東野圭吾ミステリーズ
いささか旧聞に属するが、録画済未見のままになっていた前クールの連ドラ『東野圭吾ミステリーズ』の最終回がすごく面白かった。このドラマは東野圭吾のいろいろな短篇に原作を仰いだらしく、各回のトーンの不統一性がアダだったのだが、最終回はさすがにリキが入って配役も豪華、内容も最大限にサスペンスフルだった。
勤め先の社長・竜雷太の娘・西田尚美と政略結婚したマキャベリスト小澤征悦は、結婚後七年にして不妊症の診断をうけた西田のつよい希みもあり養子縁組に承諾する。不妊治療の魔術師と呼ばれる鈴木京香の斡旋によるもので、女子高校生が生んで育てられない赤子、という触れ込みだった。子供は試験的に夫婦のもとに預けられた。
ところが愛のない結婚をしていた小澤は、母性まるだしになった西田の変貌を疎ましくおもうだけ。むしろ、事務的な会合という触れ込みで、逢瀬を繰り返すうち鈴木京香に急速に惹かれてゆく。好みの店、好きな食品や酒や音楽や香水が二人のあいだですべて一致して、小澤は運命的な出会いすら京香に感じるようになる。ふたりには性交渉が寸止めで外される「危なさ」さえ生じてきた。
誘惑的な京香、知的なファム・ファタールの匂い。小澤が京香の自宅に訪れたとき、しかし京香の態度が豹変する。何をいうにも小澤の心臓を抉るような強烈さをもちはじめたのだ。自分には画家志望で、その実現のためバーに勤めていた妹がいた。その妹は家宅侵入され強姦ののち殺されたが(殺された事実は小澤宅に招かれたときの京香の話にすでに出ている)、事件は迷宮入りした。警察の見立てでは犯行は出会いがしら的な強盗犯によるものだが、自分は、犯人は、自身の口から存在がしめされなかったが、妹が付き合っていた当時のその恋人だとおもっている。
ドラマ冒頭でインサート的に挿入されるのは死体映像で、そこでは絞殺後の矢田亜希子の顔がしるされていた。その矢田の姿や発声が、付き合っている相手の姿を明示されないままに頻繁に挿入されてくる。付き合っている相手の政略結婚をその婚約者にじかに会って断念させる決意を矢田が語るなど、あらゆる細部が付き合っていた恋人を小澤だとしめすが、小澤はそれを他人事と受け取ってみせ、適当な対応をするだけだ。
ところが京香の話はさらに真相暴露に向け白熱してゆく。死んだ矢田の子宮内には「強姦」相手の精子がまだ生きていた。その精子を採取し、それを自分=京香の卵子と人工授精させ、海外の代理母をつうじてじつは子供が極度に人為的につくられた。荒唐無稽な話とおもわれるかもしれないが、不妊治療の魔術師といわれる自分にはできること。そしてあなたの惧れているとおり、あなたたち夫婦が養子にしようとしているのが、じつはその子供なのだ、と。
話はつづく。あるときからわたしは妹の殺人犯を探した。妹は占いが好きで、妹の保持していた姓名判断の本には、妹の名前と、あなた(小澤)の旧姓を組み合わせた名前が欄外に書かれ、その画数判断が書かれてあった。その姓をもつ男は妹の勤めるバーの客にいた。調べてみると、その男は妹が死んだまさにそのタイミングで、婿養子のかたちで政略とおもわれる結婚に踏み切っている。わたしはその男が、妹の付き合っていた相手にして行きずりの物盗りを偽装した殺害犯だと確信した。身辺調査も繰り返した。それで「好きなもの」すべても実は学習した。そう、それがあなたなのだ……(このころには矢田を捉えた回想映像に、小澤の姿も組み入れられるようになっている)
賢明な小澤は、その話の対象が自分を名指しているという当事者性の圏内には絶対に入らない。防波堤を必死さを隠して守る小澤を、さらに攻撃の的にして京香の話はとどめの追い討ちをかける。間接話法のスリリングな応酬。妹の胎内から採取された精子は実のところ、誰のものかはわからない。あなたでない可能性だってあるだろう。むろんあなたである可能性もある。そのときは、あなたたち夫婦とはなさぬ仲であるはずの子供が、あなたにそっくりだと、養子事情を知らぬ者から、これからどんどん褒められてゆくだろう。あなたは幸せをかんじるだろうか。
否、むしろあなたは永遠に呵責にかられることになる。自分の血を享けているのに、自分の犯罪を起点につくられた子供でもあるから、子供は常にあなたに悔恨をしいることになり、あなたは実子なのに愛せない。ところが養子縁組を成立させず、子供を返還することもできない。なぜならあなたが文句をいえない妻・西田がすでにその子供に母性を感じているからだ。第一、これほど西田に愛着の生じた子供を西田から奪い去るには、あなたはかつて犯した殺しを西田に告げる以外にない。二進も三進もゆかなくなったまま、あなたは殺人の罪に呪われ、自分の子供を育てる無間地獄を一生つづけるのだ。
こう宣言された瞬間に、小澤は当事者性を頑固に認めないままに、嘔吐の発作に襲われる。京香から差し出された布はハンカチではなくネッカチーフで、それはかつて彼が矢田の首に巻いて絞殺にいたらしめたものだった。
これらのくだりの何が俳優政策的に凄いのかというと、平静を装いながら窮地に追い込まれるエリート役小澤の、不安拡大の表現だろう。疑心、発汗、視線の泳ぎ、憤怒のとり繕い……こうした彼の「反射」によってこそ、宣言者・京香の冷たい攻撃性が運命的な実質を得たのだ。説話的には唯一生存の絆で結ばれた身内=最愛の妹を殺された復讐、という予定的な枠組すら超えられて、不妊治療の最新の知見がドラマ要素のギミックとして、発展的に加算されつづける点がすごかった。ここでは復讐の不気味より、生命誕生の不気味のほうが体感的嫌悪でまさるのだ。それでこのドラマはビザールさにおいて白眉のミステリーとなった。滅多に出会えない出来のドラマだった(なお、書いたことのあとに、さらに逆転がある――東野圭吾のストーリーテリングはたしかに幻惑的な操縦力がある)。
ところで毎回、ドラマ本篇は、中井貴一主演の連続ミステリーコメディ短篇にサンドイッチされていた。中井は社内で何者かに殺されて(犯人が誰だかは本人も知らない)、その現場に幽霊としている。ところが警察・同僚・妻など、訪れるすべての者の「判定」が自殺で、その判断ミスをカメラ目線で中井は「視聴者」に訴えるが、事態はすべて望まれない方向へと進展してゆく。むろんそれは最終回、とても「可愛い」小道具でひっくりかえる。「あること」をきっかけに中井の自殺がありえない、と判明して、ぼんくら刑事然としていた蛍雪次朗が現場に集まった人間たちを確保したまま再調査の開始を宣言する、そんな笑いと逆転力に満ちた幕引きとなったのだった。この短篇の洒脱さと、本篇の重量級のサスペンスとの取り合わせが、最終的な全体にクールな読後感をかもしだした、といえる。
中井貴一はいいね。『サラメシ』もいい。
フリッツ・ラング M
冒頭、数瞬の黒味があって、そこにズリ上げのかたちで音声が響く。子供たちの歌だ。やがてカットインされる斜め俯瞰の構図では中心の女の子の周りに子供たちの円陣が組まれ、そこで日本の「籠の鳥」に類した児戯が繰り広げられているとわかる。歌の内容は「籠の鳥」より不気味で時事的だ。続けて唄われる歌の内容を字幕から引こう。《もう少し経てばやって来るよ/黒い影法師の男の人が。/手に持つ小さなその斧で/その男に切り刻まれるのは……》。ここで順番に参加者へ向けて動いていた中心者の指が止まり、円陣から除外される者が恐怖裡に確定する。
フリッツ・ラングの初トーキー『M』(31)の出だしだ。つまりこの歌こそが、ラング映画に刻まれた初めての音声だったということになる。ハーメルンの街の子供全員を笛吹きによって失った伝説のあるドイツでは、子供の消滅/抹殺はたぶん内在的な恐怖に位置する主題だろう。しかしこの歌は過去の不気味な復活であると同時に(フロイトの「不気味なもの」を想起せよ)、「これから作品に起こること」の先行規定ともなる。知られるように『M』では、幼女殺害遺棄を繰り返す変質者の、「犯罪組織」「浮浪者」「市民」による「探索・身柄確保と死刑宣告」が、その後、圧倒的な恐怖感覚をつうじて描かれてゆくのだ。
ラングはトーキーに移行するに当たり、「音声」をどう捉えていたのか。この出だしからは一見、音声が画柄にたいし先行的な拘束性を発揮するとかんがえているような感触がある。「語られたこと」が「その後」を運命論的に規定し、そこからは何者も逃れられず、「画」はその運命性に無抵抗に引きずられ、奈落にいたる、と。だが果たしてそうか。
もうひとつ、先行的な音声があった。作品でリアルタイムに描かれる幼女の犠牲者「エルジー」に、謎の男(顔が同定されないよう配慮がなされつづける)がことばを初めてかける。歩道をすすみながら少女は毬つきをしていて、誘惑と拉致のために男がかけた最初のことばが「可愛いボールだね」。ありうべき「きみ、可愛いね」から、発語がズレているのだ。毬に何かの模様がほどこされているようには見えないから、男は「球そのもの」(のうごき)が「可愛い」と、(脱)原理的な感覚吐露をしているような逸脱性が届けられる。
男の顔はずっと同定されない。「見えないもの」をつくりあげる不安が視覚供与の使命であるかのようだ。男が幼女のために盲目の路上風船売りから風船をあがなう場面。男の口許から思わずグリーク「ペール・ギュント」のメロディの一節が漏れる。それも執拗な反復の相を伴って。この口笛のピッチは危うく、それが「音声」自体の発現不全性を象徴しているかのようだ(実際に口笛をアフレコしたのはラング自身だという)。むろんそれはことばを欠いた旋律だから具体的なメッセージでもない。いうなれば盲目の風船売りの視覚喪失が、音声にありうべきメッセージそのものを反射的に盲目化しているのだ。盲目になったことばこそがメロディに化ける。それはことばの自在性ではなく、内在的な不如意を抉られての結果だろう。
ところがのちの展開からわかるように、その「ペール・ギュント」の口笛が、その男をその男と同定する根拠ともなる(盲目の風船売りはそれで男の尾行を浮浪者仲間に指示する)。なぜか。メッセージのない音声は繰り返されることで、「反復性」、ただそれだけの「意味」をもち、この「意味」はメッセージ内容などよりもつよい、ということだ。ということは、ラング、あるいは脚本のテア・フォン・ハルボウは、不全性においてこそ「音声」が意味や先行性をもつ、とかんがえているのではないか。
ことばそのものが盲目になる。あるいはことばは、反復され一回性を失ったときに別の意味に化ける、内在的な効果=可変性をも抱えている。つまりそれは画柄とおなじ「それ自体の」展開力をもつのだ。換言するなら画と音は相互に従属/被従属の対など形成しない。それぞれ独立に展開し、ときに重複し時に離脱しあうだけだ。干渉はあるが干渉はない。それらはたえず別個に捉えうる二匹の蛇にすぎない。この資格をもってこそ、音と画が陰謀を展開することができる。ラングはトーキーの最初の時点から、トーキー映画の真の潜勢力を見抜いている。
円陣-球というふうに仕掛けられた主題系はどのように「自律的に」変遷するか。すでに男の誘惑の前に、「エルジー」の母親が娘の帰宅の遅すぎる点を気遣い、その名をアパート内に響かせている。このとき画面にアパートの回り階段を真俯瞰で捉える幾何学形構図が現れる。渦巻き、螺旋。その中心にむかって呼ばれる「エルジー」の名は、そのものがすでに「歌」となって、画と音は不調和のままに睦みあう。円/球は「求心」への想像力を導くはずなのに、その回り階段への真俯瞰では中心が意味化されていないのだ。
音声と文字は似た機能をもっている。それぞれ通常はシニフィアンとシニフィエとを分離できない同時性として出来するからだ。ところが『M』ではそこに罅が入れられている。街柱に、すでにつづいている幼女連続にたいし警察からの情報提供と賞金供与を呼びかけるチラシが貼られている。毬をついていたエルジーはそれを見上げる。その瞬間、そのチラシに「影」(ラング映画の特権的表象)が侵入し、じつはその影こそが「可愛いボールだね」と発声したのだ。視覚性が減摩されても音声はそれを「貫く」。音声には貫く力動だけがもとめられ、意志疎通など第二義的な作用にすぎない。
少し展開を追おう。エルジーの死(メトニミーをもちいた表現)ののち、遺体発見の号外が発行され、しかも謎の犯人からの犯行声明が新聞社に送られ、その筆跡ままの版下で大々的に一面掲載されると、警察は犯人検挙に躍起になる。恐ろしい「代行性」も開始される。連続殺人鬼の探索を口実に、浮浪者や売春に供されるクラブなどへのローラー作戦が開始されたのだ。日本の例でいうなら、三億円事件の犯人捜査という口実でアパートのローラー作戦がおこなわれ当時の過激派の居住分布把握が完成した。あるいは竹中労が主張したようにビートルズ来日公演の際の過剰警備が、総理訪米のための羽田行に伴う警備の予行だった可能性もある。権力はひとつの危機にたいして代行的に拡張する。むろんナチスはその伝で覇権を築いた。
それで悪徳を繰り返すクラブにいる夜の人々を、警察が一網打尽にする展開となる。警察が来る、という報せに地下店舗からの階段を上ろうとする者たち。そのとき地下への開口部が、円に近似する「穴」だ。しかし『M』では平面への貫通力を発揮すべき「穴」は不如意を運命づけられる。ここでは警察が出口にすでにいて、群衆を押し返す。性交のような、いや、それよりむなしいピストン運動がそこでしるしづけられる。
斜め俯瞰や真俯瞰の構図が頻出する。それが大ロングの場合は、フレーム内に右往左往する人間を昆虫化する。俯瞰とは人や動きの情け容赦ない捕縛でもある。そこに円が連絡する。警察が犯人の居住地域を予測しようと市街図を開くくだり(市街地図はラングの次作『怪人マブゼ博士』でも頻出する)では、遺体発見現場からローラー作戦の目安のためコンパスで2キロごとの同心円が描かれる。これも真俯瞰による。円の作成は範囲化だ。懐中電灯の光の投射も暗闇にたいしての闇の捕縛と範囲化であって、その円のなかにやがて、眼玉を飛びださせそうになるほど不安をかたどった犯人の汗だらけの顔を、観客は見ることになる。そこでは画面の奥行がその光に画定された部分だけ平面化するという魔術が起こる。
魔術、としるした。「犯人」を基軸にすれば、「音声」が「錯誤」「盲目性」→「自己弁護」→「破局的独白」という道筋を辿るように、画も、構図と対象選択のなかで自動的な変貌をかたどってゆく。その自動性を不全性とも別称できる。たとえば――犯人から新聞社に送られた声明文から筆跡鑑定がおこなわれる。曰く、赤鉛筆で書かれた角ばったアルファベット字体は犯人の隠された攻撃性を指標しているが、同時に怠惰と浮遊性も認められる云々と。
この談義の最中に、ある男の姿が挿入的に画面召喚される。犯人の資質談義の直後での召喚だから機能としては「指呼」だ。そこでペーター・ローレの顔がしるく現れる。だがそれは本当に犯人の実像なのだろうか。犯人は「いままで一度も画面内に明示・同定されてこなかった」。ということは、この挿入は悪くいえば映像の自動展開の勇み足、踏み外しであり、せいぜいよくとって、作品のその後を規定する「フラッシュ・フォワード」ということになる。いずれにせよ挿入の過誤にも似た印象を編集に負わせることで、画そのものへ同定不能性が滲みだしたことになる。むろん意図的な陰謀だ。
映し出されたペーター・ローレは鏡の前にいて、その鏡像と実像を一画面内に分断されている。動作の奇怪な連続性がしるされる。まずは笑いの表情を作為する。次いで二本の指で口の両端が下に引っ張られる。への字口。そこで彼は眼を剥く。妙に顔の筋肉が柔らかい。可塑的だ。つまり彼は「表情の練習」をおこなっている。観客は不安になるだろう。それほどまでにこの男は内心と表情が乖離する離人状態にあるのではないかと。笑った経験が一生になく、笑いの表情を無理やりかたどるために鏡を前に唇の両端をナイフで切ってみた、ロートレアモンの「マルドロール」まで想起される。
刻印はもともとたとえば、内心と表情の関係のように内部接触的であるべきなのだ。それが遊離しているときには、像は意味として形成されないか、遊離が意味となるだけだ。ところが作品は接触型の刻印を代置する。まずは性的犯罪をおこした前歴者リストがつくりだされ、犯行にのこされた「指紋」との照合が図られてゆくだろう。
ところが指紋よりも前提的な接触型の刻印があった。犯人は木目が均されないまま細かく浮き上がった板のうえで声明文を書いたらしく、その赤鉛筆の筆跡は細かい縞模様をかたどっている。犯人の書いたものはその下にあった板目によって「現像」されているのだ。となるとネガの位置にあたるその「板目」を、前歴者リストの居宅から見つけることができるのではないか。像の表の意味が、裏から別の意味によって刻印された二重化の状態は、もともと陰謀のなかにある像が別地点に移行する展開力を示唆している。つまり声明文=像は、それ自体の確定力を超えて、すでに「揺れている」のだ。ラングはそのようにして像の根源的な不安を抉りだす。
警察のローラー作戦で、日常的犯行の機会を封印されてしまった犯罪組織は、この不如意の根源=「幼女殺害を繰り返す変質者」を捕獲しようとかんがえ、そのために今度は街路図を同心円ではなくゾーンに配分して、浮浪者による監視体制をつくりあげる。もともと自警団的な発想が怖いのだが、おなじ犯罪者に括られることがあろうとも、性的変質者は強盗やスリと同列化されない、という選別意識も怖い。後者は悪を単純に生きているのにたいし、たぶん前者は悪の内部的ヒエラルキーそのものを無意味性に脱色してしまう先行的な攪乱者なのだ。彼は悪を生きているのではなく、悪に生かされているだけの反存在で、自立性崩壊の陰惨な疎ましさのなかにある。
気づくべきは警察によるローラー作戦がそれ自体もっている代行性にたいし、犯罪組織が警察そのものへの代行性をもって、対抗的な自己組織化をおこなう、という点だろう。犯罪組織あるいは民衆と、警察あるいは法廷とは、この作品では相同化されている。相同性をしるしづけるため、議論の渦中といった同じ展開の局面で、相同性の編集つなぎがそれで繰り返される。
これはむろんナチス論に転化できる。作品のクライマックスでしるされるペーター・ローレへの糾弾、その民衆による死刑宣告の狂信性がナチス下のドイツ国民性を予行的に暗喩したという言い方もできるが、肝心なのは民衆そのものがナチスの暴力を自発的に「代行」する量的実体だったということだ。
前言のように新たな幼女を毒牙にかけようとしていたローレは、「ペール・ギュント」の口笛、その「音声」だけで盲目の風船売りに「同定」される。ローレは尾行される。尾行者は自分の掌にチョークで「M」の字を大書し、理不尽な難癖を装って、ローレの黒っぽいコートの肩下あたりに、さりげなく「M」の字を「刻印」する。ローレは被現像体となった。やがて連れている童女にその「捺印」を指摘され、彼は自分を取り囲む危機を認識する。それで童女から離れ、包囲網(そのものが「円」の予感を湛える)から決死の脱出を図ろうとする。
ラングはこのときも像そのものの不安定さをつづることを忘れてはいない。ローレの尾行者が街柱の裏側に入ったとき、(本来は尾行継承がなされているのだが)片足の浮浪者が不意に健常な尾行者にすり変わる、トリック撮影のような展開がある。あるいは切羽詰まってローレがある建物に入る瞬間は、画面手前に素早くクルマが擦過し、その背後に一瞬入った奥行のローレが、忍術使いのように忽然と姿を消滅させたような、速度の異調もある。いずれにせよ、裏側から場所の唯一性を現像された声明文を書いてしまったローレは、「M」(「殺人者」の頭文字)の烙印を身体表層に現像された被現像体の繊細さをもってしまっている。だから「開かない扉」「音のサスペンス」「倉庫と檻との相似」「自動的にうごくようにみえるドアノブ」といった付帯テーマののち、倉庫に隠れる彼の顔は、懐中電灯の円形投射の中央に、破局的に「現像」されることになるだろう。犯罪組織はローレの捕縛に成功した。
たったひとり、ローレ拉致の成功に与れなかった犯罪組織の一員がいた。彼はローレの潜伏可能性のある一室に辿りつこうと、階上の床にドリルで「穴」を穿ち、そこから階下に到着した男だ。警察介入は時限化され、ローレ確保に成功した仲間たちは逃走する。男だけが置き去りにされた。犯罪組織がローレ探査のためにおこなった狼藉のあとを画面展開はフラッシュ編集的に「列挙」する。「穴」も映る。このとき階下の男は物音を聴きつけ、階上に向かい縄梯子を下ろすよう依頼する。それは下ろされ、男は上り始める。懐中電灯の点灯。上っている最中の「手を上げろ」という原型的にして秀逸なギャグ。「無理ですぜ」という男に、事態が一挙に察知されたとわかる。このとき俯瞰画面がより引くと、穴と、穴の周りに円陣を組む警官たちの、二重同心円構図が現れる。なにしろ警察は「同心円」をつくる権力なのだった。
これらののち、語り草となった名場面となる。ローレは犯罪組織の先導する裁判にかけられるため、廃墟となったウィスキー醸造所の「がらんどう」空間に、犯罪組織によってたたきこまれるのだ。自分の入った鎖された空間の、内部的広さを気配で察知するローレ。振り返る。すると犯罪組織構成員、浮浪者の枠組を超えた「民衆」がその場に大勢結集しているのがわかる。このときの「数」の迫力は、ローレの「見た目」の画が移ること、つまりパンニングでしるされる。それまでなるべくパンの使用を禁欲されていたので、数を次々に呑みこんでゆくこのパンニングは運動展開の点で異様な迫力を帯びる。
彼らは円陣を組んでいるわけではない。ところがローレの立ち位置を架空の中心点にしてカメラのパン運動そのものがその先端で連続的に円弧を描いているのだ。つまりローレは、円に囲まれるのではなく、円そのものに変換する。あるいは円のなかに自らを消失させることへと接続されたのだ。事態は残酷だ。
円は中央への求心を想像力にしいると前言した。死刑宣告を叫んでローレに雪崩れ打つまで、ローレと民衆との距離は保たれている。とうぜん縦構図が連続するわけだが、そのなかでローレの声を聴き、ローレ当人だと同定証言をする風船売りはローレ側にいる。結果、手前から順に「風船」「ローレ」「群衆」という三重の縦構図ができる。なんという中心性のつよさ。縦構図が俯瞰構図とともに画面の強度を生成するのはいうまでもない。
可視性と同定性の奪取による不気味さから始まったペーター・ローレの演技は、いよいよここから伝説的な「自己展開」に入る。最初は自分ではない、これは誤認逮捕だ、警察を呼べ、とののしるが、その言説の「自己再帰性」は民衆の哄笑に迎えられる。法廷の成立与件は犯罪組織によって綿密に盛り込まれていて、ローレには弁護士も立てられている。ところが弁護士が精神異常者の責任能力の不在を規定する刑法51条に言明するやいなや、ローレは自動展開的、自己破滅的に群衆の圧力をまえに犯行告白に及んでゆく。
「我慢できなかった」「ほかの道はなかった」「自分のなかに悪魔がいた」「ひとりで通りを歩いていると、追ってくる奴がいる」「自分自身だ」「逃げる」「走って」「追ってくるのは自分自身のほかに亡霊もそうだ」「やがてその恐怖から解放される」「ところが自分が何をしたのか記憶していない」「翌日の新聞をみて、自分が何をしたのかわかる」云々。鏡を前にした彼の仕種同様、ローレの犯罪が離人症的な疎隔感をもって、夢のように遂行されていたことがここで完全にわかる。
ローレの表情を描写してこなかった。やがて上からの照明によって表現派的な強度にそれは包まれる。汗。眼の剥き。自嘲。必死。恐怖。狂気。眼圧の高いギョロ眼の、死魚のような生臭さが圧巻だ。あらゆる感情や兆候が、そこでは雄弁というより「自己展開的に」語られる。もともとローレの丸顔は若干の肥満を抜けば、可愛い。優男の範疇だ。目許には女性性も刻まれている。ところが意志の薄弱性、不吉さ、持続力のなさ、性的な露骨さも「同時に」その表情の微細レベルには刻印(=現像)されていて、実際は「要約」できない。むろん理性は要約しようとして、それを変態性の枠に押し込める。ヴァルネラビリティ=攻撃誘発性は、一見その弱さ固定後の意味に宿るように見えながら、実際は固定前の、「表情連鎖の無限の勃発性」「巧緻を印象づける素早さ」のほうから不断に醸成されてくる。
恐ろしいことに、作劇やローレの演技を「超えて」、そうした表情のありかたそのものがヴァルネラビリティを「こちらに」分泌しつづける対立効果、鏡面効果をもっているのだ。それを実現したがゆえのローレの伝説的名演というべきなのではないか。むろんローレはラングに先駆けてナチスから亡命したユダヤ系であり、それもあって、この作品のローレの位置は、そのまま誤ったユダヤ性を湧き出させる泉ともなった。見えないのに怖いもの。一様なのに変化しつづける潜勢。『M』の恐怖はローレにそうしたユダヤ性をおもわず捺印してしまう、自己感覚の暴走恐怖にほかならない。それで『M』はドイツ観客のみならず全世界の観客の鏡像を恐怖裡につくりあげたのだった。
最後に補筆を。この作品でローレはやがて毒牙にかけようとする少女とともに、ベルリン繁華街をさまよう。その際に現れる商業施設のショウウィンドーはすべて幻惑的だ。ガラスの障壁に繊細な感覚を発揮するラングに相応しい事態だが、それはあたかもベンヤミンが19世紀パリのパサージュに見出したものがベルリンに華やかに飛び火したかのようだ。だがそのファンタスマゴリアは「それ自体」では完成されない。少女「とともに」見て、その表層に少女の分身まで漂っていなければならない、というのが、ラングの判定だろう。この判定はよくかんがえると怖い。
ローレ
【ローレ】
ちいささを珍しさにして行く手が飾られる。この視界変化には減圧器がひそんでいて、性もミニチュアになる、背丈のある町といたいのに。ちかごろは陶酔しない。すべて口笛となって、わたしがわたしから離れ、口笛のあいだだけが契りわたる。この伯林の三一年には。
フリッツ・ラング ドクトル・マブゼ
フリッツ・ラングは第一次大戦前、パリに画学生として留学しながら、その地でフイヤードの連続活劇『ファントマ』などに熱狂した。その前史が彼の基礎をなした、とする見解は多い。つまり画学生の資質からくる視覚性と、連続活劇への熱狂からくる説話スピード、これらがラング映画の二本柱だということだ。
これはラングがナチスドイツを逃れ、ハリウッドに亡命したのちも変わらない。ただ、説話スピードに主軸がぶれればたとえば『復讐は俺に任せろ』のような作品が成立し、視覚性に重心が移れば『飾窓の女』のような蠱惑が生ずる。その意味でいうと、第一部・第二部で構成されたラングの無声映画の大作(復元版によれば両方を併せると270分の長尺になる)『ドクトル・マブゼ』(21/22)は視覚性と説話スピードが完全融合された、幻惑や眩暈を放射しつづける歴史的逸品と捉えるべきだろう。
作品内部は幕で区切られるかたちで分節されている。各幕の終わりには危急をつげる転調が盛り込まれ、次節への緊張をたかめる。これは少ない巻数で続き物として各週展開されていた連続活劇の流行時代の名残だ。むろん無声映画特有のスピードがある。スポークン・タイトルが挿入されるが、そこでは人物たちの複雑なメッセージが披露される。それ以外はとうぜん俳優の表情、その視覚性でドラマの成行をつたえる必要がある。だから悲嘆、驚愕、憤怒などは手振りを交えた大仰な俳優演技(これには慣れる必要がある)が生じるが、それで音や字幕がなくても(弁士のいない状態で観ている)、俳優が何をいっているかは表情から類推できる。
むろん現実的な発話の長さを帯びる必要がないので、発話行為への撮影も端折られる。この短縮の連続によって、説話に推進力がつく。また聞えない会話のやりとりが表現の本意ではないのだから、アクションの連鎖のほうが強調される。そうしてサイレント映画自体が、いわば「高速の体系」に入って、その速度によって夢幻化が起こるのだといえる。
高速とは実質的には走破運動ではなく変貌が本質だ。変装と変名の名人で神出鬼没、人の運命を翻弄し、不法な株価操作や、催眠術をつかった賭博、偽札づくりで巨万の富を得ながら、金儲けのみならずその「超人思想」らしきもので人心の全体掌握を目論む怪物としてマブゼ博士は画面召喚される。付け髭、鬘、眼鏡、貧富のどのクラスに自己配剤させるかで多様な人格を使い分ける彼を見分ける特徴は、彼の腹心以外では、やはりラングの映画の法則どおり、「観客だけが」知っている――炯々として異様な、動物磁気的な、あるいは邪眼的なその眼光だけが、どんな顔においても一致しているのだ。
差異性のなかに同一性の芯があること。それで観客は翻弄的な変貌の中心に、変わりようのない同一性を捉えることになる。本当は意気阻喪させる事態のはずだが、それに気づかせないのはマブゼが神出鬼没で、ショットの枠組を突き破るようにして、「突然そこにいる」からだ。むろんそういう「映画の陰謀」の支配下に置かれることを観客は積極的に希求している。
第一部第一幕はいわばマブゼの超人性を紹介する導入的逸話で、そこでは彼の株価操作による巨万の富の獲得がしるされる。株価に影響するドイツ・スイス間の経済協定書の列車内での強奪。その書類の入った鞄は列車から投擲されると走行中のクルマが受け取る。動くものから動くものへの連鎖。クルマはいまからみるとクラシックカーだが、速度が織りあわされた瞬間、その重複域に白光の生じる心地がする。その白光性こそがカッティングの閾なのだ。モータリゼーションはすでに20年代のベルリンに始まっている。ただし作品全体を通すと、クルマと馬車の混在する時代だったということもわかる(この混在性をラングは「視覚的に」偏愛していたのではないか)。
第一幕での高速体系という点では、もうひとつ白眉がある、経済協定書の紛失が告げられると一会社の株価が暴落し、下げ止まりになったところでその場にいるマブゼが買い、協定書が発見され無事相手先に届くと報じられると今度は急騰し、マブゼが大量売りする。当時は株式市場での株価表示は黒板へのチョーク書きで、担当者はめまぐるしく数値を黒板消しで除去しながら、その上に新しい数値を書き換えてゆくのだった。高速化したマジック・メモ。
記憶モデルをマジック・メモにもとめたのが初期フロイトだった。ところがそれは記憶をしるす主体の作用域が主体のなかにあるという擬制を孕む。結果、主体のなかに大→小の入れ子構造ができ、主体内に無限小のホムンクルスまでを生じせしめるという反論を呼んだ。それでフロイトは記憶理論家から精神分析へと歩を移したのだ。いずれにせよ、「書き換え」は、実際はそれが内面的なものであれば、主体の複数性、その恐怖に転化する。ならば外在的な「書き換え」も、主体危機の換喩の位置に現れるだろう。
第一部第二幕から以降は、マブゼが催眠術をつかって賭博で野望を実現してゆく展開となり、アクション場面は要所要所にちりばめられるようになる。当時の娯楽ホールが作品舞台になると、ロングショットという限定つきながら、少女の幼い体型でしかない踊り子が全裸で「芸術的」ストリップを披露する様子などが捉えられる。芸術と悪徳の混淆。たとえばのちマブゼの眷恋対象となる「貞淑な」ドゥシー・ドルド伯爵夫人も、夫の厳格さから来る圧力に耐えながらもコカインに惑溺、ポーカーを中心に賭博のおこなわれている悪所で運命の浮沈に一喜一憂する人生模様を見ることを趣味としている。ここでは貞淑と頽廃がやはり混淆している。
ノーベルト・ジャックの原作小説、作品製作当時ラングと蜜月の状態にあったテア・フォン・ハルボウの夢想的な脚本、それ自体にたぶん混淆があとづけられているはずだが、ワイマール初期のドイツの文化的活況と危機を、混淆の画柄として定着した最大の功労者はやはりラングだろう。混淆とは潜勢状態、何かの兆候なのだ。そういう土壌からしかマブゼは登場できない。それと建造物内部の美術様式、あるいは時刻表示の機能をもったさまざまな意匠の時計の大写し、などからすると、作品は「表現主義」のみならず多彩な傾向をやはり「混淆」させている。こうした混淆は華やかさとともに悪趣味、あるいは落着きのなさをしるしづける。落着きのなさがとりわけ重要だろう。催眠術をテーマとした作品だが、作品自体が観客を催眠術にかけるためには、落着きのなさ――すなわち「律動」が必要なのは自明だからだ。
のちに判明するが、舞台の上で踊った美女のひとりはマブゼを強烈に信奉する愛人カーラ・カロッツァだった。マブゼは貴賓席で彼女に熱狂している金持ち風のボンボン、エドガー・フルに着目する。フルは二重に拘束された。ひとつは催眠術をつかったポーカー賭博でフルに大枚の借金を負わせること、もうひとつカロッサの色仕掛けで翻弄することだった。
当時のベルリンの紳士貴顕は名刺状のカードを携帯している。そこに住所やメッセージを書き込んで相手に渡す習俗があったようだ。マブゼはそこに偽名を刷り込み、借金の支払い場所をエクセルシオール・ホテルの一室に指定する。あるいはのち、カロッサの居場所も同ホテルの別の一室に指定され、さらにのちにはマブゼの本当の居室として別の部屋も指定される。111、112……と号室数値がまたも変転してゆく。ここでもフロイトへの聯想が起こる。
彼の卓抜したエッセイ「不気味なもの」では、たとえば自分のホテル部屋番号と誕生日が偶然「一致」した場合、死が膚接したような不気味さが惹起される、と分析されるのだが、ここでは部屋番号が一致を見ずに、説話上の要請にしたがって続々と変転してゆく。つまり「一致」という不気味さの基底のうえに「変転」がマジック・メモのように上書きされ、メタレベルの不気味さに上昇するような操作がおこなわれているのだ。ところが「一致」は前言したように、どんなに変装によって人格を変えてもマブゼの眼光に局所化されている。
ラングはどのくらいフロイトに親炙したろうか。マブゼの複数性は作品に数々のフロイトが並立しているとみえなくもない。むろんフロイトの諸説は展開的で見事な面もあるが、その全体には巨大な同一性が絶望のように浸潤していると捉えることもできる。いずれにせよ、『ドクトル・マブゼ』はドイツ圏のフロイトを側面的にスケッチする「無意識」だったといえるのではないか。
無意識――ポーカー賭博で大負けをしたフルの手には、前言したように借金の支払期日と場所をしるしたカードがのこっている。しかも彼の手札が素晴らしかったのに「降りた」ことで大敗が確定した経緯も判明する。周囲のみなは訊く、「ところで君が相手にしていた男は誰だい?」「どんな顔だった?」。フルはいう、「わからない」「何も憶えていない」。ここから真の恐怖が滲みあがってくる。作品は「見えているはずなのに、見えていないものの存在する領域」に注意を促すのだ。誰ひとり実在していたはずのマブゼを実在化できない。それは観客に課せられる課題でもある。説話の説明機能にしたがって変転するマブゼを同一的に捉えている自分たちも、マブゼを認識的に同定できているのだろうか。あるいはそうかんがえているのだとすれば自分たちもマブゼの眼光による神秘的な催眠術の虜になってしまっているのではないか。
そうおもうのは、「見えていたはずのものが見えていなかった」がすぐさま、「見えていないはずのものが見えていた」へと、「対偶」を織りなすためだ。不安によって視覚から同一性を剥奪すること。ホフマン『砂男』での、とくに自動人形にかかわる流儀。視覚と記憶が、眼と脳の部位的近接のように近すぎて脱臼を生ずるとき、自分の身体部位のメトニミー的隣接を尺度にすることがそもそも誤謬だという疑義も付帯する。このときすべての距離が無意味になって「人間は壊れる」。『ドクトル・マブゼ』はもともと「崩壊」と「熱狂」を分離できずにその刻々に翻弄されてゆく悪魔的な代物なのだった。
「みえていない」こと――映画にとっての「視覚」の意味が冷笑性によって脱線していることは、マブゼが営む偽札づくりのアジトが、盲目の――もしくは弱視の、虚弱な老人たち(ホームレスにみえる――つまりそこはベルリン内貧窮者の吹き溜まりだった)によって営まれている点にも現れている。眼が正常に機能してなければ偽札などつくれるわけがないのだ。つまりそこは意味が転倒した場所として明瞭に意識されている。
だからその場所が、悪行の数々と正体と居場所が判明して警察・軍隊との籠城戦から地下水道へと敗走したのちマブゼが意味的な終焉を迎える地になるのも当然だろう。マブゼに扮するルドルフ・クライン=ロッゲはそこで凄惨な発狂のすえ「廃墟」となった人間を見事に造型する。見事、というのは、「これがおまえたちの末路だ」と観客に突きつけるまでの予言的転写力があるからだ。そのまえにあったのは、作品がしるしてきたマブゼの歴代な犠牲者たち――すなわち「亡霊」(見えるはずのないのに見えている者たち)とマブゼがポーカー賭博をふたたび「反復」する陰惨な景色だった。
視点を変えよう。教唆主体がいる。ところがそれが事後的にわからなくなる。ひとつは教唆された対象側が自滅を演じることによって。いまひとつは教唆主体そのものの記憶が対象から消滅することによって。この関係を原理的に煎じつめると、教唆主体そのものが記憶喪失かつ自滅願望をもち、それが対象に転移しているのではないか、という破局的な世界像が立ち上がってくる。催眠術をつかったマブゼの犯罪の連続性、神出鬼没性を参照し、そうした破局的世界像を純粋化したのが黒沢清『CURE』だった。
黒沢の着眼は当然の発展聯想だ。つまりマブゼは神にひとしい全知全能でありながら、その本質は記憶喪失なのではないかという疑義が、画面に直面するだけで湧くのだ。説話中の手段の脱臼、殺害可能なのにその時点では殺害しないこと、全知全能なのに好色にも人間の女ていどに愛着して衰弱までかたどること、仲間との酒宴では棄民の様相を呈すること。これらはみな、マブゼという圧倒的な造形における「書き損じ」「手違い」「意図的な脱落」「襤褸」なのではないか。血を沸かせ肉を躍らせてこの映画に接した当時の世界中の観客は果たしてマブゼの全能性に恐怖/狂喜するだけだったのだろうか。自分の「見ることの力」を根底で阻喪させてゆく負性をもその「無意識」のなかに掬いあげていなかったろうか。
「ポーカー賭博の掛金を中央に回収する円形の最新式(機械仕掛けの)賭博台(俯瞰ショット)」→「降霊術に集合した者の両手が円形に配備されたようす(俯瞰ショット)」というように、形象連鎖的なラング映画のカッティングは、同一的形象の隣接という点で、メトニミー=換喩にその原理を負っている。むろん変装しつづけるマブゼもメトニミーの範囲にある。メトニミーは「部分からの全体への喩」が本質だが、部分がいくら足されても全体にならない「悪い予感」がこの作品を支配していて、そのことが予感レベルでの観客の意気阻喪の正体でもないか。第二次大戦後にアドルノは「部分の総和が全体を形成するとはかぎらない」とつづったはずだが、そのアドルノを予見する位置に『ドクトル・マブゼ』が置かれている。
不自然なほどポーカー賭博で大敗する者がいる、しかもその相手の印象が曖昧で、しかもそれぞれの姿が別々だがその事象に「連続性」があるのではないか――そう検事のフォン・ヴェンク(演じているベルンハイト・ゲーツケが素晴らしい)が判断して、囮捜査にちかい布陣でエドガー・フルやトルド伯爵夫人に調査協力を仰ぐあたりから、正vs悪、というラング的二元論が生動、それまで悪の「進展・拡張・変転」だけを描出してきた作品に転調が起こる(第一部の終わりに近づいたあたり)。フルの殺害を機に、やがてヴェンクが正体不明のままのマブゼとの対決当事者になるくだりから、遠隔性が近さ/直面性に変貌してくる感触があって、これがスリリングだ。遠さと近さを分離できないもの、近づけば近づくほど遠さが明瞭化するものがベンヤミンの規定する「アウラ」だったとすれば、遠さから近さへの移行は俗的な熱狂性をドラマ上、しるすだろう。
その反作用がマブゼ側にも起こる。誰とも名指せない謎の賭博師だったマブゼは自分のトルド伯爵夫人への邪恋を成就するために、その腺病質の夫・トルド伯爵(演じたアルフレート・アーベルもその女性的な挙止が素晴らしい)を罠にかける。賭博には無縁の彼に催眠術によってイカサマ賭博をさせ、社会的地位を貶めたあと、気絶した夫人を監禁、いっぽう夫は本名にして本職(?)の精神科医「マブゼ博士」としてその治療にあたる(むろん彼の本当の目的は自殺暗示にかけることで、それに成功する)。そのマブゼ博士として彼はヴェンク検事とも会う。さらに自分の催眠秘術の全貌を見せることと引き換えにヴェンクを殺そうと、「ヴェルトマン博士」(むろんマブゼの変装によるもの)の公開イベント(ショウ)に誘う。
それまでは人物の間近にいながらも遠隔的だったマブゼの立ち位置の二重性がひとつに収斂し、その近さと遠さが実在の位置に「一致」してくる。ところがそれで起こるのはベンヤミンのいう「アウラ」化ではなく、「アウラの喪失」のほうなのだ。つまり「一致」そのものが人間化の所業であって、しかもそこから死の予感まで立ちのぼってくるのは、カフカの箴言中の慧眼どおり、死こそが最終的な人間の「一致」だからだろう。
そうした局面の前に、扮装したヴェンク検事と、老人に扮装したマブゼはポーカー賭博で対峙している。そのとき催眠術の道具としてつかわれたのが、この作品のなかで最も印象的なオブジェのひとつ「中国式の、角張った縁の眼鏡」だった。この眼鏡が人名の呪文を発する、「チ・ナン・フ」と。中国の魔人の名だろうか、アルファベットで表記されその字が画面に上乗せされてエキゾチズムそのものが魔的な産物だという呼吸が伝わってくる(このシノワズリは遠くブレヒトのそれと反響する)。ところがその文字の「上乗せ」は、マジック・メモ的な「書き換え」ではなく、決定的な宿命だった。
マブゼの筋書きどおり、「ヴェルトマン博士」の集団催眠術ショウに赴いたヴェンク検事は、まず大勢の来場者が「同一の幻影」(舞台奥から現れてくる隊商の一団)を見てしまう驚異に接する(トリック撮影)。それから数字の予見をヴェルトマン博士がいろいろな手管でショウビズ精神たっぷりに披瀝してのち、たくみに検事は舞台上の被験者にさせられる。この「反駁できない」「有無いわせなさ」がラング演出の真骨頂のひとつだ。催眠をかけられ、彼は壇上の一婦人を着席させたあと、会場前にあるクルマに乗るように指示され、それに従う。表向きは家に帰るようにという内容だが、実際はクルマを疾駆させ、死ねというものだった。
このときの集団催眠、万雷の拍手によるヴェルトマンの偶像化・集中化がクラカウアー的にはヒトラー登場/ナチス台頭を予見しているということになる。ヴェンク検事がスポーツカー状のクルマに乗り、それを疾駆させてからの画面の躍動感がすごい。周囲は郊外の森林となる。このとき「憶いだしたように」抜群のデザイン感覚でクルマと彼の姿のうえに、例の「チ・ナン・フ」が上乗せされるのだ。ひとコマひとコマに文字が重ね焼きされたのだろう。焼き位置が微妙にズレて文字は揺れ、それすらも異化効果を湛えている。
かつて株価の数値は上書きによって変貌を繰り返した。ところがこの「デ・ナン・フ」は同じ文字内容のまま膠着的に重ね焼きされ、しかもその重ね焼きされるありかたが本質的に場違いなのだ。つまりそれは「宿命」の惨たらしい貼付といえる。ところがヴェンクのクルマは不審を感じた同僚たちに追走され並走され、やがては自分たちのクルマへとヴェンクを引き抜くことで救出が完了する(ヴェンクの乗っていたクルマはその直後、崖から落下し大破爆発する)。催眠術の渦中にあって朦朧とし、しかも体感的衝撃も複合されているヴェンク。そこにオーバーラップをつかって、彼が対峙してきた怪しい顔の変遷がしるされる。それが「マブゼ」「ヴェルトマン博士」とも「一致」し、ついに彼は差異を貫通している同一性に気づく。その導きとなったのが逆説的にも「中国製眼鏡」のイメージと「チ・ナン・フ」のアルファベット文字だった。
つまり「チ・ナン・フ」は「死の宿命」として一旦はクルマで疾走するヴェンクの姿に貼り付けられながら、意味反転してヴェンク復活の狼煙を上げる記号にこれまた「宿命的に」変化したことになる。「記号性の変転のなかにある同一性」がマブゼの運動の意味だったとすると、「同一性を確保したまま記号性が変転すること」が「チ・ナン・フ」の意味だった。それがヴェンク検事を救済したのだ。この作品を「ナチス=ヒトラーの暗喩」と一元化したとき、このことはクラカウアーによって意味づけされていただろうか。おもえば『カリガリからヒットラーへ』はもう何十年も読み返していない。
フリッツ・ラング 飾窓の女
冒頭、(犯罪)心理学助教授のエドワード・G・ロビンソンが、「正当防衛の殺人は、犯罪与件を構成するか」などと教室で講じている。すぐさま駅で、休暇旅行に出かける妻子を彼が見送る場面に移り、その後、仲の良い検事(レイモンド・マッセイ)、医者(ロバート・ブレイク)と、食事を供与する社交クラブで歓談する場面となる。ロビンソンが妻子と長期に離れることの淋しさをからかう友人たち。リタ・ヘイワースなど女優の名も出て、絶世の美女と出会ったらという架空の条件のもと、老いらくの恋こそが火傷する、とくにアルコールによる理性の喪失が危険、といった「警告」もロビンソンに振る舞われてゆく。生き馬の眼を抜くような友人ふたりの回転の「速さ」にたいし、ロビンソンの「遅さ」が印象づけられる。ロビンソンは(運命にたいする)受動性の男として定位されているのだった。
むろん観客は予想する。この導入によって、ロビンソンが「老いらくの恋」と「正当防衛の殺人」に巻き込まれるだろうと。何ひとつ無駄のない話法のなかでは当然、そんな擬制が生じる。このとき説話機械の駆動は次のことを意味しだす。伏線とは時間軸上の鏡であって、その鏡に「現在」を映された人物は、あらかじめの想像的鏡像に抗することができず自発性を欠いたまま決められた行動を「なぞり」、「本人の像」と、説話が決定済の「本人の模像(シミュラクル)」のあいだで弁別を失うと。説話そのものに人格が乗っ取られる、ということだ。
フリッツ・ラングによるこのフィルム・ノワールの古典『飾窓の女』(44)は、先行的決定性にたいしての無力や暴発可能性にまつわる不安こそを描いている。この時間の二重化によって、フィルム・ノワールのジャンル的要件、「ボワ・オフと画面の現在の二重性」が代補されている。一方もうひとつの要件「ファム・ファタール」については、ジョーン・ベネットの画面の初出現時の、美と悪の混ざり合った蠱惑が決定的だが、彼女もまた不安に怯え、悪を遂行する以外に意志をもたないという冷たさからは外れてゆく。
語り草となっているのは、「ソロモンの雅歌」(伝・ソロモン王作の男女の恋愛讃歌)を社交クラブの本棚から抜き出して、10時半まで読みふけっていたロビンソンが、表に出て、社交クラブ脇、ショウウィンドー内の美女の肖像画にふたたび見入る場面だ。深夜に近づいた時間と静謐。絵の斜め横に絵と同じ顔の女=ジョーン・ベネットが現れる。この現れ方のタイミングに恐怖感覚が装填されている。
彼女は実際にその絵のモデルだった。絵に描かれたイメージ=模像と、鏡像という模像の「二重競演」、その瞬間は先行的決定性がしるしづけられながら同時にそれが複雑に崩壊している。つまり絵から「実物」が飛び出してくるような「錯視」に導かれながらも(=先行性の強度)、絵にたいしての「見た目」の「斜め横」は実際には平面から奥行きの位相に移されての「後ろ」であって、それを理解した途端、「生きている模像」はショウウィンドーを前にしたロビンソンの「側」から、もっというとロビンソン「そのもの」から出ている、というふうに理解されてゆくのだ(=先行性の崩壊)。ここでは先行性の崩壊と位相の崩壊が同列だった。
ロビンソンの立ち位置は、観客の位置でもあって、ベネットは観客の側から、観客自身を分離するように現れた「観客の部分」でもある。そうして「他者を見ること」は「自身を摘出して自身の模像を見ること」へと変異し、ひとは純白の無謬性をもっては何事もみられない、という蠱惑的な絶望がつむがれてゆく。
煙草の火の所望。たがいの恋愛資格を値踏みする、ひねりある高踏的な会話。同じ画家による、自分を描いたスケッチ画も見せる、という代替性を仕込んだベネットの挑発。早めに辞去する、という約束のもとでロビンソンがベネットのアパートに赴く。約束されたスケッチ画はスケッチブックをひらく動きがあっても、画面内に現れない。なぜか。ベネットの部屋には大きな鏡があって、その鏡によってとりわけロビンソンの鏡像がシミュラクルとして画面にあふれだす幻惑を組織するからだ。アルコールでやや上機嫌になった彼も、彼自身の模像だろう。
サスペンスがどう生じるかというと、画面に鏡像があふれかえっているのに、ロビンソンが自身の鏡像を決してみない、という点がそれに関わっている。このことによって彼の躯が彼の意識にたいし盲目性の覆いをかけている、という観客の判断が下されるのだった。説話機械に乗せられた観客は、ロビンソンの躯をみながら、その奥行が彼と同調しない不如意を、メタレベル的な場所から見ている――あるいはもっと単純には二重性を見ている。いずれにせよ現前性のみでは回収できない不如意=余剰が、画面の奥行にある、と感知している。つまり『飾窓の女』はメタレベル的上位を奥行きへ置き換える「陰謀」をめぐらす作品で、その第一がベネット出現の瞬間だったが、それはベネットの部屋に鏡を配置することで、今度は身体の盲目性を加味されて継続されたのだった。
ところでラング映画においては「扉」が特権性を帯びる。ジョーン・ベネットのアパートの部屋は一階入口の正面にある。アパート全体の入口はセキュリティロックのほどこされたガラス扉。つまり建物全体のガラス扉越しに(玄関小ホールを挟んで)ベネットの部屋の扉のある縦構図が成立する。ガラスという反映を予定されたものが、一旦開かれたとき、セキュリティロックの「同時性」によって、その奥の扉もひらく(ベネットは行為遂行のためにいつもそうする)。手前がひらけば奥行もひらく――この「開示の二重性」は、表面的なとり繕いが内面をも開いてしまう過剰性を印象づける。ラングは見事にこの扉の手前/奥行の二重性を、ロビンソン/ベネットの「運命」が演じられる場所として精確に提示してゆくのだった。
酩酊も手伝って帰宅時間を徒過しても高踏的な会話を愉しむロビンソン、ベネットのもとに危機が生ずる。ベネットの愛人(ベネットはその本名も来訪時間も知らない――相手の素性が秘密になったままで囲われているのだ)がとつぜん来訪して、ロビンソンを間男と見做し、激高をしめすと同時にロビンソンを床に倒し絞殺にかかるのだった。美人局の疑惑はすぐ解消される。ベネットは鋏をロビンソンに手渡したのだ。間近に迫ろうとしている死に意識を動顛させたロビンソンは、やっと回した手で闖入した男の背中を立て続けに刺す。この狼藉ののち、本名の知れない男の死体のみがのこった。警察通報を一旦はかんがえた二人だったが、保身のため死体を遠方に運搬廃棄しようと考えを変える。そのためにロビンソンはさほど遠くない自宅からクルマをとりにゆく選択をする。
当夜はつよい雨が間歇的に降る天候不順。ベネットのアパートの前の敷道は夜間灯によって雨上がりの濡れで蠱惑的に光っている。少ない光量のなかで、ひかる部分だけが強調される。画面の「黒さ」はフィルム・ノワールの要件だが、敷道の濡れは鏡面化の予感でもある。外部から真実が反映的に暴露されるのではないか。撮影はミルトン・クラスナー。『キング・オブ・キングス』『七年目の浮気』『めぐり逢い』などをオールマイティに手掛けた撮影の名手だが、この『飾窓の女』のほかにもう一本、『イヴの総て』という「黒い」傑作映画がある点に注意が要るだろう。
途中、出会う人間の記憶にのこらないよう細心の注意を払いながら、ロビンソンはやがて自分のクルマで男の死体を運んでゆく。市街地域から遠く離れ森林に舞台が移ると、画面は「黒」をいやましてゆく。ロビンソンはクルマを停め、死体を肩にかかえ、やっと有刺鉄線の奥へ投棄した。有刺鉄線に服と手をひっかけ手に傷を負い、鉄線に微量の血液を残し、のちに判明するように、その現場にあった漆で傷口付近を爛れさせるという代償まで負って。彼は現場に「シミ」をのこし、自身の躯にも「シミ」を浮かべた、ということになる。
サスペンスが佳境に入るのはじつはここからだ。ロビンソンと、検事、医師の会合はつづく。よっぽど互いの親しさに自信があるのか、検事は守秘義務も構わずに自分の担当事件の話をする。まずは新興著しい経済界の新星が行方不明になったこと。なにかの犯罪に巻き込まれた公算がある旨、彼は語る。「女」に関わりがあるだろうとも。その男の「顔」を、あるいは女の目星を「おもわず」訊ねてしまうロビンソン。
彼は自分とジョーン・ベネット、それと観客だけが知っている先行性の側にいて、ドラマの現在にたいしては曖昧に存在している。結果、『犯罪王リコ』の非情で鳴らしたロビンソンが、ここでは放心と疲弊を中心にその表情を彩ることになる。先行性によって「現在」を模像化された彼は、「真実となるため」、現在にたいし先行性を幾度も自己申告しそうになる。とうぜんロビンソンに感情移入した観客は「ロビンソンとともに」動悸を抑えることができない(成瀬巳喜男『女の中にいる他人』の小林桂樹に似ている)。放心と稀薄。観客は映画があまり打ち出さない画面の表情にこそ魅せられてゆく。
会合は日を追って続く。死体はボーイスカウトの少年によって発見された(そのニュース映画画面がギャグを狙って挿入される)。現場にのこされた足跡から推定される死体運搬者の身長体重がロビンソンのものと一致する。数値の一致によって全身を意味づけられてしまう恐怖。靴の経年の同定。さらには有刺鉄線に残った血液からの血液型の判明。ロビンソンの手の傷。観客にはあらゆる証拠がロビンソンを指さしているのに、検事と医者はロビンソンの無関係を信じきっていて、「おまえが犯人なら」という仮定がすべて遊戯でしかない。
ロビンソンだけは前言したように「先行性」に凌駕されてその現在性が模像になっていて、不注意にも「自白」してしまいそうな暴発の危険、兆候をいたるところで点滅させている。だからその内側からの衝動にまたもや全身の盲目化を対比させ、放心の表情を上乗せするしかないのだ。ロビンソンの疲弊を見てとった医者は眠剤を処方する。ただしそれは過剰服用すると、心臓発作を起こす。しかもその死因は外的な判明を見ない、と。むろんこの医薬にして劇薬がのちにまたもや、先行性に抗うことのできない伏線となってゆく。
作劇の波状攻撃はまだ続く。犯罪心理学者に科学捜査の現場を見せようと死体発見現場への同行をロビンソンは余儀なくされてしまう。またもや「先行性」に支配された男の、意志を磨滅に導かれた亡霊的行動が描かれてゆく。現場を知らないはずなのに、刑事に先立って現場への道を「先導」してしまうロビンソン。手に現れている漆のかぶれも指摘される。当日は事件にかかわっているのではないかという「女」の現場同行もプログラムされている。クルマに乗せられた女が垣間みえる。それがもう二度と会うことはないとロビンソンが誓いあったベネットなのか、なかなか判明させない点では、「わずかにみえているもの」にかかわるサスペンスが醸成される。
ロビンソンが訪れ、クルマを取りにゆくために戻り、死体を運ぶためにまた出ていった、ベネットのアパートの入口玄関と部屋の玄関、その奥行方向に配された扉の二重性=「運命の演じられる場所」が、また劇に召喚される。すべて事情を知るはずの男として検事の話題にも上っていた、殺された男のボディガードとしてひょろ長い体躯が気持悪いダン・デュリエ(彼はロビンソン、ベネットとトリオでやがてラングの次作『スカーレット・ストリート』に出演することになる)が今度はその奥行を突っ切ろうとするのだった。
脛に傷があっても、はしこさを買われボディガードに雇われていたというその男は、相手からの反駁をゆるさずに自分のペースにすべてをもってゆく、ぞっとするほど冷たい「有無のいわせなさ」がある。ドアフォンをつうじての、ベネットとデュリエの会話。ゆすりが明らかな目的なのに、やがて画面はアパート全体のガラス扉とベネットの部屋扉が同時に開くうごきをしるしづける。
デュリエは部屋に入るや否や、ことばによってベネットを追いつめながら、犯行の証拠を拾おうと部屋中を物色しつづける。この語りと物色の同時性が、同時性を数々しるしづけてきたこの作品の文法のなかでの目覚ましい白眉だ。拾われるロビンソンのイニシャル入りの万年筆、犯行道具となった鋏。目にとめられるベッド脇の床、ロビンソンの出世を報じる記事の載った新聞。
デュリエは作品にある先行性領域から出現してきた、鏡で全身を組成されたような男だ。それで水銀的な感触がある。彼は先行性を掴んでいる。つまり自分の死んでしまった雇い主がベネットを愛人にしてきたことを。しかもその殺人には男が絡んでいる点も直感で把握している。ところがその男が誰だかがわからない。つまり先行性としては不全で、その不全さが部屋の中の歩きまわりによって暴力的に猖獗している恰好となる。観客は今度はこのデュリエの怪物的な感触に追いつめられることになる。
言い換えよう。作品のそれまででは「先行性」はロビンソンにまつわる領域に、ロビンソンの責任として出現していた。ところがデュリエによって先行性が他者の領域から出現してきて、捜査の進展と関わらない場所にゆすりとして現れたのだ。その作劇の過剰性を観客は恐怖することになる。鏡がガラスと裏箔の二重性によって組織されるように、先行性とはその真実の姿が二重なのではないか。となると一重世界の人間は先行性に対抗することができない。とりあえずデュリエは要求金額をつたえ、その場から去る。
たがいに自分の正体を告げあうことのないまま殺人の勃発を機に別れたベネットとロビンソンだったが、彼女はロビンソンの教授昇進を告げる新聞によって、あの晩会った男がロビンソンだと同定していた。そんな前段があって、デュリエの訪問により生じはじめた危機をベネットはロビンソンに電話で告げることになる。ロビンソンはゆすりが延々に続くと予想、自首が厭ならデュリエを殺すしかないと結論する。とりあえずの要求金額と劇薬とを渡すためのロビンソンとベネットの会合は、大きなオフィスビルのエレベーターホールで、周囲の眼を極度に憚りながらおこなわれる。互いが無関係者のような距離を保ち、人目のない瞬間に近づこうとする二人。何度もひらくエレベーターの「扉」はラング的な符牒でありながら、ここでは二人を見るともなく見る「眼」に転化している。
再度のデュリエの来訪で、腹芸を披露するベネット(「ドラマのために」彼女は盛装している)とデュリエ。サスペンスフルな成り行きの果てに、企てたデュリエの毒殺にベネットが失敗する。なぜか。手前と奥行が同時にしるされる場所で改変的な「運命」が惹起する、というこの作品の法則のなかでは、毒薬が完全に溶け込んだハイボールは奥行きではなく秘密の瀰漫であって、運命の道具にはならなかったということだ。毒殺の意図を見抜いたデュリエは、その責を問うため新たに脅迫金額を提示、辞去する。奥行は電話回線に変貌する。計画の失敗をロビンソンに告げるベネット。ロビンソンは疲弊と無策を語り電話を切ったのち、自分用にも確保していた劇薬を服用する。
そのタイミングで不穏な発砲音連鎖がベネットの部屋の戸外で起こる。またしても外部の夜が召喚される。ベネットの見た目で、地下階段の「奥行」、挙動不審者として発砲され死んだデュリエの顔が見える。「奥行」はそのようにして固定された。状態の好転を電話でロビンソンに告げようと部屋に戻るベネット。ところが「奥行」が固定され、先行性の問題がそのように打開された以上、電話回線という彼我を無化する奥行がもう機能することはない。画面はロビンソンの側に切り替わる。すると、椅子にふかく座り昏倒しているロビンソンに、無為に電話のコール音が響いている画が現れる。ところが、そのコール音が「夢のように」徐々に弱音化されてゆく。
作品がフィルム・ノワール的な悪夢であるためにはここで終わってもよかった。だからこの作品の非難可能性をこのあとの展開から見出すひとがいる。ところが、そのあとの展開で真に起こるのは、「恐怖の解決」ではなく、「先行性という位置」の完全な受け渡しなのだから、理路は整然としている。これまで起こったことが括弧にくくられて、ロビンソンに安堵が訪れたとしても、観客には醸成されつづけた不安がのこる。それは先行性の織りあげる劇を知りつつ見つづけたことによって起こった懲罰ともいえる。終わりの数分で「先行性」にまつわる人物たちの諸々はすべて瓦解したのに、その瓦解を見届けた観客だけには先行性が完成されるのだ。効果は遡行する。もともと観客だけがこの映画(の欲望)の先行性だったのだ、というように。
よって作品は「在ること」そのものの先行性にまで行き着く。このとき観客のその位置が無慈悲にもただ物質性に因っていると示唆するために、映画は「観客と同じもの」を確認のため作品の最後に打ち出す。それが飾窓のなかの、あの肖像画だった。
天上液
【天上液】
やがて死ぬ者の雲があけがたにながれている。あけがたにないもの、花火そして梯子。代わりに地上の影がその小ささにしたがい吸いあげられる。いつ逝くにしてもいずれ身罷るのだ。遅ければいい、そうおもうと眼がさなぎとなって、視界の内も自他の液体にみちてゆく。
フリッツ・ラング 復讐は俺に任せろ
机のうえに置かれたピストル、それを手にしてコメカミを撃ち抜き、打ち伏す男……フリッツ・ラング『復讐は俺に任せろ』(53)の冒頭数カットは、そういった無前提性の衝撃によって開始される。すでに暴発と「速すぎること」の脈動が連絡している。その後、階段から降りてきて夫(刑事だった)の自殺を知った妻(ジャネット・ノーラン)が夫の遺書をその手から抜き取り、警察か救急車へ電話をする代わりに、何者かへ電話するところから、この作品のジャンルが規定される。暗黒街の「陰謀」と、孤立をものともせずに闘う刑事物だった。
つまり『復讐は俺に任せろ』はフィルム・ノワールではない。ボワ・オフ、都市の迷宮性、探査、ファム・ファタール、暗闇といったジャンル要件を欠いている。室内撮影が多く、多くの場面で照明が行きわたり、画面にも不可視性が刻まれない。むしろ経済性の高い説話進展が加速化していったとき、いかに「暴発」が惹起するか、それを「展覧」するサスペンス効果と熱量の高い作品と呼べるだろう。悪への報復の執念を意味する原題The Big Heatは、作品そのものの熱量をも含意している気がする。
刑事の自殺事件は殺人課刑事デイヴ・バニオンの担当となる。演ずるのはあまりハードボイルドに向かないとおもわれるグレン・フォード。所見上は自殺だし、自殺した刑事の妻の証言では病苦があった、ということだから、配布された拳銃を使っての自殺という意味での警察内不祥事ではあっても、当初は事件性が薄いと見込まれた。それが自殺した刑事の愛人の証言によって不穏な影を帯び始める。自殺するひとではない。病苦でもなかった。何かが裏にあるはず。その女はバーで働く女で、証言もバーのなかでなされたが、その僅か後、斬殺死体で発見される。その事実伝達の呼吸も速い。ここでは速さが異調なのだ。
その斬殺は絞殺だったが、煙草火が押し付けられた無残さもあった(伝達される間接情報)。その手口からグレン・フォードは町を牛耳る暗黒街の大立者で政界進出も企むラガーナ(アレクサンダー・スコービー)が裏で何か関わっていると直感する。それで彼の大邸宅に行き、挑発的な啖呵を切る。ラガーナの部下がグレン・フォードを強引に部屋から連れ出そうとしたとき、電光石火、その男をグレン・フォードが殴打する。アクションの電光石火がここから点灯する。
ミソジニー=女性嫌悪が何重にも取り巻く、倒錯的な世界観のなかで、悪とともに愛の勲章がどの女に輝くかという「裏筋」があって、それのほうがギャングと結託した警察の腐敗が暴かれてゆく本筋より魅力的かもしれない。まずは自殺した刑事の妻の、カネを得るためにはギャングも脅すという「したたかすぎる」権謀術数(彼女は夫の自殺を語るときには「泣いてみせる」)。自殺した刑事の愛人は、水商売の女特有の乱れがある。
グレン・フォードの家には息の合った妻ケイティ(ジョスリン・ブランド)と幼い愛娘がいるが、殺伐とした刑事物にそぐわないその温かい家庭は、作劇によって抹殺されてしまう。グレン・フォード用に爆弾の仕掛けられたクルマに乗ってその妻が唐突に爆死してしまうのだ。唯一、女性普遍価値を託された女が何の見返りもなく死ぬのだ。
以後出てくる女にも癖がある。爆弾製造をした男(彼も証拠隠滅のためギャングたちによって「川に沈められる」)のことを証言する老婆は脚が悪い(彼女は鍵となる男「ラリー」を同定するため、のちに一役買う――そのラリーを殴打するグレン・フォードのアクションも電光石火だ)。そして性的放埓さと奇妙な明るさを湛えた「要約できない女」として作品が半分近く経過したところで、ニコラス・レイ『孤独な場所で』でフィルム・ノワールをくぐってきたグロリア・グレアムが登場してくる。小鳥のように可愛い目許と豊満な胸許によって統合できないこのグロリアが作品の最終的なヒロインとなるのだが、彼女が英雄的行動に踏み切る前、どんな凄惨な負荷があたえられるかはもう語り草だろう。
前言したように撮影は影や不可視性の負荷を帯びていない。編集も説話を素早く展開する点で円滑性を誇っている。ところが説話進展の速さが暴力に転化するとき、説明の難しい脱臼や白光化を、観客は感じざるをえない。その速度に陶酔しながら、作品が用意する悲劇へと引きずりこまれてゆくことになる。ただし部分的な強度はある。グロリア・グレアムを囲っているヴィンス(若き日のリー・マーヴィン)の長い顔と口許あたりの物質感がまずそれだ。恐怖を感じない武闘派のように作中に姿を現した彼は、性欲がつよいのに作品のミソジニーをも一手に引き受ける、これまた統合できない悪漢だ。
そのマーヴィンにグレン・フォードが真相究明のため近づいたとき、グロリア・グレアムがこれまた「無前提」「無媒介」に、フォードに熱をあげてしまう(彼には勇気があり、同時にフェミニンなものへの崇敬がある、と見てとれたためだろうが)。
妻の爆死後、刑事の職も辞したグレン・フォードはもうホテル住まいになっている。この「ホテル」という場所が、グレン・フォードとグロレア・グレアムとを結びつける磁力の場所だ。フォードはホテルまでついてきたグレアムを一旦は冷たく突き返す。ところがこれが仇となった。グレアムはその不穏な動きをマーヴィンに察知されていて、その顔にマーヴィンのぶちまけた沸騰状態のコーヒーを大量に浴びてしまう(コーヒーを浴びた顔の描写がないが、カッティングの呼吸が最大限に暴力的だ)。
抹殺の危機をかんじた彼女は連れ込まれた病院を抜け出し、フォードのいるホテルの部屋に逃げ込む。ここからの彼女はとりあえず顔の左側から首までを大きな絆創膏で覆われた姿を連続させる。「片側であることの強度」。それは平常の顔の右側、その眼を中心にしたうつくしさが、覆いによる左側の不可視性と統合できないことによっている。画像的な不安の強度なのだった。その顔が現れる場所もまた強度化される。肝心なとき、その顔は扉がひらくその向こう側に必ず現れるのだ。一度目は上述したフォードのいるホテルの部屋の扉、二度目は自殺した刑事の妻の家の扉。亡霊のように現れつつ、「決意後」のその立居によって、火傷後のグレアムはその「現れ方」がやはり統合できない。
刑事の自殺に端を発した巨悪の真相は急転直下、判明してゆく。まず自殺した刑事の愛人を死に追いやった「ラリー」のフルネームと所在をグレアムの証言からフォードが掴む。それで刑事の自殺の裏に何があるのかを知る。このとき逆にグレアムは、自殺した刑事の妻が遺書を金庫に預け、その妻に危険や死が及んだきには遺書が公になる手筈になっていることを聴き知ってしまう。以後の電光石化の活躍主体は、グレアムになる。知力ではなく性的な魅惑によって一定の豊かさに上り詰めていたグレアムはそれでも自分を囲う愛人マーヴィンの暴力とミソジニーにさらされていた。しかもその性的魅惑は火傷によって失われた。「復讐は私に任せて」とばかりに、彼女は刑事の妻の家へ、そしてマーヴィンのもとへと赴くのだった。
つまり電光石火、速さは「伝播してこそ」真実になる。ここではグレン・フォードの「速さ」がグロリア・グレアムを電極化して、彼女に「力の行使の素早さ」をあたえた。それはフォードの代理行為だったから、彼女はフォードの愛に殉じたともいえる。いきなり現れるこの「侠の原理」が、女によって倒錯的になされることで、『復讐は俺に任せろ』の奇怪さは頂点に達する。純粋な報復と代理報復に弁別がなくなる点にもこの作品の崇高な統合不能性が現れている。グレアムが最終的に何をして、どんな末路を辿り、見返りにフォードがどうなったのかは、ネット上の言及があふれているけれども、ここでは伏せておこう。
影が強度になるのではない。説話のスピードと、人物の行動の代理性と、性差的な倒錯性、それと世界観に貫通しているミソジニーが強度になる。画面形成上では火傷痕の隠蔽と、その露呈だけが強度になる。それ以外はない。すべて可視性にさらされている。こうした布置が、『復讐は俺に任せろ』の高い経済性のすべてをつくりあげている。よって作品全体の上映時間も89分で済んでいるのだ。むろん内容からすると信じられないことだが。
フリッツ・ラング マンハント
北大後期の院生用演習「映画評論を書く」のため、フリッツ・ラングの再見&未体験作品の鑑賞を自分に課すことにした。まずは彼の反ナチ映画の嚆矢『マンハント』(41)を観る。
冒頭、いかにもセット然とした森林にウォルター・ピジョンが侵入、腹這いになって長距離銃を構える。照準器の中心にはヒトラー。だがウォルターは撃たない。理由は彼が捕まっての尋問で知れる。標的動物を完全に撃てる、という段階で寸止めにして、動物を殺さずに目的を達成した、とする狩猟スポーツがあって、その的にヒトラーをつかっただけ、とウォルターは強弁するのだった。
時あたかも41年。イギリスとナチスドイツが本格的な戦闘状態に入る前なので、ナチスにたいする反感と恐怖はまだ緩衝的な中間性を帯びていて、だからこそヒトラー=一触殲滅の危急性に達していない。その英米的な「スポーツ」精神がナチス=ゲシュタポ自体から追及・処罰の対象となり、ロンドンに逃げ帰ったウォルターがナチ分子の執拗な探索に遭う。やがてついにそのスポーツ精神が真の戦闘精神にまで「昇華」する経緯が、圧縮された説話性で描かれてゆくのだ。対ナチの温度差をナチスからの亡命者としてラングはアメリカの映画観客につきつけた、ということだろう。
もう少し説明すると、ヒトラーへの「寸止め」射撃が露見し捕まったウォルターは、ゲシュタポの拷問を受ける。狩猟スポーツではなく暗殺をまさに企図したという捏造調書へのサインをウォルターに迫るためだ。それがナチスによるイギリスへの宣戦布告材料になると直感するウォルターは拷問を受けても承諾しない。むろんサインののちは口封じのため自殺を偽装されるだけだ。拷問によって意識を失ったウォルターを、椅子に座ったままのゲシュタポの高官ジョージ・サンダースが離れて検分する。引きずられて絨毯につく垂れ下がったウォルターの足の痕も見事だが(顔は捉えられない)、ウォルターが扉の手前の空間にただ「影」として表現される演出の「残酷」もすごい。
もともとがジョン・フォード用の企画だったのだが、フォードが拒み、ラングにお鉢がまわってきたという曰くつき。だからダドリー・ニコルズ(脚本)、アーサー・ミラー(撮影)、ウォルター・ピジョンというフォード組が結集しての現場だったのだが、ラングは彼らにドイツ表現派からもちだした「影」を訓育する(これがのちのフィルム・ノワールの影につながってゆく)。光と影のマニ教的二元論(葛藤)は、舞台が夜や地下鉄ウォータールー駅を中心とした影の濃いロンドンへ移ってからは、イギリス顔とドイツ顔の二元論に変成して、同一性から差異を抽出する際のサスペンスをも醸成してくる。
話をもどそう。ヒトラーを照準器内に収めた現場に「深夜」、連行されたウォルター・ピジョンは、ちかくの崖から突き落とされ、自殺を偽装される。ところが深手を負ったものの奇蹟的に死なない。ここらあたりで作劇にあつめられたものの属性が伝わってくる。まず彼はパスポートをもっていて身元が「ソーンダイク大尉」だと露見している。ところが大使館をつうじ実兄のソーンダイク卿に照会のための電話連絡が入ると、その兄は言下に捕縛者は別人で、スポーツ好きの弟がドイツにいるはずがないと否定する。結局、ウォルターはロンドン行のオランダ船で密航して帰国するのだが、その際にその船にゲシュタポからの刺客=ジョン・キャラダイン(痩身による不気味さが刃物のようだ)に同乗されてしまう。しかも彼は乗船の際、あろうことか自らを「ソーンダイク」と名乗ったのだった。
このようにウォルターは作劇上で何重ものアイデンティティ・クライシスを複合されているのだが、ヒッチコックが描く「逃げる男」のような切迫感がない。それはたぶん「寸止め」狩猟のもっている行為遂行上の「不如意」が、一旦はアイデンティティ・クライシスとなって重大化しながら、何か作劇自体のもどしかさに拡散してしまったせいだろう。ところがそれはナチス=ゲシュタポの恐怖にたいし深い自覚をもたない当時の連合国側の体制的不如意とも連結される。よって諸条件のつながりに、複雑な感慨がもたらされる。
光と影という偏差の大きい二元論は、イギリス顔とドイツ顔という偏差のちいさい二元論と軋みあう。その軋みを画面上「打開」しているのが、逃げるウォルター、追うゲシュタポという「運動」上の二元論だ。さすがにラングだからサスペンスフルなカッティングと距離設定なのだが、ラング世界ではガラス扉の向こうに「女」がいる。夜間の追走を逃れてウォルターはその暗いなかに飛び込む。出てきたのが、のちにラング・ビューティとして地位を確立するジョーン・ベネットだった。開巻40分は過ぎていたとおもう。それまで作品は、ソーンダイク卿夫人が例外的に一回出てくるだけの、男世界、ホモソーシャリティに終始していたのだった。
ジョーン・ベネットの役付も不徹底だ。下層階級というだけでなく明らかに生業が娼婦なのに、コード圧力が加わってそれがはっきりしない。代わりに「泣きやすい」少女性があたえられて役柄は空中分解寸前だ。ソーンダイク卿夫人との傍若無人で無神経で下品なやりとりがギャグとして成果が出ているのかはわからない(ジョーンの差し出すフィッシュ&チップスを上流階級出身のウォルターが「知らない」というのは笑えたが)。いずれにせよジョーンはウォルターの窮地脱出のための助力者、最後は捨て石になるのだが、このような肯定的な「女性力」は原作と脚本のダドリー・ニコルズに由来したものであって、フリッツ・ラングの本意ではないのではないか。
この作品がワクワクするほど面白いのは、「穴」が変奏されるからだ。もともと照準器は視覚的には穴でありながら物質的には「向こうに届かない」透明な障壁にすぎない。家屋内では扉が「穴」につうじる場所として特権化される。さらには船の密航でウォルターがドイツを逃れるとき、船室床の「穴」が活用される(ここで子役時代のロディ・マクドウォルが出てくる)。「穴」とは潜勢のことだ。それは逃げる者を庇護秘匿しながら、同時に反撃への砦となる。ところが外面からは穴の内部は不可視なのだった。だから「穴」の第一属性は陰謀性だ。
ウォルター・ピジョンはロンドン地下鉄に紛れ込むことによって一旦はゲシュタポの追走を遁れたかにみえた。ところがその地下鉄車両にジョン・キャラダインが同乗している。下車して一旦、ウォルターがジョンをまくのは非常階段への迂回によってだ。その非常階段の開口部が「穴」のようにみえる。やがてジョン・キャラダインは仕込み杖を抜く。現れる刀身。鞘側に極小の「穴」がある。やがてふたりの追う/追われるは巨大な「穴」に入ってゆく。地下鉄の線路内だ。そこで「影」を味方につけたウォルターがジョンを、レールを利用した感電死にいたらしめることに成功する。
演出で最も秀逸なのは、メッセージを受け取るためにウォルターが局留め郵便を利用した郵便局がすでに「敵」に懐柔されていて、ウォルターが局員の職場放棄した前でメッセージのみを受け取り、やっとそこから逃げる場面だろう。受付との境には狭い穴が開いていて、ウォルターの腕はぎりぎりそこに「嵌入」してメッセージの紙の端を伸ばした指で掴む。そのとき縦構図で捉えられた郵便局全体の、奥行に入口のある空間それ自体が「穴」でもある。この「穴」の二重奏によって、作品は最終的なクライマックス場面の空間を用意する。
ウォルターが蟄居隠遁する秘密の場所は森の中の洞窟=穴だった。この穴も二重的なものだった。入口部分(それは巨石で閉じられる)と同時に覗き「穴」の開口部があるそのことが、二重性を実現していた。ウォルターが郵便局から逃げ帰って洞窟に身を潜めるのを待っていたのが、ジョージ・サンダースだった。彼は外側から入口の巨石が動かないよう固定する。よって内側からも外側からも鎖された不思議な二重性の洞窟が出現したことになる。
ジョージはジョーン・ベネットの捕獲と処刑を告げる。その証拠提出のため、覗き穴から「矢」(それはウォルターがジョーンに買い与えたものだった)を飾りにした婦人帽を差し込む。そのまま兵糧攻めを食らえば、ウォルターは餓死にいたる。そう強調して調書へのサイン記入をジョージは迫る。考えさせてくれ、といい時間をつくりつつ、その矢の帽子飾りを鏃に、洞窟内のウォルターはあらゆるものを利用して弓矢をつくる。彼がサイン入り調書提出を口実にして洞窟に出たとき、その弓矢と、ジョージ・サンダースのもつ銃の対決が起こるはずなのだが…(その経緯は面白くもあり、ドラマツルギー的に粗くもみえる――いずれにせよ弓矢を人間に向けて射ることはスポーツ的な所作でありながら必死の闘争でもある、という二重性をもつことになる)。
死んだと伝えられたジョーン・ベネットは弓矢の帽子飾りに圧縮された。逆にいうと、その帽子飾りが彼女の「換喩=メトニミー」だった。実際の武器をつかう者と、メトニミー=喩をつかう者、そのどちらに勝利が訪れるかはフリッツ・ラングに一貫しているのではないか(全作を確認しているわけではないが)。
「マンハント(人間狩り)」は遊戯であってはならない、死命を決する熾烈な闘いだということを教える――それがゲシュタポのウォルター・ピジョンにたいする「訓育」内容だった。いずれにせよ場所をたがえれば「若大将」だったウォルターには、どんなに超人的な逃走を繰り返しても訓育の介入する「余地」があった。それはジョーン・ベネットへの彼の扱いにもっともはっきり見てとれる。「穴」に縁のあった彼なのに、彼はジョーンを「穴」として扱わなかったのだ。だいいち最初にジョーンの住処に逃走中のウォルターが闖入したとき、恐怖に叫ぶジョーンの口=「穴」を、物音が露見するのを怖れウォルターは塞いでしまっていた。その代わりにジョーンは疑似的な穴=眼から、作劇的な甘さを突かれようと涙を繰り返し流したのだった。
そのジョーンは、作品ラストでついに穴へと昇格する。彼女の「在りし日」のひとコマひとコマがフラッシュ的にインサートされてきて、彼女の姿そのものが作品時間に事後的な「穴」を穿つようになるのだ。ただしそれはのちのラング的フィルム・ノワールにおけるファム・ファタール=「命とりの女」の、在ることそれ自体が「穴」であるような視覚の逆説にはまだ達していない。
ドアーズ
【ドアーズ】
月天心にして地衣でも着物でも底はとおくまでひろがる。月明に血のあおくなるぼくは、血のくろくなるきみを。くろさの血の、老婆のきみを。つめたい両頬をこの手ではさみ、眼は遠塔へ差し向ける。あれが音楽だと。あおさの渦巻いているあの芯の、あのつたわらない裸がたったひとつだと。
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北大後期の全学授業で「60-70年代のロックジャイアンツを聴く」という「啓蒙」講義をやることになっていて、往年の勘をとりもどそうと、このところロック漬けだ。いま聴いているのはアナログ音源をCD音源に買いかえたビートルズ、ストーンズ、ニール・ヤング、ヴェルヴェッツ&ルー・リード、ドアーズなどで、つくづく67-68年ごろの英米でのロック・ジャンルの創意的な立ち上がりと即座の自己変貌を、芸術史の奇蹟だとかんじる。地平から気配をつたえる何かが「音楽の者たち」に集団創作をさせていて、その音楽性をも偏差的に展開させていたのだ。その何かの仮面をはがしたい――と今でもおもう。女だろうか。
いずれも中学・高校の時分に熱中した音楽だ。ノスタルジアにひたるのかというと、そうでもなく、ある「体感」のよみがえりを怖れつつ自覚するにちかい。そのころのぼくは音楽にからだのすべてを占拠されて、気が短く刹那的・感覚的で、持続的になにかをやり遂げようとすると、ことごとく「内側から」ひねられていたのだった。だからとくに高校のときは音楽のなかにあって音楽を外在として定位できなかった。無残にも自分が音楽であり、自分が詩だとおもっていた――そういうことになる。勉強、できなかったなあ(笑)。
それぞれを聴いておもったことを、深い意味なく列挙。
ヴェルヴェッツのスターリング・モリソンと、ドアーズのロビー・クリーガーは、それぞれ脱ロック的なギター奏法によって、ロック・ジャンルの変成因子としてロックの懐ろに入る天性の直感をもっていた。つまりドゥルーズのいう「マイナー性」があって、それはサイケデリックとかあるいはルーツ、さらには思考上の何かとかに関連がなく、亡霊的なアプローチにちかい。この「マイナー」を直視すると、そこにジョン・レノン・コードも加えることができるだろう。俗にいうニール・ヤング・コードはトラディショナル・スケールの欠性として発露しているが、それも彼の独自の「声」と相まったときやはり「マイナー性」のひびきをつたえる。
ニール・ヤングについてはそのリード・ギターに顕著なように、非連続が連続する、斬り込み角度の変化する孤独な剣豪ギターだ。彼のフレーズは思念そのものに似ていて、孤独の唸りがディストーションになる。『精解サブカルチャー講義』にも書いたが、その体質的不連続性の負荷が、彼の歌詞のラインごとの非連続性と相即している。いまのCDに封入されている歌詞対訳は、バイリンガル気取りでこなれすぎていて、この厳粛な非連続性を無視している。立派さに径庭があるとはいえ池内紀訳のカフカにちかいかもしれない。
それにしてもルー・リード『トランスフォーマー』のプラスチックなミキシングは、ツェッペリン『Ⅰ』のメタリックなミキシングとともにロック史上の革命だった。音設計、音界面そのもので、体感がひきずりあげられてしまうのだ。身体心理学といったものを立ち上げなければ魅力が解けないだろう。ツェッペリンがキナくさい死への憧憬を分泌していたとすると、ルーがミック・ロンソンとともにそそのかしたのが、ズバリ「悪」のかがやきだった。各曲の「歌ヂカラ」も高い。モノローグと歌唱を融合させることで脱音符化したルーのピッチ、その「外し」は、東洋系演歌歌手の「外し」とは別次元、いわば「地獄的な」ダンディズムに負っている。ズレは「層」をなして、なにか言明できないものの充填を感知させた(これが『ベルリン』だとやや大袈裟になる)。ぼくは60年代ロッカーの歌真似が往年得意だったが、ルー・リードだけはお手上げだった。「精神」がうたっていたからだ。
ストーンズはやっぱり『メインストリートのならず者』が最高傑作だとおもう。キースがさえまくり、しかもミックの歌唱のモコらせかたによって、ルーズで下品で色気のある演奏と一体性が出ているのだった。胎児のように「内」へ入ること。騒がしさの遠隔性を経由しての哲学化。これもそれまでのストーンズ盤にはなかったミキシングの勝利というか発見だろう。この奇蹟は『ブラック・アンド・ブルー』では粒立ちそのものの水銀的粒子化という、別のかたちへ移行する。それにしても『メインストリートのならず者』の歌詞対訳もひどい。とりあえず、日本語として意味のつうじない訳詞は、もともとアプローチがまちがっていると自省すべきだろう。
なお掲出した詩篇は、とうぜんドアーズ、とりわけ「ホエン・ザ・ミュージック・イズ・オーヴァー」に触発されたもの。
鬆
【鬆】
うけらの花のしおれる脇を、ゆく身がきえてゆく。しろがねの褪せるその衰えを、ただかたちの悪とよぶ。色がかたちへもどるこわさ。みえることのなかには鬆が殖える。どんな有漏だろう、酢の放射状ばかりで、あるきまで火花でもつれる。ならばこの骨の火災を、かたちに倣うきみにも。
萩のアルト
【萩のアルト】
あるあるしいある日、息をいう。あなたの非運のこと。アルトでだすのは、ながい笛になりたいためだ。ならばなぜ道へくずれる萩なのか。助けたいさだめなら、くずれが差しのべとなる逆もアル。それでむらさきがとまらず、やっとしたたりみたいに、たがいがとおく睦み在るのかもしれない。
高村武次・佐久間ダム総集編
昨日、丹羽美之・吉見俊哉編『岩波映画の1億フレーム』(東京大学出版会)を読み終わった。教育映画、科学(啓蒙)映画、PR映画など、多面的な初期岩波映画の製作活動に過不足なくスポットを当てた好著だった。扱い時期としては羽仁進が演出デビューし、羽田澄子が一本立ちするまでなのだが、本は大きくいうと、生存者によるオーラル・ヒストリーと、メルクマールとなる作品解析の二本立て構成のつづく展開となっていて、全体に均衡美もある。そのうえで、フィルム保存とその活用に向けての意義をも打ち出す社会性も具備されている。
この本(函入り)には本文が言及するうち計8本の作品を収めたDVDが併入されていて、本体読後のいま、順にDVDでその作品を観ているところだ。うち、まずは、高村武次が演出した『佐久間ダム 総集編』に圧倒された。
飯田線沿線(飯田線の敷設にむけて沖縄人や被差別民が結集され、過酷な労働によって多くの作業員が死亡した因縁の地勢だ)に並行する天竜川をせき止め、つくられた佐久間ダムは、高度成長期をエネルギー面で導入した象徴的な大規模ダム。着工開始から完成までを岩波映画はずっと現場に密着して追い、その過程は『佐久間ダム 第一部』(54年)から『同 第三部』(57年)の三シリーズとして段階的につくりあげられた。やがて、日活の劇映画興行の併映作品として利便性を高めるため、『同 総集編』(58年)がまとめられる。
この『佐久間ダム』の現場は実際のゼネコン、電力会社総出の作業も過酷ならば(納期短縮のつよい要請があって、安全対策をしながらも昼夜をわかたぬ突貫作業がしいられた)、撮影作業も過酷だった。ぼくは岩波映画に入った早々の黒木和雄さんがこの現場に駆り出され、危険と疲労で絶望的な思いをした旨、むかし聞いたことがある。
崖を切り崩し、同時にダムの基体となる天竜川の水底を作業域にするため、水路迂回のトンネルを掘削し、この作業が完成をみるまでが『第一部』で、そのフィルム原版は長らく『総集編』編集と引き換えに紛失されていた。ところがやがて原版が発見される。それで『第一部』と『総集編』を比較すると、迫力ある発破爆発が連続してゆく『第一部』が「ダムをつくる」映画なのにたいし、コメンタリーを整序して、ダム完成までを時系列的に圧縮した無駄のない『総集編』が「ダムができる映画」にすり変わり、映画的強度が減った、という(藤井仁子さんの論考)。2ヴァージョンをじかに比較できた立場からの感慨だろう。
ところが『第一部』との比較を欠いたまま観た『総集編』もぼくには堪能できた。劇映画である熊井啓『黒部の太陽』との類推から、高度成長礼賛作品とも印象されるかもしれないが、妙な言い方をすると、『佐久間ダム 総集編』は、悪夢に接して脳みそが発汗しながら、それでも観ることに把捉されつづけるサスペンス映画の様相があったのだった。
この作品の「映画の力」とは何か。まずは評判を呼んだ『第一部』(96分の『総集編』に20分弱組み込まれているという)の発破爆発撮影にあきらかなように、「作業」をそのまま撮影対象とした撮影行為が、対象にたいして至近であることがあげられるだろう。作業現場との折衝と了解があってのことなのだが、発破で飛び出してきた粉塵と瓦礫が撮影レンズをそのまま覆ってしまうような至近性は、危険と引き換えになっていて、その撮影者の身体性が観客にそのまま伝播するのだった。
ただしこの内部(懐ろ)に「分け入る」、そのまま穿孔的とも呼びうる撮影は、たとえば作業員の膝あたりから作業中の彼の顔を至近仰角するカメラワークなど、もっと微細な個所でも堅持されている。それはダム作成にともなう数々の「穿孔」を、熱気を帯びたカメラがそのまま憑依的に移しとったからといえるだろう。カメラの動機に自己抹消的な「狂気」が混ざっているのではないか。そうした疑念がまずはサスペンスフルで、それが『第一部』の凄さの印象にも直結しているのではないか。
発破作業の転写が作業過程上減少してくる『第二部』以降を組み入れた『総集編』では、ダム予定地の基礎工事を終えたあとの発電所の建設や、コンクリートによる整形などに主軸を移してくる。そのとき、『第一部』で捉えられた「機械」以上に「機械」の多様性が画面内に猖獗してくるのだった。レール、パイプ状のもの、ベルトコンベア(瓦礫を吐き出す)、クレーン、ワイアー……それらが内臓のように連結され、「機械状」がそれ自体で有機的な労働をおこないだすような錯視が起こる。
いわば「機能」と「形象」が一体化したそれらの機械群は、その円形なり線形なり斜面美なりをそのまま形象に発現している。とりわけ、二段に組まれ、前面に掘削工夫を鉄砲隊のように配した巨大な前進掘削機「ジャンボ」は、高橋洋『旧支配者のキャロル』のクライマックスシーンに出てくるキャスター付の巨大な「イントレ」のように、それ自体で自律性をもつ悪夢的な自動機械のようにみえた。これは対象「内在的な」カメラポジションの選定と、考えられないほどの労力と費用をつかった照明、それらの効果の賜物だった。
このとき、機械的な「形象」が意外性をもって短い時間単位で展開されてゆく、いわばフリッツ・ラング『メトロポリス』などにも通じる幻惑的な作品の「話法」が再吟味される。
まずは科学映画で培った、岩波映画的な手順がある(それは小川プロ作品でもイネとヤマセの説明のための気流実験にあったものだ)。工程の意義と手順の説明が、部分的に簡単にリミテッド・アニメ化された簡単な作図でしめされる。それをまるでダムの放水のような突破口にして、作業緒拠点での「機械」の動物的な躍動が続々捉えられてゆく。機械に動物性のうごきを幻視すること。
緒拠点は、コメンタリーによって連続性もしくは隣接性を帯びているように一見おもえるが、「非連続」が接着され、コンクリート内を走る水や熱のように実際の展開は内破寸前になっている。いわば「外側」が「内側」の危機によって破局的な形象を保っている場所に、代位的な機械の「形象」がうごきながら充満して、コメンタリーの説話的な危機を支えている機微がみえてくるのだ。メトニミーが原理となっている展開に、実はカット同士のメタファー架橋が巣食っていて、ここがいわば陰謀性を感知させて「ヤバい」ともいえる。
現場のダムづくりの工程を満身に浴びて、撮影作業そのものが「機械状」に自動化しているようにみえる(実際には折衝をはじめとした苦労があるはずなのだが、展開が流麗で、作業の誇っている指令性と撮影のうみだす指令性がいわば「同在」のようにみえる幻惑がある)。撮影は陰謀性の尖端なのではないか。それで、撮影「工程」そのものが作業「工程」と協調をなすように掘削的で、しかも内部から外部を分泌し、内部の亀裂をコンクリートで浸潤するように「浸潤」的なうごきを繰り返して、「動物化」しているのだ。これらすべてがこの『総集編』の「映画の力」なのではないか。
作図をつかった「説明」は丁寧かつ理想的に圧縮されているが、それ自体も「圧搾機」的だ(むろん文化系には理解を超える面もあるだろう)。その機械状の圧力にたいし撮影行為がみずから圧延して代補的な躍動をかたどってゆくのだった(それでもその動勢はうごきのある撮影ではなく、時に複数台の同時カメラによってでも実質的な非連続をつなぐ策謀的なカッティング、その「うごき」によっている)。この作品の「映画の力」はそういう水準にまとめられるのではないか。
機械状の眺めは自己展開し、たとえばコンクリートを多孔体にすりかえる作業に転換され、コンクリートの湾曲をその上から内部的に見上げる視界へと変貌する。テリー・ギリアム『ブラジル』をおもわせる局面。50年代中盤のゼネコンによる土木技術は予想よりも現代化され、内臓系のように相互関連化されてもいて、それ自体がテクノゴシックをおもわせる局面を数々もつ。「工場萌え」「クレーン萌え」の趣味が照射される瞬間が内分泌腺のように仕組まれている。これら全体が「機械状」にして「動物状」なのだ。
この同時性にぼくは動悸しながら、眼の処刑に遭うように画面進展の刻々を見守るしかなかった。その意味で、『佐久間ダム 総集編』も映画本来の機械状と同調した「映画の力」だったといえるのではないか。
映画が捉えてゆく機械や建造過程物の刻々の「形象」は、時間軸上の形象記号であって、それは音符的なものにまで還元できる。形象変化がそのまま楽譜的なものにもなりうるといえば、エイゼンシュタインの「無関心な自然ではなく」の主張だが、そうして発電所の建設過程を音楽的/純粋映画的な抽象性によって編集しきったのが黒木和雄さんの『ルポルタージュ 炎』だった。先行する金字塔『佐久間ダム』にわずかにのこされていた人間性まで完全に捨象してつくられたこの黒木作品は、たぶん川と岩盤との闘いという佐久間ダム建設にあった試練のない火力発電所建設だったから、音楽的な達成へと向かったのだろう。
それでも『佐久間ダム 総集編』は、おのずからの機械状によって、作業員が補助的になり、後景にしりぞく危機を数々かかえている。そこも幻惑的だ。作業員の流浪者的な面魂はあやまたず捉えられる。それが最後の局面、発電所の指示基地の完成の描写では、高度成長時代の「インテリ」の顔が増殖してくるのにも感慨があった。むろん彼らの発声は技術的な分野に局限される。だからのちの『黒部の太陽』のような「人間の澱」がすべてあらかじめ除去されていた。これが壮観だった。
刑余
【刑余】
羽交い絞め、ということばにすでに翼があって、それにいそしむぼくらは、いつも落下してゆくようだ。相手のなかに力でははいれないことがあいだに落ちて、羽毛までしたたるおそれをおぼえる。ぼくらの近景は遠景もふくむ。とおくには痣のような薊が、ぼくらをしずかに刑余している。
自分を曳く
【自分を曳く】
どんてんにアタマを置きわすれ、あるいている。そのぶん馬など、くびのながい動物に似るだろう。動物であることがいちばん、首のながいことが二番。この序列が自分のくびをつくりあげる。そんな人影になって、馬車を曳く者でありながら馬車の客にもなりたいとおもっている。
文章の種類
秋のいずれかには出したい、彩流社刊『日本映画オルタナティヴ』(仮)のゲラ読みがつづいている。あともう少しなのだが、今日は朝からお腹の調子が万全ではなく、少し打っちゃっていた。
ともあれゲラを読み進めてゆくうちに、いろいろな感慨が湧きおこる。第一におもうのは、映画評論(とりわけ新作映画レビュー)というのはヘンな文章ジャンルだなあ、ということ。これほど複合性を盛られることで生き生きする文章ジャンルは、実験性もそなえた小説以外に、ほぼ見当たらないのじゃないか。まるでキメラ的生物なのだ。
哲学的文章なら、基本的には概念規定からはじめて、材料が揃ったところで材料を交叉させ、以後、踏破距離のながい思弁の直線性を目指すのが基本だろう。先行する思考は明示的であれ暗示的であれ文章の展開に内包される。これがないと哲学性という同定のなかで哲学を更新することができない。ただし飛躍や詩文性や断片が用いられたり、歴史学との接続が図られたりして、哲学の異貌、その前面化が強調される場合も現在は多い。
それは有意性自覚のもとに書かれざるをえない。つまりたとえば「正義」を主題にした哲学はメタ哲学にちかく、そういうふうに哲学的アプローチがおこなわれるのは、哲学分野にすでに危機意識がふかく根ざされてしまったためだ。思弁についてのみ思弁的文章が連続してゆく哲学の自己再帰性には、思考と文のあいだにズレが生じていないという思考者の信念が裏打ちされている。
だから「身体」「行動」「同一性」「真理」「場所」「他者」「説得」「責任」「災厄」「科学」などをかんがえる哲学は、それらを透明化して透明性の領域に打ち返してゆかなければならない。具体性はいっけん捨象されるが、哲学は透明性そのものを世界の素地と見極め、そのなかに思考を浸潤させることで、読者のいまいる世界に変容や確証や違和をもたらす。そういうことのできる作用そのものが有意性に結ばれている。
詩はどうだろうか。これはもう今はその作者の詩観にかかわって、まちまちの傾斜がある、とみてとれる。だからぼくの場合だけかんがえてみよう。
詩は、一般にかんがえられているだろう詩の、「詩らしさ」から引き離されなければ驚愕を生じず、ぼくなどは読む動機がなくなってしまう。「詩らしさ」とはたとえば手垢のついた詩語、表示形式、語法などで、まずはそういうものの不在を見きわめ、ぼくなどはその詩と付きあうことが決まる。ことばにかんする感覚にまずは信頼を置いて、それから読みだすわけだ(ということでいうと、最近賑わってきたツイッター連詩にほぼ魅力をかんじない。詩語が安直につかわれるいっぽうで、語法が弛緩し、140字という枠組に向けての緊張した内在展開が感じられないのだ)。
ひとの書いた詩をそう受けとっていれば、自分の書くものにも自制が生ずる。いろいろあるが、ぼくの最近書く詩なら、気をつけていることがある。展開すれば膨大な語数を要する哲学的思弁を1フレーズでいってしまう蛮勇を発揮する。フレーズ内の語間距離には短詩形文学の達成を組み入れ、フレーズを「冷やす」「遅らせる」。飛躍のみならず飛躍を緩和する「つなぎ」部分を、ダレ場としてではなく鑑賞されるべき中心部分に置く転倒を自演する。叫ばないから構文性は遵守されるが、それでもトータルが「歌」になるよう音韻や思考や情の「配分」をおこなう。たとえばまあ、そんなことだ(作者にはこのていど以上の具体的注釈が通常書けない)。ともあれ詩は、書くことのオルタナティヴと位置づけうる。
このようにアプローチをこころざしたとすると、詩もまた面倒な「複合」となるが、内実はそうであっても、表面はそうかんじさせない詩が、もう年齢的にはこのみで、だから実際には「複合」をつくりだしてそれを読者に直接訴える意識、みたいのはあまりない。詩は自分にとって「手許の内出血」みたいなもので、映画評論のような、「読者にたいする出血」とは位相をおおきくたがえている。
それでようやく、いまゲラで読んでいる映画評論のはなし。
素朴な発現では、映画評論は「対象の説明」と「書き手の印象」の「複合」となる。この形式なら、200字でも「映画紹介原稿」が成立してしまう。いま女性雑誌のレビューコーナーなどではこの手の文章が多い。ではそれを出発点として、一万字以上の映画評論が書かれる、とするならどうなるだろうか。
映画研究文なら、主題設定のうえで、諸作品の論究範囲を決め、先行研究の水域をさだめ、そのうえを航海してゆけばいい。そのとき作法としては、さきにぼくの書いた哲学的文章のありかたも半分ていどは準拠されるだろう。この「半分」というのが大切で、結果、映画研究文では、透明性と具体性とのせめぎあいが起こり、読みつけているひとには自明だろうが、そこから美的感覚すらすぐに看取できるものがある。たとえば引用文献一覧なども学術の精確性のみならず美的感覚にさえ寄与するのだ。
いま公開される一本の映画、それをめぐって一万字以上の考察を、紹介意識も捨てずにおこなう場合は、そのなかにもっと雑多なものがうごきだす。
もともと映画体験とは、ショットという単位がどう結ばれ、それに音声がどう付随して、世界の具体性がどう加工(仮構)されていったかを「鮮烈に記憶する」ことでしかない。このときの記憶対象とは、実際は19世紀に萌芽したフィルム素材と上映手段の、歴史的にしてしかも「恣意的」な技術の融合として成立したものがもとになっている。その出自もいかがわしい「融合」は、映画に、演劇を中心としたいろいろなものとの融合をも付帯させてきた。転写というレベルでいえば映画のなかに裸になっているのが演劇とひとまずいえようが、実際はたとえば、映画は俳優の演技をどう貧弱にみせないか、その選択の体系でもある。俳優のうつくしさ、構図、光、カッティング、劇伴音楽など多様なものがそうして裸の演劇を分解してゆく。
映っていることじたいの強度と、映されている方式じたいの強度が分離できないもの。それを記憶するということは、記憶そのものに融合の形式を強圧的に導入して、惑乱をみずから愉しむことにつながってゆく。
長い映画評論は、それを書くのだ。よってさらなる「融合」が起こる。その融合は、一物を一物以上の不確定な何かとして把握し、それで一物までもを世界化する。というなら、古代インド思考式に、もうこれを「融即」といったほうがいいかもしれない。この一を一と定めない融即のなかで、皮膚や悪や鋏や矩形やキャスター付き大台と、哲学との不測な連接が起こり、書くことそのもののオルタナティヴがこれまた生起するのだ。その力動の原資が、映画の構成要素の雑多さにある点に留意しよう。
物語、俳優のからだと顔、しぐさ、うごき、光、構図、声、編集つなぎ、先行ジャンル、俳優や監督の先行作品、画面進行から透けてくる脚本と現場のようす、人物の位置関係、変容と展開と反復の要素、音声と音楽の葛藤、感覚にあたえるざらつきと滑らかさ、観ているあいだに生じた自分の恥しい劣情や泪、あるいは逆にその映画から触発された哲学的思弁……およそ記憶すべきものの目録はそのように微細にわたるだろうが、それを観客は小分けせずに大きな融合状態として受けとめる。映画評論はそれらを、分離的(分節的)・整序的に打ち出してゆくしかない。それが「分析性」の保証となる。
ともあれバラバラな並列となってしまいがちな諸言及を、段落分けをつうじた多彩を確保しながら、最終的にいかに直線化してゆくかが映画評論の「技」だろう。ぼくなどはそうした整序をつくりあげるため、作品の細部を画面生起順にとりあげ、それで物語紹介を言外の接着剤にしてしまうことがかなり多い。結果、書かれている素材がすべて当該対象からもちだされたもので、しかもその手順も当該対象に依拠して物語的なのに、「取り出しかた」だけに自分の気づきやこのみの入った、つまり自他の複雑にからみあった「融合」がうかびあがる。これを「再上映」という向きもあるが、ともあれ自分のものとはまったくいえないものから、「自分(の思考/の好み)」が、厚顔無恥にもつくりだされるのだ。そういった倒錯的な文章の連鎖こそが、正しい映画評論集(レビュー集)の組成といえる。
今回のぼくの評論集は、昨日の日記で前言したように、現在の日本映画の「オルタナティヴ」の鉱脈を追っている。ちいさな製作規模を逆手にとり、映画性を更新した刺激的な作品を追走した結果だ。それらの多くは、融合性を高めたことによって画面展開がある種「陰謀」の様相を呈していたり、ドキュメンタリーなら「場所」と「私」に区別のなくなる融合が今日的に起こっていたりしている。映画の既存性にそのように叛旗のひるがえされるのは、予算的な疎外を、生きている知恵が跳ね返そうとしたからだ。映画評論はそうして知恵の「生き生きとした感触」を、みずから動物的な「生気」を生きることで転写しなければならない。そこでは模倣にこそ有意性があるのだ。むろん多様なものの模倣なのだから、たとえば一本の映画を物語に縮減することなどありえない。
ともあれぼくの映画評論集は、レビュー集でもあるのだから、通常ならカタログ的に、どこから読んでも大丈夫です、というべきものだ。むろんそうして読まれれば、すべての文章が、映画の鑑賞、レンタル、再鑑賞、それからそれをどう把握するかで読み手の指針にもなるだろう(だから基本的に批判文章を収めていない――というか、そういうものはもともと書かない)。
ところが今回は「この映画、何?」と多くの読者がおもうような作品の評が、それ自体が「作品的に」ちりばめられている。たとえばビザールなもとの映画とおなじように、書かれた文章も思弁的・展開的にビザールなのだ。となると読者は、映画評論の本来もつ多様な射程を感知するため、最初は一気通貫的にすべての文章を縦断し、そののちに自分の観るべき映画を策定することがもとめられるのかもしれない。
まあ、本としてはハードな設定だ。映画評論集を有機的な連続性をもつ書物にまで鍛えあげるのだから(そのための収録文章の取捨選択だった)。とりあえずいまオルタナティヴな映画のスタッフ・俳優までふくめた作り手が、映画学校の在籍者・卒業者もふくめ二千人ていどいるとする。そのうちの半分にまでこの本が浸透して、あとプラスアルファがあれば、この「奇書」も採算に乗る、という計算が、ぼくには(それと担当編集者には)あるのだろう。
こう書いてアタマがすっきりした。夕飯食材を買いにいったあとで、ゲラチェックを完了させようか。「緒言」もしくは「あとがき」は、この文章と昨日の文章の「複合」になるかもしれない。これは明日、手がけよう。あいた時間ができれば、一本、気になっているDVDを観ることにしたい。
日本映画オルタナティヴ(仮)
「女房帰京後の鬱」、だとか能天気なことがいえなくなった(そういってしまい、水曜夜の紅野謙介先生連続講義歓迎パーティで散々、同僚の中村・押野両先生からからかわれたりもして、マゾ笑いしていた)。北大からの助成を承認された彩流社刊行の企画中書籍『日本映画オルタナティヴ』(仮)の大量ゲラが送付されてきたからだ。
後期の授業準備もあるので、ゲラチェックとその後の「緒言」(もしくは「あとがき」)執筆をこの週末までには完了させたい。何しろ、小さいQ数にびっしりと組まれた版面が400頁ちかくもある、出版動向も顧みない向こう見ずなゲラの物量に圧倒され、昨日から起きているあいだはずっと格闘している。
まあこれは、ぼくの『日本映画が存在する』『日本映画の21世紀がはじまる』につづく、日本映画にかかわる時評集(レビュー集といいたいところだが、単行本未収録だった「ユリイカ」などへの長稿も所載してある)。このかたちの書籍を連続刊行しているのは、ぼく以外は山根貞男さんだけだから、まあ誇らしいことでもある。以前とちがうのは、仮題にあるように「オルタナティヴ」の流れを志向している点で、メジャー公開の邦画の評は過激にもすべて割愛、一般の邦画ファンには馴染みの薄い、映画学校(日本映画大学関連のドキュメンタリー/映画美学校関連のビザールな講師作品と生徒作品)がらみの作品などの評が満載されている。
怪物的な構成で、大学の教員が通常俎上にのぼせないエロチックな問題作がとりあげられているのはたしかだ。判官贔屓とか偏屈とかの作者の属性によってそれらの作品が選ばれているのではない。映画性が更新されているがゆえに、論じざるをえなかった作品がたんに論じられているだけだ。
そう、個々の評は、その作品に内在する特有の作家性(媒体更新性)を摘出するために書かれている。諸作が初回的に現れてきたから選択せざるをえなかったアプローチだが、結果、先験的な「作家主義」という安定的枠組みまでもが剥奪されてしまっている。だから前提がわかりにくいかもしれないが、ゲラに接すると、われながら、自分の批評(レビュー)はおもしろい、ともおもう。思弁性をふくめた批評密度の高さが、作品の具体描写の丁寧さと「相殺」されて、全体が刺激と緩衝のアマルガムになり、それが刻々うごいている。この動勢が「生きもの」のように妙な魅惑をもっているのだった。
映画研究は、いまアカデミズムの分野を中心に大変動が起こっている。廣瀬純、金子遊、平倉圭、三浦哲哉など、中村秀之、長谷正人の世代を継ぐ気鋭の映画学者が続々浮上してきて、アカデミック・アプローチの手法に過激な多元化が起こっているからだ。こうした映画研究が映画公開シーンに即した批評と相即すべきなのだが、(新作)映画への批評は、映画観客への配慮がすぎるからか、従来よりもさらに頽落してきている感触がある。この分野で孤塁を守る責務があるのが、自分ではないか、とさえふと考えてしまう。ともかくは「鬱」になど陥っていられないわけだ。
担当の河野さんと相談すると、最近ブログ(SNS)などに書いたものも少ない頁に収まるのならゲラ上で増補してもいい、という温かいお返事。よって評判のよかった『闇金ウシジマくん』『桐島、部活やめるってよ』『I’m flash!』『その夜の侍』評、さらには「図書新聞」からいずれでる『アウトレイジ ビヨンド』評も加えることになった。これで2005年ごろから現在までの自分の邦画レビューが、オルタナティヴな傑作という流れではほぼつながることになった。いずれ、目次をこの欄にペーストしようか。
それにしても、読書の合間に、暇にまかせ「詩」を書き、それを読みかえしてなどいると、音楽性に循環要素があるためか鬱が更新して、時に危険信号まで灯る場合がある。評論はちがう。読み直すと、思考の速度感覚にあふれた直線性にこそ対面させられて、むしろ「賦活」がもたらされるのだ。しかし自分の書いた評論に鼓舞されるっていうのも、単純で能天気な構図だなあ、と恥ずかしくなる。
タクシー
【タクシー】
クルマでゆくということはわたしが死んだのだ。けれどそのように身罷ったらどこで弔いされるのか。車窓からはアジサイが色をのこしたまま、空気玉めいてうかぶ。焦げて枯れなかったやさしさ。なごる、と様子を九月の動詞でいう。そうだ千回死のう。この満願のため今をうかびつづけて。
石原
【石原】
同列なきものに花をあたう。そのようにさきざきは五裂して、おもいのひろがりをえる。けれど空隙を駆ってくる五数もある。獰悪な馬か車か。あらかじめあった手足の同列は砕かれる。交替する内外。これをこころざしの核に、晩い火花をいきる、種おちる秋は。
雨鳥
【雨鳥】
まなかいは、みつめあっては落ちてゆく、算えきれない筋のあめ。それでも降雨のさなかをさかのぼる矢があった。刺すいきおいがあふれながら刺す対象の見当たらないのは、なんのくるいか。こころではなく場所のやぶれか。かくて翔び立ってゆくものどもを楡蔭に見送る。
蓼
【蓼】
それからのわたしを閉じる。頁のようにか、まぶたのようにか。これらの比喩が同時とすれば、瞑目も書冊におとらず顔におもくかさなっている。それをみせた。めくってといい、ただみせた。皮膚を土に、秋の顔をさらしたのだ。そこに、これからの蓼も消える。
一音均
【一音均】
空気中をゆく何かが空気へもどってゆくおそれ、それが岬のおわりをみたす。女たちは日傘をささなくなるのではなく、日傘をさす属じたいが消えるのだ。鴉も海猫にみえ、ひろがっている散文ススキすらただひとつかみの音に均される。ことなるものはなべておなじい。よってうつくしい。
線にあらがって
【線にあらがって】
いそぎすぎて東北の、ひると夜が副う。湯野浜の正面におちる夕陽と、あけがたの満月、それぞれが海上につくる光まで、おなじ帯をなした。くらげをみても、糸のようにあふれだしたとんぼをみても、時間ばかりで疲れる。ついに塩味の湯へは、はだかをただ板にしてかくした。