ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

うごきの曲率

 
 
【うごきの曲率】


南21西8、みずからにむかおうとしてまがる市電が、ゆうぐれのふかい凹凸をつたえる回転原基となることがある。あれは光景の箱襞。けれども刻々のこされてゆくレール軌道だけは、おのれの効果をおのれの原因にあたえる、そのつめたい底をかくさない。
 
 

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2012年06月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

風間志織・メロデ

 
  
毎週水曜5限は院生用に「90年代前半日本映画論」講義をおこなっているのだが、リレー授業でのぼくのテーマ「女の子映画」の余勢を駆って、若干反則だが昨日は89年に公開された風間志織監督の『メロデ』をとりあげたのだった。ものすごく好きな映画。8ミリ作品なのに100分を超える映画。サウンドトラックも完璧に具備されている。8ミリ映像における「事物」の、内側にむかって眠るような夢幻的な質感が画面に終始、花開いている。

「アキラ」(伊藤亜希子)、「ヒーちゃん」(小峰仁巳)、「クン」(松永久仁彦)がいったん関係に描きだした「幸福な三角」が、どのような邪心と偶然と不作為によって瓦解するかを描く「冷徹な映画」ととりあえずは総括できても、作品にあふれている植物模様(アラベスク)とヨーロピアン・ニューウェイヴ調のクラシック歌曲がもたらす甘く哀しい雰囲気がわすれられない。89年の「等身大」が精神的に画面に定着されている。

むろん撮影対象の微細と、画面への人物の置き方の天才的な「適確さ」によって、その後の日本映画の趨勢をつくった作品だ。つまり89年は、スタジオシステムの刻々の崩壊予感のなかで、北野武という「異業種監督」、阪本順治、瀬々敬久らの「自主映画経験監督」の劇場デビューした画期として知られるが、風間志織『メロデ』の存在も大きかった。劇映画に自主映画的なものが還流したその後は、大きくはふたつの潮流をなす。つまり、瀬々的な風景の解放と多数化、鬱屈表現が「アジア同時性」にむかったのにたいし、女子的な「自体性」が組織され、そこから「疎外態でない身体」の内密性がどのように微弱電波のような身体ドラマをつくりえるのか、という分流だ。後者の着眼の嚆矢になったのが『メロデ』で、このことによって「映画史」はじつは成瀬巳喜男的なものを身体表現の象徴系と合体させた。『メロデ』がなければ、矢崎仁司『三月のライオン』も田尻裕司『OLの●汁』も存在できなかっただろうとおもう。

「成瀬」と書いたが、ふたりの人物を画面に収めるとき、風間志織の画角決定が並列や90度配分の座りの全体をまずとらえることが眼につくだろう。その上で演技により頭の位置に高低変化がもたらされ、しかもカット割で一人物への画面限定が起こり、そのリズムが編集されてゆく(成瀬の参照は、室内の奥行きをしめす縦構図で、俳優のうごきからどうリズムをつくるかでも成し遂げられる)。同時に89年当時、「知るひとのみの神」だったエドワード・ヤンの参照がたぶんあったはずだ。可視明度ぎりぎりの光量のひくさのなかに俳優を置き、設定された光源からの逆光構図によって身体の輪郭のみを光らせる。「コロナ状」の人物の蔓延。それは身体の物質性の明示であるとともに、身体の潜在的な逆転力を画面に刻んでいる。

風間志織が『メロデ』の主要三人物を罰しているとすれば、それは彼らが「はっきりしない」からだ。「アキラ」はおそらく自分の邪心を最終画面になるまで、意識していない。「クン」は混ぜ返しとおどけが自分のやさしさから出ていると知っていても、運命の方向変化にたいし錯誤を演じてしまう。そのなかで「アキラ」のマンション居宅の留守番でいた「ヒーちゃん」(彼女は仮住まい者であり、メッセンジャーであるという、中間的な存在性を最初、負わされている)がそこに風呂をもらいにくる「クン」と知り合い、やりとりをかさねているうちに、俗にいう「好き好きモード満開」になっている。この幸福感をむろん彼女の「心」は知っているが、脳髄的理性はそれにたいして分析をおこなわない。つまり、『メロデ』は幸福感こそ痛ましい、という逆転的認識をもつ作品なのだった。

「成瀬」の参照は、画面への「植物性の導入」にもあらわれている。蓮実重彦の断定に反して、「世界で最もうつくしい木漏れ日」を描いたのは、成瀬の『歌行燈』ではなく『鶴八鶴次郎』だったはずだが、いったい木漏れ日によって身体に刺青のように植物模様を刻印されてしまう人間とは何なのか。ヒントになるのは「植物は苦しみのなかに終始ある」というラカンの考察、あるいは「植物とは音楽の最終形態である」というニーチェの直観だろう。木漏れ日によって何度も身体を模様化された「ヒーちゃん」は自分をとりまく本質的な受動性を「苦しみ」として総括できない。それどころかたとえば身体部位で最も植物性の高い髪の毛を、その湯上りの濡れ髪の状態で「アキラ」と併置される忘れがたい2ショットアップ画面で、動物性と対比されて自己定位が不可能になる。規定不能のものとして身体=存在がある、というアポリアを、身体が解決できないのだった。

「ヒーちゃん」自身は着ている服にも自室にも植物模様がない。それで植物からの「反映」に無防備になる彼女の存在形態が際立ってゆく。いっぼう「アキラ」は植物に固執し、植物性をまとい、ベッドの掛け布団も部屋の壁紙も植物性で統一している。そして「悪意」はその植物性からまさに浮上してくるのだった。あるいは風を受けた植物の揺れとざわめきが、そのまま「アキラ」の不安の喩となる刻々もある。

ストーリーの詳細は書かないが、アルバイト先に向かう「ヒーちゃん」を「クン」が運送用の小トラックで追う場面の空間演出、あるいは「ヒーちゃん」と「クン」の最後に一緒にいる場面となった「階段のさきの空間」の外延性の把握は見事極まりない。そのときにトラックのドアの磨かれた金属取っ手がちいさな鏡面となってクンの身体を一瞬、捉える。限定視角の微細さはここでもう驚異=脅威の域に達する。この前提があって、ドアの覗き穴からの光が、極点からのものなのに「ヒーちゃん」を照らし、「クン」への思いを画面に実体化する奇蹟が、流れに上乗せされたのだった。

「鏡面」といえば、この作品には事物の鏡面性が繊細に連打されている。「アキラ」が「ヒーちゃん」に仮託した自分のマンション住まいにあった大きな鏡面などは、ドラマ上ではなく俳優身体の「心もとなさ」を定着するために見事に活用されていた。むろん水面を中心に、人物たちの像の反映は連続し、そのうえで道路上、交通安全の鏡に最後ちかくの「アキラ」が映らない、という展開が加算される。

人間は事物をみることができない、事物のほうが人間の心もとなさをみるだけだ、というのは『吉田喜重が語る小津さんの映画』の冒頭、吉田喜重が小津『東京物語』冒頭の「水枕さがし」の小さなディテールでしめしたことだった(この着眼が『晩春』の障子越し、月下の壺で完了する)。事物からの視線というのは、メルロ=ポンティやラカンも語っていたが、さてこれを画面に、つまり観客に具現化するためにはどうしたらいいのだろうか。風間志織監督はそこに明快な解答をあたえる。つまり事物を鏡面化すれば、その事物が人間をどう視ているかが伝わる、というものだ。

『メロデ』は「アキラ」の「待ち人」がついに画面登場したとき、その人物描写が衝撃をあたえる。経済的には不安定でも「クン」にはその「待ち人」のような自己中心性がないからだ。「アキラ」とその婚約者の「デート」のありようは、それまで『メロデ』に描かれた同様のものとはまるで色彩が異なっている(川のもつ水鏡の機能も残酷に低下させられている)。そしてドラマに期待された決着のみられないそのタイミングで「さて、もう一度始めよう」の字幕が挿入され、突然エンドロールが開始されてしまう。「回収」を梯子はずしされた観客の衝撃は計り知れない(この終景衝撃の質はエドワード・ヤンの『恐怖分子』に似ている)。

「さて、もう一度始めよう」という呼びかけは、問いだ。つまり三人が「関係の幸福な三角」を保てなかった理由を記憶から探し出してくれという依頼だ。そこにどうしても答えが見いだせないとついに自覚したとき、観客はこの美しい映画が伏在させていた「恐怖」につかまれることになる。
 
 

2012年06月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

鍵のかかった部屋

 
 
昨日、最終回が放映された『鍵のかかった部屋』をいま観た(録画していた)。今クールでいちばん面白かったドラマで、最終回特有の重量感も納得できた。玉木宏はずっと贔屓俳優なのだ。視聴率の高さも、このドラマのファンがいかに多かったかを明らかにした。

セキュリティ会社の「謎の」社員、嵐・大野智と、弁護士事務所の代表・佐藤浩市、その部下の戸田恵梨香の三角コンビネーションが抜群だった。大野が寡黙で知的な演技、戸田恵梨香が髪をひっつめ、より「ダサい」演技を追求しているほか、佐藤浩市が「見栄っ張り」「自己愛」「バカ」演技を「新規開拓」して、途中回の「悪ノリ」までは終始笑わせた。

それと人気ドラマ特有の「パターン」を織り込んだことが継続視聴を促した。大野が顔の耳位置に拳をあげ、たしか親指と中指を擦りあわせ(「考える」ポーズ)、それが止まったときに「密室は破れました」と宣言、戸田の顔が輝くほか、映像的な「約束事」が多いのも注目された。この三人による冒頭シーンでの「抽象的総括」、事件現場のミニチュアでファイバースコープ映像による絵解き、黒味の不穏な使用、コンピュータ作画の画面への頻繁な導入、などがそうだ。

それぞれの回が「密室殺人の謎」を描いた。とくに、高島政伸を「ボイル・シャルルの法則」を駆使した「犯人」にした第二回のドラマの緊密さが忘れられない(政伸さんを私生活からバッシングする向きが多いのもわかるが、このところの「悪役」演技は「ドラマ的な今後」の可能性を占うものでもあることをTVドラマファンはご存じだろう)。原作は貴志祐介。もちろんぎっしりと「事実-推論-判明」のディテールが詰まっている。それを捌いてゆく脚本、演出、スタッフ、俳優のコンビネーションも高偏差値で、これがじつはいまの日本映画にあまり見受けられないスタッフワーク、協働性だともおもう。

勘所を「振って」、捌きをしてゆく「推進型物語」を俳優が肉化してゆくだけが「映像劇」の筋道ではない、とはもともとおもっている。理想をいえば「物語」をなすのは「事物」の相関であり、風景の変移であり、人物配置そのもののもつ意味性だからだ。つまり科白や説明的演出の上位にあるもので、映像の本来はみちあふれているべき、ということだ。ところがTVドラマでは説明機能の「手近感」が、スターの「記号性」と単純にむすびつけられればいい。『鍵のかかった部屋』はそのようにして、「多数」へのエンタテインメントとして成功をおさめた。この関門がいまのほとんどの映画にじつは突破できないことで、これを凌駕するには「コラボ・モンスターズ」的なドラマ→映像連関の「強度」を導入するしかないのだろう。

ともあれ、この『鍵のかかった部屋』で「月9」がOL向き、多幸症的な、「虚偽」だらけの業界(順列組合せ)的ラヴストーリーである必要がなくなったと証明された。また、『鍵のかかった部屋』最終回ラストシーンで、大野智の「人定」「出自」「動機」の謎解きをおこなわったことで、「スペシャル続編」の期待もできるような終わり方をしていた。映画化か二時間ドラマか、いずれにしても、愉しみだというしかない。
 
 

2012年06月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【秒】


つぎつぎとたずねおりてくる瞬間へ内側をつくるため、この頬杖をついている。秒の字が砂に似ている意味がここにある。むろんかんがえの最初は音だ。打ってくるものそれじたいの腑をとらえる耳だ。わたしは右だけの半身になり、輪のなかに空気のあることを大きさへかえている。
 
 

2012年06月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

たまには軽く…

 
 
たまには軽く、札幌での発見でも書いてみようか。いま思いついた20個。

1)ドトールがほとんどない(逆に一般の喫茶店が多い)
2)道が直交碁盤状で、散歩心がくすぐられない
3)蟹信仰のみならずカニカマ信仰もあるらしい
4)ファイターズ報道が多く、力づくでファイターズファンにさせられてしまう
5)建物の扉(引き戸が多い)を開けて、後ろから来る人に先を譲る紳士淑女が若い人でも多い
6)惣菜でも弁当でもサンギ(鶏唐揚げ)の揚げ方が上手い
7)自分の降りるバス停や市電駅に近づくと率先して降車口に向かい、進行に遅滞を生じさせない
8)重要でない交差点でも交通量が考慮されず信号待ち時間がやたら長い
9)寒暖/晴雨など、東京と天気が逆になることが多い
10)空気が乾燥していて、室内干しでも洗濯物が見事に乾く
11)東京より鴉がすごく少ない
12)敷地と敷地の区分がだらしなく、塀という概念があまり発達していない
13)デパ地下惣菜は漬物に無頓着で、ぼくの大好きな漬物が買えない
14)糖度の高いジャガイモが多く、ジャガイモをサツマイモと思うことがある
15)夕方前に地元向けワイドショーを各局、ダラダラ放映している
16)旨い飲み屋は狸小路近辺からすすきのあたりに集中している
17)テレ朝系、朝のニュースワイド「イチオシ!」のキャスター・石沢綾子さんが可愛い
18)街なかに色白美人が多く、しかも薄着=オシャレなので冬でもナマ脚の眩しい少女がいる
19)結局、ゲテモノ視していたスープカレーを好きになってしまう
20)散歩姿を見かける犬は柴、レトリ、フレンチブル、パグ系が多く、稀少犬種を誇る飼い主を見かけない
 
 

2012年06月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

屏風

 
 
【屏風】


ふたりならべば、それだけで姉妹を感じさせる、血縁なき女たちがさしむけているもの。それが皮膚にあらわれる脳のひかりなのだった。からだのあることはそんなに枢要ではない、位置があって左右のあることに較べれば。頭部も屏風のように置かれ、在るふたつを三つにしている。
 
 

2012年06月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【曲】


ながさと幅のみで成るみずからに耐えず、道はまがる。そのようにまがったときには、道に二重の内性ができる。すなわちまがる箇処は内へのまぼろしをつくりながら、同時に序数を経緯に刻むのだ。そこからひろがる方位を測れば、回想の道もすでに一曲の女類となり、うるむしかない。
 
 

2012年06月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

消えない男

 
 
【消えない男】


飲み屋をうつりあるいて、ものをすこしずつ食べる。その食べることは酒精をともにしているだけに、からだによごれている。からだのもつ遅さが酒精にまぎれ、からだ以上のものにぼやけているのだ。そう相似が成り立てば、それは相似なので、通りの奥に男がみえなくなることもできない。
 
 

2012年06月24日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

四肢を愛す

 
 
【四肢を愛す】


からだのかまえすべてが並びとなって、きみははじめから複数ではじめる。そのほとんどをあじわうため、匙が過度をする。おかげできみのゆえんも粥のようにしろくこぼれ、いつもこちらは椀をもつみたいだ。だがここはパオ、しずまっている煮汁だってとおい遊牧の分光にすぎない。
 
 

2012年06月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

「女の子映画」顛末

 
 
昨日で学部用映画リレー講義のぼくの担当=計4回分を終了した。既報のとおり、00年代前半の「女の子映画」を突破口にした。その4回の内訳は、1「映画ジャンル論の意義と『女の子映画』の特性」、2「廣木隆一『ガールフレンド』詳説」、3「風間志織『せかいのおわり』詳説」、4「安藤尋『ココロとカラダ』詳説」。「女の子映画」の特性については既述したので詳しくは書かないが、要は「女の子」のからだ(それは曲線をもち、やわらかい)から予想される内密性、その作用を受けて画面そのものが内密化し、そこから「女の子」の粉飾のない「リアル」が視覚性をとびこえて観客の触覚性にまで浸透、結果的には価値観の逆転に向かう映画、とでもしておこう。

それにしても、安藤尋監督の『ココロとカラダ』の重要性はいわれているだろうか。『ガールフレンド』や『せかいのおわり』のもつ幸福感を「反転」させた熾烈なネガというべき作品だった。「女の子」の内密性には分け入っているのだが、そこから肯定性だけを予想するのは間違いで、むしろ内密性がからっぽのまま「からだが残った」ときには、はげしい疎外が招来されている、というリアリスティックな結論に導かれる。

作品評を書くわけではないので、簡単で抽象的な既述にとどめるが、『ココロとカラダ』が背景にもつのは援助交際的な個人売春だ。友達のアパートに転がりこんだ「知美」(阿久根裕子)がアパートの主、「恵子」(未向)の望むままに恵子の生業・売春の実践隊員となる。途中、「三つの合鍵」のエピソードがあって、合鍵は機能性だけの問題だからどれでも交換可能だ、と「恵子」の客・池内万作がいう。それに知美が賛同しない。それは、売春が客も交換可能、肉体提供者も交換可能の、個別性を否定する世界だからにほかならない。

合鍵をつくって「恵子」の部屋にもどった「知美」が、そこで池内と鉢合わせるシーンは「ドア」ではじまる。やがて「恵子」が「ドア」から「知美」を引きずりだし、翌朝、「ドア」からふたたび「知美」が入って、意外性と腹芸にみちた流れがひととおり完了する。これらのくだりの、安藤の演出力がただ事ではない。

ここで「場所論」が生起する。権力からひっぱられた糸によってそこにいる者がそのまま宙づりになってしまう場が変奏連打されるのだった。「知美」が寒い一晩を過ごす「恵子」のドア前からの下り階段がそうだし、「知美」が睡眠をとることになる、「恵子」ベッド脇の床も意味性はおなじだ。それは矢崎仁司『三月のライオン』で「アイス」(由良宜子)が、個人売春のため電話ボックスから吊られる「その脇の空間」をも髣髴させる。それらはいうなれば境界=渚なのだ。

だから作品の終結前、じっさい「渚」にいる幼女も、そこにレンタカーをとめて所在なげに「恵子」を待つ「知美」を、じつはそこに吊っている。描かれた実質的な渚に、幼女を権力中枢にした「渚」が二重化しているのだった。ところが作品最後に掟破りで召喚される回想(冒頭の回想の翌日)で、トラウマの記憶に吊られて場所=境界を動けなくなったのが誰で、誰が陰謀家だったかがさらに明らかになる。以上のように一貫して緻密な脚本と演出なのだった。

「女の子しか知りえない事情」の描写が画面の内密性をつくる、といえば賛意がしめされるだろうが、この映画ではそれがむごい。すべて血のにおいがするのだ。まずは、生理になっても売春をおこなうためにどうするかの問題。次はアパート暮らしの女の自宅流産の詳細。ところが前者によって内密性は虚無ながら画面的にはレスビアンをおもわせる疑似愛情が前面化する。後者では「知美」が客から受けた暴行と化合して、これが結局「知美」「恵子」ふたりの「内実のない」紐帯をつよめる機能を果たす。

「恵子」のアパートの部屋はそれ自体、内密性が高い。生活導線が迂回的、という独特の構造で、それは柑橘類の内部に「房」があるような状態に似ている。鈴木一博の手持ちカメラは、人物の動きによって背景にある部屋の構造を小出しにし、一旦は構造上の謎にかける。それが導線の迂回、という結論に導かれたとき、「恵子の部屋」自体が「女の子」の内密性の喩となっていたことが判明する。

だが着ぐるみやカーテン生地や穴がつくりだす内密性のなかに入ってしまうことによって中村麻美の内密性が夢みられた『せかいのおわり』のようには、『ココロとカラダ』は内密性を自動展開してゆかない。むしろ現実原則にのって、成立しているようにみえた内密性は境界性と隣接しているか、それ自体がラブホテルの一室のように、境界性を内包している、というあられもない種明かしをするのだった。この種明かしのなかで「恵子」「知美」のからだの傷が加算されてゆき、ついには疎外によって動きをとめられる、という作劇が完了する。

「女の子映画」はたぶん科白の応酬ではなく、ふたりの人物のからだの配置と、存在している空間の質によって、ドラマが進展している。それは、作劇的な科白の多くが「女の子」にたいして「ウソをいう」からだ。結果、真実の「女の子」映画は、からだの実質に迫るために、いかに空間にふたつの人体を置いたかの有効実例集となっている。映画空間演出にとっては哲学的思考の宝庫。だから価値があるのはいうまでもない。そういえば『ガールフレンド』で最も見事な空間演出は、ホテルのバスルームの扉をつかって展開されたのだった。そこではカットの時間そのものが演出の中身になっていて、山田キヌヲの姿態変化も深い意味をつくりあげていた。
 
 

2012年06月22日 日記 トラックバック(1) コメント(0)

大辻隆弘・ルーノ

 
 
大辻隆弘さんにお願いして、ご本人の第二歌集『ルーノ』を頂戴した。93年、砂子屋書房刊。段ボール箱にしまわれていたのを大量発見し、よろしければ頒かちます、というご本人のお言葉にあまえたものだ。というのも、邑書林の『セレクション歌人9・大辻隆弘集』では『ルーノ』は抄録で、全貌をぜひ知りたいとつねづねおもっていたからだ。

ご本人はSNS日記で「ニューウェイヴ」に接近した歌集、と総括されていたが、発想の前人未到、口語性の混入などを符牒としたニューウェイヴ調もあるにはあるが、やはり正調の古語〈うたことば〉使用作のほうが全体を圧していて、ほかの大辻さんの歌集の端正さと印象がかわらない。それでも邑書林版、文庫形の歌集から割愛された歌に、ニューウェイヴ短歌のもうひとつの符牒である「性愛歌」があったのだ、と気づいた。

弓なりの背を暗黒に涵〔ひた〕しつつ息を抑へしをみなひとあはれ

という、たぶん騎乗位の相手を見上げた、素晴らしく実存的でふかい性愛歌なら邑書林版にも載っている。偶然の符牒だが、この大辻さんの歌は、今週の北大での女性詩講義であつかった、井坂洋子さんの詩篇「性愛」(『朝礼』所収)と好対だとおもう。最中の相手を見上げる、という共通の視線があるのだ。短いのでその井坂さんの「性愛」もここに掲げてみよう。80年代全般にわたって追求された視線だとおもうので。

【性愛】
井坂洋子


あなたの指と
あなたの頭とが
別々に動いている
指は指らしく
粘液をまとい
頭は
闇をかぶって
さらに狭い間道を
行ったり来たりしている



さて、邑書林版の抄録によって割愛されながら、素晴らしい性愛歌が『ルーノ』の大辻さんにはあった。まずは−−



昼前に終へたるあはき交媾は粥を掬へるごとし、といふか



直喩によりながら幽邃感が生ずる得難い一首だが、ラストの述懐というか意図的にもちいられた「つけたり」によって、さらに表現できないものにかかわる「反転」が起こっている。この反転こそ性愛特有の哀しみだとおもう。措辞の魔術にびっくりした。次は問題作−−



戯れに、言はば諸手〔もろて〕をつかしめて山羊をいたぶるごとくにぞせし



作品の視覚性が体位の具体性と直結しているからポルノグラフィックと論難されがちだし、「山羊」の語の斡旋には禁忌侵犯さえ揺曳するのだが、こうした措辞の悪虐をあえて選択した点から、こちらにもふかい哀しみが窺える。同時に一首ははるかな神話性にもつうじて、そこで実は脱像化という反転が起こるのだ。しかしこれは発表当時、物議をかもしたかもしれないなあ。

そういえば、大辻さんの師匠・岡井隆にも次のような性愛歌がある。角川「短歌」89年1月号の付録だった「短歌手帖」に掲出されていた歌なのだが、ググってもぼくの書いたもの以外にヒットしない、隠れた一首だ。ぼく自身、見落としたのか岡井さんの歌集に収録されているのを見たおぼえもない。



ひさびさに男となりて見下ろせり梅雨荒れの夜の楽器しろたへ



大辻さんの性愛歌と「気分」と、これも見事に寄り添っている。

なにか「性愛」ばかりを強調した一文となった。むろんこの大辻さんの歌集はそれ以外にも読みどころが多々ある。とりわけ「妻恋」の歌が好きで、その妻が妊娠・出産した流れを詠んだ歌集終結部の素晴らしさは、永久に記念されるべきだろう。最後に出産を控えた妻が里帰りして生じた生活の不如意を、象徴的な聖性で綴った一首(これも邑書林の文庫歌集には不掲載)。



妻あらぬ夜の厨べにわが立ちて冷や肉に塩ふりしは真実〔まこと〕
  
 

2012年06月22日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

明滅

 
 
【明滅】


電球をかえ、つけかえたこともわすれ、また電球をかえる、日々よりも大幅な明滅が、とおくからみて眼瞬きだ。それは二階の三十年で十回にもみたないが、着替えの数ならさらに多くて、者とよばれるものは、あることの留守にながれかかって、ながれる。その場所に洲をおもう。
 
 

2012年06月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

魔物

 
 
【魔物】


舞いおりるうごき、その着地の瞬間にさらにつよまる羽ばたきが、アタマのおもいえがいたものだ。何千も。つばさというものはいつも上空ではなく下界に向き、ときにみずからにも向いている。そうおもうだけで、考えがつばさだ。首にアタマを着地さす。いったんはうしろを翔んでいたのだ。
 
 

2012年06月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

全体の動物

 
 
【全体の動物】


あらしの朝は重ね着をして、風雨のきまぐれを割りすすむ。かさね着のぶんだけ空気へ割けて、からだも断章になるが、ぬれてしまったひとなら部分をうしなっている。ふくらんでいるその全身が猥らにうごくのがみえる。水分というより、皺をもった大気の作用だろう。水牛のような影もある。
 
 

2012年06月20日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

入浴詩集

 
 
廿楽順治さんのお手を煩わせ、
二月に立教でおこなわれた小池昌代さんとぼくの、
合同講義用プリントをネットアップしてもらいました。
「入浴詩集」、入浴体験をテーマにして
既存のすぐれた詩歌を集め、
それを手本に学生が自身の入浴体験を詩歌にしたほか、
詩作体験のある「詩人」もそれに参画した
一大詞華集です。

アドレスは以下。
http://nyuyoku.iiyudana.net/
ぜひご高覧を。

このアドレスは暫定的です。
いずれ、「立教文学部文芸思想サイト」にアップしてもらうよう
かけあいます。

その節、転載を快諾していただいた
SNS上のみなさんには、
この場を借りてお礼もうしあげます
  
 

2012年06月20日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

 
 
【桐】


むらさきがすずなりにくずれている。くずれはひときわ高く、空から生じているようにさえみえる。あれが桐の花の北限というが、前方が北限であることはなんの閊えだろうか。結界にむかうときには前方がすでに後方なので、性徴に似たものもそれらの奥へ透明にひろがっている。
 
 

2012年06月19日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

広瀬大志・ぬきてらしる

 
 
広瀬大志さんからご恵贈いただいた『ぬきてらしる』がすごくおもしろかった。一気読みした。場所にたいしても時間にたいしても、想像力が自在に往還してゆく、不思議で全体的なこの「物語」の回帰原点は、1862年アメリカからイギリスに航海したトウモロコシ貨物のなかから、推定約40億匹の穀象虫が発見されたという「史実」だ。穀物の一粒一粒に産卵され増殖してゆくこの微細な害虫は、吻管が象の鼻に似ていることからその名があるという。

ここから1862年に、穀象虫のように生まれた東西の人物が蒐集される。森鴎外、クロード・ドビュッシー、クリムト、メーテルリンク、そしておそるべき符合は、イギリス世紀末で恐怖と好奇の対象となったジョン〔ジョセフ〕・メリック、つまりあの「象人間=エレファント・マン」も1862年生で、ここで穀象虫とメリックの「象」的形象が合致してしまう、ということだ。広瀬は自分の外貌が内部とみなされたメリックの悲痛な述懐、「ここがそこで、これがそれなのか」を何度も引く。このときまずは外部が内部になったのだ。

1862年にはアメリカで南北戦争、中国(清)では太平天国の乱の戦火が熾烈で、日本では寺田屋事件、生麦事件が勃発、壊滅的にコレラが蔓延した。イギリスではアリス・リデルにドジソンが、やがて「意味」をカバン語などで別天地に拉しさってしまう『不思議の国のアリス』を語りだしていた。ウィキペディアにないことをあえてしるすと、ボードレールが『赤裸の心』で自分が梅毒で発狂してしまうと恐怖した年が1862年だった。つまり最初の近代が次の近代に橋渡しされる時期だったということ。このとき「内部」を食い破ってゆくことで「内部」「外部」の弁別を崩壊させてしまう穀象虫が、コレラや戦火や近代化とともに猖獗したということができる。

ちょうどバタフライ効果のように因果性が全事象を縫いつけてゆく。しかも時間軸が圧縮され、すべてが同時性として生起するようなゆがみも志向される。むろん「虚構」が暴力的な推進力となるのを広瀬は知っている。それで事実提示的一文の文尾に「(かもしれない)」という奇怪な接尾辞がやがて律儀に補われるようになる。虚/実の分離を読者に促すのではなく、「虚実」まるごとを「実」とし「虚」としろ、という異様な指令が出されているようだ。

本書のタイトルにある「ぬきてら」とは何か。のちの小泉八雲が『怪談』の一篇に入れようとして入れなかった恐怖譚だったという「虚言」が打ち出される。けれど八雲自身、稲を襲った穀象虫をやがて人々が稲よりも嗜好し怪物化=(穀)象化していったというその民話を、自分がどこから知ったか記憶していない。このあたりで異様なことに、最初だれとも明かされない「私」が記述に介入してくる。八雲の命を受け、1862年、歌舞伎で当たり演目を連発していた江戸の河竹黙阿弥のもとへ「私」は遡行する。そこで、八雲の知った話の原型を黙阿弥も知っている事実が判明するが、それでも物語の名、「ぬきてら」の意味がわからない。それはドジソン、=ルイス・キャロルが夢見たような非意味、脱意味のなかにある、おそろしい整然なのか。

最終的に「ぬきてら」の意味は、広瀬自身の出自と連関されて(むろん本当かどうかなどわからない)突きとめられる。ただし真実への的中など、この物語全体にとって、「何の意味もない」。「分散」であったものが「内破」を契機に「同時化」を印象させることで「空間緊密化」を「虚実をこえて」もたらしてしまう「物語の魔力」だけが、ここでの問題になっているのだった。つまりもともと「物語」は語られたことの定着のまえに、分裂を内包し、それこそが逆に一種の「定着子」になるという矛盾を抱えている。だからここでの広瀬の文体も、物語以外に詩文や評論文などを「同時」内包しているのだといえる。

この『ぬきてらしる』はなにか。小説ではない。詩でもない。評論でもない――つまり、それらの「ない」が綜合されたものとして「あるだけだ」。あるいは文を書くことそれじたいの想像力として「あるだけだ」。その唯一性をもつ身ぶりゆえに、奇妙な「物語」の刻々がさらに躍動化している。なんという収穫だろう。だがその収穫のなかを穀象虫が食い入っているかどうかは、人それぞれの主観にこそまかせられるだろう。
 
 

2012年06月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

昨日

 
 
あなたを眼のまえにしていると、(ややこしいが)あなたの背後にも、ぼくの背後にもあなたがいて(見えて)、それがあなたの運の良さのあかしです、とぼくが話していた--これは、さっきまでみていた夢のなかの話。「あなた」とは知り合いで、彼女はすごくきれいに盛装していた。

昨日は武田肇さんの「ガニメデ」用に、追悼を兼ねた加藤郁乎論10枚をまず書く。前日・土曜が文献確認。『えくとぷらすま』以降、「一行詩」化していた郁乎の俳句が、『出イクヤ記』では『球体感覚』に回帰したというか、永田耕衣に近づいた。重要だし、すごくいい。『出イクヤ記』は『現代詩文庫・加藤郁乎詩集』後の刊行なので、同文庫には未収録だし、砂子屋書房の『現代俳人文庫・加藤郁乎句集』にも抄録で、いまはなかなか全貌を知り得ない。もっていてよかった、とおもった。

昨日夕方は必要あって、院生の研究室から借りてきた山中貞雄『人情紙風船』(DVD)を久しぶりに観ていた。海野又十郎役・河原崎長十郎は「気弱な眼差し」で「しかも眼瞬きをしない」。それが観る者を絶望に突き落とすのだ、と改めておもいだした。世界一不吉な演技ではないか。それとPCL(東宝)は、山中貞雄の段階で、玄関引き戸に向かう、襖に囲まれた矩形重畳の室内奥行き構図を確立している。成瀬巳喜男より早く。山中作品ではその縦構図がほんのわずか斜性を帯びる。だから後発の成瀬は正面性に挑んだのだろう。それと、長屋の庭側をつなげてゆく構図も、のち成瀬『驟雨』の終わりちかくで反復される。あの映画にも「紙風船」があった。
 
   

2012年06月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

椅子

 
 
【椅子】


庭の丸椅子は、腰かけられる期待をただ脚でささえる。みずからをいつもそうして低くささげもつ、それだけだ。一脚であることはかがやきにみえる。ながめればその構造のすくなさにまどうだろう。かんがえの遠近ではこうして、ものにむすばれた敷居もできる。
 
 

2012年06月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

飲食

 
 
【飲食】


ひとつの椀にたたえられる汁、底にけぶる白魚の、ゆびのような悩み。初夏は山椒の粉をうかべ、しびれをひろげてゆく。ささえる手と腕がそのまま椀にもなり、のむことのわたしらを、ゆっくりと消しいれている。
 
 

2012年06月16日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

アジサイ

 
 
【アジサイ】


球をなしてもなお色が変わるのは、霊気を吸いこみ、ゆれるのをこのむからだろう。それらはくらやみへ茎葉がきえるのを待つ。この外にあらわれた分割はそのものにも分けいって、あたりすべてを夜の皮膚にしている。だからアジサイのかたわらをいそぐと、はがされてゆくのだ。
 
 

2012年06月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【鬼】


あるきの内部が、あるきの外部に遅れてゆく。しらほねをそのように野へさしいれるのだが、下半分から身のつめたさがあらわれることは、分割という生のあかしがつづいているのだ。甲をみるな扇だから。ゆくことは何も踏んでいない。ひととなるため、遅れに鬼がちらちらしているだけだ。
 
 

2012年06月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

階段

 
 
【階段】


たかさにいたるまで、みずからを段階的につらねてゆく階段は、機能ではなくそれじしんとおもえる。だから建てものでは窓とともに、それが楽器に似ている。非常階段のらせんがみえることで空想化している家もまぶしい。あの姿は、そのまま徹さんの煙草のけむりのようにかるい。そこへむかう。
 
 

2012年06月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

メモ

 
 
詩作においては、ことばの自由よりも、思考、哲学、規定の自由を確保するほうが、ぼくにとっては先決で、その場合の与件は何かとおもいわずらうこともある。たとえば固有の領域をたえず対象化してゆくことは固着に行きついて、論法までもがそこで自己目的化されてしまうことが多い。それは自由ではない。となると対象化は、疎隔化した自らへの空間的な解決として、他力的にあらわれてくるほかないのではないか。このとき自分の埒と周囲の埒とに、逸脱のもたらす親和性が生じている。

樹をうたわない詩は、世界をみていない。樹の外観をうたう詩は、世界の視覚構造にはつうじている。樹の内側を想像する詩は、樹はおろか詩作者自身の構造にまで浸潤している。こうかんがえていつもおもいだすのが、偶然のヴィトゲンシュタインともいうべき、まど・みちおの「りんご」だったりする。

散文形で詩を書くとき、詩の外観は改行形と異なり、単純には保証されない。内実的にとくに怖いのは箴言とつうじてしまう点だ。ところが箴言には警句固有の圧縮と性急さがあって、言い足りないことは余白で反転され、このとき機知が自他双方で同調する仕掛けがつねにまもられている。この点をとらえると、箴言それ自体にあるのは自他を確保してしまう限界的論理性ということになり、しかもそれが論理性であるかぎり箴言は変格であっても「文章」にすぎない。

いっぽう詩は、対象と作者の浸潤を前提にして、論脈、詩空間上の隣接性、書き手-読み手間、それらそれぞれの浸潤へと移行してゆく。つまりは「移行そのものが浸潤である」ような特質が詩の保証ということだ。それは移行であって定着ではないから、箴言には似ない。そのものは時空上にのびてくる脅威=驚異で、むろん音声と視覚、双方の物質性からなっている。ところが物質性だけを前面化すると、じつは思考、規定の自由が表面的に相殺されてしまうダブルバインドがある。静謐にむけて脅威を親密化することによって、「認識→ことば」という驚きの順序がまもられることが肝要ではないか。まど・みちお「りんご」はそれも実現している。
 
 

2012年06月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

質問

 
 
【質問】


独身という、からだにとってあたりまえのことばが、からだへのすべてだ。髪でかんがえが隠れてしまうおそろしさも姿は知っている。ものの色が時間の色とひとしくなる夕刻には、まなざしもつ顔の先端がそがれていった。それでものだったのか時間だったのか、きみ自身のあいだは。
 
 

2012年06月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

入眠

 
 
【入眠】


わたしらが三々五々ちらばってゆくときの、土手のひろがりのうつくしさ。みどりはこべのしきつめるなかを、いずこにもはこばれるたがいのからだが、しろくちいさく咲いてゆく。遠心をかたどる配置が、とおくからは休符にみえるだろう。とおさにみがかれる水のそばでそれも消えかかる。
 
 

2012年06月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

二行聯詩

 
 
今後、書いてみたい詩形式のイメージというのはいくつかあって、最近、それにひとつのものが加わった。二行をひとつの聯にして、延々と聯をかさねてゆくという、いわば「二行聯詩」だ。じつはこの形式では詩行そのものと同時に、聯間の空白一行が眼目になる。

詩篇における改行を以前、かなり綿密に吟味したことはあった。だが聯間空白を思考の対象にしたことはあまりない。それはいまの頭でまとめれば以下のような機能をもたせられるだろうか。「飛躍」「時間経過」「舞台転換」「文脈切断」「主体変換の契機」「架橋(空間的な単純併置)」「口ごもり(失語)」「朧化」「大きな息の導入」「連用つなぎのスローモーション化(動作的なものの分解・微分)」「空白自体の強調」「単位的な塊を明かすことによる論理化(分節化))」「高まりゆく階梯化の、その階梯部分」「詩行部の不足によって生じた推進力を方向替えする転轍器部分」「終結突入」等々… いずれにせよ改行よりも「切れ」の効果が、より拡大・累乗化されたものとして、聯間空白をとらえることができるだろう。

それでは聯間空白の導入機会を最大率にするためにはどうしたらいいか。じつは「一行の詩行」+「一行の聯間空白」+…という一行聯詩は、日本語の文脈に置かれた場合、無季自由律の連続並立のようにみえてしまう(そういう実作経験がある)。詩の一行が屹立しようとして自らの時間を完結させてしまうからで、だから聯間空白の最大活用は、数学的な単純把握からいっても、二行聯詩ということになる(ほんとうは二行聯と一行聯の混在詩篇もあるはずだが、ここでは考えない)。最も多くの空白行を逆説的にだが「書く」というとき、晩期バウル・ツェランを襲った自己再帰的蚕食を、健全・明白な詩形式に置きかえる構築性が入り込むだろう。

二行聯で時間生起を停めるのはたぶん完全に対称形をおりなす対句だけではないかという気がする。聯内の二行は行接続によって、じつはそれぞれの継起起点を微妙にずらすことができる。つまりちいさな不揃いを体現し、そこに使用される動詞がそのまま詩中に想定される主体ではなく詩行そのものを「動かす」とき、二行はかならず何かを帯びた傾斜となる。つまりそこからは「時間」が「したたる」。

だから二行聯を聯間の空白一行を挟んで連続させてゆく、この詩型ともいえない詩型では、二行のいったん刻印した時間性の種類が次の二行にどうつながるかで、じつは聯間の空白一行の機能も上記のように多様化してゆく。こういえばいい。書かれた詩行は書かれたままの物質性をもつが、「書かれない詩行」=聯間空白は、書かれたものによって反映的に多様な伸縮をえがく、と。書かれない行の微妙な変化そのものを書くための形式導入が、二行聯詩なのではないだろうか。「空白を動かす」。それは抒情的余白主義とはちがう、熾烈な作為をともなう。

詩は(とくにネット上に発表される詩は)、親密な知己への恩寵として、書いた当人と読む他人とに「同時に」現れる。そのさい目詰まりした多弁な詩が、独善性として遠ざけられるようになった、というのが、デフレ的現在の趨勢だろう。空白になにか親密なものを見出す逆説的な視線が、情報の雪崩のなかで人に鍛えられているのだ。空白は音楽上は休符で、その休符が素早いスクロールを停める、といってもいい。

静かな音を聴きたいとねがうことは、そのまま沈黙までも聴きたいとねがうことに希望的に転化する。このとき詩篇を透かして遠くをみる眼差しが、自他のあいだに形成されてゆく。二行聯詩は、詩にたいする視覚上の濾過形態といえる。連句独吟にも似る。

この二行聯詩を、次回「四囲」の形式特集として提案した。結果はわからない。また同人の準備が拙速になるようなら、いずれの形式特集の候補として当面、記憶にのこればいい。それほどはこだわっていない。ぼく自身も最近は散文短詩ばかりを書いていて、聯間空白はおろか改行のやりかたまで忘れてしまっている自覚があって、二行聯詩がおぼつかず不安だ(それで同人とおなじスタートラインに立てる)。みなが陥りがちな詩作の病性を「ほぐす」ために、等質性をいちおう配分する。ところがその配分にこたえられず、個性・偏差が飛び出て、詩作が透明性にむかわない--じつはこの個々人の失敗・頓挫こそが、初期「四囲」の意義だった。

多くの同人が二行聯詩を出してきたら、扉以外の多くのPDF頁に「二行+空白一行」がつらなり、それは視覚的にも壮観だろう。とうぜん同人相互がおなじ形式を採用しているのだから、誰かの二行がべつの誰かの二行と交換可能ではないか、という別視座もうまれる。これが実際は同人間の緊密を印象させるのではないか。

いずれにせよ「四囲」の機会でなくても、個人的にいつかは「二行聯詩」に着手してみたい。
 
 

2012年06月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

おなじもの

 
 
【おなじもの】


凪になって、おなじ温度で陸と海がむすばれる。それで陸が、海からひろがった停止の、あおいさみしさになる。草木。海岸線をゆく列車も、運びをまもることから、おなじものに影をさしいれることへむかう。境のみだらにやわらかくなったそこは、次元のちがう婚だろうか。
 
 

2012年06月09日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

場所

 
 
【場所】


とつぜん場所のことわりが夢のなかでわからなくなる。枝の数本折れている樹の下で待つといわれ、山道をのぼったり下りたりしてきたのだが、樹下とはさだめられた囲いだろうかと気になりだした。けれどそこにからだのない散歩神がぬれていて、むかうあるきがそのまま場所となった。
 
 

2012年06月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

メモ

 
 
希望は起こりうることをめぐる蓋然性に似ている。彼方にのぞめるものはなんら希望ではなく、希望はそれが形成される「ここ」に、手作業や行為の質として持続的に宿る。そうでなければ、希望はからだとかかわれない。この現下性はとうぜん拡張が可能で、書かれたものが読まれるときにも、つねに希望が読みすすむ原理となる。けれどもそこでは現世的な確率論的蓋然性ではなく、幸福な飛躍にとんだ、創作論的な蓋然性が、書いた者に自らが「なる」架橋として、おもに読みとられてゆく。
 
 

2012年06月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)