ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

望月裕二郎はやっぱ良い

 
 
夕方から
学生から出されている卒論・卒制の中間過程の
チェックをはじめた。

うち、『ひらく』と仮題されている
望月裕二郎君の口語歌集がやっぱり良い。
じつは彼は立教一年生のとき
盛田志保子さんをゲストに呼んだ僕の演習で
口語短歌に目覚めた。

以来、「早稲田短歌会」に在籍して作歌に励む。
こないだの土曜、NHKBS2でOAされた
長丁場の短歌ナマ番組でも
彼の短歌が決勝直前までのこっていた。

今回、初見だった彼の作で
「へええ」と感心したもののうち若干を
望月ファンのため以下に転記打ちしてみよう。




落ち合えば君の隣に僕が立つ首から下の僕のからだが



もし空が海だったらと考えて考え終わってドア閉まります



ミッキーのペニスが置かれる売店をどうしても見つけられない僕たち



さしあたり永遠であれ人間の夜の舗道を伸びる白線



寒い朝サイズの合わない靴はいて僕だけのものにならないでほしい



朝目覚め枕にキスしてもう誰が好きだかわからなくなる日曜



つり革に光る歴史よ全員で一度死のうか満員電車



染めすぎたオレンジの髪結いながら「たまたま地上にぼくは生まれた」



「来年の春またここで」うそだろうにぎるんだろうくわえるんだろう



ドーナツをそれとして齧れば齧り始めた場所で齧り終わる




なかなかでしょ?
スケベな歌を中心に
キリよく十首を拾ってみました。

連作を並べる構成はすっきりしている。
ただしあと50首(連作三つ分)ほしいなあ。

それで最後に「大団円」がみたい
(と、望月くんには注文しておく)。

製本は多めに、といってある。
卒制提出用に加え知人配布用だ。
彼自身いずれ注文も受け付けるのではないか
 
 

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2009年10月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

秋交

 
 
【秋交】


昼のおわり秋の捨身は
ジュモンの門にもたれる

まったきが軒下を狙い
褪黄に染まってゆく

すでにして幾重にも
くさむらだろうわたしは

こめかみへ薄荷を擦って
残月の思念もうかべた

家族のひいた銀は
樹下で炭化するかも

人肌を背負い志を売って
ひるがえってゆく裾だ

いずれ透視のつづきで
円が線になるよう歩いた

日常のくらげだって笑む
実山椒の仄かな割れを覗き

女のようなものがひりり
秘密はおのずから盲化する

銀輪が往来する塀向うに
採譜のこころも消えて

その契機で旧知には逢う
一瞥で中心をえぐった

音群の茸に実が落ちる
ような四時の事故後

愛着も糸になりはじめる
被さっては対象田を刈った

数百回の干満があって
形も帆船を逃れられない

われら思想の不恰好は
見様では臨終の羽虫

やがて大団円が水澄む
なかに木霊もなく静かだ




「現代詩手帖」11月号、
特集の《「手帖」新人欄の半世紀》を読んだ。

なるほど現代詩の時代変遷が
時代順に五十あつめられた投稿詩篇からみえてくる。

それで生来の女好きが作用するのか
女性の詩篇ばかりがよく読めて困った。

僕にとっての金賞が
山下晴代「くぬぎ林」(75.3、倉田比羽子選)と
小川晴子「匙」(01.7、杉本真維子選)。

その他、語調と韻律に感銘したのが
まおかせつこ「ポケット・ウィスキー」(80.2、河津聖恵選)、
斎藤まり子「少女に」(83.10、同上)、
木澤あすか「アイスピンク/オブセッション」(96.6、和合亮一選)、
晋通「ひもがとける」(07.1、杉本真維子選)。

最後のひとは名前からして男女不明だが
語調から女性ととった。

特集を読みすすめてゆくと
うたかたと消えたこれら歴史の女性と
寝ているような気にもなった。

それで上の詩篇を書いた
 
 

2009年10月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

空のなかを空が奔る

 
 
【空のなかを空が奔る】


九月尽を経て
地上も迅速になった
その透明国をあきつがわたり
牧牛は立ち寝しつつ
気配の傷を負う
樹々も空へ離れようとする

それ自体が祷りであって
天心に墜落してゆくもの
落葉のまえのそんな気配に
だれかの銀のものかげも
さみしさとして加わる
ふみいれた地帯に
自分をしばろうとして
みるくが足許にこぼされる
そのみるくもとほいしろがね

あらゆる目的地の
フェルナンデスのくぼみ
おもかげの空空しさ
けれどまなざしも姿どうよう
つづいてゆかないだろう
ゆうがたには
空のなかを空が奔る




昨日は在宅仕事の女房に
パソコンを独占されて
僕は読書三昧となった。

まずは文月悠光さんの
『適切な世界の適切ならざる私』を読む。

学校関係の語彙が多い。
「学校へ行っている少女」の詩だ。
真率。モチベーションがある。
それをじかに出すまいと言葉が格闘し
詩的修辞が次々に「勃発」してゆく。
渦から渦へ「読み」が進む快感をおぼえた。

をんなのこのうぶげはうづまいてゐる

十代詩人ということで
やがて彼女を久谷雉がそうだったような
伝説がとりまくかもしれない。

次、公刊後だいぶ経過していて恥しいが
詩手帖増刊『塚本邦雄の宇宙』を読む。
ものすごいボリュームだ。

紙面では年代をさまざまな水準で追える。
それで塚本邦雄から脱却することで
自分の詩作がはじまったのだなあと
改めて確認もした。

あの絢爛たる語彙や詩的断定に
以前は身体リズムを切断されていて
自分の詩に流動性が生じていなかった。

それに気づいたのが80年代初頭。
だから実際は「詩手帖」をひもといたり
西脇や吉岡や石原や堀川の詩を読むよりも
塚本だけが自分の詩作の是非に
影響をあたえていたことになる。
そう、正負双方の方向性で。

以後、頓着なく詩作をやめ
20年以上が経ってから
それが自然再開された。
岡井隆の伏流がからだのなかで
ゆっくり生気を得ていったのではないか。

それとたぶん詩という枠組のなかでなら
今後、自分の衰弱をしるしていい
――そうも判断したのだとおもう。
評論とちがう立脚。

黒瀬珂瀾さんから
塚本の最晩年の様子を以前聴いたときは
息を飲んだが
この『塚本邦雄の宇宙』には
息子・青史さんの論考のみならず
多くのひとの論考にその惨状が書かれている。

青史さんにしても
最晩年の未刊(最終)歌集として予定されていた
「神変」の出版断念を
「玲瓏」を主体にした信奉者以外にも告げるため
事実を明らかにせざるをえなかったのだろう。

短歌中の自他新旧のフレーズの区別がつかなくなり
それをパッチワークしただけのものを
自らのオリジナル作歌と錯視してしまうこと。
塚本は最晩年、場合によっては至福ともいえる、
そういう「朦朧」のなかにいた。
「詩歌玲瓏」ならぬ「詩歌朦朧」。

あの超絶的記憶力は箍をはずされれば
とうぜんそういう悪作用をするだろう。

しかしこの塚本の思考力低下(無化)は
塚本の作歌の質も問わず語りしている。
つまり塚本の歌はフレーズの取り合わせによっていた。
それは三十一音を上から下に橋渡しする
情の一貫性ではなかった、ということだ。

塚本さんというか、
その才能の質の悲哀が胸に迫った。

その前、80年代半ば、広島・呉で
自分の初学時代を回顧した彼の公演記録があった。
その口吻の謙虚さには感動した。

しかし彼はなぜいつも「選別」について
あんなに宣言口調をとらなければならなかったのか
(意外にそこで蓮実重彦との共通性をおもわせる)。
そういう振舞いが
淋しさの質にかかわっているのも確かだ。

岡井隆にはこの愚挙がない。
僕も慎もう。



平川綾真智さんが
「文学極道」に拙詩集『頬杖のつきかた』の
「熱すぎる」紹介を書いてくれた。
読中読後の感触がとても動態的に掴まれていて
こそばゆかったが、頭も下がった。
のぞいていただけると嬉しい。以下。
http://bungoku.jp/fbbs/viewtopic.php?t=399&highlight=



学校では班をつくりいよいよ連句の興行がはじまった。
たくろーくん、メーリス作成ごくろうさま。

月曜日の林檎授業では「月に負け犬」を
ミスチル「イノセント・ワールド」のアンサーソングとする
説を出した。
絶望と希望をないまぜにし
そのことで歌詞の一行一行から具体性を消してゆく
Jポップの歌詞づくり一般が批判されている、とも。

逆にいうと林檎は絶望と希望を精確に腑分けすることで
その双方をリアリスティックに担保する。
だから歌がそのまま膚接して「ぼくらの生」に関与するのだ。
「月に負け犬」は「僕」の精神状態を高い抽象性で唄いつつ
同時に夜明け前の川沿いのジョギングを描写している。

その後は「本能」をかけ、
あとはセックス・ソングのオンパレード分析となった。
ほかにかけたのは
・ ナンバガ「SASU YOU」
・ パラガ「暗い夜」
・ バック・ホーン「プラトニックファズ」
・ 三村京子「岸辺のうた」
性の多義性、社会性、主体/客体変化について話した。

授業後、研究室に生徒が
三村『東京では少女歌手なんて』を買いにきたのが嬉しかった
 
 

2009年10月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

お知らせいくつか

 
 
詩の応募サイト「文学極道」で、
僕が書いた九月応募作品の選評記事がアップされました。
http://bungoku.jp/blog/20091020-171.html
「文学極道」発起人に加わって初めての選評記事。
とうぜん気合を入れて書いたし、
「月間優秀賞候補」に選んだ詩篇もすべて納得がゆかれるとおもう。
そこでは「現代詩は終わっていない」。

というか「現代詩」から「現代」がとられたたんなる「詩」が
「文学極道」では書かれている。

詩の個体発生はそこにいたる中間で系統発生を繰り返す。
つまり「現代詩」のマニエリスティックな「形式」に行き着かない
系統発生過程の原型的・情動的詩篇が
たんにモチベーションによって書かれるから
「文学極道」には良い詩が集まるのだろう。
僕にとっての眺めは「詩手帖」より遥かに良い。

僕の選評記事を読むと、このことが一目瞭然となるとおもう。
ご多忙のかたは「月間優秀賞候補」の欄だけでもいいから
ぜひ覗いてみてほしい。
もう一回、アドレス表記:
http://bungoku.jp/blog/20091020-171.html

加えて。
覗かれるとアップ様式の素晴らしさにも気づかれるとおもう。
対象となっている詩篇はすべてクリックすれば
その全体が読めるのだが、
これが見出し語の役割も兼ねているのだった。
それで、詩篇を読む→選評を読む、の動きが自然化される。



昨日学校に行ったら
研究室に立教大学文学部人文研究センター発行の、
『書簡を読む』が置いてあった。
立教が書籍形態で出している紀要本のひとつだが、
定価表示はない。

書簡文化を文学的にアプローチ、検証するというテーマの論文が並んでいる。
川端康成×三島由紀夫の往復書簡に秘められたドラマを探る
石川巧先生の「作家としての立場をつくるということ」、
プルーストの書簡にたいするねじれて現代的な考えを
彼の論考と実際の書簡から立体的に浮かび上がらせた
坂本浩也先生の「文通への抵抗、手紙のなかの隠喩」など
読みごたえ充分の論文も目白押し。
なんか往年の「ユリイカ」の最良の特集を読んでいる気になる。

かくいう僕も「ネット時代の書簡」と称して
例のごとく脱領域的、数珠繋ぎ論考を披瀝している。
これも長大論文。そこでは、

・ロラン・バルトの日記行為
・SNS上の日記が書簡(メール)に変貌している現状考察
・リラダンとマラルメの往復書簡の考察
・書簡からいかに宛名性が消えてゆくか
・永山則夫「手紙を書こう」
・秋葉原連続殺傷事件の考察

というふうに論旨が進んでゆく。

非売品なので一般人がどうゲットできるのかがわからない。
立教生は学内のどこかで拾えるのだろうか。
僕の手元にはまだ一冊しかないし・・・

発行元、「立教大学文学部人文研究センター」の電話番号を
念のため書いておきます。
03-3985-2521
是が非でもゲットしたいひとは上にどうぞ。



今日はさっきまで
「ポエームTAMA」から依頼されている詩篇を書いていた。
無事完成、発行人の池田實さんには添付メールした。
あと一週間強で詩作者のあいだには送付されるとおもう。
僕の書いた詩篇のタイトルは「百かばん百」。

じつは前日、廿楽順治さんから送ってもらった詩誌「生麦」のうち
近藤弘文さんの詩篇「燐の犬」にとくに感動、
ごく一部、その詩篇から引用させてもらった
(引用箇所は判明できるよう約物をつかってあります)。

この詩篇の紹介・考察をしたいがちょっと時間がなくなった。
本日はこれから久しぶりの試写ののち
船戸博史さん参加のライヴに行く予定なのだった。

そんじゃまた♪
 
 

2009年10月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

昨日は厄日だった

 
 
昨日はミクシィ日記を書いたのち朝寝、
その後の在宅時はまったくマイペースですごした。

まずは営業猫さんお薦めの
現代詩文庫『大野新詩集』を読む。
すげえ。陰惨がのちうちまわっているのに
修辞が引き締まっていて
読む眼から血が噴き出そうだ。
日本の暗喩詩人として最高峰じゃないだろうか。
その詩法が彼の辛い人生と引き換えなのがむごい。

細かく引用して分析したいが
これから二度寝の予定なのでそれはまたいずれ。

その後、卒業制作として提出されている
学生(女子)の戯曲を読む。
太平洋戦争を扱った、
すごくわかりやすいラインの悲劇。
すべて既視感なのに不覚にも泣けてしまう。

ただし問題は「戦争表象」。
戯曲なので銃後が描かれ、
戦争批判や葛藤が俳優の科白として外化され
実際の「戦闘」は
照明とオフ音で抽象的に描かれることが多い。

表現媒体的にはそれでいいのだが、
何か突き抜ける措置がなかったか
(それを彼女は補助論文で書くことになるだろう、
黒木和雄さんの晩年の映画を考察してはと示唆している)。

その後が句会。
厄日とは、まさにここで生じた。
といって対人関係に問題があったのではない。

「かいぶつ句会」は榎本了壱さんの事務所がデザインする
すごく洒脱な同人誌を句会ごとに制作、会員に供するのだが、
そこでなぜか僕のエッセイが抜けた。一種の落丁。
たんなる編集事故だ。

次、句会用に出した自分の二句が一点も集めない。
これは金原亭世之介さんも同じ。
僕のは理由がわかる。
場の特性に反し提出句が耕衣調すぎたのだ。
これは学校の演習の影響か。

かいぶつ句会では洒脱な季語俳句に
人気が集まるので
今後はもっとその方面へ研鑽を積もうか。

ということで、まずは脱落した僕のエッセイを下にペースト
(改行なしの読みにくさはご勘弁)。



【重なる俳句】


考ふる手に侘助の手がふれる
加藤郁乎

 前衛の金字塔ともいうべき加藤郁乎の処女句集『球体感覚』(59)に「重なる」を用いた句があったと記憶していて久しぶりに頁を繰ってみた。該当句は《薄氷の有無の重なりうすれつゝ》、ただしこれは有名句目白押しのなかであまり取り沙汰扱されない句だろう。「薄氷」の読みが「うすらひ」だとして「う」の頭韻連鎖だが、句想が淡すぎて、重なっているんだかいないんだかわかりゃしない――といったマラルメ的「なり」を句に持ち込んだ。が、そのぶん悪戯心も足りぬようだ。確認すると実際は「重なり」の主題を感じた別の句群があった。列記。①《花に花ふれぬ二つの句を考へ》、②《半月のラヴェルの左手のひとり》、③《考ふる手に侘助の手がふれる》。碩学・松山俊太郎の『ご開帳』をあえて探索せずこの①から③を眺めると句境はひとつ、という気がする。当時の郁乎にあって自身はプラトン的分身の「離れ」で、その合致こそが句作の瞬間と捉えられていたのではないだろうか。むろん俳句の骨法のひとつが二物衝突であるかぎり、一花に別花を触れ合わすことが俳句発想ともなるが、郁乎句は自体的に増殖してそれが一句に収斂しない。ラヴェルのピアノ曲をベース音の左手だけで弾く寂寥。しかしやがて恩寵のようにその考える手にまた「俳句侘助」の手が「重なり」、句作なり演奏なりが促されてゆく。となって句作は「一人交合」のようなものとなる。だが「重なり」は「懸隔」を前提してもいる。その証拠を前衛ついでに、夏石番矢の句に見た。《二重星イエスの右は火の左》(『人体オペラ』90)。




次に当日用に出した計11句も出してしまおう。
最後の二句が句酒会用の投句で
一点も集まらなかった、曰くつきのもの。




茫然や薄となりて手折らるる



金魚田に分身置きてつるむのみ



夕映や異世界の朱も鼻に来ませり



悪いことすれば伴侶に星殖える



白蚊帳で泣く白おぼろ白少女



鰯腹叩き見る空の秋祭



蜉蝣に斬られはらわた始まるか



押し倒す女のなかに日章旗



酔うて死に我と我うち重なりぬ



露の世に醒めて甘露と共にあり



毛の生える絶対神も穀物か




最後の二句、僕自身は好きなんだけどなあ・・・
 
 

2009年10月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(2)

先生と生徒

 
 
鉄路とは永久のつうろよ眠り寝て



木犀の粉散り女男〔めを〕の不能散る



天下透くそこひの秋やあふぎ棄つ



兄丸もおとうとまるも檻の秋



水澄むを地軸訪ねる眼へまねく



外套の季となり涸井抱き容るる



翔ぶ百舌も油滴のごとし夕焼かな



秋花火無象の無垢の消ゆるまで



をみなとは気の置きどころ初紅葉



花野朝みちくる水に花消えて



萩刈りて諦観銀の世を納む



酸橘〔すだち〕射し一死魚の眼の恍惚す



胡桃から音の予感の秋集む



蜉蝣や流水に分身産みて



たれ蒔きし約束のたね一星河




日記記載にやや間があいた。
近況報告。

13日(火)、東京新聞書評用の
『カワイイパラダイムデザイン研究』(真壁智治)読了。
字の詰まった、実際は圧倒的な大著だった。
四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま新書)を類推されるかもしれないが、
少女的想像力、少女的メディア性の遥か先をゆく考察集。
つまり権威性と質量性を分散し、
身体と対話可能な音楽性をデザインするには
具体的にどんな方途があるかを説く美学書だった。

天心『茶の本』、谷崎『陰翳礼讃』、
足穂『少年愛の美学』、九鬼『「いき」の構造』、
中井正一『委員会の論理』、松岡正剛『フラジャイル』、
四方田犬彦『摩滅の譜』など
こういう美学転換の書を日本人が書くことはある。
しかしこれは建築家とそのゼミ生(女子)のコラボ。
うらやましいことだ。
書店では建築書コーナーにあるとおもう。

中途半端な時間に読み終わって
ただちに書評執筆とならず
残りの午後は立教文芸思想専修サイトのための
僕のインタビューの赤字入れをした。
インタビュアーは僕の生徒数人。
取材時には研究室に見物も鈴なりだった。

校正は紙を貼りあわせて引き出し直しが満開状態、
女房が僕の狂気に驚倒していた。
たしかにプルーストの校正紙みたいだ(笑)。

14日(水):午前中グダグダ。
しかし昼すぎ上記本書評を一気に仕上げてしまう。
東京新聞の書評スペースは11字×90行。
難しい用語はつかえない。
僕はそれと
その手の原稿では接続詞をつかわないようにしている。
そのために各文の順番が練られ、
すべて順接で展開が進められなければならない。
そうしないと字数を食って、かつ論旨の透明も阻害されるのだ。
接続詞の字数だって勿体ない。

説明に手間の要する本だとおもったが
書評はあっさりと書けてしまう。
情報の散らしに一種の暗喩性を機能させえたためだ。
これも実はわかりやすさのコツ。
女房にも担当の大日方さんにも
「読みたい/買いたい気にさせる」書評、と褒められる。
今月25日の朝刊に掲載される。よろしければ

以後、読書モードへ。まず読んだのが『粟津潔*8夜快談集』。
司会・編集・後記と、榎本了壱さんが大活躍する本だ。
「先生」と粟津さんを呼ぶ榎本さんがまぶしい。
80年代の最良の気風が、この本から伝わってきた。
この本を買い置いていたのが記憶に蘇ったのは
こないだの日曜、「日曜美術館」で横尾忠則を見たため。

15日(木):読書モードの続行。
大辻隆弘さんから寄贈いただいていた
大辻さん、吉川宏志さんの共著『対峙と対話』をまず読了。
お二方により提示される、短歌での「読み」の峻厳さに襟を正す。
一個だけ具体例を。
寺山修司のよく知られた歌に次がある。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

この「両手」の「ひろげ」を
僕はずっと直前に迫った海へ行こうとする少女を阻止する
一種の「通せんぼ」の動作だと信じて疑わなかった。
しかしこの読解は少数派らしい。
実際は、海の大きさを少女に伝えるため
その無限を腕をひろげてしめす動作だという読解が多いのだとか。
考えもしなかった。
ただしこの指摘は大辻さんの書いたものからの孫引。
最初の提議者は花山周子さんという女性歌人だ。

『対峙と対話』は実際は「論争」原稿を数多く含んでいて
読中の印象がかなり重く、緊張する。
もともとこれは大辻/吉川両氏が
青磁社HPに毎週(ひとりの水準でいえば隔週)書いていったコラムの集成で
このネット上という媒体特質がポレミックな展開を呼んだのではないか。
それでもラスト、相互への深謝が清清しい。
大辻さんが吉川さんの十歳年長だ。

つづいて加藤郁乎『俳の山なみ』を読了。ただ襟を正した。
加藤郁乎が学恩をつづる礼節は、連打されると感涙にも導かれる。

その『俳の山なみ』から
初めて知ったときから
生涯忘れられないだろう一句を転記。

夕立の中に夕立つ夕立かな
安藤和風

さらに送られてきていた個人誌も読んだ。
長田典子さんの『KO.KO.DAYS』、金井雄二さんの『独合点』。
金井さんのものにいたっては百号め。
僕は同人誌否定論者だが、個人誌というのは可能性があるとおもう。

このかん、詩集の礼状が続々届く。
さきに書いた広瀬大志さんのほか、
とくに金石稔さん、井川博年さん、松岡政則さんのものが
やさしく心を包み込む。
そして、みなが一様に、詩集の物量に敬意を表してくれる。
幸福を感じた。

上の15句は、今回の日記をたんに近況報告にしないための句作披露。
とりわけ一句めは僕のかつての「生徒」明道聡子さんの
誕生日に際しての感慨をつづった日記内容を戴いた。
連作ではそのまえにつくった無季自由律の毒消しをしようとも心がけた。

そういえば演習学生の無季自由律がまだメールに届かないなあ。
 
 

2009年10月16日 日記 トラックバック(1) コメント(2)

ゆめ

 
 
【ゆめ】


隧道以上に囲みをえがいた
金木犀の茂みをぬけると
香気が取り巻いて
複数がより複数になった
もうわたしではないのだ
ひかりの層をあてられて
ぴかぴかの○や△に寸断される
はかない獣じみている

火花は秋、この季節にこそ出るだろう

こころは蝋でできてしろく
点火のための線を
空のなか普遍にかんじる
わきばらをつかい
街角をだますように
川辺に出ることも身の誉だが
すでにしておもたい余りを
咎のようにまとっていて

野川の歩みは多重債務を負う
だから芒川原の鷺をみて
身も半減をくりかえしてゆく
そういう元素だろう思考は
金の木の犀の
ゆめだ

香りを出すことにくらんで
ゆめ自らの歩みに
遅れるな
もう粉のように
散るだけなのだから




昨日は女房と野川歩き+成城歩き。
調布駅から歩き出し
布田天神社と虎狛神社の二社を訪ねたのち
野川べりの歩道をずっと下っていた。

合流する多摩川まで歩こうかともおもったが
狛江の古墳群を女房が途中の地図で発見、
次の橋で行路を折れて西野川の高級住宅街に入った。
やがて東野川、さらには狛江のバス終点センターまできて
そこから多摩川崖線の尾根部分を伝う
(といっても高級住宅街だ)成城四丁目歩きとなる。
やがて商店街に出て昼食をとった。

ところが女房も僕も夢遊病者のようで
秋の澄んだひかりのなかを歩きたりず
それで成城学園の敷地をぐるりと回って
仙川をながめては
さらに祖師ヶ谷大蔵にまで足を伸ばす。
商店街ではニシキヤという洋菓子店で
噂のロールケーキも買った。

散歩に連れられている
さまざまな犬種をみるのが愉しいが
昨日の近場ウォーキングは
金木犀旅行ともいえるものだった。

どこを通っても
盛りの花はあの独特の芳香を放っている。
野川沿いも東西の町の野川も。
その微香に酔って夢遊病者のように
歩き続けたといえるかもしれない。

ゆうがた女房のケータイに内属されている万歩計機能は
それまでの一日歩数を二万八千歩余と表示していた。
 
 

2009年10月13日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

柴田千晶・赤き毛皮

 
 
書評用に読み進めている本に疲れて
柴田千晶さんの句集『赤き毛皮』(金雀枝舎刊)をひもといてみる。
先週はじめ柴田さんご自身から寄贈いただいたもので
見るのは二度目。もう印は打ってある。

この句集は女性の内在的身体観の発露において「独特」で
(この傾向は柴田さんの詩集でも同じ)、
たぶんこの最も小説に向く柴田さんの資質を
俳句という最短詩型がどう支えているかにまず興味が行く。
このときの効果は多重に迫ってくると感じるが、
先を急がずに少し以下にしるしてみよう。

第一章「躯」が俳句的身体観の前面化という点で
タイトルどおりの働きをしている。

慌てていうが、
むろん柴田さんの句眼が身体のみに集中するわけでもない。
家族詠も職場詠もあり、
前者では家族を俳句的配剤のうちに描いて人間的悲痛を醸すし、
後者では労働疎外にどこか近未来的光景の感触が混ざるという、
これは僕の知る柴田さんの詩の資質と共通性を描く。

ところで女性句の拉鬼体というと
やはり三橋鷹女を想起するひとが多いだろうか。
となると代表句《この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉》に
やはり評価も集中するだろう。

謡曲「紅葉狩」に発想を得たということだが
僕はその謡曲自体を知らない。
ただ「鬼女」という語そのものの妖気が
「夕」「紅葉」という赤の二乗によって荘厳され
同時に「登らば」という仮定によって
意思の奇異よりもさらに
身体が上方に揮発してゆくような危うさを覚える。

それらが相俟って、男性としてはとんでもないもの
(たとえば情感)に直面させられたような気にもなるのだが
検証してみると「拉鬼」の実体(具体)はない。
手捌きはじつは抽象的で、ひとは崇高な事後に接しているだけなのだ。

前置きが長くなったが、柴田千晶の句は
拉鬼に迫る手続きとして、この抽象を許さない。
だからときに俳句が許容できない女体的鮮やかさと強度を得てしまう。

夜の梅鋏のごとくひらく足

葡萄滲むシーツの裏に千の夜

抱かれし後の花野へわが野性

腋剃りし昼の暗がり白薔薇

四句め、下五の詠みは「しろさうび」。
(剃毛後の)腋、昼の暗がり、白薔薇が
すべて物質的微差を連接させながら
喩的に同時(並列)化してゆく。
それしかない句の構造によって
剃毛という女性的行為が白く圧倒化されてゆき、
これが男性的句発想と対照を描くということだ。

鰯雲の不思議な日暮排卵日

ここでも鰯雲と排卵に感覚的類似性が架橋されながら
排卵という女性内在要素によって
たんなる外界の一自然、鰯雲が規定を受けることに
読み手は脅威を感じてしまう。
女性性が脅威として出現する――これが柴田千晶の個性だ。

しかし上述「白薔薇」の句は
同時に白を基盤に「腋」「昼の暗がり」「薔薇」が
相互溶融してゆくあわれさをもふくむ。
女性的営みの慎ましさはそういう生活の場所へ折れ、
自らを消尽していって残余をしめさないのだ。
となって「白」が特権色ともなる。
中村苑子にもそういえば次の秀句があった。

白地着て己れよりして霞むかな

この「白地」には死装束との複合があって
女体はその死後の相から霞まされるのだった。
柴田千晶にもこの系譜に属する佳句が陸続していて
それらに接すると
読み手のおもいも無常境に遊び、はかなく主情化する。

銅鏡に映らぬ目鼻梅真白

女てふ鋳型ありけり白木槿

天井に我を見る我春の闇

こうした自己を起点にした幽玄化によって
その視界も渺茫さを帯びてゆく。

天上に男は四人花樗

「樗(あふち)」の花盛り、
空にはその四隅を支える四柱の男、あるいは四君子がいたが
それが支えをやめて飛翔している図を感じた。
しかしここでは「男」の語によって
その対比「女」こそが
感性的な大団円を迎えているのではないか。

以上しめした句は第一章「躯」にふくまれているが、
その後の章の句でも同じ運動をすることがある。
「銅鏡」の「消滅」ならば

冬桜感熱紙の文字みな消えし

「女てふ鋳型」はその素朴形を土偶に再発見され
そこから清潔で豊饒な春の匂いがたってくる。

あたたかや土偶の陰〔ほと〕は一本線

「天上に」の幻視は縦に流れる、
より女性的な幻に逢着する。

日照雨誰にも見えぬ滝を見る

これらの句では柴田千晶の句発想=躯発想が「鋳型」となって
そこに読者は躯を容れ
柴田のやさしく、普遍にもつうじる感覚を追体験する。
これが至福につながる。

その柴田が絶対に馴致できない、
完全な「拉鬼体」を実現する。
そこでは脱論理=拉鬼という図式が成立するのだが
永田耕衣的ではなく柴田独自的なのが凄い。

白さるすべり女の躯使ひ切る

青梅雨の体に百眼描かれたる

「百眼」は鈴木清順による『殺しの烙印』のセルフリメイクに
出てきたキャラでもあるが、その意識はないだろう
(柴田さんは映画のシナリオも手がけている)。
ただ身体がアーガス化し、青梅雨の前方を百乗に視ている。
そうした身体が怖いのだが、それが女の身体だとは。

この「百」が「算定不能」にまで昇華されて
柴田的「拉鬼」の特権的天文、「銀漢=天河」が登場してくる。三句。

まはされて銀漢となる躯かな

銀漢や髪洗ふ手の一つ増ゆ

銀漢に菌糸めくもの延びゆけり

二句めの脱論理が凄い。
ただし柴田さんの所属結社「街」は加藤楸邨系の流れだろうから
僕が最近の日記で引用した楸邨の次の句が念頭にあるかもしれない。

天の川後脚を抱き犬ねむる

眠る犬の躯の円型がウロボロスとなって
終末と発端が噛みあう永久をつくりあげる。
それで天の川との対照を導引できる。
となると髪を洗うべく頭に置かれ円をつくりあげた双腕も
そのまま手の増幅を予感させ
女の躯も髪を洗うごと千手観音化してゆくのかもしれない。
そこにも天の川を導引できる。

ならば一句めは何だろうか。
初五《まはされて》の解釈に誰もが戸惑うとおもう。
「輪姦〔まは〕されて」とまで読んで、
たんに躯が回転させられただけだと考え直すのではないか。

たとえばそれも独楽のようにではなく
観覧車に乗るように、であっていい。
ともあれ身体に加えられた回転によって
身体はそれ自体の星を粉のように噴き上げる
――この脱論理は躯を起点にしているから綺麗なのだ。

このように柴田さんは発想の人だ。空間発想も素晴らしく
何か数学的鬼才をおもわせる。
そうした句は拉鬼ではないが愉しい。最後に二句を転記打ち。

花冷のジャングルジムの中に鶏

捨てられし冷蔵庫開く桜山

いや、転記打ちして考えが変わった。やっぱり柴田的拉鬼だ。
そう、この二句では描かれている空間性そのものが
女性身体を暗喩しているのではないか
 
 

2009年10月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(5)

無季自由律傑作選

 
 
身の墓石を砥ぐ


伝聞にして馬、シラクサの気楼を去る


もののふ泣く軍門にあきつ流れて


月下は真葛原の晴れ着


馬の脂におるがんをうかべ寝る


十一面の就寝の、みな銅貨


尻魂を抜いた女で刷毛する


錬銀の手続きのやうな田続き


紫紺ゆくフルートと川下り


黄金は詩のミルフィーユ状に乗つた


頬杖にも暗緑のうろ


鳥の古代を毟りに


望円は沖への叛意だらう密かに


身の鉄分を楢へ下げにゆく


以上、棒銀術の犬が御破算




前回十月五日の立教俳句連句演習では
「無季自由律」の検討に入った。
というのも、この演習では
いずれ受講者たちと連句(歌仙)を巻くことになるのだが、
春秋三句連続、花月の座などといった約束事の多い歌仙とともに
もうひとつ現代的に、一行詩をみなで付け回したいともかんがえていて、
それで無季自由律を紹介しようとおもいたったのだった。

プリントは、尾崎放哉『小豆島にて』と
加藤郁乎『えくとぷらすま』から僕がベスト選句したものを配布した
(うち、放哉パートのみ、この文書の末尾にペーストしておきます)。

上はそののちした「無季自由律句を」という受講生への要請にたいし
僕自身が応えてみせた15句。
何か僕の詩法がバレるようだなあ。
というのも各一行詩が
僕の詩篇からの任意の抜き出しのようでしょ

受講生の句作もぼちぼち軌道に乗り出した。
そのなかで端倪すべからざる才能と僕が目しているのが
モグリ聴講の佐藤瞳。
前回提出された五句中二句を掲げてみよう。

残菊や飯のまづいにかかはらず

曼珠沙華咲くも枯れるも破瓜と見ゆ

一句めは芭蕉《あさかほにわれは飯食ふ男かな》の換骨奪胎だろう。
二句めの、天性の不吉な調べはどうだろう。
こういう句が偶成してくるようにみえるから
俳句がらみの演習がおもしろい。



【尾崎放哉『小豆島にて』より】

眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る

さはにある髪をすき居る月夜

すばらしい乳房だ蚊が居る

足のうら洗へば白くなる

蛍光らない堅くなつてゐる

わが顔があつた小さい鏡買うてもどる

すさまじく蚊がなく夜の痩せたからだが一つ

夜更けの麦粉が畳にこぼれた

髪の美しさもてあまして居る

秋風の石が子を産む話

風音ばかりのなかの水汲む

少し病む児に金魚買うてやる

風吹く家のまはり花無し

木槿の花がおしまひになつて風吹く

追つかけて追ひ付いた風の中

切られる花を病人見てゐる

乞食日の丸の旗の風ろしきもつ

木槿一日うなづいて居て暮れた

葬式のもどりを少し濡れて来た

朝靄豚が出て来る人が出て来る

迷つて来たまんまの犬で居る

已に秋の山山となり机に迫り来

淋しきままに熱さめて居り

火の無い火鉢が見えている寝床だ

淋しい寝る本がない

月夜風ある一人咳して

一つ二つ蛍見てたづぬる家

爪切つたゆびが十本ある

秋日さす石の上に脊の児を下ろす

浮草風に小さい花咲かせ

障子の穴から覗いて見ても留守である

入れ物が無い両手で受ける

口あけぬ蜆死んでゐる

咳をしても一人

とんぼの尾をつまみそこねた

墓地からもどつて来ても一人

恋心四十にして穂芒

雪の頭巾の眼を知つてる

麦まいてしまひ風吹く日ばかり

となりにも雨の葱畑

雨萩に降りて流れ

とつぷりと暮れて足を洗つて居る

海凪げる日の大河を入れる

わが家の冬木二三本

墓原花無きこのごろ

山火事の北国の大空

月夜の葦が折れとる

墓のうらに廻る

夕空見てから夜食の箸とる

ひそかに波よせ明けてゐる

冬木の窓があちこちあいてる

窓あけた笑ひ顔だ

風吹く道のめくら

山風山を下りんとす

舟をからつぽにして上つてしまつた

小さい島に住み島の雪

一日雪ふるとなりをもつ

雨の中泥手を洗ふ

枯枝ほきほき折るによし

渚白い足出し

霜とけ鳥光る

肉がやせて来る太い骨である

一つの湯呑を置いてむせてゐる

すつかり病人になつて柳の糸が吹かれる

春の山のうしろから煙が出だした
 
 

2009年10月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

7センチ差にたそがれる

 
 
前回日記のつづき:

おととい、ソフトオンデマンドの
宣伝・細渕陽右さんからは
ダンボールが郵送で届く。
なかをあけると同社作品が合計52本!
ご参考用に提供、とのこと。
この齢でどうせえっていうんじゃい♪

一週間に一本の換算。
ならば年間単位でクリアできるか。
などと高を括るうち
さらに続陣も届きそうだなあ。
ともあれ僕のスケベ欲情をみたしてくれる
細渕さんに多謝

ここで命題ひとつ。
ソフトオンデマンドは
がなり社長時代になぜあれほど急成長したか?
世は単体時代から企画物時代に移り
とうぜんその企画物がよかったからだが、
それはこういうコンセプトに基づいていた。

「世の中のフェチはじつに多様に深化していて、
そうしたフェチ欲求に
ひとつひとつ真摯にこたえるAVをつくると
それはかならず売れる」。

僕が「おおっ」とおもったのは
女の子の「鼻の穴」フェチ。
そこに指を突っ込んで
描かれるAV的企図も大団円となるらしい。
その瞬間もみたいが、
そこにいたる男女の攻防戦、すったもんだもみたい。

ともあれそれって
「女の子の膝」に触りたい欲望が大団円を迎える、
ロメール『クレールの膝』のように
純粋で馬鹿らしくて美しい作品なんじゃないのか・・・

さらに近況。

おととい木曜日未明:「ウルトラ」13号を読む。
高塚謙太郎の巻頭詩に感銘。
以下、高塚さんに送ったメール文面をペーストする。



冒頭の高塚さんのにはやはりびっくりした。
CAN『モンスター・ムーヴィ』と同じタイトルだとおもっていたら
そのマルコム・ムーニーの狂気のお経唱法、
ハンマービートあれどもドイツ的にロック衝動を欠いた
CAN的反復の土台のうえに、
鏡花の語彙もからげながら
コンフューズした日常が間歇-点綴されてゆく。

しかも描写のモチベーションはその描写内実でもなく
まさに運動神経、語連想の提示だったりする。
それに「息を急かせる」リズム上の可変装置が
エフェクターとしてさらに噛まされ、
結局は「、」のブレスこそが詩篇の主役か、とビビりました。
美しい蕩尽です。

CANについては僕はダモ鈴木時代がとくに不安定で好きです。
アルバムでいうと『サウンドトラック』『タゴマゴ』。
ここらあたり
やがて狂うマルコム・ムーニーの在籍した初期CANの不安定性から
第二段の不安定性へ踏み込んだという感じがした。
メロウな渦巻きと反復と浮力、かなあ。

ダモ鈴木は数年前の来日時にライブ行きましたよ。
石橋英子がドラムを叩いたんだっけ

ただしCANはすべて輸入版アナログLPの保持なので
歌詞がほぼわからず、歌詞吟味をしていません。
ありゃ『タゴマゴ』はジャケットに刷り込んでたんだっけ。

高塚さん、年齢の割に意外なことを知っている。
CANもそうなんだけど(実は日本でのブームは80年代初頭)、
「咎なくて死す」とかもびっくりしました。
塚本邦雄経由の知識ですか?
僕はそうです。

むろんパフュームから少女Aまで
高塚さんのサブカル知識は出自・時代も雑多だね



木曜日:「文学極道」の九月作品選評書き(まる一日)

今月から発起人参加と相なった。
「文学極道」は一か月分で相当量の詩篇が集まる。
今回は65本が選評対象に。
玉石混交だが通覧し評をしるしてゆくと
「詩手帖」一ヶ月の投稿欄はおろか
特集として出される「新人作品特集」よりも
「絶対的に」おもしろい。
「詩人気取り」がおらず
「自意識」にも厭な逼塞をおぼえないからだ。
すげえ、と息をのむ表現も随所にある。

これについては実際に「文学極道」サイトへ
僕の記事がアップになったときさらに詳しく書く。
これ、今後僕の仕事のなかで大きな割合を占めそうだ。
僕の社会的役割のひとつがここに集中するということ。
緊張する。平川綾真智さんのナヴィが頼り。

ともあれ「文学極道」に関わり、
詩のブログアップを頻繁にすることで
僕の「同人誌忌避」も完成する。
そう、詩も詩評もひらかれた場所へ投げられねばならない。

それでこそ世間的には通じていない「詩人気取り」を
その驕慢を、駆逐できるのだ。
リラダンやアポリネールは
「詩人気取り」の駆逐に火山をつかった。
現在ではそれはたんにネットで済む。

あとは「詩手帖」本体への食い込み。
こちらの頼りは亀岡大助さんだね。

金曜日:立教で健康診断(午前)、
合間に東京新聞書評欄用の分厚い本を読んでゆき
帰宅後の夕方は
疲れて自分の二冊の詩集をひもといた。

前回『昨日知った、あらゆる声で』あっての
今度の『頬杖のつきかた』なのだが
前者のツッパリと文学性にたいし
今度ははるかに軟化し「食えなく」なっている。
詩法が拡張しているのだ。
ただし『昨日知った』には今回詩集の兆候もある。
「へちまが見える」などがそれ。
小池昌代さんが買っていたな。

昨日は立教からの帰途に「チキンタツタ」を食べた。
確かに味は懐かしかった。
バブル時代、僕の腸がつよかったころに
よく愛食していたのだった。
今回はその後、激しい腹痛に襲われる。
やっぱりマックの使用油は僕には鬼門だなあ

そうそう、健康診断で判明したこと:
前回調査で腹回りが83センチだったのに
今回90に(笑)。
禁煙成功ゆえの肥満だが
やっぱすげえヤバイ・・・
メタボ化驀進中じゃん♪
とうぜん腹筋運動を薦められて
上ずった声で「ハイッ、がんばります」と応じてしまう。

広瀬大志さんから詩集贈呈にたいする礼状が届く。
葉書にいっぱい小さな字が書かれている。
その一々がうれしい。
次の日記本体にでも引用させてもらおうかな。
どうしようかな

しかし礼状というものを
世の中はなぜもっと利用しないのだろう。
普段仲のよいひとは問題ない。
ただ仲のこじれたひとは
礼状こそが「敵に塩を送る」好機のはずだ。
対立軸を惑乱させる高尚な遊戯に
ご興味がないのだろうか、
FさんKさんIさん
 



【その後のセルフ書き込み①】

ついでに
「tab」18号掲載、
高塚謙太郎「高野」について
高塚さんに送った感想も:



「tab」所載「高野」はさっき読みました。
「荒野」とのコノテーションは関係ないね。
「高野山」という磁力のある地誌を
小説的記載が束になって襲い、
それらが相互化して異文脈をつくりあげる。
そこに無告者の悲劇が歴史的厚みをもちだす。

同時に詩的問題としては
詩の散文化は詩の散文性によってこそ
歯止めがかけられるという正しい見解も割って入る。

軽率に総括はできないけど
第一回読了時には、とりあえず以上のような印象をもちました。
無媒介に固有名詞=人名が紙面に前面化され、
それに「記述」が取り巻いてゆく磁力が新機軸。

これは高野山という場所でしか成立しないのか、
それが次の判断軸です。
当然そこで中上の「熊野」が視野に入ってくる。



「高野」はたぶん「モンスター・ムービー」よりも
もっとヘンな詩篇だろうとおもう。
ただ呼気とともに「ぶちまける」詩法には
いつもある一定の枠がもうけられていて、
詩篇をみた瞬間にすでに美学的な厳格性が伝わってくる。
それが高塚調で、しかもそれぞれのかたちがちがう。
だからたぶん彼の詩が信頼できる。

書くことが一回性だとして
そうした一回性だからこそ
そこに内在的複数が参照されているという機微。

その後の高塚さんからの私信では
「高野」は新機軸で、
今月出る思潮社の新詩集には入らないということ。
いずれにせよ僕はすごくそれに期待している。
70年代前半生まれ世代の男性で
彼がトップを切るのではないか




【その後のセルフ書き込み②】

詩の同人誌への批判
(現状における媒体政策的なもの、です)を
片方でしながら
もう片方では高塚謙太郎の同人誌掲載詩を褒めた。
矛盾は感じていない。

どういうのか、現状は多様な発表媒体が
「われわれ」の前には拡がっているが、
書き手への信頼は
そうした拡散を刺繍するように現れてくる文業の、
その連続性と不連続性とを考量し、
そこに存在の固有性を省察できるかに
僕の場合は限られているかもしれない。

ところが多くの同人誌では「潜行」が基礎になる。
書かれたものが数十人から二、三百人程度しか読まれない、
しかも送付した安全圏でしか読まれないという
防衛機制が前提となって、
厳密性のないテキストが甘えのように書かれている。
これは評論にかぎらず、むしろ詩作を中心に言っている。

そのひとたちもたとえばSNSをやる。
ところがそこでは彼らの真実を告げるものが
何も書かれないことが多い。
本当は出し惜しみではない。
出して惜しむほどの自分がない、といったほうが適切だろう。
そうして日記的記載はほぼ同じものの反復となってミニマル化するか
何かの調査の過程中途を退屈な列挙でしるすようになる。

つまり同人誌で書く、ということが
SNS記事のつまらなさの補償となっているらしいのだが、
そういうひとは結局、どちらも駄目なのだ。
「量」の感覚に欠けるからだ。
つまり高塚くんにたいしては
読んで即座に測られる
「量」の感覚を信頼している、ということになる。

僕はたぶん自分自身、僕の読み手に
まず「量」をシャワーするよう心がけてきた。
たとえば二百人くらいの一定読者が
日々の僕の記載から
「阿部的連続性」をかぎ当てるにまかせる。

だからこそそこに、不連続性の罠も仕込める。
昨日書いた阿部と今日書いている阿部はちがう、というような。
「ゆるがす」ことが
最も文業ではエンタテイメントなのだとおもう。

これはとうぜん現今ではブログなどで実現しやすい戦略だ。
ところが同人誌で同じことを展開しようとしても
「潜行」が前面化されているがゆえに
言葉の貧しい意味での不連続性から
文業が逃れられない、ということになる。物理条件だ。
この状況の打開のために
どれほど多くの同人誌に所属しても
事態は本質的に変わらないだろう。
「同人誌」性がもう一端の問題だからだ。

松本秀文君などはそうした状況に苛立っているはずだ。
だから「ウルトラ」に「速度太郎」シリーズの
大々掲載を敢行する。
それ自体はたしかに壮挙に映るのだが、
そこで個人誌の可能性がどう捨てられ、
実際の詩集出版への格上げがどう構想されているか
こんど訊いてみたい気もする。

僕自身は読み手の信頼を得ているとすれば
媒体発表の感覚に「連続性」の印象がまずあって
そこで不連続が測られることこそを潔しとしているためだろう。
もうひとつ、ブログ以外は、書く媒体がほぼ一般媒体で
同人誌的「潜行性」を嫌う信念を貫いているからだ。

「量」を書く。身を賭けて書く。
その成果がたとえば今度の『頬杖のつきかた』であって、
だからあの詩集では詩法・内容と同時に
その成立に関わる現代的媒体性も
語られなければならないのじゃないか。

 

2009年10月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

天川

 
 
【天川】


愛のふかい抱かれかたには
一定比率として
周がまばらになった古代円が混ざり
その枯葉だって門のあるかぎり
瀧のように
山坂をくだってくるのだ
多くは腕、多くはくちづけ
笛音は互いの
腕というか枝に沿い木霊した
ことばがきらいになって
できあがりつつある森も
多重の舌で虹を交わすだろう
瞑目なのに泣き眼に似てしまう
そうした感情の関節場所には
来季への日々もかさなってゆく
後ろからだって横からだって
「かさなるものはかさなってゆく」
そんな泪でできた枯葉だろう
性は奥なのだ、秋のように
人間考察すると

表層が迷宮だと知った
カサノバの恐怖によって
どだい愛の記載法も変化していた
からだの奥というものはない
性の奥だけがある
おまえはわたしでわたしはおまえ
それで転位の歌ともいうべき
無窮の流れもできて
その楽節の終止予感のために
接吻単位がくりかえし動員されて
領域、愛というべきここそこには
ことさら時間のカデンツァができてゆく
カメラでるる撮るんだ天川を
手管の装飾のなかに
そのからだが霞んでゆく経緯は
万人の共通にしてまた愛の特異
加齢しつつ子供のような声を出し
時間はなお多時間へと惑乱されてゆく
そんなこうふくのしるしだろう
久方ぶりにAV画像をみながら
受像機自体を泣かせたものは




昨夜の新大久保ネイキッド・ロフトでの
魚返一真トークイベントは
第三部になって
元・京浜急行社員、現ソフト・オン・デマンド社員の
細渕陽右がゲストとして出てきた。

見た目に折り目ただしい好漢だが
その折り目正しさをそのままに
ソフト・オン・デマンドの企画物AVの数々を
紹介営業する口吻に笑ってしまう。

その延長線上に彼の至芸があった。
彼は自在に、どのJR路線・私鉄路線であっても
状況に応じた車内アナウンスができるのだった。
アナウンス地点、急行鈍行の別、
事故発生など特異状況の加算ほか
自在に「設定」を変化させうるのだ。
マイクワークの巧みさもあって
むろん完全に「本物」に聴える。

なんという筋金入りの「鉄」、頭脳の柔軟性、
中川家・弟礼二の、例の芸の累乗化というべきものだろう。
彼はその芸で満場の客を完全にさらった。

その細渕さん、なんと
AV評論家時代の阿部嘉昭(一体いつだよ)の
大ファンなのだという。

それで壇上で紹介されたソフト・オン・デマンド作品の数々も
もともと「スケベな」阿部の
出演料の代わりとして供されるものと
あらかじめ決まっていたようだ。
イベント後に、細渕さんから「差し上げます」と畏まっていわれて
むろん嬉しく頂戴した。

で本日は、その細渕さんの心意気が午前中ふと蘇り
なすべき仕事をうっちゃって作品を見てしまう。
二本目にみたものがとりわけこの51歳には嬉しかった。

ただAVをみての反応がちがう。
大昔は○○をかいていた。
20年前はレビューを書き、
98年には『AV原論』という評論を書いた。
いまは――そう、上のように詩篇を書いたのだった。

素材になったのは『人間考察・天川るる』。
じつに「愛の深い」作品で、
生涯ベストテンに入るかも、とさえおもった
(久方ぶりで反応が大袈裟になっている可能性もあるが)。
 
 

2009年10月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

見逃していた

 
 
魚返さんからの
個人メールの細部を見逃していました。

今日19時からの、ネイキッド・ロフトでの
魚返一真×阿部嘉昭イベント(前回日記に詳細記述)では
詩集表紙に使用した魚返さん撮影の写真を
魚返さんご自身が焼いたものが
会場での詩集購入者への
特典付録ともなる、とのこと。

もう「詩作者」のみなさんには
詩集を送られているかたもいるでしょうが、
あのインパクトある写真の
ナマ紙焼きかあ・・とビビり
送ってもらっていても
会場でさらに買ってしまうかたまで
いらっしゃるかもしれない(笑)。

それほどの不可思議で冷やっこい芸術写真です、あれは。
何よりも少女の太もも、その体毛と鳥肌が
「世界」そのものに接するように上品でナマでエロい。

先着三名さまの由。

こぞって会場に突入あれ♪
 
 

2009年10月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

急告:明日10月6日(火)イベントに出ます!!

 
 
実は今回出た詩集のカバーに使用させていただいた写真は
僕がつねづねエロ巨匠として崇拝している
魚返(おがえり)一真さん撮影の逸品だった。

『妄想カメラ』『妄想サロン』などの写真集で
ごぞんじのかたもいらっしゃるだろう。
数々の素人女性(仕込みなし)をくどきおとして
ありきたりの日常空間のなかで
ドキッとするようなチラリズム写真を撮り、
写真の傍らに見事な文章の撮影日記を付す、
あのチラリズム・エロ界の達人写真家だ。

撮影は交渉の賜物だから
一枚の魚返写真成立の背後には
企画物AVに匹敵する厚みすら察知される。
だからこその感動でもあるが
そうした感動を導く「これしかない」という媒質として
巨匠の撮影日記は必ず写真とセッティングされるのだった。

アンダーヘアまでみえるものもあるけれど
撮られたおおむねは
胸の谷間がチラリとか
パンチラとか
慎ましい露出のものも多い。
しかしどれもこれもが「ナマ」っぽく、
エロがロマンチシズムであっても
日常の「なんでもない」延長になければ
「われわれの」真実ではないとも教えてくれる
チラリ=リアル巨匠なのだった。

僕はその彼の写真のもう十年来のトリコで、
なんと立教では授業すらやってしまったほどだ。

そうして見込ませていただいた腕と感性というだけあって
今回僕の詩集カバーに拝借した写真でも
少女の太ももとその股間に置かれている「何か」(秘密)には、
ちょうど梶井基次郎の「檸檬」のような
現実を超えた、不安なエロ起爆力がある。
さてこの「何か」とか何なのか(ぜひ現物確認を)。

で、お伝えするのが遅れたが、
今日の明日、というタイミングで恐縮なれども
その魚返さんとのトークイベントが
なんと明日10月6日(火)に開催されます。

巨匠魚返さんが起爆剤になって
阿部のエロ嗜好/思考/志向が、
いかに陰翳礼賛的で
微に入り細に入り、
痒いところに手がとどく融通無碍なものなのか
知るチャンスになるともおもいます。

何しろ大学授業でもそうだが、
エロといえば阿部、と世界も詩も相場が決まっています。

概要が来るのが隠れ、
このタイミングの告知になってごめんなさい。
会場では、できたてほやほや、
冷やっこく美しくてシュールな
魚返崇高エロ写真のカバーを配した
僕の詩集も売られます(僕のサインだって頼める!)

ということで以下は酔払って帰宅したので
単に魚返さん文案のイベント告知文をペースト。

(ともあれ会場に来てください。
会場は新大久保の焼肉街そばなので
打ち上げでも「肉林」は必至?
この阿部とお近づきになれるチャンスでもある)



【以下、魚返文案】

2009.10.06 新宿Naked Loft
14th魚返一真・トークライブ
< 魚返一真の妄想写真講座>
今回は、立教大学特任教授(サブカル論)の阿部嘉昭(あべかしょう)先生を迎えて、今までとはひと味違うライブになります。
阿部嘉昭先生は、僕および僕の作品についての詳細な分析をなさっており、しかもその内容を大学でご講義なさったという貴重(?)な存在です。もちろん僕の作品のファンであられます。
また久しぶりにシンスケ横山さんがMCをやってくれる予定。僕のトークライブを最初に企画したのはシンスケさんでした。
今回のゲストとのバトルが楽しみです。もちろん、モデルも登場します。11月開催の個展「フルーツスカウト」のモデルも出演予定。僕が街でスカウトした女の子にも参加してもらいます。

【出演】魚返一真 / 阿部嘉昭(立教大学特任教授/サブカル論) / 細渕陽右 (SODC)
【司会】シンスケ横山
【来場予定】HIROKO / naco / hiroko / reiko / niko / moe / 他

OPEN18:00 / START19:00
前売¥1,500 / 当日¥2,000(共に飲食代別)
※学生の方は学生証提示で学割特別価格として定額から-¥500を引かせていただきます。

Naked Loft店頭にて電話予約、ローソンチケットで販売します。(Lコード:38901)
問:tel.03-3205-1556(Naked Loft)
http://www.bekkoame.ne.jp/~k-ogaeri/

2009年10月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

梅宮辰夫が、

 
 
今日、女房と録画済のTV番組をちょろっとみていた。
なかに、「最強ラーメン伝説」とかいうテレ東の番組があって、
出ていたラーメン・コメンテイターとしての梅宮辰夫の言葉に
変に感動してしまった。
曰く、

《食べた瞬間に
「あ、もう一回ここは来よう」とおもったら
自分のなかではOKなんです》

引用は若干不正確かもしれないが、
大意では外れてはいないとおもう。

これ、僕が詩集に感動するときの経緯とすごく似ていた。

「いま」読みつつ、
「もう」再読したくてたまらない詩集があるのだ。
このざわめきは時間錯視にもかかわっていて、
体験としてすごく強度となってのこる。

このことだけを記憶しておいて
一応、人生に激変がなければ
その詩集は必ず再読されてもいる
(たとえばそうして杉本徹の『ステーションエデン』や
松岡政則の『ちかしい喉』をいまは読みなおしたい)。

そしてほとんどの場合
初読時と同等、もしくはそれ以上の感動を得るのだ。
「気づき」が増すからだ。

これは何か。
対象によって自分自身が「寿がれている」--
まずはそういうことだ。

同時に少し、「この非力な自分が」
「偉大なる対象を」寿いでもいる、
そうした力関係が
対偶的に生じている、ともおもう。
この際の関係的「飛躍」こそが、
世界を向上させる具体性なのだ。

となって、ラーメンも詩集も実際は
感動をあたえる質に径庭がない、とも考えたのだった。

幸福ということには時間的充実の印象がある。
それは当然だとおもう。

ところがその「充実」の質を考えてみると
「ふたつの時間が混ざる」ことと
ちかいともすぐに気づく。

端的には「現在」と「未来」が混交する--
それが最も手っ取り早い幸福的「混ざり」なのだ。
あるいは「過去」と「現在」の組合せもあるかもしれない。

詩集は読解の体験が他と比較しにくいと
気づくひとは多いとおもう。
「いま」読みつつ、
「未来」も読んでいる自分を認識しているから
読解の実質には混乱が理論的に組み込まれているのだ。

ただこれこそが一回性の表現にたいしての
正しい態度設定であるような気もしてしまう。

そうそう、こういえばいい--
「あなた」は僕の今日だ。
同時に、あしただ--

そうおもって泣けてしまう対象は
限定的ながら世に着実にある、ということで、
それだけが「僕」「あなた」の
双方の真実を語る資格がある、のだとすれば
絶対ではなく相対にしか
真実味を帯びさせるものもない、ということになる。
この「発見」は切ないが。

となって、「発見」に資本運動ではなく
個人的感動だけを結ぶ詩のような文芸が
とりあえずは「絶望」から自身を引き離す、
「第一歩」のような飛躍を実現するのだとおもう。

以上の僕の言葉は狂気的かもしれない。
ただ狂気が常態の詩作者にはまず響くだろう。
その次段階では真っ当な「詩の読者」をも直射するだろう
 
 

2009年10月03日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

永田耕衣風

 
 
【蓮者】


身の左右〔さう〕に絮翔びゆけり秋も春



ブーメラン鳥となりて釣銭掠む愉し



鰯雲みどりにみえて遺骸〔むくろ〕われ



海峡が蒼排尿の異名とて



釈迦寝する右足を掻くひだりあし



天装や湯女〔ゆな〕となるまで湯当りす



くろがねの秋水匂ふ天の肝



路銀みちて歩かずの秋哀しけれ



在血と呼ばるすなはち恋嚢〔ぶくろ〕



四階分ほどの乞食の高さでゆく



ブラックに脇破れゐてわれ蓮〔はちす〕



蓮者〔はすもの〕となりて天穢に薄れゆく



気絶しさうな蓮田だつたか天翔けて



北端やあの牛齢も光芒に



弁当ゆ辞典とりだす坐位すゝき




立教「俳句連句演習」では
以前この欄に掲げたプリントを見本に、
永田耕衣風に俳句をつくれという課題を出している。
理路が壊れてギョッとさせる句がほしい。
来週の演習時にあつまるだろうか。

とりあえず上のように自分の句をつくってみた。
縛りは五句だが物足りず十五句に。

じつは調子をあげるために
ネットでゲットしていた
最晩年の耕衣の句集を読みだしていた。
『泥ん』。
刊行時には胡散臭さを感じ購入を敬遠していたものだ。

わずかに頁を開くうち、矢も楯もたまらなくなった。
だれだ、「最晩年の耕衣は壊れている」といったのは。
秀句目白押し、開巻20頁強にしてかくのごとしだ。




落魄の地声発〔た〕ちけり大ざくら



薄氷を起こさんと我いつ為〔し〕たる



人生は満喫出来ん桜かな



我〔われ〕寝釈迦かも脇腹も蓬かな



菜の花や我が逃亡の枠照るも



熱燗も茄子のミイラも弦の如し



人寂し優し怖ろし春の暮



春水の柄杓古典と思うなり



鼻梁踏む音にかも似つ春の霜



火蛾の我〔が〕の終〔つい〕の溺れの白湯哉



蟇〔ひき〕老いて死欲〔しによく〕の空〔そら〕揃いけり



辣韮を食らい磨る歯や敵は我



空蝉のかなたこなたも古来かな



同じ世に肉美しき西日かな




この俳翁に自句はどれだけ迫りえているか
 
 

2009年10月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

詩集が完成した!

 
 
昨日、思潮社の亀岡さんから連絡があり
詩集が完成したので手渡ししたいという。
亀岡さんの仕事の目処がついた晩八時、
僕の最寄駅で落ち合った。
以後はできあがったホヤホヤの詩集を肴に
飲んでいったようなもの。

気がつくと11時過ぎに。
亀岡さんはすっ飛んで返っていったが
なにしろ京王線から東武線の道のり。
浅草から深夜帰宅バスになるとおもいます、
といっていた(申し訳ない)。

亀岡さんがホコホコ顔で手渡してくれただけあって
詩集はもう「可愛くて」「恐ろしい」出来。

ええい、宣伝してしまえ。
頁数320頁という大著、
これは田中宏輔の初期詩集の精神から学んだ。
それを魚返一真さんの
冷・美・変態写真のカバーが包んで、
「頬杖のつきかた」というタイトルと
「阿部嘉昭」の名が金文字だい。

四六判変型、文字のQ数選択など
亀岡さんは僕の詩集にたいする思想を
着実に具現化してくれた。

ぜひ手にとってご覧いただければ。
書店にはぼちぼち置かれるとおもいます。
お世話になっているかたへの郵送も
ぼちぼち開始されるかと存じます。

内容は僕の日記読者ならすぐにイメージできるもの。
SNSに発表しやがてまとまった四詩集、
つまり『春ノ永遠』『頬杖のつきかた』
『ス/ラッシュ』『フィルムの犬』を
この発表順とは逆にただ並べたもの。
つまり大冊の理由は
四詩集一冊圧縮という単純事実にあった。

何しろSNS、ブログなどで詩作を展開していると
詩篇数も増えやすく、
今後、このようにセルフ「剪定」の弱い編集思想で
分厚い詩集が出てくる趨勢になるのではないかというと
「いや阿部さんほど量を書くひとはいないですよ、
無理でしょう」と亀岡さんが返した。
黒い箱に詩集が二冊入っている、というかたちで世に出た
松尾真由美さんの詩集も
その意味では別の発想らしいし(未入手未読)。

以来、出来上がった詩集を抱きながら
(そういう気分にさせる表紙カバーだ)、
拾い読みをちょびちょびしているうちに
ほとんどの詩篇を読みつくしてしまう。
極端にナルシスティックな行動をとりつつ
極端にナルシスティックな反応がやはり出る。
曰く、「俺ってすごくねえ?」(笑)

校了後、ゲラをみてなかったので
僕にとってここでの作者「阿部嘉昭」は
いよいよ茫洋としてきている。
「誰この親父」「すけべじゃん」「きれいじゃん」
「賢くて哲学的じゃん」「音律が抜群で頭に入ってくるじゃん」
「読んでる先から再読したくなってワクワクするじゃん」
「発想がカラフルで豊富で、ロック黄金期みたいじゃん」

読みつつさらに反応も白痴化しだす。
僕は「脅し」「ハッタリ」「拉鬼」「アクロバット」
なんでもやらかすヤクザな「フレーズ主義者」でもあるのだが、
そうして仕掛けた地雷のありかを自分自身もう忘れてしまっていて
だから読みすすめると体もなく爆傷つづきで
紙面を追う眼路も「もう泪でヒリヒリ」という感触なのだ。
美しいけど緑内障が進行しそうな詩集、といえるかもしれない。

しかし作者の「親父っぷりの破壊力」には
精神に余裕のある者ならばにんまりするだろう。
馬鹿といわれるだろうが、この僕自身がそうだった(笑)。
笑いも入ってるし

亀岡さんがオビに抜いたフレーズは
《逆流して、
あすは身に墓を立て、二階の高さで四万十のさなか透明に佇つ。
一秒以降を 一秒から離れるために。》

こういうやりかたで「親父による人間殺しフレーズ」を
各章(各詩集)ごとにサーヴィスで出しておくか

●『フィルムの犬』
《いうなればおれも むつき
ながれの糞を吸いこんで
ほろびのように肥大する》

●『ス/ラッシュ』
《チーズのように、他人の口許へ腐りにゆこうとする。》

●『頬杖のつきかた』
《疑ってみれば靴下より大きい世界などないだろう。
裏返してこれがわかる。》

●『春ノ永遠』
《ふと音を発する自分も
可笑しくてたまらん
とりわけコロンと乾いた音がして
性交はオーデコロンを
飲んだことがないなと羞恥する》

最後、『春ノ永遠』だけ行アキのない長編一篇詩。
これが長すぎると感じさせるか
詩集冒頭からとうとう導かれてゆく
西脇的白熱と捉えられるかで詩集の評価が決まるだろう。

これらを書いたものは去年の三月から今年五月まで。
「改行」にたいする考えは
詩の空間化時間化を行並列でおこない
改行ポイントでの呼吸の伏在で
詩篇に「肉体」の現実性を注入するというシンプルなもの。
「プネウマ詩」と呼ばれてもよい潔さ。

前作『昨日知った、あらゆる声で』とそんなに変わらないが
あの詩集では音韻が前提されて
複雑な喩連鎖についてはあまり言外されなかった。
高岡修さんなんかは改行原理の意外性を褒めてくれたけれど。

今度はもっと意味素が
読者の心中深く自然に入るようになっている気がする。
うまくなったのだろう。
というか書きなれて狡猾さも増したのだろう。
そのぶん精神の清澄と張りが保たれる必要があって
僕はたぶんこの時期、そういう取引に成功していたのだ。

もうひとついうべきことは
これら四詩集はそれぞれの詩集単位で
各詩篇を横断する定型意識があって
それがじつは多作を導いているという点だ。
だからいまよりも詩作ペースが旺盛だった。

いま書いている詩は改行原理にもっと多様性をもちこみ
上澄みとは別に沈殿部分に晦渋さを秘める、
「性格悪い」書き方になっているような気がする。
他人の詩との相対関係でたぶんそうなったのだ。

他人の詩といえば、亀岡さんとの席で
高塚謙太郎くん(都市魚さん)の話が出た。
高塚くんは口が堅いが、
彼の詩集も亀岡編集で、
僕の直後の10月に書店に出るという(暴露しちゃった♪)。
his aim is true 狙いはぴったり。
処女詩集から思潮社に基軸を置くことで
詩壇へじかに変化をあたえる心意気ともみた。

いっぽう廿楽順治さんの詩集は
構成を変える(大部化する?)ことで
来年まわしになったという。
亀岡編集詩集はいつも期待だな、
そうでしょ、小川サブちゃん♪

ともあれ「高塚謙太郎、いいよねえ」と
亀岡さんとはグラスを傾けていた。

高塚詩では内部律動が言葉を吸引する。
その運動神経によって
奇怪で詩的でつよい文脈が断言的につくられ
しかしつくられた途端に消失してゆく・・

語彙は豊富だが展覧的でないと感じるのは消失性ゆえ。
その潔さによって再読誘惑がある。
それで散文形が多く選択されようと
意外に自分と近い呼吸を感じる、
と僕は酔払いつつ喋ったはずだ。

亀岡さんご苦労さん、ということで
プレゼントを渡した。
何かは想像つくだろう、三村京子のアルバムCDだ。
な~んだ、とゆうな

ということで今度の詩集と内容重複する
ミクシィ日記と外部ブログ記事は
さきほど遡ってすべて消した。
なかなか良い書き込みをしてくれたかたも多く、
その書き込みだけを残す方法もあるんだろうけど、
面倒だった。ごめんなさい。

まあ書店で並ぶものと同内容のものが
ネット上にあるのはケジメ的にだらしないと僕は考えるほう。

これにともないプロフィールも若干書き換えた。
 
 

2009年10月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)