天数
【天数】
極にちかづいたおごそかがある。北方はうすくひろがるひかりに息をして、内部になってゆかないながめだ。ちがう形式の点在が、たいらな高はらにまずしくみだれている。うわの空のどこにもむかしがない。ころもよさらに浮け。地に映されるからだ残しは、天数へと帰属する。
詩論
詩論が詩作になぜ必要なのかはよくわからない。そのふたつを分離的・脱交渉的に捉えて、自分の詩作だけを楽天的に押し出すことだってできる。ただ、それでも自分がことばによって自分の想像/創造をどう変えているのか、その刻々の意識が蓄積してゆくだろう。それは自分自身に開示をもとめている。
「短さ(すくなさ)」と「静けさ(遅さ=脱連打性)」を指標とし、難語を排除して、のこったおのおののことばを審問にかける。それでもそこに、ことばどうしの関係をつくるため「構文」を現出させる。しかもその「構文」の自明性をも疑義にかけることで、見た目以上の奥行をつくって、いわば加減乗除のうちの「乗除」のほうにシフトする。そんな最近の自分の詩法があったとする(以前とちがうのは、詩文は結局は文章だ、という諦念がそこに忍びこんでいることだ)。
このときその詩法を成立させているのは、すくなさによってすべて裸になっている「それ自体」しかないはずなのに、それでもやはりそれら表面にもぐっているものがある、という認知が、詩作のなかには生じているだろう。
たとえば二物衝撃などに代表される俳句的な語間距離。しかしそれをそのまま散文形のなかに充填すると、多元性がかちすぎて、なめらかな推進力が出ない。それで「すくなさ」によって詩文表面を摩耗させながら、音韻を調整、さらには日本語の特質として、助詞に日常使用以上の機能を負わせるのだが、ここでもまた古典参照が起きているのではないか。
しかしこれらは実際は、自己技術の検証であって、詩論ではない(むろん詩論は解釈格子でもない)。この手の詩論は、「自分がいま書いている詩」を我田引水するだけで、実際は規定的ではなく関係的なものにすぎない(日本の多くの詩論もたしかにそこでとどまっている)。
詩論、というのは、実際は詩的直観によって世界構造を鷲掴みにし、付帯的に世界とことばの関係を新規化することと接続している必要がある。ということは詩論を書いているのは、たとえば自意識に膠着して精神の時代性を一カ所に重複させる朔太郎ではなく、やはり拡散のなかに無方向の生成を繰り返したドゥルーズのようなひとたちなのだ。
狼が群れでいることで単独以上のなにが生起しているのか。身体が器官の分節性に保証されているとして、それが脱落したとき、身体は意味にとってどう脅威となるのか。国境を溶融する侵犯が略奪ではなく協和となるとき、その原型として、放牧にあった分散と移動が、それ自体の集団性をあらかじめどう打ち消していたのか。「何々になる」という変容がすべてだとして、その「何々」に代入されるものとしてなぜ「少女」が最大限に正しいのか。なぜ動物になることは、世界や意味のリトルネロを聴くことなのか。これらドゥルーズが『千のブラトー』で展開した問いは、実際はすぐれて詩論へと適用できるものだ。すくなくともそこに自意識からのブレーキがかかっていない。
ここ数年のなかで日本の詩論として成立しているのは藤井貞和さんだけのような気がする。たとえば『日本語と時間』。多様性をもっていた過去形助動詞が平板化され、それが小説文体に適用されたとき、それでも詩に打ち破られてくる「動態」とは何なのか。それをしめすため反転的に、和歌の藤井的な現代訳(解釈)があるという再帰的構造。その構造そのものが、書かれていること以上に、詩論なのではないか。
あるいは貞久秀紀『明示と暗示』。再帰性構文のなかに時間上の微差をつくる詩論を詩文上に実践する試みの、何重にもわたる再帰性。これがあるから、たとえば貞久のいとなみは、デュシャンの「アンフラマンス」にも、「正反対は差異ではなく膠着で、実際の創造的な差異は微差でしかない」というドゥルーズにも、単純回収されてゆかない。
それでふと気づく。中間的結論というわけではないが、ことばの運動からことばの運動に折れ込んでもどる再帰性こそが、詩の保証なのではないか(再帰性それ自体はリトルネロにすこし似る--ただしリトルネロが音韻の実際の発声なのにたいし、再帰性は純然と意味運動の領域に旋回し、やがては永劫回帰の閃光につつまれる)。直観的にいえることは、この再帰性こそがメトニミー的な「単位性」「隣接性」を破壊的に撹拌する、不穏な脱領域性をもっているということだ。そこで、ロラン・バルトから飛び出してドゥルーズ経由で自分を内破させる意義が、詩作にも付着してくることになる。
棚のある女
【棚のある女】
大陸棚はむらさきとみどりの混ざった色で、その横からのながめをみた気がしたが、わたしの眼のなかにすでに断面があり、それを女にあてはめたにすぎない。おおきなものを寄せたかった、棚のおびるかたちの、つぎなる恍惚が知りたくて。結局はひとをさみしさの磯とみなし香りごと引いた、それだけだが。
芥
【芥】
ディアーナたちがいればアクタイオンたちもいる、春めく円周とはそんな蒸散のかこいではないのか。そこではながしこんだ眼がみのもにきれて、内へのながめが暮れるまでながく境に浮く。花のようなものはそれでいくつにもわたり、芥イオン、と洒落込んでおもてをあぶくさせる。
あずまや
【あずまや】
朝の丘にみあげるあずまやは、内側に外をうるおわせ、みずからを繰りひろげている。あるものが柱と屋根のみでないとしめすため、壁の消失がかたどられている様式の逆説。とおりぬけようとすれば、あずまやではなくひかる全身のほうがぬれた通路になる。その一瞬の何を畏れればいいのか。
高橋洋・旧支配者のキャロル
均衡が停滞の別名で、それ自体が破局を内包しているという、透徹したアレゴリーを黒沢清『蛇の道』の脚本で提出した、大和屋竺の後継時代の高橋洋。恐怖の緻密な計測者として中田秀夫『女優霊』の脚本からJホラーブームを牽引した時代の高橋洋(それは同時に佐々木浩久『発狂する唇』脚本からはじまる、論理の自壊にかかわる諸作との両輪回転の時代でもあった)。それらを前段にして、いわば監督時代の高橋洋がはじまる。『ソドムの市』『恐怖』――このとき彼は、自分の畸想と地獄想像の増殖に整理をつけない暴挙に出た。結果、彼の映画を端的にあらわす指標がエピソードの充満となる。そうなると、もともとは空白と顕現の経済的配置と「溜め」の情動から現出されるべき恐怖も、たえず隣接する恐怖と「相殺」され、脱色化・脱分節化されてしまう。高橋の監督作にかんじるインフレ・高止まりの「のべたら」の感触は、恐怖映画や畸想映画としてはとうぜん失敗の印象をもたらすだろうが、高橋自身はそれを意に介していないようにもみえる。「充満」とは何か、それだけを自分の想像力を素材にして問い詰めているのではないか。デリダがアルトーの素描にたいして語ったことばをもちだすなら、映画という「基底材を猛り狂わせる」ことこそが高橋の眼目だったのではないかとおもう。ただしそれはいわゆる「調律」の喪失という犠牲をともなっていた。
「充満」を確保したまま「調律」を獲得して、「エモーションの虚構性」という映画内真実を完璧にえぐったのが、「コラボ・モンスターズ!!」興行中、唯一の中篇として撮影された高橋の新作『旧支配者のキャロル』だ。題名はクリスマスソングのクトゥルフ教徒によるパロディに由来しているが、ではこの作品に何のパロディが出現して、それがクトゥルフ的に暗黒化/脱世界規定化/巨大化をもたらしているかと問えば、事態は複雑としかいいようがない。見やすいのは、「スポ根」「大映テレビ」的な、情動だけを押し出している「狂った論理の発生」と、『81/2』『軽蔑』『アメリカの夜』『ことの次第』といった撮影そのものを主題とした映画との、ミスマッチで相互膚接的な「窒息配合」によって、予想される増村保造的な「調律」のみならず、高橋にしては意外なことにというべきか、グリフィス『散り行く花』的な情動をも「調律」してしまったことではないか。映画学校作品(古風なことにフィルムによる――だから「ロールチェンジ」といったスタッフの発語そのものに郷愁=反動の記号もあたえられる)の監督(役名「黒田みゆき」)に抜擢、「演出」と作品完成の試練をあたえられ、やがて死の予感にみちた目の下の隈に倒錯的なうつくしさまで感じさせる女優、松本若菜は、(悲痛転写を欠いた)異形なリリアン・ギッシュなのだ。こうした「調律」が実際は出鱈目というか記号的恣意性の結果だと見とったとき、高橋の映画的知性の優位も屹立してくる。
それじたい中篇区分の作品だから「語り」も速歩的、前提なしの磁場形成的であらざるをえない。そこで貫禄にみちた大女優(役名「早川ナオミ」)として映画学校の学生を指導しながら、そこでの製作作品に主演女優として迎えられる、「てめぇら」を濫発する中原翔子の異様な威厳が必須条件となる。彼女が主演者として監督「黒田さん」を「指導」する抑圧から、いかに監督自身が開放されるか。しかも主演者への監督の崇敬を保ちながらそれがしめされるか。このことで「物語り」は「均衡」をたもたざるをえない。そのとき後悔なき演出の代償として生じてくる撮影フィルムの払底期限が、最初のサスペンスの実質となり、これが飛躍して監督役・松本若菜へ死の引き金を引くという怪物的な「拡張運動」までもたらされる。「脚本づくりは科白を実際に発語することで進めよ」「撮影の根幹は芝居(演出)であって、撮影・照明は付帯的にそれをフォローする位置にあり、撮影のための芝居が想定されることは倒錯的だ」といった中原の数々の「託宣」は一見、それらしい実質的な教育効果を伴ってもいるが、「(撮影現場では誰もが)心にスタンガンをもて」という教示にいたっては、スタッフの親和的な能力綜合を目標とする現場で逸脱的に響くだろう(「逸脱」はやがて、フィルム払底=作品未完成の危機の張本人である松本若菜に、撮影助手の女子が「実際に」スタンガン攻撃を施すくだりで炸裂する――そこでは隠喩から実際行動への「踏み越え」があった)。
むろん講師であるなら中原の教示は、内容はどうであれ、命令系統としては「秩序」を維持している。ところがいったん学校作品の主演女優となった彼女からだされる「命法」は、それが「客体」からの指令であることで突如アレゴリカルなものに変貌する(とうぜんこの造形は『恐怖』の片平なぎさからの継承要素をふくんでいる)。たとえば人が「石」や「樹」に何かを命じられる場合をかんがえてみると自明だろうが、それは「深淵」を経由しているのだ(つまり『旧支配者のキャロル』はやはり高橋的なアレゴリー劇の基調をたもっていることになる)。だから松本は黙示録の人物のように破滅にいたってゆくのだが、では女優を演じた中原の演技自体はどうかというと、これが見事に多層的だった。彼女の語り・眼光・威厳は「物体が語る」脅威とともに、映画知の聡明な判断者(これが被説得者の役割を負わされることもある)、人間的な励起者、「理性ゆえに近道を知る者」など、色合いのちがったものを刻々分泌しながら、しかも映画内画面(『旧支配者のキャロル』として撮られている映像の内実)では、男女のみの密室のなかで支配関係を逆転される性的欲望の崇高な敗北者としてイコン定着されるのだった(彼女は監督・松本若菜から「旧支配者」と最終的に定位される)。この「多様なものを充満させる」中原に魅了されることなしに、『旧支配者のキャロル』の磁場性をかんがえることはできない。
映画の世界は苛酷な競合性につらぬかれているが、「人が人をつぶすなんてありえない。人が勝手につぶれるだけだ」というのが、監督に抜擢される際の松本の身上だった(それは履歴書に書かれた文言だった)。自壊か他壊か――本来この設問は分離できない。「運命」の考察者・高橋洋なら、自壊・他壊の分離不能性のなかにこそ、感知不能な「運命」の怖ろしさが浸潤してくるというだろう。「運命」とは結局、「混ぜる」運動なのだ。そして「運命」は単純に、あたえられた試練(この場合は「映画完成」)とその場の人員の複合に、「すでに模様として」現れている。撮影のためにスタジオの壁を覆ったトタン状の板にもフィルムカメラにも、「運命」が形状として「すでに」現出しているとするのが、大和屋=高橋的アレゴリーだろう。
アレゴリーは、過剰と重複によってこそ起動する。さきほど中原の威厳の要約不能性をみたが、もうひとり重要な要因が作品に配されている――津田寛治だった。授業への遅刻を中原に咎められた松本が着席し、その周囲に並ぶ学生たちによって作品が中心にえがくスタッフ側の人間が一挙に展覧される(これが速歩と密集による磁場形成の一端でもある)。松本、それに撮影の「葵」(本間玲音)とともに映し出されたのが「村井」役の津田だった。俳優活動に挫折し、加齢ののち原点からの映画スタッフを志して映画学校に入ったとおぼしい津田は、『旧支配者のキャロル』の撮影現場ではもともと制作担当予定だった。それが主演・中原翔子の越権的命法によって彼女の共演者の大役をあてがわれる。しかし津田は演技者としている以外に、現場で残業弁当手配などをおこなう制作の仕事もこなしている。監督・松本には同情をこえた愛着を感じているらしい。
さらに彼はなんと、作品の「物語進行」をまことしやかさで客観化・補填し、内実は物語進行を「突進」に変えてゆく(火に油をそそぐ)魔法施術者――「画面外ナレーター」でもあった(このことで『旧支配者のキャロル』の大映テレビ調がより盤石に補強される)。津田のナレーション内容はときにその決定性によって運命そのものの降臨を機能させる。「その夜、フィルムが尽きた」「それが彼女の最後の言葉だった」。フィルムの「現在」を一挙に「事後の待機」へと塗り替え、二重化させてゆくことば。ともあれ津田には「作品内作品の主演者」「制作スタッフ」「監督へのひそかな懸想者」「画面外ナレーター」といった諸属性が過剰「重複」し、その重複がそのまま作品の磁場化をもたらしていることがわかるだろう。とくに「俳優役=客体」と「ナレーター=超越者」のかさなる異常が中原の役割付与の異常と対をなしている。映画が客体=俳優からの単純命法だとすれば、映画の作り手は「映画内在的に」破局をしいられる、というのが、現在の高橋洋の映画観ではないか。
大映テレビ調との接続は、一場面の質と長嶌寛幸の音楽が「共謀」することで明確化される。さきほど撮影助手の女子に松本若菜がスタンガン攻撃を受けて躯の自由を失うと綴ったが、報せを聞いて駆けつけたスタッフがみたものはそれでも不屈に匍匐前進をつづける松本の姿だった。そこにつけられる音楽は、その松本を記号的に包んでいるのがスポ根の荒唐無稽性だと上位規定する。フィルム払底が確定されたのち、その音楽はどこに再現出するか。一旦は中原に「フィルム残量に拘泥して、粘っていた演出の質を変えるのが果たして監督なのか」といわれていた松本は、フィルム払底ののち中原の楽屋に呼ばれる。自負と恥を捨て(売春によって得た費用で)フィルム代を補填せよ、というために中原のとる行動が「狂っている」。松本を自分の前に犬のように四つん這いにさせ、その後頭部を踏みつけることで土下座させたのだった(この異様な姿勢変化はのち、松本→中原の方向で再現される)。松本に売春がしいられた事情はスタッフの周知となったが、あとから現場に入った津田は遅れて知る。もう松本はスタジオを出て町に向かっている。追う津田。ふたりのあいだで悶着がある。「フィルム代はぼくが出す」「これは自分の問題だから受け取れない」「それならぼくがきみの売春の相手になる」「スタッフに抱かれる気はない」――夜の街灯のもとでのこの手垢のついたやりとりを、先ほどとおなじ音楽が裏打ちする。結果、「抒情」もまたサブカル的な脱価値化をこうむる。崇高なものを陳腐にかえる冷笑がそれ自体無謬なのは、この作品がべつの崇高をちりばめているからだ。
まずは松本のリリアン・ギッシュ化がはじまる。町を歩き、いきなり無前提に売春交渉場に入ってしまったような狂った空間魔術。ところが山田達也のカメラは遅さを分泌しはじめ、松本の顔を「みつめはじめる」。リリアン・ギッシュが契機となったアップ神話の再燃。あきらかになるのが『散りゆく花』同様の目の下の隈だった(このグリフィスへの意識が、松本の死に顔への作品終幕ショットを準備する――むろんその最終ショットは真利子哲也『NINIFUNI』の決定的ショットのように「世界の二元性」を死者の側から捉える衝撃的なものだ)。実際の売春描写が割愛されたのち、次に映像的な召喚を受けるのは、大映テレビの上位概念、増村保造ではないだろうか。撮影再開となって村井=津田の演技の調子が出ない。監督が身を堕とした事実が引っ掛かっているのか。津田の演技を松本がはげしく否定すると、実在者としての津田の顔を、俳優の顔としていきなり撮影する逸脱的な(いわば増村の起源=溝口的な)現場神話があったのち、撮影の調子があがってくる。とある画面。手前にピンの外れた津田、中原がいて、その二人の中央の画面奥行にピンの来ている松本の顔がある。それら三つの顔で画面が完全に「充満」を果たすとき、画面は増村的な指標にかがやいた。ところが顔の充満場面はそのあとの別シチュエーションで、鏡に近づいた松本の後頭部と鏡面の顔、そのふたつの身体パーツの充満となって、グリフィス的なものに転位されてしまう。
既存映画の記憶にゆれる画面推移は、おそらく西山洋市(とりわけ『稲妻 INAZUMA』――これまた撮影現場〔殺陣アクション〕にかかわる奇怪な情念映画)を経由して真の独自性に達する。これまで書かなかったが、撮影現場場面では奇怪な編集がなされていた。つまり俳優・スタッフの労働をしるす場面(いわばメイキングのカメラがとりうるポジション)と、カメラが撮っている「中身」とが反則的に織り合わせられていたのだった。マスキングされたファインダーからの「眺め」ではなく、あきらかに質感のちがう「現像された作品映像」がそこに侵入してきている(西山作品では作品の撮影中の「現在時間」に、「放映されているTVドラマの画面接写」が混ざった)。現像や放映は撮影現場にたいし時制的には明瞭な「後置」だから、そこでは「のちの時間」が「現在」に嵌入、いわばフラッシュ・フォワードのように、整除的な時間構造を苛み破砕している図式が浮上している。それはもともと無秩序を飲みこんで自律的に進行してゆく映画の「機械状」、それがとりうる最も白熱した逸脱となりうるものだ。
「最後のシーン(何ショットかの構成を予定されている)」を松本が撮ろうとする作品のクライマックスは以下のように始まった――まずは欲望の敗北者を演じよと今度は逆転的に松本が中原に「命法」を発する(そこで四つん這いの中原の、今度は背中を松本が踏む)。撮影開始。鬼気迫る演技。このとき前述のように、メイキング的なポジションにあるカメラからの映像と、撮られているものの「現像後の」内実が編集で織り合わされ、そうして無秩序を飲みこむ映画の「機械状」が露呈したあと、さらに切り返しとして織り合わされてくる撮影現場の映像に、観客が息を呑むこととなる。撮影、監督、スタッフらがキャスター付「イントレ」(高みからの撮影につかうもの――むろんこれまたグリフィスの『イントレランス』が命名起源)に乗り合わせ、俳優の演技の動勢にあわせ、地上のスタッフから圧力によってせわしなく動きまわっているようすが、そのまま「動きの恐怖」として現出してくるのだ。動き自体はロボット的な自律性をともなっているようにしかみえない。怪物のように多元性を積載されたものが対象化すらのがれて「ただ」動く――なにか「ハウルの城」をもおもわせる。これがつまり編集上で約束された「機械状」の時制惑乱が「領域伸長」して、実際の画を「機械状」の空間惑乱へと干渉的に変化させた恐怖の極点だった。このあと妙に中原・津田の顔に寄った芝居が現像フィルムの次元から流れに挿入されたときには、黒田=松本と葵(カメラ)=本間のコンビはカサヴェテスの現場を髣髴させるべく、撮影対象の動勢に牽引されて、いわば踊るようなカメラ撮影を俳優の間近で繰り広げている。
最大の山場の撮影が終了した。カットがかけられたあと、中原翔子が不満をいう。「いまのは俳優のアドリブに頼りすぎている」。松本が返す。「ちがう、そのアドリブは私たちが引き出したのだ」。この勝利宣言ののち、転調が生じる。松本の声、「どうして照明を消したの?」。ひとの失明徴候が客観化に付されるメロドラマ(=グリフィス)的な決まり科白だが、典拠がありすぎて何が典拠かわからない。失念しているがこれも実際のグリフィスからの引用かもしれない。「村井さん、人間って、つぶされるの?」。そう声を発して松本の意識が失われる。救急車が呼ばれる。この松本の自問には中原が応える。「勝手につぶれていったのよ、みゆき」。残されたカットはあとわずか。ここで君臨者として中原は代行監督による撮影続行を命じ、結局、監督に葵=本間が指名される。「終わらない撮影なんてない」がその威厳にみちた中原の最後の科白だが、実際そのことばは、撮影に希望的に出来する「終了見込み」ではなく、「ひとつの場からの撮影延引がそのまま世界を構造化させている」とでもいったような、ヴェンダース『ことの次第』のベルクソン的主張と交響していないか。参照系を苛烈に、出鱈目に経巡った『旧支配者のキャロル』は、最後になって意外なものと同調してみせた――そんな驚きをあたえた。いずれにせよ、エモーションが最後にたどりついた、この見事に殺伐とした「味」は、映画史の記念にかがやくものだった。
本作は「コラボ・モンスターズ!!」として西山洋市監督『kasanegufuti』、古澤健監督『love machine』とともに、5月12日よりオーディトリアム渋谷にて併映開始されます。
藻岩山
【藻岩山】
この世をとおりすぎることがそのまま物見遊山だと、眼窩をえぐられているうつしみの奥で知る。形影がたえざるざわめきなら、ことさら世に藻の在りかも問わない。むしろこころを照らす心中の鏡から、行程のつねもロープウェイのたどる始終と見、自分にいまある風光を、それだけをつつしむ。
西山洋市・kasanegafuti
映画におけるナラティヴとは、ときにジャンル法則にかかわりながら、物語内容を効率的に観客へ伝えるための蓄積的叡智だろうが、それ自体が刻々進展してゆくという意味では肉体にちかい組成をもつ。そこには一種の骨格があるのだ。この骨格は前シーンからの飛躍、召喚、逆接、部分化、綜合といった種別の異なる関節でむすばれて、「いま接しているもの」の質を前後関係の判断をつうじてリアルにつたえる。だからこのリアルはいつも二重性のなかにある。けれどもシニフィアンとシニフィエが同時的に出来して実際はどちらとも弁別されないうちにただ受容されるように、映画においても物語内容と物語をつたえる骨格的(肉体的)組成は、じつは分離できない。内容を孕みつくしたものが「そのまま」形式として現前化しているということだ。これはじつは恐怖に値することではないだろうか。とりわけ飛躍にみちた語りが「狂気」につらぬかれていることが自明ながら、その法則を観客が手中にできないときには、観客は語りの飛躍によって身体を切り刻まれることになる。このとき映画進行の隙間に瀰満しているのは、はたして虚無なのか悪意なのか。
映画の特有性ということがあるだろう。じつは親和性や馴致や共感や感情移入を剥がされた映画は、たんに連接を繰り返すだけの、機械状の冷たい語りにすぎない。ところがおなじ飛躍があってもたとえば怪談落語はことなるだろう。圓朝の『真景累ヶ淵』であれば語る圓朝の身体そのものが、語りに生じた飛躍を補填し、語られる内容は身体的に観客に迫ってくる。ところが圓朝の語りをそのまま模した映画なら、その本来の機械状と軋みあって、そこに現れてくる物語りの「穴」こそを、地と図の反転のように打ち出し、観客を了解の外側へ叩きこんでしまう。そこにエモーションがあったとしても、それらはみな圓朝的な実在ではなく、幽霊の営みにしかみえない。かぎりない齟齬(その魅惑)。それが西山洋市の27分の短篇新作『kasanegafuti』で指摘されるべき第一の実質だろう。そこでは俳優すべてに声音や抑揚が峻拒されて、映画がまやかしとしてもっている親和的な「物語り」が無化されている。それでも「物語ること」の要件がそのまま維持される奇怪な二重性はつらぬかれる。「関節」が裸出されるためだ。
西山洋市にはこれ以前にも「髷のない時代劇」として『死なば諸共』(06)という短篇があった。西鶴『諸艶大鑑』中の一篇に材をとったものだが、飛躍とエモーションという離反する対位のなかで、近松的な情動心中の、倦怠による変質をも射当てた大傑作だった(広津柳浪『今戸心中』と同等の出現価値をもつとおもった)。形式はこうだ。時代劇的な美術や衣裳の実現はおこなわない。ただしあまりに現代的な実在風景は忌避する。俳優の所作や科白は時代劇的に変化させるが、ただし完全に時代劇そのものにまでは移行させない。つまり「時代劇的なもの」が現在の意匠のなかに発現してくる齟齬・二重性がそのまま作品の形式となる。これは別段、西山独自の発明というわけでもない。たとえば吉田喜重は、現在の現存風景に何らの糊塗も加えずに、『エロス+虐殺』では大正を、『戒厳令』では昭和初年を撮った。現実のパリの夜を素材にして『男性・女性』で異星を撮ったゴダールも、何の変哲もない森林光景を樹木カリスマの支配浸食する恐怖の磁場だと俳優のことばで定義した『カリスマ』の黒沢清も、拡張解釈的にはおなじ系列に属するといえるだろう。
いつもながら西山の作法は多元的だ。まずは圓朝の『真景累ヶ淵』というオリジナルがある。これはもともと怨念をもって死んだ豊志賀の、「妻を代えても七人まで呪い殺す」という夫・新吉に遺したことばを累代にわたって実質化してゆくサーガ状の因果譚だ。西山はこの膨大な物語群からひとりに原案をつくらせ、そのパーツ完成を三人に依頼し、最後に西山自身がそれを綜合するという脚本形成過程をとった。圓朝の怪談から召喚されたのが、A「松倉町の捕物」とB「豊志賀の死」のくだりで、しかもそのふたつを前提的に牽引する要素として「宗悦殺し」のくだりが置かれる。Aで主人公新吉にかかわるのがお園、Bでかかわるのが豊志賀だが、このふたりは実際の姉妹関係であっても圓朝落語では同在しない。ところが物語は欠落と加算をほどこされてシャッフルされ、西山の『kasanegafuti』では姉妹同在による磁力発生が起こる。結果、「物語り」は『真景累ヶ淵』のテイストをたもちながらそのゆがんだ「別の何か」を刻々生産し、齟齬と類推の二重性にまみれてゆくことになる。この二重性が、意匠の現在性と内実の時代劇性の二重性ともパラレルな構造になっている――そう総括できるだろう。
これら二重性は了解可能な穏当さのなかには置かれない。いつでも亀裂を準備する。たとえば冒頭、沼のショットのあとは、原作の新吉から「真〔しん〕」となった主人公の古風な居宅のそばを、泣く赤子をあやしながら遠ざかってゆく若い女と、豊志賀から名を変えた「豊〔とよ〕」がすれちがい、その交代劇のうちにヒロインが定位される機能をもつのだが、泣き声をしめす音声にたいし、その音源である赤子が人形で代用されていることが露呈されていて、観客はリアリズムをどの審級に定めるべきかで途方に暮れるだろう。開巻直後からしてこうなのだ。あるいは画面に何の実質も描かれていないのに、妹・お園(映画中では「園」と呼ばれる)に懸想したとして夫・真を豊がなじる場面が二度でてくる。「バカ、バカ」というべきところ、オリジナルの「阿呆、阿呆」という叫びが踏襲されるのだが、これが無抑揚にちかいことによって、発語の人工性・違和感はどこにも回収されることなくただ宙を漂ってしまう。
圓朝怪談の前述AとBの段が相互嵌入、しかもそれらが「宗悦殺し」に上位牽引された結果の、脱論理の形成が映画『kasanegafuti』の「骨格」の性格となる。整理してみよう。真は豊に結婚を迫っているが、豊の父はそれを承諾していない。というか豊は父にその話を切り出そうとしない。なぜなら二人の結婚が父の死を呼ぶと豊が確信しているからだ。ところが父に会いにいって豊が不在中に、妹の園が真を来訪、父はすでに死んでいると告げる。いっぽう真もまた父が死んでいるはずだった。ところが育て親の叔父夫婦に結婚予定の相手として豊を紹介したのち、ひそかに叔父夫婦から真は意外な事実を告げられる。真の父は死んでいるのではなくじつは殺人罪で服役していて、その殺害対象が豊・園姉妹の父親で、だから真と豊は結婚できない、というのだった。ところがその衝撃(しかしそれは映画内の真の表情では何ら実質的には描出されていない)ののち、豊は「実父」を真の家に連れてきて三人暮らしをしようと提案する。ここで「実父」と紹介された男こそが、実際は豊ではなく真の実父だった(俳優の科白で説明される前に叔父夫婦がしめした真の父の写真によってその事実が判明しているのだが、その瞬間の「かけちがえ」による脱臼感は測りしれない)。
いま要約した「物語り」は、前シーンで確立された設定をすべて覆す、「逆接」の連続によってもたらされている。ところが意味的にそうであっても、映像的には速歩調ともいえる「召喚」が連続している。そこで観客の体感に生じた「穴」と、矛盾を何気なく補填してゆくような「語り」とが調整不能となる。唯一、調整に馴染むのは、物語りの法則が狂気によるという判断だろうが、映像は狂気という伏在領域の大仰な提示などおこなわない。この印象には俳優の発話の無抑揚と、余韻のない断言も貢献しているだろう。豊を演じた西山映画のミューズ・宮田亜紀(ほかの西山映画の主演作に前言した『死なば諸共』のほか、『桶屋』〔00〕、『INAZUMA 稲妻』〔05〕もあり、これから公開される内藤瑛亮監督『先生を流産させる会』でもヒロインの女教師を演じている)は、たぶん眼光をはじめとした顔の造作の「表面性」だけでエモーションをもたらす特質がある。つまり彼女は何事かが決意された事後として作品に登場しながら、そのありようが常に空虚な幅でしかないという得難い二重性なのだった。この二重性の自己展開能力によって、そのままでは空中破砕されるべき映画の「物語り」が、いわばゼロ度の厚みをもって圧延されてゆく。観客はこの意外性を見守るしかない。
豊=宮田亜紀には、夫・真が妹・園に懸想したという疑念が手伝ったのか、顔の左半分に大きく赤紫の痣が生じる。作品の流れはいましるしたように陥穽=意味の穴が横溢しているのだが、そこにこそ補填されるのがこの痣といっていい(それは圓朝のオリジナルの用語に敬意を払われて一度は「腫れ物」と表現される)。じつはこの豊の痣とおなじ痣が真の実父にもあって、それがその男を実父と信じる豊の根拠となっているようにもみえる(むろん作品はそうしたことを一切説明しない)。『真景累ヶ淵』は累代にわたる呪死の実現が主人公の世代が変わっても貫通してゆくサーガだ。「累積」は時間軸上の「反復」となるが(「累」ということばの本質的な怖ろしさ)、累代の流れを圧縮した映画『kasanegafuti』では、「反復」は空間上に転位され、痣の(豊と、真の実父間の)「照応」となる(デュラス論をものしたクリステヴァなら、時間上の反復は、空間的には「重複」へ翻訳されると綴る)。この照応が累代反復と同様の強度をもたらし、結果、箍の外れた物語りはこの局面の恐怖によって有機的な連続性を生ずる錯視がもたらされる。厚みのないものへ厚みを錯覚すること。ということは、もう「穴」という、厚みを想定してはならないものに、すでに厚みがあったのではないか。「痣」の正体とはそれだ。
しかも痣の人物への出現は、この作品の意味的な穴だらけの物語りと「照応」するようにも恣意的だった。豊の痣が消えると、おなじ痣をもった真の実父が画面上に召喚され、真の実父が死ぬと、いったん痣の消えていた豊にまた痣が再臨するのだった。これを「照応」や「召喚」といえるだろうか。実質は意味化を逃れるための消滅/出現のシーソーゲームにすぎないのではないか。この遊戯性を直視すると、悪因縁以外に根拠をもたない豊-真の実父の対に、一切の相互類推が混在していない感触が得られる。観客は「虚無を観ている」直観にいたるだろう。同時にこの痣は女のもつ「おぞましきもの=アブジェクション」(クリステヴァ)が時間的には反復として、空間的には重複もしくは反映として再帰する恐怖の徴候ともなっている。
西山演出のすさまじさは穴だらけの画布のうえに、このように二重性を二重化させる点にある。このことは豊-園の姉妹の対でも起こる。表面が表面であることによって苛烈なエモーションを生じるという意外性は、じつは豊のみならず妹・園にも起こっていた事態だった。余韻のない断言は彼女のものでもあったのだ。演じた名久井菜那もまた至宝のような女優だとおもう。この増村保造映画的な特徴は、園=名久井の場合、加藤泰的な化合もあたえられている。彼女の前髪はほとんどいつも横にながれて彼女の右目を隠しているのだが、この典拠は加藤泰『緋牡丹博徒・お竜参上』冒頭の、藤純子の限定的な片目の強調に端を発しているのではないか。しかも前髪による片目の消去は、すべてのはざまでゆれつづける主人公・真をときに襲う設定でもあった。ならば作品は痣か前髪によって「顔の片側」が変質か欠落した者同士の、引力と斥力を点滅させた接近/離反の劇に終始したということにもなる。
こう書くと、名手・芦澤明子のカメラは異常性を強調したとおもわれるかもしれないが、実際、異常なのは撮影ではなく、飛躍を繰り返す編集のほうだ。芦澤は「俳優表面」がそれでもエモーションを生じるように、一種の空間的空白のなかに的確な距離感で俳優身体が入る距離を終始選びとっている。俳優を「見つめる」だけではない。参照系も導入されている。ふとおもったのが成瀬巳喜男だった。真と園の同道を後退移動で継続的に描写してゆくくだりの『浮雲』との共通性、玄関の引き戸が引かれそこから豊の姿が現れる際の『晩菊』的な縦構図の光。こうした撮影の整合性はしかし、作品全体にわたるヤバいものの横溢を何ら馴致しない。作品の多元性は終始たもたれていた。
映画『kasanegafuti』の結末にいたる流れはここに書かない。ただし脱論理ではじまった作品だから、回収なき回収という、最も正しい措置が期待され、西山は見事にそれに応えたとだけは言っておこう。このばあい物語りだけをみてもたぶん「回収」が感じられないかもしれない。これをもたらすのは、沼へのショット、赤ん坊、「阿呆、阿呆」と同等の豊の発語上のキーワード「うるさい」など、多様な細部の再登場だ。物語りと映像が二重性を終始保ったからこそ、作品ラストもそのように「回収」にたいする奇怪な転位を実現できたのだった。
本作は「コラボ・モンスターズ!!」興行の一貫として、5月12日よりオーディリアム渋谷にて、高橋洋監督『旧支配者のキャロル』、古澤健監督『love machine』と併映されます。
手作業のこと
【手作業のこと】
手作業はそのゆるやかさによって手もとを溶けてゆく。もともとそこにあった遅速の別も消され、最後にとまった秤だけがのこる。はじまりはいつも諸風であって、複数を単流に均す全身はふるえをかくしていた。それでも眼下をとおくなすこと。あらわれる平坦にじつは最高もひしめいていて、鷹の悦びさえわかる。
松林要樹・相馬看花
森達也ほか四人の共同監督による『311』は、東日本大震災後、拙速で福島原発事故の立ち入り禁止区域から津波被災区域までを縦断した。準備不全、わが子が行方不明になった母親たちへの「不恰好」なインタビューなどによって、「公益性」のある記者クラブに属していない(それは物量性・機動性・文脈形成性をもたないということでもある)単独撮影者たちが陥る閉塞を、被災地の生々しい映像とともに観客に押し出した。それはそれで意義があった。
かつて大島渚は「来なかったのは軍艦だけ」といわれた東宝争議で、撮影所に立てこもった映画人たちが自分たちを圧殺しようとする権力をなぜ正視して撮らなかったと難詰したが、そこからたぶん歴史的に「何よりもまず撮る」営為の重要性が立ちあがっている。ただし『311』では、被災地の現実転写「とともに」、撮影に赴く自分たちの無力の定着が主眼となっている。つまりそれはセルフドキュメンタリーでもあった。被災地の現実を透明・多元的に撮る伝達性が第一義だというのが撮影「倫理」だとすれば、それを「自分たちの」セルフドキュメンタリーの問題に反転・矮小化してしまった同作は、撮ることの権力性に無自覚な傲慢が裏打ちされていたという意見も出る。結果、多くの非難をあつめることになった。この意見もまた至当だろう。
その『311』の共同監督のメンバーに松林要樹(監督作にドキュメンタリー『花と兵隊』があるが未見)がいた。彼はじつは『311』への参加以外に、ずっと原発事故被災地に拘泥してドキュメンタリーを撮り続けていた。拠点は、福島第一原発から20キロ圏内にある南相馬市原町区江井〔えねい〕地区。たとえば彼は線量計の警報音によって「当地」にわるい選別が起きるような仔細を一切映像にしない(『311』にはそれが横溢していた)。ただ「ふつうの」人を撮り、そこにある人的紐帯と土地に収蔵されている歴史を撮り、そのなかから人びとの身体的違和、郷愁、死んだ者に向けられた哀悼など、サウダージとも共通する複雑な感慨を捉え、「禁区」とは何かの考察へと「間接的に」迫るだけだ。
「私」の捨象。結果、映像はいったん透明化を実現し、しかもその透明性が多元化することで人間的な感興も湧きかえる。「聡明性」の欠如を「演じてみせた(?)」『311』の監督たちのひとりでもあった彼は、一方で「私」の捨象によって透明性が簡単に実現できることを、こつこつと撮りためた映像で実証した聡明な撮影者だった。
松林にあるのは、『311』の監督たちに伏在していた(不全な)主体性(彼らのからだは重たかった)ではなく、主体性放棄のあとに生じた移動の自由だろう。松林の運動神経のよさは、東京の三畳アパートの居室で、3月11日午後2時46分の地震の瞬間をすでに咄嗟に手持ちのビデオカメラで撮っていたことからも窺える(とうぜんそれでこの映画『相馬看花――第一部・奪われた土地の記憶』の開巻が決定された)。外界刺激にかぎりなくひらかれている、繊細な受動性にみちた躯。それは彼のカメラが南相馬に赴いたとき地元の人びとの方言の横行をもゆるした。松林は、可聴性が低くなっても発語の真実を捉えようとしたのだろうが、一面では撮影主体である彼が透明性・親和性を地元の人たちにたもっていたからそれが実現されているとも判断されてくる(小川プロの作品をおもいだした)。そういえば『311』での、わが子が行方不明になった母親たちは、標準語でインタビューされたがゆえに、すべて標準語で答えていたのだった。
図式としてはこうなる――遊撃性の獲得は『311』のような直行通過形式では実現されない(いわば『311』は線量計の警戒音と瓦礫の物質性が織りあわされ不調なドリルのように穿孔する。この機械状と相似なのはミイラと幽霊が織りあわされて死の決定不能性に突き進む黒沢清の『LOFT』だろう)。一拠点にとどまって放射状的・波状的な行程をくりかえすことで「模様」としてしか、遊撃性はうきあがってこないのだ。なぜなら「土地」は線的ではなく面的な拡がりであって、この拡がりなしには土地がふくみもつ過去への遡行も疎外の定着もままならないからだ(これを劇映画で実現したのが『サウダーヂ』ということになる)。
中間項に松江哲明を置いてみよう。松江の諸作は震災定着にはかかわらないが、「無様」を前面化した『311』よりもずっと遊撃的だ。セルフドキュメンタリーの代名詞的存在だが、彼の「自己=セルフ」はいつも定着性と非定着性、その背反の「あいだを縫う」。それが遊撃性の別名ともいえる。松江はそうして直線ではなく、折れ線に富んだ関係的な「線」を作品に時空化してゆく(こうして松江作品の最大の形成要素が「編集」となる)。この流儀は『相馬看花』の松林ももつが(禁区に入れない松林が、作中の一時帰宅をゆるされた田中久治さんに動画撮影を託す場面があって、それは松江に特徴的な技法、隠し撮りならぬ「託し撮り」のあきらかな継承だろう)、松江がけっきょく折れ線の流れを高度に音楽化するのにたいして、松林は「面の拡がり」という、撮影にとってはほぼ不可能なものに肉薄してゆく。こうした不可能性にたいする対峙という点で松林は崇高なのだが、それでも松江同様の、あるいは一部の作品における佐藤真や小川紳介や土本典昭同様の、ユーモアをも出来させてしまうとき、松林の「聡明」はもう明らかだろう。
松林が作品の当初、警戒区域の撮影を難なく実現できたのは、田中京子さんという南相馬市の市会議員と知遇を得る僥倖があったためだ。彼女の「同行者」として松林は自由にクルマで移動してカメラを回すことができたが、たえず田中さんの行動に「沿って」、記者クラブに属していない個人撮影者が「すべてを撮る」、その全能性に淫することはまったくない。むしろ彼は部外者たる「自分=セルフ」には撮れないものがあるという精神の謙譲をたもっている。
この証拠ともいえる一節がある。田中さんやその幼馴染たちが地元で経営した直売所「いととんぼ」の津波被害確認に松林が同行するシーンがまずあるのだが、そこで何度も話題になるのが共同経営者のうち唯一津波で亡くなった「えいこちゃん」だった。「いととんぼ」にはまだ販売されていた生花がつややかにのこっていて、仲間たちはそれを「えいこちゃん」の死亡地あたりに献花する。それはそれで哀しい経緯なのだが、最も悲劇的なのは、「えいこちゃん」がその夫とともになぜ死んだかという、のちの事実の判明だった。彼女は地震直後、母親からの電話で、振動で家のなかが目茶目茶になったと連絡を受け、その整理のために家にもどって津波に巻き込まれたというのだ(母親は迫りくる津波から無事避難した)。その電話をかけなければ逆縁が生まれなかったという母親の慙愧は、作中では伝聞として語られるのみだ。つまり松林は「えいこちゃん」の母親をつかった「可視化」など眼中にない。かわりに、さらにのちのシーンで「いととんぼ」の掃除にきた女性たちのようすを捉え、そこから発見された「えいこちゃん」の泥まみれの預金通帳を大写しにする。「えいこちゃん」はそうして換喩的な「面」へと還元(もしくは昇華)された。悲劇的物語の明示ではなく、端的な「面」の提示のみをおこなうこうした選択こそが、松林の撮影行為の謙譲性だといえる。だからそれは「母親の慙愧」を奥行に想像させるとともに、松林の全能性停止をも照らしだして、「二重に」観客へ情動をもたらすのだった。
むろん「面」は人間の生活のなかでは立体化される。この立体化の展覧を、被災者たちの身体性へ有機的に連絡させたから、『相馬看花』は多元的な透明性にいたったのだった。じつは作品が中心化するのは田中京子さん・久治さんの夫婦、彼らの隣人で仲人をもつとめた末永さん夫婦、避難所生活を拒絶し、当初、警戒区域内にいつづけた粂さん夫婦など「市井の人びと」だった(TV報道で著名になった南相馬市長は一瞬、画面に映るだけだ)。とうぜん彼らの時期ごとに変化する居住地が画面に続々と舞い込んでくる。いろいろなことがわかる。田中夫婦・末永夫婦の当初いた、女子高に設けられた避難所の、地縁者同士であることが実現させた、実際の空間的親和性。やがて避難所からの退避命令が出て、末永さんが移った温泉旅館では、清潔すぎる違和感が表明される。さらに彼らが移った仮設住宅はそこに旧知の人びとが招かれるとはいえ手狭で逼塞している(このような漂泊を誰もがしいられた点に慄然とする)。
とりわけ息を飲んだのは、酒好きの粂さんとその足の不自由な妻が、退避を拒否して当初いつづけた家屋の光景だった。彼らはライフラインが途絶した状態のまま、ペットボトルの水、ガスのかわりの炭の使用、電気なしのための昼間生活で、日々をしのいでいる。揺れによる狼藉、あるいは倒壊のかわりに、そこには生活特有の「雑然」が維持されていて、彼らの居住空間はじつは「不自由と親和」の混淆と映る(これがじつは警戒区域そのもののもつ、最初の空間的特徴だったのではないか)。やがて粂さんの福島第一原発での勤務実績が明らかになって、当初、謙譲をあらわしていたカメラが、彼らの生活空間の奥に入ると、粂さんの勤務の節々を讃える公共機関からの表彰状で壁の一面が埋め尽くされている部屋があるとわかる。「面」の重畳。ところがそれはいまでは栄誉ではなく亡霊性の指標にしかすぎない。当初あった「不自由と親和」はそこで残酷にも「嘘寒さ」へと反転してゆく。肝腎なのは、このことが二度目の撮影で判明する、謙譲の過程もここで浮上しているという点ではないか。
松林は「面(それを契機にした立体)」を作品の時空に重畳させてゆくが、それらが関係性獲得ののちの、あるいは住民が変化をしいられたのちの「遅れ」として現れる点こそに、時空顕現の本質にかかわる美点がある(拙速性の拒否)。しかもそれは「えいこちゃん」の母親の像の欠落、「えいこちゃん」の預金通帳の代位といった欠落をもかたどった、終始有機的な(つまり「生きもの」のような)立体展覧なのだった。『311』の「直線的な」時空的怪物性はすべて回避されている。それでも製塩とタバコ栽培と半農半漁で生活を立てていた南相馬地区が近隣の福島第一原発設立で変貌を被った経緯に、しずかな告発を差し挟んでいる。福島第一原発の立地は戦時中の小規模な軍事空港だった。それが猪瀬直樹『ミカドの肖像』に書かれたのと同様の手順で堤康次郎の西武資本に払い下げになったのち、東京電力へと転売されたのだった。高度成長に相即する「ひずみ」を一身に受けた地元。「相馬野馬追」に代表される土地の豊かな記憶(これも作品終幕で「慎ましく」映像化される)ののち、土地に出来したのはこのように殺伐とした記憶だけだった。これにあらがうようにたとえば女たちによって直売所「いととんぼ」が設営されたのだとすれば、それすらも壊滅に追いやったのが今度の震災だといえる。ところが作品はそういう判断を間接的にもたらすものの、ひとの顔の面、ひとの住居の面をひとまず前面化して、観客を人間的至福につながる注視と聴取にこそ導いたのだった。
最後に、警戒区域という「禁域」は何かという形而上学がのこる。通常、「禁域」は権力がつくりあげる結界だ。この新しい禁域にあるのは放射能なのだが(それが禁域特有の「象徴」ともなる)、同時にそれはこれまでの禁域になかったものも包含させる新しさをももっている。それまでなかった何が包含されているのかといえば以下だろう。人の不在(それでもそれは当初の粂さん夫婦にみられたように完全な不在ではなかった)、不自由(それでもそれは親密さをももつ)、廃墟性(それでもそこで生活は営まれた)、行政指導性(それでもそこでは指導に違反して居住する者がいた)、記憶の崩壊(それでもそこには泥まみれの預金通帳など記憶要素が数々残存している)――。禁域とは絶対性の発露する場であるはずなのに、この新しい禁域は、いま括弧でしめしたような留保性を温存する、人間性と中間性の脈動する場でもあった。
松林要樹『相馬看花』第一部はまずはそれを「面」の連接として撮った(この文脈でとうぜん写真のいくつかの印象的な使用や、小高神社の鳥居の石板、田中家の仏壇をひらいた奥面の顕現などもある)。これが今後、政治判断で完全に禁域化されるのかどうか。とりあえず松林が定着した南相馬の禁域の無人場面では、そこが圧倒的な中間性にすぎないというように、主人から見捨てられた飼い犬が徘徊し、桜が満開だった。
5月26日より、オーディトリウム渋谷にてロードショー、ほか全国順次公開。
青髪
【青髪】
わたしには青獅子が隠れていた。それでゆれる青髪となって、くみしいたひとを流れさるまでにぬらした。水の属性にして、斥力をふるう不吉があるという。眼も黒ではないという。だからすぎゆくことが内にあるとして、川べりには、くみしいた鳥がかえって網のようにあふれた。
蜜蜂
【蜜蜂】
ゆるやかさとはねっとり蜜のながれることだ。陽にきらめく瀞をおもわせる群れがおおきくとおりすぎた。そのうごきにみえたあらゆる巣穴を、わたしは時のすきまとしたのか。春。翅のスローモーションは日々の通過を、こころにわだかまる盲目の光景にかえてあふれた。
すくなさについて
【すくなさについて】
みずからの記譜をしてみると、ただよいの数のすくなさにおどろく。みずうみになれない水のようで、その水の影に藻をたずねるしかない。すくなさはやがてふえるのではなく、すきまを透視させるままだ。うごくとそれがわかり、あるいて透けてゆく朝は、たどる場のすべてがみぎわにもみえる。
朝
【朝】
タオルをつかうことから、きみの一日は手折るでも倒るでもないあいだの魔法にとけてはじまる。そのぬれた顔はだれのもの、水やひかりに。やがて部屋のなか、ひだまりをみつけてきみは、からだの刺繍をなめらかにつくろい、鏡にうつるようになってゆく。一体にしかすぎないしぐさがふくらむ。
本というものは…
金曜日にようやく書架、食器棚、本、皿をはじめとしたもろもろが入って(引越し繁忙期の高値を避けた結果だ)、しかし金曜日は初教授会と歓迎会だったので翌土曜・日曜と本の詰め込み、ビデオカセットの並べなどをおこなった。両日とも朝から夜まで一心不乱の作業で、さすがに今朝は疲労困憊気味、重たい段ボールを運んで腰も若干疼く。
平積みにしてあって泣き別れだった同一著者の本をちゃんと隣接させるのは嬉しい。かんがえてみるとメトニミーの大きな内実というのが「隣接」で、よってそれじたいがエクリチュールにちかいのが本の収蔵だった。一著者と別著者の間も隣接相似関係。のちのち本を探すときにリファレンス能力を高める必要があるから、この隣接に基づいた分布をあだやおろそかに扱うこともできない。スペース上、前後二段に収めなければならないときの基本は、同一著者を前後にして、重要(引用するかもしれない)とおもう本を手前に置く。むろん棚板は四六判を置ける段とA5判を置ける段とに大別せざるをえず、そうなったときは探しやすいように上下に同一著者の本を置く。
「隣接性」を測るのは難しい。たとえばプランショのそばにバタイユを置くかどうかで二転三転した。バタイユは複数の書架のなかに確定するまでうごきつづけた。けっきょくフーコーのスペースが拡がって、バタイユはプランショと泣き別れになった。ことほどさように、書架への本詰めはパズルの様相を呈していて(これはビデオカセットも同様で、しかも大学授業の参照になるものはこれまた奥に置けない)、それで結局まる二日を費やしてしまった。肉体労働だったのは無論だが、高度にストレスフルな頭脳労働の側面もあったわけだ。
やがて気づく。同じ書架なのに、どうして前の住居にはあれほど本が「入って」いたのだろう。女房がいう。書棚の隙間(最大限に活用されていた)や手前や上部(上部にかんしては女房の本棚への占拠もあった)への平積みが実際は大量だったのだと。それで同じスペースのはずが今度は入らない。結局、80年代のミニシアター黄金期の充実していた劇場パンフレットを中心にしたパンフコレクション(ほかに試写のプレスリリースもある)の書架詰めを諦めてしまった(「パンフレット」と書かれた段ボールは未開封のまま)。パンフレットについてはたしかに捨てようかどうか迷った。ただしシナリオ採録と監督をはじめとした関係者インタビューがのちのちリファレンス対象になるかとおもったし、当時のパンフはのちに良い値で売れるのではないかと女房もいい、のこしたのだった。あれはアイウエオ順に並べるのも二人がかり以上の苦労になるし、ずっと段ボール未開封のままになってしまうかもしれない(もうスペースがないのだ)。どうしよう。
それとCDを詰めた段ボールも開けられなかった。これも以前は本の隙間や手前にバラバラと適当に配置していたのだが、その隙間や手前がなくなったので、いま取りだすと床のうえに散乱して収拾がつかなくなる。これはしかるべきCDラックをニトリ(じつは札幌発祥の企業だそうで、バスにのるとかなりちかいところに札幌一といわれる大型店舗がある)にいずれ買いにゆこう。ともあれ本詰めなどは現段階でやれるところまでやった。未開封の段ボールは10個強、というところまでなんとか辿りつけた。それでも家にどうしても本が入らず、研究室に都合六箱の段ボールを送る羽目になった(研究室は目算よりも多く本が収蔵できると気づいた)。研究室に向かったのは映画以外の著作もある著者の映画本、サブカル本、写真集、社会学関係でサブカルやネットメディアに言及している本などだ。
水曜午前には片側が裸の壁だった研究室にももうひとつの書架が入る。よってまた詰め込みだ。
メトニミー
深更に起きて、もとめられていた北大ウェブサイト中の「自己の研究説明」などを書いていた。「映画+サブカル研究」に「詩歌論」が接続されているのが、まあ、ぼくの特徴といえる。むろんこのふたつは通常では結びあわない。そこで、研究キーワード(五語)のなかに、「メトニミー=換喩」を入れてみた。ロラン・バルトへの意識がある。
メトニミーとは、部分や一特徴などをもって全体を指示する喩法。「葵の御紋」で徳川家を、「学帽」で大学生をあらわす、などと辞書的に用例が定められているが、実際はこの用例提示では不全だとおもう。何ごとを描くにも完全に対象に合致することばがないという絶望が即座にメトニミーを召喚する日常経験が抜けているし(表現は必然的にねじれる)、表現のあらわれは詩文でも映画でも、眼下眼中にしている現働部分への注視から離れず、この「部分」が刻々伸長して最後に「全体」が確定するから、実際はすべての鑑賞が「メトニミー」機能をつうじて実現されている、という着眼も落ちている。映画のカッティングによって一人物の手と顔に画が分断されたとすれば、手は顔(中心)のメトニミーとなるし、詩篇のタイトル、あるいはそのなかの一行は、詩文全体のメトニミーとなる。
構造のうえでそれは当たり前ではないか、とおもわれるだろうが、シミリー=直喩が相異なるふたつを「AのようなB」という明示で架橋し、結果的にはAとBを融解させる機能をもつとするなら、明示の明白性があっても起こる事態は変容的、といえる。いっぼうメタファー=暗喩は、おもに併置のなかに膠着をつくって、表面の修辞に、「真にいいたいことの奥行」をつくる。ここでは提示→解答の直線性が胚胎しても、実際は表現平面を晦渋に立体化し、その分子的組成を脱単純化する変容が付帯する。シミリー、メタファーのこうした変容性にたいし、メトニミーはたんに加算「構造」の集積を現前させる、いわば殺伐とした無変容にすぎない。しかし「意味」よりも「構造」を、「読解」よりも「語や画柄への物質的注視」を導くという点で、メトニミーへの意識こそが、作者を離れて「作品」を手中にする(生きなおす)手段となる。メトニミーの精神性は、「けっして対象を要約しない」ことになるし、さかしらによって作品を裁断しないということにもなるだろう。作品が存在しているとは、端的にいえばそれが不断に展開しているメトニミーに気づくことなのではないか。この意識が冷静な構造把握の一歩手前にあるものだ。そしてこの意識によって、たとえば映画鑑賞と詩の読解のありようが同一になる。
メトニミーをキーワードのひとつにしたのは、そんなわけだった。メトニミーは部分をけっして全体に従属させない。むしろ、部分の総和が全体を超えたり、全体をつくりあげないという、最終的には「変容」に向けた予感をつくる。細部に惑溺して全体を取り逃がしてしまうような不全、意気阻喪が実際は前提されているといってもいい。たとえばそれで「恐怖」も、シミリー、メタファー、メトニミー、(さらにはアレゴリー=寓喩)、そのすべての表現方法に親和的だということができる。
キーワードでは「メトニミー」「メランコリー」と、吉岡実の詩篇のように「メ」の頭韻を踏んでみた。メランコリーはぼくの理解によれば、たとえば「愛」「愛の不在」、あるいは「あのひとは死んでいる」「死んでいない」のような「規定の対蹠性」によって、心的活動が膠着してしまうことだ。ところがそれは認知の一点に「層」をつくり、いったんその層は個体にたいし創造をおこなう。だがやがて個体はその層から蚕食をはじめてしまう。この蚕食と創造の関係も、メトニミー的ととらえることができるかもしれない。
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研究室に書架、机のみならずパソコンが未納なので、研究費の使用など、サイトに入っての学校上の作業が一切できない。そのかわりに自宅アドレスに学校からの要請が次々飛び込んできて神経症に陥りそうな、「不全な」毎日だ。とはいえ明日には旧宅から書架や本その他の荷物が自宅搬入される。週末は書架の整理に追われるだろう。それでたぶん来週からいろいろな不全が改善されだすとおもう。あとすこしの辛抱だ。ともあれ昨日の初授業は、つつがなく終わった
仙川
【仙川】
知ることなくみているまなこがあって、そこにおびただしい落花がうつっている。銅銭でゆけるところまでゆく馬車の客のようにもなって、眼はどうするのか。みなおなじ、という感慨がさらに身辺へ黄泉を寄せ、さくらのほんとうのいろが、そのひとのこころに蒼白となる。
馴れ
札幌に引越して一週間余。いまだに慣れないのが、たとえば以前とはコンロとシンクの左右が逆になっている、など、炊事に代表される生活導線の変化だが、対応力がなかなか形成されないのが年齢というものかもしれない。ところがアタマはカラダとちがう。こっちはすぐに慣れる。昨日、詩文庫の『続・伊藤比呂美詩集』を読んでいて、苦手だった比呂美さんの詩(新鋭詩人シリーズの詩集のみ愛読していた)に「その場で慣れてゆく」自分に気づいた。説経節的「語り」、ジェンダーの混乱、草木、獣性、粘性、既存の歌からの転用、散文と詩の境界消滅、フラグメント化しないのに成立している多元構造など、仕掛けが手にとるようにわかってくるが、リズムがそのまま読者を馴致させてしまう構造の包容力が、比呂美さんの「生」と直結しているという信頼が大きい。そうか、ぼくはやはり新川和江から暁方ミセイまで連綿とつづく女性詩の雅調に魅せられていて、比呂美さんの乱調的迫力の吟味が後回しになっていたのだな。しかしいつ彼女に免疫ができたのだろう。やはり『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』からか。それにしても『続・伊藤比呂美詩集』の編集は全貌明示性もしくは均衡性を排除した偏奇な編集というべきかもしれない。近々、詩集と著作単位で90年代以降の伊藤比呂美作品を体験してゆこう
偏西
【偏西】
風には長短の別があって、それが風の尾にはいったとき人の視界を青ませる。なにごとも長短の揃わなさがそのように束として青いのだが、「人行きて人に似たり」は、青の争う静けさにつつまれてこそ、風裡に成り立った。偏西。春以前は見え隠れするものに格別な色がある。
バリエーション
引越し後の家のなかが、書架も本も(オーディオもビデオデッキも)ない黒沢清的「がらんどう」だとは前言したが、前住所から本の届くまでのつなぎとしてもってきた本が中公クラシックスの『スピノザ』(『ライプニッツ』が素晴らしかった余勢で買った)だったりちくま文庫のテーマ別『カフカ・セレクション』全三巻だったりして、単身赴任開始直後の不安にたいし重たすぎるのも問題だった。それで昨日は学校(ガイダンス出席)の帰り、大通のジュンク堂に行って、軽く読めるエッセイや詩集などを慰めに買った。最初にひもといたのが荒川洋治『詩論のバリエーション』(学芸書林、初版は89年)。80年代後半、まだ詩論を、別角度を用意して「熱く」書いていた頃の荒川さんの、それでも素軽い詩論集。レトリックの「工夫」は花田清輝をどこか髣髴させながら(立教最後の年の二年次演習の題目が花田と荒川さんだった)、それでも全体は当時の荒川的な「不敵な飄逸」と渾然一体となっている。思考方法じたいに数々の創見があったうえで、まだ詩のディレッタントの構えが崩れていないから細部いろいろが目覚ましい。男性化・過剰論理化しないから「余白」もあって、詩論のことばとしての荒川的理想がつらぬかれているのに唸った。いまごろ初読とは恥しい。このことばづかいをもっと早く知っていればよかった。ぼくの詩論も変わっただろう。またこの本の語りの方法がもっと普及すればよかった。大きくいうと女性以外、90年代を領導した日本の詩論は男性的に硬直していただけだった(むろん藤井貞和、辻征夫などの例外もあるが)。荒川『詩論のバリエーション』、若いひとにはとくに必読だとおもいます、文字どおり詩論には「バリエーション」があってしかるべきなので
斜方
【斜方】
ななめ上、というのは、囲まれた場にあってどうしてひろがるのだろう。このほぐしは、頬骨のなかの泪壺がそこへ光を放つからとしかおもえない。むろん日々の哀調は、身ひねりのたりなさと副う。窓外の雪。それが耳穴にはいってこないのが不思議なまま、顔のあることがつづいていた。
依田くん快挙
連詩連衆で、ぼくの授業にも飛び入りするなど、つきあいのふかい「詩仲間」の依田冬派くんが「現代詩手帖賞」をとった! 散文形饒舌を抑制しやわらかい改行形になった、このところの実力と入選実績からいってとうぜん予想された受賞だが、やはりめでたい。東京にいたら、個別に飲み会を企てるところだ。依田くんは、去年の「詩手帖」投稿欄での「きみの鳥もうたえる」以後、ピークに達したとおもう。四月号掲載の「春の小川」も良い。映画だろうか、なにかを記述の典拠にしているようだが、ぼくにはつかめなかった。それでもその疎隔感が思い出のように「遠いものが身近ににじむ」身体的悲哀をうみだしてゆく。この感覚は行の渡りそのものにもある。「愛」がえがかれている点には新境地が感じられた
手神
【手神】
ひとりとは、自分のてのひらのやわらかさに自身をつつむことだ。手のかたちのまま札幌駅をとおりぬけるすがたが、とらえられてゆく。にぎろうとして溶ける雪は決してふれえないが、把持にまつわる愛着の関係がそこにある。雪空をみあげているのは、わたしの何の器官だろうか。
ようやく…
札幌に引越しして、ライフラインや電話をつないでもらったり、日常品を買ったり、電気製品が運ばれてきたり、転入届を出したり銀行口座をつくったり、てんてこ舞いの数日。またもや女房が大活躍中です。あ、ネットもようやくつながりました。しかしあすから学校とは信じられないなあ(辞令交付、研究室への荷物搬入その他)…