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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

You can never capture it again

 
 
【You can never capture it again】


ひのひかりの
浄化力をあびて
とうめいとなり
かげろうともなり
みずからみわたすよう
はいごの世界を
みずからのうちに
とりこんでもやすとき
レースのカーテンは
宮殿とも屈折ともよばれ
そこには死語ならぬ音楽が
おんがくのうちがわを
かなでつくして
終始きえゆくものを認じて
もうあまりがない
そのひかりにゆれる表面には
ちりばめられた
貴顕のあしさきが
たがいの譲歩によって
表面上の距離をつくるが
このように距離が
そのまま表面になり
ゆれているものこそを
稀有というべきで
おんがくはみずからを
めいていさせる
内部性への窃視として
ぼくらにはいつも
間接的にあらわれて
はんしゃするぼくらのからだを
いみなく複層にする
みずからへという
このほうこうは
副葬のしなじなを
いきながらどう
かたわらにおくか
そうした命題に
ずれこんでゆくので
あのカーテンも
きっとだれかのスカートの
かわりにゆれて
いきてきたことの
中空にきえた物質性を
むざんに、というべきか
さしだしている
 
 

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2010年11月30日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

立教演習連詩C班

 
 
演習でできあがった
連詩の第一弾を下にアップします。
演習では「付け」のポイントを
相互検証(講評)したのだけど、
とりあえず時間がないので、
まずは「現物」のみ提示します




●連詩C班


1【揺】
門司奈央


たゆたうまでそこにいなさい
とまとでも握りつぶして
なきむしマリーの部屋のすみっこにまいてね
かたかたになるからちゃんとならして
手の奥のおくまですっきりおさまった
めた
眺めている
 あ、とくちをあけて
 ふ、ととじて
へただけになったお前を




2【  】
松井利裕


濃紺ゴーグル
全体に白砂は乾燥し
289の刻印
放線の鋭利な星を胸に
踏まれた空缶
彼女はトランクに腰掛け
老犬の臭気
背中の汗は甲虫の形で
窓から覗く少女
レコードが果てない旋律を奏でる
ログアウト ログアウト
街路は日に晒され
ログアウト ログアウト





3【トパーズ】
阿部嘉昭


まちかどがひとつの場所なら
その一瞬のゆれをカメラにおさめて
とおりすぎた人びとのため息をのぼらせてみる
まだ世紀末の7の月がくるまえ
109のまわりはトパーズのなかにはいって
トパーズのなかにはいったそのカメラのなかにも
まちかどが倒立してきいろくはいっていたから
宝物みたいに撮ったあとのカメラを振って
人びとの気配のため息をフィルムの上になだらせ
かげろうのようにそこにかなしみのたちのぼるのを
きいろきいろすでにトパーズのなかの
自分の眼のなかの場所にもかんじていたんだ
もうもうとまちかどがひとつの場所なら






4【銀河鉄道特急】
アイダミツル


午後六時のスクランブル
そこもう銀河と同じ
空なんて見ないでもいいから帰ろ
記憶の上書きを

演算処理 一個一個きれいにしてって且つ速やかなのが好きなんだ
末端の神経だけが生命と思うね
そのあいだ暇だから妄想でもしとこうか
トレン、トレン、エレクトロニカ…

瞬く視像の切れ端が車両の突端に集い放射線状に開花する
目を凝らしても瞬時に焦点は滲み
点滅と
錯綜と
針状の加速がうっとうしくも
とまらない目眩のストリームにかろうじてかたちをとどめた音色が君の好きな音楽に似て
トレン、トレン、エレクトロニカ

着地失敗直後みたいに妙な拍で
優しさも痛みも感じない
トレン、トレン、エレクトロニカ

裏返しの夜に還る
そのあいだ暇だから妄想でもしとこうか





5【機関車番組】
三村京子


八戸から走りだす
機械じゃなくて蒸気で
泡盛二杯で新栃木まで(田園都市線
日々にわからないことが増え
入り口がない。一生ないのだ
恥、水のなかの。

八戸から走りだす機関車の映像
わたしはそうしていっときは
音楽をゆだねられる
――痛くもかゆくもないものは多いよ
けれども刻々、おそわれるように
まぶしくて
眼のあけかたがむずかしい

ひらけば、山間を走り抜ける
機関車の速度に
とっくに置き去りだった
わたしの目玉も、手足も
その空のように





6【閉鎖】
門司奈大


アナログのものが好ましい
はりがちくちく蠢いて
わたしの脈を食い破る
出口しかない指先巻いて
どこにもいけないやけどの匂い

九番目の女の子
道をゆがめてうめなくなった
たんとんたととん
ひねりつぶさないで
かよわいものは愛せない?

つかめるものは手首だけ
貧弱なものになりたいか
からの眼窩がほどけるまでは
ヘンゼルだけのこもりうた





7【旋回・ドナウ・複製】
松井利裕


私は牛乳を飲んでいる
腕にクロノグラフを巻いている
手首の骨がおもわず鳴る
後ろを振り向く
私の分身が言葉を発している
「ドナウの……」
河の話をしているのだ

八つの言語でドナウの話をしている
ならばむろんワルツを踊らなくてはならないそのためのクロノグラフだ

青い線を引きつつ回っている
八つの言語がドナウを中心に回っている
私の分身が私のこめかみに指を突きつけている
「ドナウの……」
河の話をしているのだ





8【円環屋】
阿部嘉昭


クソや水牛や老人や車馬や沙羅双樹がうかんで流れるのは
なにに似ているかと訊かれ
あたまのなかのガンジス と

川は湾曲し円環して、しかし川のかこむ場所が中洲にはならない。
なぜなら中洲的な場所をめぐる川の水が円環しているからで
そういう旧い熱を、めくられようとしている旗を、あたまのなかのガンジス と

砂洲に棲む夢の種族がいる。鷺、鶺鴒、わたし、その他。
少々の草で庵をむすびながら、きいろや瑠璃を川風に半減させている。
その語は藁状で、太陽の肛門についたクソをおもわせ、人間の発話を侮蔑する。
知らないままながれてしまういくつか、これも、あたまのなかのガンジス
くみかえながら、めぐりだすのは幼年来のはだしや渦の物おとで、
鉢は こんなくるめきを 枯葉のように いっぱいに した。――いずれもわたし、
牛乳にわたしを飲んでいる





9【透過と襞の思考】
アイダミツル


仏陀の公転/遥けき大気

胸を捲り風に曝し
乾く
華奢な裂開の
それは襞のまま

沙羅双樹の洞〔うろ〕に響いた

問いかけるのは閾値のあわいに
屹立する鶏卵

彼女は優しかったか
力学的には と





10【バターケーキ】
三村京子


卵が苦しくたまったら
それを見せてもいいのだろうか
優しくなかったひとはない
それを見られているあいだに
見ることも見られることも透けてゆき
おっと
遅刻しそうだから
とり替えよう
バターケーキかなにかに

配合の問題。
それで、
悲しい目の女を取りだした、
アラビアのドラムが響く夜に。





11【ようこそ】
門司奈大


膨らんだ射手座のはらに
低価格のわたくし
まんだら曼荼羅
芳詠の薔薇でも撒き散らして
読む幸せうふふヨムヨム

つぼみと硝子で腕を飾れば
優しい人になれたのに

焼け爛れていく
才能スピリチュアル/破裂する鼠/愛していま(す/せん)
ようやく出来上がったフルゥツベェコンパイ→皮

足でリズムをとったって
わたくし唇そのものミックス
骸骨鯨さようなら
いらっしゃいませ、こんばんは





12【層】
松井利裕


買い物を終え、外に出て
傘を差した熊にそそのかされたら
誰だったか
二人並んで箱に入り
他の階層へ下る

比重が/重さの
消え/いない
重なる熊がこちらを見つめ、
あなたはどこまでも忠実な人だ
二度目の分離を讃えている

やがて
ものが降ってくる
私に
もの、が





13【きぎ】
阿部嘉昭


はちみつのにおいのするてのひらで
しかめつらをする木のひとをつかむと
てのひらにはまみずのなかがあらわれて
おもたいもののういてゆく画集の気がする
きみをあらわれる筆触として愛しているんだ
のべつのべつぼくにくりかえされるものとして
きみの川底をまいている水のうごきが好きなんだ
眼のなかのかいだん眼のなかのりぼんの逃げどころ
箱がじぶんにあるのか相手にあるのかわからないまま
きき金木犀ぎぎ銀木犀のきぎが眼のなかに濃淡をつくり
とおいものとちかいものを一緒にみては消える自らもいる
てはてはてはみぎとひだりのかさなりのようなわけにゆかず
ぼくはおりかえし地点きみにちかづく自らのあゆみへ折られる





14【Stalker】
アイダミツル



ミニスカートの白
オーガンジィの幾重もの白
八十デニールかそれ以上の黒タイツ
イギリス人少年少女によく見る棒ーのよーな脚
照る鞣革の踵
具合のいー緊張要する小気味いー歩幅

深夜におとなしいビルディング
ヒール響かし過ぎるヒルサイド
森ビル正面ハイライトへの透過
自分じゃ決して纏えないその花のよーな薄肌のよーな 化繊?
の、
疎なり密なり
ドウシタイカナ迷ってるとくに中指人差し指





15【斜陽芸人】
三村京子


中指人差し指ケイレン
ケレンもなにも知らないケレドモ身体衝動沸き返る
ヘンシュウ的な変奏衝動くりかえしたたみかけ
追いかける追いかける
これはノイズなりや?はたブルースなりや?
追われる追われる
上座から上座へ
それは地の果て芸人のなけなし
優しい無関心などダキステテ

地底から地底へ
コウシン情報発信のナマグサイ営み
天上スクリーン上、渡りゆくのはツカレタピエロ?
それともセイレイ?





16【お静かに】
門司奈大


清廉な空気の中でわらうらう
やわらかくかみつくの鼻からそっ
といきが抜けていく
足音はたてないように
草の中をかき分けて過去
、そこからどこにいくのかわいこちゃん
耳に大きな腫瘍ができてるのに、さびしくないの
「避妊手術を終えました」
春生まれのあの子の本当の名前は
タオルケットと言うんだそう
海をくっつければ長生きするはず
なんてね、そんなのうそ
ひとりぼっちのさいごに寄り添いたかったよ





17【積と対比】
松井利裕


風が吹くから
パイル織の水面は小波が大きくねじれて
しかしそのまま無造作に丸められたからには
たいせきをかくとくして
球の、あるいは立方体、
ただ、また風が吹くから僕は浮き輪に乗って
ひゃくおく回繰り返して繰り返してくりかえして
やがて
白い点の太陽になって
人々を
見たり焼いたり楽しむ





18【愛ノ夕方】
阿部嘉昭


イヅレネギノハタケガ
フユゾラトスレアフ
アヲイウミニナルマヘニ
ユフヅツノジユモンヲトナヘテ
カスカナヒカリヲカラダニヨセル。
ココロニアルサンカクヲ
ネギニアルアヲヤシロヘトナガシ
ココニ、フユノワタシヲツクル。
ヱントハソコカラスベテノサル穴
ワタシモ円クナルダラウカ。
アヲイウミニナルマヘニ
ウタフコトバヲタヅサヘテ
コノ愛ハ、アナタノサミシイ
ネギ汁ニナラウトチカフ。





19【硫化アリルからはじまる或る愛の連鎖】
アイダミツル


硫化アリル:抗菌・殺菌作用及び血小板凝集抑制の
働きをもつ おもにユリ科の植物に特有の刺激成分
それを体内に流す者 悉く彼らを惹きつけると言う

油虫 摂食が宇宙の意思とばかりに生命をひた走り
小脳刺激されし子猫 捕えては甘噛みし吐き捨てる
柔毛の海さまよう蚤は 皮膚に至り馨しい恍惚を得
はずみに落ちた水槽に展開する金魚たちの共喰らい
埋葬されし犠牲者 土中のバクテリアの胸を騒がせ
芝は女のように精を吸い上げ青く青くつやめきだし
牛の熱い舌先 ゆったり愛撫し突如しゃぶりあげる
屠殺の絶えぬは責務よりも最期の嘶きを悦ぶにあり

今 牛と私との間にかつてたゆたっていた境界線は
もはや存在論的な意義を失い 唾液中の酵素により
音もなく分解され始めた蛋白質に
      ただ ただ ただ ただ
              融け込んでゆくだけ





20【煙草】
三村京子


生産緑地地区にさしかかると、
「これはいい樹だよ」とN畑さんは言って、
楠の大樹が空をつついていた
ちょっとした平衡感覚があればいいのではなかろうか
わたしの金盥のなかのわたしは、周りが見えなかったのだろう
井戸があって、烏瓜の蔦がからまっている
水に顔が映っている
背のひくい果樹の園、とうもろこしの小畠
車道にでると背のたかいN畑さんは傾いた背骨で笑った
フィリピン沖の水温上昇、寒冷化をまつ無力の棲み処
秋をかえせと嘆くわたしたちに、ありがたい秋晴れの日だった。
きれぎれの都市の空
思い出すものがばらばらに切れてしまっていたようで
頭痛をおこすまいと両足で踏みしめるありふれた弱さを
N畑さんの煙草にともす





21【錯綜】
門司奈大


寒さに身を竦ませている
(あからさまにされてゆく愛情の形)
鈍重な空に目玉をポーンと投げ出している
(目的がないことが悲しいのだ)
はためくシャツが乾かぬことを嘆く
(嘘吐きは最初から最後まで誠実に)
足元の下駄が踊り出すのを笑う
(骨の形が浮き出ていたことしか覚えていない)
開き過ぎた洗濯バサミがパチンと弾ける
(引きつって声を失うのが怖い)
融解していく分離していく無機物
(起きぬけのシナモンクッキーがのどに貼り付いて離れない)
それが道路に落ちるのを眺める
(接触と非接触の隙間を埋めるため)
不可逆を次々と責める責める責める
(そのために言葉を探しているのに)

「理解と被理解を放棄することは傲慢だ」





22【ほぼ肉桂】
松井利裕



先の茶色い粉にやられても
正確には主体が肉桂で
だが磔刑に向いた
特にあなたがたのようなひとは
ほぼ
肉桂であるその肌のきめだとか緑の眼光だとか
だから
幸せだろうそうだろう齟齬がないんだ肉桂となら
肉桂なんだろ
そうだろう
なあ





23【ありがたい秋晴れの日】
阿部嘉昭


しなもんのかおりをはなつ、ひとの場所で
秋はまうしろのいちばだ、ろーずまりーもうられ
ぐつぐつと肺のすーぷができあがらないことの
とことわがわらわれているそういうのがたいようさ
しなもんのかおりをはなつひとの場所で
ろうそくうえる作業のひとを遠見するのだけど
一作業は別作業に代入できないともしるから
つれだってうたいながらころげながら牙までひろいにゆこう
矢のような光陰をかめなくなったそういうのがたいようさ
あすはかめろっとのまつりでひとのおもかげが象牙になる日
ちくびのぼかされた色がけむたいあさやけにみえれば
くちにふくむその慕いも最初のしろをたゆたってゆく湯だ
音楽だろうそういうのがたいようさ、いすかりおて
しなもんは門、ゆきすぎる僧形がおぼろにむらさきになるところの





24【wonderful diving】
アイダミツル


やわらかい幽霊が触れた
――いま?珈琲飲んでぅ。挽きたて
容疑者になってきっと迎えにいくと
――ありがとう、いま手帳を出すね
蝉を踏んでも塩気は足りないし
――いま素敵に憂鬱な気分よ
線香花火ではとても死ねないから
――霧吹みたいな雨に陽が濡れてて
だから夏は見送って少し経った今があるのだろう?
――ううんまだ...
待ってまだ待って
ねんごろに準備しようあなたと
――ダイヴするの。
、と
――ことばのために物語があるのよ逆じゃないわ
。と
――(...)
に文法を毀(こわ)されていい感じの季節に
――あの子がばかなのよ
もういいから口を塞いで
――あなたついてくる?
踏み出してじゃあねを言う暇もない湿った熱源が見えたりして





25【珍しい鳥のように】
三村京子


たまに出くわす、珍しい鳥のように、それは現れた。
「またか」と、思っていたところだった
だからその日は涙も出て、それを確認さえできた。
街境の、静かで陰湿な祭に巻き込まれていたんだ
一個の人間のうちに立ちおこるミクロの祭
目さえ瞑れば、ゆらゆら薄明るい深海の底のようなので
からだは浮かされる熱にまかせ
「誰もが泣いている」だとか、死んだ鱗翅のようなフィルムを重ねていた
発泡スチロールに似てしまった意識の上澄みで
(けれどこんなに、わたしに語らせてくれるなんて・・・)
水上の陽光をどうにか摂っていたところだったんだ
それはなんだったのだろう。
神風?
もはや透明人間のしわざではないんだろう。
わたしたちが抱いていた物語は
はじめからことばのためにあったのだと今、わかったのだから
 
 

2010年11月30日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

裏返すまでの

 
 
【裏返すまでの】


てぶくろのなかのにおいは
毛糸のてぶくろをはめ
ひざしへそれをさしだして
ないぶにひものをしあげるように
ひそかにおいしくつくる
えらばれた五人だけの使徒を
恋のほのおにただよわせるように
毛糸のてぶくろを上にうかばせれば
そのなかのかくれた空もたぶん
五人とくゆうか恋とくゆうに
くさばなの香りをくゆりはじめる
かみさまを知っているとはほこったが
それも五人ぶんのすくなさにすぎず
だからてぶくろは往年にむけて
空をおおう枯葉などをひろう
このうらがえすまでの
一連のしぐさの 自らにふる音楽
 
 

2010年11月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

連詩の原理

 
 
連詩の原理を連句(歌仙)にもとめるのなら、
「付け」は穏やかな順接的延長ではなく
不連続性を加味した「ギザギザ」であるべきだろう。

そういう波乱ぶくみのなかで
黙契、継承、など高度な精神性が作用して
連詩はただ詩をつくるのとはちがう次元に入り、
そのことで「作者」が否定されてゆく。

しかもその「作者」も一旦定位されたうえで
消されてゆくじつは「見せ消ち」にちかいことで
なにか詩が「個別化→フィクション化→共同化」といった
通常の個人詩篇にはありえない経緯を辿るのではないか。
成功すれば快挙だがむろん困難だ。

立教での連詩連句演習の連詩のほうは新しく班決めをし
さらに「ギザギザ化」が亢進する成行きとなったようだが
「呼吸の合わせ」が稀薄化したことで
他人が読むと疲労感が走るものになっているかもしれない。
ぼく自身が参加しているので判断がつかない。

とりあえず最近の作例をペーストしておくので
好事家はそれぞれ心中で出来を判断してもらえると嬉しい。

(連詩第一弾は先々週にもう完成をみているが
来週あたりにぼくのサイトにアップするつもりです。
なぜか今週は多忙。
今日=授業準備、火曜=授業日ののちの
水曜~金曜は毎日、一個ずつ原稿〆切がある)



5【域】
松井利裕


もしも赤子が老婆になるのなら、ゴーギャンは左利きだったのだろうと妊婦は考えていた、あるいは、タヒチの時間は右から左に流れるのだろうかと、しかし、概ねゴーギャンの自我は右方を向いているのだから、やはり画家自身に因子があるのか、いや、タヒチ島が母体ならゴーギャンは胎児であり、すなわちタヒチに原因があるのだろう、妊婦は腹部を、無論満月のような腹部を撫でながら、哀れむ口調で、母親の養分を食らう子の末路を記述し、沈痛な様子を演出しようとしたが、彼女は妊婦でしかなく、ゆえにポール・タヒチのように一人の妊婦として存在し続けた。

胎児が交感したのは右端の青黒い犬とであり、人や神像とではなかった、一つにはその伏せたる犬の彩色が、自らを囲繞し境界を朧にする暗闇と呼応していたからで、いや、もしくはその闇が、犬の眼光の消失と結びついていたのかもしれないが、ただ、それ以上に、犬の半身が画面によって不在とさせられていたという点に、胎児はその交感の主たる要因を見出していた、その暴力的で、有無を言わさぬ切断こそを彼は求めていたのであり、ゆえに、犬の口は短く、それでいて確実たる呪文を唱えたが、無論彼らには、その効力の及ぶ範囲を明確にすることができなかったため、それは鼻先の乾いた土埃を心なしか揺らすのみに終わった。





6【徴】
三村京子


1キロほどもつづく銀杏並木
陽のあたる金色をみるだけなのはなぜだろう
「われわれ」の足並みは揃わないけれども
たとえメッセージをもたない君でもメッセージを発する
「われわれ」のフラットはそんなふうに思いつきしている
だから耳を切ってみようなんてどちらでも同じこと

島の反対側へ行くには山を越える必要があり
岩だらけの不毛地帯らしいが、
かつてある船員が、かの地で精霊に会ったとはいう

プアホワイト、ジェームス・アール・レイに撃たれる寸前、
メンフィスの演説の、あのキング牧師の神々しさ。
彼がモーセであったには、それはもちろん違いないが
奴隷解放運動の頃、祖先たちはやはり歌ったのだろうか
霊歌を。底抜けに明るいポリフォニーを。祈りの、踊りの音楽を





7【避けたい共同声明】
長野怜子


「どうしてもっていうから、首相になったんです。一億人の意思を皮切りに日本はどこまでも自由でいられる。私は一人であって、日本ではなく、日本人ではある。くだらない自己主張ではありますが、他に話せる演説内容がないものでして...」
(会場ブーイングが飛ぶ、揺れ動く最中ではあるが、人々は揺るがない指針が欲しいのだとか)
ぽーい、ぽいぽーい。鞄舞う。靴も舞う。
(例えばシャネルのバックで地雷を撤去したり、ソニーのブルーレイで黒い雨を避けたり。似たような光景。)
(ただの平和じゃ満足しない時代かぁ。)

「質問は順番にお願いします」
瞬間鳴り出したマナー違反の着信音。
伴い一致する人々の思い。

(なんだ、いくら言葉を重ねても、行動には勝てないのね)

ならいっそ歌でも唄えばいいのに。





8【葬送歌】
阿部嘉昭


きみをうずめるために
頭上へかかげてはこんだ
ぼくたちにはために影がさし
列は列のかたちのままで伸びた
竪琴になかば貫かれた太陽
かなしいこと黒いこと
死ぬのはそうしてかがやきを
うばわれた穴となることで
うち返すおもいもゆえしらぬ
まなかの奥処にさそわれて
迷いをただかさねてしまうから
死はみつめられず掲げられる
ぼくたちの姿が花と呼ばれれば
一歩一歩ひざしにゆれるだけ
このゆれることでぼくたちは
たぶん死なないだろう、一月に
 
 

2010年11月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【鳥】


滂沱のひとがやってきて
ぼくの手にもつ珠玉を
釣果なしの昔へながしてゆく
さかなのおもかげが魚影だとして
浪をみる視線を胸におくと
たちまち眼下の海までよごれ
いろとりどりの藻が一杯
そんなものに埠頭をかこまれて
よくぼうを抱えこむ枠組みで
もうとぶほかなくなる
墓のおおい雨のみなとまち
滂沱のひとは墓所の一角から
その一身をあふれさせて
おまえは泣かないことを泣けと
ぼくのかげのなかでいう
そのかげがぼくの
全身よりおおきくにじみ
つつまれてしまって
そいつがくらい真昼にまでなるとは
ちらばりきる葉裏の
しろい恨みにとりどういうことか
ぼくはただながされることで
あわい飛翔の幅になり
ろうそくをあがなうこころを
まひるまにしてともされる
つぐみのいろだ
汀では渇仰のひととすれちがい
ぼくの描く線を羽毛にされる
バーみすず、バーみずのえ
ねむりゆくためあたまのなかに
鼓膜ほどの巣があっても
浮木をふくみ嘴がかすんでしまう
とおく鳴管から野笛がふかれている
みおろす水はいまどこだろう
 
 

2010年11月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

昨日は田中宏輔さんと

 
 
昨日は田中宏輔さんに案内してもらい、
京都をめぐりつづけた。

その前夜、森下くるみさんとのAVトークイベントは盛況で
学生さんや大学教授などが目立ちつつ
真正森下ファンと目される30歳前後の男性のお客が
むしろ少ないのが意外だった。
逆に女性客が相当数いた。
AVが女性に認知されているという印象をもつ。

それでぼくも頑張って、笑いをとりながら
AV映像の本質をつたえ、
それで森下さんの体験談が出るよう
次々に話を振っていった。
イベント終了後、そのまま会場でつづけられた無礼講では
嬉しそうな来場者から次々に話しかけられたのもよかった。
京都、いいなあ。

その日は結局午前三時まで打ち上げ。
魚が旨く、
午前零時過ぎなら寿司が半額というお店だったので
しこたま呑んでしまった。
送ってもらいながら
ふらふらになって投宿先にもどる。

で、翌日の昨日は起きるともうチェックアウト制限時間寸前。
フロントへ時間延長依頼のコールをし
来ていた宏輔さんからのメールに応え
シャワーを浴びて、
ぶわぶわにむくんでいた顔と躯を落ち着かせる。
宏輔さんには投宿先のフロントまで来ていただいた。

じつは宏輔さんとじかに会うのは初めてで
平井堅から奥目を除外して
顔の輪郭をしっかりさせたその顔は
なぜか西洋風だなあ、とおもった。
詩と顔が似ている。
同時に眼差しが涼しげで、
宏輔さんを一目見れば、「只者」とはちがうとわかるとおもう。
ことばを京都弁が裏打ちしているから発声がやわらかい。

京都内の移動はバスが便利、と宏輔さんはいい、
すでにぼくのためのバス一日乗車券を
用意してくれていた心づくしに感謝。
まずはわがままをいい、
二日酔い調伏のために
珈琲を呑みたいといったら
宏輔さんは以前住んでいた場所に至近の
行きつけの喫茶店に案内してくれた。
一杯200円の珈琲が香り濃厚でじつに旨い。

とうぜん詩の話。
いろんな詩作者の品定め、みたいな話もあったが、
ぼくたちはネット環境によって詩作を増幅した、という意味でこそ
「ネット詩人」だという点で意見一致。
つまりネット発表しても
紙媒体に載りうる詩を書いている、という称賛も
じつはあまり本質的ではないですねー、という結論になった。

そういうぼくらにはオンデマンド詩集と配信詩集が最適で、
ぼくは宏輔さんのあたらしい
『The Wasteless Land.Ⅴ』は
140頁あっても「短すぎますよ」といった。

なぜ詩を書くようになったか、といった出自の相互確認などもして、
ぼくが同世代には30~40人くらいは
素晴らしい詩作者がいますよ、というと
宏輔さんは虚心に、
「ぼくは古典へと逃避しすぎているかもしれません」とやがて語った。

その喫茶店そのものが宏輔詩に出てくる場所。
宏輔さんの京都案内はまず宏輔・歌枕案内の色彩を備え、
同時に京都の良質(古)書店行脚のサーヴィスもあった。
ぼくは結局、
多田智満子『動物の宇宙誌』
石子順造『子守唄はなぜ哀しいか』
アラン『定義集』を買った。

宏輔さんは自分の投稿作品の掲載された
往年の「ユリイカ」オスカー・ワイルド特集を買った。
なんと、異例なことに大岡信・選で
三篇も収録されている。
派手な注目をあつめていたんだなあ。
その「ユリイカ」はウチの本棚の裏側のどこかにもあるはず。
探してみなくては。

「ユリイカ」があったのは百万遍、京大前の古書店。
京大前は銀杏並木の黄色が見事だった。
紅葉はといえば八坂神社が圧巻で
休日なので観光客でごった返してもいた。

バスと歩きを交えて結局たどった行程は
北大路、高野、百万遍、祇園、先斗町、河原町とつづいたが
宏輔さんの生家がなんと知恩院と八坂神社のあいだ、祇園の一等地。
かよった中学校も祇園のど真ん中。
そのあたりになると宏輔さんの家庭語りがはじまる。
悪の巨魁ともいえる父上の話、弟さんの話など面白い話が続く。
祇園は勝手知ったる幼児期からの宏輔さんの街なので、
観光客を避けた宏輔さんナヴィの裏通り縫いもすいすい。

河原町の喫茶店で飲んだ珈琲がまたもや旨く、
五時から宏輔さんの詩や日記でお馴染みの日知庵へ。
ものすごく雰囲気のよい串焼き屋さんで
吉田健一に似たあやしげな風貌のマスターは
伝説的なバーテンダーだった過去があるとか。
お店には小太りの板前さん、小太りの中年男性客などもいて、
宏輔さんとお腹の肉をつまみあって
きゃいきゃいからかいあっているのが可笑しかった。

オーダーは宏輔さんにお任せ。
宏輔さんは串焼きをものともせず、
チーズ味のもの、マヨネーズ味などの一品料理を連続注文。
みな宏輔さんらしく「濃い」料理なのだが旨い。

たまげたのは、味噌煮仕立ての鯖で、
付け合せで味噌ダレの乗っている豆腐の食感が京都ならでは。
絹ごしなのだが、内部に生麩のような温かい弾力があって
それ自体に湯豆腐のような芳醇な奥行きがあった。
とくにこれは東京では絶対に出会えない逸品。
京都、いいなあ。

食べ物といえば途中のバスでした会話が忘れられない。
慈姑〔くわい〕、百合根、銀杏、茶碗蒸し・・
と好きなものが宏輔さんとぼくで完全一致した。
ぼくはそういうものが好きなことから
女房には嗜好がオカマ、と呼ばれているのだが、
宏輔さんは筋金入り、確信犯的にそれらのものが好きなのだった。

ともあれ昨日は愉しかった。
日知庵(宏輔さんは「にっちゃん」と呼んでいた)で
お酒と料理を満喫したのち、
宏輔さんとは河原町でお別れ、
タクシーで京都駅に向かった。
車窓の外、お別れの挨拶をしている宏輔さんの姿が
目にやきついている。
 
宏輔さん、どうもありがとう
 
 

2010年11月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

羽衣

 
 
【羽衣】


詩作が冬枯れになると、行き交う林のうちにみえる、虫箱や鳥箱や
獣箱、さらには人箱までもがほんのりカラフルにおもえてくる。そ
れらにはなにも捕囚されていない気配だけがあり、枯れ瓢箪になっ
た連れ合いの足音も、くりぬけくりぬけ、とただ響いてきて、かる
いものと、ないものとの区別がなくなってくる。空間はその刻々の
変化を憶えるべきものだ。人らが木立を意識し、あるきながら位置
をかえてゆくときに、その空間には首府というべき強調があって、
みやこびとこそが弧をえがきながら林を何重もの同心円に格上げし
ている。こころばえがすでに綺羅なのだから、やがて頬にはおれん
じ色の鬚もはえるだろう。そんななか煙のようにみえるのが先述の
あらゆる箱なので、虫も去り鳥も去り獣も去り、その場の空間を記
憶した代償としては、過去などがさらに輪郭をくずしてくる。普遍
の本質には喪失の相からふれることができるようになるだろう。こ
れからは、と訊くと連れ合いは、温泉の蒸気でそだった南国蓮のス
ープで酔おう、かるいものをおもうためのその場所はあずまやが良
いと提案した。みんな、かるさをかすめてはだんだんと消えてゆく。
 
 

2010年11月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

霜のうた

 
 
数日、家をあけ
帰宅してみると
立教演習連詩は
ぼくの順番が来ていた・・・

さっそく書いた。
旅のおもいでをすこし盛った。

この連詩は班替えののちの
第二バージョンというべきもの。
第一バージョンは
さきに完成した旧C班から
アップしてゆきます。

数日後、かな?

アップ先はたぶんぼくのサイトのほうです。
その際はお報せします



3【霜のうた】
阿部嘉昭


草千里 九重、いちめんの芒が
灰をかぶっているとみえるのは霜。
こころの灰を灰汁にする泪をいっぱいにして
朝にだけ現れ、やがて消えるおもいでが霜。
馬が炎えているなんの蒸気かいっしゅんのけむりがはしり
おいかけたところがしろく事後になっているのが霜。
星をかぞえるようにしてつみあげていった何ものかがあり
湯でつるつるになった膚を握りあっている一握が霜。
がらんとしたやちまたをとおりぬけると山茶花だけがひびき
旅のあかしに軒先へ置いてゆくのが、はがきいちまいに似て霜。
とけるってなんだろう容易ならざる生が里程標に縫われ
あれらまぶたすら刺繍しだすいちれつの擦過も、
つまり消えるだけの仄蒼いものも、
あらゆるあいだをうめる霜だろう。
 
 

2010年11月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

今度の月曜日、京都で森下くるみさんとAVについて話します!

 
 
森下くるみ著『らふ』販売記念イベント@ KYOTO

企画:Radiotronica

『AV原論2010 AVは作品たり得るか?』

(企画者のことば) 
アダルトビデオと聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか?
男性の性欲処理の道具、性を売り物にする、低俗で、不埒な行為。心を病んだ女性の居場所。
そんなネガティブなイメージをAVに持つ人は決して少なくないはずだ。

そういった偏見のもと、
アダルトビデオに対する社会的評価は今まで決して高くはなかった。

しかし、映画や小説、漫画はもちろん、萌えアニメやエロゲー、ライトノベルなど
アンダーグランドなサブカルチャーに対する評論が活発化する中で、
なぜAVには確固たる批評の場が用意されていないのか?

またAV業界から出発し、多方面で活躍する女優や監督が沢山いる中で、
なぜAV自体にスポットが当てられてこなかったのか?

AVを映像作品として捉えなおし、
一つの批評の対象、テクストとして見ることも可能ではないのか?

そういった疑問から出発し、今回のイベントでは、
一切の偏見を捨て、
もう一度真正面からAVというメディアを捉えなおします。

AVの魅力、可能性について他方面からアプローチし、議論していくことで、
AVを一つの作品として捉える方法を模索します。


出演者/ 森下くるみ×阿部嘉昭


森下くるみ(もりした くるみ)-1979年生。1998年にAVデビュー。現在は文筆活動を行っている。
代表作「すべては「裸になる」から始まって」(講談社)


①まず資料としてAVの歴史年表と、それと平行した社会年表をハンドアウトとして配り、
AVについての知識を共有する。

②その資料を見ながらざっくばらん、ラフに話して貰う。
(AV年表と平行して社会年表も参照)

年表は森下さんのデビュー年から現在まで。
森下さんの経歴も振り返りながら、
AV体験談、AV業界の現在と過去などトリビアなども発掘できれば。

③実際にAVを鑑賞し、
阿部嘉昭氏に10分から15分程度の批評を行ってもらい、
AVの作品としての魅力を確認する。


その他、森下くるみ『らふ』刊行インタビュー&サイン会など


——————————————————————————————————————————————
  
イベント開催日/11/22(月)
会場/京都市河原町木屋町『urbanguild』      
    http://www.urbanguild.net/     
開場18時半、開演19時
当日エントランス/3000yen



とまあ、そういう次第らしいので、
がんばりま~す♪

しかし今年はAVの仕事が多い。
12月中旬には
岩波書店『日本映画は生きている』シリーズの第七巻でも
長大な拙稿『ドキュメンタリーとしてのAV』が
おおやけになります!
  
 

2010年11月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

途中を撮ったらしい

 
 
【途中を撮ったらしい】


夕暮れ前、穂をとばしている芒の原とか
玄関先、土星のつもりでからだの空気をぬいているきみとか
下り坂を疾駆してヴァニラのしろいにおいを嗅いでしまった自転車とか
容積の自燃のため水底で懸命に甲羅を脱ごうとしている亀とか
輪郭のあることにひかりをうけて割れようとしている甕とか
円いものを遠景の原として胸にかかえている抽象的な身熱とか
知覚を検討したときの、菱形と正方形のぎりぎりあいだとか
にしきの秋を背後にながしている、場の思い出でできている阿弥陀堂とか
一単語のようにつぶやかれて一時間の沈黙にはいったくちづけのその後とか

この旅はずっと途中ばかり撮ってきた気もするのにまるで憶いだせないでいると
あなたは半分もう消えかかって髪が柳と連続している
あなたの途中こそもっとも由々しいと、明視癖のあるきみにいわれて
この生活がB面なら、かえした微笑みがたぶん最後の途中になるだろうとおもった

そう途中とはなにかにつけ きれいなものだ
 
 

2010年11月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ひとがつくった絶景

 
 
【ひとがつくった絶景】


甲州街道のけやき並木が
葉をおとしつづける絶景の午前
ひとらは頭の頂に葉をのせて
すこしは硝子になってゆく

支度はあるく歩度なのだろうが
葉を刺青すれば枯れる腕すら
胸には引き寄せられなくて

眼は黄金をのんだと慨嘆する
おぼろげにひびわれてゆくもの
が肌にゆっくり曇っている
やがて余熱でひらいてゆく道
によってできてゆく眺望
道に出会う道の箇所で
われている今日の水槽が
十字路に発端をつげている
断片をみせる以外に何がある

あくまで舌のそよぐ犬道
悪に似たものならあるのか
からだは雲母をふくんでいるのに
ひとにはひからず
のびている道にだけひかる




昨日は出講するときつよい風がふいていて
甲州街道の欅並木が
おびただしい葉を舞わせているのに息をのんだ。
中空より落ちてくるものがかくも多いと
風景がひかっていると感じるのはなぜだろう。

昨日は酔っ払ってかえると
いつもの横断歩道で
二台のクルマがくしゃくしゃになっていた。
警察が現場検証をしていて
そこを野次馬がとりまいていたが
その野次馬もひかっていた。

ひかりつづけた一日。
上の詩を書いた。

小池昌代さんからお借りした
江代充さんの詩集『昇天 貝殻敷』を
いま読んでいる。
詩法は現在の驚異的な詩法の原型といえるもので
まだ「持続」ではなく「断片」の感触がつよい。

ただ本当は「断片」を提示する以外に
われわれの生にはなにもない。
むろん現在の江代さんも断片と持続を攪拌して
しずかな驚愕をあたえる。

道と葉にかんする感慨は
その詩集にもあった。転記打ち――



【秋】
江代 充


プラタナスの葉がブリキのように曲がる地上の秋
雑踏する暗い胸が幾何の鼓動で大空をめぐり
どこかの入口からぬけ出した一羽の鳩が
つちつちと悲しみにぬれながら過ぎさった
わたしは羽音からきた金属のさえずりを持てあまし
探るような額で路上から仰いだ天使だった
  
 

2010年11月10日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【影】


影にまつわるあらゆるを
眼が排除してゆくと
かけなくなる森がある
それがおまえのかくことだ
そういわれる
森のまえでおどる布も
性欲のためのまやかしで
ひきずりだすものは
いつもみずからのゆび骨
それを眼に刺し眼に刺して
森という星のすみかが
かかれねばならない
そうすれば筆の航跡も
なみのようにかさなって
かわけば発光をするだろう
星がいっぱいにあふれた
おまえのかいたものは
おまえを規定しないところの
空にねむらせて それでも
いつもおまえ自身が森のまえに
かかれなければならない
それがとぶことだ
おまえがからすなら
 
 

2010年11月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

安井浩司・空なる芭蕉

  
安井浩司の新句集『空なる芭蕉』が
今年九月に沖積舎から出ていて、
今朝、ようやく読むことができた。

不要に難解で、奇想の恫喝句が多いとみる向きもあるが、
古語のみならず仏語、造語がうずまきながら
語の瞬間的な衝突効果がどう長く尾をひくかを
つつましく探求する最後の東洋的古哲として
もうぼくはずっと尊敬している。

年齢からして安井さんが晩期にはいったのはあきらかだが、
『空なる芭蕉』では句風がますます融通無碍になり、
ことばの仙境がこちらにさしせまってきた。
とはいえ深層にシュルレアリスムまである知性だから、
句眼がつかめず茫然とする句も多い。
たぶん膾炙のうすい「安井語」に
こちらの無教養がはじかれているのだろう。

でもそんなことはどうでもよい。
『空なる芭蕉』は安井句集にしては膨大な収録で
なにか戦慄的な「贈与」として、ただある。

ともあれ今年はこの句集と
貞久秀紀さんの詩集と
ロウ・イエの新作に出会うために
生きてきた気がする。

奇蹟的とおもった句を備忘録も兼ねて
以下に掲げておきます
(わかりやすい句が多くてすこし恥しいが)。

(それと引用句数が多く
著作権的にアンフェアの気もするが、
安井浩司布教のためのあえての蛮行です。
ちなみにいうと、掲出句は
原稿アップの際、無理やり半分にしました)





夏よもぎ眠れば脳も片寄れる


秋のかぜ流女のかがと火を発し


四眼〔よつめ〕鹿猟夫の睡りの中にねて


青墨を垂らし殺せる寒の鯉


花野帰りの妻に神の薄手跡


雁の空落ちくるものを身籠らん


晩夏己れに火炎ペースト塗る男


沖の春逆さ船もう沈まずに


眉波の女坐れる池の秋


紅滲みの髪〔はつ〕となるまで椿樹下


東風〔こち〕のまま回れる空も天の中


雪安居梵卵ひとつ手のひらに


からたちを投げ込む男の格闘に


黒とんぼ尿すは劫の途中なれ


寒月下三千界みな足の裏


毛蓼ぐさ地中の風こそ大いなる


冬の沖浮木もいつから鱗成し


雁来紅炎えて五隅となる曠野


昼蛍入る草の葉の合掌に


父王へ百の針入れ冷奴


昼半月高く牡牛を吊る遊び


寒鯉を煮るや人の血少し入れ


けむきのこ踏む白雲の発端に


抱き合うてふところの蛇移さんや


夏あざみ「人こそわれの暗喩なれ」


冬二羽の鷺は眼差し入れ合える


引き寄せて漂流山を春庭に


翼否鳥足授けられし春


春陰や一本箸もて食らうわれ


曙雲先ず成りつつあらん海中に


冬天心一頭の蝶こなごなに


天海のえび零れきて乞〔こつ〕の椀


隠沼〔こもりぬ〕を啜るや致死の青みどろ


鸚鵡擂り潰し火薬を作る夢


熊狩を指揮する最後の大羆


麦撒けばいつせいに来る空の賊


草分けの杖はいつから蛇曲り


月光の全裸の湖〔うみ〕を他言せず


文字をかき無限にめくる秋の道


睡蓮やかの女〔ひと〕にみな見占められ


花野なら死真似に死をもたらすも


色身の重さに崩れて夕はちす


狐どうしも立ちて抱擁花野涯


枇杷男かと柩ひらけば蝶ばかり


大股を西へひらけば鱚の海


少し噛む乾〔か〕れ蟷螂の甘くして


密陀〔みだ〕絵成るこの身体の内壁に


芹生野の木橋は急に空へ起〔た〕つ


初めまず無牛図を吊る春の家


夜と朝の出会い処や水芭蕉


秋野人〔びと〕燃ゆ溢れ血に火が付いて


振り向いてわれも鴉も見毒〔けんどく〕ぞ


渾円の天地のずれに住むからす


天地袋〔あめつちぶくろ〕からだの外に妊む妻


己が白骨数えて不足よもぎ原


天類や海に帰れば月日貝
 
 

2010年11月06日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ふとん

 
 
 
※「四囲」三号へ転載するため
重複をきらい
ここにあった日記本文を削除します。
「四囲」三号成立の暁には
またお知らせいたします
 
 
 

2010年11月05日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

広瀬大志・草虫観

 
 
このたびの広瀬大志『草虫観』は、
正直にいうが僕にとっては難解な詩集だ。
全体は「草虫観」「現世紀」の二部構成になる。
その二の「現世紀」は印象論でとおせば
以下のようなものになる。

経済学用語と思想用語、
その導入語の異物性によって各詩篇の「意味」を複雑化しながら
断言と切断とから「意味」を意味以外、
たとえば音律に反転させてゆく手際がある。

それはむろん「謎」に直面するよろこびをあたえてくれるが、
同時に読者としての自分を「空白」につくりかえてゆく。
その「空白」と詩篇の「空白」が反響しあうとき、
ふしぎな同調が起こっているともいえるのだが、
批評的読解が介入する余地をあたえない。

つまり「峻拒」がまず身振りにある。
同時に「親和性」も溶出されていて
詩篇は何度も読者の「読み」をまねく。
それでまた自己の「空白」を読まされてゆくもどかしさが反復される。

詩篇個々のつくりは峻厳で
詩篇のならびにたくらみがありそうだが、
現在の僕には、断定的あるいは推論的に何かをいうには、
自身に足りないものを感じてやはり気が引けてしまう。

ともあれ、このような詩集ならふつう
「自分の範囲外」と手放すことも多いのだろうが、
一の「草虫観」の名状しがたい魅惑が捕らえて離さない。
しかしそれも、精確な読みをなしえたという自信が起こらない。
読み手を不安定にする強度を誇っているのではなく、
それぞれの詩篇じたいが自足するようすに魅せられ、
実際は「意味の切断」の感触そのものも慎ましかったりする。

個別論はあとにしるすが、
広瀬大志があたらしい詩的言語を発明しているのか否かがわからない。
部分的には七〇年代詩の難解なうつくしさを志向している気もするが
切断形式になにか独特の、身体的としかいえない呼吸もある。
とはいえそれは、たとえば杉本真維子が定式化した方法ともちがう。

どうもいいたいことが旋回をくりかえしているだけの気もするので、
まずは冒頭掲載詩篇全篇を、行頭に序数を付して引こう
(『草虫観』はその冒頭からの数篇の素晴らしさにもってゆかれ、
それで幾度も再見誘惑をする詩集であることはいうまでもない)。



【草虫】


1 欲望そのものの奥深さではなく
2 そこを通過した先の
3 開放された静寂のようなものを
4 押し開いてみるとき
5 瓜の実に赤い蝶がとまっている
6 昇華したにぎわいはすでに
7 一つの死の中で眠りにつき
8 ただ必ず至る
9 草虫の
10 強く照らし出された
11 均衡の糸口だけが
12 意味ではなく
13 すがる形として在る
14 神のかわりに生の汀で
15 人のいない
16 小刻みにふるえるその風景が
17
18 雨よ降れ青く晴れよ



1から3には広瀬のいわば「哲学」が
「昇華」された関係式のように潜入している。
これはくだいてみるとすぐにわかる。
まず欲望は深度をもつ。それは自身に対象化できず「奥深」い。
けれどもそういう深度をうっちゃって、
感覚を欲望の坑内に通過させることはできる
(ベルクソン的な「感覚縮減」が示唆されているとおもう)。
そのさきにあるのが、開放感と静寂。
4行目と化合すれば、それがたとえば「ただ見る」ことに帰着してゆく。

そのとき読みがブレてゆれる。
4行目《押し開いてみる》の目的語が
前行中の《静寂のようなもの》であるのは文法的に自明でありながら、
営みと捉える「押し開いてみる」が、
二重動作としての「押し開いて/みる〔見る〕」に分岐して、
そのときにこそ「みる」の主体としての主語が隠されている感触になる。

ともあれ主語明示されないこの主体のみたものはなにか。
述部的に登場してくるのが、5《瓜の実に赤い蝶がとまっている》だ。
この「瓜」は烏瓜(からすうり)ではないのか。
つまり赤い実に、非実在的な「赤い蝶」がとまっていて、
そこで、赤と赤の微差と綜合が示唆されているのではないか。

あるいは「赤い蝶」はその修辞の罠をかんじれば文字通り非在で、
ただ烏瓜の実のてりかがやく表面に
主体は「赤い蝶」を幻視しているのではないか。
いずれにせよ、広瀬にとって「みること」は「摘出」なのだろう。

さて、「烏瓜」の季語は秋。秋なら蝶はもはや翅も破れはじめ、
「細り」「しおって」いる。それ自体が「ひかりのふるえ」のように。
烏瓜にまぼろしの赤い蝶がとまっている、
そうみえたのは実の表面のひかりのふるえゆえだった――
という詩想なら、通常は俳句数句を連作させるだろう。

むろん広瀬はそういう抒情を切断し、詩行を残酷に圧縮してしまう。
あふれさせない。むしろ「穴」をつくる。
そう、それがこの詩集の「法則」だということだ。

6 昇華したにぎわいはすでに
7 一つの死の中で眠りにつき

またも喩的解読に迫られる。
たとえば5行目までの僕の読みが正しいとすると、
「にぎわい」とは烏瓜の赤い照りであり、
そこにひかりとしてたわむれる「赤い蝶」の微動だろうが、
「昇華した」というやや生硬な形容詞がそこに付されることで
ふたつともになにか高次元に定着された趣が生じる。

たたみかけるように7《一つの死の中で眠りにつき》が後続するとき
「赤」が静寂へ固着された感触がでる。
すなわち、瓜も蝶も、赤という色に「還元」され、
いわば抽象化を果たしたのではないか。
「一つの死」とは明示されていないこの「赤」回帰だと捉えた。

ここでも主述の錯綜が生起する。
文法上は「眠りにつ」いたのは前行中の「にぎわい」なのだが、
読解上は「瓜」と「蝶」、
あるいは「瓜」と「蝶」のおりなす、ひとつの共同性だと読みがズレる。

そういうズレに、しずかな、極上の「戦慄」があるが、
しかし広瀬が提示しているのは
「自然」からあたえられる「感覚」の問題だという点に注意したい。

8 ただ必ず至る

前行「眠りにつき」が連用され、併置的に動詞「至る」を引き込む。
この動詞ふたつでもたらされる「割れ」が
烏瓜がやがてかたどるだろう割れと響きあうが、
問題は「至る」を動詞終止形ととるか、
次の「草虫」を修飾する連体形ととるかの選択だろう。

音律上の判断をすれば終止形という気がするが、
そうすると「至る」の出現は飛躍的で、
そこにあるべきだったなにかが消散してしまった印象を受ける
(この感触が今回の広瀬の詩法の、不穏な「味」なのだ)。

それで文意を補おうとたとえば「無に」などということばを
「至る」のまえにかんがえてみるが、
省略物の復元はじっさい不能だというのが正答のようだ。

よって「連用形」と捉えかえすと、
8行目から13行目は以下の連関になってゆく
(そうなると、6行目から11行目が
長い構文を組織していたという理解が暫定的にも生ずる)。
《8ただ必ず至る/9草虫の/10強く照らし出された/11均衡の糸口だけが
/12意味ではなく/13すがる形として在る》。

「至る」のは「均衡」だ。「均衡」に「至る」。しかもそれは「糸口」にすぎない。
同時に、「草虫」と「赤い蝶」は同一物に一見捉えにくい。
たぶんそこが罠で、草虫は飛蝗のような一昆虫ではなく、
「草=植物」と「虫」を併置し「自然的」世界観を拡充するもので、
つまりは「草-虫」中の「-」が省略圧縮されているのではないか。

となるとまたも主述の呼応にズレの感覚が生じる。
13「すがる」に主語的に呼応するのは「糸口」だが、
読み手はそう読まず、「草虫」が「すが」っている、と捉える。
しかもそれは「虫」ではなく「草虫」、つまり植物と昆虫の複合形なのだ。

つまり話を大幅にもどすと、「赤い蝶」が「瓜」に「すが」り、
同時に「瓜」が「赤い蝶」に「すが」っている、
力の対称的な図として一篇を意識すべきなのではないのか。
そのようにして「草=植物=瓜」と「虫=赤い蝶」が「均衡」している。

ただ繰り返すが、その相互定立性は「糸口」にすぎない。
それは「意味」を発散しない。
だから「形」だけを視覚に充填させて、
「在る」ことは「在る」ことへと突き放されるほかはない。

それでも微細なものは「在る」。
そういう「気づき」を自己身体に接続することが、
4《押し開いて〔/〕みる》ことなのではないか。

お気づきのように、ここまでの「読み」は
故意に曖昧に配置された詩句の意味不確定性を手中にしようとするとき
意味の根拠を得ようと詩行をわたる視線が蝶のうごきのように「分散」し、
短く、瞬時的といってもいい読解「時間」に
飛躍や遡行といった分裂線が入ってくることを意味している。

たぶん他の詩篇からの類推でいうが、
「広瀬的時間」とはのべたらな時間に
「飛躍や遡行といった分裂線が入ってくること」で一旦の完結を見、
「しかもなお」のべたらな連続性に復帰する
ブレをも反復するのだとおもう。

話をもどすと「在る」という語が13行目でもちいられ、
「ある」との差異線がそこにえがかれるだろう。
「在る」が現象ではなく、哲学的実在、神学的実在にもちいられる語だとすれば、
これまでの文脈からいって、
「色に還元され」「自他をなくした差異」が
それでも自他のあわいに「形」を演ずることで、
〔神のように〕それが「在る」といわれているのだ。

一切は「在」ればいい――「形」の在ることが
神の「在る」ことまでも代位してゆき、それが「み」られる。
だから詩篇第一聯は最終的に次の展開へと帰着してゆく。

14 神のかわりに生の汀で
15 人のいない
16 小刻みにふるえるその風景が

ここで「意味」がふえているのに注意。つまり15行目が曲者だ。
「神」の介在しないまま成立する「風景」とは、
「人のいる」それではなく、「人のいない」それだという
冷厳な認識が広瀬にはあるということだ。
冴え冴えとしつつ、読み手はここで寂寥感にも打たれてゆく。

「小刻み」に「ふるえ」ているのは物象的には5「赤い蝶」だろうが、
むろん前言したように
「赤い蝶」は「〔烏〕瓜」と一体的に6「昇華」されているから、
「ふるえ」ているものは16「風景」と呼ばれるしかない。

同時にここでまたも意味とともに詩行の運びにゆれがもたらされる。
16行目は「風景が」と省略的に停められていて、
文法的には「倒置」が介在したという判断になり、
その述部は前置されたものから探すようにうながされる。

そうなって着地する動詞は「在る」となる点、自明だろうが、
そこで「糸口だけが〔…〕在る」と「風景が在る」が
遡行的に並列することにもなって、
「風景とは糸口」という隠された図式が顕現している。

なんのための「糸口」かといえば
「風景から神〔14〕を探す」という営為がここに隠されていて、
その「神」の正体が11「均衡」なのではないだろうか。

これはつまり「神学的認識詩」なのに、そこに省略や遡行誘導がくわわって
詩篇として峻厳な体裁がたもたれている――ということにもなるだろう。
すごい。ほんとうに、すごい。

17行目の一行空白はふかいが、
その深さの意味とは直前上記した
「これはつまり…」の一文と密接に関わっている。
同時にこの空白の属性は、空間性ではなく時間性に傾斜している。

一行おいた最終行で、命法がついに書かれる。
18《雨よ降れ青く晴れよ》(このフレーズは詩集中、他の詩篇でも近似反復される)。

一見、撞着的な事柄が同時に命じられているとみえるが、
「時間」がその撞着性を修復する。
読み手は時間性を介在させて、省略的な詩句をこうおぎなう――
《雨よ降れ/〔そののちに〕青く晴れよ》。
「神」よりも「時間」のほうが救済主として上位に置かれているのではないか。

「同時に」、
16行目「倒置文の尻」、
17行目「空白」、
18行目「命法」という流れでは、
読み手は16行目と18行目を接続的に読むよう「誘い」を受ける。
するとこのように奇怪な構文ができる――
《小刻みにふるえるその風景が/雨よ降れ青く晴れよ》。
この「錯視」が最もうつくしいことを、詩篇自体が狙っている。

なんということだ、冒頭詩篇に迫るだけで
これだけの字数を費やしてしまった(笑)。
ただ広瀬さんの峻厳な詩はこのように峻厳な読みを請求している
(むろん僕の提示した「読み」が正解かどうかはわからないし
広瀬詩にとって正解をしめすこと自体が無意味だ)。

むろん「納得」が生じない詩篇なら咀嚼できないまま宙吊りになる。
それらは詩集二部に集中していることは述べたが
またいずれ余裕のあるときに読み解いてみたい。

ひとつだけ付け加えると、広瀬さんの良いフレーズは
貞久秀紀さんが論じた「明示法」とも隣接する箇所にある。
以下のように――



ただ流れる水の音だけが
聞こえるために
繰り返されている
(「外耳」部分)



一日の長さと
短さを
交互に気づかせる瞬時の光が
感覚の畝を繋ぐことで
私には外側がある
(「鳥光」部分)



微笑む笑い方に
微笑むべき類似の

そこにわたしは
線を引く
線上になる
(「視点」部分)
 
 

2010年11月04日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ありがたい秋晴れの日

 
 
【ありがたい秋晴れの日】


しなもんのかおりをはなつ、ひとの場所で
秋はまうしろのいちばだ、ろーずまりーもうられ
ぐつぐつと肺のすーぷができあがらないことの
とことわがわらわれているそういうのがたいようさ
しなもんのかおりをはなつひとの場所で
ろうそくうえる作業のひとを遠見するのだけど
一作業は別作業に代入できないともしるから
つれだってうたいながらころげながら牙までひろいにゆこう
矢のような光陰をかめなくなったそういうのがたいようさ
あすはかめろっとのまつりでひとのおもかげが象牙になる日
ちくびのぼかされた色がけむたいあさやけにみえれば
くちにふくむその慕いも最初のしろをたゆたってゆく湯だ
音楽だろうそういうのがたいようさ、いすかりおて
しなもんは門、ゆきすぎる僧形がおぼろにむらさきになるところの
 
 

2010年11月03日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【絖】


背もたれに背後から抱きすくめられて、すわったまま、うごけなく
なることがある。そんなとき窓からの視界がひらけてきて、世界も
ゆっくりと暮れてくるので、自分がいっぽんの枝だとして、梢のよ
うな関係で空に手をさしのばす仲間すらおもうのだが、さわってい
ないものをさわるそれら微動がわずかな雨にぬれてかなしい。すこ
しはるかをみやる夕暮れの体験をしいられて、こうして木になって
ゆくのか。椅子からたちあがるためには身が靄にならなければいけ
ないのだけど、椅子にしばられているからだまるごとが、天井から
はまるで落し物という位置にあり、落し物特有に絖をはいていて、
靄の気重さからとおい。ひかりながらひかることでさらに電流のよ
うなものにさえなってゆき、みずからのからだのあおいろをかえる
おんなの息をしだす。こんなふうにねむたいことも死ぬことなのか。
 
 

2010年11月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

二槽式

 
 
【二槽式】


日のおわり
炭酸に酒を割ってのむと
このからだを
覆水がかえってゆく盆とかんじる
からだがふたつある気分だ
日のおわりは
ねむるまえのちいさな発作だから
いえのなかは
かたすみばかりをみてあるき
壜だらけのゆかにためいきついて
ない窓まで戸じまり
ねどこをくらくかためる
ゆめへおもむくにさいして
おんなのかたごしに
前方の前方性を確認すると
かのじょにおとずれた
奇遇ばかりのみえるのが
また奇遇だったりする
おんなの眼をみると
ひとみの炎上は
表面の水分によって
なされているとしれる
まぶたのこげる
ゆめをみるんだろう
場所はどこか、ネバダか
ぼくのほうなら
どこかの海峡だろう
そう、あすは洗濯
 
 

2010年11月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

発明と溌剌

 
 
昨日深夜から今朝未明にかけ
恵贈された詩集二冊を拝読していた。
これらを読み、なるほど
詩には発明=創意がひつようなのだとおもう。
だれも手がけなかった語法や構成などを推進し
「溌剌とすること」がそのまま詩の力になる、ということだ。

長田典子『清潔な獣』(砂子屋書房)は
さまざまな「主体」に仮託し、
口語独白体の詩篇を並立させる。
しかも詩篇間に微妙な連絡をほどこす場合もある。

とうぜんそうなったときは
いまなら金原ひとみ的な短篇連作にも似てくるはずだが、
架空ギャルブランドの列挙などで
ポリフォニーを実現することで
ことばは詩とよぶにふさわしい交響性をたたえだす。

とはいえ、長田さんの「発明」は予想可能なものだし、
実際あるていどは小説分野で実現されている。
とすると、長田さんの凄さは
むしろその「精度」によるものというべきかもしれない。
ぼくにはとてもおもしろかった。

石川厚志『が ないからだ』(土曜美術出版)なら
さらに発明が「溌剌」としている。
「ライトバース的な」一篇一篇に
既存のユーモア小説の文体がまず横たわり
そこに詩的語法の新機軸までが接木されて、
だから一篇一篇が鮮やかで眩しい。

「ライトバース的なもの」の多くは
「ちいさな発明」「ちいさな局所強調」にとどまり
語調をやわらかさ、書法も余白提示から外さない。
ところが石川さんの詩篇では
果敢に「ライトバース的なもの」の転覆すら図られている。

石川さんの「生」が自己卑下的に点綴されながら
「規定できないものの不気味」「小動物の不気味」
つまりは「世界の多様性の不気味」が
実際は詩篇からアタマをもたげてくるのだった。

その印象がクレッシェンドになるよう
詩集全体が明晰に編集されているのも小気味良いとおもう。

冒頭詩篇「が ないからだ」と
巻末詩篇「が、なくなりました」とに言及が集中するだろうから
あえてそれらを避け、うつくしい哀しみを味わった詩篇を
以下に転記打ちしておこう。



【観覧車】(全篇)
石川厚志


丘の上の観覧車の、六時の辺りに君と乗る。
七時、観覧車はまだ三〇度の辺りで、君の顔は少し、強張っているようだね。
八時、君はまだ、ハンドバッグの中身など、整理をしてる。
九時、やや打ち解けて、君は笑顔を見せて、僕と話をした。
十時、僕は徐々に、君の笑顔が、忘れられなくなってきたよ。
十一時、最早それは、恋人気分だね。
十二時、観覧車は頂上にまで達し、僕は君に打ち明けた……君は断るが。
一時、下りに差しかかり、君は横を向いて、僕は下を向く。
二時、苦しくて、もう一度だけ君に言う……君は耳を傾ける。
三時、君の頬に手を当てて、君の額に接吻をする。
四時、君の太腿に顔を埋め、降りないで欲しいと懇願する。
君は降りる準備を始める。
五時、僕はここから飛び降りる、と脅す。
が、背を向けた君は、出口の取っ手に手をかけた。
六時、掴んだ腕を振り払い、君はそこを降りてゆく。
僕はもう、そこから降りられないよ。
七時、取り残された箱から、君が丘の向うに去ってゆくのを、遠方に見る。
八時、取り残された箱から、君が丘の向うにもう見えない。
君は家でもう、スウプをつくってる。
九時、取り残された箱から、仄かに月も蒼白い。
君は家でもう、バスルームに入ってる。
十時、取り残された箱にも、満天の星は広がる。
君は家でもう、ベッドの中で眠ってる。
十一時、そういえばもう、木枯らしに揺籠は揺れている。
十二時、気がつけばもう、粉雪に石灯籠は覆われる。
一時、そういえばもう、僕は鳥籠の中で鳴いている。
二時、気がつけばもう、そこに長い年月が経っている。
三時、そういえばもう、僕の皮膚には皺がある。
四時、明け方近くにやっともう、僕は夢の中。
五時、最期に君の夢を見た。君が観覧車にやっともう、いる夢だ。
六時、係員はドアを開け、そこに白骨と化した僕を見た。
君はもう、そろそろ起きる頃です。




観覧車の角度が時計式に表示され、
それに数え唄的な行頭序数の機能も負わされる。
むろん数値が「二巡」するのが「発明」なわけだ。

そのなかで「同音連鎖」が仕込まれる。
それにより、たとえば朗読に適した推進力が出るだろう。
ただし「もたれる」という意見もでるかもしれない。

「詩手帖」からは「今年度の収穫」アンケートの依頼を受けた。
今年は、震撼する詩集や感銘する詩集が
部分的に刊行されたものの
総体としては良い詩集が少ないな、という印象だ。
たぶんベストには十冊もかかげられないのではないか。

だから詩集読書なら旧い詩集が中心となった。
70年代的なものを再考する、というのと、
「ライトバース的なもの」に親炙し、
そこから真実のことばを選別するというのが
不器用な僕のテーマだった気がする。

そのなかで軽薄に文学性を誇示する詩のことばに
どんどん辟易していった。
そんな気分だから、じつはアンケート回答は気がおもい。

ともあれ近々に大書店へ行き、
「読み逃し詩集」をチェックしなくては
 
 

2010年11月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(4)