ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

Out on the weekend

 
 
女房との週末の過ごし方を変えた。レンタルDVD三昧。
リチャード・フライシャー『絞殺魔』は久しぶりに再見。
例の分割場面に「シミ」(ヒッチコック/ラカン)を置く方法以外に
死体がカメラのローポジションによって消去されるのも
一種の戦慄的な「シミ」となっていた。
フレームのいちばん両端に開いた女の脚がみえたりもして。
それらがあって取調室、ピーター・フォンダの前で
トニー・カーチスの「回想」中に「脱論理」まで現前化する。
つくづく凄い映画。
『羊たちの沈黙』も『CURE』もこの映画の組み換えだな



見逃していた『第9地区』も観た。
エイリアンをアリバイに流民間の差別連鎖をえがく政治映画なのに
実際は笑えてしまう。フェイクドキュからSF、
スプラッタ・ホラー、正統西部劇へとジャンル横断も鮮やかだが、
『スターシップ・トゥルーパーズ』以来のメタファーの過剰化という
真にクレバーな事態まで起こっていた。
エイリアンは胴をえぐり、口と鼻のところの触手の蠢きがあればリアル。
こいつも安価ながらお見事だった。
ギリギリで「かわいい」ラインにエイリアンの造型がブレる。
ナイジェリア人の扱いでも同じで、監督はただのオタクじゃないな



さらには見逃していた『グラン・トリノ』を観る。
住民老齢化によってアジア系移民が入ってきた郊外を舞台に
イーストウッドが老齢の「正義」を体現するマッチョ映画なのだが
実際は「家のファサードを横に意識すること」と「前方に意識すること」、
このふたつから緊密にカメラワークが組織され
そのなかで二人の人物が同一ショットに収まるか/収まらないかで
アクションの帰趨が決定してゆく、カメラワークに厳密な映画だった。
しかしアメリカ内「モン族」を視野に細かに置く作劇には
東洋人差別などありえないだろう。
それもあって悔恨をえがく映画から歓待をえがく映画へと昇華した
 

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2011年02月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

歌手

 
 
【歌手】


鰭の部分に浪をあつめすぎたようで
風景にはこいびとになってしまう。
あやかるように傷む腕をあげて
空のカーテンをひきずりおろすとき
とうめいなひかりの籠にはいってくる
えがたい鮫の二、三にんと蠕動。
こんなふうに橋の手すりを殖えて
日傘をもつ顔かげのあゆみは
うきくさのあらわれるけしきまで
まぶたのうらへ散らしてゆくだろう。
円形からわずかにきざしてくる楕円なら
分裂しだした中心がどこかにある。
はなれることがわすれないおもかげだと
距離をもつ水仙と舟が眼下にゆれて
みた、星をちりばめた水面のへこみを。
そこらあたりから世界がぶりかえすので
とまらないすべりをとどめるために
ボタン穴へサマリアの草を挿すと
案の定ゆきだおれている旧弊もあって
この善心がふしだらな添い寝を決意する。
愛着の出どころは身の銀貨だって。
ながれている浪に浪を全うさせるなら
さきの割れてゆく輪唱でいいのに。
さかなを見下ろし唄うひととなったが
それがふきあげにもみえただろうか。
下という方向があって砕けてゆくだけだ。
 
 

2011年02月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

自己確認メモ7


 
理解とは他者性に同調するための
観察と対面の様式だろうが、
その際には他者性の組成と展開から
自らもが組成・展開されることが必要となり、
結果、真実の理解は自他の弁別を超えて透明化する、
あたかも水にも似た流動自体へと昇華されてしまう。

そうなるとそこではむしろ理解がおこなわれていない。
シンクロナイズが昂じ
世界空間を同時性のみでおおうような神の方式で
偏差の消滅がただ自他をあふれたのだから
実際は観察と対面という理解の前提まで
うつくしく崩れたとするべきなのだ。
 
 

2011年02月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

又木たち

 
 
【又木たち】


又木勇造が丘を駆けてゆく
照本進吉が懸命に追う
榊原韋助だって負けていない
ある日の夕陽の手前では
ひとではなく字面が走っている
 
 

2011年02月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

牛岡

 
 
【牛岡】


岡に牛がみえるが
岡によって牛になっているものが
足下の岡を岡にしているともいえて
眼をつむるとそれがよくかんじられる

いずれにせよその牛の容積には
わたしと牛と岡とのあいだにあって
どれのものでもない内観が
ただ平明に透けている
 
 

2011年02月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

自己確認メモ6

 
 
書評用の本を打っ棄って
岡崎京子『東京ガールズブラボー』上下を一気読み。
しかし平日午前に旧いマンガを読んでいる50代のおれって誰だろう?

岡崎マンガは、テクノ/ニューウェイヴ音楽、ディスコ、
当時の華やかなマガジン、ファッションブランドなど
「文化記号」をデフォルメというほど全篇にちりばめた作品で、
都立女子高生のオサレぶりも、性的狂奔も満載されている。

音楽にしてもマガジンにしてもブランドにしても
「ああ、聴いたなあ」「あったなあ」と記憶の奥底が点滅して
いま読むとぼくの世代なら完全な懐旧気分にいざなわれるだろう。

むろんそういった文化記号に翻弄されながらも
空をみて心情の真実に気づくガーリーな箇所などが見所で
(そこでは先駆的に東京タワーが象徴記号になっている)、
卓抜なストーリーテリング、キャラの描きわけも相俟って
いまからおもうとカタログ空間なのに見事な「リアル」があった。

そう、80年代カルチャーカタログとしての
変化球の少女マンガ。
当時の「ギャル」が熱狂するのも、うなづける。

この本の巻末にはいかにも、という感じで
その岡崎さんと浅田彰の電話対談が載っていて、
80年代は経済的下支えをうけながら
文化記号を享楽的に消費しつくした時代であっても
「こんなことつづくはずがない」と
絶望の手前でヒリヒリしていた人々の行動様式が
これまた適確に語りつくされている。

で、80年代が詩にとってなにかというと
ともあれこのような「狂奔」と「記号性蓄積」が
詩作に「下手さ」と「(密室的)鬱屈」を
もたらしたといえるのではないだろうか。
80年代はもうギャルと音楽家と広告屋の時代であって
詩作者からはアドバンテージが消えてしまっていたともいえる。

逆にいうと、頽落するまえ--70年代までの詩は
技術的には完成されたものが多かった。
60年代的狂奔が自省モードにはいったときに
技術の再枠づけがなされ、
しかも詩はまだ謙虚で、日常もしくは身体を離れなかった。

それで詩の主体は多く地上存在性を保ちながら
そこから地に足のついた技術化が練磨されたのだ。
そうそう80年代、「麒麟」の詩をみて
詩がとつぜん下手になった、と驚愕したことがある。

むろん70年代は革命衝動が壊滅した「逼塞の時代」だった。
ところが身体が詩作の基盤だという点が反省されたので
その逼塞には吹きつける風も照らしだす陽光もあった。

ぼくは時代を伏せられた詩を判断するときに
そこに身体/陽光/風の所在をたしかめることがあるが、
そうするとその詩が70年代につくられたか否かで
たいていは正答をだす自信もある。

大きいことは80年代に詩作者が「下手」になったことだ。
趨勢でいえばこの傾向は
90年代から10年代までつづいている。

だから技術的に申し分のない詩作者が
例外視されて重宝されるのだし
その詩作者にいつでも70年代の影をもみてしまうのだとおもう。

70年代の詩の技術は二層ある。
まずは当時の一般的な若者。
松下育男でも高階杞一でも三橋聡でも
自ら巧者であることが「哀しい」という筋合で
それが軽くあっても詩は切羽つまって書かれていた。
この傾向にはすこし年長に泉谷明などがいたし、
すこしポジションがちがえば、つる見忠良などもいただろう。

なにしろ石原吉郎が生きていて、吉岡実や会田綱雄が元気で、
しかも渋沢孝輔や安藤元雄など
フランス文学系も活躍していた時代だったから
若年の詩の場所もいまでは考えられない緊張感があったとおもう。
佐々木安美の当時の詩作がまだ確かめられないのが残念だ。

もうひとつはそうした当時の若者の「現状追認」にたいし
さらに反逆を志した若い詩作者もいて
それが当時の「詩作変革」の中心になった。
荒川洋治、平出隆、稲川方人、山口哲夫などが主要だろうが、
彼らがどれほど不機嫌に詩文法を破壊し、
詩をみたことのないものに変貌させたとしても
そこにもやはり身体/陽光/風があった。
これらのひとこそが途轍もなく「詩がうまかった」。

このふたつの中間域にあったのが
当時あたらしいかたちで勃興してきた
女性詩だったかもしれない。
『朝礼』の井坂洋子は
主題的にも語法的にも身体的にも颯爽としていたが、
ここではじつは川田絢音などの先駆者がいる。

詩の「うまい/下手」は
本質的な問題ではないといえるかもしれない。
「下手な詩」の凶暴さのほうが胸をうつ場合が多々ある。
それと彫琢の意志が、詩を窮屈にし、
かつ文学領域への差し戻しをする場合もあるだろう。

ただし現状の強圧的な詩は、
一種の冒険主義によって自己裁定を棚上げし
生じてきた可読困難性によって自らを演出・留保するものが多い。
実際は語法が幼く、だらしないのに、
引用系などでコワモテになる機微にだけ通じてしまい、
手もなく年長者を籠絡させる。
『孤絶-角』などを想定すれば充分だろう、
じつはあれはただ「だらしなく」「下手な」詩なのだ。

ぼくは『昨日知ったあらゆる声で』で詩作者デビューしたとき
70年代っぽいと多方面からいわれた。
詩作空白期があったので自己形成期だった70年代の空気が
いまだ純粋にまとわれているのだろうともいわれた。

ただ『東京ガールズブラボー』で
一旦80年代をなつかしんでみて気づく。
80年代の狂奔によってたぶんぼくの詩魂は死滅したのだと。
そのようにしてぼくは詩作を80年代に実際やめている。

となるといま70年代を志向するということは、
身体/陽光/風、と同時に
詩に本来的にありうべき技術を志向している、
ということなのではないか。

詩を「かつてあったもの」に復そうとするのではない、
逼塞にたいする身の置き方として自然に70年代詩が参照され
そのときの身体がなにを葛藤していたのかだけが
いまも「現在的な」問題になる、ということだ。
詩の賦活する時空が「いま/ここ」でない、
この齟齬の感覚こそが重要だろう。

以上、岡崎京子『東京ガールズブラボー』を読み
あたまに去来したことをスケッチしてみました
 
 

2011年02月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

自己確認メモ5

 
 
もともと「断片の充満」としてあったぼくの評論行為は
詩作によって「断片の時空化」を志向し
さらにはソーシャルネットワークによって
「断片の再断片化」にもさらされている。
以上三つのうちもっとも重大なのは
挟撃に晒されているという位相的な意味で
二番目の詩作だろうか。
むろんそこでは参照系列が変化する。
つまりもはや「文学」の援用が無効となったのが明らかなら
ビーフハートに影響を受けたポストロックの組成がまず参照され、
それが社会との接合点をもちつつ商品化にもあらがうなら
やはり社会学の方法論が簒奪されなければならないことになる。
この詩作の社会性を最近のぼくは繰り返し主張しているのだが
どうも通じにくいようだ。
ともあれ断片が星座形となったときアレゴリーになるという
ベンヤミン的方法はどこまでも有効だろう
 
 

2011年02月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

好きな短詩篇ふたつ

 
 
1【なだれ】
井伏鱒二


峯の雪が裂け
雪がなだれる
そのなだれに
熊が乗つてゐる
あぐらをかき
安閑と
茛をすふやうな恰好で
そこに一ぴき熊がゐる


(『厄除け詩集』より)



2【ヒトごと】
阿部恭久


ある段に
洗濯をする女の白い脛を見て
落っこちた仙人の話がある

彼、「大和の国、吉野郡の竜門寺にこもって
仙法の修業をし飛行の術を習得したという。」
たいへんに努力家だったのだ


(『恋よりふるい』より)



詩はやっぱり、しなやかでなくちゃ。
ちなみに、井伏詩篇の「茛」は「たばこ」
 
 

2011年02月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

自己確認メモ4

 
 
詩行詩句内に意味結節上の「単位」があるとするなら
それは畢竟、「AはBである」の認識連鎖、
ということになるのかもしれない。

それらは上にしるした構文で単純にしるされるほか
直喩、暗喩でもしめされるだろうし、
あるいは短い結節であれば「同格」提示だってある。

さらには短歌的喩でもまた
断裂によって併置された2パートをスパークさせるときに
「AはBである」が内在されている、といえる。

《灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ》
(岡井隆『斉唱』)。

この歌ではBパートが「亡びんとする」以下となるが、
「恋愛」をひっくりかえした「愛恋」も
「哀憐」と音がおなじで
じつはここにも隠れた「イコール」があるのではないか。

短歌的喩をこのように
吉本隆明的に断裂前後パートのスパークとかんがえるなら
それこそが「換喩」とも換言できるだろう。

つまりAパートもBパートもスパークを予定されるかぎり
あきらかにそれぞれが「部分」なのだが
上の岡井の歌のように形のうえでは
AとBとの足し算で「全体」が招来されているようにみえても
そこでは部分の総和が全体になっていない齟齬も
かんじられるためだ。

それでおもう。
けっきょくフレーズとは「部分の露出」で、
それは全体の影を志向しつつも
「部分」が眼前をとおりすぎる際の速度だけを現出させるのだと。
詩の不可知性とは詩の構造上の問題なのだ。

部分の総和が全体にいたらない齟齬とは
そこに一種の磁力が露出されているということでもあるだろう。
この磁力の原因がけっきょく
フレーズ自体の物質性に帰されるという判断が生ずるなら
詩はまさにその瞬時性と齟齬感によってこそ詩性を獲得するのだ。

このことは難解な散文詩でも人口に膾炙しやすい改行詩でもおなじで、
巧拙が判断されるポイントも
そうした「部分の露出性」にあるといえるが
肝要なのはそうなるためには
詩篇全体が「構造化」されている必要がある、ということだ。
つまり「構造化」とはまずは部分に分布をほどこす空間化であって
しかもその分布は詩である以上
声によってつなげられなければならない。

つまり詩が表現形式として高度なのは、
構造化にたいしさらに強圧をかんじさせる
上部があるということだ。
そうした上部こそが「詩魂」とか「声」とか「身体」とかとよばれる。

銘記されなければならないのは、
詩行詩句が換喩上の「部分」となっている構造の詩篇においては
それら「部分」が齟齬的な同格性を保持しつづけたまま
奔流をくりかえすということだろう。

そうした構造となって
「AはBである」が
発語構造のみえない部分をささえる梁になる。
それで或る声の空間性が認識論的構築物を形づくる転位が生ずる。

ということは詩は、二重性の細部が、
つぎつぎ多重的に到来してくる、
そのありようそのものを指す、と結語できるかもしれない。

そうなったとき詩であることの同定範囲も拡張される。
たとえば音楽にも、映画にも。
 
 

2011年02月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

自己確認メモ3

 
 
音素とはなにかを指摘するのはむずかしい。
そこには数量的に還元されるリズムに属するものがある一方で
音色やハーモニーに拡大されるものがある。
それはかならずしも頭韻などに限定されない。
というか、音素における数量と質は離反的で
数量を展引し拡散しべつの数量性への変成がなるとき
その音素も完成された音素となる、というべきなのかもしれない。

たとえば映画やTVドラマではたぶん開巻の数ショットで
これが観るに値する作品かどうかという「判断」が起きる。
その基準の最初はむろん対象がどのように対象化されているかだろうが、
ショット内の音素もそれに同時にかかわる。

それは劇伴的な音では決してない。
音は対象のうごきのなかにむしろ刻まれているのだが
そこに数値と、それを数値以外の識閾に伸ばす質を同時にみてしまうのだ。
編集されたものにかかわる、それは必然だとおもう。

詩においては「ゆっくり読ます」才能、というものがあるだろう。
たとえば昨日読んだ粕谷栄市『遠い川』では
記述の理路いがいに句読点と段落わけが有効に作用していた。

改行詩で出だしから「ゆっくり読ます」才能を感じるのは
たとえば高階杞一さんのものだろうか。
そうした時間の緩慢さのなかで
意味や把握の異変が起こるとき
高階型の詩篇の貴重性と再読誘惑性をおもう。
それ自体に遅れる何か--
高階詩においてはそれこそが官能的に読解される。

詩の音素は連打されて
アレグロになろうとする。
それを発語の刻々にリタルダントに引き止めるものがあって
意味上ならそれは「隙間」をつくることに集約されるだろうが、
同時にそこには音素のリズムに還元されないもうひとつの本質、
つまり音色がふかく機能している。

ぼくなどはそのアレグロとリタルダントの点滅によって
詩的時間を一行のさなかで延引しようという気味もあるが、
延引はとうぜん物理上は一定量の世界を
視覚イメージとはちがう領域へと現出させる。

その現出のない、息急ききった詩が読めない、ということであって、
息切れしないことの重要性は
対象化と音素を同時にもつ映画の「ショット」などからも
掘り当てられるものだ。

映画ではなにがうごいているかが問題となる。
風かひかりか、もっと微細なものなのか。
こうしたものが音素となるが、
それがショットの視覚性を阻害して、
そこに一種の混交体ができる。
矛盾撞着するようだが、
それこそが「観るに値するもの」なのだとおもう。

詩にはむろん音素が型として露出しているものがある。
短歌俳句などの定型がそれで、
たとえば口語短歌が黙読に親和的なのは、
個々の作品の皮膜に、その定型性をも読んでしまうためだろう。

むろんそれでは個々の短歌が個性化しない。
そこに次元のことなる音素が介在する必要がある。
それがじつは、短歌的構文における
意味と音による遅延効果だといえそうだ。

ゆっくりと響かせる何か。
それは不透明な物質性ともかかわっている。
つまりは「身体」とよぶべきものなのかもしれない。

ところでことばの連なりがもつ音素を
試練にかける手段がべつにある。
(先メロによる)歌詞創作だ。

そのような条件の歌詞創作は
メロディにあらかじめ成立している数量的音素性に
寄り添うことだけでは決して実現できない。
歌詞のなかに「自らの発声を遅らせるもの」、
つまり単純な時間性にあらがう空間性を組織して
それでことばのひびきの、新たな時間性が練磨されねばならない。

メロディの「感情」に
歌詞の「感情」を相即させる、というだけでは不充分だろう。

速まろうとするリズムと
遅れようとする「歌詞の音色」、
このふたつの葛藤があったうえで
そこに歌手の歌声、つまり身体が宿ることになる。

すごく抽象的な言い方だが、
実際はこの抽象性があるから
法則がフォーク系歌手にもラッパーにも適用できることになる。
 
 

2011年02月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況報告(ひとり多いこと)

 
 
連日、入学試験監督とその後の飲み会で
まったく寧日がなく
パソコンに向かう時間もひどく限定されてしまった。

金曜日は入学試験監督後
ネット詩誌「四囲」三号の完成記念の飲み会だったが
廿楽Jr.とその友人の楠くんというわかい面子が乱入、
映画と現代思想について喋らされてしまった。

川島雄三論とかぼくの映画評論のファンならば
垂涎の話題のはず。
通常、この手の話をするときはぼくはカネをとるんだけど(笑)、
廿楽Jr.が後述する
岩波『日本映画は生きている』シリーズ完成イベントに来てくれたので
ゆるしてあげよう♪(彼は入場料を払ったのだから)。

土曜日は入学試験監督のあと
小池昌代さんと長い「お茶」。
かんがえてみると
「阿部さんは○○したほうがいいよ」といってくれる貴重なひとだ。
ともあれぼくについての結論は
もし来年度、大学教員の職が途切れたら
「書くしかない」というものだった。
ぼくが自分の書くものの改変計画について語ると
小池さんは賛同してくれた。

驚いたのは、小池さんのほうが
ネット親和性がぼくより高いかもしれないこと。
小池さんの「計画」をここで喋々する気はないが、
ひとつだけいうと、小池さん、ツイッターをやっている。

日曜日は岩波『日本映画は生きている』完成イベント。
その後はパーティで
ぼくは旧知の内藤誠監督、黒沢清監督、
それにはじめてじかに接した松本圭二さん、佐藤雄一さんと
延々話していた。

松本圭二=偏屈、という「都市伝説」は飛び交っているとおもうが、
爽やかでユーモラスで展開の速い男にすぎない。
「詩の趨勢を冷笑している」なんてのもあくまでも常識人の範囲。
詩集送付を約束させられてしまうが、
じつは送っていたのではなかったかなあ。
ちょっとこっちも記憶が曖昧だ。

黒沢清さんとの話で最も面白かったのは
蓮実さんの『映画崩壊前夜』所収の黒沢作品評を契機にした話題。
慧眼にも蓮実さんは『ドッペルゲンガー』評で
ドッペルゲンガーが役所広司とともに
永作博美の弟役まで配されていて
「ひとり多い」「過剰」を問題にしていた。

この構造は黒沢清作品の多くに当てはまる。
たとえば『CURE』では萩原聖人とともに中川安奈と
「秩序壊乱者」が「ひとり多い」し、
『叫』では葉月里緒奈と小西真奈美というように
幽霊のかずがひとり多い。

あるいは『LOFT』では
幽霊とミイラという正反のものが重複している。
さらには『降霊』では風吹ジュンの役柄属性に
「被害者」とともに「予知能力者」という
ひとつ余計なものがくわわっている。

黒沢さんは「ひとり多いこと」を
『羊たちの沈黙』の「レクターとバッファロー・ビル」から学んだという。
「ひとり多いこと」が物語を生気づける、と黒沢さんがいった。
つまりそこから「場」をめぐる
生態系的な葛藤が生じるということだろう。
黒沢さんの場合、その「場」は「映画」そのものとなる。

生物知覚的なものに物語体系を閉じ込めてしまうとき
そこに鼓動生成的な閉域ができ
それが実際に無前提に「世界」に格上げされてしまうのが
カフカ的寓喩の本質で、
周知のようにぼくはそこから以前、
「ユリイカ」の黒沢清特集で長論を書いた。

そうした寓喩における動物(磁気)性は
「ひとり多いこと」が単純に展開しだす物語葛藤とも等価だ。
しかも「ひとり多いこと」のほうが説明が簡単なのだ。
だからそれを指摘する蓮実さんも、
それをもともと自覚していた黒沢さんも
物語についての慧眼をもちあわせていることになる。

カフカについては「よい読者ではない」という
黒沢さんの説明は変わらなかった。
ただ日本ではなくグローバルには
カフカとの類縁をよくいわれるという
(つまりぼくの黒沢論はグローバルだったということか)。

黒沢さんは、ひとの書いた自分の評論を読むのは
映画作家としてはけっして
気持良いものではない(褒められたものでも)が、
「阿部さんの書いたもの、読み直してみます」といってくれた。

内藤誠さんは今年六月公開の
色川武大の小説を原作にした映画が完成間近だという。
これは本当に愉しみ。
阿佐田哲也原作の映画はあっても
色川武大原作の映画ははじめてらしい。

内藤さんが二十四年「ぶりに」劇映画を撮り、
黒沢さんが三年「も」映画企画が通らない--
映画の世界にはいつでもそういう恣意的な「偏差」がある。
だから映画が「人生」に似るのだともおもう。

月曜日は入学試験監督の合間
おなじく試験監督に来ていた篠崎誠監督と
ひさしぶりに話す。
彼の次回作の話がとくにおもしろかった。
おバカで自虐的でジャンル横断的な中篇と総括できる。
篠崎さん、「物語」を話すのがうまいなあ。

その後、「かいぶつ句会」の句酒会。
もう眠くて辞退しようかな、と試験監督の合間
小池さんに研究室で話しつつ、
「仮病をつかうと運が落ちる、とウチのオフクロがいってたから
やっぱり句会に行く」と最終的には表明した。
小池さんは「お母さんとかおばあちゃんからの伝承とかで
阿部さんはときどきおもしろいことをいう。
そういうのも書いたらいいのに」といっていたなあ。

時間調整で合間にドトール読書。
池袋ジュンク堂でようやく買えた
粕谷栄市『遠い川』を一気に読み干してしまう。
物語性があって、それが崩れて、という仕掛けの散文詩が並ぶが、
同工異曲のようでありつつ偏差が確実にある。
しかもそこに悲哀を読んでいる。
そうか、「ひとつ多いこと」をやはり読んでいるんだ・・・

途中から雪がふりはじめた
ホワイトデイの句酒会だったが
体調不良をおして出た甲斐があったかも。
拙句《鳥類みな空にある日の鶯菜》が
ぼくとしては初めての得点第二位句に評価されたからだ。
ただし、「鶯菜」は臭い、と忠栄さんらの難詰が入る。
そのとおりだよ、とぼくもおもっていたのだけども(笑)
 
 

2011年02月15日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

自己確認メモ2

 
 
個々のことばにはがんらい
ひかりの瀰漫にそれぞれむかう奥行きがあって
それはどの一語も歴史上、
生活のなかで磨かれ使用されてきた
ことばの来歴にこそかかわっている。

一語のなかに長いスパンの生があり
往来すらあって、
語はつらなるとかならず
フィルムのように歴史的時間を
たとえそれが小単位であっても上映するのだ。

むろん日本語の特質なら書式上は
漢字とかなの混用にもとめられるだろうが、
漢字におけるイメージの圧縮は
音素である「かな」の延引効果によってほぐされ
それらは「文」のなかに
つかみえない余剰として浸透されてゆく、
そんな二重性の経緯をどの場合もたどる。

とりわけ「助詞」には
構文の性質を規定してゆく微細な機能もそなわっている。
助詞が構文に生気をあたえる最小単位だと気づけば
日本語をあつかうよろこびも自然と倍化する。

ただしそれぞれの語のひかりは
諸語が説明伝達機能に特化して
機能的目詰まりを起こしてしまうとたちまち消える。
語はかなに代表される音素によって
相互距離をあけられ
構文のなかで一語の独立性の位置が
確保されなければそれじたい滲まない。

このとき語の奥行きに
ひかりのみならず
明視性を剥奪した物質的な影/謎をあたえる効果まである。
構文内の具体的進行(それそのものが時間だ)に
驚愕やズレや飛躍や逸脱や圧縮や消去などを
かなの音素を保持したまま打ち込むことがそれだ。

通常のことばの使用形態からはずれ
ことば自体にことばの効果を拡大させる発語の形式。
詩はたぶんそうしたことばの拡張にむけ
一種の幸福感のもとつねに書かれてゆく。
だから当面それは手近な魔法の位置にある。

しかしこの「手近な魔法」は
ことばのつらなりの多元性にこそ立脚しているのだから
それ自体が形式化されると
やがて魔法性が漸減してゆくことにもなる。
ひとりの詩作者がある「調子」を温存してゆけば
その者はたちまち個人性の枠組のなかで
自身にのみ給付する詩作をおこなっている擬制が生じる。

そうなると詩集なら詩集が
固有性のなかにのみ還元される不都合も付帯する。
結果できあがった詩集は
「よいものの箱」「わるいものの箱」
そのどちらかに分布されるだけの疎外を演じてしまう。
商品でもないのに消費されてしまうのだ。

むろん本当の詩は構文や詩行とともに
がんらいは生き生きと「うごいて」いるものだ。
それ自体が静態的結末に還元される
「出来の分布」などには馴染まない。
詩篇は、詩集は、一個から数個へといたる
「可算性」すら元来うばわれているといってもいい。
それは出来不出来の判断が失効する「作品」の外部で
「うごき」=ムーブメントとしてひろがる
算えられない動勢でなければならない。
そう、詩は「手仕事」の範疇を超える。

「作品の時代」そのものが変質をこうむり、
あるいはその失効にむけ
終焉までカウントダウンされているのがネット的現在だろう。
ダウンロードフリー横行のなかで
作品発表が対価化されない時代の新形式がすでに到来している。

そのなかでたぶん真の売買対象に付されているのは
作品の個別性ではなく
作品の個別化を脱色する「ムーブメント」のほうなのだ。
書籍単位で吟味すれば社会学系の本が隆盛を迎えているのも
その作品価値以上に
そこにムーブメントの不可算性が付随しているためだ。

前述したようにがんらい詩篇/詩集には
算定基準化に馴染まない「うごき」が底流している。
この「うごき」を倍増させたければ
現状は不定形の支持体、
すなわちネット空間が活用されるに越したことはない。
「おなじ調子」で作者が個人性にとどまっている詩集は
ネット空間のなかでみずからを外延できないだろう。

「ことばとともにある生」はことばの効果によって
多彩化されなければならない。
詩は作品特有の固定性から離れた
伸縮自在の「生の形式」であることによってこそ
「作品の時代」以降を生き延びるはずで、
だから詩集は拡散にむけて投擲される必要がある。

けれど詩はいつしか固定概念に置かれてしまった。
詩作者たちのみが詩を弁別するその集団的再帰性が悪因だ。
詩作発想の原資が詩にのみ置かれて
原資不足を発症しているとも傍からはみえるだろう。
「作品」を供出するだけで
詩そのものにムーブメントをつくりあげなかった
多くの怠慢がそこにある。

むろん詩は発想の自由と相即的で、
それが身体の自由をも喚起するから高度に受容される。
たとえば60年代末期のロック音楽は
実際は歴史的なムーブメントだったが
そこでは個別化をしようとしても
他をひきこんで個別化から逸脱してしまう対他性があった。
これこそがムーブメントの実質だった。

このばあいロックは
音楽(ロック)を発想の原資とすることから逸脱していた。
たとえば「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」や
『アンクル・ミート』や『トラウト・マスク・レプリカ』は
俗にいう「アート」の自由形式を転位しなければ
成立しなかったもので
ロックの黄金時代の実際は
ロック自体を自己典拠にしなかった運動の逸脱によっている。

これを詩作シーンに置き換えよと書くと
佐藤雄一の「サイファー」の試みなどが
即座に連想されるだろうが
では「集団朗読」からはずれる詩集発表単位では
何がおこなわれるべきだろうか。

詩の本質の不定型性を顕揚したこれまでの文脈では
ここで規定的なことをいうとなにかの強圧になる。
ただし詩集の個人性固定を硬直と捉えるなら
詩を硬直にみちびく愚昧だけは除去し、
詩をひかりにむけてひらかなければならないとはいえる。

ではその愚昧とは具体的になにか。
詩に不要な価値(たとえば倫理性など)を強要する精神性、
詩に不要な目詰まりをもたらす散文化、
詩に詩集形式のみをうべなう
レイアウトに凝った過剰な(長篇)編集化
(そうなるとそれはネット空間に流布できない)、
さらには前言した「調子の固定」などが
それにあたるだろう。

これらから離れるために詩集には
単純に詩篇集であって
しかも個々の詩篇が同一作者によって書かれたことが
腑に落ちないほどの自由な組成がもとめられている。
その自由な組成とここに述べてきたムーブメントが
フェイズを変えれば同一化するためだ。

いずれにせよ詩の存続のために
「来るべき詩集」が先鋭にイメージ化されなければならない。
それはむろん作者「個人」のものでもない。

「ムーブメント」の語をもちいるとき
そこでは詩作の集団化がすでに含意されている。
自分は個人では書いていない、
だれかとともに書いている、という実感が
この「ムーブメント」の前提といえるかもしれない。
なにかの達成にむけて集団化が必須となったときは
すでにそこにムーブメントの萌芽があるが、
たんなる同人誌的なものではまだ要件がみたされない。

あるいはロラン・バルト的な「作者の死」とは
真のテキスト・クリティークに向けた
必然的な「方便」だったが、
ネット時代には集団性において
「作者の死」が到来する時代が自然にやってくるだろう。
現状、その適性を見分けるために
連詩などに従事しているかどうかが
やはりひとつの目安となる。

そういうことでいえば
「作者の来歴」が語られることは
実際は反動的だともいえる。

映画においてはすでに「作者の死」が
多面的に実現されてしまっているが、
そのうち最も戦略的・能産的なのは
松江哲明などが推進する「託し撮り」だろう。

そこでは俳優と監督の役割重複が
まずは現象されているが、
「映画」の作品成立性からすると
それは根幹をゆるがす激震部分なのだった。

音楽におけるコラボレーションなども
いまやこの文脈で推進されなければならないだろう。
 
 

2011年02月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

自己確認メモ

 
 
散文性のなかへ
散文性のまま
散文性の可変要素をくわえること。

その作業は
欠落や過剰を
「文」にあたえることでもあるが、
これが実際は
音韻(身体性)の導入と相即している。

たぶんこの部分が
散文性とともに
詩を二重に普遍化する要因となる。

したがって矛盾撞着的ないいかたになるが
散文精神のよわい詩篇は
結果的に無惨なものともなる。

詩篇集の要諦となれば
さらにべつの水準がある。
詩篇間にヴァリエーションが生じていなければ
実際に読者には詩篇集が親和的に映らない。
それは単純に、「一にして全」に
まつわる法則だろう。

ヴァリエーションは
生の本質的な偶然性から転位される。
そのもっとも単純な変化単位は
ただ「歩行」から見出され
ここにこそ時間性と空間性が
綯混ぜに織られてゆく。

現在の詩はそれ以上ではないだろう。
心情も哲学も
ただそのなかに組み込まれるだけだ。

むろん詩作者は
「心情の専門家」「哲学の専門家」ではない。
卑小な「文学の専門家」でもないように。
なにかもっと茫漠とした
ことばへの参与者だ。

ゆえに言語状況を変革できる。
 


詩の啓蒙はむろん独善的であってはならない。
往年、数学の難問を自ら黒板に解いて
「簡単でしょ?」と振り返るのが癖の教師がいたが、
そういうのがもっとも
啓蒙から離れた態度だということだ。

むしろ詩の定義は個々の詩作のなかでゆれ
そのゆれを玩味することが
詩の読解の本質ともいえるくらいだ。
だから詩篇間にはヴァリエーションが要る。
それは「確信」とは正反対のものだろう。
詩作に「確信」の語を当てる無恥は
回避されなければならない。

読者は詩と作者のあいだに何をみるか。
「自己給付」「自己運営」--
いずれにせよ詩作によって
二重性のなかに延長されてゆく
作者身体の再帰的なありようだろう。

それらこそが表現の「秘訣」とよばれ
じっさい詩の内容や形式ではなく
その秘訣こそが
ミメーシスの対象ともなる。

そうでなければ詩は
幸福な媒質の座から外れてしまう。
 

 
「わたしが詩を書く」のではない、
「詩がわたしに書かれる」。

このことを原理化してゆくと
やがては自分の詩作と
他人の詩の読解が
液体どうしのように溶けあってしまう。

このような共同性もまた
詩の幸福だろう。
 
 

2011年02月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

推敲完了

 
 
昨日丸一日と今朝は未明から
ずっと次の詩集の推敲に励んできた。
なにしろ二百篇収録予定で分量が多く
実質的に作業時間がかかったということだ。

まずは全体を四章に分けた。
一日に読者が読みうる分量を
目安として章別したつもり。
章ごとに作風の変遷もつたわるとおもう。

それから作成時期、出典などをおおまかにしるした
冒頭「(メモ)」をつくり、
さらに必要なところには簡単な自註をくわえていった。

詩篇をまとめたテキストは最初は横書きにしていたが
不思議なことに縦書きに組み替えて見直すと、
粗がくっきりとみえてくる。

書いているときは主題でも音律でも
すべての詩行に動機があるようにおもえるが、
あとで見直して削っても
意味も音律も不足しないと感じる場合は
その一連は要らない、バッサリ切ることだ--

と、ぼくはつねづね学生にいっていて、
その原則を自分にも適用した恰好だ。
繰り返すが、この作業は縦書き状態のときになぜか回転する。

今度の詩集は狂っている部分もあるが
全体にはしずかでかなしいなあとおもう。
まあ年齢と見合っているということだろうが、
もともと「老けはじめている自分と同調する」ために
中年になって詩を再開したようなものだから、
この感触もべつだんわるくない。

ただし自分の書いた詩篇をずっと読んでゆくと、酔う。
酩酊は心地よいが、わるくすると中(あた)る。
といって疲れるということはまったくない。
「自分」というものはそのように危険領域なのだ。

こうしてひと段落してみると、
減退感もやってくるんだろうなあ。
広瀬大志さんがどこかで書いていたけれど
詩集を出すと自分がなぜこんな詩が書けたのかわからない、
どんな奇蹟のなかにいたんだろうと驚愕する羽目になる、という。

この結果がスランプ。
スランプは半年くらいつづき、
また、なにか呪縛がとけて詩作が再開される、ともいう。
ぼくもきっとそうなるだろう。

今回のぼくの詩集は収録篇数が多いので、
だれかほかの中立的なひとに
取捨選択をしてもらったほうがいいのではないか、
という詩友の温かい意見もあった。

けれどもそれはやめにする。
吟味はどんな種類の本でも
ただ編集者と作者だけが真剣におこなうのが
筋なのだと改めて覚悟したのだった。

これから、編集者にデータを送付します
 


以前の詩集刊行では
収録詩篇をしるしたミクシィ日記を
バッサリ削除してしまいましたが、
今回は詩篇だけ消して
代わりに但書を置こうかなあ。
ミクシィが衰退しているので
そういう措置が適切かと。

詩集編集は、もたれない、重すぎない、
流れをひかりに包むために
隙間をあけながら
最終的に大団円にもってゆく、
というのがぼくのやりかたです。

ま、時間性と空間性の構築ということでは
あまり映画などとも大差がない。

そのためにあらかじめ詩篇をテキストに貼り付けながら
流れを疎外している詩篇を捨てる、
という裏の事前作業も必須となります。

今回は物量感がとうぜんあるのだけど、
重さはない、流れている、というのがいまの判断です。
いま書いた裏の事前作業が奏効したのかもしれません。

いずれにせよ、「怪物呼ばわり」されるのは必至。
今回ばかりは編集者と徒党を組んで
こちらから明快化をすべきかもしれません。

詳しいことはまだ企業秘密ですが(笑)



詩集は去年書いた詩篇が中心。
月曜から金曜までのウィークデイ、
朝ごとに詩を書くことを日課にしていて、
できあがった詩篇は
たぶん20%くらいは反故にしたけど
日課の連続性がひとつ際立った特徴になったかもしれません。

日課を自分にあたえてもいい、というのは
じつは自分への信頼を根拠にしています。
「自分」は連続しつつ、時に反対方向へも飛躍する。
そういう自分の「気散じ」こそが
じっさいは詩集にしたときの
隙間(空間性)をはらむ「流れ」をつくるのです。

日課、というときには
岡井隆さんの最近の歌作や
河津聖恵さんの『神は外さないイヤホンを』を想起しますが、
知力と体力が均衡的に飽和しているときは
「日課」をかんがえるべきなんじゃないかとおもいます。

まあ、ぼくは俳句や連句からの影響を
詩作に組み入れるタイプだとおもいますが、
詩作を「日課」化すると
とうぜん季節推移が自然と出てきます。
実際はこれが詩篇間の時間性をつくりあげる。
このタイプの時間性は、
じつは詩集編集の必殺要素だったりもします。

このごろ反省的にかんがえているのは、
吉本隆明が「ゼロ年代詩人は無だ」といったとき
その論拠として
彼(女)らが「神話」を創造せず、
しかも「自然」を描かない、とした点。
本当のところヘルダーリンの権能、みたいなものを
吉本はかんがえていたのではないか。

詩の権能が、稲川方人的に
政治学・歴史学的に拡張されるのはぼく自身シンドいですが、
ヘルダーリン的な守備範囲なら
詩の本堂、という感じがやはりあります。

たとえば前田英樹のような知性に、
保田与重郎から特定の詩作者に興味を移らせるような
そういう「根本的」な詩作が出てこないものか。
前田さんはそういえば、
全然かみ合わなかった吉田文憲さんとのジュンクでの対談で
現在の詩は「技術的」「難しすぎる」といってたなあ。
これは前田さんごのみの、剣士的間合いが
「世界」に発揮されていない、ということでもあるでしょう。

で、ぼくのおもう「詩作者の権能」とは
それほど遠景にあるものでもないかもしれません。
たとえば「詩作者の権能」と綴ったとき
条件反射的におもいうかぶのも
江代充さんだったり貞久秀紀さんだったりしかしない。

そういえば今回の詩集の後半は
このふたりに深甚な影響を受けたなあ。
葉月ホールハウスのイベントのおかげか。

あのときのぼくが発表したレジュメ、
いずれサイトアップでもしようか



 
もう一個、大量詩篇収録の詩集というなら
石原吉郎の『サンチョ・パンサの帰郷』とか
生野幸吉の『飢火』とか
堀川正美の『太平洋』とか
つまりは現代詩の分野においては
溜めに溜められた処女詩集の出版に実例がみられます。

これは音楽でいうなら
「ブルース・インパルス」というやつです。
リロイ・ジョーンズだったかの理論ですが、
ぼくはこの語を高校のころ
オーティス・ラッシュの初の日本版で知りました。
ずっとムショ暮らしをしていたオーティスが
初めて出したアルバムだから「濃い」と。

ただしぼくのはネット時代特有、
ほぼ一年間を中心にして
200篇もの大量収録で、
ここが読者の判断のポイントになるとおもう。

田中宏輔さんのように
つぎつぎ詩集をだす資金があれば
大量詩篇を分冊化していいのだけど、
ぼくの場合はそうはゆかない。

となって、ある「方策」を利用するしかなかった。
ともあれその「方策」によって、
A5百頁400部二千円、という詩集の定型を
幅広い流通性にむけて
崩すことができるという判断もありました
(具体的には書かないけれども)。

ともあれ「自分のためだけに」詩集は出されてはならない。
「後進」が呼ばれる必要があるのです。

70年代にすぐれた詩人は潜在的に数多くいたけれども
マイナー化したひとも多かった。
なぜか。40頁詩集が出すぎたのだとおもいます。
じつは痛ましいことだとおもっています。

荒川洋治の紫陽社は名伯楽だったけど
詩集がミニマルすぎた。
それが今後は回避されるべきだとかんがえています
 



ああ、そういえば
今度の詩集は
終結にちかづくにしたがって
いわゆる散文詩が連続してきます。

もともと「息だけで」書かれた散文詩を
退屈におもっていたぼくですが、
ネット詩誌「四囲」三号の「散文詩を」という課題は
すごくおおきな果実をむすぶ契機となりました。
側面で江代さんの詩を丁寧に再読したことも
認識の深化につながっています。

たとえば改行詩(行分け詩)の改行の動機は
身体的呼吸だ、とぼくはつねづね主張してきましたが
改行詩の現実も
まずは構文を正確につくったのち、
それを分節中心に改行しなければ
「呼吸まで生じない」ということがわかってきたのです。

つまり「呼吸の抑制」と「呼吸の前面化」が
相即するためには
構文意識がその前提となり、
その構文意識が単純か浅慮な改行詩は
呼吸性をもたない退屈なものになりさがるということ。

あるいは、そうした「詩の散文性」に意識的になったときは
見た目に散文詩であろうと改行詩であろうと
大過がないということ。

現在の詩は、「詩であるために」
散文精神が音韻化したり
散文精神が喩的に飛躍したりするしかないのではないか。
このときに、詩と散文を融合する
「普遍化」が生じるのかもしれません
 
  

2011年02月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

くぼみ

 
 
【くぼみ】


こころの秘密はきっと
流離に代表される
ことばの秘密にふかくかかわって
海のまぢかにみえるこの窓のそばでも
わたしはくぼむように奥まっている
ひかりすら直截にはいってこない
さだめられた身の謙譲に
ことばとからだが規律されている

ほぐれるときが死なのか
愛着にまつわる秘密がきえ
いちまいの白紙にもどるときが
夕空までぬりかえてゆく嗚咽なのか
そんな判断のとおくを鳥がわたる

わすれるなと言渡するために
はしりぬけることはしなかった

河口ちかくの橋、場のふしぎ
なにかが透けている
空の俸給のようにあかるむ雲には
影をなげかける雲がとなりして
その一点から一切が暗転しだすと
しずかさをふらす暮雨もおとずれて
ことばの秘密のあるかなきかは
かつてあった語間の距離を
夕光でみたす空間性としれた
愛している、すらそこにあった

憶えていないことの非運を身の次善とする

わたしの名にある一字を点火して
できあがった「照」のなつかしさだが
ひかる部分とかげる部分が
けしきに混在するのがおそろしい
それらのどこがわたしだと
歩度のみだれてゆくのがおそろしい

そういえば海のみえる窓辺で
おりがみをあつかうように
ひとのからだを
たのしんだこともあった

ことばのながれに敗色をあびせ
それで手作業を支配したとおもうのは
脳髄のよわい者のまちがいだ
手作業は人そのものにまでひろげられ
ことばがあるいているような夕もあるが
暮雨が本降りになると
ひとも海辺にやがてみえなくなる

ない場所にわたしをなげる
そんな不明でからだがさみしくみちたりて
ことばの秘密も残照とおくにすてられ
やってきた夜はその方角から
いつまでも牽引されている

くぼみがましてゆく、星のように
 
 

2011年02月04日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

海かもめ

 
 
【海かもめ】


二時、みつめる者は
みつめかえされるだろうが
かくじつな二人称をまえにしても
それはしかし
正体のないまなざしだろう

確信が内にこもっているから
いつも発現されるもの
予感されるものがそうなる
けっして関係のせいでもない

きみに留守をあずけて
海かもめがとおくを
あまた舞っている浜へ
わたしをばらまきにゆく
みたものにのみ自分を置く
これがまなざしの第二の秘蹟

定着のないものの荒々しさ
ひかりと水と生き物とでできた
あれらを映画とはとらない
ひかりが影に反転するのならば
水はなにへと反転するのか
それをかんがえるのが詩の物理で
水に
水ではないものも現れてくる

けれどその無理は自身を鎮める
生の抑制にしかならない
ありえないものを中庸とする
およそ詩とはそんなものか

ひかっているそこは
無人のまなざしだろう
海かもめの舞いが
まばたきになってもいるようだ

あれらが二分もつづけば
悲秒もみちてくる
きみに似ている
 
 

2011年02月02日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)