廿楽順治のように
●廿楽順治のように
【東海大学前駅入口】
大永 歩
よつかどのうちのふたつは
おとことおんなでごみごみしたところへむかっていて
あとのふたつは
おとことおんなが
はなれていくばしょにつながる
ごちゅういください
いちぶひろくあいております
おとしあな
にとらわれたばあさんの
赤で
あしどめ
でんぷんのりのまきちらされたふみきりで
はいせんせい
ごはんはたんすいかぶつです
あおみどろのおどり
みずにはおもさがあって
したへしたへとおちていくが
めんどうくさいととろとろしているやつもいる
(どうせこながかかったら)
(だんごになるのだし)
だんごろむしとふんころがしのおどり
めぐりめぐって
もんをぬける
●
【とうきょう】
川名佳比古
とうきょうには
あらかわをこえていく
とてもとおかったはずだが
いまはなんてことのないとうきょうだ
(かたみち八二〇円)
かおをなくしてしまったひとびとのくつおとが
しみこまないように
しっかりとふたをする
(ぼくたちの失敗)
りんじんをうしなったまちの
あふれるひとのなかで
よくもまあいきができたもんだ
しにんのはくいきなど
ぬるいビールのかわりにもならない
(おまえだって)
あらかわをこえてうちにかえる
●
【うつわ】
鎌田菜穂
はやくまわりすぎて
ただの
まる
おやゆびでくちをあけます
わたしのくちはいったい
どこへいったか
(いきをのみすぎてしずんだ)
ペダルをふむと
地球よりずいぶん
ちいさくまわる
ひる
まもろうとしすぎると
ひとしさがずれてしまうこともあった
のぼる
まるのふかい
まっくろにちらばる
わたしを愛してくれ
(さいごには崩してくれ)
わらったあとはどうも
くちのはしがうまくきまらないな
泥水のゆるむ
(ああ)
あしたも
この小屋では土を殺しまくるのだ
あまりにくるしい
まるの上下に
いきをのむ
あのおやゆびの
墜落
はやくまわりすぎて
酒の味がわからなくなったよ
●
【大宮公園】
中川達矢
なかやまどうをはしれば
とりいをくぐって
あやしいみずうみにたどりつく
集団がよりついてきて
その数をふやそうとすると
どうしても対立がおきてしまい
ばあちゃんがうるさいほど
おなじ話をしてくる
(あんたがしゅうきょうだ)
しんとうの近くで
よくもそうやって胸をはって
御殿をたてられるね
それでも
競輪場からでてくるひとがたえなくて
てんから
おかねがまいおりる
(おしょうがつがもうけどき)
じいちゃんは
木にぶらさがるものを見つけては
けいさつに電話をしていた
あそこには
なにかがいる
●
【七月】
森川光樹
(あつくて)
さくらがさくら
じゃないみたい
まだまだでる
とまだでない
地球のまぐま
がばくはつして
にせんじゅうにねんに
みんなしぬ
ほんとうなの?
(答えは蝉の合奏だけだった)
カナカナカナ
はゆうぐれ
まだまだかい?
ドアのむこうの
スプートニクはきっと
だれもいない
ちきゅうにかえってくる
というきみ
とぼくと花子さんしか
学校にいない
●
【おれはせんたくした】
森田 直
あんれぇ
せなかがいたいや
って夜中
めがさめた
背骨いっこいっこの
あいだの
なんこつってゆんですか?
あれがきっと
いたいんです
なんこつは終始つぶされてる
そんなこと
生まれつき 決められて
(すりきれて)
そんなうんめいをおもったこと
きみにはないんでしょ?
とか
(ばかばか)
ほうれ、月がきれいに空いてる
ぼーりんぐがきょうはうまくいったのだね
月モグラくん ご苦労さん
そんなこと
コインランドリーで
なんこつがいたくって眠れないから
20分
200円でかったのだ
おれはそとに
ねばった
となりのせんとうから
ほかほかした
おっさん おばはん びんぼうこども
ご苦労さん おつかれさん
(ぺっ)
とぼけたかおして
みんななんこつを
なおしに
きやがったんだ
●
【部室】
齋田尚佳
ひとつ箱のしたでざくざくと髪をきざむ
ちょいととおるよ
なにがいるかわからない絨毯のうえで
義務のようにおさめてく
だれだれのなになに
(あらまぁ と やぁね をかさねてく)
古典にはかなうまい
溝にうまったほこりにまぎれて
そこでこくはくがあったようなのだ
ぎゅうぎゅうにつめられたべんとうばこの
しろくひえたごはんはあじけない
電子音だけがきれいだった
きづけば通行人はみむきもせず
むしとりあみはいらないはずで
(そおら見てみろ)
壊したそと と 三分すすんだとけいの
とおせんぼ
ガムテープがきんちょうしながら
ときがくるのをまっている
隙間のせかいにたっているだけ
●
【いつかのさけ】
渡邊彩恵
ながいながいテーブルをかこんで
くちをうるおわせる
ようきに
あかい顔になっていく
おやじも祖父も
くろいネクタイをゆるませて
わたしも
ちょいとと言いながら飲んでいく
おんなたちは
(姉の視線もだな)
とがらせながらも
うごきつづけ
おさない子どもを守っていた
からみ好きなおやじに肩をくまれ
手のはやいおじさんは
(わたしから見てもいやなもんだな)
いとこに目をつけた
しかたなしにくちをつけた
その子は
渋い顔をしたかと思えば
ほかの子供たちといっしょに
どこかに
かけていった
(あはははははは)
●
【雑司ヶ谷】
中村郁子
ほそみちだ
ぬれたみどりにくらいみち
(ようこそあなたさま)
(石や木しかございませぬが)
いけば雨がふっている
やぶ蚊に注意
してください
(羽二重団子)
(たべたいな)
帝都のはずれは
いなか
(でもいい)
宣教師の亡霊と
かつて子どもを食らった神が
近くにいて
とおくの
ビルは
しんきろう
(かなしきかな副都心線)
お茶を飲んでいたら
蚊にさされた
もがくにももがけないからもがかない
●
【はこね観光もどき】
中村郁子
ほねのアーチをくぐってすすむ
(なぜ下を歩く)
じぶんが展示物
なんて
なんとかサウルスは思わなかった
うごきそうだ
(かえしてくれよ)
いえのちかくではっけんされた
化石の貝
(ふるさとがすき)
げんじつはいやだなぁ
参加すべき
べきって
(しろってことだよ)
じゃあ
(欠席決定)
さようなら
(遊覧船は欠航だよ)
杉の並木フィールドの展示物はにんげんさ
●
【おとなしばし】
山崎 翔
安全ではありません
といいたげに
あじさいもさいていて
さいたまのほうはまっくろです
ぼんやり
とでも密度のなかをはしらせてみれば
どこもかしこも
くうきはひどく軋んで
みみずばれ
だらけじゃないか
しめったうめきごえばかりがひびいている
(そういえば)
おおかたむこうのそらはもう
あおじろかったり
くろかったりで
それはそれはいたいたしく
ちぎれはじめてるころだろうねえ
(今年はまだうしがえるをみかけない)
おうじえき
立ち入り禁止のひとつふたつこちらがわ は
ゆれている
くわれている
そのおくのほうに
生きて
いない
が みえかくれしている
そうしていまにも裂けてしまいそうなひふたちを
書店であるとか
ラブホテルであるとか
くすんだ都電荒川線であるとか
そういう
ぶんかとよばれるもろもろが
せっせとぬいあわせているんですね
そうじゃねえ
穴だらけなのはこっちのほうだよ
と まあしぶとく
きのうのよるに
いくつも にぶく刺された手足で
かわいげもなく
石畳をすべらせている
(わざわざひっかくってのもどうなんだろうねえ)
そんなむきだしと
むきだしとが
いくつも悲鳴をあげていて
そうだよ
夏
というものは
こうもむざんな衝突事故にはじまるものだよ
●
廿楽順治さんの詩は一言でいえば多様体だ。
べらんめえ、売り言葉、殺し文句、殺気、グロテスク、
時代劇の科白、おやじの繰言など多様なものが
行(の塊)が加算されるごとに
角度を変えて玉手箱のように出現してくる。
だから多様体は噴出体でもある。
改行の運動神経にも独特のものがあって
「音数の大体の一致」による音楽性ではなく
「不一致」による脳天落としのほうに意趣が傾いて
それでゴツゴツとしたリズムができ、
そのなかに強調や意趣替え、
景色替えといった運動がズルズル起こる。
しかもフィニッシュが鮮やかだ。
新作詩集『化車』所載の長篇詩などは
そうした運動に乗じて速読してゆくと
読む眼が「切れて」血が噴きでるような悦びもある。
「茶化しの不真面目」
「ひらがなによる概念語の脱権威化」
「現代(思想)性批判」などによって
裏の文脈ではケンカイな文明論が一貫して脈打ってもいて、
それでも過ぎ去った時代への郷愁、
地名と場所への愛着も加味されて
全体では反転的に良質な抒情詩が形成される。
本人、家族、かつての隣人、亡霊もふくめ
詩篇に「身体」がみちるからたぶんそうなるのだ。
最近の、版面下から行が石筍状に上に伸びてゆく詩篇、
あるいは反語的内心をしめしつつ
詩篇自体をメタ的に距離化する丸括弧の使用、
ひらがなの多用や不統一な口語体の混入など
廿楽詩には一見して廿楽調と呼ばれる特徴もあるのだが、
これらを真似しても(最近はそういう詩作者も出てきた)、
じつは「廿楽調」が実現されない。
これはぼく自身の実感でもある。
まずはことばのひびきの吟味によって
ことばの隣接関係にするどいスパークを起こさせ、
改行そのものを苛烈に運動神経化し、
さらにはそうして生じた「断絶だらけの世界」を緩和する
「全体の抒情」も必要となるのではないか。
いたずらに語彙や語法のみから近づこうとすると
流血をみる怖い詩作者だ、ということだ。
前回、「松岡政則のように」で「まねび」の怖さ、
原作者への畏れをまなんだ受講生たちは
今回も表面的な模倣を見事に避けた。
提出者がいつもよりすくなかったのは、
結局「廿楽順治のように」を実現する困難を
身をもって体験し、詩作を座礁させたためだとおもわれる。
廿楽詩はとうぜん男性性のしるしももつため、
とりわけ女子にはとくにその語調の継承が
むずかしかったのではないだろうか。
それでも今回も難関を乗り越えた受講生が多数いた。
どうかしている、とおもう(笑)。
あまりつかいたくないことばだが、
「天才」が受講生に混在して
全体レベルが引き上げられているのではないだろうか。
「模倣」の浅ましさからきれいに離れ
廿楽詩の脇に涼しげに自らの詩篇を置いてしまう
「托卵」の達人のような作者が複数いるのだ。
う~ん、スリリングな事態になってきた。
今回も成績発表を。
まず次点は以下四篇。
・大永 歩「東海大学前入口」
・中川達矢「大宮公園」
・森川光樹「七月」
・中村郁子「はこね観光もどき」
大永さんの作は、小田急線東海大学前駅で起こっただろう
不吉な椿事が「ごはんつぶ」で脱臼され、
結局、何が起こったか不明な点に迷宮的妙味がある。
ラスト、「もんをぬける」が素晴らしい。
「もん」は「門」であり「悶」かもしれない。
中川くんの作は、中山道からたどられる
「土地への執着」が廿楽的だが、
そこにキリスト者らしい彼の
書割宗教批判もみられる。
それらはわかりやすい了解性があって
廿楽詩とはちがう面もじつはあるのだが、
ラスト五行の、静かかつ暴力的な余韻が見事だ。
森川くんの作もこれまた余韻が秀逸。
がっこうのがらんどう。
七月の到来が記憶も参照され
スケッチされているはずだが、
丸括弧に入った一行が空間的空洞を満たしていて
そこに見事な夏の把握がある。
中村さんの作は箱根旅行の体験が元になっているが
女性ながら見事に廿楽調を導入し
箱根の空間を完璧に脱臼している。
彼女がこんな詩風をしめせるなんて吃驚した。
「にんげん」の行列の卑小を射抜くような
彼女の立ち位置が透徹している。
最高点は以下二篇。
・鎌田菜穂「うつわ」
・山崎 翔「おとなしばし」
鎌田さんの作では理路が暴力的に奪われ
それでも読者を愛着に導く「穴」がある。
身体部位である「口の消失」と
アルコールによる酩酊が拮抗しつつ
廿楽詩に匹敵する殺し文句が多数ちりばめられ
何度も味読してしまった。
女性がこんな詩篇をものしたことで
廿楽さん自身バランスを逸してしまうかもしれない。
これは廿楽さんに向けられた
「やわらかい強圧」だとおもう。
山崎くんはとうとうスランプから脱出した。
電車に乗り、王子にたどり着いて(アジサイが綺麗な駅だ)、
気持が埼玉方面を遠望する。
その一瞬に去来したさまざまを
ざるで掬いあげたような詩篇で
最初は叙景のやさしさではじまったような詩篇が
次々に「異調」を帯びてきて、
最終的には見事な七行の結末にいたる。
廿楽さんの詩集に入っていても違和感のない作。
しかも廿楽調からの脱却も同時実現している。
これには廿楽さんも嫌がるんじゃないだろうか(笑)。
古澤健・アベックパンチ
●古澤健監督『アベックパンチ』は
いきなり男が男を殴るショットからはじまる。
「殴るショットから開始される映画」といえば
とうぜんサミュエル・フラー『裸のキッス』を想起させるが、
殴打とそれによる鬘の脱落が衝撃だったフラー作品にたいし、
古澤作品では殴る男・鈴之助の
殴りつつ殴るのが嬉しくてしょうがない「微笑」が
スローモーションで捉えられ、それが衝撃になる。
●殺しの渦中に顔がわらってみえたのは
かつては中村錦之助だった。
殺陣で刀をふるい返り血を凄惨に浴びながらも
ひらく口許から食いしばっている歯がみえ、
それがなぜかマゾヒスティックな笑顔まで錯視させた。
加藤泰の『沓掛時次郎・遊侠一匹』がその白眉だろう。
●むろん「笑い」はスローモーション化されると
それが笑いとは異なった微妙なものへと変化する。
つまり「笑っていないのではないか」との
疑念がつきまとうようになるのだ。
少女をスローモーションで捉えると
少女ではないものが分泌される、と述懐したのはゴダールだが、
笑いも少女も似たように曖昧な「中間体」だから
分析的なショットでは「それ以外」を指標してしまうのだろう。
●ところが冒頭、スローモーションで捉えられる
殴打しながらの鈴之助の笑いは
その目が聡明な笑い特有の涼しさをもっていて、
冷静さのなかでこみあげてくる笑いとみてとれた。
スローモーションでも疑義に付されない笑い――
この事実こそがじつは衝撃をあたえたのだった。
●チンピラを圧倒的な攻撃力で駆逐したあと、
鈴之助は牧田哲也と歩く。そこでも戦慄した。
鈴之助はかつてのヘビー級ボクサー、ジョージ・フォアマンの顔の地に、
東洋的な鋭角性を掛け合わせ、なおかつ黒人彫刻的な物質感をもつ
素晴らしい色白の顔の持ち主なのだが、
頭部から首の筋肉、さらには背筋に
豹のような瞬発力の気配が籠められていて、
そうした運動神経の持ち主特有の歩き方をする。
やさぐれていない「大股」。足の蹴りがつよく優雅。
それなのに、地面への体重を感じさせない。移動のかるさと粘り。
おなじ歩き方をする俳優がかつてふたりいた。
『トカレフ』当時の大和武士、『ジャンクフード』当時の鬼丸だ。
●以上のような書き方をすると
ハードボイルドな男性アクション映画と誤解されそうだが、
内実は、荒唐無稽の要素をふくんだ、
感動必至の男女混合スポーツ映画なのだった。
歩道橋で意気揚々の鈴之助と牧田哲也が
品行方正、傍若無人、かつ甘ったるい雰囲気のカップルに出くわす。
肩がぶつかったあとの謝罪の有る無しでバカな喧嘩になるが、
なんと開巻早々から「最強」の雰囲気を漂わせていた鈴之助が
カップル男女の
「握りあわせた手による一撃」でぶちのめされてしまう。
●強弱ヒエラルキーの交代が格闘スポーツ参加の動機になる、
というのは北野武『キッズリターン』にも前例があるが、
前例がないのは、その高飛車カップルのやっていたスポーツだった。
それが「アベックパンチ」だった。
●説明が複雑になるので、チラシから
この荒唐無稽な格闘技についての説明を転記してしまおう。
●アベックパンチとは――
《手を繋いだ男女二組がリング上で戦う格闘技。
攻撃方法は打撃・投げ技・関節技と多彩。
ルール上ダウンの概念が存在せず、
アベック間で繋ぎ合った手が
相手アベックの攻撃によって切り離されるか、
もしくは自ら切り離すことによって敗北となる。
アベックパンチとはもっともシンプルな男女の合体攻撃なのだ。》
●男女がともにおこなうものは性愛と考えがちだが、
共通の敵にたいする連携だってある。
その場合、アクションの物質性に、信頼や恋情といった潤いが加味され、
一連の動作が性技以上に優雅になることがある。
映画はそれを近似値的に描いてきた。
有名な例を出せば、ハワード・ホークス『リオ・ブラボー』で
酒場の女のアンジー・ディキンソンが
敵が間近に迫ってしかも丸腰のジョン・ウェインの「利き腕」に
とおくから見事に拳銃を投げ、
受け取った手でそのままウェインが相手を撃つ名シーンがある。
つまりそこでは「利き腕」、左右の弁別こそが
俳優の身体の具体性に依拠せざるをえないという意味で映画的だった。
●手をつなぎあう男女が相対し、
残りの手、つなぎあう手、
さらには両脚を駆使して闘いあうと単純にイメージすると、
何か手をバタバタさせながらのラインダンスが
正面対正面の構図で向き合っているだけでしかないようにおもえる。
それがそうではないとわかったとき
この格闘技はバレエ舞台のように優雅で
かつ「連携」への信頼と、パートナーの身体の物質化、という
相反するものが合体した複雑なものだと理解が生じてくる。
●パートナー同士の恋愛に似つつ、
パートナーが他方向へと格闘する。
精神と肉体を架橋し、
その架橋自体が相手カップルへの攻撃ともなる格闘技。
こんな動悸を覚える格闘技を映画が発明しなかったのは
「発明精神」に富むべき映画の失点といえるだろう
(発明したのは「コミックビーム」に連載されたタイム亮介のマンガだった)。
●スポーツ映画の巨匠といえば
『ロンゲスト・ヤード』『カリフォルニア・ドールズ』の
ロバート・アルドリッチをまずおもいだすが、
『インビクタス・負けざる者たち』のクリント・イーストウッドもいる。
それぞれ試合に勝ち進む経過が仕込まれていたり、
逆転勝利に辿りつく経過が仕込まれていたりするが、
新聞の輪転機に見出し文字が飛び交う描写とおなじく
ハリウッド映画的な説話経済が描写を支配するのは当然だろう。
つまりフラッシュ編集で試合の渦中を、結果を
つないでいって躍動感をあたえる、というものだ。
●むろん試合場の観客の熱狂を切り返すことで
じつは映画を観ている客にも熱狂の反射をほどこす。
この作品でいえば、
業界ゴロ的なスポーツ記者を演ずる観客席の川瀬陽太が
持ち前の諦観を捨て、
クライマックスの試合で熱狂する典型的な描写もあった。
●アルドリッチもイーストウッドも
男女混淆のスポーツを撮ってなどいない。
架空の格闘技「アベックパンチ」に出会っていなかったからだ。
ならばアルドリッチ~イーストウッドの系譜を代表して
「アベックパンチ」のスポーツ映画をハリウッド的に「明朗に」撮ろう
――それが監督古澤健の着眼だっただろう。
脚本は古澤自身と杉原憲明。杉原はぼくの立教での生徒だった。
●ともあれ、話をもどすと、鈴之助は
高飛車カップルの鼻をあかすため、
自ら「アベックパンチ」の分野に参入することになる。
おバカ映画にも散見される定番ストーリーといえる。
あらかじめ声かけしていた胡散臭い男(トレーナー)を
岸建太朗が演じていて(『あしたのジョー』における丹下段平の位置だが、
惨めさと騒がしさがなく、すごく渋い好演だ)、
疑心暗鬼で鈴之助が入ったジムは廃工場を改造しただけ、
リングすらないボロ普請だった。
●がらんどうの薄暗さがしめされてアッとおもう。
雰囲気に既視感があるのだ。
イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』、
イーストウッドとモーガン・フリーマンが運営し、
女子ボクサー、ヒラリー・スワンクが紛れ込んできた、
あのジムにも似ていないか。
●『ミリオンダラー・ベイビー』は
嫌々トレーナーを引き受けたイーストウッドによって
ヒラリー・スワンクが連戦連勝となる前半と
そのヒラリーが試合相手の卑劣さによって全身不随となり、
イーストウッドが尊厳死を施す後半に、残酷に二分されている。
その「二分」を解消し、幸福な前半部分だけで、
あたかもイーストウッドとヒラリー・スワンクが「手をつなぎ」、
リングで連戦連勝を重ねる「見果てぬ夢」がかなえられないか。
あの傑作と似た、ジムの雰囲気は
古澤健たちに秘められた「映画的野心」をそのように感じさせた。
●映画史を交錯させているのではないかというそうした予感は
同じ土壌のうえでパートナー交錯の予感をそのまま発酵させてくる。
ジムに現れる最初の女は、
ロングショットからその精悍な気配をすでにつたえる女だった。
名は「コルビーナ」、
南米パラグアイから来た(しかも不法入国)とのちにわかる。
●「コルビーナ」は美味で知られる南米の高級魚で、
じつは他の主要人物もすべて魚の名をあてがわれている。
鈴之助は「ヒラマサ」、牧田哲也は「イサキ」、
やがて牧田と「アベックパンチ」のパートナーを組む水崎綾女は「メバル」、
やがて鈴之助とパートナーを組む武田梨奈は「エツ」(「エツ」は「斉魚」)。
以下は、その役名でストーリーをしるしてゆこう。
●最初は女を知らないヒラマサのコミュニケーション下手もあったが
練習靴のプレゼントなどをつうじ
ヒラマサ+コルビーナ組は息も合うようになり、
持ち前の筋力と柔軟性もあって有望株とみなされるようになる
(このあたり、ハリウッド的な説話経済性で展開がすごく速い)。
筆記試験が苦手のヒラマサ、日本語がダメなコルビーナに代わり、
同じアパートのイサキとメバルが替え玉受験(「交換」がテーマ)をおこない、
見事プロテストに合格、いざデビュー戦というその試合場で
不法入国の露呈したコルビーナが入管係員に拘束される。
●係員の侵入を阻止しようとしてつながれていた
イサキとメバルの手がまず「切れ」、
ついでヒラマサとコルビーナがつないでいた手も「切れる」。
●コルビーナはパラグアイに強制送還。ヒラマサは以後酒浸りになる。
じつはコルビーナが唯一共同性を感じた女性だったのみならず
ヒラマサはコルビーナに恋情を抱いてもいた
(トレーナーはヒラマサが18歳になった誕生日に
コルビーナと結婚させることで、
コルビーナに日本国籍を獲得させようとしていたともわかる)。
●ここで疑念が走る。
いくらコメディタッチの「汗臭い青春物」として
ドラマが軽快に進むとはいえ、
セックスの暗喩性ももつ格闘技「アベックパンチ」のパートナー同士は
相手への闘いとともに相互の恋愛・結婚をもしいられる
異様な宿命のなかにいるのではないか――と。
●そこでは愛とスポーツが弁別されていない。
労働と愛の弁別を訴えたのはゴダールだった。
その弁別のなくなった職業こそ恥辱的になる。「売春」「俳優業」だ。
ゴダールはよって俳優男女のキスの描写をきらう。
ところが古澤健は『アベックパンチ』で
イサキとメバルのキスを見事に捉えた。単純さによって捉えたのだった。
●ここからさらにエロチックな「関係の交差性」予感が出現してくる。
これにはストーリーを説明しなければならない。
●コルビーナに去られて失意のつづくヒラマサを励起しようと
イサキとメバルがアベックパンチのコンビを組む。
ふたりは最初、抜群の運動神経の持ち主として描写されてはおらず、
だからトレーナーも匙を投げるほどに成長をみせない。
しかしいつの間にか練習でひそかな地力をつけていて、
いつものヤクザにからまれたとき
とくにメバルの柔軟な蹴りによって相手を駆逐する。
●彼らはコンビネーションが悪いだけだった。
メバルはおよそ次のようにいう。
あなたは右半身だけで生きて。左半身はあたしに預けて。
つまりここでアクションの左右/恋愛の左右という
鏡像とも共通する身体的問題が介入してきて、動悸が起こりはじめる。
●ストーリーを端折ると、そのふたりの励起あって
ヒラマサはかつていじめられているのを助けたエツ
(ゆきつけのスナックのおかみの実娘だった)と
新たにアベックパンチのコンビを組むことになる。
メバルの格闘選手としての成長が
ヤクザ頭部への高い蹴りで一瞬にしてしめされたように、
エツの選手としての成長も
たったひとつの練習風景のインサートショット、
ヒラマサのもつサンドバッグに
エツの入れる、高くつよい蹴りでしめされた。
●女子の高い位置への蹴り=選手としての成長、という「図式」があって
それを1カットという高い説話的効率性でしめしてしまう古澤は
ハリウッド映画の骨法を
日本の戦前の名匠のようにわきまえているといえる。
●もともと水崎綾女(メバル)、武田梨奈(エツ)が
アクション派で頭角を現してきた女優だと知らなかったぼくは、
ふたりがそれまでしめしてきたアクションのとろくささに
「アベックパンチ」ファイターとしては大成しないと
完全に騙されていた。
水崎のメバルは、おかっぱ髪の重たい、寡黙で鈍重なキャラ、
武田のエツは、ギャル風の細身ひ弱キャラだと見積もっていたのだった。
●古澤が「見た目の女優価値」を突き破り、
逸脱的にその女優の属性を画面にどんどん展覧してくる、
素晴らしい攻撃性の持ち主だというのは、
前作『青春H making of LOVE』で
「美形ゆえに脱がないだろう」とおもわせた藤代さやに
すごくハードなセックスシーンを導き、
驚愕させた点でも明らかだろう。
●ヒラマサとイサキはもともと武闘派のヒラマサにたいし
傍観者的同行者のイサキという「配分」があたえられていたから、
戦闘能力ではヒラマサのほうが上、
という刷り込みが観客になされている。
そのなかで「烈女」としてメバルとエツが成長してくる。
当然、ドラマは一種、パートナーの交換(スワップ)という
不穏な方向に進展するのではないかと予想も走り出す。
具体的には、「より強そうな」ヒラマサと
「より強そうな」メバルの「合体」を夢想しはじめるのだ。
●「交換」はもともと作品のテーマだったはずだ。
コルビーナが活躍していたときの「替え玉受験」がそうだったし、
美形のイサキに恋していた女子高生がいて、
彼女がメバルを、イサキのパートナーの位置に導いた経緯もあった。
交換可能性の予感にゆれる主要人物群、という俳優布置は
恋愛(不倫)映画特有のエレガンスだが、
それがスポーツアクション映画においてなされているのが
倒錯的なのだった。
●ところが「交換可能性」は意外な局面から内破を起こし、
それがヒラマサ―エツ、イサキ―メバルの
パートナー継続性へと結果的に架橋されてゆく要因ともなる。
このことをしめすのが
それぞれのチームの驀進的連勝のフラッシュ編集だった。
●アベックパンチはラインダンス的カップルの対峙ではないと書いた。
イサキ-メバル組では手をつなぎあったまま相互のからだをリングにしずめ、
倒立状で蹴りをおこなうなど上下軸のトリッキーな技が披露される。
同調的コンビネーションが昂じて上下軸のうごきを加算するといっていい。
ヒラマサ-エツ組ではエツの小柄・軽量、ヒラマサのからだの大きさを活かし、
ヒラマサにもちあげられたエツがヒラマサと手を握り合ったまま
相手に意想外の角度から蹴りを入れ、
それがヒラマサのフォローによって威力を倍化させる必殺技を生む
(それらは画柄としてしめされるだけで特別な攻撃名をあたえられない
――恬淡として連戦連勝シーンが進むだけ、という古澤のした選択は
驚愕するほど聡明――いや、「透明」だった)。
●パートナーの左半分が自分の右半分になるという程度の「合体」は、
これらでは分解的に解除される。
逆に左半身/右半身、上半身/下半身と四分割された身体の「パーツ」が
それぞれパートナーの身体部位の交換性によっても鏡像的に増殖され
それがトリッキーに上下軸で沈み、空中で背面化され、
下方からの爆発と上方での回転によって連続性を得る。
身体性は棄却されることで再獲得を結果される。
つまりここではパートナーの身体を物質化することは相手への攻撃であり
同時にパートナーへの愛なのだった。
外延性と内部反射の同時出来。
●ともあれそうして武闘と舞踏の弁別が高速的に溶解する過程にあって
「交換」はパートナーと自らの四肢の「交換」にまず内在的に代位され、
思想的には武闘と舞踏の「交換」にも横ズレしてゆく。
つまりアベックパンチが白熱化してゆけば
論理的に別パートナーとの「パーツ交換」(スワップ)すら
ありえないのだった。
●一旦スワップの予感を呼び寄せておいて
それを試合の描写において「解体」する――
この点にこそ、映画『アベックパンチ』の危ない魅惑の本質がある。
●いずれにせよ格闘技「アベックパンチ」は
恐ろしく厳格なスポーツの発明といえるだろう。
それを古澤は原作マンガを読んだ経験のないぼくにも
試合のごくわずかなフラッシュ編集で会得させてしまったのだった。
●古澤の説話の熱気は波状性の獲得によっている。
ヒラマサのスランプ脱出、
川瀬陽太の書いたメバルへの偽インタビュー記事が
メバルとイサキ相互を傷つけ、ふたりがようやくいたった関係修復、
それらが片づくと作品は一気に大団円に向かい驀進してゆく。
●たぶん古澤の「職人芸」というのは
1カットの秒数(コマ数)調整に
「均質でゆく」「より短くする」など
さまざまな「傾斜」を調整することに現れるだろう。
厳密にはそれは編集技師の仕事だが、
たぶん現場で古澤がカットをかけるタイミングに
すでに傾斜が内包されている。
試合描写では複数カメラで撮られた細部も多いだろうが、
カッティングが「快調」すぎてカメラへの意識は透明化させられる。
●案の定、上述したチャンプ・チームから
新人王の勝者チームとタイトルマッチをおこなうという知らせが来て、
「ヒラマサ―エツ」vs「イサキ―メバル」という
「同門対決」のレールが敷かれる。
ここが映画のクライマックスだ。
若貴兄弟の優勝決定戦で問題となったのは「情」だった。
同門で育ちあった友情のつよいチーム同士が
「情」を昇華して「武闘」へと自ら高められるかが課題となる。
●一試合の描写としては最大となるこの同門対決は
技の展開とファイトの質、こうむった打撃の加算をしめす
カッティングが見事に炸裂し、瞠目し息を飲み、
やがては落涙にまで導かれる。
アルドリッチ-イーストウッド型の
不連続を熱気で連続にみせる編集が完全に奏効している。
チャンプ・チーム、エツの母親、トレーナー、川瀬陽太など
すべての階層に伝播する試合への感動に、
映画の観客自身までもがくるまれてゆく。
●死闘を繰り広げる四人にたいし
徐々に画面がハイキー化し、そこでスローモーション化がはじまる。
ヒラマサが、エツが、イサキが、メバルが――「笑っている」。
冒頭、スローモーションで捉えられたヒラマサの笑いが
今度は四倍になって、
その倍数の成立によって映画が幸福裡に終幕に向かおうとしている。
マンガ『あしたのジョー』でいうなら
カルロス・リベラと闘いつつ矢吹丈が得た「法悦」、
それと似たものが画面を支配して
ついに「みえない精神上のスワッピング」がユートピックに完成した。
これほど幸福なクライマックスは滅多にないだろう。
●問題はこの映画のほどこすスローモーションが
生の渦中を死に向けて分解する
阪本順治(『どついたるねん』など)的なものではなく
緩慢化によって薄めようとしても薄められない、
最高の時間性の横溢として現れる点だろう。
それはかつてのアメリカン・ニューシネマが得意とした
「カタストロフのスペクタクル化=抒情化」としての
スローモーションとも似ているようで似ていない。
●古澤健は実際、画面進行を停滞させるスペクタクル化を
頑なにおこなおうとしない。
そうでなければ
アベックパンチの試合描写の透明性が損なわれると
信じているかのようだ。
この透明性はむろんハワード・ホークス的なものだ。
そのなかでこそアベックパンチの「技」の発明性も
『ピラミッド』のように構築される。
●スペクトル化の拒絶は以下の点でも現れた。
たとえば冒頭、ヒラマサ=鈴之助が男を殴打したシーンは
埠頭のある海辺だった。
それに人物たちがランニングでからだを鍛える数々のシーンでは
防砂林のような植生がロングにみえる。
ならば海辺の光景が人物たちの恋情吐露などに再召喚されると
誰もが身構えるだろう。
ところが古澤はそれを外す。
●代わりに古澤は、人物たちの大事な告白、
基本的な出会い、大切な試合結果の報告などを
階段のある急坂もしくは歩道橋にすべて場面限定してしまうのだ。
それらの場所が指標しているのは「中間性」だろう。
だから人物たちは出会い、葛藤し、協同し、「動く」。
逆にスペクタクルな海辺で言葉を伴うそういう芝居どころが撮られると
映画は動かなくなってしまう。
古澤はそれを警戒する。
●ハワード・ホークス的透明性とはマキノ雅弘(正博)的透明性だろう。
映画『アベックパンチ』はマキノの匂いもする。
シネマート六本木で幸福裡に作品を観終えると
ロビーに古澤監督がいた。すこし話すと、
何と『アベックパンチ』は計六日間の撮影だったのだという。
これは撮影所の利点を活かしたマキノの早撮りよりも
あるいは濡れ場の多さの利点を活かしたピンク映画の早撮りよりも
速さにおいて驚異的な数値だろう。
●マキノ型の早撮りは、台本が口伝えであっても
「いま」がどんな撮影場面かをスタッフと俳優が「総意」で了解し、
役割が高速で機能的に分担され、
そこに説話にたいする民族的な記憶台帳が
共有されていることが前提となる。
つまりそれはチームプレイだけのもつ「共有的迅速」で、
「愛」が潤滑油になった感動的迅速だともいえる。
●その「迅速」こそをこの映画の
ヒラマサ、イサキ、メバル、エツ、
その他、悪役もふくめた俳優のすべてが体現し
それで画面進展の一切がマキノ的に透明化していたのだった。
迅速そのものへの了解が
愛と闘争の不分離的合体性のうえに樹立されていて
それが「現状日本」への賦活剤となっている。
ともあれ近頃これほど「迅さ」が豊かにみえた作品もない。
案の定、86分というコンパクトな上映時間だった。
柔道
【柔道】
こんこんとわきでる自分の癖を
のみほし飲み干して
ずっぺり抱きながしている
きみの毛髪が皺にみえて
いとしいので
あたまをはずし
そのすがたにも逆落としをかける
ひねられる蛇口みたいな耳を
どこまで風にたて
自分のくんづほぐれつをきいてるんだ
盲流せえ
極意は
きべら
妖なるものは
せかいの半切で
しろいつぶを
よりわけ
桶をみえるものにする
コメとたたかうみちのりは
なみいるきみをおにぎりにする
フカフカの湯気でもあろう
あるものを選びつくす
きべら戦法で勝つ
是枝裕和『奇跡』の簡単な感想
●是枝裕和の作家的特徴は
自信にあふれた「過剰な可視化」にあるだろう。
『ワンダフルライフ』での「人生で最大の幸福」の映像化、
『誰も知らない』でのYOUが育てるべきだった子供たちの
「追い詰め」によるドキュメンタリータッチ、
『空気人形』でのぺ・ドゥナの裸身の露呈・・・
さらにいえば『幻の光』の見えがたさでさえ
「見えがたさ」の「過剰な可視化」ということができる。
●今回の『奇跡』の「過剰な可視化」は
オダギリジョーと大塚寧々の夫婦不和を前提に
「まえだまえだ」の前田兄を鹿児島に
前田弟を福岡に分断し、
それぞれの日常をシーンバック(平行モンタージュ)で
えがきつづけた点にまず現れた。
いうまでもなく「シーンバック」は映画にほぼ特有の
映画的語り=「過剰な可視化」にほかならない。
●もうひとつ、前田兄と前田弟それぞれに
「みた夢の映像化」=「過剰な可視化」が用意されている。
是枝の脚本は達者で、兄弟の性格の描きわけも見事だが、
弟の夢が、兄こそが見そうな夢だった点に
交差と反射にかかわる仕掛けさえみてとれた。
●ただし「過剰な可視化」は
「映画が映画であること」の信頼であって
その自己再帰性は、映画外からは自己閉塞性として受理される。
この点に楽観的なのが是枝監督の個性だろう。
●この映画ではもうひとつ「過信」が現れている。
シーン進展によって映画は「語る」のだが、
その「語り」の駆動化にこそ「過信」が感じられるのだ。
もちろん是枝監督は達者だから、
子供たちの日常をえがくその傍らで
間接的に「物語」を進展させる。
●ただしいくら間接性に覆われているとはいえ
語りの駆動化に子供たちが過剰に参入させられているのも事実で
結果、子供がえがかれていても
すべてのシーンが「大人だけのシーン」にみえてしまう。
これは「子供だけのシーン」を残酷に連続させた、
『誰も知らない』からの反転と受けとるべきだろう。
●むろん子供が前面化し、中心化・物質化するシーンの進展では
それなりの「ぼやっとした」編集が必要だとおもうのだが。
編集もまた是枝裕和だった。
●ところで前田兄弟は、ならびに彼らの学友たちは
はたしてみな「子供」なのだろうか。
「子供」にしては喋りすぎている。
噴煙にはしゃぐことなく桜島の火山灰に暗澹となる
前田兄の感情は大人のものだし、
「子供手当」の件を「子供ながらに」
父・オダギリジョーに切り出す前田弟も
「大人びている」のではなく「大人」なのではないか。
●祖父・橋爪功がつくる
鹿児島銘菓「かるかん」の味の形容、「ぼんやりした」は
前田兄から大人たちに伝播しながらも
さらに「そのぼんやりが癖になる」と
大人めいた感慨を導くオチにまでいたるのだから、
じつはこの作品における子供/大人の倒錯は
意識的なものとみていいだろう。
●いずれにせよ、「過剰な可視化」と「語りの駆動化」が
両輪としてフルに回転する中盤まで
『奇跡』はいたずらに観客を疲弊させる。
なにか、「そのもの」をみせる「映像の余裕」を欠いているのだ。
むろんそれはケータイ電話で親に隠れて連絡をとりあう兄弟が
その中間地の熊本で出会うまでの作用的導入部と
捉えるべきなのかもしれない。
●事実、ふたりが再会して突然、画面が躍動しだす。
「まえだまえだ」が同一画面内に入ることは切望されていた。
とりわけ同行したひとりの少女の「機転」によって
舞台が高橋長英とりりィの老夫婦の家に移り、
その縁先に前田兄弟が並んで、
さらにはふたりが背中合わせに背比べをして
とつぜん画面の印象がふかくなるのだった。
●むろんここではふたりが同一画面にいるのだから
シーンバックも夢の映像化も不要で
つまりは過剰性の解除によって
画面が本来性を取り戻したのだといえる。
●説明しておかなければならないが、
福岡鹿児島間の九州新幹線全線開通にむけての
「企画映画」でもある本作は、
その始発から終点までではなく、
「途中」こそをリマインドするよう観客に促す、
その意味では「正しい」企画作品だ。
●このとき「都市伝説」がもちこまれる。
九州新幹線の上りと下りの列車が
すれちがうとき「奇跡」が起こる――
その光景そのものに願をかければ
願いはかならず実現する――という俗信だった。
●高橋長英の家を早朝に出てトラックの荷台にのせてもらい、
新幹線の線路が間近にみえる
(片側がトンネルだ)高台の山地まで子供たちはゆく。
ここまでの流れも申し分ない。
そしてついに新幹線がすれちがうとき、
子供たちはそれぞれの「願い」を
轟音に掻き消されながらも叫ぶ。
感涙的なシーンだ。
それが「女優になりたい」「死んだ犬を生き返らせて」など
「子供っぽいもの」であればなおさら。
●是枝監督の呼吸は、
一旦「過剰」をつくりだしたあと「抑制」をおこなう
「転回」にその特徴があるともいえる。
前田兄の本来の願いは「家族をふたたびひとつにしてくれ」だったが
その願いは画面進行と音声処理のなかに「潜った」。
再浮上したとき「家族」に関わる願いは
「世界」に関わる願いに変化していたとわかる
(みながきらう教師阿部寛のことばが影響していた――
兄は弟に、やがてふたりが別方向に帰るローカル駅で
仲間たちから離れて、そっとそれを語ったのだった)。
とうぜんここでは「おまえと世界の闘いでは
世界を支援せよ」というカフカの箴言もおもいだされる。
●しかし新幹線の「すれちがい」が気を呼んで
「奇跡」を起こす、と語られるなら、
この映画にどうして印象的な
「人と人のすれちがいシーン」がないのだろう。
すれちがいと「奇跡」との関係に
人同士をもちいるほうがより不可視的で、
したがって真の意味で映画的なはずなのに。
●なにか錯誤のように
子供を中心にした人物はたえず同一方向を進み、
徒競走をしたり、追い越しをしたりを繰り返すだけで、
「すれちがい」を呼ぶ逆方向の移動を
身体的に発明しないのだった。
これは奇異だし、
人の人のすれちがいをドラマに欠いてしまったのも
脚本=監督である是枝裕和の手痛い失点と呼べるのではないか。
●意図的にだろう、カール・ドライヤーの神秘的傑作
(しかしあっけらかんとしている)『奇跡』と同題の作品だ。
だから新幹線のすれちがいに
「願い」を成功裡に呼びかけたあと
前田兄と学友たちが降り立った
ラストちかくの鹿児島中央駅のロングショットのシーンでは
学友のひとりが鞄に隠していた「死んだ犬」が
復活の吠え声をあげるのではないかと身構えていた。
それは惜しくもなかった。
犬の復活は神経質な過剰性の発露ではない。
単純に映画性の発露と呼ばれるべきものだろう。
●作品がかかえるある種の「神経質」は
つなぎのフラッシュ編集的な場面で
かならず、くるりの音楽がつかわれている点にも明白だった。
もっともエンドロールにながれる
くるり「奇跡」はものすごく名曲だったし、
冒頭ちかくでながれるアコギのアルペジオから始まる曲は
遮断機の警報音/電車の通過音とギター音との「調性」が
何と一致してもいたのだった。
松岡政則のように
●松岡政則のように
【くつをなくした日】
大永 歩
くつをなくした日
その日は一日中
深緑のはき物が
足になじまなかった
まるで足のありどころが
そこにしかないと言いたげだった
くつはうす汚れていた
特別なんて
わたしの砂のにおいくらいだった
はき物は
風がよくとおった
つま先がかじかんだ
芯がとおってきもちのよい冷気が
足の指に絡まっていた
みがきのかかった皺は
歩くを否定していた
ごくしじゅうごのますの
いんにがににあった
わたしのくつは
空を歩いたのだ
くつはうす汚れていた
プラスチック、としろいペンキを網かけられた
青いポリバケツは
砂でいっぱいだった
だれのにおいともつかない砂だった
砂になったくつ
くつになったわたしの
足に
無数の蟻が這っていた
●
【九月一日】
高橋奈緒美
以前の家では
雀を丁寧に数えた
数えられた雀は
離散しては再び戻り
いつまでも数えられている
(雀の群れは数えてくれる人を好んだ)
ネズミの足音を追った
まるで昔から自分の家だったように
走り回るネズミは
いつまでも寝床を変えない
(ネズミは足音を聞く人を小ばかにしていた)
ゴキブリの餌をまいた
毒を盛られていても
知らず食べるゴキブリは
いつまでも死なない
(ゴキブリは手でつぶす人だけを恐れた)
すべてを
追い出すことにした
だけど
追い出したのは
自分だったか
追い出されたのが
自分だったか
あの人を追い出したということは
この家は誰のものになったのか
雀を数えることはしない
ネズミの足音は聞こうとしない
ゴキブリを手でつぶすこともできない
私は
この家にいるモノとしてふさわしいか
私は
涙があふれた
私さえも
追い出した
●
【果物】
三村京子
預かっているのにわたしは
ぶちまけました
ざくろ色やかなしい色の
預かりが
あたりに飛び散りました
人はどうとでも生きてゆける
言ってごらん
ほんとうのことを
急いでいるのです
果物のように
齧りながら
駆けてゆくことだって
できるのです
魔がさして
籠の中身をぶちまけました
少し恥ずかしかったけれど
わたしが
貪っているのは
わたしなんだから
●
【トースト】
二宮莉麻
トースト
をかじる
四葉の刻印が
おされている
あの子の幸せをねがった
あの子のうるみをねがった
レシピは
誰にも
わからない
あの子の中におりこまれているから
春になった
四葉が
一面に咲き乱れた
あの子が
笑ってるみたいだった
たくさんつんでかえれるように
わたしはただ
雨にいのった
●
【夏の落ちる】
鎌田菜穂
彼を待っていた
真夏の午後の街は
ひとがひしめいて
だれかが吐きだした空気を
また直ぐにだれかが吸う
そのしめりで
長袖のパーカーが真白い皮膚にはりつく
わたしはすこし離れて
冷たい石に座って勝手に
彼を待っていた
ニット帽をかぶった男に
援助交際にさそわれても
脚の悪い老人が
ゆるいトランクスの
隙から股間を露わしても
人混みの輪郭をみつめ
葡萄をたべながら
彼を待っていた
彼のあつい身のなかで眠りたいとおもうと
ひるまごと
夏に沈む
まぶたの内のあかるみに
まもられながら
彼を待っていた
夏の落ちるにつぶされ
ちいさくなって嘔吐きながら
ただ彼を待っていた
●
【つゆの墓】
中村郁子
玄武や雲母のあいだから
のぼるけむりを見つめている
しずめる香り
池の蓮はじきに咲く
血をながさない
戦争だってある
それに行くのはごめんで
さげすまれても
深く 切りつけられなかった
ひだりのてくび
まいおちる水滴の中を
のぼる
ひとびとのからだ
空へとけこむ
透明な
のぼるをじっと見つめている
●
【青のみずべを走り】
中村郁子
夏がちかい
さやかに鳴る木に
すこしの涼しさ
わたしの中には鬼がいると
だれかのふしあわせを楽しむ化け物がいると
伝えなくてはならないから
それらは静寂のときにわたしをのっとる
決まった道を進まない渦まく炎がくすぶり広がる
真実を知った
あなたはどんな顔をしていたのでしょう
危険な場所へと
あなたを巻きこめないから
遠ざかろうと
走ったのに
ついてきてしまった
ひと
握られた手の中に
知らなかったもの
人いきれにも
まどわされない
排気ガスにも
けがされない
もの
コバルトブルーの泉の中に
鬼は消えてしまっていた
●
【マコん家とボクん家と】
森田 直
集金のおばさんが来る。モニターの向こうで微笑んでいる
ボクはよく「おやが今いないんです」と つま先立ちでいった
マコん家は新聞屋で、ボクは小学生の頃よく押しかけた
プレステにセガサターンに少年ジャンプの山
新聞は玄関に積んであった
玄関と階段はいつも暗かった
ボクたちはいつも1階で遊んだ
集金のおばさんが来た。清潔な声をしていた
いつも画面を通してしゃべった
一度も顔を見ていない
マコは明るかった
クラスで人気があった
足が速かった お母さんが大好きだった
今はどこで 何をやっているのやら
マコを思うといつも マコん家の2階が気にかかった
集金のおばさんは マコん家から来るのだった
ボクは「おやが留守なもので」といった
ちょっと裏返った
思い出してみると、マコん家は暗かった
今思い出してみると、台所もみすぼらしかった
その頃は、気づきもしなかった
その頃は鼻をつまんだり、目を閉じたりしなかった
肺の奥までマコん家をすった
正直にマコん家を写し取った
集金のおばさんは なんでボクん家にまで来るのだ
集金のおばさんは みんな慎ましやかだった
集金のおばさんを どうにかしなければならなかった
気づかれないように
気づかないうちに
ボクはマコん家に全部を なすり付けていた
ボクん家では何も引き受けたくなかった
まただ。集金のおばさんが、玄関のベルを鳴らす
ボクは画面越しに 慎重に「ご苦労様です」という
ボクは逃れようがないように思いながら
染み付いてしまった懐かしさを思いながら
両親を思いながら 兄弟を思いながら
穏やかならざる胸を
優しくなでる声に
やり切れなくも もたれかかる
●
【銅】
森川光樹
銅を溶かしている
ビーカーを
むこうのガクランを青く
底も
天気のように
青い。
銅を溶かしている
まわる匙の時間をまぜて
下校までを混ぜようとする。
銅を溶かしている渦に
みとれる
銅を溶かしている
正体不明の
どろどろした物売りを青く
ささりそうなビルの数学的な尖端を青く
父母の罵詈を青く。
青い血をながし
のたうつ床から仰ぐ
寒い風に銅が溶けている。
私より青まない
何人かにすがっている。
青い線路をつたったさき
昔の町の
ひとらの原色を願う。
●
【日】
森川光樹
窓ぎわのことばをゆらし
日を描くふたりは
照っていても
めぐるためだけに
日に描かれたふたりは
それぞれの夏至に別れた
終わらない昼、
いちめんの日差しの下
黒い日々を点々と落とす裏がわに
日がまだ描かれている
●
【夏の前日】
山崎 翔
冷蔵庫に積み上げられた屍体を
つとめて冷静に
そして的確に処理した
泣くこともできない
ふたたび生まれ損なったものたちが
最期のちからで漏れ出す
『水音』
その濁りを
弔うことばもない
風の抜けない台所では
滞りつづけた澱と
冷蔵庫からの鈍い冷気とが
互いに互いを凌辱しあう
午前三時
静かなる政治闘争
淑やかなるゲリラ部隊
おとこは兵士に志願しなければならない
その滑稽さ
泣くこともできない
あしたは『雨』を見るだろう
横になると
冷蔵庫を積むおとこが
その老いゆえに
もう目が覚めたのか
となりで堂々と『水音』を立てている
生まれ損なったいきものが漏れ出し
湿度で満たされた六畳間のまどろみで
否応なく存在を辱められる
ぼくは
おんなに生まれ損なったことを
泣くこともできない
●
【のまれる】
斎田尚佳
肌の向こうの色が
わからないようにできている
煙草を楽しむことばが
ひどく黒く思えてならないように
のめば、のまれる
喉の赤の もっと奥
きっと汚れていくのだと見ていた
さよならのことばを口にできずに
指先でストローの包み紙を
六角形に変えてゆく
飲み物を重ねたグラスの中には
薄まったジンジャーエールしか
残っていない
わたしもコーヒーを飲むようになった
その色が胸を一撫でしてく
●
【皿】
長谷川 明
僕は皿を前にして
この人はぼくを生んだ人だ
この人はぼくを生んだ人ではない
物を入れながら
思う
皿の前に
添えられた
においをかみのように感じた
ずっとこれが嫌いだった
暑い皿の上に
女だけが残されている
●
【家を焼く】
長谷川 明
足が腐っている
噛まれているうちに
家が建ってからは
撫でに来たり
はいあわされたりした
隣から
足が三本ある
それが
家を焼いた
足がなくなってから
たくさんの家が建った
撫でようとして
やめる
まだ
燃えている
●
「松岡政則のように」という課題は難しい。
「生」の断片を詩篇に持ち込み、
読者の息を飲ませるのが主眼だとして、
松岡さんの場合は
・「草」「声」などの語の多義化、
・仏語に通じる概念語や方言使用、
・被差別ディテール、
・動詞の名詞化
などの綜合から現れてくる「異言」
(それでもことばの最高の意味で抒情的なのだ)を
「まねぶ」ということになりそうだが、
これを下手にやると
根拠もないのに有徴の人生の上っ面を
模倣することになりかねないからだ。
それでは実在の生への侮蔑となってしまう。
以前のミクシィで、当時のマイミクが、
松岡さんと故・古賀忠昭の語彙、
さらには鹿児島弁を混用し、
眼も当てられない被差別イメージの詩を
「文学的に」書いていたのをおもいだす。
手柄意識たっぷりに得々と。
だから松岡さんの参照は
ものすごく注意を要する難題のはずなのだが
「言語派」と呼ばれることの多いぼくの教えでは
どうしても実人生に依拠するという
多くの詩のもつモチベーションが軽視される惧れがある。
これを避けるべく、
課題「松岡政則のように」に踏み切ったのだった。
松岡さんの詩篇に「似ていない」ものは除外するとして
今回は精鋭が結集した、という印象。
以前のぼくのマイミクのように
厚顔無恥で濁りきった文学的詩篇などひとつもなく、
「生の悲哀」を真芯に置いた体験的詩篇が
それも「異言」をつうじて出現している。
みんな、注意点をよく守ってくれた。
評点については今回は次点からゆく。
次点は以下四篇。
・大永 歩「くつをなくした日」
・高橋奈緒美「九月一日」
・二宮莉麻「トースト」
・中村郁子「つゆの墓」
大永さんの「くつをなくした日」は
(学校で)自分の靴(上履き?)を紛失し
不本意な代用靴を穿かされたときの違和感を描く。
ある被差別的な深遠にその足は包まれて
いっぽう自分の元の靴は「空を歩いた」。
身体の分裂感が一瞬のうちに捉えられた。
高橋さんの「九月一日」は
自分にとっての「以前の家」を隠喩的につづる。
雀、ネズミ、ゴキブリと
家の辺縁性を象徴する動物が列挙されたあと
何かはっきりつづられない事情によって
「自分=私」に疎外が結果される。
詩篇に一瞬顔を出す「あの人」に息を呑む。
松岡さんの詩篇の印象にとてもちかい。
二宮さんの「トースト」は
「あの子のうるみをねがった」の一行がすばらしい。
その「あの子」が誰で「わたし」とどんな関係なのかは
詩篇内から手がかりをあたえられない。
「あの子」は喪失されていて
しかも「四葉=幸福」と
ひと括りにされている印象だけのこる。
まったく個人的詩篇といってよいのに、
普遍性を獲得していて、
井坂洋子さんの一部の作風も想起した。
中村さんの「つゆの墓」は
告白形式としての自傷衝動が
どう緩和されたかをしめすその後の聯
(つまり最後の二聯)がうつくしい。
松岡さん流の「動詞の名詞化」が決まっている。
最高点は以下の二篇。
・森川光樹「銅」
・長谷川 明「皿」
ふたりが採った方法は共通しているかもしれない。
つまり、どうせ苦悩が勲章のようについた
自分の生などないのなら、
ことばへの感覚を脱臼化させ
異言をもちいることで
ありえた自我を不敵に詩篇に彷徨わせよう、ということだ。
森川くんの「銅」は総体的に銅の化学実験にむかいながら
文法が壊れ、「銅」から「青」へと反復語彙が変化し、
とけた銅が下意識にあたえた形状と色の奇怪さを
自分にくりこむようにして
残酷に、うつくしく出来上がっている。
「青む」という旧い動詞を知っているのに吃驚した
(森川くんはもう一篇の「日」も素晴らしい)。
長谷川くんの「皿」はたぶん育った家庭への違和感と
食事への違和感を非常にすくないことばで
抽象的に構築している。
この「ことばのすくなさ」がそれじたい残酷でうつくしい。
そのさい、「皿」の抽象的形象が奏効している。
「かみ」は「神」「髪」ではなく「紙」ではないか。
その食事を出す家は主体のなかで放棄されたのだろうか、
最終行に出てくる「女」には
母から母性を減算された「女」だけが無惨にただよっている
ビデオデイズ
【ビデオデイズ】
みひらきながら寝てしまい
いったん眼底まで灼かれれば
あこがれていた交接場すら
靴工場にみえてきた白くわらう
わからないことのおおむねが
求愛される側の瞑目だった
そんな目を眼がみて
視覚を滅茶苦茶にされる
おかげでひとつもビデオから
忠誠を学んだことがない白くわらう
ただ肩のかたちから骨を
はがされるような骨の組からは
肉のもちうる円さを
むだに測りつづけ
眼に数学があふれてきたのだ
かかとばかりをみて
さみしくなってゆく白くわらう
それら工作をまえにして
視ることと愛さないこととは
しびれるような葛藤だった
だから一作を観終われば
脳からは眼が不安にうかんで
顔の左右もどこかずれた白くわらう
部屋へ侵食してきた空腹に
外食にゆく足もとまでとられて
モデルとともに消えてゆくだろう
みることであやめてきたそこに
性愛の月あかりのすべて
ただかたちだけにもどってゆく
なんとさみしい愛着なのか白くわらう
白楊
【白楊】
姿になっている月かげの白楊が
ひとつ、この夜の姿だろうか
ふるい色身とその一本をみとれば
風景のそこだけあまく閊えて
かどはまがってゆかざるをえない
にげるひとまがりがめぐりとなって
たどる塀みちもどんどん青まさり
鼓動に女のうすれがはいった
背なかももうにおいをだし
さっきみた姿をおぶったままだ
最近の映像の問題
以下、facebookからペースト。
●
是枝裕和監督『奇跡』を観る前に、
前作『空気人形』をいま鑑賞。
「命」や「こころ」につき再考を迫る
後味の淋しい作品だが、
人形愛の哲学化という点では、
押井アニメが成立している現在、
退行の印象を受けた。
ホフマン『砂男』でもリラダン『未来のイヴ』でも
何でも良いが、
「人形」に不安や奇怪な信念が取り巻いてこそ、
人形と人間のあいだに狂的な領域ができ、
人間性までもが変貌する。
そういう強度を欠いているため、
ファンタジーとこの世の平仄の未整理という、
寓意にはありえない澱も出てしまった。
富司純子以下の人間類型が、
『ワンダフルライフ』以来の「並列型」なのも、
人形愛者・板尾創路から崇高を奪ったのも、残念だった。
ぺ・ドゥナの裸身は美しく、
リー・ビンビンの撮影も流麗なものの、
それらが近隣国からの富の奪取なのも、
ポール・サイモンのかつてのアルバムをおもわせ
気にかかった。
●
このごろ気になるのは、
作品の前提がふかく吟味されないままに、
映画が丁寧に撮られ、俳優の名演技も呼び込み、
さらに寂寥や疎外や慙愧などまで打ち出して、
結果、一般的な「佳作」の域に綺麗に収まってしまうことだ。
それで内実と枠組のズレが印象されてしまう。
行定勲の『今度は愛妻家』についても
じつは同様のことをおもった。
日本映画の現在の衰退は、日本の文学性の衰退と、
ある一面では要約できるだろう。
●
行定勲『今度は愛妻家』は
じつは最近の既存映画が奇妙な同一性を組織している。
行定勲『世界の中心で、愛をさけぶ』、
成島出『八日目の蝉』、
青山真治『東京公園』(以上は喪失と写真現像のテーマ)、
黒木和雄『父と暮せば』
(『今度は』との類似点は死者が現前化する舞台劇的構造
--淵源は『あなただけ今晩は』など)。
かつて蓮実重彦が
『小説から遠く離れて』で摘出した小説の主題磁圏問題と、
共通するものをかんじるが、
最近の映画評論でそのことが指摘されているのだろうか。
●
死者が生者として画面に登場しまくる設定は、
青山真治『東京公園』にもあった。
三浦春馬の親友にして、
榮倉奈々の恋人だった染谷将太の扱いがそう。
それと現像と死者のテーマなら『八月のクリスマス』にもあった。
こっちは韓国版と日本版リメイクのおまけつき。
似た細部のヴァリエーションで
これほど色んな映画ができていいものか、といえば
「柳の下の二匹めの泥鰌」を狙う映画界だから
悪いともいえないのだが、
これほどウェットな設定ばかりが横行しても・・・とおもう。
●
『空気人形』について女房に話したら、
ぼくのいっていることがわかりにくかったようなので補足を。
要するに、ぺ・ドゥナの「人形」を
観客が観ているとおりに、
たとえばビデオ屋の岩松了やARATAも視ているのか
(そうであればじつは作劇自体がありえなくなってしまう)
という問題が惹起され、
それが「認識の差異は超えられない」という
哲学問題まで呼び入れてくる、ということだ。
そういう「不問性」をファンタジーにしてしまうことで、
実際はファンタジーにたいする
傲慢な強圧が起こっているとおもうのだが。
この問題はじつは『ワンダフルライフ』にもあった。
●
いうまでもないことだが、
「可視化」の局面において、
映画での写真現像のテーマと、
死者がみえることは表裏を形成する。
しかしこの映像への権力付与は
「見えないものは見えないままに消える」という
通常の現世法則をも凌駕してしまうし、
同時にその権力付与がギミックに似すぎて
逼塞感をもたらす。
●
もちろん際立った「可視化」というなら、
「人形」という性格を付加されて
映画であらわになるぺ・ドゥナの裸身を
あげなくてはならない。
「人形の人間化」という幼児的想像力に馴染むものが
「裸体の顕示」という大人の欲望と混淆され
結果、観客に潜んでいる「大人の欲望の幼児性」が
複雑な手続きで「赦免」されてゆく。
その意味では『空気人形』は高度な政治映画なのだった。
可視化された途端にイデオロギッシュになるものには
「ノスタルジー」や「カタストロフ」があるだろうが、
「赦免」もまたそうなのだった。
これらはすべて本来的には「みえない」。
下天
【下天】
ならんですわることが
空をつきぬけるような場所があって
そこでは眼下にたなびいているものが
なにがしか敗北のおもいでになる
それでもしめる下天のひとは
あふれだすむらさきをゆびさして
おもいえがく銀貨のなにほどかとつぶやく
頂上がこれらをおぼえる涯だとして
わたしはそこでみえるものになることを
草とともにゆれながらまなんでゆく
脳天
【脳天】
味は舌から脳天を
あまく捲きあげてくるながれ
あじわうときにはいつも
かるい窒息や色弱の発作におそわれる
そういう味を得るために
ハス池の夕暮をふたりさまようと
やぶれているかずかずには
うすい皮膚もするどくなった
からだのこちらがむしろやぶけている
ような味、骨のいないバス停だ
中本道代のように
●中本道代のように
【ごみ捨場の前】
鎌田菜穂
ひるまの間をきりさく
たかいクレーンに吊られて、
灰色の作業服が何人も
ごみを積んだリヤカーを運んでくる
建物のしかくい口に入り、また出て、
世界のきれはしを集めにゆく
おととい拾った長椅子に
寝転がって
わたしは靴を放る
むこうのまっしろな空の
クレーンはあたらしく何かをつくっている
または壊している
幾度目かのシャッターをあける音で
目がさめてもなお
腐ったひるまのにおいが漂う
●
【かえりみち】
高橋奈緒美
車輪を停める位置は
いつも決まっていた
少女は
振り向いては
手招きし
私たちを置きざりにする
車椅子と私の散歩は
そこで終わり
帰ろう
と車椅子の上から声がする
それを発したのは誰だったか
車輪を転がし
夕焼けを閉じ込めたままの身を探しては
少女の面影につぶやく
思えば私はどこに帰るのか
振り返っても少女は見えない
奪い取った帰り道
私の家は見つかるだろうか
ひとりの足音は
車椅子の上
祖母の耳には届かないだろう
●
【再生】
依田冬派
はばたいている灰色の鳥が
そらに貼り付いて
やがてあめとなっておちる
純白の雲は
幼児のあしもとまで押しつぶされ
(呼吸を維持できない)
激しい雨にかき消された声たちが
みずたまりを別人の貌で通過して
(現在を正視できない)
下水に無名をとかしながら
混じる血のいろを確かめる
私たちはやがて門に入るだろう
そのさきの領土に主はいない
用意サレタ空白ノ
背面ヲナゾルヨウニ
初夏ノ
花びらを含んだ絵筆を
たぎるままに 左右 前後へと…
(植物はいつも黙っている)
●
【罪】
二宮莉麻
聖書を水にひたす
人の罪のインクが
空に流れ出した
星が愛を満たすとき
あどけない前髪からのぞく眼は
わたしのうるみとなる
黒いものがより一層
鮮明になり
ばらいろのあの子の頬から
色を奪った
はんかちはただ漆黒に染まる
●
【あなたは走りだす】
三村京子
つよい風と風が拮抗し
地上の気圧が消えるとき
あなたの蹠が炎えだす
あなたは走りだす
踏みつけた葦も葭も
すべてが焦げついてゆく
光の中を
扁平に撓められた
うすい膜に覆われた
少女の体液がつねに
底ふかくに沈殿している
強欲と聖性とが破裂している
●
【深淵へむかうひとへ】
中村郁子
もえぎ色の千里のむこう
ゆげの立つにごった
エメラルドの液体
地底へと
あなたはもぐっていくの?
うごきつづける火の山には
近づくことはできない
毒を吸うから
あなたは山をつくる
熱におしながされている感覚はない
こげ茶色の口からもくもくと
沸く あれは
地球の真ん中へとむかったひとの
蒸発した
からだ
なのでしょう
●
【遭難】
中村郁子
ぼだい樹の上の
星がかがやいても
いちにちの終わりは
変わらない
その碧の光は
遠くへと流れていく
ぼだい樹の下の
かわいた土には
生きたいと思っている
アリが
運んでいく なにか
風と雪とが刃のように
この山に舞う
星となるため
ささげましょう
●
【手紙】
大永 歩
背からはらへ
一気につらぬいた
ボーリング試料に
八十円切手を貼った
すきとおる試験管のなかに
皮から脊椎から川から皮までの
生命活動の飛沫が
そのままチルドされていた
なまを知る呼吸だけ黄土だった
祈るひとらは
指と指のすきまをなくしたいから
手をあわせるのだろう
海のむこうのだれかが
ああ、血圧が高いですね
と
咳をした
●
【春の嵐】
大永 歩
真夜中の嵐は
街のすべてを飲みこんで
わたしは春の嵐になった
風のむこうに
むれがあった
何者かはわからなかった
座ろうとした椅子は
どこかにとんでいった
光だけ
宙をまっていた
●
【白日夢】
川名佳比古
手すりの向こうの空のそこ
窓ガラスがにじみ
白日夢とつながった
空のそこはもうすでに
海のそこであるので
わたしは溺れてしまうが
烏はじっと手すりにとまり
あおくすきとおる沈黙をながめ
そのこまかな震えに身を投げるとき
鈍色の叫びが
あなたの首によりそっている
●
【帰途】
柏谷久美子
家までの帰り道
誰かとだれかの話声のする方へ
それだけをたよりに歩いていった
水面を見つめた人達は
自分も他人も見えない
そこで
確かに死相を見たという
飛び降りた塔は長い影をつくりはじめていた
人々は波紋を広げて消えていき
死相だけがわたしといた
気がつくと
話声は風の音に変わり
そして
大音量の無音が聞こえた
わたしは水面を覗き込む
●
【まわる】
荻原永璃
午前十一時の白い電車にのって
あなたは空港へ行く
海はあまりに遠かった
行方をたずねても
背後には花吹雪のみ
梔子のかおりが
やや未来の方から漂う
雨のふる肌ざわりに包まれる
あなたはくるくるまわる
二百七十四回転すると
大人になる
トゥループ
雨粒と花びら
白い足に泥が散る
回転 展開 廻天
電車の外装は花びらと飛沫である
トンネルの向こうから海は逆流する
空港の翼は開花する
あなたは遠くに行く
空港も海も透過して
水を浴び
花びらをまとい
くるくると
あなたのいない電車が
みずのしたで
まだまわり続けている
●
【金平糖】
斎田尚佳
淡いとげがささって
ひろがるあまい痛みがつれてゆく
水にひそめた花はかわらず
手ですくえばさらさらとこぼれて
なにもなかったようにレースを装う
まるくなる肢体は輪郭をうしなって
やがて枯れると知りながら
わたしは砂糖水をやるのだろう
かりかりとひとつずつ砕きながら
金平糖をほおばった指先は
ひろがるあまい痛みをつれてくる
●
【波紋】
渡邊彩恵
赫い一滴が
もたれかかる腕を這いずり
わたしを止メドモナク貪りながら
堕ちて広がる
暗い新月の夜に
かき集めようとも
既に遅く
戻れないことは明白で
むしろ、
生温かい吐息のごとく
あなたを犯していく
苔の生えた岩は
この静かな森には似つかわしくない
生臭さを漂わせ
一筋の流れを産み出し
やがては淀んだ土に
沈んでいった
●
【むこうの家】
森川光樹
きしんだ音を回すうち
老婆が忘れた家への
車になっていた
夜風があるので
布をかぶせた
森を抜けても
道の端の木々が
先回りする
遠ざかるあの家へ
まっすぐにむかう
そのあいだずっと
布の下で
しあわせな一日が
回り続けていた
●
【ezoe】
長谷川 明
眠らずに歩くことがあり
歩くうちに雨も降ってくる
藤の森に水をさがすころ
そこに棲んでいるこえを海からよぼうとして
つらなりはezoe
大陸をめざしたまなざしは
さるの形になる
物を売る女の「ezoe ezoe」という震わせに
せなの夕焼けをみていた
老いをみている
机をまわっていたころは
あちこちに刺さっていたezoe
最近
寝なくなった
●
【火曜日】
山崎 翔
半紙には
食べやすい言葉ばかりが並べられて
そこらの街角で風に舞っている
行き交う人たちも
点や線の滲んだ半紙を貼り付けたような顔で
笑ったり腫れあがったりしている
そのなかでも
ひときわ半紙を貼り付けたような顔の
口元が
幼い子供のような信仰をふりかざしながら
戦争でもしようか
と言っているように見えた
先端をまた尖らせて
●
【夢心地】
斎藤風花
息のつかいかたをおぼえたころ
彼女は骨になる
都会へでれば田舎をのぞみ
田舎へかえれば都会をのぞみ
みたされないおんなの
虚空もやはり みたされなかった
慣れ親しんだ部屋で
ヒステリックを妄想する
埃だらけのバルコニーからは
あたらしい風は入らない
できない、できる、が、できなくて
ふう、と放ったさいごの時間を
一本の灰で愛おしみ
彼女は朝もやにつつまれ
よどんだバルコニーのふもと
わかさを永遠のものとした
のこされたぬけがらは
いくらでも綺麗になれた
それでも彼女ののぞむ綺麗さには
及ばないのだろうが
●
【背負う名】
中川達矢
名が与えられてからは
生かされることになり
ひとらしさを求められた
すれ違う人の目から
こぼれ落ちてくる情報として
名が見当たらずに
うつむいては
うろうろしている
名札をつけないでいいと
教えてくれた先生は
存在を失った
神の模倣として
命名の快感を知るために
こどもを産む機能を
わざわざ神が
ご用意してくださった
背中で汗を吸い
はがれることを知らない
名札があることに
気がついてしまった
●
前回の「井坂洋子のように」につづいては
「中本道代のように」。
井坂さんが詩的手法を絢爛と合流させたメジャー詩の作者だとすると
中本さんの詩は単線で語彙を絞りこんだ清潔な峻厳さに特色がある。
ドゥルーズのいう「マイナー文学」とはちがった意味だが
(それは要約的にいえば国語のなかに別の国語をつくる文学だ)、
しずかなマイナーコードで奏でられる。
「井坂洋子のように」は井坂さんの「詩の力」に身を預ければ成立するが、
「中本道代のように」は中本的な「書かないこと」「書けないこと」を
みずからに組み込んで、
その詩作を「懐疑」することなしには到来しない。
中本さんの詩はその初期には「暗い」といわれたが
いまはその評言のみではちがう、という実感がある。
まずは「少ない」のであり、
次に、その「少なさによって淋しい」のだ。
その「淋しさ」は傍観者的な淋しさだから
井坂さんのような主体創造性からは距離がある。
ただし中本さんの「少なさ」「淋しさ」は
その凛冽さによって極上だから
「まねぶ者」は「淋しさ」を自身に装填するほかなくなる。
以上が精神上の模倣点だが
では詩法上どう「まねぶ」かというと
まずは散文性が極小幅で招致され
それが「書かないこと」で余韻を放つように
詩を設計しなければならないだろう。
そのうえで「湖=水」や「まわる」や「貌」といった
中本的語彙への参照もでてくる。
「力をもらって書け」と受講生を励起するのはたやすい。
逆に、「力の制御装置をもらい受け、自己を縮減しろ」といわれれば
「詩を書く自我」をひび割ることにもつながってゆく。
中本さんはその意味で危険な模倣対象なのだ。
だいいち学生にとっては「足りなさ」を放置するなど
からだに隙間風を入れるような不安だろう。
ところが今回も学生はぼくの意図を汲み、よく奮闘した。
まずしさを怖れなかった。
かといって江代充さんのような「透明な凝縮」によって
まずしさを代補しようともしなかった。
その「物欲しげでない」自己管理能力とは何なのだろう。
むろん男子学生には「中本道代のように」はより難題だ。
中本的「少なさ」「少なさの淋しさ」は
女性性領域に接続しているという「常識」が働くはずで、
ならば書く主体を女性化しようかという迷いも生じるだろう。
ネカマ詩の失敗は異様に恥しい。
貧弱な、もしくは驕慢な女性観までもが透けてしまうからだ。
男子学生は賢明にもそれを回避しながら
「妙な圧縮性」のなかにしずんだ。
今回も評点を--
最高点はまたもふたつ。
中村郁子さんの「深淵へむかうひとへ」と
大永歩さんの「春の嵐」。
どちらもシンプルな着想でシンプルに書き切り、
その際の「足らない」という自意識を清潔に制圧している。
そういう手つきはじつはぼくも苦手だったりする。
中村さんの詩篇は
「あなた」「火山」「マグマ」の弁別をあやうくし、
それらをすべて「あなた」と呼ぶことで
じつは「あなた」が脱臼し、
ひいては一人称も脱臼してゆく。
シンプルな構成だが、そこに伏在する「脱臼連鎖」が
「崩れ」の光景のように「淋しい」。
大永さんの詩篇は
飛翔した椅子と、その空間的顛末をしるした
措辞がさらにシンプルだ。
たとえば中本さんの「湖」の詩が印象的なら、
さらに「空」がそこに加わらなければならない、
しかもそれは「わたし」の飛翔ではなく
「わたし」を代補するものや「痕跡」の飛翔を
かたどらなければならない。
そうして椅子が飛んだ。
じつはぼくも「中本道代のように」に参加してみて
そうした大永さんの直観の正しさがよくわかる。
文法的に、中本さんの詩に最も接近し
詩的な成果をあげたのは
鎌田菜穂さんの「ごみ捨場の前」で、
これを次点としよう。
次々点は列挙的に。
高橋奈緒美「かえりみち」、
荻原永璃「まわる」、
斎田尚佳「金平糖」
少女期
【少女期】
跣〔はだし〕になると
そこからはだかが現れる
自分のからだをささげもち
とおく天からも曳かれて
世のしろさをあるきゆくには
この跣がちょうどよい
あしのうらが風にとんで
足の甲が地に時計まわりになるころ
あしのうらと足の甲のあいだが
あるくようにひろがってゆく
便りしたわたしの消息にも
はだかがしたたって
しるされた文字がものうい
ひとにさしだす手紙を踏んだので
あしのうらだらけの夏だ
ゆあみまでのときは
あるきにただ跣をにぎられる
あれはしろい葉をしげらせる樹
木橋の欄干にひこばえる花
まぢかには小屋もあって
そのなかの樹としてわたしは
しめり気となるまで跣をにぎられてゆく
生ける気配をまきちらしすぎたことは
塵のようななんの咎だろう
やがて跣から骨に沿って
わたしの塔が細くされてもゆく
まどの外を風がゆっくりわたって
その風のながれを代理しながら
跣の色をした溜息をつく
もうそこに貌はない
李相日『悪人』についてのメモ
李相日『悪人』は
「悪人」のレッテルを貼られた者について
その人間的奥行を描出するというものだろうが
(それで「東宝」作品にも成りえたのだろうが)、
当然その見返りに「悪」の峻厳な把握がスルーされてしまった。
「悪」については、
彼が悪をなすのではなく、
悪が彼をなす、
的なカフカ的な直観に勝るものはなく、
多くの悪を描いた映画では
人物たちの向こうに海から顔を出す朝日ではなく、
人知を超えた神的悪意が
龍のようにのたうつのがみえるのが正しい。
そうして、人間の卑小を伝える「悲劇」が成立する。
そこでこそ観る者の魂もふるえる。
李監督の『悪人』では
唯一、妻夫木聡に殺された満島ひかりにのみ、
そうした眩しい悪の脈動があった(素晴らしかった)。
いずれにせよ、
カンパニー松尾の実録したものに従えば
地方(九州)で出会い系サイトにいそしむものは
妻夫木や深津のような顔をしていないだろう
(繰り返すが、だからこそ東宝作品になった)。
この『悪人』によって瀬々敬久の優位もわかる。
なぜなら『悪人』の全体は、
瀬々『雷魚』『HYSTERIC』を足したものと似ているからだ。
しかも瀬々作品には主題系連鎖と、
ゾッとするような
「世界の停滞(それでいて世界は不可逆的に変化する)」とがあった。
あるいはこう言えばいい。
快適な「変化」によって進展をかたどる映画は
「悪」「悲劇」の問題を形成しない。
その形成のために必要なのは
「不可逆性への唐突な飛躍」
「悪無限的な反復と停滞」であって、
要は「時間」に「悲鳴」をあげさせることだ。
李相日『悪人』にあったのは、
事前-事後の鉄則にもとづく「編集的」変化で、
「渦中」の演出が軽視されていた
(満島殺害シーンならば、
回想時制という括弧にくくられ、直接性を欠いていた)。
映画の演出では実際に「渦中」にこそ、
「不可逆的飛躍」と「反復=停滞」がある。
これは瀬々のみならず、
イーストウッドも黒沢清も力点をたがえつつ実現しているものだ。
映画の鉄則だろう。
ディテールについて、ひとつだけ。
一旦自首を決意した妻夫木が、
警察署前にクルマを停車、
深津絵里を残して署に向かう。
そこで深津が妻夫木を思いとどまらせようと
クラクションを鳴らす。
これは音の面での名演出と一見捉えられそうだが、
クルマの所属性と深津の身体の扱いがとくに曖昧な、
演出・脚本(もしかして原作)の瑕疵部分だったとおもう・・・
いずれにせよ、今年初め、
河出から出たムック本で
松江哲明くんや森直人くんと座談会をやったとき、
『悪人』の話題が出て、
ぼくは観ていなかったために話題に参加しなかった。
参加していれば上記のことを喋っただろう。
それでたぶん座談会の流れも変わったはずだ
水馬、または中本道代の印象
【水馬、または中本道代の印象】
かげろうの湖 そのいっぱいに
すきとおる脂が伏せられて
なにもしずんでゆくものはない
水辺をゆく繰り返しでは
きらめくことがかたどられてゆく
ほとりへしずかに首をおろし
うすもののゆらめきにこころをとけば
はだかのようなものもむしろ
からだよりそのめぐりから湧いてくる
水とすらちがいのなくなったそこを
とけた飴のにおいがたえまなく行き交い
もうほとけのない喉だけが
そのからだの場にみえているはずだ
かげろうからの盟約はいつか
ただ水をたよりに呑まれる
アジサイ
【アジサイ】
あのひとのなかへあのひとの名前を置いている。
それがまわりとはべつのひかりを帯びているとき
色彩球のゆるやかな回転がそこにみえ
あのひとそのものがやがて淡色に減ってくる。
六月の葉陰へたたずむ者はそんな減少によって
さみしくてしずかな名前だけとなる。
ひかりから音へとなつかしさの基軸もずれ
わらいだけがどちらの領分をも橋渡しするものとなり
その円もすでに稜を削られたかたちだろう。
あのひとの六月はそのようにして名前だ。
成島出・八日目の蝉について
昨日になってようやく成島出監督『八日目の蝉』を
シネリーブル池袋で観た。
傑作だった。メモ風に感想を書いておく。
●奥寺佐渡子の脚本が時制シャッフル=パズルに巧みなのは
細田守のアニメ『サマーウォーズ』『時をかける少女』、
さらには吉田大八監督『パーマネント野ばら』などでも明らかだが、
この時制シャッフルによって「母性」が相互照射した。
シーンの隣接関係がそのまま時間性の異なる役柄、
とりわけ永作博美と井上真央を
相似形彷徨者として相照らしだしたのだった。
しかしその「母性」の運動は『瞼の母』などの純系思慕とちがい複雑。
どういうことか。
●堕胎によって子宮癒着を起こし、以後、躯が不妊の空洞になった永作が
誘拐して比較的すぐ、宿の一室で泣き叫ぶ乳児「かおる」をなだめようと
不可能性にみちた授乳を試みるシーンがある。
永作の母性は空洞だが、空洞のその空間性を
じつは母性が聖なる光のように貫通してもいる。
●敵役にちかい「かおる」の実母・森口瑤子は
その四歳時に実娘を取り戻したが、実娘の最初の自己形成期に
彼女と離れていたことで生じた違和感が消えない。
つまり母性が空振りとなり、
行き場を失うことで焦燥に変貌してしまっている哀れな類型だ
(彼女が関係を新規構築できないのは
家事が苦手でいつも部屋を片付けていない様子に暗喩されている)。
問題は娘・井上真央の違和感が森口の
方向性のちがう母性から発しているのではなく、
永作を仮想敵にして夫・田中哲司の浮気の事実すら保留してしまったこと、
その手続きの底に膨れ上がった憎悪のすさまじさのほうだった。
●とうぜん憎悪が世代伝播(リング)するのではなく、
母性こそが世代伝播されなければならないというのが
原作者・角田光代の眼目だろうが
(このリング媒質を「不充足性」にすると現在の多くの「母娘物」となる
――『ユリイカ』08年12月の拙稿参照)、
そのためにたとえば田中哲司の浮気の卑劣さにまつわる描写が
思い切って省略されることにより、
永作の誘拐から「報復」の匂いをすべてとり、
誘拐の要因を永作の
「不在でありながら実在している母性」へと見事に定着してしまった。
●「女であること」という川端康成-川島雄三的テーマはふつう
「大人の女として異性を愛すること」にイデオロジカルに昇華されるが
ここでは「徹底的に母性的主体であること」へと折り返される。
つまり「異性愛<母性」がこの作品の図式で、
よってテーマ性からいって男優の存在が「薄く」ならなければならない。
井上真央の不倫相手にして井上の妊娠に気づくことのできない劇団ひとりは
まずその下手さによって「薄い」(成瀬映画における宝田明のようだ)。
永作のかつての不倫相手・田中哲司にあっては
娘・井上真央が不倫相手の子供を宿した、子供を産み自活すると宣言するときに
包丁を井上に向ける森口を捉えるためにフレームから外されてしまう。
次に永作と「かおる」の逃亡先「小豆島」では
そうめん工場の社長・平田満が久しぶりに悪役を解除されることで薄い。
最後に『セカチュー』の写真店主と似た役割を演ずることになる田中は
幽霊のように稀薄で、老いにより緩慢であることで薄い
(彼だけが「薄さの演技」の精髄に肉薄している)。
●「情」を迸らせる女優をぶつけあう演出政策は
「薄い」男優を点景として間歇的に置く政策の裏返しでもあるが、
この男優のよわさが希釈効果となって、
映画は「情」で観客を窒息化させない。
あるいは時制シャッフルもまた
情の冷却化=「鬱陶しい情の過熱化の拒否」に効果を発揮した。
これは演出の成果なのかキャスティングの成果なのか。
●キャスティングの範例となった映画やTVドラマの
幾つかを想定することができる。
まずは菅野美穂と小池栄子が共演した『パーマネント野ばら』。
小池はたぶんそこで知った天才・菅野の「猫背」演技を今回の役柄に生かした。
ただし菅野の地面へのふわったとした立ち方は物理的にできなかったが。
つぎに菅野美穂と永作博美が共演した『曲げられない女』。
そこでの腹をつかった天才・菅野の「情の持続」「情の絞り」を
永作はこの作品でさらに増幅してみせた。
TV版『八日目の蝉』での檀れいの底の浅い「お嬢さん芸」にたいし
永作は画面に出た瞬間から「情」の分量がもうちがう。
いずれにせよ、映画で小池と永作の「出会わない」ことがつくる空間に
菅野美穂の不在、という不可思議な印象が加味されてゆく。
●もうひとつ、小池栄子は万田邦敏『接吻』から
その「左利き」を召喚されたが、
その万田のつながりで
『UNLOVED』の森口瑤子も召喚されたのだろう。
さらに田中哲司と市川実和子は園子温『夢の中へ』の共演者だが、
このふたりは時間ではなく場所がちがっていて
ともに出演していながら『八日目の蝉』では出会わない。
ゆかりの役者を時空で分断させ、そこに生ずる不在者のおもかげまで
映画が分泌しだすというのが『八日目の蝉』のキャスティング政策だった。
●いずれにせよ「女の王国」の映画だ。
これまでのその最大例は成瀬巳喜男の『流れる』だろう。
ただし近年ではより小ぶりな王国だが、前述した『パーマネント野ばら』もある。
『流れる』の火打石、『パーマネント野ばら』の大仏パーマのように
「女の王国」ではどこかに神性=仏性が必要だが、
今回は母娘をかくまうカルト教団「エンジェルホーム」
(見事に女だけの集団
=大島弓子マンガにおける、少女による単性生殖王国を想わせる)に神性が
次の母娘の逃亡先となる小豆島のお遍路さんに仏性が仕込まれている。
●その「エンジェルホーム」についてはオウムの類推が出てくるが、
信者奪還運動にたいしては「イエスの方舟」事件のディテールが盛られ、
その生活様式にかんしては農牧加工品生産の自給自足ユートピア、
つまり「ヤマギシ会」との類縁をおもわせる
(TV版では「エンジェルホーム」については
運用資金着服など余計なディテールがドラマ召喚されていて
そのぶんだけ「ヤマギシ会」との類縁が描かれていなかった)。
女が単性生殖し女児「だけ」を産んで世代継承がおこなわれてゆく
まぼろしのそうした「自足性」そのものが
農牧一体の自己円環ユートピアと喩的関係を形成するのだから
ヤマギシ会との類似は省略されてはならない。
●取材が入ると知って永作が「かおる」とともに
「エンジェルホーム」を逃げ出すとき
市川実和子が資金と逃亡先住所を入れた紙包みを永作に渡す。
このとき市川は永作にではなく「かおる」=子役のほうに
「お母さんとずっと一緒にいるのよ」という。
つまり同世代間ではなく世代継承的なメッセージをいうことで
ここでの市川が「思想的感涙」に値する。
●角田光代の原作がどうなのかは確認していないが、
井上真央に過去確認の旅を促すルポライターの卵の役が小池栄子で
TV版ではその役柄はたんなる女性ルポライターにすぎなかったが
この映画版では、小池は幼児時代、「エンジェルホーム」で
幼児時代の井上真央と一心同体のように育った一種の「同窓生」、
という「負荷」をあたえられていた。
「女の園」=「エンジェルホーム」で育ったことが原因で
以後、小池は男性恐怖症となり、処女のまま、という設定。
井上が小池の取材旅行に利用されているのではないかと疑義を表明したとき
小池は如上の告白をし、その悲痛さで泣かせる。
しかも尾鰭がつく。「わたしたち出来損ないの母親ふたりで」
井上から産まれてくる赤ん坊を「一緒に」育てよう、と
「エンジェルホーム」から(世代)継承した理念を
「正しく」表明したのだった。
●小池栄子に「エンジェルホーム」在籍という
(回想によると彼女はホームの崩壊時までいて保護されたらしい)
負荷があたえられハッとする。
ユートピア集団(=ヤマギシ会)に在籍したトラウマを自己検証し、
そのなかに幸福のかけらを探すというテーマが
小野さやかのセルフドキュメンタリー『アヒルの子』と共通するからだ。
自己告白の瞬間の小池は、『アヒルの子』の小野自身にみえた。
実際に演技設計で『アヒルの子』が参照されたのではないか。
●「母性をもつこと」は「世界のうつくしい多様性を子につたえること」と
角田光代は象徴的に表現する。
星(そこから「星の歌」は「見上げてごらん夜の星を」に規定される)が
数多くきらきらひかっていることが許容されれば
「水が多すぎて海が怖いこと」も
「海には光のきらきらがたくさんあること」へと捉え返される。
つまり「母性」とは「見立て替え」の駆動要因でもあるのだろう。
●そういうことを記憶のベールに隠されてしまっているが
幼年期の「かおる」は「育ての母」永作から教示されていた
(むろん観客は描写されたすべてを知る位置にあって
自己優位性から井上を見守りながら井上の自己不充足に「憧れる」という
いわば倒錯性を如実に体現することになる)。
●「かおる」長じて井上真央が実際に同じ風光に接して
記憶を蘇らせてゆくくだりの演出は説明科白がないためにこそ感動的だった。
それで井上の躯に「同調」して観客の記憶すらもが蘇ってゆくような
一種の「転移」が起こる。
つまり蔵原惟繕『銀座の恋の物語』での浅丘ルリ子の「記憶の蘇り」は
それが劇的すぎることで信憑性を失っていたのだった。
記憶再獲得にとって必要な美徳は「緩徐性」。
だからそこで「緩徐性の幽霊」となった田中が
井上の喪失記憶再生のための重要な媒質となる。
●メロドラマにメロドラマの呼吸をあたえないこと。
これが映画『八日目の蝉』の眼目だった。
だからTV版にあったように、
小豆島行きの遊覧船が出る岡山側の港の売店に
檀れいがいて、育てた北乃きいの来訪をむなしく待ち、
ついに北乃の小豆島行きの帰りでふたりがニアミスになって
檀が育てた幼児の成長したのちを知るというディテールがなくなる。
さて、こうしたメロドラマ的ラストシーンは原作由来なのだろうか。
●映画版では永作の現状は
五年前に写真店を訪れ、写真を引き取っていったという
田中の緩やかな科白の伝聞性のみに置き換わる。
田中はネガを残していて、井上を引き入れた暗室のなかで
その写真が「徐々に」結像してゆく。
突如、その写真像にいたった過去のわずかな時間の厚みが復元される。
こぶしで握った空気を「かおる」にうけわたす永作。
永作が涙目を、被写体の眼になんとか変えてゆき、
ようやく写真の画柄と映画の画柄が合致する。
●むろん「写真化=遺影化」とはメロドラマの定則だ。
ホ・ジノ『八月のクリスマス』でのハン・ソッキュの遺影化が典型だろう。
あれは急激な遺影化の衝撃が涙を誘ったのにたいし、
ここでは写真化は想像の範囲内で「緩やかに」おこなわれ、
しかも永作の映像が宿しているのは死者の断絶ではなく
この世のどこかにいる生者の外延的連続性のほうで
つまり「遺影化」は二重に脱臼されていたのだった。
●永作の授乳試行シーンなどとともに
物語効率の高さのなかに「緩やかさ」を仕込み
演出に音楽的な緩急をつけた成島出の手腕は讃えられてよいだろう。
●藤沢順一の撮影は、俳優の芝居をナチュラルに捉えながらも
ロングショットの構図の斬新さで息を飲ませる。
そういえば田中哲司-森口瑤子の家庭のある場所は
坂下から分譲地の大「斜面」を捉える構図でしめされ、
その構図のなかに往年の永作と現在の井上がいることで
ふたりの同質性もしめされた。
●しかしなぜ「斜面」なのか、という問題がのこったとおもう。
それがこの作品で最もうつくしい「風光」場面で解決される。
かつて小豆島の棚田斜面で
子供をかりだしての「火まつり」がおこなわれた。
その同じ「斜面」に立って、
現在の井上の幼年記憶復活のうごきが加速してゆく。
このとき斜面がつくりだす「上位」の意味が変わる。
田中哲司-森口瑤子の家が斜面の「上位」にあり、
それを成長した井上真央が疎ましくおもっても
もともと井上は永作とともに幼児期、
斜面の上位=「プラトー(高原)」にいたのだということ。
過去は存在しないのではなく、意志が否定してきたものにすぎない。
しかも憎しみの源泉とおもわれたものの正体も愛着と郷愁だった。
その反転の軸線を、まさに「斜面」が図像的につくりだしていたのだった。
●タイトル「八日目の蝉」は
井上真央と小池栄子の「対話」から招来されている。
地中から出てきた蝉が七日間を鳴いて生き抜いて
七日目に一斉に死ぬならその「一斉性」に幸福があるが
万一、取り残された「八日目の蝉」がいるなら
それは孤独で最も哀しい――最初の井上の認識はそうだった。
●ところが「八日目の蝉」は同属がすべて死滅したあとの世界を
いわば「絶景」としてみることができる、と視座が変化する。
ここでこの作品の哲学的主張がすべて合流する。
永作/森口がつくりだしていた母性と葛藤する旧世界はすべて死滅し、
「八日目の蝉」となった井上・小池の世代が
世界の破滅後を、その荒蕪さえも見立て替えで「絶景」と見、
そうして「世界を見ること」をつたえてゆくことが母性だ、と。
つまり「3.11」以後の「母性」が映画『八日目の蝉』ではいわれていたのだった。
●永作博美や小池栄子や市川実和子が、
あるいは「エンジェルホーム」の教祖・余貴美子が
「情」のつよい演技をするのはとうぜん想定内だったが、
井上真央の演技力にはびっくりした。
科白が薄い感情による棒読みのような劇団ひとりにたいしての濡れ場で
井上は劇団ひとりとの別れを決意するのだが、
「親密」を劇団ひとりにはあたえながら
その親密を藤沢のカメラの手前直前、気配で裏返してみせる。
●その井上は乳首がみえないものの
諸肌脱ぎで、地黒の肌と貧弱なプロポーションを露呈させている。
「露呈」はたぶんこの映画ででてくる「情」系列の女優たちすべての特質で
じつはそこでは「(造型)美」など何ひとつもちいられていない。
というか、「美」ではないものが「露呈」して「情」になることが
女優にはもとめられていて、井上真央もその一群に加わったのだった。
見事なのは顔の左右対称が微妙に崩れていることによって
視線対象がときに不分明になる点を
井上の演技が自覚的に利用していることだろう。
●そういう身体的「措辞」があって、
井上は身ごもっている子供を、
まだ未知の存在ながら愛してゆける確信を小池に語る。
科白をいったその瞬間に溶暗してそのままエンドロールになるという
劇性を欠く、反メロドラマ的なその終わりも見事だった。
井坂洋子のように
●井坂洋子のように
【別人の朝になるまで】
依田冬派
せいかつの靴を脱ぎ捨て
地面がもちあがる
そのまま
曲がり角を折れると
楽器に似た犬が吼える
いきを殺しても
気配は岩肌のように
初夏にさらされ
いまを過ぎ去ることができない
ならば
隣人がいないあいだに
わたしは意味を
削ぎ落としてしまいたい
ひとがみな記号となり
楽譜に体をたたむとき
黒い海は何度も森をのみこむ
●
【群青】
大永 歩
まどろみのふちは
なめらかなカーブに
落差を内包する
うでを目にうつす
糸を拠りあわせ磨りあわせ
そうした生命の天と地は
春に
斜塔をつたう蝋ににていた
悪を秘める私を
わたしがかかえる
しかし私は悪ではない
かかえこんだ質量は
はだけた白のなかの
あかい肩の
ふるえの
さざめきに とける
男は歴史書を紐解いていた
文字は読めなかったが、紐は読めた
群青のまどから
夕やみが射していた
●
【紫や水色がとまらない】
三村京子
通い慣れた路線だけが
呼吸や寝息に寄り添う
もうじきあじさいが咲く
愛していないのかもしれない
ごっそりと
そこだけ抜かれている
小さくて足りない
チョコレートの粒
溶かすと舌の奥も消えてしまう
わたしがいるのは
数年の記憶
愛の行為など
地下通路の急ぎをゆく
雑踏にすら溢れている
それで次の一歩のかたちが
どうしても思い浮かばない
水の工場で
らせんをつくっているひとをおとなう
冷たくつき返されてもなお
紫や水色がとまらない
●
【夏の口づけ】
鎌田菜穂
おもい午後を
うごめくあなたの舌の
においを
舐める
学校の裏の道はいつも空いていて
空をいくら飲みこんでも
空っぽのからだの輪郭に
穴が空くだけ
そこに親指をいれたがる
世間は金色のテープ
うまく剥がせないわたしを
わらう爪とひとたち
腰で二回折り返した
制服のスカートの中を
生きるわたしの下半身
と
あなたの上半身に
冷えたコーラがぬきとおる
●
【グレーの苑】
中村郁子
風化したどこかの
王国の地図を見つけた
みなみの島の泉に
ぼうしを落とした
友だちが泣いている
チョウになれない
幼虫が草を食み歩く
熱砂が住みかの猛獣も
ひとの肉などいらぬよう
岩に寝そべりあくびをして
そしてわたしも
造り物にあきあきする
太陽もなければ
雨粒もなく
もし居場所がなくなっても
丘陵が迎えてくれるでしょう
表紙のオスのライオンは
かわいくもなく不愛想に
そこへ戻れぬ
わたしをみつめている
●
【岬にて】
中村郁子
めまいを起こす昼下がりに
わたしは沈没する
青すぎる海に
澄みすぎる海は
口を開いてわたしを待っている
航海の守り神なんて
創造、想像のものなのに
すこしだけ上がった口角が怖いのに綺麗だと思うから
深海へといざなっていく
たわむれはやめてほしい
保障はない
青を通り越した黒い海からは
かえってくるという約束はできない
どこかの魔物か怪物か
なにかに引きずり込まれてしまったから
その中に時折白く見えるのは
たましいだとは思えない
螺旋階段で迷い、選べぬ海の地図
けれど求めたくない
白い装飾の扉も下界につながる手段でしかなく
暑さはひいてきた
ながれた時は青に沈没せず橙と黄金の中をすすむ
●
【下校時刻】
川名佳比古
五七五の言うとおり
はるか頭上を這いずり回る
蛇の腹をなぜるように
白くほそい腕をかかげながら
町をめぐるコンクリートの血管を
小石をいじめながら横切る
かたむいた夕暮れが
靴の踵に忍びこむ
人々の瞳孔から染みだした
大小さまざまな濃紺は
その領分をゆっくりと広げる
田んぼに落ちた小石は
はたまたその水面にうつる蛇に
飲み込まれてしまったようで
しょうがないので
つぎは木のほそい枝を何本か
むしりとってゆく
いつの間にやら空から
夕暮れはその姿を消し
深い夜のきざしが満たされ
ぽっかりと開いた孔からのぞく
ぬるい視線をさけるようにして
家のとびらをくぐる
●
【笑顔】
高橋奈緒美
ただの笑顔
私が見たものは
朝の光の中で
少女は椅子に座り
にわの雀を見ていた
振り向いた瞬間
顔をくしゃくしゃにさせ
老婆の顔へと変貌した
合わせた手は
誰のためにあるのだろう
老婆はどこでも
経を唱える
こどもたちは聞きとれずに
替え歌を口ずさんで遊んでいた
笑顔なんていくらでもあげますよ
とコンビニの店員
テレビも雑踏も
メールも
裂けた口からきしむ音がする
老婆は車椅子に座る
空が暗くなる中で
私が見たものは
ただの笑顔
闇は
手に押しつぶされていた
●
【下校】
森川光樹
ゆきかう机をはなれたとこで
モップを胴にさしても死なない奴が
嘲笑う手つきで
立方体を描いたが
そのしずかな力が伝播し
僕は無表情になる
写真のような大窓の中
写真のように止まった時間
を加算しつづけ
掃除はおしまい
教室の四隅は髪だらけのまま
つかれた
ガラスごしの夕暮れの下
うつりよく点滅して
帰る僕らの無表情は
駅で荷物になるのか
あの嘲笑への
●
【背】
森川光樹
シダが呼吸をくすぐり
肺も暗い森になる
決められた町で
決められたままに
樹はのびては、かられ
水は四角池におさまりつづけたある日
はじめて背の高い少女が泣いたが
泣くことも決められていたのだ
みんな行き先を知らず
馬のように立ち止まる町をよそに
樹と水があふれる森で
微笑む背が低くなった女を
シダでかざりつづける
●
【礼拝】
渡邊彩恵
白い段ボールの中にある
閉じられた聖歌集を
みつめる
2本の揺らめく蝋燭
吊りスカートの自分が
ヨハネによる福音書の朗読をして
チャプレンは今日も
せっかくの面白い話は聞き取りにくい声で
そんな事だから
後ろの後輩たちはおしゃべりばかりしている
一度だけ
五月蠅いんだけど、
と言ってみても
二月もしたら
忘れている子たちだ
背後の扉からは
朝もやの日が流れてきた頃
パイプオルガンが響く礼拝堂に
アーメンと
久しぶりにほこりを払う
●
【雨の日】
斎田尚佳
湿り気を帯びた
格子模様のプリーツは
重みに耐えられずに
小皺をきざみ
泣いてる窓の向こうで
海原を拭おうとしてる
上履きに広がる生暖かさの
処理の仕方をしらなくて
お互いの指先で弄ぶまま
脇に汗がたまるようだった
気づかれないようにそっと脱げば
当てられた硬いリノリウムが
私の芯を冷やしてく
白く戻っても
抜けた色はわからないのに
はりついてたブラウスの肌色は
きっと何も隠すつもりはない
柔らかな動悸をひとつずつ寄こして
知らないふりをしてた
●
【駅】
長谷川 明
お疲れ様には
例えの時間があふれて
音楽を聞きながら
あの坂をのぼった
女の子のにおいの国へ
電車では
手をつながないようにと
言われているようで
交換は
僕の中で動かないまま
音楽の授業で
大きな声を出した
赤い顔をしながら
喉を確かめる指に征服がある
●
【南のある校庭】
荻原永璃
窓はいつも南側にあるもので
南側はいつも窓である
午後の白が乱反射すると
カーテンは映像幕であるので
微量の塩素を介して
教室を反転させる
投影される体育の青
上履きは外まで履いていけるが
世界には接続できない
学年色の比重を利用した
ホルマリン漬け
制服の胸元の陰影
切り倒された桜
積みあげられた岩波文庫
雪崩る
(皆さんが静かになるまでにかかった時間X)
あまりにも布が薄いので
自衛の策を練らなければならないことを
どうしてわからないのか
下駄箱に
子宮を抱えて収まる
白墨の降り積もるのを否定し
呼吸した塵は
紫煙と共に排出する
飛行機雲
黒板にひかれた直線
投げ出された脚
上履きを放棄するとき
交差するX軸とY軸の上に
一斉に
紺スカートは咲き乱れ
明るい歌声と共に
成層圏へ
駆け上がる
●
【金魚】
山崎 翔
音楽室が
穴だらけの壁を軋ませると
せっかくのこえというこえも
健全な思想を纏って
半袖の袖口から
ふたたびぬめぬめと侵入をはじめる
夕刻の合唱というものは
実にそうした退屈である
が
ふと
紙魚を一匹
かばんの中に見つけ
すぐさまポケットティッシュ越しに
つぶす
つぶした
そのほんの数秒間のうちに
すべての皮膚の一センチ下で
暴れだした無数の金魚のなか
ひときわ熱を帯びたひとつが
真っ赤な尾ひれを呻かせて
ずぶ濡れの青白い顔で聳え立つ大型団地の隙間から
どろり
と這い出していく
●
【帰路】
森田 直
酒田から新宿まで眠気を運ばせて
のどぼとけの裏側か 脇かに
つかみきれない鈍さを感じたまま
重い胴体を
より重い四肢を降って
前へ前へ
そのまま
目白へ
見知らぬ人が大勢眠っているなかで
ひとり 眼を開いているのは
なぜか
思い出のようにこそばゆく
まぶたを無理に横たえて
よく冴えた耳だけが
路面を心地よく滑った
人間は嗅覚が鋭敏なのに
いつからかダメにして
犬のように暮らしている
目と耳にばかり頼って
全身に筋肉痛をかかえて
●
井坂洋子さんの詩篇はまずは多元的だ。
そこには「身体」「心情」「風景」「記憶=極私性」「謎」
「散文性」「男性性」「箴言性」「不足性」「性愛」など
「層」のことなるフレーズが混在しながら
そのそれぞれにはかつて達成された
最高峰文芸への畏怖も上乗せされてゆく。
それがあるから井坂洋子の詩は
ときに難解であっても
けっして高踏派の印象をもたらさない。
ブッキッシュな生からの切断も物をいっている。
そしてむしろその詩行、もしくは文連鎖の、
しずかな「運動神経」に魅了されてゆく。
用語的な問題でいうと、
井坂さんの語彙には偏奇がない。
ないからこそ、「不気味」を掘り当てる。
あるいは「不気味」が中庸性のなかに置かれるから
「不気味」の効果を発揮する。
そうした発現は
とうぜんながら虚仮脅しとも程遠い。
詩性の中間領域をつらぬく
川幅の豊かな流れに憧れることが
井坂洋子に憧れることだとすれば、
それはそのまま「詩に憧れること」と同義なのだ。
今回「井坂洋子のように」の課題にたいし
提出された詩篇の出来が素晴らしいのは、
まずはそうした「憧れ」に
受講生が感応したからではないか。
同時に、他の課題をつうじ、
「圧縮」の呼吸も学ばれはじめているためだろう。
いずれにせよ、語彙が限定的な詩作者への「まねび」と
語彙が生活的で無限定とみえる詩作者への「まなび」では
後者のほうがやりやすい、
という受講者の傾向がつづいている。
なお、井坂洋子の詩は前言したように
その特性が多元的なので、
受講生にはふたつの道筋から
「まねび」の方法を選択してもらった。
ひとつは、「記憶」を繰り込みつつ
それが極私性の謎と、同時にふかい共感を促す詩篇。
もうひとつは、井坂「海浜通り」を参考に、
諸文芸の諸層を生きながら
いわば現在の自己身体を抒情的に「層化」する詩篇。
このふたつのどちらかが選ばれることで
提出された詩篇の全体が豊饒になったといえる。
いつもどおりに評点を。
最高点は三村京子さんの「紫や水色がとまらない」と
荻原永璃さんの「南のある校庭」の両方に
(「最高」という形容と矛盾することになるが)。
荻原さんの晦渋さはとても綺麗だ。
三村さんの詩篇は、
最後の聯で読者の頬を打ち、
読者を泣かさずにはいない。
井坂的「不足性」よりもさらに暴力的な「不足」が
そこに現れていて、
井坂さんの影響圏からの脱出口すらしめされている。
次点は大永歩さんの「群青」と
中村郁子さんの「岬にて」。
どちらも色彩に感応することで
感応する身体が詩篇奥に隠れているとあかす。
その間接性が色彩よりもさらにうつくしいとおもう
長谷川明「礫の町」はこうして直された
前回演習「貞久秀紀のように」に提出された
長谷川明くんの詩篇は
抒情的かつ鋭い魅力をもちながら
いわゆる「詰め」があまく
冗長性もあって大変惜しかった。
それで実験として
長谷川くん自身はおろか
推敲希望者をつのった。
結果が以下。
みな、愛情をこめて直している。
その愛情のぶん、まだ冗長性がのこったかもしれない。
結果、自らバッサリやった長谷川くんの直しが
いちばん光ったとおもう
(推敲はやはりひつようだね)。
以下は、長谷川くんの元詩篇と
その直し案、
長谷川くん自身の直しを並べてゆく。
その眺めはミニマル音楽の反復差異構造に似て、
最後にはメインテーマを生成するかもしれない
(つまりこのアップは音楽的におもしろい、とおもう)
ぜひご覧を--
●
【礫の町】(元詩篇)
長谷川 明
遠投をずっとつづけていけば
その姿勢が歴史になって
たくさんのかけるやたすが
自分のなかで新しい関係の匂いをかぐ
それは例えのさんせいをさがした駅や
いとで縛ることの
知られている毒とおなじ
苦さへの
姿勢をつづけるため
曲がろうかというのは
その角でぼくたちのひとりを選んだ
このような器用さから
日々の演繹を縒っていく
ほとんどこどものものが
店をしめていて
あたらしく生まれだした
明暗するだれを思い出すのかを
思い出していて
そこに築いたいわきを角からは「船だよ」
というような駅が通りすぎるので
ぼくたちのひとりから
遠投の姿勢へと
あたたかな軌道がのびていく
●
【礫の町】
森川光樹
遠投をずっとつづけていけば
その姿勢が歴史になり
何度も、かけられて、たされて
新しい関係の匂いがはじまる
例えのさんせいをさがした駅と
いとで縛ることの知られている毒と
その苦さへの姿勢がつづくため
曲がろうというのは
その角でぼくたちのひとりを選び
日々の演繹を縒っていく
そしてほとんどのこどものものが
店をしめ、生まれだす、明暗す
るだれを思い出すのか
思い出しました
その角で
いいわけと「船だよ」
というような駅がすれちがい
ぼくたちのひとりから
遠投の姿勢へと
あたたかな軌道がのびてゆく
●
【礫の町】
森田 直
遠投をずっとつづけていけば
その姿勢が歴史になって
たくさんの×や+が
新しい関係のにおいを嗅ぐ
それは例の
さんせいをさがした駅や
糸で縛られた毒の苦さへの
あの姿勢をつづけるための。
「曲がろうか」
ぼくたちのひとりを選んだ器用さで
その角は
日々の演繹を縒っていく。
明暗する。
だれを思い出すか
思い出す。
そこに言訳 「船だよ」
駅が通りすぎるので
ぼくたちのひとりから
遠投の姿勢へと
あたたかな軌道がのびていく
●
【礫の町】
阿部嘉昭
遠投をずっとつづけてゆけば
姿勢が歴史になって
たくさんの加減乗除が
あたらしい関係の匂いをかぐ
例えをさがした駅や
いとで縛る毒とおなじ
にがさをつづければ
曲がろうとした
その角で
ぼくたちの
ひとりが選ばれる
日々演繹を縒っていく
ほとんどこどものものが
店をしめていて
明暗するだれを思い出すのか
かどからは駅が通りすぎ
ぼくたちのひとりから
遠投の姿勢へと
あたたかな軌道ものびていく
●
【礫の町】
長谷川 明
遠投の姿勢が歴史になって
自分のなかで新しい関係のにおいをかぐ
毒からさんせいをさがすように
曲がりつづける角で
ぼくたちのひとりを選んだ
日々の演繹を縒っていく
その器用さで店はあふれた
明暗する誰かは
そこに築いた駅を思いだしていて
ぼくたちのひとりから
遠投の姿勢へと
あたたかな軌道がのびていく
猫
【猫】
油田とはいかなる田であるか
花あやめさくら鱒、と呪文をとなえ
しろくけぶるものらであぶらくさくなってゆく
とうにみどりだけになった藤棚を
のれん気分でかきわけ前にでることが
雲の日は舞台からの遠国油田で
一身の火ならただ短冊のかたちにみせるが
ひるにたべたのは脳にうかぶものだけだった
白炎の気軽さがおよそそんな郷党心なので
化けるようにもますますあぶらくさくなってゆく
海峡ホテル
【海峡ホテル】
虫めがねをあて
胡蝶の翅のふるえ
この世でない迅さの野蛮を
ただ見、ただ畏れる
そうアフリカは簡単にみられる
こうして
つながるもののせいで夕方にスコールがふる
たちきる身ぶりでなされる着替えも
それじたいはなやかな部屋着の数珠だろう
からだは舟に似ている
あきらめだけが寝台をめざす
もうしぶんなく虫めがねをはずし
ひらいた窓へ顔をむけて
磯でも浜でもない
海岸線の存在を頬に知る
たんなる浸潤をしめす
たいくつな線があるのは
頬がもう老いているということ
地球だけおおきくなり
うしろから、愉しまれる
往路にも順列があって
それだけで行き先がふえていると
おもう錯覚に
脚がかがやいている
見おろす別荘地のくらい夕暮れにも
それだけのものがないと
つらぬかれれば
わたしが倍速になるといわれる
からだの尖端がゆれるのではなく
自己蒐集がとまらなくなるのかもしれない
けれど海峡ではないだろう本当の中間は
この性愛の一冊のおもみ
したしい指からは
破船の雫を拭われる
一列
【一列】
手がいっぽん多いので
将棋に向かないといわれ
草などをむしっていたのが
振という字だろう
まえがみの隙間から
旧いまちの空をみあげた
蔵の屋根屋根に立ち
平坦をつくっているのが
ぼくのおもう数人だが
その俯瞰図が盤面であれば
手もすすんでいるのだ
あおむけによこたわり
酸をすすっていた
あの梁はなんのたなびき
類推がまわりの家をしたがえ
ぼんやりひかっているとき
ふさのようなものが
家の分泌のかたちとしてある
そのおもみを胃袋にのせようと
こどもながら坊主に似てゆく
火の代わりを
まだ空気にかんじているのか
新さんをかすめるように
おもいだした思いもとおりすぎる
やはりぼくが一列多く
脾臓をやけどした
貞久秀紀のように
●貞久秀紀のように
【からだ】
大永 歩
空洞が思考するとき
あけびのつるのような
どくへびの足あとのような
かみなりが
つらぬい
ても
空洞は空だった
六月の雨がおちるとき
こぬれにできたふくらみが
まばゆい熱をもちはじめ
あなにあながあいたなら
赤いつちは空をまい
まい
やがてうずをまき
うどのおおきな葉の下で
春の訪れを待つのだろうか
からのからから、から
●
【首の皮】
三村京子
体が
空気を歩きゆくように
空気が
体を歩くことがあった
空気が
体を歩いていたころ
決めたり選んだりしたことが
体が
空気を歩きゆくこのごろ
歩くことと見分けられなくなってしまって
すこし困った
それで
首の皮
いちまいで
生きていることもある
それもそれで
辛くも楽しく
空気が
体を歩くことと
だんだん似てゆくのかもしれない
恋人に
舐められた
あくる朝
見知らぬホテルを囲む
新緑のざわめきに
背後から襲われ
すべてが緑になってしまった
●
【ねこのこ】
中川達矢
ねこの美しさに
みとれていた
ように
ねこがうつくしい
のか
ねこの美しさがうつくしい
満月の
もとで
かえるがまるでないている
から
ねこのせなかがまんまるで
ねこのこがうつくしい
から
寝込みをおそって
だかれていた
ねこのこはのびていて
美しさを失う
のか
ねこの美しさは
まるのそと
●
【のど飴】
二宮莉麻
飴のあじがなくなって
あまさは
わたし
の
からだになる
薬と調和するように
あまい
けつえき
と
なる
さらさらさらさらさらさらさ
雨がふってきそうだった
●
【低気圧】
鎌田菜穂
くものうえから
たかさが
おもいきり
おちてきて
わたしのあたまは
かたく
つぶれてしまい
ました
もう
くうきをふるわせる
ことば
は
うまれません
ちいさな気泡の
ような
不機嫌がのどから
はきだされます
めいめい、
あたりまえの
ように、やさしく、
爆発
して
世界は
しろく
ふくらみました
●
【空】
川名佳比古
あめの
しずくに
つれられて
いくつか
空が
おちてきた
ところに
五、六羽の
すずめだか
からす
だか
が
うっかりおちてしまったの
を眺めていると
いつの
まにやら
ぼくが
空に
おちていて
じっと
すずめだか
からす
だか
が
ぼくを
見つめていた
その
目のなかに
空が
たしかにみちている
ことに
きがついた
ぼくの
あたまのなかに
空が
たしかに
おさまった
●
【ルーム】
渡邊彩恵
うたたねをして
ざわざわとしたものが
私の頬をなでた
と
気付いたら私の中に
侵入していた
こんなことはよくあるもので
大嫌いというわけでもないが
やはり
気になるというものだ
そうこうするうちに
今度は
首
にやってきた
どうにも
逃げられないようだ
と
息をはけば
さっさと逃げてしまった
●
【十階】
荻原永璃
十階の壁にふれるには
水にはいるように
細心のちゅういを
はらわなければならない
硝子のむこうには
ほっそりとした
海がうかんでいる
十階の壁をひらくには
水晶から
水をのみほして
日日日と
白く
あらなければならない
丸虹の
中ほどには
舟
十階の壁からこぎだすには
湧いてくるらっぱを
ひとつ ひとつ
ふみつけて
のぼらなければならない
雨粒は
線となる
ので
たぐりよせるべし
十階のすきまから
向こうの海へ
すべりこむ
●
【行方不明者の証言】
山崎 翔
皮膚
がやたらとみつめてくる
ので
きはずかしさに
かんがえごともできず
しかたなしに
目
をつぶってはみる
ものの
瞼の裏側
がやたらとみつめてくる
ので
ねむることもできず
しかたなしに
雨の音
をきいている
音
になって
●
【礫の町】
長谷川 明
遠投をずっとつづけていけば
その姿勢が歴史になって
たくさんのかけるやたすが
自分のなかで新しい関係の匂いをかぐ
それは例えのさんせいをさがした駅や
いとで縛ることの
知られている毒とおなじ
苦さへの
姿勢をつづけるため
曲がろうかというのは
その角でぼくたちのひとりを選んだ
このような器用さから
日々の演繹を縒っていく
ほとんどこどものものが
店をしめていて
あたらしく生まれだした
明暗するだれを思い出すのかを
思い出していて
そこに築いたいわきを角からは「船だよ」
というような駅が通りすぎるので
ぼくたちのひとりから
遠投の姿勢へと
あたたかな軌道がのびていく
●
課題「貞久秀紀のように」では
だいぶプリントから落とした。
「のように」になっていない詩篇が多く、
やはり原理性、再帰性を、すくない語彙に織りこみ、
世界の異相と抒情を奥深くしめす
貞久さんの作風が「まなび」には難しかったのだろう。
「哲学」によわい、ということなのかもしれない。
前回の江代充さんの参照のほうが
難関だとおもっていたのでこれは意外な結果だった。
「まねび」ということに
そろそろ受講生が疲れだしたのかもしれない。
「自分の詩が書きたくてウズウズしている」
気配もつたわってくる。
技巧という点で申し分のない
山崎翔くんのような
カメレオン的自己変貌能力を
彼じしんの個性へとどう導くかが
今後の演習の課題となるだろう
(とうぜん期末提出には「自分のように」という
課題をかんがえている)。
「まねび」でありながら
「自分自身」が自然吐露されてしまう。
これが理想で、
その意味ではぼく自身が課題に挑戦して仕上げた、
「朝の網」なんかがひとつの方向性かもしれない。
その意味では三村京子さんもうまくいっている。
定例なので、成績発表。
最高点は、荻原永璃さんの「十階」。
惜しいのは、一聯まるまる不要とおもわれる箇所があること。
ただし着想が驚愕をあたえる点が
貞久さんの思考をおもわせた。
作中にある「丸虹」は
「丸紅」の打ち間違えではない(笑)。
たとえば山頂から雲海を瞰下ろすと、
虹のみえることがあるが、その虹は円いのだ。
次点は前述した三村さんの「首の皮」と
長谷川明くんの「礫の町」。
長谷川くんのは直しどころも多いが、
着想が鮮やかだ。
ただし貞久さんというよりも
故・三橋聡に詩風が似ているとおもう
ラブホテル
【ラブホテル】
覆いかぶさってゆく者の
うそざむい心象が
ばさばさと鳴り、羽根が舞う
夜の底がしろいと
しめすだけのおんなへ
どちらが紙かを問うために
斜方の鏡をまきこんで
てごめの折り紙がはじまる
内臓からにくづきが欠け
ただうすい内蔵となってゆく
二枚の紙だ
そのあいだの引圧のようなもので
ほとけが浸水してゆき
紙の白と黒も重みとならないまま
夜間の池へハスとしてうかんだ
くしゃくしゃになった
屑よりおろかに
性愛(失策)のあとは
朝よ
やみくもにおまえの喉がかわく