ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

自分のように

 
 
その後、三人から最終課題「自分のように」が
メールされたので、以下に追加寸評を。



【家を出る】
森田 直


昨日出た

なにもなくなって
狭くなった部屋で
不動産屋と気まずく
嘗めあった

家を昨日出た
さよなら
ゴムひもの緊張感
ゆやーんだか
ゆよーんだか
おれはそっちに帰ります

初日から
最終日まで
鼻毛出てた
大家のおやじ

鍵を一本くすねた




日常詩。力が抜けている。
斡旋されたことばが最小限に選択されている。
「少ないこと」にたいして真摯にかんがえられたのではないか。
結果、余韻が獲得されている。好きな詩篇だ。







【結婚したいひと】
長谷川 明


よくみると
つながっていない
ぼくはぼくのしたいを
ひとにのこして
だれかの内臓をかりて
あたたかくなる
結婚をしたひとは
自分のものでない顔を
みんなにみせていて
顔でないものに
お金がはらわれる
夏に
なんどもしたいにあいにいく
したいは
あたたかさでへんじをする
結婚したいひとは
あたたかさをうけいれる
僕は
したいとつながっている




「結婚」への疑念が原理的に書かれ、
それが原理的であるがゆえに恐怖がたちあがってくる。
相手の他者性、自分の代理性、「生」実感のなさなどと
それらは約言ができ、
長谷川くんはそれをフレーズの微差反復で詩にしている。
ただし課題のラストでは長谷川的破壊性の集大成をみたかった。







【帰る】
高橋奈緒美


安くなったパンを買って帰路につく
欅並木は一から十の数字の羅列にしか見えず
家々を反響する自分の靴音がうるさい
耳近くを飛ぶ蚊のようなすれ違い際の男女の会話
目前の木を形容する言葉さえ見つかれば
ひと思いに潰してあげるのに
長針と短針が空を指す
夜空の雲に違和感を覚えたのはいつぶりか
喧騒がナイフであった舞台
車が夜を裂くリアル

左手に提げた袋から香る
ガーリックの刺激
「お母さん
帰りにパンを買ったから
明日の朝ご飯はパンにしよう」

返事が聞こえたなら
私は帰る、
帰ってこられた




これも日常詩。深夜の帰宅過程の疲弊と違和が
比較的わかりやすいことばで綴られる。
それにしても存在を領している
この本質的な不充足性とはなにか、ともおもう。
《長針と短針が空を指す》で深夜十二時が告げられる。







【轍】
高橋奈緒美


がたがたがた
車輪が動いているのではなく
周囲が回っているだけだとしたら
横にならんだ車輪は
どこへ転がって行くだろうか
(わたしは何を押しているのか)

車輪の上から声がするから
道はまちがっていないのだろう
わたしは砂利道が好きなのだ
「がたがたがた」
祖母が笑って口にする

ほんとうに
わたしはどこへ転がっていたのだろうか
(わたしは車輪を)
(車輪はわたしを)
轍が家まで続いていたころ




これは前の詩篇よりもっとことばが限定され
限定されたぶんだけ謎がふかまった。
ぼくは「わたし」が「押している」ものをリアカーと捉え
それを押すことがかつて主体の生活の一部で
その記憶を語っている詩だとおもう。
記憶のある質感に向けて語りつつ形容詞がはいっていないことで
隠されている感情が慟哭にちかいものではないかという
判断もえられる。峻厳なことばの組成なのだ。
高橋さんは「祖母詩篇」で大成した。次点。
 
 

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2011年07月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

自分のように

 
 
●自分のように

既存の詩作者の詩業を参考に
詩篇を書くというこの演習だったが、
毎週毎週、そのような詩作を
受講生がなぜ嬉々としておこなえるのかわからない、
魔法にかけられているのか、という意見は
詩集を出し、世間認知されている詩作者から多々出た。

受講生の力量が一定程度に達していて
発表と評価が演習につきまとうことから
使命感とライバル意識が自然と醸成されたこと
(彼・彼女らは同じ投稿欄の同期のようだった)、
それと、ぼくが参照に供するそれぞれの詩作者の「傑作詩選」が
「現代詩病」にかかっていないために
空間と音韻がそこに威圧的でなくひろがっていて
受講者が閉塞的趨勢とはちがう詩の可能性に開かれたことが
彼・彼女たちの多作の大きな要因だったろうとおもう。

参照対象の詩作者は基本的に井坂洋子さんをのぞき
「現代詩文庫」になっていないひとから選んだ
(ただし中本道代さんと杉本真維子さんは
今後の刊行予定にはいっている)。

男性の文学的で硬直的な詩もうけつけず、
文体に個性が歴然としている作者を重視した。
この選択にはいわばぼくの「現代詩批判」も裏打ちされていて、
ぼくのしつらえたそのレールにのるほうが
受講者の詩作が促された点、これは強調すべきだろうとおもう。

むろん「○○のように」という「模倣」は
「創造」の第一歩にしかすぎない。
参照対象が明示されなければ、「原資」は自分にしかない。
これが案外、苦行だったのか
中川達矢くんや山崎翔くんや森田直くん、
高橋奈緒美さんや長谷川明くんといった
「常連」の詩作がいまだメールボックスに届いていない。
ただしそのときは「自分のように」を
「自分の好きな誰かのように」へと
変えればいいだけのことなのだが。
「柔軟性とは何か」は演習に秘められたテーマだった。
それをいうためにぼく自身も課題に参加した。

ともあれこの最後の課題で、
自由詩作でつくられる若いひとの詩が
「現代詩病」(手前勝手で目詰まりして自己愛的で自己誇示的なもの、
いいかえれば文学性と個人性と功名心が無媒介に結びついた処理不能なもの)
に罹るか罹らないかには興味があった。
演習全体がそうしたながれに歯止めをかけるとすれば、
素晴らしい詩作者を周知させたとともに
彼らに今後の指針を提供したという結論も出せるからだ。

結果は見事に「現代詩病」からみなが逃れているとおもう。
しかも「まねび」で封印されてきたのは抒情詩だったともわかった。
そうか、抒情詩への復帰こそが
詩を現代詩病から解き放つ、最大の方策だったのか。

今回は詩篇ごとに寸言をしるしてゆこう。







【神隠し】
中村郁子


あかレンガの城にさよなら
きみどりと白の庭へ
こわれかかった鳥居を越えて
ふみはずしながら石段を進む
見えてきた青の泉
わき水はよごれない
永遠の子どもになるあなた
ホタルのたまごはふまないで
てまねきは遥か

宵にかがやくひかりには
夢の中でだけ会える




「赤レンガの城」は立教の校舎を指しているだろう。
夏休みに入り登校がなくなるというほか
四年の中村さんがいずれ卒業することも含意されている。
登校がなくなって赴いた場所は夜の神社。
そこで彼女はホタルを幻視した。
ホタルは恋情と死のにおいの象徴としてつかわれる点、
中村さんは意識していて、
全体が彼女の身体性をともなう静謐な抒情詩となった。
ただし少し「色」がつかわれすぎか。
中村さんは短い詩篇のほうが良いという気がする。次点。







【おかえりなさい】
中村郁子


くろい夜空に咲く花が
ひとつひとつ生きていたものであったら
重いものを
ひとは愛しているのだろう

水をうけた石と線香
火葬を思い出す炎
今年もあなたは
庭へおりたつ




これは圧縮度の高い詩篇で、噛むほどに味が出る。
江代充さんの詩風が意識されているか。
夜空に貼り付けられ瞬く花=星が
「重さ」を抱えているという直観が良い。
最終二行の余剰とともに、ぼくの好きな詩篇だ。次点。







【青い眼】
二宮莉麻


青い眼がほしい
となげくあの子に
花束を贈った
青い眼なんかなくてもなんとかなります
だってほら
あなたは
二重の悲劇にはさまれていないんだから

あの子がたてる
生活の音が好きだった
花びらをさいて
みずにながして
心をぬぐって

ただ今さらに
あの子がほしくなった




「あの子」の性別が明示されないから、
恋愛詩とも友情詩ともうけとれるが、
同性愛傾斜がひそむ友情詩とかんじた。
「青い眼がほしい」というのはたんなる西洋志向ではないだろう。
事物のヤバい「青」と同調し、壊れてゆく眼なのではないか。
「あの子がたてる/生活の音が好きだった」がグッとくる。
ただ、全体の語法が片言かな。省略の暴力がくわわっていればよかった。







【指切り】
齋田尚佳


ひとつ
指と指でまるを描いて
しぼませ、からませ
日は沈んでいった
細く短い夜は
さよならのうた

からだを孟夏の獣が駆けてく
こんなせまいところで
転んでしまわないかが気がかりで
もろい肢体を包もうと
私も一緒になって走った

叶わない願いを
待てるような気がした
めぐる夏の夜のそれは
きっと夢だったのだ




夏の短夜に出会うために
落ちてゆく日輪に指の丸をかさねる、というのは
仕種の抒情性だ。
《からだを孟夏の獣が駆けてく》という
怖ろしい一行がある。
ただ全体が朦朧していている。
齋田さんの力量からすればもう少し踏み込んでもよかったか。
彼女は「謎」で詩行を輝かす個性だとおもう。







【四時】
森川光樹


歯しかない
ザラザラいがい
のすべては四時だ
四時が日の出をみつめ
四時が思い出す
一日が四時のなか
つるつると五時のほうへいく




ぼくが演習で強調した「縮減」と「痴愚化」が活かされた詩篇。
夏の朝、早起きしたという散文的な事実が
簡単な言葉を奇異に連鎖させるだけで
異様な身体論と時間論へと接続されてゆく。
最後の二行には「いわずもがな」(再帰性)がギリギリで仕込まれていて、
この語法は貞久秀紀さんから学ばれたのではないか。次点。







【おへそ】
鎌田菜穂


その一点をあわせないと
まわる
が暴走するから
わたしはちぎれないように
ひとしいを
まもる
あさはもう吹いているのに
いつかの
おくをうめるために
まるまる
から
まわりだけふくれて
かわいたあたまを
ぶっとんで
かいそうは
食われ
わたしはただ中心をおさえている

ずれて ゆく
なか
おとこが
わたしのやわらかいを
まるむ
どんなにくぼんでも
帯はねじれ
あさが吹きこむ
ジャスミンのにおい
いつかの
あのひととおなじように
身覚は
いま
まわっている




鎌田さんは演習が回数をかさねるほどにみちがえていった。
ことばをひらき、寸止めにすることで
読み手の想像に余地をあたえつつ、
瞬間的に去来する「像」には恐怖イメージまで盛り込んだ。
この詩もそうして成立した彼女の作風の延長線上にある。
読み方は無限にあるのかもしれないが、これは性愛詩ではないか。
へそとへそを合わせればそれは正常位で相互の身体は回転しない。
ところがその抑制が解かれ、相互の身体が「展開」するようになると
「身覚」が世界発見をおこなうようになる。
そうした「翻弄」を実際は希求している詩篇だととらえた。
こういう穿ったことをいうと、
また「陶芸」を描写した詩篇だとかはぐらかされそうだが。
松岡政則さんゆずりの形容詞の名詞化も良い。最高点。







【おしり】
鎌田菜穂


おとなりのかのじょは
すぐにあるきつかれて
ぷりぷりしている
わらわせようと
おもしろいはなしをしても
つまらない
とぶたれる
うたをうたっても
へたくそ
だから裏側にのっけていって
ぼくのおしりをだしてみると
かのじょはやっとわらって
円みをちぎってこねて
さらに割ってあそぶ
ぼくはもんもんとしながらも
くうどうで夜を飼う
しばらくして
かのじょがねむたそうなので
いざ
ひっつこうとすると
ひげがじょりじょりする
とおこられる
なるほどぼくはおしりになりたい




これは面白い。鎌田さんと彼氏の主客関係が入れ替えられ、
彼氏からみた鎌田さんが描写されて、
さきの詩のもつ崇高性が、恥しいものとわらわれているのではないか。
意外な廿楽順治調への接近。修辞の一々を解くのが愉しい。次点。







【花息吹】
荻原永璃


水底にまいあがる花がある
岬の先
遥か下に青い魚がいる
早朝の
プールで一人泳ぐ
クロールの息継ぎの半分は
花息吹
かえっていく
と思う
いつでも
流れだして青くなる
水温がとけると
からだがひらかれて
海になる
呼吸のたびに
くちもとから花びらが
こぼれ
こぼれつづけるままに
花野へ
かえっていく
みなそこに
ひとすじの流れとなって
ひらき
ひらかれつづけ
花びらを吹きあげ
舞い上がり
やがて
天上から
早朝の
水を、照らす




何という、うつくしい詩篇。
早朝水泳に材をとりながら、そこで省察されるのは
体験ではなく、もっと原理的な自己身体だった。
身体は青い流れとなり、花びらを散らし、
最終的には彼女の泳いでいる水が花野になる。
自己身体をうたうことは抒情の本質だが、
それがメタモルフォシスを発現するうち、
外界までもがメタモルフォシスを結果してゆく。
こういう仕儀はふつう葛原妙子の短歌のように「幻視」と呼ばれるが
葛原短歌が大好きなようにこの詩が好きだ。最高点。







【喰】
渡邊彩恵


さあ
もうひとついかがですか。
その
まんなかにある
果実
かじってしまえば
たちまち
楽しいうらぎり
あいずをかかげるわ。
その
破戒させる魅惑の味と
かがやく果実のまるみ
わたしには
無理だけれど
枝にのぼって落としましょう。
貴女は
りょうてをさしだし
むしゃぶりつきなさい
すぐに
彼にもこの果実をわたしなさい
風がおとずれる前に




旧約聖書の「エデン/禁断の果実」に材がとられたとおもう。
味読しなければならないのは、
詩の主体が不可思議な媒介者/伝達者の位置にあるということだ。
なにか恋愛のステージから一歩下がったような
(実際は樹上にいる)そのポジションから
奥深い悲哀感がつたわってくる。次点。







【かまきり】
渡邊彩恵


白くてちいさな雄のかまきり
黒くてふとった雌のかまきり
雌は雄を食らうという
それが肉食女子というもので
それが草食男子のいきさきか
ああ でも
卵を産み落としたあとの
行方をわたしは知らない




短詩の可能性が追求された。
昆虫博物学的な知見が裏打ちされていて、発想は好きだ。
けれどもそうした「博物学」がさらに細部化され沸騰することで
詩は狂気にも行き着く。小笠原鳥類の詩のように。
渡邊さん、もう少しだ。







【まだらの】
渡邊彩恵


月明かりが
闇に
穴 をあけるころ
わたしは
ぽっかりあいた
まだらのひとつに
本をひろげていた
手を差し出してみたら
インクが漏れ出してしまったようだ
滴り落ちて
まだらの中にまだらを産み出す
うごめくインクは
一本の曲線をなした




これも短詩の可能性の追求。
月下での読書というありえないシチュエーションを
追求するのがモチベーションだっただろうが、
たぶん行数をふやさずにさらに驚愕が追求できたとおもう。







【うたうとき】
大永 歩


からだとこえの
ないを強調されて
かこいをなぞる
指のへそのよりどころを探し
なだれながら
まどろみの外側をえぐった
かげろうの羽のような時間が
はじけて
さめて
わたしは血をながす

ことばを知りたければ
葦になれ

うたとともに
きりとられたわたしは
音のないを見て
なだれた




これも松岡政則さん的な「形容詞の名詞化」が駆使されながら
全体を意図的に曖昧にしていて、
鎌田さんとの共通性をかんじる。
こういう詩風への接近が、
この演習の結んだ果実のひとつだったのかもしれない。
ぼく自身としては鎌田さん同様、とうぜん穿った読み方をする。
結論は部屋で静かにおこなう「自慰」を描いたというものだった。
そのようにして読むと、曖昧な措辞のすべてが魅惑化する。
自己身体を描く抒情はなんと可能性をもつのだろうか。最高点。







【夏の墨色】
斎藤風花


実が花にとって代わるころ
光る黒をふくませて
わたしは(それで)
わたし(は蕾)を
一気に汚した

暗くない黒をめざそう
つづかない憎しみはすてる
足し算はもうしない
うつろう誰彼はさとす

すらすらとながれる灰色に
清んだ匂いを否定された悠久

わたしはこういった綻びをみつけては
匿い大切にする
つまり
海原がにじむと
堤がやぶれると
海獺たちの手がほどけると
砂浜がよごれると
わたしは悦ぶのだ

老いた花弁の奥行きに
まやかしの灰色

すべてを隠し
なお脈打つのが
わたしが好きな
墨の色




自分に兆した黒色愛好によって
自分の純真が「綻び」「ほどけてゆく」感慨がうたわれている。
しかしその少女期の抒情を手放しで現出させることはしない。
その際のためらいと抑制を味読すべき詩篇。
けれどもともすれば象徴詩的暗喩で鎧われるべき主題に
どこかで大らかに風が吹き抜けてもいる。硬いようで柔軟。
その表情の多面性がぼくは好きだ。次点。







【あるく】
川名佳比古


そらのおもみの
ぬれた内側にたって
みちとみちのかさなり
をなぞり
ただうっすらとひらいた目であるく
くつおとに耳を澄ませば
そのきしみがうつす
焦点のかすかなささめきに
そっとツメをたてても
むかい風はつよい




「あるき」を主題にして、
歩行身体の抒情をその外界から補強することで
歩行身体を無名化=普遍化する。
だれの作風といえば「阿部嘉昭のように」になる。
その意味でたくらみの多い詩篇。







【鯉】
三村京子


バラの季節の
植物公園をあるいたことも
つかのまがふたりだったバスの休日も
井の頭池のめぐりも
玉川上水のわき道も
私は出てゆく
次の春にはもういない
木蓮をかぞえたひと
優しい女の子、などと
ゆるしてくれたひと
水先案内人だった
(睡蓮池を見に行った)
「君は失うの?」
夢の中で何度も呼びかけられた
それでいつでも、こくりと頷くしかなかった
急に泳げなくなった
錦鯉のように
たくさん変わってきたのに
このいけすから出ることができない
星霜をすてたの
水中のわたしの頭も眼も
見つけだせない
とけ始める
まだ水の上から声がする
肢体を縛り付ける声の糸
とけていつしかほどけるとき
この庭先もあらゆる糸の先々も
だんだんうたいだすのか




地名、多様なイメージも盛り込まれ、
恋愛期の終息が予感されたうつくしい「個人詩篇」といえるだろう。
三村さんはぼくの詩の演習に歌詞づくりのため
ずっと参加してきた。
自分にしかつうじない修辞を解き、
詩篇に空間をとりいれて音を緩慢化させ
全体を普遍化させることが彼女の課題だったろう。
提出された詩篇をみると、半分その課題が実現され、
半分はまだ発展段階だという気がする。
つまり「自分のように」という関門はやはり難関のままなのだ。
今回の演習での成果を今後も振り返ってほしい。次点。







【これからの】
三村京子


「かあさん、音に近いですか」
「いいえ、鳥が知っています」
じき、修正液が滲むでしょう
地上十二メートルほどのところに
漂うようにしてある我が家

飛ぶ意識をかんがえる
この世界映画が
いつか急に止まってしまい
真綿に埋もれて消えるふりをはじめる
ひきずる足で描いてゆく
それはにんげんの白線ですか

飛ぶ意識をかんがえる
渋谷の谷底で
私を燃やしたわたしは
いつだったか
聖書の書き換えの
残酷な施術にとりつかれた
それでもとうとう羽化しはじめた

緑銀にひかる
飛ぶ意識をかんがえる
かなしいこれは
羽虫なのか蝶なのか
それとも




端倪すべからざる細部をふくむ。
「飛ぶ意識」とはマンションの三階(?)にある自宅から
投身をする願望をも映しているようにみえるからだ。
実際そうした自己は何度も「是正」を繰り返されている。
よって前の詩篇に較べ修辞が締まっているが
「世界映画」のもつ無謬性にまだ意識がいたっていない。
《じき、修正液が滲むでしょう》や
《それはにんげんの白線ですか》のように
修辞が地声のところにこそ詩行の良い面が集中している。
 
 

2011年07月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

掃〔はら〕う

 
 
【掃〔はら〕う】


朝はおもたげなものからはぶいて
それでひかりの柵をつくり
ゆめみる場所には数列をかかげる
知るものとはじぶんになにかと
こころがゆっくり帳になってゆくが
あるくことはめくることではない
ひたすらに歩を掃ってゆき
眼のまえの古池のおおきさへと
じぶんをまるめおえることだ
みるにつけ気色に節約などなく
穴だらけのハスの筒を吸いつくす
だれかのけむりにそうなるのは
きっとひろがりが残心をもつから
花とかおりの一帯を気持にゆわえて
きのうのほころびに魔法をとおし
もう雨あがりは空におわったと
まるまったじぶんを世へ放るだけ
暑気のちらばりをすぎゆく遅速として
この髪の藁がみるみる無糖になる
いろをうしなうものが色身なら
やがてひとの商もあせてゆく
静思このはらわたにある褪色や。
夏の着物のようなほのおとなって
ゆくさきに岐路をみいだすと
もとより拠ってきたものが
ひとつどころではなかったと気づく
わけても楽器に似ていない臓は
ねむりつづける肝だろうか
じぶんを買うためにじぶんを払うが
肝から腸にかけてがぼやける
 
 

2011年07月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

追悼・原田芳雄

 
  
Facebookに書いた原田芳雄関連の記事をふたつ貼っておきます。

【七月十二日】

朝のニュースワイドで阪本順治監督『大鹿村騒動記』完成披露試写の舞台が映され、主演の原田芳雄が痛ましく痩せているのに愕然。​車椅子姿、禿頭、晩年の加藤嘉にも似た風貌になっていて、発声がままならず盟友・石橋蓮司がメッセージを代読していた。原田については腸閉塞と肺炎を併発しているという報が今あるが、『大鹿村』での原田はまだ壮健だった(樹が紅葉していたから去年秋の撮影だったろう)。本人は健康を恢復して復活するといっているらしいが、後ろにいた佐藤浩市が眼を真っ赤に泣き腫らしていた。原田が「知的不良系男優」の精神的支柱であるのは無論だが、やはり石橋が原田を補佐したのには胸が詰まった。二人が丁々発止の競演をした黒木和雄『竜馬暗殺』後、石橋は「あんなにアドリブを飛ばされては疲れて叶いません。二度と映画共演は御免」と述懐していたが、以後も黒木監督は『スリ』まで間歇的に二人の丁々発止を目論み​、二人は嬉しそうに共演していた



原田芳雄は力量の揃った男優と一対一の演技で火花を散らすとき、とくに素晴らしいが、『大鹿村騒動記』では岸部一徳との共演が見所だった。ふと憶いだすのが、往年の浅丘ルリ子主演のNTV系ドラマ、『二丁目の未亡人は、やせダンプといわれる凄い子連れママ』。そこでは赤白縞のスーツを着た原田芳雄が、兄役で同じスーツを着た山崎努と抱腹絶倒の共演をしていた。そういえばあのドラマの脚本は清水邦夫。つまりもともと原田芳雄は演劇時代以来のことばの出自を語っていた(『竜馬暗殺』も)。原田芳雄の「口跡」には中学時代以来、ずっと憧れていたものだ



ぼくは大学時代、芝居をやっていて、清水邦夫と蜷川幸雄の桜社の舞台『あなた自身のためのレッスン』に主演したことがある。元舞台の主演が原田芳雄で、大学一年の後期​、「きみは原田芳雄に似ているから是非」と演出家の悪魔の誘いを受け、ノセられて原田芳雄の役をやったのだった。結果はむろん惨敗(雰囲気はあったが、早口すぎて科白が聞き取れなかったという)。当時の清水邦夫の戯曲はものすごく多弁なものが多く、それが祟った恰好だった。その意味でいうと原田芳雄は多弁を肉体化するのが抜群に巧​く、これが実は均質リズムのあの口跡に負っていたとおもう



むろんしわがれ、時に割れて聴えるあの声も素晴らしい。原田芳雄はブルース歌唱も見事だが、ひばりの「リンゴ追分」のアコギ一本のカバーが絶品だった。一度、ぼくのキネ旬時代に、寺山修司のことで芳雄さんにインタビューしたことがある。記憶力抜群の、紳士だった。寺山芸術を見事につかんでいた。そういえば黒木さんの追悼の会のとき​、黒木さんのことを「不決断の監督」と端的に人物描写していたのも印象的だった



【七月十九日】

原田芳雄逝去。一週間ほど前『大鹿村騒動記』舞台挨拶に痛ましい痩身を晒した芳雄さんのことは書いたが、予感していたとはいえ感慨が深い。たとえば大正的旧時代の幻のように画面に映る風情が素晴らしく(アナーキストだったということだ-『田園に死す』『ツィゴイネルワイゼン』)、同時にその幻が演劇的爆発をする瞬間を​も待望させた(『父と暮せば』など)稀有な役者だった。彼が映画​の終盤、惨死を遂げるときにはユートピックな理想の渦巻く頭蓋が​、壊れもののエッグヘッドだったという逆証もおこなう(『竜馬暗殺』)から「時代を体現していた」。抜群の音感。しかも時代との齟齬を描くときは片方で痛ましく(『スリ』)、片方では笑わせた(『オレンジロード急行』での「このラジカセ、ラジオも聴けるの​け?」だったかの科白回し)。煙草を吸うポーズも芳雄さんから学んだ。ああ。いまはただ合掌…



原田芳雄の涙といえば、『赤い鳥逃げた?』で桃井かおりと大門正明がセックスしているとき、不能の原田芳雄がサングラスをとると、そこで涙がひとすじ流れるシーンが印象的だった。それがこのあいだの舞台挨拶では落涙を隠すことなく露わにしていた。逆に、『父と暮せば』で原田芳雄の「芝居」を撮った長回しについに黒木和雄監督が「カット」をかけたときは黒木さんのほうが泣いていた(NH​K教育のドキュメンタリーでみた)。それらを綜合すると、俳優として幸福な感動の磁圏にいたのだとはおもう。それにしても、中上健次原作『日輪の翼』の監督ができなかったことは、心残りだったろう



原田芳雄は、監督と、スタッフと、共演者と、映画を「共謀」する俳優だった。それが伝説のアドリブの多さとなって現れたが、その理由は原田が「音楽的存在」だった点にまずはもとめられる。同時に、自分の「見え方」を知り尽くし、シナリオを読み尽くす知性をもつ、「精確な俳優」だったからこそ、それができたのだった。松田優作が原田に憧れたのは、「口跡」よりも先にその存在方式だろう。ともあれ彼らの演技の「綜合性」が70年代~80年代日本映画の「型」をつくった、アウトロー親和性よりも先に。ただし原田芳雄は、監督の個性を見抜き、「言うなり」にもなった。それが鈴木清順映画の出演だったろう。「つながらない」とわかっていても、監督のいうとおりに演技しようとおもったとたしか『ツィゴイネルワイゼン』出演時に述べていたとおもう(とはいえその前に、比較的「つながっている」けれど原田芳雄の「メイク問題」のあった傑作『悲愁物語』もあったのだが)
 
 
 
 

2011年07月19日 日記 トラックバック(0) コメント(5)

お知らせ

 
 
ネット詩誌「四囲」四号がアップされました。
http://tsuzura.com/konoyo/

飯田保文、近藤弘文、高塚謙太郎、
廿楽順治、阿部嘉昭の同人は、​
今回、「十行以内の短詩」
十篇(程度)に挑戦しています。

ゲストは憧れの中島悦子さん。

すべて縦組のきれいなレイアウトで
詩篇が読めますので(字の大きさは100%がお薦め)、
ぜひクリックを!
 
 

2011年07月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【青】


くやしたさんがねむの木のしたで
しょんぼりしているので
ねむれ、といった
くやしたさんをあおい
はしごのようによこたえ
ゆるやかにのぼってゆくと
くやしたさんの眼に
ひかりがちってうつくしいが
それはおれがわかれているのだ
くやしたさんにありあまっている
まつげが何本、ときいてから
はずかしくなったので
さらにくやしたさんをひきずりだし
眼の底からあらわれたあおい下着にも
ねむれ、ともういちどいった
ちくしょう
くやしたさんがだいすきだ
 
 

2011年07月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

小峰慎也のように

 
 
●小峰慎也のように

【怪々死体】
大永 歩


こんなばかでかい窯の中で
おさかながちょめちょめしている
ぼくは殻を削いでいる
おまたがかゆくてしんじゃう
じゃあおちゅうしゃしようね
とユミちゃんはところてんをうつ
ぼくの手足はぽろぽろとれて
こけしになった
まるい頭は足りないところがなくていい
(カイカイしたい)
くびれの内側は
はなれたを繰りかえしていて
保健体育の教科書は、をやめない
ぼくはひとおもいに
さびれた







【ハクビシン】
高橋奈緒美


電線がゆれる
は、面白い
声が本物か吟味する方法
オレオレ
もしもし
オ、レ
オレだけど
サッカーの応援に夢中になって
お金を入れてください

あ、ここにいた
ハクビシンは屋根裏に潜む
数字が歩いていただけか
屋根裏より狭いのに
よく通った ね







【ぽんこちゃん】
高橋奈緒美


はじめは犬だった
嫉妬なんてするか
だが、くまのぬいぐるみにしてみた
プーさんは上着だけ着る
卑猥だ
黄色い顔していつも笑っている
なに
そんな一言を気にするのは日本人だ
鼻だけは共通しています
わたしは黒くないけど
呼ばれた声に反応してはいけなかった
わたしがわたしで
いるためには







【世界】
三村京子


あー
どうしようかな
そっちにいようか
こっちの温泉に浸かっていようか
いったんこのお湯から出て
あっちまで裸で歩いていかなきゃならないんだよね
けど、まあ
ムジャヒディンとかインティファーダとか、みちゃったら、
ねぇ。
はい。
ここで問題です。
要するに
二つの点があり、両者を内包する領域が、
目の前にあるわけです。
それを温泉タオルを巻いた私が、
岩陰で見てる、っていう。
体、あったまってるから
あっちの景色も溶け合って見えるんだけどねぇ・・・







【のりピー】
三村京子


あっちの家には
うざい、って言葉が入ってる
うちには入ってなかったけど
きのう食卓の隅に載っけられていた
母さんも父さんも朗々と
うまくいっている一夫一婦の朝食を
家制度にのっとって表明していて
気づかず
仕方ないから私が
使い終わった牛乳パックの底とかで
水とスイカの皮とかで、飼った。
夏の夜十時頃、
正義は模倣にしかないのか?本当か?
うっぜぇなぁ〜とつぶやくと
口中に粘つく感覚が(ほんとかな)。
るさんちまんとかいうものでずぶずぶになった声が
どうしょうもない、っていうもんで
やれやれどうしたのよ、って
付合ってやりすぎた
ちぇっ
ということで私はもう
旅立ちます
(味付け海苔のように)







【誰かさん】
二宮莉麻


その日は冬だった
マフラーをぐるぐるまきにしてオレはでかけた
山間の低い谷に小さな花屋があって
誰かさんに活ける花を買いに行った
まことに勝手ながら本日はお休みさせていただきます。
そこに活けにいったのに
そこは休みで
ちゃんと花をまいてきてね
誰かさんの親切そうな声が耳に蘇った
誰かのために花をたむけるという行為はいつ成立したのでしょう
泣きそうになりながら
写真の中の誰かさんに問いかけた







【卒塔婆】
森田 直


ぶった切って遊ぶ 午後はアツイ
焦げる前に 切れ! とゲンちゃん それ!
放り投げて それ!
炎天下で御臨終したくない
あたまに卒塔婆ぶっ刺さって死にたくない
土から離れられなくなる前に
えい!







【名前】
森田 直


納豆かき混ぜて
親父は生計を立てていた
おれのあだ名がちょうど
ねり消しだった

ねり消しだけの秘密
こころのなかで
一人称は昔からねり消しだった
気を使うやつはどうかしてる
だっておれ
練られる事を不満に感じない
いい性格なんだもん







【五郎ちゃんは3時に】
森田 直


おっさんにつばかけられた
ぺこりぺこり 頭下げた
おっさん恐かった 金本
シルバニアのおうちに 佐久本
みたく
表札はかまぼこ板
投げ出すのムツカシイネ
五郎ちゃんは3時に
外泊を許可された







【あしをなくした】
鎌田菜穂


あしをなくした
と山からかえってきたひとが
沈殿をひきずっている
かわいそうで
わたしのあしを
一時的に
なすりつけると
なだれこむ

あしをなくした
けれど
よるは最近みじかすぎるので
くぐるのに有利だ
辺りのカスを
あつめてきて
ねりけしをつくる
いた
きもちい い
垢でくろずんだ
りんかくが不十分な、
あれこれ
よるとえんえんと

っと、あしをなくした
なだれこむ
あなたに
コーラとゴムのにおい
どうしても、まるめこもうとするも
どこからが
誰なのだ







【のりかえ】
川名佳比古


電車のなかに吊る首と
目と 眼があって
なんとも気恥ずかしく
まだ躰になじんでいないので
もっと食べなくてはね
なんて言ったりするが
食べるっていうのは
えらい ものだ

そうしている内に
大宮でねじれてしまった関節を
えいっ とさらに深く
のみこんでまた
ずれた







【四倍の音楽です】
長谷川 明


僕が釘の頃には
寝る事
その木
、人のことを
罹患っぽい風な
おいしさ
からの
家を
えらった
反対のカードゲームをたくさん
プレゼントしてくれないか
でかいしどう
漫画を
好きになった
おんなのこを入れた
あっこ
簡単に漏らす
しね壁に塗る祖父を踏み抜いてしまえるえるえるくるくるかんじょうのきらきら
えらった
こいをぼの布団の話にする
ましんがんましんがん
乗る似る
多分入れた
わーい
俺の風呂だよおまえらは







【あいす】
齋田尚佳


味噌汁のみそをとかすには
一度火を止めねばならない
理由を知らない
そんなものはいらない
とは思った
スイカバーを
しゃくりとかじり、かじり。
種がひとつもはいっていなかった。
誰だよこんなの選んだクズは
と宙ぶらりんに悪態。
犯人は、と指をくるりと、みそっかす。

あいすを一滴ずつ
落としていった
畳に
髄まですすって
飲みほしてくれと
切に、とける







【家族映画】
森川光樹


せまいガラスの外をみてたら
父母の反射があざ笑うので
なぐりつけ後ろへ
結婚します
と報告すると若妻が
あたまからガラスをかぶせてくるオレの運命やいかに
などという映画における
血まみれのシーン
のすそでよだれをふく
21歳児になって
返り血はあびない。
はいはいでゆけ、雄々しく
荒野の七五三はすぐだ。
これからは一人ででかくなった顔をする。







【メール】
中村郁子


おふろ
じゅしん
うーん 今はムリ
あと
三日くらいすれば
はいれる
へんしん
またこんどね







【まないたの上のわたし】
中村郁子


つぎはもっとはりきってねって
できたとは思わなかった。

わたしを斬りきざんでください。
一瞬で斬ってくれたらきっと楽だろうな、轢死より何倍かましだ。
そんなことを言っている人類が意外におおくて
おもしろいです。
てんこもりの容量で、ダウンロードするのに時間がかかる。

小峰さんのお住まいは
国立 立川 日野 豊田?
つり革でうとうと夢の中のオヤジにぶつかられながら
ものを読んだり作ったり
そんなこんなで終点、豊田です。
バリアフリー、中途半端ならやめて







【むしってやる】
荻原永璃


おまえ
加えた犬の
真っ昼間に
赤いのがうまいのだ
といって
病気のじじいに
むしりとられた
のを知ったのは大分たってからでその頃にはもう
白ヤギのユキちゃん

かわいい眼などももう
ぎゃああああああ
とか
すぐにこなせたら何もモンダイはないのだ
これでいいのだ
ってぐちゃぐちゃだからじじい
おまえ
それでいいのかよ
ながくのびた一部をふみつぶしてやろうか
といっても
わたしかわいいおんなのこだった
赤いとか美味いとかさあ
あとさ、かんたんに、みんな、首をどこかへヤリすぎだよ
なくしたものはおれのもの
といっても
どうせみんな胃袋だった
しゃれこうべはうらがえしてから酒を飲めよ
毛だらけの奴をだ
おもいしれ
どうせおまえもむしってやる
そしてとつぜんに
消化されろ







【ばるかん】
山崎 翔


渡辺さんのぶたは朗らか。
朝刊も来て、
今日も不安定で、
安心。
ということにでもしておかないと、ねえ。
目が覚めたから咳込んでるのか。
もしくはその逆なのか。
お鍋の中の、が
いまにも死にかけていることを
弱火で5分して、ごまかせているつもりの六〇代男性(無職)は
布団で真っ赤。酸素が足りない。
(それでも例の行為は止めないんですね)
およそ十分後には台所でたばこに火をつける、と予想。
吸われるぞ。
いや、こっちのはぶたの話。
ぶー。
さわりたくもないような配置がなされ、
延々おなじ部屋で呼吸をしつづけていると、
おもむろに
消される







【お前のおっぱい】
中川達矢


絵に描いたおっぱいでは
欲を満たせないから
しかたなく
隣にいる彼女の
たるんだお腹を
つんつん
すると
なにしてるのよ

罵られ
おっぱい触ってるんだよ

言うと
しかたないね

認められ
お前のおっぱいは
そんなものでしかない





笑った。「参照源」の破天荒さのせいか、
みな生き生きとしている。
あとで「最高点」「次点」もしるすが、
今回はみな、愉しい仕掛けのほどこされた秀作ぞろい。
眺めていてもすごくカラフルで、
教師冥利に尽きた。至福、といえる。

これらはひとえに
「まねび」の対象=小峰慎也さんの
現在的優位性をあらわしているだろう。

小峰さんはゼロ年代からの詩歴。
じつに旺盛に詩集を出していて、

・『偉い』(01年7月)
・『スケベ心とどまるところを知らず、明日に向かう。』(02年12月)
・『和式』(03年9月)
・『困った人だ』(05年6月)
・『保守』(05年8月)
・『参考になる』(07年11月)
・『二体』(10年9月)

と、既存七冊の著作がある。

ただし定価のついた詩集が中にあるにはあっても
全体に私家版の趣がつよく、
そのことでpoet's poetと多く遇されているのではないか。

詩風については
ぼくのつくった「傑作詩篇」を提示しながら
受講生には次のように説明した。

・詩語の否定
・脈絡の脱臼(その結果としての激しい語間スパーク)
・足りなさ(寸止め)→解釈の多義性
・不道徳性
・(副羊羹書店主人としての)教養=破滅型私小説への接近

あるいは7月14日のFacebookの「近況」では
小峰さんを念頭にぼくは次のように書いた。



表現に際し、誰しもが「卓越化」をかんがえるが、
その卓越化が、​驚愕の付与と表裏するように、
一般化(脱個人化)、解熱化、緩慢化によっても
構成されていることが
さほど顧慮されない。
たとえばエッセイの分野では
以上述べたものの分布計測は必須となるが、
現代詩の分野ではその励行が
なぜ不問にされているのだろう。
〔…〕
もうひとつ、現在的な「詩の卓越化」に
相即するものをかんがえるなら、
それが「詩の小規格化」かもしれない。
〔…〕
趨勢的には現在の表現はすべて、
(ネット)資本とポピュリズムと刹那的享受から
「縮減」をしいられているだろう。
それらを逆手にとるとき、
「縮減=小規模化」が否定できない戦略なのだとおもう。
しかもそれは、Jインディーズでは
ゆら帝が耳目をあつめた90年代末期から
精神的な決定事項だったはずで、
現代詩だけが蚊帳の外に自らを置いていたのだった。
なぜだろう。



つまり小峰慎也の一見異常とおもえる破壊性は
逼塞にあえぐ詩の現在的事態に批評的に突き刺さっていて
受講生はそのことを察知して
「小峰慎也のように」という企みに同調、
結果、今回の詩作に豊饒さを得ているのではないか。

この豊饒さは「詩手帖」「ユリイカ」などの投稿欄での
詩作のつまらなさと対照的なものだとおもう。

そこでは文学の形骸しかない。
詩はもっと、定義できないものの動的な進行、
動物的なもののはずなのだ。

今回がこのアップシリーズの最後なので白状するが、
受講生の男女比率は大体、3:7程度ではないかとおもう。
むろん、ぼくには変態的なところがあって(笑)
これまでの読者にはお気づきのように
「佐々木安美のように」「廿楽順治のように」
それから「小峰慎也のように」と、
とりわけ「女子」にとっての難関をつくって
彼女たちの「変貌」をうながしてきた。

つまり「偏差値が高いがおとなしい」
(じつは「腐女子」傾斜性が潜在している)
立教「女子」の惑乱(錯乱)がみたかったのだった。
たぶんにエロチックな欲望にすぎないのだけど。

現代詩の変貌はたぶん「女子」からはじまる。
自然や季節や抒情や家事に親和する女性性が
奇異さにこそ親和する女性性へと接続されたときに
男性詩的な硬直・武張りのすべてを
詩作フィールドから放逐することができるのではないか
(と、ぼくの念願はいつも「女子頼み」の型をとる)。

そうおもったら、今回あざやかな変貌をみせたのが
中庸な作風で知られる中川くんだったりしたから
教育効果はその意外性によってこそおもしろい。

では恒例の成績発表。次点は以下の三篇。
・高橋奈緒美「ハクビシン」
・三村京子「のりピー」
・山崎 翔「ばるかん」

高橋さんの作は「振り込め詐欺」が題材かとおもっていると
聯が変わり、「屋根裏のハクビシン」に接続される。
この経緯に連関性があるとするなら
振り込め詐欺の電話犯人が
ハクビシンだという解釈にならざるをえないが、
「手がかり」が「足りなさ」によって脱落して
スコーン、と何かが口をひらいている。
その感触がとても好きだ。

三村さんの作は家庭での食事風景が
「偏執」によってグチャグチャに脱臼されている。
《正義は模倣にしかないのか?》は
大澤真幸の「正義論」がミメーシス論を原資にしている点を
揶揄しているだろう
(じつは大澤の議論は自体性のない議論なのだった)。
《家制度にのっとって表明していて》がユーモラス。
温泉でちがう風呂にどう入るかで煩悶している
もうひとつの作「世界」も世界像が意味なく深遠(風)で
じつはどっちを採ろうかでは迷った。

山崎くんの作は
《お鍋の中の、が
いまにも死にかけていることを
弱火で5分して、ごまかせているつもりの六〇代男性(無職)は
布団で真っ赤。酸素が足りない。》
の四行にフッ飛んだ。
そうなるともう「全体」なんて関係ない(笑)。

最高点は最後だから大盤振舞というわけではなく
純粋に評価して五篇の豪華版となった。以下。

・鎌田菜穂「あしをなくした」
・長谷川 明「四倍の音楽です」
・森川光樹「家族映画」
・荻原永璃「むしってやる」
・中川達矢「お前のおっぱい」

鎌田さんの作は大爆発だ。しかも朦朧体の大爆発。
冒頭3行は廿楽調の感触もあるが
最終聯にいたっては廿楽さんも小峰さんも突き抜ける。
足の喪失にたいし「わたし」が身体交換を望み
ふたりの領分が曖昧になるような
「愛」が唄われているような感触があるが
理路がうつくしく壊れている。
川端康成『片腕』の「腕」を「足」に変え
対象だった女を主体に変化させたのだろうか。

長谷川くんの作は徹底的な「意味不明」が
輪郭溶融、分節無化の恐怖にもつうじて愉しい。
「えらった」って何だろう。
徹底的に「壊れ」が進行するなかで
ラストの一行が決まっているから幻惑されてしまう。
しいて解釈すると「童貞喪失おめでとう」と
なぜかいいたくなってしまう(笑)。

荻原さんの作も同様。
犬を喰っているのかヤギを喰っているのか
爺ぃをいたぶっているのか不分明で
その多重化された模様そのものが苛立っていて
これが「女子」の手になることがひたすら嬉しい。
そしてラストが決まる。
ともあれ「女子が怒る」のは至当だ。

あ、森川くんの「家族映画」についてが抜けた。
これはことばの理路が破壊的にみえて
ときほぐすと「カワイイ詩」だとおもう。
家族でTV放映されている映画をみていたら
森川くんのグッとくる女優かタレントが出ていて
森川くんは家族の手前、恥しくなったということが
「返り血をあびる」といった
照れ隠しの表現になっているのだろう。
思想的マッチョ詩の「大袈裟」はいただけないが、
森川くんの詩はカワイイ。

中川くんの作は前言したように大変身を結果した。
真偽はとわないが
中川くんのカノジョが貧乳で
よって胸よりはお腹のほうが柔らかい、
というようなことがあったとしたら
それは柔らかさの無限転移の端緒なのだから
やっぱり「芽出度い」ということだ。
こちらにも「おめでとう」と声をかけたくなる。
 
 

2011年07月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

仁王

 
 
【仁王】


夏パカ来りて
梅雨パカをたたく
ひだまりにはもう
カールがなく
ソフトクリームさえ
毛だらけの駄菓子屋だ
ゆうがたは
ついの姿のひとの群れ
ただ毛のないほうへ
あるいてゆくと
浴衣どうしが
きれいに鬱血して
胸のあたりを
撫であってるのを
花火が照らしている
けれど
パカッパカッ
土手に仁王立ちして
家並越し
蚊帳の数を
かぞえた
 
 

2011年07月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

血へど

 
 
【血へど】


血へどをはくまで努力を、なんて手ぬるい
まずは机に血へどをはいて
まっかにひろげた小間物をふく
小間づかいからしなくては。
といった(ウン、そうだ)、転倒までも目標にして
とりあえずグミをまっかにくちゃくちゃしていると
おおなんという天、めグミが爆発して
しゃべるあごがふきとんだ
清流がさんぼん
これ、秘所のうかがえる絶景ポイントか?
くちなしがよわった手のひらをひろげて
あの世をひいらひいらさせているので
やおらミス・アンブレラもさかさにして
グミのくちうつしを骨でしていたんだ。
この夏は間身体性に古代紋がみえる
うつくしいなあぼくらのヤマバト
沢水のうえ手品あたりをゆっくりとんで
旋回ほど千回している
まるできんいろのひかりを綴じた日記みたいな。
飛行体が。濃くなって
ひかげも しぶきを飛ばしたようになった
いっきょにそれから正常位だったが
昏倒のまえにはきみ。血へどをはいた
めをさましてからもセコいといわれる…
 
 

2011年07月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

杉本真維子のように

 
 
●杉本真維子のように

【古い夢】
長谷川 明


僕と僕のかなしいがであう
古い夢を
蹴り転がすあそび
そこで
音楽をさがそうとする
色がみつからないこと。
あらかじめ失われていること。
もう一度眠る。
ぼくを
育成している
古い夢の中に
幾つもビルが建てられて
人のいない町が複雑になる
町は呼吸する
リズムがそこにある
さめることでぼくは露わになる
電車とぼくは静かだ
電車は町を過ぎる
皮膚に残る
古い夢のランドマーク







【脱色】
中川達矢


握りしめた私の
手の重さを感じて
ふと逃げ出したくもなる
血色は
いつだって
青い嘘を教わり
そのまんなかで
蠢く垢の
黄ばんだすきまに
先客がいる
中で
だれしもが
戸惑う成長の
あかみを知る
孵化する後悔に
先立って
体温から遠ざかり
冷えた明日のために
かつてない私を
殺す







【製造工程】
森田 直


焼かれ
まずいところを
すてられ
おいしい部分だけのこった
膚色の棒きれ

それでも
生まれたときは
うつくしかった

母なるあれに
ただよい
父なるそれに
すきとおった生をいかされ
内臓がすけてみえ
それでも
うつくしかった

よる
心臓にある
なにもない不満に
真固い白が降り
バラバラ突き刺す

いま
濁ってつめたい







【想い出】
二宮莉麻


ホチキスでとめられた絵本に
かかれてる
軍服をきたサーカス団

おかえり

と声がすると
おやつの時間だ
あかいマドレーヌを紅茶にひたすと
もようができてほっとする
瞬間に風がふきつけると
あまったるい夕闇の空間に穴があいて
わたしはおびえる
それはいつかでていったあの人の
うずきなのか
想い出には夕闇がひどくなつかしい

窓が
光の輪に
反射して







【ロボット】
三村京子


髪が無くなるまで切ったのも
欺くためで
銜えたのは誰かのたいせつなもの
交換する手紙の
わたしの恫喝は
もううまくほどけない
あのひとは泣いていてまぶしい
街灯のように立ちならんで
いまでは
緩やかではないその水流へ
ゆだねてしまわなければ
金の砂つぶのなかから
こわれたにんげんのかけらを
拾いだすこともできない
ごっそりと遅れることを
誰に教わったのか
数億光年前に光った
まばたきのように







【こもりうた】
大永 歩


しょうがの甘さは
しずくをつくって
夏をしたたる

熱風になる

わたしのからだは
宙をまって
はじける

たまになって

たりないものがない
扇子のほねに
あしがまどろんでいる

酔狂に
第三関節に
こもりうたをなでて







【午后のつめたさ】
川名佳比古


あおくぬれた煙が
くちもとを這いまわり
ひとりとひとりが
触れることのつめたさを
おおきく吸いこんで
血を流すことはなかった
閉じられた午后の
顔をみることはつらい







【白檀】
渡邊彩恵


ひらひら、てを
あおぎ
むらさきの蝶たちが
すれちがう
仄かな舞いは
香りにまぎれていく
そんななつかしさ
いったい誰がつれて来たのだろうか
太陽がさして 痛いとき、
身体から 汗が流れ出すとき、
こいしくなる

パチン
ばさっ

くりかえし

はばたくことを忘れた
あまい香り
それとは
違うものを求めはしない
愚かさをわらえ







【空焼け】
齋田尚佳


くるんだ肢体の橙には
射ぬくような衣擦れの音がふさわしい
潜った暗がりのうちに
小さな隠しごとを落として
敷きつめたここちよさの上で眠る
夢見のままに手の綿をまさぐると
うすい冷たさを追いやるように離れない

こなくていいの

月をまねした呼吸は覚えず乱され
嘘を込めたぶんだけ宙をつかむ
色が追いぬいた
あかつきに魔がさした







【ある晴れた日に】
森川光樹


すいません
すけた耳を
かえしてください

ひかる糸のさきで
溢れたうそが
白い鏡のなかをかけまわり
つないだ音の
半身と半身が
ちぐはぐに
捕まえにいく

すいません
耳はうちにありました
収斂したはじまりが
鳴り響いた







【雲】
柏谷久美子


なくな、なくな、とおもっていても
なかせてしまった
あの日のわたしは
人々を黙らせた
あなたの目を期待した

とっさに、隠して
飲み込んだ
怒りを思いだしたように
赤く打ち鳴らされた
刃物でえぐる
若かった、無色の眼差し
それから
雲は暗くうずまくが
なにも落とすことはない

雷でもいい雨でもいい
死んでもいいから
ここでなけ







【窓】
鎌田菜穂


七階のバスルームの
窓をあければ
こもった円満がこぼれでて
均される

夏の弛緩しきった
風が吹きとおり
細胞をさらってゆく
わたしに、なにがのこるか

なげつける発語が
血まみれになっても
あちら側におちてゆく
のぞいてください

するどいふちに傷ついて
いたいたしく一切が
青すぎる
夕方よ
そのまま、しかくく
静止せよ







【あかい果実】
中村郁子


ガードレールをこえて
せのびをした

タベチャイケナイヨ

でも心臓を刺されたし
耳も削ぎ取られたから

あのさ、こっち来なよ
オマエハザコ
ザコ

ひとりだけで食べる禁断
酸と苦み

「なにかうれしいことがあったの?」
うん、友だちと遊んだんだ







【輪廻】
中村郁子


ほら
早くしないととけちゃうから

おひさまの下で天からの声に急かされ
必死にアイスキャンデーを食べる

けれど体も熱くて
こおりはすぐに液体に
そしてからだの一部になる

食べきれなくて地べたに落ちた
あまさにむらがるアリ
わたしの葬列

どちらにころんでも
いのちは
めぐる







【名前、和音】
荻原永璃


遊歩道をかたちづくっていた木の
名前を
わすれてしまった
合唱曲のかさなり、や
家々の夕餉のにおい
引きずった肉の重み
同じ顔をした友人を
順々に
調整池に沈め
木の名前をさぐる
ア と ン の間にありますか
五号棟と十三号棟の間でしたか
遊歩道をのみこむ団地のしかく
窓からはスカーフが揺れ
赤い
葉はみどりで
冬は裸でした
調整池の周りには
木の根もとには
マムシ注意
の、看板が錆びては錆び続け
行き場をなくした和音が
物欲しそうに
こちらを見ている
音が重なりすぎて
判然としない名前
お前の名前
葉ずれの繰り返しの中に
歌われた名前
水底から連なる少女の視線
名前をわすれた夕方の上に
白い月が浮いている







【岬】
荻原永璃


熱帯夜に雨が降り
わたしは苗床として
岬を生やし
やがて流れ出る花々を
耳の奥に感じる
赤ん坊だったわたしの
羽毛のような髪を思い
灰色のもとに抱いた手の温度を夢想する
テッポウユリの岬
写真から製造される記憶
母は三年後のわたしと同い年
七月
こどもではなく南を孕み
乳房に汗が伝う
網戸の向こうの低気圧に
渦巻く海が見えた
横たわるわたしから
岬は溢れ
匂い立つ夜に溶けていく
臍帯としての百合
延々と連なる花行列の
夏の果てに
岬が重なるなら
おまえの頭を撫でたいと
そう思う







【くだものをほしがる】
山崎 翔


できるだけ
短く
うずくまるようなかたちで
千切れては
まとわりつく唾を
吐きこぼしつづけている

さなぎであり
こきゅうがくるしい

がらがらと
洗濯機の振動でも騒ぎだす
生活
おなじ原理で
蹴り上げられたように
咳込む
胃袋の内角の和をやぶって
真っ赤に滲むまで掻き出しても
昨日のみこんだ
はずの
縫い目の向こうが見当たらない

刺したのか







【夜空に嘘をついた】
高橋奈緒美


夜空に嘘をついた
人間は
大地を求める足裏を諭す

母を騙すときは
決まって自分を騙すが
夜空は光を抱えている
ことを
どうして黙っているのか

光を数えるより
闇を数える方が早いなら
月は穴じゃない

わたしも
わたしに
騙されている
大地もまた
足裏に触れる日を望んでいる
ことに
誰か
気づかないか





杉本真維子さんには忘れえぬ名言がある。
「詩篇を推敲してゆくと
どんどん削っていって
最後には詩がなくなってしまう」。

杉本真維子の詩がときに暴力的に映るのは
削除と圧縮の自己懲罰的な繰り返しによって
構文が悲鳴をあげ、
語と語が蒼白のスパークを起こし、
結像性も破壊されて
そこにあたらしい文法が創出されながら
自己への遠さのようなものが組織されるからだろう。

その最後のものが、
杉本真維子の詩を抒情として
さらには身体性のあるものとして最終保証する。

こう書くと、厳密な詩作意識が印象されるだろうが
実際の手捌きをかんがえるなら、

1)第一観的に一旦成立した詩篇を
2)骨組になるまで削除し
3)さらには攪拌し
4)そこに成立しはじめた余白の呼吸を整え
5)その勢いで最小限の音律化をほどこす

ということにしかならないだろう。

これは考えてみれば詩作の通常性に属する事柄で、
よって杉本真維子の詩の把握も
その語組織の暴力性には幻惑されずに、
手捌きの身体性ふかくに潜ることで完成されるだろう。

今回の「まねび」は
上記の5点を意識すればいい、と受講生たちに助言した。
けれども提出されてきた詩篇は
「いかにも現代詩風の語調」によって弛緩し
緊張を欠いたものが多くなった気がする。

なるほど杉本真維子の語調は
その分布だけを取って平準化すれば
現代詩の趨勢とほぼ変わらない。
問題は自己懲罰したあとに「なお」のこる
抒情と身体性のほうだった。
それを「まねび」の対象とするよう
もっとつよくいうべきだった。

詩集になっているかぎりの杉本詩の最高峰は
『袖口の動物』所載の詩篇「笑う」だとおもうが、
奇妙な直喩、自己身体への再帰的意識、
詩空間にあふれてくるひかりなどによって
語の抽象度が高いのに
柔らかい再読誘惑性を誇っている。

そこまで到達した詩篇はほぼなかった。
その意味で提出されたものは
直喩などの参照はあっても
「高度な意味では」杉本真維子に似ていない。

なぜだろう、真維子さんの「まねび」では
その真髄が希釈されてしまうのに、
廿楽順治さんのように
個性とスタイルのつよいものへの「まねび」では
自身に立脚した換骨奪胎が生ずる。

廿楽詩にある明瞭な型が
自立を促進する箍になっている、ということだろう。
となると若い詩作者は
現代詩一般に水増しされる惧れのあるものは
「まねび」の視野に
入れるべきではないのかもしれない。

次点は以下の三篇。
・森田 直「製造過程」
・三村京子「ロボット」
・齋田尚佳「空焼け」

森田くんの作は自己身体への再帰的視線をもつ。
視線はナイーヴだが、それが妙味となるのは
それを複雑にすると厭味になる時代だからだ。
杉本真維子との共通点はむろん自己再帰性にあるが
真維子さんのそれはもっと厳しい。

三村さんの作も自己史への凝視という点で
同様の再帰性をもつ。
修辞が「現代詩的に」混乱しているが
最後の四行がすばらしい。

齋田さんの作では
暁闇から払暁を眠る自己身体が
これまた叙述されているとおもう。
咀嚼しにくい語法にそれでも親しみがあって
その点では杉本詩の良い点が参照されている。
ただし、途中に一行で入る聯が勿体ない。

最高点は以下の三篇。
・長谷川 明「古い夢」
・荻原永璃「岬」
・山崎 翔「くだものをほしがる」

長谷川くんの作は抒情詩としてすばらしいが
松岡政則さんの語法が顕著にあるように
杉本詩には似ていないかもしれない。
自己身体を遠方に放置する意識と
「それでも」それが間近に残存している意識が葛藤し
そのなかで「過去」が掴まれる。
この点は、主題的に杉本真維子を髣髴とさせる。

荻原さんの二篇中の一篇「岬」は、
自分の幼年の写真に思いを馳せているが
「岬」が場であると同時に
「わたし」の属性にもなって
全体が二重化している点が素晴らしい。
修辞に沸騰を呼び込みながら
それでも静かさが狙われている。

山崎くんの作も自己身体問題の磁圏にある。
良い感じで女性化している作風だとおもう。
「胃袋の内角の和をやぶって」
という一行にハッとした。
そして最終行にも
 
 

2011年07月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

荷運ぶひと

 
 
【荷運ぶひと】


音のない町で荷物を買う
ただ運ぶための重荷は
膵炎のようにけむりだち
ゆきすぎるあじさいを
みごと枯らしてゆくだろう
何の目、炎症をおこした花は
あつまりすぎたその数列は
延焼への、どんな内在なのか
 
 

2011年07月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

体位

 
 
【体位】


あいる、ナイル
アフリカの入口はどんな島だ
突っ立ちに砂洲をかんじて
眼は横長にきれる
こちら側のすがたを
すこしみえなくして抱くと
焦げたにおいが香炉よりあふれる
ぶるか、がながれてゆく
眼のような肌のくびれあって
凹んでゆく眺望
くびれゆくものに自らほそくなり
しめる手を置いてゆくと
ああ、ああ、ああ、とまで
異国の草も鳴って
異語のおなじがさみしい
 
 

2011年07月06日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

琵琶のかたちの

 
 
【琵琶のかたちの】


縞になっているきもちを
かなしむこころが
両膝をかかえさせている
そう見咎めて
両腕それじたいの
きらめく価値をいった

いだくものはいだかれるものと
ついにことなって
氷塊らしきもの はこばれる。
そのまひるまをうちふす
荷車のあたりだろうか
ゆりが粉とともにこぼれて
くさの腐敗も散っている

あふれた夏の、ひかりのあゆ

荷車ではピエタがあって
やがて
まわるものだけ選ばれてゆく
すいかの匂いの相変わらず
両膝をかかえるとそれもわかり
おおきな生簀のある
天の色の庭をみて
しれず、夏の円さにはいった
そのようにちかづきながら

うむことは、とぼしいか
 
 

2011年07月04日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)