泉
【泉】
しまわれていたものが
おもてへとあふれるのなら
めのまえのいずみも
ほほえんでいるのだけど
そのあふれにぼくはたたずんで
しばしかんがえるべきだとおもう
このよのふえはかずかぎりなく
みのうちをしらべでみたし
みのそとをとおくふるく
みしったものにそめかえるけれど
おなじというのはなにかおそろしく
にげだすことがぼくをつくって
おおむねはかたちのへんなものが
さったあとのこころにもある
そのこころをいずみにひたすため
ふたたびおとずれてしゃがむと
あしもとがきらきらとかがやいて
まとめられないそのみずからは
わずかのまのにじだとおもう
きえはしないにじむだけだ
お報せいくつか
まずは拙稿が掲載されている
「ユリイカ」最新号ができあがりました。
直近のディケイド(ゼロ年代)の分析をつうじて
表現各分野での「2010年代の行方」を占う
(つまりは「10年代カルチャーマップ」的)特集で
むかしならこれは「増刊」対応だったとおもいます。
僕は渡邊大輔さんとともに「映画」の担当で、
ネット時代になって日本映画の受容がどう変容したのかを
簡単に分析したあと、
より分岐的になるネットコミュニケーションでは
「フェイク・ドキュメンタリー」美学が重宝されるだろうとして
幾つかの着目すべき映画について
串刺し的に考察をしました
(このごろはこのような串刺し的評論ばかりを依頼される)。
特集での「マップ」分野は全表現にわたっていて
マイミクでは「詩」について
佐藤雄一さんがチラ見したかぎりでは
口語体ながら重厚な原稿を書いているようです。
メインは僕が10年代の日本表現の先頭を切るだろうと目している
川上未映子のインタビューと、
東浩紀や福嶋亮大などが加わった座談会収録でしょう。
いずれにせよ、この年齢で
いまだに表現の最先端を語るべき人材と目されているのは嬉しい。
●
思潮社のイベント出演が決定しました。
詳細を、マイミク白井明大さんの日記から以下にペーストします。
○
詩の小径をたずねて~辻征夫から2010年代の詩まで~
●9/18土、19日、20月祝
1部 14:00-16:00 2部 16:30-18:30 (以降、懇親会あり)
葉月ホールハウス(JR西荻窪20分 善福寺公園前)
[18日]
1部「『コルカタ』をめぐって」
出演=小池昌代、松下育男
2部「初心者のための詩の書き方」
出演=松下育男、廿楽順治
[19日]
1部「詩の女子トーク――詩をとどける、詩をひろめる」
出演=新井豊美、北爪満喜、杉本真維子、三角みづ紀 ほか
2部「辻征夫の肖像」
出演=井川博年、辻憲、久谷雉
[20日]
1部「『明示と暗示』『露光』「語調のために」をめぐって」
出演=廿楽順治、杉本真維子、白井明大、藤原安紀子、阿部嘉昭
2部「詩の小径をたずねて」
出演=江代充、高貝弘也、貞久秀紀
料金=2,000円(+1drink)通し券割引あり
問合・申込=0120‐829‐198(同廊)
詳細はhttp://hazukihh.exblog.jp/
主催:musa-ogi poiet 協力:思潮社
○
稲川・瀬尾両氏の、詩を閉塞させるマッチョな咆哮にたいし
本質的な詩へのゆり戻しを考えようという
自省的で静かな好企画だとおもいます。
むろん僕が最近、ミクシィに書いていた詩論的主張とも合致するし、
出演者も、尊敬する先達だったり
仲の良い詩作者ばかりだったりします。
僕が登場するのは三日目だけですが、
興味深い内容なので
全日、イベントには赴こうとおもっています。
みなさんもぜひ。
僕の出席イベントについては
白井明大さんの音頭で
次の木曜日、打ち合わせがあります。
廿楽さん、白井さん、僕がすでに出席表明済み。
杉本さん、藤原さんは打診中だそうです。
これも愉しみ。
●
岩波の『日本映画は生きている』シリーズの第七巻
(ドキュメンタリー考察の巻)用に、
昨日・一昨日は
「ドキュとしてのAV」という長稿にかかりきりでした。
なんと400字詰で90枚超の分量になりましたが無事完成。
これも後半の「企画もの」を論じる流れのなかで
僕流の「串刺し型評論」が開花しているとおもいます。
内容も画期的になったのではないか。
じつはそのために松江哲明監督から
V&R系のAVソフトの資料提供を受けていて、
そのどれもがAVドキュメンタリズムを考察する際の必須材料でした。
なので全面的に提供を受けた資料を活用してしまい、
つまりは評論の一部は松江くんと僕の「共作」みたいなものです。
前半は「美少女単体」についての考察。
僕の往年の『AV原論』は詩的記述でしたが、
ここでは硬派な評論文体で、
『AV原論』で考察したことをさらに哲学的に延長しています。
この「ドキュとしてのAV」が
最近に書いたなかでは、最もラディカルな評論かもしれない。
今秋にはその第七巻が刊行されるとおもいます。
なお、『日本映画は生きている』第一巻
(すでに第一回刊行分として書店で売られています)では
多くのひとが綿密な評論対象にしなかった
ゼロ年代の東宝配給ヒット映画について
僕はこれまた串刺し考察しています。
僕が『セカチュー』や『三丁目の夕日』をどう書いたのか。
興味のあるかたはぜひ書店でチラ見してください。
串刺し評論とは星座づくりみたいなものです。
つまり、ベンヤミンのいう「アレゴリー」に似ていて、
僕はその評論形式が好きだったりもするのです
内外の話題
【内外の話題】
みずからの内側というものが
その外側でつくられているとかんじるとき
まひるまに奇異があるかれているのだろうか。
ひかりがはいってきたり風がはいってきたりして
膚が疲れによってさとくもなっているのだが
ほんとうのありうべき世界なら感覚は
自分の内側と外側の綜合であるのに
綜合値が二にならず一・五にとどまる不如意があって
からだのなかの半分に重複が生じて
そこにほのおすらもえていないということにもなる。
燦然としいられたこの沈黙はどうでもよく
景色のなかを移るだけではおおむねのこころもつぶれなど起こさないが
とりわけひとと歩いていて以上のようにかんじればこのくもりに反し
そのひとはすこしまえのひたすらかがやく麦生のようだ。
かんじられないことがうつくしいまなざし
あいての横顔によるのかわたしの眼鏡によるのか
わたしの内側は外側としてしずかにふえてゆき前方には日がある。
庭
【庭】
いくつかの木下闇とよばれる場所に
その木下闇じたいがすわるためというように
いくつかの椅子がたがいにとおくならべられていて
それらがみな架空のくろいひとかげを乗せそのない眼で
障子のあけはなたれたこちら夏の居間を覗いていて
おまけに木漏れ日のほうはむしろ居間のなかにおよんでいたので
部屋のなかで冊子をもってちいさくあるく自分の連続性を疑いながら
気配というものを幼年時そのように学び、眼は外へと凝らされたのだが
闇にしずむいくつかの椅子にすわるべきものはたとえば
空蝉のように事後のやるせないやさしさまでも帯びて
みつめる場所からいつも視線が返るという予感の法則に
なにか些細な不可逆性をつけくわえたようだった
一瞬前は一瞬後とちがうがこのあいだにも的中にあたるものがなく
眼はそうしてなにかのことばを読もうとくわだてながら
眼が息を呑むという言い回しが矛盾とおぼえても
気配が物神となって椅子から一斉にたちあがる破局を待っていると
ゆうがたゆえに凪いでいた空間がとつぜん風を起こし
暑さにうるむ漠然とした眼前を無慈悲にも斬って洞窟状を生み
庭のいちばん端にあるさるすべりからうすべにの花弁をこまかく流して
ようやくわたしの犬も流れに乗るように別の端から庭中央に踊りでて
その音楽の到来で幼年に現れるべき真の物神までの秒読みが消されてしまい
落下してくるものはすべからく秒速五センチであるべきという仮説すら
夕光とさるすべりの相乗のうつくしさから夢幻のように炎やしてしまったが
犬は静寂をやぶったみずからの狼藉に焼け焦げるわけでもなく椅子もただ溶け
むしろわたしは仮説というものが王に似て秒速形態ということまではわかり
そういう発見をした自分の眼だけをたしかにおもってまるで不思議にかんじた
鹿島灘
【鹿島灘】
ピアノ曲の発祥のように
はじまりのほとんどは家族なので
堤防にとおくすわるあなたの中身にも
樹木がくらく生い茂るだろうが
あなたの葉の数は鍵盤よりすくなくて
だから夕風にゆれているのも葉ではなく
枝だったり幹だったりして
あることとかたちがそこにくらくひとしい
ゆれの起点をふやそうとして風景が
時間の層となってぼんやりと加担するとき
川らしきながれがうまれつつある
あなたの向こうの海沿いにも
地球形のおおきな湾曲があって
千単位の街灯が弧だけをえがきながら
情にならない情を点在の鎖にともし
それであるものとないものの区別を消し
さらには抹消的な海鳴りまでかすめるから
空もまたようやく星の発生を気配する
これに気づくとにじむもののあたたかさなのか
あなたの家族らしきものすら
背後にはふかくふえているのがみえたが
それは家族ではないだろうたんに星群で
このときのあなたの手前という位置も
ふるい瓦斯の揮発前をおもわせて不意にかなしい
総状花序
【総状花序】
※掲出題の二十行詩篇を載せていましたが
ネット詩誌「四囲」第二号転載に向け
重複をきらい削除しました。
「四囲」第二号のネットアップについては
成り次第、またお報せいたします
wave
【wave】
夏の朝は
いっさいの事前
遊女のようにくらい
にこごって
空がまだ分離していないので
とおりぬける各門が
垢のかなしさから
こきざみなふるえをもつ
あるくのは
草から連打されたわたしだが
発砲音もなく
おびただしい減速が生じている
ゆっくりしたものを見すぎるから
えがくおもかげとともに
もう朝が眠いのだろう
恋情のつねだが勝手なことだ
いくつかの点在もたのしむ
視線であることの仕方
うちあげられた魚になれば
浜のようなものがあって
その境界に執する
死ぬに似た境界かもしれない
横たわるようにあるいて
身をいみなく尽くすだろう
とおることは関節できしみながら
後ろ足が前足にいなまれる
そうして順序をぼろぼろにして
あいされないを愛す
この創痍は家へもどし
ようやく仕事にうつるが
むろん
自分の波には別れをつげる
死愛ガンダーラ
【死愛ガンダーラ】
はやく早く、と声がして
たしかに画面からは
蝉の声がみだれている
再見したAVが
変に立体的なのは
夏の取っ手が体位ごとに
波の形状であふれるからだと知った
(ドアノブ画像だった)
サンドストームが漏斗されて
そこに融即もべつにみるか
ころもがながれてゆく映画にくらべ
この死愛ガンダーラには
昆虫の居どころがある
まるで白桃を接合することが
白桃をもたせることだというように
たんじゅんな取り合わせで
たんじゅんな採光がなされる
からだの織りなす瞬時の三角形を
おどろきだとかんじる愉しみ
(ドアノブ画像だった)
蝉の声が銀いろに積みかさなって
からだのころもが
流涕のかたちにはがれてくる
円錐のようなひとの息
視がマンダラ蔓延し
からだがからだでなくなって
だきにの昼がむごたらしく
ただ累々とひらかれてもゆく
fruits
【fruits】
いくつかのくだものが卓上
手もとにあわくにじむのがうれしい
空気にしずむけむりなのか
白桃には霊性と甘露がまざり
それじしんがどこにも見当たらず
葡萄には消える房であることに
森林的なめまいを感じ
イチジクにはそのおびただしい種が
宝石状に鏤められている点に
おんなどうしの淫らをおぼえる
ひとつとしてつかめないから
果皮にあるこまかい水滴がすきだ
死後をながめるみたいにうっとりする
それであわいいろをたもちながら
果樹園を訪うまぼろしをえがき
わたしが青く着衣しているかわりに
白桃を無数につらなる房にしたり
その果肉に種の川をながしたりして
眼は何かの明るいはだかをみる
わたしだけにわかることだ
わたしの背後にはおもさがない
手もといっさいは奢侈品
静物をすべる優位のなかに
心身もはかなくめぐるのだが
わたしがいつも見下ろしていて
眼下に風がながれているとおもえば
その消えるまでは
記憶のようにただあるだけだ
surprise
【surprise】
ゆうぐれは見た疲労から
事物がやさしくなって並ぶ
ならぶことがまるで
無言が草であるかのようだ
桶に水をはこぶ日課は
こぼしどころをもとめて
中空にその足をとめてしまう
鳥なるもの浮くことの黙示
仰ぎみる眼のなかにある
ひそかな叛意の俯瞰
視界が分割をしるすなか
そこに並びも解かれて
麻のようにというが
眼はおとずれの散乱が
このゆうぐれにして
燦然とあるをただねがう
ただ眼へとsurpriseをくれ
それはみずからの来訪が
相手をそのまま形成していると
気づかない放心に特有な
形状のちぎれにもすぎないが
待ちびとはそのようにして
坂のいただきから現れる
ちぎれて
天気
【天気】
落ちていた水は拾われぬ
空との平行をえがくものは
とおくに返さなければならないが
彼岸まで、対比がうつくしく割れて
投影めいたものも地に走っている
そんな水いろだろう、向かいは
つまり向かう前空の窓だった
ひらかれて一揖される気配を感じるが
日の増加ということでもない
あしたの舌を口腔にまるめ
球を想起した無言で往き帰ると
いよいよ空気が周りにみち
上昇を一身にあつめたような
清潔な月をみあげる夜もあった
カリスマ
【カリスマ】
くもる朝の
枝ぶりがなにかを
いうことができない
ひろげているみずからは
陰を足すようにある
支えない頭上と
踏みはらない足もとの
あいまいなあいだで
かたちの血管が
くろくむき出しになっている
その差しだしが
永久に遅れた一手
めぐりにむけて
なじむこともない
まぼろしでつくられた樹に
あわくさだめられたかたちは
しかし思いへ往還を生む
彼を出て彼にかえるものがある
そうして黄泉がくりかえされ
無魂もたぐられてゆく
(在ることはとぼしいか)
大きくあればあるほど
威容が疲れて、減る
夏の日記2
【夏の日記2】
7月26日 「人体」は秋の季語のようだ。夏の体感はかすむ
7月27日 七つの海、七つの体穴をふさぐようにして呻き
7月28日 世界を混沌にする豚の群れを川上にイメージした。
7月29日 幼年時、蔵の裏はバタフライ効果がゆれていた
7月30日 綿菓子と庭木の角度に注意しながら (話していたのだ、
7月31日 「路上」という言葉があって、全体が空に接している
8月1日 青の液をひらたい皿に容れて天上性の通過も待った。
8月2日 蚊を凝視しなかったことの罰。どんなかたちだ? 吸わせている。
8月3日 「一日一悪」なんて変な戒律のためイチジクを食べて
8月4日 ともに下痢をしていたおじさんに親愛をおぼえた
8月5日 辞書を枕に、ことばにならない帯状が脳に引越してくる
8月6日 聾唖者の書く詩篇の音律、それは何を基礎にするか
8月7日 この問題と「盲者の夢がたり」が似ている。
8月8日 おそろしい人体。足早に夏野で扉を割りだすだろう
8月9日 おそろしい人体。帽子のなかの感情で湿度も変わる
8月10日 縞馬を剃毛すると体表に同じ縞分布が現れるという、そんな裸。
8月11日 もともと人体の色も限られていたが、白色人種がそれを解放した
8月12日 「天国と皮膚癌は似ているか?」 サントロペの殷賑に問う
8月13日 勝手口から出入りしていたぼくらのからだのあわい一過性
8月14日 水上のテラスで卓を囲む、かげろうめいた午後の人びとだった。
8月15日 消化器が無にちかいまで退化したから光すらのみこめた
夏の日記
【夏の日記】
7月26日 ゆうぐれには不夜城を置く域をかんがえる。
7月27日 あるいは手許、あるいは思考の墓域、うすいろの。
7月28日 入れ歯にみえる木の花もあるか(神がかりのディヴィーヌだ
7月29日 そうか、こうして三日間「神輿」をおもったわけだ。
7月30日 痩せているのに胸だけ飛びでた女の痛ましさ、わすれない
7月31日 「それはゆれすぎていた」と記載される白藤もみたことがある
8月1日 豆類だけを食べ、学生が用意してくれた残りをのこした。
8月2日 泡のある舌が波打ち際を行きつ戻りつする(反復のエレガンス)
8月3日 どだい馳走にたいする記憶がちがう。椀さえあればいい。
8月4日 蒼白が拡がっていた。一級上に死んだ者が出たようだ
8月5日 帽子の趣味と、時間の趣味。(消防士)夏は夕方から出動する。
8月6日 音域の分位によって空間化された西空。にぶく鳴っている西の空
8月7日 毎日ゆうぐれに一行書く日記が「心髄の備忘」になるらしい
8月8日 来るべき体言止めのため、終結可能性を収集する――映画から。
8月9日 (転記)「身にフィットする拷問では拷問性が消滅する」
8月10日 (転記)「命を賭けた、すれちがいのカッティングが十二箇所」
8月11日 「よのなかのみづ」を第五句に置く一首を成そうとはするのだが
8月12日 先端の形状の丁度良い半島もあった。そこに立ってみる
8月13日 久方ぶりの後背位、二体は帯のように崩れた。(映画)
8月14日 書かなかった言葉を数える。筆。江ノ島。K子。ポルノ。
8月15日 埴輪の眼になって浜昼顔からの徴候を透かし見た
吉里
【吉里】
読了のときには
いっせいに色がおとろえる
光量が自然に減る
気づけば今戸に
吉里も死んだ
おもかげが固まれば
生への鈍い憎悪を
雨滴に滲ませていた琴だって
たんなるむかし黄金虫
銀と呼びならわされたものを
遠望するよう読んでいた眼も
擲ったさきの闇を知る
天井に吊られていた浮草すら
そこが池ではないのに
回廊へ落下してくる
家ぬちには往来がつと消えて
きょうの雨 おもいでと交換に
一分の廃墟ができるだろう
鰭なき魚のながれとは
それじたい水流で
群論の自殺的な痒さ
情など読みきるものではない
情中の青なら読めない
ひとの匂いを嗅ぐのに手一杯だ
だがそれらも、もぬけた
ひとつの読了は
紫立った僧形がうすものになり
よそおいを心許なくする
業平
【業平】
なんにもなさ、の
積載量がおおすぎて
八月の空から
かがやく鳥影がおちる
てのひらをばけものにして
うけとめながら
自分以外(わたげ)を
閉じた金物屋にひらいてゆく
そこでおろしがねを買った。
楽器以外をつうじて
おまえをおろすように
演奏するだろう、おまえ-わたし
破綻調のなかでは
Fのやりどころもない
水平下に不安定に立ちながら
水平下で不安定に化粧する
そういう局所が
おまえと町にたいし
城になっているとおもう
空にへばりついている鳥魚
はりがねでできた追憶が
停止の巣となる危うさがあるから
えぽけーをふりはらってゆくと
世界が憂う世界の八月だ
すぺーすつりーならぬ
円筒と角柱の融合がある
空を吊る散文、そんな
固いものを眼に接木されては
みあげる夕方の大部分にも
蔓を延ばすしかない
ふきつだなあ
だんだんできてゆく。
鉄塔でありすぎる意味は
眼路を散在している
ふたご座
【ふたご座】
記憶とは貴婦人の雲に似ている。
そのばらいろのなかでは
双子をひとりに縮めなければ
時間の花束すらわたせない。
まりえ、まりあんぬ。
とじられない端では
とまらないオルゴールが
音を立てて徘徊している、
光がふえる。いいかえれば
ひとつの記憶というものもない。
一記憶と別記憶の連関、かさなり、
そこだけを性別の性別として
この肉体がたしかに憶えている。
性器もないのだ、
まりえ、まりあんぬ。
ふたつをひとつにして
ようやく影絵用へ切りぬく。
雑感(七月二十八日~八月二日)
貞久秀紀さんの新詩集『明示と暗示』が届いて
読み始めた。
一切、難解な修辞がなく、
すべての言葉が「明示」性のもとに置かれているのに
修辞そのものが自然に把持する反転力によって
明示の裏側に暗示がはりつくようで
その短詩篇すべてに幻惑的奥行きがある(ようだ)。
(ようだ)、と限定したのは
なまじっかな咀嚼力では嚥下できない
明澄性によって
詩句のすべてがひかり輝いているため。
ひかりすぎていて噛めないのだ。
詩篇の多くが端的な散文体で書かれ、
同語が出没位置を変えて
そこで世界ができる。
どういう世界か。
「ある」、それだけの「ある」。
前田英樹さんのある種の文章と印象がかぶるが、
それでも貞久さんの言葉は
詩文であろうとして
どこかで論脈が不可思議に鞭打たれている(とおもう)。
これは論評に真剣にならなければならない、
軽いのに重量級の詩集だ。
とりあえずは半分まで読んだ際の第一印象を
興奮のうちに書き留めておく
■
貞久さんの『明示と暗示』、
いま第一回目を読了。
気がつくと、オビには、
《ある文によって暗示されることがらが
すでにその文に明示されている
--そのような文があるだろうか。》という
挑発的な言辞がしるされていた。
上、僕が書いた雑駁な印象は
「暗示」と「明示」の順序が逆かもしれない
(「同じこと」になるのかもしれないが)。
お気づきのように「詩手帖」に二回連載された
あの「奇妙な」詩論は
貞久さんの今回の詩集を読み解く鍵となっている。
もう一回、「明示と暗示」のせめぎあいについて
貞久さんがしめした驚異的な例文を引こう--
「三十七文字で書かれているこの括弧内の文には何が書かれているか、それを説明せよ」。
○
この欄の読者のために、
『明示と暗示』から一篇、引いておこうか。
ただしネット空間の可読性をかんがえ、
原文の句読点箇所を改行、
原文の行アキはそのまま踏襲することにする。
○
【薄にそいながら】
貞久秀紀
ここにある薄は、
道にそいながらふれてくるほど親しくつづき、
ここではゆれているとみえず、
遠くあのあたりではゆれている。
しばらくここにいて、
ゆれずにいるとみえるこの薄は、
このままおなじ道をあるけば身近にいたりつくあの薄が、
いまも目にみえて
遠くそこかぎりでゆれているように、
ながめていればゆれており、
ここからは、
おしなべてこの薄とあの薄でゆれる。
■
前のコメント欄に
「藤井貞和主義者」である自分を標榜したが
「自由詩」とは発語の自由を希求しながら
構文、あるいは詩行の明視的均衡において--
すなわち点在においては--不自由である、
というのが藤井詩学の要諦じゃないかとおもう。
そうした二元性を生きる詩が
現状、すくなくなっているのも確かじゃないか。
ところが実際には花田的な命題、
エラン・ヴィタルとフラン・ヴィタルの葛藤、
はまだ続いている、というわけだった。
詩篇は批評的容喙をたえず求めているが
作品環境が液状化した以上、
「感想の単純」だけが横行するようになった。
かつての僕の主フィールドである
映画や音楽ではもっとこのことが顕著かもしれない。
となったとき現代詩の担う使命もほぼ一点にかぎられるだろう。
「(思考の)自由」の引き金にならなければならない、
ということだ。
現在、『ユリイカ』の原稿のために
福嶋亮大『神話が考える』(青土社)をひもといている。
ネット社会を解説の言葉で囲む、という点では
この本は東浩紀のゼロ年前後の「達成」を
継承する素晴らしい「思考の書」であることは疑いない。
ただ、その思考の手続きはコンファームに似ている。
つまり実際は狂気を導く「自由」への希求からは遠いのだ。
哲学的社会学の限界?
個人的にそこに代置されなければならないのが
「詩学」だとおもうのだが、
社会学的思考がツイッターなど「商品」に親炙するのに対し
詩学はあくまでも「作品」を搾りあげる、
その延長線上にしか自己定位ができない。
そのことに、「わるく進む世界」への逆転要素も仕込まれている。
■
真の創造性は
逆行の位相を
帯びるようになったということだ・・・
心せねば
■
とはいえ、その「逆行性」は
たとえば稲川方人の主張のような、
「詩人という特権者の復権」とは無縁だ。
ぼくらの書くものは
対象化され、変型され、参与され、
増幅され、利用され、廃棄されることで
ぼくらとは別次元をたえず生きられなければならない。
この点では福嶋亮大のいうことと似るとはおもうのだが
偶然性を必然性に「みんな」で再文脈化するのが
現在の「神話」であるのなら
偶然性を偶然性のままに崇敬することが
作家への崇敬を保証する
逆行的なありようがある、ということだろう。
偶然を強度にたもち、
簡単な容喙によって必然化を許さないこと。
しかしそれには難解な堅牢化が作品組成に必要なのではなく
実際はそこに手を入れても対象化が覚束ないような
海綿的な「柔-強度」が必要だということだろう。
稲川的単純性にはこれがわからない。
自己言及矛盾を簡単に仕出かすのと
事態は連続的だ。
ともあれ稲川のように「無意識」を糾弾することは
実際には「作家への崇敬」に逆行する。
無意識には二層が想定できる、ということだ。
ひとつは単純原理的に創作の潤滑油となる無意識。
これは近代性によって保証されている。
もうひとつは無意識を意識化して成立した新・無意識を
さらに意識化して上位次元の新々・無意識となし
その無意識をさらに意識化して・・・
といった無限循環の相にある
現在の「神話」の作用域にある(無)意識のことで
これはむろんポストモダンの商業資本によって
保証されている。
で、前者だけを希求するというのが論理的に正しそうだが
実際には現在が
ポストモダン的商業性から出られないのも自明だから
この「逆行」がありえない、ということになる。
そうした「意識」をもって
「詩はみなで書かれなければならない」
(詩作における「個人作者」の神話が
半分機能しないようにしなければならない)というときに
詩作や詩誌の新しいありかたが
いま問われている、とはおもうのだった
■
「ネット」プロダクツ段階というのは
ヴァリエーション化と平準化の区別がつかなくなった
座標軸喪失の段階を指すだろう。
反射的に「ネット詩」への言及ととられそうだが
実際これは詩壇的な特徴でもある。
座標軸喪失には座標軸喪失で対抗するのが賢明だろう
(座標軸再建はたぶんニヒリズム蔓延のなかでは
徒労に終わる)。
「個別化と民主化」、この弁別を
実践において曖昧にする
詩作や詩誌編集があればよい、ということだ。
そう、ここでも「柔-強度」のような
二重構造が必要になってきている・・・
■
現在の作品が享受者の生の指針になるとしたら、
その条件は作品が単純に「柔-強度」をもつ、ことと
いえるかもしれない。
それは作品が本来もっていた強度を
やわらかさで手なづけ返したものだから
それ自体が再帰性・事後性をもっていて
そうして「元あった自ら」から変貌を経過した、
このこと自体の厚みのなかにこそ
受け手への指針性=教訓性がある、
と捉えることができる。
そうなって、「単に硬い作品」は
「単に柔らかい作品」とともに退けられる。
作品のたたずまいとしての「二重性」(の必要)。
「柔らかくないと、その硬さは読まれない」とも
それは換言が利くし、
「二重性の必要」についてなら、
「弱さの強さ」などといった別の言い方へと
さらに転換が生まれてゆく。
いずれにせよ、現在の狡知は
とりあえずその「二重的」な表情に集約される。
「面従腹背」とか「巧言令色」といったものが
道徳的に理論化される必要も出てきているのだった。
ところで作品が内包する硬さの最たるものとは
個別性ではないだろうか。
たとえばネットユーズの音楽は
体感的快楽に訴えるだけのリズム、コード等で組織され、
それは内実をもっていない。
そのメッセージは「聴かないことを聴く」
あるいは「聴くことを聴かない」。
逆に個別的な音楽は
ネットユーズの音楽とちがい、
「個別的な聴きかた」を組織するがゆえに
それ自体が「強度」なのだった。
しかし私が個別性であり、
受け取るあなたもその反射の限りで個別性になる--
そのような力場をつくりあげないなら
どんな作物も「表現」たりえないだろう。
表現の根幹には、人間信頼的な抵抗が存在する。
それをいわない社会学的思考は、
やはりニヒリズムの文脈にあるといわざるをえない
■
昨日は詩集の体をなす詩集が
三冊同時に郵便受けにあった。
高貝弘也『露光』、高岡修『幻語空間』、
茂本和弘『あなたの中の丸い大きな穴』。
『露光』は依然として高貝ワールドの開陳だ。
高貝的二重性が「彼岸性」と「親和性」の綜合から出来し
それ自体でしずかな狂気を誘発するものである点、
忘れてはならない。
しかも僕はその内容よりもその「詩集形」にもっと着目する。
断片が間歇性を保たれて藁束のように置かれつつ
徹底的に無名な「綺語絵巻」をつくる。
そのときの空間と時間の無分別そのものが
たぶん循環的に迫ってくる高貝詩学の本質なのだ。
●
『幻語空間』はそのタイトルからしてわかるように
高岡さんの衒気が漂う詩集だ。
詩における衒気そのものがもう旧いのだが、
その衒気が高岡の出自を分岐させているのが
僕には興味ぶかい。
68年詩の自動記述性、短詩系文学の余韻、
とくに季語的なもの、平坦なモダニズム、石原吉郎・・・
高岡さんの特徴(二重性)は
《論理的なものを脱論理性に再組織させながら
結局は読者に「論理」をつかませる》点ではないか。
それはしかし本当は逆であるべきかもしれない。
つまり、上、《 》内の「論理」と「脱論理」は
すべて入れ替えられるべきかもしれないのだった。
高岡さんの詩では
フッと「俳句」の混入する瞬間などがいつもあって、
そういう点が僕の偏愛理由になっているのは確かだ。
今回ならこんな戦慄的な一句--
白葱は白い谺として洗う
○
茂本和宏さんの『あなたの中の丸い大きな穴』が
僕にとってはいちばんプロパーと感じられる詩集かもしれない。
刻む律動も、悶える曖昧も、繰り返される冗語も
すべて身体的に「わかる」というか、
完全に僕(阿部)とも似た資質だとおもう。
そういう類似性によって郷愁が生じ、ふと「泣けてくる」。
ただし湿潤傾斜を戒める、というのが読解態度になる。
父さん
悲しいのは詩を書く私ではなく
詩です
詩はいつも少しだけ悲しい
という、素晴らしい一節のある
詩篇「朽ちていくのは」もいいけれど 、
僕が「いいな」とおもったのは
詩篇「問いにぶら下がって」の過激な冗語性だった。
最後の三行を割愛して以下に引用しよう。
○
元気かと問われて
そこから先が折れている
折れたその端に
ぶら下がる
とりあえず
ぶら下がって
元気です と
返してみるが
先の折れた問いは
問いのまま
ぶら下がった私は
ぶら下がったまま
何のかわりもなく
夕方になったりするのだ
すると また誰かが
元気か と
折れたそれを突き出してきて
■
詩という、単純簡明で短い、と誤解されている形式は
ネットユーズでは「感情」を
洒落た言い回しで盛り込む表現の器、
と多く目されているだろう。
ところが「洒落た言い回し」は彼らが操っていると信じていても
一切実現していないし、
もともと詩には「洒落た言い回し」そのものも必要とされていない。
したがって「洒落た言い回し」については
二重の誤解が彼らにあるというべきなのだ。
それはともかくとして、
彼らは彼らの使いうる言語体系によってしか
通常いわゆる「ネット詩」を書いてはいない
(この点では口語短歌と似た立脚だが
そこにはほぼ韻律の恩恵がないのだった)。
現象しているのが当然「世俗化」だが、
「世俗化」がある様式を帯びている点には
注意喚起の必要もあるとおもう。
彼らは真正の詩を書いていないのに、
ブログやSNSという利器をもちい
「詩を書くこと」については発言を繰り返す。
差別的な言辞を弄するなら
「楽屋」(by稲川方人)を語りだすことで
自分たちの生産性の厚みを
職業的文筆家のように詐称してみせるのだった。
ところが逆に、彼らは
実際に自分の詩作中には
自分自身をちりばめない。
たぶん語るべき哲学的もしくは行動的
もしくは感情的な自分がないのだろう。
その代わりに彼らが書くのは
いわばサブカル的な操作子そのものであって
その意味で言語単位は「意味」単位と単純に等しくなって
構文もこの点を単純に反復するのみとなり、
構文自体の破壊に向けての変容を記録することができない。
これもまた詩作の世俗化の一様相と呼ぶことができる。
言葉が世界像に小さく縮減されたうえで
そこでは「小さな洒落」だけが殺伐と機能してゆくのだ。
ところでこのような姿の詩が
ネットワーク上で成立しやすいのは
その流通容易性、模倣可能性からいって当然なのだが、
実際の詩壇においては
これは詩の68年世代が先鞭をつけた傾向だった。
「書かれているような錯覚を与える詩」は
言語への根拠なき信奉によって起こり、
その最も象徴的な存在が北川透だろう。
一構文や一行に展開を刻々生じているという責任がなく、
詩空間の連接と
「洒落た言語感覚」のみがあるだけのような産物。
北川透的なものがネットに蔓延するのは
当然、詩の構造と世俗化の瞞着からして当然のことで、
だから「北川的なもの」は阿部が今年初頭、
首都大学東京において実際に見聞したように
「詩の現況を自分に置き換えて完全に語る」という逸脱をも犯す。
現在の世俗的な詩作精神はそこまでの厚顔無恥を
自己演出することはできないが、こうは自分語りできる--
「現代の詩が不毛なように自分の詩も不毛だ」。
ここにも底上げされた代表意識がまつわっている。
詩の世俗性を、
詩の通用性・周囲への浸潤性・変化の体現性などと置き換えたとき、
むろん詩の世俗性には
ネットユーズ・サブカルの二次創作のように、
偶然性の脅威を必然性へと縮減してくる
容喙誘導性があると理解できるだろう。
その意味でネット詩はネットユーズの必然として
集団創作性を経由して連詩を呼び込んでくる。
連詩の要諦はたぶん「変化を体現する調和」ということだろう。
連詩で個別性が衝突しあうだけなら
それはネットユーズのもうひとつの局面、
ディスコミュニケーションをただ結果してしまう。
以上のような揚言からいえること。
1)ネットワーク社会の詩作者は連詩を中心に考えることで
個人神話を抹消する。
また連詩に参入できない作者は
ネットワーク社会にとってやがて過去の遺物となる。
2)そうした連詩のありように
たぶん詩作の世俗性を滅却する方法論が伏在している。
つまり既存(先行)作者を
自分の詩作において一旦転写しながら
その転写作業のなかに抵抗子を加え
それをパグ化することで詩を更新する、ということだ。
まあともあれ、福嶋亮大『神話が考える』を
あと50頁で終わり、というところまで読み
舞台を詩作状況にまでずらして考えたのは
以上のようなことだった