半眼
【半眼】
水のなかでにじむ水がある。おそらく屈折率など質の部分的なちがいが、そうみさせるのだろう。おもいでに似て、きえてゆくものの脅威は、ひろがるかたちをともなう。まがまがしさは深度のなかばにあって、層というかんがえまでくるう。なかばの眼をそのうごきすべてへ凝らしている。
煙草のようなもの
【煙草のようなもの】
いつも愛着を一本、二本とかぞえる。だれもとわない石原に柱を立てているのだ。はじめはそれらの配置が、ついではまかれる風のながれが、こころのながめになる。たがいの死角となりながら、あらわれをかなでる複数をあそばなくてはならない。きょうも日であるならば。
紐
【紐】
うみへびごろし、をしていると、手が長くなる。ほねにそって刀をいれれば、半身の世界がうようよとあらわれる。もともとどれだけあわさが詰まっていたのかとおもうほど、いつも分離は分離以上だ。ながさを切っているのだともいわれるが、おそれは手にしずまらない。
昨日のいろいろ
昨日は鬱気分を抑えながら、二冊を読了。ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージの前で』(法政大学出版局、江澤健一郎訳)と内山節『ローカリズム原論』(農文協)、どちらも今年刊行の本だ。
内山の書は立教=21世紀社会センターでの講義採録で、国民国家、市民社会、資本主義の三軸が構造疲弊した現状で、グローバリズムから離れ、どのようにローカリズムを再模索するか、その前段となる思考をやさしく見事に展開する。「風土論」の再提起がぼくにはとりわけ刺激的だった。和辻哲郎の実感した「東アジアモンスーン地帯」と「ヨーロッパ」と「アラビアの砂漠地帯」では何がちがうのか。アラビアには「自然はない」。ヨーロッパでは統御可能な「弱い自然」がある。東アジアでは再生と増殖を繰り返す混沌とした強い自然がある。それらが植物の原生種の数や地震発生数(フランスが例にとられる)から把握されて、返す刀で統治形態から定位されたマルクスの「アジア的混沌」の浅薄にぼくはおもいいたった。統治形態には自然が先行しているはずだからだ。
この和辻の提起がマクロだとすると、長野の諏訪で活動した地方地理学者・三澤勝衛の地勢把握がミクロだ。三澤では最大風土単位が諏訪地区、それがさらに「集落」へと微細化し、「畑一枚一枚でも風土が違う」多層的な風土論が展開されているらしい。ちょうど「美の壺・沖縄の民家」で、庭の入口から風がどう動くかを知り、その智慧にびっくりしていただけに、じつに示唆に富む対置だった。
そう、最近ぼくは「場所」のことをよくかんがえている。むろんそれをマクロに捉えるとローカリズム論と出会うはずだが、ミクロに捉えた「畑一枚」の独自立脚性(土、風向、日照、水はけなど)にも何か光源的な衝撃がある。最終的には場所とはそのまま人間のことだ。人間が不在になれば自然が横溢し、実在になればすべての関係が開始される。
『イメージの前で』は手っ取り早くオビ文を借りれば、《ヴァザーリによる人文主義的美術史の発明から、パノフスキー的イコノロジーの成立にいたる美学の歴史を、表象の裂け目に現れるフロイト的「徴候」への眼差しを通じて批判的に解体する”美術史の脱構築”》。批判から実際の脱構築に入ってゆく本書の中心、第四章(最終章)の「裂け目としてのイメージ」と、それを別角度から補完する補遺「細部という難問」が圧巻だろう。
内山節に関連させ、「場所=空間」にかかわるディディ=ユベルマンの所説を、なかば任意的に拾ってみよう。《〔…〕細部とは、安定性と閉鎖に向かう記号論的対象である。それに対して面は、記号論的で開かれている。細部は同一性の論理を想定し、それによればある事物は必ず他のものの反対物となる〔…〕。面のほうは、まさに形象可能性そのものを、つまり過程を、潜勢力を、いまだないこと〔…〕を〔…〕、不確実性を、形象における半ばの存在を明るみに出す》(447頁)。よく読めばこれは地区ごとの震災復興デザインにも適用できる。
細部が全体の構築要素/単位であるのにたいし、面は基底材であり、空白であり、可能態だということだ。「細部」に現れた「徴候」がパノフスキー的な寓意解釈を非-知に向けて暗く混ぜ返すとすると、ディディ=ユベルマンのいう「面」は細部とは別の界「面」にある。ドゥルーズの参照がないが、その面は褶曲し、襞をなし、自らにかさなって展開する、容積ある思考の運動体なのではないか。
上記掲出で「同一性」の語召喚に引っかかった読者がいるかもしれない。別のところでディディ=ユベルマンはこう書く。《類似における極の二元性が圧縮の作用によってたえず蝕まれているのと同じだけ、模倣的な同一性が置換の作用によってたえず蝕まれている〔…〕。類似はもはや「同一物」を示すことはなく、他者性に感染していて、その一方で類似化する諸項は、まさに項としての明確な意識を不可能にする混沌--「複合的形成」--においてぶつかり合うのである》(258頁)。
「舌を噛むような」思考にみえるかもしれない。同一性を軸にしたミメーシス(ヴァザーリが芸術原理として顕揚したもの)に裂け目が入ってパノフスキー的注釈すら不可能になったとき(しかしそれは時代変遷によるよりも、「視えること」と「視えないこと」が原理的に浮上してきたことによる)、解体がそのままイメージの運動となる転位をしめしている。そのかぎりで同一性が保証を失い、無効化するのだ。
《受肉を前にすると足場が崩壊し始める。なぜなら、イメージそのものがいわば自己崩壊しようとする場が、イメージのリズムが存在するからである。ならばわれわれは、大きく口を開けた限界、解体する場を前にするようにイメージを前にしているのだ》(381頁)。そういえば「叫びなき開口」、その連鎖は、平倉圭『ゴダール的方法』が圧巻の画面摘出でしめしたゴダール的主題でもあった。
ディディ=ユベルマンを読んでいる合間に、ぼくの加藤郁乎追悼文が掲載された「ガニメデ」55号が届いて、一気読みした(これは一昨日)。同人詩歌句誌中、「ガニメデ」を贔屓にしているのは、分厚さ、俳句をはじめとした詩性の混在、それに編集人・武田肇さんの編集後記の鮮やかさがいつもあるからだが、その武田さんの編集後記に、いままでぼくがしるしてきた「場所論」をひっくり返してしまう時間論と感覚論の二句が掲出されていた。転記しておく。
藤の花一年前の一年後
--山崎十生
途中の目見てゐる雪の途中かな
--高橋睦郎
これらは「場所」の句でもある。ところがそれが「時間」の句へとも同時変貌している。やはり問題は「再帰性」ということになるだろう。
病
【病】
やまいあるひととすれちがったとき、眼つむっていたなら、まなうらにしろいひかりがみえただろう。わたげが舞っていた頃そうかんがえ、同時に白をかんじない自分のからだのよわさもやまいとおもっていた。それならわたしもわたげとふれ、ひかりを出していたはずだ。
喜捨
【喜捨】
七癖どころか百癖でできたこのからだは、固有でありすぎて自分をもたない。まがりかどでしゃがみ、こずえのとがりをまぶしむ。百あるものにさとく、ながめの奥行をいつもかぞえる。つるめばしぐさも数になる、よわいぐらいには。それかぎりの糸のとおるこの身頃を、なくせ。
メモ
詩篇をサーヴィス指数で吟味する方法をおもいついた。以下の項目にわけ、詩篇内の該当項目から比率を試算、そこから詩篇のサーヴィス指数を抽出する、というものだ。以下では「サーヴィス精神の発露」を○、「その逆」を●で表した。では項目別に――
・「読解に実りをあたえること(有意性)」=○
・「読解にその都度のブレをあたえること」=○
・「説教性」=●
・「一見の了解困難性」=どちらともいえない
・「フレーズ単位性(換喩)」=○
・「直喩」=○
・「暗喩」=●
・「寓喩」=どちらともいえない
・「箴言混入」=どちらともいえない
・「夢の記述」=●
・「小説性」=●
・「構文単位がはっきりしていること」=○
・「ですます調」=●
・「女性的会話語尾」=●
・「方言」=○
・「異言」=○
・「日常会話性」=どちらともいえない
・「「私」という主語」=○
・「「われわれ」という主語」=●
・「現実立脚性」=○
・「ことばだけをモチベーションとすること」=●
・「抒情」=○
・「性愛」=○
・「能力誇示」=●
・「承認願望」=●
・「難解語」=●
・「地名」=○
・「思想用語」=●
・「食べ物の名」=○
・「花の名」=○
・「詩語」=●
・「サブカル的固有名」=●
・「改行」=○
・「連続性(展開円滑性)」=○
・「全体構造の明視性」=○
・「量塊感」=●
・「脈絡軽視」=●
・「やわらかさにむけた圧縮」=○
・「硬さにむけた圧縮」=●
・「欠落(による異常)」=○
・「文法破壊」=○
・「切断」=○
・「長いこと」=●
・「飽きさせること(同型連続性)」=●
・「リフレイン(リトルネロ)」=○
・「驚愕付与(活を入れること)」=○
・「威厳付与(圧を入れること)」=●
・「秘教性」=●
・「哲学性」=○
・「短詩型との連絡性」=○
・「典拠過多」=●
・「バカっぽさ」=○
・「てれんこ感」=○
・「視覚的構造性」=●
・「約物・記号(の不規則的使用)」=●
・「ルビ」=●
・「平滑性」=○
・「音韻」=○
・「駄洒落」=●
・「七五調」=●
・「八六調」=○
・「連打性/列挙性」=●
・「ゆっくり読むようにフレーズで誘導すること」=どちらともいえない
・「凡庸性」=●
・「独自性」=○
・「天才性」=●
・「動物性」=○
・「努力が透けてみえること」=●
・「「にんげんが書いた」という感触」=どちらともいえない
・「身体性」=○
・「感情」=どちらともいえない
発眼
【発眼】
みぎわにある眼、ねむさと視ることと濁りとがひとつになったそれは、地上の一角で蛇の目蝶のゆれている風だ。そんな眼になるまえの眼が次へうつると、あるものも蝶一頭につきぬと知れ、まことがあった。あふれでる像のほうが涕泣をなしている、泪ではなく。
カーテンがゆれている
【カーテンがゆれている】
ともだちがやってくる夜は、遮光カーテンがわずかにひらき、そこが銀色にぬれている。気配として親しげにあらわれるのだ。その者は、あらゆるものの類似をことばによってでなく告げる。おとことおんなも類似だと。ともだちはこのからだをとおりぬけ、性愛に似たものすらゆらす。
映画を見に行く普通の男
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』(丹生谷貴志訳)をいま読了。映画からストーリーや俳優を抽出できず、作品内にある部分的イマージュに突き刺されつづけ、サイレント・モノクロ喜劇のうごきの奇怪さにもヤラれ、それでもなお罪意識をかんじながら映画に魅了されつづけた幼少期を、「テル・ケル」派の美術理論家が回想した書。プルーストの幼少期にもし映画が誕生していて、その体験を綴ったら、このような本になる、という類推が終始働いた(本書で中心に扱われる映画体験は、占領から解放された第二次世界大戦後のパリの数年)。
スチルやスナップを配し、長いキャプションのような映画イマージュ論をつづる第一部のグラビア的な部分は見事なのだが、具体的な鑑賞作品名を明かさない場合もある、シェフェールが体験した映画イマージュの思弁的な意味をつづる第二部・本論を読んでまずおぼえる感慨は、起動が遅い、ということだった。
ところが、それがシェフェールの資質であり、しかも本書の理論提示のまさに中心でもある、と電撃的に告げられた247頁から、本書は「遅れ」にまつわる、経験したことのない時間=イマージュ=映画への考察書となる。車輪を収めた栗鼠用の籠〔車輪のなかでは栗鼠が走っているが、高速回転する車輪自体は停まってみえ、空間に陥没が生ずるようにもみえる〕、映写機のリール、カール・ドライヤー『吸血鬼』〔そこでは「車輪状」が小道具上の主題系を形成している〕という論法的な前段があっての、以下の衝撃的な文はどうだろう。
《ドライヤーの吸血鬼は、僕には、物語の成り行きとはまったく無関係に、〔或いはそれが死体を演じているということとも無関係に〕まさに、フィルムの回転運動という流れから陥没し、それ本来の静止へと陥没して行こうとする映画的イマージュの遅れの宿命として死んで行くかのように見えたのです》。村上昭夫の詩篇「ねずみ」のような一文だ。
あるいは、こんな文。《僕は輪郭と意志を持った形象を生きているのではなくて、時間という、遅れにおいて何か知れない物質性と化すマチエールを、不可視に向けて遅れて行くかのような、そんな時間の物質性を生きているのです》《時間は目的への絶対的な遅れとしてあり、その遅れは、目的の場の絶対的透明の不可能性において終わりなくイマージュを形成する動因となり、或いは、僕らの世界に意味指示を生成して行くことになるのです》。
映画のコマ表面を「表面的に」うごいてゆく時間に「質量」を感じたとき、丹生谷が訳者解説するように、映画画面への視線は触覚化する。眼は質量を粘土にたいするようにこね、それで時間の進行を取り逃がすどころか、触感に惑溺して、視ながら盲目化する危機すら迎えるだろう。じじつシェフェールは対象の明示性を損なう霧、塵、沼などに奇妙な愛着をしめし、顔を語ればそれが不可視性に裏返る不安を醸成する。
もともとシェフェールにとって映画館は洞窟に似ていて、あらわれるイマージュは脈絡を欠き、それゆえ当人にとってすべてが遅れて形成されることが至純なのだった。イマージュを「ふたつ」のものの同期/非同期としながら形態的類似性でつなぐゴダールにとっては、可知限度を超えた「迅さ」が組織されるが、シェフェールは鈍重さのなかで露呈する映画の時間性が、贅沢にも鑑賞悦楽を導くようだ。そこでは衝突ではなく陥没が見据えられている(そのことで、モノクロサイレントが体験の基準となる)。
それにしても「遅れ」は訳者・丹生谷貴志自身の考察材料でもあった。彼のイーストウッド論をおもいだす者は多いだろう。そこではイーストウッドがじつは左利きで、それゆえ右手によるガンアクションにはコマ単位の遅れがある、それが不如意、哀しみ、生々しさ、エレガンスを同時的に出来させる--そんな官能的な趣旨ではなかったか。
こういう丹生谷だから、シェフェールの批評装置「遅れ」に過剰「同調」するのも当然で、訳注はあたかも、シェフェールの晦渋な文を解説することを突破口に、丹生谷自身の「作品」になっている。翻訳についても丹生谷自身が「超訳」と自嘲しているように、「そしてしかし」といった丹生谷的な接続詞と混乱が満載の、冒険的なものとなっていた。ぼくにはその異様な掟破りの「同期」がおもしろかった。つくりが破格(な美しさ)であることはたしかだが、ドゥルーズ『シネマ』の読者にも、丹生谷ファンにも、必携の「映画思考書」だ。堪能した。
欅二本
【欅二本】
ふたつあることがすべて。ひとつではなく、ふたつを視なければならない。手前と奥行の対や、左右の対をかんじて、脳から眼がくるってゆくのは、衰えが衰えることだろう。眼路とおく欅がならんでいるが、そのならびも分身をもちださなければかんがえることなどできない。
後背位
【後背位】
迅さとは感覚のつながりではないか。たとえばわたしらの見ることは、見ないことへ刻々はいってゆき、あらわれているおんなの裸までとりにがす。眼福はない、それらは停まっていても奥行への運動がありすぎるのだ。見るが迅いかわたしらも迅さを帯びて、すべてを通りぬける悦びとなる。
顔の展覧と矩形重畳
昨日の北大国語国文学会での講演、その演題は、既報のとおり「成瀬巳喜男『驟雨』と高野文子「美しき町」」だった。両作品をチェックしたのち草稿はつくらず、講演にあってはアドリブで喋り、おもいついたことを板書してゆく、という、「古典的な」アナログ精神で臨んだ。自分でいうのもなんだが、喋るうちに自分でも真新しい考えが引き出せた。ただしアドリブでおこなったすべては、記録にのこさなければやがて忘れる。よって備忘のため、細かい説明を省き、その「新しい考え」のみ、ここにしるしておこうとおもう。ただしむろん若干の前提導入が要る。
『驟雨』では岸田国士の幾つかの戯曲、その細部をパッチワークすることで水木洋子の脚色が成立している。それで成瀬映画としては例外的に演劇性がナマに露呈している箇所がある。まず見やすいのは新婚旅行を早めに切り上げて帰京した香川京子が、原節子、やがては帰宅したその夫の佐野周二に、自分の得た伴侶がいかに鈍感で下品な男かを、演劇的演技で語る爆笑喚起の一連(ここでの香川の「可愛さ」はお宝ものだ)。それから原節子が飼っているとみなされている(実際に彼女は自分の家の縁先で餌付けしている)野良犬の「狼藉」を議題にひらかれた「ご近所集会」の場面だろう(その犬は幼稚園で飼っている鶏を噛み殺す事件を起こしている)。
享受する側の「視ること」そのものを映画やマンガのようには実質として組織しない演劇では何が起こっているだろうか。まず客席からの正面性を意識した俳優たちの身体が「概念」「記号」「感情」をまとい、平面化する。ではそれを映画が「逆輸入」するとどんな化合が生ずるか。成瀬はそれに端的な解答をあたえている。
たとえば上述したご近所集会(ならびに早期退職金を経営者からちらつかせられた佐野の同僚たちの、佐野宅における「集会」、原節子が用意した鶏スキ鍋で、硬い鶏肉を噛み切ろうと面々が苦闘する一連)の演出にあたって、成瀬は「ナメ」を介さない無媒介なバストショットでひとりひとり俳優を捉える、という、意図的に「粗い」カットつなぎをおこなっている。喜劇効果のためだ。「顔の類型展示」がそこに上乗せされる。成瀬の映画がいつも「顔の映画」なのは無論だが、そこに徹底的に戯画性を加味するという選択がおこなわれた点で、『驟雨』は彼のフィルモグラフィ中、貴重な例外なのだった。
問題はヒロイン原節子の「顔」だろう。娘役を年齢的にできなくなっても、彫りのふかいその造形の美しさは当時の女優のなかで群を抜いている。ところが「退屈と倦怠」「引っ込み思案」「暗い不平家」「結婚生活がもたらした蟄居性によって生じた狎れと鈍磨」「貧苦」「服装への無頓着」など、「やつし」をドラマ上要求される原は、たんに美しい顔であってはならない。
成瀬はそこで退屈や無関心や反応の遅さといった演技によってまずは原の顔の優位性を曇らせる。ところが原の「引っ込み思案」などの「弱点」は、実際は佐野のみた夢があかすように、原に「少女性」が残存している点とも相即していて、だから原の顔は、「トロい」「オバサンぽい」のに「可愛い」という複合性のなかにじつは組織されている。この複合性は反映性とも隣接していて、じじつ香川京子が新郎への苦衷を切々と語る場面でも、その内容の他愛なさで香川がまずは少女性を獲得したのち、その香川と「同期」することで原の顔が、相手を諌止したり注意喚起したりする「大人の顔」と「少女性の顔」とに見事に「ゆれる」姿を付帯的に捉えられている。とりわけ観客が原の顔に「同意」するのは、数ある振幅のうち、そこに少女性が発露される局面にたいしてだろう。
むろん原の顔の美しさが際立つ場面が幾つかある。それは彼女の位置と彼女をめぐるひかりの偶然の配剤によってもたらされる。たとえば隣人夫婦(小林桂樹と根岸明美)と一緒に行くはずの映画鑑賞を前にして、原が、行きたくないと愚図愚図している場面。あるいは原が蒙ったスリの損金を取り返すため佐野が徹夜麻雀をしているあいだ、ひとり原が編み物をして待つ場面。それらでの原の顔の美しさは、まずは照明効果と連動している。同時に、感情統御の下手さ、けなげさといった「少女価値」ともそれらが接合されている点に注意が要るだろう。
ところで『驟雨』で原節子の最も美しい「顔」はどう出現するか。佐野宅の集会に参じた佐野の同僚たちが原の「美貌」を活用して、早期退職金を原資に共同で串揚げ屋かバーをやろうといいだすとき、原は引っ込み思案なのに、その「世辞」に照れ、その気になり、顔をあかるませる。それはとうぜん原の実態を知る佐野からは表情選択の「誤作動」とうけとられているはずだ。
面々が帰ったのち、原がその共同経営に「店の顔」として参画するのなら、俺は帰農する、別居だ、と佐野が言い放ち、このとき、原が「初めて」婉曲性を欠いたことばで夫の甘い考えを非難、なぜ生活打開のために家庭に閉じこもっている女が外で働いてはいけないのかと反論する。それまでの原の怒りが「記号」だったのに、ここでは完全な実体になる。
もっと微細な表現をしてみよう。このとき原の顔の裏側に女性性が充満し、いわば外形と感情に完全な一致が生じている。この一致状態によって顔そのものが豊かに充実し、それで美しさが一枚岩で形成されているのだ。照明とも少女性との連絡とも無縁な、このシーンでの原の顔の自体的な美しさを、「顔の映画」として『驟雨』を組織した成瀬は待ちかまえていたはずだ。しかもこのときなぜか原の顔には、原以外に何か戦前女優の顔の「美点」を複合したかのような「深さ」「奥行」の印象もうまれている。
映画のフィルムはそれ自体、かたちが矩形だ。その矩形のなかに「顔」は転写され召集され、いわば顔の展示そのものの推移によって、映画も駆動、前進する。大きくいうと成瀬は、「退屈」→「繊細な反映(少女性1)」→「偶然の美しさ(少女性2)」→「誤作動」→「女性性の充実による美しさ」という推移を原の顔に盛り込んだ。気をつけるべきは最後に到来した美しさが、怒りという一見マイナス価値の感情と連接されている点だろう。
さて高野文子の中篇マンガ「美しき町」は昭和30年代の「夫婦」の慎ましい生活をえがき、日曜にどう夫婦がすごすかの問題を提起し、しかもその居宅で工場団地にいる労働者たちの「集会」があるなど(『驟雨』よりもさらに大規模に、玄関に集会参加者の靴が並んでいるコマがある)、『驟雨』との物語内容上の共通点がただちに把握されるが、じつはヒロイン「サナエさん」の顔の展覧も『驟雨』の原節子同様に起こっている。
ガリ版切りの重労働を一晩で仕上げるよう策謀家の印象のつよい隣の同僚から言い渡されて夫が反論できず、とりあえず夫婦が夕食をとる展開となる。このときヒロインがご飯を頬張りながら、「思いつきでイジワルいってるのよ」と発語する。ヒロインが初めてしめす悪感情。それは悪感情であることで彼女自身をいたましく蚕食しながら、同時に真情の瞬間的吐露が人間化をも呼び込み、やはりそれ自体が女性性と連合した「美しさ」を形成する。
それがひとコマという「数瞬」の単位で捉えられ、だからこそ、顔の対称性のふしぎなゆがみ、眼の下の数本の線が睫毛か擦りでできた赤みか記号解読できない不安定性がもたらされてもいる。じつは瞬間的に現れた感情とともに、この描き方の不安定性こそが美しいのだった。そこでは時間捕獲の動態が同時に表象されているといえる。
夫婦は労働組合運動のガリ版切り、印刷を共同作業、徹夜で敢行する。もともとこのマンガは天地全長の短冊形、縦長のコマによって一頁を三分割構成するなど、大胆なコマ割(さらには豊富な画角設定による構図が人体や室内を部分的にとらえること)によって読者の読解速度を落とし、それによって記憶、一瞬、永遠といった時間論的な主題を画面展開上に語りうる考え抜かれた構造を実現していた。そのなかでこそヒロインの「一瞬の」表情が、悪感情の表出をつうじ逆説的に美しかったのだ。
高野は、マンガ自体の「構造」を画面によってメタ的に打ち出す。ガリ版印刷に刷られた紙は、乾かすため狭い部屋の床一面にひろげられている。そのようすを高野は、天地全長、短冊形のコマいくつかで、大胆に描写した。ならべられる紙の矩形がそのまま図像的に連続、しかもそれをコマ自体の矩形が危うく内包している、ほとんど矩形だけの抽象的な構成がもちいられたのだ。このとき、その紙をしめすひとつひとつの矩形が、空間を描写したものなのに、時間軸上、たとえば「顔」の変転を載せてゆく単位の重畳にみえだすのも必然かもしれない。
矩形重畳は比例美を意識してコマをならべるマンガ表現の前提で、とくにコマ線に斜め線をつかわず、天地全長コマなどを配分する高野では最大限に意識されている。室内の奥行きを正面ショットの縦構図で捉える成瀬もまた、その襖、障子、家具、畳の配剤によって画面要素を矩形重畳化する達人だった。ところが『驟雨』では斜めからの画角がつづき、正面性ショットがつくりあげる構成美的な矩形重畳がずっと禁欲されていて、この禁欲がラストの一連でついに解かれる。順序はこうだ。口喧嘩の翌朝、佐野周二が食事後、縁側前にすわっている(家という矩形的な塊を「地」にして縁先への開口部という矩形が提示されている)。朝刊をひろげると、冒頭のディテールが反復されて夫がまだ読んでいないのに新聞から料理指南記事がやはり切り抜きされている(新聞紙の矩形のなかにある切り抜きの矩形)。ただしそれらは斜めからのショットで捉えられている。
そこに「紙風船」を重要な小道具にした山中貞雄『人情紙風船』の記憶がまつわってゆく。隣家から幼女ふたりがそちらにまいこんだ「紙風船」をとってくれ、と依頼するのがきっかけだった(言い忘れたが、佐野の家のある一帯は同型の文化住宅が狭い間隔で櫛比していて、その空間的な印象が『人情紙風船』の棟割長屋に似ている)。
佐野が縁先に出て紙風船を「打って」返そうとするが運動神経の悪さと風で方向がおもうようにならない。いつしか原も紙風船打ちに参入、夫婦間の打ちあいに様相が変化してゆく。佐野の家からみて紙風船の幼女たちの家の逆側に住む小林桂樹と根岸明美も、その馬鹿らしいようすに気づき、庭に出る。このとき初めて幼女たちの家の側に立ったカメラが「その家の庭」「佐野の家の庭」「小林の家の庭」「さらにその向こうの家の庭」を奥行きにすべて透視するような清澄な縦構図が実現され、この構図の完結性によって画面の「終」マークが出るのだった。ここで画面が矩形単位を最大限に重畳させているのはいうまでもない。
棟割長屋の庭側の空間連続を画面に繰りこむのは、もともと矩形重畳を室内縦構図で見事に実現していた『人情紙風船』に先例があった(霧立のぼるを匿っている河原崎長十郎が縁側から隣の中村翫右衛門の部屋のようすを窺う場面)。その構図を成瀬はよりはっきりと意味化した。夫婦仲、その相互役割の多彩さなどは、もっと大きな「人間的」同型性のなかに繰りこまれる。そうしめすため、奥行き方向へ同単位の親和的な連続をつくりあげたのだった。このように総論提示を図像的に実現してこそ作品が終了できたといえる。
じつは高野文子「美しき町」でも、隣家の意地悪な同僚とその妻と、集合団地に住む主役夫婦がベランダ越しにやりとりをする場面があって、そこで正面性構図がつかわれ、ベランダが奥行きにむかって数々並び、矩形を重畳させてゆく数コマがあった。ならば、「なぜ女性の顔の展覧をおこなう作品は、矩形の重畳という画面要素を付帯させるのか」。
答はもう書いたようなものだ。顔の展覧を刻々おこなう作品の「時間軸」があったとして、それが空間上に転化され、そこにさらに単位的なものが打ち出されれば、「矩形重畳」はただちに現象される。「矩形重畳」は、差異あるものがもっと大きな枠組では、連続性によって「普遍」をつくりあげていることの示唆なのだ。文化住宅の庭や、集合住宅のベランダの空間連続であきらかだろう。そこに発動されている視線は、じつは世界のなかからそれ自体の親和性を抽出するもので、だからあかるさと賢明さをもっている。
女性が瞬間的にいろいろな顔をもち、そのなかに少女性のうつくしい亀裂もあれば、女性性の感情を充満させて存在と美しい一致をみることもある、という認知も、女性を一様性のなかに固着させない、親和的な「ときほぐし」であるのはむろんだ。だから『驟雨』と「美しき町」は、「構造的に」、時間軸上では顔の展覧を、空間上では矩形重畳を出来させていたのだった。つまり両作は設定、主題、細部に共通性がある以上に、時空創造の構造が似ていた。
「美しき町」ではガリ版印刷が終わったあと、対象を捉える(空中)立地点が「窓の外」に移る。それで窓の外から窓のなかの夫婦を見やる成瀬的構図が一旦出現する。作品終結にあたり成瀬が山中を導入したのにたいし、高野は成瀬を導入したのかとさえおもう。けれども高野はさらにコマを展開させ、窓のなかの夫婦をより遠くから見つめ、最後には明け方のその部屋の窓あかりは一頁大のコマ中央の遠点にまで閉じ込められる(これは成瀬ではありえない外延拡張運動だ)。暁闇のなかに、トーンを貼られた工場団地群がさらなる矩形重畳として浮かび上がっていた。そうして作品が終了した。
このときのナレーション・ネームは、夫婦のささやかな苦闘も、いつか時が経って思い起こせば、永遠のなかのちいさな瞬間と捉え返されるのだろうか、といった意味合いのものだった(夫婦ふたりの日曜日の散歩のようすがインサート的に織り込まれてもいた)。そう、その「永遠のなかのちいさな瞬間」は、怒りを表した原節子の顔の美しさでもあった。むろん女性性を捉えるまなざしは、永遠の「地」に多様に存在している瞬間を、親和的に摘出する以外にはありえないだろう。
受胎
【受胎】
道をゆくと、あゆみが長さともつれてしまう。それを疎み、帰ってからは丈のひくいものを、おのおの離してならべた。そのものの隙間までがあらわれているかはわからない。とりあえず腺がひらき、胎内が壜のごとくみちて、ぼんやりと自分のわかれも愛された。
相殺
【相殺】
くさはらに柱時計をよこたえると、おんなをおさめた柩にみえる。久の字のあるところ、おんなと時間がひとつに均され、おおきなものの衰えが左右にふられている。時報は鳴るだろうか。鳴ればおんながきえるか、そのまぶたがさらにひらくかして、消長もひとつに均される。
座
【座】
ひとのいる場所がいない場所ともおもえるときは、ひかりが作用している。その者の肌がひかりを吸い、その吸いこむ気配だけがひとに代置されているのだ。そういう座はえがくことができない。さだまらず、つねにうごいている多孔がすでに憶い出か。いたましい蚕食に似ている。
詩の授業
大学で現代詩を教えることに何の意義があるのかと、ときにおもう。現代詩の存在する場所からいって、それは教養形成にはあまり関わらない。でもそういうことは、対象を現代日本映画にしても現代ポップスにしても現代写真にしてもほぼおなじだ。実作者を育てるという目標を邪推されることもあるが、教示=実作促進という設定は、実際は逼塞的で、それではリベラル・アーツが眼中にない専門学校の授業になってしまう。「あなたがたの知らないもののなかには、こんなにおもしろいものもある」という親切な情報提供でもむろんない。
詩の授業では、たとえば詩作者ごとに詩篇を精選したプリントを配布する。それを学生に読んでもらい、印象や批評を語ってもらう。ただし多くは、ぼく自身が行ごとに精緻な読解を試み、そこから全体構成にみなぎっている創意を示唆、さらにはその詩作者の独自性とは何かを、語法や主題から吟味してゆく。そう、読み方の提示を実践的に率先するわけだ。ただし「この詩はこういう意味です」というふうに、メタファーの「解答」を語ったことはない。
いろいろな「道具」をつかう。今期の女性詩講義では、「メトニミー」「自己再帰的削除」「時間形成」「性」「身体観の発露」「改行などにみられる作者の身体性の刻印」「音韻」「融即」「自己把握の哲学的変貌」などをつかった。その詩が体現している何によって読者がテキストに「参入」をうながされるかの注意喚起もおこない、そのうえで詩が賞玩され、記憶にのこってゆく(人生上の)意義も語った。
逆にいうと、読者が「参入」できない詩篇を俎上にのせなかった。そういう参入不能性は一定の形式をしている。①ことばだけがモチベーションとなって、地上連絡性、場所性がない。②ことばの誇示になって、不当に読者の詩作的向上心、功名心を反射させる。③意味もなく難解か独善的なので、詩の細部をほぐすように注視してゆく読解のよろこびをあたえない(「衝撃」はあるかもしれないが)。④フレーズがつくりあげてゆく読解速度に、減速装置がともなっておらず、喧騒感だけが助長される。⑤詩性とは何かの自己吟味がおこっていない(これは実際にはメタ詩であるか否かに一切関係がない)。⑥詩性ではなく文学性だけに依拠した、教養誇示の傾向がある。
まあ、これらがかつて「現代詩病」の症例と指摘されたもので、男性詩の相対的な退潮にともなって詩作フィールドに風穴があいてきたのも事実だが、こまかい反動は詩作者ごとに散見される。そういう「現代詩病」以外の詩作に着地しようとすると、「しずかで」「よわくて」「哲学的で」「地上性があって」「身体があって」「しかもその身体把握の再帰性に驚きが走る」詩篇が顕揚されるようになってゆく。つまり「現代詩病」を扱う授業なら社会学の授業になってしまうところを、たとえば「しずかさ」に注視させることで、「哲学的な反転」を狙うわけだ。
そうして、だんだん詩の授業の意義がみえてくる。まず他者の「存在」「作品」に崇敬を払うことの大切をつたえるのは当然として、たとえば哲学がことばを「つかって」物事をかんがえるのにたいし、詩はそうした土台にあることばそのものを「機能拡張/機能変改する」ことで、哲学の内外に思考を浸透させる使命をもっている。しかもそれはたとえば暗誦といった身体にかかわる「道具」ともなる。だから音韻のわるい詩は、詩の要件を欠く、ということにもなる。
こうした詩的思考は、たとえばテマティスム構造批評などの思考「技術」にたいし、終始本質的な奥処にあったもので、じつは対象が詩でなくても、文学・芸術のどんなものにでも適用が可能だ。ならば詩の授業とは、詩篇の実際の把握をつうじて、まずは拡張可能な詩的思考こそを形成することではないか。そのつぎに、たとえば「ことばの音楽」に酔うことの悦びを、彼ら彼女らの人生上の遠点に転写することが目論まれる。となると、配布プリントに、対峙に値する詩篇が並んでいるかどうかが勝負となる。そこで詩そのものに脅えさせてしまうような難解・独善的な詩篇がならぶことはありえない。
詩の授業の目標をこのように書いてみると、何か大層なことにおもえるが、実際は教師と学生が顔をつきあわせる親密的な可視性のなかですべてがおこなわれる。だからいつとも知れずに、伝えたいことは伝授されてゆくようだ。学生が詩篇をこっそり渡してくる。その出来の良さに驚きつつも、そこにはあきらかに授業内容を消化した痕跡がある。あるいは卒論指導教員を、ぼくに換えたいという依頼がじかにくる。そういうとき、「まずは」事実の次元で、詩の授業の有意性があかされた、とおもうのだ。
来週水曜が最後の授業。清水あすかさんをとりあげ、授業内で期末レポートと詩篇を各自から回収する。そういえば前回(昨日)は、斎藤恵子さんをあつかった。
とびら
【とびら】
そばにわたしのいないことが、はなれたたましいを泣かす。わたしは、いることの紋章なのか。とびらの内外に背中あわせでもたれている感触がきっとこの夜で、とびらが実際あけば関係も消え、星群がはいりこんでしまう。けれどわたしは出てゆく。とびらのおわり、きれい。
共生のカメラ
今日の未明から朝、午後にかけて、これから公開される二本というか三本のドキュメンタリー映画を観た(その後昼寝した)。東日本大震災での避難所を固定的拠点にして被災者を見つめつづけた藤川佳三監督の『石巻市立湊小学校避難所』と、平田オリザの演出と活動、青年団/こまばアゴラ劇場の組織を捉えつづけた想田和弘監督の(合計5時間42分にもおよぶ)『演劇1』『演劇2』。公開時期に近づいたときに、より詳細な評論を書こうとおもうので、いまは直観的なことだけを投げつけておこう。
避難所でも劇団でも、その「内部」に入り、ドキュメンタリーのカメラが対象と「共生」するとき、カメラは一旦、その内部特有の内部性に支配され、文脈化をこうむる。その際、カメラ=撮影者が「班」ではなく、単独の個人であることが要件となる。つまりカメラは「一対多」という関係性の先端にあって、その「一者」の緊張が対象のつくりあげる内部性によって、刻々馴化をうながされていることを、観客は内容以上に感じるのだ。
たぶん時間的に刻々と生起してくる撮影すべきものとは、「現実」のつくりあげる展開力の自然状態にすぎない。一旦の馴化のあとは、現実と照応関係にある撮影は自然に延引されてゆく。このとき、現在的ドキュメンタリーは「どう終わるか」が最も注目点になる。注意すべきなのは、作品の終わりというのは、「論理的な結論の提示」でも「感動化の完成」でもなく、「多かったもの」から「ある小ささ」を引き抜くことでしか成立しない、という点ではないか。
世界は複雑化した。その内部にちゃんとドキュメンタリーのカメラがはいれば、膨大な量の映像が収録される。デジタルカメラがとくにそれを可能にした。複雑化のきわみにあるものは、単線的な(物語)還元を受け付けない。だからドキュメンタリーの「手順」は現在、マイケル・ムーア的な「反動」を除外すれば、おおよそ以下のようになる。撮影期間よりも長い編集作業期間。映像素材の「整理」「切断」「接合」は従前のドキュメンタリーに較べ、論脈形成的ではなく音楽的なものに変貌する。映像配列の直線性と了解性を低い次元で短絡させてしまうナレーションは、TVドキュメンタリーからの距離を自己申告するために排除される。
そうしてできあがってくる作品の組成は徹底的な並列性となり、意味単位としてそこでは「島」「房」というべきものが形態発生してくる。できあがろうとするものはいくら編集をほどこして理路づけしようとしても「それ自体の世界内部性」を呼吸しつづけ殺すことができない。だから「多かったもの」から「ある小ささ」を引き抜くことでしか、作品が終わることができない。実際、このように抽象化してみると、『石巻市立湊小学校避難所』と『演劇1』『演劇2』をたがいに相同な映像組織と呼ぶこともできる。
『石巻-』では「はじまり」は、劇伴音楽として導入されたシカラムータの見事な演奏によってはじまった。ということは「はじまり」を映像的な発端でつくれなかったということになる。「終わり」は震災七カ月後の避難所の閉鎖という一見わかりやすいものに設置されているようにおもえるが、実際は避難所内の、モノのあふれかえり、所有物の個別性の境界線が存在していない空間的雑然がどのように静謐にまでつうじる「再配置」にむかってゆくか、その予感の小さな連打によって、作品が終わる準備を賢明にかさねていた。
コケットリーをもつ小学児童「ゆきな」ちゃんを藤川がカメラをもち質問で追い詰めたときに、雑然から整理へと予感がうごき、そこでついに作品が禁欲していた、石巻を襲った津波の映像が召喚され、いわば被災後の現実が、どのような現実の記憶に後置されていたかの整理が起こる。
ところがこの『石巻-』には光景の雑然をあらかじめ凌駕している映像が反復的にしめされていた。それが湊小学校校舎に配列された窓、その矩形重畳の機能的なうつくしさで、ぼくは被災民それぞれの絶望を排除する存在感や、抑制的にしめされてゆく心中とともに、そういう人間性とは別個にある窓のたたずまいに惹かれつづけた。それが「多かったもの」にたいする「ある小ささ」の位置を形成していたからだ。
それが『演劇1』なら最終部分の、劇団員・志賀廣太郎への企みにみちた(それは「演じること」を入れ子状の光暈に押し込む)サプライズパーティ、『演劇2』ならおなじく最終部分、稽古中の平田オリザのどうしても睡魔に勝てない草食動物的な瞼、ということになる。それらは日常会話性、演劇的発声の禁止、科白カブリの積極的導入、「見得」につうじる舞台平面性(「前面」を意識すること)の排除などから成り立つ平田「ハイパーリアル」演出とは次元のちがうズレの界面にある。つまり自らなした(しかも稽古で変貌しつづける)俳優の科白に「ハイパーリアル」をあたえるために、口調と間と抑揚を微細に調整しながら、同じ流れを反復しつづけるときに映画の観客が脅威視した、「ミリ秒的微差」とはちがう単位の時間性の到来だ。ところがそれは電車内の座席で本を読む平田にもたれかかって眠るOLの無防備な動作反復にこれまた「小さく」予行されていた。
執拗ともいえる、平田オリザの稽古の反復をできるかぎり省略しないこと。それがとりわけ『演劇1』の「長さ」を有機化したのだが、「反復と差異」にたいしてカメラはある突破口を発見している。通常なら同時多発的な俳優発声をリアルの徴候とする平田演劇では、すべてを一挙に捉えるためには引き画面しか選択できない。ところが反復をカメラそのものが思考(志向)しているから、一回ずつの試行ごとに、カメラは同時多発的に生起しているうちの何者かを取り出せばよい。それで反復を利用し、本来なら距離によってしか全体化できないものを、カメラは膚接にちかいかたちで実現できる。このときじつは演劇性と映画性の差異が前面化されている。こうした思考的な巧緻が、平田オリザに似ていながら(=反映的でありながら)、小さな別次元を提出している(=脱反映にむけて突破が実現されている)とも気づいたとき、平田ともフレデリック・ワイズマンともちがう想田和弘の「観察」の質におもいいたることになる。そう、想田は青年団の完成舞台をほぼまともに、のこしていないのだった。
平田オリザの舞台は現実から採取されたような関係性の立体で、それでもそれは観客の観察をうながすために「系」の閉鎖性、すなわち結界性をもたざるをえない。それは稽古場でもおなじだ。ふつうならカメラは想定される観客席の位置から、つまり外部から、それをみつめようとするだろう。ところが想田のカメラはやがて「系」の内部にはいって、それ自体が対象をみつめるための刺繍的なうごきを開始し、このカメラの生態が実は劇場入りしたあとの舞台リハーサルで最も生気を発揮してしまう。そしてここでも、杉山至の設計した(設置は俳優をふくめた劇団員総体でおこなわれる)装置が、柱と梁によって矩形を重畳させている。ひとの呼ばれる「空間」がどういう抽象的な質を期待されているかを杉山は知っていて、その空間にひととともに想田のカメラも入るのだった。感動的というほかない事態だろう。このことが共生の本当のすがたをしめしていたからだった。
声のまがり
【声のまがり】
ながれを踏むこころ。それじたいの曲のまがりにつつまれて、藻のなかへあしのうらが落ちてゆく。川となればゆれるおもみもかんじる。もう声帯ではなく首でうたうひとだ。影と筋をうむ息にはふかい婉曲があり、それでひとに鮎のかおりあることが、耳にまでもひろがる。
今日のいろいろ
榎本櫻湖さんから「臍帯血WITHペンタゴンず」2号と、「モンマルトルの眼鏡」、ふたつの同人詩誌のご恵贈を受けた。なかでも「モンマルトルの眼鏡」に掲載されている鈴木一平さんの「不具合」にとりわけ感銘した。「抒情の痕跡」をしるしている部分をはずして、以下に引く。文法の壊れがすばらしいので。近藤弘文さんの以前の詩風をすこしおもったが。
【不具合】鈴木一平
明日から骨格をきれいに打ち上げている
残りの音と話していたのだが
ここからだと思い、舌の上の耳に行く
走り回るだけになった私が
足音になってしまったものたち
浜辺で おどる
私は中身が
落ちていた服を脱いだら
失う指を代わりに使ってみることだ
〔…〕
〔…〕
ぼくは雪のふる
える耳まで私である 日も間もなく
まるで針金か何か
まるで結べた関節それぞれ
そのため、削いだ耳が
日暮れの近い季節になっていくように
〔…〕
遅れて聞こえると
誰もいなかった私が
どうしても混じってしまって夜なのだ
何も騒いでいる、静かでなんかない
どうして
ととのえられて宿屋になってしまったんだ
やがて一斉に明かりも点き始める
〔…〕
●
今日は北大からの助成が確定した映画評論集、その原稿の最終チェックを午前におこなって、編集者にデータをメール、それだけで疲れてしまった。あとは音楽を聴いたり、録画済のTV番組をぼんやりと観たり。
音楽ではこのところ、90年代末期結成の英国インディ・バンド、ブラックボックス・レコーダーの1st『イングランド・メイド・ミー』をよく聴き返している。歌姫ひとりと、マルチミュージシャンふたりの編成、ということからわかるように、スラップ・ハッピーの影響を受けている、とは感じる。英語歌詞だが、歌詞カードのない状態でのCD所持なので、歌詞分析ができずにもどかしい。抒情性と政治性が混在しているような気もするが、よくわからない。
サラ・二クシーの透明かつ憂鬱な、それでもブレのない歌声は、「少女機能性」として寸分の隙もない。同時に、(たぶんルーク・ヘインズによる)チョーキングも何もない機能的なエレキギター(アルペジオとはちがう単音奏法が中心)が「余情を切り詰めたゆえの余情」みたいなものを表現していて、そこにいまだに惹かれているようなのだ。構えたコードから出されるゆっくりとしたアップ・ストローク(一音一音が分散する)のすばらしさも、ドアーズの「エンド・オヴ・ザ・ナイト」からの現在形といえる。すべてが永遠に新しい。
このバンドのこと、もっとよく知りたいんだけど、ネット上でもあまり手がかりがないなあ。「トリップ・ポップ風」という形容があるけれど、たしかにリバーブの使い方が抜群にうまい。音を左右に振り分けるステレオ化も抜群に良い。音がすくない、ということを前提にしたバンド音なんだけど。
録画していた番組で震撼したのが「日曜美術館」の磯江毅の特集だった。「写実画」が精密限度を超えると、幻想性ではなく、事物の宇宙性というべきものが浮かび上がってくる。そこでは静謐が事物の寓喩となり、よって生気と廃墟性の区別がつかない。裸婦でも静物でもそうした二元性にたゆたい、一刻ごとに視線が奪われてゆく。まるで自分の「鼓動」を「視ている」ような気分におちいるのだ。
とりわけ鉛筆画では、こまかい「線」で陰翳と質感が表わされる。この線が大事だ。だから一見、写真に似つつ、写真から最も遠い、反転的な写実性がそこにあるともいえる。スペインで写実技術を学び、最終的には西洋でも東洋でもない真俯瞰静物画に行きついた細江の夭折が本当に惜しい。その静物画はフランドル的な「世界蒐集」性とは終始無縁だった。ぼくは彼の静物画とおなじ「配合」を知っていた。ベンヤミンのアレゴリーがそれだ。
いずれにせよ、接写、移動といったカメラワークを駆使する「日曜美術館」が、「肌理」にかかわる最高のドキュメンタリーとなったのが、この磯江の特集だった。溜息が出る、というより、固唾を飲みつづけた。TV鑑賞でこれほど緊張したことはない。むろん快い緊張だったが。
分離
【分離】
ゆうかげにつつまれ、うすももいろの切身に庖丁をいれる。ひきおとすまでの数瞬、刀身にまぢかの魚肉が恍惚と映る。みずからがずれて分離する天国断層、それこそを、まないたのうえに見、そのみていることも切ることなのだ。悲鳴はわからない。けれど動作においてわたしも分離する。
蒸発
【蒸発】
手をつかったら、掠めるうごきとなった。ひとのうつくしいからだから、そのうつくしさを剥がそうとして、けれどもうすさを得たのだ。てのひらに載せるとそれは風にふるえ、前方をあかるくした。となりあうひとも、蒸発しかかっていた。
今日のいろいろ
今日は21日(土)におこなわれる北大国語国文学会での講演の準備をするはずだった。ぼくの演目は「成瀬巳喜男『驟雨』と高野文子「美しき町」」。映画とマンガにまたがる話柄で、しかもビデオ上映、OHP上映が組み込まれる忙しい講演になりそうだ。
これらに接したかたにはおわかりかとおもうが、『驟雨』と「美しき町」は部分的に構造がすごく似ている。たとえば賃貸住宅のなかで「集会」がおこなわれ、その家の妻が忙しく立ち働くこと。戦後の独立夫婦の生活苦。いや、それよりも「怒り」をしめした妻のふとした表情が「いたましさ」と連動して最も美しく感じられるとき、女性性において本当は何が救抜されるべきかという問いが、二作に「共通して」出されているのだ。
一瞬の変化、誤作動、「突拍子のなさ」−−それらの女性性が、実際はヒロインたちのもつ「肉感」とやさしく離反している。固定的な女性観が黙殺してきたそうした瞬間。それを映画のショットやマンガのコマが自己展開するとき、作品そのもののもつ「時間」「空間」の全体までもが慎ましい豊かさを帯びて付帯的に変貌する。
だから『驟雨』なら音の消えた最後の朝、紙風船の導入を契機に佐野周二が、さらには原節子が庭に出て、文化住宅の一軒一軒の庭を奥行きにむけて連続させる「大団円」の縦構図が実現される。山中貞雄『人情紙風船』へのオマージュもこめたその構図はずっと作品のなかに秘匿されてきたのだが、この構図の登場によって作品は、諦観ともかかわる「時空の普遍」を最終的に定着させたのだった。逆に成瀬的「ショット」を連打する「美しき町」では、もっと微細なものに視線が移る一連で圧倒性を発揮する。たとえばヒロインが歩く線路道で、日照をうけたレール上のひかりが自分の移動によってどううごくかが感覚される場面。この「うごくひかり」が「裁縫の運針」という女性領域の語彙に転化されて、ぼくなどは感動におぼれてしまう。
ともあれ、日常の裂け目にちいさな永遠をとらえるまなざしこそが、映画、マンガと表現形式が異なっても両作に共通している。もういちど図式をつなげば、「一瞬の変化、誤作動、「突拍子のなさ」=日常の裂け目、ちいさな永遠」となって、これらが女性的領域から出されれば、男性的な堅牢性も瓦解にいたる、という確認ができる。むろんこれらは、かたちは瓦解だが内実は創造で、視野を拡大すればかつてのAVにも多くあったものだ。
ところが今日は『驟雨』の細部確認をおこなおうとしていたら、階上の部屋の解体・内装工事の音がうるさくて、ビデオ確認は工事のない夜にしよう、と昼間から「晩酌」して寝てしまった。午前中、工事音のもとでは読書するしかなかった。一冊を読了したが、読後感がよくない。ただし廿楽順治さんが送ってくれた「ガーネット」67号には素晴らしい掲載詩篇が多く、こちらでは良い気分にさせてもらえた。列挙的にしめせば、大橋政人「足が長くなる」、高階杞一「金魚の夢」、高木敏次「別人」、廿楽順治「辰三(弟)」にとりわけ感銘をうけた。それと高階さんの詩集評で全篇引用されている草野信子「ゆりあげ」を、現地的当事者性をもたない者がしるした最良の震災詩だとおもった。
夕方、郵便受を覗きにゆくと、七月八日(日)の東京新聞が届いていた。書評欄に阿部和重『幼少の帝国』を論じたぼくの書評が載っている。いつ付の新聞に載るか事前に教えてほしいと依頼していたが、突然の現物郵送となった。なお、書評欄にはほかに、千石英世さん、武藤康史さんと、ぼくの知り合いによる書評も併載されていて、世間のせまさに驚く。あるいはまだ買い置きのままのジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』の書評(雑賀恵子さんによる)もあって、それにも親しみをおぼえた。むろん知るひとぞ知るように、一般紙では東京新聞の書評が、書評対象本と評者の選定で最も自由度が高く、活気がある。反原発論調の果敢さだけが東京新聞の良さなのではない、ということだ。
昨日の夜は授業のあと学部生と飲んだ。院生とは懇親会や研究会のあとによく飲むが、学部生とは初めて。北海道の学生生活がどうなのか、彼ら彼女らの情報収集がどうなされているのか、など、リアルな話がつたわってきた。
さあ、これから『驟雨』鑑賞。
時計
【時計】
あのひとの立つすこしうえに、空がかぶさっている。重みが軽さにすぎないとしめす、あの媒介的な直立にあこがれる。胸には蓋があって、ひらくと薄さがひろがってゆく。めぐみをうけた肺は、ひかりとけむりも弁別しない。あのひとをささえる丘がすでにめぐりではないだろうか。まわる。
寺
【寺】
朝はならべる。ならべたときが朝だ。ひかり、音、食べもの、読みかけ。それら基準値のちがいでからだをくもらせ、ゆっくりした待機となってゆく。似ない同士が似ているこのよろこびのなかに、たとえば六腑もとなりあって、全体はしずむ寺のひそけさだろう。
やりなおす
【やりなおす】
画布にさだめられつつある顔、その肌に黄をぬる。ひかりとかたちによる肌の川に、おもさのちがう黄をながせば、うつくしい時間もあらわせるはずだが、うまくゆかない。あの世の色にしたいのに、この世へひきもどされるのだ。黄をやりなおす過程だけが数珠のようにつながってくる。
柿沼徹・もんしろちょうの道順
畏敬する詩作者・柿沼徹さんから新詩集『もんしろちょうの道順』をご恵贈いただく。もちろんさっそく読む。いつもどおり柿沼さんの詩集は「少ない」。ことば数がもともと少なく、思念がぶれないから修辞も少ない。ことばはそれで裸になっているかとおもうと、それは間違いで、哲学的な理路をつうじて出されたことばのつらなりは、それ自身への再帰力をもって、なにか一重のものに何重もの発語過程がひそみ、それがたまたま「そのかたち」の一回性をもっているのではないかと感覚され、そのことの畏れにも染められてゆく。つまり「少なさ」は第一に何重の意味での「凄み」であって、その次に再読誘惑性が組織される。この柿沼さんの詩作のありかたに、今度もまたあこがれた。
「私」と「その場所」にかかわる考察が、柿沼さんの詩のフレーズの核心にはいつも伏在している。最後に収録された詩篇、「敵」の一聯・二聯――《とおい煤煙のように/木立がけぶっている//私のいない場所に/行ってみたい》。戦慄する。逆をかんがえればわかるだろう。「私の行く場所には、いつも私がいる」のだ。ところが、「けぶる木立」には「私のいない場所」の痕跡をなぜか抱えている。とすれば空間にはもう時間性が加味されていることになる。その時間性をなんといってもいいが、「未生」「死後」というのが早いかもしれない。そうした光景にも、「戦い」がある、と詩の後段で柿沼さんはしるす。
「私」は「除外例」にはついになれない、というのは絶望だろうか。ところが柿沼さんの詩篇では除外例もあって、けれどもその例示があまくならない。それが彼の独自の「位置」なのだ。だからただの(離人症的)「不安」ともちがう。さっきぼくが引用した箇所と「対」になる場所、つまり冒頭詩篇の最後の一聯がそのことをしるしている。《いま私は/駅前の喫茶店で/コーヒー豆の焼ける匂いを感じている/それが私であることはふしぎだ/窓の外は/傘をさした人々が行きかい/目に見えるものすべては/雨空の下ではっきりとしている/私以外は》。
驚嘆した「コロのこと」「欅」も収録されているのが嬉しいが、そのほかでは「空き缶」が「物の占める場所」の決定性をしめして戦慄的だ。奇数聯を引用でつないでみる。1《コーヒーの空き缶が/歩道の上にころがって/陽光に照りつけられていた》、3《空き缶が/私と直線で繋がった/空き缶が/動かない「空き缶」にくい込んだまま/私の目を凝視していた》、5《動かなかった/そこにころがっていた/そしてあたりは/空き缶の外部だった》。最終聯5の自明性のもつ戦慄にどこか再帰性の痕跡がある。それで第3聯で対置的にあらわれていた「私」と「空き缶」の空間配置すら危うくなる。「私」は、「空き缶をみている私」でありながら、「私をみている空き缶」でもあることがそれでこそ滲みあがってくる。
この着眼と「シノハラさんのこと」での以下の詩行が通底している。《岩が咲き乱れる見え方をそのままに/見つめるしかない自分を/遠くに/近くに/見つめているのだろうか》。しるされているのは「シノハラさん」の感覚、その類推だが、むろん詩中には明示的にならない「私」の感覚そのものも他人事のように類推されている。「私」の「位置」の可変性。それは「私」の思念対象によってもたらされる。このことの痕跡がちいさく、次の「川べりへ」での、うつくしい聯に反射している。《ある日/水の流れる音を/聴きたいと思った/胸の高さで》。
驚嘆に値する詩篇が並んで、しかも詩篇と詩篇とのすきまに静かな哲学がながれている。それが並列性から中心化へと位相を変えるのは「私」にかかわる考察を促されるときだが、柿沼詩集の美点は、その哲学性が声高ではなく、しかも「私」そのものすら、しるしたように脱中心性に息づいている点だ。だからなにか透明なひかりのようなものが、簡潔な措辞に何重にもみえてしまうことになる。とうてい、できることではない。しかも詩篇が「彫心鏤骨の削り」によるのか、「そのまま書かれただけの自体的自明的現れ」によるのか、けっして判断のつかないところも、柿沼さんの追随を許さない美点だとおもう。ふつうはそのどちらかに解答が出るのだ。
詩集内に唯一、散文詩形の「予定地」が収められている。そこでは措辞の上で「母」の死が間接的にしめされているのと同時に、「空間」に仮託されて「さらに間接的に」それがしめされてもいる。そうして間接性の謙譲と慎ましさが重畳形で現れていて、そのありように襟を正した。正したうえで、詩篇がかさねのなかにつつみかくす寂寥にも泣けてきたのだった。
双眼鏡
【双眼鏡】
きいろく咲きみだれる、はるかなむこう、双眼鏡をもつ彼がこちらを覗く。みるものとみられるものに、それは恥しい類似を起こす。だからこちらも、あふれる黄におぼれている。いや精確には、こちらは色をつうじ裏返されてさえいる。かまえからでも転覆がつたわるのだ。
消滅
【消滅】
ついに中空みだれ舞っていた、ポプラの綿毛がきえた。ふたつ迷宮があった。雌雄異株のポプラがじつはならぶ男女だったこと、かるすぎる綿毛の舞いが曲線軌道だったことだ。視界はしろいはらわたをくぐらせ、生まれ変わり死に変わりするものに生きをあたえた。それが危うかった。