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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

松岡政則・口福台湾食堂紀行

 
 
松岡政則さんから新詩集『口福台湾食堂紀行』をご恵贈いただき、さっそく読んだ。いつもどおり素晴らしい。

一種の旅行詠的作品(けれども台湾には長期滞在なされたようだ)がずらり並んでいる。旅行詠はもともと苦手なのだが、松岡さんのはなぜいいのだろう。答は簡単、観光者的な視点や行動が見当たらないからだ。公的でない風景の恥しさのなかをさまよい、庶民が食べるのとおなじ旨いものを食べ、ひとと知り合い語ることもすくなく、ただ風光のなかに自身のあゆみがとけてゆく。ぽつねんとあるバス停の素晴らしさ。洗濯物丸出しの細民街の路地の「うつくしさ」。省略されない繁字体のメニュー名と食材の不可思議、着実な地形や人身の把握があって、具体性のなかに台湾という土地の、暑い懶惰と混沌がじわじわと浮かび上がってゆく。とりわけ漢字にかかわる感受性の繊細がつたわってきて、金子光晴の『マレー蘭印紀行』を想起した。

形容詞の名詞化、「艸」といった松岡さんならではの用語、自己述懐のやりかたの特殊性と、みたことのない抒情性への転化、これらが台湾各地の物・事・人と、音韻性抜群に共存してゆく。松岡的文体の自在性は増強された。霧社事件の現地におもむく、台湾少数民族の村落に行くなど脱台北的、意欲的な旅行地選択で、たぶんそこから「世界の鄙」が何かが考えられている。それは竹細工職人の家に育った松岡の出自に関連がある。つまり世界の土地に分布する帯状の逆説的光暈が、世界の何を収束させ、何を複数化しているかを、その介入的な身体に染めあげてゆき、しかも解答から見放されることが松岡のもくろみなのだ。

韓国にわたり「路地」の連帯を意図した中上健次の文学的営為は志向的(作為的)だったが、松岡は同調的で、なおかつ完全な自己消滅が果たされなければ同化が成立しないという現実則を手放さない。つまり自己消滅ぎりぎり手前の松岡の身体が、台湾の風光につつましくかがやいていて、そこから、からだを手放さない構えだった中上がいかに彼自身にすぎなかったかがが逆証される。松岡にはむろん「誰でもない者」が本質的にもつ「遥かさ」がある。

「マイナーであること」は数量的少数の問題ではなく、趨勢に食い込んでみずからを変換子とすることで逆境を生成することだとドゥルーズはしるした。そのための要件はじつはエクリチュール上の選択言語にある。チェコ語につうじていた者が無味乾燥なドイツ語を選択すること。フランス語で育った者がより感情表現が平板な英語を選択すること。「マイナー」はそのような亀裂のなかにまず刻印される。カフカ、ベケットは「誰でもない者」になろうとして、それを実現した。あるいは言語的天才だったツェランは、父母を虐殺したアウシュビッツの公用語=ドイツ語を母語としてもちい、つかえるはずだったフランス語などを詩作に禁欲した。この二重性により、ツェランもマイナーとなった。

出自の限定性と台湾性がとけあう松岡の書法は、さらに詩的記述をも巻き込んで、「文」の帰属を何重にも不能にしてゆくという意味で、やはり「マイナー文学」の継承者だ。繁字体による像の強烈な形成に反照されて、松岡の日本語による述懐はひらがなによって脱像化し、あいまいにこわれてゆく。日本の占領記憶を前提にしながら、糾弾意識も内向し、そこに立つことの異物性が「同調希望」とともに湧きあがる。これこそが精確な「世界内」実感だろう。世界の一端に立つことは世界のすべてに立つことにつうじる、という一般的な予見がいかに多幸症的かがわかる。それぞれの場所はそれぞれの場所なのだ。それでも身体の亀裂だけは普遍領域に掬される。

地縁的・民俗的・異言的・マイナー的・身体的という意味では、先に上梓された清水あすかの新詩集『二本足捧げる。』と双璧の詩集だ。清水の場合は、八丈島の方言がやまと古語と通底するとき、そこにある身体が、詩行の理路が、語の作用をうけて「見たことのないもの」に変じてゆく。「見たことのあるもの」を学習的に変奏してゆく現代自由詩のセンターラインにたいし、これらはまったく新しい通路をつくっている。以上、簡単な全体感想になったが、いずれは具体的引用とともに分析をしなければならないだろう。
 
 

2012年07月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【窓】


ただの矩形そのものをうつくしいとかんじる眼になってしまった。感官がのびていっておもう、硬い確かさにふれたい。それで窓ばかりをさがしている。もののまなざしが夕日をうけ赤く失明するときの、視神経のようなものさえこころの糸にする。火事では焔を噴き窓が割れた。
 
 

2012年07月02日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

小池昌代さん

 
 
北大学部生用の女性詩講義のため、さっきまで小池昌代さんの詩篇の転記打ちをしていた。小池さんの初期詩篇には「勉強しているなあ」という感触がまず生ずる。愛着を得るために女性詩の技法が注意ぶかく転用され、うつくしくその居場所を得る。だからそれ自体が「宝庫」なのだが、反面で脱コミュニケーションが神経質に怖れられてもいて、結果、どこかが説明過多になったり、凡俗になったりして、削りたいとか直したいという隔靴掻痒感がうまれてしまう。直喩の多さもサーヴィス精神の賜物だろう。いずれにしても「ゆれていて」、最初から技法確立していた井坂洋子さんとはちがい、努力によって詩風をかためてきたひとだ。そこがまた愛着の理由ともなる。

その小池さんが「化け物」に変貌するのは『永遠に来ないバス』『もっとも官能的な部屋』の90年代後半あたりからだ。葛原妙子を中心にした現代短歌、永田耕衣を中心にした現代俳句の参照があったのではないか。じっさい『もっとも…』の「悲鳴」では葛原を、「背後」では耕衣を誰もがおもうのではないか。そしてこの詩集には「馬のこと」「吉田」という、超絶的な傑作詩篇がさらにまだある。小池さんのその当時の変貌は、現在、斎藤恵子さんにきざしている変貌と質が似ているとおもう。

小池さんはその後、散文脈と詩脈の過激な交錯に詩風がかたむいてゆくが(ぼくはとりわけ『ババ、バサラ、サラバ』が好きだ)、やはり90年代末期の頃の「不気味なものを見据えて哲学する眼(の哀しみ)」がなつかしい。転記打ちプリントもその頃の作に集中してしまった。

それでびっくりしたことがある。例の「入浴詩集」ではぼくが小池さんの「かもしか」を、小池さんが「数」を自己申告したのだが、小池さんにはそれらを凌駕する「入浴詩」が『永遠に来ないバス』のなかにさらにあったのだった。忘れていたぼくも悪いが、小池さんはそうではないはず。どこかで気に入っていないのか。だとすればストーリー性が欠落している点を気にかけているのだとおもうが、実はそれこそが美点なのだと逆にぼくはおもう。とりあえずそれは斎藤恵子さんの「女湯」の先駆的位置に輝いている。

【湯屋】小池昌代


大黒屋のしまい湯は静かだ
はだかになっても汚れのとれない
しんから疲れた老女が
がらがら と
戸を開けて入ってくる
締め方のゆるいシャワーの蛇口から
水がしたたる音がして
冷たい夜気がすあしのままで
高い天窓からそっとすべり込む
水がゆれている
湯がふちからあふれている
わたしは
何も判断しない
丸太のようなこころになって
ひとのからだをみる
はだかの背や腰、尻のあたりや
それぞれの局部
流れる水もみた
抜けた髪の毛
女のからだのたくさんのくぼみ
そこへ水がたまり
滑り落ちていくのを
何年もいくどもみているような気がする
男湯と女湯をへだてる壁もみた
そして
その壁を
だれひとり
けもののように
乗り越えていかない
乗り越えてこないのを
不思議なきもちで
ゆっくりたしかめた



「くぼみ」に石原吉郎の参照があるかな。
ともあれ小池さん、なつかしい。夏休みの帰郷中に、飲みに誘おうか



忘れていて「入浴詩集」に編入できず、あとで臍を噛んだ詩篇はまだある。筆頭は、川田絢音さんの「春」(『それは 消える字』所収)。これも北大の授業準備で気づいた。以下、ペースト。

【春】川田絢音


乳房は片方だけ
髪は枯れ
声も出なくなってしまった
追いつめられ
半身〔はんみ〕の妹が打ち沈む
心によって滅んでゆくということがあるだろうか
青鷺とわたしと
妹の暗い響きに浮かんでいる
湯は
崩れあふれ
月は満ちる
ただならないものを緻密に吹いて
その枝が
心を忘れよ と
わたしたちに差しのべられている



ほかに、堀本吟さんに教えていただいた以下の俳句もあった。

雪の日の浴身一指一趾愛し   橋本多佳子
窓の雪女体にて湯を溢れしむ  桂  信子

いずれにせよ、いま最ももとめられているのは、詩集よりもさらにアンソロジーではないだろうか
 
 

2012年07月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

豊平川

 
 
【豊平川】


ながれる水にはとりどりの長さがあって、ほとりにならぶ脚の数かずは照らされてうきたつ。ながさがながれ、たなびくさまには、それでも音と色の同化がある。そういう死なのだろうか。茫とした水あかりのわたしらを、ローザがながれてゆく。
 
 

2012年07月02日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

眼のようなもの

 
 
【眼のようなもの】


わたげはずっと舞っている。語彙のまずしい詩にあこがれる。ひとはひろくちらばって、おおきなものにむけうるんでいる。さきに死んだものをもつのだろう、ひとの時間はそれを追うすがたから、みな中間とよびかえられる。広場、それじしんでない二重を耐えているまぶた。
 
 

2012年07月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【岸】


てのひらにくぼみをつくり、そのからだの処々をさわった、自分のくぼみをかんじることだけにこだわっていなかったとするならば。くびれというより中間があったにちがいない。そう書いたら中間も存在してしまうが――存在させない。わたしらは岸にすぎない。
 
 

2012年07月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)