きょうおもったこと
朝のニュースワイドをみていたら、
原子力安全・保安院の西山(英彦)氏
(例の色の浅黒い、リトル海坊主的な眼鏡のひと)が
散布防止剤の使用について
「……だと聞いています」といった語尾を
会見でつかっていた。
この間接話法、おかしくはないだろうか。
この種の会見では「……をします」といえる人間が出るべきだ。
つまり伝達者ではなく遂行(決定)者が出るべきだ。
福島原発の危機管理が
すべて現場の人間に一任されているわけではないだろう。
彼らの多くが被雇用弱者なのはもう知られている。
彼らの現場報告から対策と方針を決定する理科系の人間が
たぶん原子力安全・保安院にはいるはずなのだが、
その人間が会見に出てきていない。
それは狭量な首相が、
官房長官に政府見解をすべて語らせているのとおなじだ。
いずれにせよ、西山氏は東大法科卒の「文科系」だし、
間接話法の使用者なのだから
原発事故にかかわる会見に登場資格がない。
会見そのものが成立与件をみたしていない。
この点についてマスコミが
抗議をおこなわないのはおかしくないか。
理由を考えてみる。
不適格な質問で会見の場を乱した場合には
その記者から会見臨席資格を奪う、と
「恫喝」されている可能性がいまだにある
(外国人記者が排除されている点からそれがわかる)。
だから御用スポークスマンと御用記者の馴れ合いが
週刊誌的媒体がいうように生じている。
テレビにたいしてはもっといえるかもしれない。
9.11後にブッシュがTVをつうじて会見を繰り返した例をみれば
「……します」といえる最大適格者は例の狭量な首相だ。
ところが震災前に、「そのひと」がTV画面に出てくるだけで
不快感から視聴者がチャンネルを換えてしまうといわれていて、
もしかしたら視聴率的に「そのひと」の登場を
いまも怖れているのかもしれない。
でもそうだとしたら、やはりマスコミはおかしくないか?
福島原発の事故そのものは
燃料棒温度上昇阻止のための放水と汚水漏出阻止の
ダブルバインドにある。
これはむろん燃料棒の
経年的冷却を待つなどということは結果しない。
官房長官ははっきりいった。
放水のほうを汚水漏出阻止より優先すると。
東日本の漁業は、1927年、
ミシシッピからの洪水によるニューオーリンズの危機を救うため
ルイジアナの農地へと川の流れを変えたように犠牲にされる。
このルイジアナの事例は
ランディ・ニューマンの歌によって有名だが、
ベンヤミンも戦前ドイツの子供向け放送の原稿で言及していた。
ダブルバインドに話をもどすと
官房長官の語りも要約すればすべて
「危険だが安全だ」という矛盾撞着型。
ダブルバインドは実際は心理学的に危険でもある。
子供だって母親に「好きよ」といわれながらいじめられつづけると
確実に統合失調症になってしまう。
誰も支持しておらず、消滅寸前だった首相の統べる内閣は
危機管理責任をあたえられることで延命してしまった。
ここでは危機管理と政治空白の出現がダブルバインド関係だ。
けれども原発事故の性質からわかるように
そろそろダブルバインドそのものを
打開する必要が出ているのではないか。
となると、政治空白なしにたった一日の投票で
あたらしい危機管理内閣ができるような
ウルトラCが生まれるといい。
そのときにこそ、大連立が模索されるといいだろう。
危機管理的挙国一致を隠れ蓑に
首相が自身の延命のためにだけ
大連立を自民党総裁に打診したから拒絶された。
それは民主党の当事者責任の放棄だし
自民党にしてみれば選挙時の争点を曖昧にしてしまうことだから
谷垣総裁の判断も当然だとおもうが、
首相をおろした上での大連立ならまったく意味が変わってくる。
原発が被災した直後、つまり水素爆発がつづくまえに
アメリカは冷却材投与を提供すると申し出ていたという。
アメリカの原発危機管理マニュアルでは
原発に電源停止が生じた場合、
80時間以内に冷却材を使用しなければ
炉心損傷がまぬかれない、という。
それを廃炉怖さに東電は「安全は確保できている」と言い張り
首相もそれを鵜呑みにしてアメリカの申し出を断った。
この結果が、現在のダブルバインドの惨状だ。
いまごろになって東電トップが
一号機から四号機の廃炉を決定しても遅い。
むろん首相には決断すべきときにそれをしなかった、
「不作為の暴力」がはっきりしてきた。
官邸や東電で怒鳴り散らすことが暴力なのではない。
「何もしないこと」のほうが暴力なのだ。
この報道はいままでは週刊誌レベルの報道だった。
つまり出所先秘匿を条件にした消息筋報道だった。
それを今朝は読売新聞が大々的に一面で報じた。
ということはニュースソースをあきらかにしてもいいという
民主党議員があらわれたのではないか
(食事をしながらTVをみていたのでたしかではないが)。
その議員が首相降ろしの決意を固めたということだろう。
初動時危機管理を最大限に誤った首相には
危機管理遂行の資格がない、という見解ではないか。
福島原発事故対策の現状はダブルバインドだが、
無能首相の継続はもうダブルバインドではない、ということだ。
福島原発事故の解決を暗喩するように
救国内閣が政治空白なしの超短期で成立することを望む。
日本の問題解決能力は原発事故のみならず
首相交代にかんしても問われている
自己確認メモ9
詩行、または構文内語連関には
「速まらせるもの」と「遅らせるもの」の対立があり、
「遅らせるもの」の組織が密になることが
たぶん「熟成(もしくは弱体化)」と呼ばれる。
このとき「速まらせるもの」の光は端的でつよいが、
「遅らせるもの」の光はにぶく、
そのにぶさのゆえに音韻にもふかく浸透する。
こうして自らの航跡を消してゆく光のかわりに
自らの航跡を加算させ、多重化する前提のための
光の(層の)うすさのようなものが詩で問題になる。
詩集で最終的に読まれるのもこの多層性ではないか。
そうでなければ誕生-消失のたえまない速度だけが
場所ではない場所に蓄積されて
それを専ら読むのは感覚と
それにつづく記憶力だけ、ということになってしまう。
ちがう--読む行為を司るのは
いつでもたえず孤立した身体にすぎないだろう。
それは徴候に似てしまう点滅を読まない。
しずかに透きとおっている層だけを身体の亜種として読む。
水のひかりかた
【水のひかりかた】
水についてかんがえてゆくと
かつて生ける鰤の鰭によろこびをあたえ
あわびにゆたかな諦念をもたらしたあの水は
みずから怒ったことで瓦礫をふくみ
しずかだった港の底を船の残骸だらけにした。
ところがあれら明示的な水のほかに
秘密にまもられ循環していたくらい水もあって
それらは被曝し不道徳な液体型式に変化した。
つまりそれらが泥いろか透明かをまるで知らず
水なのに火傷をおわせる反物質にすりかわり
底のないバケツで掬いあげる運動をも呼びだし
そうして水との闘いは物理の編成のくずれ
そのただなかに位置づけられるようになった。
花を、とりわけ向日葵を植えることが復興だと
あわびに似たこころをもつ者たちはしるすが
建屋がふきとんであずまやに通いだすなら
形状的にまずそこに水と神性が宿られ
花からはじまった形象学も水びたしになる。
いずれ水ランプでたがいの海底の顔をてらす
観念の停電が要るのかもしれない。
沈思をつうじ飴のようになったこころをつかい
やがて生物に添うのがぼくらの透視の特権で
プランクトンはその過程に現れる星だろう。
かがやく月と真水の関係の斜めにこそ海があって
その海に臨むのが事故史の石棺なら
やがてはおごそかにその石棺も
向日葵どころかサフランにかこまれる。
いちど想像したその図をわすれない。
そこに姿をみせるのももはや編成ではなく
死んだ子どもたちがえたかろやかさで
それがひかりと水の等価をただ告げるはずだ。
このためにいま水を極小にして
眼前の夜の顔にほのあかりをみている。
手の一歩
【手の一歩】
日録の意味がうすくなったとき
きみはその形式を変化させようとして
ついきみじしんの変化をそこに繰りひろげてしまう。
たんに並列だった諸日のことがらが
尾をもった連鎖として生物化してゆくそのはざまで
時間ときみじしんの生物性が競われて
きみのしごとはきみじしんの影の位置に見えがたくなる。
きみは考えをやめることについて考え
考えないことをさらに考えない怪物に堕ちて
あらたな散在形式のなかへ点々と二重化してゆき
二重化の狭隘をも脈動しだすことになるが
それが全身装着感の隙間のなさにまで昇りつめた暁には
きみは時空に限定されない広大な浪に直面して
精神とは別の次元で奇妙な懐かしさをおぼえだす。
部屋よりも階段の多かった家として
いまとかつてに相わたり被災地がみえている。白木蓮も。
手の一歩だけが視覚をそうしてかえる。
風景は発狂している。
半減期
【半減期】
自殺より少ないものはない
火葬場をさがしているのだから
死だってその容量はさらに大きい
だからぼくらは
その少なさをかろやかな奇貨として
放射線のついた野菜をさがすのに
市場にはそれ以外のないもののほうが満杯で
みずからえらんでほろびることはすでに
権力の奥から禁じられているようだ
ぶぜんとしてまなざしを遠くにむけると
波に乗ってやってくる海の聖者はいて
彼の甲状腺が星のようにみのっている
地球と物質のしるし、だそうだ
さしだされた彼のただれた手をにぎれば
またも音楽的な確信がいやましにつよまる
《自殺より少ないものはない》
ただ乳児と乳牛がすくわれればいい
半減期がかずかずあることを
もともと表していたのも
波によってつくられたぼくら、だったそうだ
引用
言葉がついえるとき音楽が現れる
●
愛はまさにセックスゆえに不可能である。
セックスは「後期資本主義による支配の縮図として増殖するが、
それによって人間関係は、
非人間化という性質をもつリベラルな社会を
不可避的に再生産するものに変色する。
セックスは本質的に愛を荒廃させる」。
●
ねたみは、倹約、メランコリーと合わせた三幅対構造のなかに
位置づけられるべきである。
それらは、対象を享楽することができない状態、
そしてもちろん、この不可能性そのものを
再帰的=反省的に享楽する状態がまとう三つの形態である。
●
「コミュニティにおける意見の相違は、
神の慈悲のあらわれである」。
●
神的暴力と、
われわれの無力な/暴力的なアクティング・アウトとの
決定的なちがいは、
神的暴力が、神の全能の表現ではなく、
むしろ神自身(大きな〈他者〉)の
無力さのしるしである、ということだ。
神的な暴力と盲目的なアクティング・アウトとのあいだでは、
ただ無力さの場所だけが変わる。
●
暴力的なアクティング・アウトを煽動する者は〔…〕
自殺と犯罪を取り違える。
●
ブレヒトは、人々は政府に対する信頼を失ったという
ある同時代人の言葉を引用し〔…〕
茶目っ気たっぷりにこう問う。
そうであるなら、国民を解散し、
政府に国民を選ばせたほうが楽なのではないか、と。
●
数百万人を虐殺した歴史上の怪物たちの問題は、
彼らがじゅうぶんに暴力的ではなかったということである〔…〕。
なにもしないことが、
ときにはもっとも暴力的な行為となるのである。
――以上、スラヴォイ・ジジェク『暴力』
(青土社/2010年刊/中山徹・訳)より。
※改行は阿部
大音楽
【大音楽】
教室というべきところの一隅に
しずかにあおく海面をたたえていた
あの場所は、あの姿は、あの瞳はもういない
海が海面をながしてしまい
かつてはおもかげを載せていた
あれら椅子だけが椅子として無惨にのこっている
そのことの意味は
大音楽が感覚をとおりぬけ耳を洗ったということ
あれら耳が消失者・残留者の人数分だけ
陥没をめぐるように立っているあの場所は
たとえきょう輝いていようと
その後の教室とただ呼ばれ消えてゆくだろう
瓦礫に船が刺さっているのは
あらゆるこころの教室で、それが局所だ
けれどそのつらい刺さりは耳があつまれば
はじまりのかたちすらなすかもしれない
かなしい顔
【かなしい顔】
もしそこに塔があれば
塔へ大きく架けられた者も
ていねいに降ろされて
しずかに哀悼されただろうに。
塔のないいまでは
くだかれた建屋の隙間へ
ただ放水がつづけられ
架けられる者が姿を現すよう
ひたすら予感が用いられるだけだ。
こうした予感の使用には
からだがのろのろ付帯してゆき
その気の遠くなる手続きが
一歩一歩のなかに踏みしめられる。
あれら放射線防護服の
みずからをも縛る堅牢さは
おこないの砦となって
おこないの不如意を
おくれて裏打ちしつづけた。
けれどやがて塔は建つだろう、
艱難がしずめられたとき
眼にみえない形式で。
そこへ架けられる者が
個々を綜合されたことで
どんなに哀しい表情をうかべているか
それをただ個々人より前に
逆ピエタとしてしめすために
ひとつの大きな顔を架けつづける
その塔は建つだろう。
地震後におもったこと
11日金曜日、地震発生時刻のぼくは
レンタルCD屋に梅見がてらCDなどを自転車で返却し
帰宅してニーナ・シモンなどを聴き
ちょうどくつろいでいたところだった。
地震が起こる。いつもの習慣で即座にTVをつけた。
揺れの感触からたぶん東北地方で大地震が起きたとはおもった。
案の定、津波警報がけたたましく報道されている。
地震はいつもとちがい、なかなかやまなかった。
居間から退避。一分ほどして横揺れがさらにつよくなると
本棚の上に積み上げていた本やビデオが次々と落下しだし、
その音のつくりあげる聴覚的惨状にまず動転してしまった。
じっさいものすごい音だったのだ。
部屋はたちまち足の踏み場もなくなるほどの狼藉状態となった。
しばし茫然としていた。即座に女房へ電話をかける。
ケータイがつながらないので家電話で女房の会社電話にかける。
むろんこれもつながらない。
一時間以上経って大阪の女房の実家から電話がやっとかかった。
三角形伝言で「女房は無事」の報。こちらも無事をつたえた。
古い建造物にいる女房は余震を怖れ同僚と会社を引き上げた。
偶然会社を出てすぐにタクシーがつかまったが、
渋滞に巻き込まれ、帰宅に四時間かかった。
車中からのケータイ電話のやりとりもむろん無理だった。
素晴らしいニーナ・シモンはステレオから鳴りつつづけていた。
停めなくちゃ、と気をとりなおしたのは30分ほど経ってから。
それまではTV画面の推移に釘付けだった。
ぼくはTVに呑まれた。TVにヤラレた。
悲哀と衝撃のあい混ざった形容しがたい感情で心が焼き切れそうになっている。
女房を迎え入れるため台所までと玄関までの通路を確保しようと
余震におびえながら本とビデオを片付けはじめたのは
ニーナ・シモンを停めてから。
動きが鈍くなっていたのか、片付けには三時間ほどもかかってしまった。
目盛りを一挙に大きくして、
まずTVが何をつたえたかを以後数日単位で振り返ってみよう。
最初はヘリコプター空撮による津波災害の伝達。
黒い巨波が海岸の堤防を越え、町に侵入、
家屋をくずしクルマを巻き込みながら山側にどんどん浸潤し、
凄惨に「町が消える」詳細が如実に捉えられていた。息を呑む。
水が押し寄せているのにところどころ火も噴き上げている。
災厄は感覚に神学的問題をまずもたらす。
道義的に、「これをみていいのか」という問題が惹起される。
恐怖のためにそれを見ていたとしてもどこかその恐怖に
「見ることの欲望」「その無際限」も連絡してはいないか。
見ることがそのまま自己検証へも反射してくるのだ。
9.11や戦争時の爆撃映像、
あるいはスマトラ沖地震の津波映像にしてもそうだが、
正常な映像リテラシーがあれば、
映っている画像の刻々に「人の死」が、明示的/非明示的の区別があっても
徴候として刻まれている。それは「客観映像の精確性の病」ともいえた。
神学的な問いかけとは以下の局面で出る。
「人の死」を無意味にしないためには神学的枠付けが要る。
石原慎太郎はこの地震と津波は、
物質文明と個人利益に胡坐をかきすぎた者への「天罰」だと
例のごとく暴言を吐いた。
死と艱難はまず被災者に適用されるのだから
そこに神学的有意味性を探ろうとしたとしても
この「天罰」の用語は明らかに逸脱している。
対象がずれているのだ。
彼は東北太平洋岸の被災者を飛び越えて
「性急に」都民や国民一般の驕りをたしなめようとしたはずだが、
その「飛び越え」に被災者無視の自己中心性がすでに露呈していた。
それと「諫言者」のポジションをとったことでもその傲慢は明らかだった。
映像を見る者には、見ることの自己中心性が審問にかけられた。
大量に人が死んでいるのは明らかだという判断になって
その「事実」を、自己中心性は「神学的に」有意味化できない。
阪神淡路大震災の前例があって、
ぼくの思考にまず去来したのは以下のようなことだった。
たとえば神戸市長田区の靴製造を中心とした零細な町並みは
「復興」にしたがって気味悪く平準化されてしまった。
そこに多くのひとが戻れなかった。
復興を名目にして区画整理がなされたとき
行政の不備が祟って、土地保有者が更地をもったまま家も建てられず
ずっと借金漬けになってしまっている例もある。
日本の「戦後復興」とはちがい、
確率的な非運が決してリカバリーされないというのが
バブル崩壊と互助システム不全後の日本の現状だった。
となると、今回の東北関東大震災の被災者の確率的な非運も
さらにリカバリーされない、というのが被災の唯一の有意味化ではないか。
不幸は新たな不幸を呼ぶだけになる。
そうおもうと、心はいよいよ暗くなっていった。
ぼくは三陸を数年前、女房と旅行したことがあった。
リアス式海岸は風光明媚で、三陸鉄道は景観随一ともいえる車窓眺望だが、
個々の港は海にむかって孤立的にひらかれるだけで、
陸路による相互の港の連絡はままならないだろう。
魚は美味だが、どの町もメンテをなされずに古く、
高齢者の比率が高いのも町を歩けば即座につかめる。
地方格差の象徴のような広大な一帯なのだ。
岡山側/大阪側の左右から救援物資が迅速に届けられた往年の神戸に較べ
東北の太平洋岸は地勢的に即座の支援が困難だろうとも予想された。
映像リテラシー的な話をつづけると、
第一次被災映像は空撮中心で、
その俯瞰空撮には実際は撮影主体の署名がない。
「純粋客観」ともいえる中立的画像は、
事象の災厄性を自己破裂の直前まで飲み込んで、
見た者をただ茫然自失させる。希望の徴候が一切そこにない。
TVが次段階で組織したのは、被災者が提供した津波の襲撃映像だった。
そこでは災厄がより間近になり、人々の逃走など迫真性を加えているが、
「この映像を撮った者は生き残っている」という枠付けも生じているので
実はそこに希望の徴候が灯りはじめている。
数日経って水がかなりひいた。街区も農地も瓦礫の山。
火災の継続する箇所、新たに湧き上がった箇所もあるが
そこでは現地に足を踏み入れたTV局報道班の息遣いが裏打ちされ、
実際に「事実伝達」のことばが映像に付随している。これも希望の徴候。
ただし、そのあと「被災者に迫る」要請がさらに生じると、
映像は被災地に茫然と立ちすくむ人を捉え、
そこで肉親の行方不明や死の物語がかたられだし、
さらには避難所には老齢者や病者などの経済弱者が
緊急的に結集しているようすが冷徹に捉えられる。
救援物資の到達以前に、その人口分布によって
「地方格差」がそのまま惨たらしく映し出されていて、
またも希望には際限なく暗色が加えられてゆく。
なぜ地方は東京とこれほどちがっているのだろう。
救援道路を確保しようと
うずたかく散乱していた瓦礫がTVの報道班の入りこめる場所では
たった一日程度で除去されていた。
全国から結集された自衛隊員、消防員の処理能力の高さがつたわってくる。
最初に書いたように東京在住の者でも
地震の揺れのすさまじさが体感として伝わったから
まずは今回の震災を「自分のこと」として語る風潮はあった。
事実ぼくもそうだった。
ぼくは現在、「日々の近況」をFacebookで、
「自発的かつ小品的作品」をミクシィに、というように使い分けしているが、
Facebookに書けることは地震発生時の衝撃、落下物の整理、家人の帰宅困難ぶり、
電車の乱れ、計画停電への不安など「誰でも書けること」にすぎず、
日本的ソーシャルネットワークにおける
コミュニケーションの「自己中心性」など
実際の今回の被災地に現れている惨い「地方格差」の前では
決して神学的に「有意味化」できないだろうと意気阻喪したのだった。
かといってミクシィなどにいつものように詩篇を発表できるわけでもない。
ぼくは四行の詩を一回書いただけだ。
四川大地震の際の日本の詩作者たちの哀悼詩の
気味悪い(戦時の「辻詩集」をもおもわせる)愚劣さも記憶に新しい。
それでぼくは沈黙してしまった。
海外在住のひとなどは
なぜ日本人はFacebookで近況書きをやめてしまったのかと
心配しながらも怪訝になっていたが、
大方、ほとんどのFacebook利用者もぼくと同じ心情だったのではないか。
つまり自己中心性が審問にかけられたのち打開ができなくなっているのだった。
今回の大地震では問題が生じていながら糊塗されていた多くが
一挙に縮図的に露呈してしまったという印象を受ける。
狭量の総理大臣は自分の内閣の意味が危機管理内閣、復興支援内閣に変貌して
自分の延命が決定されたと欣喜雀躍したかもしれないが、
あとに述べる福島第一原発の問題処理で
またもや当事者性の欠如を問わず語りしてしまった。
内閣は「死んでいて」、死んでいるまま救援と問題処理に臨んでいるにすぎない。
露呈したものは先に幾度か書いた地方格差もそうだが、
たとえば自衛隊の処理能力の高さは
自衛隊を世界に、Japanese Forceとして印象づけただろう。
アメリカは普天間基地問題で狂った極東のパワーバランスを
第七艦隊の三陸沖での結集で復旧しようとしていて
中国とロシアはそれに「支援」で対抗しようとしている。
つまり帝国的覇権主義の矛先という日本自体の地勢感はよりつよまった。
そしてぼくのレベルでいえば、
都市的生活者の自己中心主義、その無効性が最も表面化されたのだとおもう。
東京でも地震による死者は出た。さらには幕張地区などでは
深甚な液状化被害も報告されている。
ただし報道と人心は一般消費者がスーパーなどで
不安心理に駆られた「買占め行為」をしている点に
安直に非難の照準を合わせたようで、これがぼくにはじつに奇妙に映る。
蓮舫大臣は「そうした買占め行為によって
救援物資が被災地に行かなくなる可能性がある。
一体、なんでスーパーで鶏肉や豆腐が売り切れているんですか」と
例の「二番じゃ駄目なんですか」とおなじ当事者性を欠いた、
しかも居丈高な調子で一般消費者を難詰した。
信じられない想像力の低さだとおもう。
一般消費者の家庭は家人の出勤が困難になった。
したがって家族在宅率が高まった。
しかも停電不安がある。水の供給が切れる可能性もある。
そうなると家族でガスボンベをつかった鍋料理をしようと誰もが考える。
その意味での単純な鶏肉と豆腐の払底にちがいないだろう。
大体、蓮舫は物流にかんするリアリズムを欠いている。
供給不足を見込まれる電力が「計画的に」地域間で消費調整されるように
物流配分もすでに被災地/都内間で調整されているはずだ。
つまり一旦スーパーで売り棚に置かれた米袋が
トラックに戻されて被災地に送りこまれることはほとんどなく、
被災地には被災地用の救援物資が確保されているとみるべきなのだ。
その被災地に物資が届かないのは、ガソリン不足と道路の寸断、
あるいは福島第一原発半径30キロ内では交通規制によるもので、
これは実際は民主党が、乱れに乱れた物流径路を整備できないためだろう。
都内も深刻なガソリン不足に見舞われているが、
GSにあるガソリンを再結集して被災地に届けようという
非現実的な動きが画策されているわけでもない。
石油会社は被災地向けのタンクローリーを用意しているが、
それが被災地に届けられないのは、
タンクローリーに入れるガソリンが不足しているわけではなく
これまた被災地の物流径路が分断管理主義によって未整備のためにすぎない。
スーパーは即座に
「米一袋」「パン一斤」「カップラーメン四個」「牛乳一本」などと
買い物の際の個数制限を買い物客にアナウンスしていた。
買占め行動が顕在化してすぐのことで、蓮舫の難詰より先だった。
スーパーを梯子したり、一日に何回も行ったりして
たとえば米を三袋買い占めた主婦がいたとする。
その主婦はとうぜんその後は米を買い占めなくなるだろう。
米は毎日入荷され、たまたま「ある日」米を買えなかったひとも
翌日か数日後には米を買えるようになる。
一部を除き東京は直接の被災地ではないのだから
物余りの現在においてはそういう物流構築も可能なはずだ。
なるほどスーパーに出かけると
憑かれたように買い物籠に
不用品まで満杯に商品を入れているひとも見かける。
たとえばその主婦は自宅にいつしか米が三袋あるのに気づき
自分の所業を自嘲的にわらうだろうか。
彼女らの言い分だって代弁できる。
福島第一原発の火災、爆発による放射線量の増加は関東一円でも計測された。
だからもし原発で大規模な炉心溶融が起これば
関東でも被爆の危険が生まれ自宅退避が長期化する可能性がある。
そうなったとき家族を守るため米を買い占めたことを
誰が非難できるだろうか。
問題が、彼女たちの妄動(それ自体は傍目には恥しいが)ではなく、
原発事故を当事者性のないまま
東京にいて間接管理だけしている東電管理者の事故報告の不要領、
さらにそれを鵜呑みにする民主党とが相俟って起こる
不安の醸成にあるのは確かだろう。
それよりもネット上で、
原発不安にかかわる流言蜚語が飛び交ったのと同等のレベルで
「買占め行為はやめようよ」という呼びかけが起こったのが面妖だ。
自己中心的な言説がネット上で無効になって失地回復するために
そのような言辞が蔓延しているのだとおもうが、
救援物資の被災地への不足は買占めとは別次元の問題。
それをいうべきなのに、非難対象が錯誤してしまっている。
これは石原慎太郎が自己中心性により対象への用語を誤ったのと
似た問題を形成しているとぼくはおもう。
福島第一原発での事故はとうぜん深甚な問題だ。
これは「倫理として」現在の放射線放出量が
人体に影響をあたえない微量だという東電側の報告を鵜呑みにするしかない。
それでもこの問題は風力、太陽光とともに
クリーン発電である原子力発電に主軸を移そうとしていていたアメリカなどに
大きな関心をもたれ、米軍が事故収束に関与する可能性も出ている。
問われているのはまたしても日本的な問題だ。
原発は税収と雇用のない県が招致した。
原発での労働者は被差別的扱いを受けている。
しかも被爆国の日本は放射能アレルギーが元来高い。
現在の半径30キロの結界のなかに
救援物資運搬車が入ろうとしないのはそのためだし、
避難所に到達した避難者の「クリーニング」も
「穢れ」を掃うような前近代的扱いを受けているという。
そうした原発だから東電は管理を現地労働者と下請けに任せた。
そのため事故の現地目線での詳細な把握ができず、
会見がしどろもどろになって視聴者に不安を煽っている。
銘記すべきは、東京の電力を、海岸をもつ貧困県がまかなって
東京の人間がそれを自明視している点だろう。
アメリカは原発にかかわる「格差」を危険視して、
放射能量までもをいまや自己調査している。
ともあれ福島原発の実際の労働者は地方格差中の最大の弱者だ。
「敗者は映像をもたない」というのは
往年の大島渚がしめしたテーゼだった。
「大東亜戦争」にまつわるアーカイヴドキュメンタリーをつくろうとしたとき
日本の敗色が濃くなってからの戦争映像は
すべてアメリカ側が撮った映像に頼るしかなかった。
イランの映画監督モフセン・マフマルバフは
アフガンの仏像破壊映像に世界は震撼したが
それを呼び出したアフガンの貧困の映像を
それ以前、世界は決して撮ろうとはしなかったと注意喚起した。
日本は現在、「イメージ勝者」「映像大国」だから
津波被害をはじめとした日本の被災地の映像は
スマトラ沖地震のときに数倍して大規模に国際配信され
世界から同情が集まったが、いま全世界が息を呑んでいるのは
福島第一原発の現状を半径30キロ以遠から、もしくは衛星から捉えた映像だ。
そうして総理大臣のリーダーシップと処理能力が問われているわけだが
狭量のそのひとはプレッシャーに押しつぶされそうになっているだろう。
「敗者は映像をもたない」というテーゼは
しかしネット時代になって「液状化」した。
画期は北京五輪を機に起こったチベット紛争(とくに中国軍の弾圧映像)が
ケータイ→YouTubeをつうじて世界配信されてしまったときだろう。
貧困地帯だった四川での地震の惨禍も同様に伝わった。
「敗者が逆転的に映像を拡散させる」。
ぼくがびっくりしたのは、福島第一原発30キロ範囲内にある老人ホームが
灯油、食料など救援物資不足に陥ったまま孤立化しているようすが
職員のケータイからの動画メールによってTVで放映されたことだった。
老人ホームは地方に行けばわかるが土地代の安い山間地に建てられる。
交通寸断されやすい不安定な場所に
そもそも立地しているということも意識された。
上記の例などはネットの正しい使用例とまずはいえそうで、
社会参加を装った「買占めをやめようよ」呼びかけなどは
前言したように、自己中心性によって論点が空疎になっている。
それでも「正義」を届かせようという気概は伝わってくる。
ただしそれが往年の新保守主義的な
「大人になろう」的主張と似た響きをもつのが難点だ。
最悪の例ならFacebookでみた。
それは自分の本棚の崩れを嘆きつつ、実際は自分の蔵書自慢を問わず語りし
返す刀で大学職での不遇をかこっている文面だった。
さて、あきらかになったことは
すべての情報にはヒエラルキーがある点だった。
TVが最もつよい。ネットがそれにつづき、そこでは流言蜚語が飛び交う。
映画はどうかといえば、津波を迫真的に映像化した
クリント・イーストウッド監督『ヒアアフター』が
日本の被災を髣髴させるとして今週16日に上映一律停止となった。
同様に地震を描いた『唐山大地震』の公開延期も決まった。
ここでまたぞろ起こっているのが「自粛モード」だ。
ここでも「自粛モード」はいけない、という一方的意見は
やはりネット的な自己中心性を病んでいるのだとおもう。
つまり『ヒアアフター』はもともと動員が芳しくなく、
被災者への哀悼をテコに公開を「自粛」したという興行側の、
それ自体は否定できない事情が透けてみえるのだ。
第一、TV映像の影響の強大さをまえに、
映画をみようという気分に
ほぼ被災者ではなくても東京人がなれないのも確かだろう。
むろん東京は「ほぼ」直接の被災地ではない。
それなのに自粛モードが蔓延しはじめ、
大学の卒業式の中止なども相次いでいる。
被災地に実家があるかもしれない卒業生に配慮したという
「公平の原則」を大学当局はいうかもしれないが、
それならば当該者に卒業式を機会に救援金を渡すなどしたらどうなのか。
事なかれ主義で、実際は救援機会すら自ら潰してしまっている。
そういう自粛モードに刃向かう向きもあるようだ。
ソーシャルネットワークでも何事もなく日常瑣事を綴ったり
詩作を平常どおり発表したり、
あるいは自らの買占め行為を茶化した記事を書く者も見受けた。
けれどもそれらは自己中心性の枠組みのみにいて、
「人の死」を何とか有意味化したいという神学的衝動を欠いているのではないか。
意図はわかるがぼくには残念だ。
ともあれ「哀悼」の念はTVの地震報道に接したかぎり、
避難所のようすなどからも、現在ですら刻々強化されてくる。
ボランティアを呼びかける者もいるだろうが、現状は被災地に行き着けない。
義捐金か、町ぐるみ程度の救援物資の輸送ができる精一杯だろう。
「われわれ」とはいわない――「ぼく」に試されているのは
TVによって形成された「哀悼の念」をより冷静に精確にすることで
「哀悼」そのものを価値化・有意味化することではないか。
言及されてこなかった「弱者」が
地震津波を機にどう顕在化したかを精密に検討しながら、
政府の施策の官僚主義的硬直を非難することがその第一歩だ。
そこで詩作もこの震災のまえに何をすべきかという問題になるのだろうが、
「四川大地震哀悼詩」のような動きに参画するのは
先に書いたようにぼくにはゴメンだ。
もともと短歌でいう「TV詠」がぼくは大きらいで、
それはむろん「社会詠」ともおおきくちがう。
マスコミ論調の恣意性に創作理念が汚染されているだけで
それらの表現には真の自発性などない。
「不幸」「悲惨」を主題化すればその詩は
地震に直接言及していなくても被災者とスパークするだろう。
詩の方法が喩――とりわけ「暗喩」ではなく「換喩」だという点が想起されれば、
詩作が去勢されることはないだろうとおもう。
たぶん「アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮だ」という
アドルノの言をもじった言い方で詩の無効性が情緒的に
四方八方で主張されるだろう。
しかし今回の東北関東大地震でもし詩作が渋ったとするなら
それは書き手の社会性が弱いのではなく、
「換喩」にかかわる方法論がよわいだけというべきではないのか。
今日未明、地震発生時のニーナ・シモン以来
節電意識からもやめていた音楽聴きを
ひさしぶりに復活させた。
聴いたのはジョアン・ジルベルト(ボサノバ)の名盤『声とギター』。
複雑な音色と柔らかな歌声に心を洗われた。
そのやさしさが哀悼に変化するともおもった。
表現にはいつもそんな利点がある。
セイウチ
【セイウチ】
清内が海の落ちる場所を覗きにゆき
仲間の凄内が黒に染まるのをみた
どころか勢内まで浪にぐんぐん延びて
最後の箔片となり奥へ消えていった
天国
【天国】
メロンをたべすぎて
眼がしあわせのメロンになる日
香りが前方からながれだす
ひとは存在しない樹間に
ひたすら敬虔になって
あとは唄うしかないだろう
メロンの複数の根拠を
三角みづ紀ユニットライヴ
当夜の三角みづ紀ユニットは
みづ紀のほかに岩見継吾(b)と井谷享志(ds)。
アルバム『悪いことしたでしょうか』のレギュラーだ。
まずみづ紀を舞台に迎えるためのプレリュードが奏でられる。
だんだん激しくなる好戦的なフリージャズ。
とりわけ丸顔、鬚面の岩見は
コントラバスをはじく指の力がつよく、
スラーでフレーズを「太く唄う」。
演奏が沸騰してくると
フレット上の左指が(下に)のぼりつめていって
その指とはじく指、双方が混乱を演ずるように
弦とボディをパーカッヴに叩きだす。
そこからものすごく細分的・散乱的なフレーズが出る。
その奏法の迫力を
最初は抑制的に叩いていたドラムスが倍化する。
丹田に音が浸み込んでゆく。
その音がぐしゃぐしゃ眼前で炸裂する。
全体が「帯」になって白熱のうちに演奏が終わり、いきなり大拍手。
その拍手に乗じて
舞台手前のどこかに待機し、
気配を消していた三角みづ紀が
ステージの高台にフッと跳びのぼった。
それでステージの向かって右端という彼女の位置がキープされる。
ぼくの位置からはみづ紀は横顔。髪は後ろに束ねられている。
一枚の黒い布を全身に巻きつけたようにみえるロングドレスだ。
むろん巫女的ないでたちだが、
みづ紀はやや猫背に上体をかがめ、
からだをあたかも演奏音の目盛りを大きく見積もったように
スローモーションを感じさせるうごきでゆらしている。
ずっと瞑目。左手にマイクをもち
右手を最晩年の大野一雄のように前方上に浮かばせて
こちらは全身とはちがい、
伴奏音の目盛りを小さく見積もったようにゆらされている。
音の粒にあふれた空中からなにかの信号をつかもうと
手がそれ自身を踊っているのだ。
その手になぜか盲目性の印象をかんじる。
全体的にその存在感が浮遊的。
しかし声が飛び出すと、アルバム『悪いことしたでしょうか』中の
「恩寵」「ヘモグロビンが降ってくる」などは
一種、最短距離で「時代の符牒」を帯びることにもなる。
「大人の女」のように丸め込まれた声がひらひら浮遊し、
歌詞のもつ逼迫した不吉さにたいして自己統御を果たす。
声から女だけのもつ懐かしい世間知があふれだす。
イントネーションとスラーのかるさが共通するな、と
浅川マキをおもった途端、最短距離でみづ紀は
60年代アングラの圏域とのスパークで、文化記号的に輝きだす。
不安定のようで、そうでない。これがまず当夜の第一の発見。
演奏はほぼ40分になるだろう長丁場のあいだ
ほぼノンストップだった。
岩見も井谷も楽譜台を置き折々はコードや小節数など
演奏パターンの確認をしていたようだが、
みづ紀の各楽曲をいきなり接合するのではなく、
その間奏までも楽曲の一部として完全構築している。
そういう土台があって瞑目で手を踊らせているみづ紀が
間歇的に歌唱者のポジションに参入してくる。
このとき当夜の対バン者がみづ紀のリスペクトしてやまない
遠藤ミチロウだったことがあって
ミチロウ作のポップな抒情曲がこのユニットなりにカバーされた。
「Just like a woman」ならぬ「Just like a boy」。
青空の下、もう失われたかもしれない少年の純真が
ノスタルジーを伴った晴朗な歌詞で唄われる。
歌のなかで瞑目的浮遊のまま、みづ紀は「少年になる」。
「少年になる」ということはみづ紀の場合、
「少女の声になる」ということだ。
声のゆらめきの位相が変わる。
存在の多元性の位置が一挙に確保されて、
みづ紀は要約できない瞬間のつながりになってゆく。
「不安定のようで、そうではない」という直前におぼえた印象が
「このよわさはかぎりなくつよい」というさらなる反転性をくわえる。
そういう不穏な肉体が、それでも「瞑目的浮遊」を保っていて
それは暴発を抑圧する「体の檻」にあえいでいるようにも見え出す。
この二重性による自己緊縛が「少女精神」なのだが
かんがえてみるとそれは、ステージ上のあらゆる音が
みづ紀の脳髄を一旦経由して現前化されている二重性でもある。
コントラバスとドラムスの肉体のつよさと、
みづ紀の脳髄内の音のひそけさとが
互角に釣り合っていると捉えた途端、
このユニットの「音の発語の秘密」が
理解にいたったようにもおもえた。
いずれにせよ、ミチロウに領導された
「少女の声」が契機だったのだろう、
この日、最も音群の塊が大きい朗読パートでも
「少女の声」がキープされた。
コントラバスとドラムスの演奏音がミニマルになるなかで
朗読というか、ちいさな、放浪的な朗誦がはじまる。
《母はウサギでした/父はウサギでした》――
ぼくの虚弱な記憶力をたどると出だしはこうだった。
「父も」ではなく「父は」がポイント。
つまり語られる家族は連絡文脈を欠いた峻厳な個別性で語られる。
つづく「妹は」「弟は」(だったかな)もおなじ。
そのなかで祖母からもたらされた水滴を受ける
奇怪なニンジンがみづ紀自身に擬されてゆく。
あきらかに民話的語りなのだが、
民話的な因果が破砕・減殺されている。
民話に寄ろうとする心根が
自己疎外を受けてそこから受苦がうまれる。
みづ紀の場合、唄う悦びと受苦は不即不離で、
そこから男性客も女性客もエロスを感じるだろうが、
それはいわば構造的な
「何物かへの」「接近不能」から規定されている。
これを簡単な体感形容に還元すれば「切ない」ということになる。
詩の朗誦は演奏音の下支えを受けて、
間歇を挟みつつどこまでも続く。
おそらく聯単位にルフランもなされイメージの流産が防がれる。
朗誦された詩篇はみづ紀の既存詩集には見当たらなかった。
もしかすると「詩手帖」連載の連詩の一回分かもしれないが
「詩手帖」は散在状態で平積みになっていて、いま探しだせない。
音がミニマルになっていって、みづ紀の朗誦のほんの一部に
明らかにメロディが伴われるような変化が生じ「アッ」となる。
もうとうに、音程の指針をしめすベース音が消えていて、
そこから詩をメロディに乗せるみづ紀には
絶対音感があるのではないか。
その証拠に、コントラバスが演奏復帰したとき
調性には狂いや段差がなかった。
ユニットの音全体をみづ紀自身が「脳髄化」している、
その真髄のみえた小さな一瞬だった。
この朗読パートの演奏には暴力的な沸騰が起こった一連があった。
ドラムを叩くのをやめていた井谷がドラムセット前にうずくまっている。
背後に薄い大判の金属箔というか金属板のようなものがあって
やがてこれを彼はくしゃくしゃにし、踏みしめ、叩きつけはじめた。
おそろしいノイズ。しかも制御性を剥奪されたノイズ。
全体がみづ紀によって「脳髄化」されているユニットだと前述したが
この瞬間に起こっていたのは
そういうみづ紀の脳髄への、愛着にみちた破壊だろう。
詩の朗誦の伴奏が自然に『悪いことしたでしょうか』必殺の名曲、
「カナシヤル」の前奏に移行してゆく。
そのすこし前あたりから
瞑目を保っていたみづ紀の眼がひらかれていたとおもう。
脳髄に金属音をあふれさせてポセイドンが目覚めた、という感慨。
みず紀はいわば音場の「正中線」に
自分の歌唱を、今度は覚醒感覚をもって押し出してゆく。
その「押し出し」はやがて自己内の斥力に複雑に包まれてゆく。
「一様ではないこと」がみづ紀の法則なのだから当然だ。
結果生まれだしたのが、「情」「情のつよさ」。
ラスト、《カナシヤル しゃくやくの花/とても死ぬ きれいね》という
バラードの転調後のうつくしいメロディと歌詞を
みづ紀の「少女の声」が絞り出すように繰り返すとき
なにか「女性性の諸段階の抹消=宇宙化」につうじる事態が
起こっているようにもおもえた。
そういう境地へこそみづ紀はおのれを賭けようとしている。
次元のちがうものを眼前にしている感動。
みづ紀の「情」にも促され、目頭がどんどん熱くなってゆく。
曲が終了して、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
ミチロウさん目当てで来ただろう客をもみづ紀は完全にさらった。
三角みづ紀は歌がうまくなった。
声に多彩がともりだし、それで情が伝わりやすくなった。
彼女に眠っていた絶対音感が、伴奏者の音によって訓育され
歌唱がより精密になってきたということだろう。
生きにくさの痕跡をしめしていたR音の弱点ももう消えていた。
素晴らしいライヴだった。下北沢three、2011.3.8。
それをつよくつたえるため
対バン相手だった見汐麻衣(埋火)、遠藤ミチロウの素晴らしさの言及は
ここでは割愛することにする。
みづ紀さん、素晴らしい「言葉と音」をどうもありがとう。
しごと〔改訂版〕
【しごと〔改訂版〕】
しごとは腕のあたりにあって
きょうのしごとは今日を遂行する。
そうだいっさいは今日になるだけだ。
そうおもっていたのに
しごとには途中も生じて
プレイボタンで音楽がまぎれこむ。
抽象的な音のつぶが精神になり
屍斑色にかわりゆく贅沢
死ぬまえにこそ聴くべきものに
体もなく展引されからだは
いっしゅの水体になってしまう。
たぷたぷと層をなすこれが宮殿か。
重いということでこころも濡れているようだが
みなそこからみあげる音楽はひかりみたいだ。
位置を正しぼくはてもとに斜面をつくり
そこからじぶんの影を少しずつ
水盆へ落としてゆきながら
しごとの残部をじぶんの埒外に留保しだす。
鉄棒が眼のまえにある錯覚さえあり
それにしがみついたからだも上下にわけられ
その上下が微妙な差で冷えわかれている。
そういう体感がかなしいのだが
スポーツとはからだの部位を
ルールやチームプレイによって峻厳にわけながら
からだそのものを野に散在させるさみしさではないか。
スポーツみたいにはしごとができないだろう。
すわっているのに棒立ち
枝々を縦横にめぐらしている空中の戦略
みおろす距離にまさにあたまが浮かぶから
しごとには幾分かのめまいもふくまれ
ぼくは内話と外話の境界をからだに意識する
カトゥーン型の荒唐無稽をおぼえていた。
セルフ点滴、はるかぜにふくらむ
帆のひとみがぼくにあるか。
そこにあらわれた刺青のぼくは
それまでしてきたしごとに攪拌されて
もう誰ともわからなくなっている。
うすいお茶のようなものだけが
ぼくを下から支え、ぼくを照らし
安全弁にうながされたそこには
しずかな息の開閉が聴えた。
その音から穴がかんじられるとすれば
それがオシリスのようにばらばらになった身を
しごとに復帰させるしずかな中心なのだろう。
穴にあつめる自分をあつめる。
中断と間歇のちがいは
中断が永遠を予感させるおそろしさなのにたいし
間歇が存在の常態だということ。
ぼくがしごとをしているのかどうかはこうして
中断か間歇かわからないものによって不分明にされ
それでも未来からよばれた注意によって
ぼくとぼくの背後が筒状の全体となるから
顔ではない顔がまた空間に置かれている。
その見た目はしごとのように
うつくしくけがれているだろう。
ぼくが肉片だとして
肉片の傍にあるそれは虎に似ているか。
ともあれしごとを自覚することは
じぶんの遺影の想像につながるしかない。
秘された生のさなかで(Facebookペースト)
昨日、試写の帰り、渋谷のブックオフで買った
レナード・コーエン『テン・ニュー・ソングズ』(01)を
いまヘッドホンで聴いている。コーエン67歳時のアルバム。
声はより低くなり、より掠れ囁きながら
女性コーラスのなかに「潜る」ようになる。
男の老体が若い女に寄り添うようでこれがすごくエロい。
しかし英語の歌詞は単純でも含みをもつなあ。
ほとんどがラヴソングだとおもう。黙示録的な。
●
ウィキで調べると
『Dear Healther』という04年のアルバムが
コーエンのいまのところの最新作みたいね。
71歳時の歌かあ。
これも聴いてみたい(たとえ衰退相であっても)。
そうおもうのも、ぼくが70年代に好きだった
日本の詩作者が
いまみんな60歳代以上になっているためだ
●
『テン・ニュー・ソングズ』のブックレットにある
三浦久(コーエンの歌詞の定訳者となっているひと)の
訳詞に反対。ニュアンスがつかめていないのだ。
以下、「イン・マイ・シークレット・ライフ」の第一聯を
三浦訳、阿部試訳の順で並べる
●
【三浦訳】
今朝あなたの夢を見た
あなたの動きはとても敏捷だった
過去を握りしめた手を
緩めることができないみたい
あなたがここにいてくれたらなと思う
他の誰も近くにはいない
ぼくは今でもあなたとセックスしている
ぼくの秘密の人生では
●
【阿部試訳】
今朝きみの姿をみた
きみはとても速くうごいていた
ぼくが拳で握り固めた過去を
バラバラにはできないみたいだった
きみはもうずっと居ない
だから見回しても誰もいないのに
ぼくらはいまだにそこで性愛に耽っている
そこ--秘された生のさなかで
●
ちなみに元詞は以下。
I saw you this morning.
You were moving so fast.
Can't seem to loosen my grip
On the past.
And I miss you so much.
There's no one in sight.
And we're still making love
In My Secret Life.
くじら
【くじら】
ゆみ。あれは。
あれはよびだせないが
とおさであることだけはわかっている。
まるさがまるさをささえる
かさなりのひかりであること
わすれられないなまえのなかに
しずんでいるわらいであることもゆみ。
たいらというたいらをおおっている
なみのあれをみつめていると
からだのなかにかんじられてくる。
ゆみ。あれには。
あれにははしらがつらなって
すきまもすんでいるようだ。
すきまがたもたれたまま
ぜんたいがどこかへながれてゆくみたいだ。
ゆみ。じぶんをしぼって
あれへむけてひけ。
こえをあたりいちめんにしぼりとれ
おんがくのかなしみをゆみ。
このほしのおおきさにわかつために。
自己確認メモ8
詩(作)に接しているとき
認識は不整合性(≒狂気)にふるえ
それが言語構造の確認にもおよんで
詩を起点にしての世界の増加を確信する。
ヴィトゲンシュタインの詩的直観は
精確さから出来しているが、
たぶんそこから付加されるものが
特有的に詩にはあって、
詩はその意味では一種
「残滓」を形成する分野にただよっている。
その「残滓」はどのようにでも呼称可能だ。
たとえば「肉体」、たとえば「感情」、
たとえば「フレーズ」。
けれども肝腎なことは
それが清澄さを圧縮した次元で
不整合性をも湛えていなければならない
という銘記だろう。
その場合には詩語とか非詩語とか
選択形式上の問題があらかじめ超えられている。
穴
【穴】
あなたであることがとつぜん祝福されるとき、はこばれ
てくる風のようなものがあって、着ているもののたもと
はそれでみなふるえわらう。だれもが身の芯に墨をつら
ぬいているので、もともとさまようことが書くことだっ
たりもするのだが、たとえば梅林を行き来するあるきな
どはそのまま墨滴の無駄にしかならないから、たもとを
ふくらませているひとびとも、その集団性がくおんにさ
みしいということにしかならないだろう。ひかりはどこ
にあるのかといえば、ただ事物のすきまにあって、世界
とは、成立していることのすべてである。そういうこと
なら、行き交いをつうじて刻々うまれてくるたがいの距
離の変化、その無限も、整理できないままただ世界をな
していることになって、けっきょくたもとからひらいて
いる肉体だけが、世界ではないもの、つまり奥にいざな
うきっかけに終始してゆくだろう。それを墨滴とかなし
くよんだ。ひとはぐうぜんにたちどまって、ふだん恋人
にだけみせている美のくずれを風景にもかかなければな
らない。そうした当為を性的なもののみに限定するのは
むろんあやまりで、とおくからひびいてくるひとつ多い
穴として、ひとはただ橋のむこうにかすめばよい。行き
交うことと近づくことのちがいもまた、世界を原理的に
つくりあげている。むしろ定点は祝福として、みている。