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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

燐寸

 
 
【燐寸】


わざわいというのだ、それは。きれいなものを性交中にみすぎて、配置論が炎上する。肋骨のもようから下腕へながれる肌のなめらかさ。それをかかえ唯一ということをおもっていると、筋のわかれが起こる。やがて災の字に散ったむごたらしさこそ、かたちの法悦だろう。
 
 

2012年10月13日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

詩人論

 
 
【詩人論】


帯びているひとは、ふと言いよどむとき、やまいをみせる。ぼくらの耳はそれを掬うため側面を立っている。帯びているひとは、天譴ということを声の奥行でしめす。とおさこそが、ぼくらのまなかいの咎なのだと。視覚が吹きわたっている。その天籟とはなんの痕だろうか。
 
 

2012年10月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

教室

 
 
【教室】


あすはここにうごく今を、ふりかえったときだけ厚みになるものとして冷淡にみている。あすがみているのだから、みえがたい躯もあり、人はみえなさを室内にわけている。自分からだろうか人からだろうか、さらにはその向こうからだろうか。おんなとよばれる場がひろがる。
 
 

2012年10月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

『日本映画オルタナティヴ』目次

 
 
自己PRのため、もうじき出る『日本映画オルタナティヴ』(彩流社)の目次を、「こんな内容です」という思い入れで、下にペーストしておきます(本が出たらまたやるかもしれないけど)。これで400頁強。なお、ネット発表文章は自分でタイトルをつけましたが、媒体発表文章は編集部のつけた初出タイトルのまま。とりあえず、「異質な」邦画評論集だということを、掴んでいただけたら嬉しいです。



はじめに
犯罪の瘴気、犯罪連鎖の作為 ――古澤健監督『怯える』
映画というカフカ ――黒沢清について
押井守の実写映画にはショットが存在しない
われわれは殺されたがっている ――渡辺謙作監督『ラブドガン』と殺し屋映画の系譜
観客心理を切り刻む鋏の蠱惑 ――池田敏春監督『ハサミ男』
多元的に交錯し、連鎖する穴、穴、穴…… ――風間志織監督『せかいのおわり』
終結場面を疑問形に宙吊ること ――日向寺太郎監督『誰がために』
観客を覚醒させる、「逆転」と「痛み」 ――豊田利晃監督『空中庭園』
時間感覚の迷宮 ――オムニバス映画『乱歩地獄』
「出現の映画」、21世紀的な ――大森立嗣監督『ゲルマニウムの夜』
これが、新しい〈演出〉の6原則!
痛みから「痒さ」の時代へ ――佐藤佐吉について
「敗北主義者」の思想 ――追悼・黒木和雄
変態エモーショナル ――井口昇監督『猫目小僧』
「35歳独身」の生の流儀 ――廣木隆一監督『やわらかい生活』
複数の「私」が複数の「あなた」を撮る ――松江哲明について
目に見えざる「神」の潜む映画 ――西川美和監督『ゆれる』
未到来の幸福のざわめき ――安田真奈監督『幸福のスイッチ』
「コスモポリタン黒木」の「世界感情」 ――黒木和雄監督『紙屋悦子の青春』
この「1カットの力技」を見よ ――黒沢清監督『LOFT』
声の収集/複数の映画/演出のドキュメンタリズム ――園子温の映画作法について
見上げた月に囁く「私はここにいるよ」
――矢崎仁司監督『ストロベリーショートケイクス』
いつかきっと厭になる ――西山洋市監督『死なば諸共』
ベンヤミンから金芝河へ ――大浦信行監督『9.11-8.15 日本心中』
表層との闘い ――瀬々敬久監督『刺青・堕ちた女郎蜘蛛』
「欲望の心理学」のブニュエル以後 ――山本政志監督『聴かれた女』
ダブルの顛末 ――大和屋竺監督『愛欲の罠』
廃墟の美 ――松江哲明監督『童貞。をプロデュース1&2』
佐藤真さんが亡くなった
恋愛のつくりかた ――岡太地監督『屋根の上の赤い女』他
恐るべき演出力 ――横浜聡子監督『ジャーマン+雨』
非対称者の運動感にとむ照応 ――万田邦敏監督『接吻』
“慙愧の念”が貫く多項対立性 ――野本大監督『バックドロップクルディスタン』
提示される現在的「銃後の思想」 ――日向寺太郎監督『火垂るの墓』
机上の空論はどうであれ、アキレスは亀を絶対に追いぬく。
――『HANA-BI』以降の北野武vsビートたけし
園子温の映画はひたすら驀進してゆく ――園子温監督『愛のむきだし』
『ウルトラミラクルラブストーリー』が傑作と言われる理由
――横浜聡子監督『ウルトラミラクルラブストーリー』
松江哲明の価値転覆性 ――松江哲明演出・構成『あんにょん由美香』
寓話の通底、水の通底 ――豊田利晃監督『蘇りの血』1
手の正義、手の愛 ――豊田利晃監督『蘇りの血』2
キメラ的映画のほうへ ――タランティーノと日本映画
ドキュメンタリストの誕生 ――小野さやか監督『アヒルの子』
菅野美穂、〈はかない〉話法 ――吉田大八監督『パーマネント野ばら』
フェイクドキュ、ネット時代の映画的リアル
オムニバスに新たな可能性を付与 ――山本政志監督『スリー☆ポイント』
「世界を見ること」を伝えてゆく母性 ――成島出監督『八日目の蝉』
「可視化」をめぐる映画作家の欲望 ――是枝裕和監督をめぐる三題
交換をめぐる白熱したスポーツ映画 ――古澤健監督『アベックパンチ』
残酷なまでに清澄な倫理の発露
――渡邊世紀監督『VEIN―静脈―』『人形のいる風景――ドキュメント・オブ・百鬼どんどろ』
俳優の生理と綜合的な力 ――内田伸輝監督『ふゆの獣』
「反劇的な」諸要素によって構成された「劇映画」 ――福間健二監督『わたしたちの夏』
数値の変容による交換 ――佐藤佐吉監督『半分処女とゼロ男』
神の手の悪意、時間の抽象化 ――大工原正樹監督『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』
大浦信行と見沢知廉の「双生児性」はどこにあるか
――大浦信行監督『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』
感情と映画の複合性が一致する ――富田克也監督『サウダーヂ』
軽さの悲哀 ――松江哲明監督『トーキョードリフター』
さまよう身体の位相変化 ――吉田良子監督『惑星のかけら』
過剰防衛と直角 ――黒沢清監督『贖罪』第二話「PTA臨時総会」
中間的な戯れの怖さ ――黒沢清監督『贖罪』第三話「くまの兄妹」
「悪接続の哲学」が冷徹に進展 ――真利子哲也監督『NINIFUNI』
生きている瓦礫、遺体の予感 ――森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治監督『311』
音声が映像を侵犯する ――上原三由樹監督『口腔盗聴器』
謙譲の過程としての「面」の提示
 ――松林要樹監督『相馬看花 第一部・奪われた土地の記憶』
齟齬と類推の二重性にまみれてゆく ――西山洋市監督『kasanegafuti』
機械状の空間惑乱とグリフィス ――高橋洋監督『旧支配者のキャロル』
身体と禁忌の二項対立をめぐる、蛮勇と解決 ――内藤瑛亮監督『先生を流産させる会』
共生するカメラ
見えること/見えないことの葛藤が悪を描く――山口雅俊監督『闇金ウシジマくん』
生徒それぞれの手や姿がメトニミーとなる隣接的な幸福
――吉田大八監督『桐島、部活やめるってよ』
希望の敷居によって生死が弁別できない――豊田利晃監督『I’M FLASH!』
膠着は膠着ゆえにすでに解決である――赤堀雅秋監督『その夜の侍』
「爆流」と「変転」の映画に隠された怒り――北野武監督『アウトレイジ ビヨンド』
  
 

2012年10月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

小川三郎・象とY字路

 
 
理路が矛盾律など意外性をともなう屈折をくりかえし、それで「内域」ができる。とうぜん内域はひろさとして現れるが、このひろさをつくった元をさぐると、元は平明なことばでしかない。通常の詩なら圧縮と、それに反する語間距離のひろさとによって、空間をつくるのに、そういう手さばきをせずに、語がそのまま「在って」、在ってながれることでそのまま変容している――これが小川三郎の詩法だろう。

たとえばこんなフレーズ――《〔…〕この町では顔さえあれば/みんな寄ってきて幸せになれた/はなから双子であったならば/顔など必要なかったのだが。》。ここでは格言性を分泌するようにみえて、内容がヘンであることで、ありうべき格言性をみずから離脱させている。こうした離脱が、縮減や脱色といったダウナー作用とも響きあっている点にも、留意すべきだろう。

何ごとも謳歌しない。陶酔もしない。それでも煙の「折れ」がいつしか「真っ直ぐ」へと変容しているのは、見ること、感じることがそれ自体に内包している時差をフレーズが境目を隠して吐き出すためだ。そうかんがえるのなら、小川の空間は時間でもある。この時間に脱色がかけ合わさると、「夏休みは/まだ終わらない」といった無変化まで生ずる。

いずれにせよ、理路の屈折体を行分け詩形に変えてゆく小川の詩は、屈折体である以上、ことばの最も峻厳な意味での退化を、詩集ごとに昂進させざるを得ない。詩集間に変化のない作者は論外だが、では退化が無慈悲に現れている作者を、どのように遇すればいいのか。畏怖、ということでしかないだろう。今回の『象とY字路』では、『永遠へと続く午後の直中』時点なら鮮やかに書かれていただろうフレーズが、発現不能性=膠着を生きているような、不穏な寸止め感をおぼえる。これが「うまく書くだけ」の詩の多い現状にあって、異彩というにとどまらない精神的吐血の匂いを発散させている。だから同一語の整理といった問題も、小川三郎の問題ではない。

屈折は、通常なら抒情と叙事の分野に集中する。唖然としたのは、今度は叙景の分野にも屈折が現れた点だった。それで集中の「夕焼け島」が、全体のなかでうつくしい陥没点になっている。ただしこの「ほかとはちがうこと」は、やはり「感覚の屈折」で割ると共約数的に脆くも縮小化してしまう。むろん詩集のながれに、こういう崩壊の逆転を仕込める才能はそうザラにいない。以上、簡単な詩集紹介だったが、最後にその「夕焼け島」を引用して、この稿を閉じよう。



【夕焼け島】
小川三郎


夕焼け島が地球の上で
夜の来るのを待っている。
小船を漕いで島に向かう。

近づいてみると夕焼け島は
とても高くまで膨れている。
手を伸ばして島に触れると
だいぶあたたかくなっている。

島の裾野をよじ登り
頂上の穴を探りあて
中にすっぽり入ってみる。
足を伸ばして
探ってみると
指の先が地球に届いて
そこは恥知らずに振動している。

力を込めて夕焼け島を
一気に底から引き剥がす。
途端に膜があふれだし
海はすぐさま熱くなり
目の裏側に星が降る。

〔…〕

夕焼け島を空に掲げて
金星に手渡すと
夕焼け島は地球にないのに
海はまたまだ熱くなって
波の奥に乳歯が生えた。
切り離された遠い未来に
様々な顔が浮かんで消えた。

星がぜんぶ落ちてしまうと
地球はひとつ暗くなる。
夕焼け島があったところに
深く目玉が刻まれている。
長いまつ毛が美しく
最初の瞬きが弾かれると
朝が遠くでうろつきはじめ
金星の行方が知れなくなった。



風景は叙述されている(行為も)。それでもついに「夕焼け島」は対象可能性とは外れた位置で謎を生産するままだ。いろいろな隠喩解読も、結局は無駄になるだろう。ただたとえば「金星」や「乳歯」の語用に動悸したことが読後にあやしく沈殿されるだけだ。小川の詩の正体がそれでわかる――メトニミーだ。
 
 

2012年10月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

樹の筆

 
 
【樹の筆】


きみは樹齢だ、もう顔なんかない。宿縁を生に接ぎ木して、なくなった性のように、いまや幹だけがふとくなったのだ。どれほどこまかい葉をあたまに戴冠しようとも、鬱の字でないだろう。春楡の秋。きみは画材だが、そこに描きと画布の境もない。そよぐ内側であるだけだ。
 
 

2012年10月09日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

冬にそなえて

 
 
連休を利用して女房がきていた(さっきまで、いた)。暖かい、だしの味のするものを日ごろ食べていない、と反省、連休中はおでんを食べたり、鍋をつくったり。おかげですこしはからだに芯が入ったかもしれない。

院生がいうには、これから秋がふかまり雪が根雪になってゆく季節は、日暮れが早くなり、札幌赴任一年目のひとは誰でも鬱気味、ひきこもり気味になる、とか。ぼくじしんはすでに前期、完全にひきこもりで、家で本ばかり読んでいたのだが、それではこれからの季節ますますひきこもりが昂進して危ない、ともいわれた。だから雪のないいまのうちに、札幌内の散歩道を開拓して、場所の連続性をからだに叩き込む必要もあって、連休中は女房と一緒に市内をいろいろあるいた。こんな場所がある、とときめかないと、ますます外出が間遠になってしまうので。

まず自宅からの散歩道として開拓したのが、藻岩山のロープウェイ口から円山公園までつづく、藻岩山麓通り。小高い山腹を蛇行する幹線道路なのだが、この道は札幌特有の直行性がなく、あるくと視界も展開してゆく。高台がつづいて見晴らしもいい。緑や高級住宅が多く、デートツール用のこじゃれた店もちらほらしていて、これなら歩ける、とおもった。適度なアップダウンもあるし。

それから昨日は、札幌駅からすこし岩見沢方面に向かったところにある森林公園に行った。札幌市はじつは「公園天国」なのだが、ここはそのなかでも最大スケール。北海道の往年の建造物、住居を移設した開拓村があるほか、山道(散歩道)が広大な敷地にかずかず織り込まれていて、ひさしぶりに森林浴を満喫した。昨日の段階では早めの紅葉をしるしている樹がいくつかあった。札幌は紅葉を迎えるが、東京などと較べ、紅葉は一瞬にして終わるという。調子も出てきたことだし、来週末あたりは市内を紅葉狩してみようか、などとおもっている。

今後の課題は札幌の映画館でもっと映画を観ることかもしれない。夏休みに東京で映画を浴びた反動で、このところ送られてくるDVDとレンタルDVDで満足することが多かったが、やっぱり町なかで映画を観ないと、本当の意味のアクチュアリティが出ない。

雪が降る前には黒くちいさな「雪虫」が翔びまわる、という。六月初めの綿毛といい、やがての雪といい、札幌は空中飛散物が多いのだなあ。眼にまぼろしを映しながらも元気ださなくちゃ。
 
 

2012年10月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

色身

 
 
【色身】


淫夢をみてしまったからだが哀しい。そのことの直後をおもいだせるのに、そのことがなにか分からない判別の法則が、ここにあふれていて、受粉のない色身だった。まどいののちは、沙参となるまでおのれをゆらす。瞑りのうち目だまがなづきへきえるまでを。
 
 

2012年10月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

紅葉狩

 
 
【紅葉狩】


山積しているのは問題ではなく自分だと山がいう。おおきなころものような錦繍をゆるめ、はだかのおわりへ行人をみちびく。つながりの恣意が見上げる位置にならべられ色がながれているのだ。なくなる息が行人にうすく照って山積は身を削り、つられて本質の視も鋸を生じてゆく。
 
 

2012年10月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

絆という語をつかわないために

 
 
【絆という語をつかわないために】


齢の差がこれほどあるってことは、周回遅れで近づいた互いなのさ。そうして気づくおなじ円は、天空を映す野にまでもひろがっている。ならば茶毛のむらさきがかった神秘の犬も、眼のまえの周回遅れだろう。差がありすぎ、もはやなんの憶えもない。おまえなのか、とただ訊くだけだ。
  
 

2012年10月05日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【視】


浪の見えの移りかわる日暮れ前だ。風がしろく、のばす腕もしろくなる。指している、日冊の別章を、すこしの奥を。みるめはふた身となり、ふやさなければならない、ふえるために。この浦を裏にして、かわらず見る。身の起点からつづく、まえのとおくを。
 
 

2012年10月05日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

詩集の紙面について

 
 
思潮社からの初のオンデマンド詩集として、高塚謙太郎くんの詩集とともに出る、ぼくの『みんなを、屋根に。』、そのPDFによるゲラが昨日、添付メールで届いた。まあ自分のリズムと特有の発想飛躍によってすべての詩行がなっているわけだから、久しぶりに読み返しても気持ちのわるいわけがなく、ともあれ、突っ張った言語実験的な詩篇とか、長篇詩を排除して、全体にやわらかい(おとなしい)統一性が出ているのもいい、とおもった。当初は500頁くらいの怪物的な本もかんがえていたのだが、最終的にはその三分の一にまで割愛・圧縮したのだった。よりちいさくなろう、野心を封じよう、というのが、ここ二、三年の自分の気分だ。

さてゲラ画面をみていて湧き起こった、一般論をこれからひとつ。詩集の組みについてだ。

当初の予定では詩集は右頁から開始する「見開き起こし」と、左頁から開始する「片起こし」、その双方をふくむ「両起こし」だった。編集者として予算と睨みあった経験があるからか、ぼくは紙面については吝嗇なほうで、「見開き起こし」貫徹によって生ずる、詩篇終了後の、左の白頁を歓迎しない。あるいは詩集は最初に文庫で接しているので、一頁内に、数行アキを挟んで「オクリ」で詩篇が連続してくる形式もべつだん厭ではない(二段組みは余白のきれいさを失わせるし、長い詩行が次行にオクリになってしまうことも多いので嫌いだが)。

ところがPDFをみると、デザイナーは、当初予定していた詩篇タイトルまわりの五行ドリから行数をふやした。結果、頁内に収まるべき行が、次頁に数行のこる事例がまずふえる。つぎに、「両起こし」主義をやめて、「見開き起こし」主義を貫徹している。結果、ぼくの詩集には例外的なほど、左の白頁もふえてしまった。もともとは見開きを基準に、対句的に詩篇を左右の頁で並べたりしながら、それでもなるたけ左頁で一詩篇の詩行が完了するよう、展開に留意したものだった。

なぜそうなったのかは、すぐわかる。オンデマンド出版だからあまり頁増が気にならなかったのだ。つまり、頁単位で機械的に累算されてゆく製作費そのものは版元が負担するが、一頁あたりの単価は、通常の印刷/製本/取次流通の詩集の一頁単価にたいし比較にならないほど安価だということだ。ならばデザイナーは理想の組みで版面をつくれる。そのデザイナーの思想が、「見開き起こし」貫徹、左の白頁も問題なし、というものだったはずだ。

最初はPDF画面を見て面食らったが、紙面展開に風穴があいて、一篇一篇の読後に形成される「余韻」が目立つようになってきたな、とおもう。デザイナーはたぶん、ぼくの詩篇の質を捉えて、余韻を殺すような「展開の目詰まり」があってはいけない、とかんがえたみたいなのだ。崇敬と尊重の念が払われたということだし、結果的にはぼく自身もこの組みがいいな、とおもったのだから、作者としても感謝するほかない。

詩集は基本的には造本技術、用紙・用字、組み技術の粋をあつめたものだ。街なかの印刷製本所でつくられた私家本は、おおくはその出来の拙劣さが明白になってしまう。それらはデザインによって内容に損傷を受けている。むろん今度の詩集はオンデマンド出版だから、データ提供を簡易書籍のかたちでする、ていどにぼくは当初かんがえていたが、思潮社ではデザイナーをつけ版面作成(コンピュータのデータだが)を自己責任化し、オンデマンド業者(じつはアマゾン)の通例製本・デザインが介入できないよう安全バリアをつくってくれた。表紙回りがどうなるかわからないが、たぶん見栄えの良い詩集が、オンデマンドながらそれで提供されることになるとおもう。

詩集はもともと頁単価がたかい。通例の400部印刷なら、著者負担が一頁1万円、価格設定が一頁20円というのが相場だろう。その頁単価の高さ、つまり丁寧さは、手にとった読者に「再読誘惑」をかけるためだ。文庫型の詩集に較べ、書籍型の詩集は、用字の大きさ、見渡しの透明性も相まって、頁を繰りながら読了へむかってゆく「時間」が濃厚になる。それで詩篇個々の「入り」も、詩篇ごとの加算感覚も、繊細になる。扉をめくったあとの、最初の詩篇の発端のときめき。残り頁が少なくなってきて、頁をめくる指が「大団円=祝言」を自然に期待してしまう、密着感のある身体性。

そのなかで散文詩篇ではなく行分け詩篇がこのまれるのは、散文詩篇での作者からの一方的な圧倒感供与を読者が嫌い、行分けに向かって入り込んでいる余白から、たとえば気散じや休息の余地があたえられ、読者が自由な読解速度をつくれるよう配慮されているためだ。詩篇成立与件に行分けが入るか否かは微妙な問題だが、荒川洋治さんなどは、詩が詩として認知される理由として、行分け形式の見た目が大きい、としている。

それでいいたいのは、左の白頁が、たぶん「行分け」の発展形ではないか、ということだ。

柴田千晶さんの新詩集『生家へ』とともに、小川三郎さんの新詩集『象とY字路』が昨日届き、小川詩集は読了までの所要時間が30分ていどといつも冷静に計算されているので、出講のための市電電車と地下鉄内で手にとり、実際に読了してしまった。

内容は「素晴らしい」とだけとりあえずいっておくが、小川さんは詩篇タイトルを版組みにたいしどう繰り入れるかで独特のかんがえをもつひとだ。以前の詩集では見開き起こし主義が貫徹されていて、詩篇が始まる際には、右頁に詩篇タイトルだけが印刷され、その頁が余白であふれかえった。ところが今回はいわば詩篇タイトルを「扉」的にしめすため、逆に詩篇開始時の左頁に詩篇タイトルのみが印刷されている。

これは一詩篇をコピーするときタイトルの一頁ぶん余計にコピーをする手間をしいるようにもおもえるが、気に入った詩篇をコピーする時代はもう終わった、必要あればキーボードで転記打ちすればいい、という小川さんの判断なのではないか。実際、小川さんの一詩篇は趨勢のなかでは相対的に文字数が少なく、転記打ちに向いている。

その転記打ちを誘うのが、詩篇ごとの「区切り」の感覚だ。だから扉のようにして詩篇タイトルを左頁に一行印刷することも尊重される。

同時に、小川さんは左頁が白になることを徹底的に嫌っているとも気づく。左頁に数行入ったところで終わる詩篇が多いのだ。結果、その裏(右頁)が白になり、それが次の詩篇タイトルをしるした扉と見開き対置される。つまりその見開きでは、ほとんどの場合、トータルで一行が印刷されるのみなのだ。空白で区切りをつける、という考え方が徹底されている。脱帽した。

詩作者はむろん詩稿を編集者にメールし、あとは自由に組んで、というわけにはゆかない。自分の詩篇の重なりが読者にどう体験されるか、そこまで意を払って、それで当事者性というか作者性がようやく完結する。ぼくの場合は上記のようにデザイナー任せで、それゆえ「発見」にも導かれたが、小川さんの紙面展開にたいしてのコントロール能力は、ただ事ではないと畏れたのだった。
 
 

2012年10月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

屋根の上下

 
【屋根の上下】


においなくありたい、自分の死ぬときには。ならば事故か。いや足りないそれは、事故の事故でなければ。傲りでできた銀のバイクを屋根から屋根へ駆り、眼前をあきつが旧くよぎり、それで切り誤るのでなければ。時刻は昼、下では果をおもく煮ていてほしいひともいる。
 

2012年10月03日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

大島弓子・七月七日に

 
本日からはじまる学部生向け演習「少女マンガを読む」(ただし初日はオリエンテーション)のため、昨日の夜、導入のひとつとなる大島弓子の短篇「七月七日に」を読み直していた。それでティーンズのころおぼえたのと同等の感動にひたってしまった。

70年代後半当時、少女マンガには「プラトニック礼賛」というイデオロギー上の歯止めがかけられていて、「性の深淵」は「垣間みえる傷口」として作品の深部に装填されている。それは表現上の限界だったはずだが、逆手にとられた。そのなかで多くはトランスジェンダーをつかって「少女原理主義」「ためいき原理主義」の王国を怪物的につくったのが大島弓子だ。思考的閉塞性のなかに「突破」「転覆」が縦横し自立している点で、ティーンズ時代のぼくは、たとえば大島弓子を、ロートレアモンやジュネと同列にとらえてきた。共通している特徴を、「表現の人工楽園性」と換言してもいい。

その大島マンガを虚心坦懐にながめなおすと、コマ線の消滅、斜め化、画柄のタチキリによる膨張化という「逸脱」があって、そこに生ずるべき空隙を代補的に「植物性」が填めつくしているとわかる。樹木、草、花の基底があって、その植物性は髪や睫毛をもつ人物画へも反射し、人間と植物にあるべき境界線が溶融してゆく。くわえて、細密的な植物性の蔓延と同等の位置にあるのがネームだ。ナレーションでもフキダシでも、ここでは「文字の繊かさ」までもが植物性の擬制を得ている。こんな「詩」があった、ということだ。

植物、人物、文字(ときに波頭を中心にした水の描写も)――それらは、場面によっては花火をスローモーションでとらえたような、動勢の爆発へと移行してゆく。ところが「線」はすべて相互に結索されていて実際は孤立しない。「傷をつける」以外の「線」の機能性、それがたぶん大島弓子の「幸福なフェミニズム」の正体だ。女性器的なものはすべて盲目か瞑目のうちにまどろんでいる。それでも「植物」という孤独の分布に女性性をみる感覚は、詩歌分野もふくめ崇敬するしかない。

ヒロインが「母」として接してきた者にかかわり、あまりに中間的な立ち位置と溜息によってつづられる正体暴露は、ヒロインと幼馴染の恋のゆくえ、その幼馴染の兄と「母」の隠された性愛の帰趨と対位法な(つまり音楽的な)、「物語生成」を組織される。(怪物的な)思想、空間上の植物性=線の湧出とともに、ここから感知させる大島弓子の創造の質は、むろん独自的で圧倒的だ。

「父」であるべき者の「母」としての現前は、その後、初期吉本ばななの小説発想の祖型をもつくった。父母間のトランスジェンダーはよくかんがえると、中間性に向けての、家庭運営上の叡智ともいえる。「七月七日に」には大島弓子にしては珍しい太平洋戦争勃発時の時制設定もほどこされているが、この時代性も最終的には回顧のための無時間性へと昇華されてゆく。

全体を回顧(フラッシュバック)で括弧入れされた時間進展の無重力性のなかでは、回顧の充実のため、芯を形成する重力ももとめられるだろう(ところがそれは「重力」でありながら「浮力」なのだ)。物質変容が起こる。解かれた「母」の黒い蓬髪は、夜の川の波と溶融して、性愛に伏在する真の「漆黒」を、周囲の暗闇の森とともに奔流させるのだ。「線」が短冊へと拡張してゆく恐怖。「わたしの着替えをみてはならぬ」「わたしは時限付で彼方へと帰還する」と宣言する「母」は、いわば『夕鶴』と『竹取物語』の想像力を混入された接近不能の人物だが、その接近不能性の極点で、オフィリア・コンプレックスのすさまじい黒化(ニグレト)が起こった恰好になる。

沈思者の思考体系では、ベンヤミンの事例のようにニグレトが枢要となる。それは歴史省察の内側から滲みあがってくるのが通例だが、大島弓子のすごいのは、ニグレトに力動性があたえられ、しかもそれが現実か幻かわからない点だろう。そこではニグレトは、思考の輪郭線をかすめ、感覚にざわめきをあたえる、逆転性の何かだった。

おもいだす、「フェミニンなもの」をティーンズのぼくはまず大島弓子から学んだと。もうひとりの「ユーミン」、荒井由実からではなかった。このフェミニンの類型に足りないものは、葛原妙子あるいは幸田文的な「残酷」だけだろう。知られるように、大島弓子はのち、「線」分布を疎(鬆)にすることで、その残酷も笑いのうちに獲得してゆく。
 

2012年10月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

中央駅

 
 
【中央駅】


ひとつしかない。とすればそれは脱出をさしむける穴なのに、いつもこちらから向こうはくつがえされない。大きくあってもひとつはひとつ、穴の内はざわめき、とりわけガラスの覆う吹き抜けが怖い。なぜ「この」駅舎なのだろう。ゆきかうひとつが片腕を抜き、はこび去ってゆく。
 
 

2012年10月02日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

さふらんの

 
 
【さふらんの】


ふたつある。かぞえかたによっては三つだ。かぞえすぎるまちがいで多寡を分けて、非対称をながめるということだ。うまれる濃淡が一方を濃さの、他方を淡さの魔法にかえ、この魔法もじつは数にくわえられる。ではふえたのはきみかぼくか。淡さでいたい、さふらんの二、三本。
 
 

2012年10月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)