わる「脳」の領分だけに
処方以前/以後で不可逆的な変化を結果することもあるだろう。

通常の精神科医がいかにアバウトに精神病者に処方しているかは
春日武彦『精神科医は腹の底で何を考えているか』で
読んだばかりだった。
題名からして厭な感じがするだろう。
新たになった幻冬舎新書の一冊。
「幻冬舎」だからして売り意識・煽りがつよく、
春日さんの本にして初めて厭な感触を僕はもった。

チャンピックスは自分自身によって
脳内のニコチン受容部に蓋をかける。
つまり向精神薬と同様、やはり脳内物質に直接作用する。
その手の薬に僕は童貞だった。
薬服用の以前/以後に
完全な連続性が保証されるのか。
僕が禁煙治療にあたり恐怖したのは本当はここだった。

現状、禁煙の日常が定式化されてきて
二週間近くが経過したわけだが、
自分の「脳内物質」を自己診断すると、
禁煙ストレスを沈静化させる作用なら万全だという気がする。
一方で明らかに創作意欲が衰えている。
その創作意欲につき論理的に考えてみると、
禁煙治療の逆説を形成しているためだとだんだん理解されてきた。

つまり禁煙治療は禁煙ストレスを抑えつつ、
「模倣」衝動をその性質ままに馴致する方法を採る。
これは「当面は」という条件付かもしれない。
この模倣衝動が完全に意識化されなくなることだってある。
いや、「だってある」ではなく、
そうなることでたぶん禁煙治療が完了するのだろう。

ところで創作衝動はこれと水準が異なる。
それは「模倣」という言葉をつかうなら
僕の場合、自己模倣の完全否定として発露するのだった。
完全自由な連想、完全自由なテキストの組成化によって
かならずそれ以前がそれ以後を裏切って、
生成中のテキスト内の「反復」が水面下に隠れきること。
その快感こそが創造の原理となること。

となって創作時にあった喫煙(チェーンスモーキングだった)は
自己を「上の空」にするための
逆説的な土台づくりにこそ寄与した、ということになる。

自身の慣性を徹底否定しようとした創作時の喫煙にたいし、
禁煙が自己の慣性の意識化だとすると
当然この二つの原理は離反的だということになる。
だから禁煙の完全成功の証として
自在な執筆が舞い戻るだろうという
現在の自己予想もあるわけだ。
それも離反の病相は「止揚」によって消えるという
思考上の信仰に基づいているだけかもしれないが。

「また自在に書けるでしょうか」
「じきそうなりますよ」
これが今日、禁煙外来で交わされた会話。
数週間かかるのか数箇月かかるのかわからない。
ただ禁煙治療は「近々の時間幅」には
みずから信頼をあたえよ、という宗教的託宣を出す。
実際、これなくしては治療もはじまらないのだから。

今日は二週間ぶりに禁煙外来に行って嬉しかったことがあった。
カウンセラーにも医師にも異口同音に、
「格段に顔色がよくなりましたね」といわれたのだった。
血色が頬にはりめぐらされてきつつあるらしい。

蒼白の天才という直観は誰しもにある。
天才はほぼ蒼白だという直観もまかりとおっている。
ただしそれが喫煙行為と結びついていると認められると、
その蒼白も創作のオナニズムを
ただ前面化しているだけ、という恥しい判断を招く。

そう、僕の創作の型は自己否定的だといった。
となれば、僕の顔色はよくなくてはならない、
そんな論理的帰結ともなるのだった
 

2009年03月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

禁煙日記・さらにさらに

 
喫煙がある一定の文化構造を
つくりあげたことは自明だろう。
もともとは西欧列強の
植民経営からの収奪物だったのに、
最初の刺激のつよさ、
口唇に関わる、という「運命」によって
基本的に女子を排外する
ホモソーシャルな文化を煙草はつくりあげた。
宮廷、カフェ、パブは
農作業場より先験的ではないか。

喫煙は無責任な噂話から
政治的な慨嘆までもを自在に彩った。
そういう男同士の話に参画するための
儀礼的道具として煙草が指名されたともいえる。

東洋的煙草はそれにもまして独特だったろう。
九鬼周造『「いき」の構造』にしめされた
「粋」の与件に「諦観」が入っている点は
わりと取り沙汰される。
喫煙はどうもそれにも関わっていないか。

無垢・無辜であることからの離反を
他人にそれとなくしるしづける。
自身の生命の有限性を
心の内側に折りたたんで、
自嘲と余裕の双方をみせる。
生活のまにまに生じる分節を
喫煙でくきやかにしてみせるこの時間哲学のために
「私は肺を煙で縛った」と明かしてみせる。

煙管、羅宇、煙草盆。
江戸文学では「煙草盆」の中身は
小間物(吐瀉物)ていどに「汚い」ものとみなされるが
何かそれには自由な精神の、
みてはならない残骸のような感覚があったのではないか。

生命の有限性は
煙草からの煙の表象によるのであって、
喫煙の「健康被害」によるのでは決してなかった。
そのような転轍をうながしたものとして
全世界的なフィルター煙草の登場があったのだろう。

まえにも書いたがそれ以前、
両切りの紙巻煙草は
吸殻を捨てたとしても
アスファルト舗装されていない土の道や野っ原で
ただ土に還るものだった。

幻影。
深秋の枯葉が
冬のどこに飲み込まれたかという思いを呼ぶように、
粋を競い、いきがりを誇った煙草も
また土の深くへと吸われてゆく。
煙草のただしい廃棄場所が野だ、という前提があって
煙草盆のゴミが気味悪がられたのではないか。

ともあれフィルター煙草は
煙草にまつわるそうした幻影の巡回を徹底的に崩し、
同時に有限意識とは立脚が別の健康被害を
越権的に植えつけるようにもなって
もしかすると喫煙は文化として
終焉に向かったのかもしれない。

数年前の早稲田通りでの出来事。
二文での講義のため道を急いでいた。
糠雨、寒い夕方。
わりと風がつよく、傘は用をなさない。
暗鬱な天候と、時間の半端さもあり、
早稲田通りの歩道はほとんど人影をみかけない。

早足を繰りつつ、歩行喫煙をしていた。
明治通りとの交差点。
70がらみの爺さんがふと僕に声をかける。
「新宿区は歩行喫煙しちゃ駄目です。
煙草をすぐに消しなさい」。
ボランティアではなく
一般人の「正義の発露」のようだ。

カチン、ときた。
この人通りのまばらさゆえ僕の歩行喫煙は
完全に僕の身体の周囲のみで完結していて、
一切の危険がない。
この風では副流煙は息を吐き出し一秒も経たないうちに
完全に拡散してしまう。
しかも僕は携帯灰皿を常備していて、
吸殻を路上に破棄放置したことなども全くない。
おまけに僕は煙草を買うことで
税金すら納めてもいるのだった。

誰にも、つまり僕に注意をした老人にさえも
迷惑をかけていないことは如上明らかなのだが、
「区条例」を楯に、ひとの行動の自由と細心さに
お節介を超えた権利意識で容喙してくる。
誰かの自由に文句がいいたいのだろう。
しかし彼は排気ガスを吐き出し
大気に汚染と温暖化をもたらす自動車には文句をいわない。
姑息に相手を選んでいるのだ。

しかし見間違えたのだとおもう。
僕は「殺気」を発するとすごく嫌がられる、
ヤクザっぽいタイプだとよく言われるのだ。
彼は迫り来る夕闇で判断が狂ったはずだ。
注意をした老人をじっと見返す。
途端、彼に緊張が走ったのを見て取った。

この場合の論理機制はこうなる。
上記のように人も疎らなこの通りでの歩行喫煙で
僕は誰にも迷惑をかけていない。
そういう歩行喫煙まで禁じた区条例は
あきらかに基本的人権の尊重をうたう憲法に違反している。

ただ区を訴えるのは面倒だ。
たまたま僕の喫煙に口を出したあなたが奇貨だ。
あなたを法的当事者に
喫煙の自由が侵害されたという係争を起こそうとおもうが如何。

ま、やめたけれどもね。

嫌煙権というものが登場して、
喫煙権を再構築する必要が出てきた。
それで「人には不健康になる権利が保証される」
という論理機制も出てきた。
僕はこれを、つまらないことだとおもう。

「不健康になる権利」の基盤の脆弱さは、
「健康な自己身体を運営する義務」の前に吹っ飛ぶ。
「世界」への倫理的介入がもとめられるときに
「不健康になる権利」ではいかにも生ぬるいのだった。
ただしこれはフィルター煙草登場以後に
確定的になった史観である点、注意が要るだろう。

喫煙が「諦観」だったころの美しさは、
嫌煙が出てきて、反射的に
喫煙まで権利になってしまった現在をもう覆っていない。
嫌煙は密閉室内では文句のいえない正当な権利要求で、
それらの絶対的な正しさからは
自分の「小さな悪」など退場させなければならない
--現在的「身体」はもうそのように規定されている。

それが厭なら、山奥といった場所を選び、
喫煙シーンがもうなくなってしまったTVなども捨て、
煙草の煙によって劣化を早めるコンピュータも利用せず、
「現在」からひたすらに離れなければならない。
離反価値があって、しかも自分の与する価値に正当性がなく、
相手の主張にこそ圧倒的な正当性があるとき、
相手の主張の仕方をつかまえて
ファッショと名指し反論することにはもう実効性がない。

そういうときは「退場」の仕方を考えるべきなのだ。
自己身体を喫煙という場から退場させるか。
自己の社会性を「嫌煙的現在」から退場させるか。
ともあれそうして、喫煙行為という歴史的迷妄に
幕がおろされてゆく。
そしてこの趨勢にこそ
自分もまた歴史的に加担しているという意識が生ずる。

そう、現在の禁煙に文化性があるとすれば、
自分は「立ち止まりながら」
何か大きな誤謬の退潮、その一端となっているという
仮の参加意識が助長される点だろう。

喫煙が諦観に関わっていた点を
美学的に帰結させようとするとここにしか行き着かない。
それ以外の喫煙にまつわる理論武装は、
ニコチン依存を断ち切れない精神の弱さの言い訳だ。
現在の自分はそうおもっている。

平岡正明の文章の一節を読んで、
自分は子供時代、
指の爪の三日月をよくみていたなあとふと憶いだす。

初めての喫煙のとき、
煙草をつかむ指がすごく意識されたはずだ。
そしてそれにライターか何かで点火するときも。

またまた大島弓子のマンガを引用すると、ある短篇に、
煙草を口に咥え、息も吸わず、
ただ自分の指が差し出した煙草に
ライターの火をもってきて
煙草に点火しようとする
少女(ヒルデガードといった)が描かれたものがあった。

大島的な「うぶ」は一種、存在の理想で、
かつまたそれは理想ゆえに救済にも導かれる。
むろんこれは煙草=不良、のイメージのつよかった
70年代の産物(描写)なのだけれども。

逆にいうと煙草の点火は、
煙草のひと吸いともう「一致」している。
煙草の煙の肺への充満は
脳神経の沈静とも「一致」している。
口唇への「咥え」は
その姿の自分が誰かの視線によってシャッターを切られる幻想と
これまたもうすでに「一致」している。
あるいはたとえば煙草をマズいとおもうことと
「旨い」とおもうことは喫煙ではつねに「一致」している。

そうして多元化している自己内在に
瞬時に「一致」が灯されてゆく。
肺は木炭のくすぶる深い星座となり、
「私のなかの謎」は美しい暗部として拡がる。
紙一枚ほどの厚さもない不如意を
後生大事にすることで
自己愛的自己を美学的に存続させようとする営み。

いったい人間は「器官なき身体」なのか、
「身体なき器官」なのか。
「器官なき身体」が悲鳴と苦痛の身体だとし、
「身体なき器官」が無秩序の内在感覚だとすると、
喫煙はこの二分法では「綯混ぜ」として
優位的に身体に作用するとわかる。

「器官」=「臓器」=「オルガン」=「秩序」。
身体は本来はこの等号に内在的に縛られているのだが、
喫煙はそれをすべて「喫煙的秩序」といった
「仮のもの」に置き換えてゆく。

それは自己身体の無意識化という魔法にも関わっている。
言いかけたこと。
喫煙者が自分の身体を無意識化している証左は
彼(女)が自分の指をみない、という点にはっきりする。

話をもどすと
喫煙者の美学はたぶんこの「仮のもの」がすごく好きなのだ。
それで「現在」はこの「仮のもの」の軸が
「喫煙維持」ではなく「禁煙実行」のほうに
よりつよく傾斜していっている。
僕は禁煙をしはじめて、
自分が以前よりもさらに「仮の者」になった気がした。
だから早稲田通りの爺さんに一旦おもいえがいたような
喫煙権利の論理機制もすべて捨ててしまった。

とエラそうなことを書いていて、
ここで告白しなければならないことがある。

昨日は夜の23時から池袋シネマロサで
松江哲明くんの新作、『ライブテープ』の試写があった。
改めてどこかに書くが、作品は着想そのものがすでに傑作で、
僕は三村京子さんなどとその打ち上げに参加した
(翌朝、始発で帰宅すればよい、という構え)。

その会場。畳敷きの20畳程度の部屋だった。
若い音楽好き、映画好きがあつまったとあって
喫煙者比率もすごく高い。
そのなかで僕は深夜の飲酒をしている。
自制の意識が弱まり、
どんどん喫煙イメージが湧きあがってくる。
しかもこれだけ副流煙を吸っていれば
もう喫煙したも同然ではないかという
都合のよさゆえに悪魔的な判断ももたげてくる。

最初はパーカッション/サックスのあだち麗三郎くんに
手持ちの煙草を一本もらいライターを借りた
(とうぜん僕自身は煙草も点火道具もない)。
「キャスター1」という銘柄で、
タール1mg、ニコチン0.1mg。

ありがたいことにこの手のものを吸っても
ぜんぜん脳神経にニコチンが浸潤する感覚がない。
ずっとエコーという強い煙草を吸ってきた自分にとっては、
これは喫煙の仕種のための銘柄であって、
喫煙の実質のための銘柄ではないという判断が立つ。
こういうもので喫煙イメージを補填するのは
アリだな、とおもった。
ニコチン摂取によって
それまでの禁煙過程(蓄積)が瓦解するのに較べれば、
いっときの喫煙イメージを
時限つきで解放するなんてさほど怖くないのだった。

あだちくんの煙草がなくなって
店に設置されていた自販機から
これまた買ったことのない
「マイルドセブン1」というのを買ってみる。
ニコチン、タールの含有量は先の銘柄に同じ。
そんな煙草以前の銘柄を
眠気の襲ってくる喧騒の飲み屋で
本当に「少しずつ」という感じで吸った。

こちらは計3本。
店から出るとき買った煙草と
店から借りた(貰った)ライターは
置き忘れたように演出した。
結局、禁煙特有の脳の芯の不充足感はそのままだった。

喫煙イメージの沸騰にたいして、
イメージをなぞる行為を少しだけ犯してしまおうと考えたのは
やはり「仮のもの」である自分自身だ。
何かに流され、何かに流されない。
その計測を自分なりにしたつもりでいるのだった。

それにしても惜しいことをしたとはおもう。
この土日、チャンピックスがいよいよ効いてきて、というか、
非喫煙の日常が完全な慣いとなって
喫煙イメージも口淋しさもなくなってきていたのだった。
それで日曜日、松江くんの試写に行く前は、
のど飴を丸一日舐めない、という実験を自分で敢行していて、
それにさえ成功してもいたのだった。

この計四本の喫煙で
脳のニコチン受容快楽が蘇ったわけではないが、
喫煙イメージの除去にかんしては三日、後戻りしただろう。

ただ、「仮のもの」である自分は、それでいいとおもっている。
これが今回の日記の骨子
 

2009年03月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

禁煙日記・さらにまた

 
ため息をつくと幸福が逃げる、
といったような俚諺が好きだ。
誰彼となくこの言葉を口にするだろう。

ため息は自然につかれる。
その自然さにこの警告が釘を打つ。
警告によって蒼ざめる。
一度この俚諺を知ってしまった者は
自身のつくため息によって、
蒼ざめを「先取り」することにもなる。
たぶん身体にふと生ずる、
そうした「階段」が好きだということなのだ。

チビ猫は「おかあさん」のため息をじっとみていた。
「知っている、あれは ため息」、
内心でそう呟いていた。
ため息は「模倣」の誘惑でもあるが、
チビ猫はそれに寸前でとどまっていたのではないか。

キャロル・キングの
「ウィル・ユー・スティル・ラヴ・ミー、トゥモロウ?」。
そこにもmagic of your sighの語があって、
その語自体がカラフルで魔法的だと
子供心におもったものだった。

禁煙をつづけていると自然と
「呼吸とは何か」の考えに近づいてゆく。
身体に所与を取り込んで
身体を燃やし活力を得ること。
そうなったとき、たとえば血液の循環や
脳波の継続などよりももっと
「呼吸」が生のかたちを原型的に伝えていると理解される。

「呼吸」とは空気を読む、の空気に舞い込んで
それを装飾するものだ。
恋人同士は眼差しよりも先験的に
「互いの呼気を聴いている」。
あるいは吸気すら聴いているかもしれない。
性愛があれば呼吸も沸騰してゆく。
そうして自分たちの空気にたいする普遍性に気づく。

普遍性を愛することは素晴しいことだ。
僕は人間の姿を遠目に見るのが好きだ。
そこでは近貌とちがい個別性を奪われ、
たんなる頭部と胴体と脚の比率となり、
その次元では差異ではなく普遍性が
郷愁誘因として作動してくると気づく。
そういう普遍性、たとえば。

戦闘者が最も気を配るのも相手の呼吸だろう。
相手が息を吸っているとき、停めているときには
集中が現れている。
そこで攻撃を仕掛けるのは危険だ。
だがなかなかその均衡は崩れない。
むろん相手は呼吸音を聴かせない。
呼吸は気配のなかに潜む。

攻撃が奏効したときは、こんな様相になる。
自分の打撃によって相手の緊張が崩れ、
相手は呻きや何かで息を吐くがままになる。
この「呼気」のまにまに打撃をさらに
絨毯爆撃のように「落とせばいい」。
相手はその打撃をずぶずぶに飲み込むしかない。

ともあれ恋人同士の息づかい、
戦闘者同士の息遣いなどは
たぶん人間が生物として本能的に知るものだ。

マラソン終盤、デッドヒートの渦中にある走者たちが
相互の呼吸をどう聴いていて、
スパート時期をどう判断するのか、
それを想像しただけでも陶然としてしまう。

いうまでもなく喫煙は
そうした「呼吸」に
何か文化的な縁取り・色づけをあたえるものだった。
結果としての肺の衰弱も
喫煙の文化にはすでに織り込み済みだろう。

たとえばヨガにある呼吸による精神統一を
喫煙は煙によって二元論の乱れに代える。
拡散と集中がヨガのように明確なものでなくなり、
その明確さの除去のなかにこそ
「詩情的自我」が割り込む、というべきではないか。

ずっとそんな息をしてきた。
ため息とも少し似た、喫煙者特有の息。
そこには喘ぎの要素も描きこまれ、
弱体化・弱音化の傾きまではらまれる。

言葉を発する代わりの煙の吐き出し。
仕種の倒錯者として自らを定位しようとする野心。
煙という遮断物を通して「向こう」を見ようとする
ひとつの立脚の選択。

禁煙外来は12週間、二週ごとの通院をもとめている。
毎回、呼気検査があるようだ。
喫煙者の「息」では一酸化炭素濃度が高いらしく、
喫煙の有無はそれで測定される。
むろん非喫煙者の息には一酸化炭素はない。

これは恐ろしい事実を告げている。
たとえば二酸化炭素を吸い、酸素を吐く植物と
反対の気体出し入れを呼吸でおこなう動物とが、
環境全体のなかで相補性を描いているすれば、
喫煙者は一酸化炭素を併せて吐くぶんだけ
環境に溶融不能な「余剰」として
定位されるということだ。

喫煙者の哲学にかかわる。
自分が進行中の弱体性であるのみならず、
環境から無駄と名指しされることは、
嫌煙運動が起こるまえから
喫煙者の無意識がもとめていたのではないか。

喫煙の物質性と何か。
「煙化」ということだろう。
環境の、己れの「煙化」。
だから喫煙は哲学的には
まず有限性の先取りに落ち着くとおもう。

それで済めばたぶん喫煙は単純美徳だった。
ところがそれは、
ニコチンという依存物質をつうじて
自我と自我の(ありはしない)関わりのなかで
さまざまな密約まで構築してゆく。

私は私に依存している、というこの膠着文。
その仲立ちをするのが煙草で、
よって煙草の物質性も
「虚無である」と同時に「実質」なのだろう。

ナルシスが煙草を吸う。
そして喫煙によりナルシスが助長される。
近代以後は、喫煙ナルシスは
ますます文化的な鎧をおおうようにもなった。
僕もその鎧の効果をいろいろ考えてきたが、
禁煙がこうして続くうち、
何か別のものを考えなければならないと気づく。
たとえば呼吸。
喫煙は本質として呼吸に傷をつけ、
呼吸を弱体化させる営みなのだということ。

瞳が傷ついたひとを見れば
惻隠の情に駆られるだろう。
耳や脚が傷ついたひとでも同断だ。
では呼吸が傷ついたひとを見れば?

たぶん子供には喫煙の異常性を説くのに
以上の比喩で充分なのではないか。
もっとも本当の喫煙者は
その「比喩」が孕む意味の多層にこそ愛着してきた。
自分の息を「ため息」と似たものにし、
それを可視化するために
彼らは煙草をもちいるという
複雑なことも繰り返してきたのだった。

ともあれ、禁煙が一週間になろうとして
息が吸いやすく吐きやすくなった自分を感じる。
身体の原初的膂力が取り戻されようともしている。
愉快なことだとおもいつつ、
どこかで老いよりももっと弱体化が仕掛けられていた
かつての喫煙的身体を懐かしんでもいるのだった。

呼吸とは鼓動とならぶ根本のリズムだ。
ただ現在の僕には
浄土宗→親鸞の思考、往相・還相を考えるよすがとなる。
往相還相の最初のモデルとは呼吸ではないか。

となって、ふと気づく。
呼吸の形而上学化のためには
呼吸を自然化する非喫煙よりも
喫煙のほうが有効だということだ。
しかしそれが「近代の条件」にすぎないことも無論だ
 
 

2009年03月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

禁煙日記・またまた

 
煙のようなものだ、とおもう、
自身の喫煙イメージなんて。

禁煙丸五日を越えた。
丸四日の前回、
フラッシュバックのように襲ってくる
喫煙イメージについて考察した。

ヘンなことに気づく。
「煙草を吸う自分をイメージしていけない」は
否定のnotをどこに置くかで構文が変化するのだ。
つまりそれは
「煙草を吸わない自分をイメージしろ」
へと容易に変型する。

ここには「イメージしろ」という
強烈な命法の残像がただよってしまい、
結局は逼塞的になる。
この「想無想」、たしかにやばい。

ジョン・レノン「イマジン」に
うっすらと漂っていたもの。
あるいは「想像力は死んだ、想像せよ」の
ベケットの言は
吉岡実が引用して人口に膾炙した。

さらにははっきりと記憶にのこっていないが、
ブランショの『期待/忘却』では
「期待」にまつわる構文が変型されていって、
「待たないことを待つ」という、
絶望と期待の中間体のようなものが最終醸成されたはずだ。

いずれにせよ、自分に関わる想念は
とうぜんメタレベルをもふくんでいて、
「想無想」が「想」「無想」どちらの領域に確定されるのかは
けっきょく「自分」の関与性の問題に終始するということだ。

蛇が自分の尾を噛んで
ぐるぐる回るようなこの思考の空中領域は
「非知」のままに置け、というのが東洋的作法だろう。

「イマジン」などは楽観的アナキズムと
口やかましいひとに非難されたけど、
たぶんそこでは「非知」の質の東洋性、
その考察が抜けていた。

ブランショといえば、遅ればせながら
去年の秋に出た「現代詩手帖」の
生誕百年を記念した増刊を最近覗いた。
デリダ、ナンシー、ラクー=ラバルトに称賛を受け、
そうした人材とさらに交感するブランショは
往年の『文学空間』のような
理解しやすい所論をもう組み立ててはいない。

往年のブランショなら否定神学の枠組を堅持して
「作者の死」などがテキスト論理的に
どう変遷的に組成されてゆくかを見ればよかった。

ところが死ぬ前20~30年間のブランショでは
否定のpasが複雑に仕掛けられ、
一文にたいする距離が変化すれば
その見え方が変わるような書き方をし、
しかも各文が厳密な秘教性で結ばれてゆく。

これはフランス語の性質を吟味し、
その極北でのみ表現をおこなったようなもので
実は日本語思考の理解を超えるものなのではないか。
僕は増刊を半分読んだところで読了を諦めてしまった。
ラストの年譜は読んだけど
(「顔のない」ブランショに年譜が成立するとは!)。

話がずれた。

喫煙イメージの否定とは
「煙草によって人格をつくった自分」という伝説に
否定の逆落としをかけることかもしれない。

自己信頼的にはこうおもう。

・かつての自分は生活の節目を大切にし、
そのそれぞれを好きな喫煙で彩った。
(こう書いたフレーズは
喫煙を笛吹きなどに変えれば西脇的だと気づく)

・かつての自分はヒートアップする脳髄に
淋しさによる落ち着きをあたえるために
喫煙行為を愛着した。
(しかし実際はそれは
執筆最中のチェーンスモーキングという
最悪な事態へと突入していった)

・ひととの会話では喫煙で律動をつくった。
(むろん多くの相手はそんなことを考えもしなかったろう。
「間のもたせ」「気取り」「煙の向こうからの無礼な睥睨」、
それらを不快感をもって受け止めていただけではないか)

・散歩などでは移動する視界に縁取りをあたえ、
それを完全に絵巻にするために喫煙した
(ここでは視覚記憶を強化していたのかスルーしていたのか。
たぶん実質は喫煙によって「上の空」が増したのではないか)

そう、( )でセルフ突っ込みを入れた。
実際の喫煙はパブロフの犬的な反射にすぎないのに、
書いたことでは罠のように
「詩的な」自己美化がまつわっている。
たぶん喫煙イメージの廃絶は
その程度の薄甘い自己愛を断ち切れ、ということなのだ。

脳刺激的な行為は多々ある。
それらはすべて依存をもたらすという意味で
「ニコチン中毒」といった「たったひとつ」が
特権的=文学的に扱われていいわけではない。

酒や珈琲など嗜好品だけの問題でもない。
たとえば食事だって脳内快楽物質を発する。
それが不足して、空腹信号が躯に点る。
脳刺激は個体の生存に関わる本質だった
(セックスもある程度これに似る)。

ニコチンはそれに文化的な負荷を加えたのだ。
だから禁煙では人それぞれの思考が
文化論的に禁煙自体を処理をしなければならなくなる
(naruさん、それはきっとケータイ依存でも
同じじゃないだろうか)。

ところがたぶん快楽物質の具体比率が異なる。
ニコチンがたとえば
「落ち着き」「リズム」「節目」をあたえたのは事実だとしても
その効用は他の依存行為との具体比率の差として
記載されたもので
実際は詩的ではなく散文的なものだったのではないか。

ともあれ禁煙はたぶん「物」によってつくられた自己契約から
文学性を除去せよ、という命題に僕の場合はなるらしい。
だから禁煙日記を「自己」の問題として
延々書くことができてしまう。

しかし「自己対自己」の回路など
傍からみれば「再帰性」的定点の枠組に収まってしまい、
そういうものを事大視するのは滑稽だともわかってくる。
冒頭で「煙のようなもの」と綴ったゆえんだ。

むろん「煙のようなもの」には利点がある。
そのかたちの変化、拡散、無化を精確に言葉に転化すれば
そこに「詩」が出現するのもわかりきったことだ。
煙の物質性だけで詩を書くことは当然できないから
使用語には交易が生じ、
転化の晴れがましいざわめきも生まれる。
それらが最終的に「煙のように」拡散し無化すれば、
そこには定着性をもたない、最上の詩が「流れる」。

物質的想像力ということでいえば
(つまり口唇性愛性を離れれば)
何か喫煙は「気体的なものへの期待」だったろう。
ボードレールはたぶんへヴィスモーカーだったはずだが、
彼が「雲」を眺めることに拘泥したのは
喫煙者特有の「気体性への期待」だったはずだ。
草森紳一もそうだった。

それは己の臓器が煙でできている幻想にもずれたのではないか。
「霞を食って生きる」素晴しさを
「詩人」気質の者はみな考える。
世俗性の否定というよりも
それを緩慢で目立たない自殺の位相に置けるからだろう。
喫煙は、男性的拒食であり
人前に晒しても恥しくない「文化的自慰」だった
(ケータイもそうか?)。

前回も書いたように、禁煙はたぶん
その成功によって煙草そのものの存在を
忘却しつくすことではない。
煙草の存在、かつて喫煙していた自分を念頭に置きながら
持続的に「いま煙草を吸っていない自分」を
ほんの少しの将来へと積み上げつづけることなのだ。

この「積み上げ」を文字通りに受け取れば
ジジフォス的「苦行」がイメージされるかもしれないが、
それを「煙のようなもの」と考えれば、
空想のある種の質の領域へと
問題を単純に閉じ込めることができる。

そしてこう呟けばいい、
かつて自分が煙になろうとしておこなっていた喫煙は
最終的に自分が死に、煙となったときに成就される。
それまでに煙草を吸い予行しようと
予行をやめてしまおうと
結果などは何も変わらないのだ、と
 

2009年03月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

禁煙日記・さらにその後

 
禁煙がつづいている。
もうじき朝が来れば丸四日続行ということになる。

部屋の空気は女房が喜ぶほど澄んでいるし、
煙を吐き出す換気扇を回す必要もなく、
おかげで外は寒くても部屋内が随分暖かい。

ひとつひとつ挑戦課題ができる。
喫煙イメージを喚起する日常の個々を
喫煙なしにどうこなすか、ということだ。

昨日は読書でそれをした。
日曜までは時間の長くなる読書を
喫煙イメージを誘発する可能性ゆえに嫌っていたが
昨日月曜、それに踏み切ってみると
意外や、そのイメージがぜんぜん現れない。
一冊読み終わり、やや難解本へと切り替えても
結果は同じだった。
読書と喫煙が相補関係だと考えていたが、
実際はそうでなかったのかもしれない。

禁煙に踏み切ると
煙の刺激で潰れていた舌の味蕾が復活し、
ものの味の多様性がわかるようになって
食欲が増し、肥るという。
あまり肥りはじめたという自覚はないが、
腹は減るようになった。

で、昨日の昼などは近くのコンビニに弁当を買いに。
安価な唐揚弁当を平らげたが、
食後、強烈な喫煙イメージが湧きあがった。
唐揚の味の安っぽさが
煙草の煙の安っぽさと観念連合したのか。
慌ててのど飴を舐めたが、
このときは喫煙イメージを断ち切るのにじつは大変だった。
丸三日以上の禁煙の実績が無駄になるかとさえおもった。
ともあれ家に煙草を置かないこと、これに尽きる。

さて喫煙イメージとはなんだろうか。
フラッシュバックというにちかい。
ある行為をしていた自分と
その行為に伴って喫煙していた自分が
安穏の「対」として
実際の画柄のように脳裡に復元されるということだ。
この復元自体が、喫煙を誘惑してくる。
脳の再帰性が問題なのだった。

喫煙イメージに対抗するために
映像学におけるイメージ批判を代用することはありうるか。
それは画柄の自明性と物語創造の自明性、
それらが癒着した映画などを批判することだった。
そこではイメージは映画の道具となる。

ところが真の映画ではイメージの創造と
自身の組成の創造がパラレルで、
その成立過程の不安により、
実際はイメージ傾斜が起こっていないだろう、
という考えになる。
そうだ、この意味では度重なる喫煙イメージの復活は、
安直な映画の方法=クリシェと、
ありようが似ているということはできる。

イメージ批判はとうぜん、
一神教的な「偶像破壊」に行き着く。
なぜ偶像破壊が必要なのかといえば、
偶像保持者が特権階級とひとしくなれば
そこに富=イメージの偏在をもたらすからだろう。

イメージの多様な国が強国であるというのは
半世紀以上前の日米戦争でも明らかになったことで、
これは以後もずっと続いている事態だ。
たとえばアフガン/イラクはアメリカと
「イメージの外側で」闘った。
イメージ=思考の驕り=ブルジョワの着膨れ=瘢痕。
禁煙イメージの正体も
大方、その程度のものにすぎないだろう。

それを断ち切るということは
真の映画のように
「イメージによらない思考」を貫徹するということだ
(草創的な映画は事後的にイメージをつくるのみ)。
となって、一神教的、苛烈な砂漠風土が
脳の芯に出現してくるような錯覚に陥る。
禁煙は、イメージによらない思考風土に
脳をつくりかえることなのではないか--
そんな苛烈な「錯覚」がどうやら生じはじめているようだ。

いずれにせよ、喫煙イメージが
「自己郷愁」の一種だという点は確かだろう。
心地よい安穏。慣性の実質に入り込んでいた自己親和性。

たとえば僕は昭和レトロブームは資本の産物とだけみなし
実質は大嫌いだ。
下北沢再開発も再開発のままでいいし、
自分とほぼ同時代の浦沢直樹が描く『20世紀少年』の、
秘密基地も万博傾斜も、
「あったな」とは確認できるものの、
あそこまで執着に値するものではなかったと考える。
あれらはすべて「物語の方便」。
けっきょく、気持悪さを予感し、『ALWAYS』はみなかった。
音楽では「昭和歌謡」の生産性の低さを最終確認した。

となると昭和レトロを批判した原恵一によるアニメ、
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』だけが
映像による昭和レトロの嚆矢にして
最初の批判だった--それだけで収められるべきだった、
そういう判断となる。
《なつかしくて頭がおかしくなりそうだぜ》
というイメージ支配にたいし
しんのすけのように「ズルいぞ!」と喝破すること。
大袈裟なようだが、喫煙イメージ批判はそういうことにも似ている。

いずれにせよ、禁煙では自分の脳の芯との対話がしいられる。
このこと自体は退行的な事柄だ。
その脳の芯に曼荼羅的な実質を幻覚してしまえば、
対話は一挙にニューエイジ的にもなる。
脱体系・無時間・合体容易性などのイメージが
自身の健康イメージに安直に結びつく危険もあるのだった。

もともと70年代以降のアメリカン・エリートの出自は
ニューエイジにあったとみるほうがいい。
マリファナ→LSDのセカイ系体験は
空気「浄化」の禁煙運動に即座に反転する。
禁煙はセカイ系のもつ世界諸要素の排除を精神淵源にもっていて、
それを「健康」の名のもと
自己身体に再凝縮させる営みだったこともわかっている。

けれどもそのような反社会的・反歴史的な不平意識で
嫌煙ファッショに武装対抗しようとする立脚が
もうどうしようもなく旧くなった。
認知した「敵」と同等の姿になり、そこに入りこまないと
敵はもう諫止できないものになっているのだから。

ともあれ禁煙実行で自分の躯が
いかに資本主義的・植民主義的な混濁をあたえられた
歴史の産物だったかということがわかってくる。
わかってくるのだが、
以上書き付けた喫煙イメージ批判から
一神教的偶像崇拝禁止、昭和レトロ批判、
さらにはニューエイジ批判をもってくるというのは
やはり禁煙で正常な判断をなくしたうえの勇み足だろう。

ともあれチャンピックスで可能なかぎり
禁断症状が遮断されているとはいえ、
禁煙は深層では禁断症状との闘いという様相をもつはずだ。
だがたとえばコクトー『阿片』後半のように
凄絶な自己否定/肯定の点滅なんかありはしない。
随分と散文的に禁煙続行時間が過ぎてゆくだけだ。

チャンピックスって、アメリカの薬だろう。
悪癖遮断について自己神話をまつわらせない、
そんなアメリカ的思考が
すごく巧みに(つまりストレスを極度に軽減して)
禁煙成功へと導くチャンピックスには装填されているとおもう。

そうして、たった一点、アメリカ的恐怖だけがのこる。
つるり、とした禁煙成功体験の核心に
「フラッシュバック可能性」の恐怖だけが
うすく滲むという眺めなのだった。

たぶんそのようなかたちで
僕の禁煙は
「禁煙持続」という意識のまま終結するのではないか。

喫煙イメージのつよい行動のうち
いまだに踏み切れないでいるのが創造的執筆だ。
ある自覚がある。
僕はそういう執筆のとき、自分の脳内物質の幸福性を
かなりつよい確信で自覚してきた。
それらが騒ぎ交易されることで
詩的なインスピレーションが湧き上がる自己感触があった。

この脳内物質の備給を
少し前まではニコチンが宰領していたわけだが、
現在の感覚でいうと、
ニコチンが遮断されたいま
これらの脳内物質は分泌されないまま
まだ「行き迷っている」感じがある。

つまりこの禁煙の過程で
まだ最終的な「自己親和性」を再獲得していない不如意がある。
だから、詩作にまだ踏み切れないし、
たとえば詩書の書評執筆にも踏み切れない。

この感覚は当面、つづくのだろうか。
これはじつはかなり怖い「自己喪失」の感覚だ。
フロイト「悲哀とメランコリー」によれば
メランコリーの誘因は「対象喪失」だが、
その「対象」のなかに「自己」も入るという
「喪失」そのものの瞞着が
僕はメランコリーの空間/時間的実質だと考えている。

中間結論的にいうと、
依存対象の喪失ではなく
自己親和性の未回復によって
禁煙がメランコリーの引き金になるのではないか
という疑念があるのだった。
 

2009年03月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

禁煙日記・その後

 
結局、金曜日の朝七時半から
煙草を一本も吸っていない。
最後は朝食後の一服だった。

以後は風邪をひいて喉が痛い
という状況を利用した。
当日は雪混じりのとりわけ寒い一日。
その状況で故意に煙草を切らす。
「いつでも買いに行って構わない」と
自身に言い聞かせつつ、
寒さに億劫になる気持も利用した。

煙草を吸いたくなるとのど飴を舐めた。
喉の痛みは徐々に消えてゆく。
それでも吸いたくなると
小食をつくり、ほんの少し酒を飲んで
さっさと寝てしまった。

禁煙のためにそうしていたのか
風邪の治療のためにそうしていたのか
はっきりとしない。
ただ風邪は快方に向かい
禁煙は単純に維持された。

翌土曜。
起床後即座の一服はこの日もない。
風邪が治ってきて、
自分の脳の状態をより客観視できる気がする。

芯のあたりにしびれと
やや狭窄感がある。
はっきりいって不快ではある。
ただこの程度の不快を収めるために
折角(この段階で)丸一日つづいている禁煙状態を
破るなど勿体ない、という考え方をする。

そういえば灰皿は洗って棚の上にあげてしまった。
大量にのこっている百円ライターが無残。
僕の銘柄は自販機に通常ないエコーなので、
コンビニや煙草屋でカートン買いをする。
その際、景品として百円ライターがつくので、
使える百円ライターが二、三百たまっていたのだった
(誰かほしければ差し上げます)。

喫煙イメージを助長しないこと。
つまり喫煙と関連のふかい自己行為を
現段階ではなるべく避けること。
まずはパソコンでの文章書きだろう。
つづいて読書。

土曜はパソコンをひらかなかった。
読書は岡井隆『『赤光』の生誕』を読み出したが、
あまり読み進めなかった。
風邪の療養と禁煙のため
他人があきれるくらいの昼寝をつづけたのだった。

ただし土曜午後は鼻水も収まって
調子に乗って女房と
新宿高島屋に買い物にゆく。
久しぶりの晴れなので
デパートはものすごい雑踏。
その人の流れにストレスを感じたらしい。
それで煙草が猛烈に吸いたくなる。
むろん我慢した
(いつもはそういうとき
二階入り口に設けられた喫煙所で
煙草を吸っていたのだった)。

喫煙イメージが
たった二日程度の禁煙で消えるはずがない。
どうするか。
「自己診断」を愉しむことだ。

どの自己行為が喫煙に依存していたか。
どの状況が自分にとってストレスフルで
喫煙を誘引していたか。

いま喫煙衝動をおぼえる諸局面によって
自分のかつての生活の傾きを
「探偵」できることになる。

その探偵のみで満足して、
煙草を吸わない。
そうして何か自我がふたつに殖えてゆくような感触が増す。
この二分性が再度一元化されて
たぶん禁煙も完成するような気がする。

高島屋からの帰り道、
ばったり佐々木ユメカに会う。
彼女はマイミクでもあるが
僕の禁煙決意を知っているかどうか。
けれど禁煙のとっかかりに
彼女みたいな「天使」に会うと
苦労を祝福されているような気になる。
乳母車の赤ちゃんは旦那さん似だった。

帰宅すると体力の弱まった時の外出だけに
かなり疲れている。
さらに喫煙イメージが湧いてくる。
夕飯はそれで六時前から食べ出し、
アルコールの力も借りてまたもさっさと寝てしまう。

今朝。起床すると
脳の芯の狭窄感が改善されている気がする。
ニコチンをもとめる神経と
その神経に「蓋をする」チャンピックスとの闘いは
どうやらチャンピックスの勝利に近づきつつあるようだ。

何しろこの禁煙期間は「自分を試す」悦びがあり、
それで起きて、今度は
故意に禁煙イメージを惹起する行動をしてみようと考える。

まず珈琲を飲んだ。
珈琲は喫煙と相補的だから
なるべく避けたほうがいいと
禁煙外来にいわれていたのだったが、
現状の禁煙による思考力の低下に
珈琲で歯止めをかけることができないかと期待した。
結果はよくわからない。

そしてパソコンでこの文書を打っている。

ともあれ「風邪を利用して」
一週間ならぬ三日というタイミングで
フライング気味に本格禁煙に踏み切ったことになる。
チャンピックスの脳内蓄積も万全でないままに。

本来はチャンピックスを服用しつつ
煙草を吸ってくださいという禁煙外来の指示だった。
たぶんその過程で、煙草がまずくなることが
禁煙実現のための必須事項だったのではないか。
僕はそのプロセスを飛ばした。
つまり「煙草が旨い、煙草を愛している」ままに
煙草を手放してしまうことになる。

これが禁煙完全実現の折に
メランコリックな喪失感情となるのか
ちょっと心配だ。

それと。
喫煙イメージとこれまでつよく結びついていた諸行為を
喫煙なしで貫徹できるかは
今後も個別にクリアしてゆく課題なのだった。
春休みが終わって学校がはじまる。
すると「授業後」はどうなのか。「会議」はどうなのか。
日常生活では「映画鑑賞後」はどうなのか。

そういえば、僕が喫煙衝動を最もおぼえるのは
「美人に接しているとき」と
「風景が光と開放性にみちているとき」かもしれない。
これらもいずれ試してみなくては。

現在、連続禁煙は丸二日に近づきだした。
注記すればこれは40年近くなかった事態です。
自分にとっては光輝く奇蹟なのだけど
他人には散文的でバカバカしく映るだろうなあ。

一個だけ本質的なことを。

僕は以前、『精解サブカルチャー講義』という本で
「ダイエットは必然的に失敗する」と託宣した。
ストレスから逃れるためのダイエットが
それ自体ストレスフルであるとき、
ダイエット以前、ストレスに悪の連鎖ができてしまい、
ダイエットはその構造に呑まれる、としたのだった。

従前の禁煙の失敗は
このダイエット失敗の構造と相似的だった。
それでどうしたか。
「自己の断片を探偵する」ことにしたのだった。
自己愛を積極的に活用する。

ダイエットの問題は自己観察を峻厳にしていって
死の直前の痩身まで実現してしまう拒食を
ダイエットの成功と失敗、
どちらに看做すのかというアポリアにある。

実は禁煙にはこのアポリアは構造的にありえない。
だから気楽に「自己の断片を探偵する」こともできる
 

2009年03月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)