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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

酒井隆史・通天閣

 
 
酒井隆史『通天閣』(青土社、11年12月刊)をついに読了した。ぎしきしに文字のつまった700頁超の巨冊。辞書のように重い本なのであまり持ち歩けず、読了までに二週間ちかくを費やした。『現代思想』の07年12月号からの計二年間の連載集成。もともと大量原稿の掲載だったが、そこにさらに執念の加筆まで施されている。

酒井隆史といえば、「暴力」「自由」の哲学的把握にフーコー、ベンヤミンなどを中心的に介在させる気鋭の思考者だという認知があった。ところが記述が領域侵犯的な酒井だけに、参照領域ももともと西洋思考にとどまらない。谷川雁、竹中労など日本の特異な思考者も召喚される自由な論脈がいつも素晴らしかった。実際、本書、『通天閣』でも玉川しんめいや朝倉喬司の著作が参照系として顔を出してくる。通常のアカデミシャンとは気圧がちがうのだ。

この圧倒的な細部の充満する大冊を乱暴に要約してしまうと、スポットの当たる人物は以下。詩人・小野十三郎、棋士・阪田三吉、織田作之助と川島雄三、借家人同盟の首魁・逸見直造、60年代以後の「通天閣→飛田」の映画作家たち。小野については工場林立地となった湿地帯からついに通天閣を遠望する彷徨がその評伝的記述のなかで捉えられる。阪田についてはその被差別的出自が微妙な陰影をもって推測されながら、伊藤大輔によるその伝記映画『王将』が、消失時という禁を破り、さらには地理感覚・方向感覚の錯綜をもしるしづけて、通天閣が作中に象徴的にランドマーク化された意義が、『王将』原作者・北條秀司の遺文博捜によっても緻密に跡づけられる。織田/川島にいたっては、織田作品の空間進展性と脱権威性を崇敬する川島が『還って来た男』『わが町』と織田作品を原作に仰ぎながら織田的映画を撮ることに蹉跌した経緯を具体検証的に追い、その雪辱戦として『貸間あり』を、井伏鱒二の原作から換骨奪胎し「織田作之助化」したその背景まで、人間的に考察してゆく。どれもしびれるほどの展開・切れ味だ。

むろん酒井の主眼は作品評論ではない。むしろ細かい目盛で進展してゆく地勢変化、そこにどんな細民・侠客・娼婦・社会主義的分子・地方政治屋・地方財界人・新聞業界者(ここにとうぜん宮武外骨がくわわる)などが跳梁したかを虫瞰的な絵巻にしようとしている。つまり――人が街をつくる。街が人をつくる(人を寄せる)。この二動勢をまるごと捉えて、結果的には地勢変化そのものを主人公とする書物をつくること。これが酒井の眼目にちがいない。

そうして「大阪ディープサウス」と一括されてしまう、(第五回内国勧業博覧会で立ちあがった)新世界、ジャンジャン町、マッチ工場のあった集落、そこから発展的に延びていったドヤ街の釜ヶ崎、遊郭として勃興した飛田まで、「地勢差異」が生き物のうごきのように生じてくる。これらを見下ろす上町台地まで配されることで、べったりとした低地性に立体性も出てくる。しかも古地図をふくむ書物・映画の参照のみならず、その付近を実際に歩く酒井のフラヌールぶりによって、叙述すべてに個別身体性の「芯」が通路のように貫かれているのが驚きだ。

とうぜんベンヤミン『パサージュ論』との比較検討も促されるが、ベンヤミンのそれは書物の「引用」でつくった夢幻的な「街路」という色彩が濃い。読者は通路を通りぬけようとして迷う身体をそこからあたえられる。一方、酒井のこの著作は、もっと絨毯爆撃的というか、記述作用域に「一帯性」「方面性」の性質が「具体的に」付与される。結果、有象無象の「人物たち」の跳梁こそが記述に招かれるといっていい。

実際、書中で最も分量の多い第四章「無政府的新世界」は、社会運動家、侠客、借家人、官吏、あやしげな実業家が、アナ/ボルともども入り混じり、名前とは裏腹にすでに古びてしまっていた大正後半期の新世界周辺に別の活性があたえられる。天王寺公会堂や恵美須(戎)館(=映画館)といった「建物」のもつ魔力までもがえぐられたとき、ショウウィンドウと娼窟に魅せられたベンヤミンにはない着眼もみえてくる。

とはいえ「欲望」にたいしての繊細さはベンヤミンとおなじ。浅草を舞台に、これまで「日本版パサージュ論」と呼ばれていた堀切直人『浅草』全四巻(これも驚くほどの大部)とも同様だ。ただし堀切が文学書を中心にした渉猟をおこなったのにたいし、酒井は「無政府的新世界」では眼もくらむほど大量の、往時の在阪新聞からの参照をおこなっている。「気の遠くなる作業」が「圧倒的な速度」でおこなわれたという予想から、なにか「ひかりの感触」も生じてくる。

伊藤大輔『王将』を扱い、川島雄三の三作を扱う酒井は、文献探査と、実際の分析的鑑賞が見事な均衡を演じる、理想的な映画評論家だ(邦画ファンにもその意味でこの本は必携)。密度が豊潤のみならず、事実を列挙したうえで驚愕を導く批評の「物語性」が素晴らしい。その酒井が大阪ディープサウスの脱個性的な凋落への挽歌を奏でるようにしるしたのが、「通天閣」のみえる映画を三度めに集めた最終章「飛田残月」だ。フィーチャーされるのは大島渚『太陽の墓場』と田中登『マル秘色情めす市場』。どちらも画面から「地勢」が具体的に取り出され(それにしても酒井の風景判別力が見事だ)、そのことで作品のもつ主題に綿密な肉づけがなされてゆく。

ぼくはかつて『太陽の墓場』は大島渚論で通過的に論じたことがあり、『マル秘色情めす市場』は性愛主体にいちおう綿密に論じた経験もあるのだが(『68年の女を探して』中の一章)、酒井のようには「風景の具体的位置」をまったく見抜いていない。たぶん記述に誤りもあっただろうという気になって、ひたすら動顛した。それほど酒井の論脈は具体検証的だった。そういえば酒井は『マル秘』の夢野四郎がシナリオ段階では墜落死を予定されていたのに実際は縊死となった変更はなぜだろうと書いていた。ぼくはその縊死は、萩原朔美が出演していることの機縁で朔太郎の「天上縊死」が喚起されたのではないかと直観でしるしただけだ。

ともあれ、先に読んだ井上理津子『さいごの色街 飛田』の隔靴掻痒感もある資料収集との「格闘」(それゆえにそれはあの驚くべき捨て身の「人間取材」へと発展したのだが)を、あっさり飛越してしまった酒井の異様な「膂力」は幻惑的の一語につきる。
 
 

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2012年02月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

上原三由樹・口腔盗聴器

 
 
はたして歯は骨か、あるいは舌は内臓か――いずれにせよ、「口腔内」は、人の「内域」「内臓領域」を幻想するとき最も手軽に可視化される部位として通常はある。みだりにみせてはならないのは、それらが動物性において「みだら」だからだ。ただしその展覧が唯一許容される「現場」もある。歯科医と患者の織りなす治療現場がそれだ。そこに映画的想像力が不埒に突入した。三月、渋谷ユーロスペースにて「桃まつりpresentsすき」全九本中の一本として上映される、『口腔盗聴器』。恐怖と情欲がこれほど刺戟された映画は近頃なかった。

悪辣なほど冷静で効率の高い説話性によって、「変態性の進展」が刻々描かれてゆく。人の「口腔内」が幻想の作用域だから、作品に描かれる画と音の共謀、領域侵犯は、観客の口腔部分からいわば内破的に拡がって、一種、感覚が拡大されたうえで暴力的に転位される。主人公の歯科医とともに変態性の動悸にまみれ、すべてに「同調」しながら、「同時に」、観客の身体は自己穿孔性を伴った「翻弄」をも受けるのだ。これほど道義的にヤバい作品を撮ったのが、まだ若いといわれるだろう女性新人監督・上原三由樹だというのが、さらなる驚愕だった。おもいかえせば、この驚愕の質は、性別をかえれば、第一回映画美学校の卒制作品で古澤健の『怯える』が登場したときと似ている。

冒頭、作品はフィックスショットで、歯科治療器具を捉える。エキスプローラ―、エキスカベーター、ピンセット――すべては鋭角的で金属光を放ち、冷ややかで非人間的だ。手術器具に病的フェチをしめしたクローネンバーグ『戦慄の絆』への参照があるかもしれない。歯型モデルの林立は、一種、「欠落した頭蓋骨」の重畳、という恐怖感覚を駆り立てる。歯科治療行為も描かれる。中年の坂を迎えた歯科医は禿頭で一見精悍だが、眼差しの気弱な流動を即座に転写されている。歯科医院の空間内は、殺菌的・管理的で無駄や余剰のない機能性にみちているべきだが、そのなかの唯一の「無駄」「余剰性」こそがこの歯科医だという見込みが立つ。演じているのは、中台あきおという演劇畑の俳優だ(好演)。

監督・脚本の上原三由樹は、歯科助手の「説明」科白も加えて、即座に作品の「初期設定」を完了してしまう。この説話性の高効率にすでに「冷徹」の兆候がみられる。設定はこうだ――雑居ビルの一角に「松葉歯科」という歯科医院が収まっている(その入口の透明扉に貼られた看板名のテープが字画のうちのいくつかを「欠落」させ、「松葉」の字のうちではすでに「公」部分しかのこっていない――このとき作品舞台が虚構化されていることの目配せのほか、何らかの「欠落」を作品が指示していると感じさせる――最終判断はそれが「倫理の欠落」だったと合点するだろう)。

歯科医は父親からの二代目(父-息子間の外貌的「相似」が語られる)。ビルのオーナーは近頃他界し、こちらも二代目としてその娘が雑居ビルのオーナー住居にもどってきた。歯科医はその中年の女が少女だったころ一方的に性的欲望を抱いたことがある(そのことを新オーナーの女は知っている)。新オーナーのその女(以下、「母親」と呼ぶ)には高校生の娘がいて、それがその母親の少女時代と瓜二つだった。若ぶっている現状の母親にわずかな腐臭をかもす頽落が描写されるのにたいし、内気でぶっきらぼうで無口なその娘には一種動物性の魅惑がある。歯科医が往年の母親との外貌的相似に驚愕、動悸し、さらには欲情にまみれてゆく様子は、手にとるように観客につたえられる。「娘さんの歯の治療はいつでも大丈夫ですよ」とおためごかしを装いつつ母親に語る歯科医の声が欲望にふるえている。

この映画の主題は、「同時的にあるもの」のなかに「対立」が混ざって、それがすべて気味悪い徴候となる、ということだろう。事実、母親は転居の挨拶のとき、その亡き父親にたいし歯科医が愁傷を述べているのに、間違えて「配置」されたようにその表情が笑顔をかたどっている(演じている横山真弓は「笑顔」の「誤用」という点でじつに強烈な印象をのこす女優だった)。のちのちにまで連なる間歇的な娘との自宅シーンで、夫と離婚したこの母親が、往年の歯科医の慕情を手玉にとって彼を籠絡しようとしていて、なんと娘にも承諾を得ていることがわかる。

娘の奥歯の治療がはじまる。歯科治療機器のつよい照明によって、口腔内はおろか顔の下半分が白く跳んだ(「欠落」した)娘の顔のありように誰もが恐怖をおぼえるにちがいない(顔の下半分の欠落という点では、じつは清水崇の『呪怨』ビデオ版第一弾の恐怖のクライマックスシーンと微妙に連関がある)。顔の下半分の不在が強調されて、西尾瑠夏演じる娘の眼と頬の皮膚の質感が解剖学的に強調される。動物的に潤み、「淫蕩」をも兆した黒目がちな少女の瞳。年齢的な新陳代謝の活発をも不用意に、「徴候的に」告げてしまうように、彼女の頬が脂でひかり、そのニキビ痕も生々しい(撮影は田辺清人、照明は山口峰寛)。「同時に」その口腔内がつよい照明で跳んでいるから、そこは侵犯不能に「脱領域化」し、神秘化もする。その侵犯不能性にこそ「侵犯」が闖入してゆくのだった。

娘の第一回治療後、診察が終了した一人の時間に、歯科医はおもむろに段ボールの小さな郵送物をひらく。マイクロ盗聴器がそこに入っていた。彼は娘に入れる奥歯のつめものにそれを装填、それにピンセットで刺戟をあたえ、つないだチューナーに「音」がちゃんと増幅されることを手際よく確かめている。黒バックで机上の照明にうかびあがった歯科医の顔はすでに性的な欲情で、笑みすら抑制できない。あろうことか彼はマイクロ盗聴器を装填した娘用の奥歯を自らの口腔に入れ、それを舌上にまろばせ遊ばせて、悦に入る。生理的な気持ち悪さがこの場面で沸点に達しているのがわかるだろう。この気持ち悪さは、「欲望の行使に歯止めがきかず、善悪の彼岸に達してしまう暴力的な映画に接しているのではないか」という観客の「予想」をもふくむはずだ。

娘の第二回治療で、マイクロ盗聴器を仕掛けた奥歯は無事、娘の口腔内に装填されてしまう。ここから「盗聴主題」の映画(たとえば最近の日本映画の分野では山本政志の『聴かれた女』が大傑作だった)への縦横無尽の「侵犯」がはじまる。

かんがえてもみよう――盗聴器は、通常は居住空間の隠れた定点に仕掛けられるから、盗聴行為がそれじたい問題だとしても、そこでは静止的秩序性がいちおう遵守されている。ところが奥歯にマイクロ盗聴器が仕掛けられた場合は、盗聴可能な範囲が異様に「拡張」されるのだ。ことばの発声、対する者からの会話内容、吐息(性的なものもふくむ)、咀嚼音、嚥下音、生活音(歩行音等のみならず、たとえばトイレでの排泄音なども範疇入りしてくる)――これらが、身体がどこにあっても「電波のおよぶ範囲」ですべて「じかに」把捉されてしまうのだ。

盗聴できる位置によって成立する陰謀ではなく、どう移動しても――それが居宅はおろか近隣にあっても、「身体まるごと」把捉されてしまう、いわば場所ではなく「存在」に仕掛けられた「全的な除外例なき盗聴」、対象の頭蓋骨に直結したかのような「容赦のない盗聴」。これをドラマ上実現してしまったとき、もう映画じたいが「してはならないこと」を超えている。

こうした「逸脱」はこの映画ではさらに限りない。なんと歯科医は盗聴音を拾うイヤホンを、治療中も耳に装着している(彼はマスクを着用するから、その装着が不自然に映らない)。それで前言列挙したうち、最も「不道徳な盗聴内容(音)」(娘の自慰中の吐息、さらにはトイレ使用音)が治療中の彼の画柄にボアオフでかぶさってくるという「逸脱」まで生じるのだった(録音は中川究矢/整音は光地拓郎)。

ボアオフ処理というのは、原理的には映像のうえに設定上了解される音声をのせて映像の一義性を破砕する映画特有の営為だ。「そうしていい理由」は、観客の「知りたい」欲望を見越した点に拠っている。だからこのボアオフ処理で照らされるのは、光景ではなく観客の内在的欲望、ということになる。もともと視覚と聴覚はその分離性によって秩序を形成するのだが、これらが不分離状態に置かれたとき、聴覚性が視覚性を凌駕凌辱するという惑乱も起こる。その惑乱の位置を、別患者を治療中、イヤホンからの盗聴音に「発情」してしまう歯科医が代理的・換喩的に引き受ける。

盗聴内容のうちでは「娘の自慰の吐息」がボアオフで画面を覆うシーンが、いわば「同時性」猖獗の最大値だった。煽情性の高い衣服(スカートが短い)をまとい浮かれて外出する母親(ところが室内シーンを中心に、ホットパンツ姿ののびやかな脚を捉えられる娘とは、どだい「脚の表情」がちがう)。玄関まで送る娘は不機嫌と無興味を振舞にかたどっている。カットの流れはこうだ(編集は遠藤大介)――案の定、母親は歯科医を籠絡するための歯の治療に出かけた。一方、娘は自室にもどっていて、寝台のうえで自慰を暗示するような場所に自らの手を置く。母親の治療。歯科医はイヤホンを装着している。治療用の椅子に伸びている短いスカートからの母親の脚。ボアオフで響きはじめる娘の、喘ぎをほんのわずかふくんだ吐息。

このとき(月日を挟んでの)「相似」を謳われた母と娘に、複雑な同調と分離が起こる。この運動が母親の身体そのものを「舞台」としていることが残酷だが、いったん現れた映像と音声は、観客の感覚のなかでは決して「分離」できず、その効果が不可逆的な「陰謀」「施術」に似通ってしまう。よく考えればこのシーンでは、「照応」を施された母と娘は実際には似ていない。ところが映像と音声が似てしまう悪辣な「不如意」のようなものがあって、それで「同時性」が不道徳に翻弄された疲弊が生ずるのだ。

同時に観客は、それまでの娘と歯科医の距離感や、娘の母親への科白から薄々「想像」している――彼女の「吐息」は、母親の治療中に自己の幻影を歯科医にたいして上乗せしようとする「作為」なのではないのかと。

その後母親への施術の代わりというようにふたたび現れた娘の治療シーンは、全体がハイキ―のしろさのなかにあって、現実味を欠くような(つまりは歯科医の妄想が実地召喚されたような)演出が施されている。そこでは歯科治療そのものが無防備に口腔を歯科医にたいしてひらき、手術とちがって被治療者の意識を保ちながら歯科医にたいして存在を全面的に預ける、「愛の儀式」であるかのような高揚を迎える。治療中、至近となった歯科医の顔と、娘の顔との距離。娘の歯科医への眼差しが熱い。とうとう歯科医はマスクなしの唇で、娘の額に接吻する――。

これが妄想であれば、歯科医はその欲望を罰せられる、というのが通常の映画であるはずだ。「逸脱」がいつか逸脱を禁じられるのが現実原則というものだ。ところが、「母親と娘」「歯科医とその父親」というふうにドラマ上設けられた「相似軸」は、作中にさらに病原菌のように「蔓延」して、真の相似軸をも掘り当ててしまう。それが歯科医と娘の相似だった。これを娘が所感して、今度は「相手の欲望の承認を自らの身体に施すこと」を作品がテーマにしだす。これがじつは「変態」ではなく「純愛」テーマだという点に注意が要るだろう。

結末は書かない。ただし相似軸の異様な蔓延は、作品の映像を音声が「侵犯」して、映像と音声とが同時的に「分裂/相似」を掘り当ててしまう「付随性」の魔力を決定づけた点に、すでにその端緒があった。結論的には、課題である「すき」の概念が見事に拡張された、異様な27分だった。すべて、映像への音声の侵犯が、観客の身体内(口腔内)で「想像的に」起こったというに尽きるだろう。おなじシリーズ中の、熊谷まどか監督『最後のタンゴ』(こちらは笑いがとまらない)とともに必見だ。
 
 

2012年02月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(2)

桃と犬の観念連合

 
【桃と犬の観念連合、但し屑】



日の暮れて犬も暮れたり桃の森



なに桃よ犬の背後の夜をゆれて



桃のもと犬顕はれて桃の眸



くらくして桃の香に犬闌けること



桃源と呼ぶうち犬の胎も消ゆ




たまには俳句を
  

2012年02月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

再会

 
 
【再会】


似てしまった部分がからだにはあって、それらはみな踝ではないか。くるぶしをつかもうと、川沿いをゆくひとを追う。ほとりに停めて女の沓をぬがす仕事。ふたりの風呂敷につつまれてひかる。のみならず、さみしいつながりも剥がれてゆく。
 
 

2012年02月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

クリント・イーストウッド、J・エドガー

 
 
昨日は振休の女房と、新宿ピカデリーのクリント・イーストウッド『J・エドガー』へ。客席が知的初老カップルで結構埋まっていて、嬉しくなった。ぼくの隣の席の老人などは、イーストウッドの仕掛ける「知的な擽り」にじつに敏感な笑いで反応していた。これは、実際そのようにして迎えられるべき映画なのだとおもう。ぼくもよく笑った。女房もご満悦だった。

『J・エドガー』は近作のイーストウッド作品との対応でいうと、セット+在りものを混在させた美術で泣かせる映像では『チェンジリング』、「政治」に単純化を適応させておおらかに「映画」をたちあげる構えでは、ネルソン・マンデラのラグビー好きをフィーチャーした(しすぎた)『インビクタス』を髣髴させた。これらの意味でやっぱり全篇にアメリカンなイーストウッド印が歴然とある。

風説の何かと多いFBI初代長官、J・エドガー・フーバーの伝記映画。もちろんイーストウッドの歴史把握は複層的だ。まず、フロンティア開発を土台にした西部劇とは別に、アメリカがいつアメリカになったのか、という問題がある。第一次大戦によるヨーロッパの疲弊を尻目に、一挙にアメリカが世界覇権を握ったとき、じつは尾鰭がついていた。革命ロシア、その周辺のヨーロッパ諸国の革命分子がアメリカでテロ活動をつづけていた。

作品では1919年、パーマー司法長官宅への爆弾テロ事件が最初のトピックになる。若き日のJ・エドガー=レオナルド・デカブリオが初めて画面に登場するのは、その現場に駆けつける姿をつうじてだった。それらテロ分子の国外追放を実現し、「アメリカがアメリカになった」。あるいは大恐慌をつうじて世界経済をアメリカ中心に一挙に不安定化させたとき「アメリカがアメリカになった」。イーストウッドはその感触を、J・エドガーをつうじ換喩的に見事に描いている。つまりアメリカという所与、その再考がテーマだった。そのアメリカ的なものの雑駁さが笑えるのだ。メタ・アメリカ映画といっていいだろう。

むろんFBIは「市民生活」の安全保護を目的に、科学捜査、対テロ活動、盗聴を中心にした諜報活動をおこなう「気味悪い機関」だ。同時にイーストウッド=右寄りのタカ派、という通念もみながもつ。実際、若き日のJ・エドガーは市民「管理」の必要から、国民総背番号制導入の持論を語り、諜報も辞さない。またテロリストへの憎悪は終生一貫していて、ときに謀略までおこなおうとする姿さえ描かれる。

このJ・エドガーとイーストウッドの位置は、精神価は、まったく同じなのだろうか。そこを見分けることなしに、この映画の鑑賞があるともおもえない。結論を先にいってしまうと、イーストウッドはネオリベ=グローバルスタンダード世界経済下の「異物排除」「対テロ活動肥大」「超管理主義」とは対立し、「アメリカがアメリカになる途上」の、男性性による秩序維持と正義実現の「スピード」には懐古的な賛意をしめすスタンスだと受けとった。

大恐慌、禁酒法成立によってアメリカはギャングスターの天国になる。ヨーロッパ由来のテロ分子を駆逐したあとのFBIの標的はそれらギャングスターになる(ここにはイーストウッドの単純化がある――ニューディール政策下、大卒の左翼分子による演劇活動や「下放」などは割愛される――よって、二次大戦後の赤狩りとFBIの関係も描写されない――マッカーシーをバカと罵る科白があるだけだ)。経済恐慌はあったものの国内では犯罪者以外の異分子はいない、という状態での「精神上のアメリカナイズ」についてイーストウッドは、さすがにアメリカン・クラシック・ムービー好きらしくジェームス・キャグニーを召喚してくる。彼の二つの主演作、『民衆の敵』と『Gメン』。一時、ギャングスターの破天荒と秩序破りに熱狂した前者の観客が、FBIの悪の駆逐を活劇化した後者の観客へと「移行」する。このときにアメリカの「大衆」が成立した、とイーストウッドが主唱するかにみえる。

ジョン・デリンジャーやマシンガン・ケリーなど30年代アウトローの、司法省やFBIによる射殺や逮捕。これらをJ・エドガーと対比的に描いたことで、イーストウッドのフィルモグラフィの「性質」も確定する。デリンジャーなど、悪を完遂して生の刹那を炎えたたせた人物群の青春を礼賛したのは、アメリカン・ニュー・シネマだった。イーストウッドはちがう。アウトローを描いてもそれは「正義の貫徹」とその際の「悔恨」と対になるかたちでしか描かなかった。だから作品内のキャグニーとデリンジャーの召喚は、それまでのイーストウッドの作家歴検証へと反転するのだ。

映画の進展はやがて、J・エドガーの「自伝」執筆のための口述筆記の現場と、その実際の「回想」場面――この交互性に落ち着いてくる。まずは終生、J・エドガーの秘書役を務めあげた一種の(バランスの良い)女傑、ナオミ・ワッツ扮するミス・ガンディの印象的な登場場面となる。司法省の建物の廊下を20年代フラッパーよろしく闊歩する女性秘書たちのひとりに、秘書の新人としてワッツ=ガンディがいた。

その彼女との三回目のデートだったかで、デカブリオ=J・エドガーは国会図書館へ案内する。閲覧検索カードシステムを提案・導入させたのは自分だと語るデカブリオ。そこで彼女からランダムにテーマ指示された書籍を、短い時間で探しだす「アクション」が付帯するのだが(礼賛されているのは、ある「アメリカ的スピード」だ)、この国会図書館を舞台としたデートシーンに重大な見どころは二つある。ひとつは「天井をご覧」とデカブリオがワッツに示唆、彼らの「見た目」で図書館天井の画面が挿入される。この映像は実際の図書館のものであるか否かは別にして何らかの「現物」だろう。それからのち、20年代の国会図書館を再現したセット撮影へと画面が接続される。このとき「美術」による一種の催涙作用が惹起される。

しかも検索カードは日本の江戸時代の薬箱(黒澤明『赤ひげ』など)的な木製の細かい「棚」に入れられている。このとき「木材」という後のテーマに伏線が張られる(実際、室内シーンの多いこの映画で、画面細部の艶っぽい質感をつくっているのは、室内を一定の美術様式でみたす木材家具や木材壁の数々なのはいうまでもない――その一方で画面合成CGも組み入れた大規模なモブシーンが対比的に目立つ――とりわけルーズベルトとニクソンの大統領就任パレードがそれだろう)。

(作品の美術はクラシックカーにしてもそうだが、「アメリカがアメリカになった」時代の物質表象が、すでに過去の様式のアーカイヴとして重層化し、かつそれが「素早く動く」ことで解放される〔アウラの喪失!〕姿を延々捉えている。そのなかに、アウトロー逮捕の瞬間など、往年の映画へのオマージュももちこまれる。こうした発想の起点を「国会図書館」とした点に、脅威をかんじた)。

話をもどすと、もう一個は、「元来は無秩序な多数のもの」→「分類・整理」→「検索」→「特定」、という、J・エドガーの営為すべてを要約する精神傾向がここで露わになる、という点が重要だった。「分類」がミシェル・フーコーのいう「近代知」の最大の賜物なのはいうまでもない。ヨーロッパはそれをリンネの植物学でまず大成したが、アメリカはJ・エドガーの図書検索カード→フィンガープリント・ファイル、というFBI的な「管理」のなかで大成した、というイーストウッドの冷徹な認識がここに走っている。

FBIが取り扱った(当初は州警察から排除された)事件としてスポットが当てられるのは、リンドバーグ子息誘拐事件だ。州警察の非科学的捜査では犯人逮捕にまったく行きつかない。途中からは一般分野から身代金と子息引き渡しの交渉代理人が出てくるなど事件推移が混乱を極めてゆく。

ところが雇用した科学者の分析をつうじ誘拐につかわれた梯子の木材と、その鋸による切り口、さらには身代金の紙幣につけたマークから、J・エドガーたちは犯人を特定した。つまりここで、「木材」→「分類化」→「検索」→「特定」という「管理捜査」が初めて定着をみたのだった(犯人とされ逮捕されたドイツ系移民ブルーノ・ハウプトマンはヒトラーが勢力を伸ばしている36年に電気椅子で死刑に処されているが、これが冤罪だったという言説は現在もあり、イーストウッドも映画のなかでその可能性をチラリと示唆している)。

順番は前後するが、J・エドガーはあるとき面接で自分の右腕に、アーミー・ハマー扮する「クライド」を引き入れる。不躾で傲岸な履歴身上書をものともせず、クライドをなぜ雇ったのか――映画進行に出来した「シミ」は、やがてその判明をみる。イーストウッドはホモソーシャル世界でのマチズモを描く映画作家という分類はできるだろうが、実際は、それを超えたホモセクシュアルな紐帯が、J・エドガーとクライドを彩っていて、それは二人の「活躍」のはざまに、いよいよはっきりと痕跡をのこしてゆく(喧嘩の果てにもつれあった、ふたりの接吻シーンまである)。

ホモソーシャルの描出に長けてはいてもホモセクシャルのそれには不得手とおもわれるイーストウッドは、ここで飛躍的な還元主義をもちいた。J・エドガーの「内面的女々しさ」をたえず励起する母親役にジュディ・デンチを配して、J・エドガーのマザーコンプレックスを描いたのだった。息子を励起しているはずなのに、実際は「同時に」スポイルしてすべてを自らの圏域下に置く母デンチ。この「テリブルマザーぶり」の由来もまた、アメリカ映画の参照、たとえばヒッチコックの『サイコ』、あるいはさきほどのジェームス・キャグニーの召喚に敬意を表するなら、キャグニー主演、『白熱』のあの母親をおもうべきかもしれない。イーストウッドのモチーフのひとつ、被虐的変態性は、デンチの臨終の夜、鏡のまえで母の衣服を纏って泣くJ・エドガーの姿に、変形的に転移する。いずれにせよ、アメリカン・マチズモの奥に「女々しさ」「女性フォビア」があるというイーストウッドの主張は、それはそれとして印象につよくのこる。

さて、なぜ「J・エドガーがクライドを選んだのか」という問題は、背広姿などの趣味の相似などを超えて、変更のきかない極私的なものという判断が立つ(J・エドガーはその地位にも関わらず生涯独身だった――クライドもおなじ――あるいはもうひとりの「聡明な男性」ミス・ガンディーも)。それは「見染め」にまつわる「運命的なもの」なのだ。このときJ・エドガーの精神的営為、「分類」→「検索」→「素早い特定」が、「愛」の分野でも変更不可能に発露されたという判断が働く。

都合50年程度の役柄の年齢差を、見事な特殊老けメイクで披露するレオナルド・デカブリオは、ジェームス・キャグニー的に溌剌とした演技スピードを終始披露しているが、キャグニーにはなかった晩年の「弱まり」という新境地も、その特殊老けメイクで体現し、見事なものだ。対するクライド役のアーミー・ハマーは老けメイク自体にはやや不自然さがのこるものの、老人同士として競馬場などでデカブリオと対峙するときに、得もいわれぬ「弱さのアンサンブル」を奏でる(スピーディな手持ち移動ショットもなくなる)。この感触は幾分、『ミリオンダラー・ベイビー』ラスト近くのイーストウッドとモーガン・フリーマンとの「風合い」に似ている。

「分類」→「検索」→「素早い特定」、という主題系は、最後になって記憶の分野に飛躍する。J・エドガーが口述筆記させていた自伝原稿を読んで、クライドがJ・エドガーの「事実歪曲」「自己中心性」「伝説化(自己神話化)」を批判し、「きみはもう齢をとって、何が真実かもわからなくなってしまっているのだろう」とJ・エドガーに老残の事実まで突きつける。ところがそうした自分の都合の良い「記憶作用」もまた、「時間の分類」→「時間の検索」→「時間の特定」の所産なのだった。ここにきて、作品は「ある恐ろしい人間的宿痾」すら相手にしていたのだと戦慄が走ってゆく。

ノーベル平和賞受賞を目前にしたキング牧師に、諜報活動によって汚名を着せようとしたJ・エドガーの妄執。「盗聴」によって歴代大統領のスキャンダルをつかみ政治世界を延命したJ・エドガーの「姑息」。あるいは司法長官だったロバート・ケネディとの暗闘。それらは一気に時制がニクソン大統領就任へ飛んで、歴史的事実の了解のなかに潜ってしまう(キング牧師の暗殺も、ロバート・ケネディの暗殺も実際に描かれない――あるいはジョン・F・ケネディの暗殺も、伝聞事実として描かれるだけで、代わりにジョンとマリリン・モンローとおぼしき盗聴テープの音声だけが作品内に物質的に響く)。そうしてJ・エドガーの死がやってくる(特殊な肉襦袢をデカブリオは纏っているのだろうか――最後に、「見事に老残した」裸の上半身を画面にさらけだす)。そしてニクソンの大統領就任だけに作品の「力点」が置かれる。

このラストちかくの推移によって暗示されるのは、FBI的諜報が組織肥大したFBIから、ニクソン、つまり「大統領の陰謀」のほうに軸足を移したというイーストウッドの歴史観だ(このニクソンがその後の「ネオリベ的管理社会」の起点だという主張がなされているのではないか)。作品はミス・ガンディの「事後処理」の鮮やかさとともに、やがてウォーターゲート事件で失脚するニクソンをも暗示して鮮やかに終わる。
 
 

2012年02月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

まるで混浴

 
 
金曜が「入浴詩」をテーマにした、小池昌代さんとの最終講義。良い詩が集まって、「入浴詩」がなぜ根源的で悲哀にみち、人格溶融や消滅をもたらすかが一応は伝わったとおもう。俳句はほぼ入浴をうたえず、短歌ではそれがピタリのテーマとなる。短い詩篇では入浴を根源化できるが、長くなると徐々に小説的なしつらえがふえ、それ自体が小説化する、というふうに、「長さによる変化の機微」もつたわったとおもう。学生の投稿詩では、荻原永璃さんを一等賞に、斎田尚佳さんを二等賞にした。

立教内食堂でやった送別会から卒業生を中心に刻々と参加者がふえて、そのまま二次会になだれこんでいった。なにか「入浴」とおなじ、時間の多層があり、未知の者の混入する感じがあった。はるかちゃん、望月くん、ハグをありがとう。

土曜日は日芸の教え子(すべて女子)がぼくの送別会を渋谷でしてくれた。立教の卒業生が学生時代の気風そのままに夢見がちでおとなしいのにたいし、日芸の子は現実に足をかけ、リアリスティックな才気を養いながら、同時に情報アンテナを曇らせていないので、いまだにサブカルの話を相互連打できるのに感銘。結婚早々の三浦おとめが艶っぽくなっているのにも感動してしまった。でもおとめちゃん以外は、みな苦労人でもある
  
 

2012年02月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

西脇さんの入浴詩

 
 
今日はいよいよ午後三時から、立教池袋10号館X105教室で、小池昌代さんとの立教最後の授業。対談テーマは既報のとおり「入浴詩」。ところが昨日深夜帰宅してから、古本屋で買った『西脇順三郎全詩引喩集成』(新倉俊一著――いまごろ購っていると叱られそうだが、新倉解釈に縛られるのをずっと怖れていた)を何気なくひらいていたら、西脇さんの「入浴詩」がみつかってしまった。これも忘れていた自分が罰あたり、ということになるが、さて、どうしよう。もう配布プリントは完成しているのに。とりあえず当該の詩篇は以下です。



【一一五】西脇順三郎

西国の温泉にしようか
東国にしようかと考へた
むぎわらやの人は遂に
修善寺にした
あの人はよく宿へ遊びに
来てくれた
寺の鐘が鳴る時分
松の葉が金色に光る時分
池の流れにまはす玩具の
水車をみながら一緒に
お湯にはいつた

――『旅人かへらず』より
 
 

2012年02月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

音階

 
 
【音階】


たましいを同伴して正円寺までを歩く。それでもからだになってゆく。二枚数枚と算えられる風景の部位があり、ちがうけれどもそれらを瓦と名づける。波の多い街並みだ。あらゆる正円と相似な正円、その退屈にからだがとけて、あしもとを亀どものひかりがおよぐ。
 
 

2012年02月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

試験会場

 
 
【試験会場】


視界に、もくろみのあるときがある。藻黒味、と書く。あの偶有のきえた方角であり、蠅のうまれてくる場処だ。そうして消滅が腐ってゆくのだから、吉凶は問えないまでも、明度がさがる。色彩、ひとのかたちに遠浅の海が引いてゆく。
 
 

2012年02月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

企画、とおりますように

 
 
彩流社編集・河野さんから話の出た、当方の日本映画評論集、その原稿をやっとまとめ終わる。05年以降を中心に、雑誌・書評紙・​SNS・ブログ等に書き散らした原稿を、ときにSNSなどでは懸命に探し出して、単純に発表順にワードへコピペしていった。40​字詰36行のA4定型で、345枚。ちょっと、というか、かなり多い。内容は河野さんと相談だが、企画成就するなら、できれば二巻本ではどうか、などと、恥しい欲までかいてしまう。試写にメゲつづけて08年くらいは極端に原稿数が少なくなっていたのだが、その翌年、「ユリイカ」のタランティーノ特集でタランティーノ系日本映画を列挙的に論じたあたりから、また評論執筆の情熱が点火されたようだ。ここ一年は「図書新聞」への執筆も増え、同時にFacebookの「友達」に、映画従事者や映画好きもふえて、執筆機会が加速度的に上昇した。全体をまとめてみると、論じ方や対象に一貫性のある一方で、前の評論集『日本映画の21世紀がはじまる』から脱落していった対象もある。また手前味噌だが、書法はより成熟した自覚がある。ぜひとも出したい本。とりあえず、これから河野さんに原稿を添付メールしよう。企画がとおりますように
 
  

2012年02月14日 日記 トラックバック(0) コメント(2)

川べりの生…

 
 
【川べりの生…】


ゆっくりと自殺する日々に、金色の幾層のみえてくることがある。このときは深さによってながれている生に、きっと浅瀬がつくられている。そう、ひとがみずからの像だけを分け、ゆっくりした水へ翻る――のも、ただ浅さのもつ、この黄金のおかげだ。
 
 

2012年02月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

河父

 
 
【河父】


矢など放っていないのに、ゆみだこが手にできていた。おそらく就眠のめぐりに、改善すべきひとが積まれているのだろう。それで寝起きの眼にうつる厠を算えあげた。外枯れが疎林をつづいていて、もれてゆく水のこだまには遠さもある。いずれこちらは、ふくろのからだにすぎない。湯では、ゆみだこをみずから揉んで、身をやしなった。
 
 

2012年02月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

パウンド

 
 
なんとなく予感があって、ついエズラ・パウンドをひもといてしまう。ぼくの愛用しているのは函入りだが、パウンドの生涯の大作『詩篇〔キャントーズ〕』のあしらいが比較的コンパクトで、とうぜん新倉俊一さんの訳も素晴らしい76年の角川書店版『エズラ・パウンド詩集』。頁を繰っていたら、『大祓〔ルストラ〕』としてまとめられている初期詩篇集のなかに、「入浴詩」と境を接する短詩、「浴槽」があった。以下、新倉訳を転記――。

【浴槽】

湯がなくなったり さめたりするときの
あの白い陶製の浴槽みたいに
私たちの騎士道的情熱もだんだんさめていく
おお ほめちぎったが それほど素敵でもない貴婦人よ



入浴者=貴婦人〔裸身?〕と浴槽の二重視覚のなかに、愛着の退潮が「機能的に」謳われた詩篇、というべきだろうか。とうぜん「物重視」「形容詞廃絶」「それ自体の自由律」という「イマジズム」の三鉄則で書かれている。

イマジズムの源泉は漢詩、それに俳句だった。つまりここでは「俳句性」と「入浴体験」との邂逅が現出しているといいたい気になる。ちょっと大袈裟な匂いが嗅ぎとられたかもしれないが、来週やる「入浴詩」講義で「入浴」俳句を探そうとしたのだが、この欄の以前にも書いたように、じつは山頭火の自由律と、俳句としては発表されていない(詩篇内の一節にすぎない)吉岡実の俳句しか目立った成果が得られなかった(近隣に位置する句として、赤尾兜子と中村苑子の「濡髪」句をこの欄に掲げたこともある)。一方で短歌では岡井隆、安永蕗子から学生のもの、あるいは自作まで、一応は入浴主題のものを列挙できた。

この不均衡は何か。やはり「湯殿で裸身になること」「汚れを落とすこと」「性を自覚すること」「孤独」が生の原理的な哀しみだとして、その主題的抒情性が、省略によってたしかになる俳句の厳格な構造性と抵触するためだろう。パウンドの「浴槽」も二重視覚性が俳句的で、そこに構造性が保たれているが、俳句よりも「長い」ことで、実際は「入浴に類するもの」に肉薄できたというべきなのだ。実際の詩篇の主役は「物」――比喩の例示のほうに位置する《白い陶製の浴槽》のほうで、それが詩篇のかわいた俳句性をもたらしている。このパウンド詩篇の発見によって、「入浴」テーマが書式(形式)・表現媒質を分離すると最終確認できたようだ。

ついでにパウンドの厖大な『詩篇』を拾い読みしてしまう。オデュッセウスに自らを擬した放浪詩とは知っているものの(そのなかに「ピサ詩篇」の哀調部分がある)、各行で飛躍する聯想運動のほうにやはり心奪われてしまう。新倉訳の調子とも相俟って、西脇の長詩を読んでいるような錯覚。それでもその「細部」は西脇同様、イマジズムの法則による運びにみちている。以前、傍線を付した部分から二、三を、最後に転記しておこう(字下げは省略)。

《星々を女は数えない/女には星はさまよう穴にすぎない》

《ばらばらにしか天国は存在しない/思いがけない上等のソーセージとか/薄荷の匂い、あるいは/夜あそびの猫のラドロとか》

《素足のひと「私は月よ/ひとびとは私の家をこわしてしまった」》
 
 

2012年02月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

坪内祐三・探訪記者松崎天民

 
 
坪内祐三『探訪記者松崎天民』読了。新聞ジャーナリズムを主軸に、明治期から大正期にかけ、足尾銅山事件、木賃宿ルポ、娼窟ルポなどを、ヴィヴィッドな小説的(慨嘆的)文章で「探訪(ドキュメント)」した松崎天民(食道楽エッセイも著名)の「評伝」。

松崎天民といっても一般的知名度は低いかもしれない。竹中労の「素軽い」先駆者のようなイメージが一応あるか(ふたりとも石神井書林の古書目録が「特集」した)。天民については著作目録、書誌も完璧ではなく、「過去のひと」化して精査がしにくくもあるはずで、その絶妙な位置が、天民の文の描写力とともに坪内氏の興味を刺激したにちがいない。その木賃宿ルポの部分では、さきに読んだ塩見鮮一郎の文春新書『貧民の帝都』とも陸続きだった。

それとこの本の手柄は、明治期・大正期の「新聞社」の、人員、社屋から勤務体制、その印刷部数の増大と大衆化まで着実につたえるという点だ。「日露戦争以後」という視座は多くのひとがもつだろうが、坪内さんの注意喚起の目はもっともっとこまかい。

早稲田演博図書館内の「文庫」など図書館や、ネットをふくんだ古本屋目録をどう活用し、明治大正期の文学の周縁にかかわるネタ本・調査事典が何かも惜しげなく披露するこの本は、じつは坪内さんの(文庫以外の)書物へのスタンスを如実につたえるという点で、松崎天民にさほど興味のない坪内ファン(あ、これは形容矛盾か)をも、魅了するはずだ。興味、調査、記憶、配剤、執筆――これらそれぞれが車輪となって彼の書くものが幸福に「拡大」されてゆくのがわかる。探訪記事のなかに不意に自分の「事情」が混入してしまう天民の文章を坪内さんはニュージャーナリズムの先駆とするが、天民を「探訪」する坪内さん自身の文章にも自己事情がさまざま混ざる(そこが面白い)。

「ちくま」への元の連載は90年代後半、00年代初頭、10年代の「三期」にわたっているが、その三期をつうじ呼吸は一貫している(これが、坪内祐三は変わったという最近の風評に反論をなすだろう)。たとえば山口昌男の『「敗者」の精神史』のように、豊富な(周縁的)古書渉猟のうえに成立する本に、90年代(「東京人」退社後)の坪内氏は憧れて、それがたとえば『靖国』にもなったはずだが、この『探訪記者松崎天民』は、「ちくま」の小連載が、各パートで「終わらず」、結果、前連載を引き継ぐ「リレー」が反復されて一著となった珍しい経緯だった(それでも古書活用という点では、『靖国』よりずっと成熟した印象を受ける)。

ところで上の段落に出てくる本は、「ある共通の雰囲気」をもっている。出てくる人名の三割程度か半分程度しか具体的なイメージとか業績とかがつかめないのだ。その不明性のままに書中で「ネットワーク」がつくられてゆく。ところが知っている人名が魅力的だから、不明の人名にも未知の魅惑が転写され、結局は、そうした好事家対象の「周縁」を、つまり世界を、より知りたいという渇望ができあがってゆく。これが読む推進力へとさらに変貌するのだった。だからぼくはあの大著『「敗者」の精神史』を一日で読了した記憶がある。

松崎天民が大の「白飯」好き(これが死因に直結する)という逸話が最後に出てくる、坪内さんの構成の妙には笑った。活劇とハードボイルドが入ったような「描写」主体の天民の「探訪」文体は、湿潤なセンチメンタリズムもさらに加わって、その多元性が「現代」にもつながるものだ。横山源之助あたりの文体に較べ柔軟にもなっている。ところが天民の多元性(その興味の多元性のなかに食道楽や漁色が入ってくる)は、多元性であるがゆえに「凡庸」にもみえる。

その「凡庸」の一語を坪内さんは絶対にしるさない。代わりに決定打として出るのが「白飯好き」の逸話だったということだ。むろん凡庸な(けれど一定の才気ある)著述家の肖像(評伝)という点では、蓮實重彦がフロベールという対立軸をつかってマクシム・デュ・カンを評伝した『凡庸な芸術家の肖像』(これが蓮實さんの最大最高の「小説」だ)への意識が、坪内さんにあったのだとおもう。けれど山口昌男さんへの仁義からか坪内さんは書中に「凡庸」の語はつかわなかった(「凡百」の語はあったけれども)。

「凡庸」の一語に括られる大正期の印象は、天民も関わった『ニコニコ』という雑誌(坪内さんは漱石の「苦笑写真」のエピソードも紹介する)の誌面空間そのものと似ているのかもしれない。いわば時代の病だ。ところが坪内さんは大正期の天民の活写は、それまでの連載の流れの縮小再生産になる、として割愛してしまう。割り切りの良さ、攻撃性と皮肉の抑制――ここで『探訪記者松崎天民』は『凡庸な芸術家の肖像』から離れた。

松崎天民のヴィヴィッドで具体的で、空間をつねに髣髴させる文体の新しさはどこからきたか。坪内さんは大正期の「ベス単」ブームによる写真カメラの普及が、天民の文章の「視覚性」と平行していたとするが、そのブームになる前から天民の文体は視覚的だった(この視覚性が天民の非凡さで、逆に調子の良い音律を感じさせる聴覚性が彼の凡庸さだったのではないかと、坪内さんの引用でわかる――ただし写真趣味と文章の質は、一般的には直結しないのではないか。小津安二郎しかり、宮本常一しかり)。ということでいうと、やはり天民の文章の視覚性は、明治のある一時期からの感覚変転が原因だったというべきだろう。柄谷行人の「風景の発見」や前田愛の『都市空間のなかの文学』など、その傍証材料は多々ある。
 
 

2012年02月09日 日記 トラックバック(0) コメント(2)

入浴歌、追加

 
 
昨日は立教の入学試験監督。一年で最も気疲れする仕事で、おかげで帰宅後はすぐに晩酌して寝てしまった。まだ二回ある。

二月十七日の【小池昌代+阿部嘉昭、「入浴詩」特別講義】に向けて、続々、詩稿がとどく。海埜今日子さん、浜江順子さん、水島英己さん。それぞれの個性がその個性をたもちながらも、「入浴」という新規主題を契機にして若干ブレてゆくのがおもしろい。やはり「入浴」とはひとを裸にし、そこから原理的な変貌をしいるテーマなのだ。それと海埜さんが送ってくださった井本節山さんの詩篇もすごくおもしろかった。こちらもぜひとも受講者に紹介させてもらおう。

それとこの欄を借りてもうしあげますが、「投稿する」といってまだできていらっしゃらないかた、今月14日(バレンタインデイだ…)までは何とか間に合いますので、メールをお待ちしています。

このあいだ、今年の卒制歌集で「入浴」歌があったことを失念していた旨、しるしたが、それらの歌集はぼくのやった、二〇一〇年度前期の立教短歌演習での作歌をもとにしたものだった。ということは、ぼく自身もその演習に「入浴」歌をだしていたのではないかとおもいあたって探した。あった。しかし目当ての歌がまだ見つからない。きっとその演習のまえに作っていたのだ。とかんがえてさらに探したら、これも見つけた。下手糞だけど、以下に披露しておきます。




湯のなかにわたくしがゐて、わたくしは奇病の脂、浮きやすくして


まいにちが朝湯ばかりでわたくしも瀧の記憶とともに消えゆく


白昼の湯のあかるみへ溶けいつた君になみだの塩あるらしも

――以上、阿部嘉昭、二〇一〇年度前期立教短歌演習参加作品より


そのかみの父のにほひのなき裸ひとつ撓めて昼を湯浴みす

――阿部嘉昭、二〇〇八年ミクシィアップ



余勢を駆って、いまつくった一首をさらに――

かすむひとかげとなりしか湯にひそみ湯なるものらとかさなりゐし夜





このところ読書は低調。完全にもってゆかれる本に出会っていない。ただしいま読みはじめた坪内祐三『探訪記者松崎天民』はもう出だしから底光りしている。博覧と精査の理想的融合のなかから、明治大正文学の周縁が、喜活劇となって現れてくる。坪内さん、やはり生半の読書ではないなあ…
 
 

2012年02月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

森達也ほか・311

 
 
このあいだの木曜は、東日本大震災をあつかったドキュメンタリー映画『311』を試写で観た。森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治という四人の中年男(この四人がそのまま作品の「共同監督」としてクレジットされてしまう怪しげな体裁にもなっている)が、地震発生15日後、「闇雲に」東北の被災地にバンを駆らせて、「拙速に」被災地の惨状を映像「採取(搾取?)」してゆき、ノンナレーションでただ投げ出したように編集された作品、とひとまずはいえる。

この意味で(TV局などのつくった震災ドキュに較べ)「非物量的」「非物語的」「非道義的」ともいえ、場合によってはひとの逆鱗にふれる危なさをもつ。むろん四人の男のなかにはオウム真理教の90年代後期をその「内部」から記録した『A』『A2』のコンビ(監督=森、プロデューサー=安岡)もいて、「タブー」とは何かという問題も立ち上がっている――これを真芯に置かないと、作品は連打されてゆく震災の惨状によってただ観客を打ちのめす、「非情なドキュ」というふうに要約されてしまう惧れがある(事実、試写でぼくの隣に座っていた中年のご婦人は、衝撃にヤラれたのか途中退席してしまった)。

福島県三春町から第一原発半径10キロのギリギリまで近づこうとした動きが、全体の第一パートといえる。しかし低装備、ヘリなし、低予算、低物量の四人(+若いカメラマン)では、むろん原発の事故映像じたいを収められるわけでもない(道路には検問と結界線が張られている)。彼らは線量計を複数保持していて、放射線量表示のためそこから始終ピーピー、と発信音が出る。

ブームを振る録音スタッフはおらず、録音はカメラ内蔵マイクでなされている。そうなってできあがった作品ではレベルをあげざるをえず、ノイズをふくめ画面に鳴り渡る音がやたらデカくなって音の契機の一々に聴覚を逆撫でされるのだが、そのなかから確実な伝授/転写が起こる。つまり線量計の「警鐘」が聴覚をつうじて観客の身体を恐怖方向へと覚醒させる、ということだ。この段階で観客はおそろしく「敏感」になっている。

原発取材はとうぜん断念された。それで津波被災地の惨状を捉えようとバンは北上する。ここから観客は息を呑むことになる。陸前高田手前。瓦礫の集積のもつ「物質性」がただ事ではないのだ。瓦礫は折れた板木の厖大な「からまり」だが、それらは一連運動の結果として眼前に「停止」している。運動は、大規模流動、大規模集積、部分倒立、被破壊、部分置換、脱文脈化、湿潤化、「泥」による逆説的塗装化――などといった物理現象の、物理的帰結(そこにたぶん「偶然」もふくまれる)から帰納されるものだ。この瓦礫は、実際は津波発生後15日段階では、その「生動痕跡」をも如実に直観的に測りうる。ただしそれはクルマからの移動ロング撮影ではただの「抽象的体積」と堕すだけだ。歩きつつカメラで捉え、その細部一々のもつ「具体的痕跡」に眼を停め、いわばカメラ視線が「等質的受容」から「分節形成性」へと再組織されたとき、実際、瓦礫=廃墟は、ひとの裸体のように「読める」ようになる。

停止しているのに生動しそうな予感。知覚されないのにそこから湧き上がってくるはずの油臭、磯臭さ、腐臭、粉塵臭までもが、魔物のように、観客にたいする「捕捉」を開始する。それで結局、打ちのめされて、ぼくの隣の女性は退席してしまったのだとおもう。このように瓦礫を生き物として「撮る=採る」運動神経の「ミニマリスム」は、TV的な震災報道には、ほぼないものだった。

瓦礫撤去の遅さ、予算づけ遅滞の失政により、民主党政権は当時頻繁に叱声を受けた。ただその瓦礫の「量」は、撤去へと容易に接続しない、何か「死に絶えた」巨大な物量、その帯状分布だったと、『311』の映像は精確に伝えている。瓦礫下の生存者探索のため投入される重機が極度に少なかったのは、小泉構造改革によって東北の土木事業が壊滅したからだ。したがって自衛隊、あるいは(撮影隊が出会ったかぎりでは)さいたま市役所などからの「応援部隊」が重機操作に従事している光景が捉えられることになる。瓦礫は(或る物質的な)「どうしようもなさ」の符牒集中のはずなのに、じつはそれに向かって働く人間を多数吸着させていた。

ところで重機は瓦礫の撤去などを一切してしない。瓦礫を部分的にもちあげ、ショベルの「手」が空中でひらかれる。そのときの瓦礫の落下状況のなかに「遺体」がまぎれこんでいないか(あるいは瓦礫引き上げで一瞬あらわになった暗部に「遺体」がまぎれこんでいないか)、その「確認」が低効率でつづくだけなのだ。作業の質は、底のない桶で水の永遠のくみ上げを命じられた、「ダナイスの娘たち」への懲罰に似ている。

そのショベルのうごきそのものに「遺体」の予感がわきあがってくる。つまり「被災映像」とは「見えるもの以上を見させる」想像力の組織に関わっている。その点で『311』の映像はNHKを始めとした震災ドキュメンタリーよりもつよい作用性をもっている。なぜそうなるかといえば、身体性に限界づけられた撮影行為、という枠組がよりあらわになることで、むしろ観客の身体への転位がより活性化されるからだというしかない。

ノンナレーションのこの作品では、個々のショットは文脈化されず「裸の単位」の投げ出しに終始している。『311』の監督たちはNHKのドキュメンタリーで福島の高線量地を取材にきた吉岡忍と宿泊先で鉢合わせている。吉岡が三春の寺に玄侑を訪ねるその番組はぼくも観たが、そこではすべてのショットは文脈上の「単位」に再組織化され、「物語の途上」という表情に枠付けしかえされた(それはTVドキュメンタリーの媒体上の要請からそうなる)。

この枠付けが『311』にはなかったから、観客には「ただ視る」ことが生成されていった。ところがこの「ただ視ること」は、現在はきっと禁忌なのであり、そのことの「気付き」のために、たとえば災厄映像や死体映像があるのではないか。とするなら、ナレーションはないものの、『311』の「主題」は、森達也が往年撮ったドキュメンタリー『放送禁止歌』とも相似ではないかと理解されてくる。

「死体」を映すことがタブーなら「死体」を予感することもタブーとなる。ところが映像は重機のショベルのうごきによって、その予感の水位を上昇させる運動を刻々繰り返していると前言した。「ただ撮ること」は予感に視線を向けたときに、すでに構造的に破壊をこうむっているというべきなのだ。

大勢の学童が津波によって流され、震災発生20日程度のこの時点で多数の行方不明児童を記録していた石巻・大川小学校に一行は辿りつく。「重装備」をして、不明のわが子を探す若い母親たちの集団がある。自分たちが棒切れで瓦礫をうごかしても空しいと知る彼女らは、探査を繰り返す重機のそばにいて手持ち無沙汰になっている。それで森達也のおずおずしたインタビューの圏内に入ってゆく。気付くべきは、彼女たちが「憤り」を伝える者として撮影カメラを直視することは一切ないということだった。

「立ち入ったことを伺いますが」――これが、森がインタビューを開始する際の、最初の発語だ。むろん森自身がこの発声の無意味を知っている。「立ち入ったこと」はプライバシーの問題圏域にあるのだろうが、森が取材する対象は、ヘンな矛盾形容だが、もう「無名性によって裸になっていて」、プライバシー論の作動に「悲惨にも」馴染まなくなってしまった人々なのだった。

彼女たちはわが子の「発見」を待っている。森はいう。「発見されることを願いながら、もう片方で発見されないことも願われているのではありませんか」。発見されるものが「ひと(という人格をもったもの)」なのか「遺体(という物体)」なのか、その弁別を放棄している点に欺瞞がある。主婦は冷徹にいう。「この時点では、もう生存状態で発見されるなんて幻想は抱いていない。だから遺体が一刻も早く発見されて火葬し供養してやりたい。いま発見される遺体は、もう顔の判別もできず、DNA判定にもちこまれることもあるが、物理的に供養のよすがとなる〈骨〉がほしいのだ」云々。「放心状態という感じですか」「遺体発見を念願しているから、放心状態ではなく気が張っている」。

森が契機となった「問答」はご覧のように意志疎通という点で齟齬を来たしている。これは価値庇護すべき対象への愛と理解が前提となる旧来の社会派ドキュメンタリーでは最大の失点だろうが、そうした質問者の「無様さ」を前面化することがむしろこの作品の眼目となっていることに気付く。

大川小学校の悲劇はなぜ起こったか。入江最奥にあって津波発生が見通せない地勢に立地。校庭を避難所とする事前約束が行き渡っていた。それでも津波接近が伝えられると、「律儀な」教師たちは点呼のため学童を整列させていた。その整列形成のさなかを津波が襲った――こんな経緯だった。ただし地震の比較を絶した揺れに危機を感じた数人の母親は、自宅から校庭に駆けつけ、児童の整列を促す危機緊急性の薄い教師たちから自分の子どもを引き抜き、自らともども即座に子どもを避難させて結果的にこれが生存につながった。先刻の母親たちの一隊は、昼間仕事をもっていて、地震発生直後、校庭に駆けつけられなかったのだった。

けれども「校庭に駆けつけても私らは先生方のいうことを聴いてたぶん整列に加わってわが子もろとも津波に流されてしまったとおもいます。自分の子どもと一緒にその場を逃げ去った母親のような適確な状況判断などできません。先生たちも事前の津波避難計画を守っていただけだし、地震規模も予想不能だったし、結局、誰に憤りをぶつけていいのかわからないんです」。

このとき齟齬ばかりで変梃りんなインタビューを繰り返してきた森が「無様にも」いう。「その憤りをぼくにぶつけてください」。ありえない。ドキュメンタリー撮影は通常は、中立的記録者による営為だから、そこには「身体が成立していない」。撮影者を怒れ、と対象に促すことは、本来ならこの中立性の放棄、ということになる。そのことを主婦たちは動顚を繰り返す森よりも精確に知っている。だから彼女たちはそっぽを向いて失語してしまった。

ところが森の眼目はドキュメンタリーにおける中立性の放棄と撮影身体露呈のほうにある。彼の作品歴を一貫しているのは、こうしたドキュの通例への異議申し立てのほうだった。ところが「自分に向けて憤りをぶつけよ」という「命法」は対象の作為性への煽動だから、これはもうドキュがドキュにとどまる成立与件さえ破棄してしまっている。だから「無様」なのだ。ところがこの「無様」の提示こそが、災厄映像を搾取するドキュメンタリーの真の成立与件だと、『311』は語っているようなのだった。

ずいぶんことばを費やしてしまった。主婦たちは怒らなかったと書いたが、撮影隊はべつの遺体が発見され、それがブルーシートに包まれている姿を撮って、それで「遺族」に正面から烈しい糾弾を受ける。このとき「ぼくに向かって憤りをぶつけてほしい」というような構えがどんな無様をさらに付帯させるかが判明する。こんな場面がクライマックスとなるドキュメンタリーなのだった。

この『311』は、NHKドキュよりもずっと「ただ撮られている」。ところが同時に、対象が「災厄」であるかぎり、「ただ撮ること」は常に不能だと、やはりNHKドキュよりもずっと高度に告げている。考えてもみよう――こうした二重構造の提示そのものこそが、禁忌の前面化に似ているのだった。
 
渋谷ユーロスペースにて三月三日より公開。山形ドキュメンタリー映画祭で上映されたときとは若干ヴァージョンが異なる由
 
 

2012年02月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

たまと嘘つきバービー

 
 
ロックバンド講義の期末レポートの採点をして、ますますつよく感じだしたのは、「ただ音を聴き、ただ歌詞を読んで、レポートを書いてくれ」と依頼したのに、ネット時代の通弊で、ネット文献をアレンジしそこに自分の意見を少量添える論文が多すぎるということだった。バンド履歴、チャート順位などの情報が羅列される一方で、バンドメンバーの演奏のぶつかりが有機的に分析されている論文は稀少。

この傾向はポピュリズムに支配された「音楽への接し方」ともつながっているらしく、ビートルズやバンプ・オヴ・チキン、ラルク・アン・シエルなどをあつかった論文にとくに顕著で、しかもラルクにかんしてはつよい思い入れがそこに付随するという、共通の傾向がさらにある。それで何度も同じ論文に出くわしている感触になる。またもや、お決まりのこと――多様性と平準化。バンドの属性が、そのままバンドにかかわる言説を決定してしまうのだ。神聖かまってちゃんをあつかった論文も、歌詞解析に傾斜しているものの、基本はおなじかな(以上の例示が、レポート素材の中心)。

そんななか、たまに関わる論文はいつも良いというのも納得できる傾向だ。つまり入射角が限られている音楽は、そのひかりを打ち込まれたからだを具体化する、ということ。ぼく自身は、たまは初期しかちゃんと聴いておらず、系統的に聴きなおす必要をずっと感じてきた。歌詞能力が抜群で、自己身体の縮減性という点では、じつはゆらゆら帝国に先駆していたというのが現在の印象だ。竹中労の視座をくつがえす、『新しいたまの本』が必要だろうが、よく知る学生のなかでは三年の土方真知さんと四年の山崎翔くんの文章がひとつの指針を示している。ふたりが勝利した点とは何か。ただ「聴きこんでいる」ということだ。

すれっからし採点者のぼくを、「このバンド、聴きたい」とときめかせればレポート提出者の勝利なのだが、もってゆかれた代表が、2011年にアルバム『ニニニニ』でメジャーデビューしたという、「嘘つきバービー」だった。リフ中心、ルックス気味悪い、騒がしい音楽、ゆら帝に似ているという評価、と池田ちかさんのレポートにあるが、歌詞能力が抜群なのは、レポートに転記打ちされた歌詞からすぐにわかる。たとえば以下――

《お願い事するたび アーメンの人から犬にされていく/超能力とかそういう力ではなく セロテープ はる/〔…〕/何かに巻かれるタイプの人間じゃないのに/足の先までがセロテープまみれ/こんなロマンチックな状況で僕は ボボ子に会いたいよ/〔…〕》(「パピプペ人間以外」、『ニニニニ』所収)

《やわらかい割れ目から強引に押し込んでいく/不甲斐ない裂け目から詰め込んでいく/変形してく。君の鼻は耳の裏へ移動する/説明書の12ページ目を見て、いじくる算段を整える/〔…〕/君達のやわらかっぷりには相当まいってる》(「やわらかヘンリー」、『増えた1もグル』所収)

そう、ロックの歌詞はこうでなくちゃね。嘘つきバービー、ご存知のかた、いるかな? ぼくはとりあえず買ってみよう。
 
 

2012年02月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

入浴詩追加

 
 
ロックバンド講義に提出された200超のレポートの採点が昨日無事に終わった(原稿用紙400字詰1600枚以上を読んだ恰好になる――しかも音盤提出も20以上)。今日は金曜日の卒論・卒制提出者の口頭試問準備で、一日中、提出物をチェックしていた。斎藤遼太郎くんの浅野いにお『ひかりのまち』論と比較参照すべく、自分の浅野いにお『素晴らしき世界』論(『少女機械考』所収)と同『ひかりのまち』論(『マンガは動く』所収)も読み直した。すると自分の論文のほうに圧倒されてしまった。アホか(笑)。ぼくの論文にはさすがに物質性とディテールが満載され、哲学性への縦横無尽の連接もあるなあ。しかし自分の書いたことは、すっかり忘れていた。

さて、こんど小池昌代さんとやる最終特別講義のテーマは「入浴詩」だが、ぼくが主査をつとめる二人の学生「女流」歌人の歌群に、それぞれ「入浴」テーマのものがあったのを不覚にもいまになって確認した(教務課提出以前に読んでいたはずなのに)。どちらも秀歌。引用させてもらおう。

あけがたの湯にしずむ時 波としてひくく天球の音が聞こえる
――久保真美『ひとをとる網』より

バスタブの乳白湯からすべり出ていざ鮮血をたらして歩め
――福島遥『空中で平泳ぎ』より

それぞれの歌集タイトルは卒業制作用につけられたものだ。そういえば、畏友・郡淳一郎くんからは、忘れていた次の一句を示唆された。

湯殿より人死にながら山を見る

これは独立したものではなく、吉岡実の詩篇「あまがつ頌」(『サフラン摘み』所収)の「Ⅲ」部分にちりばめられた句群中の一句だった。忘れていたぼくがどうかしている。これらも、当日配布プリントのアンソロジー部分に入れよう。
 
ということで、今日はぼくの「忘れやすさ」がテーマでした♪
 
 

2012年02月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)