ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

 
 
【道】


なかぞらへ半分、身のきえているあのひとをおもう。そんなふうに
ひとがたたずむ場所のむこうに、道というものもあって、日曜の家
族食材をもとめるせせこましい吐息でごったがえす往来だってにぎ
やかだけども、息がきえていることが絵になっているあのひとの背
丈の、ただ万国的な複合をおもう。はしごのかたどる穴でできてい
るんだ、あのひとがとおくにかけわたしている起居は。あのひとい
がいにあのひとがいないことには折り合いもつけられていて、場所
も、みえなくなるほどに葉っぱのかさなりをとおくに覚えさせてな
つかしい。揮発人種だな、さあ引こうともちだしたとたんに、単語
をわすれてしまい、ふだん持ち重りのする辞書がへんにかるくかん
じられるようなあの戸惑いだ。けれどおちついているので、とうめ
いな市電にあのひとは切符なしで乗ってしまい、そこに居合わせた
客をも、話しかけもせず隣りあうだけでただ旧知にしてしまう。気
配りと気配にはそのように差があって、あのひとのばあい後者だ。
いつもひとと一緒にいて、いつもひとのあいだにみちている。市電
はかどをかたむいて走り、そのとき幽霊をふりおとす。あのひとだ。
  

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2010年10月31日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

コーラス

 
 
【コーラス】


歌のパーツにコーラス部を置くことが、唄う孤独をすくうことにつ
ながるのだ、演奏はつねに多人数で、とあなたにいう。それであさ
やけをみたいのだとつづけると、坑道をみちる仕事おわりの坑夫の
歌声のようなものかと問いかえされ、外にある声が舞台に中立性と
最終反響権をもって介入しつつ、なおかつ唄う顔が仮面をはずさな
い、とおいギリシャ由来の峻厳をかたった。そこにつむじなして巻
いていた風を、誰彼とともにむかし恐怖としてみたのだ。そういう
峻厳があなたを裁くのだし、だれもが致死的な道具なしに自分を裁
かないと、どこにも立つことにならないとつけくわえる。立つから
並ぶということ。モデルは木立だろう。映画のロールに人名がなだ
れてくるときの、夜明けのような圧倒感にさえ似ている。むろんあ
なたは若いから放心のままあるきたいなどとも夢みるが、海炭坑道
を百年とおり、遅れて現れてきたかずかずのにくたいこそにひとは
泣き、ここへいたりようやく、風のために唄い風になる、の命題も
明瞭化する、とはわからない。つまりコーラスも海を割るようにい
つもうかんでくるべきだ。コーラスとはひとみなの場所を批判的に
二重化すること。そういうひかり。それで自分がここにいない浮遊
が、もっといえば自分がコーラスに脱論理的に参与しているめまい
が、歓喜のうちにも噛みしめられることになるだろう。そういう歌
の近隣で、たしかに革命の語が、うつくしい声で発せられてもいた。
 
 

2010年10月31日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

メモリーメートル

 
 
【メモリーメートル】


ももいろを定義する
ももいろをまえに
きえてゆく影などをみる
おいたのはだれ
なんでそんな姿態が
とじながらも
ひらいているのだろう
あくまでも立体
の、そのなかには
みずからをはむ
たくさんのだえきが
矢となってとんでいる
から、それじたいは
うつくしくまわる
万物サイズのくだもの
さいころがおのずと転がり
外見がぴたり出目となる
くだらない物質のとなりで
瞑想している数本の
ももいろがわるがしこい
むろん位相的には
それが髄なのだろうと
あふれかえる食欲もむせる
そのしきさいの、いずこが天
いずこが何センチだ
(コーラス)
おおう、ああ
わたしのすべてのわたし
憶えるもののすべてが
延焼してゆくときの
なんという、ももいろ
 
 

2010年10月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

パパイア

 
 
【パパイア】


大楡のもとで、視覚への妙薬として、なにかみたことのない青い野
菜を売る者がいる。香りをみるべきものならたしかにそんな外見を
しているだろうと、些少の鐚でそれをあがなう。小脇への抱きごこ
ちを買ったのだともいえる。おとなの夢をみながら畝をかえろうと
した途端、うしろから声をかけられる。自分は地獄からかえってき
たのだという。還相。もどってきたものほど、いつもいるものにも
ましてさらに歓待すべきだと、わたしもまた野菜売りのもとへかえ
る。尊厳ととおい地獄の報告を聴くこともなく、そのまま対峙する
十年が経った。かかえていた不可思議の野菜は、香りとなって、わ
たしの胸もとから消えつづけた。消えたのではない、消えつづけた。
 
 

2010年10月27日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

記憶浴

 
 
【記憶浴】


記憶にかんしては、聯想の糸をひいたとおもわれるときがある。ゆ
るやかに過去の事象が、いっけん脈絡なくすがたをあらわしてくる
が、後悔の色調がそこに裏縫いされていたりすると、ゆるやかさも
ますます緩慢をえんじ、まさにそのことにこそ叱責の電流がはしっ
て、すでにあったあらゆるかたちがくるしさをおびだす。たとえば
そのようにしてあらわれた壷のすがたがくるしみそのものであって
よいわけもないのだが、遅さというものはそのようにしてひとを一
定の感情にとどめ、鼓動のたびごとにそこから慙愧をなげあたえて
くる。これは神性が瞬間を空間にあまねくわたしているとかんじら
れる同時性の速さと表裏をなす心的現象ともいえるが、それだから
遅さを心身の立場からほめられなければならない。たとえば老齢の
はだかが肥痩いずれにあろうとやさしさにひかるのは、そこに遅さ
が荘厳されているためだ。さらにこうかんがえるといい、記憶の聯
想の糸は、一秒先をあるく予想的みずからを追うこのあゆみにも似
て、いつも線の一端しかみせないのだから、あらゆる一点一点も加
算されて夢のようにしか出現していない。だから出没をおもいえが
く運動にもじっさいは遅速の区別など存在しないと。想起が精密で
あればとくにそうなる。遅さが悔いにつながるという錯覚を捨て、
おもいだすためにも、いまが湯にはいるときだ。鉱泉というものが
入浴者の所作を緩慢にするのには、このような利点があるのだった。
 
 

2010年10月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ロバートソン

 
 
【ロバートソン】


碧眼の地というものがあって、そこでことばを発することもある。
人世がいよいよ喫茶ことばになって、こぼれおちるだろう葉のはな
しばかりが、鞄からとりだされて愉しまれる。わらいかたにも老齢
があふれている。六八年にわかさの栄誉につつまれていたバンドの
帰趨なども、独立記念日と泥棒との三題噺となって可笑しい。なに
が銀色かがかたりつくされながらも、なんとか会話内容が三角形を
たもつように、機知が導入される。さみしいスージーはいつ死んだ
か。あるいは性から追放されたひとびとが、伴侶とのみ卑近につな
がれて、のこされた添寝でいかに枯草を嗅いでゆくか。そんなやり
とりで炭酸水の盃をかさねるうちには、碧眼がさらにきわまってく
る。もともと死を直視せよと子供時代からいわれていた眼だが、そ
の残量ももうすくない。円卓のまわりには車椅子がひかり、これら
が人生の秋の構図だ。ほほえみすぎて視線がつづかなくなると、み
なピックアップトラックに連れ立ち近郊に出かける。葉巻を捨て、
半日かけた冷泉療法がはじまるのだ。ぬるりとした水に足を浸しつ
づけ、そこにいるのも、かれらのすがたをした想像的生だけとなる。
 
 

2010年10月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

風来

 
 
【風来】


はらわたのすけている小動物のように、こどもは秋のさきゆきにあ
ふれかえっている。さきゆきの語がさきわいをおもわすのは、こど
もたちのならす脱糞の音が、ぼきぼきという断絶音とは程とおいか
らだ。なにもかもを銀しゃりのながれと聴いて、米ぬかに沈みきっ
たちいさなてのひらが、ふれるものすべてをオパールにする昼間で
も、土がおくゆきからてまえへと手早くうるおってくる。収穫のあ
との秋雨ときびすをそろえるように適度にぬれるこのときの生きか
たも、きっと落とされた俳句の隻句調からさみしくひろわれただけ
だろう。日々に風の方向というものがあれば、みな方向となって地
平にきえている。もともとは夏田のみずのきらめきからうまれたお
子たちだから、なにかを返すために四方を生きて、かれらの背負い
籠がかわいた蛇皮だけでみちるのも、むなしいけれどもうなづける
のだ。山の掃除をしているかれらそのものが、樹下の埃にみえると
き、掃除がひとつの殺だと、かれらをふりはらってゆくおおきな手
もある。道端へころげたひとりが、ねむりからさめた、幼年のわた
しで、わたしだけが通り抜け下手だったため風来的往生をうしなう。
 
 

2010年10月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

天食

 
 
【天食】


詩を書く者のくちもとは、いつも語りつくせなさにとどこおってか
なしく、そのくちがあまみをすするときにも、くだものを天食にみ
せかえる奇怪な風貌がある。いちじくから柑橘、さらには柿、りん
ごへと、たべられるものの外見がにわかにあかくなってゆくのも、
どことなく退嬰をおもわせてふきつで、かれらがくちもとになにか
をよせるときのとおい眼などけっして直視してはならない。秋がふ
かまるとなぎさは死んだくらげなどの漂着物でいっきょにぎんいろ
にひかりだすが、そんななぎさにかれらのくちもとも似ていないだ
ろうか。よせかえすものをただすすって、そのことだけが場所にな
っているようなこだま。たばこを断念した以上くちびるもくさぶえ
や接吻をもとめるが、ほんとうは草々がもみじするほそい木道をも
のしずかにとおりぬけ、あくびするたましいをくちからものうく放
ちながら、そのあるきこそを消えるためにあかく炎せばいい。たべ
るべきものを市場であがなうことなく、ひたすらあしもとからひろ
いあげれば、語る舌もおぼえるべきにがさをたたえるだろう。風に
なってしまうからくさぶえをかなでてはいけない。むしろたべもの
を、たべられないか、たべきれないかのかなしみでほめ、ものがた
りの器にひかりをとおすことで、くちを一面のすすきの銀にかえる。
 
 

2010年10月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

つる見忠良・みにくい象

 
 
――なんという符合だろう、
ジョナサン・クレーリーの著作をダシに
《「注意」(「集中」)にとって
視覚が中心化することが身体の近代性になるか》と前回日記で綴った直後、
つる見忠良さんの第一詩集『みにくい象』
(詩学社、72年刊)が届いたのだった。

つる見さんの「つる」の字は難しい。
雨冠の下が、金偏に、鳥の旁。
それだけで彼の詩世界を象徴する気もする。
唐十郎の本名、「大つる義英」の「つる」の字は
この異字で、微妙にちがっていたのではないか。
ともあれ画面に出せないので
申し訳ないが以後「つる」の表記にあまんじることにする。

つる見さんは42年生だから、たとえば
支倉隆子さんなどとも同世代だ。
その世代なりの奔放さがある。
むろんつる見詩のファンなら周知だろう、
著者略歴にはさらにこうあるのだった。
《1953年 小学5年生の時、縄とびの縄にて左眼を失う。
1961年 ラグビーのボールにあたり右眼も失い、失明。高校を中退。》

全盲者。詩篇細部でつる見さんは鍼灸技師だともわかるが
興味本位で失明者の詩の世界がどうなっているのかと
覗くだけでは済まない、峻厳で奔放な詩がつづられている。
第一詩集としてこの完成度というのは伝説に属するのではないか。

ともあれ、先にぼくが書きつけた、
《「注意」(「集中」)にとって
視覚が中心化することが身体の近代性になるか》という命題は
「注意は身体にこそ分散して、身体の近代性を超える」と
つる見さんの詩作をつうじて換言されるとおもう。

失視者の世界観は、たとえば以下のように表綴される。



母よ
真昼の光を消そう
そして世の中の窓を
すっぽりあけ放って
ひとかたまりの暗黒の星になって
冥府につづく
ねむりの国の泥の中で
しずかにとびまわろう

――「光を消そう」部分



この「みえない」世界は、実際では空間的に無辺際。
だからこそ空間の変質がゆたかに起こる逆説をもつ。たとえば――



菜の花のむれのあいだに
ぼくはぼくのメガネを
そっとおいた

菜の花がぼくのメガネをかけた
ぼくは透明な菜の花になった
菜の花のうえには
菜の花の咲き乱れる空が
ちゃんとあった

――「菜の花」冒頭



同時に、失視者の身体が前にする空間の無辺際は、
その身体へも内在的に折れて
自身の身体感覚を豊饒にする。
しかもそれがハードボイルドでもある。こんなふうに――



【花貝】(全篇)

花貝のように奥歯がかけた
しばらく凍えた指で
なでまわしていると
なぜかいとしくなって
もういちど口のなかにいれた
目のおくで
味をみた
けれど
なんの味もしなかった

じっと指のはらのうえにのせていると
軒や八手のしげみのうえにふる
みぞれの音がきこえた
かけた奥歯のあとをべろでさぐると
それは棘のように熱していた



つる見さんにとって、詩はどう書かれるか。
聴覚、触覚、味覚、嗅覚――
つまり「視覚以外」が注意ぶかく導引されて、
一個の息づく闇=穴である身体に充満するものを
「実況」し、「記憶化」し、「再構成」するかたちがまずはとられる。

身体のくらい空隙が意識されているぶんだけ、
ことば=修辞の入り込む容量がおおきい。
だからたとえばおとずれた朝の気配が、明視者と比較できないほど
繊細に叙述されることにもなる。以下のように――



【また朝が】(全篇)

耳のまわりにだけうすぐらくやってくる
朝がある
手足と頭とが
どうしても……とぎれてしまう
朝がある
生きているはずの言葉さえ
すこしも響いてくれない
あせたポリエチレンの
ぼろぼろの朝がある
汚れた皮膚はいくら洗っても
きれいにならない
そのずうっと奥で
息をつめてる暗い神経が
せっかちな小刀のように
ふるえてしまう
朝がある
やせた栃の葉からはえ
古ボタンのむれのように
貝殻虫のはびこり出す
うそさむい朝
こんな朝がまちがいなくやってくる
不幸な一日のはじまり
ひらかない胃袋の
またぽとりと落ちる
かなしい朝
ようやくしめったタバコに
火がつけられ
その身軽なけむりのように
ひと思いに自分をぬぎすてて
空高く舞い上がりたい 朝が
やってくる



朝が晦冥から解放へと向こう過程が
身体感覚を基軸に、見事にとらえられている。
問題は、それを失視者ゆえの世界把握という
納得の構造に置かないことだ。
ことばが奔放で、それ自身を呼吸し、連関し、「生きている」ようすに
ただ打たれることがひつようだとおもう。

このことはラーゲリ体験を解釈の割符にして
石原吉郎の詩の熾烈な外部性を縮減して
平穏なものにすげかえる悪質ともつうじてしまうだろう。
詩のことばは生成だけを現前化している。
解釈など二の次でかまわない、ということだ。

ともあれ、こうした朝の気配と身体の摩擦、もつれ、複合といった
「世界の境界部でのざわめき」は
世界を告知し、その世界内身体を告知するという以上に、
境界そのものを、ことばでするどく境界化する詩業をうみだしてゆく。
この詩的機能に自覚的になったからこそ、
つる見さんは詩を書いている。
失視者として、という以前に、「ただ」詩を書いている。

「世界と自己身体の境界」から「境界」そのものに語らせようという詩法は
圧縮されれば以下のようにさらに飛躍的な修辞を呼びだすだろう。



【不眠】(全篇)

ねばいゴムのヘアネットで
いけどられてしまうよ
かぐろい光のすすが
音をしのばせて
ふりしきるよ
なべぞこの空のしたの
ふるだるの
にごった水のせなか



寝床に眠れないまま仰臥する者が
みずからの上方=空にかんじるおもさ。
身体はその状態から生け捕りにされてゆくが
そこに異化的に現れるものがあった――「水」だ。
詩篇を読むと、この水が不気味なのか恩寵なのかが宙吊られる。
この「宙吊り」と「不眠」の状態が見あっているのだった。

それと、「また朝に」にあった音律反復が
この詩篇では最小限度に入りこみ、
ミニマルな音律性がなにかを明示している。

そう、失視者の「明示」は音律に現れる――
となれば明視者が音律に無頓着な詩を書いたときには
その詩が失視的とよばれるだろう。
いずれにせよ、つる見さんの詩は
詩に内在する視像と聴像の交差配列が詩の神聖な生命だと告げる。

むろんこの詩集は完成度がたかいとはいえ、
つる見さんの初学時代の残存物をひきずっている。

たとえば音律のよさは、中原中也の参照によると
はっきりわかる細部もある。
けれどもその中也の影響が
一種、ことばのハードボイルド精神で煮沸されてもいて唖然とする。

《海にゐるのは、/あれは人魚ではないのです。/
海にゐるのは、/あれは、浪ばかり。》で知られる
中也「冬の海」(『在りし日の歌』所収)にたいしては
たとえばつる見さんはこのような転位を図る――



【うみ】(全篇)

うみのなかに
とりはとんでいるでしょうか
うみのなかに
かぜはほんとに
ふいているでしょうか

どこまでいっても
うみのおもさばかり
どこまでいっても
しんだひかりの
うみのいろばかり



たとえばこの「うみ」なら、
石原吉郎が詩篇全体を脳裡に完全にしるし
記憶化したのちに一気書きしたように、
点字針で一気にしるされていったのではないだろうか。

ひらがなのみという条件は「全体性」に傾斜し、
よって詩はひかりか盲性かのどちらかにふりわけられる。
逆にいうと、ひらがなに混在している漢字なら、
「世界の地」にひらく「窓」を形成し、世界を多様化する。

ただしそれよりも、
詩篇がいったん記憶化されたことでいわば「繭籠って」、
その全体に触感的な「盲性」が生じているのではないか。
明視者だった石原吉郎の詩にも、
するどい盲性を感じてしまうのはそのためだろう。

つる見さんはともあれ、不明性の幔幕にではなく
その幔幕をとりはらってなおも失視に「かがやく」虚空に、
ことばをかたどって、ことばを霊化(融即化)してゆく。

詩が失明者によってどう書かれるかを詩篇化した作品もいくつかあるが、
つぎの「影の探索者」中のフレーズは
詩の霊的な機微をもっともつたえるものだろう
(引用冒頭の「夜道を歩く」が
失視者ののがれられぬ体感である点に注意)――



夜道を歩くわたしには影がない
しかし
わたしが杖を
ひとたび振れば
音は弾けて
つぎからつぎへと
物が現われ
その名が現われ
影が現れる



本書の「跋」は故・菅原克己が書いている。
菅原さんが日本文学学校の講師だったとき
全盲の受講生としてつる見さんが入ってきて、
ふたりはすでにそのとき、教室で詩的火花を散らしたのだった。

その菅原さんが述懐した教室でのつる見さんの
自作詩の朗読のすがたが、これまたつる見詩の正体・秘蹟をつたえる。
つる見さんの「音律」がどのような身体性によっているかがわかるのだ
(ただし以下の引用では適宜改行をほどこした)。



点字を探す指先にあわせて、
一行をさらに短く区切りながら、
息を吸いこむようにしてゆっくりと読む、
まるで、一つ一つの句読点を
空間に打っていくように。
するとぼくらは、
文字を見る以上に、
網膜の内側に彼のイメージが
つき刺さるのを感じるのである。
 
 

2010年10月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
 
※「四囲」三号へ転載するため
重複をきらい
ここにあった日記本文を削除します。
「四囲」三号成立の暁には
またお知らせいたします
 
 
 

2010年10月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ものの実感

 
 
【ものの実感】


ものの実感などというものは、そのものが落掌されて、しかもそれ
がもののかたちやひかりではなく、ただ風路をめぐらせているとき
にのみ到来する。個物がそれ以外であるようなこのみちびきによっ
て、わたしたちはみずからの目だまにかぎりない穴をあけてゆき、
ものにたいし盲目であることで、もののうめきとも、同化しようと
する。だからそれが、はちみつであるかどうかが問われない。むろ
んわたしたちも熊ではないのだから、舌以外の器官をつかって、そ
うしたあんふぉるめると黙契をむすぶ。その器官が皮膚であるなら
ば、わたしたちは実感以外のなにものもみずからに補給せずには生
きていない。風化をともにするということだろうか。なるほどもの
は壊れてゆき、そのときながくひかれる尾のほうが、薄命や薄明で
ある、もののおもかげにあう。たまゆらゆれる。わたしたちは基準
からはずれ、いつでも掌上のものを生きるためのあまさとみとめる。
 
 

2010年10月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

天安門、恋人たち

 
 
「図書新聞」にロウ・イエ監督、
『スプリング・フィーバー』評7枚を書くことがきまり、
昨日の夕方は監督の前作、『天安門、恋人たち』(06)をみていた。
曰くつきの作品。
というのも、タブーだった「天安門事件」を描写したことで
ロウ・イエは中国国内での映画撮影に以後、手ひどい制限を受けたためだ。

ロウ・イエ監督の劇場映画第一作『ふたりの人魚』は
フィルム・ノワールの歴史的一作『湖中の女』のように
全篇が主人公の位置にある一人称主観カメラで撮影される。
すなわち主人公の姿だけが作品内から除外される鉄則を貫く。

水への偏愛と、撮影設計のこのような厳格がまずロウ・イエの個性だとすると
『天安門、恋人たち』ではカメラはその前作『パープル・バタフライ』同様、
空間内を刺繍するように手持ちで分け入り、
縦構図で走りぬいてくる人物群を見わけて揺れ、「踊る」。
ヴィットリオ・ストラーロがベルトルッチ作品で定式化したカメラワークだ。
これは空間内に生起する事件性を、
観客が衝迫のうちに「見分ける」臨場感をとうぜんに生み出す。

ロウ・イエのもつ次の個性が何かというと、
人物たちの恋情成立もまた事件化され、
画面が息苦しい「恋の気分」に染め上げられるということだろう。
その出会いは何気ないが、決定的、不可逆の事件性を帯びる。
出会いという運命の大きさにたいし恋愛的人間の身体が卑小である点が
上述のカメラワークによってドキュメンタルにとらえられること以外に、
初発性にこそなぜか事後性の刻印が捺されてしまうような「突き放し」もある。

初ダンス、初キス、初セックスで男女のかたどる息の荒々しさが、
それら身体をさいなんでいる受難のようにみえる点に
ロウ・イエは緻密に分け入ってゆく。
この生態観察的な冷徹さが、
『天安門、恋人たち』のような色味を消した曇天撮影、夜間撮影にセットされて
人物たちは存在の歴史性を獲得するといっていい。

長い時間レンジ、空間も飛躍する集団恋愛劇なのだが、
ヒロイン、ユー・ホンを基軸にすると
舞台は88年、天安門事件前年の北朝鮮国境の地方都市からはじまる。
ヒロインに「通知」が舞い込む。北京の大学への合格決定の報。
ここで、「通知」が運命を超越した次元から個々人に達し、
ひとはそれに翻弄されるしかないという隠れた主題が滲む。

ユー・ホンは女子寮に入り、隣室のリー・ティーから紹介された
チョウ・ウェイと恋仲になる。
ダンス、キス、寮内での秘密裏のセックスという描写手順は前述したが、
ロウ・イエのもくろむセックス描写、
その運動神経が素晴らしい点が閑却されてはならない。

二段ベッドという空間の狭さのなかで
正常位を男の背中上から俯瞰気味にとらえ、
その背中によって乳房をはじめとした女の身体細部が消される。
女の顔は男の肩口に小さく親和的に収まるが、
その全身は男の体重につぶされそうにみえてあやうい。
いわば「病苦」のかたちで女は薄目をあけて悶えながら、
喘ぎを発していって、性愛行為が発作、あるいは受難だという認知が生じてゆく。

セックス描写がやがて頻繁になって、
そのユー・ホンの意外に豊満な胸や陰毛が画面に定着されると
女性身体がもつそのままの「痛ましさ」がさらに胸を打つことになる。

貧しい少女性の面影の宿るユー・ホンはそれでも多淫だ。
地方出身の出自をルックスのアンニュイと仕種の神秘性で隠しつつ
(彼女はチェーン・スモーカーだった)、
「たぶん」大学に入っても学業や将来に確定を見出せないことに苛立っている。

「たぶん」と書くのは、日常的会話が演技描写のうえで採取されるだけで、
人物の心情はその表情から忖度するしかないからだ。
むろんそこでは一人称ナレーションの音声も画面を縫うのだが、
地方出身、「秀才」のナレーションは詩的、どこかで韜晦的で、
実際はヒロインの心情を割り出す道具になるというよりも
どこかで画面にそのとき成立している「空気」を
より濃密に醸成することのほうに寄与している感触となる。

大学にはもう民主化要求のビラ、壁新聞がここかしこに貼られ、
夜間解放された教室では学生たちが所狭しと蝟集して
政治的議論に花を咲かせているようだが、それらは間接描写にとどまる。

ロウ・イエの主眼はそのときの北京の大学の空気を画面に転写すること、
そしてその環境で成立した愛の実質を問うことだろう。

愛の永続を、近代的自我の成立の代償として信じず、
チョウ・ウェイの本心を試すように
心理学教授と寝たと語るユー・ホンの自己放棄の質が、
彼女が慢性的に抱える腺病質の病めいたものと相俟って悲痛感をもたらす。

なにかに邁進しようとすると心情の冷淡が顔をだして
自分の行動に停止をかける。
自分にとっての「停止命令」の巣が、自分の身体になるという逆転。

ただし当時の中国の大学教育では、
このカフカ的不可能の意味は解明されないだろう。
ユー・ホンは「水のないプール」で
自分のからだを抱きしめることもない胎児型で
貧血発作だろうか、身体の不調をただやりすごすことしかできない。

やがて天安門事件勃発。軍事介入によって北京在・諸大学の学生たちは
痛ましい敗走をしいられてゆく。
当初のデモ参加の段階で一体的に高揚していた学生たちには
冷え冷えとする温度差が生じ、
その時点で「腐れ縁」だったユー・ホンとチョウ・ウェイに
決定的な亀裂を呼びだしたようだが、その詳細も描かれない。
闘争的学生がユー・ホン、日和見がチョウ・ウェイということでいいのだろうか。

結局、ユー・ホンの自己放棄癖が大学退学、一旦の帰郷を結果し、
大学にのこったチョウ・ウェイは、勢力復活した軍部の指導により
大学の授業時間に軍事訓練をしいられる屈辱にあまんじることとなり、
やがてこの抑圧を嫌い、ユー・ホンをかつて自らに紹介したリー・ティーとともに、
ベルリンに留学出奔することになる
(チョウ・ウェイはリー・ティーのステディにして
先にベルリンに留学していた男の親友だった)。

ヒーロー、ヒロインにたいして第三軸をなす
このリー・ティーの存在感もわすれられない。
たえずなびく長髪の華やかな、アート志向の風来坊少女といった感の彼女は、
なにか西洋性を既得して、中国的自我の近代化をクリアしてしまった風情だ。

彼女がユー・ホンに寄り添うようにいるときはレズビアンの雰囲気をただよわせ、
交友関係にも抑圧のないフーリエ主義を先駆的に実践しているようにもみえる。
それで天安門事件の抑圧のさなか、
ステディの親友にして親友ユー・ホンの恋人チョウ・ウェイと寝て、
これがユー・ホンの知るところともなり、
ユー・ホンの大学中退の一因を導きだした。

「民主化をもとめるわたしたちは自由を希求するのだから
性愛選択の自由だってとうぜんそこに付帯するはずなのに、
ユー・ホン、あなたはこの程度のことでなぜ傷ついたの?
愛など共有すればいいじゃないの」とでもいった
リー・ティーの言外のことばが画面から響いてくるような気もする。

ユー・ホンのその後の流離を度外視して先をしるせば、
リー・ティーは留学先、90年代のベルリンで
ステディ、さらにはチョウ・ウェイと愛の三角形をえがくかにおもわれた。
しかし理想的な愛情生活だったはずが、貧窮にさいなまれ、
結局は自我の自由化に失敗したのか、
あるときビルの屋上パーティのさなか、
前兆まったくなしに投身自殺を遂げてしまう。

ここで付記すれば、中国的「乱倫」論が
この作品の裏側に張り詰めているといえるだろう。
居住地が敵によりいつ蹂躙されるか知れたものではない中国では
『金瓶梅』などをもちださずとも、
民俗的に元来、性倫理意識がひくかったとおもう。

中国の大学が小平時代、文革の傷も癒え
共産党独裁から離れた「緩和」の精神で入学者を広範にもとめたとき
一挙に精神のポストモダン化がすすんだ
(たとえば外国文学の翻訳も急速に発展する)。
このとき「乱倫」もポストモダン的な生、
その遊戯性の「手段」となったのではないか。

ただしポストモダンの導入が急進的だったため、
結局、「乱倫」は当時の大学生にふかい傷跡をのこすことになる。
『天安門、恋人たち』は紛れもない「天安門事件後遺症」の映画だが、
ひとを傷つける役割を果たしたのは運動的敗北ではなく
むしろそのときのユートピックな性意識のほうだったのではないか。

それは「喫人」(魯迅「狂人日記」にしめされる因習)とおなじく
ただ中国人のからだに根深く巣食ったもので、
実際には解放と無縁だった。
同じものが、同じものに回帰しただけだった。
つまり「教養」など、人文に関係しない付け焼刃にすぎなかった。

「天安門」以後は経済成長を土台に
中国全体が功利主義に突き進むが、
民主化に向けて異議申立を敢行した学生世代には
その性にこそ傷跡がのこったと、
ロウ・イエは示唆しているのではないだろうか。

「愛は傷だ」という述懐は、作中ではリー・ティーがおこなった。
精確な引用ではないが、リー・ティーがかたったのはこんなことだ。

「愛の対象とは、愛しているという自覚をもつその対象自身ではなく、
その対象から受ける自らの心の傷のほうだ。
その心の傷がやがて癒えるとするなら、
愛の対象は最初から最後まで存在しなかったことになる。
愛は幻影だ」。

作品は人物布置に交差関係をつくりあげる。
このリー・ティーの託宣に最も支配を受けたのは
じつはリー・ティー自身ではなく
ヒロインのユー・ホンのほうだったとみえる。



民族的な「後遺症映画」が映画史にふかい足跡をのこすことがある。
70年代中期からのベトナム戦争後遺症映画のみならず、
日本ではたとえば『浮雲』を筆頭に大東亜戦争後遺症映画があった。
また韓国ではイ・チャンドン『ペパーミント・キャンディー』があった。
これは韓国90年代後半のバブル崩壊で人生を壊滅させた男が
どうしてそうなったかを80年代前半まで遡行的にえがくものだったが、
けっきょく判明するのは、作品が光州事件後遺症映画だったということだ。

ロウ・イエは、ジャ・ジャンクーと双璧ともいえる中国第六世代の監督。
先行する第五世代が文革体験を喩的に昇華した
シンプルな作品群でその映画キャリアを開始したとすると、
第六世代はまず文革後遺症的なディテールを、
作品の細部に滲ませることからはじめた。

第五世代は世代的には団塊世代で、たぶんほどこされた映画教育も教条的。
第六世代は日本でいうシラケ世代に相当し、
映画に多様に接することができるようになったその自己形成期によって
作風は「引用主義的」「映画記憶的」、もっといえば「オタク的」になる。
むろん日本のその世代のように政治意識が稀薄になることがない。
なにしろ、彼らが生きているのは、熾烈な中国社会なのだから。

だから文革後遺症にたいして
世代意識を先鋭化させるというその出発点からして
やがてロウ・イエのように天安門事件後遺症へと
その視野が移行してゆくのも当然だろう。

骨太の「後遺症映画」にはじつは骨法がある。
それは『浮雲』や、時制生起は逆順だが、
『ペパーミント・キャンディー』にも共通するものだ。

つまり民族的事件の推移にこそ人物が翻弄され、
時流に乗れない苦しみが描かれるとき、
民族的事件の推移が記憶台帳に記載済であることを条件に、
ごく単純にドラマのなかに参照されて、
結果、時制が狂奔的速度で飛躍しても
人物の心情がその国の歴史性によって付帯説明される、ということだ。

とうぜん人物は「一者」であっても大多数を代表する。
こうした枠組があるから飛躍が飛躍にならず、
むしろ民族的年代記をドラマが隠喩するようになる。

そこで流離の感覚だけが先鋭になってゆくとすると
技法上「時制の飛躍」は映画上に傷口をひらくことにこそ貢献する。
『天安門、恋人たち』は撮影設計上なら
手持ちカメラによる空間の刺繍が特色だったが、
話法上は時制と空間の飛躍にその特色があって、
それは「場所と年代のテロップ」によって単純にしめされた。

長い年代記として印象されるそうした作劇では俳優演出は
時間=歴史の垢が人物の肌にどう溜まり、
どのように惨たらしい加齢がしるされるかが眼目ともなるが、
ユー・ホンを演じたハオ・レイ、
チョウ・ウェイを演じたグオ・シャオドンともにこの点は見事だった。

90年代をベルリンにとどまって停滞した
リー・ティーとチョウ・ウェイに較べ、
天安門事件とそのときの性に傷を受けたユー・ホンは
その後、どこか神経質な腺病質ののこる大学中退の下層労働者として
中国の内陸中核都市を、まさしく逆倒した貴種として流離するようになる。
憶えきれないほど彼女のいる場所と時制が変わる。

図們から深圳、さらに武漢、重慶へと移り住みながら、
自己保身をかえりみない恋に落ちつつ、「同時に」自身の心の冷淡さにも気づく。
不倫、堕胎――彼女の心とからだには目にみえる傷も加算されてゆく。

たえず自分を巣食う不充足感は、彼女にとっては
いまだ往年のチョウ・ウェイが意中にあるからだと自覚されているが、
観客はロウ・イエの仕込んだ恋愛現象学を主体的に読まなければならない。
現状の不如意=過去からの傷という図式が成立するとして、
その傷がただチョウ・ウェイの形姿をしているから、
チョウ・ウェイが意中にあると錯覚されているだけなのではないか。
実際にユー・ホンにあるのは現実にまつわる不如意感と流離意識だろうし、
ということはもうチョウ・ウェイから受けた愛の刻印も溶け去った、
自分のからだだけがただ無名性としてそこにある、とかんがえたほうがいい。

リー・ティーが自殺して、ベルリンから去ったチョウ・ウェイは
重慶に、すなわち偶然、ユー・ホンの居住地にたどりつく。
当初、留学が目的だったはずのベルリン体験は
チョウ・ウェイにおいても実をむすばず、
彼は町の印刷屋の仕事にあまんじている。

ロウ・イエはたくみにふたりの再会時間を溜めて、
なにかの倦怠の意識によってというように、
ようやく再会シーンをドラマに刻むが
そこでこの作家が「すれちがい→真に出会うべき相手との再会」といった
メロドラマ主義を期待させながらそれを躱す、
実際はメロドラマへの加虐者だったとも判明するだろう。

再会の瞬間、もう時間の苦悩が刻まれているふたりは
キスを交わすが、セックスを躊躇する。
「酒がほしくなった」(なんと残酷な身体反応だ)とチョウ・ウェイがいい、
「買ってくる」とユー・ホンがいう。

ここから、それまで映画が残酷にしるしてきた大きな幅の「時制飛躍」が
ちいさな「時間経過」にすげかわる。
そこではチョウ・ウェイを映す同じ場所のカットが変わり、
すこし光が変化するだけだ。
ところがそれはやはり従前の「時制飛躍」同様の
「飛躍」の残酷を性質としてもっていた。

作中、最も「冷えた」その場面には水が参加していない。
チョウ・ウェイとユー・ホンの幸福時にあった水上のデート、
あるいは天安門危機のさなかの大雨のようには水がない。
あの水は抒情と受難の実質で、観客の心にも水をのこした。

ふたりの最終的な帰趨がどうなったのかは具体的に書かないが、
ただ散文的に乾いていて、そのことに戦慄が走ったとはしるしておこう。
あるいは、欠落がドラマツルギーの中心にそこで代位した、と。

映画は最後、字幕で人物たちの最終情報を列挙するが、
それもまた、シャワーのように画面をうるおすことがない。
ただ、エンドロールに召喚された人物たちの「過去の場面」だけが
まるで皮肉のような人工感でのみ、濡れていたのだった。
 
 

2010年10月20日 日記 トラックバック(0) コメント(4)

勲章ののち樹をさがす

 
 
【勲章ののち樹をさがす】


ドイツ軍人の勲章をひとからもらったが、想起に脱臼をもちこんだ
うえで、わすれていることどもを自分に引き寄せよ、という示唆か
とおもう。これは手のなかで鳴らすものだが楽器でもないという事
物の偏差が、まずここには存在していて、それが自分のからだへの
おもいと二重化してくる。退屈を現象するものの構造がすべてひと
しいのではとすらかんがえてしまうが、すべては火をつけるまでに
ゆかない。その勲章も、あなたがくれたのだからあなただろうが、
あなたとはわたしからの距離でしかないのだから、火はありうると
すれば別の草はらを炎やす媒質にすぎないだろう。勲章なら古代フ
ェニキアの通貨のように重いが、その重さをもって掌を焔につつむ
わけでもない。なんだろう、ともあれファシストでないしるしなの
か彫琢とか飾りとかいうものがわからなくなってきて、ただ生ずる
ものとして日の昇る音を聴き、黒シャツをまとい朝早くから出かけ
た。勲章を根もとに捨てるための樹をさがそうかとおもうが、次は。
 
 

2010年10月19日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

小川三郎・コールドスリープ

 
 
小川三郎はことばをたぶん不信の対象にしていて、
その不信感のゆるぎなさにおいてことばを信じている。
つまり、逆説をともなった、再帰性の対象として
ことばは小川三郎の手許で運動をする。

そのようになればとうぜんことばの並びが疎隔を組織する。
ここからでてくるものは飛躍とか脱論理といったものにもなる。

いっぽう詩行や詩文の構成が「逆」をただ自己表現するだけならば
その詩作はたんに手品師の所業へとおとしめられてしまう。
小川の詩がそうならないのは、
そのフレーズに、詩の趨勢によごれない、
独特のハンドメイド感というべきものがあって、
意外性も彼の身体からじかに浮上していると認知されるからだ。
独特の体内抵抗圧があって、それが好きだ。

小川三郎は『永遠へと続く午後の直中』から
そうして詩を書いてきたが、
そこに変化が兆したとすれば、
たぶん恋情の形式のうちに他者をとりこんで、
くるしさをおぼえる生活が成立していったためだろうか。

小川はむろん周到だから詩作背景などあからさまにしない。
けれども、フレーズを任意的にとりあげられたばあい、
詩集一冊が苦衷のラヴソング集に還元されることも厭ってはいない。



小川の言語観をしめす好篇が
このたび上梓された新詩集『コールドスリープ』にある。
集中「ことば」の一節――



〔…〕
私は自分だけでものを考えることはできない。
この文章だって
ふたりで相談して書いたものだ。
だから私はいつも独りで
死ぬほど苦しくまなくてはならない。



思考の不能性、というマラルメ的命題にたいし
いつでも救済的に到来してくるのは
「われわれはいつも〈ふたり〉だ」ということだろう。
わたしとこの別者の対は、
わたしとドッペルゲンガーの取り合わせということではない。
相手は文字どおりの身近な他者だろうし、
もうひとつはわたしに内在する偏差が双数性をもち
それこそが発話装置になるという自覚でもあるだろう。

引用部分の最後から二行目「だから」は
なるほど逆接でむすばれるべき文脈に
順接の接続詞が誤嵌入されている印象をもたらすが、
発語の不可能性突破が上述「内在偏差」によるのなら
これは順接接続詞でかまわない、ということになる。

同時にこの「ふたり」は小川の実人生の奥行をかすかに照射して
そこから他者との偶然性によって
詩的発語を促進されている彼の日常もみさせる。
小川は本気で自分の詩を《ふたりで相談して書い》ているのではないか。

小川の詩集タイトル「コールドスリープ」は、
まずは冒頭掲載詩篇「名乗りそびれたものたちのこと」冒頭を
直截の命名根拠にしているとおもわれる。



ベンチに雪が積もります。
その雪をベッドにしようというのですから、
やはり子供たちの気は知れないものです。
川べりにあるベンチですから、
風がびゅうびゅうと吹きつけます。

そんなベンチに彼らは並んで寝転がり、
透き通った雲に覆われた空を見上げ、
何がおかしいのか
笑ってばかりいます。
〔…〕



雪中就眠=コールドスリープ=仮死。
「仮死」とは決定性の死(そこでは死は一回しか体験されない)にたいし
連続性の文脈に置かれて死の実質にふれつづけることではないのか。
凍死、あるいは死による体温奪取がおこる寸前で
みずからの体温のなかに蘇生することは
死の相貌がなにものだったかに直面しつつ
なおもそれにとりこまれない「ぎりぎりの躱し」を志向する。
死にたいする距離測定、あるいは死との疎隔の意志的な生産。

掲出詩文中、いっけん「子供たち」は小川の内心に
ノスタルジックに巣食った「幻像」のようにみえながら、
小川はこの外在性を媒介に、自己無化の運動をもつかもうとする。
熾烈な関係図式が急速に成立しつつ
寓話性が詩文の「意味」を貫通しているので、
読者は豊饒な不安定感(脱臼感覚)に巻き込まれてゆく。第三・四聯――



私は一人の子供の手を取って、
自分の手のひらと合わせてみました。
するとその大きさは、私とちっとも変わりませんでした。
それどころか、
私の手をすっと握りこんで、
絶対的な力で私を閉ざしてしまいました。
一体こんなことをして、
これからどうしようというのでしょう。
〔…〕

私はどんどん小さくなってしまいます。
それは眠りとは違い、
やがて消えてしまう予感すらします。
〔…〕



コールドスリープ=他者媒介的な寸率縮小化。
ところがそれは他者のつくる世界をも掠めているから、
またもや小川の記述は逆接的な内容を漏洩してくる。
《するとしかしなぜだか、/心に小さなランプが灯ったような、/そんな気がするのです。》

ともあれ自身の寸率的縮小化(「無」にちかづくこと)は
あらゆるものへの「同化」をもたらす。
けれども形成される「論脈=詩脈」は
終始、熾烈さをのがさないような逆接に貫流されたままだ。
あるいは論理性の舌足らずを不気味に装填させたままだ。以下のように――



子供たちも私も、空や川や雪だって、
所詮は見て楽しむために作られたものであって、
海のように子孫を残すことはできません。
悪意はないにせよ、存在すなわち破壊であるという意味においては、
みんな同罪なのです。



「子供たち」は外在であると同時に、
何か分子運動をも起こすシミュラクルに見受けられる。
一切の無化は多在的であるべき季節が溶融して
世界が多層のまま浸潤する一瞬こそを射当て、
とうぜんそこに最もうつくしい詩句が構成されてゆく
(そういう詩文がこの詩集には数多くある)。



子供たちが、笑い続けるものだから、降りしきる雪はもう、
桜と見分けがつきません。
そのようにして子供たちは、
冬と春の境目に爪を立て、
そこからぺりぺりと剥がしてみたり、
秒読みを始めたりするのです。
子供たちに理由など必要ない。
〔…〕



「理由など必要ない」「そのことがそのまま笑いにみちあふれること」、
小川の詩文そのものがそんな境地を目指そうとする。
このときに季節崩壊、季節溶解が起こり、
時間の深層が垣間みえるとすれば、
またしても小川の第一主題は
『永遠へと続く午後の直中』からずっと
「時間」だということにもなるだろう。

季節の運動性のなかに、
矛盾撞着的に人間(恋愛対象?)の不動性を宙吊りにした、
次の詩句(集中「寄り添う。」の結句部分)の
驚異(脅威)的なうつくしさはどうか――



偶像が空を支配する五月に
あなたはただ
人間という言葉によって
崩れ落ちる春となり
音速にて踏みとどまる。



詩的な実質を獲得するために、空間を崩壊させるという
感覚の英断ともよぶべきものがこの詩集には散見される。
そういう小川は若々しいが、
「見者」の特質を単純に生きているともいえる。



世界中が海になるまで
ぼくは進化などしない。
たぶんそれは悲しいことだ。
(「日々の続き」結句部分)



あたりは夕日が沈む音に
薄紅のように閉ざされている。
絶望的な眺めのなか
いつのまにか隣の椅子には
青鬼が
女の姿で座っていて
私の涙を丹念にぬぐっている。
(「青鬼」結句部分)



坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」終結部の逆転でもあるだろうが、
アンフラマンスや不在を表す「世界の構造」的な道具、
「椅子」がこの部分で効果的にもちいられている点に注意した。
詩篇「生活の鳩尾」には以下のフレーズもあるのだった。
《あなたの机と椅子が/部屋の隅に溶けて行くのを/ぼんやりと眺め/私もそこに足を差し出す》。

こういう「椅子」が実在/非在双方の領域にまたがってみえるのが
小川特有の視界ということだろう。見事な視力だとおもう。
この証拠として、ふたつの対位法的なフレーズをスパークさせてみよう。



ここは、ここではないどこかとはちがうことの、
証明として。
(「雪だるま」部分=A)

水面に映った自分の顔を、
見つめてしばらくぼんやりとする。
〔…〕
自然と半分半分がすてきだ。
(「たぬき」部分=B)

Aは、実際は証明済のことを証明しようとしている。
つまり掲出一行目は「ここはここだ」という同一律の言い換えなのだった。
むろんそこから貞久秀紀的「明示法」の
「アンフラマンス(極薄)な再帰」が結果されている。

Bは幻影と一体になった自身に、
いささか不釣合いな「自然」の語までもが導入され、
自己が表象する(病理する)逸脱こそが「すてき」と語られる。
ここでは「それはそれでないことによってそれである」という
融即の法則が支配していて、むろんAとは対蹠的だ。

「だからこそ」、小川の想像力にあっては
「部屋のなかになにもない」という主題をもつ詩篇「過去」と
「部屋のなかにすべてがあふれかえり窒息に導かれる」詩篇「顔」とが
矛盾撞着的に詩集内に配置され、
相互がうつくしい均衡をたもつことにもなる。

いまいちど註記すれば「みえないものはみえ」
「みえるものはみえない」ことこそが小川的視覚の真髄だということだ。
ここでは「みえるものはみえない」という主題を潜ませている「過去」を、
小川詩篇の全体性を公平にしめすため、全篇転記打ちしておこう――



【過去】


なにもないんですねえ
あなたの部屋には。

ええ、夕暮れしかありません、
夕暮れになれば

美しかった桜も
なくなってしまう。
遠くから流れてくる音楽は
タイトルが思い出せませんから
なくなってしまう。

誰の記憶だか知りませんが
そんなものが
床のあちこちに転がっていて
拾い上げて目を凝らしても
それは私の記憶ではなく
だから
なくなってしまう。

私の部屋には
なんにもないのです。




素晴らしい詩篇が『コールドスリープ』には満載されているが、
とくに詩集最後に収録された「惑星」は
対象を駱駝に仮託した琴線のたかいラヴソングだと襟を正した。

結像のあやうさと逆接の点綴によるラヴソングといえば
ボブ・ディラン『ブロンド・オン・ブロンド』中の歌曲の数々をおもいだすが、
「惑星」のかもす雰囲気と心情はそれらにもとてもよく似ている。
 
 

2010年10月19日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

鐘守

 
 
 
※「四囲」三号へ転載するため
重複をきらい
ここにあった日記本文を削除します。
「四囲」三号成立の暁には
またお知らせいたします
 
 
 

2010年10月18日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

金星

 
 
 
※「四囲」三号へ転載するため
重複をきらい
ここにあった日記本文を削除します。
「四囲」三号成立の暁には
またお知らせいたします
 
 
 

2010年10月16日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

額縁

 
 
【額縁】


ゆっくりと読む本の、ゆっくりさを許容するというよりもゆっく
りさをしずかにこちらへとあずけてくる感覚は、どこかがひかり
の悲哀にみちている。そこでは字面のとおくがゆれていて、その
はるかな眺望のなかでは自分の孤独までが置きざりにされる。あ
るいは文字の連続にたいして自分の連続のほうが遅いとかんがえ
るときも、従順さであるよりも意味の間隔に自分が参画すること
のほうがもとめられていて、じっさい本に横たわっている謙譲に
は、積極性ではなしに自分の無物がつねに法則として差し向けら
れると知ることのようだ。そこには内心の声が図書館の内でそう
であるようには渦巻いておらず、声のとぎれのほうがなにかへの
見惚れの時にただ対応している。方向とひかり。もっというと修
辞上のたたみかけの不在が、読みながら中断を読むという別次元
で読みを着々とふやして、そこでは本の同定性すらも意味をなさ
なくなる。読むことは放心によっていったん沈められ、読みの勃
興も自分の水面に石をなげたときの波紋に似てつぎつぎに消えて
ゆくが、中間性としてある本ではあたかもそうした模様のほうを
読んでいるかのようで、それが見惚れとなって読みをことさら遅
くさせる。遅滞のほうが競争で勝つ、といった、本と読みのせめ
ぎのなかでうかびあがるのは、それでも怪物的なものだ。これら
が人生とか感覚とかと呼ばれる。やっと到来するものを書くのは
いつでも或るときの吐息だということ、これらが心中、銀色の額
縁までほどこされて、ただ人生とか感覚とかと畏怖的に呼ばれる。
 
 

2010年10月16日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【箔】


雨中の焚火をとりわけしろくみるのが
いわゆる秋の内側ということだろう
それら箔はかるい
ゆけば庭園のとおくに脳園もあって
栗のかたちの水をさらにひろった
これら箔もあかるい
 
 

2010年10月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

沈下する家

 
 
【沈下する家】


沈下する家はそのめぐりにあった土を浮上させて、みずからのかつ
ての場にもようやく葉をあつめさせる。あつめられたかたちはしぜ
んと渦をまき音の陥没までしめすから、それは家の消滅ともしずか
さに準って釣りあうはずで、では家にあった窓が沈下の日々に周囲
のなにをみたかということが想像となるだろう。没落に献花をおこ
なう、なつかしい訪問者だろうか。忘却そのものを発話の過程でみ
るということだってしばしばおこるが、ここでは窓の背後の眷属が
いかなる忍辱をおぼえたかがきれいに閑却される。なぜなら地面に
ひらくかたちで置かれた花柄の傘がそのまま地面に還るとき地中に
も雨がふる、というのは、体温をともなった人間的類推にすぎず、
ほんとうは土へのしたしみというか礼節を欠くためだ。内部的宇宙
を気孔だらけの鉱物性としてもつ土にたいして、たかさはおのずと
ほろびる。結晶は推移して、組成のより自在なものに席をゆずり、
このかぎりで冷蔵庫とか椅子とか飼犬とかの人間的調度品も脳裡に
並列されるカタログにすぎなくなる。そんなものはなかったといっ
ていい。だとすれば家にあったはずの階段がアコーディオンの蛇腹
をおもわせてどのような平面へと圧縮されていったか、その想像だ
けに悲鳴と音楽をむすぶものがあるともいえるだろう。土を聴いた
わたしの一家は離散したが、そのおもいでの階段の一部にわたしが
いて、たれにも聴えない悲鳴をずっとあげていた。秋のことだった。
 
 

2010年10月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

悪運のほし

 
 
【悪運のほし】


悪運のほしはひとしれず照らすものではなく、意志としてつかんだ
ものであるから、きみはゆえしらずはいった暗やみなどで、自分の
化け物のてのひらをひらき、それがほたるのようにひかるのにもお
びえる。てのひらがきみの部分であるべきなのは論理だが、感覚と
してもうきみの全体になってしまったのは、きみが年齢や背丈では
かたれない存在になってしまったからで、きみはてのひらからたし
かにこころへとその暗やみではぶきみに延びているのだった。その
意味できみにはからだもなく、てのひらだけがあり、しかもそれが
笹の葉ずれひとつつかめないので、位置というものすら無意味にな
って、これこそが悪運の本質ではないだろうか。むろんきみはなげ
かない。おびえる心情だけが崇高だと、すでに自分を説き伏せてい
て、してみると悪運は身にまとえば、暗やみをあるく原理にうつし
かわる。うつしかわることがすでにひかりだから、暗やみは暗やみ
のまま克服される。だがそうしたとき、きみの全体は悪運で、こん
どはきみにてのひらはなく、きみはからだだけになっているだろう。
 
 

2010年10月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

歌仙独吟・上

 
 
1 迎ふるに火をもつてする秋の門


2  千年の空あきつ流れて


3 背伸びして歩く嫦娥の天心下


4  夜長と競ひ鬚もかげりぬ


5 梨といへ食卓の燈のあかるさを


6  魚棲まぬ世の田畑の広さ


7 托鉢の鉢に糸遊きらめきて


8  春飲食に草のにほひす


9 けむりの身ひかりとなさん聖霊会


10  なにの供養か柳のゆれも


11 萍の浮き初むる日に女児を得て


12  橋ゆ菖蒲を見やるこの頃


13 刃物研ぐ蒼みの須臾を夏つばめ


14  すゝきのはるか簪ひかる


15 月とゐる独居に黄色あふれたり


16  むかご炊きこむ飯のさきはひ


17 花明りして事もなし俤は


18  持ちはこぶにも風船かろし




立教の演習授業で
参加者と連句をつくり
アタマが歌仙気分になっていて、
あそびで独吟を巻いてみた。
いずれ祝言までの三十六句を
「下」として完成させよう。

そろそろ来年の大教室授業を
構想しなければならないのだが、
昨日、試写への道の夕立のなか
とつぜん啓示をうける。

音楽授業は「バンド音楽について」にしよう。

バンドメンバーの個性によって
バンド音楽がどう形成され消滅していったのか。
ビートルズ、ザ・バンド、第一期マザーズ、エクスペリアンス、
リトル・フィート、ゆら帝、第一期東京事変、
それと現役だが
アナログフィッシュ、モールス、キンクス、三村京子・・・

なかなか「政治学的な」音楽授業にもなりそうだ。

マンガ講義のほうはもう決めてある。
「ガロ系の作家たち」。

いずれにせよ、立教での最後の任期なので
集大成的授業にしたいなあ
 
 

2010年10月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

なみだ

 
 
【なみだ】


ぼくらは足りない、というが
きっといちばんの青さが
みどりだということをおもって
空などをみあげるからだろう
この足りない、はとても旧いので
もううまれたときよりからだは
鏡にもなっていないのだけど
ぼくらはそれで水のそばをきらう
ひかりのあふれすぎている午後
ぼくらは秒針のようなものを
みずからにうしない立ち往生して
みずみずしい桃をすすりあげる
どうしても途方にくれるのは
このすすりにも時計回りが映され
からだの青みがますからで
もうぼくらの空には旗すらながすな
 
 

2010年10月13日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

けむり

 
 
【けむり】


秋の朝がおに花はひえて
みずからふくむ水の匂いが
係累のくさりから
とおくなってゆく記憶だから
花はそこだけを青く
しおれるまでのただのその後を
ちいさな四周の世にとどめていて
ちいささをちいさいとおもうきもちが
花にない灰のようなゆらゆらさえ
目の奥のきわに あってなきものと
ものうくみうけさせているのだが
やはり日がひとすじはしって
あさかぜをみだれてわかすにもまして
花はそこだけを青くしていた
 
 

2010年10月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

きぎ

 
 
13【きぎ】
阿部嘉昭


はちみつのにおいのするてのひらで
しかめつらをする木のひとをつかむと
てのひらにはまみずのなかがあらわれて
おもたいもののういてゆく画集の気がする
きみをあらわれる筆触として愛しているんだ
のべつのべつぼくにくりかえされるものとして
きみの川底をまいている水のうごきが好きなんだ
眼のなかのかいだん眼のなかのりぼんの逃げどころ
箱がじぶんにあるのか相手にあるのかわからないまま
きき金木犀ぎぎ銀木犀のきぎが眼のなかに濃淡をつくり
とおいものとちかいものを一緒にみては消える自らもいる
てはてはてはみぎとひだりのかさなりのようなわけにゆかず
ぼくはおりかえし地点きみにちかづく自らのあゆみへ折られる




とまあ、ふだん軽蔑している幾何学形詩篇を
連詩のながれのなかでついいま書いてしまう。
まあ、ミクシィの画面ではそうはみえないかもしれないが
詩行は一字ずつ字数がふえるかたちで進展している。

詩篇の主体は「熊」、
対象は「秋鮭」のつもりだが
どう読まれてもべつにかまわない。

幾何学形詩篇のなにがはずかしいのか。

「書く意志」「工夫の意志」が前面にですぎて
修辞(たとえばひらがなと漢字の配分/
たとえば助詞省略の有無)がどこかで人為的になりすぎ
しかも詩篇は絵画ではないのだから
べつだんそれが幾何学美を強調されても意味のないこと
その大前提が幸福に忘れられている能天気も感知される。

往年の塚本邦雄の菱形三首配置短歌なんかがそうだね

で、幾何学形詩篇でその幾何学美を仮に実現しながら
同時にその外装を自己愚弄するためには
音律が内部から外装を押し上げ、
外装がヤバいきしみをたてるのでなくてはならない。
しかも「字数」調整箇所を意図的にあらわにするような
悪意だって必要なのではないのか。

幾何学美詩篇を信じないために、
そこに幾何学的外装を導入する・・・

たとえば改行詩を書いていて
ふと各行の字数が五行くらいそろってしまい、
行尾のぎざぎざがなくなって
ツルっとしまうことだってあるだろう。
意図なんかしていなかったのに
意図をかぎつけられるようでこれはすごく気持悪い。

そんなときどうするか。
ぼくならば詩行を壊し
ぎざぎざを復活させてしまうね。
そうすることすら詩作の目的のひとつのような気もする。



昨日は秋葉原クラブグッドマンのライヴに行った。
練達なアコギ弾き語りの三連打があった。
oono yuuki、三村京子、長谷川健一。
oonoくんと三村さんは早稲田二文つながり
(oonoさんは僕の二文のJポップ講義にもぐったことがあるという)、
三村さんと長谷川さんは船戸博史さんつながり、
と、同心円/平行円のような構造だった。

おまけにライヴ終了後の飲み屋では
長谷川・三村・阿部の面子に
Pヴァインで働いている早稲田法学部卒業生と
三村さんの助っ人で坊さん修行をしている
早稲田二文卒業の大中くんがくわわった。
飲み会の面子はみんな僕の活動を具体的に知っている。

大好きな長谷川さんの話でおもしろかったのは
現在、30代半ばの歌手には
フォーク体験のないままアコギ弾き語りをやっているひとが
長谷川さんを筆頭にいる、ということだった。

長谷川さんは大学のときはコピーバンドのギタリストで、
オアシスやミッシェル・ガン(!)が守備範囲だったのだという。
それが活動のしやすさからアコギをもち
それで自分の歌を今世紀にはいったあたりから唄いはじめる。

そのとき歌の根拠になったのは
カーティス・メンフィールドなどのソウル、
さらにはヨーロッパ近世などの雑多な音楽だったが
その台帳にフォークの名が記載されていないのがおもしろい。

(逆に三村京子の最初の自己形成期は
Jポップ好きで通されたが、同時にご両親の影響で
70年前後のフォークブームにも免疫があった。
つまり長谷川さんとの年齢差は
Jポップとフォークの両面に現れた、ということになる)

昨日は最初のバンド、宇宙遊泳もふくめ、
みな良いライヴ演奏だったとおもう。
ただし、気がつくのは、
「男子」の声がほぼみな透明なファルセットで、
しかもそこに粘着性がない。

だから町の風景を通過する自分のさみしさが
蒼白できれいな画柄として
胸を打つように真摯に現象されてゆく。
そういう世界の一貫性がある。

三村さんの音楽だけに、そういう一貫性に
楔を打ち込む倒錯性がある。
それというのも、声も歌唱も歌詞もギターも
一色ではないからかもしれない。

ともあれ飲み会の終わり、
三村さんは長谷川さんから
歌手の身体管理の具体的方法を訊いていた
 
 

2010年10月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

抒情にある流れの枠組

 
 
本日は朝イチから岩波のゲラチェック。
入稿まで入念にチェックしたし
その後書き足すべきことも
ファイルにある元原稿に
赤字で足していったので
作業そのものはラクだったのだが、
何しろ元が100枚ちかい長稿なので
時間もかかってしまった。

顰蹙を覚悟で自画自賛するが、
このアダルトビデオにかかわる原稿は
ぼくの映像論原稿のなかで
「扇の要」みたいな位置にあるなあ。
種別はちがうけど重要性は
谷川雁における「びろう樹の下の死時計」
(『工作者宣言』)みたいな感じ。

この拙稿をふくむ
『日本映画は生きている』第七巻は
12月中旬に刊行、の由です。

ゲラを入れた封筒を最寄の郵便局までもってゆく
行き帰りで、ふと詩篇の冒頭が
あたまをかすめる--



阿部さんこれは外科手術ですか
そんなところをボルトにしちゃイヤン



そう浮かんで、その後をおもいめぐらそうとして
さすがにとりやめてしまう。下品だ。

というよりもこれを「展開」するときは
ことばの変成能力に頼りにした
破礼詩をまっとうするしかないのだが、
そういう「悪達者な」詩篇を
ぼくはさきごろ一挙に詩集編纂プランで捨てきった。
ぼくの機智は好かれるが
悪達者ぶりは眼の敵、と
このごろ自分への評価相場をきめているのだった。

詩篇が成立するときは実際に
「或る予感」がともなわれる。
「抒情」が発想の核になるとしても
それが自然に展開される余地を
あらかじめはらんでないと
詩篇は人為的な印象をおびてしまうということだ。
「ことばで」「のみ」「書かれる」詩になってしまう。
詩はほんとうはどこかが不可能で、
「書かれきる」ことなどないのに。

「かなしい」でも「うれしい」でも何でもいいが、
もともと抒情が一定点に収斂するとき
その抒情はありきたりとなって死ぬ。
なぜなら人の感情に、さほどの種別などないからだ。

むしろ抒情的なものが個別性を発揮しだすのは
それが展開をして
その展開にこそ「類別外のしるし」がやどる場合ではないか。

「こうなって」「こうなって」「こうなって」…
という「もってゆきかた」には
経緯/渦中の把捉不能性をなんとか固定化しながら
それが失敗に帰してそこに記述の束ができ、
その束の推移が情のうごきと
近似的に拮抗するという擬制ができる。

たとえば展開力のある表現媒体とは
小説にしても音楽にしても映画にしてもみなそうで、
そういう展開力の要請が
詩についてのみ放免されるという
身勝手があってよいはずがない。

ところが詩篇の展開性とは
実際はいま例示した諸表現とは別もので、
ことばの展開と情の展開が
拮抗して分離できない点こそを
その定位の根拠としているようなのだった。

おもうことがある。
ダメな詩とは展開という局面からは
以下のような「わるい」特性をもっている。

1)展開がない(すべてが同じ)

2)定点的無展開が並列になって
並列性だけがあり、運動がない

3)展開至上主義になったように
ことばに、展開にかかわる負荷がくわえられているが
それがことばの展開でしかない

現在のネット詩などは
意外に「写真」の影響がつよいのではないかとおもう。

瞬間を凍結した写真は
無展開であっていいものと相場がとおり、
空間的なひろがりだけがそこにある。

そうした写真の表面的な無時間性を
安直に信じた詩の類型が上記1だとすれば
上記2はいわゆる組写真状態、といえるだろう。

その組写真がするどい「編集」意識を介在させて
写真集に昇華するのだとすると
2は写真集にならない、出来のわるい組写真に似ていて、
それは実際には詩篇並立の詩集空間でよりも
一詩篇の組成内部でこそ目につくものだ。

ただし写真と類推の利く詩などはどこかが健康的で
厄介なのは3だろう。
これこそが詩特有の問題をしめしている。

3についてはいずれ具体的な作品を俎上にして
なにかを述べる必要があるが、
とりあえずはその尊大無礼な外観だけでもう辟易する。
ことばの籠城、すべてが武張ってふんぞりかえっているが、
とうぜんそこには過剰防衛意識とコンプレックスと
詩にたいする根本的誤解が透けている。

透けていいのは、書き手の「個別化しようとしてもかわされる」
身体のぶっきらぼうさのほうでしょう?
いずれにせよCの類型は「身体の原資」を
詩に欠いていて、信頼が置けない。

黒蛙さんの日記へぼくは昨日だったかに
次のようなコメントを寄せた。



ぼくはことばでかんがえるのに、うんざりする。
だから、ことばそのものがみずからをかんがえるよう、
ことばを配置してゆくと
それらのことばは相互接着性からはなれ
空間的なすきまをもつものとして再組織され、
あるいは、意味よりも音韻のほうが
ことばの連接原理にすりかわる。

そうしたことばの組成は「まぎれもないしくじり」。
この「しくじり」のなかに
ことばの別相が、「それでもことばとして」うごいている。



まあ詩は即刻、「作者万能主義」を捨てることだろうなあ。



【ふむふむ】


ふむふむが
まゆだまをまえに
うなづいている
すけているものが
そこにない
ないけれども
すけているものが
かんじられる
この「ないがある」
こそが
まゆだまにはあって
それがはればれと
まゆだまの
かたちをしている
といっていい
むろんふむふむと
すごくにているので
うなづきが
おわることもない



おそまつ、らいとばーす
 
 

2010年10月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

ひとさがし

 
 
【ひとさがし】


ひとさがしをしていると
そのひとをではなく
兆候をさがしているような
気になって
くだける
ふうけいがようやく
ふうけいになる時分とは
いつのことだろうか
あたりはくらい
樹のかげがラジオと
とけあって
そんなところから
きんもくせいがかおると
ほしのくずになった
まちびともきたと
ものおもいすらして
ないもののしるす経過を
ただこころにうつした
スカートをはいて
いるのだろうか
そのしたこそが
くだものにも似た
においのはだかなのか
ゆれていて
いずれ対象ではないので
たったままする
たましいのもとめも
庭のまんなかでふるえ
そのゆれだっていつかは
ひとのすがたになる
 
 

2010年10月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ラブソングの気分

 
 
【ラブソングの気分】


異状というものは
よせあつまって
ひと肌にうかんでいるので
あぶらとしてかがやく
ことがある

かみのけのちいさな流れなら
かんがえのかさなりにみえるが
とどこおっているのは
いつだって種類を
さらに類別するもの
そうかんたんにびんぼうを
けだものとよんで
ようやくができるだろうか

くりかえしをかぞえると
駅だってむげんになる
どちらとも束ねられないまま
改札は通過をくらいつづけ
にくたいの煮凝りを切ってゆく
じかんの屈折がみえるそこに
ある夜景がひろがっている

目に香油をさすと、しずかだ
きみの一部にすぐになれるきみにも
またあうためのさようならを
 
 

2010年10月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

茄子か茸か

 
 
【茄子か茸か】


ゆうがたの通りに引き戸の玄関がならんでうれしいのは
がらがら引く音の一斉に鳴るときがあるとおもうから
みんなが茄子取りになって茄子もって帰って「ただいま」
そのときの声の茄子いろをくりやの奥で聴くひとがいるから
いずれみんな漬物になる茄子のゆうがたがさらにうれしい
ただし玄関にでてみると亭主も茄子 息子も娘も茄子で
奥さんの割烹着からは茸が落ちるがそれらも秋の森の耳だから
けっきょく玄関だらけの通りをすぎるのは電気じみた木霊だ
 
 

2010年10月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

お報せいくつか

 
 
廿楽順治編集長により、
PDF詩誌『四囲』2号がネットアップされました。
今回のゲストは飯田保文さん、杉本真維子さん。

同人は近藤弘文、高塚謙太郎、廿楽順治、阿部嘉昭の四人。
今回の同人課題は、20行以内の詩を1人10編、というものでした。

飯田さんのポップな複雑骨折的脱臼、
杉本さんの圧縮暴力、
近藤さんの不安定な断片性、
高塚さんの言い捨ての気っ風、
廿楽さんの多様世界、
阿部の老獪な(?)抒情・・・

ま、読み応え充分だとおもいます。

■『四囲』の目次

ボディ・スナッチャー 飯田保文
幟と客 杉本真維子
いろんなひと 廿楽順治
手の世紀 阿部嘉昭
うろうろする 近藤弘文
抒情小曲集(ショート・ピース) 高塚謙太郎
後記

下記の「改行屋・廿楽商店 〈この世〉支店」でご覧になれます。
URL http://tsuzura.com/konoyo/



このお報せをするとともに、
さらにお報せ事項を加えようと
「阿部嘉昭ファンサイト」上の懸案事項も片づけました。

まずは、

「投稿原稿」の欄に
立教での前期短歌演習に期末提出された
以下の歌集をアップしました。
(これは完成分のみで
いずれは第二弾アップも予定しています)

●三村京子歌集・なめらかな不具者のそらの
●鈴木寛毅歌集・まよなかのひと
●久保真美歌集・ひとをとる網
●山本晴佳歌集・はるかちん
●福島 遥歌集・きんいろ

それぞれ僕が書いた「解題」が文書冒頭に付されています。

つぎにホッタラカシにしていた

「かいぶつ句会・俳句エッセイ集」
「ネット句集・馬上」も
それぞれ内容を更新しました。
こちらは「未公開原稿など」の欄でご覧いただけます。

「阿部嘉昭ファンサイト」はこちら↓

http://abecasio.s23.xrea.com



先週末は、通常の原稿執筆が不調でしたが、
本日朝イチで、
松江哲明くん『セルフドキュメンタリー』の書評を
「図書新聞」に入稿しました。

今日はなぜか働いているなあ。

これから石川淳『紫苑物語』の第三章・第四章をチェック♪
  
 

2010年10月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

その後の連詩

 
 
じつは今回の立教での連詩連句演習は
連句をコンサバにはこぶかわりに
連詩はギザギザジグザグバシバシな
過激型にしようという話になって
メンコみたいな「エイヤッ」になりはじめた。

大体、行数すらあっさり守らない
とぼけ姐ちゃんまで続出して・・・

連詩C班の松井くんと阿部の流れが
「いい感じ」になったとおもうので
とりあえずは下にペーストしておきます



7【旋回・ドナウ・複製】
松井利裕


私は牛乳を飲んでいる
腕にクロノグラフを巻いている
手首の骨がおもわず鳴る
後ろを振り向く
私の分身が言葉を発している
「ドナウの……」
河の話をしているのだ

八つの言語でドナウの話をしている
ならばむろんワルツを踊らなくてはならないそのためのクロノグラフだ

青い線を引きつつ回っている
八つの言語がドナウを中心に回っている
私の分身が私のこめかみに指を突きつけている
「ドナウの……」
河の話をしているのだ





8【円環屋】
阿部嘉昭


クソや水牛や老人や車馬や沙羅双樹がうかんで流れるのは
なにに似ているかと訊かれ
あたまのなかのガンジス と

川は湾曲し円環して、しかし川のかこむ場所が中洲にはならない。
なぜなら中洲的な場所をめぐる川の水が円環しているからで
そういう旧い熱を、めくられようとしている旗を、あたまのなかのガンジス と

砂洲に棲む夢の種族がいる。鷺、鶺鴒、わたし、その他。
少々の草で庵をむすびながら、きいろや瑠璃を川風に半減させている。
その語は藁状で、太陽の肛門についたクソをおもわせ、人間の発話を侮蔑する。
知らないままながれてしまういくつか、これも、あたまのなかのガンジス
くみかえながら、めぐりだすのは幼年来のはだしや渦の物おとで、
鉢は こんなくるめきを 枯葉のように いっぱいに した。――いずれもわたし、
牛乳にわたしを飲んでいる
  
 

2010年10月03日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)