ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

革命のための十行

 
 
【革命のための十行】


はすかいに出ているものは
どちらだって序曲になるとおもうが
ある日ブーメランがとぶのをみて
空を背景にしたその一軌跡に
はすかいが内包されていると知る
なんだそういうことか
ならば歯を奥ふかく舐めるのも
口中をブーメランにすることなんだ
そうやってただ自分のあたまを
わすれないようにする
 
 

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2011年04月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

植物人

 
 
【植物人】


せつじつであることは
加算できないのに
せつじつをかさねて
ひとは青くなろうとする
さくらのしたに横たわって
ほんとうは青いものを
さくらいろにただみあげて
せつじつの分割不能そのままに
からだものびきっているとき
そのひとがひとであることすら
さくらいろすぎてかぞえられない
 
 

2011年04月27日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

逆性

 
 
【逆性】


やせさらばえて、ふもとの草をはんだ
その退屈が罰せられるのだろう
注射器で逆性石鹸をぶちこめ、というのは
今後のまばたきを規定する
いわゆるまぶたのことばだろうが
殺処分はあのからだへとともに
牛がつらなって生じていた
群れの内骨格へもくだされる
海のようなもののひろがりがただ数にみえて
処分するひとの知覚がまた哲学になる
これ以後は牛に似た雲にも骨をみるだろう
 
 

2011年04月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

最近、ひとに話したこと

 
 
金曜日の鮎川賞授賞式の場で井坂洋子さんに話したこと。

井坂さんの詩は、
音律性の高い詩文、小説的散文(しかし欠落もある)、箴言的フレーズの
有機的混淆体(つまり中間性)として書かれていて、
そこでの解けない喩によってこそ
井坂さん自身の思考、予感、記憶、生活報告、身体把持実感、風景が
ゆたかに回転延長している。

だから読むごとに読み手の印象に浮かぶものも変わり、
それで再読誘惑性が他の詩作者にたいし異様に高い。

その詩に特有のゴージャスさがあるとするなら、
中間性のもとになった文章因子に、
因子固有の最高峰がそれぞれ築かれていて、
諸文芸の可能性が連接的にひらかれているからだ。

云々

そういう井坂さんの技量と個性が
完全に開花したのは世評のように『嵐の前』なのだろう。

特色として特記しなければならないのは、
それぞれの詩篇が上で書いた性質のゆえに
「憶えにくい」ということ。

けれどもたとえば巻末の「海浜通り」のような例外もある



金曜日の鮎川賞授賞式で中本道代さんに話す。

「中本さんの詩は切断が男性作者のように熾烈で、
すくないフレーズの背後に
思考を厳密に向き合わせることがしいられます」。

中本さん曰く
「わたしは実は詩篇を削ったことがなく、
それぞれの詩篇はほぼ「書いたまま」の全体。
書くことが少ない。
また言葉を出す速度も遅い。
書かれるままにそれぞれの詩篇は
ゆっくりと小出しに仕上げられてゆく」。

一番驚いたのは
そのやりとりを横で聴いていた井坂さんだった。

井坂さんと中本さんは同齢で仲良しだが、
『朝礼』でデビューした井坂さんは70年代詩人、
「ラ・メール」で一世を風靡した中本さんは
80年代詩人のような気がします、
とぼくはその席で印象をのべてもいた

ともあれ中本さんを、杉本真維子さんや近藤弘文くんの同類、
つまりツェラン型と捉えるのは早計だと改めて感じた



金曜日の鮎川賞授賞式で中島悦子さんに話したこと。

「中島さんの詩は断章形式の詩集空間への導入に
見事な手柄があった。
コント、箴言、詩文など分立的なものが
空白行と序数をともなって一堂に介しながら
点滅的な世界をつくるが、
その点滅にこそポップさと生成性が現れていて、
『マッチ売りの偽書』はその時点での
最大の方法論的開拓だった。

「パーツの配分」をしたのは
切り貼り名人の稲川方人さんだが、
あれは装丁家としての彼の仕事のなかで
最も「明るい」ものだった」。

中島さんは詩作者デビューののち
空白があるようにみえるが、
ずっとその一見の空白期にも
同人誌などに詩篇は発表されていて、
経済的に詩集刊行の機会がなかっただけ。

その意味では杉本徹さんなどと経歴に類縁性をもち、
廿楽さんやぼくとはちがう



ちかごろ三村京子に話したこと。

「想像力の「基底」とは、
3×3のスペースに8のパーツが配されて、
混乱からひとつの画柄を完成させる
あの簡単なパズルのようなものだ。

9個に1個、空白がないと、
のこり8パーツが動かないし、
その空白に実体験が入ることでも一種の「伝導」が起こり、
パズル解き(パズル完成)が動く。

この想像力によるパズルは、
完成形として予定される画柄があるわけではなく、
影響源によってその都度、志向される完成画柄が変わる。
その画柄は影響を起源とする中間性・暫定性にすぎない。

中間性は、中間性であることそのものから、
他ジャンルの混淆を予定する。

だからたとえば写真をみて
音楽が発想されるということもありえる。

自分に空白をつくることが必要だ」
 


自分をゆるめる。calmにする。
ある体験があれば、それを利用し、
体内の空白を舞台に
身体的な諸記憶をぶつけて触れ合わす。

それはたしかに「体内摩擦」にも分類されるだろうが、
そこではゆたかな音響すら拡がっていて、
身体容積はすでにその物理性を超えられている。
これを一個体における超コード化と呼んでもいい。

だから自己信頼に再帰性が伴わないことなどありえない
 


金曜日の鮎川賞授賞式の会場で
倉田比羽子さんへの紹介の労を
瀬尾育生さんがとっているのが可笑しかった。

倉田さん「会いたかったあ。
でもこんな顔しているとは意外だった」。
阿部「そう、書くものだけをみて、
芥川龍之介のような顔をしているとおもってたー、
とはよくいわれるんです」。

瀬尾さん「このようにすごく「うるさいひと」です。
福間健二さんと関富士子さんとの朗読ジョイントの打ち上げで、
そのうるささを倉田さん見聞しているはずですよ」。
倉田さん「わ、憶えていない」。

瀬尾さん「阿部さんとは付き合いが旧いのです。
十年ほど前、習作期の阿部さんの詩を
福間さん経由で見たことがあって初めて話したんだけど、
そのときぼく、間違って褒めちゃった(笑)。
あとで福間さんには褒めると
阿部君は付け上がるからマズかったといわれた。
その結果が現在」。

阿部「褒められてなんかいないですよ。
ともあれ多言を直せ、詩は削れ、とキツいお言葉を戴き、
それを守って奮励刻苦しただけです。
瀬尾さんには感謝してますもん」
 


以上はすべて空白と削除と混成のはなし
 
 

2011年04月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

音の沖

 
 
【音の沖】


音はひかりより運動のにぶい同時性で
それじたいに遅差をふくむ空気にすぎない。
だから音は場所へ定着するように消えて
ひかりが永久に経巡るのとは出処を異にする。
じっさい音は響きつづけてはなくなった。
音は躯が健全のときは波とかんじられるが
心がよわまる晩期はけむりとなって眼に傾く。
音と弁別できないかたちでなかに人も居て
人であれば終わりない連奏へいたらずに去り
あとにはつねに感情のゆらめきがのこった。
そんなゆらめきをさそうものとして波間の
弦楽器、木管楽器のくらいうかびも懐かしく
相馬の沖は凪ぐ、人たちのように凪ぐ。
 
 

2011年04月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

てらすためにあるもの

 
 
【てらすためにあるもの】


まばたきをすると
まぶたにはちいさな
つつみができ
水とともに
おりてきた拍数で
視界がいっぱいになる
みると出窓からも
なきひとのしろい腕や星が
たくさんひるがえって
みな間奏のようだ
 
 


そういえば、ポール・ヴィリリオは
『アクシデント/事故と文明』で次のように書いていた。



実際、事故は、共有世界の実体を押しのけて、
突如として居住可能なものとなった……。
これこそ、「全面的事故」、つまり、
われわれを全体的に包含し、
ときには物理的に解体しさえする事故なのである。



上の引用のあとには次のような箇所もある。



そうした住環境からは、
「外的なもの」が突然姿を消してしまって、
「内的なもの」だけが残っている。
この内的なものとは、
ヴィクトル・ユゴーが
「外界は、自己の内側でみるべきだ」
--窒息状態の強烈な証明だ--
と説いたとき、
強く求めていたものだ。



時代は変わる。
それ以上に「視覚が変わる」。

上の詩篇はその確認だが、
語彙そのものは
ドゥルーズ+クレール・バルネ『対話』の一節から
ほぼ借用した。
 


「視覚の変貌」は
現状をおおっているのに
予感的な事態へといつも変位する。

端的にいえば、
視覚をつかさどる器官が
もはや眼ではなくなり、
完全に脳になった、
ということなのだが、

こういう極限をかんがえてみる。

自分の首が刎ねられ、宙を舞う。
そのとき頭のなくなった首の切り口が視られる。

視たのは眼か。
いや頭、
つまり脳、と直感する者が多いのではないか。

「視覚の変貌」はそんな極限性の手前にある現象だ。
手前にあるかぎりはつねに「上映」されている。
 
 

2011年04月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ネット上に文書はどう蓄積するか

 
 
あるとき心血を注いで書いたものにも、
のちのち恥しいとおもう文があるだろう。
現在時の判断は往年の熱情を通常はわらう。

ましてやそれが未熟な世界観に貫かれていたり
部分的に認識の誤謬があったり
さらには書いた当時に気づかなかった
記述上のミスが存在している場合には、
その文書を消したいとおもうことも
あるかもしれない。

それでもその文書には
作者こそがわかる「心血の痕跡」のようなものがあって、
大方はそれが精神集中の証左ともみなされる。

書いた経緯の細部を忘却し、逆に
いまは「こうは書けない」という判断も生じて、
それが自己の持続を別方向から照らし出し、
そうして結局は曖昧に自己が「存続」されることになる。
多くは自分の書いたものがそのように
自己充填的に処理されているだろう。

つまり曖昧さのなかにいる自分が肯定されるのだが、
その曖昧さとは自己注視の視線の方向が
論理的に「どの方向か」思い描けない点にこそ
起因しているのではないか。
私が私を見やる方向とは方向ではなく空気なのだ。

ところが最近、松下育男さんの「詩のブログ」で
松下さんは過去の素晴らしい文章群を
ばっさり削除してしまっていた。
きっと「自己査定」がぼくの測り知れないところで厳しいのだ。
これにはかなりの衝撃を受けている。
どういうことなのだろう、と。

ネット上の文書の蓄積を
ぼくなどは普段さほど意識しない。

たださっき久しぶりに自分の名でググってみると、
外部ブログに書いた文書にも
単独のコンテンツになっているものが多いと気づく。

それは誰かのブログなどに
リンクを貼られた文書、ということなのだろう。
必然的に「追悼記事」が多くなっていて、
それらはぼくの外部ブログ自体を入口にするのではなく
ネット上の二次使用後に流通したらしい。

結果、朝倉喬司さんや佐藤真さんの追悼記事などは
ぼくがいまみて吃驚するくらいの拍手数を獲得している。
最近では「地震後におもったこと」などが
結構、アップ時から日数が経過しても読まれているようだ。

それでネット上の文書の流通が
書いた当人にとっても不測的だという事態におもいいたる。
それは「ぼくを知ること」ではなく「検索」によってこそ
不特定者に読まれているのだ。
むろんそれがのちのち「恥しい文書」に映っても、
文書そのものが未知の読者に触れることは
「書き手冥利」に尽きる、と通常はおもわれるだろう。

しかしたぶん松下さんはそう考えなかった。
文書は理解者の心のなかに温存され、
もしかして忘れられることでこそ
本源性を獲得するのではないか。
それがネット特性にもたれかかって
半永久的にピックアップされることに
心情的に耐え切れない、ということなのだろう。

文書はもともと読む者がつくるものだ。
その外形も内容も読者の恣意性によって変化する。
この変化の可能幅をあらかじめ測定する義務のある者、
それは当然、作者だ。

そういえば松下さんは杉本真維子さんの述懐を
エピソード的に拾っていた。

自分(杉本さん)は、詩篇を書き終わって間を置き、
それを再読(音読)する。
そのとき自分の詩篇が恣意性によって読まれても
地上の誰もを傷つけないか、それを測定して、
自分の意識外でも攻撃性を発散する余地のある詩篇は
すべて捨て去ることにしている。

そのように述懐した杉本さんの態度を
松下さんは「詩手帖」の時評で絶賛していたのだった。
倫理的、と絶賛したのではないだろう。

詩篇が文書として自立性をもつためには
他者と野合してはならず、その「野合」の一環に、
無意識の攻撃性すらある、とみたのではないか
(むろんここでは悪意で書いた詩篇などは
もともと問題になっていない)

一見識だとはおもう。
しかしそれでは文書が潜在的にもっている
無方向(多方向)への連接能力が奪われてしまう。
「野合」と「連接」は、
たぶんその文書(詩篇)を書いた者が
特有的に見分けられない差異区分なのだ。

めぐりめぐってその詩篇が不測的に
特定他者を傷つけてしまったときには
作者は潔く責任を負い、
それによってその特定他者との連接を図ればいい、
ぼくなどはそうおもってしまうのだが、
それはたぶん松下さんの考える「清潔」とはちがうのだろう。
松下さんの「清潔」は「孤立」と似ているかもしれない。

ネット上に文書はどう蓄積するか。
その可能態的範囲は本当はまだわからない。
誰かがコピペして特定作者の文書を律儀にファイル化して
その思考変遷をリアルに凝視しているかもしれない。

この「まだわからない」に向けて曖昧にものを書くことと
自己注視の視線の方向的曖昧さが
それ自体似ているような気がするが、
この類似はとうぜん野合的ともいえる。
そこでは能産的な野合かどうか、
「程度」だけが問題になるということだ
 
 

2011年04月20日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

渡邊世紀・岡本芳一・ココア・山本政志

 
 
昨日試写で観た渡邊世紀監督
『VEIN・静脈』『人形のいる風景』の二本立てが大傑作でした。

後者は等身大のエロチックな女人形を、
黒子衣裳をかなぐり捨て異形の白塗りか面すがたで扱うことで
人形との凄惨な交接幻想を自己愛の不可能性の文脈でつくりあげる
土俗的な人形遣い・岡本芳一(百鬼どんどろ)、
その秘術と死ぬまでの生き様を追ったドキュです。
往年の土方巽が四谷シモンの人形と踊るような、
そんな複合性幻想の生まれる瞬間がありました。

岡本さんと渡邊監督がよく出会ったとおもう。
そういう「出会い」の幸福感が、
そのままドキュメンタリーの成功ともなります。

前者はその岡本さんの遺作舞台を映画に置き換えたもの。
ケネス・アンガー+ジャン・ジュネ+大和屋竺風のアヴァンギャルド、
少女凌辱と再生の繰り返しが痛ましい
「包帯萌え」「球体関節」の幻想映画でした。
こちらは泣けて泣けて仕方がなかった。
人形の表情がそうさせるのです。

その意味では人形遣いに肉薄しての文楽の映画化ともいえるものです
(川本喜八郎的な人形アニメとは異なるので注意)。
最近では北野武の『dolls』、
往年では溝口の『近松物語』などを髣髴とさせますが、
密室と隧道と雪景色と人形工房、
それだけの「あり合わせ」で撮影を敢行したのがすごい。
レンブラント光線型の「照明の詩性」にも気づかされます。

能の橋かがり的なものまで利用したスローモーな時間の湧出という点では
ダニエル・シュミットの『今宵かぎりは…』もおもわせます。
もちろん人形への熾烈な観念論という要素でいうなら
間近な例では押井守『イノセント』とも拮抗する。
ともあれすべての「アート幻想」がここでは豊饒に合流しています。

岡本さんの指定する音楽ももともとすごい。
ふたつのながれがあるとおもいました。
ひとつは寺山修司=天井桟敷型の和物前衛。
もうひとつは、プラスティック・ピープル・オヴ・ユニヴァースから
ドゥルッティ・コラムに代表される80年代ニューウェイヴの
ヴァイオリン・ミュージック。
ただし、『VEIN』では男女混声アリアが圧倒的でした。
すべて音楽によって人形遣いの「作劇」が増幅されている面があって
音楽ファンも必見だとおもいます。

今年試写で感銘を受けた邦画の二本目です。
この二本立て興行は六月下旬から渋谷アップリンクで。



さてその試写で
この春卒業、新入社員二週間目のココアさんとバッタリ会いました。
批評家ぼくひとり、
媒体は「芸術新潮」のココアさん一人というなかでの奇遇。
春らしい服が色白の顔に似合いました。
結局は監督、監督の友人たち(スタッフも)、
さらにはココアさんが呼び出した高木くん、三村さんも交え
昨夜は呑んでしまいました。



このところ「映画づいて」います。

今日は山本政志監督『スリー☆ポイント』の
「図書新聞」への映評を書き終えました。
この作品は東京では五月中旬、渋谷ユーロスペースで公開。

山本政志に駄作はありませんが、
この作品はオムニバス形式の新しい可能性を伝える傑作。
以前の『ジャンクフード』がベンヤミン的だったのにたいし
『スリー☆ポイント』はドゥルーズ的とはいえます。
その全体構造をしるすのに紙幅をつかい、
記事はやたら分析的になってしまいました。

命題:「リズムは無時間へと再生成されるか」
「無時間はリズムへと再生成されるか」

山本監督がほどこしたオムニバス数字の「3」は
「2:←1」という構造になっていて、
この「1」が「点滅の作用性」そのものだったりします。

この点を見抜くと「おもしろかった作品」がさらに戦慄的になります。

もちろん蒼井そら、カワイイです。村上淳はその倦怠がうつくしいです。
 
 

2011年04月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

まなポンさんのミクシィ日記に書き込んだ文

 
 
>家を流された年寄り達はそれでもまた以前と同じ場所に家を建てようと言いはじめています。
随分非合理なと思われるでしょう。しかしそれはそこが先祖代々の土地だからです。こういう場所のひとびとにとってはそれが全てだからです。

この一節にとくに感銘しました。

スッカラ菅が二度目に被災地訪問したときだったかに
官僚の言い草そのまんまで
被災地の壊滅的になった平地には漁業関連施設をつくりなおし
住宅地は高台を削って大規模な宅地化をおこなうべきだ、
とか、のたまわっていました。

これは今後は20メートルの大堤防をつくれ、同様の空論です。
一律性のみに依拠した、ブルドーザー発想だからです。
「市民運動家出身」も「国難」にたいしては想像力が乏しいから、
ただ土建屋の仕事をおもいえがいてしまう。

被災地の復興にさいして、やるべきことのあまりの多さから
(多事性のみならず、多層性、広域性もそこにかかわる)、
被災地全体を一時期国有化しろ、という暴論もありますが、
それもまた賠償額支払い不能の、東電国有化とは話の次元がちがいます。

まずは県に予算をあずけ、市町村にそれを下ろし、
市町村単位で復興デザインをおこなえるような多様性を確保すること。
往年の町並み復興論がそこで出るかもしれない。
そのとき津波対策がどうなるのか、と問われるかもしれないが、
もしかすると「わたしたちは千年ごとにほろび、
千年ごとに復興する権利がある」といった
政治性とはべつの権利意識までもがもちあがるかもしれない。

風景を喪失した痛みは当事者にしかわからない。
それを土建屋発想で一律に均すなんて、もってのほかだとおもいます。
このとき、いつもながら道路幅と消防法が悪用される。

震災復興の予算化は国の問題ですが、
復興デザインの多様性は地方自治の問題で、
東北の復興が今後何かのモデルになるとすれば、
地縁復活(マンションなど建てられてはならない)、
風景復活、質実化復活(反奢侈性)などの
国家政治とはちがう「哲学」が樹立されるときだとおもいます。

そういう「哲学」こそが応援されるべきで、
「つながろう」「あなたたちは孤立していない」などの
AC広告-芸能人-スポーツマン的な「掛け声」は
ただむなしいだけですね。それらは実際「上から目線」だし。

まなポンさんが書くように、
今回の震災では三陸などの津波被災地域と、
福島浜通りを中心にした、原発被害が如実に加わった地域が
峻別されるべきだとおもいます。

浜通りと周辺の幾つかの山村、さらに海は
百年単位で立ち入り禁止になり、
農業・林業・漁業・牧畜等が廃絶されるかもしれない。
チェルノブイリ周辺は実際いまではそのようになっていて、
そこにこそ「国有化」(避難者救済のために国が土地を買い上げ、
生業途絶を補償する)をかんがえる余地が生まれる。

「画一性」イメージが不当に蔓延したこの国ですが、
むろんそれは「中央」とTVの
傲慢な画策によるものにしかすぎませんでした。
けれども広域の立ち入り禁止地区が出現せざるをえないことで
日本の「画一性」神話が「実際に」崩れてゆく。
このときも脱中心性の政治哲学が機能をはじめなければならない。

復興をデザインすること=地域ごとの多元性をデザインすること
=「中央」の横暴を切り返すこと。

これはものすごい難題だとおもいます。
けれども克服する意義のある難題。

おもえば原発事故の処理、首相交代と大連立、被災地ごとの復興、
風評被害の停止、原発依存からの長期的転換、
増税と国債との選択困難、近隣諸国からの非難、国内外国人の流出など、
「ちょっとやそっとでたちゆかない」膠着的事態に
これほどこの国が一挙に包まれたこともなかった。

ぼくは若いひとの生き方にも変更が迫られるとおもう。
とくに自分の欲望を縮減する方向に。

で、ぼくらのような中年は
もう死んでもいい、という自意識を
いかに哲学化・行動化させるかに
今後、自分の存在意義が賭けられることになってゆく。

まあぼくは、それでこのごろ書くものが変わったんだけど。

あとは学校で話しましょう
 
 

2011年04月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

たまにはかいぶつ句会のことを(震災句について)

 
 
昨日はかいぶつ句会。
今回の投句時期は、「3.11以後」だっただけに
さすがに同人の詠草にも「震災」が目立った。

むろん俳句の一要素が俳味禅味だとすると
下手に凄惨な震災を盛り込むと
俳句という器まで壊れてしまう。
震災とは激甚な挑発材なのだ。

句会は、完成した一号ごとの同人誌の手渡しと
それ以外の投句採点合評会で構成される
(あとはとうぜん愉しい雑談もある)。

その合評会で集計最高点をとったのは
フジテレビ・アナウンサーの阿部知代さん。
句は以下。


ともに咲きそれぞれに散る桜かな


ぼくはこの句には点を入れなかった。
音韻が俳句としては良すぎるのと、
発想がやや月並ではないかと危惧したのだ。

ところが榎本了壱さんの解釈を聞いてハッとする。
この句はさくら開花の常態を詠んだものとみえつつ
句の裏に、


それぞれに咲きともに散る桜かな


が隠れているというのだ。
その隠れたものが指標するのは
「ともに散る」の強度から
今回の大量の被災者なのではないか、という。

一見「震災詩」とみえないものに震災の実質が隠れる、
そういったひねりが俳句であり、
しかも句が月並への逆転として現出した点に
祈りと哀悼と静謐感もある、ということだろう。

そう指摘されて、一挙に句のみえかたが変わった。

ぼくが個人的に最高点をつけたのは、
南々桃天丸さんの以下の句。


千年の揺れのさなかの睦かな


睦(むつみ=まぐわい)をもちだして
「千年(ぶり)の揺れ」を脱権威化する俳句的反骨。
睦みをやめないのではなく
地上がゆれるならなおのこと睦もうじゃないか、
というエロスの気概。

たとえば大晦日と元旦にまたがる性交を
「二年越しのセックス」とよくいうが、
あの揺れは「千年越しのセックス」のチャンスでもあった。

俳句はわらう。かなしんでわらう。
それで大局ができ、市井そのものも大きくなる。
桃天丸さんの句の不屈が、俳句の本懐とおもえた。
同時に感性の「震災」への正しい対処法とかんがえた。

ぼくは合評会には「震災句」を出さなかった。
出したのは以下の二句。


花烏賊の流れをひめる女身かな


尼の名に似ることなりき春眠は


これらはショボショボと(例外的)点数をいただいた。

ただし同人誌のほうには「震災句」を出した。以下八句。


地震〔なゐ〕来たるとき宙にあり紙風船


みちのくに極大悲の雛流しあり


瓦礫つむ道端のいま春うれひ


花守も用なくなれば男身仏


出歩かぬままうつしみの花疲れ


津波知る今日の鰆の青きかな


地震〔なゐ〕酔ひで重たき日々のしやぼん玉


いかなごの細ければみな北にゆけ


悲哀に濡れすぎて、俳句になっていない
(むしろ和歌的)とおもい、
合評会には出さなかったものだ。
古語「地震(なゐ)」も和歌には馴染むが
俳句では違和を個人的に感じる。

なお最後の一句はコウナゴの出荷停止報道の前の作。
報道があったときは符合にゾッとした
 
 

2011年04月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

茨城沖

 
 
【茨城沖】


さくらの満開のしたで
春の咳をしたひとは。

海底のおるがんをおもって
のうずいを青くヤラれ。

からだのとぐろもどこか
こころもとないようだ。

あたえるとはほんらいなら
終始、肉のことだが。

そのほそさで北にむかう
コウナゴには肉がなく。

なのにしょうゆで煮ても
きえない負荷をおびた。

でもあれはひかりだろ
基準値などないひかりだろ。

潮に拠るだけの水生は
水のすきまを数でただようと。

さくらの満開で煮られ
核の咳もしたひとは。
 
 

2011年04月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

急用

 
 
【急用】


わたし、
甲状腺をもつ、えがしら、この者は、
科学のケツ抹を手にいれる
ために、
用なしになれば
フクシマをゆくだろう、
廃墟見物ではなく、
廃墟との接続を
からだに固定する
ただそれだけのために、
性急な動作をして、
この身体のやり損ないに
またあらたに身体の数を挿し
このものの範囲に
このものをふやすような
同心円までも演じるだろう、
なぜならえがしら、この精嚢が
ずっと不妊であっても
すでにおおくの
変型をうんできたのだから
わたし、
前方にとりかこまれなければ
ならないこの者は、
「国債-増税」背反のきしみで
ひたすら前方から力をうける
無銭のカネとなり、
じゃらじゃらもまた
ただ身のうちに鳴るだろうが、
はたらいておどって
それでは用なしにおける
用ってなんなのか、
つまりえがしら、機会を
廃墟にリーチさせない
その急用とはなんなのか、
こう自問すると、
急用も自動改札口の
ながれに筋をなし
えがしらとして、ただ
みえているだろう。
 
 

2011年04月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

厄鳥

 
 
【厄鳥】


鳥が除外されている災厄は
ぜつぼうだろうか希望だろうか
大地をゆれが襲い津波が覆ったとき
襲や覆といった怖い字の
どこにも鳥はいそうで既におらず
飛翔とわめきがみちていただろうに
その空もひとの頭上にあることを
とかれたまま鳥以外をひかっていた
鳥は一瞬を大量にきえた
みえないすきまをただ怖れのまま
鳥たちがながれ森をめざしたことで
みえなくなることを神性のように得たが
それでも鳥もしろい海鳥も
軒や岩にこしらえていた巣をうしない
肢をたたみ数夜をとびつづけて
どんどんただのうなりに近づいていった
そうして津波よりも波長のながい
音楽にのみなろうとした
森をやすみの場とすらしないで
災厄後ひかりつづけるめまいの空を
自分たちすべての巣窟にしようとして
鳥はあらぬ方向への伝達となっていった
そのように散ることは崇高だが
これら伝達はことばでもないのだから
ことばの内側のような場に
ひたすらにぶく蓄積されるだけだ
場が場をうしなって絶望光を発するために
鳥の群生がかりだされるとは
この世の分配のためのなにごとだろう
おおくの鳥はまだとびつづけて
るふらんと見分けがつかなくなっているが
鬱血をこのむ魔族が鳥のうちにはいて
それがはじめに瓦礫を巣にしようとする
そのような分配が生じる気配に
こころなどなかった鳥までもが
すべて悲へと染められてしまった
 
 

2011年04月06日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

バンちゃんについて

 
  
4月1日海上保安庁が救出した東日本大震災の津波で宮城県気仙沼市の沖合約1.8キロを漂流していた犬が、4日飼い主さんと再会することができました。
名前はバンちゃん♀2歳。
津波に襲われ住宅の屋根の残骸の上で3週間漂流して生き延びることができ飼い主さんに再会できて本当によかったです。



とまあ、こういう「心温まる」ニュースがあって
これが寓喩となるのはどんな点からだろうか。

1)孤立の意義

バンちゃんは「たった一匹」で漂流をつづけた。

いっぽう犬にかんしてはもうひとつ、
東日本大震災で大きなニュースがあった。
福島第一原発の半径30キロ内の「同心円」地域で
避難のために泣く泣く飼い主たちが手放した犬たちが
次第に「群れ」をなして野犬化し、
当地にまだ居住する人たちを噛むなど、
狼藉を働きだしたというニュースだ。

狼が起源である犬の本質は群れをなすこと。
この「群れであること」で本来の血が呼びもどされると
犬は多様体の意志となって
みずからを脱領土化させ、
大地という平滑空間に自在に逃走線を引き始めることになる。

野犬たちのボスが何者かという問いは成立しない。
犬の群れ全体がボスで、
犬は群れであることで多様性をはらむ全体になる。
そこにあるのはひたすら動物的な命脈だ
(これは被災地の人びとの
地縁をもとにした相互扶助的「群集」性とはまったく別だ)。

このときに「活力」は群れの成分の相互反射によって生まれ
大地には犬の集団のかたちをしたつむじ風ができる。
となればペット化されたことで犬の何が縮減されていたか、
それを悟らせるこのニュースは「畏怖」の文脈で捉えられる。

他方、ふりかえると「バンちゃん」は
ずっと海上に孤立し、群れとなる機会を清潔に奪われていた。
だから人間にたいする郷愁と憧憬を保持しつづけた。
海上保安庁の船員が「バンちゃん」を
瓦礫から引き上げた際の映像にも
「バンちゃん」の人間にたいする親和性がみてとれ
そこからは「人間化したもの」、「人間の顔貌をもつもの」のもつ
本質的な融和力が感じられた。

2)転用の意義

「バンちゃん」の生物的叡智は、
おそらく引き波、押し波という複雑なうごきをもつ津波に対抗して
瓦礫の浮遊物という、身を置くべき回避場所を見出し、
それを舟、あるいは自分の住居とまでした転用力にあらわで、
しかも住居に住まう方法は
第一には身体バランスの保持にしかなかっただろう。
生存神経はたぶん生じていた睡眠の時間でも発動された。

瓦礫は文字通り瓦礫だ。それはマイナス物の集積にすぎない。
被災地報道は瓦礫がアスベストを中心とした粉塵、
さらに病原菌腐敗によっていかに屍毒化し、
それが新たな脅威となりつつあるかをいま告げている。

つまり「バンちゃん」の海上の宿は害毒で構成されながらも
それが逆転的に命を保持する場所として「転用」された、
という図式が顧みられなければならない。

最も厳しい想像は「バンちゃん」がなぜ
三週間もの海上浮遊を生き延びたのかという点を
問い詰めることから招来される。

まず海水はあまり呑まなかったろう。
それは実際には飢えを招く。
そう判断したのは動物的本能によるかもしれない。

つまり「バンちゃん」は1でしめしたように、
孤立をつうじ野犬化する道を防がれながら
しかも動物性を保持する、という二重性を生きつづけたわけだ。

驚くべきことだろうか。
ちがう。それはよく考えるとペットの通常性にすぎない。
ペットはもともと孤立状態であることでペットなのだ。

バンちゃんはむろん人間ではないのだから
「ひかりごけ」『野火』の問題系など生じない。
つまり何によって栄養補給をしたのかと問えば、
浮遊する人間の死体もその対象になっただろうという
想像が自然に頭をもたげてくるが、
その内容はむしろ暗部をもつ動物性の奥行きとして
尊厳化されなければならない。

動物にはその動物特有の「生存系」が奥深く印刷されていて
それは人間と同型でありつつ同型でない。
こういう多様性の突出が、動物への畏怖と愛着を生じさせる。
そう、この点こそが、この寓喩の産物として捉えられなければならない。

3)「物語に似たもの」の意義

カフカ的寓喩ならば物語は存在しないか
あるいは謎を最終産出するための方便にしかすぎない。
カフカだけが物語を外在化させる「線」を物語にもちいず
すべてを閉域へと内化して
そのなかの動物的生成を脈動としてつたえる。

それは構成素が他の構成素とむすびつくだけの運動だ。
そこでは余剰が遮断されて、
それ自体の構成素の瞬間的現前しか問題にならない。
経緯、推移だけが対象化されるという点では純粋音楽に似ているし、
教訓、要約可能性などのメタレベルが成立しない点では
それは小説の形式が借用されながらも小説から遠いものだ。

漂流犬の発見という第一報段階では
たぶん飼い主は津波に流されて行方不明なのではないか
という悲観論が取り巻いたが、
バンちゃんはそれに風穴をあけた。
飼い主がTVで飼い犬の生存の姿を確認したのだった。

結果、飼い主との再会という次段階も呼び出されたのだが、
それははたして「物語」だろうか。
むしろこれも、無調にさまよっていた楽音連鎖が
転調をほどこされメインテーマ復帰した、というような
音楽上の「運動」にすぎないのではないだろうか。

動物に、その生気からの「音楽」を聴かなければならない。

飼い主が現れて「バンちゃん」は悦びのあまり
尻尾をちぎれるばかりに振り、
中腰の飼い主の顔あたりに跳びあがってその顔を舐める。
その振舞い(あの柴犬を基盤としたミックスという血脈がしめす
垂れた耳や口のまわりの黒さの風情!)は
たしかに「メインテーマ復帰」として感動的だが
決してそれを擬人化の文脈で捉えてはならないだろう。

みてきたとおり、
「バンちゃん」は人間的顔貌化という「作用」を分泌しつつ
たえずそれを動物性に裏打ちされた
崇高な二重性を生きているにすぎない。
そしてその二重性にこそ音楽が宿っているにすぎない。

ただしこのときに中心性が欠落しつづけるはずの寓喩に
たしかに中心性が灯り、
それが物語機能の近傍に位置づけられることになる。

「バンちゃん」はこのようにして物語に似たものの効用を告げたのだが、
注意しよう、それはけっしてことばによるものではなく、
あくまでも「仕種」によるものだった。

ともあれあれは「仕種」のもつ音的な波のうつくしさだった。

それを結末としたゆえにこそ
「バンちゃん」の漂流も称えられる。
しかしその漂流もまた、「苦難にみちた」という形容をかぶせると
ただ人間化するだけで、
「バンちゃん」から本当の尊厳が失われる点には
注意しなければならない。
  
 

2011年04月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

自粛ムードについて

 
 
いまあたりをおおいはじめた、自粛ムードにたいし
賛同するか反意をしめすかといった論議を目にするにつき
ふとおもいだされるのが、
ベンヤミン『ゲーテの『親和力』について』の最後にしるされた、
うつくしい、しかも謎にみちた次の一文だ。

《ただ希望なき人びとのためにのみ、
希望はぼくらにあたえられている。》

この文が「謎」を発散するのは、
限定辞と主文の関係にみられるようにズレがあるためだ。 
しかもどこかに気風継続の気概も籠められている。

現在、東京で過ごすひとの眼前には
計画停電の不安や一部商品の不足以外は、
ただ平穏な徴候があふれているとおもう
(液状化被災地は別にして)。

ところがその「眼前」には距離を保証されたかたちとはいえ
TVで見聞できる映像もあって、
それらが具体的災厄から避難生活の苦難へと大勢をすりかえても
そこでは「哀悼」にただうながされる徴候もみちあふれている。

人間は悲劇的対象をミメーシス(模倣)するときに
宗教的経験にしたがえば
本来なら自己縮減にではなく自己拡張に向かうものだが、
その動きが自他(彼我)の落差の冷静な自覚のために
どうしようもなく疎外されているというのが
高度情報化社会の必然というべきなのかもしれない。

「彼ら」をおもう(哀悼する)という心情を保持したまま
被災の渦中にいなければ仕事なり何なり
とりあえず(たとえば節電努力をしたまま)
自分の「日常」を貫徹するのが通常の当為だ、という言い方がある。
あるいは自粛が蔓延すると経済的沈滞が加速し、
被災地復興に向けての活力も結果的にそがれる、という言い方もある。

むろんこれらの言い方は一面の真理を言い当てているだろうが、
ここでの自己拡張の主張は功利主義的な次元を出ていない気もする。
彼我のズレが計測されていても、
そのズレが「我」の側にのみ回収されすぎていて、
〈「我」と「彼」のズレ〉そのものを哀悼し
その哀悼を希望にもふれさせることで、
さらに〈「我」と「彼」〉をまるごと拡張させる、といった、
先に引用したベンヤミン的な信念を
欠落させているようにみえるのだ。

すごく難しい「差異」をもちだした気もする。
ならばここで視点をさらに付加してみよう。
そのときチラリと話題に持ち出したなかでは
「ミメーシス」にさらに照準が当てられることになる。

はじまった復興報道のなかで感動にみちびかれるものがあるとすれば、
そこに「複合性のしるし」があるものが多いと気づくはずだ。

たとえば姉妹都市の関係にあるものが独自の努力で
被災地に救援物資を移送した。
これは機能不全を繰り返している国にたいし
局所と局所が複雑な線でつながれてゆく「複合」といえる。

避難所そのものがただの受難や疎外の場所ではなく
被災対策の司令部、避難所、自主講座的学校の「複合的」機能を備え、
限定空間なのにそれが町と見分けがつかなくなったという報道もある。

あるいは壊滅的になった港に最低限の浚渫作業が施されるや
関東を中心とした漁業従事者がその港に自分たちの船を入れ、
そこから救援物資を運んだというときには
平滑空間である海に複合的な海路が開かれだしたことを意味する。

さらには壊滅した町は次は被災対策を講じて復興されるだろうが、
そのデザインと写真にのこされた往年の町並みが
一律的な行政指導に従うことなく「複合」されるべきだという
議論もすでに生じつつある。

そのときに、地方格差に塗りこめられ
高齢化にもぬりこめられていたたとえば往年の三陸に
新しい是正が「複合」されなければならない、
というのも当然だろう。

要するに、あたらしい幸福のかたちが
復興を機に「複合」されるわけだが、
となると物質的欲望に彩られただけの旧来の幸福も
複合的な変化をもとめられているということになる。

哀悼を保持したまま被災地の動性への模倣がおこなわるとき
もとめられているのは哀悼を模倣する、という再帰性ではなく、
兆し始めた複合性を模倣するという発展性のほうではないか。
この発展性には、
自粛/脱自粛の二元論を超える運動性がデザインされている。

被災地に救援物資がわずかながら行きわたりはじめたとき
風呂も満足に入れず、温かい食事も満足にとれない段階の被災者が
家人や隣人の喪失についての気持をようやく建て直し、
それで缶ビールを被災後はじめて手にして、
ようやくビールを呑める気持になってきたとにこやかに笑ったのが
ぼくにはつよく印象にのこっている。

被災地のひとがビールを飲みだす、
心情の複合性を獲得しだしたのだ。
彼らを哀悼するなら、
その最新形の心情が模倣されなければならない。
被災地のひとのなかで、
そのような自己拡張の契機をつかんだひとが
すでに(部分的かもしれないが)いるのだから。

被災地の復興開始、というニュースの通奏低音をなしているのは
彼らには濃厚な地縁社会がのこっていて
その社会が特有にもつ弾力性が復興の潤滑剤になっている点だ。
これもまた「模倣」されなければならない。

自粛/脱自粛の二元論がどこか空疎なのは、
自粛派が被災地を悲劇と疎外の地とのみ見なし、
非弾力的な視線を注ぎつづける一方で、
脱自粛派が自粛派への反発からのみ自己を定位していて
結局は「何を思い込むのか」というだけの
硬直した認識の対立になっているためではないだろうか。
被災地にではじめた「弾力性」を自分たちにも組織するなら、
自粛/脱自粛のどちらかに
自分たちを塗りこめることなどできない。

一見、脱自粛に傾いている意見ととられそうだが、そうではない。
つまり幸福の型と地縁性の、
自分たちにおいての見直しも要請されている、という点では
物質性を謳歌するような脱自粛行為も到底できない、ということだ。

むろん被災地のひとは不便をしいられていて、
その不便を模倣することも当為に近い場所に位置づけられる。
今年、東京で夜桜見物できない不便など
被災地のひとの不便に較べれば何ほどのことだろう。

同時に被災地も桜の季節になれば
人びとは復興作業のなかで桜をふと見やるはずだ。
そのように時々で変化する人間の行為を
「弾力的に」模倣すべきだということだろう。
そうした弾力性の実現のためには
被災地報道の一元性を批判し、
それを具体相へと想像しかえるようなリテラシーが必要になる。

結果的にいうと試されているのはリテラシーなのだ。
このときにズレと複合の、
ふたつの異なる圏域があきらかになり、
ズレの意義、複合の意義もあきらかになる。
ベンヤミンの一文はそういう意義のうえに立っている。

そうなってたとえばAC広告の画一性・抽象性などが
まず批判されなければならないだろう。
あれは民主党と代理店の共同作業だろうが、
AC広告のメッセージは、被災地に自分の身を代入するだけで
単純すぎるとすぐにわかるはずだ。

とりあえずあのAC広告が自粛を拡大する元凶で、
しかも民主党の震災復興失政の実質を隠蔽するものだ。

だから地縁を生かしながら都民などは
自粛ムードにあらがい、しかも「しずしずと」
民主党批判の飲み屋談義をして
売り上げ減に悲鳴をあげている飲み屋さんを救済すべきだろう。

そのときに反原発談義もするといい。
それが弾力的に、自己拡張的に生きることだ。そうおもう

始めのほうの文脈にもどると
非被災者は「日常」を貫徹するのではない。
むしろ「変化」を呼び込むための次の一歩を
これを機会につくりあげるようなことが
考えられてもいいのではないか
 
 

2011年04月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

三村京子の「ラララ」を突破口にして

 
 
次回の「四囲」の特集は「歌詞」。
それで三村京子さんのつくった、
メロディと単純な演奏だけでつくられた音源五つ
(音声は「ラララ」で表現される)の、
その「ラララ」部分に対応する(を埋める)歌詞を
同人みんなと八柳李花さんとでつくろうということになった。

いわば競作並列形式ということになるが、
同じ素材からつくった歌詞が並ぶことで
それぞれの歌詞論の「偏差」もしめされる--
というのが、特集の意義という共通理解があっただろう
(ちなみにいうと、これはぼくの企画ではない)。

それでその音源の提供を地震前、三村さんから受けていた。
五曲でよいべきところ十曲、「ラララ音源」をつくったので
特集用にどれがいいかを示唆してほしい、ということだった。
ところがそれを二曲ていど残して(ただし多くの注文つき)、
跳ね除けてしまった
(判断が遅れてしまったのは、地震でぼくの日常が変化し、
三村さんの音源に向かう気持がよわくなってしまったためだ)。

跳ね除けたのはなぜか、というのがこの日記の話題で、
三村さんへの批判の意図はない。
以下の話は通用性のたかい、表現論になるとおもう。



三村さんの提出してきた「ラララ音源」は
いうなればマニエリスティックだった。
どれも曲想が際立っておらず、ぼんやりしている。
それなのにそこに「ラララ」が多言に載っている。

たとえば四小節単位の展開(コードとメロディ)に
定着力がない。
だから構成がAメロ、Bメロといった複層性をもっていたとしても、
層が加算されてゆくことに注意が向かわない。

総じていうなら、霧のように茫洋としている。
それはつくられたそれぞれに「創意」の痕跡がないということだ。
音的な「創意」を(翻訳して)言語的「創意」を対応させるのが
いわば先メロ作詞の骨法なのだから
三村さんのつくった「ラララ」の土台は
作詞を喚起する土台としてのテイをなしていないともいえる。

これを別言するとどうなるか。
メロディは記憶に作用する時間上の「形」だ。
形象とは人体をかんがえてみただけで自明なように、
「とどまらせる力」--つまり感覚への「遅さ」だ。
「遅さ」を「ふかさ」と交差させるのが歌の基本だとおもう。

三村さんのつくったものは
速さだけで構成されていて(多言性がその証拠)、
みずからの進行をみずからの身体に差し戻す
遅さがないのだった。

遅さとは「宿り」の場所だ。
下痢的な流出、流動が尊ばれてもいいのは
歌のない演奏やラップに類するもののみであって
「遅さ」のない歌は自らを疎外する

(ただしラップでは曲展開の反復性が必要になる
--むろんその反復性が「遅さ」を組織する--
いっぽう三村さんの「ラララ」は
空間恐怖的な「埋め尽くし」が時間軸上にあって
それが構成上はメロ分節の複層性に結実しているのだが、
あるはずの反復がほとんど反復とはみえないために、
言葉が介入する糸口まで消されているのだった--
まるで半端に消しゴムかけされた音楽、に聴える
--造型自覚がよわいのだともいえる)。

その「ラララ」にもし適確にことばが載ったとしても
ことばは適確なマニエラにしかならないから
それを唄う三村さん自身が消しゴムかけされてしまう。

遅さとは情感が宿る場所であって、
宿りの場は歌が現実化する段階では
当該性をもつ身体にしかならない。
唄うからだは、唄うさなかで唄うからだに歌を再帰させる。

その再帰性の運動が「遅さ」でもあって、
聴衆は曲/歌そのものを聴くまえに
そうした再帰性を聴いている。
注意すべきはこの再帰性は
けっして情感と分離できないということだ。
情感こそが再帰するからだ。

マニエリスティックというのは楽曲の要素にあった。
コードが複雑か否かというのは表面的なことで、
むしろ単純なコード展開に「ラララ」のメロディが載るときの
音発想の「決断」「飛躍」「伸び」がないのだった。
そこでは音程差のないメロがふるえるように組織され
多言化しているだけで
音程の飛躍がないからメロに感情を呼び込む、
つまり感情を吸引する「穴」がない。

メロは、一音がつぎの一音を呼び込む予定性、
もしくは通過性のなかにいつもあって
だからそれが連節状態では幸福なのに
一音状態では孤立性の不幸だという
メロの単純な二重性を呼び込む。

二重性はむろん軋みとなるのだが、
その軋みが今回の三村さんの「ラララ」にはないのだった。

つるりとすること。平滑さ。
穴のあいていないこと。つまり女ではないこと。
これらが何の現象かというと、
「遅さ」が予定するあらゆるもの、
再帰、穴、飛躍抵抗、反復、宿り、とどまり、身体、形象、
これらが流出してしまっている、ということだろう。

その証拠に小節連鎖を分節化するブレスが
「ラララ」作曲のなかに作曲要素として組み込まれていない。
ジョン・レノンやルー・リードならありえないことだ。
それは俳句にいう「切れ」のことで
「切れ」があって音粒の、イメージ形象の定着が生ずる。
「呼吸の呼吸性が弱い」三村さんの不安定さ、身体的不明性、乱脈が
まるまる露出してしまっている。

ぼくは三村さんにいま陥っている困難を打開するために、
コード進行が単純でも
その土台にメロが創意的に載ったことでメロの飛躍が起こり、
その飛躍部分に情感が載る曲を聞きなおせ、といった。

例をあげればディランの「アイ・スルー・イット・オール・アウェイ」や
岡林の「愛する人へ」など。
マイナー/メジャーの3コードの
定番ではなく創意ある単純交錯だけがこれらにあるが、
問題はメロの飛躍があったときに感情の濃厚化が生じている点だ。
そういう土台、「ラララ」が作曲されなければならない。

コードは単純でいい。反復のあったほうが形象もつかみやすい。
その例として出したのはUAの「ミルクティ」と
ザ・バンドの「ホーボー・ジャングル」だった。
後者はCを主調にすればC→Em→Am→Fmの反復しかなく、
その作曲能力もFm使用に哀悼的情感が籠められる点にしかない。

前者の基本はF→C→D→Fm→Cの反復。
これは「眠たさの抒情性」のコード進行だ(とぼくは捉える)。
作曲能力はコード変化のタイミングが歌とギターでずれる点と
Bメロが微熱だったAメロの体温上昇として出てくる点だろう。

三村さんが誤ったのは
マニエリスティックな曲調(冴えていることが必要だ)に
マニエラの歌詞が載っていいのは
ギター奏法などを誇る自分の小曲だけであって
「他者」の歌詞介入がある場合は
メロディを伸ばし、音程差を歌詞感情のよりどころにするような
「他者へのひらき」が必要だということを忘れた点だった。

他者配慮がうすい、ということだ。
つまり自分が非人称的な媒質となること、
力の源泉となることが忘れられたのだった。

それらのことを三村さんにつたえた。
彼女は閉塞を打開することだろう。
じつはこの課題は大した難題ではない。
彼女自身が「岸辺のうた」や「空の茜」を
調子のいいときどう唄っていたかを
おもいだせばいいことだからだ。

さて、じつは三村さんの今回の「ラララ」の弱点は
多くの現代詩の弱点とそっくりだという点、お気づきだろうか。

「ラララ」音源は作詞者のことばを呼び込む。
詩は読者のこころに反響を呼び込む。
歌唱も詩作も再帰性の段階が精髄で、
その再帰性の秘密にふれるために
作者(歌手/詩作者)の声や手のなか、
つまり身体へと入ってゆくしかない。

身体のない詩は、社会のない詩だ。
そうなるとたとえば「震災詩」の立証も
社会性をもつことのまえに
「からだがある」、ということに現れる。

からだとこころがここでは重視されているが
情緒論なり心情論なりの必要が説かれているわけではない。
むしろからだとこころを作用域にした
反響的唯物論、もしくは唯物論的反響が視野に入っているだけだ。
それ自体は「機械」的なもの。

いまは空回りがそそのかされている時間だが、
打開策はいつも自己身体の再帰的注視にあるだろう、
むろんナルシズムではなく。
ナルシズムならそれは精確な視線をもたない。
ナルシスの女なら自分の陰毛の雑草性も把握できない。
 
 

2011年04月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)