ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

連句C班完成!

 
 
つづいてC班



【C班連句】


1 きりたんぽ鶏の脂に膨らみて          森純也


2  輪もにぎやかに窓の露かな          櫻井智広


3 月の良き夜に狐狸らもつやめきて        三村京子


4  囃子聴こゆる七かまど沢           阿部嘉昭


5 裾巻きて川瀬にあらふ蟹の足          牧千尋


6  土用蜆を朝市に買ふ             森純也


7 精付きてケガレいとはず穴を掘る        櫻井智広


8  仔犬甘噛み親犬あくび            三村京子


9 冬ごもり蒲団のやうな女房と          阿部嘉昭


10  寝惚け眼で晦日蕎麦すゝる          牧千尋


11 鉄漿〔かね〕くさき口中感じ初手水       森純也


12  羹〔あつもの〕の面〔も〕に小豆飾りて    櫻井智広


13 柚味噌焼き膝枕して窓の星           三村京子


14  酔ひの合間の菊膾めづ            阿部嘉昭


15 明月や頬髭を剃りおとしたり          牧千尋


16  案山子の頭また生えるまで          森純也


17 竹ゆれて見ぬ鳥のこゑ花の中          櫻井智広


18  遠足児のせ江ノ電発てり           三村京子


19 若鮎のみどりも背〔せな〕のみどりごも     阿部嘉昭


20 御髪〔みぐし〕上げにし春の庭さびし      牧千尋


21 輪廻にて蛙〔かはず〕は欲と共に跳び      森純也


22  頭〔づ〕に青時雨五感うるほす        櫻井智広


23 山頂ゆ数人〔すにん〕の草笛とほ響く      三村京子


24  足のまめ殺ぐ縁もさはやか          阿部嘉昭


25 阿爺〔あや〕はむくつけき鬼の面をかぶりて   牧千尋


26  弱る蜻〔やんま〕を右手で覆ふ        森純也


27 夜着はいで霜の気のなか外へ出づ        櫻井智広


28  稲架〔はさ〕の向かうの山並たをやか     三村京子


29 今生の月はにしかぜ婆娑婆娑と         阿部嘉昭


30  痣のつきたる鷹匠の腕            牧千尋


31 入れ墨を彫る薄化粧の女形           森純也


32  鱗べりべり鯉滝登る             櫻井智広


33 石段〔きざし〕の上〔へ〕はためく裳裾もえぎ色 三村京子


34  恋猫ゆくは猫恋のため            阿部嘉昭  


35 はばみたる花の下枝〔しずえ〕をかひくぐり   牧千尋


36  逆さに見やる連翹の筒            阿部嘉昭
 
 

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2009年12月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

連句B班完成!

 
 
今日で立教連句演習の今期分授業が終わった
(年明けは授業がない)。
まずは今日完了した連句B班の
歌仙をお目にかけます



【B班連句】


1 あふれたる晩のしめぢを言祝ぎつ        鈴木寛毅


2  鶏なき鍋に雁鳴くを聴く           久保真美


3 外〔と〕の面〔も〕には風の夕月窓に佇つ    牧千尋


4  ポラのレンズで鰯雲撃つ           川崎健輔


5 さんま焼く煙はるけし秋隣           三村京子


6  脚絆を巻きて早朝〔つとめて〕に出づ     鈴木寛毅


7 金平糖響く霜夜に仇多く            久保真美


8  「おちゅんはどこぞ」と血の跡を履む     牧千尋


9 声もなし野火に焚かれた円い籠         川崎健輔


10  春日影〔ひかげ〕ふる椀の蛤         三村京子


11 貝合はす暖かき夜に袖ふれて          鈴木寛毅


12  神鳴らす鼓を真似る指先           久保真美


13 われティンパニの化身となれり大合奏       牧千尋


14  竪琴もちて月見れど雲             川崎健輔


15 うどん屋がうどん出す間の秋しぐれ       三村京子


16  新酒の銚子蒲鉾と寝る            鈴木寛毅


17 軒冷ます花の雨にて早覚める          久保真美


18  蓮座這ひ出で青を踏むなり          牧千尋


19 帳開き見よや隈取黒と赤            川崎健輔


20  子らも跳ね出でいかのぼり揚ぐ        三村京子


21 初がつを急いで帰る江戸の街          鈴木寛毅


22  さいかちむしの爪あと辿る          久保真美


23 虫眼鏡もて番付に屈みゐる           牧千尋


24  馴染み芸者の並ぶはうれし          川崎健輔


25 橋尽ししくじり笑ふ互〔かた〕みかな      三村京子


26  宵のあひだに流す燈籠            鈴木寛毅


27 柔肌ゆ夜露拾はむ庭へ入る           久保真美


28  長夜も短し松虫の声             牧千尋


29 月の下陰に聞きいる耳男            川崎健輔


30  無碍にもゆふべに梯子立てたり        三村京子 


31 雲の峰果てを見たりと子が騒ぐ         鈴木寛毅


32  眇〔すがめ〕に仰ぐ端居の僧都        久保真美


33 練り歩きたる昼なかの鐘おぼろ         牧千尋


34  蛇穴を出て反響〔とよもし〕を聞く      川崎健輔


35  花々の間[あひ]縫ひ来たる里の宴      三村京子


36   騒ぎたる顔なべて晴れやか         牧千尋
 
 

2009年12月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ポップ詩と音楽性

 
 
昨日のあつすけさんのmixi日記は
途中までエズラ・パウンド『詩学入門』からの
怒涛の連続引用だった。

この本は大学生時に高橋睦郎さんから
「読んでみては?」と薦められ当時早速読んだ記憶があるが、
まだ若年だったので真摯さに打たれなかったとおもう。
今回あつすけさんの適確な引用によって
すべてパウンドの言葉が腑に落ちてきて納得というか感激した。
自分のもっている詩観が反映する悦びを覚えたのだ。
書棚裏のどこかに
白い表紙が煙草の脂で真っ黄色になって眠っているはずだ。
探し出して再読しなくては・・・

あつすけさんの引用で
パウンドが詩と音楽(歌)との
必然的連関を語っている箇所があった。

詩が音楽の状態を夢みる、というだけではない。
ふたつは本来的に、論理上不可分なのだ。
これを僕の言葉でいってみると
詩の言葉は配合・展開ともに
伝達性を超えた喩性をもっていて
この機能から、詩は論理の外側に自身を音楽化する。
そのときに言葉の物質性を逆にあらわにする。
まずはそうして「世界」の様相と喩的な同調をみる。

採譜しうる音楽は単位加算性をその本質にもつ。
ある律動があってそこに音色や旋律や和音が嵌められる。
しかもこれも伝達性ではなく感情の喩として達成される。
歌ならそこに言葉も乗っているが
その誘因もまた、歌を支える音楽だけによっている。
とすると、詩もまたみえない音楽に乗った、
そしてその音楽によって輪郭を曖昧にされた、
歌詞のようなものだという理解がえられるだろう。
土台を欠き、音楽をもとめてさまよう歌詞。

思考は伝達を旨とする。
だから音楽や詩のように
間接的に世界構造をつたえるものを本来的に倦厭する。
ところが詩や音楽においてこそ
細部が衝突し、カラフルな火花が散り、
その火花も実際は刻々消えることで
火花だったと事後認知されるのだろう。
火にして水のながれのようなもの。

詩では隣接予定性によらない言葉が
衝突型でひしめいていて
実際は言葉の権能を拡張している。
世界の拡がりのように詩がみえるのはそのためだ。
時間なのに空間なのだということ。

これが愛唱されまたは再読されて、
ついに受け手の身体と思考にまつわる逼塞も溶解する。
となると詩や音楽の要件とは
第一に世界性の慰安にあるということにもなる。

音楽とは「音楽場」なのだ。
そういう実定性があるから再生誘惑が起こる。
同じようなものが「詩場」でも形成されていて
おおむねはそれが「詩集」のかたちをとる。
一方、「音楽場」の法則は音楽、
「詩場」の法則は詩だと明瞭にいうこともできるだろう。

僕は価格・再利用頻度・減価償却の諸局面において
よく詩集とCDのアナロジーを学生にいう。
何度も聴くことで「展開」がすべて自分のものとなり
音素まで完全記憶化された
数々の名盤がじっさい個人的にある。

ビートルズ『ホワイト・アルバム』、
ニール・ヤング『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』『ハーヴェスト』、
ザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』『ザ・バンド』、
フランク・ザッパ『フリーク・アウト!』~『200モーテルズ』、
ジミ・ヘンドリックス『ボールド・アズ・ラヴ』『エレクトリック・レディ・ランド』、
エリック・ドルフィ『アウト・トゥ・ランチ』『ラスト・デイト』、
スラップ・ハッピーの全アルバム、等々・・・

僕の詩が得たいとおもうのは
あれらと同等の組成であり、
あれらと同等の20世紀的な作品性だったりする。

そこに歌い手がいれば肉声の感情と唯一性を憧憬する。
言葉をドルフィの楽音のようにあやつって
それを断絶にみちた抽象的展開にすることだってできる。
そこからは言葉の連続性に脱臼的な衝撃もあたえうる。

いずれにせよ、音楽のように時間軸に
身体の幻影を散らしてゆく営みがあって、
それらではどの瞬間的連関を単位的にとりだしてみても
音楽的精神でしかないものが息づいている。

つまり「全体の音楽」を「細部単位」で除算しても
いつも「音楽精神」が解答として出てくるような「帯」。
その無限の入れ子状態は空間形式的には「罠」とも映るが
同質物のひしめきによって「別のもの」が現じているのは
世界そのものの形式であって、
これこそを音楽の形式とも呼ぶべきなのだろう。
詩と音楽の類縁とは、まさにこの次元で語られるべきなのだ。

換言すれば、音楽は音楽となるとき音楽化している。
あるいは音楽は音楽としてのみ自らを奏でる。
このトートロジーはそれでも無空間なのではない。
つまり音楽のそれ自体とはいつも上の空、気散じのような、
「別のもの」なのだから。

これを感知すると音楽は時間的形式であるとともに
夢想的な空間形式だということがわかってくる。
詩はこの形式こそを音楽と共有している。
だから詩句発想が音楽的であれば
詩のすべてが是認される、という意味でもない。

昨日は夕方から(食事・就寝を挟んだ)未明にかけて
立教での椎名林檎講義のため
彼女の07年以降のアルバムとシングルを聴いていた。

作曲能力には相変わらず驚嘆すべきものがあり
またアレンジも曲ごとの色彩化を貫き
ときに豪奢で、恍惚ともさせるが、
歌詞以上に、発声・発語に痛ましい摩滅を感じる。
初期のころの日本語の歌の変革意識を置くと
現在のモチベーションが消滅しはじめているようなのだ。
自己防衛的になっているのは否めないだろう。

唯一の例外が09年の日本の宝ともいうべき「ありあまる富」。
そこでは林檎の個人性を超えた立脚がなされ、
結果、諸個人を賦活する歌の表情が慎重で敬虔になっていた。

ポップ音楽においては歌手の実年齢が
商業的モチベーションとなっているが、
「ありあまる富」ではその商業性の枠組が超えられ、
むしろ「人間的モチベーションを再形成するには
どんな配慮が要るか」が問わず語りされている。

「しかも」それは林檎の個人性を音楽面でも超え、
あたかもビートルズ・チューンのように響くのだった。
そこには歴史参照もある。
よって今年、何度聴いたかわからない。
「フリー・アズ・ア・バード」と比較聴取したりもした。
コードの陰翳と解決に同様の形式がある。

詩においてこの曲並みの再読誘惑性をもつためには
詩の音楽性が現代的に動機化されていることが必要だろう。
詩には肉声に還元できる部分と
空間に還元できる部分とが相渉っていて、
いわばその分裂形式がポップに受け手を魅了するのだ。
分裂が端的で、かつ時間的含みをもつ美学的形式であること。
たとえばキャプテン・ビーフハートのような。
この意味でのポップ詩にこそ
今後の詩作の活路があるような気がする。

昨日からようやく
「詩手帖」年鑑号中のアンソロジーも読み始めた。
辟易する詩篇は難解であっても平易であっても
すべて「自分のために書かれていて」、
再読誘惑性を意識していないとわかる。
「摩訶不思議」もなく、ありようが痩せている。

技術や野心だけが前面に出ているので、
そこにある詩作の技術は、読む技術と
逼塞的なトートロジーを描かせるだけだ。
没入できる「空間」がない。
むろん「肉声」も、ひいては「音楽」もない。

僕はいま「摩訶不思議」と書いた。
これを先ほどの言から「別のもの」と換言することもできる。
あまりにそれ自身の物質性である詩など
一旦読めば、達成感をもって「終わり」となるだけではないか。
それでは「わたしはおまえではない」だけが結論になってしまう。
むしろ「わたしもおまえもおなじでかなしい」、
これこそが詩の本義だろう。

今日は夕方から畏敬する詩作者たちと会う。
彼らのポップ詩にたいする見解をそこで聞いてみたい。
そして彼らが通常、「音楽」をどう捉えているのかも
 
 

2009年12月18日 日記 トラックバック(0) コメント(7)

最近のあるきかた

 
 
【最近のあるきかた】


少年のころ
右肩をわるくして
以後肩掛けかばんを
いつも左にさげたため
やがて身の鉛直も
はかなく右傾斜していった
そんなふうにひんまがって
枯木のなかをあるくと
枝のひんまがりにも
あゆみが和して
ぎざぎさたるものには
鋸が通過しているとおもう
ひかり? の反芻?
けれど身にはさしたる
ぎざぎざがなく
やすりのように合わせる
鮫族のひと肌もない
ほおひげがただかびただけだ
摩擦が心情だった昔には
いつも眼前があったものだが
春めいて詰まる眼前すら
やがて艶笑として飛んでいった
枯葉だよ帰趨は
奇数にして素数
身に奇数しかない部分を
けちくさく内包しては
丹田に蝋涙しわ寄って
おとこというものは
ひかりに外延せずして
ほそいちんぽこが脳髄を
つらぬいているなあ
脳天から炭酸が出るだけ
それでつらまでない
映った影だって螺旋だ
なにごとも少量で
日に日にの ひもすがら
あゆがながれている
ひかり? の反芻?
あのような流線型を
こころみたこともあったが
流線は曲線になろうと
直線進行を呻くから
川底の影ともかたりあえず
川べりはできなかったことの
文字だらけだ
ともかく身に秘めた奇数部分を
文字で汚すのも厭で
膵臓や脾臓をとがらせて
神経質にスープを飲んだりする
やがてとけるのがくるしいので
内面をこするための
跛行をひたすらくりかえす
ありのとわたりが
おんなになるかもしれないが
跛行の本質は
水を統べる禹の視界だろう
水を見るためにびっこをひく
それは視界だ眼前ではない
だむで列なる川上が
なんらかの築城だとしても
そこに棲むのも音の王ではない
王なら無音の王だ
ひんまがったこの背に
ひかりを滑らせてゆくような再帰も
だむの重畳ではない
それでも山上まぢかは
人工湖が帽子屋みたいだ
失語がそうして
連接をえがいている昨今
ことば嫌いが帽子をかぶり
あまたの失語を
代表することだってある
さみしいなあ
杭のようにつっ立って
体内の奇数を 息を詰めて
自然へとわたらせてゆくのだ
跛行とは双数の奇数化
それが喘ぎ音楽になるとして
一本の秘密の神経が大事
これで身の凧をあやつって
風にばさばさ鳴ってみることだ
歩くだけただ歩くだけ
ひかり? の反芻?
ひんまがって跛行して
詩の治水に低い腰を捧げ
ちいさい自然を掬ってゆく
炭酸だってもらす
そうして解答のようなあゆを
旅の横笛にしては
歩くだけだ あるく砕け
みぎわの苗ももうちいささに
ひんまがっているだろう
半分のおんななので
そこはかならず
しゃがむ
 
 

2009年12月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

A班連句完成!

 
 
昨日は授業日。
椎名林檎の大教室授業は
東京事変『大人』『娯楽』を串刺し。
体調が悪かったのに
アタマの回転とクチのまわりが良く、
以後これが夜中まで継続することになった。

途中、卒論・卒制を教務センターに提出しにきた学生の幾人かが
僕の研究室に立ち寄ってくれる。
そう、みんな完成し、あとは提出だけとなり、
僕の心も、しごく素軽くなっているのだ。
上機嫌になると飛ばす冗句が破壊的にもなる(笑)

三限の「連句演習」ののち、おもに研究室で読書。
五時からのインタビューを待つ。
神戸大学経営学部の学生さんが
「映画産業における映画評論の
正当性再獲得のために」といった着眼で
僕にインタビューすることになっていた(卒論のため)。
遠路はるばる神戸から来る、というので
こちらも敬意を表した。

五時から学生ギャラリーもいるなかインタビュー開始。
優秀な学生で、現状のメディアを多元的につかんでいる。
僕の結論は、映画を真の潜在的映画ファンに届かせ
映画評論によって映画マインドを訓育するためには

①鑑賞パスを発行し、鑑賞行動が確認できたら
その映画の綿密な「評論」をメールするサーヴィス、
②ネットマガジン(多元的「紹介記事」)、
③フリペ(多元的「紹介記事」、劇場配布)

以上三点が現状有効なのではないか、というものだった。
つまり映画雑誌は役割を終えているし
プログを信頼しているわけでもない。

この①②③ともに、じつは映画資本からのサポートが要る。
入場料中、たとえば5円を
こうした事業にまわすよう「猫の首に鈴がつけられないか」。
そう、相変わらず必要なのは
評論家の天才、ライターの天才ではなく
「流通の天才」のほうなのだった。

繰り返すがその神戸大学四年のインタビュアーは優秀だった。
おかげで実例を出しながら
一時間半も速射砲のように話してしまう。
彼は某有名広告代理店に就職が決まっているらしい。

あとで女房に聞いたら
文系国立大なら
神戸大学は関西圏では京大の次、ということだった
(理系なら阪大が京大の次、となるらしい)

結果的に卒制完成組(四年)、三限の連句演習参加者(三年)、
それに神戸大のインタビュアー君(四年)という
妙な混成チームで夜は延々飲んでいた。

なお連句演習ではA班で巻いていた歌仙がトップを切って満尾した。
記念に以下に貼っておきます。



1 十月の透明国を雁わたる           阿部嘉昭


2  紅葉黄葉〔もみぢ〕世を同じうす      江口菜美


3 沢庵にかやく弁当月の下           佐藤拓郎


4  身熱の朝薄氷を撫づ            高安美智


5 雛流し聞かぬ聞こえぬ膝小僧         落合彩夏


6  遊びの庭に小手毬あまた          阿部嘉昭


7 耕牛や桃李の里に糞〔まり〕踏みて      江口菜美


8  運尽きて行く古道の熊野          佐藤拓郎


9 滝飛沫かかる衣装の飾り落つ          高安美智


10  啄木鳥の音も木琴と聴く           落合彩夏


11 ローマ字で日記書く手も冷えてゐつ      阿部嘉昭


12  長夜にまとふ黄衣〔くわうい〕梨の香    江口菜美


13 陽を受けて来世の涯に銀杏燃ゆ        佐藤拓郎


14  墓参帰りに椋鳥来たる           高安美智


15 月の成す鎖骨の影はなほ黒く         落合彩夏


16  払暁までに棚に帰らん           阿部嘉昭


17 朝ぼらけおほやしろへと向かふ花       江口菜美


18  木漏れ日のもと甘茶燦めく         佐藤拓郎


19 春風の門を叩くはいたづらに         高安美智


20  帰省待ち侘ぶ者も幾たり          落合彩夏


21 蔵の町妙に白き子懐かしや          阿部嘉昭


22  赤き親ゆび石段を馳す           江口菜美


23 籠放り飛び入る冬の夫婦風呂         佐藤拓郎


24  湯冷め覚えぬ達者の按摩          高安美智


25 短冊の奏でる音の新涼や           落合彩夏


26  衣擦れこぼる酔芙蓉そば          阿部嘉昭


27 秋燈を吹き消し明き夜を見たり        江口菜美


28  鈴虫鳴きて鼓動高まる           佐藤拓郎


29 塀跨ぎ雲間の月とかくれおに         高安美智


30  集ふ宿には師の仔細顔           落合彩夏


31 往昔の恋も真水となり果てて         阿部嘉昭


32  流す背中に並ぶ三つ星           江口菜美


33 湯気立てる樹下の姿も蜃気楼〔かひやぐら〕  佐藤拓郎


34  支度待つ間の胡蝶の夢よ          高安美智


35 老荘を語る酒杯に浮かぶ花          落合彩夏


36  車座まはり筵うらゝか           高安美智




順番でゆくと発句と挙句が同一者になってしまう。
それを避けたく、
A班功労賞の高安さんに挙句=祝言をお願いした。
よって高安さんのみ一句、吟数が多い
 
 

2009年12月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

入不二君が立教で講演した

 
 
昨日12月12日、
立教大学で入不二基義君の
「運命論」の講演があり、
湘南高校「文芸部」同輩のよしみ、
加えて立教大学文学部の末席をけがすものとして
講演を拝聴、高校卒業以来の旧交を
講演後の懇親会&二次会でも暖めました。

入不二「運命論」は論理学の排中律、同一律などをつかい、
それに時間意識=「いま」を加えることで形而上化をほどこし、
結局は「いま」を全体に横溢させるというもの。
そこでは、「必然」と「偶然」の弁別も無意味になり、
そのことで同一律が「必然」=「偶然」という
非同一の同一となって
過激に融即化してゆく。

水際立ったような論理展開でひきこまれた。
けれどもその時間は
切片で切られて極度に抽象化されている。
僕は詩の実作の経験から
「偶然の必然化」「必然の偶然化」によって
創作「時間」の厚みという着眼がさらに出る、
それが「運命論」の進むべき、
さらなる局面ではないかという話を酒席でした。

入不二君が、酒を一滴も飲まないことに
アル中気味の僕としては「へへえ」とおもう。
彼と僕との個性のちがいはそういうところにも現れている。

それと。

入不二「時間論」は彼の鮮やかな百メートル疾走の実績から
出ているのではないか、
そこで彼は「ゼノンの矢」の逆説を考えたにちがいない。

では入不二「運命論」の原基は何か。
か~んた~んにわかっちゃった♪
秘密は彼の奥さんにある。
けれど恐ろしくてこれ以上はいえない(笑)

いずれにせよ愉しい一夜だった。
僕の学生、たくろーくんの質問にも
入不二くんは誠実に応えていたなあ



時間論についてはいま考えていることはみっつ。

ひとつはプルーストで、
「無意識は言語のように構造化されている」ではないが、
時間はすでに内在的に構成化されていて
これを身体レベルで綿密に実証化したのがプルーストだった。
たとえばこういうプルーストを
僕は古谷実のマンガ『シガテラ』論に援用した。

もうひとつは連句(歌仙)で
前後のつなぎに「ズレ」がはらまれることで
流れ総体に「時間」が全体化される局面があるということ。
これはたぶん僕の詩作原理でもある。
いま演習で巻いている歌仙は
いずれこの日記欄で完成版をご覧にいれます。

最後が映画。時間の編集加工という問題。
連句にもこれは通じるのだが、
結局、時間は形而上学の「外側」で
ある種の織物として発明され、
そこに物質性が保たれることで
物語作法をもこえる場合があるということ。

タランティーノ『パルプ・フィクション』や
フィルム・ノワール、
それとみとちゃんの卒論じゃないが
押井アニメなどがそうだ。
それらは作品であり時間であり脱時間なのだ。

ま、今度は講談社メチエで本を出す入不二くんの活躍をみて
自分もやるべきことが多いと気合が入った
 
 

2009年12月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ごしっく透明

 
 
【ごしっく透明】


ふきぬけをつくった。
家のなかに羽毛の落下領域をもうけ
それをさらに氷結させたのだ。
空気の凍滝に似ていた。
四囲には廻廊をわたし
妙齢の恋人たちでも
いかるすのようなものを感じながら
愛語をかわせるまでにした。
家のなかなのに日傘が要る。
ただし陽光でないものから
身をまもるためだろう。
すいっ、すいっ、としたなにか。
廻廊の要点いくつかには窓もあけた。
そこから遠くをみる者が娼婦だろう。
何重かの要因、往来、
このおかげで家のなかが寒くなり
ふきぬけの角、暖炉も
四階の高さにまで伸ばして
そこで日々伐り出した
高木の杉などを焼いている。
職人をつかう大仕事。散財だ。
ふきぬけのがらんどうには
赤の斑点が数かず踊り
夜などはそれで散ざん夢想する。
ああ以前は蟲だったなあ。
でも背骨に空気のとおったいまは
家の内に無の塔がますます高くなる。
「柱状家」の称号までもらう。
鍾乳だ、わらいがとまらない。
わたしの眼も縦方向だけを感じ
(水平なんて俗情である)
背丈がますます高くなって
おかげで家のゆかへの影が
おもいでのように
さらにさらに薄くなってゆく。
本性がハリガネ
だったのだなあ、わたしは。
いずれにせよもう家に部屋がない。
ただ敷地のひろさの縦には
絶景というべきなのだろうか
しずかな
くうどうだけがあった。
 
 

2009年12月10日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

四方

 
 
【四方】


夢の四方なのではない
四方がすでにゆめなのだ
仮定の中心にいることは
ささやかにして確実な体感
あふれる樹間がひかりにゆれ
風のすみかも開閉するとき
そこに同じものの瀰漫がある
時間のまばたきのようなもの
均質のくりかえしの均質
これが拡がりの姿なので
ゆるやかさに酔った気になって
身が紙ふぶきに似てゆく
この眼も測りのもととならず
方位は遠国のうたげとして
ひたすらとりかこむものとなる
こうした偶成の円によって
身がなきものへひらかれてゆく
風景もただぜんたいとなって
これを着て誰かが歩いているのだ
草獣的なそれに乗る通過する
もう四方でない夢の四方を
とうめいなとうめいがひびき
来たれるめぐみのように
花おんなのまぼろしもすぎる
頭に野花を数かずかかげた
それは雨の調べで聴えている
この身ならたねを投擲している
微音を連れたこのおとずれは
ひそかにあたりをゆらしている
ふたたびの以前にして以後
聴いて経緯も探ろうとするが
縫いあわされて渦中もないのだ
一切晴れわたっているのに
雨中よりもひとりぼっち
方位のなかに聴きが紛れて
眼をはずされたこの四方では
みえないことの幸もあふれる
外にあわせて眼を開閉し
おぼえはじめる出現が
身の均質な生理と合って
すでにもう
血のながれが夢なのだ
 
 

2009年12月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

女男

 
 
【女男】


大眠やまぶた縫ふまで山眠る



女男〔めを〕生きて来し方の野に草ばかり



枯野人もともと数人〔すにん〕をりしかが



すれちがふ鹿のたぐひか空つ風



凩やかぜかんむりが木を愛す



短日にみぢかくなりぬ沼半径



蓮掘の穴のかずだけ女男生〔あ〕るる



頬杖のつきにくくなる冬帽子



短人化の魔法ののちに熊手買ふ



冬空の高さや山の上と鷹
 
 

2009年12月06日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

お知らせ

 
 
今度の日曜日=12月6日、
四谷三丁目で開かれる映画上映会で喋ります。

かかる作品はなんと珍しい!
黒木和雄監督の初期PR映画、
『海壁』『わが愛北海道』の二本。

黒木監督といえば晩年の戦争三部作、
『父と暮せば』『美しい夏 キリシマ』
『紙屋悦子の青春』で圧倒的な大輪を咲かせ、
その後、急逝を惜しまれた日本映画界の至宝ですが、
もともとの出発点は岩波映画=記録映画でした。

晩年三部作は戦争批判とともに
演劇的手法が大胆に導入され、
人間の当為についても深い洞察がみられます。
また、「決定性のない画面」につき
細心なアプローチをすることで
俳優を徹底的に解放した点でも銘記されます。

これらは記録映画の本来的多元性を
若き黒木さんが追求した果てに実を結んだものでした。

当日の上映作品『海壁』では東京電力が
横須賀に火力発電所を建設する過程が捉えられ、
しかもそこにアクション映画の感触がまつわる一瞬がある。

あるいは『わが愛北海道』は
題名から察せられるように
デュラス=レネの
『ヒロシマ、モナムール(24時間の情事)』を下敷きに
PRすべき北海道の化身として少女を出し、
その対象への意識変化によって
北海道の実質を浮上させるという意欲的方法をとっていました。

とうぜんこれはあの美しい『とべない沈黙』、
その主題へとつながってゆくものでもあります。

むろん「PR映画」は上の記述からわかるように
自治体や企業から課せられた企画で
そこでは作家的自発性を実現しにくい。
よって悪戦苦闘して、
作品組成にPR情報を超えた何かをまとわせることで
若き黒木さんは「主体性との格闘」を演じたわけです。

その背景には、ドキュメンタリズムとアヴァンギャルドの融合、
という花田清輝の掲げた表現理想もあったはずです。

その知的蓄積と実作蓄積、
さらには黒木さん独特の目移りと雑食性により、
黒木さんはやがて「複数性」の作家となってゆく。

90年代の作家的不遇ののち、
『スリ』と戦争三部作を、
同世代の作家の活動頻度を突き抜け、放てたのは、
黒木さんが自身の「複数性」を
慎重に統御する技術を磨いたからです。
それで「叡智」そのもののような作家となった。
むろん偏狭な蓮実重彦的価値観からは無視されていますが。

当日のスケジュール、上映場所などは下記しますが、
僕は発言の場では、中村のり子さん
(すごく優秀なドキュメンタリー上映運動者)の質問によって、
上映される作品のほか、
土本・小川とは乖離し、
松川八洲雄とは親和してゆく黒木ドキュメンタリーの本質、
それと劇映画までふくめて
黒木さんの不思議な作家性、集団創作性を
さまざま話すことができたら、とおもっています。

まあ、僕は『映像作家黒木和雄の全貌』を
映画作家の日向寺太郎さんと編集した実績もあって、
ここ十五年は最も意欲的に黒木さんの凄さを
伝えた評論家でもあったわけでした。

珍しい上映なので是非ご来場を
(現状、予約満タン状況らしいけど知るもんか--笑)



「黒木和雄とPR映画」
12月16日
@四谷三丁目「Latitude」
電話:03-3353-7717
http://www.latitude-p.com/
参加費=1500円(ドリンク付、予約は100円引き)

13:30開場
14:00『海壁』上映
15:15『わが愛北海道』上映
16:20阿部嘉昭トーク(インタビュアー:中村のり子)

じつは僕が映画上映スペースで喋るのは久しぶりです。
ポレポレ東中野での『日本心中』続篇で
大浦信行監督と対談して以来だなあ。

もっともこないだ、立教新座の映像コンペで
壇上コメントは延々やったけど、ね♪



なお、僕の出る翌週の日曜日には
今度はカメラマン大津幸四郎さんのゲストトーク、
同じ場所、同じ開始時間で、
「黒木和雄とPR映画」第二弾として
これまた珍しく必見の、
『太陽の糸』『あるマラソンランナーの記録』が上映されます!
 
 

2009年12月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

文の格

 
 
中国の文人墨客における「文」については
草森紳一がどこかで定義していたとおもうが、
膨大なあのひとの著作からそれを見つけ出すのは
いまはすごく億劫だ。
何しろ「文」は「暗号」「指令」「使命」の要素をあわせもち、
書き過ぎないことで「詩」としても機能する
----したがってそれは黙契として受け取るものだ
----およそそんなことがいわれていた気がする。

じつは僕は昨日、烈火のようになって
あるマイミクの批評家気取りの「文」を非難した。
ケータイで書かれているためか終始、文意混濁していて、
おまけにこちらの文は曲解されつづける体たらく。
だから単なる非難だったのに
やりとりも膨大になってしまった。
詩が「こいつ」によって
ヤバイ方向に縮約されてしまうという危惧もあってのことだ。

通常、「文」は物理的に書き切ることはできない。
描写ひとつとっても、対象は無定着に刻々流れてゆき、
文が対象の真の現在に追いつくことはできない。

となって文は全体にたいする部分的換喩として
打ち出されるしかない。
あるいは文は、それが書評ならば
論及対象全体を引用することが無理なことを
とうに知っている。

それで部分が全体をまかなっているという「了解」が、
文をやりとりする相互には必要になってくる。

文章修業は、対象の全的描写を促す場合もあるが、
本来的にはその代表する部分をつかめ、と示唆するだろう。
相手がある場合は、相手への敬意をはりめぐらせたうえで、
経緯を要約し、そこでの「伝達」こそを尊ぶ。
となると例示も端的で、しかも適確である必要がある。

現在、多くの文章修業は
雑誌における短文から始まる面がつよいだろう。
たとえば百字による映画紹介なら、
三文構造をもて、と教えられる。

①当該作品の全体的説明(キャッチフレーズ、ジャンル、製作経緯、一般評価などからいちばん通用性の高いものが選ばれる)。
②ストーリー(端的に)
③主観的評価もしくは見所の付加ポイント

まあ、そんなところだ。

僕は20代にそんな文ばかりを書いてきて、
自覚でいうと、要約性が高く、無駄や重複を省いて情報量が多く、
なおかつ柔かい文を書くのが得手になった。
ただしその場合の価値は「伝達容易性」に集約される。
そこではまだ「文」は出現していない。
僕がヘンだったのは文の短縮化に短詩型文学の方法もつかった点だ。

次にくるのは長文における次段階の配慮だろう。
ここで帯状の論旨を分節化してゆく「段落」に
とうぜん注意が払われるようになる。
それはまさに論旨の根幹でありつつ
同時に帯状物質の「模様」なのだった。

上述「批評家気取り」は、まさにこの段落分けが、
国語の勉強が苦手というほどにできない。
まずは伝達的短文が配置できず、
ひとつの段落内の理路すら判明しないということ。
その段落が互いに照射して時間軸上に配置されるのだから
文全体も意味不明に陥る。

しかも段落とは文に「つかみ」、
驚愕やら魅力をあたえる賦活剤なのだが、
そんな色気もその程度の物書きに期待できるものではない。

たとえば映画を論じていて
そのストーリー要素の説明に一段落をつかわず、
高等な技として、ストーリー要素を
全体に斑点のようにちりばめることで
組成の異世界を志すなんてことも無理だろう
(これは実際、小説作法につながるものだ)。

そのうえで、展開を締め上げるようにして
結論の色気(それは思想性そのもの)へともってゆく。

むろん文が評論の場合は対象をもつ。
その「批評家気取り」は地方紙の書評欄で
詩集の書評にあたり
当該詩集の細部引用を怠るという不調法を働いた。

地の文のほうが対象の詩文より価値をもつという
倣岸な自意識によるもので、
たぶんその時点で
それはもう書評の要請から離れてしまってもいる。

しかも「文」は短文書評ではほぼ出来しない。
長文書評、その書籍をとりまく他の書籍に言及する関係書評となって、
はじめてその書き手の性質と世界観が見え出すというべきだ。
そういう要請を書評の書き手にする編集者は少なくなったが、
短文評論では異議申立てとして
少ない字数でもその領域に近づこうとするのが正しい。

ここで蓮実重彦『物語批判序説』で称揚された、
ロラン・バルトの倫理、
《自分とともに「他」を読ませること》が注目される。

バルトは見切りによって対象を支配しない。
寸止めにとどめておく(それは実は喩的機能だ)。
しかもゆるやかに対象そのものまでずらしてゆく。
それらはすべて組成に「柔かさ」の流儀を与えるということだ。
読者の視線のズレを促し、
当該のバルトの文の外に注意を差し向けてゆく。
読者の優雅な「気散じ」を狙っているのだ。

逆にバルトの文自体は対象への考察を読ませながら、
実は「柔かさ」そのものを読ませるような
多重的な配慮が働いている。
ここにいたり「暗号」「指令」「使命」「詩」が一致する。

たぶん真の「文」とはこのように高度なものだ。
そこでは書き手の自尊心などあらかじめ粉砕されていて、
書き手の「私」にたいして読者は
その残骸や気配を読むしかない。
「文」が所属しているのが、書き手のなかではなく、
書き手と読み手の「あいだ」ならば
これこそが私性の必然的帰結でもあるだろう。

いま学生の卒論チェックをずっとやっていて、
提出期限が迫り、さすがに「火事場のバカヂカラ」を
みな発揮しだした。
メールでそれらを受け、部分を直したり、
これこれの考察のため、段落を加えよと指示したりしている。

チェックというのも大変で、
彼らの卒論には卒業はおろか人生もかかっているのだから
疎かな介入ができない。
じつに真剣勝負にちかいものがあるのだが、
実際、こういうことが可能なのは、
僕自身があらかじめ「彼ら」と僕自身に「あいだ」をつくり、
そこに緊張感あふれる電圧をあたえているためだ。
「批評家気取り」氏にはこういう空気の機微を感じることができない。
彼が「自己チュー」だから、という単純な理由によるのだが。

(僕は書かれたものにたいして容喙するのが得手だ。
ポップスターだった高橋源一郎さんに、20代半ばで
正当な理由をふして雑誌コラムの書き直しをお願いした
じつは向こう見ずでもあったのだった)

息せき切った学生の文章は
おおむね段落分けがなされていない。
思考が雑とまではいわないが、整理されていないのだ。
だから僕の介入は、まず僕が当該論文を読み、
自発的に段落を細分することから始まる。
そこで不用意な文がチェックされ、論理短絡が明るみに出され、
論述の不足も指摘できるのだった。

この「段落連鎖」を「展開」と言い換えてもいい。
「展開」は、思考の命というか思考そのものだし、
実際はその論文がエロチシズムを発揮するための
起爆装置でもある。

いや、もっというと、展開そのものに
あらかじめエロスが前面化してもいる。

草森紳一やロラン・バルトはその達人なのだが、
彼らの特徴こそが実は「気散じ」「ズレ」なのだった。
そうでなければそれらの文が
ボップでエロチックになるわけがない。
「私」はそこに線でつなげないかたちに散乱している。

ここまでの「文」を書くのはむろん容易ではないが、
僕は学生の論文指導で、「あれはないのか」、
そう、そのようにして
ひとつの言及の外側に隣接しているものを示唆する。
そうして学生の論文が直され、
それで直線性でなく円形性が獲得されてきて
うねりだしたときにすごく喜ばしくおもう。
だから卒論指導は結構愉しかったりする。

それでもそれらの文の細部は換喩的なのだ。
「文」が肉体をもつなら
細部はいつも瞳や耳や乳房や性器、
多声ならぬ多体の魅惑によって
静かに怪物化されていなければならない。

とこう書いて、じつは自分が
論文と詩に、弁別を設けていないと気づいたりもする。。。
 
 

2009年12月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ずっと考えている

 
 
昨日、「詩手帖年鑑号」が届き、
「今年の収穫アンケート」を
卒論チェックのあいだ拾い読みした。

僕の詩集詩篇を収穫に掲げたひとは
10数人(精確には算えていない)。
正直、20人以上の大台を狙ってはいた。
となると以後の発言力もますためだ。
詩集送付リストが不味かったのかなあ。
アンケート回答者中
未送付のひとが相当多かった。

ただし僕の敬愛する詩作者が
僕の詩集を掲げてくれたのは嬉しい。
敬称略・順不同でおもいつくまましるすと

杉本真維子、萩原健次郎、松岡政則、
松本秀文、浜江順子、海埜今日子、
高岡修、武田肇、倉田比羽子、 渡辺玄英、
斎藤恵子、広瀬大志、岩佐なを、山田亮太・・・

僕はこのひとたちの
詩のパステーシュができるわけではないけれど、
その詩篇の呼吸はすごくリアルに感じることができる。

つまり、同属相知る、の流儀で
僕が自作の呼吸を測るように
そのひとたちの呼吸をも測り
感動・陶酔・納得・憧憬にもってゆかれるのだ。

もともと世代のちがうワカランチンとして
僕と年長世代にはたがいに接点がないかもしれず、
年長世代が僕の詩集を掲げることを期待していない。
いないが、「世代間闘争」みたいなキナ臭さが
とくに若手詩人の気分を領しているとはおもった。
淋しいことだ

となって、昨日いらい考えていること

個人攻撃ではないが、
たとえば小川三郎さんは
なぜ僕の詩集をベストに掲げなかったのだろう。
あるいは廿楽順治さんは
なぜ「展望」記事で僕の詩集に触れなかったのか

謙虚に考えれば当然、僕の詩作に非があるのだろう。
つまり「友人」だから
社交辞令として挙げろ、といっているわけでもない。

ただし僕は彼らの詩の良き理解者で
とりわけ彼らとは同属性がつよいと自負している。
「同属」の定義から似た感触を、
彼ら自身ももっているものとおもっていた。
つまりリテラシーが追いつかなかったわけではないだろう。

換言すると、同属が一体化して一種の力となる。
そういう動きの形成を
彼らはあまり重要視しないのだろうか。
むしろ「同族嫌悪」が働く・・とでもいったことだったのか・・

たしかに詩の書きかたは難しい。
時代にフィットしつつ
しかもそれが新倫理の発明でなければならないからで、
上記、僕の詩集に言及してくれたかたがたは
みな詩を、過剰な文学にしないような
縮減的抑制装置をもっている。
そういう流れがもっと詩に
つよく形成されればいいとおもっている。
となると廿楽さん・小川さんのことが
よくわからない

う~ん、書き込み欄に、とはいわないが、
一度、小川さん・廿楽さんには
僕の詩集の批判を聞いてみたい。
彼らなら虚心坦懐に語ってもくれるだろう

さて「収穫アンケート」では
パッと見の印象では
杉本徹さんの『ステーション・エデン』が圧勝。
歴程賞受賞のタイミングがよかったのかもしれない。

それと松岡政則さんの『ちかしい喉』の評価が高いのも当然として
田中宏輔さんの『The Wasteless Land. Ⅳ』を
数多くのひとが掲げていたのも
我がことのように嬉しかった。

あつすけさん、おめでとう
 
 

2009年12月02日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

鎌倉で録音した

 
 
【鎌倉で録音した】


そろそろ綿帽子のひとたちの
ふわふわもなくなったとおもい
神話的なバイクを駆って
陸をひきよせる海の大寂音を
かまくらの磯へ録りにいった
むろん沖のとおさも観にいったが
そこにはだだっぴろい黄色があった
波が陸からおりた枯葉を頂上にして
ただ水平をもりあがっていたのだ
倦んであふれるものに惹かれるのか
海の網に捕獲される骨まで惜しむのか
液体でない枯れた声が全体こだましていて
わたしはむしろ足許まで攫うその大退転を
水陸のなげきとして このナグラに
容量超え・波長外のこの識閾に
ひたすらとりいれ淋しくなるほかなかった
にほんの沿岸 にほんの四囲
崖がくずれる
季節のおわりかたはただ大悲だろう
ちいさな録音機もあだに破調するだろう
わたしはもう思い出のひとになってゆき
半泣きで音のみの虚無を釣り引いた
 
 

2009年12月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)