方法の疲れ
【方法の疲れ】
方法の疲れ、夕日に照らされて刃傷〔にんじやう〕なのかさむい草生だ
水にしづむ夢はだいたい稚なくてわが右派左派も液状をする
七十年、辛子ガスから黄変した眼路をおもつて鷹がいま泣く。
まひるまはしろく耀く繭だから 内に青者〔せいじや〕の着衣も要らぬ
閑文字にしかないひとが邪まを得て火をはこぶ鹿となるかも
パラシュートの着地こばまれ以後夏は成層圏を流れゆくのみ
油照りのなかなる茄子の怖しさ。無を映す有の氾濫のこと。
寝姿の舟に似たるを萍が取り巻いてきて寝のかびくささ
七分裾ずぼんの跋扈、これにより嚢〔ふくろ〕の奔る像がやぶけた
照らされぬ側つねにある枇杷の庭で音声の鳥のあそび生まれた
●
例のごとくの日録短歌。さて――
昨日から今日ただいまにかけて加藤治郎の歌集、
『ニュー・エクリプス』『環状線のモンスター』『雨の日の回顧展』を
つぎつぎ読みおえた。
方法論にたいしずっと明敏な歌人だが、
彼はそのなかで「秀歌率」といったものも考えているとおもう。
秀歌がひしめきすぎると
歌集展開が重くなりすぎて、
鈴木一誌さんのいう「ページネーション」が低下してしまう。
ところが差し掛かかっている方法論が完全だと
収録秀歌率が高まりすぎる危機が「自然に」迎えられる。
――なにかややこしい言い方になったが、
加藤さんの98年から02年までの歌があつめられた、
彼の第五歌集『ニュー・エクリプス』も
そんな歌集だったのではないか。
どんな方法論か。
口語や幼児語により、歌に異化をあたえるのでもない。
歌が二分の組成をもつことでスパークする喩の瞬間性に、
吉本隆明以来の「短歌的喩」の効力を継承するわけでもない。
塚本邦雄と岡井隆の方法混成というのか、
二分性によらないことで一首の読み下し性を確保しながら、
語連関がそのまま平明にして、
同時に、みたこともない喩を形成するのを目指す。
僕がいまつくっているのもそんな短歌の下手糞な例だとすれば
『ニュー・エクリプス』にはそんな秀歌が目白押しだった。
うちいくつかを転記してみようか。
●
湖にみずしずみ居りうらわかき母の悲鳴のとどかぬところ
病む鳥のほのかに細い声となる詩の一行は苦しいだろう
囁きの春の雪ふる鍵盤のかずかぎりない柩にふれて
横書きのアラビア文字のしなやかにきみが反るとき明け方の風
青信号のひとつ向こうも青であるああ天国にもテロはあるのか
天金の白秋歌集手にとれば庭園の香ぞゆるくのぼれる
かなたから手があらわれて青年の心臓を抜くそらとぶしんぞう
たぶん今ふたりの胸はひかりあふ河のほとりにいるわけでなく
プラスティックの量器〔はかり〕に嬰児を載せるときしずかなり梨の香にみちて
ひとひらの光のように蜻蛉〔せいれい〕の羽はすずしく秋風にのる
虹のそのただひと色を抜きとってあなたは椅子を用意していた
夕ぐれのコップの水に触れてみる瞼にふれたやうなかなしさ
ミシンからしずかに垂れてゆく布の春の闇にはとどかざりけり
歳月は見知らぬ人を連れてきて車の窓をあけて微笑む
あるときは散文的にふる雨の明け方あわき脚韻を聴く
●
《囁きの春の雪》中の「かずかぎりない」は岡井隆の絶唱、
《人の生(よ)の秋は翅(はね)ある生きものの数かぎりなくわれに連れそふ》
に、触れているとおもう。
同じ感触は《歳月は》中の「歳月は」と同じ岡井の
《歳月はさぶしき乳(ちち)を頒(わか)てども復(ま)た春は来ぬ花をかかげて》、
この対比にもある。
《ミシンから》の一首は子規のつぎの代表吟の変奏。
《瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり》。
掲出した歌でたしかに二物衝突の印象をかもすものはある。
《天金の》における、「白秋歌集」と「庭園の香」。
《プラスチックの》における「嬰児」と「梨の香」。
ただ衝突ではなく「香」の揮発性によって
一首はことばがただ縦に流れるような気がする。
《夕ぐれの》一首も、直喩があるようで、ない。
掲出した最後の一首のうつくしさは
終生忘れることができないだろう。
華氏摂氏
【華氏摂氏】
地上には華氏も摂氏もひしめけど木犀の陰、私しろがね
低原はとりわけ高温なす場所をお前と馬とで奔つて消えた。
「まほめつ」の見出し語に心ときめいてたまきはるかなこのむらぎもも
この身には口述の痕、ひそとある。川で擁かれる摩訶止観ぼく
勾玉の「まが」は曲〔まが〕なり、禍〔まが〕でなし。着飾つて聴くPerfect Dayを
わたしからわたくし去るを身罷るといへば罷免の生きもさみしゑ
僕の心、平坦にして非電導。ふるへてる、ホラ、茲の真鰈。
産道を落下の最中、逼迫し、「曲がれ」と叫んだ。余韻に産まれた。
千年来、自分を間借りし時々は夕暮のなか家具を展げた
「まかは」とは瞼なれどもこの夏のわれは総身をながれゆく川
●
昨日は渋谷のライヴハウスへ。
三村京子さん、それにネズミハナビの吉田諒くんという
僕の早稲田での教え子が二人出ていた。
吉田くんは、ネズミハナビのコンポーザー、ヴォーカル、ギタリスト。
フォークからもってきた、しかし色っぽい歌の節回しで
ロックとフォークの中間にある詞世界を唄う。
吉田くんは色っぽい。細身だし美男子だし。
ネズミハナビは初期、「鼠花火」のバンド名で、
ブランキー浅井的、目詰まりしたマイナーコードギターがスピーディだった。
そこにラップにも通じる吉田くんの早口歌唱が載って、
たとえば女の娼婦性をなじり、愛す、私小説的な世界が唄われた。
その他、フォーキィなバラードも得手としていた。
現在のネズミハナビはその手のアプローチ以外に、
コード進行に綾のある、パンチのきいたポップロック的なものも演る。
いずれにせよ吉田くんのエロキューション、声は健在。
終りの二曲、シングルが切れるとおもった。
三村さんは、昨日は淡々と初期曲を中心にアコギの弾き語り。
それでもやっぱり「岸辺のうた」とか魅了するなあ。
「私は終わらない」ではサビメロの歌唱に迫力があった。
僕のとなり、「銀鱈のブルース」の一節でわらっていたのが
日芸の生徒つながりで知っている俊英・高野くん(彼もミュージシャン)。
「私は終わらない」の三村ギター、
すごくジミヘンの「リトル・ウィング」ぽかったですけど、
あれ、先生の差し金ですよね、と見事に具体的に指摘された(笑)。
三村さんにはそういう「文化記号」は似合うけど
(彼女自身、レトロだから)なくてもいけますね、
という「さりげない指摘」もあった。
相変わらず、するどいやつ。
「AVに捧ぐ」、また演ってくんないかなあという
彼の願いも嬉しかった。
三村さんも日芸人脈に敬意を表し、
朗読では橘上の「花子かわいいよ」を演った。
●
加藤治郎さんから歌集を買って、
昨日から刊行順に読んでいる
(ミクシィでは誰でも加藤さんにじかに注文できる。
僕のマイミク一覧から加藤さんのトップ頁にGO!)。
いうまでもなく加藤さんは岡井隆門下で、
ケンカイさと音韻性のあいだに純粋にある口語短歌、
あるいは都市的情感の瞬間性をもつ喩成立の立役者だが
(つまり俵万智の善意の立ち位置とはまるでちがう)、
これほど短歌性とは何かを考えつつ、
作歌が頭でっかちにならない才能も珍しいのではないかと
読みながらずっと感動している。
あるいはこういったほうがいいかも。
バランスがある。あるからバランスを壊そうとする。
それがさらにバランスになる。
これって無間地獄みたいなものだ。
そういう自分の宿命性にたいし加藤さんてずっと果敢なのだ。
ついさっきまで読んでいたのが、
第三歌集『ハレアカラ』、第四歌集『昏睡のパラダイス』を完全収録した
砂子屋書房『現代短歌文庫・加藤治郎歌集』。
その『ハレアカラ』から有名歌をなるたけ除き、
試しに二十首ほど引いてみよう。
●
しろがねの剃刀の刃が水面に貼りついているようなさみしさ
限りなくつらなる吊輪びちびちと鳴りだすだれもだれもぎんいろ
鳴く鹿の喉のつやつやふるさとの母音うつろうふゆの宴は
ふりかえる鹿をおもえば森に棲む二重母音のははといもうと
台風が近づいてくるこわばったキャッチャーミットをほぐしていれば
ひいやりとした茣蓙に居る夏の日は雲形定規で母を描けり
白・黒にみだれて終る映像の「きて」「ああ」闇に顔をおこして
あたためたミルクに蜜を垂らしたり海の電車の鉄路に沿って
病葉をつまむ天使の悪戯にこのこめかみはいたむと想う
ちりとりに髪をあつめて居たりけり天安門の雪を思いて
滝壺の濁りにしずむ鹿の骨ついにカオスは幸福である
素描までいたらぬ線を見て居れば性にかかわる嘆きはあまさ
混沌のうしのちくびをつかむゆび俺は世界の苦痛になれるか
狂うから真夏のまひるもりあがる波がひかりの壁となるまで
黙りこくった女の子って指さきにたわむスライス・チーズひとひら
頂点に人あらわれておちにけり産道というにがき臨界
人生に夜明けがあれば小学校野球部入部テストの暴投
散会の男がひとりあゆみ寄るメタファーの火を借りにくるのか
われら讃えるものをもたねどろうそくの火の韻律を見まもりて居き
向日葵を描いた絵筆を洗うとき雲がひろがるようににごるよ
●
ご覧のように冒頭にかかげた僕の十首は部分的に
加藤さんの歌に啓発されてつくったものとわかるだろう。
ところが「摩訶止観」の語を調べるうち、
広辞苑第四版、「まか」のあたりの語を契機にした
作歌ともなってしまったのだった
(もどって、冒頭確認いただければ)。
●
そういえば今日は朝から
マイケル・ジャクソン死去の報を
TVでみつづけてしまった。とくにフジ。
小倉智昭、笠井アナ、デイヴのマイケルシンパ三人が
訃報の詳細伝達がすすめられるなかで
思い出を語るものだから見逃せなくなった。
出されるエピソードがワイドショーの限界を超えて豊饒だった。
これ、ワイドショーのベストじゃないか。
余勢を駆って、今夜、特番だと。
マイケルと僕は同学年。
誕生日も数日しかちがわず、思いは複雑だ。
そういえば小室哲哉も同学年だったりする。
「Around昭和33年」に共通する匂いというものがあるのだ
(加藤治郎さんは34年だね)。
ただし僕はマイケルが好きというのではない。
80年代にブレイクしたものは
流行る理由がわかってそれを仕事で分析しても
好きになれなかったものばかりだった。
クインシー・ジョーンズなどもその範疇。
だから「スリラー」のころ音楽で僕が熱中していたのは
当時のユーロニューウェイヴや
時代錯誤的だけどフリージャズだったね。
前方後円墳
【前方後円墳】
前方にして後円のきみゆゑに 性愛パズルも墳然とする
蝶道に往く手きられてゐたりけり。蛾性より来る梯子を待つた。
風に鳴り焼けば焦げたるかをりする黒レインボウを骨肉といふ
鯰ひげ抜かれて逐電した先で(なゐなゐ)ある子と地震に遭つた
かげろふの数時間とは はらわたの非在が展く無身の迷路
はなつから湯疲れてゐてアヲやアカの温泉主義で眼路も霞んだ
蔵〔ざう〕と鳴る乙女を寡黙に仕立てあげ一身鏡のなかは宝界
指なかの金剛力を、朽ちた葉を割らずに掬ふ風気にもちふ。
「女流」の語に滔々と天の流れ見て 天、氾濫が女禍の国かな
一冊を伏せて亡き影さきどつて失の潮目を読むやうな眼だ。
記憶蚤
【記憶蚤】
坂のうへ 私ら北を遠望し刻々青い記憶蚤となる
追放はたぶん肋のごときもの横梁を縦が容赦なく割る
駄弁状の語りがあつた。病套のひとらが運ぶ黄花のやうな
SといふイニシャルさくらSさまは光ひきゐて廊をおとなふ
青舌〔セイゼツ〕とふ病を得ては弔問が蝶紋としか言へなくなつた
だつて轢〔レキ〕だろ 死なんて死など万分の礫のなかの小宇宙だろ
是〔ゼ〕の人は区域に草をむすんでは星の落下の場所をつくつた
是〔ゼ〕の人はあばらに青い電をもち心も雫にした人だつた
十月の抱擁だけはむらさきの馬群のなかへ紛れたものだ。
十月は地軸が真水ふふむから きみとの不明も草底のそこ
●
今日は畏敬する京都の詩人、萩原健次郎さんから
大量の詩集、掲載同人誌の恵贈があった。
詩集は『K市民』の続篇と銘打たれた『求愛』(95)、
『絵桜』(98)、萩原さんの詩集としては珍しく大判の『冬白』(02)。
すべて彼方社という大阪の版元から出されていて僕は未所有だった。
こんなに嬉しい日はない。
さっそく『絵桜』を読み、そして
『求愛』を26頁まで読みかけたところで
矢も楯もたまらなくなり、
短歌を十首ひねってしまった。
浸透を防いだのか、共鳴にまかせたのか
じつはよくわからない。
その詩を読んでいる、というだけの間柄にすぎないが
萩原さんは僕にとっては「凄みの人」だ。
誇るようにではなくおのずと
発語に妖気がひらめくが、
語は峻厳に刈り取られ除算がなされ
妖気とみたものも幻で、
そこに草枯れだけがあり、
目の歩みも詩篇に沿って
ただ再びうながされてゆく。
きびしい、厳しい「像否定」のひと。
何か宗教的確信もあるはずだ。
像否定は内在韻律への信頼と対をなしていて、
結局、詩篇の秘密に触れようとすると
音のまぼろしをつかまされることにもなる。
それでいて何かがたえず鮮しい。
たぶん「不整合」を理想境と捉えているからだ。
ときたま彼の詩線は火や液体を噴いて、
上古から現在・未来まで多時間を現前し
時間の不測性をもあかす
(と僕はよく幻想している。
詩は水墨画になったり不敵に社会を写したりもする)。
それらの所業のなかで
言葉が理想的に少ない。
その少なさが厳しさなのだが、
ストイックなのと同時に豊饒を感じるのはなぜだ。
うらやましい、とおもう。
僕は萩原詩を解明することで
詩の秘密にふれたい、とおもうようになった。
●
その萩原さんから
住所がこれまでわからず感想が書けなかったと但し書きして
拙詩集『昨日知った、あらゆる声で』のご感想が添えられていた。
私信公開は恐縮至極なのだが、
一節のみ引用することをお許しねがえるだろうか。
●
連射砲のように詩の想念が繰り出される、
激しいリズムに目が眩むようでした。
豊じょうすぎる、濃密すぎるとも感じました。
逃がしてあげる、詩を余白へと破ってあげる、
そうした実の詰まっていない余地がないと思いました。
●
なんと見事に僕の詩の軽薄、弱点が
ふくみの多い修辞でしるされていることか。
襟を正した。
そう、「詩を逃がす」ために
僕自身その後の詩を模索しようとしては
いまだに失敗の連続だ、という気もする。
萩原さん自身のために抗弁するが
この萩原さんの言葉はけっして尊大ではない。
上の言葉は次のような詩を書いてしまう
萩原さんならではのことなのだ。
詩集『絵桜』のなかから引用しやすいという理由で
次の詩を部分転記します
(人によっては永田耕衣の俳句を聯想するかもしれない)。
●
【笑える鯉】
萩原健次郎
まっさかさまに池のなかへ落ちていった。
背中をつつかれ
ちいさな口で吸われ
眠っているうちに
緋のうみに。
まんなかで生きている鯉の
笑顔
それにならって
群全体が笑っている。
それが私にもおかしい。
声のない真空で
輪になって
うつろの、水の穴で、
そんなこともあろうかと、皮膚を鍛え
頬をばしばしとしばいていたのだが
無意味に終わるとは、情けない。
昼の陽に照らされて
まんべんなく、池面は光っているのだが
まるで生気のない
どんよりとした濃緑で
しゅぽんと
垂直に入水すると
波ひとつ起こることなく
ただただ、しゅぽんと消えていく。
ああ、あなたは
笑える
笑える
手足のない、ぬるぬるの淡水魚で
目が離れている。
どこから見ても、派手な緋の身体で
水中の気配という気配に唇を向ける。
〔…〕
笑える鯉の
眼には
メタリックな音楽が流れている。
やわらかい皮膚を刺すような
削ぐような。
電子のコサック合唱団の、
光を見る
光を切る
一瞬の速度で
音楽がすり替えられる。
笑える蛙もいる。
清水あすか・毎日夜を産む。
昨日は雑誌「詩と思想」のための長稿を書いていた。
あたえられた「詩と身体」という壮大な主題にたいし
どう視点の絞り込みをするかが問題だったが、
横山未来子さんの短歌を前フリに、
「詩的な男性身体とは誰か」とタイトルして、
男性の「のっぺらぼう」な詩的身体について書いた。
設問語尾が「何か」から「誰か」へずれるのは
往年の稲川方人、その詩句のパロディだ。
ネタに何を振るかについては
以前も廿楽順治さんと孤穴の孤児さんと
僕の書き込み欄で書きあった経緯があるので
(彼らもその「詩と思想」同じ号の執筆者)、
自分の場合はこうしました、という結果発表をここでしてしまおう。
固有名詞の推移でしめすこととする。
横山未来子→(杉本真維子)→石原吉郎→カフカ→
西中行久→(水原紫苑・岡井隆・加藤治郎・荻原裕幸)
→松岡政則
以上で28字×368行ちょっとを一気書きした。
書いている途中で
準備していた宮沢賢治も加藤健次も
字数的に組み込めないと早々断念、
そういう選択技術にこそ自分の成熟を感じる。
もともと市川浩の本を書棚整理でみつけられず、
貞久秀紀さんの「身の詩」への展開はできないだろうと
貞久詩への言及も諦めていていたのだった。
それで身体論もカフカの箴言から搾り出そう、と決意した。
●
そうやって原稿を仕上げ、酒を飲んで寝た。
未明に起きて、
夕方、当方の郵便受けに舞い込んでいた
清水あすかさんの新詩集『毎日夜を産む。』(南海タイムス社)を読む。
またも圧倒された
(そういえば昨日は恵投本の大豊作だった――
枡野浩一さんからは集英社文庫『僕は運動おんち』を、
江田浩司さんからは同人誌「ES白い炎」が届いた)。
清水あすかさんの詩集について――
前回の処女詩集『頭を残して放られる。』同様、
八丈島方言を交えた、ごつごつした詩的修辞にくらくらする。
硬く噛めない言葉のつらなりを無理やり噛むと
次第に空間や時間、
彼女の周囲や彼女の身体が、みえてくる。
いま「身体」とつづった。
運がよかったのか悪かったのか
この詩集をさきに読んでいたら
「詩と思想」の「詩と身体」テーマの原稿も
とても男性主体のみの視点では書けなかった。
清水あすかの修辞は狂っている。うねる。
鷲づかみの烈しさのなかから
何か「こわい」情がこぼれ、
そのなかからごわごわ説明項がなげうたれる。
その機微に容赦がない。
発語にともなう暴力に天性がある。
土地のつよさが味方しているのだろう。
嫉妬する。
たとえば以下――
●
痛みによっては靴を履くより前に、首を吊るものもあるだろう。
昔もそのように、むごけ様があったと聞いたことがあるから。
海が海から上がる音にかき消えて
娘は陸でわたしのことを伝えられないだろう。
何とか一声を追いかけて顔を仰いだときに、おまえもわたしを、忘れる。
――「海が海から上がる音」部分
●
何が書かれているのか正確にはわからない。
清水がいて、娘がいて、はげしい海鳴りがあって
母から娘への生の伝承に、闘争の色がこめられていると感じるだけだ。
そして八丈には多くの破綻者・敗北者がいて、
母娘はその手前に凛ととどまっているとだけ予想される。
このつよさは何か。
清水あすかはたぶん、八丈島という土地と一体化して
地霊からその躯に滋養を得ている。
「島」という空間の集中、四囲の荒海によって心を灼いている。
こんなフレーズもある。
わたしが体にたどり着くまでのおびただしい時間を、
この土地に置いたままでいる。
(「ついには満ちず鎖骨に浮かぶ。」)
清水あすかの肉体は良い。こんなフレーズもある。
今、わたしの左肩
知らないにおいがした。
わたしは年を取った。
(「骨にまつわる色を知る。」)
そうした清水あすかの「島の生」が
最も端的につたわる「凄い」詩篇を全篇引用し、
この短い稿は終えよう
(清水的幻想として「頭部の着脱作用」も中にあるのでご用心)。
●
【りんかく線の途中から。】
清水あすか
冬の夕方、山のアスファルトに眠れば
一瞬体は島と平行になって、わたしは
木が垂直に刺さるその三千本の床上になる。
向こうから木を草を燃やした火が消えたあとに出る煙のにおいがする。
空になくなる濃淡の、色が深くなればなるほどに、
夕方と夜の境がなくなれば無くなるほど
体から出ていく頭。その穴から出ることばはどんなにか
深くも深く溶けていき、そのうち体そのものから染み出ることばはどんなにか。
濃くなった夕方、わたしのりんかくは木と変わらずに
まるで混ざってしまう線。そこで吐く息の長さ
ひたすらにたまっていく時間のにおい
さらに沈む、アスファルトから生える体の
そこから出る色で今も島が育つ。
一を引いても何も減らない
わたしが在れば、いなくても。
燃えつきる
【燃えつきる】
挙止さへも紙の音するこのごろは点火ひとつで燃えつきるかも
サラダのやうな配合の野に鳥が来て 酢と油もて目をうるませた。
「通信が木立の手段」「それだから通り抜けては私が九人」
睡眠のさなか汀といふべきを春潮あふれ貝を巻くかも
たれよりも黄金のひとたそかれに黄いろく昏れてすがた残さず
頬杖をみなもととして思惟湧くも耳垂れみどり雨の憂鬱
十日めに泪となつて下りてゆく。「液体詩なる身を懸想せり」
群肝に螺鈿ちりばめ想、重し。呪ふかぎりやこの身蓬莱
おのれ編む血のたくらみに恋落ちて十字星なるきみも織られた
牧笛(ぼくてき)やこのゆふがたはむらさきの眷属だけを系にあつめる
●
――不調つづき。
昨日の午前は、あまりに探索効率の悪い
書棚の整理にとうとう励んだ。
ここ二年ほど読み散らかしてきたもろもろの本を
本棚の表裏二重化の徹底により
系統別・著者別へと並べ替えたのだった。
しかものちに細かいものを探しあぐねる苦労も見越した。
それでたとえば廿楽順治参加の「生き事」を
ふたつの廿楽詩集に挟み込む、みたいな工夫をつづけた。
そうね、これらはほぼ同人誌対策だったな。
むろん別れわかれになっていた
藤井貞和や岡井隆も一箇所にまとまっていったし、
判型の大きい詩集もそれなりの場所にあつめた。
こういうのをパソコンのデータ圧縮(整理)で
なんていうんだっけ。
佐藤雄一がぼくの書き込み欄で語としてつかっていた。
とはいえ整理の合間に見つけるつもりだった
市川浩の身体論の本はいまだにどこかに埋もれたまま。
当家の書棚の裏パートは、完全な藪知らずだ。
整理に結構な体力と知力をつかったので
昨日の午後は疲れてしまい、
音楽をかけながら、またダラダラ読書となった。
最近の愛聴盤は
この欄で既報の船戸博史さんのアルバムのほか、
こないだのライヴのときに買った、
アナログフィッシュの去年リリースの新盤。
彼らの初期のころに感触が戻ってこれも大好きだ。
未明、起きだして、
昨日恵贈のあった南原魚人さんの
詩集『微炭酸フライデー』を読む。
田中宏輔さんの『Wasteless Land.Ⅳ』での
僕の栞原稿に感激してのご恵与だとしるされていた。
ヘンな世界観でとても面白い。
好きな相手を自分に合うよう変革するのではなく
その相手のいる世界自体を
換えてしまうことで起こる変異。
これが南原詩の特質だという解説文に納得した。
そののち、日録短歌をまたつくってみた。
ふと気づく、僕のいまの短歌は
たぶんニューウェイヴ派でいうと
萩原裕幸さんのものの延長線上にあるのではないか、と。
そうだ、日録短歌のまえ、マイミクの日記を覗いた。
田中宏輔さんがふたつの日記で
素晴らしい俳句を列挙していた。
なかに坪内稔典《三月の甘納豆のうふふふふ》が挙がっているが、
こないだの「かいぶつ句会」でこの句に触発されたとおもわれる、
《走り梅雨いろはにふふふ頬の杖》に
僕は最高点を入れたのだった。
南々桃天丸さんの句だった。
宏輔さんが紹介する北村虻曳さんの句では
《つきあたりが息をしている内廊下》にビビる。
営業猫さんの日記からは
新たにたちあがった詩人集合サイト「六本木詩人会」を開く。
びっくり。こりゃ画期的だ。
掲載詩、意欲作ぞろい。
猫さん、僕も参加したいなあ。
panchanさんは三回連続で
安英晶『虚数遊園地』の秀逸な紹介をしている。
引用されるフレーズに毎回くらくら。
これは書店でゲットしなくちゃだなあ
涙骨
【涙骨】
涙骨を体内ひそかな鉤として帆につなぎつつ野をゆきしかな
装丁ミス。薬効と葉に充ち満ちたこの書にあまた「泣き別れ」あり
俺の骨の水晶部分がふえてゆき掌上じたい消えてしまつた
鬼没のため神出をした森なかで嚢の人らも泣いてながれた
ずつと心にのこしておくよ君の水は。肺胞すべてを青もみぢにして
コギトと樵、その中間のしづけさの林を過ぎて私も小切れ。
内と肉、たがひに相似る一対の悲哀がたとへば廃藩となる
奇怪とは自己洗滌のいやはてに 古経のきみを夢にみたこと
パイプ椅子折りたたまれる一切を音楽として聴く日もあつた。
あれが君の場所だつたのか 草のなか若草色の傘、閉ぢられた
●
どうも原稿執筆準備に心が向かない。
で、今週は控えておこうとおもった短歌日録を
如上、またもしでかしてしまった。
とはいえ授業日の昨日は好調だったのだ。
受けを狙うのが念願だったギャグマンガの授業は
(いつも笑いをとれなくて自滅する)、
コマ投影中、フキダシ内科白を読まないという
新手法を編み出して一切をクリアした。
笑いが、「リズム」「ズレ」「キャラ定着の安心性」「(脱)論理」
それと「ショモなさ」であるという点は
投影したマンガによってキッチリ実証できたとおもう。
うち、久しぶりだった古屋兎丸『ショートカッツ』は
「かわいさ」がどんな記号性に負っているか
その哲学思考の極致でもあって、もろに懐かしくなり
ひたすら薀蓄深いコギャル談義もしてしまった(笑)。
けれども現在の笑いの主流は「ショモなさ」だな。
90年代の兎丸より
90年代の花くまゆうさくのほうを新しく感じる。
●
入門演習では僕自身の詩(詩篇集『フィルムの犬』を抜粋したもの、
「阿部嘉昭ファンサイト」中
「未公開原稿など」の欄で全体が読める)を材料に、
D班からレジュメが提出され感想発表があった。
優秀な一年生により自分の詩が綿密に分析され、
しかも一切、見当ちがいなく褒められたものだから
嬉しくなった、というか、王様の気分すら味わった(笑)。
D班の発表を抜粋要約してみるか。
○ エロい語彙、言い回しが多々ある
○ 多い語彙=犬、少女、紫、植物、図形や時間をしめす語など
(「犬」は飼い犬のように馴化されておらず
獣性が温存されてヘン、
じつは阿部嘉昭自身ではないか?)
○ 引用出典など知識の多さがはっきりしているが
それを誇らないので気楽に読める
① 形式
・口語的表現が多用され、言い回しは日常的
・聯がなく連続的
・一人称の不在。おしつけがましくない
② あそび
・言葉あそび 和歌なども持ち込まれ 部分的には七五音韻
③ かわいらしさ/グロさ
・ひらがな表記 小動物の登場などで可愛さがあらわ
・半濁音が生かされている(音としてはラ行音も可愛い)
・文法破壊がグロテスク、読み手に負荷がかかる。
中島悦子のような断章形式なら息もつけるが、
阿部嘉昭の詩は切れ目(行間)なしに延々つづく
●
まあ、こんなところかな。
そういえば、授業で扱った諸テキストを「綜合」する位置に
この『フィルムの犬』がある、とも見抜かれた。
じつはこれがいちばん嬉しかった♪
船戸博史・通り抜けご遠慮ください
注文していた船戸博史のリーダーアルバム、
『通り抜けご遠慮ください』が届く。
『赤線玉の井・抜けられます』みたいなタイトルだが、
中身はバリバリのフリージャズだ。
いや、そう書くとちょっと語弊もでるか。
未明、ヘッドホンで二回聴いた上での感想をしるそう。
50分以内のランニングタイムにたいし
11曲も入っているということは、
実は「バリバリのフリージャズ」ぽくない。
これは意外や意外、「歌もの」なのだ。
「歌」をフリージャズの形式で
船戸さんは表現しようとしているはずだ。
以下は敬称略で。
船戸のコントラバス(ウッドベース)は
芳垣安洋のドラムス、パーカションと共謀する。
船戸の編みだすフィンガー弾き、弓弾き、
フレーズの引き出しがつねに変幻自在なように
芳垣のリズム創出も、
ドラムセットと
さまざまなパーカッションの音色、
その交換のなかで変幻自在だ。
とうぜんこのふたりが絡むと
リズムの土台が神出鬼没な遊戯性へと傾いてくる。
たのしさが起点。
ぎざぎざの抽象的絨毯がふわふわ動きながら、
それでもドラム、ペースのリズム打刻の一打性は
不可逆的な干渉として
縦--垂直に、時間軸へと切り込んできて、
愉快さと驚愕の不可分をもしるしづける。
その土台に招かれるのが二人の女性だ。
ときにラテンピアノ的明朗、
ときに不安な不協音をも叩きだす、
大澤香織のピアノは
いわゆるフリージャズの雷鳴ピアノというよりは
音数や指数が基本的に抑制されている。
彼女のピアノは「不測的に」歌をうたいだす。
するとベース/ドラムのリズム隊は
その歌を切り刻みはじめる。
それで何かゴージャスなおがくずが
音空間に広がってくる。
もうひとりの女性が
アルトサックス、クラリネットの小森慶子。
アルトサックスのバリバリ感、
クラリネットの音色の
ドルフィの位置からスティーヴ・レイシーを遠望したような枯淡感。
女性の吹き手というのが信じられない。
この肺活量は女性ともおもえないのだ。
演奏の全体はフリージャズの破壊性のなかで
それに離反しない数学的な精確さが刻々組織されるという感触。
アルバム中、最もフリージャズのフォームのつよい
7「Life Time」など
そのエンディングにいたる演奏者たちの相互呼吸の測りあいが
スリリングで、
結果的にはあっと驚く英断性で
エンディングがバシッと決まる。
「すげえ」とのけぞってしまった。
この曲での船戸は
複雑なリズムをキープするフィンガー弾きのリフが
次第にリズム細分音によって
圧倒的な緊迫感をはらみだし、
それでとくにサックスの音と「交接」をはじめてしまう。
そう、船戸は「ふちがみとふなと」に明らかなように
陽気な陽根神というべきなのか
どんな音楽ジャンルであろうと、
女性の音楽性を、
その個性を拡大するかたちで助勢しつつ
そこに楽しさや戦慄をも添えるのが得手だ。
三村京子のプロデュースも
そうした船戸特有の音楽活動の流れだった。
このとき、ある「特異な数分」というのがいつも出現する。
女たちの歌に船戸の神業的演奏が化合して、
歌の役割が、女たちから船戸のコントラバス演奏へと
受け継がれるのだった。
船戸はその意味での「化合神」。
そういう証拠がほしければ
三村『東京では少女歌手なんて』中
とくに「自殺のシャンソン」での船戸の音を聴けばいい。
弓弾きでもフィンガー弾きでも
船戸の出す音はあるとき
「はじき」「ふやし」から一種の「プネウマ」に変わり、
結果、ベース音がサックス音にすら聴えだす。
これが船戸の演奏が「歌」化される数分なのだった。
ジャズファンでなくとも
誰もがその神的演奏に驚愕するだろう。
その意味でこの『通り抜けご遠慮ください』で
最も船戸の演奏が「歌」化するのが
美しさとともに中国的幽遠も感じる
8「旅の疲れ」だろう。
ここではピアノが「歌う中心」にいながら
ときに船戸がコントラバスの弓弾きにして
旋律を唄ってゆく。
とくにラスト前、山を遠くに手前の枯野に日があたるような
船戸の掠れた弓弾きの音色はなんだろう。
いまの文章、隠喩の例示は虚子だったが、
その音色はすごく永田耕衣的で、幽霊的だともおもう。
告白すると僕は恐怖にわなわなふるえながら、
同時に目頭が熱くなってしまった。
恐怖と美の通底は通常、ポオ的テーマだが、
耕衣/船戸的テーマとしたほうがよい。
船戸のコントラバスによる「歌」については
アルバム内にもうひとつピークがある。
ラスト(11曲め)「Clinton st.」での
ベース/クラリネットのデュオ演奏では
ふたつの楽器の「枯淡」が共鳴しあって
なにか空間に幽霊性の「こだま」が生じている。
感触は、スティーヴ・レイシーが加わっている
最良のデュオ演奏を聴くのと似ていた。
この曲でアルバムが終わる全体の流れも素晴しい。
ともあれ奏者は達人揃いだ。
テクニック誇示ではなく、
相互の演奏に即応して
ジャンルの引き出し要素の交換などで
刻々自分の色を変えてくる。
そして全体の色調変化をそれぞれが誘導してゆく。
とはいえ調和性のみが志されるのではなく、
時間軸にたいし縦に不可逆な罅だって入れ
それによってこそ「時間が時間たらしめられてゆく」。
ああこの感じ、とおもわず声がでそうになる。
そう、それは「本物の詩」に接しているときと同じ感触だった。
本物の詩は「抽象性の生成」を、その音楽性の部分にもつが、
同時に詩は「歌の抒情」によって
自らの組成に試練をあたえなければならない。
抒情性こそが衝撃となる。
そのさいこの衝撃は自らの抽象性を保証するように
時間軸にたいし縦に打ち込まれていなければならない。
それは時間を切り刻むリズム細分の能力にも負っていて、
このときにこそ「詩作の達人性」が試されている。
というような詩観を
船戸たちの演奏もそのまま体現していて、
アルバムを通しで聴いたあとは
なぜか詩を書きたいという気持すら湧いてくる。
これこそが「音楽特有の賦活力」というやつだろう。
中身のよさと均衡するように
ジャケットデザインもいい。
植物の鉢植えの並ぶ無国籍な路地。
リフレットを開いてみると、
その中では表1のデザインがさらにコラージュされ、
論理的に不思議な空間が生じている。
このwonderが
そのまま演奏者がつくりだす全体性にもあったのだった。
このアルバム、
「ふちがみとふなと」のHPで注文できます。
いますぐ検索!
あ、今夜は三村さん、大中くんと
モールス&アナログフィッシュの
ジョイントライヴにゆく。
僕にとっての二大ロックバンド、愉しみだ♪
自損事故
【自損事故】
異教邪教、もうぢき桃の季節なら桃もて自損事故をセクスを
スピードはバイクの先を乗つてゐる → ※手と手袋の関係参照。
「夏帽の国」と華南を呼んでみて、そこにも火人がゐないだらうか。
規定への経路が無限とみえるとき自己外周も夏もきらきら
「草の人」「流木の人」娶はせて未明は豪奢に手許が趨つた。
上すなはち政則-絢音をくつつけた。偶然かいま崖、草だらけ
あきつゆく上尾の川の夢どきは秋にじむ日も牛に耳あれ。
滞洛し頽落きざすこの狭(けふ)をのちの生(よ)として草になるまで
インフルエンザ猖獗をもて南球が取沙汰された星のよろこび。
長谷川を砕いたその日の夕方が藍色だつた肝のごとくに。
●
またも短歌日録。
冒頭二首は江口洋介のバイク事故が発想源。
ただし「コクトー風」をそこに混ぜてみた。
《インフルエンザ》は今朝のニュースから、
《あきつゆく》もこないだの日曜、
女房とした上尾ウォーキングから。
そう今回は生活詠の乱打、というわけです。
(――ったく、
ウォーキングで鼻の頭が日焼けしてしまい
トナカイみたいで恥しい。
昨日は池袋ジュンク堂の前で
前田英樹さんとばったり鉢合わせ。
この鼻を奇異としてみられた気もした)
《「草の人」》《上すなはち》の二首は
その池袋ジュンク堂で買った松岡政則『草の人』と
川田絢音『流木の人』を順に興奮裡に読んだ今日未明の経験から。
こういうと生意気かもしれないが、
松岡さんの詩は発語の呼吸がすごくよくわかり、
自分で書いたものかとすら錯覚してしまった。
同語を重ねるやりかたに
緊張に向かわない照れ隠しがあって共鳴してしまう。
語の品詞に仕掛ける罠も美しい(嬉しい)。
そして彼のいう「草」の多元性が
自分の目標としても望見される。遥かだ
(いまごろになっていうが、
この詩集が僕にとっての
06年度ベストワンだったかもしれない)。
いっぽう川田さんのは
ミッドナイト・プレスから出たばかりの新詩集。
ほぼ40頁と分量が少ないのに、
松岡さんにした、するする読みとは逆に
噛むようにして読んだ。
読んでゆくと、えもいわれぬ複雑なイメージが湧いてくる。
相変わらず「怖い」詩作者だと畏敬を継続した。
歌中の「崖」は絢音詩中のふたつの「断崖」から。
その『流木の人』中、
「いいお天気」だけ部分引用してみよう(凄いぞ)――
●
ひるがおの這うところ
小石のそばで
互いにあぶくを出しあって
糸の管を差しこんでもつれ
蝸牛にあふれるあぶく
あたりは鏡のよう
島人は
居たり居なかったりする
●
本日夜は、愉しみな「かいぶつ句会」の集まり。
ついでにいうとこの会は多士済々。
アーティストとして榎本了壱さん・萩原朔美さんがいるほか
声優/DJであの白石冬美さんがいるし、
女優では蜷川有紀さんがいる。
サブカル系でサエキけんぞうさんがいて、
詩人の大御所では八木忠栄さんがいる。
あ、若手歌人では笹公人さんもいる。
その他、榎本さんの粋な旧知のかたが目白押しで
会員トータルを落語家の金原亭世之介さんが引き締める恰好だ。
前回時、世之さんがこっそり教示してくれた
句会投句心得を参考に今回僕は投句してみた。
さてどうなるか。
僕は前回から榎本さんの手引きで、
この句会に参加するようになった。
そこでの句はいずれ発表することにしよう。
遅速
【遅速】
かなしみと遅さに関係ある夕にゆつくり光りだす星ひとつ
天使性と速さに関係ある朝はからだを蜜がしづんでいつた。
遅速すらこの天体の相対か。――下火のぼくが来ぬ人を待つ
につぽんのをみなのはだへ倭文(しづ)みちて森のひるまもたぬしうつくし
きみの壇ノ浦にしづむ蛍火が ひと夜で消える源氏のぼくが
花栗のこがねに揺るるまひるまは臣籍降嫁の譚もただ褪す
藍いろの性混濁の眼でさへも統計どほりの傾向、惜しい
女などみんな愉しき菌(きのこ)だろ。その影も僧帽のかたちでひらひら
男の精しぼり滴する膝下にて短歌の七七、あをく匂ひす
川からのひかりをもつてゆきかへどたえず蹉跌の短歌球面。
●
――例のごとくの日録十首。
今日は午後、前期試験要綱用紙を出しに学校へ。
それだけの一日になるのも厭なんだけど、ね。
女房は今日、帰りが遅いというし
(こんなときに待つケータイ電話だ、
あ、そうそう、詩集刊行計画がついに現実裡に走りだした
(こちらはいずれ詳しい報告も可能か。
乞うご期待、
分類
【分類】
円窓に頭部を截られるやうにして俺は浮いてゐた 分類として
一身にしてなほ分類の俺だから貰つた札(ふだ)で泣くこともある。
舌下だらう、飢のはじめも。熱誠書の、海と轟く言葉のなかでは。
冷愛の成就に向かふ道すがら、蕃人の羅に見えた太陰。
舌のかず殖やさうと嘘を重ねきた汝が口のミルフィーユ型美(は)し
眼に積もるマロン花粉の黄なるゆゑ《執事の姿で扉を探した》
眼が醒めた、願望世界は切つ先のかたちが喜色らしいけれども。
――てのひらにみづうみつくる愛にして数歩で消える水もかがやく
足もとの星拾はむと撓む汝の――尻間にとほく別星のみゆ。
重力は権力に似る、野遊びで星斑の馬も五頭潰した。
●
昨日の日記は、短歌をしるしたのち
同人誌「町」に載った早稲田生・瀬戸夏子の巻頭詩篇を讃えた。
つづきがまだある。
「町」のその後を読み、
この瀬戸夏子の才能にさらに強打されたのだった。
その前に前回の「早稲田短歌」の紹介法に倣い、
今回も若い同人たちの素晴しい歌を個別列挙してゆこう。
○ 土岐友浩
ライラック思い描けばえがくほどさようならこの手を離れゆく
ため息を眺めていたら指差したゆびが消えたら春の花々
○ 服部真理子
青銅の都市があるのだ そこへ向け拭いてはならぬレンズがあるのだ
僕たちは舟ではないが光射すスープ店に皆スープを持って
ガラス瓶砕けた朝にふさわしくそれは調律を終えたピアノだ
世界でいちばん寒い惑星を決めて最後の乳歯抜け落つ
少しずつ角度違えて立っている三博士もう春が来ている
○ 平岡直子
刺抜きを拾い上げたい秋の野で触れればそれはみんな朝露
縦横に行き交う肘がひかるとき駅をひとつの船と思えり
○ 望月裕二郎
ひたいから嘘でてますよ毛穴から(べらんめえ)ほら江戸でてますよ
ともにあるいてゆくつもりはないそのまんまむかれた蟹の脚でいてくれ
もう人とはなさなくてもいい馬の延長としてかたむける耳
○ 吉岡太朗
左手がどうであろうと鯖寿司を食べているなら食事中です
折り紙を折るしか能のないやつに足の先から折られはじめる
プルタブをかちかちいわせる集団が音で仲間を増やして海へ
かろうじて鯉だとわかる きらきらと鱗のかわりに画鋲まみれの
○ 平岡直子(特集分)
封筒を開くひかりではずしゆくあなたの胸に並んだボタン
人類の願いはどんな葉書かと脱ぎ捨てられたからだに触れる
図書館のドアを開いていちめんのあなたの服を保冷する雪
●
うえにチラリと書いたが、「町」創刊号には
同人の連作20首のほかに、じつは特集があったのだった。
特集は「本歌取りの複数」と題されている。
これは「どんな形態でも良い、既存作品との勝手にコラボ」みたいなもので、
同人の意欲的なアプローチもつづくのだが、
ここでも瀬戸夏子が、ぶっちぎったのだった。
その短歌競演(饗宴)のハイライト部分を、
後半を中心に、転記打ちしてみよう
(瀬戸の表記と変え、瀬戸以外の作者名は一首に寄せることとする)。
【The Anatomy of, Denny’s in Danny’s】
○ 盛田志保子
星と星つなぐ閃き買って出てあたり一面の星をかなしむ
○ 瀬戸夏子
みずうみを鞄にしまうあの世の疲れたみずうみ繰りかえすまばたき
○ 荻原裕幸
女の子とは二十歳未満であるわけの雪を降らせるこのOLは?
○ 瀬戸
太陽におしっこひっかける太陽のなかに座って踵に数字
○ 宇都宮敦
スカートの端までわたしは愛されて いいかい いまから調子にのるなよ
○ 瀬戸
かたつむり一般車輌を塗っただけしかもフライパン裏返しただけ
○ 笹井宏之
みずとゆきどけみずであうきさらぎの、きさらぎうさぎとぶ交差点
○ 瀬戸
昇降機にたっぷりの幽霊、ひだり手に花という海のわたしの重力
○ 望月裕二郎
町中の人がいなくなる夢を見ておしゃれでいなくちゃいけないと思う
○ 瀬戸
桃色の脳とりだすきみデニーズでしろい机でからだも洗ってあげるよ
○ 飯田有子
ミイラになってもめがねをかけているつもり汗かきの王様でいるつもり
○ 瀬戸
では載せなさいそんなにきれいな内臓は割れてもかなしくならないお皿に
[…]
●
ちょっと上の引用法では瀬戸夏子にアンフェアかな。
この一連で瀬戸の透明な絶唱というべき名吟を
さらに四首拾ってみよう。
○
みずうみに出口入口、心臓はみえない目だからありがとう未来
ではなく雪は燃えるもの・ハッピー・バースデイ・あなたも傘も似たようなもの
オレンジを切った両手の100年のにおいを摘みにくるあと100年
あたらしい死体におにぎり売りつけてわたしの死体さがしにいきます
●
ところが、この作歌饗宴(競演)には後日譚ともいうべき、
瀬戸の散文詩も付属していて、これまたすごいのだった
(一体このひとはどうなっているのだろう)。
転記打ちは面倒なので、アトランダムに少しだけ抜く。
ファミマとマックのどちらに忠誠を誓うのか、これは重要な問題だ。デニーズは消滅してしまった。その子はデニーズでアルバイトしていた。
デニーズが消えたとき、どんな感じだった?
ものすごく光ってた。きらきらしてた。
デニーズ座だね。
てりやきマックは売っていないと言われたのでわたしたちは、早速、それをつくることに決めてしまった。店員をとらえてレジからひきずりだした。すべての優柔不断となかよくしなさい。なかよくしなさい。
●
――昨日、書き忘れたこと。
おととい研究室に大辻隆弘さんからじきじきに
ご著書が届いていた。
『岡井隆と初期未来』(六花書林)と『アララギの脊梁』(青磁社)。
僕のブログ記事に感激されてのご恵与だという。
嬉しいことだ。
大好きな歌人に自分の書くものが認められただけでなく、
このようにネット上に不意に生起する贈与自体を好きなのだ。
夏休み前には拝読できるとおもう。
それと、近藤弘文くんと高塚謙太郎(都市魚)くんの連詩が
ついに満尾した。
これはさっきペーストを完了、これから読むところです
代田物語②
【代田物語②】
水栽培の球根なのか透けつつも腐りへ向かふぼくらの未来
大著のやうに俺のからだが重たくて抱いた途端のきみも枯葉に
四畳半期、真四角部屋でした交を文革と呼んだがおまへは消えた。
女性字を置くべきそこにもつれ果てた蔓ばななのか縞薔薇の乱
べえごまと同じだ まはるめのたまのまはり叩いて世界の夕日だ
性愛に削りがあつておが屑も記憶のために取り合つてゐた
ぶつ放す一身のための空なくてだからオレらは遠泳をした
曲目はパープルヘイズ、ヘイズ氏の10秒のため10秒演奏
一級河川のほとりで二級の性愛をする嬉しさの等々力渓谷
ライラック何とは知らぬ色彩をむらさきとする磊落きたる!
●
昨日は授業日。特筆すべきは二限のマンガ講義。
マンガのエロ表現につき、限界に挑めた感慨があった。
扱ったのは、江口寿史「はずかしい」(『爆発ディナーショウ』所収)、
山本直樹『明日また電話するよ』中の二作、
何と宮西計三「エステル」の一作目、
それに腹這いになった「紺野さん」が
舌だけで半月西瓜の種をとる(安田弘之)だった。
知らぬひとには何のことかわかるまい(笑)。
卒制指導のあとの帰り、
望月裕二郎くんと石川大輝くんとで飲む。
珍しく女子がいない。
例の池袋西口駅前、もつ焼きの立ち飲み屋。
そういやこの二人の人材をつなぐのが佐藤友衣だったが、
石川くん曰く「元気で働いているらしいですよ」。
望月くんには同人誌「町」をもらった。
「早稲田短歌」卒業生の拠点にするつもりだという。
その巻頭収録の大作詩篇
「すべて可能なわたしの家で」にびびりまくった。
作者は瀬戸夏子という名前、
詩篇内容からしてもしかしたら僕と同じ烏山在住者か。
これもポップで自由、読むと気が軽くなる。
軽くなるのに像を結ばない。
「女子詩」のこの傾向は大・中島悦子以来だ。
女性的抒情に重くたゆたう水の流れを感じさせる
海埜今日子なんかもいるんだけどさ
(彼女のここのところの素晴らしい詩篇は
同人誌「hotel第二章」「すぴんくす」で読める)。
いずれにせよ、秀詩は「予期せぬ方向」から出現してきて、
ここのところの初夏の風が僕には心地良い。
山田亮太しかり平川綾真智しかり
(彼らの詩集についても
時間をつくって詳説しなくちゃだなあ)。
瀬戸夏子については一個聯のみ転記打ちしてみよう
(まずは部分ゴシック化を省略、改行もすべて天つきとする)。
●
いったい いつまで天気予報を信じてるつもりなんだ
わたしたちのひらいた雨傘の上で逆立ちするたったひとりのピアニスト
電子レンジで焦点のあわない宝石を毎日温める 苦い苦い夕焼け
そう、わたしたちは偶然この家に住んでいただけ
きゅうりの輪切り
コインランドリーの真ん中で蟹がしゃがんでいる
とはいえ 内側から鍵をかけ
浮気性だなあと思い指と指の間にマーカーを何本も挟む
しま模様 こんなに酸っぱくては我慢できないと
幽霊のように逃げだしてきて 2ミリほどの身体でしなをつくる
ひらかれたカラフルな包装 ゆたかなひまわり、
ラジオ体操していると、腹がつやつやに熟す
それが いちばんいい方法なのだと、ちゃんと教わっていたのだった
●
さて、この「すべてが可能なわたしの家で」には
その多くの聯に適用できる法則がある。
ひとつの聯のなかにゴシックになっている文字があって
それをつづけて読むと五七五七七、
三十一音になるようになっているのだ。
ただしそれはほぼナンセンス短歌というにちかいものだとおもう。
ちなみに上の聯でなら、ゴシック部分がこうつながる。
逆電子夕焼け輪切りしゃがんでる挟む模様はいい教わって
●
ともあれこの詩篇で気持ちがふわふわになった。
それで冒頭10首をつくった。
今回はとりわけ手早くつくるのが目的だったね
栗の花その他
昨日は女房と
JRの「駅からハイキング」で
埼玉・上尾近辺をなんと15キロも歩いた。
このところ雨か曇天の
薄ら寒い日がつづいていたが、
雲がとれて南風が吹いてみると
もう夏の陽光で気温がぐんぐん上昇し
女房などは日焼けでひどいことになった。
僕も完全に一日で土方焼け。
しかも脱水症回避のため
もっていたお茶の水筒はおろか
ペットボトルのお茶も歩き歩き飲み続けたら
全身が滝のような発汗、
からだ(細胞/皮膚)の浸透膜がバカになったような
水分の流出となった。
そう、からだ一個が水分往来の
単なる媒質となったよう。
さぞや老廃物も一緒に流れ出たろうが
おかげで着ていたポロシャツは
運動部在籍の中学生のように
恥しい汗ジミだらけとなってしまった。
上尾は西口東口どちらが表駅かわからない
特性のない街。
街道沿い、農地を宅地に変えて
曖昧なベッドタウンが延々つづく。
それでも西口はある程度進むと
日産ディーゼルの企業城下町となる。
歩行コースは延々たどったその日産通りを
馬蹄寺という寺に行くため旧道に折れて
ようやく旧い武蔵国の面影が得られるようになった。
農家の大きい区画がつぎつぎ並ぶようになり
丁寧に庭もつくられていて、
この季節は、紫陽花が丹精に育成されている。
紫陽花は色のつきはじめ。
ただ、なぜか眩しい白珠が多い。
以前の印旛沼付近が、紺玉の多かったのと対照的。
それではげしい暑気と相まって
美しい植物世界全体が茫然とした幻となってくる。
ウォーキングの最大の目的は
上尾・丸山公園の湿地にもうけられた
大量の株の花しょうぶ園だった。
白、紫の花が、周囲の紫陽花の青に囲まれ、
たしかにその全体は
この世にありえない神の郷にみえてくる。
美姫の幻の裸身が湿地をとおりすぎてゆくような
どこか東洋的・神秘的な美しさだった。
そこにゆくまで、
荒川上流沿いの草原を歩いた。
川越市との境目となって、
草原はだんだん牧草地に変わってゆき、
ついには実際の牧場、榎本牧場にいたる。
その近辺で、朦朧とした煙のような
渋い黄金の花を咲かせる栗の木の数々に行き会う。
花粉が襲ってきそうな鬱陶しさだ。
栗の木の花は銀杏の実とともに
精液臭の代名詞。
近づいて花序の実際をみる気がそれでしないが、
集合性と細かさの向こうに霞んだ花々は
おそらく花以前のプリミティヴな形状を
かたどっているのではないか。一句。
花栗や吾(あ)に似るものみな薄くして
それと歩行のまにまにみたのが
おびただしい紋白蝶だった。
蝶の数多く舞う風景には変な電導性があって
風景それ自体が発狂しているようにもおもえる。
脳がじかに撫でられてくる、というか。
さらに一句。
白蝶あまた現世は狂ふこと多少
ともあれウォーキングは九時にはじまり
昼飯時間を挟んで二時ころ終わった。
結果、疲労困憊のきわみとはなった。
上尾西口ヨーカ堂前の喫茶店で涼む。
これが喫茶店の理想のようないい店だった。
店内が広く、明かりと室温がちょうどよく、
流れるジャズの気もきいている。
馬刺しで精をつけたいとおもったが
帰りのデパ地下にはなく
代わりにそこで鱧をかってしまう。
それを道の途中で買ったトマトなどとともに
夕方の酒の肴にして、あっさりと寝た。
その前に風呂で、筋肉痛をとった
口遊び
【口遊び】
不香びと、チンギス・ハンに運ばれつ砂汎域も晩春と思ふ
そんなとき便り舞ひこむ袖ゆ袂、着物のぼくが怯でふくらむ。
車中より馬上うかがふ。馬上には衣・かげろふ・人無しの恍
それほどの淋しい場所にきみと来て同じ地球儀を交換しただけ
やがて鰈の白い身を食(を)し夕暮は相模ことばに脂まはるも
車夫にして写譜。楽想のごとき妃を長塀つたひ終春へはこぶ
若葉萌え澄みわたる世の葉裏には哀ともまごふ銀のいくつか
春から夏、わたくしのしたことはただ蝶吹き消した口遊びかな
くちづけもわが口遊びのひとつとてそらごと舞へるゆふつかた美(は)し
朽ち恋のいつしん桐の樹下に置き夏まへにしてこの青凄し
●
短歌日録。
出来にやや苦しみ、三首ほど捨てた。
お気づきのようにここのところ
口語発想で作歌数をふやそうとしている。
その成果は「阿部嘉昭ファンサイト」中のネット歌集、
『ラジオ巍々峨々』に刻々加算反映されている
(「未公開原稿など」のコーナー)。
――なぜこんなことをしているのだろう。
詩的発語の「瞬間性」、それを手許に招きいれ刻印するには
口語発想で歌作をするのが一番、と考えだしたからだ
(そこで同調感覚ができ、若いひとたちの口語短歌が好きにもなった)。
俳句ならもっと安定的なものがつくれてしまう。
危うい、一行の「立ち」――宝石のような、銀色のような。
いや通常の口語短歌でも律があっているだけで、
ただ口語がつかわれ、
現在的抒情がそこに企図されただけのものも多い。
僕のほしいのはもっと一行詩的なスパークだ。
一行でスタンザをなすことだ。
そうか、もしかしたらいまやっていることは
口語短歌の趨勢とは立脚が異なるのかもしれない。
う~ん、誰かの意見がほしいなあ
「頓珍漢」
ぼくはネットに対しては
まったく怖るるに足りない媒体というのか、
媒体たりえていないので、
「手帖」はネットで語られていることを
気にしなくてもいいだろうし、
詩の書き手は何の配慮もしなくていいと思う。
あそこで働いているのは資本主義の力学だけでしょう。
誌面は編集の人間がつくって、
印刷所の人間が刷るわけですが、
電波/デジタルコミュニケーションは
権力が作るわけです。
そんな場所に語るべき「文学」はないし、
その場所で語られていることに対して、
われわれが議論すべき問題はないと考えています。
●
――以上そのまま抜き出した。
「現代詩手帖」最新号、目玉企画のひとつ、
北川透/稲川方人/瀬尾育生鼎談における、
稲川方人の発言だ(47頁)。
座談進行のなかで
北川・瀬尾ともネットをみていないと公言しているので
この稲川の「頓珍漢」な発言は、
誰からも「頓珍漢」とも指摘されず、
恐るべきことにそのままスルーされてしまっている。
ここで「頓珍漢」と書くのは、
たとえば「真意がわからない」と書くより容赦がないとおもうからだ。
こう書けば、もう稲川も
自分を棚上げにした揶揄の調子で、
誰に向けたかわからないような反論を書くことができないだろう。
そう、幾ら稲川がボケたとはいえ
「どこぞの物書きに《頓珍漢》といわれた」と書くのは恰好悪い。
そう書くと、稲川の「頓珍漢」ぶりを知っている者も、
稲川の論理の進行を読むまえに
「やっぱり」と首肯してしまうはずだ。
「われわれ」という主体擬制が歴史問題ともなっているこの鼎談で、
引用部分の最後にある「われわれ」が
いかに不用意な発言であるかはもう指摘する必要すらないとして、
問題なのは、
《電波/デジタルコミュニケーションは
権力が作るわけです。》という発言にある
デジタルメディアにたいする素朴な誤認だろう。
たとえば2ちゃんでも、ミクシィでもそれは資本運営によっている。
あるいは個人がブログを運営しても
それがブログソフトの定式を活用していれば
個人の創作文書なのに、
その個人にたいし無断転載を禁じる約款があったりもする。
つまりは、ランキング記事の加工権は
ソフト技術提供者にあるという
例によって空疎な資本側の主張があるわけだ。
そのあたりのソフト利用者とネット資本の機微など
とうぜん「頓珍漢」稲川には知るよしもない。
たとえば、ミクシィ日記を集成する単行本を
出す権利があるのは自分だとミクシィは主張したが
僕のミクシィ記事をあつめた『僕はこんな日常や感情でできています』が
ミクシィから出版差し止めを主張されたことはなかった。
彼らはランキング記事の加工だけに眼が行っていて、
まさか個人の書いたものの著作権が
そのソフト技術を提供する自分たちにあると主張する意志もない。
これは係争事例的常識から考えてもわかる。
とはいえ、ネット資本と権力の関係はむろん考察に値する事項だ。
つまりネットは、脱中心性、
たとえばドゥルーズ=ガタリが志向するリゾーム型の
情報伝達空間として当初は規定された。
このときに中心化=権力が生ずる反動契機となるのは、
じつは「ポピュリズム」だけにすぎないだろう。
ネット資本は実際、ヒット数を誇るタレントブログでも
あるいはいずれは限定的アーティストへの
キックバックを図ろうとしているYouTubeでも
アクセスの多数性でその効果を伝えようとする。
むろんそれはグーグル理論的には誤りだ。
利用の瞬間爆発ではなく
低次利用の信じられない継続性のほうが
数量的な凌駕を結果するというのがネット社会の理想で、
つまりネット有効論は脱中心性を数量化する流れだったはずだ
(むろんそれは現状のポピュリズムの横行で、そうなってはいない)。
ポピュリズムの厄介なところは、
「有名な者」自身が「権力」をもつわけではなく、
それに乱入する者が「結果的に」「擬似的な」権力をもってしまう点だ。
つまり「多数」が形成されることによって
その反作用として「少数」が基本的には「悪意なく」抑圧される。
この点につきネット資本は
「想定外」と白を切りとおすことができる。
この点はさすがに稲川も
さきに引いた発言の前、
「徹底的な個人阻害や弱者阻害や少数者排除や
そうした新たな力学が生まれてくる。」とはいっている。
ただ少数意見の波及可能性を理論上保証するのがネットで、
それを現実的に阻害しているのはネット資本ではなく、
そこから噴き出したポピュリズムだという精確な把握が必要なのだった。
精しいことはどうでもいい。
稲川の意見はおそろしいほど「日本化」されている。
中国や韓国では誘導要素を度外視するにしても
ネット上の意見沸騰が、
政権を転覆するまでの力を得ていて、
稲川が自分の思考モデルを左翼性に置くなら、
なぜネットのそんな理想が眼中に置かれないのかが理解できない。
ネットはそれを活用する人間にとっては
確実に「左翼的な」転覆の道具となりうる。
北京オリンピック前のチベット紛争では報道管制が敷かれていたから
軍事介入のあった現地の惨状映像は公式には電波に乗らなかった。
それを世界に伝えたのが
住民のケータイ撮影→YouTube投稿という経緯だ。
この場合、YouTubeがネット資本だと目くじらを立てるのはナンセンスだが、
同時にYouTubeは、限定的アーティストにキックバックをおこなうことで
格差拡大の製造装置ともなろうとしている。
つまりそれは資本のあらゆる事例と同じく双面的なのだ。
むろん稲川にはここで書かれていることが複雑に映り
何のことかわからないともおもうが。
僕はべつだん「手帖」=思潮社の敵だと、
自分で自分を規定しているわけではない。
ただし稲川のいうように
版元の編集、印刷屋さんの印刷作業という
いわば蒸留装置を経由した全国的な詩誌だけが、
それゆえに無謬を期待されているともおもわない。
この言い方には「共同意志」にたいする
恐ろしいニヒリズムが伏在してもいる。
つまりたとえ思潮社が詩権力だとしても
その意義が認められるためには
その外部対抗要因として
多様な出現のされかたをするネット詩も視野に置かれ、
健康な比較考量がなされればならないと民主的におもうだけだ。
瀬尾育生は詩の発表については経済原則のみならず
「贈与」の要素が考えられなければならないと
この鼎談で正しく主張した。
ネットへの顧慮すら怠っている稲川は気づかないかもしれないが、
無償でネット詩を自分の読者に提供している(多くは無名の)作者、
その提供原理もまた、純粋な「贈与」なのだということだ。
その詩の出来がいいか否かは、
むろん「その後の問題」、「別の話」にすぎない。
そのようにして物を語るべき「順序」は確保されなければならない。
ただしヒステリックなネット詩批判のみでは
現在萌芽的に生じている詩作衝動の本質も
権威によってただ葬られてしまうだけだろう。
――と書いて、気づく。
一向にわからないのは、稲川がネット(詩)をくさすことで
誰の権益をまもっているのか、ということだ。
稲川が思潮社の走狗ではないなら思潮社の権益ではない。
となって守られているのが
彼の「頓珍漢」だけ、という結論も出てしまう。
これってすごく滑稽なことではないだろうか。
ともあれ左翼的ポーズをとる人間が
これほど世間の変化に無頓着な事態には淋しくなるだけだ。
齢をとった、ということなのだろう。
むろん僕だって、
「それがネット詩であるがゆえに」「ネット詩を擁護しよう」とは
毛頭おもっていない。
方向が稲川と真逆とはいえ
そういう単純な立脚ももはや危険すぎるということだ。
誤解を避けるためこの点はここで強調しておきます。
【その後した、僕自身の書き込み】
ネットそれ自体はやはり利便性ツールで
それを腐らすのが人心、
しかしそれは稲川氏のような単純な図式では
決して定式化できないってことですね
利便性と疎外が同時的、っていうのは
セキュリティ理論などでもそうなように
もう社会学では常識になっているでしょ。
そのうえのコントロール理論、
その精度のほうに
いまは大方の興味が向かっていますね
ネット詩そのものが
そのものとして駄目だということはありえない。
僕はこのごろ思潮社の味方なので
啓蒙を超え、
思潮社とネットが共存するプランをしめしたいともおもっています
たとえばオンデマンドひとつで
思潮社の詩集出版のリスクが
別方向へと分散できます
辻にしてY字路
【辻にしてY字路】
辻にしてY字路、俺の形状は。牛車ころがるひと春を泣いた。
瑞鳥の白い声帯もつゆゑに湖底棚からの弥撒曲にそぞろ
ハイネックになかば縊死した諦念がきれいだ、鴨の愁ひのゴディヴァ妃
肺尖のしろき焔を誰に告げむ芒野荒れて、岡井愛あれて
凍る斜面を否認しつづけいづくにも降りずの三日がひとつの時間。
行列喩とふもの暗に構想しひとりのみ身ぬちの列なりを解く
肝に脾が膵もがならぶ充実を春とおぼえて坂を下りきぬ
眼に鼻が眉もがならぶ淋しさを秋とおぼえて川にわが沿ふ
など頭(づ)には耳順ひてさまよひの位置刻々と草の中なる
絞めた鮫かず知れず時に浪恋うた錯誤の俺が――したたる上陸。
尾崎
【尾崎】
めんたまの球冷えびえと日暮には尾崎が刺した・挿した・鎖した
羽に似る花そばに身を置いてみて くづれる尾崎の百や千ほど。
人文字で書かれた文字などただ忘れ《ゆく春ひと日歩みきつたり》
鶸でなくみみづくに似た後頭部。愛してあの世の尾行うづまき
身頃とは身のいつごろか藍色の杉本真維子の耳裏おもふ。
てのひらに渦なくてきみの裏側を撫でればただの露の秋きみ
身のなかに身のある初夏を風説がふるへよぎつてこの幽門は。
盃を傾げるやうにきみの身を斜(はす)にし漏れたひらがなの汁
肉体の輪郭説は謬見だ。日照雨(そばへ)の京にも妓が千よぎる
死ぼたるの堆積ほどのわたくしは昔がたりに不可喩をもちふ。
●
前回の歌日記は
短歌にたいする言及がなく、淋しかった。
きっと歌作がまずかったのだろう。
じつは今月の二十日すぎに、
詩誌『詩と思想』に長稿を出さなければならない。
テーマは「詩と身体」。
詩が身体をどう描いたかというほかに、
詩を書く身体がどうなっているか、
詩に身体そのものが擬制できるかなど
多様な着眼がもとめられているだろう。
杉本真維子は三省堂『生きのびろ、ことば』で
同様趣旨の原稿をもとめられ、
(たぶん)杉本真維子っぽく失敗している。
主題的にはみなにとって鬼門のはずだ。
僕は泣きながら黄金を視た。
でも飲めなかった――
とかなんとか、いずれにせよ、
詩での身体=肉体の事例を蒐めなければならない。
そのまえに市川浩『〈身〉の構造』を本棚から
とりあえず探しだす必要があるのだけど
整理がわるく、奥に入った本は見つからない。
メルロ=ポンティで代用できるだろうか。
貞久秀紀さんには圧倒的な「身」の詩篇、「夢」がある。
杉本真維子には「身頃」がある。
僕にもいくつかある。
だけど、たぶんたとえば「身」に
左右のあることや上下のあること自体を問題にしたい。
それで貞久さんからたとえば石原吉郎へと
詩の問題も伸びてゆくだろう。
そう、そこでは「身は位置だ」という端的な事実が
哲学的思考の対象となってゆく。
この問題は田中宏輔も一貫して追っている。
ただし女性身体ならば、
そこに「自分の身のおぞましさ」という問題も加わる。
おぞましさ=アブジェクション、クリステヴァの提起。
ただ買い置いている『恐怖の権力』には手が伸びず、
歌書句書ばかりを撫でさすっている。
女性短歌にはすでに多様な
身体沈思、身体黙想が出現している。
たとえば葛原妙子から水原紫苑を経由して
盛田志保子と横山未来子へと二本、分岐線を引くのも簡単だ。
ただしこれは枕にはなるが本論にならない。
何かもっと「詩のネタ」に肉薄しなければ・・・
どなたか、妙案はありませんか?
と、もやもや考えているうちに
仁平勝『俳句が文学になるとき』を読了してしまう。
集中、蛇笏論にゾクゾクしたのちに読んだ、
放哉論が見事な「俳句身体論」だった。
それにインスパイアされて早速、歌作した。
上の十首です
恋記
【恋記】
後日、以下の数首も「囲ひ」となすならば。ばつくれる西風だ、恋記は。
恋記れんき、運転中もフェラチオで環八を。(『ぼくら』/『風の眷属』)
髯が焔のいろにぼけるなら陰毛も貴く哀しむむらさきとする
寝床を鏡に変へられてのち猥王の俺も電磁として捕まつた。
その沖は一氾濫の予感だらう。沖の手前の、開脚を愛す
朝露じたい連山となる芋原でおまへはきつとつかへない蔓だ。
拠点とは瞳のかずよ思へらく、あやめをほしいままにしていま
十人で野をひた流れ十人で裸木に信義の裸形も彫つた
その際は近似値的に謬まれる「真」に女性冠詞もつけて
肛門をみて哀しむを一会のをはりとなして風の穴穴
●
またも作歌披露。
このごろはともすると日記記載が滞りがちになる。
以下、簡単に過去の日録をしよう。
金曜日=松江哲明『あんにょん由美香』試写。
そののち、松江、園子温、三村京子らと飲む。
園子温がパイプとゴロワーズで紫煙を流しつづけて参った。
危うく貰い煙草をしそうなところを三村京子が必死で止めた。
しかし園も松江も俺以上に喋る。
土・日=天気が悪かったので家篭りをして
女房と録画済TV番組をみつづける。
『笑神降臨』ではますだおかだを見直した。
椎名林檎の新曲は、
『スマイル』で主題歌として扱われているかぎりは素晴しいのだが、
『Mステ』登場で改めて歌詞をテロップとしてみると
うまくつかめなかった。判断保留。
その『スマイル』はもうドラマとしてはどうでもいいのだが、
ガッキーの可愛さが異常なほどだ
(僕はリタイアしたのだが、女房がみている『スマイル』を
ガッキーの声がするときに覗く)。
しかし『BOSS』の戸田恵梨香の猫背と爪噛みも可愛い。
月曜=授業日。
大教室に行く際、解説するマンガ本を
ジュンク堂の袋に詰め込んでもっていったのだが、
その際、一緒にもっていった金属ボトル型珈琲の栓がゆるみ、
大事なマンガ本が汚れ、激しく意気消沈する。
で、授業も低調に。
ただしあとで研究室に来た卒制指導の平塚亜子ちゃんに、
授業で説明したのと同じマンガ(魚喃キリコ『キャンディーの色は赤。』所収)を
完璧に解説してしまう。
こういう釦の掛けちがえみたいな展開にがっくりくる。
入門演習ではまたもや大永歩さんを褒めたたえた。
今度は彼女がつくったカフカ的な箴言だった。転記すると、
《悪は私であるが、私は悪ではない。》。
この箴言の奥行を、自身にカフカを仮託してぜひ考察して頂ければ。
ここ数日はずっと『短歌ヴァーサス』のバックナンバーと
萩原健次郎さんの詩集をたがいちがいに読んでいた。
『眼中のリカ』、すげえ。
『短歌ヴァーサス』は枡野浩一特集の号も
正岡豊の誌上歌集の号も、月曜帰りのジュンク堂で無事ゲット。
いまふと憶いだし、部屋奥の積ん読本の塔から
短歌ニューウェイヴの趨勢に迫った、
『新星十人』(立風書房)を引き抜いた。
この本、新刊早々に買った記憶があった。
奥付を見ると98年五月。
何と十一年間、積みっぱなしにしていたわけだ(笑)。
今週は仁平勝の句論本三冊を読む予定。わくわくする。
仁平さんは僕のなかでは精神分析本における中井久夫、
詩論本における藤井貞和&瀬尾育生、
犯罪評論本における朝倉喬司、
都市論本における原克、
中国本における武田雅哉のように、
いまや絶対的価値のあるひとになった。
俳句志望者で未読のひとは、じつに勿体ないですよ
あ、そういえば昨日、「ユリイカ」編集長から詩の依頼。
百十行までという。一般誌からの初めての依頼だった。
こういう申し出により自分の生活が変化しだすのを
待ち望んでいたのだった。