ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

お知らせ

 
 
来る水曜日、六月二日、
ボレボレ東中野での
小野さやか監督『アヒルの子』の上映で
上映後、僕は監督と壇上対談をします。

作品上映開始は18時50分から。
作品の上映時間は92分。
そのあとの壇上対談です。

『アヒルの子』は「女子」のセルフドキュメンタリーの
いろいろな側面をもつ複雑な傑作。

一見、監督=ヒロイン=小野さんが
自分のいた「問題一家」を糾弾してゆく
攻撃的ドキュメンタリーにみえるかもしれないけど
実際は、「対象を撮ること」だけで
どのように「世界肯定」が起こるのか、
その真摯な報告になっている、
現代性にみちた必見のドキュメンタリーです。

トラウマと闘う真摯な作品ながら
「やさしい」映画だということ。
そのことが作品の現代性なのです。

社会的には作品を取り巻く要素として
ユートピックな自立コミュニティ、
ヤマギシ会が出てきます。
したがって現在の思想的ユートピストも
絶対にチェックする必要のある、
奥行きのある作品です。

なお劇場パンフレットには、
作品論の長稿も書きました。
監督が感涙したという内容ですが、
壇上ではそれを「もとにした」展開をしたい。
そこからドキュメンタリーとは何?
という問題にも広げられれば。

小野さんは優秀な若手監督なので
僕をコペルニクス的転換に導くのではないかと
いまからドキドキしています。

あ、宣伝ついでにいうと
現在発売中の「キネマ旬報」には
僕が書いた吉田大八監督『パーマネント野ばら』の
作品評が掲載されていますので
こちらは書店などでぜひ覗いていただければ
 
 

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2010年05月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

笛吹ニツイテ

 
 
【笛吹ニツイテ】


恋ゴコロ多ク、自殺スル者ハ
ソノ蓮ノ花ノ国ニハイナイ。
朝ハ 花トトモニ音モヒラクカラ
時ト空ニハ遠イ階梯ガデキテ
カツテ桃ダッタ恋ゴコロナドモ
遥カナオクガニ坐リ並ンデ
日ニ滲ミユク血トシテ
タダ先ヲ眺望スルモノトナロウ。
階段ヲミンナデ占メルコト。
ミンナノ果実的ナ在処、トオクノクニ。
部分ヲ保証サレタ群体デイテ
コレガ回ルセカイニ触レル尖トナルカラ
ミンナモ恋ノ抽象デハナク
恋ノ一員トシテ風ダケヲ運営スル。
愛シナガラモ神ニカヨウ階梯トナル、
ソノ身ノ隙間ヲモッテ。
 
 

2010年05月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

短歌演習のために【6】

 
 
をちこちにはちすの花のひらく国。その「をちこち」が幸のあらはれ。



まひるまに眠たいきみは池蓮をうごかす亀とはつか向きあふ



涸れ声にやはらかさありその隙をことばの肉の在処と聴いて



眼疾のきざしは葉裏ただよへる光のかけらうつくしきかも



廃団地がなどふさふかは問はぬまま敗軍の霊、君かくあゆむ



写真行為が欲の現像でなくなつたことに激して曇天を撮つた



階段の踊り場だけでできてゐる浄土などなし、久我山住宅



弁天の悋気あらたか離れあるくふたりの隔てに木漏れ日を投ぐ



あるいはまた茶店の露台、眼前のわかめうどんも木漏れ日のなか



しをれゆくあやめ群れ立つそのしじま名をもたぬゆゑ廃絶地らしき



細魚〔さより〕毟る宴しろきかなこれもまた細さ嘉〔よみ〕する一上水行



吉祥寺にたぶん吉祥あるだらう魚と星があればさうなる



蓮の葉に圧されてゐたのか海藻を食〔を〕してばかりのその日も大悲



翻意とは足許の羽根みだれるを自己狼藉となげいた末の。



押し倒す夢きらめけば野天駐車場ただに君へ逆〔さか〕さす



触知とは君の場合はこの掌〔て〕への星嵐暴圧、細密にして。



君に貸す黒ジャケットが罪障のやうに当夜の逢瀬を締めた



別れの日シミュレイトする唇〔くち〕じたい上下に別れ闇を隠して。



ヴァリエーションと何度言つたか本当は愛の選択肢のことだつた



卑劣さに裏打ちされた弱さなど。井の頭線不意に紫陽花へ入る
 
 

2010年05月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

作品の与件

 
 
今期の立教で
小説(坂口安吾)、少女マンガ、短歌を研究対象に扱い、
自分では詩作もつづけ、
あるいは三村京子さんの
新アルバムの完成過程も眼近にし、
このところ「作品の与件」(どういうものが作品か)を
多元的にかんがえるようになってきた。

いずれは評論家として構造批評すべき案件なのかもしれないが、
とりあえずいまおもっていることを
フラッシュアイデア的にちりばめておこう
(まあ一種の備忘録です)



1)作品は作者の身体、あるいは実在性を
その基盤にせざるをえない。
だからそこにはどんなに少量でも血液分泌がある

2)その作品がある表現ジャンルに内包されているとすると
一旦はそのジャンル法則に親和的だが
同時にその法則は更新されなければならない。
そうした作品の更新(尖端)部分がとりわけ受容される。

3)作品はその進行原理を内在的に見出すことから
作品として「ただ」発現されてゆく。
ということは作品とは、
いつまでも経緯や過程や渦中であって
たとえそれが結論をもったとしてもその重要度は低い。
そしてこの「経緯中心主義」こそが
作品再見を促すものの実質というべきだ。

4)その経緯に伏在する進行原理にこそ
作者の個性のすべてが横たわっている。
とうぜんその個性は有機的であって、
だからその細部は隣接連続性をももつ。
このとき世界にたいするのと同様の敬意が
作品にも巻き起こる
(世界も隣接連続性なのだ)。
じつは細部の隣接連続性は
進行原理そのものとは区別が不能だ
(小説における「描写」を転位できるものが
各ジャンルの表現にもあるということ)

5)作品は意味論に還元されない暗部をかならずもつ。
この暗部の正体は、じつは作者の精神的内実や実人生が
作品表面から把握できないという事実とは関連がない。
暗部とは、作品がどこかで
無償性にひらかれた贈与である点からまず出来する。
つまり作品内在的な原理とはちがう(贈与の)層が作品にあって
それが還元不能を導くのだが、
その還元不能性は受け手には快感に似たものにすりかわる。

6)作品の意味論に還元されないもうひとつの暗部とは
音素に代表される聴覚的なものだろう。
それは分節化されない身体にも似ていて、
これは視覚性のつよいマンガなどにおいても
メタレベルからの嵌入要素として分離できるものだ
(ただし脱分節性として)。

7)上記1~6の水準において作品は「生きている」。
作者の手許で生まれながら
その外部においても生きうるような生命論的「芯」があって
その芯の本質は偶成的であると同時に
作者との因縁が切断的にすらもなりうる。
現在は作品のメタレベルの算定が
「作者の事情」に偏奇しすぎているように感じるが
それは作品を経済原則がつよく取り巻いているからだ。

8)作品たるべき領域に経済原則が取り巻きすぎ、
有機性、中途性、身体性、音素などを失い、
単純に感触や意味(メッセージ)などのみに還元され、
その内実よりも「消費せよ」という命法が
先行するようになったもの----それが商品だ。

9)今後の文学的アカデミズムに採るべき道はふたつある。
9-a)ひとつが商品分析(実学)。
9-b)もうひとつが作品分析から実作への道(虚学)。
これらは同時並立的であってむろんいいのだが、
もともと商品が作品状態をふくむ系統発生をたどる点は
忘れられてはならないだろう。
アカデミズムの二面性とは
9-bのほうが長期スパンでは実学的だという逆転を
ふくんでいるということだ

10)作品では「全体」が擬制されるが
それは決して「部分」の総和から導き出されるものではない。
部分をいくら足しこんでも全体にならない磁場こそを
作品というべきで、
それは部分に調和があるため
部分の潜在的加算が作品の総量を越えるがゆえでもある。
この事実によって
作品は再見に値し、時々に再確認され、
しかも印象がぶれるものになる。
作品はだから一回的に高速で消費され、
その消費量を他人に誇るものとはなりえない。

11)上記、部分の潜在的加算にあたるものは
ある範疇の語彙でまとめることができる。
コード、ハーモニー、隠喩、合奏形といったものがそれだ。
そこには理論があるようにみえて
理論を越える独自性がかならず痕跡となってもいる。

12)繰り返すが、作品は「私」の位置から出現しながら
「世界」と織り交ざることで「非私」を結果する。
その際、「世界」から汲み上げられるべきは
「世界の感情」ではないのか。
いずれにせよ「私--非私」の反転、
その刻々の痕跡が、作品のもつ経緯で、
だからそれは物質的実体としてある。
その物質性ゆえに唯物論的なアプローチも
作品解析に約束される。
むろんこのアプローチは商品論におけるそれと
立脚を異にしなければならない。
ではどんなアプローチであるべきか。
これこそを「詩的アプローチ」というべきではないか。



まあ、こんな感じかな。

最も深い考究が必要なのは
「贈与」に関わる問題だろう。
これは中沢新一的な言い方をすれば
「非対称的世界」の内部でやりとりされる
コミュニケーションで、
そういう世界像の定位が
現在、危機に瀕している「作品」を救出するものとなる。

この場合、「作者」は以下のどちらかにならなければならない。
そう、「神」か「動物」のどちらかに

もうひとつ、「贈与」の本質が
ポトラッチではないが「非終結的」であるという点にも
顧慮がなされなければならない。
ここからいわゆる「芸術家の人生」の問題も出来するだろう
 
 

2010年05月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

湯浴みの唄

 
 
【湯浴みの唄】


ものすごい湯気だ、だが天井は
天体や穹のようにあって
からだはいわれぬものに吊られている。
サスペンダーズボンを履いた気分だ、
脂粉まみれの道化のよう。
湯船には自転車が泛び
廃棄されるものの経緯をつたえる。
髪を瀧となすよう湯を浴びに浴びて
脂やシラクサの記憶を洗いおとすとき
だれにも似ないものにまで身が構築されてゆく。
消えてなくなるためのこの再帰的動作は
自殺の演習なのだが、自転車を抱き
湯にからだを伸ばすかまえなら
死すべきからだから死ぬ個性も消える。
草湯。草のなかに身をひそめ熱い哀しい。
幼年になっている、全身が泣く、
浴身とはあらゆる意味で中途だろう。
その中途に名前のないことを
さらに湯浴みは朝ごとにあらう。
来光、湯にいなくなってゆく。
 
 


三村京子唄へる
杉本真維子作詞
「くつをとばせ」への
アンサーソング。
 
 

2010年05月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

静動物

 
 
【静動物】


へんな夜中に起きていて
むらさきの珈琲など淹れていると
家のなかに秘密の通路がふえる
子どもの想像は死体になにが加われば
からだの性の踊りになるか
それを情の行方に知っているのだけど
そういう算式がキーボードのうえに
ほほえみながらふえてゆく
あのころをあらしめる脳髄も
偉大とはいえ身に添えば卑小で
それは無内容が典雅な規則にすぎない
一個のからだは幼年を巻けずに匂う
「かおが激情で変化したことはない」が
朝が忍びこむことのない台所に佇って
スープ味の珈琲を退屈にのんだ
煮られたおれの骨のうまさを
ふたつの意味のぜんまいと感じて
舌はおとといの字が砕けるにまかせた
いくども指摘された球根が
内面のがらす質、その一部だったとして
「水槽のようには生けてゆけない」が
こうして夜中を歩いているのはなぜだろう
辞書内の微風になる、シンクのほとり
夢想の百合根鍋も噴きこぼれている
 
 

2010年05月24日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

寝返りのきらめき

 
 
【寝返りのきらめき】


眠りにある茶色い部分を
まぶたで閉じて
その者は渇いてねむる
そのように眼のあたりが
並航する陰唇となって
どんな誘惑が夢見られるのか
疲れから引き出されたもろもろは
風媒のなごりをつたえるだろう
いずれにせよ就寝は
天幕中の出来事となり
けだものをあまた泳がす
脚が四本となるような眠りだから
それに触れるこちらも
あまやかな眠気に誘われてゆく
閉じた域にある天国は
なかにある交錯によって保証され
この距離もまた組み入れられてゆく
同ジ味ニ舌ヲ痺レサスンダ、
全身では藤房のように眠る人
起きないことが栄耀である姫は
感情の釘を金色にとどめ
それを蓮のように裏敷いている
ある角度からそれが光る
この寝返りが雲母だ
妊娠シテイルカモシレナイ、




プルースト「アルベルチーヌの眠り」風、
あるいは鷲巣繁男のように。

けれど本当はこの眠りのテーマは
演習のために再読していた
坂口三千代『クラクラ日記』から導かれた。

安吾によって「青鬼の褌の女」のヒロインに転写された
「退屈」「ぼんやり」「受動の叡智」、
その正体を三千代自身が告げる箇所がじつは同書にある。
ちくま文庫版でいうなら319頁。



私は一時期、ひどく動物的になってしまって、
条件反射というか、
彼の体にさわるだけで
無性に眠くなるという習性がついた。
この不思議な現象には悩まされた。
どんなにいぶかしく思ったことだろう。



この何気ない一連に表れた、
安吾と三千代の関係の崇高さが伝わるだろうか。



昨日は小田島等さんが神保町「路地と人」で開いた個展、
その初日に三村京子と出かけた。
晶文社編集・倉田晃宏さんとその場で鉢合わせ、
結局、倉田さんのご馳走になった。

小田島さんのデザイン集成豪華本『ANONYMOUS POP』では
拙著『僕はこんな日常や感情でできています』表紙と
三村さんの名盤『東京では少女歌手なんて』が
見開きに並んでいて面映かった。

「路地と人」に行く前、大通り裏に林立しはじめた
古本屋をひやかしていると思わぬ収穫があった。
中本道代さんのもので唯一、未所有だった
『四月の第一日曜日』がそれ。

早速、帰宅中&帰宅後に読む。
「夏至の娘」などという衝撃的な詩篇が入っている。
《私は性病です》というフレーズ
(むろん文字どおりの意味ではない)が
あったりするのだ。

そういえば大通りでは帰宅途中の郡淳一郎夫人にも会った。
昨日は偶然の邂逅が多かったなあ
 
 

2010年05月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

短歌演習のために【5】

 
 
きみの胸乳〔むなぢ〕は西洋の絵とならなくてならざる其処を狐があそぶ



髪撫でて見ろ生〔あ〕れだした夜の川は未来のごときを溺れせしめた。



ふれてみる身のやはらかさ魂のくぐもる今日のきみ曇りぞら



ユーフラテス、と、呪文をいひて帯とけば添ふチグリスにぼくもなるまま



同衾し天井みあぐあれは何あれらはいつに死にたる砂漠



蜜ながる陰〔ほと〕のかなしみ、花に往き花に還るをわれとふな、ゆめ。



一斉にがらす砕けるカデンツァを終はらないとふ曲終に聴く



別姓のふたり寄り添ふそのゆふべ世界は二重のひかりにみちて



同姓の数人〔すにん〕寄り添ふそのあした世界は一重〔ひとへ〕にひかりしづめる



減給に似た愛だつた、ときめいてコップの水を一日〔ひとひ〕見てゐた



愛撫され起きゆくきみは腐葉土にしてひらきゆく眸〔まみ〕の朝かぜ



おきぬけのことばのはじめけだもののうめきをもらすきみの深遠



抹香鯨の匂ひ描かむとうなばらのごとき画帖をひらく。(性愛、)



酔ふほどに身はゆふぐれの苫〔とま〕に似て酸き藁などを胃中に収む



ほどけきつた二本の紐としてわれら宇宙大の流星を演じた
 
 

2010年05月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

遠近

 
 
【遠近】


きのうの場所のために
憶えには遠近が要るだろう
雨の縁台に腰かけ
朝をみていると
おぼつかなさは父母未生の
巣のかたちをしていて
おきぬけ一時間に
食べるパンにも
追想がとらわれてゆく
いろのない虹に
おぼれる虫じしんの色だ
おもうにつけたしあわせも
たべる所作のゆびをすぎ
かなでるゆびの突端となるから
共鳴機をわきにつけて
ひびきをおもっているひとの
からだも想像を突き破ってくる
与えのからだはいつもそう
色身のあらわれはけれど
二次的なすがたがうつくしい
だから先に演奏するのだ
このひとりをみんなとして
雨の朝は屋根にいよう
ひと、ひと、ひと (雨粒
いろがぼろとなって、なびく
ひとが城、とは本当かもしれない
いっそ季節でもあるだろう
数人寄ればそれは夢殿で
こころのなかをみせあうと
どこでもないそこに万華鏡の
中身も映る(消えるため)
そういう橋に昨日の
奥床しいが色として、くる
それはちいさいが
屋根のうえで待つ者には
遅れこそよい便りなのだろう
からだのようなものは
いつもとおくに
みちている




西中行久調。
その土台に、
さっき廿楽さんの日記に書き込んだことを
反転して上乗せさせ、
同時に三村京子の新アルバムの歌詞を
べつの連関でちりばめた。
わかるひとには、この想像の型がわかるだろう。



昨日は瀬々敬久の十月公開の新作、
『HEAVEN'S STORY』の試写を
アテネフランセでみる。

四時間四十分の大作。
ひかり市母子殺人事件をアレンジした
被害者家族の救済問題を中心に
獄内者との結婚、警官汚職、炭坑廃墟、風景疎外など
現代的問題がひしめき、
そこで人物が多様につながってくる。

そのひしめき、つながりこそをHEAVENと見立てる
つよい認識の作品だった。
次のベストテン期にはかならず話題になるだろう。

さて、自分が消滅しても
世界が自分のあずかり知らぬかたちで存続すること、
それは「恐怖」だろうか。
作品は一旦、そう捉える。
ところが大島弓子の『四月物語』ではないが
それは本当は「なんとなくあま~い感じ」なのではないか。
HEAVENは二次的にはそういう遠さの空間ともなるだろう。

一緒にみたひととは鑑賞後、
瀬々のメッセージのベタさが話題になった。

「これから生まれるひとたちにも僕を憶えていてほしい」

「家族を殺された者はしあわせになってはいけない」

こういう「設問性」をはらむ詩的揚言は
瀬々映画のひとつの特質だが
それが普遍性をもって波及するためには
瀬々がしたベタさの選択はまちがいがない、
という結論ともなった。

もうひとつ、本当の出来事はやはり運命論的基準から出来する。
それに翻弄されるだけでは二次行動は実際は行動ではない。
それにたいする実存的な選択によってのみ
行動は行動になる、という隠れたメッセージもあるようにおもった。
これはじつは『感染列島』から継承されているテーマだ。

山崎ハコがいい。とくにうつくしい忍成修吾ととりあわされる
山崎ハコの身体の、物質的奥行きがいい。
最初、その女優がだれだかわからなかった。
結城美栄子かなあとおもうと若すぎるし
顔の造作、そのディテールも微妙に異なる。
エンドクレジットで山崎ハコとわかった。びっくりした。
僕の知っている往年の彼女とはぜんぜんちがう顔だった。

エンディング曲は瀬々作詞で
作品の音楽も手がけている安川午朗の作曲。
瀬々の作詞は彼の詩人気質の表れなのだが、
作品世界を鳥瞰的に説明しすぎた感があった。
つまり歌詞特有の昇華がいまだしの感じなのだった。
だがそのこと自体が胸を打つから不思議だ
 
 

2010年05月20日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

山鳥の一致

 
 
【山鳥の一致】


こちらの鶫、藪の秘密にある。
おくつきのかるら、一時の火を飛ぶ。
渓への山藤のむげんの落下を掠めながら
蜜につづく蜜になる。そのゆっくり。
いくつかの山鳥はこうして一致し
魔方陣型のサークル、
かんじた者の脳髄に、暦をつくります。
くちばしでできた時間、
眼にどうしようもなく打たれた点もあって
トリはトラをふくんでおのれを拡がる。
咆哮を鳴りと捉える趣味がどうかしてます。
羽毛を天の箸に曳かれ
食べられながら翔ぶもの、そのひかる腸。
一瞬を破壊し次瞬に現れなおす空とぶランドセル。
さされた物差しやリコーダーかずかず、
ヤハリ過去ダロウカ。 (キモチワルイ、
のどが炎えるみんなのそこで
同一の保証などなく
眼中の山鳥は一致する。
 
 

2010年05月16日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ネット詩誌「四囲」アップ

 
 
お待たせしました。
さきほど「四囲」を、
廿楽順治編集長が公開してくれました。

掲載先:改行屋・廿楽商店〈この世〉支店

http://tsuzura.com/konoyo/

参加面子は
阿部嘉昭、近藤弘文、高塚謙太郎、廿楽順治。

廿楽さん渾身のレイアウト、
縦長の頁設計がイカしてます。

阿部は「二角獣のうらさみしい春」という
詩篇を書きました。
でもいまはもう夏だね。

これで「ネット詩」に一風を起こせるかなあ

まあ、ご覧になっていただければ
 
 

2010年05月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

短歌演習のために【4】

 
 
終末が恋ではなくて、便意あるS字結腸なことのうれしさ



ひつくりかへしてもあなたはみづうみと沼のやうに似てる、(初夏だな



デパ地下のケーキに視線をうばはれて眼ダマふたつがケーキぢやないか



「空の階段つて虹の隠喩ですか」「わからない、でも雲でもないな」



五月生まれは出自に光をふくんでる。眼をつむつては光をみてゐる。



禄でもないから七面倒をひきうけて七面鳥の荘厳、わたし。



天国のとびらを千回ノックされ吐息をみだす君のぜんたい



脳みその容量といはれ泣く者の何といふ涙の容量だつたか



死にかはり生まれかはれるゆくたてもふたつのからだのあひの音楽



着メロを胡桃割り人形にして以来きみのしらせも金槌めいて





おなじみ、自ら開く短歌実作演習のための参戦作。
上、十首をつくるまえに
斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』から
秀歌選プリントをつくっていて
それでおもいっきり、
からだが口語モードになってしまっていた。

じつはこれまでの参戦作品は
口語と文語、ぎりぎりの中間/混淆をねらっていたのだけど、ね。

ま、いいか♪

しかし口語短歌へのスタンスをはっきりさせんとなあ。。。
 
 

2010年05月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

恋唄

 
 
【恋唄】


和風のむすめは草で織った袴すがたで
あさつゆの映りを地に散らしてゆくという。
いないことがいること、それが揺れとなって
歓喜仏とともにあるく感覚もある。
とりなす性ならたったひとつ、養性で
だきにのように憤るときからだをひらく。
懲罰ト 与エノ 近接。
軸物をまるめ、たたむみずからのうごきに
相手までくみいれて薬効の春が駘蕩する。
ナカニアル綿ノ鄙デハ息モデキナイ。
ふたり交わったあとも獣道の渚になっているから
むすめはあらかじめ過去に水明かりしている。
 
 

2010年05月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

暑くって食欲がなかった

 
 
【暑くって食欲がなかった】


いちれつに朧化して
舎利ががんらいの骨になる
食べられないな、これじゃあ
つり橋というものの王権
食餌のあぐらがぐらぐらする
ひかりも堂に入ってきて
ちまたあまたで千本だ
いかだとして組まれてゆく
この夏この日
逆さの映像をふやせ
ひのまるには色をぬらず
きのう知ったジュンサイで
柳の底をみるから
椀物が雁なのか哀しい
配列終了をお便りします
身のバカを同封します
たぶんもう眼列がとおい
読むことがひんがらめなら
食うことはのみど外し
梁を巻き落とす胸もあるのだ
それで内側を泣いてゆく
フォーキーデイズの
停泊を漬ける
こころが茄子になって
女の内を泣いてゆく
わかれは岸だ
うきくさをとどめない」
食べ終わる
 
 

2010年05月09日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

短歌演習のために【3】

 
 
睡るため左手を繃〔ま〕き左手が右手の他者であることを寝る



忽然と絹の印象たちこめて昼間つけさしの電球ひとつ



驢馬性が耳より出でてゆくゆふべぼろ服を着た一裸を愛す



帝と聞き天をみあげた中心は羽毛とてない青い擾乱〔ぜうらん〕



月極〔つきぎめ〕を月極〔げつきよく〕と読み空白に光の注ぐ府中市をゆく



風成〔ふうせい〕のひとつ私の溜息が層あるものに風韻のこす



痘痕のやうな天花があるだらうすべてがまもるまぢかの肌に



春に張る秋には飽きと逆らはず生きて馬齢の廃馬さみしゑ



茉莉花茶を十時に飲んでうはべりに天金あるを書見のよすがに



菖蒲〔あやめ〕見る傘の真下はあやめとは縁をもてない一帯の虚無
 
 

2010年05月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

今度のアルバム

 
 
【今度のアルバム】


水の張っているそこは
むげんに草の漬物がたおれていて
ざせつも、乳酸だらけだ
つめたくとおい音液に
ひたされてかさなった草では
にがさがすっぱさに変わっている
しかも音楽のそれは
いっぽんの喘ぎではなく
ゆれる交響で聴かれるだろう
総体がすでに拷問なのだ
水のすいへいを
バイオリンの弓うごく
草であることはくるしい
昼間の昼、田というべきものも
青い白のように悲鳴している
たがいをごうもんされつつ
天をぜんたいにうつして
 
 

2010年05月04日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

新羅

 
 
【新羅】


しんらになると
もうそれ以上服が脱げず
しかも臓器も
性器しかみえない状態なので
中途半端ではずかしい
それはすごく寓話的なので
他人のしんらと差し違え
その相手を懐かしいと泣いてみたり
ふたりまるごと
鏡中にしんらをふやして
半島が乱立したと
きみょうな悦に入ったりする
こうした中間の国には
きいろい花が咲いている
それも午後だろう
しんらは抱きあってもしんらなので
別物になるには挿入しかないが
後背位はひかりの注入だから
しんらは統治のようにただぼけるだけだ
からだにあたらしさなんてない
ふるさだけが風になっている
それがあんあんうなる
完全な二本の棒になって
つばを失い、かわくまで
しんらは東洋を暗闇がおそうのを
べつべつのこころのなかで
ひくく唄いながら待つ
とりわけ肩がひえ
そこに星が映る
映りが移って
しんらの空間は
自分たち以上にひろい
自分寇だ
 
 

2010年05月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)