みぞれ
【みぞれ】
あたたかい一月おわりにふる雪は
水の諸相にある同定を欠いて
撥水コートの人びとの着衣を
ながれるなにかでひかるものにする
ほころびを得ようといつも眼は
季節をこのんで水浸しのひだを探り
うすい膜に瑞兆のあるその胞衣からは
ひとがおのれを出てゆくうごきもとける
着衣ということばにある泪のひびき
ついにひとではなくころもがゆきかう
つぼみ
【つぼみ】
詩の未来からここへ訪ねてくるひとは
すがたの見えがたいことがうつくしいだろう
わたしらの死後まで肩に雪をかさね生きてきて
それだけひとみがふかく老いているだろう
おぼえのなやみがかんがえのひかりになる
その壮麗さではいまとおなじくちびるをもち
おくれてあらわれるものがからだのみではないと
ことばやことがらの、のちのながれを語りだす
のぞみだけがわたしらのまずしさと添うのなら
となりしてともにいることすべても蕾となる
●
神山睦美さんのことばにインスパイアされた。
《詩の未来からやって来る者がいるとしたら、どうすれば彼らと連帯することができるだろうか。
〔…〕未来からやってくる者もまた、私たちと同じように心貧しき者〔…〕であり、それぞれに〔…〕孤立した者であることに気がつく〔…〕。》
いまおかしんじ・星の長い一日
「青春Hシリーズ」第27弾として公開される、いまおかしんじの『星の長い一日』が傑作だ。最近の動向をつづると、いまおかは山下敦弘監督『苦役列車』の脚本のあと、「ラブ・アンド・エロス・シネマ・コレクション」シリーズで『百日のセツナ・禁断の恋』の脚本・演出、榎本敏郎監督の『死んでもいいの・百年恋して』の脚本を手がけた。どちらもファンタジー。
『百日のセツナ』は海から生じた「なりたての」少女吸血鬼・由愛可奈を先輩吸血鬼の和田聡宏が訓育するが、曲折ありながらやがて双方が相愛を自覚する。ところが少女吸血鬼は百日以内にセックスすると消滅し、セックスの相手も死ぬ定めがある。由愛は「みずからの血統の消滅」のためにあえて和田とのセックスを所望、和田も愛のためにそれに応ずるクライマックスだった。それまでセックスシーンを禁欲されてきた由愛と和田との、嗚咽と法悦のいりまじった渚での長い交合シーンは、催涙性を喚起するが、いまおか演出の迫力は思想的に本気だった。大義のためではなく愛のために死を厭わないその死生観に、それまでのいまおか作品にないものをかんじた。
『死んでもいいの』は森下くるみが、夫の死後、時間がとまってしまい、50過ぎになっても老化していないという設定。やがて風俗バイト先のおねえちゃんに接吻されると黄泉への扉をあけることができ、そこで死んだころとまったく変わらない夫に会うことができるようになる。そのパラレルワールドでふたりがセックスを繰り返すうち、森下は精気を吸われ、現世にもどれなくなりそうな危機を迎える。
森下と亡夫と(いまは齢相応に老けた)下條アトムは、かつてはトリュフォー『突然炎のごとく』前半のような、幸福な友愛三角形を築いていたが、森下が夫をえらんだ過去がある。下條は森下に兆した死相におののき、みずからおねえちゃんのキスを得て、森下の亡夫に会い、もう森下と会わないよう懇願する。ところが亡夫に執着する森下は、現世のすべてを捨てても構わないと、一旦は亡夫とパラレルワールド内での遁走を図る。ここでも死が生を凌駕する価値転覆が、催涙性のうちに謳われる。結末は穏当に作品のファンタスティックな設定を「回収」したが、その「途中」を裏打ちするいまおか脚本の精神性が、やはりこれまでみたことのないものだった。それにしても榎本敏郎の演出は、ベテラン下條アトムに捧げた見せ場など平衡感覚が見事だった。
いずれにせよ、アジア的混沌のなかで「ボロボロになって」ただ生きているのがいまおか世界の住人で、いまおかの志向する時間性が「停滞」と、それを楽天的に亀裂させる「思い替え」だとすると、現世否定に催涙性をまぶした死への傾斜が意外に映る。自己抹消に、宗教性にとむ自己供犠の匂いまでまつわっているのだ。往年の瀬々敬久につづき、いまおかも遅れて宮沢賢治への宗旨替えを果たしたのかと愕いた。いまおかは単純でぶっきらぼうな「死の勝利」派のはずだった。
そのいまおかが15年前に書いた脚本にもとづいて撮ったのが、『星の長い一日』だ。タイトルに岡本喜八『日本のいちばん長い日』からの交響がある。「長い一日もの」というジャンルがあって、マーティン・スコセッシの『アフター・アワーズ』や、それを見事に換骨奪胎したようなサトウトシキのピンク作品(タイトルを失念した)、あるいは榎戸耕史の傑作『ふたりぼっち』や、ジョン・ヒューズの『大災難PTA』などがそれにあたる。
おまけにいまおかのこの新作では主人公の名前が「星」。大和屋竺-若松孝二の『処女ゲバゲバ』とおなじだ。なにか映画史的引用にとんだ作品ではないかと予感したが、蓋をあけてみると狂ったブニュエル、時間進展がぐにやぐにゃ伸縮するという意味ではサイケデリック美学につらぬかれたものだった。日本的サイケデリックは隔世遺伝的な発展を遂げて、清水崇の映画版『呪怨2』がその最高峰としんじていたが、いまおかの本作はそれとも双璧をなすのではないか。
作品はいまおからしい貧乏くささではじまる。貧相な容姿の荒井タカシが安マンションのベランダで身もだえしている。ベランダ内に構えるカメラ(撮影:佐久間栄一)の画角は狭く、撮られる場所と対象も殺風景で、開巻に要求されがちな高まりなど何ひとつない。ないままに、この作品の法則「尾籠」がさっそく適用される。身もだえが尿意をこらえてのものだったことは、ベランダに置かれていたゴミ袋から空きペットボトルをとりだしなかへ小用を足すその後で判明する。排尿する局部を映さないためのみに、構図設定とカッティングが細心化するナンセンス。この開巻の「ツカミのなさ」がそのままツカミになってしまう逆転は、往年のいまおか映画調だ。
脱臼とズレをかたどるサスペンスに注意がむかう。その貧乏マンションの住人、若い女が洗濯物をとりこみにベランダに出てくるのだった。荒井タカシは女に背を向けてしゃがみ気配を消そうとするが、隠れどころのないベランダでは姿が丸見えのはずだ。ところが彼女は気づかない。このとき荒井はたとえば懲罰でベランダに閉じ込められたのではないという事後理解が生じてくるが、では「なぜそこにいるのか」。
しかも女の住人の振舞から、「自分が欲望しない対象はみえない」という精神分析的な法則が導かれると、「みればその対象にひとは欲望するようになる」という逆元までもが予感されるようになる。そして実際そうなる。つまりこの冒頭のくだりで、作品は主題喚起のサスペンスと、説明を宙吊るサスペンスを二重にし、しかもそれを「ありあわせのぼろさ」で充填していることで脱臼まで導いている、という判断になる。
やがて荒井タカシは女のその部屋に空き巣に入ったところを住人と鉢合わせたのだとわかる。女は荒井がガラス扉をあけてなかに闖入してきても、荒井を欲望しないから荒井に気づかない。荒井は女が便所で尾籠なオリジナルソングを高らかに唄う間に、女の財布から札一枚を抜きとる。強奪せず、「全部」でもない点に、荒井の弱さ、貧乏くささ、慎ましさが透ける。ではなぜ彼はカネにそれほど困窮しているのか。作品に解答はない。
いきなりジャンプカット。よほど空腹だったとおぼしい荒井はコンビニで買ったおにぎりを、コンビニ前にしゃがみこんでむさぼる。それをペットボトルで流し込む。腹がくちくなると喫煙衝動がうごめきだすが、いまどき煙草を他人に所望しても応えてくれる親切などない。
これらのやりとりにたいして中心的に選択される構図は、バカ正直に、コンビニと隣のランドリーのあいだにいる荒井と建物にたいしてまっすぐ直角に向けられたものだ。たくまないカメラワークにアンフラマンスな「たくらみ」を上乗せすること。しかもやりとりと編集の呼吸に、初期山下敦弘のようなオフビートもない。「オフビートのないオフビート」とでもいうように、いまおかの作法がメタ化される。「落としのなさ」で、しょうもなさが貧乏たらしく持続してゆくのだ。
コンビニから藤崎エリナ扮する女性店員がでてきて、荒井が煙草を所望しても相手にされない。時間が徒過。退店したその藤崎が出てくる。煙草をこんどは荒井に渡し、荒井が旨そうに喫したのちは、自発的にさらに三本ほどを追加して渡す。そのかん、他人にふつういわないような内情をバラす。店長がいかに自分をセクハラするか(このときも尾籠なことばがほとばしる)、こんな店やめてやる、と息まき、そのあとは台風のようにすぎさる。
カメラの対象が藤崎になる(ブニュエル『自由の幻想』の手法)。女が自宅アパートに到着。玄関扉をあけた途端に、けれどもひそかに藤崎を尾けてきた(ここで『自由の幻想』の手法を離脱)荒井が女を後ろから抱え、口塞ぎして、「騒がないで」と気弱に懇願、やさしさにほだされたどころか可愛らしさに一目ぼれ、「セックスさせてください」と哀願にまでいたる。自暴自棄の気配など微塵もないまま親密をしめして藤崎は丁寧な応対でその欲望を受け入れ、いざそのベッドで双方裸身になって前戯がはじまると(荒井は藤崎のからだの「やわらかさ」と「それじたいの芳香」にうっとりする)、藤崎はとつぜん自分が生理中だとおもいだし、スキンをつけることを所望する。
荒井はスキンを手に入れようと藤崎のアパートを飛び出す。煙草銭のない彼が、藤崎にカネも借りずに飛び出したのだ。藤崎の勤務していたコンビニのカウンターで店長にスキンを差しだし、かならずあとで払うからといっても受け入れられない。それで一刻も早く藤崎のもとにもどるべき身なのに、またもや空き巣を敢行、今度はそこでスキンを見つけ出そうと非効率的なことをくわだてるのだった。
作品では論理性が脱臼したまま展開され、欲望がからまわりして困難だけが連接されてくる。「煙草をくれた」→「一目ぼれ」→「家に乱入」→「セックスへの合意」→「生理中」→「スキンがあればできる」→「スキンを買いにゆく」→「カネがない」→「コンビニでのスキン強奪に失敗」→「空き巣をくわだてる」→「とうぜんカネのように簡単にスキンは見つからないし、その家にないかもしれない」。生起した幸運を、幸運のままに運営できない荒井タカシの行動原理。それは幸運を遂行するためのコミュニケーション能力を欠いているというよりも、行動のすべてがあらかじめ脱論理に支配されているためではないか。
「欲望の対象」は横ズレする。たとえばそれは藤崎エリナからスキンそのものへと変化するのだ。結果、挿話だけが連接され、その挿話の外側に「欲望にかかわる精神分析」が笑劇として膨らむことになる。これは生起した食欲が成就されず挫折連鎖の喜劇となるブニュエル『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』の変奏だし、欲望の対象が女性にも、いわばそこへの伝達道具(過程)にも変化するということが、欲望の本質的な不在を解き明かしているのならば、それはラカンを笑いのめしたブニュエル『欲望のあいまいな対象』の転換でもあるだろう。
ズレをはらんで挿話がつづき、欲望はいよいよ曖昧であるがゆえ遡行的な不在を言渡されてゆくかのようだ。「ズレ」ならこうなる。荒井の空き巣は、一旦は「闖入そのものを視認されなかった」。つぎに藤崎の玄関から押しかけたときには、とうぜんあるはずの犯罪性を相手の天使性により、拍子ぬけするほど不問にされた。ところが今度の男の住人は、荒井同様の臆病者で、「同類は同類を視認する」という法則が働く。しかも臆病ゆえにもののはずみで住人は荒井の腹に不可抗力で庖丁を突きたててしまう(行動原理が脱臼的なのは荒井同様で、床にのたうちまわる荒井を眼下に、正当防衛も主張できるはずなのに「自宅から」逃げだすという脱臼の付加をおこなう)。
もともと家宅侵入などは低確率のはずなのに、そこへ佐藤宏と水井真希がさらに闖入する。ふたりは荒井の流血に興奮し、救急連絡の懇願もきかずにセックスをはじめ、その興奮をアブったシャブの吸引で倍加させる(藤崎から得た煙草のけむりは、ここで麻薬烟にズレる)。やがてオルギアとなる。水井が荒井を口淫しそれにまたがるのは手順かもしれないが、「ズレ」が法則なので、男の佐藤までもが荒井を口淫し、荒井に顔面発射し、しかもその菊座まで凌辱する逸脱がよびだされてゆく。
多型的な欲望の前面化(全面化)。性愛セリーが複雑にもつれだしその脱倫理性と脱論理性に戦慄しながらも、庖丁を腹から抜かれて出血がより激しくなり死の色も濃くなってきた荒井にたいし、性差を超越した凌辱が延々つづく。観ている側にもズレが生じる。選択実現されている演技が正当であるために「笑ってしまう」のだ。それは画面を構成する人物たちの面相にも負っている。一言でそれぞれを代表させてみよう。荒井=貧相。佐藤=悪相。水井=狂相。映しだしてはならないものが反価値として画面に充満した結果、ドラマ同様に反転が生じ、痛さは痒さになり、悲惨と凄惨が崇高になるのだった。
この佐藤-水井のカップルは、いわば「瀕死のときには死を回避せず、むしろヤッてヤッてヤリまくることで浄土を感覚すべきだ」とでもいった哲学を体現していて(そう、ここでいまおか的主題「死の優位」が顔を覗かせる)、実際、作品の終幕で彼らは超常的な力をあたえられた、いわば天使性だったことまでが事後証明される。彼らへの規定も「ズレ」を運動するのだ。ところが意味的に生じている「崇高への媒介」=「天使性」は、とうぜんいまおか映画ではアジア的な醜貌を呈している。それで水井をなんとか弁天と呼ぶなら、佐藤をたとえば大福とでも呼ぶしかなくなる。つまり彼らはそれ自身が複数で、この複数性がそのままアジア性だった。これが、いまおかのこれまでのフィルモグラフィの白眉部分にある特質だろう。
その後は、荒井タカシまでがアブったシャブを吸引させられ、のたうつほどの痛みを誤魔化され、励起させられ、妄想に駆り立てられる(結果、映画は「欲望」を実現する魔器のように、荒井と藤崎エリナの交合シーンを召喚し、それを夢オチに意地悪にも転落させるバロック的に褶曲をかたどってゆく)。ラカンではじまった欲望理論が、ズレを考察するドゥルーズの理論にさえズレる気色だ。
そのなかで「痛さ→痒さ→擽ったさ」という笑いにかかわる「永劫回帰」が起こる。この展開の無限は取り立てた撮影がなされていないのに、しかもあからさまな「反復」なのに、ひとつも弛緩することがない。荒井タカシがシャブで発奮するたびに、不道徳な励起が生じ、それが「リトルネロ」ともなる。死の「輪廻」がまわっているのだ。そこでは荒井タカシも水井真希も佐藤宏も、それぞれが「複数」で、前言したようにそれがこのサド的=西欧的オルギアに、「どうしようもないアジア」を出来させてくる。この感覚の「ズレ」が、時間が自在に伸縮される点とともにサイケデリック=接合異常=界面異常なのだった。すごい、というしかない。
車輪となった展開は、荒井がスキンを盗むために空き巣の家に入った家の持ち主の男(つまり庖丁で荒井の腹を刺した男)が、荒井が冒頭にカネに盗むために空き巣に入った女と出会い(ふたりは知己だった)、セックスすることで、さらに回転状オルギアの外側に、車輪の回転をつくりあげる。彼らもアジア的複数性、あえていうなら七福神の成員だった。あるいは荒井が終始おもいつづける藤崎エリナも、幻想の源泉として七福神の成員だったといえる。この映画がとりあえずは輪状の陰謀、しかもそれが光輝をともなうズレであることはこれで伝わっただろう。
『星の長い一日』の脚本が15年前にいまおかによって書かれていたことは前言した(おそらくは国映に提出されたが、過激すぎて没企画になったのではないか)。それが「青春H」シリーズで復活した。これがいまの日本映画の一面を象徴している。
15年前といえば99年。そう、いまおかの傑作『痴漢列車・弁天のお尻』(=『デメキング』)の98年、その翌年だった。あの作品では実際に七福神が揃い、アジア的複数性が明示された。ところが複数性が革命に向かわず、潜勢となる点に、明示から何かがいつもズレる、いまおか映画的な機微がある。同様に、この『星の長い一日』でもやはりオルギアがなにか不可視のものにズレている。それでもいまおかは「聖性」をかたるのを照れゆえに厭うのではないか。むろん主人公「星」の名が伊達に付いていないことは確かだ。
乱交と出血によって瀕死になった「星」=荒井タカシに最終的にどんな運命が待ち構えているかは劇場でぜひ確認を。二月二日より一週間、ポレポレ東中野にてレイトショー。
千歳土偶
【千歳土偶】
むすうがおもさを欠いて舞いつづけるので
ひとみはたったひとつをとらえきれない
土偶の視床下部のまとまらなさ、おまけに
つばきの北限をこえているので咲く花もない
まなこだけが視界ゼロの花になるといわれた
とすればそれは咲くまえすでにほころびて
むすうを問うへだたりの双つであるのみだ
穴の双数からまなざしがもれる視のさみしさ
みることをみないために、と誓いあって
ゆっくりと身のざらつきをさわるものにする
釧路ふたたび
【釧路ふたたび】
いずれかには雪上ではばたく丹頂を
まぢかにみおろす場所をえたいものだ
ものおとの極光というべきものが
やぶれてゆく優雅がみられるだろう
それは白黒にかかわらないことば
けれども母音なき子音として発音されて
この眼が声の赤を視て炎えるために
ずっと内にうらがえっていた誤りを撃つ
母音のしたしさに反する雑音のあぶなさは
鶴がとびたったのちの雪へと継がれる
車中キス
【車中キス】
まなざしあいながらすすめてゆく
乗り物などないがそれを車ときめる
その車は林道をすすみ馭者もいない
まなざしだけが直角への方向をうんで
どこともしれぬ薄闇まで帆をながしてゆく
こいびとどうしの不吉とはそんなものだ
くちびると舌が速いことばをつむぐ
こまかなうごき、それじたいのもどきから
くちづける真闇にはふる雪がみえない
まなざしを覗くおそれで顔がきえてゆく
マーク・ボランの「声」
昨日で全学授業「60-70年代のロックジャイアンツを聴く」の全講義が終了した。最終回はT・レックス(マーク・ボラン)。途中、マーク・ボランの「声」の特殊さをいおうとして、ふとロラン・バルトの「声のきめ」の話をした。
「声」は描写できない。それをかたる語彙がないのだ。ただしみずからの好悪は歴然と人の声にきざす。ということは、それをひとはエロス覚でとらえるしかない。
同時に声は「選別」だ。男声と女声はほぼ聴いた途端にその性別を判断できる(その中間にあるものも「いかがわしさ」として即座に判別できる)。同時に親しい者の声は、たとえば通りすがりに姿をみないままでも、そのひとの声と類別できる(似た声があったとしても)。ならば声はその者の個別性の極みというべきなのだろうが、上述したようにこれが記述可能性とは無縁なのだ。つまり個性はその芯に記述できない脱意味をかかえこんでいるということになる。
声には系譜がある。声は類似から類似へと聯想をとばす。しかも声にはエロキューション(口跡)がともなっていて、それも声と分離できない。たとえば好きなsの発音などというものがあったりする。それらが総合されて、たとえば「冷たさ/温かさ」などといった二項分類のほかに、「自己確信的な声」「手づくりの声」といった、対立項に置けない声の分野までもが叢生、これらが枝状に進展をのばすとき、類似聯想(アナロジー)がさらに強化されるといってもいい。声はたとえば「トラ化」や「クジラ化」といった動物性への生成すら、想像的判断に呼び込むこともある。
それでもいずれ、「声」はまさにその核心を記述できない。記述のできなさが絶対的であることが声の質なのだ。だからバルトは、ディスカウとパンゼラの自己にとっての差異を、エロスを導入した、まさに好悪で、「絶対的に」語るしかなかった。むろんことばは、記述不能性を刺青されて、脱コード化に向け身もだえをする(このことが音楽評論のすばらしさを逆説的に確立する)。
声をかたる前提とは以下のようなことだ。身も蓋もない絶対的好悪に、ある種の謙譲とやわらかさを、いかにも分析的に付与するしかない、態度(慎ましさ)の問題。バルトの文章はそれを体現している。この意味で「声のきめ」というテキストは倫理的というよりも倫理性なのだ。むろん「きめ=肌理」もまた、それを語るには語彙がない。なにしろそれは表面的な平滑に伏在している粒子、その分布頻度を要求する、実際は不可視性にまつわる概念なのだから。
ぼくはマーク・ボランの声が好きだ。ところがそれも断定と比喩でしか語れない。このとき断定に謙譲の質感をあたえるのは、単純に「断定の数」の多さだろう。それで以下、マーク・ボランの声を、いわば形容詞形で「記述」することにする。それはとうぜん、ある領域をたちあげるためのリスト(列記)ともなるだろう。
震動的。人工的。痙攣的。電気的。中性的。神経質。ヒステリック。フリルがついている。襞をもつバロック。壊れたラジオから漏れる音の遠さ。聴きとりにくい間接性。空間にたいし陰謀的。フリルが時間進展にたいして粉塵を巻き込む。その粉塵は金色か銀色。つまり原色的でない。色彩としてはぼやけた細部をもつ。だから脱同定的。
同時に自己愛性、自体性という、回避できない的中性までもつ。そのありのままの感じ、そのやるせなさ。知性と怠惰と乱倫の片鱗によって脱力をもたらす誘導性。発声そのものが自己を害する厭な感触。悪魔的とも天使的とも呼びたくない何か。中間性。意味以前の動物磁気。嗜眠性。むさぼり。脱穀機。粉末。ラメ。スパンコール。粒のこまかさ。水滴。強圧(直線)的な悪ではなく分布的な悪。それゆえの悪のあたらしい定立。あるいは自己/非自己/綜合による三位一体的鼎立。その鼎立性そのものの厚みのなさ。厚みのないのにゆがんでいること。
摩訶不思議。自分の末路を予見する者の悲鳴。それでも厚顔無恥で不敵な慢心。声に「眼」が入っているもの。声がどこかで眼瞬きしてみせる永遠。気づき。気づかせ。消えるもの。おとこ女。おんな男。声の胸毛、めだまに毛のはえる病気のような。不埒。悪徳。脱コードの位置にしか置けない声の美貌。こすれ(それ自体の進行の摩擦)。摩耗。減少するもの。霊感を起点にしたものから消えだす尻尾。そのかなしい余韻。シャウトではないのに結局は悲鳴に分類されるもの。皮一枚へだてた隣人。
――たとえばマーク・ボランの「声」とは、以上のような(つまりその列記の多さによって必然的に要約可能性からはなれてゆく)ものではないか。それは「声以上の声」という点では声の同定性をうしなっている。同時に「声以下の声」という点ではたんに嫌悪すべき動物性であって、そこでは同定性そのものの絶対が現れていた、というべきなのだ。
おわりにマーク・ボランの詩才をつたえるべく、配布プリントに入れたぼくの訳詞を一曲ぶんだけ下に貼っておきます。
●
【スライダー】
ぼくはまったく理解できなかった
なにが風なのかを。
それは球形の愛情のようなものだろうか
ならばぼくは見たこともない
宇宙の海なら
それはぼくにとってむしろ女王蜂に似ていた
哀しいときには
くずれてゆくだけ
ぼくはくちづけたことなどなかった
クルマへなど
それはたんなる扉だから。
ぼくは以前いつも自分じしんを
大きくなるようにしていた
〔だから規律をしいる〕学校が奇怪だった
哀しいときには
くずれてゆくだけ
ぼくは鼻ひとつたりとも
釘で打ちつけたことなどない
そのようにしてしか庭園はしげらない
ぼくはまったく理解できなかった
風がどんなものだかを
それは球形の愛情のようなものだろうか
哀しいときは
くずれるだけ
気をつけろ
ぼくはくずれてゆく
雑感
昨日は魚喃キリコ『南瓜とマヨネーズ』レポートの講評第一回め。さすがに道産子は、あの作品に描かれている下北沢、代々木上原、新宿、吉祥寺の光景がいかに実際に即して(ほとんど狂気じみた精確さで)転写されているか、わからなかったようだ。作者がそうする必要はただひとつ、それが自叙と抵触しているためだ。
魚喃キリコは「線」によって「世界」のひろがりを形成してゆく。輪郭線の問題はむずかしい。たとえばエルンスト・マッハは、輪郭線は実在と背景の光量差によって強調されている「視」の錯覚であって、それは実際には存在しない(認識だ)といっている。だから押井守がやがてそのアニメから輪郭線を排除したのも、世界の実勢にかなっている、ということになる。
魚喃キリコの「線」による還元は世界像への選択だ。事物のかたちをつたえる線をすべてもちこみ、けれどもその質感はたとえば影などで表現されない。質感は白いままの不可侵となる。ところが線は定規で描かれず、魚喃の身体性も転写している。それは滲んだ線のように微視的にはゆらいでいるのだ。「世界のように涙ぐんでいる」といってもいい。それが「記憶」時間と接触している。いっぽう事物の質感のなさは稀薄な自己意識とかかわっているのではないか。
微妙なゆらぎをわかちあうことで等質配分されているような、たとえばツチダの背中の線と、家具のかたちや建物外観をつたえる線は、それでも揮発速度がちがう。「存在」はその実体性ではなくその揮発度から伝達されてゆく。バブル崩壊以後よりはっきりしだした逆転。魚喃マンガの女たちはそうした不如意とやさしく溶解している。だから気配であり事後であって、実際は視覚に的中しないのだ。
「大好きな」ハギオと再会して、東京タワーで遊興したのち、ふたりで(たぶん歌舞伎町の)ラブホにゆくくだりとなる。宝島社版でも祥伝社版でも119頁のいちばん下のコマ。そこでは「渦中」から分泌された「事後」がえがかれている。学生はその「事後」から、最初、拒絶と不安に滞ったぎこちないキスがなされていって、それがディープキスに転じていった「渦中」を逆算できなかった。逆算による遡行的な読み。それが仕種、人体配置とともに魚喃マンガでの心情を把握する手がかりとなるが、119頁の最終コマのやりとりは、そのふたコマあと(120頁)では脱衣の状態でなされていたことも判明する。理解が事後的に到来することは、エドワード・ヤンの映画に似ている。
それでもひとりの学生が、電線の「線」を一切省略しないことで生じている61頁の視覚驚異(脅威)をレポートで論究してくれたことがうれしかった。少女マンガでは本当のところ、「可愛いもの」ではなく「気持わるいもの」が価値をつくるのだ。精確であることで生じている乱脈。この「乱脈」がベタの束となって情動的な「かたちの分岐」をつくるツチダの黒髪へと転位する(それは俯き震えることで生じる)。このとき顔が隠れたままであっても髪のしめすかたちの一瞬に情動がある。世界の一瞬は、それを本当に「転写」しようとすると、憂鬱によって捕捉される。ひとを狂わすことにもつながる。なぜなら「日常」は総体化できても「一瞬」はメドゥーサのアタマのように分岐蠕動し、収束させようとする感覚への反逆とたえずなるからだ。
では話をもどすと、魚喃の「線」は収束なのだろうか。かんがえるのは排中律という命題だ。Aと非Aを総合すればそれはかならず「全体」になる、という排中律は、たとえばせいちゃんとツチダの同棲空間ではたしかなようにおもわれる。そうしてツチダの外側に、せいちゃんと家具などでつくられる「親密にして非親密な」空間が対位される。ところがAの個別性を純化してゆくと、非AはAそのものを差し引いた全世界、全宇宙にまで茫漠と拡大してしまい、それは「認識」に、無限にかかわる眩暈や恐怖をもちこんでくる。
人物の輪郭線はむろん個別性の表示のためにあるが、それは無限世界と対立されてふるえ、揮発寸前となる。魚喃キリコの「線」、とりわけ人物の顔や身体の線が危ないほど抒情的な理由は、個別性の定立起因「排中律」が、実際は残酷な自明性だという点に由来していないか。ほんとうは読者は、この点にこそみずからを「代入」しているはずなのだ。それで下降指向、面食い、クリエイティヴィティのない「凡庸な」ツチダを、わがこととして主情化するのだとおもう。この弱さへの同調が、魚喃マンガの宗教的価値だ。だから彼女の画のしろさは「ひかっている」。
この『南瓜とマヨネーズ』の授業は四限だった。五限の題材は、エドワード・ヤンの『恐怖分子』。認知の「事後性」とともに、ヤンの映画の細部にも視覚脅威=驚異が散布されていて、自分としてはひとつなぎの授業のようだった。この連続性を体験できたのがひとりの院生とふたりの研究生だけだったというのが、もったいない気がする
詩論
【詩論】
ひとつことばをくりだすとその奥がみえる
つづられるものはその系列にすぎない
それらはこわれてしまう降雪だから
息をととのえ、みだれるおとをへらす
反性のしわざのようだ行をたてることは
なさけをちいさくしてにじみにすることは
ゆくたてがうまれてきておのずからおどろく
断ちつつながれをうむ手のふたえ、舞い
まなかいに埒があるならあれもからだだろうか
からだはそれじしんの頭上にすぎないのに
ちいさな自殺
【ちいさな自殺】
ひとたびは孤絶してのぼろうか
はずれの路肩、その雪やまへ
かの地のひとの一行に清冽があるのは
その手紙にも降雪が映るからだ
とよみやまないしじまの逆説
ひとの裸になろうと湯にゆく者がいて
まなかいのためにクルマをあやつり
たいくつな雪の路肩へのりあげる
ましろさにくつがえる音をひびかせて
玻璃の国からだす文面をおもいはじめる
弟子
【弟子】
のぞむままの冷たさになって天が放精している
それをうける、てのひらの新聞紙が涙ぐむ
迅さの恍惚はつらぬかれなければわからない
なにもかも遅いとおもう相対に罠がある
大鵬の美貌をあふれるように載せ道新が法悦し
33面の氷瀑のけしきもましろい鳳凰に似た
アシリベツの滝一箇所、弟子屈かぎりなし
なぜテシカガの音にこの字があてられたのか
かなしげな大鵬の弟子が氷瀑になって停まり
たっていった鳥影をおのれへの放精としている
今クールのドラマ
なんか今クールは秀作TVドラマが多い、というのが、放映第一回を観終わっての感想。今後も観ようかな、とおもっているものを以下にメモします。
●ビブリア古書堂の事件手帖 フジ 月曜9時
鎌倉の古書店を舞台に、古書に隠されている売主などの人生模様を、推理物タッチでさぐる。スローモーだが抜群の知力をもつ若い古書店主に剛力彩芽、その相棒となる「本の読めない」失職者にEXILEのAKIRAという布陣。月9枠ドラマでこんな丁寧な照明ワークに接するとはおもわなかった。ただし配役はパンチがよわい。原作は三上延の小説だが、古書マニアからすると古書をめぐる逸話、そこからの推理過程に綾、ふくみ、専門性も足りない。これはもう一回観たらやめるかも。
●いつか陽のあたる場所で NHK 火曜10時
前科もちの上戸彩と飯島直子が、出所後の新天地・谷中でけなげに人生構築するという基本ラインらしい。原作・乃南アサの古典的なドラマだが、人生に積極性を欠くというドラマ開始当初の、上戸彩の暗い表情に惹かれた。彼女は一家を追われ祖母ののこした旧い日本家屋に居住、それで成瀬映画的ショットが偶然なのか参照なのか舞い込む。ただしこれももう一回でやめるかもしれない。
●書店員ミチルの身の上話 NHK 火曜10時55分
ぼおっとしているというかシレッとしているというか、ともかく生き方のいいかげんな女が運命の翻弄に巻き込まれてゆく、ジェットコースター的にしてオフビートのコメディらしい。自分の見え方に無頓着な頓着がある、という役どころでは抜群の味の戸田恵梨香が主演。宝くじ当選の大金をせしめるという幸運にはんし、今後の彼女は柄本佑、新井浩文、高良健吾、大森南朋などのあいだを渡り歩くことになりそう。そんな運命的淫乱を受難劇にかえられるのも恵梨香さんの可愛さあればこそだ。原作は佐藤正午の小説で、演出はテレビマンユニオンの合津直枝。NHKらしからぬ伏線と飛躍の多い、スピーディで高偏差値なドラマ。
●最高の離婚 フジ 木曜10時
四角四面で几帳面な(空気読めない)厳格主義者・瑛太が、ズボラきわまりない妻・尾野真千子に嫌気が差しているタイミングで、かつての同棲者・真木よう子(こっちは親切で神秘的)に再会して…という三角関係ドラマ。スピーディなカッティングによるサイレント映画的なつなぎもある。むなしく多弁な瑛太が、それでもバスター・キートン的な喜劇性をもつのが妙味。前クール『遅咲きのヒマワリ』に較べやや大人っぽくなっていても真木よう子が相変わらず可愛いが、ズボラで髪型めちゃくちゃに身をやつした尾野真千子も仕種中心に、動物的に可愛い。脚本・坂元裕二、演出・宮本理江子という手堅い布陣。たぶん最終的には高度な「結婚論」「離婚論」が飛び出すのではないか。
●夜行観覧車 TBS 金曜10時
ビバリーヒルズならぬ「ひばりが丘」という憧れのセレブ分譲地に無理して住まいだしたロウアー階級の鈴木京香一家が事件に巻き込まれる。つまり地縁抑圧というコメカミの痛むようなテーマだ。サスペンスドラマの撮影とは何かをスタッフが知っていて一発で惹かれたが、このところ『贖罪』『高校入試』と、TVとは相性のいい湊かなえ物でもある。最初に事件を提示、その後、象徴となる観覧車の建築過程(順行/逆行)を挟むことで、現在/四年前の時制往還がおこなわれる。このパズル的な時制シャッフル話法の鮮やかさに感心していると、脚本はやはり奥寺佐渡子だった。たぶん鈴木京香にたいし今後親友から敵役になるだろう石田ゆり子にドラマの伸びしろを予感する。悪役セレブマダムの夏木マリの灰汁の濃さは、もしかすると往年の「冬彦さん」的なブームを呼ぶかもしれない。刑事役に高橋克典。
●まほろ駅前番外地 テレビ東京 金曜0時12分
これは女房と一緒に観る約束でまだ観ていないのだが、例外的に継続録画にしてある。三浦しをんのシリーズ小説が原作で、おなじ原作の大森立嗣の映画『まほろ駅前便利軒』のキャスト(瑛太/松田龍平)を引きついだ、珍しや、映画→TVのスピンアウト。映画はさほど買わないが、TVドラマ化に当たっては『モテキ』の大根仁が演出に起用された(脚本も)。TV版『モテキ』に熱狂した身としては期待大だ。瑛太は今クール二本目。撮影は『最高の離婚』よりこっちが前だろう。
●泣くな、はらちゃん 日テレ 土曜9時
子供向けカルトSF中心のこの枠だが、水産加工場で働き、自室でこっそりマンガを描く麻生久美子がヒロイン。そのマンガ世界が現実に入れ子幻想的に飛び込んでくる。マンガ世界の主人公・長瀬智也が、麻生久美子に対人積極性と人生肯定を植えつける「主人励起」ドラマみたいだが、「バカ」をやらせれば最高の長瀬の演技、それと世界観を設定しておいて面倒な部分は不問に付すドラマ進展の疾走力によって、笑える。ドラマに使用されるマンガはビブオ。知らなかったがしりあがり寿のカルトマンガの画柄を髣髴させる。これが接写コマ展開されたり、CGをつかって立体化されたり、現実と合成されたりというギミックも愉しい。ギャグ偏差値、忽那汐里、奥貫薫、薬師丸ひろ子といったキャスティングのこのみから脚本がクドカンではないかと予想したら、意外や山田太一の後継者・岡田恵和が脚本だった。人生派からの宗旨替えか。いやその片鱗は、長瀬が一回目で唄った、出鱈目ながら泣けるフォークバラードの歌詞にみとめられた。笑わせながらも真面目なドラマなのではないか。そう、この枠特有の「悪意」「ルサンチマン」が消えたことで、久々の好感ドラマとなるかもしれない。
●dinner フジ 日曜9時
オーナーシェフ風間杜夫の三ツ星リストランテが、風間がクモ膜下出血で倒れたことで、たちまち味を落とす。風間の娘である支配人・倉科カナは、窮地をしのごうと風間とおなじくイタリアの名店「テレーザ」で修業した経験のあるもうひとりの男・江口洋介を新料理長に迎える。以後、江口は料理人たちや倉科カナたちに厳しい料理哲学と技術を伝授するという展開だろう。つまり松嶋菜々子を江口がしごいた『救命病棟24時』のリストランテ版。リストランテ内の面々には松重豊、ユースケ・サンタマリア、八嶋智人、志賀廣太郎など。冒頭、俳優たちの料理する手の交錯をフラッシュ編集気味につないでゆく映像のアレグロ音楽性、それと音楽の入れ方から予感したとおり、名手・星護の演出だった。星演出には『高校入試』的な静謐調と、『世にも奇妙な物語』的な交響性=幾何学美=バズビー・バークレイ調の二類型があるが、『dinner』は後者にちかい。しかしこの演出法が料理ドラマにも適合するか、予断をゆるさない。眼と眼のあいだの広い抒情、という新しい個性を体現している倉科カナが、いまは若手でいちばん好き。ドラマごとに演技力が飛躍的に向上しているのも眩しいし。
のべぼう
【のべぼう】
よみがえらせるように川風がわたるので
とりわけ雪の橋がしろくこおるのだという
なんの金属でもないそんなひかる延べ棒が
かすみゆくちいさな彼方へかかっている
台帳からおもいかえせばいい雪中の橋は
それを世界とよべばもう単数ではなくなる
さきへ架かってゆくうごきが延べ棒に転じ
空間のささえもじつは水平軸へ兆すのだ
かぞえうる橋は線で現下の豊平をしめしあい
うかんでならぶことでかたちの貯えとなる
逆
【逆】
おんなを膝のうえにのせて
うしろから抱くというのはどうだ
そんざいに樹蜜があふれてきて
もろとも大樹になりだす老化がある
しんしんとふる雪のなかで一樹が
空へのわかい墜落をねがうのもみた
おもてに衰えのなにも兆さないことが
ものをつらぬくじっさいの懶惰なら
ひとも樹も浮上でおのれを裁かぬために
うしろから抱かれる老いをポーズする
消滅
【消滅】
うまれたときのあんな痛さをおもえば
もともと泳ぎなんて寛解にすぎないのだから
ものさびる川をさすらい痛みを拾う身は
おびるものとしてぼやけていったのだ
退きのさい次の世から雪をうける予祝で
あわいその身もぼやけていなかったか
後ろ姿にさしだすここからの長い返盃が
あふれ世にわく酒精までよみがえらせるとき
死に水のたぐいも水のままに酔うだろう
それだけの魚へ還る、消えのかたちに向けて
●
大島渚監督の逝去で身辺がたぶん変化する。既成の大島作品論にくわえ、いろいろな論を新規に書きそえて、追悼もかね大島映画を顕彰する本を至急につくりだすことになりそうだ。体験し興奮した映像・音響の大島的細部を、時代から映画そのものへと解放する返盃の書をつむぐこと。とりあえず予定していた帰京が順延になった。雪まつりをみたいといっていた女房の申し出も断った。やってくる二月はたったひとり、雪の札幌で大島映画に対峙し、会話してゆくだけだ。
少年ほか
ミクシィで書いた、大島渚作品にかかわるマイミクへのコメントを、以下にペーストしておきます。
●
『KYOTO, MY MOTHER'S PLACE』は、ロラン・バルト『明るい部屋』にも似た、静謐な傑作です。「母の写真」が主題のひとつになる。写真を語ることが母を語ることになったバルトと、場所=京都を語ることが母を語ることとなった大島。渡月橋は以後、この作品を抜きに語ることができません。それとナレーションが大島さん自身で、そのことで画面個々が架橋されていました。橋の映画です。
『少年』は去年暮、北大の院ゼミでとりあげました。実際に雪の札幌に住んでみると、あの作品の北海道部分が、いかに雪をドキュメントしているかが身に沁みます。『少年』であの美少女が死んだとき、だれが悪いのか、という質問を院生・研究生にしました。渡辺文雄か、少年か、チビか(少年が自分の拳に、母から買ってもらった腕時計で自傷行為をし、渡辺文雄が誤解してその時計をほおりあげ、チビがそれを取りに行こうと走って、クルマがチビを避けて激突事故を起こす、という、でたらめな因果関係の一連)。
「神様がわるい」、という結論しかでない、というのがぼくの答でした。そのとき、当たり屋という、(身体を賭け金にしたという意味では売春にもつうじる)自己再帰的犯罪の環が断ち切られる。つまり世界の不可知性が、犯罪の可知性にたいし上位化されるのです。そうして少年は世界の構造を知る。そこから「正義」と「他者」の関係が無告の少年のなかで考察されるのです。むろん死んだ少女のうつくしい面影は、それでも少年を泣かさざるをえない。
『少年』の素晴らしさは、放浪家族の犯罪から反転して正義が語られるとき、そこに「リズム」への考察が相即してしまう点です。ゆっくりしたリズムを断ち切るように、一部のカッティングがリズミカルで、そこに魔的な性急さが、やはり大島映画的な符牒として出来する。とりわけ、補導逮捕→訊問→身柄移動のラスト。そこで大島たちは、律動が終わらないためには、作品の質問性が終わらないためには、どうすればいいのかを発見する。横に車窓風景の流れるそのうごきを、そのままフェイドアウトで黒味化してしまえば、作品終結の保証となる黒味もまた、永遠に横移動してゆくのではないかと。そうして一家の「全国行脚」が観客の体内に実質化されてゆく。そのように院ゼミでは語りました
さよなら大島渚
いまNHKの速報テロップでながれた。大島渚監督が逝去したと。覚悟していたこととはいえ、愕然としている。晩酌済で酩酊しているので以下は手短に書く。
ぼくが芸術系映画のみが好きだ、と学生時代、クラブの先輩から揶揄されたとき、最初の反対論拠が大島さんの映画だった。世界的なレヴェルでの「前衛」に極東から伍するときに使用された、日本的前衛(花田清輝など)の価値化がまず愛おしかった。それと東映任侠路線、小川プロ作品、日活ロマンポルノなどの攻勢にたいしてしめす煩悶が、ゴダールとの並走性自認とともに、愛おしかった。あるいは大島さんの「呼吸」はせっかちだとおもうが、せっかちさにたいして丁寧に語ろうという『少年』や『愛の亡霊』の内部葛藤が、ひいては田村孟など創造社の面々への、ひめられた慚愧が愛おしかった。
実際に二度、インタビューでお会いして、とくに年少者にたいする、「若年であればいかなる赦免も厭わない」侠気あふれる温情にゆさぶられ、同時に往年の蓬髪の波打ちや表情の女性性に、なにか神秘的なものに直面する畏怖をもかんじた。速さと聯想と対象の汲み取りが天才的に篤く、それは「やさしさ」と叡智の融合としかみえなかった。
大島さんの功績は、「そのままでは映画性にならないものに、〈瞬間的な映画発想〉を付与し、それらを映画性のなかで素早く救抜した」、即興性の連続した作品群にまずは挙げられる。それが「68年前後」に集中したのはいわば「世界的な運命」だった。そのことに歴史からもたらされる「鳥肌」を生ずるが、じつは映画性の即興的付与は、たとえば山本政志に、あるいはとくに最近では松江哲明が継承してもいる。作品価値ではなく公開価値がまずあったこれらの大島映画の類型こそが、ぼくがもっとも崇敬するものなのだった。
じつは、去年暮れ、中村勘三郎逝去の報の翌日、すでに大島さん逝去の「誤報」がネット上に流布した。そのとき旧知の編集者から、00年代前半、初の大島さん危篤の報を受け一旦は立ち上げられたXデイ出版企画を再燃しようともちかけられていた(そのときはひとの死を商売道具にするのをぼくが嫌い、企画がながれた)。でもこうして亡くなられたいまは、この中断した企画を完成させる侠気がぼくにはある。
期せずして、先週、北大の院生ゼミの講義材料が大島さんの『愛の亡霊』だった。大島諸作のなかでも一、二を争う愛着作だ。この作品の冒頭ちかくには「1895年」という年代テロップが出る。とうぜんリュミエール兄弟が映画興行をパリ、キュピシーヌ街で開始した「映画生誕の年」に照準が合わされている。このとき、車屋儀三郎(田村高廣)の引く人力車の車輪が映写機のリールや撮影カメラのマガジンのロールと喩的関係をむすぶのは当然として、大島映画に例外的に出来した宮島義勇撮影、岡本健一照明の、演劇的布置の完璧性ともいえる1ショット内の全体的「宇宙」が、映画性に斜行する理由は何かを、院生に問いただしていたのだった。解答は「部分化」、つまり「メトニミー=換喩」ということになるのだが、この説明にはかなりの字数が必要となるので、この緊急記事では割愛することにする。
ともあれ、この点もふくめ、編集者との約束から、大島渚追悼本に、長い追悼書下ろし原稿を書く春休みとなったことだけは確かだ。期せずして、昨日今日の東京は雪。いったいだれが、白地に「黒く」日の丸染めたアナキストの旗の翻った、『日本春歌考』のあれら画面をおもわずにいられるだろう。
おもいだす。大島さんは出会うと、本当に幸福感を「頭脳」と「肌」にあたえてくれるひとだった。あのひとの知性が、ぼくの偏屈をも民主的に汲んでくれたのだった。映画評論家として一本になるにあたり、そのことがいかに励みになったか。お礼を何度申し上げても足りない気がする。だからいまは心をこめて合掌
異形
【異形】
うしろあるきで窓側からはなれてゆくと
部屋のなかすべてが鏡面となるのを背にかんじる
もともと昼の部屋も窓からのひかりだから
もどりはつもる雪の昇天してゆく窓外までみせた
閉じのひらいてゆく、この池のさまがいぶかしく
いつから身がもどり舟になるとも知ったのか
尻魂をすなどった川の、ながれの割れるところで
すなどりの腕と舌すらわかれそめた日があった
ものわかれにおもいは百眼のようにひしめいた
のでうしろにむかういまの背がなみだの甲羅
形象
【形象】
わたしにきえかかっているものは
掌紋や、みた日々の水紋
ゆきの昼、家にひそむことは
紋章をなくす気おくれまでよぶらしい
けれどふりかえるにはてのひらへ
たしかな貝をのせるにかぎる(その順序
これが鐚ではないほんとうの
頬近にもたらされるほんとうの脈
とげや巻きやひらたさの交易から
この肩にもだれかの掌紋がおろされる
松江哲明・フラッシュバックメモリーズ3D
1月19日から公開になる松江哲明監督の3Dドキュメンタリー、『フラッシュバックメモリーズ3D』の、東京での試写にどうしても行くことができず、松江監督の温情で、反則だがその2D版DVDをみせてもらう。3D上映ではないのだけど、からだと脳が底の底までゆさぶられた。
簡単に全体を紹介すると、オーストラリア・アボリジニの特異な吹奏楽器ディジュリドゥを自在にあやつる日本の奏者GOMAが、09年11月、高速道路で交通事故に遭い、高次脳機能障害で記憶が刻々消滅してゆく病状に陥りながら、演奏者として再起を果たすまでが多層的な進行で捉えられる。
画面の基本構成は前景・後景の二層。大づかみにいうと、後景には過去のGOMAたちの演奏シーン、過去の写真や家族ビデオ映像、事故の前後を創作した映像(進行するクルマのフロントガラスから捉えられた高速道路の光景をCGアニメ処理したものや、GOMA自身が体験した臨死体験映像)、GOMAとその妻のしるした事故後の苦闘をつたえる日記文面の接写など「過去の映像」が配され、それと合成される前景の映像には「現在の」再起したGOMAとそのグループ、The Jungle Rhythm Sectionの映像が配される。
つまり過去の前景に現在が飛び出し、その現在の尖端に、GOMAが前方にもちあげるように吹く楽器ディジュリドゥが棘のように観客に突き出される、というわけだ。3D上映ならこのレイアー型布置による立体性がそのまま観客の眼と身体を直撃し、しかもディジュリドゥの音そのもののすごさも爆音上映されて、時間、記憶、再生が主題と知りつつ、まずはトランスに陥ってゆくだろうとおもわれる。
ディジュリドゥの音がすごい。ウィキペディアで調べてみると、白蟻に喰われたユーカリの樹木でつくり、吹き口に蜜蝋を塗り込め、全体を共鳴体にするらしい。アボリジニではおもにこれを祭祀にもちいたということだ。木でつくるから木管楽器かというとそうではなく、その吹奏形式から金管楽器に分類されるらしい。ジャズ楽器でいうならチューバのように野太い音がするが、それでも草木の枯淡が音色じたいにつよく印象される。
いや、この説明ではまだ手ぬるいだろう。管体に穴はなく、音程は吹き表されない。複雑な顫音、つまりは打楽器にもつうじる波動音で、ズドゥズドゥ、ズドゥズドゥズドゥ…と高速の呂律=律呂を発散、それで四方を強烈に震わせてゆく。分節が脱分節化してゆく経緯にトランス状態が発する。打楽器に似たこんな吹奏楽器など初めての経験だ。
それは「自然〔じねん〕」にすでに融即している草木的な律動を、大地をつかって増幅させ、世界原理のすべてが呂律=律呂だと覚醒させるような効果をもつ。The Jungle Rhythm Sectionの演奏は電気増幅されたそのGOMAのディジュリドゥと、ドラムス、パーカッション(金属打音)、パーカッション(ボンゴ)の三者が交合同調する、打撃音の大規模な地上振動ととれる。振動とは呼吸のことでもある。じじつディジュリドゥは、吹き口で唇を震わせることで演奏音を開始させるが、その光速的な持続では頬をふくらませ口腔に溜めた呼気では足りず、そこで循環呼吸がもちいられるらしい。複雑な吹奏技術が必要らしく、それを日本人のGOMAが会得し、アボリジニからも称賛されるのは奇蹟ともいうべき事柄だろう。
ディジュリドゥの演奏音には音程がないと書いたが、実際は唇のふるえによって日本の歌唱のコブシに似たような波をつくることができる。それとディジュリドゥの種類によってはトランペットのように管体に伸縮をつくれるものがあり、そのときは流動的で大規模なスラーも実現できる。
ところでパターン奏者ではなくインプロヴィゼーション奏者では、思考のうち最もつかわれるのが記憶だとおもう。一旦演奏された音型は記憶され、時間軸上で奏者はそれを展開してゆく。そのときには差異をかぎりなく創造する一方で、回帰がおこなわれたりもする。GOMAの演奏をみていると、反復と差異が一如となる、ドゥルーズ的な永劫回帰の刻々が渦巻いている強度に直面させられる。そのGOMAに記憶機能の甚大な失調が起こったのだ。
ディジュリドゥの音には音程がないのだから、記憶機能の減退・喪失はさほどの打撃にならないだろうとおもうのは誤りだ。たぶん脱分節化される寸前のリズム分節をGOMAは循環呼吸をフルにつかって差異展開している。それにリズムセクションが同調交合して、演奏全体は圧倒的に同一な時間でありながら刻々の差異を内包する融即性を湛えている。だから高次脳機能障害で記憶はおろか感情や思考まで磨滅し妻子との家庭運営にくらい支障をきたしただけでなく、演奏者としての力能と同一性を丸ごと奪われる根源的な危機をもGOMAが迎えたということになる。
過去の演奏や旅行、家族映像をみると、GOMAは身体鍛錬も怠らない、前向きで快活な男だった。自然体が身についてもいる。アボリジニ楽器と一体化することでアボリジニの世界観を身体全体に刻印した偉丈夫だとわかる。その彼が、演奏仲間など演奏の実際をすべて忘却したとき、最初におこなったのは絵画作成だった(それも娘の画材を借りての初めての行為だった)。画面に彼のなした画業が捉えられて衝撃が走る。彼はアボリジニ絵画そのものを描いたのだった。細密性、色彩と形象と反復のリズム、それによる装飾性とうねり、全体にわたる大地と宇宙の感覚…のちに事故後の自分は、もともと自分が演奏者ではなく画家だと錯覚していたと述懐するが、つまり演奏を忘れたときにまず彼に現れたのが自然〔じねん〕の呂律=律呂だったということになる。アボリジニの存在型式が彼のからだふかくに潜行していたのだ。
このからだそのもののもつ存在復元力がやがてディジュリドゥを手に取ったとき「記憶ではなくからだで」「自然に」吹奏をおこなえる自らを導いてゆく。脳の部分損傷で記憶、思考、感情などの活動が減摩されたとき、損傷部位の周囲が活動機能を代補する奇蹟が生じる場合のあることは知られているだろうが、GOMAでは、身体に浸潤していたリズム=宇宙的呂律が、脳の損傷を代補したということだろう。むろん再起までに厳しいリハビリもあっただろうが、再起の芯をなすリズムそのものの代補性が感涙的だった。
音楽従事者のみならず、詩を書く者、あるいはボクシングなどのスポーツにたずさわる者などにもわかるだろうが、「リズム的思考」は曖昧ながら確実に存在する。リズムの波動、往来、鼓動が、確実に世界の事象を捉え、しかもリズムが捉えた流れを馴化し、そこに時間と区別できない空間を現出し、それが創造する自らを、これまたリズムの一機能「産出」に向けて鼓舞励起するのだ。ということは、GOMAの再起は、身体そのものの「思考的」本質をその内実にしているとわかる。しかもそれは時間論にまで延長できるのだ。
もともとGOMAのディジュリドゥ演奏では脱分節化直前のリズムの細分的な「分節」が、差異創造の作用域だった点は前述した。ところがそれは、「時間」そのものの属性でもあって、ということは、時間は未来への視線を経なくても、それ自体で「希望」(と呼ぶべきもの)を孕んでいるとかんがえられる。「いま」から「いまの直後」への移行にすでにメシアが潜むとエルンスト・ブロッホならいうだろうし、「いま」でも「過去」でもそこに感知される時間の隙間がメシアの息吹に充填されているとベンヤミンなら口外したかっただろう。
おそらく本当の演奏とはそうした時間そのものの救抜性を存在化する特殊技能者の営為であって、その特殊技能者のなかにGOMAも列聖されていたのだ。悲観的にみれば、アルトーのような思考剥奪の晩年に向かうかのようなGOMAに、ニーチェ的な強度が発光する。それが、松江が前景にだした「現在の」GOMAの演奏で、その後景には「過去」が差異として息づいているのだから、松江もまたじつは身体の「思考的」本質によって、時間そのものを救抜したことになる。だからこの3Dドキュメンタリーは「トランス」であると同時に、「トランス=哲学」に上位分類されるのだ。
リズムは世界の本質として在る。それはドゥルーズ/ガタリがリトルネロ(ルフラン)を世界の本質に定位したのとおなじことだ。
これらぼくの書いていることは、ぼくが作品に触発されて思考したことで、松江が作品でおこなった事実提示は淡々としている。事故の事実のテロップ表示、演奏撮影の監督、GOMAの資料提供による彼の過去の召喚……その程度のものだ。ただし松江の思考力はそれらの提示「順序」の適確さに透徹している。しかもその提示を前景・後景の層に立体化して、脳そのものの構造へと画面(運動)を膚接させたときに、なにか「映画演出」におそろしいものを付与している。自分ではなにひとつ語らず、「配備」だけをし、当該対象から「世界」を引きだす――むろんこれが松江的ドキュメンタリーでの、叡智のいつもの流儀だということはいうまでもないだろう。
GOMAの日記文面によれば、松江からドキュメンタリーの企画を提示されたとき、過去の自分の映像の再見がおこなわれたという。それらはすべて記憶のない自分にとって、よそよそしい他者にしかすぎなかった。ところがそれが「自分といわれているもの」なのだ。その「過去の自分」は「現在の自分」を知らない。ところがそれこそが自己把握の本質だ。なぜなら「現在の自分」も「未来の自分」を知らないのだから。おそらくそうして自己という時間をつかみなおすことによって、「記憶が外見とともに当人の最大のアイデンティティだ」という妄執から、GOMAが離れることができたのだとおもう。GOMAのアイデンティティとは、身体そのものがもつ内在性、そしてそれを色彩化しているリズムで、それこそが「世界」に干渉する。つまりひとは外見や記憶で、世界に干渉するわけではないのだった。
ところで松江には、在日AV嬢にスポットをあてた『Identity』というドキュメンタリーがあった。あるいは『あんにょんキムチ』も『童貞をプロデュース。』も『ライブテープ』も『あんにょん由美香』もすべてアイデンティティにかかわるテーマを隠し持っていたと気づく。そうでなければ松江の諸作は都市そのもののアイデンティティにたいする質問性をもっていたはずだ。けれどもひとつの身体に潜航し、社会的にではなく(身体/時間)哲学的にアイデンティティをとらえきったのは、この『フラッシュバックメモリーズ3D』が初めてだろうとおもう。個人的には「身体」の根源を口腔から考察した『母型論』、臨死体験映像をあつかった『ハイ・イメージ論』、アボリジニとつうじる歴史の初源性を考察した『アフリカ的段階について』など吉本隆明の著作を最近再読していただけに、より『フラッシュバックメモリーズ3D』が切実なものとなった。
つけくわえるなら、紹介されるGOMAの日記文面には、2011年3月11日付のものがある。東日本大震災の日、リハビリから帰宅した彼は、保育園にいっている妻子に連絡がつけられなかった。それからの日々に、記憶障害におちいっている自分と震災の惨状をかさねあわせ、未来展望がまったく描けなくなったといった意味の文面をもしるす。存在的被災。ということは、偶然だが、高次脳機能障害に陥ったGOMAの身体が、東日本大震災と喩的関係をむすんだことになる。このとき本作が捉えた身体の「思考的な」本質=自然の呂律は、さらに実効的な意味をも伴ってくるともいえるだろう。
3Dによるからだの覚醒のために劇場で必見。ぼくも帰京のタイミングがあえば、そうするつもりだ。ここでぼくのしるしたことはすべて作品の補注にすぎない。「本文」は劇場での圧倒的な3Dのなかにこそ築かれている。
あな
【あな】
ひとよをかけておなじうたをがくずれ
うつるところごとにちがううたをちらす
このくちびるがまるいかたちになると
まるさにつられながれてくるしろもある
それらをうたうのならばはじきかえすいきが
すでにけだものとなってみつにぬれている
ただそれだけのことだひとのひとよも
うたのわにからだをとじこめきえてゆく
あのときのゆきむしがいまはゆきのまい
ただそれだけのことだあなのひとよも
空間、右手左手
昨日は全学授業、講座会議のあと、押野先生と応先生に誘われて、修論提出打ち上げの院生のつどいに行ってしまった。「ちょいと一杯のつもり」が結局は一次会の根室食堂から二次会のかんろの閉店までいて、午前様のタクシー客となってしまう。座の終わり間際で腹を抱えて笑いつづけた体感がのこっているのだが、さて何を可笑しがったのか、記憶がとんでいる。
おかげで今日午前は宿酔、予定していた健康診断も順延した。午後になってようやくアタマがはっきりとしだし、新年以来、ふれることのできなかった詩句書のたぐいにふれはじめる。以下はその簡単な寸評。
川上未映子さん『水瓶』。去年の「詩手帖」年鑑号の詩集年間回顧記事の執筆までに入手できず気になっていた一書。川上については小説『ヘヴン』への感動以後、最初にかんじた詩への違和感も溶解したのではないかと期待をもって手にとった。結果は微妙。意味がこわれ、同時に音韻意識の貫通している散文体の詩篇がならぶのだが、最近、「圧縮体」をこのんでいる自分にとって、換喩傾斜の現在的意義はみとめられるものの、やや聯想の恣意に疲弊する感触がつづいた。
彼女にとって小説/詩文の分断線は何だろう。換喩が空間を呼び寄せ、そこに心情化の現出するばあいを小説、換喩が音韻を呼び寄せ、そこに創造的な混乱の提示されるばあいを詩文といっていいだろう。ところが詩もことばのはこびのなかで空間性が如実な骨組みとなる瞬間に閃光を放つ、という逆説があるようなのだ。たとえば以下。
《老女はもうすぐ終わるベッドのうえで、もうすぐほんとの終わりかけ。ほんとのちょっとの瞬きに、すべてが黄色い夢を見ます。それは黄色いあつい夏の日のこと。老女は長く生きたけど、この夏の日のことを思いだしたのはその生涯で一度きり、この瞬きのことでした。老女はもう、自分の名前を忘れてしまった、黄色い夏の、青年の、すてきな名前ももちろん忘れた。あんなにきれいな名前です。覚えているのは、黄色いばかりの、「しびれる、足を、もっとみて」。//生きてるあいだは忙しかった。けれど老女はもうすぐ終わるベッドのうえで、もうすぐほんとの終わりかけ。老女を最後に訪れたのは、それは黄色いあつい夏の日です。我々が知るのはいつだってつみあがってきた日々のあれこれ。こちらから見れば、すなわちそこは、生きています。》(「バナナフィッシュにうってつけだった日」最終二段落)。
ぼくは「ベッド」とともに、「夏の日」「日々」までもを「空間」ととらえてしまう。「こちらから見れば」という往相のことばのもつ機能がそれほど大きい、ということだ。すると、「声」も遡行的に「空間」に変成してしまうのではないか。それで、鉤括弧でくくられた「声」--「しびれる、足を、もっとみて」も「くくられる一定性」をもつゆえに、これを場所とおもってしまう。そのような錯視が、たぶん読解行動に電撃をもたらすのではないか。
『水瓶』ではほかに「わたしの赤ちゃん」が素晴らしい。川上の出産体験が、空間をことばにかえる生々しさにみちている。ところが途中、小説的な「文」(この一篇がもっとも小説にちかい)が「詩」に変成するくだりになると、たちまち空間性が溶解するグダグダとなって弛緩の生じてしまうのが惜しい。いいたいことが伝わりにくいかもしれないが、実際は「音韻とは空間のことなのだ」。それを川上未映子につたえるひとが必要なのではないか。たとえば川上『ヘヴン』はそれに成功している。
巻末に収められた書下ろしの標題詩篇「水瓶」は、水瓶にまつわる奔放な想像力、意味変転力に感動したものの、ひとつのことでブレーキがかかった。詩篇中で数々用いられている語「少女」がダメだったのだ。むろんぼくの個人的な問題にすぎないが、ぼくはどうも「少女」を詩中につかうことが近年、まったくなくなったらしい。この語をつかった瞬間に詩が陳腐化する気がするからだ。いずれ評論でもそうなるかもしれない。ミソジニーが気分のなかを上昇しつつあって、それで槍玉にあがるのが語「少女」なのではないか。
ともあれ、暗喩ではなく換喩が詩作の本質と見極めるようになってから、「空間」「場所」にたいする感受が鋭敏になってきたような気がする。おなじ意識は俳句読解にもかかわるようだ。その流れで、高岡修さんのあたらしい句集『果てるまで』を読んだ。
表題作となる幽玄な一句、《果てるまでこの遊星の白あやめ》は事物の一句だろうか、象徴の一句だろうか。それでぼくはためらわず感じてしまう、これもまた「空間=場所」の一句だと。そうおもって打たれるのだ。
高岡さんだからとうぜん秀句目白押しの一書なのだが、「空間の句」として震撼をおぼえたのは以下の二句だ。
昼顔に昼顔つなぎゆく遠さ
一瀑は柩にいれて立てておく
もうひとつ、素晴らしい手の句がある。手が「場所」と離れて記述できない宿命を句が負っていて、そこでの「右手」「左手」を以下、対屏風にしてみよう。
右手置く一万年後の春の辺に
左手を菫と思う西の窓
またぞろいわれそうなのが、それぞれの句の「右手」「左手」は「左手」「右手」に動かないのか、ということだろう。ぼくのかんがえでは動かない。「みぎて」の三音、「左手」の四音は「絶対」で、ここでは音韻ではなく音律がたぶんそのまま「空間」だからだ。むろん「左手」「右手」には罠がある。それぞれ「ゆんで」「めて」という古語の「3」「2」の「音数」をかくしもつからだ。ところがその二重性をも、ぼくは空間=場所だとおもってしまう。
甘露のあと
【甘露のあと】
みんなと「かんろ」で百合根のバター煮をたべ
あまさにひそむ微量のにがさに口もとを割る
そとへ出るとふたたびくらやみを雪が漏れて
ひとつの長い息のまに耳下腺までふけこむ
きこえないがきっとある合唱が降雪とされた
ために札幌のもんだいは音、これを日録とする
かたちはどうでもよくなる、うら庭へ湯をこぼし
それがどんなこおりをやがてむすぶかなども
これらの思議はむろんばれてはならないが
むなもとから影をふやす身が雪棺に迫られる
オルゴール
【オルゴール】
なにかの原罪のために湿原が雪棺でおおわれ
おおきな軍船のようにみえる眠る一角から
人格「北限」があらわれ丹頂を踊らせている
それじたいを手回しの回想曲というべきだろう
きこえる音にも鼓膜めいたものがあったが
輪につながるすべてなどざんこくにあやめた
手さばきそのものが落下する橋なのだから
くずれゆく優雅もロザリオとしてはならない
ほんとうならその眼が鶴を定めるはずだったが
羽搏きをみおろすには頭部がきえすぎていた
支笏湖
【支笏湖】
いてつくほどに朝焼けがあざやかなのは
遠さと深さに連関をみるからかもしれない
せまいひたいのような地平にわりこまれて
おおきな湖面のまぶたが血紅で切られる
すべてが水深である水の由来のまんなかは
支笏の名に、まぼろしの河骨をしずめ
すべてが水深であるくぼみのなかみでは
つながることで谺がただ筒抜けている
そうして容積には水の欠落する幅もうかみ
朝焼けたおんなのひるがえるのがみえる
一穂
【一穂】
ひとつの空間にとって音が過重となるように
罠、と書いて、動詞「いななく」がよびだされる
なにかの警鐘をならすでもないこのひびきを
こまくを怠惰にする音へ変えることができるか
胸板なることばの無惨に、高胸坂をおきかえ
雪のかさねを視てとおす。屍幾つかというべし
よぞらに吊られているだろう脚折れの凍馬からも
機械仕掛けのかたりがしたたる。その距離が
じぶんをおもう北人のうるわしい眼路だから
空のもと酌みゆく身も、馬の透蚕となるばかり
時熟
【時熟】
とおいそこだけに風景の湯気がでていて
しかもそれがひとと無縁の気配だったりする
たましいが湯気となってみえるときには
おもいでの老人や錫杖が介在しているのだ
たまごの累なっているまなこが見あげる
ながれる黄身により雪空がひらかれて
ひとつの時熟に結節をかんじるとするなら
それらもくだものの姿をしているだろう
往年とはひとの身めぐりのすべてだから
おおくのすれちがいざまが蜜をこぼす
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今日からは正月気分を遮断しないといけない。一日夜に女房が実家でつくったおせちをもって来札、翌二日はお屠蘇ですごしたのち、三日から五日朝までは支笏湖畔の丸駒温泉で早くもふたり今年の骨休め。その後はシネマフロントで封切映画を観たり、地デジで放映された香港映画の日本版リメイク『ダブルフェイス 潜入捜査編』『同 偽装警察編』(ともに羽住英一郎演出)を家で観ていたりした。西島秀俊と香川照之という黒沢清組俳優に、くらげなどの黒沢清的ディテールもくわわる力作ドラマだが、香港映画的な物語の結節が着実にあって、現在の日本のドラマより「侠」がふかい。だから二編を通すと、角野卓造、伊藤敦史、小日向文世、西島秀俊の「死にざま」が哀しい。「潜入」にまつわるサスペンスも見事なのだが、結局、その存在感から「役柄の悪」と束ねられてしまう香川照之は、死んでいった「天使たち」にたいし不自由なのかもしれない。つけくわえるなら、小日向は、『ダブルフェイス』のほうが『アウトレイジ』よりも図抜けて良い。正月早々、感銘した本なら竹村和子『彼女は何を視ているのか』(作品社)。とりわけ終わりのほうの、ローラ・マルヴィとトリン・T・ミンハとの討議・対談などに、さらに展開してゆくべき映像論の萌芽が数々あった。最後に。年賀状の返しで四方田犬彦さんがお元気とわかり、嬉しかった。
賀正
【賀正】
ふくざつにめくれ細部の翻っていた貌が
ほのひかる球体へとみがかれてゆく
はじまった今年はまだ一日のうすさだが
それがたぶんあの球形をちいさくしている
じぶんの内壁に敷き貼られていた箔を
下へとながしたのっぺらぼうがながれて
すがたのあいまいもよきかな、と
箔のみちがすべてを享けてさわさわする
したがってしずけさの音にも二流ある
かんがえと心のせせらぎが二流なように