問題点の整理3
繰り返すが、はらぐろくんはこう書いた。
●
文学は権力性と常に結びつく。
それは時代によって、
宗教や、政治という権力性だったりしますが、
「それをすべての人々に解放しようとしたのが
「近代文学」というデモクラティックな企て」だったとしたら、
現在はそれが反転して、
「意味」や「経済」や「情報」という専制的権力と
手を結ぶものに成り下がっている。
●
ここから文意ははらぐろくんの
東浩紀による舞城王太郎論への批判に結びついてゆくのだが、
東評論の商業性にとむ権威にたいし
「問題点の整理2」、その書き込み欄に僕が書いたことが
良い補助線になるとおもう。
もう一回、その論旨を書こう。
ただし矛先は往年の〈現在も?〉蓮実重彦だ。
・「凡庸批判」が主題なのに、
彼は凡庸な読者を想定し物を書く。
・結果的にその読者の自意識が過剰になる。
これは構造的な必然だ
なぜ蓮実はこんなにわかりやすい矛盾律を
自身にひきつけたのか。
読者はきっと具体的に想定しないと
それが商業性に転化しない。
その想定とは画定であって、
だから実際は区別線、強制力の行使ということだ。
読者は心理的干渉により「あらしめられる」。
このタイプの読者の発生が抑圧の結果なのはいうまでもないが、
商業性とはたぶん抑圧の痕跡にこそ関連している。
たいした例示とはならないが
僕などはこの想定がとても曖昧だ。
心あるひとが読んでくれればと漠然とおもうだけ。
年齢も性別も知性の度合も何も考えていない。
中心読者層を年齢性別、
くわえてその所得水準にまで細分する
代理店-クラスマガジン的発想ほど
呑気な自分に縁遠いものはない。
電通嫌いを公言する平岡正明さん並みだとおもう。
ひところ『電通文学にまみれて』という渡部直己だったかの
文芸綜合評論〈時評集?〉があったはずだが
刊行当時、彼への興味がもう薄れていたので未読だ。
「物書きはセルフプロデュースをおこなわないと」と
掛け声のようにいわれていた頃だったろうか。
半ばはその言葉を信じ、半ばはそう語る眼前の者を軽蔑した。
軽蔑して、こういう問題圏からの明瞭な方針転換として
詩を書き始めたところが僕にはたしかにある。
本当はこの世界にもセルフプロデュースがあったのだ。
水無田気流の逡巡しない果敢さがうらやましい。
渡部が電通文学として何を名指したかはわからない。
「文学」においてはトレンドが
文体、キャラクター設定、ストーリー展開等々の諸局面で渦巻いていて、
だから「売れるための小説講座」なんぞも即座に開ける。
むろんそれは原作権の獲得可能性など、
文芸資本にとっての審査基準となり、
これはメディアミックスを画策する電通などの
作品力測定基準とも当然なる。
講談社の一挙の斜陽だってコミックスの売れ行き低迷と
原作化権収入の激減、このダブルパンチによっていた。
だから産業としての文芸にこうした電通性は大切なのだ。
あ、そうそう、今年の卒論には
「読まれるための詩集をつくる」と
卒制の目標を掲げている者が二人もいて、
いよいよ「売れない」文学が
価値倒錯の時代に入ってゆくような気がする。
単純に売れる作家の像だって戯画的に描くことができる。
・若い女であること
・美人であること
・文体も心根も軽薄であること
・権威風をふかす編集者にも従順であること
・性的告白をいとわないこと
・自身のこわもてだって演出できること
・音楽とか絵画とか写真とか副次的な才能ももっていること
・小説なら小説の蓄積知識がある程度までしかないこと
・書かれたその小説が「つまらない」こと
皮肉を書いているのではなく、
たぶん現実的に商業文学の趨勢が
この方向に移行している。
「勝ち組」は自身の優位性を固めるべく
目配せにかなう自分と似た方向の者のみを
賞にピックアップしてゆく。傾向の確定。
彼らの甘い脇をくぐりぬけてゆく多くが「若い女」。
高橋G一郎が「若い女」をどれだけとっかえたろうか。
こないだの中也賞だってそういった算段の単純結果だろう
〈と高の括られる選定結果なのが哀しい〉。
さて東浩紀。
凡庸批判を主題にする蓮実の読者がじつは凡庸だという倒錯を
東は熱心に解析したはずだ。
単行本に収録されているのか心許ないが、
以前、「図書新聞」一面に掲載された東による蓮実批判は
フランス語の時制から説き起こし、
蓮実の文体にはその類似性を追及した痕跡があるとした。
結果、蓮実は直接性の除去に成功し
文を覆う層として「皮肉」も獲得したのだという。
この「皮肉=シニシズム」が
いまとなっては考えられないが
バブル時代当時は商業性だったのだ。
ただし蓮実同様、自分の読者を画定しなければ
セルフプロデュースができないと東浩紀は考えたはずだ。
彼が想定した読者は「勉強好き」。
勉強好きの東ならではの選択といえないだろうか。
結果、勉強好きが勉強好きの本に群がるという
暑苦しく逼塞的、日本的ともいえる構図ができあがる。
この構図はずっと温存されているのだが、
東はたぶん二つのアイテムでガス抜きをおこなう。
ネット親和性とサブカルだ。
そしてこれらが綜合され
アカデミズム・レベルのサブカル学で東浩紀の諸作は
スタンダードの位置を獲得することになった。
「勉強好き」を想定読者にしたのは電通的には満点だろう。
そこではサブカルがもうわからなくなった
「元祖サブカル」親父から
ゲーム批評に知能指数の高いものがないと嘆く坊やから
一挙に参入することになった。
デリダの印籠を出せば学術的なブラフだってかませる。
書くものは速さがあっても慎重だから
描出するおたくがおたくに似ていないという
岡田斗司夫のようなヘマをやらかすこともない。
東の処世は比較的シンプルな鉄則でつくられている。
何しろ、柄谷/浅田/東という三点構造を付与されて
センセーショナルに思想界デビューを果たしたひとだ、
以後もこの「三」の法則が遵守される。
自分が「一角」に立ち、
知名度の高くなった自分が給付する代わりに
他の二人からも給付を受け、
最少の知的共同体を演出する。
この共同体は進行的であり、可変的。
以後目立つものでいえば、共同体は次のかたちに変化してゆき
しかもそれは現在も途切れていない。
・大塚/宮台/東
・大澤〈北田〉/斎藤環/東
はらぐろくんが提示したいだろう文脈にのり
故意に揶揄の調子を混ぜてみたが
僕はこのような東がとても優秀だとおもう。
揶揄してみても、彼の商業性が磐石でびくともしない。
この東が岡田斗司夫化しているとセンセーショナルに指摘、
下克上精神での代位を図ったのがたとえば宇野常寛。
そんな野心をもつだけあって立論も展開も粗く、
啖呵を切ったわりに書かれたものは
「より若い世代」からの別角度による細部検証にすぎず、
東の書き物総体への異議申立などではなかった。
しかもこのお調子者は海容な東にとりいれられ、
やがてはその懐刀程度に居場所を落ち着けるのではないか。
大塚英志のような世代論のレベルではなく
北田暁大、鈴木謙介のような思考の芯の部分で
どこかで東とは完全同調しない心意気がほしいものだ。
さて東浩紀が岡田斗司夫化しているのではないかという疑義は
先の月曜日の四限、僕の研究室で
卒論におたく論を書きたいという
身近な学生から再度、僕に提出された。
要約が乱暴なのはわかっているが、
東のおたく定義は、
作品をかけあわせたりその別バージョンを指向したりする
「二次創作」の欲望をもつ者とされる。
作品それ自体のアウラや確定性がもう顧慮されず、
参入的に作品を遊戯する傾き。
このとき作品は個々性から離れ、
個別性の境界が溶融してデータベース中に浮遊するようになる。
この環境あって作品の離散集合がより促される。
で、その女子学生は自分はサブカル好きを自認するが
「二次創作」の欲動がないと気づいたという。
つまり自分のアイデンティティを根拠に
「おたく」論を書こうとしたその根底が崩れつつあると。
どうしよう、というのが彼女の相談だった。
僕の判断では『動物化するポストモダン』に代表される
東浩紀のおたく論は
実質は90年代末期に適合した歴史的産物にすぎない。
効用の範囲も転覆力も鮮やかだったから
そりゃ書かれたものは即座に指針化し無敵化した。
ただ時代の限界をいうだけでは
論旨は宇野常寛の水準に終始してしまう。
その思考の限界がいわれなければならない。
のちに小説家になる者が小説を読む場合に
彼〈女〉はその小説を参入的に読み、
最終的にはその小説を創造的に受容する、とはさきに書いた。
東がおこなう分析はその水準ではなく
マニュアル化と適確な整理だ。
これを「適格化」と読んでみよう。
「適格化」は実際「対象化」ではない。
これも前言したことだが、
作品は「まぼろし」の部分もふくめ
脱定位的に対象化されるしかない
--それは作品に切り込んでゆくのが
いつも「不確定な」自己でしかないからだ。
東浩紀が放置しているのはこの問題だ。
大塚英志はなぜ東の評論が参入的でないかを
執拗なほど攻撃する。
そこには心情的な嘆きも入っているかもしれない。
僕の言い方なら東は
対象に適格化をほどこしているだけだということになる。
ただし東のこの本質的な「冷やっこさ」が
僕は大好きだったりする。
東の適格化は対象とその周囲の遠近法の創出という手段を通る。
そうしてたとえば以下の遠近法が論題となった。
サブカルとデータベース。
個人の自由とセキュリティ。
政治ニヒリズムと2ちゃんねる。
このときの距離感や相互干渉による矛盾律の測定にかんし
東は実際、驚くべき分析力を発揮する。
ただし対象がその幻像をふくめ真に対象的に析出されることはない。
東はロリコン者のように欲望がその中心=性器に向かわない。
処理可能な記号、つまり猫耳に代表される「萌え要素」に向かう。
そしてそれで「祭」を繰り返す現象を確実に拾い上げるが
たとえば猫耳の祖型のひとつであるはずの
大島弓子のマンガ、つまり中心に向かってゆかない
〈同じように萌えを論ずる伊藤剛が
ずっと少女マンガフォビアだったのと並び面白い傾向だ〉。
東は哲学者であるのと「同時に」環境デザイナーにも似ている。
三による共同体の運営だってそうで、
東は電通的に環境を参入的に整備しつつ
自説に刻々と信憑をあたえてゆく。
だから東が参入的であるか否かを問うなら、
大塚には悪いが、答はたえず「参入的」の判定にならざるをえない。
それなら、はらぐろくんや僕の学生に残る、
「それでもの」齟齬感とは何か。
それはつまり東が「まぼろし」までふくめて
対象に参入していないという指摘で足りるのではないか。
つまり真の対象参入とはその対象の物質性に触れることを過ぎて
そのまぼろしに触れることに本質を見出すのだ。
東の立論は関係性を鮮やかに設置することで機能している。
そこには唯一、弱点がある。
たとえばサブカルの外側にあるデータベース。
それは90年代末期の幻想をひきずっている。
東のいうデータベースは当時先駆的に
パソコンモデル的=グーグル的だったのは言うをまたないだろうが、
のちデータベースはそれ自身が不毛の蓄積でできていることを
明らかにしてしまった。
同型の無限加算の影に、ゲットしたい真実が隠れている。
それで間に合うとするのは
サブカル講義にパッチワークレポートを出す程度の
学生ぐらいではないか、実際。
作品への原初的接触にたいし接触恐怖のある者にとって
データベースが便利なだけだ。
これがいま「凡庸」の生産装置になってもいる。
そう考えてデータベースの枠組を外すと
一挙に東のおたく論は機能失調に陥る。
たぶん「二次創作の意欲のない自分は
じつはおたくではないのでは」という
アイデンティティクライシスに陥っている僕の女子学生は、
90年代からゼロ年代という無の荒波に洗われ
自分のサブカル環境が荒廃化している点に
意識が及んでいないのではないか。
このときにこそ宇野常寛的な物言いが「付帯的に」可能になる。
「萌えは旧い」。
個人の自由とセキュリティにかんしてはどうか。
東のセキュリティ論は情報度が高く、
その意義の善悪両面をえぐりだしながら
参入的に以後のセキュリティ論に一定の方向をあたえた。
泥臭さを発露しなかった。
ただし国民背番号制レベルの左翼小児病的「反対」には
見事に否をつきつけた。
この問題はユビキタスへと延長され、
鈴木謙介などが自由意志の劣化に
どう哲学的に抗うかの問題へと発展させている。
だがそれはやはり社会学の問題なのだった。
セキュリティは
グローバルスタンダード下、自由競争を保証し、
かわりに自己責任だけが問われるネオリベにとっての命題だった。
自由活動だけを保証する小さな政府の存在と対だったのだ。
これもまた歴史変化によって崩れた。
一個は、セキュリティ意識が
自警団化した市民社会レベルに拡大していって
たとえば異物排除の主体が誰だかが不分明になりつつある点。
一個は、グローバルスタンダードの破産によって
それぞれの国が
国家大の民主社会主義の構築を迫られているなかにあって
再分配でも最低の生活保証でも
政府はまた「小ささ」から「大きさ」の領域に復帰しつつある点。
そうなると理想国家が目指すのは「混在」だろう。
それは統御力を弱め、安全と危険との混在〈共存〉を目指すという
見方によっては逆コースを辿ってゆくのではないか。
セキュリティ議論は今後はそこに干渉し、
さらに複雑化を経験してゆくはずだ。
いずれにせよ、背景となる国家の想定が変ったので
東のセキュリティ論も旧いものは歴史的産物に変ってしまった。
枠組を取り払うと機能しなくなる対象への論議。
哲学がその有効性の永遠を目指す学問だとすると
東の議論〈のある部分〉は哲学に似ていない。
もっと軽薄で、時宜に応じる環境デザイン論のほうに似ている。
ところがこのようにしてしか「現状」を
深く分析するのが不可能になった
--これがポストモダンの実情なのも確かで〈だから非難できない〉、
東は結果的にいうと、相矛盾する諸力のなかで
対象ではなく自己の有効性を「適格化」しているにすぎない。
だが商業的な書き手としては必要十分条件をみたしているのだ。
東浩紀は「おたく論」のなかで
おそらく意図的に、おたくの本質を隠蔽した。
たとえば80年代のおたくと
90年代のおたくはちがう。
前者は肥満で長髪が脂ぎり、でかい肩掛けバックを提げた
にきび眼鏡のコミュニケーション不全者。
後者は気弱で接触恐怖をつねに感じる
ルックス的にはすっきりした者たちで
「腐女子」の称号を用いようとどうしようと
こちらには本質的に男女差を設ける必要もない。
たとえば大塚英志は前者のほうに世代的郷愁を感じつつ、
おたくは歴史概念だといおうとして
東が一旦もっていたおたく概念の歴史解放性、普遍性に
苛立ちながら口をつぐんでしまった経緯があって
執拗に東に「反抗的」なのではないだろうか。
大塚英志の指向する「おたく」原点に立ち返る意義が
現在はあるとおもう。
東浩紀の揚言にあっては
「おたくは世界を救う」というように残響が響いた。
ただし大塚なら
「世界はおたくを救わなければならない」という命題が
いつも本質的である点を意識しているだろう。
振り返れば70年代後期に入り、
サブカル環境の幅も歴史性も拡大し、
サブカル知識が熱狂的に蛸壺化して
若い世代の会話がディスコミュニケーション化してくる
素地がうまれた。
一個の存在が全的でないもの、部分的にものにすりかわり、
その効力の限定性は、
そうであっても経済的な豊かさのなかで不問に処された。
誰が何といおうとそれがおたくの歴史的発生だ。
それはだから映画、アニメ、マンガに限定されない。
現代詩おたくだって、明治文学おたくだってありうる。
音楽おたくだってある。
東のいう「二次創作」は
映像的なものに限局されすぎているきらいがあるが
それは彼に真の意味での「趣味」がないからだ。
二次創作にもっともふさうのは短歌・俳句・現代詩のたぐいだろう。
手軽だからだ。
それとサンプリングを駆使できる音楽。
本当は二次創作ではこれらこそが顧慮されなければならない。
さておたく論の本義に戻ると
おたくは豊かな経済性に下支えされた
「認識の不可能性」「行動の不可能性」だった。
おたくは前言したように
興味が世界にたいし部分的にしかすぎない。
隣接性、連絡性によって織り上げられている世界本質にたいし
東浩紀とちがいおたくは参入ができない。
コミュニケーション不全、教養崩壊、恋愛不能、
二次元コンプレックスなどをいうまえに
世界参加ができず異質性への愛をもたないおたくが
経済的支えをはずされて世界の現状を彷徨しだした現在では
大塚のおたく論のほうが祖型となるいうことだ。
データベースの有効性はパソコンの有効性とひとしいが
それが取り払われたときは
二次創作も機械の補助を借りない
詩歌のような分野に集中してくるはずで、
それらは現状の東の興味の範囲外にある。
それで東のおたく論の有効性に
再審の必要がでてきたということだ。
「おたく」の自覚がある者は
たとえば僕が教える立教にも数多くいる。
多くは自分が歴史存在として
どのような不可能性を負わされているかを自覚していない。
自覚してもその是正を
大学在学中におこなうのは不可能なのではないだろうか。
だから僕などは可変因子を組み入れるだけにとどめる。
「趣味」が広げる幸福を温存しつつ
たとえばマンガを大スクリーンに「上映」しては
参入的にその物質性と戯れてみせる。
たとえば詩の実作ゼミを多様に組織して
より手許にあるものだけで
作品化の実質に辿りつかせながら
詩によって彼らを巣食っている横断不能性までもを加療する。
自慢話になるかもしれないが
こういうことの効果を大声で啓蒙しないから
僕はたぶん売れないのだともおもう。
ただ生き方の現状にはあまり後悔がなかったりもする
問題点の整理2
はらぐろくんは、ウルフ『灯台へ』を
ゆっくり読んで幸福だったという。
この指摘というか体験はとても重要なことだ。
大学新一年生の小説への接し方をみて、
そうなのか、とおもうのは、
彼らは現状、享受者として幸福になれる可能性をもっていても
小説を創造的に読む幸福を得るにはまだ遠い。
実際に創造者として彼らを遇してみないとしょうがない、
ということだ。
書かれたものはすべて物質性をもち、
同時に「まぼろし」の相貌を明らかにしている。
しかもそれが「まぼろし」になる理由は明らかだ。
量子力学レベルでの観測系と被観測系では
計測対象が微細なあまりに
被観測系は観測系の干渉を受ける。
結果、計測値・計算値は
この干渉を割り引いて出さねばならない。
となると一次的な被観測系は
観測系次第で可変的だということになり、
つまりここから主体にとって対象は
まぼろしだという単純結論も導かれる。
となると「参入」の得手不得手によって
対象世界は創造的にすりかわってゆく。
この偏差を認めることが「作品」体験の前提にあり、
だからこそ諸評論並立が倫理的に正しく
「唯一の評論」があることが誤りとなる。
要するにそれが、人間の力が
どの分野にも必然的につくりだす偏差ということだ。
だから批評に硬直した有職故実の伝承があってはならない。
前言した僕のマンガ講義ならば、
僕の身体的偏差によってゆがめられるように
画像が大画面にたいし移動し、僕の声が挿入され、
礼讃にしても揶揄にしてもノイズが入ってゆく。
たとえば大島弓子という個別性のうえに
僕という個別性の刻印が押されるのだった。
そのうえで受講者は大画面に投影された僕の創造的な紙芝居に
確実に「打たれてゆく」。
それは対象の一回性にたいする一回性の爆発だ。
たぶんこの潔さが倫理的だと問題をずらしてみたい。
たとえば東浩紀の流れにある伊藤剛においては
彼のいう「キャラ」でも何でもいいのだが、
それは彼なりの定義をあたえられて確実に教条化してゆく。
書き方そのものにそういう流儀が選択されているのだが、
この彼の論理展開に信憑をあたえるのが、
東浩紀の著作から援用されてくる細部だったりする。
べつだん僕はそんなに怒りはしていないが
俗に言う「東一派」には
アカデミシャンが陰謀のようにおこなう
相互引用による信憑と点数獲得が多々みられる。
そして言及対象なら一分野ではっきり限定されてゆく。
例外による論旨変更は
彼らの註記が頻繁でも
僕の眼から見ると実際はない。
逆に僕のサブカル本は
一回性の爆発によって多く書かれていて、
教条化できる箇所も少なく、
だから学生のサブカル論文には適用しにくい。
こういう流儀を僕はやっぱり平岡正明などから学んだ。
試しに誰かが独自の山口百恵論でもジャズ論でも企てたとする。
そのとき平岡論文は傍系参照としては置かれるかもしれないが
中心検討材料として百恵「などより前に」
使用するのは完璧に不可能だろう。
それもまた一回性の爆発だからだ。
しかしこれによっても
書かれたものに接することが幸福となる。
川上未映子の『先端で、さすわ・・』
〈題名を正式に書く気もしない〉で驚くべきは
難しい語がつかわれているわけでもないのに
用語センスに個性の烙印が押されてあり、
同時にリズムが気味悪いので、
即座に読むことが「忍耐」にすり変ってゆくということだ。
繰り返すが、これが小説か詩かなどは問題を形成しない。
収録されている作品を個別にみれば
実際、詩と小説のあいだの濃淡もかたどられている。
ただこのようにだらしなく書かれては、
読むことに付随する幸福が一切出来しない。
このことのほうがずっと問題だということだ。
小説を読む至福については
個々人の古典モデルがあるとおもう。
その対象が
『源氏』であってもゴーゴリであっても構わない。
保坂和志の小説論の連作などは
実は参入的に小説を読むときの逡巡の呼吸をよく伝えていて、
これがたぶん感情や行為の前提に
「幸福」を置いているためだという点は
よく考えられるべきだとおもう。
保坂の書くものにもむろん教条性が見当たらない。
それゆえに、僕自身が考える軸での倫理性に見合う。
ちょっと書いたものが吉田健一の呼吸にもなった。
保坂の書くものにもそれが舞い降りてくることがある。
小説読解を話題にしたいので、吉田健一を例にとろう。
たとえば僕が小説家を志していたときに、
一時期、短篇小説集の最高峰にリラダン『残酷物語』を置き、
長篇小説の最高峰にプルースト『失われた時を求めて』を置いた。
そう置いてみると即座に誰もが意気阻喪するとおもうが、
この抑圧を日本的に解決したのがたとえば吉田健一だ。
『残酷物語』のかわりに『怪奇な話』を
プルーストのかわりに『本当のやうな話』を代置できる。
プルーストにかわりに中村真一郎『四季』の連作は置けないし、
リラダンのかわりに筒井康隆の初期短篇も置けない。
つまり吉田健一の書くもののなかのほうにこそ
爆笑、あるいは失笑に値する偏差が生じていて
これが文学的祖型を代置させる暴力の実質となるということだ。
ここにさらに、はらぐろくんが書いた
中枢性/非中枢性という対立概念を加味してみる。
僕はウルフの門外漢だし、
たぶん非中枢小説と単純に分類されるだろうものもほぼ門外漢だ。
たとえば『フィネガンス・ウェイク』は読んでないし
ルーセルも読んでいない。
読まずにいうのだが、これらでは中枢は小説自体が受け持ち、
人物を中心にした対象の外側にまず脱中心的に散種され、
結果として、書かれたものから作者の中枢性を
反射的に予想することが不可能になってもいるだろう。
この着眼で書かれた久生十蘭論を
江田浩司さんや大津仁昭さんが参加している短歌同人誌で読んだ。
町田の名物ラーメン屋「ロックンロール・ワン」に並ぶあいだ。
非中枢的小説は読解に実際ものすごく苦労のかかるものだ。
しかしその読解には幸福もともなうはずだ。
プルーストやリラダンではどうか。
リラダンでは逆説がすでに物質化している。
たとえば主題系には「蒼白」などを数えることもできる。
これらが合わさって生じているようにみえる奇想が
実際はリラダンの必然と捉え返したとき
参入的にリラダン小説の内実を
読者が創造できるようになる。
この作業は本当のところ、
誰もが一定の偏差のなかで実現するものなのかもしれない。
そして着実にあるだろうこの偏差の予感が幸福だろう。
プルーストにおいては
「心情の間歇」といったはっきりとしたテーマの解釈ならば
解釈の教条性に凝り固まる可能性もある。
ただあれほどの分量のある小説ならば
参与できる主題系が無限に林立しているといっていい。
それをたとえば植物的なものに限局して、
「年輪」や「花粉」で記憶台帳を検索することもできる。
それらは対象の質からいって個々人の体験の偏差のなかにあり、
同時に普遍的なのだった。
言葉を変えれば一回性の爆発でありつつ
多様性という正解へと導かれるものだった。
だからプルーストも創造的に読むのに値する。
創造性は吉田健一で例示したように「ヘンなもの」にたいし
とりわけ豊かな作動性を見出す。
大学新一年生ではこれができない。
これは悦びの体験のなかから徐々に学ばれるものだ。
たとえば伊藤剛のマンガ評論にも無駄がなく、
そこでは偏奇さえも中心に置かれれば偏奇性を失う。
対象は生け捕りされず、教条がとり囲む。
つまり小説読解の幸福とは別次元に文全体が機能している。
少なくともそれが覆されるためには
記述の細部を読者が
体験的・創造的に受けとらなければならない。
このときにこそ「趣味」があるのだろう。
たとえば僕は命令形を乱発する詩が
どうしても生理的に駄目だ。
漢字が多い詩なら助詞が柔らかくないと駄目で
それにはたぶん俳句・短歌の素養がいる。
それがないものが駄目だ。
「歩く詩」なら西脇という原型を透かし見させながら
同時にそこから批評的に離れていないと駄目だ。
ということでいうと伊藤剛さんのマンガ評論も
多様なものを、ときにカタログ形式まで駆使して扱いながら
実は「趣味性」が稀薄なのではないか。
そしてこれがもしかするとはらぐろくんのいう、
東浩紀の倫理性のなさに直結しているのかもしれない。
ただし事は微妙だ。
東浩紀はたとえばラノベを読んでいる身振りにおいては
その趣味性演出に隙がないからだ。
ずいぶん話がとっちらかっているが、
はらぐろくんのしるした新しい小説家については
実際に読んでみることでしか
何かをしるそうとおもわない。
当然、前の日記の書き込み欄で
依田さんとkozくんのくれた情報も頭に入れる。
それが本当に脱中枢化された小説だとして
その読解に幸福感が伴うかが是非の判定基準となるだろう。
川上未映子のような体験はもう真っ平だ。
さていままで書いたことは、
以前の日記「現代的啓蒙」の本文にも関わる。
そこで僕が相手にした友人もまた、
詩のフィールドに自分も立っているという実感がなく、
詩や詩作者についてずっと考えつづけていたのだとおもう。
だから松浦某などという紛い物の権威にひれふしてしまう。
それはたぶん「幸福感のない」詩書の読み解きだ。
僕が彼にたいし発した言葉もまた
そういう観察のなかですべてつむがれたものだ。
ところが彼はそれを、
「読んでいる者」が「読んでない者」にたいしておこなう
抑圧とのみ受け取り続けた。
だから彼の言葉がたえず再反論を呼び込み、
結果、彼の傷口が深まってしまったのだとおもう。
あるものを読んでいることで、
それを読んでいない者を支配・抑圧しないこと。
この逆を驚愕まで心理要素にもちいて
やり続けたのが蓮実重彦で、
だから僕は彼の凋落が実質は決定的だとおもっている。
そういう本質をみなければならない。
保坂の小説論のいいところは、
考察対象に時空の限定性がなく、
記述が一回性の爆発であるとともに
そこに対象選択の抑圧がないことだ。
誰もが注意しなければならない。
いま日本の小説家でここが面白いです〈新しいです〉。
日本の詩作者でここが面白いです〈新しいです〉。
これは、善意による伝達であっても
やはり「抑圧」を結果してしまう。
受け取り手がその対象を読まないでいることも自然、
その対象を読んでいることも自然、
やがて読んでしまうことも自然とでもいうような
記述深度の多重性によって
ものは書かれ、それで読者を静かに動かすべきだ。
蓮実の映画評論はいつも
「それを見ない者は不自然」という恫喝によって書かれていた。
幸福感をもたらす読解が
結局は思考の個別性による点は前言できたとおもうが、
そのための釣り餌はある。
当然、読者個々で偏差をしるす個別体験だ。
たとえばプルーストが敷道を叙述するにしても
その像は、プルーストの伝記によらなければ
読者個々の心のなかでそれぞれ別の姿に結ばれるだろう。
そして、そういう幸福を、
作者のほうは読者に当てにしてよい。
今朝はじつは三時に起きて、
河津聖恵さんからご恵贈いただいた新詩集『新鹿〈あたしか〉』を、
川上未映子の悪夢を振り払うように読み出した。
この詩集が幸福だったのは
たったいま僕がつづった幸福の次元による。
中上健次の足跡を中上健次の文を引用しながら追う。
紀行文的に行儀の良い文が分かち書きされつつ
ふっと代替不能の詩性を獲得してゆく。
作者のようにいまでも中上を手許に置いている読者は
期待されてはいない。
受け取り手がその対象を読まないでいることも自然、
その対象を読んでいることも自然、
やがて読んでしまうことも自然、
この三幅対はこの詩集にも装填されている。
だから中上にこの詩集を通じて再び出会う幸福より前に
もっと別の幸福がこの詩集を覆っているといったほうがいい。
さきに紀行文、と書いた。
風光や移動を綴った文にはある特徴がある。
図式化していおう。
「描写圧縮=詩性が高まる=実際の風景喚起力がつよい」
そう、別次元ではこんな三幅対もみえたのだった。
たとえば僕は三幅対をこのように二つ数え上げたが、
それらのあいだには開放性と光と風がある。
だからこの詩集はコンサバととられるかもしれないが、
成り立ちがそもそも幸福なのだった。
と、とっ散らかりつつここまでを書いた。
本当は昨日の四限時、僕の研究室で交わされた
卒論〈卒制〉提出予定者とのやりとりで終わりたかった。
ここでも話題が東浩紀で
つまり僕は彼を低音通奏するために
この「問題点の整理」を書き出したのだった。
でももう疲れた。続きは「3」でやろう
問題点の整理
前々回日記「現代的啓蒙」
〔※このブログでは掲載省略〕のコメント欄がふくれあがった。
そこでコメントをくれているはらぐろくんに応えることで
いま僕が大学教員として抱えている問題を
整理できるともおもう。
まずは前提となるはらぐろくんのコメントを
以下にペーストしてみよう。
はらぐろくんのこのコメントは
コメント欄のそれまでの流れや
僕の既存日記についても受けて書かれているので
意味不明の部分もあるだろうが
それは当面、ご勘弁いただきたい。
●
怒っているのではなくて、
阿部嘉昭、小説読めねえんだ、ふふふ、と
優越感に浸りながら笑っているわけです。
まあ、『虚構の時代の果て』の記憶を含めて、
春秋社の採用面接で
春秋社で良い本は大澤真幸のオウム本です、
って言った経験があるぐらいですので、
(僕は色々な出版社にいいところで入り損ねているんです。
青弓社とかも)
「相対的」なんかつけることないすごさっていうのは、
東についてのそれも含めて、
重々承知で書いているですけどね。
倫理性のない文章なんてやっぱり論外だし。
ただ、先生が書いているように、
詩的方法は評論に導入可能だ、という言い方をしたら、
それを最も過激、かつ無自覚にしてたのが、
柄谷だと思う。
岡井隆が先生に言ったという
「あの切断文体は詩そのものだね」っていうのは、
圧倒的に正しい。
それを意識してる大学人がどこまでいるのか、
そもそもそれを倫理性って言葉で言っていいのか、
っていうのは僕には疑問なんです。
いや、柄谷について書くと息苦しいし、彼の批評だって、
読み返してて、うざったい感が増えてるような気がします。
(最近のだけでなく、80年代のものであっても)
だから(というわけでもないんですが)、
上にURLのある対談の佐々木中に乗っていこうかな、と。
(『夜戦と永遠』まだ読んでいませんが)
その流れで行くと(?)
まさに、今の日本の小説は「暴力を渦巻かせ」つつ
「組成」を変貌させていっているんです。
小説が「離れたものを交配させる思考形態」を
持っていない/持つことができないということは、
もの、人、動物、(たぶん時間も?)の保坂和志が言っている意味での
現前性を、その流れの中に胚胎させることができる、という
ことと表裏一体ではないでしょうか?
僕はこの前、ウルフの『灯台へ』を一週間ぐらいかけて
ゆっくり読んでとても幸福だったんですが、
それは、その現前性、ものが「ある」という
単純で全的な事態の効用だったと思ってます。
実はその時の現前性って、人間の中枢性の圏域を
出ちゃってるとこがあるんじゃないのか、
少なくとも出ようともがいているんじゃないのか、
って最近は気がしてきてます。
で、前のコメントで書いた小説家たちの作品では、
それに伴うようにして人称性が、
複数的だったり、緩やかに溶けあっていたり、
知覚の焦点が狂っていたり、
時間の伸縮が暴力的だったり。
(これはつまんないまとめ方ですけどね)
こう書くとウルフとは違うと書くつもりが、
同じだって書いている感じになってきてますが、
それは多分ウルフのせいで、
80、90年代の日本、それから世界文学とは
やっぱり違ってきてます。
言葉に対してメタっぽい位置をとらなくても
物語から離陸できるようになった。
だから、現前性も保っていられる
(直感的な言い切りますが)。
それが社会変動とどう関わるかというと、
佐々木中が言っているように
文学は権力性と常に結びつく。
それは時代によって、
宗教や、政治という権力性だったりしますが、
「それをすべての人々に解放しようとしたのが
「近代文学」というデモクラティックな企て」だったとしたら、
現在はそれが反転して、
「意味」や「経済」や「情報」という専制的権力と
手を結ぶものに成り下がっている。
その明瞭な現われのひとつが、
東の舞城読解だと思うから、
僕はそこが引けないわけです。
だから、それは社会学的読解による小説の植民地化だと言うんです
(舌たらずなのは承知で進みますが)。
で、最近の小説の持ってる非中枢的な現前性
(と、とりあえず言うしかないもの)は
「意味」-「経済」-「情報」という三位一体が
絞め殺そうとして出来ないでいるもののみで
できていると思う。
そこにはニーチェ的な諸力すらものが、
ニコニコした顔で眠っているようにすら感じるから
ここに反転可能性、
少なくとも漂流への抜け道ぐらいはあるんだ、と
個人的には思っています。
(こんなことを書いて、とても伝わるとは思わないんですが)
あ、とりあえず手帖に岡田利規も
追加していただけたら。
●
一個め。
僕自身が日本小説の変貌、
そのとばぐちに乗り遅れているかどうかについて:
これは当然の事実として乗り遅れているとおもう。
何しろ、限定的作家の数人しか
その作品歴の進展を僕は追いかけていないのだから。
往年「大衆小説」と分類されたものも
「純文学」と分類されたものも、
たとえば三人称客観描写、
つまり神の視点の借り入れから
小説空間がじっさいはじまってしまうその時点で
「恥しくないのだろうか」と茶々を入れたくなる。
この20代に形成された悪癖がたぶんいまも抜けていない。
そういうものを保証しているのが「文学性」だとして
そこにももう価値を見出していない。
しかもどういうのだろうか、
多くの小説が小説それ自体であることに「酔って」いるのに、
その醗酵臭が僕にとっては耐え難い。
小説の書き出しに驚愕を覚えるにも
多くの書き手はその自覚性においてすでに稚拙だ。
かといって機能美を誇る書き出しがあるかといえばそれもない。
といった乱暴な前提から書き出してみても、
「そうではない小説がある」といわれると
こう書いた僕のほうが根拠薄弱になるのは自明だ。
小説表現に変化の兆しがどうあるのか。
はらぐろくんの上の所説は、
語衝突〈あるいはそれに加えるに韻律〉に
運動の実質を置く詩にたいし
描写対象が一応の前提とされる小説においては
書かれてある空間に隣接的連続性がある点が
当面の要件となる。
ただしはらぐろくんの書き方では第二弾ロケット発射がある。
うえの前提は中枢性支配、
そうでなければ身体の置かれる場所の空間限定のなかにあるが、
そこから抜けた新しい小説、
つまり非中枢的、脱中枢的な新しい小説群が登場しはじめており、
「小説のわからない」阿部嘉昭は
この変化をつかまえられていない、ということだろう。
中枢性は、たとえばベルクソン-前田英樹の用語。
はらぐろくんが出した小説家の具体名が、
うえのコメント最後にしめされた岡田利規のほか、
その前のコメントにしめされている
青木淳悟、磯崎憲一郎、福永信、
それにビッグネームでは中原昌也ということになり、
この小説表現の解体&再構築にとって
たとえば東浩紀の舞城解析などは
何ほどの更新性も記録していないといっているとおもう。
こういう物言いはじつは直感的に理解できる。
たとえば90年代日本映画の評論は、
四天王に代表されるピンク映画、
三池崇史に代表されるV系、
高橋洋、園子温&平野勝之に代表される旧・学生映画系、
この三つ巴として出現したという点は
90年代の中葉にはもう理解されていただろう。
つまり北野武、阪本順治らに肩入れするだけでは
「決定的に」アイテムが足りなかった、というわけだ。
このなかで黒沢清だけが
頓珍漢と非頓珍漢の境界線上のアイテムだった。
この時点の日本映画に起こっていたのは
認識論的にはひじょうにするどいことだった。
主体が風景や恐怖によって埋没するという意味では
脱中枢化の刻印が画面に傷のように生じてもいて、
つまり恐怖にしても犯罪にしても
鍵語となるべき言葉はたとえば「非人間」だった。
これを綴った評論家はたぶん僕しかいない。
90年代の映画評論は大きくいうと蓮実重彦の空位期で、
しかしゼロ年代には蓮実が帰還してくる。
蓮実は多忙だったので
90年代の日本映画の変化のとばぐちを捉えていなかったが
その無反省のまま映画評論に復帰してしまった。
この蓮実を映画のアマチュアの多くが反復し、
映画表現の実質への顧慮がないまま、
イーストウッドなり黒沢なり万田なりの名が
空虚に乱舞しているのがここ十年の現状だとおもう。
さすがに「発見」の掛け声はないものの
無意味な「リュミエール」型評論が縮小再生産されている例を
ミクシィなどではかなりの頻度で見かける。
精度のみが勝敗を決定するこの土壌で
精度を持続する者は僕の知るかぎりではたったひとりだ。
たとえばこうした頽落のなかで
90年代型日本映画作家と
90年型韓国映画作家とを真摯に比較するといった課題も
韓流の波のなかでやりすごされ、
現状の日本に目をやれば
たとえば豊田利晃や横浜聡子の名すら特権化していない
〈僕自身はそんな風潮を背に、ほぼ映画評論から離れた〉。
日本映画への着眼は
驚くべきコンサバか商業性重視へのみと回帰しつつある。
老残評論家の誰が悪いとは面倒なのでいわない。
映画を例にとったが、
変化のとばぐちを押さえなかったツケは
つまりこうしたかたちで発露する。
ゼロ年代のゼロとはそうなると
90年代を正しく実質化しなかったことの延長で、
だから僕は詩のフィールドでは
高偏差値男性詩人などをすべて打っ棄り、
貞久秀紀などを中心に置きなおせ、ともいっているわけだ。
小説の変化についてははらぐろくんから課題をあたえられ、
まずはそれを読んでみないことには話にならない。
ただ「小説体験」とは何か、
この点を前提的に自問自答してみる意義はあるだろう。
たとえば去年僕が読んだ小説で最も感銘を受けたのは
広津柳浪『今戸心中』だった。
次が魚返真央さんという学生が書いた、
蝶への知見に満ち溢れた小栗蟲太郎ばりのバロック小説。
そのあとにたぶん去年から読み始めた川上弘美の作品群が来る。
これら型も組成もちがう小説群を
強引に平準化・抽象化してみて
そこにどんな共通の小説体験があったというのか。
まず、言葉が詩ではなく小説的に現前している
〈そういう節度のない小説を僕は嫌いで
だから川上未映子『先端で、さすわ・・』などは
たんに気持悪い雑文にしかみえない。
あんなものに詩か小説かいった選択命題など形成されない。
あれを商業的に持ち上げた緒力を
ただ黙殺すればいいということ〉。
これは、小説では言語が描写される空間が記号的に表徴されつつ、
それが同時に描かれる時空の
「物質的な」保証ともなっているということで、
こうした言葉の確実性を詩は度外視して
もっと言葉を裸でさらけだすことができる。
このうえで小説は「主題系」を内在的に意識する。
というかそれなしでは優れたかたちで小説が書かれない。
これを明るみに出したのが構造批評で、
構造批評はその意味で歴史的役割に限局することはできない。
明治20年代に書かれた『今戸心中』でさえ
主題系の内在的意識といった要件を満たす。
心中の江戸的与件が覆される「モダン」が到来しているなかで
〈たとえば「金銭」が人物にあたえる力の種類がちがう。
それは運命付与的ではなく
最も殺伐とした循環性をつくりだすようになっている〉
男女の心中がどう変化するかを予告しながら、
小説が真の「現代性」を帯びるために
相対死が決定選択されてゆく具体的な男女の会話が
そこでは割愛されてしまうのだった。
たぶん小説体験とはそうした言葉の組織運動に立ち会う悦びだ。
じつは昨日は入門演習で
小池昌代さんの『ことば汁』から秀作「つの」を扱ったのだが、
ひとつの班が提出したレジュメでは
たとえば小池さんが出したヒロインの自動車事故死のまえに
高速道路上に曖昧に描写される花嫁行列が
現実か非現実化か程度の注意喚起に終始してしまう。
まずは「わたしはこときれた」といった矛盾表現で
この短篇が終わっていることの驚きを彼らはもたない。
そしてヒロインの相手となる老詩人が読む長篇詩の内容が
この小説に入れ子のように内包されつつ、
そこで死にたいする諦念が
どのように悦びの承認にすり変るか、
その「呼吸」こそがこの〈架空〉長篇詩の最大眼目だとして
これがこの小説に具体的にどう反映しているかの検討もない。
「つの」の実質は自己言及性の一語に要約できる。
この結末をあらかじめ決定されているだろう小説では
映画のフラッシュフォワードを模すように
「結末を知っている」文が途中、頻繁に内挿され、
「モノ〈魅〉」「コト」といったキーワードも
自己言及の文脈でしか登場してこない
〈ここにこの短篇の巧拙を解釈する鍵がある〉。
だとすれば小説がかたどる物語性「序破急」については
能などに典拠をもとめるべきかもしれないが、
小説の現状は形態、取り合わせ二重の意味で
「異類婚」の「曖昧な」現前でしかない。
同時に「詩人」と「女性」の対は
作者・小池自身の属性の分有でもある。
これらのすべてが綜合されて
自己言及的幻想小説とは何かという自問自答が起こるはずで
これがたとえば「つの」における小説体験だということだ。
昨日の二限めでは大島弓子『ロストハウス』を論じた。
大島的なアラベスクがどうミニマリズムに転化したか、
それを実現したコマ割配置の条件は何かといった、
マンガ組成の物質性を歴史的に検証したのち、
大島マンガにおける性的身体の原罪性の滅却によって
このマンガではどう有機的にそれが
世界にたいする空間意識の変貌に結びついているかを
コマを大画面に投影しながら「紙芝居」した。
物質性への顧慮。
それを内化し、テキストの時空を想像力によって生きながら
作品を作品たらしめる「ある技術水準」を
享受者のなかに、具体的に、明るみに出すこと。
それでとりあえずは受講生を
「作品」にまつわる技術者に仕立て上げること。
たぶん文学部の実践教育などは当面、そういう水準にしかないだろう。
あ、禁煙外来にゆくための諸準備をしなければならない。
このつづきは、では今日、帰宅後に
〈ばらばらになりそうな文脈、まとまるかなあ〉
禁煙日記・終
愛する、ということは
現代的には意識の投影幕にまで
「愛している」という意識を
たえず投影することだとおもう。
つまりそれは再帰的な位相にある
〈異性などを愛することはそうしていまや苦しい〉。
それを超え、
たとえば意識化されない次元で
対象を包みこむだけの愛があるとすれば
これこそが神の愛とも呼ばれるのだろう。
結論。煙草への愛は「神」の次元に属するものではなく
現代的意識の次元に属するものでしかなかった。
このことの確認がいま、多様な姿で現れてきた。
僕は朝晩の食後二回、
これまで散々説明してきたチャンピックスという薬を
服用しなければならないのだが、
これをこのごろ女房に指摘されないと
まま忘れてしまう。
いままではチャンピックスを禁煙治療の
直接的道具と感じてきていて、
食べ終わることとチャンピックス服用が連続的だった。
それが習慣化し透明化し、
意識のどこかでは抽象的な服用指示にまで位置をずらし、
心の奥ではもう治療も完了したとさえ考えているから
服薬を「自然に」失念するのだろう。
昨夜は自販機でかつての愛用銘柄「エコー」を買い、
即座に封を切って〈といってビニール包装はないのだけど〉
喫煙しだした自分自身を、「夢にみた」。
禁煙続行者は喫煙の夢をみると
罪意識で瞬間的に飛び起きてしまうといわれるが
そうならなかったのは、
夢のなかの自分が大学生の頃で、
夢を支えるメタ意識のなかには
「これはかつての自分だ」という認定があったためだ。
ただしこの冷静な客観視には
喫煙イメージとの闘いを貫徹しようなどと
悲壮に考えていた自分の気張りが
もうどこにもなくなってしまっている。
自分は「かつて喫煙嗜好のあった自分」として
客観的に観察されてしまっている。
それでも夢にみた、ということは
煙草から離れられない意識の産物と呼ばれるかもしれない。
ただ「ちがう」という自己分析もできている。
じつは昨日、いつもどおり女房と京王ウォーキングに参加し、
多摩市、八王子市、町田市あたりのニュータウンを
古道の山道を中心に12キロほど歩いたのだが、
そのとき入ったコンビニや
眼にした煙草自販機などに
不況のため安価のエコーの新規参入が目立った。
これならもう喫煙時代のように
エコーのある場所を記憶する必要もないのだなあなどと
ヘンな感慨にふけったのが
この夢の「原材料」なのも明らかなのだった。
煙草、喫煙習慣との客観的距離ができはじめている。
こうなって煙草についておもうことは
文化論的なことに限定されてゆく。
といって『煙草は崇高である』などという
喫煙礼讃を現代思想の味つけで書いた本の内容など
もう何も憶いださない。
本棚のどこか奥にあるともおもうのだが。
考えることは「煙草は文化的倒錯だ」という一事。
これを自己実証的に辿るよう方向づけられている。
まず「いい大人」が自分の口唇期性愛を再確認されるように
煙草は勲章のように咥えられるものだった、ということ。
これは「子供の時代」には本当に勲章になる。
だから自己責任論が未熟だったバブル期までは
本当に煙草の咥えは装身具的勲章にもなったのだった。
「大人への通過儀礼」「不良の証」といった
煙草へのロマン的想念が途切れたのはいつだったか。
ともあれ80年代初頭の「いい女」たちは、
ズベ公としてではなくさらにはパンパンとしてでも毛頭なく
自由・不服従の自己主張として煙草を誇らしげに吸っていた。
煙草が疎外の匂いのしない道具だったというのは、
僕自身が70年代末期、大学生だったとき、
先輩の女子学生の喫煙の様子からも伝わってきたと憶いだす。
ただ、口唇期性愛の持続ならば
赤ん坊用の「おしゃぶり」のお世話になっていればいいのだ。
「口」にある煙草は自然、
「口」の諸機能のずらしとして役割を拡張する。
それは発話の代わりにまずなる。
だから煙草は威嚇や逡巡や愛の告白といった、
言語伝達機能も「名手」においては体現した
〈むろん映画がその最大のアルコーヴだった〉。
煙草が「愛のひと」ではなく「仕事のひと」に服用されたときには
彼〈女〉の体内時計の正しさを保証しながら
時間内部で働いている者の、自覚の折り目までつける、
自意識の道具ともなっただろう。
これまた事-認定の順序において
「倒錯」なのがすぐにわかる。
児童〈とくに男児〉の喫煙が
詩的イメージで語られたことがあった。
日本では足穂が起源で、三島や鈴木翁二・鴨沢祐仁らまで続く。
とりわけ薄荷煙草によって得られる清涼感が、
星の衝突によって生ずる静電気・火花などと共通性をもつという
足穂の本質同性愛的な宇宙論がうつくしかった。
三島由紀夫の『仲間』に出てくる子供は
その足穂的意味合いに限局された煙草を
彼自身の印象美化のための確実な小道具にした。
いっぽう大人に憧れての少年期の煙草を
直接の主題にした『煙草』は
おぼろな記憶なのだが、
従姉への愛と説話上セッティングされることで
少年喫煙の至純性を自ら崩壊させてしまったのではなかったか。
煙草の審美性は熱帯民族においては
その面積の広い鼻孔から煙を滝のように流す壮観に現れる。
ジミー・クリフを中心にレゲエ文化を追った
『ハーダー・ゼイ・カム』でその真髄をみたとは
どこかで前言したことだ。
温帯における喫煙行為にたいし
薄荷性を媒介に詩性を結実させた足穂は正しいとおもう。
「薄いもの」「揮発的なもの」「儚いもの」「天上的なもの」を
存在の最も繊細な尖端・「顔」に連絡させるのに、
薄荷煙草は素晴しい詩的具体物だったということだ。
ところがそれは洋装の美形男児にのみ許される特権だった。
つまりその年齢と美貌の条件にない者にとっては
喫煙は越権--と、足穂も喝破したのではないか
〈破戒禅僧のような豪快な喫煙をしている自分も顧みず〉。
となると足穂死後、
喫煙比率の最も高まったとおもわれるバブル初期は
足穂が生きていれば
煙草美学の受難期と映った可能性がある。
顔にたいする薄いもの--「アンフラマンス」の接続は、
女児にとっては眼鏡の着用になると
僕自身は自分の嗜好からそうおもうが、これはまた別の話。
同時に子供と喫煙の取り合わせの意味が80年代初頭に変る。
たとえばそれを優雅に描いた萩尾望都『ポーの一族』だって
70年代の産物だった〈あれは「薔薇煙草」だった?〉。
僕が「硝子煙草」という架空の嗜好品を拙い詩に謳ったのも
70年代末期だった。
80年代、煙草と子供の取り合わせは、
ドキュメンタリーの蔓延により
貧困・無教育を表徴するようになる。
子供のアル中と同列の扱い。
このとき煙草は
その煙においてこそ即物的になったという記憶がある。
マニラ近郊の巨大なゴミ捨て場・スモーキーマウンテンでは
金銭に換えられる金属ゴミなどの、
おおっぴらでない採取行為がある
〈多くそれは子供の労働に負っている〉。
スモーキーマウンテンの命名は
いつもそこに火がくすぶって
一酸化炭素の危ない煙が
幾条も立ち上っている点に起因するだろうが、
あれが貧困児童の喫煙全体の
象徴のようにおもえるのだった。
ほかのあらゆる「価値」同様、
倒錯的な「価値」のもつ優美な精神性を奪うためには
「そのものの」物質性を強調するだけで足りる。
あの美女の豊満な胸はシリコンの産物。
あの美女のアンダーヘアは人工的に「剪定」されている。
あの水道水にはカルキが混ざっている。
なら煙草は?
--「優雅な煙草は吸われれば有毒な煙を産出する」。
煙草にとって、強調されるべき美点は
むろん「喫煙者の口と煙草の接触性」だった。
「喫煙者は自分自身〈の幻影〉と接吻している」。
女性器の幸福が
男根の被挿入やピストン運動に供されることではなく
左右の陰唇が自らの性器を静かに閉じ
その際に自らの「左右」が
接吻のように接触しつづけている点にあるとは
フェミニズムのいう女性特有の自体性の利点だ。
煙草もそうした自体性の変型と捉えることができる。
煙はすると「煙草の存在性」を離れてゆくものだ。
肺に吸われるものではなく煙草本体から発せられる煙は
実は、喫煙者の体感の直接性に関連していない。
そして、それ自体が「彼〈女〉の埒外」にあるものだから
そこには論理的に「責任の体系」も生じないはずだった。
それが一挙に煙害のかたちで攻撃材料にさらされ、
喫煙者が美学的な不意打ちを突かれた恰好となった。
その劣勢をついに跳ね返せなかったときに
煙草そのものが地上から消滅してゆく道筋が
先進国にまずつくられたのだった。
「煙害」のまえに
公害に際しての企業悪が喧伝されたことも大きい。
喫煙の煙それ自体は場所を密室に限定しなければ、
大気汚染とはほぼ関連がない。
煙草をポイ捨てしないというのは
通常の煙草吸いが「自己との対話者」である点を考えれば
即座に周知にも付されるものだっただろう。
ビニール製ではなくブリキ製の「可愛い」携帯灰皿を
煙草産業が無料支給し、
そのデザインに個性差やモチベーション差も施したならば
それはケータイ電話のストラップ程度に
妍も競ったのではないか。
ただ対抗運動にそんな余裕も生ずるまでもなく、
嫌煙運動のほうが燎原の火のように
喫煙者の精神を焼き尽くしてしまった。
物理的には煙草の詩化は
煙草自体への注視ののちは
灰と煙の詩化に向かうはずだった。
つまり子供の領域から一挙に老人の領域に
煙草の意味の鎮座する場所が変わるべきだったということ。
死と戯れるように、個々人の喫煙卒業が
ゆっくりと進行してゆく可能性もあったのだとおもう。
むろん実際はそうならなかった。
何か「緑」が革新の象徴色となった数年が世界的にあった。
山火事はその緑を焼尽する。
そうした犯人の象徴に煙草が格上げされた。
あるいは文学と執筆者の喫煙にも象徴的な好配合性があったが、
この点では一挙に文学が自壊した。
この時期、喫煙の自由を主張した者が
左翼小児病にみえたのは確かだ。
以後、喫煙は含羞をともなっておこなわれる必要ができたが、
含羞だけでは嫌煙主義者の執拗な追及に太刀打ちできなかった。
それに、頑強な対抗はもう手段ではなかった。
無謬を誇る相手の懐ろに入って、
エイズのように相手を決定する因子を変えたほうが
変化の実現のためにどれほど実効的なことか。
そして驚くべきことにこの「変化の実現」のなかに
「喫煙習慣の復活」というプログラムがもう入っていなかった。
喫煙習慣廃止の完成は前の日記にしるしたように
実際は、全面禁煙の圧制よりも分煙によってなされた。
喫煙所にいる者がだんだん少なくなって、
「個別に」それぞれの喫煙者の
年齢不相応の口唇愛期欲望が明らかになってきて
その「みっともなさ」が笑われることになった。
もう自分のみっともなさにかんし空気の読めない者でしか
喫煙が続行できないようになってしまった。
たとえば昨日女房と行った京王ウォーキングでも
ここ一年のあいだに歩行喫煙者は完全に姿を消してしまった。
喫煙はウォーキングコースから外れてこっそりおこなうか、
コンビニ前灰皿のように保証された場所を見出して
極端な含羞を自己演出したうえおこなわれなければならない。
もう喫煙体験をめぐる自己演出さえ無効だ。
それは聴く価値のない話の領域へと急速に移行しつつある。
「昔、俺って不良だったんだよ」程度の無価値な話。
そう、口はいまこそ有効な言葉を語らなければならなくなっている。
愛情生活特有の無意味な言葉のやりとりも
今後はただ、優雅な精神性によってのみおこなわれるだろう。
喫煙者は発煙する。
それは詩が横行していた時代は象徴的な発話だった。
現在はただの煙害にすぎなくなってしまった。
繰り返すが、煙そのものは喫煙者の領域にないから
彼らは自分の発煙を擁護できなかったのだ。
これがアキレス腱だった。
煙でしかないもの、それは意識に値しないものだと
僕自身も禁煙を進めつつ自覚している。
「詩」ならばもっと別の領域に建てればいいだけ。
まあ、これが僕の禁煙日記の結論めいたものになるだろう。
そんななか、ジャック・デリダの喫煙についての
最も複雑な考察に満ちた、含みの美しい文章を見つける。
灰の象徴体系に取り付かれた彼ならではの文。
それは『火ここになき灰』での、
訳者・梅木達郎が付した訳注に見出された。
もともとは同じデリダの『時間を与える』中の文らしい。
禁煙日記の末尾、
そのデリダの文を詩文のように改行してしめすことにする。
●
煙草とは何か。
一見すると、それは
純粋で贅沢な消費の対象である。
見かけは、この消費は
器官のいかなる自然な欲求に
答えるものではない。
無償で、それゆえ高価な消費であり、
見返りのない出費なのだが、
それがある快楽を生みだす。
この快楽を、声と口唇という
自己-触発にもっとも近い摂取の部位を経由して、
人が自らに与えるのである。
その快楽からはなにも残らず、
その外的な記号そのものも
跡形もなく、煙となって消えてしまう。
もしも贈与があるならば〔・・〕
煙草を吸うことに与えられる許可に対して、
贈与は本質的な、
少なくとも象徴的で寓意的な
関係を持ちうるのである。
以上が少なくとも見かけである。
●
煙草からなにも自然的なものが残らないとしても、
象徴的なものがなにも残らないということを
意味しているわけではない。
その反対である。
残余が無化されても、
灰がしばしばそう証言するように、
契約を再び思い起こさせ、
記憶を記録する。
残余の無化が
拳銃や供犠の性格を持っていないとは、
けっして断言することはできない
●
このデリダの文は最終的に何が美しいのか。
自己再帰機能をもつ喫煙を語ることでは
その修辞のなかにも
幾分か自己再帰性を組み込むことがしいられる。
ということは喫煙をめぐる文章は
そうした不如意を
諦念としていつももっていることになる。
その構造こそが美しいのだ。
この修辞への自己再帰性の組み込みが
マラルメ以来、
「詩の問題」を構成していることもいうまでもない
町田康・宿屋めぐり
以前、小説の要件を二系列かんがえたことがある。
第一の系列は穏当だ。
① 物語
② 人物
③ 文体
④ 描写
⑤ 感情移入性
第二の系列は過激だ。
① メタ性(小説であるという自己言及性)
② 一貫的な内在法則性
③ 主題論的展開性(これが容易に真実秘匿性に転化する)
④ はじまりがあって終わりもあること
⑤ 多文化連絡性
さてようやく去年八月に刊行された町田康『宿屋めぐり』を
丸一日かけて読んだのだが、
第二系列の小説要件を期待しようとして
それが第一系列の要件に刻々差し戻しされる――
これが町田の小説の読解体験なのかとおもった。
町田の小説は落語体を源泉に
詩体ともまごう過激なノンシャランを終始分泌する。
リズム。異なる語彙体系や語尾体系の混在。ちゃらけ。緊迫。恫喝。
にょきっと伸びてくる、ぶっきらぼうな棒体。綾だらけ。
『宿屋めぐり』の場合は傑作『告白』にもまし、
「偽の世界」の宿屋めぐりが主題であることによって、
景物や説明に現れる時代・地理符牒が過激に分散し、
読者にとっての統一性が崩壊するよう顧慮されている。
時代が紀元前なのか江戸なのか昭和の戦前なのか現代なのか。
場所も日本なのか中国なのかナザレなのか。
そういった紛糾のために地名まで続々と発明され、
たとえば「大阪」をおもわせる「王裂(「おうさけ」と読むのだろう)」が
登場したりするし、
主人公の名もその能力の変遷に伴い、
「鋤名彦名(和泉大太郎)」が「燦州ポポポ呪師」にさえ変化する。
町田の文体はそのリズムや奇怪な固有名詞の提示センス、
詩と同じく音韻類同を軸に駆動する唯一無二のものだから
彼のものと即座に判明してしまう。
これが第一系列中の「文体」か第二系列中の「メタ性」なのかを
町田が現代小説の第一人者のひとりとなった限りは
もう分離できなくなっている。
ただし執筆に七年もかけられた本作では
リズムが湿り、突出力がなくなり、その反面で既視感もましているので
彼の初期作のような爆笑喚起力がなくなってしまっている。
端的にいえば自己模倣の続いたせいで旧くなってしまったということだ。
なにしろSFともまごう時空設定だ。
だがアメリカの尖端SF小説のような第二系列要件の③が
峻厳に自己組織されていないようにおもう。
比喩的に綴れば、町田の小説は以下のように進むのだった。
「組み立て→壊し→事後付加(人物の陰謀化)」の連鎖。
この括弧内の経緯を真剣に考えてみればわかるが
それは読者に徒労感をあたえるものにすぎない。
何か真の小説に必要な同調の歓びを欠くのではないか。
「主」の代参で権威ある社に刀の奉納に行く、
というのが主人公に課せられた設定(森の石松に似る)。
ところがこの「主」には小説上、ルビが振られておらず、
「ぬし」「あるじ」どちらに読もうかと思案しているうち
「しゅ」の様相を次第に濃くしてゆき、
結果、「ぬるぬる通過」を契機に「偽の世界」を冒険的に彷徨してゆく主人公も
その受難の濃さゆえにイエス・キリストと二重写しになってゆく。
そして作品前半最後近くでは「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」を
みずから悲唱することにもなる。
ただしこのイエスはその自己正当化ゆえに悪人だ。
不作為、未必の故意による他者の見殺し、破局の放置が連続する。
これを彼は内的発語によって誤魔化す。
というか言葉そのものにベンヤミン言語学のような罪障が与えられている。
同時にその内的発語はつねに統合失調症例として信憑を欠いている。
けれどもそうした「悪」をもってして逆に「主」の全能が証されるとすれば
作品の主題も悪人正機説の変型へと接近するはずなのだが
町田の立脚がぐらついていてそうはならない。
町田はインスピレーションの爆発にだけいそしんでいるとおもえた。
ところで主人公の自問自答は町田小説の特徴でもある。
河内音頭の河内十人斬りを素材にした『告白』では
無告の民にひとしい者に「世界への違和」といった哲学的課題が生じ、
それが主人公たちの語彙能力をもって綴られたから強度があった。
これを河内音頭的な語りのリズムが後押しし、
最終的には彷徨過程がのっぴきならぬ破局過程に接合されていった。
このとき小説の生地が人物を軸にした有機性にあったと判断ができた。
ひるがえって『宿屋めぐり』の主人公は
「人格分岐」という「人格」を体現している。
したがって語彙体系・語尾体系は自在に変化し、
その自問自答もむなしく作品内を木霊してゆく。
読み方が甘いのかもしれないが
彼が陥ってゆく物語的混乱への自己解釈、あるいは「主」との対話は、
書かれている「通り一遍」のものでしかなく
(つまり歴史学的、哲学的な相応がそこに秘蔵されていない)、
この六百頁の大作は、膂力にみちたものとはおもうが、
執筆にかけられた七年間という歳月は
町田の才能のためにも徒労と感じられなくもない。
エンジンがかかるのが遅いとはいえ
個別の破局描写、残酷描写はすごいのだ。
「奇術ではなく奇蹟によって」大衆の人気を得た「燦州ポポポ呪師」が
その火炎噴出、水噴出、空中浮遊を飽きられて
(ここで彼は神性をあたえられている)、
ついに第一線の小屋を干され、「変顔術」で起死回生を図るくだり。
ところが自滅的な話芸披瀝ののち囃し手のリズムが良すぎて、
彼は「燦州ポポポ呪師」ではなく
その一個前の「和泉大太郎」の顔まで暴露してしまう。
それは尾鰭がつき稀代の大罪人となってお尋ね者の報せに乗る顔で
ここを起点に客席にはパニックが起こる。
以後の「破局」の描写も勢いをもちながら最良小説のように精密なのだった。
ここが前半最後のハイライトとなった。
これはイエスの奇蹟がそれ自体の神性によるものなのか
貸与されたものなのかという選択命題をも組織し、
しかも「燦州ポポポ呪師」への「偶像崇拝」が宗教離反的ではないかの
自問自答をも高度に孕んでいる。
同時に「変顔術」自体は京劇芸の一要素となった中国伝統芸にも接続していて
(呉天明の映画『変瞼』でその全貌が知れる)、
だからこそ描かれる破局も多元的な光源体と映る
(このくだりで小説全体が終わってもいいのではとおもった)。
そう、第二系列の⑤が見事に実現されていたのだった。
宗教性への疑義はこの『宿屋めぐり』の根幹だ。
「主」の残酷は、失敗をしでかした者の眼球を抜き、
出来上がった眼窩を熱してたこ焼をつくるという、
脳内が痒くなるような残酷描写(全体の前半にある)に露わだが、
後半、この残酷を主人公が継承する。
ある劇団の精神的首魁「別鱈珍太」を、彼から愛人を得ようと
主人公がいたぶりつくして殺害するとき
これまた描写が理想的に「冷ややかに沸騰する」。
神性の要件としての残酷。その継承。
しかも「珍太」は当初、マゾ的受難劇の英雄として作中に現れ、
その劇団経営も「神のような無謬」=狡猾さでおこない、
劇団は売春組織体とも自己啓発セミナーともフーリエ的共同体とも
あたかも鵺のように性格を定めないから
この「珍太」殺しは第一の神の監視下、
第二の神を第三の神が殺戮したとでもいうような複雑な感慨を帯びた。
先ほどから「前半」(「後半」)という書き方をしているが
単行本ベースでいうとこの本には章立てがなく
つねにぶっきらぼうに「一行アキ」があるだけだが、
全体の真半分の三百頁の一行アキ箇所を
全体の前半後半、その分水嶺とみなすことができるだろう。
さてその後半は珍太の惨殺というハイライトがあるが、
展開がはっきりと(どうしたんだろうというほど)シブってくる。
人物にたいする発明能力が消え(大林宣彦の『転校生』を典拠にしたのか、
御用提灯で荘厳される伊藤大輔的「捕物」のなか
主人公の躯がぶつかった「おばはん」の躯に入れ替えってしまうくだりには
愚弄すら感じられた)、
物語の推進力が弱体化し、
結果、「主」の代理者「石ヌ」と主人公の会話、
あるいは主人公と「主」の内的対話が延々つづいてゆく恰好となる。
それは第二要件の①③とはじつは連絡しない。
第一要件の①②④の欠落(態)として、
小説の第一要件にじかに連絡してしまうのだった。
こういう反転が「新しい小説」だった『告白』にはなかったから
町田康の現状が危惧されるといってもいい。
それは人物名・地名が
河内音頭を原点とする規制のなかにあった『告白』にたいし、
『宿屋めぐり』がこの点、自在で、
結果、その自在ゆえに想像力の限界を露呈してしまったのとも似ている。
第二要件の④は「はじまりもあって終わりもあること」だった。
本作の終結部は「変化」をともなって冒頭部を反復するものだ。
時間や体験を経過すると同一性も差異になるという
典型のような小説処理だが、
これもまた「おざなり」で想像力を欠いてみえる。
さて、さほど評価できないと筆者自身が感じたこの『宿屋めぐり』、
通常なら日記の俎上には載せない。
なのに例外を敢行したのは
小説をもって詩を詐称したといわれる「川上未映子」問題とも
この町田小説が抵触するためだ。
町田小説はディテールの一部には強度があった。
だがそれが一部であることで
記憶力のつよい者は分析的な再読をおこなわないだろう。
有機性連絡への信頼がない、ということの別言だ。
詩的文体が駆使されているようにもおもえる。
一見、用語は突拍子もなく、かつ抵抗圧として心に残るものも多々ある。
けれども語順は結局、対象世界の連続性に準拠していて、
奇矯とはいえ「描写」に奉仕する範囲内にある。
つまり本来の詩のように、語自体の空間距離に魔法をかけるものでもない。
詩の再読誘引性にたいして
やはりここでも『宿屋めぐり』は
読了達成性しかもたらさない、ということになる。
要するに『宿屋めぐり』は小説だ。
第二系列の②「一貫的な内在法則性」が「奇矯性の維持」として単にあるからだ。
それは町田の文体性の保証であり、商品性の保証でもある。
そしてそれは小説の第二系列要件の矮小化に直結している。
商品だから小説の彩りは前作を程度継承しなければならない、ということ
(こういう限界が詩にない点を詩の現在の優位としなければならない)。
これらの難点が川上未映子の「中也賞受賞詩集」にもあるとすれば
これもまたそれが小説であることの逆証になる。
けれどもなぜ、小説は小説であることで評価を受けてしまうのか。
端的にいって小説ズレした者には驚愕のない『宿屋めぐり』は
驚愕だらけの廿楽順治の二詩集より明らかに劣る。長いだけだ。
『宿屋めぐり』の帯から「小説も書き始めた」日和聡子の書評(日経新聞)を
以下に引用してみよう。
旅路で幾つもの宿をめぐるように、肉体が果てても滅びず、生きかわり死にかわり、とどまることなく肉体という宿をめぐりめぐる〈魂〉のありようとその軌跡を凝視し描き切った、力強い物語である。
ここでは何も書かれていない。
小説の結構にあたるものの妥当な説明にたいし「力強い物語」という述部が
自己検証なしにくっついているだけだ
(抜粋のされかたが悪いのかもしれないが)。
そうしていいと書き手が錯覚した理由は「物語」という語の効力にあろうが、
はたして小説家はその程度の枠組で自画自賛してもいいのだろうか。
いずれにせよ、小説賞の代わりに詩の賞を狙ったと酷評される川上未映子とともに
文芸ジャンルの問題は、物書きの自己プロデュース能力とからんで
現在、すごくキナ臭いことになってもいるようだ。
お知らせ
あとにしるすような総勢12人の大所帯で回した連詩
(「連詩大興行」と名づけています)が
このほど計36篇満尾のかたちで完成、
ネットアップされました。
http://www.geocities.jp/renshidaikogyo/
今回のアップは先に完成していた「身頃の巻」につづく第二弾、
タイトルは「星の産声の巻」と名づけられています。
念のためこの連詩の運びの規則を書いておきますと
・次走者は前走者の語句、フレーズを部分引用しつつ
その文脈を変えることで詩想を(微妙に)継ぐ
・担当詩篇のどこかに当事者は自分の「現実」を盛る
・トータル30行のスペースで書く
の三点です。
学生や大学卒業からさほど時間を経っていない者も交えた、
多経験/少経験混合のアナーキーな面子が自慢。
具体的に今回の担当順でいうと、
・松本秀文
・松岡美希
・依田冬派
・明道聡子
・黒瀬珂瀾
・三村京子
・森川雅美
・杉本真維子
・小川三郎
・湯川紅実
・阿部嘉昭
・小池昌代
となります。
この分量の詩篇をかさねてゆく連詩ならば
やはり屈曲を孕んだ線型的進行の妙味が注目になります。
書かれてゆく詩篇の多くは
書かれた時期をそのまま反映しているため
何か大きな季節進行のなかに
全篇が連なっているともみえるとおもいます。
真維子さんの二巡目から
「生まれたときのこと」への感慨が
別角度から書かれていった一連の流れ、
それと終わりかたがよかったかなあ。
みんな頑張ったけど
今回のとりわけの功労者は
珂瀾さん・真維子さん・三村さん・小池さん、
それと僭越ながら僕だとおもう。
こういう連詩は一回流し読みしても
「付け筋」がなかなか捉えきれないかもしれません。
できれば、プリントアウトしてもらうか
あるいは前篇-当該篇で
同じ語・フレーズに注目して
ややゆっくりと読んでもらうかだとおもいます。
そうすると共同創作の面白みが
じんわりと伝わってくるとおもいます。
もう一度、アドレスを貼ります。
http://www.geocities.jp/renshidaikogyo/
ぜひクリックを!
●
ついでに近況報告:
昨日・土曜日は学校のガイダンス臨席ののち
女房と待ち合わせ、 石神井公園へ。
それからバスで吉祥寺。
井の頭公園の花見の盛況もみました
(こっちはもう夜桜の時間だった)。
その後はヨドバシカメラ裏の薩摩料理屋さんで
鹿児島焼酎をちびちびやりながら
「トンコツ」(ラフテーのようなもの。
豚バラを大根などと味噌と焼酎と黒糖で
四時間煮ている。
脂がほぼ抜けて実に美味だった)や
「鰹の腹皮」(鮭でいうハラスの部分を焼いてある。
塩がつよく打ってあり小皿の酢と相性が良い)などを食べた。
おかみさん(料理人でもある)と女房の気が
変に合ってしまい、おかしかった。
今日・日曜は朝も早よから
高崎線北本を起点にしたJRによる
「駅からハイキング」に参加。
こちらも、花見をウォーキングにからませたプラン。
天然記念物の桜を二本みる。
桜まつりの会場の出店で買い食い。
満開の桜ならたぶん一万本以上をみた。
途中、湿地にわたされた木道を歩いたり、
強風の河原を歩いたり
もぎたてトマトのサーヴィスにあずかったり。
合計12キロの道程。
桜もソメイヨシノだけでなく種類が豊富で
加えて菜の花の群生が途中で多々あったり
群生する菫の紫やプラムの白い花にも眼を奪われたり。
日本の春はじつに色が多いなあ。
いまは花ボケ、桜ボケに近い状態になっている。
再来週からは授業開始だ。
週明けには入門演習の教材選びを真剣にやって
転記打ちなどにも励まねば。
正月以来、採点作業を途中に挟んだものの
禁煙治療にかこつけて異様な読書三昧だった。
襟を正して読了した重ための本も百冊くらいある。
でもまあこの天国もそろそろおしまいだなあ