ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

「現代詩手帖」稲川方人氏の発言への反論

 
「現代詩手帖」五月号の稲川方人さんの僕への発言のうち
とりわけ奇異と僕自身が感じた箇所に
稲川氏とはことなり謙虚に
具体的な反論を加えておきます。

まずは氏の発言を全文転記打ちしたのち
番号を振って、順に阿部が反論するというかたちをとります。
一応、読みやすさ確保のため
改行なり補いなりを加えましたので、ご了承ください



稲川
詩の実作の内部において構築しうるものが
世界なんだという言い方を【阿部さんは】するわけですが【1】、
そんなことは
わざわざ実際に詩を書いている人間が
言うべきではない【…】。
詩を書くものの意識としては
楽屋【2】を見せてはいけない。
つまり詩が世界を構築するものであり【3】、
その内部でそれぞれの詩人【4】がいい詩【5】を書けばいい
というのは当たりまえのこと【6】のことであって、
そんなことは言わなくてもいいことで【7】
実作【8】を見ればいいんです。
さきほど杉本さんが、
ぼくが詩に抑圧をかけていないかと言われたことにもつながりますが、
ひとつはそこですね。【9】
倫理的な発言をすることで【10】、
自分の実作、自分の一行を構築する力に圧がかかる【11】ということです。
いかに強い詩をつくるか、いかに強固な詩をつくるか【12】、
それはそれぞれの詩人が抱えている個的な問題なわけですから【13】、
ひとりひとりの問題です。
それをわざわざ言う必要はない【14】、
そんなことをぼくはひとこともいっていないわけですよ【15】。
だから【16】阿部さんの言っていることは基本的に違うと思う。
もしぼくの倫理を批判する【17】のだったら、
ぼくの詩の一行と照合して批判すべき【18】だと思います。



いやはや、転記打ちしていて、
その脱論理、対象化の曖昧さ、ごまかし、まやかし、詐術性、
文意のぬるさに辟易してしまう。

以下、順に反論。

【1】そんなふうに単純に要約される原稿を
僕が「詩手帖」の前号で書いた覚えはない。
少なくとも精神論と技術論が詩作において二重化する場所に
いま生じている危うさを伝えたはずだった。
そのとき「倫理的たれ」という上からの不要な掛け声によって
詩作状況がいかに抑圧されているかを示唆し、
詩は言語、詩脈によって言語から世界に実在性を再付与させる表現として
救済されなければならないと主張しただけだ

【2】
「楽屋」とは「手の内」「自己技法」「再帰性」
みたいな意味につかっているのだろうか。
そうであればそれは複数性をもつべきだし、
僕自身、自分の「手の内」だけを単数的に書くことは
どんな原稿の場合もありえない(当然、前号原稿でも)。
こういうものにはコクトー的に複数的な迷彩を張るべきものだ。
それと、この稲川発言は元原稿を読まなかったひとに
「阿部が手の内を見せて得々としている」と
誤解をあたえる「誘導」をおこなう(戦略的なのだ)。
さて、「楽屋」という奇異な角度をもつ言葉から
僕の評論が批判されるとはおもわなかった。
僕の評論を継続的に読むひとは
「楽屋」が僕の評論の鍵語になるとは絶対にかんがえないはずだ。

【3】
個々の詩は世界と地上的連続性をもつべきだとおもうが
詩のなかに世界そのものが現れるようにつくられるべきだ、
そのようなつよさをもつべきとまでは僕はいっていない。
というかそこに擬制される「つよさ」こそを警戒するのだ。
これも稲川の要約ミスだろう。雑駁すぎる。

【4】
前号原稿のひとつの提案は
「詩人」という呼称をつかわずにいようということだった。
そういう言葉を平気でつかってしまう無神経。
僕は無用な権威化を回避するため「詩作者」という呼称しか使わない

【5】
「いい詩」とは何だろう。僕ならこんな雑駁な言い方はしない
(そういえば「いい映画」ともいったこともない)。
この言葉を詩につかうなら、定義が必要だろう。
僕には読者への働きかけがつよく
世界認識を変えるような奥行きをもちながら
同時に一筋縄ではゆかない物質性をもつ詩が
あえていうなら「いい詩」という定義に当てはまる気がする

【6】
「あたりまえ」といわなかったのがその稲川方人自身だった。
『詩的間伐』の各所にその証拠がみられる。
また僕自身も「詩の自明性が疑義に付されている」と
今号に書いてある。
この時点で「詩人がいい詩を書くのは当たり前」と
稲川氏は宗旨替えをしたのだろうか。
繰り返すが、僕自身、そんな無内容なことを
一度もおもったことなどない

【7】
「そんなことは言わなくてもいいことで」=
気をつけよう、「言わなくてもいいこと」を
「いま」「言っている」のは稲川のほうだ。
阿部は「言わなくてもいいこと」は「いっていない」。
論理のすりかえ。生理的に気持悪いのは
それが世代的手法だったからだ。

【8】
だれの「実作」なのだろうか。
僕は前号評論で「実作」を可能な限り引用している。
そうじゃなくて阿部の「実作」というのなら
それについて言及するのは稲川のほうの責任だ。
僕は「楽屋」を語るつもりはない。
あるいは稲川の「実作」というのなら
僕は以前、「未定」に長い『聖-歌章』論を書いている。

【9】
あいまいな「受け」。
文意を前後から判断すると
「抑圧者を演じているのは自覚的で
自分は詩論と詩作双方によって他への抑圧を演じているが
その理由は阿部のいっていることと
対蹠的な位置に立つためだった」と
事後的に語りだすための変換のようだ。
「そこ」という語の場所性を
とりあえず上記「対蹠的な位置」と読んだ。

【10】
「倫理的な発言をすることで」
稲川がそのような発言をしているようにおもわれているのは
たぶん風聞の域にすぎないだろう。
実際は倫理性を過剰に課すことで
倫理そのものを空洞化させる発言しか彼はしていない。
一方で、「過度に倫理的たるな」という僕の発言は倫理的だ。
どうやらそのような二元性反転につき
稲川の思考力はとくに弱いようだ。

【11】
「自分の一行に圧をかける」
たぶんそういう詩の書き方では「いい詩」は実現されないだろう。
「圧をかけつつ」「解放する」、
そこでもそういう二元性が必要なのだ。
とうぜん現在の稲川的一行には圧があるが解放がない。

【12】
「いかに強固な詩をつくるか」
マッチョ発言。「弱い詩の功徳」をかんがえないのだろうか。
僕は今号の詩手帖原稿でその領域の意味を示唆した。

【13】
決め付け。少なくとも僕自身が
詩作においてそんな単純な立脚をしていない

【14】【15】
繰りかえしになるが「わざわざ言っている」のはここでの稲川自身。
稲川の自己再帰的視線の「質」を疑う。

【16】
なにが「だから」なのか
(どんな前論理によってどんな後論理がつづいているのか)
さっぱりわからない。
ひどく脱論理的な接続詞の使用、というほかはない。

【17】
「ぼくの倫理を批判するのだったら」は曖昧な言い方だ。
第一、語法として成立できない。
だれもひとの倫理(性)など批判できないからだ。
稲川はこう言い換えるべきだっただろう。
「ぼくの過度の倫理発言によって
多くの者の詩作に抑圧をあたえている
僕の非倫理的態度を批判するのだったら」と。
そういう稲川を僕は批判した

【18】
【8】にすでに書いた。
すでに書いたことが反復されなければならないのは
稲川自身が同語反復をしているからだ。
ただし詩論と詩作の分離はこの鼎談記事の主調音のひとつだが、
いまここでの稲川は
詩論にたいして実作の照合をおこなえ、といっている。
それにたいしていまの僕は稲川の場合、
それは面倒くさいとおもう。
それで今号では中尾さん、倉田比羽子さんに言及することで代えた。
なおここでの稲川の僕への反駁は
詩論的なものなのだろうか。
ならば稲川的論理によるならば
稲川は僕の実作との照合をおこなわなければならなくなる。

後段のほうで詩の「美的構築」に
僕(阿部)が関与している、ととれる稲川発言も出てくる。
何かびっくりする。
僕の詩に美的配慮があるのは無論だが
「美」としてだけ要約される詩など
一度も書いたことがない。
こういう誤誘導の下に戦略的悪意があるとするなら怖い。
ともかく僕の実作との照合をしてほしい、と願うのみだ
 
総じて稲川氏はコワモテを装っているが
ものすごく脆弱で自己意識のない論理、
酔っ払いの繰言のような論理を操っていることが
みてとれたとおもう。

さみしく、かなしいことだ。
現在の氏は僕がむかし知っていた彼自身とは
まるで別人のようにおもえる
 
 

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2010年04月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(5)

領地

 
 
【領地】


眼のなかの反語の反りがのぼりゆく焔のしるしを知った。
世界中の風が、藤をたらしている。
身は花なるものの鬨の響きにただ尋ねなく同意して
垂線が地面を描くこの空間のなかを終わりまでおののく。
いまが渦中なのだろう、藤のゆれさえ視えない。
 
 

2010年04月24日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

短歌演習のために【2】

 
 
薫風はそもそも人の影なれば大楡のもと数千〔すせん〕の者ら



湖〔うみ〕ごとに胸より骨をとりだして憂曲を吹く女〔をみな〕とならう。



レアチーズケーキのレア部に匙を入れ新鮮はなんと暗い奥行き



郵便夫がゆきくれに見る葉のやうにことばは咎〔とが〕を取巻いてゐたい



きみの前に佇つてゐるのは香木の匂ひ涸れたる春の棒、ぼく



うつくしい死は一盞〔いつさん〕のうま酒の底にひろがる白柔毛だらう



丘の字も丘といふには足りぬけど、この抱き合ひも遠くから丘



弁明をしながら腸〔わた〕をひもといて屑に似るべくきらきら死んだ



枇杷を乗せた掌〔て〕のおもたさを忘れない。きみのちちぶさつかむ春夜も



湯のなかにわたくしがゐて、わたくしは奇病の脂、浮きやすくして
 
 

2010年04月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

けだものであるということは

 
 
【けだものであるということは】


おれが
けだものであるということは
ながれくる音楽に
総身をはかなく服従させ
錦のおれにおりあげられた
幼獣老獣の多時間を
時間ではない
ごみのようなものに変えて
世界との不接続を
ひたすら泣くことにみちびかれる
なんとなれば音楽とは
はじまりと終わりのある
つくりあげられすぎた
生きもの以上に狡知な時間で
音楽をみたされたおれは
総身がなだらかな合成となって
合成というからには
非電導の全身がぽたぽた
慙愧にくれたりもするのだ
いずれにせよ音楽は
ろっこつをつうじ
仏性のようにとりわけ悪を撃つ
ああ、ふらふらする
音楽を聴き剛力がぬけるのは
星の明滅に加担する
他の禽獣もおなじだろうか
もともと速さと殺戮のおれは
線でできていて
感情を湧かすこころなど
あろうはずもないが
ゆいいつ自分が自分にむけ
号泣したときにのみ
胸に、ひかるわだかまりができて
それが泪の心にもなるよしで
そうなったときおれは
全身ぴかぴかにながれる毛並みを
すべてに詫びているような
川のせせらぎにすることもできる
おれは音か
だがけだものぶりと混ざったそれは
陽にかがやいてもやはり
とうてい音楽とは呼べないだろう
だからうなる、
禹、うおう




カフカの諸短篇を翻案マンガ化した
西岡兄妹の『カフカ』の恵贈を
昨日、研究室で受ける
(カフカの文は池内紀訳が使用されている)。

あとがきで兄の西岡智が書くように
もともとカフカの小説では
偶像崇拝禁止の戒律下にそだったこともあり
「オドラデク」でも「毒虫」でも
視覚イメージ化が峻厳に禁則化されている。

その禁則を引き入れての
西岡智のネーム、
妹・西岡千晶の画柄化という決断が
この『カフカ』にはつらぬかれていて、
したがって読者はマンガを読む興奮と
マンガを眼前にして禁じられる興奮を
同時に味わうという
奇異にして至福の事態にとりこまれることになる。
滅多に直面できない体験なのだ。

像=意味結像の不可能性はとうぜん
都市論的結末とユダヤ人心論、
その双方にまたがっていて射程も広い。
カフカ文学の謎にはそういう分光作用がかけられる。

それにしてもマンガという媒体は
なんとまあそのコマ割から
律動を生じてくるのだろう。
視線滞留時間をこれほど厳密に組織化できる才能など
西岡兄妹のほかにいるはずもない。

たとえばそうして
「断食芸人」に豹が出現する瞬間に息を呑む。

その「断食芸人」の主人公も視覚化されていると同時に
微妙に視覚化されていない。
あるいは「流刑地にて」の処刑機械でもそれは同様だ。

つまりだからこそマンガ諸短篇は
「カフカを生きていて」、
それゆえにストーリーの省略も解釈の枝分かれも
そのままカフカ性の増殖につながっている
――こう結論することができるだろう。

いやはや、すごいマンガだった。
僕は今期「少女マンガ講義」なので授業対象にはできないが、
さっそく僕の生徒には一読を薦めておこう。

さて、上の詩篇は西岡智さんの同書での
「あとがき」の一部からインスピレーションを得た。

彼はもともとカフカの「変身」のマンガ化は
多様な意味で不可能だとおもっていたが
食餌行為にまつわる反復と変化の演劇性として
「変身」を再構成できると確信したという。
その際に突破口になる文のくだりがあった。

そうして掲出された文を
僕の上の詩が増幅した、ということでした
 
 

2010年04月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

月尺

 
 
【月尺】


月尺で計るのは
にしんのようなものだ
身の欠き方を知るのだが
れんあいというような語に
これまでくるい狎れて
ひれをやわらかく
どれだけすり減らしたかより
思考をつうじて六腑を
どれだけ寝た海底に忘れたか
そういう放心が計られる
ひとつのいにしえだものね
尾にリボンが巻かれたかどうかも
点火して冷静にしらべる
形状が変であればたたえるので
対象は上の空のようにうかべ
測量者とのあいだでは
うつくしいほねがすけるまで
がんま線を飛ばしあう
計測は手術に似てしまう
おかげで金波銀波なみなみ
魚の旧い悲鳴をつがれ
自分もまた星流にさまよって
一定のにしん度に
なりさがってゆくだろう
ああ、ゆく泳ぎに干満が多い
詩のためにもたされた
月尺がわるいのだ
 
 

2010年04月19日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

両側を苦しめてごらん

 
 
【両側を苦しめてごらん】


両側を苦しめてごらん
火は眼のなかに果てるだろう
両目でなみだを流すために
自分に仕込まれたあらゆる半分を
ただ思いによって消しやるのだ
相手にもまっすぐ身を向けて
そこしれない風の巣を
五臓六腑に吸いあげてゆく
それこそを奮迅の動力にして
両岸がもつれるようなこの身を
ついに暗雲斜めにむかう
悪烈な一線にしようか
だがそれで区切るものもない
置かれているその場のなかでは
両目になみだをただ流すため
両側を苦しめるだけだ
 
 

2010年04月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

短歌演習のために【1】

 
 
朝雨のしづくのなかに映りゐるとほい牛車のくるま輪のあさ



撲滅だ、僕の滅するゆくたてを金字に書いて投函をした



貝類にこころの襞をみたされて栄螺すするは海死なすこと



まぼろしはひとつの円〔まる〕さ椀中のはるの蓮池ひとり飲み干す



脚のまに海溝のあるをみならを渚に呼んで海光あはれ



犬だつて振り向くときの一瞬におのれの消える不可思議を知る



巻きのなき萵苣〔ちしや〕のかなしみいつしかに魔力うしなふ魔女もあるかな



タラ芽など木の芽ばかりを口にしてつづける嘘に春の塔建つ



そぞろゆく林中にふと湯気ありて膚に目覚めるいにしへの湯女〔ゆな〕



転じゆく処世たのしき悪の生〔よ〕の白斑紫斑のわたくしだらう




立教での短歌演習がはじまった。
演習授業ではいつも受講者に課題を出すが、
僕自身もそれに競作で臨む。

ということで久方ぶりに短歌実作を自分にしいた。

まだ調子が出ないなあ。
「手捌き」の域に低回している。

とりあえずこの欄にアップしておく。
 
 

2010年04月16日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

生きていたころ

 
 
【生きていたころ】


生きていたころは
あゆみに葉擦れをもった。
牽引されるものが
影になるのたとえどおり
いちごのしろい花に
みめぐりまでをふくむ
時計円を映した。
人の生〔よ〕は何時だろう、
最初となかばとをつなぐ
十時が好きだったと
感じていた、鼓動して。
雨日には総身で泣く
わびすけを見下ろした。
自分のかわりになるもので
むかう距離がみちていた。
それを焦げながらあるいた。
はやる旗のようだった。
生きていたころは
春のさむさのなかで
人らのあそこが
ともしびともおもえて
自分のあそこをつないだ。
日々があかりになった。
季節の配下を認じていて
ひとりに多くの
なまえを呼んでみた。
身に幾つかの年齢がある、
このことが胸と胸をあわせ
雨どいにひびいていった。
いつのまにか遂なる未知と
部屋にいて、互いを反り
舟を長くだしていて
それが生きていたころの
かたちに似ていた。
そう、生きていたころは
分立にかたちがあった。
ある経過だったそれも
ぜんたいで離散というか
はやる旗のようだった。
寂しくざわめいてた。
 
 

2010年04月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

イメージは踊り場にいる

 
 
【イメージは踊り場にいる】


横たわったからだの底を
銀いろが刷〔は〕いてゆく
ただひとつの輪郭が
そうしてあやうくなって
自分が春光の壜ならば
口先から、きのうの水を
吐いているだろう

折ってうまれる草府、
おりがみの奥に
さみしい灯りが生じて
寝そべりはそれを凝らす、
聴いてもいる

相手を分身の場所に
置けなくなっておぼえた
階段中、
踊り場のしずかなこころ。
すこうし息を切らして
裏返しになったものが昇る
自他のどちらかでも
魅了はたしかに乱脈にある

昇りをしているそれが
ことさらに重力をうしなうとき
春からは、からだではなく
衣がうまれだす
いろいろの木陰を。
 
 

2010年04月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

先人

 
 
【先人】


だれの投錨と訊いた、
裏返っているぬかるみがある。
地面ぜんたいが穴なのが春、
そこには棚藤がおりるだろう。
だれの投錨と訊いた、
スミセイという澄んだ音を
テレビで聴いたのち。
日に数度、木の花は銀行になり
自身を換金してゆく。
色とりどりはそうして飛ぶ、
ひわなどのおまえを。
さらにだれの投錨と訊いた、
みみには「弱」をくっつけて
脳髄を水にながしてゆく。
いずみの遺漏をおもいながら
だれの投錨か訊き
塀のすみで放尿して
ころがる時の樽を悦ぶ。
じぶらるたるでは
着るものがこうして絵か。
依然だれの投錨かを訊くと
奥地は陶業の数かず
がけが城になっている。
かどわかしということばからも
かどがさらさら湧いて
あゆみは水路の舵取りだろう。
自分以上に影がうごいて
だれの投錨といまさら訊く、
海峡では水もとがるのだ。
日記に鳥籠を代入した
山のむすめが二重なように
おかりな演奏のなかにも
卵をあたためる傾斜がある。
いぬが二君にまみえ
あいだから渇仰だけを知って
だれの投錨か訊く。
吠えはぽつねんとしている。
いつのまにかそこに罠をつくる
先人の、点のような脳幹に
もう投網でなくなってしまった
投錨の拡がりもある。
みんな訊いてみたのだ、
ゆめ一切がまりあ信仰だとしても
顔面の剥がれがひどいので
これがだれの投錨かを
うつむいて。
 
  

2010年04月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

散る日本

 
 
女房が昼寝をしていて
何度起こしても起きないので(不吉)、
不吉ついでに近所をひとりで
半時ほど散歩した。

じつは家の四階ベランダからみえる
高校の裏側は
高校と団地の桜並木がある
さくら密生地の絶景で、
きょう実際あるいてみると、
予想どおり
息を飲んでしまった。

ひっきりなしに花びらが降っている。
大吹雪というほどだが轟音がない。
あるいは轟音の代わりに欠落が鳴っている。

道路もいちめん桜の絨毯になっているのだが、
絨毯はときに風に舞って
ふたたび中空へほぐれ
雲霞のように浮上しさえする。

雲の切れ間から日が差すと
それらがきらきらかがやくのだが、
散り敷いたさくらの花弁には
重量というものがないらしい。

だから移動が「有魂」というより
ゾッとするような「無魂」のさまをあらわして
そういうものの妖しく貪婪な動きに捉われ
世界の組成のうち、
どの層が異様に静かなのかも理解されてくる。
桜木には、一木にはみえない魔の視界もある。

花吹雪を自ら分離しつづける桜木とは
それ自体が一種のシュレッダーではないか。
風の誘因というより
自らが自らにこすれて
死の境地まで細かい紙片を
虚空に散乱させつづけるのだ。
それらはこのことに酔っている。

あの紙には原理的に何も書けない。
それ自体が「蕩尽のための蕩尽」を
すでに書いているから。



さくら散る樹のなか狂ふ刃かな



こうしてまた今週末も
さくらの瘴気を浴びてしまった。
生暖かい風のなかにいたのに
体温が下がった感覚にもなる。

家に帰ると、
いましでかしたさくら見の禁忌を受けたように、
女房がしずかに死んでいた。




ウソ
   
 

2010年04月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

築城

 
 
【築城】


工場の
入口をみておもう
うつわのなかに
うつわを容れるのは
おもいでの創造だ
れもんいえろうであっていいが
うつわは半透明にむしろ命がある
透かして何重にもなった
うつわの奥をみやれば
その奥処こそが
重複形をなす
わたしのちいさな築城だ
燭をともし
燭を視界の端にした眼も灯すと
うちにこもって放射している
そういう時間の型が
ながれつつ淀んでいるから
うつわとうつわをならべ
そこに定着のうつくしさもでる
えんとつから火を噴く工場街
きのうときょねんがとなりあって
おもいでもとぶ
過去の一瞬ではなく
過去それぞれの偏差こそ記憶なのだろう
それはだからつかめない
築城とは
滑空する鷲が空に表すかたちでもあり
孤独が一身で飛ぶなかでの
ただ一瞬の静止でもあるだろうか
ないが城、
いずれにせよ
うつわのなかは鷲が飛ぶ
それは轟々と飛ぶが
けしてみえない
 
 

2010年04月09日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

市隠

 
 
昨日の「鬱」日記(本欄では未掲載)では
多方面に心配をかけた。
今日は天候同様、気分が晴れ晴れとしている。
現金なものだ。

さて「市隠」という言葉がある。
中国起源熟語で、「市井の隠者」程度の意味。
草森紳一がよくつかった。
これが初期坪内祐三になると
「ストリートワイズ」ということになるのだろう。

むろん大学教授などは「市隠」に関係がない。
ただし民間学者という転位もちがうだろう。
どちらかというと何かあったとき
義のために決起する侠者に
僕のイメージがちかいかもしれない。

昨日の日記で「幸福」のために
「あること」「生きること」
「かんがえること」「つたえること」が
不即不離で融合している状態が必要だと書いた。

(「あること」と「生きること」は同義ではない。
実際、そのふたつが分離し、
「ありつつ」「生きられない」不幸な類型が
格差の吹き溜まり部分に悲惨にもふえている)

けれども問題は「つたえること」。
「表現すること」「促すこと」「働きかけること」
などとこれを言い換えてもよいのだが、
この他動性が現在、表現では軽視されていると感じる。
「説得できる」ひとが激減していて
表現の価値がそのかぎりで低落しているのだ。

昨日は午後から坂口安吾を読みはじめた。
安吾の小説では僕は「青鬼の褌を洗う女」が
たぶん一番好きで、
その付帯作用としてその照応域にある
坂口三千代の『クラクラ日記』も大好きということになる。

昨日は岩波文庫『白痴・桜の森の満開の下』では
「恋をしに行く」(良いタイトルだ)までを読んだが
安吾の初期小説はニューロティックな味があるものの
構成が破綻し、極度に文学的だ。
そのままでは二流にすぎない。

それが三読四読に値するのは、
発語衝動がつよく、畳み掛けの「呼吸」があって、
それが世界の多様な像を付帯せしめるからだ。
「白痴」の書き出し、貧民窟の描写で
坂口安吾はまさにそういう域に達した。

女体に魂があることの不可解。
または女体に魂がないことの魅惑。
「存在」に安吾は「ふるさと」をみて
「懐かしい」と感慨を発する。
しかも「ふるさと」とはたぶん、
「残酷の原型」みたいなもので、
文飾を受け付けないもののようなのだ。

安吾はそこで格闘する。
「恋をして行く」などは処女性の魅惑にたいし
セルフ哲学問答を激烈に展開して滑稽感すらあるが、
どういうのだろう、安吾の畳み掛ける思考の呼吸に
えもいわれぬ魅惑を感じてしまうのだった。

そういう安吾はたしかに「青い」のだが、
「働きかけ」という点ではすでに市隠の風格があって
だから安吾とたとえば石川淳との平行も
かんがえなければならなくなる。

そして安吾にはその文の魅力以上に
悪戦的思考と存在の魅力を先に感じるし、
そこから詩性をテッケツすることもできる。

女体とはなになのか。
それはなににさらされているがゆえに
「懐かしい」のだろうか。
あるいは残酷さが即「懐かしい」のだろうか。
そうして安吾の重要エッセイのひとつ
「文学のふるさと」を顧慮する必要も出てくる。

安吾から離れ当初の文脈に話を転ずると、
「働きかけ」とはある種の身体性・呼吸性を
根拠として裏打ちしなければならないとわかってくる。

そういう表現は実際は音楽などに多く、
その意味で全表現は音楽を参照すべきなのだが、
いまの音楽はブレスがキツくなるよう設計されていて、
倣って唄う者は
水槽の金魚のようにアップアップ状態になることが
多いのではないか。

たぶん速度と密度の設計に過誤があるのだ。

このとき速度と密度を
ひとつの有機的理想として表現する
時空間表現があって、それが詩だ。

(批評はかならず分断線を引くこと。
そのうえで個別性を敬意することだ。
たとえば粗雑な党派性で
中尾太一と岸田将幸をひとからげにすることなどできない。
中尾くんの畳み掛けの「呼吸」が素晴らしいのにたいし、
岸田さんの「呼吸」は人をナメたようにだらしない。
よってふたりを同列に扱うのは
詩の呼吸の軽視しか結果させない)

むろん良い詩篇はただ理解に資する
単純な表情などまとっていない。
むしろ自らの魅惑化のために「驚愕」が仕込まれ、
意味上は不敵な乱脈を発していることが多い。
けれども詩行のわたりそのものは整脈のはずなのだ。

たとえばこういう二元性が
市隠のことば、働きかけにもあるのではないだろうか
(市隠とはもちろん説諭者とは姿がちがうのだから)。

澄み渡った空の下、とりあえずは市隠の自覚をもって
そんなことをかんがえた。
記録しておく
  
 

2010年04月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雨桜

 
 
【雨桜】


セルフにあいだがあることも
ひとつの修羅だろう
ましろい開花のつめたさを
雨の無情な冷えが這う
奥座をあらいながら
冷えと冷えがあみをなし
遠目に雨中さくらは
全しずくと同じにもなる
くりかえし繰り返す百年が
身にとっての一日となる
一花と二花のあいだが
濡れで無惨につながれて
百花はさかさの盃
なにの模倣、なにの降下だ
吐くようなそのすがたに
眼をこらす、あめがつたう
あめと悲鳴がつたえあう
ただただ 冷えてゆくだろう
天と雨がつながるさくらは
もの想う下向きの紡錘
すでに毒と電気をはなって
蜜どりを遠ざけていても
雨によってためられて
奇態な雨媒花となる
腫れてふくれて
ぬれた花粉がくずおれ
生殖も片片に破損し
水の重量を支えられず
こぽこぽ決壊する花
一身しずかに洪水となり
血のない流血となる
あざだらけ
崩壊時計、さながらが
生殖のいまなのだろう
狼藉により次代を期すもの
そういうものは
ただただ地のうえに
冷えて形を失う
 
 

2010年04月05日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)