二句三昧
※「四囲」三号へ転載するため
重複をきらい
ここにあった日記本文を削除します。
「四囲」三号成立の暁には
またお知らせいたします
年用意
【年用意】
霜月とか十月とかの語は好きだが
師走とか十二月とかの語は
空を見あげるよう設えられていて
どうしても好きになれず
それで日めくりをやりすごしてゆくことが
一種の反語的な年用意だと気づいた
やらずの袋となって柚子を溜め
めぐってくる皿には果皮をことごとく散らして
ことしの棒、その輝度をたかめてゆく
そういうのが水底の感覚だが
なまずならもう日めくりの
ちくちくしない場所を掘りあてて
辞世までうごかないだろう
そんな薄明が身内になっている錯覚が
冬の無聊を規定しているのだから
舌を柚子のかおりにして
ときたま面倒な往来に行き混ざれば
いそがしい往来のうえのいそがしい空が
へんな水いろをしているのも当然か
わすれたことがおおすぎて
かまぼこのたぐいでかばんを一杯にしたら
板がなにかという難問に突き当たる
かみさまこれは何の割符
柚子顔をさらにでこぼこにして
ようやく一週分の日めくりをやぶると
日のうちに日があるのもわかった
竹ばやしさらさら
日の厚みのまま
そんなふうになまずと
たったふたり
世をもぐっている気がする
●
昨日は賀状の宛名書きで昼すぎまでつぶれる。
ことしの賀状は校正ミスをしてしまった。
大体が「取る」「採る」「捕る」「獲る」「穫る」は
編集者なら校正上、要注意ポイントなのだが、
机のうえが乱雑で、
賀状の原稿控えが見つからないままにしていたので
問題点を把握しないまま日々が徒過していった。
そのうちあるとき酔っ払って帰宅したところ
印刷屋から校正ファックスが来ていると気づき
安直にOK返信をしてしまったのがたたった。
よって来年の年賀状は
訂正書き込みつきの恥ずかしさ。。。。
●
火曜日、年内最後の授業のうち連詩連句演習では
一学生が
参加しているぼくの詩作に疑義を呈した。
とんでもない否定辞だったのだがそれは措くとして、
その論旨は「いつもおなじ」「難解」
「音韻によって多様なイメージが定立なく流れるままになる」
「詩篇の中心が掴みにくく付けにくい」
「連詩のコミュニケーション重視精神にもとる」
とでもいうものだった。
主観と自己客観のはざまというのは最終的に埋まらない。
それはあらゆる表現につきまとう難問だろう。
それは当然として、「だからこそ」
自己客観の保証はたぶん単純な客観から得る。
たとえば威張ることではないが
ぼくは年齢上その批判者よりも引き出しも多く、
典拠や方法についても可動的で、
それゆえ「いつもおなじ」というのは
その批判者の不注意によるものではないか、と一応は反論した。
それと音韻によってイメージが点滅してゆきつつ
その速度のなかでやはり意味生成が変形的に起こっていると
自分では判断している、ともつけくわえた。
ただし「わからない」といわれると、さすがにつらくなる。
「わかるはずだ」というつもりで詩を書いているのだから。
ぼくのそういう個性は
「ゆたかさ」と一応部分的には称賛されもするんだけど。
ともかくこないだの火曜日はヘンな日で、
詩の読解の齟齬、という問題は
その前の時限の演習にもあった。
石原吉郎の詩それぞれ一篇について
受講者に発表をやらせたのだが
「書かれていない」ことまで解釈をやり、
しかも石原の実人生については生齧りなので、
まったく「想像的な(奇)解釈」が次々に飛びだしてくる。
石原の詩が換喩詩、つまりその詩行は「部分」、
詩行の運びも「部分がスパークしてゆく物質的運動」だとして
詩が意味的に「ここまでしか書かれていない」という
その精確な把握によって
たとえば石原の身体観へと
詩の読解が反転してゆくことがおこらない。
代わりに詩行にたいし、奇怪な読みがただ充填されてゆくのだった。
ぼくはそうした恣意的な読みをとうぜん授業中正したが、
そうした読みこそが、自分の詩作をも正確にするもので、
だから詩を書くことと詩を読むことは
たえず並行しなければならない、ということになる。
ぼくの詩を「わからない」といった学生は
授業後、研究室に謝りと弁明をしにきた。
そこで彼が、偏った範囲でしか詩を読んでいないとわかる。
そういえば彼はぼくが「詩手帖」年鑑のアンソロジーで
どの詩篇に☆○△をつけたかも把握していて
そこでは詩の大御所が無視されているし、
多様な詩篇が対象になって偏向がないのには驚いていたと語った。
それと「先生の詩はもっといいものがあるのに、
アンソロジーに載った詩篇はつまらないのではないか」ともいう。
このように詩をすごく勉強している学生なのだが、
その「客観」が、ぼくの「自己客観」とことごとくちがう。
授業でもう三ヶ月付き合っていてもそうなのだ。
詩をどう教えるか、これはやはり難問だ。
精確な読みを提示しても、その伝播範囲には
まず疑念をもて、ということだろう。
●
既報の岩波「日本映画は生きている」シリーズの第七巻、
『踏み越えるドキュメンタリー』がきのう届いた。
ぼくは「ドキュメンタリーとしてのアダルト・ビデオ」
という長稿を書いていて
今週末には書店にも並ぶとおもいます。
巻頭総論では旧知の石坂健治さんが
ぼくの書いた原稿の細部を数多く引用して
現状ドキュメンタリーの「変化」につき
意の籠った文章を展開されていました。多謝
鷹匠
【鷹匠】
あいてをかすめ
まいもどる
ぶーめらんの論理で
いくつかの首をきってゆくのは
ふゆの教室のさみしさだ
わたしもふくめ
みんな枯野にいる
それがだれのゆめなのかを
風になびくだけで
恍惚とする髪の
すべてが知らなければならない
むかしがかすめられている
むかしが散っている
眼にいましかないということは
しんじつ盲目だということ
ただよう陰謀は教室がすでに
羽根の香をしているこの冬にあり
そのなかで点であることが
身の帰りをそれぞれにしてもいる
さしむかう場所に
十二月の谷のなかの
吊り橋がえらばれたとして
だれの投げかを告げぬために
ぶーめらんはそこを
凶器のようにとぶだろう
橋上者をじぶんの
ゆいいつの眷属にするためにも
ぶーめらんはとぶ
きんいろから紫にかわる別れ
【きんいろから紫にかわる別れ】
南をさまよっていたころの
あるみちたりたひとときには
壁も柵もきんいろをみな刷いて
わたしをとりまく幻獣の数かずも
くれよんの輪郭をぼかしていった
みんなという単位でずっと
色のかわる空を見上げた気がする
すーぷのようなわかさだった
こわれた腕輪をじゃらつかせて
ひかりにただれた腕をかわすと
勝敗も愛も同時にころがって
他人の他人であることに
わたしは歯止めをかけなかった
たいせつにする者はみな
きれいに添い寝の範囲にあった
すーぷのようなわかさだった
けれど運命が北にむかい
知恵が包帯になってくると
ともにあるくひとみなも
だんだんただの音になってくる
木管とはからだを木にして
きえてゆく香りを鳴らすこと
おーぼえを吹く場を樹下として
すーぷのようなわかさだった
おんなのためにつかったカネを
死んだこどもとかぞえては
やがて眼のまえに夜の浪をみる
あきらかなものはあきらかな姿など
していないから触れてきたのだ
法則をまちがえたともおもわないが
やせたからだに情愛があまった
すーぷのようなわかさだった
とし老いて辞去のしかたが
へたになるなんてなんの逆説
風雨よけの服をぼろぼろに
そのテーブルには気配も置いて
ただひとの死角を去ってゆく
わたしの歌のあらゆる鎖が
わたしなきあとをゆれるだろう
すーぷのようなわかさだった
今日のプリント
昨日午前、今日の「かいぶつ祭り」のイベントのため
『西東三鬼全句集』をチェックしようとして
あやうく支えあってならんでいる
平積みの本の塔のいちばん底をさぐったところ、
都合五つの本の塔が見事に大破、
床板から自分の膝まで
うんざりするほどの本の絨毯ができてしまった。
けれどもそれを「天意」と受けとる。
そうだ、いまこそ本棚入れ替えのチャンスじゃないか。
このごろは読んだ順序で本を平積みし、
その塔も高くなってきたので、
背後の棚(それも各棚が前後で二段ある)から
なにかを探すのが億劫になっていたし、
探しても「なぜか見当たらない」というふうに
本棚の情報能力が低下したままにもなっていたのだった。
まずは散逸している各著者を
適切な一箇所にまとめなくては。
しかしそれは相互関連ということなら
ひとつの棚、平積みをどう形成するかとも
相即してくる問題なので、
これをかんがえるのは、
じつは難解なパズルを解くようなもの。
しかも本を崩し、足場のないなかで
部屋の各所をどう移動するかという
「工程」パズルの問題ともからむ。
それで結局、本棚の入れ替えが完了するまで
都合四時間程度かかった。
気づいたらもう昼二時。
ともあれこれでバラバラに散っていた
草森紳一も平岡正明も朝倉喬司も一箇所に揃ったし
藤井貞和は詩集と評論の二箇所に
岡井隆は旧作と新作の二箇所に
俳書もむかし買ったものと最近買ったものに
それぞれ分離するだけになった。
あるいは目障りだった某氏某氏の著作など
後ろのほうの塔に一挙に積み上げることができた。
広瀬大志さんとか渡辺玄英さんとかの詩集が
見事にそろい踏みで並んだのが嬉しい
(ただし彼らのデカい判型の詩集は美術書の棚)。
あるいは70年代詩集/詩作者が一定の秩序で
並んでいったのも嬉しい。
詩集はほぼ取り出さないが
捨てる気もしない、というものを
本棚の後ろ側に隠した。
自分の原稿の掲載雑誌も
「ユリイカ」などの長稿はのぞき、
映画関係の短稿掲載のものについては
これは移動シェルフの裏に隠した。
目安は二十枚以上か否か。
思想書の塔、デザイン書の塔もできる。
部屋の最も出入りのしにくい隅っこには
とりあえずは処分予定、あるいは古書店行予定の本の塔を
綺麗に平積みにしてつくりあげた。
う~ん恵贈詩集というのは処置が難しいなあ。
みなさん、どうしているんだろう?
それで本棚の入れ替えがついに完成した。
以後は今日の「かいぶつ句会」のイベントのため
ようやく『西東三鬼全句集』をチェックしだす。
自分の喋りを補助する三鬼の秀句を抜けばよい。
☆○△を句頭に付してあるので作業はたやすい。
で、できあがったプリントが以下。
●
【西東三鬼鑑賞】
○蛇の卵地上に並べ棒で打つ
昭和二十九年、『変身』所収
*
蓮掘りが手もておのれの脚を抜く
昭和二十七年、『変身』所収
○枯蓮のうごく時きてみなうごく
昭和二十一年、『夜の桃』所収
○蓮池に骨のごときを掴み出す
昭和二十三年、『今日』所収
*
愛撫する月下の犬に硬き骨
昭和三十年、『変身』所収
寒林が開きよごれし犬を入る
昭和二十四年、『今日』所収
寒月下の恋双頭の犬となりぬ
昭和三十二年、『変身』所収
*
われら滅びつつあり雪は天に満つ
昭和二十三年、『夜の桃』所収
脳天に霰を溜めて耶蘇名ルカ
昭和二十六年、『今日』所収
*
○百舌に顔切られて今日が始まるか
昭和二十三年、『夜の桃』所収
○百舌の声豆腐にひびくそれを切る
昭和二十一年、『夜の桃』所収
○印=桜楓社『俳句シリーズ 人と作品 西東三鬼』の名句鑑賞に掲載されているもの
●
このプリントを配布して
阿部が三鬼についてどう話すかは、
乞うご期待! といいたいところだが、
まだ今日の予約がうまりきっていないらしい。
この文のこれからのちを読まれて
気になったかたはぜひ予約をして
吉祥寺にいらしてください。
盛りだくさんだけど、気易い会ですよ♪
●
第9回 名物かいぶつ祭り 式次第
2010年12月18日 吉祥寺・伊千兵衛ダイニング
3時00分 吉祥寺トーク ① 丸亀丸 團松 バソン
3時10分 三鬼を語る 嘉昭
3時18分 えろきゅんキャバレー 賤女
3時26分 三島由紀夫を歌う 公人
3時34分 おわビデオ 子覗けんぞう
3時42分 ライブドローイング おゆき坊
3時55分 きききりんを探して 朔美
4時05分 歌唱 彩子
4時15分 かいぶつ句会賞発表 バソン
4時25分 吉祥寺トーク ② ブセオ
4時35分 余白ハプニング 余白句会
4時45分 太宰治リーディング 知代
4時55分 俳句後楽園 かいぶつ句会×余白句会
5時20分 シバライブ 三橋乙揶
5時40分 かいぶつ祭り大句会 司会=桃天丸 おゆき坊
6時00分 落語 世之介皀角子
6時30分 恒例オークション 進行=ざぶん 賤女
7時00分 閉会
ちなみに、俳号で人名を表示。
結構、有名人が多いがそれは現場でのお愉しみ。
●
@伊千兵衛ダイニング
www.icibee.com/
武蔵野市吉祥寺本町1-29-6 2F
電話 0422-20-0737
会費5000円
食事と三時間呑み放題+かいぶつ句集56号
参加ご希望のかたは
氏名・連絡先(メアド/電話)を書き、以下まで
kaibutsu575@atamatote.co.jp
FAX : 03-5453-2929
(伊千兵衛ダイニングまでの行き方・おさらい)
吉祥寺駅北口に出たら線路沿いに西荻・新宿方面に歩いてください。
線路下が「アトレ」という商店街になっています。
その商店街の先っぽに「アトレ吉祥寺郵便局」があります。
その向いの「KSビル」を左折してください。
左側のあさひ病院」を過ぎると前方左に「琉球」という沖縄料理の看板が見えてきます。
「琉球」の角を左に曲がってすぐのビルの2階が「伊千兵衛ダイニング」です。
「アトレの郵便局」と「あさひ病院」と「琉球」がキーワードです。
(あさひ病院からは徒歩1分でした)
連詩さらにその後
14 【葉が堕ちる】
中川達矢
人間は非常に人工的な生き物である。
生物的で生理的で自然的でもあるが、
人間が人間を作るから人工的である。
血管が運ぶ血が運ぶ栄養と似通って、
大樹の葉が作る澱粉は茎の中を泳ぐ。
「葉っぱを見て御覧なさい。
そこにどんな物語が紡がれるかしら。」
貴婦人は当たり前を知らないでいる。
葉脈は葉先に向かえば向かうほどに、
小さく細くなっていくしまうことを。
「ああ、人の終末とは、
どんな物語なのかしら。」
役目を終えた落葉を踏みつける彼女、
足元には階層を織り成す地面が在る。
15【昆虫譚】
松井利裕
蝉は土の中でずっとカリフラワーについて考えていた。彼は地上に生きる、ある人間の精神活動を肩代わりしているがために、そのような負荷を背負わなくてはならなかった。こうして光のない場所でカリフラワーを思考する様子は、傍目には非常に美しく見えただろう。蝉の周囲には他のカリフラワーについて考える他の蝉が多数存在し、彼らは土中の奥底に幾つもの白く輝くカリフラワーを開花させた。
青と黒に塗り分けられたアシナガバチは、後肢を長く垂らして夜に咲く白い花々の上空を飛行していた。身体の傾くたびに、淡く発光する脚を左右へ引きずり、蜂は蜜を求めて二対の翅を振動させた。ドップラー効果を忠実に守り、顫動音はドからシの間を行き来したが、それは一つの旋律となって夜明けを引き連れてきた。アシナガバチは白い花弁に着地すると、頭部を夢中に花の内臓へと潜り込ませた。
16【眼球考】
三村京子
よく見ると、彼の眼はうつろであった
夜の発光は、畢竟、嘘にはちがいないが、
それにもまさる、不可知の速度が拉致されてあった。
幾星霜、幾星霜。
わたしの眼のなかに放浪者が在る
ここが渋谷センター街、その峡谷の底の底。
かつて祖先は住居というものに耐えきれなくなり
軽さへと放火したという
いちどきに、荒廃の地へ変わること。
いちどきに、荒廃の地へ変わること。
夕ぐれの蒼。
家族というものが幽霊であるのなら
家に帰ってゆく彼らの
その透明な後ろ姿をもって
眠りへむかう行灯とする。
わたしの眼のなかに放浪者が在る
17【夕飯】
長野怜子
「夕ご飯にするわよ」の掛け声が階段
下から聞こえると、5時。
食器を掻き鳴らす、6時。
家族がそろったら、7時。
テレビと風呂にて、8時。
残りの9時から23時をどう過ごそうか
と考えながら眠る、0時。
あれま。
ふと空気の匂いが代わる頃 目が開かれたので 電灯の下を一人飛び回ってみたんだけど 弟と父がやってきて
「お前は蠅か」と嘲るので、魔法をかけてやった
やがて朝が明ける頃、電灯は光を失って、そもそもその前に感電死した蠅を含めると新聞に載る人数は恐らく0。
例えば、それが命だったり。
起きてみれば朝か、6時。
家族が家を出てく、7時。
今日から弟と父がいないのは気のせいだとかぶりを振って
私は、私は、と自分の朝食を囲いひたすらにニュースを眺めるふりをしていた。今更見てしまった夢も事実も変えられないのだと安心するために。
18【暦】
阿部嘉昭
五月、帝王切開に金貨がただようと、翅がみどりにひかって、
蜂の眼のなかの馬車もきえる。そうしてひとは複数を知る。
六月、水門があげられ、記憶の干潟がひかりにうるおうと
旅びとの履物がとけて、裸足の数かずが予兆に抱きすくめられる。
「眼を覚まして」と切迫の大声で起こされたそのころ、
その温かさでなおする懐手がわたしというひとりを二人にしていて、
七月、ゆめはわたしにある両側の間隙を季節以上に驀進している。
とりのこされることの優位が、まんなかにある者をいつもみたし
手もとにある底ではその背景が藤棚としてなだれていた。すこし泣く。
八月、交錯の王が死んだ。こんご愛惜は旧記にかたまるだろう。
日高線を南下すれば、武尊か白鳥かがにじませた精液の天河をみる。
みることがきえること。やくそくの筋交うかなたが揮発の本拠だ。
九月尽、すでに心にひつような距離が水深だけになっていて、
ながれる水面にきえてゆくだれかの足あとなら、伴侶に測らせている。
水のなかから舌をのばすわれらは滅びつつあり、浮子は上に満つ。
釣りあげられるときにしめす、身の古代というものがあるだろう。
ゲッセマネ
【ゲッセマネ】
耳はしたがう
音のまぶしさに。
くりかえされる
おなじ音程の
すきまのまぶしさに。
耳は視る
たくさんの箔が
みずからとおなじ
重量をみちびきにして
つながりあうのを。
そのつながりのなかで
着想の鳥が
瞬時をしらせるため
つぎつぎ憤死してゆくのを。
ひるまのあっけらかんとした
あかるさには
等間隔に釘がうたれて
耳はその距離にふれようと
つぎつぎ時間の音を
たずねてしまう。
なんという不確かなこと、
その眼でないあかしは。
ゲッセマニのバード
ひのひかりをあらわす
林立など視ない、
しかし吹き奏でる。
釘のありかだ、
それをはなれて
食卓の椅子で聴く。
●
研究室で石原吉郎演習のため
「現代詩文庫」をひらいていて
ふと詩をおもいついた。
研究室で詩を書くのははじめて。
慧眼のかたなら
石原吉郎のどの詩篇を
着想したかおわかりだろう。
詩を書いてみて気づく。
三村さんのレコ発ライブへの
期待が高まっているなあ。
ぼくはゆきます。
簡単な概要は以下
●
2010年12月16日(木)『みんなを屋根に』発売記念コンサート
会場:渋谷 7th Floor
http://7th-floor.net/
open19:00pm/start19:30pm
料金:2000円(前売)/2500円(当日)*ドリンク別
ローソンチケットLコード【71785】
◆10月に待望の新作『みんなを屋根に』を発表したばかりの三村京子のアルバムリリース記念コンサート!
当日は、アルバム録音メンバー、牧野琢磨、船戸博史、山口元輝とのバンド編成で、
アルバムの魅力を余すところなく伝える演奏をお届けします。
スペシャルゲストとして、牧野琢磨も所属する新興音楽集団、NRQ(ニュー・レジデンシャル・クォーターズ)、
さらに、遠くイタリアより、デレク・ベイリーのカンパニーや、ICPオーケストラ等に参加し、
日本でも数多くのミュージシャンとの交流でよく知られる素晴らしいインプロヴァイザー、
トリスタン・ホンジンガー氏(Tristan Honsinger, cello)を迎え、本格的な、即興演奏も交えながら、
一夜限りの『みんなを屋根に』発売記念コンサートを、皆様と共に作りたいと願っております。
急告! お知らせ
ご連絡が遅れましたが、
来る土曜、12月18日、
「かいぶつ句会」は好例の「かいぶつ祭り」を
吉祥寺でおこないます。
当日は偶然、おなじ吉祥寺で
「余白句会」が忘年会を時間先行でやっていて、
「余白句会」にも参加している
ブセオ=八木忠栄さんが
そのままメンバーをひきつれ
「かいぶつ祭り」に乱入する段取り。
ですので、食い物は旨いわ、
催しもの連打で面子も多士済々と
やたら賑やかな成行きになりそうです。
出し物の現状プランは以下。
●
開会の辞
来賓挨拶
俳句談義 1 角川春樹論 丸亀丸 8分
2 寺山修司論 バソン 8分
3 橋本多佳子論 ブセオ 8分
4 与謝蕪村論 桃天丸 8分
5 川端茅舎論 僚 8分
6 西東三鬼論 阿部嘉昭 8分
かいぶつ句会賞授賞式
川上賤女史津子 パフォーマンス 6分
笹イエローマジック公人 三島由紀夫を歌う 6分
高遠彩子 ◯◯を歌う 6分
サエキ子覗けんぞう ビデオ出演 6分
蜷川有紀 トーク&ライヴペインティング 6分
阿部知代 朗読 6分
白石冬美 野沢那智追悼 6分
金原亭世之介 落語 20分
余白句会 出し物 20分
大バトル句会 かいぶつ句会vs 余白句会 40分
恒例 オークション ざぶん+賤女=司会 20分
閉会の辞
●
阿部は「西東三鬼を語る」という役回りですが
今週、準備をしなくては。
三鬼の「スケベ句」渉猟、みたいにしようかなあ
(まだわかりません)
あ、いま新たに情報が入った。足します。
●
吉祥寺っ子でもある桃天丸&ざぶんの発案 で、
吉祥寺ゆかりのミュージシャンを
ゲストに迎えようということになりました。
吉祥寺には色々な顔がありますが、僕たちの世代にとっては
「フォーク」の街ということになります。
先年亡くなった高田渡氏も親しい友人でした。
その高田渡氏の盟友とも言えるミュージシャンのシバを迎えて
プ チ・コンサートを開いていただくことになりました。
シバは知る人ぞ知るブルース&フォーク系の
しぶ~いミュージシャンです。
ボトルネック奏法のギターやブルース・ハープとともに
大人の歌を楽しんでいただけたらと思います。
またシバは現代俳句の故・三橋敏雄さんの甥にあたり、
本人も三橋乙揶(みつはしおとや)の名で
60年代から「ガロ」に漫画作品を発表したり、
近年 はタブロー画家としても
素晴らしい作品を発表しています。
加えて同人高遠彩子には気鋭のギタリスト末森樹の伴奏で
熱唱してもらうことになっています。
さて、さらに3時からという早い時間の開始ですので、
師走の土曜日の夜はたっぷり時間があります。
7時半からは「伊千兵衛」から3分くらいのところにある
カフェ バー「ブルームーン」で二次会が開かれます。
エスニック感覚の調度と仄暗い照明がちょっと妖しい
素敵なお店です。
2時間の貸切コースで予約してあります。
●
以下、概要
2010年12月18日(土)
午後3時開宴-7時閉宴
@伊千兵衛ダイニング
www.icibee.com/
武蔵野市吉祥寺本町1-29-6 2F
電話 0422-20-0737
会費5000円
食事と三時間呑み放題+かいぶつ句集56号
参加ご希望のかたは
氏名・連絡先(メアド/電話)を書き、以下まで
kaibutsu575@atamatote.co.jp
FAX : 03-5453-2929
●
さてきのうは、「生き事」「一個」の
合同忘年会に参加した。
これまた場所は吉祥寺。
その二次会のようすを
詩にしたので、下に貼っておきます。
ま、戯れ詩だけどね♪
●
【ぼうねんかい】
ある晩もあべはまつしたに
ほんろうされてゆく
むしられる羽があることの
このおんどりなかんじは
とりおとこには先刻しょうち
七〇年代分光器をつきつけられ
ちょうこうを加減乗除される
その手さばきはじゃぐりんぐ
あるるかんの水玉とびちる
いい気と呑気を調合した
あるこおるまでつがれ
ことしの蝋梅は良い透明などと
いい気と呑気になってゆく
この濛々のおんどるが
渡世のおんせん主義だが
ぼうげんささきが
まつしたの詩集編集など
なっていないとぼうげんし
あかしがわりに自分の
詩のいぼまでみせてくれて
数年の眼福にあずかる
詩をかくとはいぼだらけになること
そういう大事を即座に理解する
このわたしはべんりだ
とまあ、じまんしたとたん
ふんがいしていたまつしたに
かよっているようちえんをむしられ
べんりなおまえはから揚げさ
と勝利宣言されてしまう
ちくしょう年長組め
わたしはべんりだ
ピカピカ犬
【ピカピカ犬】
呼び名をさがして
ピカピカになっている
ふさ毛の犬がいて
風にただれてもいる
現れているだけのそれを
ただ嚥下のまえの
北風とよべるか
あつめられた避雷針の
格子のなか
きざしと呼ばれ
尾を九つにすることで
風にあまっている
ほそい、うなだれがつづく
くろいものをのもうと
水溜りへ首をのばし
そこにきえてゆく
孤独な過程がまたある
吹きぬけるだけの檻のなか
それも犬とよべるか
佐々木安美・新しい浮子 古い浮子
佐々木安美の詩風が
どのようなものかを定義することはたぶんできない。
というか、そのようなものとして差し出されるため
佐々木安美自身が細心の配慮をしているといえる。
とある不定形、とある風景描写、とある心象描写、とある音韻執着、
とある諧謔、とある省略、とある粘着、とある妙な加算――
そういったものが丁寧な組立て細工となりながら
どこまでも文学的な定着をこばんでいて
だからまたたくまに、読者の読みより先に詩篇がとおりすぎてしまい、
そこに奇妙な動物性の横切りのみを感知することが多かった。
「このひとはどこまで大人かわからない」
「このひとはどこまで怠惰な貧乏人かわからない」、
そういった畏怖によって
佐々木安美の「大人」「怠惰」が読者のなかにも反響してゆく。
詩中にえがかれた佐々木の痔を愉快がることと
そういったことはまったく別物とかんがえるべきだろう。
しかしそうした再帰的な「詩のおもしろさ」は本然的に
なにか確定性のない基底材のうえにのっている。
だから佐々木安美論は、
ばらばらとこぼれおちるものとの闘いの様相を呈してもゆくだろう。
それがはっきりとつかめたのが
今度の新詩集『新しい浮子 古い浮子』だった。
まずはぼくがもっている最も古い彼の詩集、
H氏賞を受けた『さるやんまだ』(87)から一篇を引こう。
そのまえに注記しておくと、
「さるやん」は佐々木が愛妻から頂戴した愛称で、
同題詩篇をみると「さるやん、まだ?」という
排水溝のつまりを掃除している情けない佐々木への妻の呼びかけが
そのまま「、」と「?」を割愛して
「さるやんまだ」という詩篇タイトルに変貌しているとしれるのだが、
この「さるやんまだ」は
たとえば「さまるかんど」みたいな異郷のひびきすらもっていて
佐々木自身が詩篇内で何の説明をしていなくても、
「音韻」の奇妙さに打ち興じている気配がつたわってくる。
こういう薄い、翅のようなものを
詩集名にしてしまう佐々木には、人を食ったズラシがあるのも自明だろう。
●
【かみなみと言った】(全篇)
川の
水のうえに
紙が
浮いてるんだよ
波にぴったり
はりついて
波の形に
浮いてるんだよ
妻を
抱き寄せ
ぶうやんと
言った
紙は
いつか
破れるんだろうな
ちぎれて
ばらばらになって
誰にもそれが
紙だっていうことが
わからなくなって
しまうんだろうな
ぶうやんと
言った
まだ
だいじょうぶだ
上になり
下になった
かみなみと
言った
●
転記打ちして気づくのだが、
この一行字数の少なさから「ライト」と印象される詩篇では
なにか独特の分節粘着力というか表面張力のようなものが働いていて、
「どこも割愛することができない」。
部分採取するだけで全体文脈が崩れてしまう。
水と紙が破裂してしまう。
ということは、手軽に書かれているとみえながら
手軽さへの彫琢が、気のとおくなるほどおこなわれていることになる。
最終的に詩篇では妻とのセックスの暗示がおこなわれるが、
妻=ぶうやんが「川」、詩の主体が「川面にうかぶ紙」と捉えても
その暗喩読解では読みの解決が何ももたらされていない感触がのこる。
あまるものがあって、その正体が場面展開と
それを刺し貫く、出所不明の音韻感覚、というべきなのだろう。
こういう佐々木特有の「詩像」の一旦とりこになると
佐々木詩がおもしろくてたまらないものになってゆく。
詩に視像というものが通常ともなうとすると
佐々木詩ではそれが曖昧化してよい内在法則があるかのようだ。
この移行をどういっていいかわからない。
単純な曖昧化への接近でもなく、
喩への過激な信頼でもない。
佐々木安美の音韻意識が何かを崩し、説明すべきものを剥落させ、
詩篇そのものを「ふしぎどうぶつ」に変える働きをする。
詩篇からは生気というか動物磁気が吐き出される景色ともなるが、
えがかれているものが規定できないまでに過激化すると
読者は咄嗟に「ぶちまけられたカフカ」をかんがえてしまうだろう。
『心のタカヒク』(90)に収録された以下の詩篇のように――
●
【どろりの皮だよ】(全篇)
どろりとしたようなもんが
死んだようなもんが
鎖につながって
ジャラ
首を回して
どぶみたいなもんの
底を見ている
それからジャラリ
底に沈んで
揺れている
いろんなものと一緒に映り
ジャラ
どろり
日が暮れるまで
首を回して考えた
死ぬのはまだまだ
まだどろり
バケの
皮をはぐところ
皮のぴくぴく
鎖が
ジャラリ
●
幽閉され、鎖につながれている自己感覚が唄われているのだろうか。
いや、犬の描写のようでもある。
しかし「底」がどこからみての「底」かは一向に要領をえないし、
皮も描写対象のものなのか、
その対象がさらに対象化したものにあるのかを判断しようとして
材料が決定的に不足していると気づく。
ただし「途方に暮れる」という態度こそ、この詩篇の拒むものだ。
たとえ双方の位置関係がわからなくても、
動物的な擬音「ジャラリ」「どろり」が
動物のように音を交響させていると知ると、
詩の主体は、もともとの主体が消去されたのちの
これら擬音のほうではないかとすらおもえてくる。
となって、詩篇は読者に「子供の読み」「白痴の読み」をも促してくるが
その促しのしずかなところが、佐々木詩の妙味と捨てがたさだといえる。
――このようにつらつら考察してみて、
佐々木詩を暗喩詩と捉えるのが前提の誤りだという中間結論にいたる。
「換喩詩」と捉えるべきなのだ。
暗喩とは比喩の謎であり、かたられたものと本来的実質のあいだに
ある直線的な解答関係を引くことができる。
いっぽう換喩とは全体を部分で暗示することと
通常捉えられているだろうが、
佐々木にあるのは構築されない全体のなかで
徐々に進行し、進行することで生気を得てゆく
各「部分」の成長にすぎない。
そういう意味では近藤弘文の指摘するような
「峻拒」が随所にみえてくる。
そして近藤のいうとおりその峻拒は「峻拒のための峻拒」ではなく
ことばがそれ自体になるための周囲文脈の峻拒というべきだろう。
全体の地のなかに、部分が図として置かれ、
しかもその部分集積も全体を解読するには材料不足で
結果的に部分の衝突だけがスリリングになる、というのは
本来なら石原吉郎のような疎外者の詩法というべきだろう
(佐々木は今回の『新しい浮子 古い浮子』で
嵯峨信之とともに石原の名を暗示的に出している)。
ただしそういった換喩が疎外態を形成しないのは
ぼくの知るかぎりではカフカの短篇に先例がある。
今回の『新しい浮子 古い浮子』は
フナ釣りの孤独と無聊に身をひたしている
佐々木自身とおぼしい主体が詩集最初に定着され
そのなかで釣りにもちいる「浮子(うき)」も
世界に下ろす垂鉛の水面最後のしるしといった感で定着されるが、
たとえば釣果が詩語、詩行の獲得となるような
暗喩構造は全体にない。
釣りはそのままの釣りであり、浮子もそのままの浮子であり、
だからそれは「世界」からアタリのお呼びがかかったときに
水面に一旦しずむ「そのままの動物」であるにすぎないとおもう。
ただし浮子によって釣り手、さらには世界、さらにはひかりと
世界像が同心円状にひろがるために
浮子は、一旦は世界の中心、臍に擬されるものであって、
その浮子にたいし主体が関与的ではなく受動的な点に
主体のポジションがまずあるとわかる。
そのことをいう詩中の一句が
《ゆるやかに浮子立ちながら底の春》だとすると、
逝去した「父」への思いのよすがとなるのも浮子だ。
浮子は「そのままの動物」だから変身可能性をあたえられている。
これも詩中の二句から引こう。
《父死んで雨降る川に浮木かな》《父というものしずまりて浮子ひとつ》。
表面(水面)をたゆたっている浮子の意味については
意外なところから照射をうける(詩集構成がじつに巧みなのだ)。
詩篇「浴室を仕切るカーテン」(この詩篇から次の「接近」、
さらに次の「児玉」までがテーマ的に近接した連作関係にみえる)に
以下のくだりがみえるのだった。
《三次元の世界は/〔…〕カーテンのようなものであり/
ちぃきゅうも たぁいようも ひぃとも/
そのカーテンに付着している滴のようなものなのよ/
〔…〕そのカーテンの表面は移動できても/
カーテンの表面から飛び出すことはできない〔…〕》。
詩篇には註記があって、以上の発想の基盤は
理論物理学者リサ・ランドールの次元空間論からの賜物としれるのだが、
詩篇の終わりでは佐々木とおぼしい主体が反逆する。
《浴室を仕切るカーテンなんか欲しくない/
だってそれだと からだを洗っている君が/
五次元世界のこちらから/ぜんぜんみえなくなってしまうから》
まず、詩は三次元世界にのって出現する。
通常の感覚であればその三次元性=限定性が詩の安定性につながるところ、
五次元生物の佐々木には逆にその限定性が
換喩を詩に呼び込む要因となり、つまりは不安定な可変要因となる。
むろん五次元など実現できないが、
換喩による、ねじれの位置での「部分のちりばめ」は
詩の心情を五次元化するだろう。
ただし糸口がいつでも三次元なのも自明で、
その三次元表面にある浮子こそが、
五次元のフナの食いつきを告知するのではないか。
釣果は佐々木にとって暗喩ではないと前言したが、
もともと五次元の魚は釣果にはならないし、だいいち釣れないだろう。
そうかんがえたとき佐々木の心情は他人に忖度できない外部性をもつ。
そこが怖い。
いずれにせよ、この五次元内、というありえない知覚が
時空をたぐりよせ、空間を変貌させ
佐々木詩の奇妙さを釣りあげてくる。
それがドサッとした「現物」なのにうつくしさにかがやいているとき
『心のタカヒク』から20年経って佐々木に兆した
変貌あるいは加算の意味がつたわってくる。
異貌なのに、そこに肯定性が横たわることで
詩の物質性がしずかにきわまりだしたのだ。
圧倒的な詩作である「恍惚の人」を引用したかったが、長いので、
同等の透明な世界同調性、世界没入性を印象させる詩篇をまずは引く。
時空が変貌しながら、それが契機になって空間を単純変転させているようすを
この引用から汲みとっていただければ――
●
【春あるいは無題】(全篇)
ああ
あんなに高い空の上に
はだしの
大きな足裏が見える
そう思ってぼんやり見あげる
顔の表情のゆるんだところから
春は始まる
じっさい
目を凝らしてみれば
はだしの大きな足裏の近くには
二羽のヒバリが豆粒みたいになって見えるはずなんだ
どうして
あんなに遠いのに
すぐ近くで鳴いてるように聞こえるの
説明なんてつかない
春の遠近法というしかない
子どものころの雪どけ水にも
あの足裏が映っている
雪の
ダムを壊す
快感で顔が熱くなってくる
雪水は
あたり一面に広がり
胸にじわじわと
光のようなものが柔らかく満ちてくる
●
春季の到来を農耕的時間のなかで捉えた
西脇的祝言とみえそうだが、内実はちがう。
時空の飛躍や比喩の飛躍(「足裏」を春の女神のものとしたり、
花雲としたりもできそうだが)によって
「詩の自由」がメタ詩的に、
しかも自己説明要素を峻拒して、清冽かつ無駄なく書かれ、
ことばの物質性のうつくしさだけがここに際立っているとおもう。
「二羽のヒバリが…」からはじまる一行の長さについては
別の詩篇「車輪」に間歇的な自註フレーズがある。
《一行の長い詩を読む人の/
身体が途中でひしゃげているのはずいぶん前からわかっていた》
《一行の長い詩を読む人の中でわたしは詩を書いているはずだが》。
ふたつめに引用した行の摩訶不思議なひびきを味到してほしい。
詩は書くもののなかではなく、読むもののなかで書かれる。
没入が詩の宿命なのだ。
その身体は、詩行が長くあれば物理的にひしゃげる、とも
佐々木は語っている。
ぼくなどはそこに「詩の本来的なかなしさ」を感じてしまう。
最後に佐々木の、「世界没入」哲学が
これまた説明を峻拒して綴られたうつくしい詩篇を引用しておこう
(論はこれで終わるが、以上が多元的な佐々木詩の
一面しか述べていないことにはご留意をねがう)。
●
【山毛欅〔ぶな〕の考え】(全篇)
あるかないかもわからない わたしらの考えの中に
みしらぬ山毛欅の大木が入ってきて いっせいに若葉を鳴らす
すこし前に かすかな風の前触れがあったはずだが 気づかなかった
それでよけいに 若葉を鳴らす山毛欅の音が鮮やかだ
山毛欅の大木は あるかないかもわからない
わたしらの考えというものを見つけだして
わたしらの中に もうひとつ別の考えがあることを
告げようとしているのか
ひとつの考えの中にもうひとつ別の考えを並べておくこと
そうすることで わたしらは世界を立体的に把握できる
そう告げようとしているのか
山毛欅の大木はわたしらの考えの中で 小さな光の短冊をいっせいに鳴らす
わたしらは山毛欅の考えの中で 大気をいっぱいに吸いこんで
細い枝の先まで光を浴びている
○
詩集の申し込み先は以下の「栗売社」へ――
kuriurisya@gmail.com
朝倉喬司追悼
朝倉喬司さんの訃報が今朝舞い込んできて
午前がすごく憂鬱になった。
孤独死らしい。
ネット探索してみると
この十月に離婚して
長年棲んだ逗子市久木を離れ
ひとり暮らしをはじめた矢先の
病死だったという。
あるいは転居方角が祟ったのか。
あの霊神にはふさわしからぬことだ。
はげ頭に帽子をのせて犯罪の地をさまよう
朝倉さんの痩躯はTVでもよく映った。
けれども土地の旧い霊と交感し
からだの霊的水位をたかめてゆくその実際は
TVの解像度ではあまり映らなかったとおもう。
むろんコメントにもとめられる還元主義を
朝倉さんはけっしてとらず、
その語りが複文構造になるのも厭わなかった。
書き手としてはもう
処女作『犯罪風土記』からのファンだった。
東海道新幹線で西走するとき
車両がつぎつぎ跨いでゆく「男川」「女川」を
朝倉さんはいつも体感への加算装置にしていた。
男女の複層。性愛の水。テキヤの襲名の酒。遊郭の濠。
「水」が朝倉さんの想像力の起爆剤だったのではないか。
たとえばダムの水没地。
ダムの底にきえた岐阜の一村の出身者が
ラブホテルチェーン経営に先駆的にとりくみ
成功をおさめたと知ったのも朝倉さんの文からだった。
歌舞伎町にもそうした建物がいまだあって、
ついさきごろ、それをまえに
ともだちと朝倉さんの話をしたばかりだった。
朝倉さんの犯罪ルポには
なにか別の天をうつす水溜りが常にあった。
地下水脈からにじみでる、遊女たちの旧い叫び。
先住者のうめき。歴史敗者の異議申立。
それを聴き継ぐのは『アースダイバー』での
中沢新一さんしかいないのかもしれない。
朝倉さんによって僕は地理を学んだ。
西成。鹿児島のシラス台地。
チェイチェイという奇怪な叫びであふれた
西南戦争時の田原坂(やがてその上空に西郷星が出没する)。
お伊勢参りと対になった遊郭・古市。
豊田商事・永野会長の出身地、岐阜県恵那。
土地と連結されて、ひとがはるかになった。
朝倉さんはその作法で、無告者の伝記をなすのが見事だった。
だから神戸の児童連続殺傷事件の「場所=疎外」などは
鄙を本質的に愛する朝倉さんの慧眼には
すごく乾いて映っていたのではないだろうか。
あの扇の骨をたたんだような躯と
抱擁しあったのはいつだったか。
「同時代批評」が開催した忘年会のひと齣、
別役実さんしか朝倉さんの犯罪批評のライバルはいない、
と僕が酔って朝倉さんに断言したのだった。
別役型犯罪評論の、
還元主義からぎりぎり躱される思弁主義にたいし
朝倉さんにはあるく脚が生み出す霊的多層がそのままある、
だから朝倉さんは類推不能な「猿田彦主義」だ、とか
たしかいったのだとおもう。
刹那、きみはいい子だ、と抱擁されたのだった。
朝倉さんは河内音頭振興会の斬り込み隊長だったが、
そのおどる仕種は、酔席で何度かみた。
ことしの牡丹はよい牡丹。
そんな朝倉さんは犯罪者を大悲する観音に似ていて、
彼・彼女らの罪はまずその踊りによって祓われた。
朝倉さんの評論でのみ
犯罪者は倒立した獣神として列聖される。
その列聖行為は、薩長閥が基礎をつくった
近代日本の欺瞞をするどく打った。
むろんそれは朝倉さんの
土地を徘徊し、時空を縦横し、風景の突破口を見出す
あの達意の文章によってだったが、
そのまえに、あの観音踊りの仕種がある、と僕は見ていた。
芸能的。だからその文章の真髄が、
荒魂をしずめる踊りとなる。
そのかぎりで浪曲に代表されるものへの
朝倉さんの好みもあった。
むろん左翼的な階層社会注視もそれに相即していた。
平岡正明さんとの二人三脚が
つづいていたら、とおもうこともある。
朝倉さんの思弁が踊りだすときというのが
数多い朝倉本のどれでも精髄箇所となる。
霊性のまつわりついたそれまでの描写が
急転直下、観念的で噛み砕けなくなるが、
そこに読者の「錯視」までふくめ
なにか途轍もない影が乱舞する景色となる。
そういう箇所を以前引用して、
文章が適当に切れず、てこずったこともあった。
映画監督の瀬々敬久も朝倉さんの大ファンだった。
瀬々のある一作は
ビニ本の女王とあがめられた田口ゆかりが
羽田の水上生活者だと知ったことからはじまるが
そのインスパイア源こそが朝倉さんの本だった。
「犯罪-女-水」の聖なる、日本的な三幅対。
瀬々の映画キャリアはそれを連打することで
たしかに蓄積されていった。
朝倉さんが「犯罪が内出血化しだした」と慨嘆したのは
九〇年代の初頭だったろうか。
つまり歴史上地域上の「因果」があって
それまでの犯罪が成立していたのだとすると
そうした犯罪は社会にたいする「出血」として現れる。
ところが出血せず
犯罪内部に再帰的に沈潜するようになった犯罪は
再帰性反射して、その享受者の無意識にこそ巣食い、
たとえば「十年殺し」までも結果する。
犯罪が他在的な追求対象から、
内在的な不明化へとその身をひるがえしたのだ。
それでわれわれの「体感」だけが奇妙になってゆく。
そう、ひとが悪をおかすのではなく
悪がひとをおかす、というときのカフカ的な内密性が
空間におしひろがってくるのを朝倉さんもみたはずだ。
そのころからか朝倉さんの単行本の重心が移る。
明治の新聞社会面から明治小説まで、
朝倉さんの博艘がはじまり、
フーコーなどもよく引用されるようになる。
あきらかに「近代」の要件を思弁的にかんがえる変化が起こり、
そうなってたとえば歴史上の「自殺」などが
綿密な文献探索で腑分けされていった。
名著『自殺の思想』、自殺の近代性が
華厳の滝に投身した藤村操で確立したあとどうなったか。
朝倉さんは三原山投身自殺者を使嗾しつづけた
奇妙な女に憑依して
自殺を謎のなかに相対化する挙に出たのではないか。
その三原山自殺連鎖でも
それをモチーフにした高橋たか子の小説『誘惑者』は
申し訳ていどにしか紹介されていない。
あるいは別のところで朝倉さんがあつかった
光クラブの山崎晃嗣についても
三島由紀夫『青の時代』を論拠とはしなかった。
すべて自前調査をとおした。
たとえば「水と女」の小説、広津柳浪『今戸心中』を
近代心理の不可解な成立もふくめ
朝倉さんはこよなく愛した。
そのとき明治小説に由来し、固められた
独特の小説観があったのだとおもう。
一方で三島は山崎と同列にみていたはずだ。
むろん朝倉さんには、
ルポとして小説を書いた気概もあったはずだから
「書割」小説には態度が厳しかったのかもしれない。
ここでも還元主義への嫌悪がみえる。
台湾バナナの帰趨を、金波銀波の波にのりつつ
香具師の口上ともども分析した朝倉さんは
自身が憑依媒介だったから
そのときはバナナそのものへと昇華したが、
「身の近代」を照射の対象にしたとき
バナナのような無頼な漂泊性をうしない
その存在を書斎にまずは純化させたのではないか。
近作ではブッキッシュな引用が多くなり(筋金入りだったが)、
歩きによって景観がひらけてゆく開放性は後回しになった。
たぶん明治から大東亜戦時までに
なにか独自の線を引こうとしていたのだとおもう。
そのプランが中途で終わったのかどうかは
もういちどその膨大な著作を検証してみるしかない。
――合掌。
立教演習連句A班完成!
●連句旧A班
1 秋雨に路傍の澱は霞みゆく 松井利裕
2 開く芙蓉に明くる夜を見ゆ 門司奈大
3 鳥獣もこぞり出で来て愛づる月 三村京子
4 団子の串にたかるのは誰そ 中川達矢
5 幾年の夢滴らす籠枕 長野怜子
6 息継ぎもせず夏草掻いて 松井利裕
7 君を待つ夜ごと馬酔木の花咲かす 門司奈大
8 手にて田螺をもて遊ぶ稚児 三村京子
9 芹摘みて帰るあぜみち水匂ふ 中川達矢
10 無に戻らんと末黒野を刈る 長野怜子
11 一心に壁を眺むる猫の目見 松井利裕
12 小春日和の窓辺に眠る 門司奈大
13 あばら屋の朝寒に発つ宿り人 三村京子
14 天高き日はをちこちに馬 中川達矢
15 嘶きと手綱軋む音呼ぶ月よ 長野怜子
16 胸に頬あて玉繭のなか 松井利裕
17 後朝の我が身のごとく花ちりて 門司奈大
18 遠足バスを待たず帰れり 三村京子
19 雪代にそつと寄り添ふか弱き手 中川達矢
20 黒髪を編む佐保姫何処 長野怜子
21 フエンスを鳴らす白球の大仰なる 松井利裕
22 氷菓噛む子の頬に影落つ 門司奈大
23 家遠く革靴もて踏む霜ばしら 三村京子
24 襖の向かう香る屠蘇酒 中川達矢
25 宵も過ぎ隅の衣服は火恋しと 長野怜子
26 魂迎へする他所の戸に入り 松井利裕
27 椋鳥の一羽が群れを離れをり 門司奈大
28 くわりんの実落ち色硝子見ゆ 三村京子
29 濁りみづ場にとどまりて月眺む 中川達矢
30 純白の照る葱〔ねぶか〕揺蕩ふ 長野怜子
31 年輪数ふれば咳〔しはぶき〕も遠く 松井利裕
32 サイネリア抱く祖母のまなざし 門司奈大
33 船人の見ゆる入り江に海市たつ 三村京子
34 埃飛ばして風光る日々 中川達矢
35 座る身の寂びれを包む花衣 長野怜子
36 翁ねむりて春野に染まる 松井利裕
●
つつげて満尾したA班の歌仙をアップ。
最後の挙句で松井くんが呻吟をくりかえしたが、
無事、「おきな」の芽出度い語がみちびかれて
一座の祝言となった。
恋句待ちのめぐりあわせで
門司さんが妖艶句を立て続けに付ける流れとなった。
それで《君を待つ夜ごと馬酔木の花咲かす》など
びっくりするような句が出現。
それを受ける三村さんの切りかえしもいい感じで、
松井くんという起爆剤を抱えつつ
連句A班は流麗なながれに終始したとおもう。
松井くんの31は破調だが
漢文調のリズムをもつ17音で、よしとした。
授業中、もっとも直し要請のかかったのが
中川くんだろうか。
かれは詩がうまく、
その類推で句を詠むので、
二物衝突によってうまれるべき空間のひろがりが
ややもすると流麗のみにながれてしまう。
授業中に苦闘するかれのすがたが微笑ましかった。
むろんその結果できた14の短句など絶品。
総じては、35の花句と36の挙句のやりとりが素晴らしい。
「寂びれの身」は誰、という謎かけに
「翁」という答が出て、
35が異なる女装を詠んだ奇想句という逆証を受けた恰好。
そういう機知こそ、歌仙の醍醐味だろう。
連詩その後
立教連詩連句演習で
ぼくの所属する連詩新D班の
「その後」を以下に報告しておきます。
●
9【悩みの種】
中川達矢
ここにいた私を返してください
私の色は黒ではなく、同化を望みません
暗闇でかくれんぼをしてはいません
星新一が作った穴には落ちていません
白でもなく、光でもありません
どうか、どうか、眼に入れてください
黒目で私を捕らえてください
私の涙は透明です
ここにいた私はどこですか
そう、あれは師走のこと
私は悩みに悩んでいたことに悩んでいた
種は植えるか食べるもの
10【ヒア】
松井利裕
連続する現在の点を配列することで音楽を奏でる。この行為で過去になった、ある一区画がずっと頭ん中で繰り返すので、未来は既に記すことのできる状況にある。
闇の中で冷蔵庫を開ける俺を後方から捉えると、その足元には青紫の空気が下りてきて、足首の腱を洗っていく。白熱灯を模した明かりが身体の影を浮き立たせるが、一方で光芒は気づかぬほどの速度でその暗部を侵攻している。俺は庫内に保存された加工肉のラベルを眺め、そいつが腫れぼったいビニルの中で美しく、無表情に死んでいるのを発見する。鶏卵にしろ、ハムにしろ、それらが人を惹くのは、そのデュナミスゆえでなく、そいつらが現在を誇示し、そこに固執しているからだ。俺は自らの行為が自己愛の顕現に他ならないことを知りながら、透明な膜の上から指先でピンクの肉を圧迫し、この体腔を満たす液体の流動を確認する。
断片化した未来の線分を反復することで現在を連ねる。この運動でダメになった時間性は定期的に再演を要求し、生き、死んで、俺は音楽を奏でる。
11【なぜわたしは面白いのか】
三村京子
なぜわたしはこんなに面白いのだろう。
時間毎の行為を中空に記述してゆくと、わたしが異化され、かさぶたでも落ちるように、
空間から、人形のようなものがぽろりと排泄される。
その様子を眺めていると、白い花びらが永遠にこぼれ続けるみたいで、例えば喫煙だとか、
固有の性癖や、ややもすれば偏奇な嗜好というような、鳥が止まるための止まり木がなければ、ふつうは気がおかしくなるのも否めないだろう。
あるいは本人も周囲の人間も気づかないやり方で、実際に狂っているかのどちらかだ。
そして一生をその狂ったままで遂げるような人も多く見かける。
わたしをこんなにせき立てるのも、白い花びらがとめようもなくこぼれ続けるものだから。
あの人たちは、どこへ行くのだろう、あんなに、息の弾んだ足どりで。私を、ここに残して。ここに、置き去りにして。
(これは、歌うときの意識なのだろうか)。
12【歩く】
長野怜子
せっかちなRPGのBGMに合わせて
物理演算込みの歩行を披露する
コントローラーが握れるのは 主人公と5000円あたりかかる物語のクオリティ
リセットされようが私は繰り返して、
繰り返して。
昨日銀杏は枯れ果てて。
そんなことも知らないままにして。
あなたは違え、私を救う物語を必死にゲームする。
窓から鏡合わせのように覗いた街の。
前を歩む人の背に映る夕影の紅、浮く落ち葉に乗り合わせる花梨の実、重厚な枝ぶりを魅せる禿げた桜、鰯雲が泳ぐ優しい空。
みんな感受してくれたら、と。
私にも、貴方にも。
13【悲器】
阿部嘉昭
悲具――かなしい具。演じられる役割もさだかならぬまま絵皿に、
交換の気配をただよわせ並んだ木の実が、人のすがたにもみえて、
それを映す窓がここの窓かと戸惑う。だいいち絵皿の模様が木の実
だから、役割はまぎれてしまい、底をささえるレイシーのソプラノ
サックスなど藍ぶかいもやにも似た。あるくように舌をかたい実皮
に這わせ、外側だけをしめらせてゆくと、内実はみごと脳裡に黄金
となるが、わたしというここの枝ぶりはさまざまな落花の前日だろ
う。鹿のながれにものらず、ここにあることをせかされて天をみれ
ば、一頭ということばで犀とつながった蝶がさだめの散会になって
おり、部屋は棘だらけの通路にして、それを透かす窓こそここの窓
かと戸惑う。しげりないしげりをここで仰ぐ、来し方とおなじ時。
みな繭の輪郭をかためるために身を入院させている。あなたの銀液
を淹れるしぐさはふりむかない、銀を剖くときもそうだろう。その
ようにあなたは木の実の精につらなるから、あくびで放ったたまし
いを四隅にひらき室内を稀にしたあと、木の葉髪なる森との盟約を
ただ振ったわたしも、ばらばら散る日本だろうか。かなしいうつわ。
逆立ち吹奏
【逆立ち吹奏】
腕と脚のながさのちがうことが
われわれの逆立ちしない理由だというと
それはましらか植物の論理だわと反駁される
「あなたの顔ってなんなのよ」
知らない、きゅうに日差しがあふれて
そんな自己凝視にたえられないのも
そのように世界がしくまれ
いちょうの絨毯が地表をずれまわって
ろんりがさみしいほどはやく
変転しているからだとつけくわえると
「その言い方には、からだがあるわ」
そうか。からだがいちばん。
われわれといういいかたがごうまんなら
ぼくじしんは逆立ちしないことで
直腸そのものにまで退化したのかもしれないが
クエスチョンマークは木立の突端部にあつまって
そこまでをふくめれば
ぼくのからだからでる疑問も逆立ちしているので
いちょうの大木の腕と脚がどこにあるのかしらないが
気圧と血管が世界の構成要素だということを
葉のすべてを落としかかったいちょうも
けんめいに表現しているとおもう
「その言い方には、こころがあるわ」
「うん、良い風がふいてるよね」
でも言い方はそうでバッジをもらえるにしても
逆立ちしないぼくには
もう、こころとからだの連関などないのではないのか
けんめいに生えているじぶんがみえないのは
眼のつけどころが幹のなかにもぐっているからです
そのうえで世界の深部には精管ものばしたいです
「ああその言い方には、袋があるわ」
ならば袋のくちをひかりにむけ きんいろの音色で
腕と脚のながさのちがう
一回性のいちょうラッパを世に吹きちらそうか
立教演習連句B班
●連句B班
1 ほほづきの割けて真昼の眼〔まみ〕渇き アイダミツル
2 くすりをさした向かうにへちま 阿部嘉昭
3 薄闇の庭を巡れば居待月 中村郁子
4 解夏のあさげに打つ舌鼓 後藤智美
5 袈裟を着て蛭付く道のなまぐさく 阿部嘉昭
6 苔清水汲む盃は浄らに アイダミツル
7 麗日にぬかりとぼけるあきの霜 後藤智美
8 狂ひ咲く木瓜飛ばす野分よ 中村郁子
9 雲ちぎれ自慰の消えゆく隠り沼 アイダミツル
10 精のむらさき千代紙に出し 阿部嘉昭
11 暁に抱く空蝉の絹衣 中村郁子
12 忘れたなめらかな手触りを 後藤智美
13 狐火がとほくにあれば人に見ゆ 阿部嘉昭
14 燈〔ひ〕のゆき過ぎてふと草雲雀 アイダミツル
15 望の夜のうるはしびとへ届け声 後藤智美
16 せきれいとなり遠き天〔そら〕飛ぶ 中村郁子
17 飛行機を送る花雲ゆき降らし アイダミツル
18 三椏越えればものら別れる 阿部嘉昭
19 山野行き雉笛の音を独り聞く 中村郁子
20 光る額にそよぐ青嵐〔せいらん〕 後藤智美
21 うすもののなかに立つ背ぞ凛々しけれ 阿部嘉昭
22 穂孕む先に宿らるもがな アイダミツル
23 土を踏み実り数へて皺を見る 後藤智美
24 過ぎゆく日々に蜉蝣の舞ふ 中村郁子
25 陽の白み蚊遣りの残りを宇宙〔そら〕に焚く アイダミツル
26 行水の間の鴉髪なり 阿部嘉昭
27 簪を挿して向かふは盂蘭盆会 中村郁子
28 知らぬ仏に厚物の菊 後藤智美
29 破れ屋の屋裏にてする月見かな 阿部嘉昭
30 ボール拾ひて体育倉庫 アイダミツル
31 あかぎれにふきかける息風に消え 後藤智美
32 大晦日〔おほつごもり〕の遠き鐘の音 中村郁子
33 空耳もソーダも唾も揮発せり アイダミツル
34 草の芽うるむ坂のサレジオ 阿部嘉昭
35 行く道の背中を押して花吹雪 中村郁子
36 春の名残やいつかのあゆみ 後藤智美
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まずは満尾した連句B班の歌仙をアップ。
発句から「鬼灯」が出て
初折表は禁句連続、
坊主くさく、生臭くなって
運びが危ぶまれたが、
アイダくんの現代詩的語彙を
負けん気の阿部が果敢にうけながら
中村、後藤の清澄な句想が流れを希釈して
結果的にはなかなかの一巻となった、とおもう。
13、14の付け合い、
あるいは最後の花の座と挙句祝言のうつくしさなど
特筆記念すべき細部も多々あるのではないか。
出だしに季語複合(季語かぶりではない)が頻出するのが
ひとつの特徴ではあるけれども。
連句は愉しい。
その愉しさは「決め」を墨守しながら
そこにこそ創意を発揮できる点。
それで気づくと季節循環が
時間そのものをことほぐように
空間化・音律化されて現れる。
連句A班は現在、挙句をのこすのみ。
追ってアップができるとおもう