降雪と二行聯詩
「――を――に書いたので、よろしかったら読んでください」といった告知はとうぜんSNSでも有効だが、「これから――を書きたい」とする宣言は、実際は恥しい自己励起の産物で、ぼくとしてはSNSに書くことを禁欲している。また、「いついつまでに、――と――を書かなきゃならない」というのも、多忙自慢めいて、これも自分の領域ではない。基本的には、つくった作品の提示でなければ、「――について――とかんがえた」と書くだけが、ぼくにとっての本筋だ。もともと、執筆計画を披露する有名性=価値が、自分にあるのかとも疑っている。
――とはいえ、詩作の今後のことについて書きたくなった(笑)。
最近つくってきた短篇散文詩(べつにツイッター詩を意識したわけではないが、そういうかたちに自然なった)はどうもこのあいだ発表したぶんでフィニッシュをむかえたようだ。大団円、の感触がある。第一次の自己編集をほどこした現時点で、全162篇。単純に発表順にならべた未刊詩集がいまドキュメントにファイルされてある。
ぼくの詩には季節が反映されることが多いので、発表順につづけて読むと季節推移の連続性がかんじられる。ひとり連詩の印象をあたえるかもしれない。せっかく北海道に移住したのだから、雪虫、初雪、根雪の季節まですすんでゆきたかったのだが、みじかいとはいえ、散文形創作に疲弊してしまった自覚があり、断念した。散文詩にはどうしても「音楽」が足りない。音楽性により詩を壊したいとねがうと、散文詩が呼び込んでしまう「論脈」が邪魔になるのだ。それで「改行形にもどりたい」という、脱出願望が起こることになる。
ぼくはこのところ、形式を決めて連作してゆく詩作方法をとっている。ただし短篇散文詩のまえに連作していた十行詩にはもどりたくない。自己更新のためだ。むろん行数の多寡の問題でもない。たとえば八行詩を連作しても、あまりあたらしい収穫をえられないような気がする。それに石田瑞穂さんがあたらしい詩集で、きれいな古典美をつらぬいた八行詩篇で詩集全体を統一していて、臆したというか怯んでしまった。
あるいは短歌俳句を志そうとしても、プロパーなひとたちのような厳密さをそれらの詩型に発揮できず、そんな状態のまま門外漢の立場にあまえたくもない。端的にいえば、ぼくは短歌俳句が下手なのだ。すごい作者が現状にひしめいている。
もっと自分に負荷を課す詩形式はないか。ネット発表しか通常の場がないので、長篇詩は避けたいという要請を外さずかんがえてゆくと、以前、自他に提案した「二行聯詩」のことをおもいだす。行空白を挟みながら二行聯を連続させて、聯の進展のもつ、時空変化や余白形成や断絶などの機能を多彩に実験しながら、全体をつくりあげるものだ(数学的にかんがえれば、この二行聯詩に、聯間空白の出現頻度が最もたかくなる)。ぼくは聯間空白の方法につき、これまであまり追求してこなかったので、こういう形式の詩に「やりのこし感」があるのだ。創作間隔は、実現の困難も見越されるので、最小でも一週間に一篇程度か。あいだは映画評などを書いて埋めよう。
「二行聯詩」の全体をみじかくするには、二行聯が計五つ、したがって全体が十行、あいだに聯間空白が四行ある、といったていどのものを構想すればいいのではないか。このかたちはモダニズム詩のどこかにあったかもしれない。西欧に通例だった十四行詩よりも、このかたちのほうが和式の感慨を盛りこめる気がする。
これを雪の季節からはじめる。雪は視界を同一性で覆うようにみえて、雪の舞いに曲線性までふくむ不測をかかえ、どこか絶望的な「見上げ」「見透し」といった身体動作まで付帯させる。それらの瞬間を擦過してゆくと、実際は身体的な不連続性が書記空間に転移される。だから聯間空白の多い詩型が似合うのではないか、という予測だ。雪の季節と、二行聯詩は、そのようにして「相即」する。
ただし書きだすまえに、寒さと淋しさを「利用」して、自分のあたまのなかを一旦枯らす必要をかんじる。それで雪のふりだすまで詩は休筆する。といっても空白期間は一、二週間ていどかもしれない。
「相即」と書けば、「共鳴」「交響」も望まれる。この二行聯詩、ほかのだれかもつくろうとはしないか。おなじSNSのうえで相互に距離をたもったまま、異なる方法の二行聯詩が(多方角から)出現したとき、詩作フィールドに変貌が起こっている、とかんじられるのではないだろうか。
それでも「孤独」が必要だろう。なぜか文体の弛緩が共通項となってしまった、いまのツイッター連詩みたいにはならないように。
ツイッター連詩は媒体的な要請によって、目詰まりのした散文詩型が選択されている。前詩からの呼応がモチベーションの第一なのだろうが、なぜか短フレーズを句点でつなぎ、発想飛躍が連打される形式が蔓延している。したがって論脈をつくっては手ばなす苦しみなど、よほどの手練れでなければかんじられない。さらに、微視的にみたフレーズ単位に内向的な屈折もなければ、安直さにもたれかかった手癖だけが前面化されてしまう。そうした病態が相互に分有されているさまを、ネット時代の通弊とだけ片づけてはならないとおもう。
ツイッター連詩がそのような外見をもつのは、「量産」が目されていると参加者相互が予感しているからだろう。とはいえ「量産」が可能な詩形式とはもともと危険なはずだ。時間が経過すると、自ら承認しがたいものが多くなるのが通例だからだ。ところがツイッター連詩は相互(連続)性だから、相互責任にしばられて、書いたものがネット上にのこってしまう。自分のしるしたものだけ削除してくださいと、のちのちいえない。
ツイッター連詩におけるフレーズの連打力は、みずからの――相互の、表現界面が平面的とする擬制を、いわば原資にしている。みんな一緒、というわけだ。そうして平面が自明的にならぶ。前詩からの呼応は、「匂い付け」といったものよりも、友愛的な連続にむしろちかい。
ところがいま現代詩でおこっていることは、望月遊馬にしても大江麻衣にしても、フレーズ進行にほどこした「ズレ」が、ねじれの量感をともなって、詩平面を脱自明化する過激な事態のほうだ。平面だったはずの「元の基底材」から変成的に立ち上がってきた「これ」は、空間なのか時間なのか、ねじれの厚みがあるのか、うすさのズレがあるのかという問いが、それらにたいする再読を何度もうながしてゆく。
そこでは連打にともなう幸運な発想力など、もともと信じられていない。むしろ壊して再建した経緯にのこる傷跡だけが、書かれてあるフレーズと二重に読まれるものになっている。きびしさがちがう。
二行聯詩に話をもどすと、いま願うのは、聯の「すきま」がズレやねじれを作動させて、単純な時空進展が脱臼し、イメージの結像性を危機におとしいれながら、なおかつ望月遊馬や大江麻衣がみごとにそうしたように、難解さからはなれ、ことばそのものの物質性だけを浮かびあがらせることだ。けれどもぼくは彼らのように力づよくない。だからこそ「すきま」――聯間空白の力を借りて、ズレやねじれを、他力本願的に実現したいのだった。
わかる、おもしろい
昨日、年間の詩集回顧記事を書いていて、喉から出かかったが書かなかったことがある。
「わかる/わからない」「おもしろい/おもしろくない」の別を軸に評価座標をつくれば、以下の四つの場合分けができる。①「わかって、おもしろい」、②「わからないけど、おもしろい」、③「わからなくて、おもしろくない」、④「わかるが、おもしろくない」。
とうぜん①が理想、④が次善だが、詩は②の領域を最も許容する表現ジャンルだ。批評意識は「わかる/わからない」の弁別ハードルをなるべく思考によって低くし、「わかる」ものを大量化するよう腐心せよ、という要請をうけているようにみえるが、実作的立場からいうと、「おもしろい」ものを大量化するよう感覚をひらくことが、まずは肝要だと気づかされる。こりかたまった自己など抹消するのだ。むろん③を連発するひとは、たとえ詩作環境にあると自負していても、詩への関与にたいしすでに失格宣言をうけていると覚悟すべきだ。
ところが以上の評価はやはり自己の存在を確固たる前提にしている。反照的に詩作そのものを捉えてみると、自己の存在を基軸にしている詩のおおむねが退屈だと気づく。たとえば詩の要諦が文学性ではなく物質性なのはむろんだが、文学的な詩こそ、自身に疑義がかけられていない多幸症を演じている。
手癖がそのまま詩になっているもの、教養がそのまま詩になっているもの、生活がそのまま詩になっているものは、自身を詩に転写する自己中心主義にとらわれていて、実際は自己を抹消するどころか更新さえしていない。
ということは、自己抹消していることですぐれたものになっている詩にたいし対称的な批評をなすためには、自身の感覚・思考そのものを抹消しなければならなくなる。ひとつひとつの語に、詩行の時間性の一瞬一瞬におどろくというのは、自己抹消によって白地になった自身に、詩の物質性を刻々とりこむことなのだ。ところが最終的に実現されなければならない批評的自己の抹消は、詩に向かいあうたびに危機を更新してゆく無限負荷にも転じることになる。
こうした対象没入の危険こそが詩の批評の特有性であって、そこで自己定位からはじめ世界認識を志向する哲学との離反線がひかれはじめる。換言すれば、哲学的な自己とは加算的な蓄積なのではないか。いっぽう詩的な自己とは抹消と生成を繰り返すだけの、羊皮紙上の「みえない奥行」なのではないか。
詩の危機の加速は、「わかる」範疇にいる者が、生活の疲弊によって、詩を読み飛ばすことが多くなった現状から出来している。とくにネット上、発表される詩は無残で、スクロールをかけられて「読んだふり」をされることが多い。たとえ作者が発表詩篇をワード上にペーストしてプリントアウトしてほしいと依頼しても、それを実現する手間を惜しむ享受者がほとんどだろう。
詩は、その書かれてある物質性によって、(読解)抵抗圧を微細にもつ。つまり詩篇自体の指示する読解速度にたいし従順になるよう感覚をやわらかくすることが、詩への最初の対面態度となる。消費的に読まれるものなど、詩ではない。
ところが読解速度を高速化するよう指示する詩篇もある。それは饒舌性と大量性がつながれた外見をしていて、これこそがネット上で最もスクロール消費されるものだろう。詩をみじかく書くのはネット発表上の防衛機制だが、みじかく書けず、発語のとまらない詩は、どこに発表されるべきなのか。詩集をとおしての発表が理想だろうが、それがかなわないなら、作者は同人誌をつくり、詩篇を読んでほしい人間に郵送するしかない。
ぼくはいま短い詩しか書かないのでネットを個人誌と同一視しているが、ネットと同人誌/個人誌がちがうと主張するひとはかならずいるだろう。そのひとたちは潜在的に②「わからないけど、おもしろい」詩を、長く書くひとたちだろうとおもう。救出が急務なのは、そのひとたちだ。
脱稿
「詩手帖」の年間詩集回顧記事に丸一日にかけて取り組み、いま脱稿。30枚上限のところ40枚ていどまで増えてしまったが、去年よりは増加幅が少ないので大丈夫では?と高を括っている。相変わらず傲岸不遜な執筆者だ(笑)。とりあえずデータはさっきメールした。
計18詩集を扱った。哲学詩集から若手の前衛詩集まで。幅のひろさが価値、みたいな内容かもしれない。結構、面倒で緻密な分析もしたつもりだが。
書いているそばから、今日も新詩集が送られてきた。とうぜん原稿中断して、すべて読む。疋田龍之介さんの詩集がギリギリセーフだった
立眠
【立眠】
みんなはすくなくなり、草に立つ。北界のさだめだろう、はなれながら離れがたく、身をならべる。からだの裏側がさみしく、まぶたみたいだ。それらをとじて、とおくからの見えを具象にする。雪が俟うかもしれない。いずれ立ちねむりにはいるこのひまを。
大橋政人・26個の風船
今年刊行されていて、読めずに気になっていた大橋政人さんの詩集『26個の風船』(榛名まほろば出版、2012年9月刊)をアマゾンで取り寄せた。おもったとおり、柿沼徹さんの『もんしろちょうの道順』に匹敵する「哲学」詩集だった。これまた今年の収穫のうち最大級といえる。
哲学詩とはなにか。まど・みちおの詩篇「りんご」を知るひとは何となくイメージできるだろう。世界の「本質」(事物/空間/時間など)が簡潔なことばでつかまれ、同時にそれが詩的修辞として豊穣な含有をしるしている、というものだ。考察を哲学論文で語ると多大な展開を必要とするはずなのに、この世のことばの法則にしたがって、簡明な詩の範囲に清潔に寸止めされているものといっていい。多くのひとはヴィトゲンシュタインの「かたりえぬもの」について意識していて、それで寸止めが生じているはずだが、「かたりえぬもの」と「詩」の関係は相補的というよりむしろ、相即的というか一如的なのだった(入不二くん、詩を書かないかなあ)。
ここでもまた出し惜しみをして具体的な引用をしないが、大橋政人『26個の風船』の構成は、「こちらに向かってくるものの尖端性はなにか」ということを実体験から考察した数篇と、「からだの各部位はそのまま自明的にその部位だろうか」と本質的な疑念を呈した数篇、その織り合わせからなる前半部から開始される。詩集ほぼ中央に、小学生でも読めるような語彙と展開で、しかもカタカナで書かれた、直截的な哲学詩があり、あとは動物の存在本質をその動物の本質をつうじてだけつかまえる最後尾あたりの「猫」詩数篇が、冒頭の見事な「ナマズ」詩とひびきあっている。構成的にも素晴らしく、いままで大橋さんの詩を詩集単位で接してこなかった自身の不明を恥じたのだった。ほかもなんとか手に入れなければ。
まど・みちおの「りんご」では「存在」と「場所」の合一が起きて、そこで唯一性や偶有性、さらには排中律についての思考が惹起される。いずれにせよ、「りんご」は彼の眼前に「見られている」。いっぽう哲学者の考察では、たとえば椅子や石などの例示が多いが、それらには体験的実在性よりも論理への導入項といった抽象性がたかまる。そこが哲学詩と哲学のちがいかもしれない。
むろん実際に「実在」していることが、たぶん詩的修辞を、展開体系の手前で寸止めさせる要因になる。なぜなら物や場や時は、いつもそれじたい「慎ましく」在ったりながれたりしていて、思考主体もそのなかに入るしかなく、哲学者のような思考の雄弁性を発揮できる「外部」には立とうとしないからだ。だからこそ、すぐれた哲学詩の詩作者は、「沈黙」の必然を説いたヴィトゲンシュタインの系譜へと参列してしまうのではないか。
ということで、哲学的考察が事物をつうじてひらくのが、まずは「場所」ということになる。その場所は詩作者の個人性を帯びていればいるほど、普遍となる。場所と哲学が完全にむすびつき遺漏がないのが、大橋さんや柿沼さんで、そこから今度は「場所詩」として川田絢音さん、松岡政則さん、齋藤恵美子さん、白井明大さん、清水あすかさんの詩業が展け、そこに想像性がさらに加わって、瀬崎祐さん、野村喜和夫さん、小川三郎さん、金子鉄夫さん、中村梨々さんの詩業が合流する、という大きな見取りが成立するのではないか。
もうひとつ、哲学オルタナティヴというべき傍流もあって、田中宏輔さん、高階杞一さんはここに入るだろう。むろん哲学はことばの自在性にメタ的な疑義をくわえる本質的思考でもあり、ここでは望月遊馬さん、白鳥央堂さん、大江麻衣さん、(そしてここにも金子鉄夫さん)のすばらしい詩業が振り返られなければならない。まあ、いまおもっている年間回顧の大枠はそんな感じかな。
詩と記憶ほか
【詩と記憶ほか】
ぼくは記憶力がわるい。蓮実重彦はその細部まで憶えきっていることが自分の幸福と、ある映画について書いたが、ならば「失念は次善のしあわせ」だろう(そんな詩句がこんど利用開始されるぼくのオンデマンド詩集にもある)。
このところ年間回顧記事をもとめられることが多いので、もう絶対に再読しないと決めた詩集以外は、年単位で眼にとまりやすい場所へ平積みにしておく。必要以外には付箋を入れず、記事執筆時期の再読、再々読のときようやく付箋を入れる(付箋を入れると以後の読みが確定してしまうのでそうするのだ)。おどろくのは、つい数か月前に読んだものでさえ、素晴らしい詩集は、おぼろげな記憶との合致、という印象が多少あっても初読時とおなじ興奮をあたえてくれる点だ。このとき自分の記憶力のわるさを、逆説的だが天恵とかんじる。
むろんことばの組成が尋常ではなく、韻律による器への盛りこみもないから、(自由)詩は憶えにくい。とうぜん短詩形よりも分量も多い。じつは静止している絵や写真がイメージに固定しやすい反面、生動しているものすべてが再結像させにくいのと事態は似ている。ましてや文法破壊のある詩はさらに不測性がつよく、記憶を内側から攪乱してゆく。
再見するたびごとにうごめきだすフレーズ、詩篇、詩集こそが、「生きている」といえ、たぶん詩読の悦びとは、こうしたことばの生に接することにつきる(現在、ぼくのオンデマンド詩集の表紙につきデザイナーとやりとりをしているのだが、文字だけの表紙でも、字組にそんな生動がありえないかとおもっている)。
詩篇を記憶しきることは容易ではないが可能だろう。以下の手順による。フレーズと構成に自分が惹かれる感覚を、まず記憶する。つぎにその表面上のすべてを、漢字・ひらがな、句読点、改行形態などまでふくめ、「図像的に」記憶する。そのつぎにその詩篇を暗誦し感銘を増幅できる自分を「音声的に」確認する(歌を憶えて唄うのにちかい)。この三段階だ。しかも自作を憶えるだけの再帰性なら生産性がない(朗読会で、テキストなしに自作詩を暗誦されても律儀とおもうだけ)。他人の詩を憶えることこそがひつようだ。
話をもどすと、ことばの生は、その詩作者の身体、それがどの場所にあったか、それがどんな時間をつむいだかと、「喩的」「抽象的」もしくは「断裂的」に――まとめていうと換喩的にむすばれている。どんなに実験精神、媒体更新性が旺盛でも、生からはなれた発語など、すぐ見抜かれる。
佐藤雄一は倉田比羽子の(とくに『世界の優しい無関心』以後の)詩作の特性を、読むそばから直前が忘却されてゆく抽象性が、身体性とも直結している点だと(約言すれば)つづった。「羊皮紙」性ということばをもちいてもいいかもしれない。詩の基底材そのものが書き換えの感触で奥行から加算されてくる。現在の徹底的な現在化(過去形をもちいたら駄目、とかそういう問題ではない――眼にとめた一語がフレーズのなかで生きなおすように現れてくることが重要だ)。つまり詩性の規定は、喩や音韻や身体性などいろいろに要因化できるが、基底そのものへの作動、それによる自体のふるえ、ということでもあるだろう。
興味から脱落する詩集は、その意味では再読のための手を伸ばしにくい詩集という以上に、ことばの基底材が硬直するだけと感じられるものだ。どういうか、生硬な造語をつかうなら、「世界揺動性」がない。ゆれないから、想起や哲学的物象把握にまで関与をもたらさない。そういう不幸な詩集は以下のタイプに大別される。1)退屈、驚愕付与性なし。2)自己パターン化による逼塞の不幸がある。3)単純に厳めしく、恫喝的。これにかかわって共約的な断言もつむぎだせる。「ゆれるには、同定不能な隙間がいる」。これは物理学的見解ではないだろうか。
今年の良い詩集は、テーマのもとに一括できるものと、とうぜんながらその範疇に入れられないものがある。十月の刊行ラッシュ、まだ詩集が手許に舞い込むだろうが、「例外」をつないでくれる「中間的な」詩集こそを待ち望んでいる。これは自分の原稿の統一性のためでない。そのような詩集の存在こそが、詩の全体をひとつのつながりにまで有機化するとおもうからだ。「孤高の詩集」なんて滑稽でもある。
汽水
【汽水】
ふかまる秋、この顕微鏡下には菱があるが、わたしはひしがたを変える。てばやくフライにされた厚岸の牡蠣も、くちへおさまってゆく。海のものというべき性臭で、父たらざるこころの菱がしぜん毀れる。口腔になんの境だろう。すこしずつ汽水へとにじんでゆく。
大江麻衣・にせもの
(承前)
詩集を再読し、初読時と大幅に印象が異なったのが、高橋源一郎が肩入れして話題になった大江麻衣の『にせもの』。この詩集は紫陽社刊行だから、荒川洋治も彼女に肩入れしたことになる。
最初に接したときは、悪達者ゆえの、おもたい澱がのこるなあ、という否定的な感慨だった。ところが読み直すともう免疫ができていて、発想の新しさ、面白さのひとつひとつに驚きつづけることになった。構文と構文の隙間に脱論理性があり、それが発語の勢いで踏破されてゆく、という分析は変わらないが、問題はその隙間に曰くいいがたい、論理性への接近が感じられる、ということだ。真実が「語りえない」から、そこが「語りえないまま」哲学的にねじれている、と換言してもいい。そういう精神性が保証されたうえで、詩篇ひとつひとつが奇抜な発想、奇抜な出だしで開始され、これまたそれぞれが奇抜に終わる。
荒川洋治がサポートしたからいうわけではないが、ねじれには荒川的なものもあって、女性による創作なのは明らかなのに、「同時に」これが女性によって書かれたのか、という驚きもさらに生じる。そのうち最も非・女性的なものとは、投げ捨てみたいな潔さが、ニヒリズムとは無関連に前面化される点だろう。癖の質が良い。いずれにせよ、修辞、(性的)アイデンティティなど、それぞれには驚異が仕掛けられている。だからというべきか、修辞についての修辞詩、といったメタ詩も多い。今年、最も「前衛的な」詩集は望月遊馬の『焼け跡』だとおもっていたのだが、大江麻衣はちがう角度からじつはそこに迫っている。
う~ん、これは初読で読み誤ったなあ。今朝、学校に忘れ物を取りにゆく行きの市電で読んだのだが、詩篇単位で入れた付箋の数は最も多いかもしれない。ちなみに入れたのは、「うつし絵」「あたらしい恋」「追いつめたい」「泥のなかのひと」「勘違いの畑」「いけない」「大入道の首」「鳴門」。ただし「泥のなかのひと」などは「不全」や「言い足りなさ」や「ズレ」の戦略から離れ、単純な十全さが少ない字数のなかにしるされている。
キャンパスその他
北大のキャンパスがバカっ広いのは知られているだろう。南北でみれば地下鉄三駅ぶんに拡がっている。原生林(実際は植生研究のため計画的に樹木が植えられている)のなかにポツポツと、ときに用途不明の建物まで点在し、なかを幹線が縫い、そこを一般人や観光客が散歩していたりもする。
ぼくの木曜三講は全学部生に向けた講義で、研究室のある文学部棟からおもいっきり遠い。あるくと12分くらい。さすがに利便のため教師・事務員・学生向け学内巡回バスも走っているが、これが15分間隔の「間遠便」。学生など多くの者はしたがって自転車で移動する。路上は移動ばかりだ。けれど、雪がはじまったらどうするのだろう?
昨日はしかし陽射しが温順で、紅葉黄葉も鮮やかに色づきはじめたので、日ごろの運動不足解消をかねて、眼の保養かたがた三講の教室までをあるいた。そういう基本にかえれば、単純に北大のキャンパスは、夢のようにきれいだとおもう。聞けば、桜の開花がそうであるように、北海道の紅葉黄葉も短期間で終わるという。そういえば昨日も色づきが充分でないままなのに、もう葉が舞い落ちはじめていた。さみしい感じがする。
札幌の天気は高地のように急激に変わる。三講終了後、つまりたった一時間半のちに教室から出ると、暖かだった空気が冷え込み、空も暗転、もう小雨が降りだしていた。一時間半まえの気候では、傘の必要をだれもおもわないだろう。もしかすると冬到来前のこの季節は、傘を常備していなければならないのかもしれない。
今年出た詩集の年間回顧を依頼され、〆切が迫ってきているので、読書は当面、それらの再読になる。ぼくはもともとムラッ気なので、初読で作品を把握しそこなう危険がある。というか、もともと詩集は、「ふつうではないことば」で書かれているので、一読のみで、ハイ、おしまい、というわけにはゆかない。読みそのものが日中時間や季節、読解速度の差にしたがってどう変貌するか、それ自体を教示されることが、良い詩集の価値なのだとおもう。
このところ短篇散文詩というかたちで連作してきた自分の詩作は、いま詩集単位でかんがえる段階になって、これからは書いたものの削除、訂正など「編集」の時期に入ったと自覚している。したがって新たな詩作を慎むべきなのだが、上の要請で詩集を再読すると刺激されて、また詩作が「起こってしまう」かもしれない。舞い落ちる葉のような拡散。自分を運営するのも計画どおりにはゆかない。
10月期新ドラマ
10月期新ドラマというのは、若手脚本家の冒険的な起用を控え、年間視聴率上昇狙いで手堅く攻める、というふうに各局相場が決まっている。企画の練り上げ・熟成期間も、他期に較べ長いような気がする。ところが今クールはその「基本」のうえに、実験的起用もあって、これがまた好結果。それでリタイア番組を決めてゆく作業のなかで、最終的に六本ものドラマがのこってしまった(ほかにドキュドラマ『孤独のグルメ』もある)。結構忙しいのに、ドラマを見るのに時間が費やされることになる。けっして札幌にいて、東京の風を浴びたいがゆえの選択なのではない。出来そのものが良いのだ。以下、ご参考のためその六本を寸評。
『高校入試』=教職経験をもとに「学校小説」を派手に発表している湊かなえを実験的に脚本家に起用(原作のクレジットも彼女)。演出は星護だが、バズビー・バークレー的な幾何学美・運動美をめざす、バロックないつもの星演出は禁欲されている(つまり、どちらかというと彼の『僕の生きる道』のような演出)。長澤まさみ以外はノンスター・キャスティング。それがかえってリアル。高校ドラマを「入試」に特化して、この後、話がもつのかというサスペンスまである。教室の撮り方は学校空間の物質性をじかに捉える。奇矯な撮影角度がつかわれず、静謐にみちた緊張が長くつづく。黒沢清『贖罪』第二話で何が起こっていたのかを原作の湊が検証してこのドラマの脚本を書き、その意図が星につたわっているのにちがいない。今期、最大のカルトドラマになるような気がする(それで以前のテレ東系『鈴木先生』を想起する)。
『ゴーイング・マイ・ホーム』=是枝裕和を脚本・監督・編集に起用した。スタッフィング構成も映画的だが、余白が決まっている構図を是枝の編集リズムで着実に連続させてくるから眼が離せない。是枝の映画従前作、とりわけ『歩いても 歩いても』『奇跡』と連続性があり、同時にテレビマンユニオンっぽい。「空気読めない」「気弱な自信家」「ダサい」「トロい」といった複雑な役柄を阿部寛が巧みに演じている。背丈が活かされているのだ。妻役、ひさしぶりのドラマ出演の山口智子はやっぱり躯つきがエロい。そのふたりの娘(子役)の多元的な表情がドラマの鍵。コロボックルのような小さ神の可視性/不可視性が今後のポイントになるのだろうが、先が読めない。宮崎あおいがうつくしく撮られている。
『ドクターX』=テレ朝の定番、米倉涼子主演のハードボイルドなエンタテインメント・ドラマで、今度の彼女は、医師界の流れ板前ともいえる契約医師(むろんブラックジャックのような超人的技量をもつ)。中園ミホの脚本はとうぜん緩急が軽快で、病院に配された医師などのキャストも次々に個別化してゆく。米倉の超人的な手術が披露されるなかで「白い塔」の討伐も付帯されてゆくはずだが、「含み」のある伊東四朗、岸部一徳の活躍が今後、期待される。
『悪夢ちゃん』=日テレ系土9はこのところご無沙汰だったが、北川景子主演で、みられた「夢」の超常能力(それは画像に転写される)によって諸事件を解決してゆく子供向けSF(第一回を見逃したので精確には書けない)。北川は小学校教師役なので、舞台の半分が学校になる。性格のゆがんだ保健教師役に優香が起用されているのも面白い。特筆すべきはCGをつかった特撮。流麗で発想力もあって、ドラマのテンポを乱さない。そういう摩訶不思議な空間に、GACKTの妖しさが合う。原案=恩田陸、脚本=大森寿美男。やっぱり大森、という感慨だ。
[※女房の話では『悪夢ちゃん』は、小日向文世の娘(北川景子の生徒)がいて、彼女が悪夢をみると、そのとおりに現実事件が起きようとし、それを北川景子が解決するのがドラマの基本だという。ところが夢と現実にズレが生じてゆくのが知的に面白いのだとか。それと北川にはアンチヒロイン的に二重人格の負荷があたえられて、学校秘密サイトでそれが暴露されている別の伏線も張られているらしい。これらは第一回をみなければわからない設定だった]
『PRICELESS』=月9はこのところ方針がバラバラで、もう「月9=覇者」の時代は終わった、と散々酷評されてきた。「業界」を舞台にバブリィな恋愛模様を人物複数配置で描く、というのが昔はこの枠の基本だったが、その基本を思いっきり崩した。一社員のキムタクが若社長・藤木直人の陰謀で、機密漏洩の汚名を着せられて馘首され、みるみるうちにホームレスになってしまう。『獅子座』をおもいだした。枠イメージの大手術をしたのは脚本・古屋和尚。それに鈴木雅之演出特有の軽快なテンポが相俟う。今後はキムタクの元・上司中井貴一と同社経理の香里奈を味方にしたがえ、反抗のはじまる気色だが、勤め人生活の虚妄がえぐられ、代わりに無給生活の楽園性が謳われるのなら継続視聴するつもり。というのも、中井、升毅以外、あまり好きな俳優が出ていないので。
『遅咲きのヒマワリ』=それぞれ別のかたちで東京を放逐された契約社員・生田斗真と医者・真木よう子が、高知県中村(四万十)で出会い、地域再振興と住人同士の絆に目覚める、といった大枠で捉えられがちだろうが、一筋縄ではゆかない悪意のズレも配備されている。そう捉えて視聴を決意した。真木はいま最も好きな女優かもしれない。颯爽、というよりも、国仲涼子の、学業優秀だが暗い「妹」というバイアスが役柄にかけられていて、新境地も期待される。主要人物が順繰りに主題歌を唄ってゆくタイトルロールにウルウルきた。脚本は『僕の生きる道』などの橋部敦子。現状の逼塞を主人公が倫理的に打開するドラマが得手、というひとだが、今回は岡田恵和的な集団性が仕組まれてもいる。その集団性と四万十川の景観との配合が、きっと全体のクライマックスとなるのだろうなあ。気になるのは生田くんのルックスが老けた点。桐谷健太がいつもどおり可愛い。
齋藤恵美子・集光点2+電気
昨日、齋藤恵美子さんの詩集、『集光点』を早読みして短文を書いたのだが、おもいっきり誤読した(と今朝、落ち着いて詩集を再読してわかった)。詩集開始をかざる数々の詩篇に、ブラジルの港などの題材があるとおもったのだが、すべて横浜港が舞台だった。詩集前半は世界の海岸線を線形化する、としたぼくの読みは浅はかだった。
誤読には理由もある。場所の場所性に迷彩がほどこされ、渡来人がえがかれ、その文化圏のことばがカタカナ表記されているからだ。それらが地にたいしての図のように噴出している。つまりもともと日本/海外の弁別を曖昧する書法がとられていた、ということでもある。
このことは二元性をもつ。海をわたってきた渡来者のかもすディアスボラの非運と不屈は、それをしるす詩作者の「国内にいながらのディアスボラ」の自己意識を鏡のようにも映すのだ。こうして彼我の対比が錯綜し、そこでこそじつは「集光」が起こる。詩集タイトルとなった「集光点」は、詩篇「D突堤」の一箇所の語彙として登場する。
眠たい脚を、ようやく、居間まで引き摺って、立たせた途端
鏡の中の、青い
面積が崩れ落ち
わたくしという立場だけが、ぼんやりと残っている
集光点
外気を送り、光源のように、指を
曖昧な風に立て
それにしても、女性性とは次元の異なる力づよい書法が連続し、リズムが切断をしるすなかで、忘れられないフレーズの紛れ込むタイミングが、昨日書いたように魅惑的だ。そんなフレーズのひとつに、詩篇「屋台料理」中の《時間のなかに在る者が どうして亡き者と出会えよう》もあった。「時間と死」「空間と死」について、本質的にどのようにひとが把握しなければならないのか、その解答がここにある。
そういえば倉田比羽子さんの『現代詩文庫・倉田比羽子詩集』中の「散文」には、亡き父親に宛てた「幻の手紙」という胸を打つ文章が収録されていて、そこで吉岡実のかつてのフレーズがリマインドされた。字下げを割愛して引用しておく。《(人間が死なずにすむ/空間はないのか)》。生死の絶対の差異がここでも詩的修辞へ昇華されていた。
それやこれやにインスパイアされてつくった詩篇も下に貼っておきます。
【電気】
阿部嘉昭
あぐらを自分にゆるすことで、自前だけの座をつくる。前後左右はないが、手をささげ空気を撫でれば、おんなのくびれが、なきままに帯電してくる。身ひとつ分の電気ということだ。もった記憶も臨終で消えるのだから、ひとりの死を死ぬことが、ひとにはできない。これもまた電気に似て。
齋藤恵美子・集光点
札幌在なので詩作者から一斉に詩集等が恵投されれば、おおむね関東在のかたがたより一日遅れでポストにとどく。きょうは齋藤恵美子さんの新詩集『集光点』を恵まれた。「詩手帖」年鑑号に年間詩集回顧をもとめられているので、卑怯だが出し惜しみをして、走り読みした最初の感想のみ簡単にしるしておく。
全体構成をいうと、世界の「海岸」(それはいつも海岸なのだ)を移動し、そこに佇む詩篇が前半、連続する。詩集空間に恣意的なほど多様な空間がもちこまれ、同語反復的になるが、世界性という空間の穴がそこに穿たれるのだが、穴だからそれはひらいている。いや、それはもはやあらゆる差異をのんでゆく「海岸線」という「ひとつの道」というべきかもしれない。結局ひらいたものがむすびあって、詩集タイトルにある「集光点」が形成されてゆく眩暈が生じる。それらすべての場所は実地体験なのだろうか。
やがて海岸の地勢縛りがとかれ、作者の日常閉域が出現しはじめると、それまで水平軸に延長されていた空間が、垂直軸をさまざま織りなす時間にとってかわられ(微細さがそこで増大する)、たとえ場所が日本であっても、べつの属性の世界性がやはり分泌されてくる。その単純な証左として、詩集全体にカタカナ語が頻出しているのだ。
齋藤さんの詩は難解だろうか。ひとついえるのは、読点や一字アキによって、さらには改行詩のばあいには一行音数の不揃いや改行瞬間の異質によって、リズムの平滑さが峻拒され、速読をみずから阻むかたむきがあって、リズム的に難解な印象をうけるということだろう。再読時のために初回はあえて走り読みしたが(構造的な読みは、よってしていない)、リズムの隙間をうめる、やわらかい音の粘性がない点が、女性の書く詩として異質といえるかもしれない。
齋藤さんの詩集については、ぼくは『ラジオと背中』を読んでいるが、こういう感覚が齋藤さんに以前からあったのかは確かめてみないといけない。久谷雉くんが書いていたように、従前とは「ちがう」――未読だが、もしかすると詩集ごとにちがう――のではないだろうか。端倪すべからざる詩作者だ。
ハッとさせるフレーズがたとえば風景を語るなかに予測不能に織り込まれるタイミングも、魅惑的だ。ことばづかいの難解さではない、これもまたリズムの難解さなのだ。どのように世界がみられているのだろうか。
ぼくはじつは詩集を直観的に値踏みするとき、(これまで秘密だったが)冒頭第一篇の終わりに着目することが多い。そこが良ければ全体も良い、という経験則があるのだ。正解率のたかい判断基準。齋藤さんの冒頭第一篇「居留地」の最終聯もむろん素晴らしい。書きとめておく――。
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名前も ひとつの郷愁だから 知らない抑揚を舌にのせ
沖待ちの船を数えて
信号塔から 岸へ戻り
遠い夏の 艀で積み荷を 陸揚げする人足たちの
姿と汗を思いながら 感じながら
風に立つと
荷さばき場の一角から まぼろしのような声が上がり
未来が 過去と
相殺されて
現在だけの路上になる
百舌
【百舌】
からだのなかに枯れ枝が一本のこっている。百舌の止まり木で、まねる百舌のためさらに真似ているのだ。斬りえないことを斬る百舌の翔びも模倣だろう。かれは舌の百でくちばしがみえない。巣そのものも鳥の餌にならない。うつつをよぎる異類の、焔のかたちが近づく。
悪魔を憐れむ歌ほか
木曜の全学講義「ロック・ジャイアンツを聴く=悪魔主義ストーンズ」の配布プリントをつくろうとして、「悪魔を憐れむ歌」と「ギミー・シェルター」をチェックしたら、やっぱり日本版CD所載の歌詞対訳がヌルい。大丈夫か、とおもってたんだけど、センスわるすぎ。仕方なく、また自分で訳出した。以下に貼っておきます。
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【悪魔を憐れむ歌】
自己紹介の手間をゆるされたい
吾輩は富と良き趣味をもつ者
幾世にわたり ながらへて
ものどもの魂と分別まで盗んできたのぢや
イエス・キリストくんが神を疑ひ苦悶にあつたをりも
吾輩はみやる群衆のなかに居つた
総督ピラトが手を洗つたのちイエスのいのちに封をするのさへ
忌々しくも確信できてをつたのぢや
*汝らに会へて嬉しいぞ むろん我が名を存じをらう
なに当惑するに及ばぬ これが吾輩の遊戯の常
あるときは聖ペテルスブルグに投宿してをつた
時しもあれ〔ロシア〕革命の渦中であつた
吾輩も加勢に炎え ツァーと陪臣どもを弑殺
アナタスシア妃など命乞ひする哀れだつたがこれも消した
吾輩は戦車も駆つた もう階級は将軍職
電撃戦は激しさに烈しさを加へ 辺りまた死屍累々ぢや
*
汝らの愚かな王らと王妃らが百年ものあひだ相食むのも
吾輩は歓喜の声あげて観察、
つひには喚びあげたのぢや「誰がケネディを殺した?」
つまるところ、それはむろん吾輩と汝ら
自己紹介の手間をゆるされたい
吾輩は富と良き趣味をもつ者
吟遊詩人に罠を仕掛けるのも好きで
奴らこそボンベイに辿りつくまへに廃絶せねばならん
*
*
警官すなはち犯罪者であるの伝なら なべて罪びとも聖者
アタマこそ尻尾なのぢや
さやう吾輩を「大魔王」の尊称抜き、ルシフェルと呼んで構はん
謙譲精神こそ大切だからな
むろん吾輩に会ふときには礼節を忘れずにな
くはへて幾許かの同情と分別も。
最大の衷心もて吾輩には臨め
さもなくば おまへらの魂なんぞ破滅させるまでよ
*
さあ吾輩の名をいつてみな
どう思ふかを
さあ言ひやがれ
いちど教へただらう
わるいのはおまへらさ
さあ吾輩の名をいつてみな
【ギミー・シェルター】
嵐がおれの生活の眼の前で脅威化しだした
隠れ場所を探さなきゃ
おれなんざ、消し飛んでしまう
子どもたちよ 「戦争」が眼前に近づいてきている
いまにも勃発しそうだ いまにも
燎原の火がまさにこの街路を押し寄せて
真紅の絨毯となり 石炭のように熾る
牛が脅え狂い逃げ場を失くす
子供たちよ 「戦争」が指呼のあいだだ
いまにも勃発しそうだ いまにも
*「強姦」「弑殺」、それらは目前だ
眼の前に押し寄せている
*
*
洪水がおれの生活の眼の前で脅威化しだした
隠れ場所を探さなきゃ
おれなんざ、溺れながされてしまう
子供たちよ、「戦争」が眼前だ
眼の前だ いまだ ほんのさきの 今だ
勃発する 勃発
…大好きだよおまえ、キスだってほんの眼の前だ
くちびると唇とが わずかな隙間で 勃発を待つ
藪豆
【藪豆】
とおってきた道のふえずにすむ散策はないものか。界面くずれが行く手にひつようだ。かげっていると、おおきな奥行幅で豆どもの花影がゆれはじめる。前のめりの眼を泣かせる、かぞえられない移り。しかり段はある、あらゆる連続に。
ロック的統覚
【ロック的統覚】
ロックという思考と身体の媒質的連続性が60年代後半、一挙に爆発的に開花し、十年も経たないうちに収束したのはなぜかをよくかんがえる。圧倒的な集中性と展開力がしるしづけられたのだ。
先行者はいる――ビートルズとディランだろう。ビートルズでは全円性のなかに脱力とテンションで陥没と歪みをつくったジョン・レノンの存在が大きいのではないか。一方のディランはその並列列挙の詩法で空間に速度をつくりあげつつ、自序の方法にレノンと匹敵する「分裂」をもちこんだ点が特記される。結果、このふたつの要素が化合され、ロックは媒質的な自動性に駆りたてられたとまずはいうべきだろう。むろんここにヘロイン、LSDといった「媒介」、ブライアン・エプスタインやジョン・ハモンドといった音楽ビジネスの「延焼者」の存在も関わってゆく。
こう捉えると、ストーンズの影響が小さかったように錯視されてしまう、マイナー存在だからと。それでもニール・ヤングはバッファロー・スプリングフィールド時代の「ミスター・ソウル」で内向的・断絶的なストーンズを、フランク・ザッパは『フリーク・アウト!』でのいくつかの曲で、あきらかに曲のモデルをストーンズ、とりわけ「サティスファクション」に置いていた。ギターリフの前置によって、ロック的焦燥をコンパクトに展開しきるという形式がそれだ。
ところが「サティスファクション」はのちオーティス・レディングがカヴァーして明らかになるように、ジェームス・ブラウン的なソウル唱法の「叩きつけ」とリフの融合という独自の境地を単独に達成していて、ストーンズ内でもいくつかの例外を除いてしか継承されてゆかない。ましてやそれはハードロックの祖形でもない。その栄光はどちらかというと3コードを「転調」配分して、リフをフレット上のコードのズラシに変えたキンクス「ユー・リアリー・ガット・ミー」のほうに帰せられてしまう。
そのなかでストーンズが鉱脈をみいだした悪魔主義は、ロックの影響力行使という点で自己内在的な問題系をつくりあげた。際限のない自己速度化によってやがて自己拡散にまで移行してしまう恐怖。これは「風俗的には」ヘビーメタルにまで飛び火してゆくが、ストーンズは傑作アルバム『メイン・ストリートのならず者』の時点で自らにブレーキをかける。悪魔主義がたとえばロバート・ジョンソンのブルース、その自己分裂性に先験的に内在されていたものなら、ブルースの「淫猥」に自己回帰する必然性もある。ロックという媒質のスピード低下を乗り切るのは、そういう意味でのルーツ化ではなかったか。
ここで見事な同調を、予感的なレベルもふくめ見せたのがリトル・フィートだった。ただしストーンズとフィートはリズム形式がちがう。キース・リチャードが芯になって速度増加を均質性によって歯止めする、ストーンズの前進いがいに錯聴性のないグルーヴにたいし、リズム隊のシンコペーションによってアタックの後ろに音の残影を散らしてゆくフィートのファンキーさが一瞬、ストーンズを凌駕した。それでストーンズの相対的な重要性がここでも低下したという個人的な感触がある。むろんそれは嫌いになったということではない。逆にファンキーを旗印にしたフィートはリズムの複雑な分散によって、ローウェル・ジョージを中心にしていたバンドそのものの中心性を崩壊させる悲劇にいたった。
強調すべきは、ロック・ジャンルを先行的にプログラミングしたのは、ビートルズとディランの二者ではなく、そこにストーンズを加えた三者だったのではないか、ということだ。あるいはジミ・ヘンドリックスを加えた四者だったのではないか(おもわずドアーズもこれに加えたくなるが)。二者なら影響/被影響を基体に据え、弁証法で展開が解けるが(それは線分から面積への設問になる)、三者以上なら錯綜、同時多発による複雑性の進展範囲(容積とねじれの問題)を吟味せざるをえなくなる。つまり瞬間・瞬間に勃発してくるものを、自分自身を「聴く」ように相互に聴く、ロックという媒質そのものの「主体性」を仮構せざるをえなくなり、それで通常、媒質にあてがわれるものとは異なったもの――たとえば動物性や人間性、有頭性や身体秩序(オルガン)といったものまで想定せざるをえなくなるのだ。
そのようにロック全体が速度を展開するひとつの「身体」だったとして、四分五裂しようとするその四肢を、血の噴出に導かれるべき血脈を、何が統一性のままにとどめていたのだろうか。ひとつは反体制的な思考、ひとつはドラッグ蔓延による意味的な平準性だろう。これらをさらにひとつに融合するとこうなる――「身体の分裂によって」身体を統一する逆説、その力動が60年代後半のロックのもった唯一の栄光だったのだ。むろんそれは力動だから永久機関に関われぬかぎり力が低下する。
ではそのロックの力動は何によってもたらされたのか。コミュニケーション論にもとづけば原理的には解答が容易だ。繰り返しになるが、「自身を聴くように相互を聴く聴覚」、しかも「速度の限界を超えた聴覚」によってであるにすぎない。これがジャンルの統一性を形成し、最終的には収斂を導く全体有頭性までを導いた。これは歴史上奇蹟的なことだ。たとえば「現代詩」では「自身を聴くように相互を聴く聴覚」「速度の限界を超えた聴覚」、その結果としての「統覚のジャンル内収斂」など、ディスコミュニケーションによって望むべくもない。ほとんどだれも他人の音を本気で聴いていないようにさえ見えるのだ。
ワイルド・ホーシスほか
木曜のロック講義のためさらに三曲を訳出。基本中の基本で恥しいが、これも下にペーストしておきます。
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【サティスファクション】
*不満だらけだ、あきたらねえ
欲求不満からのがれようと
なんども何度もオナってみたが
からだの不足がおさまらない
クルマをながしカーラジオをつければ
くどくどとDJが意味なし喋りをつづけ
おれの想像力を黒焦げにしちまう
ヘイヘイ、言いたいことはそれだけ
*
TVをつけりゃ胡散くさい野郎が現れ
自分のシャツの漂白法をとくとくと喋る
けど奴は(服をしろく保つため)煙草を吸わないんだろ
おれのような安煙草をさ
ヘイヘイ、言いたいことはそれだけ
*
そこらをぶらついて
これをしちゃ、あれにため息ついて
おんなをひっかけてはみたものの、いわれてしまう
「おととい来やがれ」って
おれが連敗組にみえたんだろうな
ヘイヘイ、言いたいことはそれだけ
あきたらねえ、みちたりねえ、
欲求不満で、はちきれそうさ
【黒くぬれ】
赤い扉をみればイラついて、黒く塗りかためたくなる
ほかの色なら無駄だ、真っ黒にしたいだけ
*夏の薄着で着飾った女の子たちが驕慢に通りすぎる
途端そのままじゃヤバいほどアタマのなかが真っ暗になる
クルマが渋滞してればイラついて、黒く塗りつぶしたくなる
花で飾るとか愛でかがやかすとか、もうできないんだ
おれのヘンな気配に気づき奴らは振り返り、サッと値踏みする
それで産まれたばかりの赤ん坊をみたように驚くんだ、毎日のこと
自分の内面をのぞきこめば、心が漆黒とわかる
赤い扉をみれば、ともかく黒く塗りかためなきゃならない
たぶんおれが消滅したあとでようやく気づく
おまえらの世界を真っ黒にしたと誇るのも簡単ではないと
もはやおれの緑の海すら昏い紺となる
おまえにもこんな感覚異変が生じるのかは予断できない
*
おまえたちの顔をみれば真っ黒に塗りたくなる、
夜みたいに石炭みたいに、かぐろく
太陽なんかみたくない、太陽の向こうまで高く消えたいんだ
くろく黒く黒く塗りつぶされた絶望だけみたいのさ
【ワイルド・ホーシズ(荒馬の群れ)】
子どものころは日々生きるのが、たやすかった
ほしいとおまえがいえば買えるものばかりだった
ぶしつけなご婦人はそんなおれの正体を知っていて
彼女を手放せないおれのよわみも見越していた
荒野を奔る馬たち、できればおれをどこかへ連れ去ってくれ
できればおれをどこかへ、荒馬たち
おまえがにぶく疼きつづける痛みにあえぐのをみた
それはみんなにあるものだとおれにしめした
人払いもいない、舞台がはねたあとのひと波には
だからつらくなり、おまえに当たってしまう
荒野を奔る馬たち、できればおれをどこかへ連れ去ってくれ
できればおれをどこかへ、荒馬たち
おまえを夢みつづけたことの罪と虚偽
やっとその束縛を解いたが、もう残り時間もわずか
信義がくずれ涙を禁じえない
死後にしか生き生きと暮らせないのらそうしよう
荒野を奔る馬たち、できればおれをどこかへ連れ去ってくれ
いつかおれたちは通り過ぎるだけの荒馬を、駆ってみたいのだ
メイン・ストリートのならず者
北大二学期の全学講義「60~70年代のロック・ジャイアンツを聴く」は、「ビートルズ内のサイケデリック・レノン」「ビートルズ解散前後のシンプル・レノン」「60年代の変貌ディラン」とこれまで講じてきて、来週は「悪魔主義ストーンズ」をやろうとおもっている。ぼくはじつはストーンズでは『メイン・ストリートのならず者』が聴いていていちばんキモチいいが、このアルバムはたぶん悪魔主義ストーンズの終息と、淫猥不良主義ストーンズの開始を同時に告げるものだ。それで、つかわないかもしれないが、授業準備のため、内から好きな三曲を試訳してみた(「ダイスをころがせ」は以前に訳してある)。以下にペーストしておきます。
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【スウィート・ヴァージニア】
荒れた嵐の冬をわたっても
おまえには頼るべき友が一人とてない
眼だまの裏の波打ちを抑えようとしてさえ
そこから赤や緑、青の涙があふれやまない
ワインを振舞ったカリフォルニアに謝意を
あまく苦いくだものにも感謝を。
そうだつま先の爪に砂が入った感触
靴のなかにヤクをしのばせていたのさ
*こっちにおいでよ、スウィート・ヴァージニア
うずうずしてる、おねがいだ
こっちにおいで、自分でやれるよ
ふんづけたクソを靴からぬぐいとれる
*
【レット・イット・ルース】
おまえの腕にもたれている女はだれだい
えらくめかしこんで、おまえをモノにしようとしている
おれだってその女の色気にはケツがモゾモゾする
たった一、二か月でおまえはボロボロだろう
噛もうとするには酸っぱい腐臭
食えば下痢するとわかってた
それでも食っちまったんだ
それがベッドルームのブルース
こっちの望むときに、その女はくれる
抵抗できない、お決まりの言い方だが。
ゾクゾクするものをくれて拒めないんだ
それがベッドルーム・ブルース
バーで酔っ払うおまえ
おれは愛じゃない、ツキに見放されてるんだ
電源をぶっ叩いて、灯りを切って
今夜もされるがままになるだけ
友だちなら、おれがヘンになってるとおもうかも
付き合いきれないとおもうかも
でも今夜もされるがままになるだけ
涙をみせる気などまるでない
ゆるゆると、くずれるがままになるだけ
【ライトを照らせ】
1009号室の床に、大の字になったおまえを見た
わらっていた、でも涙をながしてもいた
おまえの心がわからなかったんだ、恋人よ
ベルベルの宝石をジャラジャラいわせ闊歩しても
であうたび女どもに血走った眼を向け
気分が落ち込んでゆくようにみえた、おまえは
*よき神がおまえに光をそそがんことを
おまえの唄う歌がおまえの益とならんことを
よき神がおまえを照らし
その夕光もておまえが暖まらんことを
おまえが陋巷に泥酔し 服も裂け
夜の仲間もみな去って、寒い灰色の朝にのこされたとき
蠅がおまえにたかり、はらうのもままならない
天使たちがちょうどそのとき翼を搏って
笑みをうかべ、眼からひかりをはなち、舞い降りる
その光景のなかのおまえにため息をついたんだ
そうだ天使よ降りよ、さらに降臨せよ
*
空の質問
【空の質問】
いずれ眼がみえなくなれば、空の一羽が千羽となる。数を殖やすことは盲目の一身からの、もえるような放射なのだ。光景のこわさ。みあげるときはそれが音から描かれたものなのかを問わなければならない。どこかに殖やした誰かがいる。ただしそのひとを問わない。
年時計
【年時計】
日に日にひと目盛りずつ刻む年時計の円を、壁へつけようとして気づいたのだが、それは裏からみると、ふらここのうごきをしている。永久往復があるのみでも心臓の星がながれるらしい。ならば往き来がひたすら進行にみえるこの法則こそ、全員をなでつづけ、髪がのびる。
無個
【無個】
二角形とはおもみにひしゃげ線分となった元・三角形のことだ。白風にねむたい笑いじわをつくる水にみようとするのは、角度ゼロ(それも無限個)のつながらない錯綜で、音楽はそのようにあふれてくる。その無限個から限をぬき無個とするのが、なにかをさがしてはしくじる耳だろう。
こする
【こする】
聴くことは女だ、鼓膜のふるえが内へひびきわたるのだから。もともと女しか地上にいなかったのなら、聴くことはわたしを消す、とおくへの回帰ともいえる。聴かせてくれと頼みつつ、ふかまる秋をとおりわたってゆく。枯れたものがみずからをこする悲鳴が耳を貫く。
鏡
【鏡】
鏡は算えることの罠だが、畳に置くと数からきえる湖にもなる。しずかに天井を吸っているんだ。吸うことは炎上だから、そこでは吸湿とほのおの見分けすらなくなる。なにごとも残韻の位置にあるものは、それじたいの場所ではなく、だから数とはきえてゆくものの鏡なのだ。
葡萄のしるす影について
【葡萄のしるす影について】
葡萄アタマの酒水くんと、今日までをまだらにする木漏れ日をうける。濾過あるかぎり、さだまらないものがまわっているんだ。中空の格子へ腕をのばし、てのひらにおもさを容れる。葡萄の縁に上乗せされたものと指がふれる。きみの色はそこにもまわっている。
田中宏輔・The Wasteless Land.Ⅶ
田中宏輔は詩篇生成に驚愕をあたえる数々の発明的技法をもっている。「会話詩」「数式導入(数学的記述)」「(同性)性愛抒情詩(あるいは自序詩)」「序数詩(行数そのものを主題とした詩)」「主題別の短詩集成」……いずれも地名導入や植物描写などで具体性に富む。だから思弁的であっても、一部の現代詩のように可読困難性に向けて抽象化したりしないし、専門領域をトッコにした自己模倣化もしない。模倣ということがあるとすれば田中宏輔は「世界にあること」そのものをことばに模倣させようとしていて、結果、最終的には現れた詩篇が、織られた詩集が、田中宏輔個人を超えた普遍的な世界構造、その肌理をそのまま「転写」するものとなる。そこに博識、ケンカイ、偏執、逆説、無への戦慄的な展望、といった彼特有の「しるし」がつけられる。
ぼくが初めて接した田中宏輔の詩集が、『Forest。』だった。そこでは上にまだ書いていない発明的技法「引用」が展開されていた。「引用」といっても入沢康夫や吉岡実など戦後詩が達成したやりかたに準拠しているのではない。詩篇の各行が「すべて」徹底して引用され、引用の「並べかた」以外に「自己」がない、「偏執的にして脱偏執的な」組成が選択されているのだった。文献蒐集性という点でいえばベンヤミン『パサージュ論』とも印象が相似的になるが、一行程度の引用部分が並べられ、出典が明示されるその見た目は愛読書展覧につながるブッキッシュ・ライフ(これはナルシシズムに関連がある)をつたえつつ、「同時に」詩を書く自己が徹底的に欠落している点で、非ナルシシズム的な「陥没」「恐怖」をも分泌してくる。
読みは錯綜する。引用部分だけ通読すればそれは意外性やユーモアに富んだ文脈を形成するのだが、典拠を確認してゆくと、そのたびごとに読みの連続性=リズムが寸断されることになる。結果、一度目は「全体」をズタズタに切断されながら読んで、二度目に典拠を無視して、引用によって成立している詩行部分の音楽性を味読、三度目に典拠に仕掛けられた「罠」「狡知」に讃嘆する、といった仕儀になるだろう(何しろどこからでも恣意的に採取できるはずの「そういえば、」などでも「メーテルリンク『青い鳥』第四幕・第八景、鈴木豊訳」などと「典拠」がついているのだった)。いずれにせよ、初読時に三度の読みの必要を予感させる点で、詩篇空間は複層的で、脱自体性、猶予性を帯びているといえる。これこそが実は「世界構造の転写」なのだった。
むろん世界はそれ自体のパーツでできていると同時に、書物によってもできている。書かれるものはたえずすでに誰かによって書かれたものの反復、反響、リトルネロであって、その意味で独自性の発現は、本質的に不可能だ(という仮説)。田中宏輔にとっては、独自性は個人を取り巻いた時空の個々、その「偶然性」に峻厳に限定されている。そしてたぶん、そうした偶然性と接続される「世界反響性」のほうが重要なのだ。
田中的「引用詩」から透視されるブッキッシュ・ライフは尋常ではない。励行的転記、一覧化、主題検索化、乱数化、再構成、文脈つなぎのための再探索……つまり田中宏輔型の「完全」引用詩では、洒落ではないが「編集」とともに「偏執」が必須条件となるしかない。それは豪華で世界愛にみちた「展覧」だが、その同量で、貧弱と悪意も仕込まれている。引用に現れた詩行は決定的だが、詩篇における作者の位置は韜晦され、決定不能性を指し示すしかない。そうした構造的多元性を取り逃がすと、書かれたものは「ただの幻惑」になってしまうだろう。
『Forest。』に続いて「引用詩」を数多く集めた『The Wasteless Land. Ⅶ』がこのたび上梓された。引用詩という方法にかかわる見解は上記のままでいい。詩集所載の「完全」引用詩篇に上記はそのまま妥当するだろう。ところが妙味は、「完全」引用からの逸脱を『Forest。』よりも過激にしるしている「内部崩壊」部分が混成されている点だろう。
「Sasahara Tamako」の現代短歌の一首ごとの引用に、「欲望」の動勢を一行ごとに交錯させ、短歌の作品的な自立性を相対化してしまった詩篇「Opuscule。」は田中的「反響」主義の産物といえる。短歌にたいする田中の興味はこの詩集にさらに開花していて、斎藤茂吉の短歌をボードレールの特殊感覚と二重写しにして引用する「『斎藤茂吉=蠅の王』論。」では結果的に引用詩と偏執的評論(しかし主張は検討に値する)の混淆が起こり、この詩篇を受けた「ペルゼバブ。」では「蠅から見た斎藤茂吉の描写」というさらに小説的な結構まで加算的に導入されてゆく。
「反響」は確実性のない世界では「変奏」をもたらす。反響のうつくしさとは、変奏の不安であり、その不安もまた「うつくしさ」に呑まれるのだ。三好達治、カフカ、高橋新吉の「鳥籠」にかかわる直観を受けて、詩篇が変奏的に展開され、それでも相互の相似=模倣をもかすめてゆく構造的な仕掛けをもった「Pastiche。」から、そのカフカに触発された部分「Opus Secundum」を、詩行アタマの序数を割愛し、すべて一行アキにして引こう(冒頭一行にのみ、「カフカ『罪、苦悩、希望、真実の道についての考察』一六、飛鷹節訳」という典拠が下記される)。ここでは「ないもの」が虚無の苦悶ののち、どのように自己展開され、それが智者に幻惑をもたらすかが、論理性の詐術をもって戦慄的に定着される(それでも用語が平易のままである平衡感覚=運動神経が驚異=脅威なのだ)。
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鳥籠が小鳥を探しに出かけた
いまや、鳥籠は、自分自身のもとへ帰って来た。
世界は割れていた。鳥籠は探していた。
鳥籠は鳥籠のなかを、ぐるぐる探し廻る。
鳥籠は奇妙にもあの童話のぶきみな人物にも似て、目をぐるぐるまわして自分自身を
眺めることができる。
しかし、鳥はいっかな姿を現そうとはしなかった。
聞こえるのは、鳥籠の心臓の鼓動ばかりだった。
鳥籠は鳥籠のなかを、ぐるぐるもっと強烈に探し廻る。
突然、鳥籠のなかに無限の青空が見えてくる。
鳥が見える。そして、鳥しか見えない。
鳥籠はどこにいるのか。
鳥籠の鳥は、実は鳥籠自身だった。
鳥は籠のない鳥籠である。
研究棟
【研究棟】
酒水くんというのだそうだ、オーボエの声をもち、ゆうがたの残照色をしながら、しずかにはいってくる。ドアをあけた瞬間のこの子は階段だ、おどり場の明かり窓へきえてゆく、からだの影が音型のようにみえる。きみは音なのか、ひかりなのか。ただの消滅ですよ、みえない顔はそう語る。
とくさ
【とくさ】
かんがえが、身を自分めかせる。きれいで、きたない。なにかを渡す手は、乞食のそれだけがほんとうとおもえば、木賊のほうからむかってきて手中ができあがるようなものだ。しかも倒錯は保持をつづけられない。それで失いをもつという、かんがえの裏手へもわたってゆく。
フリッツ・ラング スピオーネ
世界を裏で操る謎の諜報組織と、警察の諜報特務員との熾烈な対決を、躍動性と速度でつづったフリッツ・ラング『スピオーネ』(28)は、前作『メトロポリス』(27)の巨大性、蕩尽性を排して、『ドクトル・マブゼ』(21-22)の時点までラング自身が「回帰」をおこなったものだと一般的に解釈されている。じじつ日本をふくめた国家間の秘密協定文書を、異様な情報力・組織力でほしいままに強奪する巨悪の根源ハーギには、マブゼ博士を演じたルドルフ・クライン・ロッゲが起用されていて、配役面でも両者の連続性が打ち出されている。
とはいうものの、『スピオーネ』のハーギ=ロッゲは、車椅子に座り続ける「司令塔」(最終的には脚の不自由が虚偽だったとわかる)で、陰謀の遍在性を世界にしるしづけるものの、それ自身の身体の神出鬼没性は、マブゼ博士のようには描写されない。だいいち、マブゼ博士にあった動物磁気がない(催眠術によって諸人に破滅を「代行」させるマブゼとはドイツ的寓意だった――だから『ドクトル・マブゼ』を念頭にした黒沢清『CURE』がまずメスメリズムを引き入れて、それを中心に「オウム」「統合失調症」との三幅対を提示したのは現代的な寓意として決定的に正しかった)。
同時にマブゼにあったのは、人間の視覚そのものを不安に陥れる変装能力だった。彼のうえには「別のもの」がたえず生起した。ところがその動物磁気的な眼だけが不変だった。変成の芯に「変わり切らないもの」があるという認定は、憂鬱でもあったはずだ。
『スピオーネ』のロッゲは、最終的には道化師に変装するものの、ハーギ銀行の頭取ハーギという表の顔と、謎の諜報組織の巨魁という裏の顔、つまり表裏の二面性しかもっていない。作品が多面性を発揮するのは、彼のもとにいる数々のスパイ、彼の息のかかる東欧、ロシアなどの外交工作員、彼が恐喝する阿片中毒の有閑マダムなどが、蕩尽的な速度で「展覧」され、実際に逸話を蕩尽してゆくからだ。彼らは現れては消える「関係性」で、そこでは都市的な速度が転写されている(ここがゴシックロマンス的な残滓を漂わせていた『ドクトル・マブゼ』と異なる)。したがってセットの多く――とりわけハーギの司る諜報「本部」のデザインも、表現主義から離れ、ドイツ的なアール・デコともいえる「新即物主義」へと模様替えされている。ドイツ的な「重さ」を捨てての、ハリウッド映画への接近。そうした表情があって、『スピオーネ』はドイツでヒットを記録した。
『メトロポリス』が巨費を蕩尽したのは、セットの巨大さのなかに速度を刻印しようとする不可能を志したからだ。映画の速度は「寄り」ショットを素早い編集でつなげば、簡単に実現できる。『スピオーネ』はそれで金庫をあける何者かの「手」のアップから始まり、以後も「男女の握り合う手」「未来型電話をかける指」「ワイングラスを差し出しながら少し握りをひらくことで真珠の首飾りをしたたらす手」「事故で破壊された車両の床の割れ目から伸びる手」などと、接写された手の表情のゆたかな変奏をつづける(やがてはそれに「足先のアップ」も加わる)。
とりわけ謎の諜報組織の、ほしいままな犯罪と世間の騒ぎをしるす冒頭三分ていどのスピード感が圧巻だ。そこではクルマからの文書の強奪、といったいわばリアルな次元の短いショットが挟まれながら、盗んだオートバイの乗り手の、風防眼鏡とヘルメット姿に現れる高笑いを異様な仰角で捉えたショットや、事件をセンセーショナルに報じる電波塔のアニメ的な電波の放電などが短い時間単位で連続してゆく。これらはリアル次元の異なるショットを織り合わせた「衝突のモンタージュ」であって、エイゼンシュタインに代表されるソ連型モンタージュの、ラングによる転位と呼ぶべきだろう。フリッツ・ラングはスピードが美的と知るのみならず、混淆が美的だとも知悉している。
多面性をしるしづけるために動員された、諜報にかかわる全人物は、動物磁気ではなく、機能的、ロボットのような行動をする。その交錯が速いから作品全体がブラウン運動を観察しているときのような音楽性をもつことになる。カット頭とカット尻がぶつかりあうときの音楽性を、眼で聴け、と作品は指示している。だから女スパイたち(ヒロイン・ソーニャ役のゲルダ・マウルスと、美的リリーフ機能ともいえるキティ役のリエン・ダイアース――どちらもこの『スピオーネ』のあと、スター女優となった)は「色仕掛け」によって対象を「確実に」落とすし、ソーニャにいたっては、自らの色仕掛けが「反射」されて、「木乃伊とり」式に、(浮浪者の扮装を解き、無精髭を剃って、本来の美男ぶりが現れた)対象・326号に「機能的に」一目惚れするのだ(のち、ロシア秘密警察によって無実なのに父とともに処刑された実兄に生き写しだったという説明の尾鰭がつく)。
出会いがそのまま恋、というのは艶笑劇の文法で、それが陰謀劇・アクションドラマの全体に包含される。ただしこの混淆はあまりうまく行っていない。本来なら諜報員どうしの恋愛交錯は、底意と身体記号との葛藤を形成するはずなのだが、恋愛描写が不得手なラングは、俳優身体の恋愛記号を「丸出し」にしてしまう。
陰謀組織の派手な連続犯罪に業を煮やした警察が、浮浪者に扮装して諜報活動をしていた326号を呼ぶ。彼の敏腕は、その場にいて自分の姿を捉えようとした男の、ネクタイ脇の小型カメラを一瞬にして見抜くことで間接的に伝えられる。それでもその写真はハーギのもとに入手された。ハーギは色仕掛けで326号を籠絡する対抗要員として、ロシア出身の女スパイ、ソーニャを呼ぶ。326号が仲間との活動起点にしていたホテルの一室に、警戒しつつ入ったとき(しかし夜の屋根屋根を伝ってゆく描写はコミックにちかい)、近くで銃声がした。緊急避難的に入ってくる女。無理難題をいう芸人の親方をおもわず撃ったという(のちこの一件は、胸の手帳が弾止めになり男は死ななかったという事実提示により免罪符がつく)。警察の手入れもはじまり、326号は髭剃りの泡で頬を隠した中国人に変装(ギャグだろうか)、ソーニャを奥の間に隠す。これらはすべてソーニャ側の描いたシナリオだ。そして326号は前述のとおり、一瞬にして美貌のソーニャへの恋に落ちる。
作品の時点でハーギが最終的に狙うのは、日本が交わす秘密外交文書だ。取引の当事者は誰か。それをどうやって盗めるか。錯綜するストーリーを端折ると大概は以下のようになるのではないか。当事者に探りを入れるため前述の阿片中毒の有閑マダムを恐喝する。東欧系の名前をもつイェルシッチ大佐(彼にもソーニャが色仕掛けで迫っている)には文書の横流し(漏洩)をもちかけ彼をオリエント急行で国外退去させる(ところがイェルシッチ大佐の不穏性をつかんだ警察=326号の踏み込みに先駆け、ハーギの命令で彼は自殺に追い込まれる)。
日本人諜報員マツモト・アキラ博士は成約文書の日本への搬送に迷彩を盛り込んだが、ついにそこから組織は文書を盗むことに成功、彼を「切腹」に追い込む。ロシア大使の国外移動に疑念をもった警察=326号は大使とおなじ長距離急行列車の隣室に潜りこむが、その情報をつかみ組織は列車事故を仕組み謀殺を企てる。しかしそれに失敗、ロシア大使自身もまた服毒自殺に追い込まれる。ところがイェルシッチ大佐がオリエント急行から局留め郵便を出した事実を警察=326号が掴み、文書を開陳、そこにある送金用の紙幣(番号が書きとめられる)がどこに送金されるかで、巨悪の中心の特定がはじまる。判明したのが、ハーギ銀行の頭取ハーギだった。
ハーギ銀行への査察。窮地に陥っていたソーニャを救出するが、銀行内(そのなかに諜報組織「本部」もあった)からハーギは消え失せている。けれども結界が張られ、結界外への脱出は不可能だ。どこかにいる。そのときハーギに送られる紙幣の番号を工作のため電報段階で書き換えた人物が警察内にいることが判明する。自分の持ち場を離れられないことを理由に諜報組織の調査を断った719号がそれだ。彼は道化師に扮装して活動していた。とすれば、ハーギ自身が「いま」道化師に扮装しているのではないか――。
無声映画で文字的な情報が少なく、これらの一連が実際にどう因果的な連絡性をもっているかは、『スピオーネ』の自作脚本をノベライズしたテア・フォン・ハルボウの小説にでも当たってみないと不分明な部分もある。作品は疑惑の人物の次々の浮上に、切迫した呼吸をはきだしてくるだけだ。おもえば作劇が章分けされていた『ドクトル・マブゼ』では挿話全体が数珠状に組織されていたのにたいし、人物が相互連絡性を一瞬装填されては明滅し蕩尽されてゆく『スピオーネ』では挿話全体が「房」状に組織されている。だがラングはクライマックスでその房をよじりあげ、葡萄酒原液をしぼりあげるような快挙にようやくいたる。
重たい物質、さらにはその驀進が必要だった。たとえばハーギの情報収集力をしめすため、「本部」のハーギの机まわりには、『メトロポリス』を経過したからだろうか、未来型の通信機器が完備されている。プッシュホン式の据え付け電話のみではない。新聞を吐き出すファックスのような機器、メッセージが流れる電光掲示板……。しかも人物群は「機能的に」諜報合戦をおこない、「機能的に」恋をするから、行動の規範もこの作品では軽いのだ――陰謀の世界内遍在性がしるしづけられても。だからロシア大使の乗る急行列車にひそかに同乗する326号を、列車事故で諜報組織が謀殺しようとするくだりで、機関車や列車の「重さ」が驀進しだすと、画面が急激に活気づく。手順はこうだ。326号の乗る番号「33133」の車両(最後尾車両)の連結器を、列車が長いトンネルに入った時点で切り離す。必然的にその車両のみゆっくり停止する。同時に付近の鉄路の転轍機を細工して対向機関車を、停止した車両に当てようとする。すべては乗客の就眠時間の工作だ。
文書の強奪、恋愛的仕種、銃の発砲とはちがう次元で、物体が物理性をともなって驀進してくる。だからカッティングが緊張する(これがロシア大使一味を追っての、サドルに326号、サイドカーにソーニャを乗せたオートバイの爆走シーンの異様なスピード感に結びつけられる)。緊張感に寄与したのは、切り離されて進みつづける側の車両に乗っていたソーニャの無意識に、謀殺用の数字メモ「33133」がひっかかって、それが驀進する列車の画像に記号的に反復され上乗せ(重ね焼き)されるからでもある(『ドクトル・マブゼ』での中国名の再現)。
「33133」という数値自体にはゾロ目の不気味、転倒しても同一である不気味、回帰的不気味などが装填されていて、もしかするとこれは作品構造のなにかと同調しているかもしれない。ルート記号をもちいた私書箱番号(しかもそれは文字消滅する)とともに、『スピオーネ』の記号体系は「不安」を表象している。
けれども目覚まし時計をセットして就寝を決め込んだ326号(作品の前半、浮浪者扮装時代の326号の描写にその伏線がある)を事故前に起こすものがあった。幸福を導くという触れ込みでソーニャがあたえた、ロシアイコン的なマリア像をあしらったペンダントが、彼の鞄から落ちて、眠っている326号の頬に当たったのだった。ソーニャの部屋のベッドの上壁にもロシア正教由来のイコンによる祭壇がかたどられていて、ソーニャはスパイの身でありながらも敬虔とわかる。したがって数値に代表される『スピオーネ』の不安な記号体系と、このマリア像ペンダントが「対決」していたことになる。
話をもどそう。「重いものの驀進」と同等の効果が、空間集中的にあらわれたディテールがもうひとつある。警察の手入れ(査察)がハーギ銀行に入ったクライマックス。仲間とともにソーニャは椅子に縛りつけられている。両手はそれぞれの椅子のアームに、脚は足首のところで括られて、それを椅子につながれている。しかも時限爆発がしかけられた窮地にいる。彼女は上体を片側に折り、同じく椅子にからだを縛りつけられている仲間の、その手首のいましめを何とか噛み切ろうとしている。ところがそれがなった途端、見張りに感づかれ、以後は敵の見張りと仲間の格闘がはじまる。このとき拳銃が彼女の足元に転がり流れてくる。仲間と敵は揉みあって膠着しているが、拳銃が敵の手中に渡れば万事休すだ。彼女は動きの自由幅のほとんどない足先で、何とか拳銃を自分側に引き寄せようとする。
この動きは、縛られて全身が動かせない状態でおこなわれるから、いわばマゾヒズムというよりも、それ自体の物質的な身もだえがかたどられている。ここではからだは重たい。うごきは極小幅のなかで、自らを斬り込むように「悶えている」。そう、その悶えこそが、身体の驀進と同位なのだった。物体自体のエロチシズムと連絡しているからだ。
『ドクトル・マブゼ』と比較して、『スピオーネ』にはドイツ的(あるいはユダヤ的)寓意性が少ない、と前述した。カフカの書きものや、エルンスト・ブロッホが『未知への痕跡』で採取した体系にあるものだ。ところが一か所、慄然とするディテールがあった。日本の機密外交文書をマツモトが部下三人に、日本に密かに運べ、と指令する場面。三人それぞれにマツモトは封書を渡す。うちのどれかに本物の文書が入っているが、三人の運搬人自身どれかは知らない。ともあれそうすることで強奪を企む敵からのリスクが分散する。自分だけが国家的使命を帯びていると信じて運べ、とマツモトは命ずる。
時間経過(いくつかのシーンが跨れる)。ハーギのもとに三つの鞄が届けられる。ハーゲがそれぞれから「あの」封書を出す(つまり三人の使者が惨殺されたという暗示がこの時点ですでに存在する)。中身を開陳すると、「どれもが」新聞紙、つまり何かを秘蔵していると示す迷彩にすぎなかった。マツモトはいわば敵を欺くため部下に無を運ばせたことになるのだが、無が三乗に重複している点が意味論的な脅威だ(これは『死滅の谷』内「第二の灯の物語」で、ヒロインが一人のメッセンジャーに、「殺しを企てる者」「愛の成就を願う者」双方への手紙を重複的に運ばせることの変形だ)。しかも命を懸けさせて、「無」を三人にまで運ばせる累乗性の幻惑。意味は「代行」の本質的な無為に届いている。むろん「メッセージは届かない」。これとは逆に「メッセージが届く恐怖」を唯一想定することもできる。これだ――《この密書を運び来た者をこの内容の確認後、ただちに殺めよ》。伊藤大輔『下郎の首』でそれは実現される。
日本の外交機密文書はマツモト自身がもっていた。それをけっきょく彼は、父母の虐待から逃げ出してきた哀れな家出少女という「触れ込み」のキティ(むろん女スパイ)に奪われる。自責の念に駆られたマツモトは仏像の前で切腹して果てる。マツモトとキティの場面は国辱映画を観る愉しみで躍動する。「婦人画報」のあしらい、キティの「キモノ」の帯の結びが出鱈目な点など。最初、ずぶ濡れの状態でマツモトの住居に引き入れられたキティは、裸身にキモノを羽織る。その前袷が開きかかって、白い乳房のふくらみが垣間みえる瞬間が、この作品で最も衝撃的なエロチシズムだった。
フリッツ・ラング 死滅の谷(死神の谷)
フリッツ・ラングの、テア・フォン・ハルボウとの共同脚本第三作(21)は長らく『死滅の谷』と呼びならわされてきたが、DVDタイトルが『死神の谷』と変更された。「疲れ切った死神」という原題に、より近づけるための措置だ。
夫人でもあった脚本家テア・フォン・ハルボウとのコラボレーションによるラングの無声映画は、展開力がいつでも幻惑的だ。ハルボウの童心にみちた想像力が、撮影を統括するラングの図像形成力と相俟って、文学性を超えた映画性の「展開」が生ずる、ということだ。本作では物語全体に内挿される三つの「灯の物語」が、臓腑状の房をなして、それが「変更不能性として」展開する。
近世ドイツを舞台に、ゴシックロマンスと静謐を折衷した魅惑的な雰囲気で作品がはじまる。説明字幕に「美しい村に相思相愛の若い男女がいて、彼らが死神に出会う」と前置され、その後、「絵解き」が起こるのは、ラング映画のいつもどおりの流儀だ。むろん言語性に前提されている絵解きは、展開によって言語的規定性からの飛躍を遂げる。ともあれ、酒場に向かう男女(接吻を繰り返している)のいる乗り合い馬車に死神が同乗し、行き着いた酒場では相席になってしまう。
その死神を演じるベルンハルト・ゲッケが素晴らしい。峻厳な顔の物質性、絶望に炎える碧眼、秀でた額が強調される後退した蓬髪……いわば貴族性が、思慮と倦怠とで理想的に混合されているのだ。むろん黒マントに杖という、姿の定式も守られている。
若い女(『カリガリ博士』のリル・ダゴファー)は、相席になった見知らぬ男(=死神)に不気味さを感じる。男女は酒場の女将から振舞われた婚約者用のカップ(上下双方に向けられ盃がしつらえられていて、カップ全体を上下させながら相互に呑みあうつくりになっている)で葡萄酒を飲んでいたが、女は見知らぬ男の飲むカップが砂時計を「内包」していると気づく。それで恋人(ワルター・ヤンセン)を置き去りにしていったん店の奥へ入り、ひとしきり子猫たちと戯れたあと酒場に戻る。恋人がいない。周囲の客に訊けば、相席になった男と消えた、という。女は恋人の居所をむなしく探しまわる仕儀となる。
ここで本作の図像展開性のすべてが予告されている。婚約者同士の飲むカップは外側に飲み口が開かれるかたちで上下軸にたいし相似形をかたどっているのにたいし、砂時計は内側が通じ合うかたちで上下軸にたいし相似形をしるしている。つまりこの二つは、位相反転をえがきながらも相似なのだった。やがて明らかになるがこの作品では「相似なものは二重化する」という鉄則が貫かれる。それで特撮技術(トリック撮影)としてディゾルヴ(オーバーラップ)も駆使されることになるが、問題は展開初期に現れた、婚約者同士のカップと砂時計が、ディゾルヴのないままにディゾルヴの関係を喚起しているということだろう。
酒場の場面となる前に、死神にかかわる説明的物語が挿入されている。長旅に疲れた「よそ者」が豊富な財力に物をいわせ、不気味なことに墓場のひろい隣接地を購入したいと村に申し出る。その土地は墓地の拡張用にストックされていたが、拒む余地なくそのよそ者のもとへと99年の借地権で渡った。よそ者は土地全体を高い(高すぎる)塀で囲った。不思議なことにすべてが塀で扉が見当たらない。誰も入れず、なかを探ることもできない。やがてその塀のうちには、この世のものでない者しか入れないと、観客に理解されてゆく。
謎の男とともに消えた恋人を探すべく若い女は村中を奔走する。いつしか夜になっている(ただし当時は夜景撮影での夜の描写が部分的だ)。謎の男=死神の張り巡らせた高い塀のまえで女は異様な光景に遭遇する。半透明化した死者たちが次々と塀を「通過」してゆくのだ(ディゾルヴの最初の駆使)。なかには自分の恋人もいた。その衝撃でついに気絶する。
薬草採取に長けた薬屋の老人が女を見つけ、自分の店に連れ帰り、滋養あふれる薬草茶で、彼女を賦活させようとする。薬屋が薬草茶を淹れる合間に、若い女はソロモン書の一節を夢うつつで読む。《愛は死と同等に強い》。「同等に」とあるこの一節を、《愛は死「よりも」強い》と女が読み違えたことがのちにわかる。「相似するもの同士の二重化」という運命論的な主題が、物語上、惹起されはじめたのだ。
死神が張り巡らせた塀の、「高すぎること」は、何を意味するか。「高すぎること」は閉域特有の拒絶であり、規定されている運命論に改変のための人為が介入できないことを表している。ところが万物が変容相に置かれるラング映画では、「高すぎること」が減殺される。薬屋の調合場で薬屋が薬草茶を淹れるあいだに毒を発見した女は、「愛は死よりも強い」を曲解して自殺のためそれを煽ろうとするが、刹那、自分が倒れていた高すぎる塀の前へと差し戻される。塀が女陰状に口をひらき、なかに階段がみえる(この女陰状の傷口のなかに階段があるというイメージはシュルレアリスティックだ)。のぼると、死神がいる。いわく、「お前の恋人は運命により、死んだ」。受け入れない女に死神は条件を出す。運命によって死すべき三人の者がいる。うちひとりでもお前の機転で死から遁れさせたなら、お前の恋人を復活させよう――と。
そのまえに、画面の上下軸いっぱいに聳える高い塀のまえに人物が立つロングショットが印象に残る。ロングであることで、人物の背丈の卑小さが高い塀に峻厳に対比されている。そのショットの当事者はふたりいた。最初が死神、次が若い女だ。だから深層では死神と若い女は作中で隠れた相似形を組織されている。高すぎることは、謎の男が女に、自分が死神だと説明する段では、人の運命=余命と直結される蝋燭の、丈の高すぎる林立へとさらに展開される。そこでは高さの減殺がそのまま死への漸近を意味する。死の決定が炎の消滅なのだった。
死神はそこで初めていう、運命の従うままにとはいえ、自分は人を死に導くのに疲れきっている、と。ここで疲弊こそが貴族性を練り上げる、というサンボリスム的主題が露頭する。童心横溢のハルボウだが、彼女はいつも文学的真実を、事故のように掘り当ててしまうといえる。
ともあれ死神の「課題」によって、前置→絵解き、というかたちでまたもや「展開」が開始され、展開がことばの前提的規定性すら凌駕してしまう事態が起こる。予想されるように、死の試練にかけられる美男子は、もともとの恋人役ワルター・ヤンセンによってすべて演じられ、恋人を死から救うべき女も、これまたリル・ダゴファーによってすべて演じられる。これら役柄の重複はむろん、「相似なものは二重化する」という本作の鉄則によっている。
「第一の灯の物語」の舞台はバクダッドとおぼしい中世のアラブの都市。首長の妹という高貴な身分の女が異教徒のフランク人と隠れて愛し合っている。断食月に入りイスラム教徒の結集がつよくなると、二人は会えない。しびれを切らしたフランク人の恋人が女に会いにイスラム教徒に変装して宮殿に入ると、異教徒だと露見してしまう。逃げる男。一旦は宮殿内に隠れるがやがて捕まる。そして真夜中に首だけ出された状態で、埋められてしまう。
「物語」の要約としては如上だが、ラングはここではのちの『メトロポリス』につながるアクション連鎖を実現している。隠れる者/探す者、走る者/追う者。ラング世界特有の階段と扉が駆使される。「扉」とはここから向こうへの「展開」を導く媒質だから、それは現実上の二重化と接しているものともいえる。ところがフランク人に外在されていた背丈は「地面から露出しただけの」首として減殺/縮小されてしまう。それが彼の運命の蝋燭の短小化、炎の消滅とリンクする。結果、首長の妹が埋められた場所に駆けつけたときには、フランク人の恋人はむごたらしくも絶命していた。
三つの「灯の物語」では、リル・ダゴファーによって演じられる女は、三者ともに積極的、運命にたいし好戦的で、ときに他者の死(犠牲)も厭わない自己中心性を装填されている(それで現在の眼からみると実際には感情移入が起きない)。書いていなかったが、三つの「灯の物語」では、配役重複がじつは死神役のベルンハルト・ゲッケにも起こっていた。たとえば「第一の灯の物語」では、フランク人の男の首から下を地面に埋める庭師がゲッケによって演じられていた。
深読みができる。実際は庭師=死神は、女=首長の妹がフランク人の恋人を機転によって救うことを希みながら、なおも穴を掘ったのだ。とすれば運命論からの解放を希みながら、それに甘んじるしかない、という、のちにユダヤ人の多くに起こる悲劇を、深い位相で体現しているのは、さまざまな姿に分岐するヒロインでは決してなく、死神のほうなのだ。三つの「灯の物語」のうち二つでは異国情緒あふれる舞台設定がなされるため、リル・ダゴファーはいわばコスプレ的に衣裳と化粧を変え、眼も彩なゆたかさで「分岐」するが、死神のほうは「いくら姿が分岐しても本質はおなじ」という絶望だけがあたえられている(いっぽう死の運命が近づく恋人はいわば三つの挿話ではたんなる物語機能の位置にまで存在を貶められている――彼には「能動性」の問題が生じていないのだ)。死神にあたえられた絶望のほうが、課題に挑戦する女の能動性よりも魅惑的に映る。
同一の俳優が次々に別の役柄に扮してゆくことは多重化の印象を呼び出すが、実際は映画の時空が多孔状の不安を呈すことにもつながる。「第二の灯の物語」では舞台が近世終わりのイタリアに移る(運河とゴンドラが配されることから舞台はヴェネツィアと推定される)。「フィアメッタ」という名の金満家の娘は、野卑で自信家、かなり年長の権力者「ジェローラモ」と婚約している身の上でありながら、素姓のたしかでない「フランチェスコ」を密かに愛している。それでカーニヴァルの幻惑を利用して、ジェローラモを亡き者にしようと奸計を練る。自らジェローラモと剣の果し合いをするあいだに、隙をついて毒を塗った剣で刺殺しようと企むのだ。
彼女はジェローラモには自分の館に来るよう誘いの手紙を書き、フランチェスコには蟄居ののち果報があると確約する手紙を書く。二重化は(それは不用意な二重化だ)、その二通の手紙を彼女が一人のメッセンジャーに託すことで生じる。ジェローラモが使者から手紙を渡されたあと陰謀を予感し、部下に使者を襲わせてフランチェスコ宛ての手紙を奪い文面を知るのだ。ジェローラモはフィアメッタを装った文面でフランチェスコに館への招待を綴る手紙を渡す。有頂天になるフランチェスコ。やがて意味性はジェローラモ、内実はフランチェスコという剣士(眼にはナポレオン・ソロとおなじ黒い目無し眼帯があって正体を同定できない)がフィアメッタの前に現れる。
ラング映画特有、表面上の視覚性が意味の裏切りを内包しているという主題がここで生じる。はじまる剣戟。事前の策どおり、物陰に隠れていた「ムーア人」がフィアメッタの相手の背中を毒剣で刺す。初めて出された男の声(悲鳴と呻きだった)に不安を感じ、倒れた男の眼帯を取ると、現れたのは恋するフランチェスコの顔だった。では死神はこの第二挿話ではどこにいたのか。フランチェスコを刺した黒い肌のムーア人こそが彼だった。彼は、第一挿話の終わり同様、結末でふたたび「絶望的に」死神の姿に戻る。
三つの「灯の物語」のうち最高傑作ともいえる「第三」がはじまる。エキゾチックにも舞台は古代中国。前話で重要な小道具だった手紙は、冒頭、長い巻紙に変じる。天子から魔術師への文面――《自分の誕生日の宴で魔法を披露せよ。ただしその魔法に満足ゆかなければ手打ちに処す》。手紙はディゾルヴにより画面の中空を蛇のようにうごめく。
魔術師には実娘と弟子がいて、これが相思相愛、やはりダゴファーとヤンセンのコンビによって演じられている。魔術が題材になっているから、ディゾルヴが駆使できる。まずは浮き上がる魔法の絨毯(見事なトリック撮影)にのって魔術師・娘・弟子の三人は中空を飛び(ここもディゾルヴ)、天子のもとにおもむく(ここでは高さが低さへと再定着する「減殺」が反復されている)。魔法の披露は次の順序。まずは天子用の無敵の軍隊を献呈するとして、箱から極小のミニチュア軍隊が現れる。かつて高い壁を死者の群れが通りぬけたのと同等に、ここでは箱から天主へと軍隊があふれでてくる。時間軸のうえで相似=二重化が生起しているのだ。次が魔法の馬の献呈。陶製の馬の小さな玩具とみえたものが次第に仔馬、大人の馬となる様子が、今度は段階カッティングの魔法でしるされる。ところが天子の関心はもう魔術師の娘にあり、それら魔法の献呈品とともにお前の娘もわがもとに納めよと天子はきかない。切羽詰まった娘と弟子はその場から逃げようとして捕縛される。
結局、娘は父親のもつ、翡翠でできた魔法の杖を奪いとって天子の宮殿から父の弟子と逐電した。杖をつかっての変容の魔術がディゾルヴやカット変化をつうじて連続する。父親がサボテンに、門衛が豚に、逃走のための道具が象に変わる(それでも娘を誘惑に行った天子が叶えられずに戻るとき、円形の門が奥行に連続する縦構図のほうが、さらに深いラング的な映像魔術を具現している)。
天子から追っ手に弓遣いが指名され、皮肉なことに天子に献上された魔法の馬も供される。「長さの縮小」という主題は、魔法の使用ごとに父から奪った魔法の杖の丈が減ってゆくディテールに現れる。むろんそれは女が守る恋人=父の弟子の余命の減少とリンクしている。弓遣いが天翔ける(ディゾルヴによる)馬とともに最接近して、娘は自分と恋人を千手の仏像(そのまえに彼らは磨崖仏の前にいた)と虎に姿を変える。それで魔法の杖は使い切った。しかし弓遣いは彼らの正体を見抜き、虎を射抜き死へと導いた。むろんその弓遣いが死神の正体だった。この弓遣いの、死神衣裳への復帰によって、「あるものが別のものへと加算的に変じる」ディゾルヴが終焉を迎える。
ついに女の機智は、三人の死すべき恋人を救えなかった。「それでも」死神は女に恋人救出に結びつく最後の課題をあたえる。一時間のうちに「死ぬべきでないのに死に直面している者」を見つけよ、と。時制は薬屋の調剤室で女が服毒する寸前に戻る。女は薬屋、乞食、老人の入院患者たちに命の提供を乞うが、むろんそんな手前勝手に応じるお人よしはいない。というか、女は探索対象を「死すべきなのに、死にたがらない者」と誤解(=二重化)していた。そのうち病院が発火する。救出された母親が、なかに自分の赤ん坊がいると泣いて訴える。敢然とヒロインは火中の病院に突入、ついに炎に巻かれる寸前の赤子を見つける。それこそが「死すべきでないのに死に直面している者」だった。
ディゾルヴで無の場所に現れる死神。死神が赤子を彼女から受け取ろうとした刹那、女は思い替える。自分の恋人を蘇らせるためにこの無辜の児を犠牲にすることはできないと。それで恋人の死が決定した。(たぶん)彼女自身も炎に巻かれた。むろんそれら炎もディゾルヴで表現された幻影にすぎないが、幻影とはこの世ではまず、二重化の表出なのだ。この画柄上の二重化によって運命の二重化も付帯することが、映画の宿命だということを、フリッツ・ラングは告げている。
女の恋人の遺体が安置されている場所。悲嘆のあまり女がその遺体のうえに打ち伏す。女から意識が消える。その女を抱き起こし、男の遺体から男の幻影をとりだす死神。そのあとに生じる死神の動作が、詳細はこれからこの作品を観るひとのために書かないが、この映画で最も美しい仕種だ。そこでは連続したディゾルヴ=「二重化による像の形成」とは逆の、「消滅」も描かれる。ともあれ、若い恋人同士は、死神によって別天地へと差し向けられた。ただしそれが生地なのか死地なのかは、ラングの峻厳さによって意味的に「ディゾルヴされている」。
たぶんハルボウの脚本は、ダゴファー演じたヒロインの生への積極性、試行錯誤に感情移入の強調点を置いている。それを死神への感情移入に転位させたのがラングの功績だろう。これがやがて『M』での、ペーター・ローレへの不可解な感情移入へとつながってゆく。
是枝裕和+孤独のグルメ
朝寝しいしい、今日の午前中で、先週くらいからはじまった今クールの新ドラマを録画済みのなかからチェック。リタイアと継続視聴とに振り分けた。
是枝裕和監督が脚本・監督・編集を手がけた『ゴーイング・マイ・ホーム』は、さすがにインテリジェンスの高さがちがう。無前提にはじまる非説明的な科白やカット転換によって画面凝視をしいられるほか、音声でもちいさな科白発声がとりいれられていて、ボリュームを上げざるをえない。結果、DVDなどとおなじ視聴形式へともってゆかれる。むろんそれだけの内容の充実もある。TVドラマとしては実験的な立脚ではあるのだが。
主軸は阿部寛と山口智子の中年夫婦。阿部はへっぽこ広告代理店の現場指揮者、山口はフードコーディネイター。だから「業界知識」がきらめくナマなディテールも点綴される。いかにもテレビマンユニオンが出自の是枝監督らしい。阿部の実父役の夏八木勲が意識不明になって、その居住地(長野)で小規模な「一族再会」もある。集合者全員の「意地悪」な感触は、時に小津的、時に是枝自身の『歩いても 歩いても』的だ。
そうやって自身のフィールドに一旦視聴者を引き入れる一方で、「べつの」伏線も張られている。阿部・山口夫婦の娘(演技上手い/リズム感と冷めた表情が抜群)が「みえないもの」に関心があること。これにたいし、長野の病院に父の見舞いを目的に謎の美女・宮崎あおいが現れ、さらに「みえない」神話的存在へとドラマ全体が覚醒しそうな可能性が打ち出されている。それでたぶん、「役立たず」と至るところで陰口を叩かれる阿部自身まで賦活されてゆくのではないだろうか。
それにしても、病院に現れた宮崎を、阿部が尾行、エレベータに乗った瞬間を、携帯電話の通話を装った阿部が後ろ向きで写真撮影するときの縦構図、発明だったなあ。しかもその写真がエレベータの扉が閉まりかかるタイミングでの「撮り損ない」だったという点も見事だった。
ドラマはほかに『高校受験』に興味をもった。これは学校内の諸空間の撮り方に新機軸があって、まさか「高校受験」だけを集中的に描くのではないか、という緊張感もタイトルにある。苦手な長澤まさみ主演なんだけど、いつもなら受け手を愚民視する演技の沸点の低さを、演出が巧みに抑制して、ノイズがあまり出ていない。母校愛にまつわって、ドラマに異様なバイアスがかかっているほか、学校裏サイトという仕掛けもすでに作動していて、今後の展開が読めない。それでリタイアできない、という感じ。
ドキュとドラマのミニマリズム的折衷ともいえる松重豊主演の『孤独のグルメ』は、第二シーズンがはじまった。ガッツリ系の食価値、実在の(飾らない)店の豊かさの発掘、はっきりと打ち出される地勢、松重の歩き、など、食番組としてこの「ドラマ」を捉えれば「美食飽食主義」の趨勢からの「変化球」だし、松重の食いっぷりと、注文したものの旨さに「次第に」感動してゆく顔、さらには内的ナレーションの効果の見事さなどから、第一シーズンの時点でこの番組の大ファンだった。ほぼ東京に特化した店/彷徨場所の選定なので、北海道でのオンエアがないかと危惧していたが、無事放映されて、嬉しいといったらない。
ところが第一シーズンの「人気」の余勢を駆って、第二シーズンでは放映枠がほぼ倍の一時間ほどに拡大された。結果、「物語のすくなさ」と「紹介の集中による、情報の多いようでそうではない感触」が手を結び、TVのTV性に無重力の緩衝地帯をつくっていた第一シーズンの美点(これはドラマ版『深夜食堂』にもつうじる)を手放しつつあるのではないか。どこか危うい感触が生じつつある。むかしの『TVチャンピオン』などもそうなのだが、テレ東系番組はスケールアップすると裏目に出ることが多いので心配だ。とはいえこの番組の大ファンなので、継続視聴を決めこんではいるが。
まあ、今週はそんなところ。来週も新ドラマがはじまるので、一応は録画して、まとめてチェックします。
それにしても北海道は『NONFIX』の放映がない。したがって18日未明放映の小野さやか監督『原発アイドル』がみられない。東京の女房に録画を頼んだのだが、次の東京行まで見ることができないとおもうと、くやしい