綿矢りさ・ひらいて
綿矢りさ『ひらいて』は優秀な小説だ。『夢を与える』『勝手にふるえてろ』いらい感じていた彼女への不信(とはいえ『かわいそうだね?』は未読)が一挙に吹き飛んだ。以下は箇条書きメモで――
●もともと彼女の小説は『インストール』『蹴りたい背中』からしてそうだったが、小説の基本、「読者がヒロインに感情移入すること」のハードルを高度に設定し、それに創作のすべてを賭ける点に英断と清々しさがあった。それでヒロイン=主人公に「奇妙な兆候」が連打され、それにたいしても読者が共感をしめしたとき、世界観が拡大されるという功徳が生ずる。しかも少女性哲学という狭隘な前提を外さない。かんがえてみればわかるが、そうした作風は「個性」であっても、その実現は成功率が覚束ない。つまり綿矢小説は、ひとつひとつが成功するか否かかがわからない「難関突破のうごき」として招来されてくる、ということだ。その性質はこの小説のヒロインそのものに似ている。となると、綿矢は『ひらいて』で、自己再帰的な創作を敢行したともいえるだろう。
●この小説のヒロイン「木村愛」にあたえられた負荷は、自己中心性と、行動制御能力の欠如(後者については、深夜の校舎で、自分の恋する者がもっている手紙を闇雲な行動力で盗んでしまうというくだりに、まず描写される)。それはすべて彼女のけっして鈍くない美意識からくみ上げられた、具体的人物の行動と身体の細部への読解から生じた「愛」が、狂奔にいたって構成されてくる内部呪縛的な負荷だ。とめられない愛着は、自己承認と引き換えに、相手を害するヒステリアにまで拡大する。増村保造映画での最高の若尾文子をおもえばいい。それは「破局」を約束され、その破局の瞬間の、トラウマのような美を予定される――これが旧来の表現作法だったとすると、綿矢はその破局美の瞬間にヒロインに内省(それでもそれは「ままならない内省」に終始する)という凡俗化をあたえ、強引に「物語」の筋道を転轍、結果、曲線化によってあらわれてくる物語の厚み(それは「領域」と名指していいものだ)に、ある種の世界化までもほどこした。したがって読者が「読む」ものは、予想しえない物語の成り行き(これはむろん小説上の美点だ)とともに、事後的に浮上してくる、対象化の難しい「領域」そのものということになる。これがたとえば岡崎京子の『リバーズ・エッジ』にもあったものだ。
●「木村愛」が愛着したのは、「西村たとえ」というクラスメイトで、彼は勉学優秀でクラス内の最少の義務ともいうべき最少の交友を実現しているが、たぶんその最少性によって自分の周囲に稀薄性のバリアを築いている。彼の良さは少数者にしか伝播されない。やがて小説の終わりちかくで彼の境遇も重い負荷を帯びているとわかるが、この「たとえ」という奇妙な命名が、命名された彼自身とヒロインとが最初に接近するときの話題となる。それを漢字化すれば「譬」と「仮令」のどちらになるかというヒロインの着想は、小説上は放棄される。ところが読者の胸の奥にこの命題は沈んでゆくだろう。たぶん答は「譬」と「仮令」の両方なのだ。ところがそれを両方というためには、愛する者「木村」、愛される者「西村」の姓で、「村」が脚韻を踏んでいるという発見が伴われなければならない。「愛」が「たとえ」の同属(「譬」)となることで、はじめて「愛」にとって「たとえ」が運命上の「逆接副詞節」となっている構造が露呈する。それにしても「愛」と「比喩」の相関は、もともとは新川和江と牟礼慶子という女性詩人の問題だったのに、それが30歳の女性小説家の主題へ飛び火したのは慶賀、という気がする。
●綿矢は『蹴りたい背中』の時点では、教室の窓際にふくれあがるカーテンがつくる「外部世界ぎりぎり手前の敷居=緩衝地帯」といった、いわゆる「空間」を、テマティックに反復変奏してゆく自覚的巧者だった。ところがテマティスム批評の実践者・渡部直己がそれを指摘せず、箸の上げ下げめいた繰り言を彼女に献呈してから、たぶんテマティスムによる自己武装を放棄する大胆さを綿矢は志向していった。結果、本作に現れてくるものが、人物のからだがつくりあげる雰囲気、知性、聡明さ、隣接的連続性、細部の入れ替え可能性、性愛狂奔、拒絶、肌やかたちの決定性などで、しかもそれらを人物の作用と作用域のあいだの運動にまで高めることが目標だった。そういうものこそがテマティスムを無効にする。なぜならそれは無器官的で音楽的で、なおかつ分節性から逃れだそうとする脱線だからだ。この小説では、からだがからだの作用となり作用域となるくだりの描写がすべて良い。理由は内面と外在的物質性の境界が溶け出しているからだ。綿矢りさはドゥルーズを参照しているのではないか。
●小説の大筋は、「西村たとえ」に一方的に懸想する「木村愛」が、やがて「たとえ」に届いている手紙から、校内同級生で隠れて交際している「美雪」(彼女には糖尿病罹患と美少女という「負荷」があたえられている)の存在を振り返り、「たとえ」に思いを遂げられない「愛」の苦境が、あっという間に、「美雪」の処女の身体を同性愛的に籠絡してしまう、という飛躍線/交叉線として、まずは表されるだろう。誰もが卑劣、道義的逸脱と受けとめるだろう、この愛(欲望)の停止不能性と自動的方向転換の意義を、ヒロインが定位しようとして苦悶し、その内面描写に属するものが小説の「地の文」、もっというと「法則」にすら転位してしまうことが、小説表現上の驚愕となる。「愛」と「美雪」のレズビアニズムは、「美雪」の名前どおりにうつくしい述懐によって、その欲望が美と呼ばれるしかないものに溶解される。あるいは「美雪」のからだを翻弄しながら同時に慈しんでもしまう「愛」の手管は、「愛」自身に怖気をふるう鳥肌のミソジニー、むなしいというしかない自己鏡像を刻印しながら、交歓にゆらめく「美雪」のからだを「領地」(=場所)として「愛」がかんじてしまうことで高度の定義不能性、白熱を帯びるしかない。そのうごきがすべて「文章」に転化されている「批評性の乗り越え」が圧巻なのだった。結果、性愛描写は、抑制的、慎み深いポルノグラフィを典型させながら、前言したように「同時に」ドゥルーズを読んでいるような錯綜感をあたえてやまない。少なくともこれを綿矢の同世代女性のなかでの最高の「詩文」と形容してもいい。
●物語の細部、描写の細部に立ち入る余裕がないが、小説が交叉=キアスムを基盤に置いていることは理解されたとおもう。メルロ=ポンティのいうように、「みること」は「みられること」を基盤に置いた交叉関係であり、そこでは「あいだ」が問題になる。ところが「たとえ」を「みること」を焦がすまでにした「愛」は、「たとえ」から「みられない」非対称性に悩み、まずは役柄(愛を施す者/施される者)の交叉、対象の交叉を企てるという、狂気にちかい行動を起こすのだ。ただし「わたしはAが好き。ところがAはBが好き。よってわたしはBを愛する」という論理が本当は狂気でないのは自明だろう。そうでなければ信仰がすべて狂気の名のもとに矮小化されるからだ。つまり「愛」は自分の行動の崇高性だけを対象化しない(これがこの小説を小説にする歯止めとなっている)と読み替える権利が、読者にあたえられている。この「あたえ=贈与性」が『ひらいて』を優秀な小説にしている原点なのだとおもう。
●小説には「美雪」の手紙の引用が頻出して、地の文を溶かす聖体の役割があたえられている。ただし「愛」が盗みみたその手紙は、すべて「たとえ」に宛てられたものだった。愛する者の恋人を、性差を問題視せずに寝取ることで愛する者を間接的に得た気色の「愛」は、なぜか「告白」という制度の熾烈さにも染められていて、自分の策謀のすべてを、「たとえ」に、やがては「美雪」にも語ってしまい、いわば聖なる位置にいる彼らから否まれ、同時に深甚な自己懲罰のモードにも突入してしまう。そうした確定性がまたもや崩れだすのは交叉によってだ。「愛」宛ての「美雪」のうつくしい手紙文が文中に挿入されたのだった。整理しよう。「Aの愛するBを愛することで、Aへの愛の譬とする」という「愛」の主題は、「AへのBの手紙を盗みみていた者にBの手紙が届く」という「空間」の主題に転位する。それはもともと「B」が空間だったからだ――『ひらいて』の伏在させていた哲学はまさにそういうことであって、結果「愛」の自己閉塞・自己懲罰は、いわば「美雪」「たとえ」双方から場所化を施されて、不可思議な留保と熱情を接続させたまま、「開放される」。なぜなら「場所」の本質は「ひらくこと=開放」だからと、さらにここで同語反復的に念押しすべきだろうか。題名『ひらいて』はこの感慨に着地する。むろん「ひらく」は俗用では「漢字をひらがなにする」の意味もあって、「たとえ」の名が終始ひらがなで書かれている点にも響きあっている。ただしこれらはテマティスムではない。前言したように、「再帰的自己批評性の乗り越え」ととらえるべきなのだ。
●いうまでもないことだが、現代女性文学の今後の方向性を提示したのは、小説ではなくマンガ、事故遭遇直前の岡崎京子がしるした『リバーズ・エッジ』だった。その「続篇」を書くことで、若手の女性小説家の「文学」が連綿とつながってゆくはずだ。その最初の達成が川上未映子の『ヘヴン』だったとすると、この綿矢りさ『ひらいて』が第二弾という気がする(ただしここには岡崎京子『ヘルター・スケルター』の隠れた最高の主題だった「交叉」も継承されている)。交叉そのものが実際はメルロ=ポンティをもちだすまえに、以上しるしたように最高形態の「空間」なのだ。そうしたことの前提は、ヒロイン「愛」が最後の微妙な転調を迎える直前、母親から朗読される次の聖書の一節に、「たとえ」のように凝縮されている。いわく――《あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります》。『ヘヴン』終結部に引用されてもおかしくない現在的な金言だろう。
赤堀雅秋・その夜の侍
今日10時の試写で観た、演劇の新しい才能、赤堀雅秋の初映画監督作、『その夜の侍』がすごく面白かった。タイトルからすると時代劇を類推されるかもしれないが、純然たる現代劇。 妻をひき逃げされた堺雅人が、ひき逃げ犯・山田孝之への復讐を志す物語と一見把握されながら(つまり被害者家族の憤怒に迫る藤原健一『イズ・エー』や、日向寺太郎『誰がために』と一見同列とみえながら)、経験したことのない「内実」になっていた。
まず、赤堀のしつらえる「科白」が、演劇的構成力と凝縮ではなく、映画的な日常リアルをつくりあげる。それで二者(以上)が対峙するとき、コミュニケーションのやりとりが膠着し、やがてはコミュニケーションの肉弾戦の帰趨すら予想不能となり、結果、自他の弁別まで消え去ってしまう。
振り返ってみて気づく。冒頭近くの「ひき逃げ」シーンのほかは、作品の禍々しさに反して、不思議なことに生起寸前だったすべての死が回避されているのだ。こういうべきかもしれない。「暴力によって、暴力連鎖を回避する」、新しいコミュニケーション理論の映画だと。対峙そのものによって意外性の引き金がひかれるという点では井筒和幸『ヒーローショー』と相似的でもあるが、すべてが裏目に出て慄然とさせる同作にたいし、『その夜の侍』ではその裏目出現がまるで身体の作用そのもののように「不発」になる。
カメラは月永雄太だからサスペンスフル、エモーショナルなのだが、じつは対峙の成り行き自体(不透明性と無駄を抱え込んだ科白の応酬)がサスペンスフル、エモーショナルなのだった。それで、「一場」の長さのもつ演劇性と同時に、生態学リアルの映画性が画面のすべてに舞い込むことになる。
山田孝之が次々に「悪」「暴力」の類型を提示しているのは周知だろうが(現在の公開作なら『闇金ウシジマくん』)、論理では形容できない類型が、この作品のもつアンリアル-リアルを架橋するように続々出現してくる。谷村美月、山田キヌヲ、安藤サクラ、田口トモロヲ、そして圧巻は「平和主義者だか回避主義者だかわからない臆病者」新井浩文だ(だから山田と新井の競演のかたちは『ウシジマ』とまったくちがう)。
膠着的で、拳から浴びせられる痛みをずぶずぶ飲み込んでゆく泥、のような彼らの属性が、最後、堺雅人自身にも転写されて、作品は不思議な大団円を迎える。泥レスのような堺と山田の(二者弁別不能の)肉弾戦ののち、糖尿病の役柄の堺が、好物だったはずのプリンと自分の頭部とのあいだでやはり膠着的な肉弾戦を繰り広げて幕、となるのだ。二物は二物であるがゆえにすでに救いだ、という崇高な結末が一方で存在する。同時に、膠着が膠着ゆえにすでに解決だという価値逆転もある。
このことは科白の感触にも転写されていて、典型が堺の亡妻・坂井真紀が残した留守録メッセージと、ホテトル嬢・安藤サクラが雇用主に告げる「時間延長報告」の混線気味の電話かもしれない。
11月17日公開のこの作品は、どこかの媒体に書くつもりなので、以上の備忘録のほかは贅言をついやさない。演技、作品法則などの具体的詳細についてはそちらに書く。作品評掲載誌については、またリマインドさせてもらいます。
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夏休みの東京滞在は今日をふくめてあと二日。映画漬けとゆきたかったのだけど、ゆるしてくれない運命の問屋さんもいた。結構、いろんなひとと飲んだりして、それでもトータル15本くらいは映画を観たかなあ(試写会と劇場の双方で)。良いとおもった作品はこの欄に書いたほか、試写で観た北野武『アウトレイジ・ビヨンド』については「図書新聞」に作品評をすでにメール済み。それと久しぶりに観たアン・ホイの『桃さんのしあわせ』は書かなかったけど、「身体のスピード」が画面の前後で、あるいは映画の進展軸で刻々変容する、「音楽のように」素晴らしい作品だった。ギャグも絶品。
東京滞在がのこり僅かとなってさすがに淋しい。その後は女房と東北をゆるゆる旅行しながら、九月初旬、帰札します。帰ったらすぐに「教員モード」にチャンネルを戻さないとね。
鳥外
【鳥外】
人外に類するものとして、鳥外をとおくにわたらせている。やがて近づくものは、そのように配置するものだ。いっせいに骨のおちる空がいずれ上に移ってきて、ばらばらとただ鳴る。真下には情なんかない、我ににんべんがくっついて、はなはだしい俄が生じているだけ。
木場
【木場】
きみの替え玉は玉だろう。それを水路に浮かせた。抒情の範囲をつくるのがむずかしいから、場の具体がもちだされ、ひとのからだをほのめかす以外にないのだ。くりかえすが詩はそれしかなく、この木場もおんなのからだ。むろん浮かべた玉とともに水の縦横もかんがえは追う。
豊田利晃・I’M FLASH!
豊田利晃の映画ではいつもその寓意性の高さが、そのまま作品のするどい緊張となる。そこでひとつ、共通する作用があるともわかる。寓意が寓意として現れるには、意味とともに空間に、具体的に「閉域」が形成されるほかないのだ。そうして豊田作品は、たとえば「渋谷」を(『ポルノスター』)、「校舎」を(『青い春』)、「富士山麓と東京」を(『ナインソウルズ』)、「マンション内の居住空間」を(『空中庭園』)、「苦悶の神々の彷徨う国土そのもの」を(『蘇りの血』)「閉域」にしてきた。気づくべきは、何の変哲もない空間が、豊田の脚本と演出の力技で「閉域」にされている点だ。となれば豊田的「閉域」は実際には、「内」「外」を弁別する編集作業と相即だとも気づかれるだろう。つまり本当に特権的なのは、敷居(閾)なのだ。それで『青い春』では校舎屋上が、『空中庭園』ではマンションドアが、『蘇りの血』では水面が、意味がこちらからあちらに抜け、生死がまばゆく擦過する過激な浸透膜にもなってくる。
その豊田の最新作『I’M FLASH!』では「閉域」はこれまでになく堅牢な空間として召喚されているように一見おもえる。作品主舞台は、スキャンダルにつながる飲酒運転死傷事故を起こした藤原竜也扮する美丈夫の新興宗教教祖が世間から隠遁する、砂浜に面した沖縄の教団施設で、そこにはしゃれこうべがみちあふれた礼拝堂(その頭蓋骨は沖縄決戦の地を掘り返して収集されたのか)さえあるからだ。
ところが、たぶんこれまでの自分の作風を総括する豊田は、(疑似)宗教的意味にあふれかえっているはずのその場所を、編集によって細分化せず、明白な敷居もつくらず、空間的な空漠(沖縄の海と空が予定するもの)のままにいわば「放置」する。藤原がマスコミから逃れ蟄居する姿には、無為どころか死に誘惑された者の「明るい倦怠」の色彩があたえられ、彼は施設と海のあいだを日々、往還するだけだ。そうして彼はダイビングをしながら、銛銃で海底の大魚を漁ってくる。ところが豊田はその往還にも日々の反復性をもたらすことで、「敷居超え」の感触を禁欲しているのだった。
それで観客は、まずはたったひとつの「敷居」だけに注視を促されるようになる。それこそが教祖・藤原竜也の、絶望と自嘲と気弱と自信が綯い交ぜになり、それらのうちどれが優勢かがいつも混ぜ返される、不思議な多様性を帯びた表情=顔だった。彼はたえず死に装束をおもわせる白服を着用し、その姿のまま神をも恐れぬ倨傲で沖縄の大魚を漁ってくるが、そこに彼の死生観の真意を汲み取ることもできない。「死を恐れるな。死こそが究極の救いだ」という彼の「教義」が作中で散々、繰り返されていても、その印象は変わらない。これは豊田の、一体何の「仕掛け」なのか。
寓意なき寓意、閉域なき閉域、その提示が今回の豊田『I’M FLASH!』の眼目だと次第にその策謀がみえてくる。そうみえてくると、作品の緊張度がとりわけ高くなる。
もうひとつ、「教祖」藤原には「弁別できない属性」が組み込まれている。実際に「奇跡」を体現している超常者か、カネ儲け似非教団の金看板の、手先が器用なだけの手品師なのか、その判断が不能なようにいつも藤原は作品に現れているのだった。つまり彼自身が事実レベルの敷居なのだといえる。
スキャンダラスな自動車事故にいたった経緯(彼は、教団に入信していた自分の妹が自殺したという水原希子のクルマにまずは同乗する)は、ずっと主舞台である沖縄の教団施設の空間に、進行形の時間線=間歇的なフラッシュバックとして縫いこまれる(この「刺繍運動」が、高度に寓意的であるはずの主舞台の閉域性を「閉じさせない」開腹行為にもなっている)。そこに現れる藤原の秘蹟の数々。たとえばダーツバーで深夜の遊びに打ち興じる藤原はダーツが百発百中だし、「あっち向いてホイ」遊戯でも藤原は「必ず勝つ」。何よりも藤原は、「死ぬべき事故で死なない」。かすり傷を受けただけのように見える(彼の「不死性=死亡不能性」は、その後、施設に刺客の中村達也が送り込まれたときに、乱射される中村の銃弾が一発も藤原を射抜かなかったことでさらに増強される)。
ところがクルマに同乗する水原の語りが恫喝の色彩を帯びたときには、藤原はたしかに怯えの表情をみせたようにもおもえるし、彼が煙草の箱から手をつかわずに煙草一本を引き上げ、それに手をつかわずに着火したときも、その奇妙な「技」を、奇跡ではなく手品として強調する気配だった。
いずれにせよ、藤原は奇跡体現者とペテン師のあいだを「点滅」して、その存在の真価を決定できない。既視感がある。寓意的映画の傑作にかぞえられるだろうベルイマンの『魔術師』におけるマックス・フォン・シドーと、その男装の妻イングリッド・チューリンのコンビがそれだ。
もうひとつ伏線がある。髑髏があふれかえる礼拝堂には、すくなくとも聖別されたしゃれこうべがひとつある。藤原自身の父(その父もまた教団教祖だった)の髑髏杯だった。そのコメカミには銃創がかたどられている(伝聞では教団創始者だった藤原の祖父の髑髏ものこっていて、そのコメカミにも銃創がのこっているという)。ここからある予想を観客がたてるはずだ。「死ねない者」「死を永遠に拒まれるという懲罰のなかにいる奇蹟のひと」は、唯一、自殺か殺されることでは「死ねる」のではないか、と。あるいはその意味でこそ死が「救済」なのではないかと。
ひらかれた空間の、ひらかれた寓意性はやがてひとつのかたちをとる。藤原がマスコミの好餌とされることを防ぎ、藤原に送り込まれる刺客を排除するために、松田龍平、仲野茂(元「アナーキー」)、永山絢斗の三人がボディガードとして雇われる。この三人が藤原の魚獲りを傍観する次元では三人はただ無為を体現するだけだ(意味を生産しない沖縄の風光内での彼らの「配剤」、とりわけ微妙に「バラバラな」感触は、北野武『ソナチネ』をまずは継承しているといえる――これに加え、彼らはたえずソウルフードを食べている)。ところが起されたスキャンダルが面倒などころか、藤原にきざしているニヒリズムの感触をも危険視した藤原の実母(大楠道代)が、ボディガード三人に、藤原の殺害指令を出す。「死から拒絶されている者」の兆候をもつ藤原を、凡俗な三人が果たして殺せるのか。作品は、「空間の脱閉域性」にもかかわらず、ここでにわかに緊張を帯びてくる。
殺すか、躱されるかといったそのくだりで、藤原とボディガード三人のあいだに、それでも生じるのは、意外なことに「紐帯」の感覚だ。無為にあえいでいた三人が「殺し」の任務を帯びることで有意化したとき、その「有意」こそが藤原のもとに束ねられる感触がある。それで藤原がイエス、ボディガード三人が全員ユダとなった四分の一の十二使徒のようにみえだす。案の定、礼拝堂を舞台に「最後の晩餐」の気色となる。そうしてブニュエル的(とりわけ『ビリディアナ』的)寓意結晶が起こるかとおもうと、そこで意外や藤原のほうから銃撃戦が開始され、ふたたび閉域寓意の予感が瓦解させられてしまう。豊田の作劇はこのように熾烈なのだった。
その前に、松田龍平が三人という集団のなかから、どのように「個別化」されてくるのかにも留意しなければならない。藤原の表情が価値の多様性のなかを浮遊し、その意味がひとつに定められない、という点は前言した。それにたいし、松田龍平は「暗い無表情」が順守され、しかも科白が最小限である点から、やはり「意味の定められない」熾烈な顔を終始しめしているのだった。その松田と藤原の教理問答のようなものがわずかに二か所である。その後者では藤原がおよそ以下のようにいう。「死が究極の救いなのだから、死は肉体にとって法悦として出現する」。たいして松田龍平はおよそ以下のようにいう。「あなたは死ねばいい」。
礼拝堂の銃撃戦の際、藤原の心臓部をたしかに松田龍平の銃弾が射抜いたはずだった。ところが即死的致命傷をうけたはずなのに、「なぜか」藤原は出血しても「死なない」。彼は追う松田龍平をしり目に銛をもって海へ「もぐる」。魚体に変身するのではないか、という予感をもった者も多いだろう(初期キリスト教ではイエスは象徴的に魚体であらわされた)。いずれにせよ、藤原は海中へ消えた。松田は海を前に、藤原がふたたび姿を現すまで「待機」をしいられることになる。あ、とおもう。この「待機」によって、はじめて待つことの寓意が多義的にしるされ、そこではなんと「海」という巨大なものが閉域を形成することにもなったのだった。
豊田的な終景、その「編集の緻密」がいよいよここから駆動する。海上をエンジン付きの小舟で探索する松田龍平。彼は、白いシャツの胸をおびただしい血で染めながら磯に安らっている藤原を発見する。藤原は挑発的に遠景の松田龍平に手を振り、彼に近づくべく海に飛び込み、潜水を開始する。松田龍平を上空から捉える画柄には何の閉域も形成されていない。しいていうなら、中平康『狂った果実』終景のうつくしさが縮減的、時代錯誤的に反復されるだけだ。
いっぽう潜っているほうの藤原から見上げられた、船底ごととらえられた「水面」は、藤原のことばによって(テレンス・マリックの映像のように)「敷居」化されている。すなわち、移動中の前方は変化と無変化の点滅を殺伐と繰り返すだけだが、海底の暗冥から見上げられた前方は上方と光の位相をあたえられて、かならず「希望」の敷居となるのだと。その「敷居」をいわば争奪するように、松田龍平と藤原竜也、ふたつの「龍=竜」がもつれあい、しかもその帰趨が「見えない」というのが、『I’M FLASH!』が最終的に仕掛ける「描写の次元」なのだった。しかも藤原が死ぬことを欲しているならどうか。あるいは松田が殺しを赦しと捉えているならどうなるのだろうか。
作品がことばによって語ることとは別に、不可知のレベルに、この作品の終局がひろがっている。あるいは、藤原竜也の引き起こした自動車事故(事故原因は「キス」だったと、いま筆者が描写した藤原/松田の「闘い」に織り込まれるフラッシュバック編集で、これまたスリリングに語られる――むろん「キス」とはユダにふさわしい所業だった)で脳死状態にいたっていた水原希子を「復活」させる奇跡をおこなった「神の手」の持ち主が誰だったかでも、じつは解釈が一義的にならないよう、作品は繊細な配慮をおこなっている。
『I’M FLASH!』の形而上的意義は、以下のながれに尽きている。整理しよう。まずは「敷居」こそが希望だということ。その敷居は生死の弁別不能性をも付帯している。その「敷居」をめぐって闘いが起こり、闘いはそれら当事者を閉域のなかに一旦組織するが、この閉域化はむしろ実際は希望にこそ関わっている。ここまでを捉えたとき、閉域を形成する編集をこの作品でずっと回避して、最後に敷居を提示した豊田の聡明さに打たれるほかはなかった。水面は『蘇りの血』の反復であるとともに、「それ以上」の顕現なのだった。
やがて往年の鮎川誠の「I’M FLASH!」をチバユウスケ、中村達也らがカバーした主題曲のリフが、藤原竜也の姿を最終的に表示するような感触で耳に刺さってくる。《俺は嘘つきイナズマ/パッとひかって 消えちまう》。しかもこの歌詞は「DVDを返してくる」とたったひとこと語っただけで作品ほぼ冒頭に果ててしまった柄本佑をも表象するのだった(あるいは逆説的に彼こそが「神」?)
ラストの多義性とともに、ぜひこれらの顛末は劇場でご確認を。九月一日より、テアトル新宿&ユーロスペースでロードショー公開。
髣髴
【髣髴】
秋がちかづくと、かなけのにおいがまして、水はついに水を髣髴するようになる。二人称を主語がまねる赤黒さに、夢の針が遅くあらわれるのだ。けれどかがやく草にも魚にもさようなら。わたしもまたわたしを髣髴させて、きみをあとにする水路はうつくしいように鈍い。31日、東京。
これって…
「読むこと」と「情報集積」の棄却を、「読むこと」をつうじて逆説的に語った、佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』では、たぶん佐々木中自身の知的=無頼なたたずまいにこそ感銘を受けたのだとおもう。それで、彼の社会革命に関わる歴史観にいかに偏圧がかかっていようとも、「そのクルマに同乗すること」ができた。ではなんでその本に手を出したのだろう。ひとつは短歌同人誌に掲載されていた江田浩司さんの書評がすばらしかったためだ。もうひとつは、書名タイトルから飛び出てくる「ツェランのサイン」が、こちらを「あらかじめ」射抜いていたためだ。
その佐々木中の「小説」はどうか、と、『晰[あき]子の君の諸問題』を読んでみる。雅語卑語混淆でこころみられた反復的な語りのリズムが、なおかつ句点の意外な挿入によって内在的に破砕されるこの独自の文体は、かつての川上未映子のように、あるいは伊藤比呂美のように、さらには『吃水都市』の松浦寿輝のように、散文詩と小説の弁別を無効化している。むかしのぼくは厳密だったので、こういう混血文体のもつ物ほしさに冷淡だったのだが、このごろは面白ければいい、とおもうようになった。
この小説は語り主体に作者自身をふくむ私小説の結構をもちながら、やがてその女子大生の恋人の卒論(論題はやはりツェラン!)にたいする主体の感慨が長く綴られ、そのなかで相手の妊娠も語られて、徐々にその踊るような文体から二人称「君」が現前化してくる構造をもつ。それがツェランの「我-汝」の問題に巧みに接続されたとき、「汝自身」「我を経由する汝」「我を経由する『我を経由する汝』」……というように、魅惑的といっていい「晰子」の多層化が起こる、「評論的な仕掛け」も判明する。
ああ、そうだった、とおもう。『ヘヴン』以前の川上未映子でも『新巣鴨』の伊藤比呂美でも、ぼくは詩文と小説の分離不能性に疲弊したのではない。じつは彼女たちの「書くこと」は刻々「書くこと」自体に折り返され、その自己再帰性が批評であること、つまりは彼女たちの書くものが小説と批評の混淆であること(表面的な「小説と詩の混淆」とはちがう次元にそれはある)に、ひそかに辟易していたのだった。たとえば詩と哲学はどのように融合融即してもかまわない。それは「おなじ」「旧い」起源として、もともと同立しているからだ。ところが小説と批評は相互混淆するとノイジーになる。それらがいずれも近代の産物に「すぎない」からだ。そういうことを反芻するのが「歴史観」ではないか。
おなじ失点は佐々木中のこの小説にもある。ところがこの「失点」は逆説的で、怖気を感じれば感じるほど、その機能が有効だったことを明かす。だから厄介だ。その厄介さと接続できる位置に、レシピと境を接する、この小説の数多くのディテールもある。なにがしかの、「とんでもない余り」。
とりあえず、松浦寿輝さんのように、《クレオール的な混淆文体の超絶技巧、小説の自由への獰猛なマニフェスト》(帯文)といった、優雅な賛辞では括れない「批評的」「複合」であることはたしかだ。
ところでこの松浦さんの賛辞には「小説の自由」という保坂和志の主唱することばが入っている。むろん小説性の欠片が最小単位でも世界に横溢しているとかんがえる保坂さん(『カフカ式練習帳』)は、散文性だけに縮減された文章に、いかにそれ自体の(認識論的)驚愕があるかを豊富な事例によってえぐりだしているのだから、「小説の自由」は彼の仕事にとうぜん冠せられることばだ。ようするに「自由」とは、松浦寿輝の認識とちがい、書くこと=腑分けの唖然とするような「無混血性」の保証なのであり、それはドゥルーズのいう、母語からその外部に移行したマイナー文学ともまったく抵触しない。包含範囲が異なる、ということだ。
ところが佐々木中の小説には「小説の自由」がむしろないのではないか。つまりそれは「混淆への野望」という硬直性のなかに全身を置いている気がするのだ。むろんその硬直性は、前言したように、小説そのものではなく、批評性を経由している点から来る。
もうひとついえることがある。保坂和志『カフカ式練習帳』は、どこからでも読め、どこからでも本を閉じえた。入口と出口が無限にある多孔状空間。それもまた「小説の自由」の体現だった。そこでは、詩と小説と箴言に共通点があるとすれば、それは「断片性」という形式にすぎないという、あられもない裁断がくだされていたとおもう。たいして佐々木中は、混淆性によって膠着したからこそ、断片性を駆使しての内部分割がつかえない。そのジレンマによって句点が多用されている。
それでもそれは「不自由にも」直線的に読了され、保坂とはちがって再読を促されないままだろう。そう、佐々木中の通常の所説のように、書かれたものは必然的に「沈んでゆく」のだ。その佐々木に優位性があるとすれば、そうした自らのジャンク性に冒頭から自覚的な点だ。だがこの自己再帰性は、書くことに付帯する物質的な「影」で、書かれたことそのものまでがえぐられてゆく哲学的、本質的な再帰性とは様相を異にする。
しかし気がつく。佐々木中を言及対象にしたとき、なぜ逆説の連続になるのか、と。これも「批評的」事態にちがいないが、どこかで何重にも「愛着しようとするこころ」にブレーキがかかっているともいえる。
すこしずつ女になる
【すこしずつ女になる】
交換された互いを抱いている。キアスムをいのちがけで弄んでいる。それでもまんなかに川がながれ、これをおぼえるかぎり互いが対岸なのだ。早瀬をかぞえあげることが盲いたからだどうしの一晩、そのあと朝の池がすべての対岸を円のつながりにしているなら。
発酵組曲
【発酵組曲】
ハスの一斉のおとろえが夏のおわり、便りされてくる。その群生にあった発酵を、なんとか音楽にできないものか。沸くことがそのまま腐りとなっている湯を、植生の多くに視たのだ。ぼく自身の眼でもある。あれをいま瞑目をつくるこの手で身体の組曲にできないだろうか。
なめらかな頬
【なめらかな頬】
タマつらぬかれた自分をくりぬく所作として、たとえば目のまえの肌をみがく。けずれてゆくようだと、あえぐひと。手であいするのは、出てゆかないかこいのなかで無限をなすこと、タイハイかもしれない。肌の時候の、やはり裏時分にいる。泣くをながしてゆく頬だけがあって。
大後
【大後】
好きになっている部分を、世界の部位と表現できるかはとうていわからない。ただ波打っている大群の浜昼顔に、しおれを数かず透視できるようになって、おなじものの稜もせまってくる。あるいは部位とはすべておなじ漂いなのではないか。溜息をつくが、それすら感覚の部分にすぎない。
しずかな閨
【しずかな閨】
からだを基体にくりかえしてゆくと、くりかえしからはじかれたからだが、たがいにころがり出ている。横たわるどんな丈も、ながさであるかぎり特性なんかない。それでもひろがりが閨とおもえてくるのはうつくしい。ひとに夢をえがいているのだ。巻いてねむる夜だろう、あなたはわたしに。
吉田大八・桐島、部活やめるってよ
どんな映画においても「場所と身体の関係」が必然的に画面に描かれるとすれば、若さに躍動し、その若さに痛覚さえかんじる学生たちの身体を、学校という空間に捉えつづける「学園ドラマ」は、どのような叙述形態をもつべきだろうか。たとえば学校空間の基本単位となる教室。教壇側から教室の全景を前提的に映しだし、そこに整然と着席する生徒たちを「配剤」するような視角が、生徒たちが可能性としてもつ「動態」を殺してしまうのはいうまでもない。逆にいうと教室は、廊下・扉や、窓、ベランダのあいだにあるひらかれた中間態として、つまりは確定を約束しない保留性として、画面にいつも「暫定」されていなければならない。
ならば教室での撮影作法も決まる。それ自体を撮影対象物とするのではなく生徒たちの一人ひとりの動きを捉える撮影の、その場その場の「背景」として、教室空間はメトニミー(全体に向けられた部分喩)の材料となるほかはない。そのいわばメトニミー=換喩単位が観客の判断のなかで刺繍され綜合される。これは全体を容易に「想像」できる空間を描きだす映画の鉄則で、パーツから全体をつくりあげやすい空間として往年は日本家屋もあった(たとえば成瀬巳喜男の室内把握の質もおもいだしてみよう)。
むろん学園ドラマでは教室は基本的にスタチックだから、なるべく撮影頻度に滲み出してくるその「権能」を減殺するにしくはない。それで描かれる学校空間も、より中間的な場所へと続々「解放」される運びとなる。学園ドラマを多くみている者は、それらの場所を簡単に名指し・列挙することができるだろう。いわく――上述した窓辺、ベランダ、廊下のほかには、校庭、渡り廊下、体育館、保健室、音楽室や美術室や理科室、階段(踊り場や階段下の三角の狭隘空間)、部室、購買部、下駄箱周辺、校舎の裏庭、正門前の坂道、それに最大の中間的特権地としての屋上ということになる。それらもすべて生徒たちの動きを追ったときにその背景に初めて付帯的にあらわれてくるものでなければならない。結果、学校映画が教室という空間呪縛から逃れることが可能になる。
むろん今年屈指の出来といえるほど緻密な作劇を貫いた吉田大八監督の『桐島、部活やめるってよ』でもこうした学校空間の展開鉄則が完全に順守されている。たぶん吉田監督は、以上の法則を守らなければ学園ドラマの成功も覚束ない、という確信すらあったはずだ。その際の参照項を想像してみよう。ほぼこのような布陣になるのではないか――相米慎二『台風クラブ』、エドワード・ヤン『クーリンチェ少年殺人事件』、豊田利晃『青い春』、安藤尋『blue』、(生徒の疾走を前進移動で追いつづけた)ガス・ヴァン・サント『エレファント』、それに製作時期が重複していて意識できなかったかもしれないが以下の二作――黒沢清『贖罪』第二話、内藤瑛亮『先生を流産させる会』……
多数性そのままの生徒群像が映画の進行にともなって次第に個別化する(粒だってくる)とき、進行の原理となるのは、繰り返すが、部分から部分へとわたってゆくメトニミーだ。そこではたとえば「誰が誰をみているか」が、たとえ距離を介在していてもメトニミーの空間的本質=隣接性を描きだすことにもなるが、がんらい生徒たちは秩序をもたないブラウン運動を繰り返すから、視線の方向もからだのすれちがいによって混ぜ返され、執着・愛着の確定までには慎み深い待機が刻まれなければならない。だから「部分の進展」は文字どおり、描かれる対象の身体移動によって空間へ小出しされることにたえず置き換えられてゆく。学校映画はそうして複雑な二重性のもとにおかれるのだ。逆にたとえば画角の限定された瞬間の素早い織り合わせによってメトニミーの単位=「部分」を前面化するまでの作法には意欲を感じさせながら、のべたらな音声のズリ下げによって強圧的な「全体」を単純、錯誤的に提示してしまったのが、中島哲也『告白』だったといえるだろう。
分別はこの程度にして、吉田大八『桐島、部活やめるってよ』の具体性に入ってゆこう。作品タイトルが終わりに出るこの作品で、時間の分節を明瞭に提示するのは曜日表記だ。ところがそれは、押井守『うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー』の、たえず同じ時間に着地してくる迷宮的時間進行のように、当初「金曜日」の表示を都合四回繰り返す。やがておなじ科白と芝居が強弱(音声設計が本当に繊細で素晴らしい)と位置を変え反復されるなかで、事態が判明してくる。特定人物に即した、部分的で全体が判明しない関係性提示と話柄ディテール(つまりは換喩単位)が、都合四回、人物の選定と場所を変え語り返され、その語られる範囲の前後の拡張も付帯されることで、最初は彼/彼女が彼/彼女として認められなかった原初的混沌に、やがて鮮やかな個別化が施されたのだった。朝井リョウの同題原作小説では、語り手持ち回りの連作短編形式によってしめされた視点の多数性が、場所を少したがえた同時間の語り替えへと映画的に圧縮、転位されたことになる。
判明してくるのは、90年代前半の宮台真司が先駆的に規定した、生徒たちの「島宇宙」だ(当時の宮台は校舎屋上の意味把握など、学生が体験している日常空間に最大限にセンシティヴだった)。まずは運動部と文化部の差異がある。図式的といえるほどに前者にひとまず価値化されているのは、立派な体躯、敏速な運動神経、性体験も伏在しているはずの性徴の露呈と淫乱美、自信、弱さの蔑視と驕慢、ロボット的な規範性といったもので、これらはたしかに高校時代、文化部所属だった者が眩暈をおぼえた属性だろう(むろんぼく自身の体験でいえば、こういう運動部/文化部の二元性境界を、たとえば「不良」符牒によって遊戯的に刺繍してゆく第三の類型がいたのだが)。
この二元論は『桐島』でも第三類型の提示によって境界振動を起こすが、ぼくの実体験とは異なり、その役割を担うのが帰宅部だった。彼らのなかにも立派な体躯と敏捷な運動神経をもつ男子生徒や、モデル体型をして学内の恋人との付き合いに余念のない好色そうな女子生徒がいる。そのように定位が果たされると、運動部のなかに体躯と運動神経に恵まれない者もいる、という翳りまで忍び寄ってくる。結果、あらわれるのが「世界の多元性」。むろん描写上、運動部の主軸になるのが男子はバレー部、女子はバトミントン部、文化部の主軸になるのが男子は映画研究部、女子が吹奏楽部だったが。
四回、角度と時間と場所を若干変えて語りなおされる「金曜日」で、一種の衝撃として収斂的な話題が徐々に露呈してくる。男子バレー部の超高校級のスター選手「桐島」が部活をやめた事実が噂話として広がってゆくようすが描かれていたのだった。あらかじめしるしてしまうと、その「桐島」は作品内でずっと生徒たちの話題の対象となるが、具体的に画面登場することがない(屋上にいた、と見間違えられることはあったが)。「桐島」の所属していたバレー部、その学内の恋人、親友のケータイにも、たとえば家庭でどんな事情が持ち上がったのか連絡されることもなく、いわば本人不在のまま彼の周囲に広がってゆく波紋と、それをさほど真摯に受け止めない文化部の落差が描かれてゆくだけだ。むろん「不在性」が中心になる作劇には、ベケットの『ゴドーを待ちながら』や三島由紀夫の『サド侯爵夫人』の前例がある。
生徒たちは見事に描きわけられているが、対象が多数、その一人ひとりを追ってゆくと字数を食ってしまうので、関係性の中心を事後的につくりあげていた数人に焦点を絞り、以下、説明をおこなってみよう。
まず東出昌大という新人の演じた、目鼻立ちのくっきりして、しかもそこに悲哀を帯びる表情が目覚ましく素晴らしい「宏樹」がいる。彼が「桐島」の親友だ。校舎裏のバスケットボール遊戯スペースで、放課後、帰宅部の仲間ふたりと興じるシュートなどの姿から、その身長ある体躯が抜群の運動神経に恵まれているともわかる。彼は同じクラスに恋人をもちながら、実際はそのステディな関係に執着していない。限定された性欲というよりも、どこかで生きる意欲を削がれて、ルックスに似合わないほどの減退を底に隠している気配が伝わってくる。第二学年で、実は野球部では将来を嘱望された逸材だったとやがて判明し、彼の不完全燃焼の不吉さがじわじわ画面ににじみ出てくる。「宏樹」の野球部からのリタイアは、「桐島」のバレー部でのスター化の反作用ではないかという予想も生じるが、確証できる材料は映画内ではあたえられない。
彼は教室で席の前後する吹奏楽部の女子部長、「沢島」(大後寿々花)から懸想されている。「沢島」は彼らの放課後バスケットボールを俯瞰できる位置で、吹奏楽部での本番練習の前のリハーサルをいつもおこない、「宏樹」の一挙手一投足に切ないため息を吐いている。この作品で「見ること=恋うこと」という単純性を付与されているのは彼女だけだ。この彼女によって校舎屋上がまず召喚される。やがて屋上は、指導教師の提言に反して学校ゾンビ映画を撮りだした神木隆之介(役名「前田」)率いる映研部員たちの撮影場所ともなり、だれがそこを占拠するかの葛藤を刻みだす(この映画は最終的に屋上を占拠する者はだれかという闘争主題を終結に向かいあらわにしてゆくのだが、神木たち以外の者が、「桐島」をみた、として屋上へ急行し、そこに墜落死の予感まで交えられて、豊田利晃『青い春』での松田龍平/新井浩文の、あの伝説的な終景を部分髣髴させることにもなる--しかももともと原作にはこの屋上空間の収斂化が存在していないらしい)。
映画オタクとしてG・A・ロメロへのマニアックな愛を吐露し、それなりにコンテ書きや8ミリの映像美などの拘泥に才能の片鱗も感じさせる神木は、文化部、とりわけ映研体験者には懐かしい自笑自泣を誘う、これまた複合性をもった存在だ。彼の語り口、貧弱な所作と体躯が振り返られるべき恥ずかしさの鏡となる一方で、彼には指導教師を出し抜き、運動部の撮影場所蹂躙に怯まない矜持も感じられて、その弱さが崇敬価値になる逆転性を秘めているのだった。
じつはそれで彼(の文化部典型の個性)は物笑いの種となりながら(そういう描写が金曜日の最後の描写での朝礼で描かれる)、意外な者からひそかな懸想をうけているとも事後判明する。作品は金曜日の描写の四回の反復ののち、土曜、日曜…とギャロップ調の展開を刻印してゆくのだが、日曜、塚本晋也の『鉄男』の地元シネコンでの上映で、彼はクラス一の美少女、しかもバトミントン部の花形としても活躍している「かすみ」(橋本愛)と劇場で鉢合わせたのだった。中学のときにはそれなりに話しあいの対面をしていた二人だったが、神木は文化部特有の自閉に染まって、眼前の橋本愛から示されている愛着をやりすごしてしまう。さほどカルト映画に興味のない橋本がその場にいることは、明らかに『鉄男』を観ていると読まれた「自分狙い」のはずなのに、そのことへの想到を自ら封印してしまうのだった。
本来なら教室で何度も眼のあうこの二人は、関係性の非対称な滑稽さを度外視すれば相思相愛となる組み合わせだった。橋本愛が帰宅部のバスケット好きのひとりと密かに付き合っていると判明するディテールがかもす微妙な余韻が素晴らしい(この二人の手による身体接触を神木は垣間見てしまう)。実際この二人は日曜日に口喧嘩をして気まずく別れ、その足で橋本が神木のいる劇場に向かったと付帯的に判明するのだ。それで橋本の真の関心が誰に向かっていたか、その判断材料を観客は得ることになる。学校内ヒエラルキーでは決して実現しない、この神木/橋本の相愛が痛ましい。ここでは「見ること=恋すること」という図式にある等号が機能する場合には、ある種、「短絡」の恩寵が介在している、という「世間知」にも導かれるだろう。
火曜日。神木の叡智が、「見る」ことに宿っているとついに判明する。順に振り返ってみよう。吹奏楽部の女子部長・大後は自分の懸想する東出(「宏樹」)がその恋人と帰宅の待ち合わせをする場所を小耳に挟んでしまい、その場所=校舎裏でサックスのリハーサル(音出し)練習をするという破滅的な選択をする。その場所がまた神木たちのゾンビ映画の撮影場所と重複する。その前は屋上での練習に拘泥していた大後だから、校舎裏を言を左右して離れようとしない大後の頑固を神木は理解できない。理解できないのに、結果的に神木が校舎屋上へと撮影場所を変更したのは、神木が大後の表情に何かの「必死」を「見て」、彼女を尊重せざるを得なかったからだ。
以後、道徳的に頽廃した視線の劇が、大後の承認を機に「見ることの賢者」にのぼりつめていった神木たちの去ったのちに起こる。東出はその恋人(彼女は「桐島」の恋人と帰宅仲間で、やはり派手なモデル体型をしている--それと幾度かその非道義性の兆候を瞬間描写され、最終的には橋本愛から平手打ちの懲罰も受ける)にキスをせがまれて、結果的に彼らの動向を注視する大後に「見せつけ」の片棒を担がされることになる。そのキスは、第一には「見せつけ」によって罪深く、第二には淫猥さによって、すでに罰の域にまで移行している感触がある。
屋上に「桐島」がいるという誤伝によって、神木たちが撮影を繰り広げている屋上に、大後以外の主要人物が次々と乱入してきて、神木たちの撮影が蹂躙され、神木の構える8ミリカメラまでが慌ただしい動きによって吹き飛ばされることになる。ところがその前、「見る賢者」神木は、「現実に」起こったこの乱入を、さらなる異物たちの侵入と捉えかえし、ゾンビに扮している部員たちに「食え」と命じる。偶然をドキュメンタルな撮影へと移行させるこの神木は、『動くな!死ね!甦れ!』終景のカネフスキーのようだ。身体コンプレックスもあるだろう神木の、レンズ内に生じた「妄想」が画面進行に挿入され、「桐島」の恋人が、あるいは橋本愛が、あらわにされた肩の肉を、次々に俳優ゾンビたちに食いちぎられるエロチックな移調が刻まれる。むろんここで罪を犯し、罰を受けているのは神木の「妄想」だ。ところがそれは目覚ましい画面展開力とディテールをもつことで、画面に充実と重厚な句点をもたらしてもいて、その意味性をひとつに還元できない。
ところで主要人物中、たったひとり、いるべき屋上から排除されている吹奏楽部部長・大後はどうしていたか。キスを盗みみたことで傷を心に受けた彼女はもう音楽室にいて、「ローエングリン」の部員全員の合奏の一員となっている。じつはその音がずっと屋上の乱雑な出入りを見事に伴奏していたのだった。彼女は「見たことの罪」を「聴くこと、演奏(伴奏)すること」で超えたのだった。
神木の妄想も部員への指示も、実際にはまったく機能していない。気弱で貧弱な部員たちは肉弾戦に飛ばされ、みな屋上に打ち伏している。神木の「謝れ」という叫びにも後ろ髪をひかれた様子はあるものの表面的には無視して、「桐島」の不在を確認したあと闖入者たちは三々五々、屋上から去っていった。そこから「火曜日」の二回目となる。友達からやや遅れて現場をあとにした東出。彼は撮影カメラのレンズに接続する留め輪を見つける。それをどこかに投げ捨てようとしてふと翻心、かたちを丸く整えて、階段を下りるところを屋上に戻り、神木に「落ちていた」と差し出す。この差出しだけが火曜日の一回目では描かれていた。紛失されてしまえばいいと留め輪を一旦は捨てようとした東出の手は火曜日の二回目で捉えられた。手は彼の絶望によって肥大しているようにさえ感じられる。じつはこういう心理作用を吸い込む細部こそがこの映画の美点なのだった。
彼は真心に帰って、その留め輪を神木に返却する。東出はその翻心に滲み出ている真情の「隙間」を神木に突かれる恰好となる。留め輪をつけて連続的に構えられた神木のカメラに、フィルム回転のないままに東出の顔が捉えられる(画面はカメラ主体映像となって8ミリ映像の粒子の荒れをも「懐かしく」かたどるようになる)。その顔には「キスを見せつけたことの罪」の余韻が刻まれているほか、「見ることにたえず熱情をもたなかった本質的な弱さ」までが滲み出している。しかし「見る賢者」神木は、東出の顔や身体のうつくしさ、それへの憧れを、カメラを構えながら語りつづける。やがて自己表現の材料をもっている神木にたいする劣等感で東出の顔がこわばり、泣き顔をみせ、ついには苦しみにあえぐようになる。
この場面を決して、運動部的体格の優位性が、文化部的感性に調伏された「力の逆転場面」と捉えてはならない。「まずく見られた者」が「美しく見られる者」に変貌する、その喜びこそが描かれていると考えるべきなのだ。その喜びを導く者が、まさに神木のように「見る者」なのだった。このとき観客の視線と、神木の視線が幸福に一致している。むろんここでは「見ること=恋すること」という青春映画にありがちな短絡的図式が何重の意味にわたって解除されている。しかももともとこの図式を作品に導入した大後も、前述したようにこの一連では「聴く者」「奏でる者」として画面進行に接続されて、やはり「見ること」から解放されていたのだった。
一旦は留め輪を捨てようして断念した東出の手。一旦は見ていることが最大限に罰せられながら、眼が伏せられて顔全体が吹くことに転位していった大後。そしてカメラを東出に構えている神木。あるいは描写しなかったが、仲のよいとおもわれた東出の恋人の頬を屋上で打った橋本愛の平手。これらが実際は、この生徒たちの愛着の方向があまりにも不如意だった『桐島』のメトニミー単位といえる。それらはいうまでもなく「部分」だが、いま綴ったもの同士の相互性では「隣接」を描いているのだ。それでもともと「金曜日」のズレを孕んだ反復というメトニミーによって話法を開始したこの作品に、より上位次元のメトニミーが実現されたといっていい。
いうまでもなく映画でのメトニミーは、「部分」を省略と飛躍を介在させて細心に語ることに尽きている。逆にいうと「何を語らないのか」が、語られる部分を電磁化するのだ。かんがえてみれば、吉田大八監督は、「何を語らないのか」、その選択が冴えわたる話法の持ち主だった。『パーマネント野ばら』での江口洋介、『クヒオ大佐』での松雪泰子、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の永作博美、彼らは何が語られ何を語らないかが選択されるなかで、サスペンスフルな異形としてその存在をドラマ上継続されていったのだ。そこではそのそれぞれの結果が、幻想的な哀しみや喜劇性に分岐されていったちがいがあるだけだ。むろんこの『桐島』では「語ること」と「語らないこと」の分離は、たぶん身体の痛覚、その赦しといったより高次なものへと向かっていった。その意味で本当に緻密な映画だった。そして見事な「屋上」だった。
南方妄想
【南方妄想】
ゆこうとする島には、一物が一物にみえるまえの、瞬間の混沌がたくさんある。それを知るぼくらの眼は、寄せ返す波を見るにつけても遅れてゆく。あなたの頭のむこうに瓦のみえる垣根では、瓦とするように、あなたともした。みんな自身に似ることから、うつくしく遅れるのだ。
暗がりにて
【暗がりにて】
まなこをとじて充実がひろがるようなときは、まなうらになにをえがくでもなく、からだを耳にして世界へさぐりをいれているのだ。すべてが遅れるための息をしているとわかる。この腹を上下しているきみの頭部を消せば、身を反ることがそのまま天上への橋にもなってくる。
からだのうつろ
【からだのうつろ】
ひとになってわたしをいってみると、それは容積じたいが予定する気配のようなものではないか。やがて埋められる者、わたしは、もちろん埋めつくしてくる悲哀にかかわりがある。湿る夜、そのひとはわたしを近い対象にして、そういうかかわりをも抱きよせていたはずだ。
まつり
【まつり】
こころあらためて簡明にみまもってゆくと、眼路に水平があらわれてくる。水平とは似たものがむすび契られて、草のつづきさながら何もないことだ。息をする異なりだけが気配している。ひとではないものにむかうこの延びが、ここからをなめらかにする物の帯だろう。
結縄
【結縄】
こんなふうに感じる帯のあるぼくらには、むごたらしく継承の請が書きこまれていて、身を相互することでそれを褶曲してみせるのだ。だから関節がこのみの位となって、あわせるからだも結縄のように文字化してしまう。さいしょの出立はここにあり、もともと人でないものにまげられている。
清水あすか個展
先週金曜日には廿楽順治さんと六本木でひらかれていた清水あすかさんの個展に行った。画廊の白壁にクロッキー用の太い鉛筆でみずから書かれた清水さんの詩篇と、これまた清水さんみずからの手になる絵画がしずかなスパークを発している。
清水さんの絵画は清水さんの詩集の自装からイメージできるかもしれない。全体は暗い色調。クレヨンで色彩分布的な重ね塗りをおこなったあとで、細針で細密模様の「傷」をつけてゆき、原初エネルギー的かつ装飾的な抽象画が迫力をともなってうかびあがっている。清水さんの島の詩篇とおなじく、それは第一観的には森の様相に近づいているが、同時に海底光景にも、着物の布地(八丈島は名前のとおり「八丈」の産地だ)にもみえ、描かれたものが何かは決定できない。その意味で絵画の立ち位置が詩篇と通底している。
問題は「削ること」だろう。詩を「書く」ではなく、「紙面に削りを入れて傷つけること」だとする詩作者の系譜がある。ツェランがそうで、現在なら杉本真維子がそうだ。書くことは手首をひねることではなく、筆圧を絶望的にぶつけること。清水さんの字は角張って稲妻のように荒れて強いが、その筆圧が白壁に書かれた詩篇の書体に、同時に、重ね塗りしたクレヨンを削った針の痕跡に共有されている。つまりその画廊に入ることは、筆圧の森に侵入して、侵入したからだを刺されることだった。
画廊に清水さんご本人がいらして、いろいろと話をする。なぜ「清水あすか論」が書きにくいか。八丈島方言と古語と異言の問題はクリアできるとして、地縁を基盤としたサーガ形成的、土地交歓的な詩篇では、地縁成員における自他の弁別がなくなる。結果、たとえば子供のいる主体が描かれた詩で、その主体が清水さん自身なのか、他の地縁者なのか、判断ができなくなる(カマをかけてみたが、清水さん自身、既婚・子持ちかの想像はご自由に、というスタンスだった)。
もうひとつ、清水さんの詩行は「。」「、」を繰り込み、長くなるときに独特のうねり、リズムが生ずる(それが文法破壊と相まって、異言性となる)。都市的でない、強靭なリズム。その詩法を文法的に要約すれば「冗語法」となるのだろうが、となると彼女の推敲も、通常のように圧縮ではなく、増殖に向けられた推敲なのではないだろうか。そう言うと、自分は増殖と圧縮を交互させるような推敲をするタイプだとおもう、と語っていらした。
いずれにせよ、「土地の力」を身に装填し、高い筆圧で削りの詩を書く清水さんは、「土地」の域的微差に繊細で、そのかぎりで彼女の詩業は、松岡政則さんと並行しているように見える。しかも最新詩集『二本足捧げる。』では形容詞の名詞化、という松岡的文法が駆使されだした。それで松岡さんからの影響を問うと、清水さんは「読んだことがないんです」という意外な返答をなさった。そうか、それでも「土地」に立脚することで、「書く」がおなじ場所にながれこんでくるのだと、なにか納得した気になった。ところがこの「納得」が、たぶん「清水あすか論」を書きにくくさせているものの正体なのだ。
金曜日はその後、廿楽さん、柿沼徹さん、近藤弘文くんと、八重洲の「ふくべ」というものすごく庶民的で素晴らしい飲み屋で詩談義。詩と哲学の関係を、膝をつきあわせ談義しつくす心意気だったが、早々に酔っ払ってしまったようだ。柿沼さんとはまたのラウンドを期したい。
横
【横】
横になっているひとの横たえのかたちを、ゆびでうすくひろげる。ゆっくり心して、ゆかへのびるながさにしてゆく。ひらたくなるまでのして、にんげんでないひくさとする。そんな配線をたくらみ縦に見下ろせば、ねむたくひかる心字池ができている。
山口雅俊・闇金ウシジマくん
善が善に隣り合う映画では身体や心情の並置が単純に起こるのにたいして、悪が悪を食む映画では、いわば「何が真の悪か」をめぐり、形而上的な葛藤が生ずる。悪を主題にした途端、たとえば宗教や恋愛や自己葛藤ですら哲学化するのは、親鸞の悪人正機説やジュネの小説やカフカの箴言にも自明だろう。真鍋昌平の原作マンガ、TVシリーズを受けた山口雅俊の映画『闇金ウシジマくん』も悪の諸相を「ふるい」にかける遠心分離機のような映画で、その遠心性が曲線性と見分けのつかなくなる圧倒的なクライマックスとなる。そこでは作劇ではなく悪こそが優雅に舞踏していたのだった。
ローカルアイドル・ダンスユニット、「ゴレンジャイ」を客寄せにしてパーティ集金でのしあがろうとする「下品な野心」の男として、まず林遣都がいる。彼が体現する悪は、「あがき」「性急さ」「窮地を脱するための瞬時瞬時の着想」「対象の目的化ではなく道具化」といったものだろう。彼はパーティ開催の資金繰りに難航するうち、いわば「悪」を生み出す機械となる。劇中で「チャラい」と幾度も人物評の出される彼は、元来は感情移入のできるタイプではない。なのに彼の不安や焦燥の内面モノローグが音声化されて、彼は形式上の主役の座に上り詰める。その「窮地」の、いわば無酸素状態を観客が共有するようになるのだ。三台のケータイに番号やアドレスとして詰め込まれている三千人の「人脈」だけが財産、という彼に、自分と似たものを見出す若い観客も多いかもしれない。
次に、闇金融業を営むウシジマ=山田孝之がいる。顎鬚、眼鏡、短髪の彼に目立つのは寡黙さと立ち方の直立性だ。彼の戦闘は屈強で、しかも持前の金融哲学を最低限しか語らないので存在自体に秘匿性がある。その点で彼もまた感情移入のしにくい対象だが、観客は暴力に哲学性が裏打ちされている様相に呑まれ、ありえない自己投射をおこなうようになる。彼は林遣都の資金繰りの罠に嵌り、警察に捕まる。取調室では緘黙をとおす。ただし金田明夫の弁護士との接見では、腹芸で事務所存続のための指示を出す。やべきょうすけ、崎本大海の部下はその遠隔操作のもと、問題解決に奔走し、そこでは組織論の問題も浮上する。
最後に、嶋田久作の口跡を真似、ずっとコートのフードで顔を見せない新井浩文がいる。前二者に劣らぬ情報管理力をみせながら、カネの強奪をふくめた暴力が自己目的化し、しかもその暴力「内容」に歯止めがきかないことから、新井は作中で、最も気味悪い、真の怪物として定位される。
この三人に、さらに手塚とおる、鈴之助という媒介項を置いて、林の実現したパーティのシーンとなる。満員の入場者、喧噪感に満ちたダンスDJ音楽のなかを、山田は懲罰ではなく、単純に取り立てをおこなうため、林の得たパーティ売上金をまるごと手中にしようとする。たったひとりを除き、主要人物が一堂に会したその場面では、林が自分に身近な暴力性を山田に差し向ける姑息な対抗策を講じ続けることで、いわば「悪のトーナメント」が起こる。「悪が悪を洗う」運動そのものの物質性が描かれる点で(事後的であれ何であれいくつかの肉弾戦も描かれる)、『ナニワ金融道』など闇金ものの現代的ヴァージョンアップといえたそれまでの内容が急速に実録ヤクザものとの近似値を描きはじめ、同時に人物の出没/消長の呼吸がたとえば往年の忍者映画などにも似てくる。カッティングは速く、たとえば表舞台に位置するゴレンジャイのステージパフォーマンスや観衆の熱狂が間歇挿入されることで、裏舞台で起こっている悪の決勝戦に律動の芯棒が貫かれてゆく。
そこで映るのは何か。可愛い顔が幾度も緊張と不安で崩れてゆく林遣都、あるいはフードの下からついに顔を視認できる状態になる新井浩文を中心に、まず映っているのは質をたがえながら悪を表象している「顔」の数々だ。つぎに編集そのものが見える。それは呼吸に似た何かだ。溜めや間合いや事後判明もある。次は卓抜な照明ワークによる、空間の明度差だ。そして不思議なことに適確すぎてカメラワークそのものが意識から除外されてしまう。もっというとカメラワークは基底材となって、そのうえに多様なものが混淆しブラウン運動する様相だけが意識されるのだ。それが結局、この「悪の哲学」の映画のジャンルを、金融もの、実録路線、忍者映画から、舞踏映画へと移行させる要因となる。
観客の心情は怪しい「分散」を起こす。誰に感情移入しても不当なのに不思議な感情移入が起こるからだ。これがサブカル一般に通有されている現代性であることは間違いない。その意味で『闇金ウシジマくん』は『ナニワ金融道』よりもマンガなのだ。マンガなのに、映画的な物質性にあふれかえっている。もうひとつ、TVから繰り込まれた属性がある。『鍵のかかった部屋』など優れたTVドラマでは、いま非映画的な「時間の再編」が起こっている。手持ちで画角をうごかしながら、それをスイッチング的な編集でつなぎ、そこに別の短い単位の時間を挿入し刺繍してゆく高度に心理形成的な編集が、この『闇金ウシジマくん』の全編をゆきわたっている。
いままで主要な人物をひとり書いていない。AKB48の大島優子だ。自宅で売春もおこない、家事放棄し、パチンコに依存し、あろうことか娘に3Pをもちかける黒沢あすかの母親のもとを、彼女は飛び出してしまう。その母親の借金の利子を山田孝之に払うため出会い系ショールームで働きながら、売り(売春)だけはせずに一緒の食事、一緒のカラオケといった援交の範囲を守っている。けなげなのではない。そこでは一見自己保存的とみえる「売春性の小出し」「自己減速の設定」がそのまま小狡い悪なのだ。このようにして彼女はいちばん威厳のない悪を体現する。大島優子の貧しすぎる表情(変化)と、その役柄はよくマッチして、ドラマがいかに彼女のささやかな向日性を紡ぎだそうと、彼女もまた感情移入の「外」にいる。というか、この映画には「外」しかないのだ。
その彼女は林遣都とも旧知で、彼の生の活力に憧憬の念をも抱いている。つまり林遣都と山田孝之が対峙する(その対峙がほとんどパーティの混雑を縫う「同行」の動作をとるのが素晴らしい)クライマックスに、双方の既知である大島優子も登場する「義務」があると、通常の映画では擬されるだろう。ところがそれが起こらない。つまりクライマックスシーンで「映っていたもの」の目録に、さらに欠落を加える必要があるのだった。
では大島優子は、林遣都、山田孝之のいる「場所」に登場するのだろうか。いうまでもなくその後、それはたしかに実現される。しかもその実現に、大島優子の像そのものが欠落している点が見事なのだった。このことは「見えすぎることで不可視性を分泌する」映画だった『闇金ウシジマくん』が、同時に、「見えなすぎることで、人間の実在性をあかし立てる」作品だったこともあらわしているだろう。
そういえば、悪のトーナメントの結果はどうなったか。「沈着冷静な悪こそが、哲学性に近接することで勝利する」という結論でいいだろう。傑作だとおもう。8月25日ロードショー公開。
縦
【縦】
鏡をみると、日陰色になった縦が立っている。まぶたがけいれんしている自覚もあるのだが、みえない。ということは、みえないものがあつまっているのだ。短冊形のそれをうつむけて洗う。塩か血のようなものがながれてゆく。手はそれでもたしかな縦にふれている。
縦横のある地形
【縦横のある地形】
こちらから暮れるのが夕暮れで、むこうから明けるのが夜明けだ。夜ごと彼我がそうしてかわる。縦横のある地形は幾度もまがる。くらいものへむけた投網にあらがうため。それでも下部であることに満ち、たちどまった樹下では、肉の闇がきらきらしている。
テーブルということ
【テーブルということ】
コップに湯をそそいで卓上へ置き、ひとときは湯の終わりをかんじとろうとしていた。けれども容積であるべきそれが、のびちぢみする長さにみえてしかたない。すきとおっているのに華やかなおんなだとおもう。くぼみのほかに、帯電するおんながあった。
ブロウアップ
【ブロウアップ】
とおさを近さにさしかえる移りのなかでは、眼が拡大器のはたらきを帯びる。そうして人体にいささかも似ないハスなどに、生よりおおきいものをみつけてしまう。この大きさこそ自身を超えるサラウンドスピーカーで、同期にとりまかれた眼は、近づくための暫定へただおとしめられる。
フェルマータ
【フェルマータ】
澄んだ球を胸もとにかかえる。それがきみの夕方だとして、球の澄んでいることにはたしかな前方があった。永遠もひろがる。すでに起点となった一対のちちふさが、めぐまれた左右だった。そこを。からだにひそむフェルマータが、すきとおるものを仲立ちにあふれてくる。
キス
【キス】
にんげんのしるしが睫毛にある、とおもうことがある。うごきつつ視界のながれを視る鳥にたいし、自分の睫毛の影を容れて、視が立ち往生してゆくのが彼なのだ。おんなの貌へ貌を寄せてゆくときにも、視界の肉が植物状にしげり、ひかりと影の区別すらまよう。
手紙
小峰慎也さんがフェイスブックにアップした副羊羹書店の新入荷古書写真、そこでの小峰さんのセルフコメントから、佐々木安美さんの詩集『虎のワッペン』をあわててゲットした。84年、荒川洋治さんの紫陽社刊。
その後の、「一行字数が少ない」「ぐだぐだしてる」「底知れぬ貧乏のかがやきがある」「尾籠で粘液的」「ユーモアとケンカイのせめぎあい」「最終的な抒情性」といった『さるやんまだ』調、脱力的ドライブ感を佐々木さんはこの時点でまだ確立していない。端正で、しかも既存とはちがう抒情詩のありかを、『虎のワッペン』では探求し、それに成功している。
ぼくは、現在の詩が70年代的なものからの退化のみをしるしているとはおもわないが、それでも80年代前半までの、マイナー男性詩のある種の共通項が大好きだ。松下育男、三橋聡、福田和夫、それにこの佐々木さんなどがそうした潮流だろうが、詩意識の導入がみな「余計なことを書かない」ことにまず集中している。驚愕はあるがその振幅をちいさくし、余韻や詩篇そのものも限定的にする。むろん文学性を誇示しない。こういう詩作の規範はなにか、とかんがえると、清水哲男さんだろうか。それに女性詩。意外に辻征夫ではない。
こういう詩篇をいま男性はあまり書かないな。もっとノイズを組み込んで、リズムが変わっている。あるいは個性の質が個別的になって、男性的普遍という物差しがつくりにくくなっている。その意味で、若手でこういう方向に詩作を変化させようとしているのが依田冬派くんかもしれない(今月号の「詩手帖」に、手帖賞受賞後第一作が載っている)。改行の質からなにを規範にしているかがわかる。
ほかに柿沼徹さんや高木敏次さんなどもいるが、彼らの改行は、いわば「再帰的哲学性」にもっと厳しく洗われている。だから十年経って読み直されても「真新しい」という印象を惹起するはずで、70年代デビュー組の80年代前半までの「懐かしい」とは別次元にある。
ぼくは通常、ノスタルジー批判論者だが、『虎のワッペン』的なものは、読み手に全面的に浸潤してくるありかたが、現在の代理店主導「ノスタルジー」のように、「コマーシャル+イデオロジカル」ではない。結局は肉体、もっというと肉体の匂いがあるからだとおもう。それと「つよくない者の価値化」がドラマでつくられたものではなく、そのまま生きられたものであるからだとおもう。この感触が現在の若手男性詩作者の多くには、なくなっている。
入手しにくいだろう佐々木さんのこの『虎のワッペン』から一篇だけ引かせてもらおう。冒頭詩篇にする。
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【手紙】
佐々木安美
「体温計を三本割った」と
さりげなく書いてあった
それから笑顔の練習に
屋上へ行ってきたと
あなたの手紙は続いている
白い洗濯物と
青空ばかりの屋上で
あなたは笑顔の練習をしている
川むこうの屋根の上の
見えない側には
毛深い男が大の字になって眠り
まっさおな夢の中から
はしごを下ろしているのだろう
声にならない叫びが
胸の中であおあおと広がる
頭の中で銀紙を丸めて捨てる
凸面鏡に引き伸ばされてぼくは
路地を曲がっていく
デイズ
【デイズ】
ゆうがたの窓がらすをはかりごとにすれば、ぼくときみの貌もかさなるだろう。すこししてきみが斜めうしろへ逃げるうごきがある。不測とは内側だけのものにある、想えない外皮かもしれない。すべて日々の「々」にあるおなじ分岐によっている。これだけがはいれない内側にはちがいない。