ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

地上

 
 
【地上】


ゆうがたの天心へ
梯子のぼりするひとの
ぜんたいが塔だ
それらは幾本も立って
空を洗い
おえようとしている
一年がおわるとは
そういう光景で
空に棲みだしたひとらは
地上も釣りあげてゆく
 
 

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2011年12月31日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

生家の笑い

 
 
【生家の笑い】


こころにもう生家はかたちをなさない
足や脚があつまってゆきかう畳があり
くさのたぐいを煮た鍋からたちのぼる
湯気のお化けがそこにひろがっていた
かびのもようある壁に截られたまどが
てれびのかわり 秋田さんをみていた
かの女だけに泥の洗われた腕があって
みじかいのや長いのやくつ下をくれた
みなでそれらを履くと一列が賑わった
その家も空につながっている気がした
 
 

2011年12月31日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

井の頭線

 
 
【井の頭線】


この世を女の子ごとうべなうためには
井の頭線というのはちょうどよい長さだ
車中では帳消しに似た冬のひかりが
種別ごとにつつましくにじんで
それがかんがえのうつわの内側をなめ
一行のながい詩を書くひとが連結部にゆれて立つ
そんなくるしさがないとかんじていると
かんじているそば、隣接からこそ
ある時節のように吉祥寺もあらわれてくる
その経緯に大仰なものがないのだ
 
 

2011年12月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

媒介の手

 
 
【媒介の手】


さまざまな廃線が手相にはあり
てのひらは喪失にゆれている
みずからのからだのどこかに手をおけば
それはしぐさに支えをつくりだすが
ひとはその支えをつうじてゆるやかに
くれのこる海辺の鉄路をはしり
まなうらにも廃運をみいだすのだ
あるいはおかれることで手はからだから
つぎつぎ廃運のからだをかんじとって
みずからだけを媒介にかえてゆく
 
 

2011年12月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

排中律

 
 
【排中律】


そこを占めるものによって
そこにないまわりととりあわされ
それでことわりのすべてができるのは
もののおのれのふくらみで
その場を占めてゆくありようを
ふくらみがすでにつらぬいているためで
それで大きなブナにもちからがみち
そこから果てがおだやかにひろがって
まわりとさらにそのめぐりまでもが
きらきらと葉擦れをなしてゆく
 
 

2011年12月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

冬の音さらさら

 
 
【冬の音さらさら】


いちめんの枯木にかこまれて
かこまれていることをみずから祝う
あなたのあれやこれやの楽器をうんだ
ここは木どころか楽器の場所でもあって
たがいをこすれるぼうだいな冬の音がある
このあたりにオーボエのようにたつこと
ただし喨々とゆかない生はふかれずに
ひざしをのんだ胃のかたちのみが楽器だ
ありかたが枯木にかくれるト音記号なのか
その気配は音のなかの臓物もしたがえた
 
 

2011年12月27日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

つるしか

 
 
【つるしか】


音が佳いとおもい
つるしか、というひびきを
冬に空想しあった。
鳥獣という漠然の種にして
きんいろのほそさの合体。
おんな手でえがかれている。
まちぶせされているかもしれないと
つるしかつるしか、となえ
ふかさの沢をめぐりつづけると
すでにまちぶせが泪でぬれていた。
 
 

2011年12月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

へび

 
 
【へび】


あらぶるものをさわっていると
てもとがひらき、とじ
そこからおんなのからだが
しずかにあみなおされてゆく
かがんでうなじもまるみえになって
ぜんしんを、て、とよばれずに
うなじとされたことはむねんだろう
てくだのなかにあらぶりがきえ
れんぞくをなくしたまま おんなの
からだもへびになってゆく
 
 

2011年12月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

阿吽


 
北海道北見から「阿吽」6号、来る。冒頭から計31頁分をぼくの詩篇が占めてしまった。「さるすべり、鋸 その他」。秋ごろに書いた十行詩15篇を送ったものだが、それを何と一篇二頁の贅沢で印刷してくれたための大量頁となった(「できれば」一篇一頁と依頼していた)。ともあれ、「阿吽」編集部のすごいところは詩篇依頼が「字数自由」なこと。松本秀文くんなどはそのため小冊子詩集を別冊にしてもらうなどの大盤振舞に浴している。今回の松本くんもぼく同様、何と31頁を占拠。ほか高塚謙太郎くんが「屏風集拾遺」で七つの「屏風」を並べて七頁を、藤原安紀子さんも四頁だが連作内在性が詩篇全体にあってボリューム感がある。「阿吽」は第一号にぼくの詩集の絶賛を大々的に載せてくれた同人誌。北海道、それも中心ではない場所を拠点にしているのが見事だ。だからずっと続いてほしいが、そのためには大量投稿の連打はまずい、ともおもう
 
 

2011年12月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

どぶろく

 
 
【どぶろく】


さきわいをかんじてにごるもの
こよいはそのしろさをのむために
卓子にコップを列べながら
もろともいさぎよい減数の王となる
夫人の木蓮にさきがけて酔うべく
星下をただ澄ませるかさね杯は
ながれるものいがい音もなく
だれかもいう、時の列こそ微醺だと
そのように発酵する数と一致して
座央にまします焔が国にみえた
 
 

2011年12月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

想像的な自画像

 
 
【想像的な自画像】


どう口をあけているのかわからないやりかたで
あのひとは網をかけ大漁を唇のまえにかたりだす
いさり網からうきあがる鯛のつくりだす涅槃で
身近な中村がうごきごとに色わけされて
そこから書くことのたくらみが泡を突きあげる
誰が書いているかの虚構化がいまの小説だと
ざんこくな託宣が浪々の牙をむかわせて
そんなあのひと自身の魚を釣ろうともおもう
海よりもかぐろいとどろきをもつのではないか
けれどあるものは波になってはわたくしをこえた
 
 

2011年12月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

Facebookペースト

 
 
〔※午前中、Facebookに書いた記事をペーストしておきます〕



森田芳光の死去は昨日、試写でたまたま会った瀬々敬久とも話題にしたけど、なにか感慨が微妙だなあ。川島雄三の後継者という感覚で80年代までは接していたけど、たぶん「ジャンル」遵守ではなく「ジャンル」連接のほうに意識が向かったためにその後は緊張をなくしていったという印象。『家族ゲーム』の傑作性は、「空間」の過重化が同時に空疎に向かうという点で『貸間あり』『しとやかな獣』に似ているとおもうけど、その後の森田映画の傑作は別の局面に現れた。『それから』はガラスが点在する空間での「つよい声​」と「よわい声」の対決と帰趨という音響設計的主題(録音・橋本文雄)が見事だった。それと『39』がその時期の森田作品のなか​で例外的に緊密で、そこでは画面色彩設計に緻密な意識が払われていた。実際はスタッフワークの監督だった。でも企画は森田さんの「才人」ぶりを擽るようなものが多かった。あ、やはり川島雄三に似ていたか…



ああ、それと『(ハル)』があった。まだデビュー間もない深津絵里が、ラスト、はにかんだような挨拶をした。あれは仕種をみつめる映画だった、パソコン映画というより



昨日は映画美学校の建物で試写の三連荘。一本めは廣木隆一監督『RIVER』(来年三月、ユーロスペースほか順次公開)だった。​かつて侯孝賢『珈琲時光』では、お茶の水・聖橋下、神田川のうえ、総武線、中央線、丸の内線が発展的に交錯する三本の架橋で、それぞれの電車が行き交い、その運動自体が映画の素晴らしい大団円になったものだが、あの場所が夜、川面から「見上げられ」、そこにヘンリー・マンシーニの「ムーン・リヴァー」のアコースティック伴奏によるカバー(meg)が流れてくるこの映画のラストに陶然としてしまった。ぼくはいつも「場所」に発情してしまう。事件​のあった秋葉原と東日本大震災の被災地を「水」で結ぶとき、つな​がらないものの通底性が何か不可知論と情緒の混ざり合った「厚み​」を知覚させてくる。そう、セーヌ川、浴槽、プールと、つながらない水を通底させたときクルーゾー『悪魔のような女』の「心臓にわるい」サスペンスが生じたものだが、いま「水をつなげること」は無力感に希望を慎ましく加算することのようにおもえる



しかし主人公がさまよう映画が多い。松江哲明『トーキョードリフター』、吉田良子『惑星のかけら』…廣木『RIVER』では秋葉原事件で死んだ恋人の「かけら」をもと​めて秋葉原をさまようヒロイン蓮仏美沙子が連続的に捉えられる(冒頭、駅から中央通りに出るまでをワンショット​の移動撮影でヒロインを10分ちかく追い続けたのは松江『ライブテープ』が念頭にある?)。古事記の時代なら猿​田彦のように「さまよい」はその軌跡(踏み固め)によって足下に続々と国土を形成することだった。いまはちがう。人物の彷徨を追えば、風景と人物はその相関性のなかから積分をつうじて空間を帯状に拡張してゆくのは当然だが​(この見事な事例が園子温『紀子の食卓』前半だった)、ところが移動そのものは人物にとって生産的かつ親和的でない。つまり「傷」「痕跡」「追跡不能」という問題系にすべてが反転してしまう。そのことを誰しもが知っていて、そこから通有的な情緒が湧出するのだとおもう



『RIVER』における移動哲学は、メイド喫茶のあやしげな店長・田口トモロヲが語る。いい演技だった。それと秋葉原の表通りではない風景細部がみつめられている。柄本時生の出てくる場面での中央通りをみおろせるビル屋上や、小林ユウキチの拠点となっている高架下と地下道の混ざったような場所。こうした風景への感受性により、津波により水だらけとなった被災地の三月あたりの映像が捉えられてい​った。被災地の浸水状況をこれほど鮮烈につたえた映像はぼくには初めてだった。ずっと無言のまま彷徨し物語を形​成しないヒロインに声をかけるのは中村麻美。「写真をとらせてくれないかな?」。廣木さんの傑作『ガールフレンド』で河井青葉に最初にかけた山田キヌヲの科白と同じ。ここで配役と関係において、廣木-吉田良子-風間志織のラインもできる。廣木さん、やっばりフェミニンだ。それでたまに、こちらがとろけてしまう(笑)




昨日の試写二本めは真利子哲也監督『NINIFUNI』。ゴダー​ル『ベトナムから遠く離れて』『ヒア&ゼア』が「ふたつの場所」の(不可能な)映画だったこと、あるいは廣木『RIVER』が秋葉原/東日本大震災被災地の「ふたつの場所」の映画だったことからすると、この『NINIFUNI』では「2」の概念が鷲掴みにさ​れ同時的に並列される暴力が起こる。こういうことだ。現在の「2」は同時性のなかに置かれると「癒合」を果たすかのように錯覚されるが、実際は「無縁」のままに捨て置かれ、その無縁性そのものが概念的癒合を倒錯的に印象させ、そこからさらに「傷」へと遡行​する想像力も生起する。真利子作品特有の暴力性の間合いがあってこそ、そういう主題が浮上してくる点が銘記されなければならない。茨城近辺の風景疎外をドキュメンタルな移動撮影で捉えた前半と、後半、アイドルグループのPV撮影場面の軋むような「癒合なき癒合」。このとき物語上、カメラが置かれるのが不可能な場所から、あたかも死者の視野に似たものが遠望され、深甚な恐怖が走る。これらをつないだものこそが岡太地『屋根の上の赤い女』に出ていた山中崇の「問題放置」だっ​た。あるいは映像の質感の面では、実写映像と、ビデオの記録映像(さらにはぶっきらぼうな黒味の字幕場面)の「摩擦」が起こる、この映画はどこかに作品論を書こうとおもっているので、これ以上は詳述しない。ちなみに真利子監督はもう『イエローキッド』を観たときから、日本映画の今後を担う中心的才能、と見定めていた。『NINIFUNI』は今年夏、テアトル新宿でレイト公開されたときに見逃していたが、二月にユーロスペースで公開されます



試写のあと真利子監督と話す。昨日は「爆音上映」で、音が大きくないかを気にしていらした。茨城あたりのモータリゼーションの虚無性をつたえるために、あの音量は必要ですよ、とぼくはいった



あ、奇妙な題名『NINIFUNI』についてはチラシに​以下の簡略な説明があります。【ににふに】:2つであって2つでないもの(仏教用語より)。「而二不二」と書く​らしい。世界の根本的な分節性が、「融即」によってゆたかに撹乱される、ということでしょう



昨日の試写三本目は井川耕一郎監督『糸の切れた凧、渡辺護が語る渡辺護』。ピンク映画界の神話的巨匠、渡辺護監督へのインタビュー映画で、全10部のうちの第一部二時間強が昨日、上映された(​何という「向こう見ず」な企画だろう--笑)。昨日の段階では渡辺監督のピンク映画デビューまでが追われていったが、俳優から芸​能世界に入った監督の出自が、現在の彼の映画の「口立て」演出に​結実しているとよくわかった(しかもその場面が爆笑を喚起させた)。渡辺監督の画面センスと彼の絵画的才能のリンク、彼のヤクザ性と融通無碍な変容性の照応など、作家論の肝となる部分がさりげなく抜群の語り口でしめされている。井川耕一郎の姿は一瞬、渡辺​護の現在の撮影現場にある鏡から捉えられる。自らの対象同化と異物性顕示、その両方がそこに籠められていたのではないか。監督の手許にのこされた撮影台本(映画の現物はもう消失している)からの、井川くんの検証力に唸った。井川くんは『伊藤大輔』など、映像論的映像エッセイ、という点では吉田喜重さんと双璧。いずれは渡辺映画の「画面引用」によって、井川的、異様な映像論も展開されてゆく予感がある。全10部全体が観たい
   
 

2011年12月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ゆめどの

 
 
【ゆめどの】


球が截られて
八角の実となったところから
かんがえがゆるやかに
その奥をもってくる
なるもならざるも
なづきを手でふれる仕種が
身のかたちをひらきゆくときに
かんがえとはまた音の一種なのか
ひとと夢殿をゆくはずの音に
もう八角の羽化が生まれている
 
 

2011年12月19日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

部品

 
 
【部品】


枯れ蓮狩りの三人となって
日のほうへ蓮見舟をながしてみると
もう水上がただの浮力にかわり
泛くもののすべてがうごいてゆく
こうして世界の部品があらわれる瞬間は
あるいている犬が駆けだす勢いに似て
むげんに分割できるのだという
みとおすだけの三人のゼンマイもおもく
ゆっくり落ちるまぶたの針金には
「うごくかな」やれはちすのうごく
 
 

2011年12月19日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

吉田良子・惑星のかけら

 
 
冒頭、若い女の子が歌を唄い空き地の原っぱで踊っている。その次、大通りに出て(明治通りだ)、丸井のビルなど「渋谷」が遠望できるショットで、すでにこの映画の主題がはっきりする。遠望の渋谷、近傍の渋谷、夜の渋谷、何も無さの渋谷、人の行き過ぎる渋谷、店のなかの渋谷…皮膚への距離感の異なるさまざまな渋谷が、ひとのからだをどう包み、どうその背後へと擦過してゆくか――そういう身体と渋谷の関係がカットごとに「積分」され、新鮮な領域性をあたえられる傑作こそが吉田良子『惑星のかけら』なのだった。

だから渋谷を行き過ぎることだけを描いた庵野秀明『ラブ&ポップ』や、渋谷が革命への導火線になるかどうかを問うた豊田利晃『ポルノスター』など、往年の「渋谷映画」の「線形性」とはポジジョンがちがう。唯一、いま公開中の松江哲明『トーキョードリフター』での渋谷パートの、観る者の皮膚に刻印をあたえる実在的作用が、『惑星のかけら』と共通している。
 
自分の空疎を埋めてほしい、という柳英里紗は、ゆく男を次々に誘う。男に都合の良いファンタジー造型かと捉えると(男に引き連れられて入ったラブホで、自分の両手によって自分の両乳首を隠しつづける彼女の仕種の素晴らしさ)、まずは彷徨の頻度と量によって、ファンタジー=空想を超えられる実在性があたえられ、映画の空気が「奇妙」になる。

このとき同じような頻度と量で渋谷を彷徨している男、渋川清彦(KEE)と「同調」が起こる(シーンバック効果)。渋川は勤め帰り、男と奔放なデートを繰り返す河井青葉をストーカー的に追っている。つまり追われている河井も、頻度高く、量の多い渋谷彷徨を重ねていて、結局、「同調」は柳―渋川―河井の三軸で起こっている把握ともなる。

脚本も手がけた吉田の語り口が絶品だ。衝突によって渋川と柳を出会わせ、河井の追尾という渋川の行動動機を理解させたうえで、「ナルコレプシー」(嗜眠症)によって渋川の「特性」がさらに上乗せされる。急に眼前で眠りこけてしまった者をどうするか。放置するのか、見守るのか。そのことですでに「愛」が問われるのだから、『惑星のかけら』での渋川は、「物体」になったときにひとの誠意をよりわける「分離機」でもある。そして柳がついに誠意の側にいつづけること(このときに彼女の不思議な方向感知能力も関わる)で、柳の愛(の奇蹟)の度合の高さも伝わってくる。

けれども70分強の作品時間のなかで、展開の先読みはいつもできず、観客は意外性に打たれながら、円山町、東急本店通り、公園通り、道玄坂、さらにはそれらのもっと遠くの「外れ」など、渋谷の夜の空気を、人物たちのからだがドキュメンタルにどう揺らすのかを、ただ固唾を飲み、ときに笑いながらも見守るしかない。
 
追尾の執着を負いながらも、ナルコレプシーの宿痾をもつ者。そういう渋川と同行する若い女、柳。そうなったとき「ふたり」のとるべき身体ポジションが自然に多様性として展覧されるようになる。作品は男女の相互身体のポジジョン変化をそれ自体スリリングに形成しつづけ、そのことによって「時間」まで生みだす圧倒性のなかにあった。

列挙すれば、放置的監視(眠りこけた渋川を離れてみながら、腰をおろしている)、同行(渋川と柳の身体バランスは非対称的対称性を感じさせて見事だ)、代理監視(路上で男と接吻抱擁する河井のようすを、それをみたくない渋川のために小声で実況中継してみせる)、庇護(眠りに落ちた渋川を腰をおろして胸に抱きかかえる)……といった調子だ。つまり相互凝視、相互の意志的抱擁のみを欠いた男女の行動・仕種が流麗に点綴されてゆく。

やがて映画はあってはならない構図をとる。「河井-(を追う)渋川-(を追う)柳」の総体が縦構図で一挙にしめされ、二軸への分断によって三軸を捉えていた映画の慎ましい文法が、ついに三軸「同時性」へと禁忌を破られたのだった。構図的な「風雲、急」。

このとき軸の中央の渋川が眠りに倒れ、河井(このときまでに彼女は観客の予想を超えた、「みられることのニンフォマニア」だと判明している)がそのからだを放置、柳こそが庇護を加えることで――つまり、この映画らしく仕種選択の分離作用によって――以後の映画の帰趨が決定される(いや、決定されない――ラストの数分もまた、観客が唖然とするように意外な、つまり実在的な展開だったのだった)。

空間に「空き地」のあることと、ひとの心に隙間のあることとの「空間的」ひとしさが、まさに空間の具体的提示によって描かれた映画だった。渋川の配役に風間志織映画への意識があるだろうが、風間『せかいのおわり』に頻出した「穴」が、ここでは「空き地」の冒頭と終盤近くの間歇登場(とその予感の連打)に変貌しているといえるかもしれない。

聴かれているかもしれないと意識しながら、眠る渋川を胸に抱き、自分の心の空き地の来歴を語る痛ましい柳。渋川とキスを繰り返す光にあふれた初体験シーン(録音設計が素晴らしい)で、柳に、河井の役名ではなく柳自身の役名「カズキ」が呼ばれるまで柳の「痛ましさ」はつづき、主題的には若い女の「承認願望」が描かれているともいえる。

けれども柳の顔がシチュエーション、角度、夜の濃さによって、「具体的に」音楽のように、そのありようを変えてゆく点で、実際、痛ましさはすでに克服されていたのだった。渋谷に流れる夜の空気よりも、さらに音楽的な「可変性」をもつ柳英里紗の顔――それがこの実質をつかみがたい『惑星のかけら』の魅力のうちの最大のものだったろう。「少女映画=ガーリー・ムーヴィー」のようにおもえて、実際、主役の座を射止めているのは、空気や時間といった抽象的な手触りしかのこらない、はかないものなのだった。

その枠組のなか、最後、自己壊滅の予感をあたえて渋川が109奥に消え、最後にみえる柳の顔も、「物質のように」歩道橋上で疲弊していた。これらの選択もまた見事だった。
 
  

2011年12月17日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

医王湯

 
 
【医王湯】


あらう場所というものがあって
へそ下についたおもいでは
男湯でどうどうとながされる
むらさきの金属性にふくれ
だれでもないものに均された股間にも
この世の忘却がきらめいて
それすらなにかへ侵す湯の尖りで
うまれたころのあかみをますだけだ
都鳥のおりなす、うごきの「べき乗」は
あふれることでおもいでに似かよった




ドゥルーズ『差異と反復』220頁から――《忘却はむしろ、記憶の限界、すなわち思い出されることしか可能でないものに関する、その記憶のn乗として、本質的な思い出のなかに現存しているのである》。
 
 

2011年12月16日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ゴルゴダ

 
 
【ゴルゴダ】


一帯をひからせているのは
十字路という決意の形態であって
あたりにならぶがらすの扉ではない
おそろしいたかみから×点をつけられ
事故の蓋然がみちてくるそのときに
あるひとのあるく脚の交錯が
事故のようにきえてゆくのがみられた
きえたそのものは裂ける像となって
がらすの層へ次つぎととびちり
複数という物のきえる場が全うされた
 
 

2011年12月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

往生

 
 
【往生】


この世が平屋つづきにへばりついていた頃
そまつな板とがらすに囲われただけの二階は
きゅうくつで稀薄なしずけさだった
枯葉などが畳に散っていると
そのどれもにおんなの風情があり
からだに火がついたように急かされて
のっぺらぼうに似た寂しいおんなを
鐚銭で買いにでかけようともした
ところが三回に二回は階段がきえて
往生しながらただ遠くをみていたものだ
 
 

2011年12月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【鍬】


あさつゆに湿った場所を掘ると
根の張本人といったものがでてくる
――汝だね? サンズイに女。
それがアジアふうの着衣なので
掘ったしろい像が茫々とひろがって
脱力がかんがえられるようになる
――おまえをひとつに固めているのは
なによりも詩骨さ。それを砕かなくては。
鍬をもってあたりをふらつきながら
どうして金篇に秋なのかもなげかれた
 
 

2011年12月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

窓辺の文机

 
 
【窓辺の文机】


机にむかい、顔をうつむかせ
影がふえ、かたちもへって
顔が顔でなくなる瞬間を
窓辺からひとに盗られようとしている
それが文机の位置だが
つくる日の放心というものは
からだに酢水がとおってもいるので
おのれの減りを、しかと自覚できない
あたかもだれかの係累であるかのように
顔があればそれも酢に翳らされている
 
 

2011年12月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

いすかりおて

 
 
【いすかりおて】


朝に起き、最初にやつれるのは
きのうひきぬいたススキの束を
蛇口の水で洗い
てもとの流しを銀でみたすときだ
野で喰い、野を喰い
のこりすくなくなった顔により
うらぎりものがあらしめられるが
もつれてゆくススキにあるのこぎりが
かんがえを支える首までほそくして
田鶴の鏡像になるのが不吉なのだ
 
 

2011年12月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

明暗

 
 
【明暗】


一行をてらしたり
くもらせたりするのはかんたんで
ゆびさきをひらいたりとじたりして
木管をふくさまをよそおい
ことばを行ごとに息づければいいのだと
うそぶいていたマジック桃彦への罰が
皆既月食が夜の宙に高々と吊った
あのへんなあずきいろだったのだね
(髭の地球、自分の影)たえず
かんがえられるべきも列だったと
 
 

2011年12月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

エデン

 
 
【エデン】


ひとのくだもののからだが
そのたましいににていないとするなら
むだにうつくしいそのひとのくだものも
かんがえのおくゆきをさかのぼって
ただ反省されなければならないだろう
ゼリーがゼリーににているように
ひとのくだものをひととはさばけないから
いきものとかんがえがわかれてゆき
そのかんがえのくぼみのような場所に
ひとでないくだもののくさる時間もあった
 
 

2011年12月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

スラップ・ハッピーの歌詞

 
 
再来週に講義であつかう、
スラップ・ハッピーの歌詞に昨日・今日と取り組んでいた。
とりあえず再結成前、70年代の
摩訶不思議な響きを湛えたものをどうにか訳出。
以前訳したもの二篇をくわえ、以下にご披露します
(この時代のものの対訳は本邦初なんじゃないか?)。

念のためいっておくと
スラップ・ハッピーは
ピーター・ブレクヴァドとアンソニー・ムーアという
「ひねた」イギリスのマルチミュージシャンに
ドイツの歌姫ダグマー・クラウゼが加わってできたグループ。

初期の音はヴェルヴェッツ風だったが、
徐々に魔法化、ついにはヘンリー・カウと「合体」して
12音階ポップ、という前代未聞の境地へと
数年にして進展してしまった。

その音の変化と相即するように
歌詞にもどんどん稀用語彙がふえてゆく。
ただし「歌詞の不思議」は最初から一貫している。

それと、ぼくが訳して以降、スラップ・ハッピーの再結成まで
ダグマーの声は戦闘的に「硬化」してゆく。
そうして彼女はヘンリー・カウ、アート・ベアーズの
左翼的な歌姫ともなるのだが、
白状すると、ぼくはスラップ・ハッピーでの
やわらかい声の彼女のほうが、ずっと好きだ。


●『ソート・オヴ』(72)より

【リトル・ガールズ・ワールド】

旗がかかげられ
街路もひろがった
ありあまるほど
ふれられるものがたくさんある
それがちいさな女の子の世界。
雑誌、
それは黄緑いろをして
女の子はあまいとおもって
食べてすらしまう、
銀幕のなかでのことだけど。

ひざまずいて、ぼくのために唄って。
お嬢ちゃんには交響楽からの公平な分け前がある。
さあ二階にあがってぼくといっしょに遊ぼうよ



【アイム・オール・アローン】

わたしはこの世界でひとりぼっち
だからさほど気にしていない
世界がさらにわるくなろうとも。
あなたはいつ気がつくだろうか
わたしの身に起こっていることを。
世界がこの身にとりまきだし
からだがとても息苦しいのだと



【フーズ・ゴナ・ヘルプ・ミー・ナウ】

だれがいまわたしを救ってくれるだろう
だれがいまほどこしをさずけてくれるだろう
彼はわたしを置き去りにした、
飛行場で。
だれがいまわたしを救ってくれるだろう
彼はけして嘘はいわなかった
彼はけして嘘はいわなかった
きっと帰ってくるとも誓った、
キャデラックに乗って。
でも彼は絵に描いた餅を約束しただけ
まぼろしを約束しただけだった。
もうわたしには最後の
最後の10セントしかのこっていない
このフライトがはじまり
わたしは自分の心の終わりにむかう
あなたはもうどこにもいないし決して間に合わない
わたしのみじめな心を破り散らしただけ



【スモール・ハンド・オヴ・ストーン】

石でできた小さな手
それだけが私のもの
そこにあなたは輝きをくれた
雪の降りしきる音
それが私たちの間で川となる
ねえ 私の手が大きくなるのを見て
あなたの窓のそばの スプーンの中で

あなたは私を捕まえられない
だって私はいま自分の道を歩んでるから
いまはもう毎日がそう
あなただっていつも変化している
毎日 日を追って

もし私が行くべき方向を知ってたなら
私はそこに永遠にとどまったろう
でも互いに並んでいても
私たちは一緒ではなかった
あなたは私を捕まえられない
だって私はいま自分の道を歩んでるから



●『カサブランカ・ムーン』(74)より

【カサブランカ・ムーン】

彼はよくフェルト帽をかぶっていた
でもいまはトルコ帽を誇らしげにみせる
カバラ的なあてこすりが
彼のことばのすべてにある
チュウチュウ音を立てて煙草を吸い
彼は縒り糸をひろいあげる
カサブランカの月の下で。
彼はひろげた新聞紙のうしろでコソコソうごく
モスクの影に隠れる。
彼はかぞえきれもしない
自分のわたった大陸の数を。
パーティメンバーが霜にのこした
足あとを追跡するだけだ
「アクナルバサック・ヌーム
〔※カサブランカ・ムーンの逆読み〕」の下で。
彼を隠す覆いは破れている、どこかが
どこか――〔ニュージャージー州〕ホーボーケンでは
その男がいう、彼の事件が迷宮入りした、と。
彼は東洋へと送還された
二重スパイが裏切った
彼の鼻の下の無精ひげにはコカインのシミがついて
彼のパズル・ピースはまったくつながらない
高地に住む人びとは自分の顔を刻印したがっている、
白人横断的な硬貨のうえに。
彼は自分の足取りをみたほうがいい。だって
早晩、彼らは彼の無頭のからだを
換気扇のなかに発見するだろうから。
ティンセルのような汗のしたたりが彼の目をしみさせる
精液のような神経症の水たまりが彼の変装のヒビからにじんで
薄暗い売春宿では鏡が彼の泣き声で割れた
カサブランカの月の下で。
昨日の夜にはついに彼も発狂、
壁は崩壊し、全人類は
彼のまえに立ち、手を挙げるが
その意味ありげな身振りを、彼は理解できない



【ハーフ・ウェイ・ゼア】

彼はまだ半分、まだ中途半端
だからわたしの財産はわたしに使えきれないだろうなんて言う
けどわたしは一人暮らしがしたい
川沿いに建つ一軒屋で。
そこで裸で暮らす。ルビーだけ身につけて。
そのルビーも彼が死ねば
遺言で彼から譲られるだろう。
彼はまだ半分、まだ中途半端
彼の顔を一瞥すればたちどころにそうわかる
あなたが知る必要のあるすべては
まだモノクロの状態でそこにあり、彼の眉毛に印刷されてる
彼はいつも「なぜ?」「いつ?」「どこで?」を問うけど
「どんなようすで?」とは問わない
彼はまだ半分、まだ中途半端
最初わたしはきびすを返して彼から逃げた
わたしは感慨をおぼえはじめることができなかった
彼がそのとき感じているとわたしが感じた感慨を。
その年の春、彼が消えさえしなければ
わたしは彼を故郷へ送りとどけただろう
彼はまだ半分、まだ中途半端
会葬者の大きな列が同意した、「これは本当にあいつだ」
毛布のうえに群がって、ボールペンをもって議論した結果だが。
彼らは彼を壁に立てかけ、それから彼をまた壁から離し
輪廻の車輪上を廻るにまかせた。
なーんだ、あなたはそのやりかたでは
わたしをつかまえられなかったわけね。
わたしは時の流れに刻まれた通告の行間を読んだ。
これこそ彼らが言っていたこと、すなわち――
彼はまだ半分、まだ中途半端、
まだ半分、まだ中途半端……



【ザ・ドラム】

隊伍を組み
ドラムのリズムによって行進せよ
自身がまだ水にもなれない無だと忘れるな
おまえは理解途上か理解直後だろう?
わたしがおまえにそれ〔無〕を
手渡しているということにかんして。
あるいはそれはおまえがあえてしようとしない
仕事にすら属するのかもしれぬ。
なあ、かわいこちゃん、
ここにおまえに宛てた手紙がある
(おまえはそれを棚のうえに見つける)
それがカルカッタから投函されたものだとしても
それはおまえが自身に宛てて書いた別信にすぎない
われわれはドラム音がとどろく遠方を見やった。
そのビートに、あたうかぎりオウム返しに反応せねば。
隊伍を組み、
ドラムのリズムによって行進せよ
自身がまだ水にもなれない無だと忘れるな
足はうごかしてはならぬ
次のビートがひびかないかぎりは。
掟のひとつにいう、「中間部分は休止」
しかしわたしは遊戯を意味ありげにみせるのをむしろ嫌う。
なあ、可憐な花のような娘、
おまえはわたしがこれまでどこを旅してきたかわかるか?
何、まったくわからんだと?
わたしこそはおまえの部屋のなかを旅して
その部屋が壁に敵対する鏡だらけと学んできたのだ。
われわれはドラム音がとどろく遠方を見やった。
そのビートに、あたうかぎりオウム返しに反応せねば。
われわれがまだ水にもなれない無だと忘れてはならぬ。
決して愉悦とはならぬであろう、
現在時がすべてなされているのであれば。
夜ごと試す、陽気な夏の月下で
スプーンひと匙のゼリーにも似るおまえのたましいを。
なあ、陽気な花のような娘、
部屋には猫が一匹いて
でもそれはおまえがむかし飼ってものとはタイプがちがう。
けれどもわたしは気づく
わたしは猫を台所の流しに連れていって
それが嫌がるもの〔水〕を飲まそうとさせたのだと。



●『ディスペレイト・ストレイツ』(75)より

【サム・クエスチョンズ・アバウト・ハッツ】

どうして人は帽子を薄気味悪くするのだろう?
それを風雨にさらし、
さらに羽根飾りまでつけて。
帽子の怒りに耳をかたむけるべき、
帽子に熱を出させるべきだ。
形が崩れれば、帽子も駄目になる。
屋外の水門が
驚きの声をあらわにする、
濡らして帽子の姿を良くすることなどできようか、
帽子を火にくべるのも無理なのに。
帽子自体もっと気高さを望んではいまいか?
人は帽子を競わせもできるのではないか、
邪まなものごと、有害なものごととも。
いったい甘草魚に翼が生えるだろうか?
人は帽子を遠ざけえない、
それは単純でもないし
退屈でもない、
よわく華奢でもないのだ。



【ヨーロッパ】

ヨーロッパは疲弊した瞳をひらく
彼女〔ヨーロッパ〕のすべての瀟洒な都市は
平坦にされてしまった
けれどもあまやかな大陸は、勇気は
泣くことがない
西洋の事故とは、「理由」が
裏切るように進む点にかかわる
それが天国の送りこんだもの、
すなわち地獄を撃った。
(遊具を中心化し
玩具をひるがえし、
われらが祈祷師はアヒルを、
その血を飲み、ロールスロイスを走らせた。
われらもその円陣にくわわった。
ひとつの地図が描かれていた、
われらはそれをヨーロッパと承認した!
途端に気落ちし、泣き崩れた)
彼女ヨーロッパは自身に
自身の神話を呼びだせなかった。
ルピナス〔昇り藤〕の花序の突起〔乳首〕は
乳を噴きだした、育ちきらないローマへと。
けれども「理由」は野獣を
石へと変えたにすぎなかった。
(石、それは打たれたとき
ひとつの魂を解放する。
〔教会の〕尖塔から、魂が唄ったのだ――
「ビタミンが鏡中をちらりと見やるだけで
ヨーロッパのジレンマは祓われる」)
ヨーロッパよ、汝に礼を述べさせてくれ
以下のことにたいして。
さまざまな心が旅をほどく。
思い出もだ。
遊山することのなんたる甘美だろう、
とりわけ樹下をあゆむことは。



【ストレイド】

すべてバラバラにされ、半分忘却へと消えたぼくの昨日。
酸っぱくなった光線が霏々と降りしきって
くっきりと今日「在る」ことすら妨げる。
言うのも無念なことだが
たぶんぼくは「はぐれたstrayed」のだとおもう。
彼女は言った、「万事うまくゆくと言って。
そしてこの星ではそう叫ぶ〔bay〕ことこそ大事。
叫びなさい〔bay〕、今日とは日々訪れる日に同じと」。
けれどぼくは道を踏み外して〔astray〕しまった。
ぼくは白状する、
どうしてぼくはそれを秘密にすべきだったのだろう
闘いが終わらないのなら
その終わらないことが、きみを成長させつづける、
きみが「はぐれた〔strayed〕」ときには。
秘密をもつ慎みも消えて
我慢できず同族からの最新の出来事を便りしてしまった。
そこに報告されていたんだ、希望は挫折する、
佳きことは何ものも残らない、
そのことが、われわれの生の目的のなかで復活となる、と。
けれど、だれが上昇できるだろう?
わたしの眼をつつむ瞼の、なんという薄さよ……
 
 

2011年12月09日 日記 トラックバック(0) コメント(2)

上州

 
 
【上州】


草の岸にかこまれた水門のうえであそぶ。
水の上という暫定をよりかるいものにするために
あふれる水明かりを皮膚に容れて
まだらとなるよう情をもってゆくのだ。
空間にひらかれたスカートをはいた罰として
関八州をとおりぬけるものみなを
脚の塔へふたりであつめる。きしむ。
たかさそのものを隠すカーテンとなって
ゆらり抱きあい、音をころしてさらに脱がす。
あたまのろうそくは消さないままに。
 
 

2011年12月09日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

虚言

 
 
【虚言】


n個のジュースを
すでにn回のんだらしく
このくちもとはさわやかに
かんきつ系だ(ウソ。)
というか、かんきつ系のウソを
さわやかにつくと
くちもとから虹がでてきて
きれいだといわれる(これもウソ。)
さすがにこの顔はn個あるが
もはや虹のわけでもないし
 
 

2011年12月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

くだ

 
 
【くだ】


一生のみんなが
一堂にあつまってきて
おわりとはじまりがここに
みごとにまざりあった
まざるありさまは
かくもうつくしく流涕的で
みんながくだのなかを
往来しているともおもう
このとき見守る日々にもともと
くだが這っていたと気づいた
 
 

2011年12月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ススキの考え

 
 
【ススキの考え】


ススキの考えはススキのひろがりに分布して
ほぼおなじものをただ位置へと散らし
考えをまとめないまま共鳴させることだから
銀をあふれさせている茫漠としたそのろうぜきも
負った複数を日のひかりなどにはかえさない
むしろわたる風に変化するだけのおそろしい総体が
ススキなのかわたしらなのかさえわからなくなるよう
たまたまのススキのなかに考えの一身を置き
そこにつたわってゆくススキ原すべてのなびきから
ひともとのススキの、たわみのにがさが知られる
 
 

2011年12月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

回路

 
 
【回路】


ばかふといしろねぎを焼き
そのとろけたあまみで
キスまでもをつないでゆくと
ぴゅしすのなかにあるからだが
ひえた寓意とおもえてくる
かんがえるあたまをゆらすために
くちづけの回路をしながら
ゆれにも、ないものがふかまり
あとはただこげたにがみが
のちの日のように耳の陰を襲う
 
 

2011年12月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

椅子のさびしさ

 
 
【椅子のさびしさ】


椅子が、いないひとを腰かけさせている
あったはずの木の実を採るために
あるときから木陰へ置かれたままずっと椅子は
しろい腕の数本をそのうえに複製しつづけた
いないひとの範囲というたとえだろう
その身中をなびかせた日々のあらゆる微風も
飛騨や時間の襞へとおさめられてゆき
日にひかる椅子の、はなれてあることは
いまやいないひとにより、ないことにおなじい
それが行く秋にある椅子のさびしさなのか
 
 

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