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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

いろいろ

 
 
本日店頭の「図書新聞」に
福間健二監督『わたしたちの夏』についての
ぼくの評が載っています。六枚。

映画といえば、
死亡説をくつがえし公についに再登場した
曽根中生の告白に釘づけになった。
借金逃亡後は妙に具体的な人生を送ってきたのだなあ。

「臼杵」「ヒラメの養殖場」
「磁粉体製造装置」「エマルジョン燃料装置」といった固有名詞に、
すぐれた小説同様の、
リアリズムの凄みを感じた。

曽根さんの「現状」については、
玄界灘にコンクリート詰めになって沈んでいる、
という風評が、90年代前半当時、
「トラック運転手説」よりもつよかったとおもう。

生存、を、個人的につたえられたのは、
先週月曜、大浦信行監督と王子で呑んだときだった。
本日の記事によれば
由布院映画祭で田中陽造と語りあったという。
よきこと



昨日は大工原正樹監督
『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』評
(結局、サイト用になった)を仕上げたのち、
ネット詩誌「四囲」の反省&親睦会&企画会議で横浜へ。

詩作行為、そのネット発表、批評と実作の両輪性等について
同人と語り合ったが、かなりの落差を感じる。
一軒目の沖縄料理屋があまり口に合わなかったのが問題か。

中島悦子さんと小峰慎也さんが芽出度く新同人に!

詩とは、「自分についてしか書けないこと」と
「自分についてだけは書いてはならないこと」の
「中間」に響くことばの何かだ、
という自分の発言が頭に残っている。

それと「阿部さんは西脇に依拠した長い詩を書くべきだ、
短い詩篇は圧縮性がつよすぎる」という近藤弘文くんのことばも。

当日、ぼくが批判したもの。

1)引用がままならないレイアウトに凝った詩篇(詩篇の民主的流通に反する)。

2)他人の詩にコミットしない消極的な生。

3)賞の付与など無闇矢鱈な自己権威化。

4)詩集・詩篇を「部分」をもって褒めること。

5)廿楽さんの『化車』の編集

6)天才神話に回収されてしまうだけのロマンチックで無内容な詩観。

7)「○○は文学的だ」という論難が自己反射的にもつ文学性
(ぼくのいう「ナマイキの法則」の範疇にある言説のすべて)。

8)擬制としてであっても「ネット民主主義」への貢献を考えない生き方
(ただしこれは「ネットは貧民の武器だ」というときの
「貧民」にのみに該当する規範)
 
 

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2011年08月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【穴】

たえず翅ふるわせる
蜂をにぎっていたてのひらが
寝覚めの丘でひらくと
もうきえていた蜂ではなく
矢のようなものがそこから放たれて
もうひとりのわたしのいる地上が
これを機に暗く暮れてゆく
てのひらをまんなかに
いのちないものの
はなはだしいあながみえる
 
 

2011年08月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

二叉路

 
 
【二叉路】


たがいにキリコ語とハス語だけを
ぽつぽつかたりあった
キリコ語で語間に距離ができたなかを
ハス語のけむりが埋めてゆくと
トーキョーの夜もしのつく雨で
この舌の濡れが腕の濡れへと
つめたくひろがってゆく
ぼくらは別れる、ただしそのまえに
ことばが先にわかれて
めのまえのあいだがきえてゆく
 
 

2011年08月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【川】


みなそこにうごく川海苔の青さが
水面よりもあかるいけしきの
その遠近が気味わるいとおもいながら
ぼんやりとした太陽光のほうへあるくと
西、というおぼえもよみがえってきて
あのひとみは西日をみていたとおもいだす
ひとのからだの深浅をはかるのに
ひとつゆるされている血でできたまなこが
みるものをただ浅瀬に容れてながれた
めのまえは賛美すべき川、少女亜洲香の
 
 

2011年08月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

つり橋

 
 
【つり橋】


みずからのからだをうつわにして
水のたかみをわたってゆくときは
内実の水がつり橋のようにゆれて
からだのいっしゅんは持続の躯に
きえうせて行路も捉えがたくなる
うごきとは眼瞬きにしずめられる
なんの箔であるか銀の銀の白銀の
オートバイで視界に擦り傷をつけ
進行の毒性にまで変わりゆくには
空気へ発した銀量もすくなすぎる
 
 

2011年08月18日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

朝顔

 
 
【朝顔】


あけがたにみるまぼろしは
蝋燭がうかんでいるふかい井戸水に
ひかりが徐々にはいってきて
それが炎えだすようすかもしれない
起床の質をからだが反芻している
ということだけなのかもしれないが
どこかでわたし以外のものが目覚めて
起きだしたら花になっている恐怖を
ほのおが助長している節もあって
寝起きは自分の火消しからはじまる
 
 

2011年08月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

あまがみ

 
 
【あまがみ】


ひとつの愛餐は循環をあたりにたいし負うが
これを思考中断して宙吊りにかけ
唇と歯を黄熟にふれるままにするのが
秋をのぞむ習いともなった、あまがみだ
それでこの楕円のうれい顔のまえでも
本質の時間が球形をえがきめぐりつづける
なにも食べない、噛むようにねぶるあまがみは
夢を期待させ、くちに寄せるみなを花梨とするから
やがておのれの風貌でない砂糖漬けになって
ふれあう葉のつくる咳すら、とめさせるだろう
 
 

2011年08月10日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

心中

 
 
【心中】


あわい花びらのきらきら散る
あさのさるすべりの下に居たい
時間には順序があるから
わたしのあたまがまず消えて
のこった下半身がぎんいろになるだろう
それはあたまを欠いてもあるくのか
心中をもとめて横浜にたちよったあと
音だけをくりかえす海をともにさがすのか
こいびともそれなら下半身だけになって
浜ではきんいろにひかるだろう
 
 

2011年08月09日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

杉木立の巻

 
 
【杉木立の巻】


杉の木立から杉が消えても
それは木立であるのか
知らない階段が知る階段となり
すきとおる人らがそこを通って
人も木立のような集まりとなる
                   阿部 嘉昭
「そろそろお弁当にしましょう」
割り箸をうまく割れなくて
片方の端が尖った人がいても
おにぎりは手で食べられるからいいね
中味の不明なおにぎりの交換
                   林  文孝
割れない数は奇数です。
気持ちがよいのは偶然です。
木偶の坊が小太刀を持って
明日の朝を闢きます。
もうすぐ九月。
                   佐々木一也
虫の骸 無体に転がる
道をずらして 緑に入る
枯木 空缶 古びた人形
虫の音 ひどく 聞こえる
眠くなったり 眼が覚めたり
                   片上平二郎
いつの間についたのだろう
百合の花粉に 手が汚れていて
自分の罪に気づいた 老教授
並ぶ 幾多の 空かんのなかで
小さな映画が上映されて
                   小池 昌代
夜の蝉が鳴き止む
老教授、ウッと白いブドー酒にせきこむ
いま、夜の風が止んで
笑い声が谷を駆け上がってくるではないか
Ping-pong, ping-pong
                   千石 英世



昨日8/3まで立教の学生合宿に
他の教師とともに参加していた。
場所は八王子・野猿峠にあるセミナーハウス、
緑ふかい山中にある、なかなか景観のよいところで
うねるような山道が山腹を這って
宿舎などにつうじている不測の地勢も愉しい。

昨日午前、合宿の最終課題は小池さんの指導で
学生の連詩制作実践。
教師陣が手持ち無沙汰となるので
これは経験者のぼくを宗匠として
連詩を巻く、ということになった。
五行詩を六人。これは班分けした学生と同じ条件だ。

小池さんとぼく(こちらにしても
連衆になるのは久しぶりだ)以外は
「詩を書くのは久しぶり」
「詩を書くのは初めて」という面々。
その覚束なさがかえって新鮮で
結果はごろうじろ、上のような快挙となった。

学生の連詩にたいし
年長者の面目というか余裕を
保つこともできたとおもう。

阿部のは挨拶詩。
杉木立が周囲にあるセミナー室、
その「木立」に参加学生・教師の多数性を籠め
階段の上り下りにいわば人生の経験を、
「すきとおる」に
経験が経験であればそれらは無謬になる
という認識を、組み入れた。

語法的には再帰話法のずらしをもちいている。
簡単な語彙なのに再読をしいるよう語を組織した。

文孝先生の出来には吃驚した。
ひとつは符合。
鮭のおにぎりが好きという学生の自己紹介があって
阿部のかけた映画では
鱈子のおにぎりの出てくるシーンもあったのだが
文孝先生は二日目の昼からの参加で
それらを見聞していないのだった。

3.11震災&原発事故を予言しているような詩が
数多くあるとさまざま話題になっているが
もともと詩はある種の「透徹」だから
簡単に時間の諸相にふれるのかもしれない。

詩篇そのものは杉木立から
物質的想像力の似た割り箸に連想が移り
その「割り」の失敗、
それを超越するおにぎりの交換というふうに
詩想が自然に伸びてくるが
この詩想には経験や教育の
価値や本質を語る意志も伏在している。
それが説教臭ゼロのいわば「カワイイ」口調で
鮮やかに実現されたのに驚いた。

佐々木先生の付けは
「割り箸」→「割れない数字」ともってきて
しかも「奇数」から「偶数」の予想されるところが
「偶然」とズレて
《気持ちがよいのは偶然です》という深い哲学認識がくる。
「木立」と同音の「小太刀」をもちだす遊び、
「木偶の坊」で「木」の再召喚もおこなわれて
最後、九月が待望される。

ですます調なのに翻訳象徴詩、あるいは
そうであればこそ白秋の語調が連想される。
九月→「白秋」なのかもしれない。
詩篇中「闢く」は「ひらく」。
佐々木先生の講義につかわれた映画は
宇宙と人間の新しい開闢にかかわっていて
この難しい漢字の使用がよくわかる。

片上先生の付けは詩心を得ようとした
散策によって誘発されたのだろう。
一行め二行めの頭韻、
五行めの漢字造型上の頭韻性など
仕掛けも施されている。

三行目の体言止め連鎖は
片上先生の「みたもの」を
時間的一列に置いたのかとおもっていたら
「枯木」が「杉木立」の
「空缶」が「割り箸」の
「古びた人形」が「木偶の坊」の否定、
つまり前詩までの蓄積を打ち崩す意図があったのだという。
結果的にはその「枯木」で「木」の連続もつづいた。
ぼくは最終行の発語のやわらかさが好きで
最後の連用止めからは次詩を待つこころが出ている。

小池さんはさすがに手だれ。
片上先生の「変換」の意志を増幅しようとしたのか
「木」から「花」へと物質的想像力の基軸を替え
もともとすべて取り扱い注意である学生の
その精神の芯にふとふれてしまった「老教授」、
という禁忌的提示をまずは挑発的におこなった
(とうぜん小池さんの後番は
しんがり・祝言詩篇達成役の千石先生だが
老教授はべつに佐々木先生であっても
ぼくであってもよいわけだ)。

そのように「フック」をつくっておいて
セミナー室に場所がもどる。
連夜の酒宴では
机に「空かん」(前詩からの召喚)が置かれ
そこでとくに教師たちの学生時代の苦難が語られた。
それも阿部のかけた小さな映画と同様の
映画的体験だったと見立てがなされ、
これまた連用形で次の詩篇が待望される。

最後の千石先生の付けはその酒宴が終わったときの
透明な静寂が喚起されている。
「老教授の咳」には自嘲があるのかもしれないが
(「オレの噂した?」という感じですね)、
前詩にある、一花の花粉にまみれる一手という個別体験が
「夜の風」「笑い声」のアニミスティックな複数性に置換され
しかもそれに上昇力動まであたえられる。
これが祝言詩にふさわしい、芽出たい実質ともなった。

その物音を「Ping-pong」の連打音とも聴き取ったという眼目だが
同時にセミナー室奥にはなぜか卓球台があって
元気の良い学生や片上先生などは酒宴がはねたのち
一旦興じていたピンポンを再開したのだった。
「Ping-pong」は音がそのまま名前になったという意味で
命名論の真芯にあるような気もする。

いずれにせよ、五行詩は実質や運動を盛り込みにくいものだ。
それを教師陣は連衆への「預け」の精神も入れ、クリアした。
一読理解されもしないがないが難解に凝り固まりもしない、
そんな「ひらき」のようなものが各詩篇には装着されている。

そこにずっと一定の音韻性がたもたれた。
この「杉木立の巻」は
もともと合宿の諸局面を輪切り連鎖したような構成だが
きっと合宿そのものに幸福な音韻性があったために
全体があっさりと音韻化したのだともおもう。
 
 

2011年08月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)