ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

歯石らぢお

 
 
【歯石らぢお】


雷鳴にかかって
おどろく髪だ
皿をかさねながらも
増量を超えている
宝飾のたまぐし
房飾りが千年
仙川さんだろ?
みまちがいがあって
みぬ藤の世には
おでん族の通過など
ある由もない
おるがすむすの
ばけもん婦だから
算盤もうしなって
電りゅうの下
波紋のやくざを
ひくつかせるだけ
物見遊山で
がらすを通るな
只の着物になっても
肌のびりびりなら
おのれに於てやぶる
墨の島のあたまだ
なんなら
新宿のながれにも
ねじこんでやる
  
 

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2010年02月27日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

言葉なき歌

 
 
【言葉なき歌】


あの丘のみどりは
青ぞらがかぶせたという
帽子的な地上だが
失笑によりなにも咲かない
そのほかにも光学上
青くみえる場所がある
だれかの髪の毛の
ひとつかみのような
悲鳴をおびた奥
そこに梯子が
さらなる上をのばしている
あれにのぼるのは
逆さ尾といったものだ
たつのおとしごのすがたで
日が暮れるだろう
ひとつの像からは
内在の鏡だってわかり
意味をみていない視線が
動物磁気をこぼしだす
内側にいっぱいの反映
こぼれの粉は 途方ならば
顔の夕焼に撒くしかない
  
 

2010年02月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

カオナシ

 
 
【カオナシ】


わたしたちの顔はひよわい
星をみあげる顔がいつも
ほのかに灰を泛べてしまう
わたしたちの人体ならつよい
くるしみをこねることで
やがてひとつの流線になる
 
 

2010年02月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

citizen king



【citizen king】


裳裾をすって明け方の細民街を引き倒してゆく。

歴史、障子のようなもの、挿した指の数だけ
風の方向もある。割れている円盤遊び、口に草を入れ
けむりを吐いた。斜面の富はえんこんに沿い流れてゆく。

それが乞食たるcitizen kingの衣裳と横笛だ。ぶぶぅ
王妃も彼の長靴のなかに踏まれ。足取りのミシン縫った。

教養片目が紋章になるだろ。星斑の水へ鎧沈みつつ

2010年02月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

here my train’s a-comin’

 
 
【here my train’s a-comin’】


黄鶺鴒がとび、一連の胸の開閉
宝蔵している半睡のかたちがきみでも。

古い音階なら暗い梯子から下りてくる
なあ坐りの庭 (ひとつの琵琶座、
葱のようにゆれて人体のきえるゆめだ。

朝焼けだろう、諧調に対称をつくっては
 
 

2010年02月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

オルガン

 
 
【オルガン】


円板に切ったこおりをかかえ
身のとうめいまでをあるく
梅ばやしの発熱がそのままゆめになる、春だ
つぐみの蝋燭がとぶ (かげろう、
草あかりで自身のかげは白みをまして
櫛も消えながらあかるくこぼれる
 
 

2010年02月18日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

橘上・複雑骨折

 
 
スパム対策として本日一旦消した過去の日記を
対策が終わったのでまた復活させます。
07年12月20日に書いたものです。
元ヴァージョンでは拍手は八つでした。



今週月曜、立教の「現代歌謡論」には
若手詩人の橘上くんがモグってきた。
授業を聴きがてら自分の詩集を渡しにきたのだという。
ちょうど手持ちに僕の新刊
『僕はこんな日常や感情でできています』もあったので、
物々交換した(そればっかしている-笑)。

橘上『複雑骨折』(思潮社/07年10月刊)、とあって、
「現代詩手帖・08年鑑」にその表示があったと気づいた。
和合亮一さんが「今年の収獲」にあげていた、という。

「橘上」と書いて、「たちばな・じょう」と読む。
自分でつけた筆名だそうだ。
「オダギリ・ジョー」みたいな音になっちゃって、
と謙遜(?)するが、やんちゃで乱暴で汚い気配が漂ってくる。
前回日記の黒瀬珂瀾さんとは真逆のようなキャラ(笑)。
ガタイは、ガテン向きの感じ。つまり、ゴツくデカい。

研究室でまあ話を、という流れになった。
パンクバンドのヴォーカルをやっているという。
詩を音楽として書く、とも言い切る。
ただし、紙の詩と唄われる歌詞には弁別があってしかるべき、と
意外に慎重派の局面もみせた。

音楽は僕の知らぬ分野が詳しい。
僕は僕の知ってる分野が詳しいので話が噛みあわない面もある。
当然、語勢のつよい阿部が会話のイニシアティヴをとりはじめると
橘くん、学生時代の習いのまま、メモをとりはじめる。
その日、授業で配付したプリントの余白に。
ビーフハートは好きだが、どのアルバムがいいか、などなど。
ビーフハートは『トラウト・マスク・レプリカ』一本派が多いね。
70年代末期からの彼もいいのに。

橘くん、安川奈緒を讃える。
そりゃそうだろうよ、パンクロッカーなら。
だが、インスピレーションだけでつくると詩心はやがて枯渇するのでは
と僕がいうと、彼は、
いや、安川奈緒はものすごく推敲してるんじゃないかと
意外な見解を述べる。
詩集は「メロフォビア」だが、「音楽として」詩が推敲されていると持論展開。
ほう、この男、姿は乱暴だが、なかなかではないか、と見直しはじめた。

その他の褒め筋もいい。
授業でかけた曲のうち、彼は中森明菜『Tokyo Rose』と
三村京子『風の京子』(阿部嘉昭が作詞した)を絶賛。
エレえ面白い授業でした、という。
生徒が大人しすぎるだろ、と僕が言葉を向けると、
阿部さんの生徒は「幸福に」飲まれてるんスよ、と餞も欠かさない。
じつは案外、如才のない奴かもしれん。

彼は数年前にも僕の講義に潜ったことがあるという。内海と来た。
日芸・文芸学科の生徒だった。卒業済。
同学の久谷雉にたいし学年が一個上ともいう。
(詩は)品行方正の久谷にたいし、ここも逆の気配がする。
ひとしきり、久谷、日芸文芸学科、さらには日芸全体の話となる。

ひとつだけしるすと、日芸文芸学科は若手詩人輩出のようにみえるが
詩は変わり者が取り組み、比率は全体の五%ほどで
詩の実作指導に有効的なものもなく、
みなが「個人」の範囲でやっているとのことだった。
バンドでは日芸はパンク傾斜がつよいかも、とも認めた。

橘くん、ほぼ無一文にちかかったのに、
蛮勇を奮って、僕につきしたがい、
その後の「松本秀文さんを囲む会」にも乱入してきた
(松本くんと面識があるんだとか)。
その会でも彼は談論風発。
松本圭二の話などに嬉々として加わっている。つえぇ。

で、昨日の早朝は、黒瀬珂瀾『黒耀宮』を読了後、
立て続けに彼の『複雑骨折』を読了した。
幾度、ブハッと噴き出したことか。まごうことなき傑作だった。

いままで僕が書きつけた固有名詞が
キーワードとなっているとも気づく。
パンキッシュな下痢文。
町田康が源流(その基本リズムは落語だ)だとしても
安川奈緒を同時代人と構える彼の感覚がよくわかる。
散文と詩文の弁別なしに、爆発して四囲に言葉の糞便を撒くのは
松本圭二のヤンガージェネレーションともいえる。
さらには、その日の授業でディープ大阪のパンクバンドにして
河内音頭と大阪笑いとパンクとジャズと恐るべきローファイが混ざる、
オシリペンペンズをかけたのだが、それとも風合いが通じる。
こういうふうな「文」系の結節点に彼の詩も位置しているということだ。

笑いの喚起力+凶暴さでは詩壇内、松本圭二と並ぶトップクラスだろう。
文の論理が内側にねじれて、しつこく、
しつこいながらもするすると「展開」して、
圧倒的なフレーズをついに爆発させ、さらう。
スカトロも殺意も極貧バイト生活も、
偏執狂的=犯罪的拘泥もあって、
こいつ「アブナい」と考える自分の鳥肌がもう笑っている。
しかし全体は畳み掛けるようなリズム。
躯に圧力が蓄積されて、
酩酊にぐらぐらするという至福も味あわせてくれる。

一体に、垂れ流し散文で詩を標榜する動きが僕は苦手ではある。
顔とちがって、端正さがこのみだったりするのだ(笑)。
研究室でクリトリック・リスを褒めたように
もともと下品な笑いが大好きなのに、
ねじめ正一から始まる動きには以前ついぞノレなかった。

詩は愛唱性あってこそ詩、という気概を崩さない。
だが、一過性の文として、
詩的垂れ流しによってリズムを打ち込んでくる文章には多く接している。
いまの学生に、このタイプの文章が多いのだ。
で、橘くんのそれは、このタイプのなかの極上品。
破壊性が並みではなかった。

悪意のひねりも効きまくって、時には真空が生じ、
この鎌鼬によって読む継ぐ頬をザックリ斬られる。
取扱い注意物件のヤバさがあって、
ねじめさんの詩の前提となっている小市民的ペーソスなど何処吹く風。
何しろ勢いがいい。この勢いは下痢噴霧につうじているが(笑)。

散文型の詩を転記打ちするのはシンドいのだが
ザクッとまずは一篇、変態愛の物件を丸ごと差し出してみよう。
すごいぜ。これなどは、そのまんまパンクとして叫べる。



【花子かわいいよ】
橘上

 花子。かわいいよ花子。えっ何? 何でこんなにかわいいの? かわいい。本っ当にかわいい。かわいいわ。何つーか、その、かわいい。ばりばりかわいい。花子をミキサーにかけて、どろどろした花子ジュースをつくったとしても、絶対かわいい。もうヤベェ。ヤベェよ花子。ヤベェヤベェ。電柱があって、その電柱を花子と思い込めば可愛いもん。もう何だろうな。死ねよ。死んじゃえよ。何でお前みたいのが生きてるんだよ。もう死んじゃえよ。マジで。ホンットに死ぬ。頼むから。死んでくれよ花子。ホントに。かわいいよ。花子。死んじゃえよ。かわいいよ。何だよ。お前なんだよ。何で花子なんだよ。やめちゃえよ。もう花子やめちゃえよ。一体いつまで花子なんだよ。どうすんの? お前花子でどうするの? 何がいいの? そんなに花子でどうしたい? 何がしたいの? お前は? 生まれたときから花子で。もうずっと花子だろ。どうすんの? どうなるの? 花子。花子。花子? おい。花子? 花子なのか? もういいよ。花子。充分花子だったじゃん。お疲れ様。代わるよ。俺が代わるよ、花子。もう俺が花子でいいよ、花子。花子でいい、つーか、花子だわ。もう俺が花子だわ。すげぇ、俺、すげぇや。俺でありながら花子だもん。すげぇ。ホントすげぇ。すげぇ上にかわいい。ホントかわいい。かわいいわ、俺。ほんとに俺ってば、かわいい。極々にかわいい。かわいいわ、俺。俺っていうか花子。花子かわいいよ、花子。



見られるとおり「花子」「かわいい」の同音が
幾度使用されたか、数える気もしないほどだ(笑)。
それは速読リズムの畳掛けへと無惨に「消費」されてゆく。

だがこの消費構造のなかで、認識の転轍が生じる。
「死んじゃえ」という唆しは、愛の非対称性ゆえに生じた感情逆転で
これならストーカーのすべてが理解できる(笑)。

しかもその前段階で花子はミキサーにかけられ、
電柱にも変じている。
この花子の可変性全体を愛する愛はもう無償に近い。
この無償の深さがヤバいのだった。
これは書きつけられている言葉の無償性と同列にあるもの。

橘上の手柄は、そこからさらに変容の劇を生ずる点だ。
バイトの場で使われる常套句が接合材となる。
《お疲れ様。代わるよ。》。
以後、「俺」を思い煩わせた「花子」の位置に
「俺」を代入する、という「無謀」が生起する。
凄いのは、「俺」が「完全変身」などを目指さず、

俺、すげぇや。俺でありながら花子だもん。すげぇ。ホントすげぇ。すげぇ上にかわいい。ホントかわいい。かわいいわ、俺。

という、見たことのない「妄想自己愛」へと
読者が拉し去られてゆくことだ。
描かれているのは、「俺半分・花子半分」。
この愛というか、自己認識が、「極端に新しい」。
新しさは狂気と悲哀を材料にもしていて、
ゲ、こいつ、お笑い芸人であると同時に
現象学学者か哲学者ではないか、という「奥行」も生じてくる。

こういう「翻るような」認知は
同音を中心とした畳掛けだからこそ、
その隙間に「ヌッと出る」もので、
橘上の詩はそれなりの「時間化」が施されていることにもなる。

僕は安川奈緒の詩を無時間性と断言したのだけど、
そこから時間を見る橘くんの感覚は、この詩に明瞭に現れていた。
だが、安川さんのような文学趣味、サブカル引用、フレーズ主義は
とりあえずこの詩にはない。すっからかん、なのだ。
ここでペンペンズと符節が揃う。すごい捨象力だ。

「花子」と「ミキサー」の配合には
会田誠『ジューサーミキサー』の意識はないとおもう
(ハイ、阿部嘉昭『少女機械考』の表紙、ですね)。
だから当然、「花子」の命名に
故・佐藤真さんのドキュの転用があるなどと考える必要もない。
「花子」は現実の誰かの代名詞的な代入かもしれないが、
「花子」の音韻の実質が「花子」の実在よりも先んじてしまう。
といっても、マラルメの「花」にかんする揚言を考える必要もない
(橘くんの詩はサブカル臭たっぷりなのだが、
多くは名辞が具体引用的でなく速攻代入的だという特徴がある)。
たとえば、以下。



【ミスタールピン】(冒頭)

 ミスタールピンは2046年12月9日に発売され、今でも根強い人気を誇っているロングセラー商品である。
 発売当初は小中学生を中心とした人気商品だったが、大人の慰みとしての視点から再評価され、現在では老若男女を問わず幅広く支持され、石原裕次郎以来のスターとまでいわれることもあった。

 ミスタールピンは薄紫色で、通常楕円形のゼリー状をしている。

 ミスタールピンは開封後一ヶ月で銀色に変色し、二ヵ月後にキリンの臭いを放つようになる。三ヵ月後にはメロンパンのようなかたちになり、四ヵ月には赤と黒のボーダー柄になる。一年飼い続けると、虫が集まるようになり、夏場ミスタールピンでカブトムシをつかまえるものも多い。



ナンセンス詩か。

幾つかの仕掛けがある。
出だしはSF的設定。
商業文章と、商業「解析」文章が混在している。
この「混在」により資本主義がおちょくられている。
「ミスタールピン」は、説明されればされるほど正体不明となる。
これなどにはカフカ「オドラデク」などの作法をおもうべきだろう。

次、命名問題。
「石原裕次郎」の名の出し方があまりにぞんざいだ(笑)。
悪意も何もあったもんじゃない記号的・機械的処理。
一方、文末の「カブトムシ」はそのカタカナ表記によって、
案外、aico「カブトムシ」の引用と読まれることが
想定されているかもしれない。

「ミスター〇〇」は、
レナード・コーエンが一節に唄った「ミスタークリーン」(洗剤商品名)など
アメリカの「家庭助っ人商品」によく顔を出す表示だ。
だがそれは「飼育」されるものだから厄介だ。

で、〇〇に代入される「ルピン」とは何か。
フランス人名「Lupin=リュパン=日本化して「怪盗ルパン」」の
米語読みではないだろうか。

リュパンでもルパンでもない、帰属性剥奪の発音。
これにより、この商品が定義不能性の域にあるとわかる。
しかもそれは泥棒なのだ。
それを人が嬉々として「飼い」、「スター」となり、
そのヴァリエーションをめぐって次々に「マニア」も生む。
資本主義的欲望の真の対象は「空隙」だとでもいった、
ラカン派精神分析ともこの詩篇は境を接しているが、
橘上は僕の引用部分ののちも
「ミスタールピン」の機能説明、ヴァリエーション分岐、
商品運命の帰趨を「だらだらと」続けてゆくだけ。
よってカフカ的不条理に脱力がもちこまれ、
規範にしている文の商業主義がいよいよ怪しくなり、
むなしい笑いが文の底にただ響かう。

いずれにせよ、橘上の「詩」は
「花子かわいいよ」「ミスタールピン」の左右のなかで
全体が振幅しているとおもう。
ほかにも、「須藤によるイジメ」「猟キチ君」など引用したい詩篇が多いが
散文形の転記打ちは疲れるのでやめておく(笑)。

何しろ破天荒。乱暴。饒舌乱打。クレイジー。批判力満載。笑える。

最後に気に入った詩篇の書き出しをランダム引用する「お茶の濁し」で
この書評記事をかるーく切り上げておこう
(題名転記はしない)。



尻というのは腹が立つ。何でそんなにぷっくりしているのか。

全力疾走してからのエロ本は腹にくるね。

俺さぁ、友達んちでウンコできないんだよねぇ。

地球ってバカ。超バカ。だって自転とか言って一日一回まわってんの。

ダーウィンってすげえよな。種の起源ってヤツ?

最近の須藤は調子が悪い。イジメにいつものキレがない。

「いやね、私ね、自分で呼んだんじゃないんだけど、猟キチ君だなんて呼ばれてんのよ。

家に居てもやることがないので近所をうろうろ歩き回っているのだが、

一致団結。/これが文化祭のクラスの目標。/だけど他は何も決まってない。

食堂でビーフストロガノフモドキを食べていると、

アイドル川島行枝の正体は四角形で、三百六十二回にわたる整形手術を経て、四角形からアイドルに生まれ変わったのだが、

「死ぬまでコケシと愛し合いたい」と語りながらピノキオ似のコケシを片時も離すことなく暮らしたことで、

俺は脱糞した。/長年続くお昼の生放送で。/ただそれだけのことだ。



こうして詩篇の書き出しを書き抜いてみると
橘上が「書き出し主義者」だということがわかる。
独特の気合、見切りから詩篇がはじまっているのだ。
評論分野の蓮実重彦と双璧、といえるかもしれない。

面白い詩人が現れたねえ。
  

2010年02月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

比類のつばさ

 
 
【比類のつばさ】


ちゃんと書けよ、傲慢
門だけが林立しているぞ
どこが本尊かわからないのが
枯れ多い冬景色というわけか
いまどきの梅木は線彫刻
蕾もとおい汽車にのって
それ自体のものなど何もない
くもりのそらは
記憶すら僧をなすが
ばらもんどもの百鬼夜行
山海経なら経文でもない
怪物性がかたむいて
傾斜怪物となるさみしさ
エサハドコダ (空中、
辻というからには
哀しい捕獲もあったんだ
犬と犬のあいだに
連結上の嘔吐があったんだ
そんな旧いサーカスを
肘を曲げきった腕で搾る
身のひねりから出る火花は
水面に映るひろがり
かげろうのようになって
ふたりの埃っぽい犬を
眼中の橋にふれあわせる
むらさきなどが分泌された
撒種のあかるみ、だろう
だからひと日が迅速
懐手を千手とする気分には
往年の藻のくにがゆれ
脚そのものも流れてゆく
割符のさそいがあっても
旅中の色いろに派手はない
原基は比叡と掛け声もある
つぶてとつぶてのきそい
空のいろが詩のように変だ
もう溢れだ (やんなった、
もう溢れだと
比類のつばさが飛ぶ
あんなとこを飛ぶ
 
 

2010年02月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

三十戒

 
 
【三十戒】


喩けむりは何度でもよい。

帽子をきらきら籠にする。

箱は斜めにゆっくりひらく。

金砂は空間のままにしない。

猫の斜視の気配を察する。

友納氏の苗字をたたえる。

盛土料理にブロッコリーを。

騎手に乗ることで裸馬にする。

自動改札を二分の一回通る。

扇を集め、存在も扇形に。

副知事に海の副地図を返す。

腕から腕へは環礁を渡す。

湾曲を声帯につくり唄う。

無形の乳房に横から分度器。

剪定なき作庭術を模倣する。

頬髯でこの蝋の顔を炎やす。

円は三角にもどしてゆく。

別離に多くの浜辺を暗くする。

椅子削りのスカートがある。

回して弾く楽器を編纂する。

職業簿にこども売りを加える。

りんごを巷の八十一人にわかつ。

天災の字を狂うまで凝視する。

翅などの語の蜃気楼現象に。

おのれだけを驚愕する。

四つ足にした学校の羊毛を憂う。

恋愛のヨーグルト期に円卓する。

登攀で蔓草へ百靴をあたえる。

つかめない鞭毛は画布にえがく。

水銀貨において金持になる。
 
 

2010年02月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

still crazy after all these years



【still crazy after all these years】


別れの間際、
口腔内の闇黒を見ずに、
白いシーツがはためいているとかんがえた、
あれから狂った、
窓からものすごい血が射し込んできて、
これはもう躯ではないとおもった、
一九八六年12月29日、
刻々に吐く息もおもたい錨で、
涙だってなまごみのにおいがして、
あれから狂った、


2010年02月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

バキバキ

 
 
痛みがなくなる----痛覚から完全に解放されると
人間は大火傷を自覚なしに負って死んでしまったり
関節を曲がる範囲以上に曲げて
悲惨な骨折を繰り返したりするそうだ。

さっきまで、本日の「詩と思想」編集会議のため
「またまたネット詩談義」の全員の書き込みを
ずっとチェックしていた。

それで現在の若いひとの詩がすべて「悲鳴」である、
という一発言と、
安川奈緒さんの「悲鳴」であるかもしれないが、
詩作者はその「悲鳴」を
発すると同時に聴いている、という切り返しが
妙に澱としてのこった。

自分で骨折を試みて悲鳴をあげている例はないか?
そういう「人生への不誠実」を犯している例は?
なにかへの近道としてそういう営みが横行しているのは
現象論的考察に値するが、事態としてはすごく病んでいる。

ところが「大袈裟なやつ」の書く詩は、
そういう眺望を一挙に不透明にもしてしまう。
痛くないのに痛い、というのだ。

救うべき順序なら、簡単に整理できる。
逆に書こう。
最も救出に値しないのが「大袈裟なやつ」。
つぎが「自分で骨折をこころみるやつ」。
つぎが「あたえられた痛みをそのまま悲鳴する者」。

最後にのこる、もっとも尊敬に値する対象が、
「痛覚が存在しなくなった者」。

けれどそれは「死者」かもしれない。
 
 

2010年02月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

二階ぐらし

 
 
【二階ぐらし】


ぺーじのなかへ暮らしている
ここは水面のようにもなり
二階屋のようにもなる
(「階段の存在しない
二階に置き去りになった」
そんな魂の書き方もあった)

畳へ芒をまねきいれる

その「招」の字の本質的な怖さ
いつも自分の躯を
ふくろ状にとりなして
ふくろからは唐黍をだしている
これは袋でも復路でもいいのだが

亡き韻きのすぼまる口は
用のない嚢に如かない
おかげで咳をしてみるだろう
そういうのが、冬の、懐かしさ

花粉将軍をまつひともいる
よこすかの、どこかに
あいさつのつもりで
唐招提寺のかたちをそこへ送る

いたる細道が行だとして
いつも奥にはほのひかりの
期待めいたものもあった
最後には観音の裸に出会いたい
そういうことにみのったな
みづ紀の「美代子の満開の下」は

薄荷を噛んでかんがえる
かんがえるのはうらがわだ
そういうさみしさだ

中断は いつの場合も
三階建ての無防備をおもわせる
建っているだけのおまえに
普請中のみんなは
平たい寺院をこころざして
土地でないものをひろがってゆく
読経は中断なく手渡された
みんなに、陣地というものがある

きたる年号は
はくめい だとおもう
釣り合わなさは
手塩にかけて見えなくする
そのための塩を
いまからみがこうと
二階ぺーじのなか
ひかりをおのれに
あてているところだ

世界とは軒先
恋びとは待てよ
恋びとは待つな
 
 

2010年02月10日 現代詩 トラックバック(0) コメント(2)

あらゆるものから帰った

 
 
【あらゆるものから帰った】


期間は三日をこのんだ
蝋梅が冬日に溶けだすのをみて
揣摩臆測をほしいままにした
バケツでからをはこび
眼と耳の通路が
冷たくなるのも知った
とおくでふたつに割れるもの
たとえば逆光の雁列を
わるびれず わたしとも呼んだ
つぼみが野菜にみえる花壇
みんなが日傘を差している国の
南国柵のあまさがいい
あまい風にふかれて
胸乳があることの女性性から
教室の隅ではぼんやりすごした
わらっている
宿題をかかえると
ものもちになったようでうれしい
部分を流出している
なみだみたいだ
へんないろとおもえるどうぶつ
そのだらしない仰臥の
いずみのひろがりもいい
出産するのだろう
黒板は妄想乱れ書き
もう書けない
そうしてあらゆるものから帰った
みずからを遣るように還った
期間は三日をこのんだ
チョコが死んだ
 
 

2010年02月05日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

映画機械考

 
 
【映画機械考】


あらゆる隙間が
花びらである国が映画だ。
家具調度のみならず
スカートの典雅な襞のみならず
とりわけ齣と齣のあいだに
黒い花がびっしり。
それで一女優の愛の瞑目さえ
瞼による隙間の隠蔽であるかぎり
黒い花がそこにびっしりで
そのまま死に顔となってしまう。
おさらば。一瞑目一創造の一別離、
それが映画の発明だ。
たとえば戦闘も恋愛だと
殺伐とした拡がりが告げているが
《能く闘う者は怒らない》
闘う情況こそを美味として
それにばくばく喰いつき
おどり
叩きのめした相手自身を
ないがしろにしているのが常だ。
画が一画面として満ちているのも
指標がすでに「たらふく」で
闘いが嬉しい、ということ。
ここにも黒い花がびっしりで
それが映画の発明だ。
おさらば。一動作一満腹の一屍体、
高飛車がこうしてまわり
よって眼ではなく導管が燃える。
つねに燃え滓か、焼尽をみている。
自らの身熱とさえ錯覚して、




期末レポートの採点が終わり、
昨日から「詩手帖」原稿のため
気になっている詩集の再読をしはじめた。

中尾太一さんについてはmixiで論議になっていたので
久しぶりに『数式に物語を代入しながら
何も言わなくなったFに、捧げる詩集』を。

「青春」? ――なるほど、「抒情」の具体は
暗い憤怒や無力の予感と取り合わされて数多くある。
「だらしない」? ――修辞の無駄をもってジャンクを志す崇高さには
そうした形容だけでは足りないものがあるとたしかにおもう。
ただし、ひらがなに漢字のルビをつけるような一時期の流行には閉口だ。
詩脈を推進するに際し、膠着のブレーキがかかる。
それは最も安易な隠喩だ。

一行の異様に長い改行詩は或る特殊な法則に包まれる。
当該行に眼を遣った瞬間、前行が消失して気配だけになるのだ。
その気配の正体こそが律動なので、律動だけに対面している結果ともなる。

たぶん中尾さんの初期詩篇はそれを利用している。
ただそれで理路が乱れまくり、詩脈の面白さからは詩が到来しない。
一行の際立ちは一定比率で存在しているが、
それでは博打の的中比率を他人事の文脈で算段するにひとしい。
この自己閉塞、もしくは無責任な他人への預けが「だらしない」といえる。

彼のもつ語感というか別系統の言葉の集中合流はすごく好きなのだけど、
詩脈によって読者に語りかけない語法は成熟拒否、若さというしかない。

似た生成の詩集ということで、
当然ながら倉田比羽子さんの『世界の優しい無関心』を今度は再読する。
当該行による前行の消去、その結果の音律の残存という法則は
やはり一行が異様に長い改行詩だからあるのは当然として、
こちらでは構成力の緊密さと、
整合性から来る言葉の静謐さとに詩の本質をみて、唸ってしまう。

「母の死」は何重にもテキスト化され、
カミュ『異邦人』を自家薬籠中にしながら
「母の母の母」を指標する劫初、エンパイアステートビルからの俯瞰、
大拙哲学など「補強材料」が筋状に錯綜してきて、
その結果「詩が書かれるとはどういうことか」という真摯な自問が
いわば放射形に砕けてゆく「理路」が組織されているのだった。

「なぜ詩を書くか」はこのように詩作に内在化され残余をみない。
それを嬉しそうに語る者など、みな自己顕示欲だけの「贋の詩作者」だ。
中尾さんはそれでいうとひじょうに微妙な立場にいるとおもう。

合間に手塚敦史さんの『詩日記』『数奇な木立ち』を再読していた。
手塚さんはたぶん自分の詩想の美しさと端正さを知っていて、
それでシャッフルをかけたり、
挿入句を入れて詩脈を複雑に乱したりする。
しかもその「乱し」までが美しくなり
そういう自分に焦れているのだとおもう。

ただし植物とひかりと屋内をみる眼は澄んでいて
僕は彼にはずっと深い「同調」を感じてきた。
むろん彼の詩篇には熟考された理路=詩脈がある。

手塚さんは顔と詩が似ている。山梨的美男子だとおもう。
そういえばその顔の印象も中沢新一を小ぶりにした感じだ。

彼の新しい詩集、出ないかなあ。
その片鱗がこないだの「こあに舎」での朗読テキストにはあった。
以前の詩風よりも、さらに直截的な力を帯びている印象があった。

彼こそを若手詩作者の「抒情」の中心に置くべきだとおもう。



上の詩篇は倉田さんの詩行にインスパイアされてつくった。
若手詩作者の「映画好き」に釘を刺すものでもあるし、
最近身辺に起きた不本意な事件を詩化したものでもある。
 
 

2010年02月04日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

火事座

 
 
【火事座】


幻想行は
冬火事に瞼を縫われてゆく
いまみたものを視野の底に
帰宅後数夜を眠るはかなさが
ながれる砂金とともにあること
燃えあがるどうぶつの姿態なども
風のむこうにおもった

大火災の奥で落下をくりかえす
わたしの包帯やあなたの傷
なかに往ってしまった何かがある
酸素を猛烈にすいあげて
渦で夜空を焼くそういう場は
船火事との類推から
船とただ呼ばれたのではなかったか
つねに流体は逆に昇る

微細なものに火事をみて
わたしあるきが狂ってゆく
ぶらんきだ天体の災厄
凍てついたこの大霊には
とおく髭の星座が対している
 
 

2010年02月03日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)