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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

詩篇を捨てるということ

 
 
昨日は仕事の隙間のとき
ひそかにファイルしてあるオンデマンド詩集用草稿、
『ある日あるきがこだまする』から不要詩篇を刈り取った。

まずは最初のほうの
「薙ぐ」「脂のきいろいベーコン」「いない、」を切った。

それとつくって間もないほうは
さらに自己判断があまいだろうとおもい、見返すと
やはり弱い(あるいは無理をした)詩篇がうるさく目につく。
これらもバサバサ切った。

「排尿詩篇」「ヘラクレイトス、」「新学期」「減数」
「内側に消える、」「ゆっくりができない」「標的」
「朱色」「らぶれたあフロムからだ」の計九つ。

それで現在、草稿はトータル140篇になっているとおもう。

自己切断が妙に愉しいときもあるが、
どうも愉しすぎて、まだ切りそうだという予感もした。
それでおそろしくなって作業を中断してしまった



それで、ダメだという判断をくだす詩篇は
どんな条件をもつのかかんがえた
(さあ、詩作実践篇ですよ♪)

1)ヘンなことを書こうと
着想がもともとゆがんでいて
ことばが本然的に運動していない
(だから、ひらかれるものがない
--あるのは一種の「恫喝」だけ)

2)書きたい主題があったのに
力がはいりすぎていて
まさにその主題提示の部分で
技術的破綻が生じてしまっている
(きっと書くときのからだが硬かったのだし
書こうとするものが自分のからだにも近すぎた)

3)モチベーションのひくさを自覚できず、
そのときはおもしろいはず、
と書いてしまっただけだった
(まあ僕は技術がすこしあるので
なんとか詩篇をそれでもかたちにし、
フィニッシュもつけるが、
そのように技術援助されたモチベーションは
そのものがすでに痩せている)

4)ある複合性に惹かれた詩作は
その複合性の生命力がよわいとき
あっさりと空中瓦解する
(たぶん僕はパートA、Bを交互に輻輳させる詩作が
性格的にダメなのだとおもう--
それと、たとえば出来の良いフレーズがふたつ以上うかび、
それをどうつなげるかと、構成的に書いた詩も
結局、失敗になることが多いとおもう--
やはり浮かんで良いのは一行目なのだった)



いくつか自分なりの難点もこのほかにある。

・ことばが破壊性にむかって走りすぎ、
そこから修辞の自信自負を邪推されてしまうこと

・音楽のカデンツァや、歌仙の祝言との類推から
最終行の余韻を「世界」にまでひろげようとして
しつこくなってしまう詩篇があること
(これは数行をバッサリやれば問題解決する)

僕の詩の最近のことばは
もう処女詩集刊行のころとはちがってずいぶん平易だが、
それでもどこかで文脈が難しく
拒絶される場合も多いとおもう。
ただそれは思考のクセによっていて直しようがあまりない。

むろん技術力、語彙などを誇るような年齢でもなく、
自分の年齢によって野心を削ぐ
「体力の拡散」もできているはずで
詩篇があとで読んでも良いとおもわれるときは
そこにある曖昧な多義性が
意図ではなく発語の本然として出現しているときだとおもう。

どうしてもおもうのは「自然体」ということで、
とくに改行詩は一行一行の加算に
その自然性が明瞭にでるから
詩篇の出来を自分なりに刻々と(つまり書きながら)判断しやすい。
それでも、その自然体をみちびいているのが
あとで判断して音韻だったとびっくりすることもある。

「誰々のような詩篇を書きたい」というのは
僕の場合、それほど浅ましい所業にならない気がする。
というのは、僕はからだのクセがつよいようで
模倣を目指してもズレてゆくからだ。

逆に、そのときは無意識で書いていて
あとで誰かからのふかい影響を確認するばあいも
そこへの雪崩れ込みがからだのズレとして生じたのなら
「いい感じ」になっていることが多く、放任する。

自分で書いた詩篇を確認するのが愉しいのは
とんでもない語感がどこかに生じて
これを本当に自分が書いたのか、とふるえる瞬間だ。
ただそれは感受性が書いたのでも技術が書いたのでもなく
「ことばの流れ」が書いたものにすぎない。
だから詩作者が詩篇の背後にいるとは僕はあまりかんがえない。

悔しいのは、そういうするどい語感部分がありながら
たとえば主題提示が不細工だったりして
その詩篇を捨ててしまうこと。
僕はいつも直さずに、捨て去ってしまう。

この「捨て去る」ことに吝嗇をまつわらせないため
ほとんど日課のように詩を書いているにすぎない。

詩作は朝が多い。
ということはその日の声を、詩作で調整しているということにもなるが、
傑作を書いたとおもったときには
その詩篇がその後の仕事や読書のときまで
鳴り響いてしまい難儀する。
自作の圏域からもうすこし「引きたい」ところではある。

マイミクのみなさんからのコメントや「イイネ!」は
とうぜん励みになるけれど
やっぱり最終的に自分の詩篇を判断するのは
自分の「からだ」かもしれません。

いずれにせよ、時間を置くことがたいせつ



その後気づいたんだけど
自作詩篇を捨てるコツって
まだあるね。

「これはたしかに自分の発想だけど
自分の発想でなくてもいいような気がする
(自分印じゃない)。
この領域は他人に預けちゃえ」
とおもうものは、たぶん捨ててもいい、ということだ。
何よりも、貪欲さを嗅ぎとられるのが嫌いだ、僕のばあい。

たとえば上で捨てたとしるした詩篇のなかに
「脂のきいろいベーコン」という
08年後期の連詩連句演習でつくった詩篇があった。

もう消してしまったので記憶で書くしかないが
そのなかに

椅子をこらしめて四足にし
おんなの悲鳴をあげさせる

みたいなフレーズがあって
このフレーズが詩篇の主体とからんで
輪郭の溶けた、
フランシス・ベーコン的な自己舞踏を想起させた。

この人名「ベーコン」と食物「ベーコン」とが化合し
「きいろ いきろ きいろ」というルフランをつかった。
肯定性を不穏な文脈にズラす、
そこそこの詩篇だったとはおもう。

ただし上の「椅子」の部分は
僕の前に連詩の座で詩を書いた
三角みづ紀さんの1フレーズからの発展だった。
つまり完全に僕自身の発想でない部分があって、
それが時間の経過した現在の僕の眼からは
浮いてみえた。

詩作には冒険心も必要だから
そういうのは瑕ということもないのだが、
いまの僕は詩作にともなう多彩性、機会性を
書くことで誇りたくない、という気持がつよくなっている。
敬虔さによって機会を限定している、という気がする。

「単純に」「みたもの」だけが詩作の根拠になって
とくに文化記号を詩においてあやつるのが厭になったのだ。
そういうものが「うるさい」。

もともとサブカル詩を書いたことはないが、
サブカル詩的なものからますます逃走していったといえる。
そういう所業は評論にまかせればいいし、
評論でなければちんちくりんになる。
あ、これは余談だったか

詩作機会をつくりなすもののなかには
とうぜん読書がある。
けれど僕はある詩集内詩篇などに影響されて
詩作することがあまりない。
影響源の多くは直接には詩とはなれているもの、
たとえば評論とか写真とかになることが多いのだ。
詩篇を影響源にして詩作すると結果的に逼塞がみちびかれる。
だからせいぜい短歌俳句を意識するくらいかなあ。

こう書くとたぶん先のサブカル詩否定の文脈と
論理抵触するみたいだが
たぶん僕はまったく別のことを書きだしている。

詩作原理はたぶん既存フレーズのずらしではない。
それではさもしすぎる。
ただしある詩作者固有の音律をもらうことはある。

去る日、西荻窪で詩宴があり
そこでの登壇のため僕は江代充さんと貞久秀紀さんの詩の
精読をくりかえしたのだが、
このときは彼らそれぞれの音律が
からだに入ってくるがままにした。

具体的フレーズではなく音律なら「機会」になる。
この道徳律とはなんだろう。
たぶん普遍性、ということが考えられているんじゃないかとおもう。

上のコメントで「誰々のような詩篇を書きたい」という書き方をしたけど、
じっさい僕が頂戴するのは音律が多いなあ。
語彙すらあまりもらわない。

現代詩壇での、詩語の引渡しみたいにみえる部分が嫌いだし
もともとそういう詩語が展覧されている詩がバカみたいだとおもう。
ただしそういう詩を軽蔑する詩作者は相当割合でいるね。
「僕だけだ」「十人ていどだ」という書き方はすごく傲慢です



「語彙」ということでいうと、

一詩篇には鍵となる「語彙」があって
それはべつに気張ったものである必要もなく
ふつうに通用しているものでいいとは
いまでは詩壇のバカ詩作者以外にだったら
わかられているともおもう。

またそういう語彙を一詩篇のなかでピックアップすることで
詩の読解がまずはじまるというのも
もはや経験則に属することがらだろう。

自分で詩篇をつくりあげたとき
ほとんどの詩作者は
その詩篇の鍵の語彙をつかんでいるはずだ。

さて、ここで詩集空間という問題がさらにからんでくる。
同一の詩集空間に諸詩篇がならんでいたとして
詩篇ごとの鍵の語彙に「重複」をみとめていいか、ということだ。

詩篇間の変奏と偏差を詩作原理とするばあいは
とうぜんこの重複が肯定される。
ただし通常の詩集では「世界のすがた」に近づくために
この鍵の語彙の重複は排除したほうが賢明じゃないかと
僕などはかんがえてしまう。

これはたぶん自らの多彩性を誇示するのとはべつで
むしろ「世界の本然に添う」ために
このような判断が生ずるというべきではないのか。

ほら、ここでも自分の詩が「捨てられる」。
捨てられるというのはとてもいいことなのだ。

僕は今年の春、「詩手帖」に
「何が詩を硬直させるのか」という詩論エッセイを
二号連続で書いて、
詩作の「硬直」原因をつぎのように規定した。

1)「詩人」意識と「倫理的たれという掛け声」
2)散文性
(音律があれば詩の難解性は馴化される。改行詩の利点もそこにある)

連載があと一回あれば次にしるすべき詩の「硬直」原因を

3)執拗な自己編集性(長篇詩一本の詩集構成)

としただろう。

3)はなにが問題か。

詩の是非の判断が全体に引き上げられ
読者が部分に注視する余裕すら奪われる、ということだ。
詩集において唐突に、しかも終始一貫、
「全体」だけを読者に提示し
その読書を支配し、
分散をみとめないことは
相当に恫喝的なことじゃないか。

長篇詩一本を自己編集を繰り返して詩集空間化するというのは
男性詩作者に流行った野望で、
女性詩作者にはあまり見受けられない。
マッチョさがきらわれるのだろう。
なぜ「詩篇集」的詩集じゃいけないの? という声も聴こえてきそうだ。
もともと詩篇はちいさなものでいいのに、
世界大の詩集を構想するなんて傲慢じゃないの。

で、実際は長篇詩一本の詩集構成は
それがどんなに自己編集を繰り返したとしても
多くの詩作者はそれほど多彩性を誇れないから
実際は鍵となる語彙が重複する。

重複はむろん憂鬱で重いが、
長篇詩一本、という組成の硬直によって
その重さを解除できない。「捨てられない」のだ。
構造的にそれが禁じられている。
雁字搦めとはこのことをいう。

それでよほどの才能がないと
長篇詩一本の詩集構成など失敗を見るのだが
野心家はその危険を顧慮しない。
あーあ、それでまたぞろ退屈な詩集が出てしまう。
組成のやわらかさは、
「詩篇集」というかたちにそのままひそんでいるのに。
そのなかで「流れ」が追求されればいいのに。

長篇詩一本という詩集構成では
その作者特有のリズムが鼻につくと
もう眼もあてられないし、
それが散文形だと、小説のようなサーヴィスもなく
評論のような付加的な情報提供性もないのだから
読むのが苦行になる。

長篇詩一本は、西脇順三郎的な才能だけに許されているものだ。
そこにあるのは音律のあかるさと気散じのうつくしさ、
そして歩行の着実性と連想のゆたかさと哀しみだ。
これらのものがあって西脇的長篇詩が成立している。
そのことが長篇詩一本の現行詩集ではほぼ軽視されている
(稲川方人さんは第三作目まではこの要件をみたす長篇詩集だった)

現在の長篇詩作者はこう語る(騙る)だろう。

このなかには論理の迷路をしかけてある
読者はそれを解明してほしい

そこでは読者がおぼえる重圧が
ぜんぜん問題にされていない。唖然とすることだ。
詩を読むことは本質的には愉しいことだし
普遍的なことだという前提すら奪われてゆき、
詩作者当人にまつわる文学性のみが
通貨のように高まり、
実際は株価の暴落が起こっている。
○○さん、あなたのことだ

また余談へとズレてしまったが、
ともあれ自作をどう捨てるか、ということが
自分の構想する詩集空間を確定するとはたしかにいえるだろう。
だからそれが容易でない長篇詩一本の詩集空間など
わらうべきものなのだ。



自分の詩作の是非判断のときは
「新規さ」に固執した詩篇などを
とりわけはじめに捨てるべきかもしれない。

語のならびに新規さを織り込んだ、
という自覚の生じるばあいはある。
ところが織り込むべきものの本当は
年数的な耐用性のほうなのだった。

新規さがなぜ磨耗するのかは興味ぶかい問題だろう。

新規さとは実際のところ個体レベルでは通過性であって
「おまえの新しいとおもっていることは
すでに知られている」という反論をたえず呼びこむ。
このことにたいする抗弁不能性がもともと論理的に欠点となる。

ということは、新規さの誇示とは
もともと「他を顧みない驕り」でしかない。

現象的に、「それは新しい」「旧い」というふうに
公正な腑分けが必要だという問題でも、もともとないな。
新規さを誇ることは
それが実際にランボーのように
何百年も他が未踏の新規性をたもったとしても
表現としての浮薄さをまぬかれない、
と、むしろいうべきだとおもう。

語のならびなどで、新規さをほこるのは実際は配合性だ。
そうではない、本当に必要な語のならびとは
語の本然からひろがってくるひかりと音を
語それぞれがわかちもつ「うつわ」をつくることなのだ。

そうなると新規性が旧弊性に堕したときのように
語の鎖がポキンと折れず、
語順はひたすら「耐用性」のなかでそれじしんを落ち着く。
それは撫でることができるのみならず、
そこを掘ることもできる。それがひろがりだからだ。

というか、こんなていどのことでさえわからないから
新規性が誇示される、ということなのだろう。

さて、このように大上段な物言いを避けると
新規性はおおむね「体験の新規性」のすがたをして
詩作モチベーションに狡猾に触れてくる。

1)はじめてこんな恋をした
2)はじめてこんな老妻のこころを知った
3)はじめてこんな彼岸花の大規模な群生をみた

一般に青春詩篇と老人詩篇と主婦詩篇は弁別されるが、
1)=青春詩篇、2)=老人詩篇、3)=主婦詩篇は
みな新規性を動機に詩作されたナイーヴな詩篇である点に
かわりがない。

これをたとえば「われわれはみなからだをもつ」を主題にした詩篇なら
上記1)2)3)、どの範疇分けにも適さず、
そこから主題の耐用性が生ずるということだ。

主題の新規性と、主題の耐用性は
普遍ということがアタマを掠めると
範疇分けに錯覚が置きやすい。
修辞の「手前勝手」が注意深く排除されていれば、なおさらだ。

ただ主題の新規性に押し出されたとみえた詩篇は
のちのち割愛の対象になる。
語と語の衝突など
修辞の新規性をはしたなく誇る詩篇などを
もともと僕はつくらないが
それらは論外の屑箱に最初からはいるものだろう。

新規性と耐用性の区別はなにか。
もともとの語や言い回しの古びなどを重宝して
返す刀で新規性を若いとあげつらうことなど問題ではない。

耐用性が強靭であるかぎり
その箇所は、その全体は、「若く」みえ、
だから「新しく」みえることとの近似が起きたわけだった。

このあたりはうまくいえない。
とりあえず、耐用性を測るためには
詩を書きながら「そのフレーズをつかってみ」て、
地面に叩きつけたりしたらいい、という以外には。

手もとの語ならびのあたらしさに
詩作者が自画自賛気味にうわずるときというのは
それらの語が「置かれている」だけで
「つかわれてはいない」だろう
 
 

2010年10月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)