くずれ
【くずれ】
ときどき夜陰にぼやけた雪かさが
しんだおんなより肥っているのをみては
くずれの概念がけがされてゆき
まなこが泥みたいににごるのをなげく
こんなふうに路肩は巨きい伸びをするのか
こんなふうにくるまの道も搾乳にほそるのか
まなざしはるかへ塔がほしいとおもうそのとき
ずるりずるりと層なす叛が屋根からすべって
屋根のゆえんが妖しい病みになってゆく
つかのま在ったあれらもローランサンでなかった
途中
【途中】
一節とはみしらぬもののありかたで
つづきつつ変わるものなら見知っている
くすぐったいといいながらとろけるひとの
もえてうるむひだの、視覚のないことも
ふる雪にまざるフィルム齣をおもわしめ
心眼というものはみずからの遠くにならぶ
「見知っていると言え」このように視へ
いたずらに途中である雪がおりてくる
つらなりの裸にみえる連続がただあって
ぬれた立ち往生から往生がこぼれる
ゆきやなぎ
【ゆきやなぎ】
とじているなかにも縦横無尽があって
せつせつとふる雪は域をくるわせる
それで北方派はみずからの耳目をうたがい
ゆきわたる者への一瞥を一聴にできない
きくうちにそれがうまれなおす予感
ゆびがふれただけで熱死する肩のように
からだの端が尖りをおびていることは
ゆきやなぎの芽を人へのばしているのだ
うすぼけたからだではただ重量が愛される
たとえばブーツをぬぐかたちの折れが
国語表現法
四月から国語表現法という授業をもたなくてはならない。教職をとっている学生(とうぜん文学部だから国語)のために、国語をかんがえる別視座をあたえる、という主旨でもあるらしいのだが、文学部内の講座のもちまわりで講義が毎回運営されていて、映像・表現文化論講座からはぼくの起用となった。「文体論」ではないアプローチで、というのが前任者からの依頼事項。
吉本『言語美』を基礎でまなんだのち、そこから応用篇で保坂和志『カフカ式練習帳』の断章を個別に捉えてゆく、とシラバスには書いた。なかば勘だ。保坂はふつうの文同士が最短でむすびあっても、そこに小説性が生じるのはどのようにしてかの実例集で、そのうえで複文をあるだらしなさを意図して駆使する。文章が折れ曲がるときに生じる内在域をかんがえているのだ。
そこから箴言、詩、寓喩、小説の分光が生じる。けれども分光は諸ジャンルの単独性までもを招来しない。かならず小説性がていどのちがいで混入している。だからこそ、語に幻惑されるのではなく、文が加算されてゆく単位に感興が生じ、書かれたそのものを受けとることで世界像が変化してゆく。カフカ式とは誇張も過剰もない丸裸の散文性が自身を伸ばしてゆくときの換喩運動ではないか。それを読もうとすると「それ自体でしかないもの」に眼は充満されるだけだ。保坂ははっきり書いていないが、カフカにたいする従来の読みから、寓喩、動物性、謎といった鍵語を外そうとしているようにおもえる。
ロマン・ヤコブソンの、小説=換喩、詩=暗喩という二分法はずいぶん粗雑だ。実際は詩作すればすぐにわかるが、詩こそが換喩のあらわな形式なのだ。ともあれ、日本の「戦後」は暗喩から換喩への舞台転換だった。《革命歌作詞家によりかかられて少しづつ液化してゆくピアノ》の塚本邦雄から、《人の生〔よ〕の秋は翅ある生きものの数かぎりなくわれに連れそふ》の岡井隆にヘゲモニーが移行したのもその一環だ。いいかえれば吉本は換喩中心の詩の時代を「修辞的現在」と呼んだのだ。
『言語美』での「短歌的喩」論考の極点では、岡井隆の『斉唱』第一首、《灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ》が論じられた。この歌の上句下句の分離は統合できない。統合できないまま統合するしかないのは、書かれたものすべてが要約不能の物質性をもち「書かれたままだから」だ。意味還元できないことがむしろ「意」「情」となっていて、一首の主題はそうした等分性にある--およそそのように吉本が綴ったとき、暗喩で捉えるアプローチしかない塚本がすでに予感的に超えられていたことになる。ただ吉本も、保坂とおなじく換喩ということばをつかっていない(喩の分類の話題には出てくるが)。
むろん『言語美』は、「自己表出」と「指示表出」を二分し、そこから文学表現をとらえようという野心を、文学の諸ジャンルに果敢に適用した大作だった。実際は「これが自己表出」「あれが指示表出」といった分断はひとつもない。そのふたつがどのように連動して、連動のなかにふたつのうちのどちらの優位がよりあらわれているかの考察が反復されているだけだ。吉本の卓見は、前構成的な情動が自己表出だとすると、構成そのものが指示表出になる、という指摘にまず現れる。これで詩も小説も同時に視野に収められる。ところが「前構成的なもの」と「構成」を総合するものが、部分→全体、一域→隣接域へと「ともに向かう」換喩の運動にほかならない。
文体という概念は基本的には自己表出的だ。ぼくも青年期のころは「文体」に多大な影響をうけた。石川淳、花田清輝、平岡正明、蓮実重彦…… ところが柄谷行人に影響を受けたとき別のレベルへの変換がおこった。「文体のなさが文体であること」が柄谷の特性だったから、柄谷からの影響は、文体論からの解放を同時に意味することになったわけだった。これを吉本の用語でいいかえてみよう。
柄谷にあるのは単純「構文」のつらなりで、その主述は永遠に代入可能で、代入が繰り返されることで思考が未踏の域にまで展開されてゆく。この「構文」が指示表出なのだ。では自己表出はあるのか。石川淳から蓮実にいたるまで「文体」は「息の個性」だった。そういう個性は不要のものとして柄谷では透明化されている。あるいは吉本は自己表出/指示表出の座標をつくり、そこに品詞を分布させたが、自己表出の最もつよいのが感動詞、つぎが助詞だった。ところが柄谷には助詞の使用に文学的な偏差(すなわち価値)を置いていない。
国語表現法が詩作演習だとすれば、まず詩は構文(指示表出)だと観念して、その観念にいたる過程で、自己表出を強勢なしに配分構成してゆくように、さらには、そのときに理解可能性につき検証もおこなうように、といった演習方向を出すだろう。日本語で書かれる詩ならば、助詞は、強勢を摩耗させる配分基準となり、詩は第一に動詞で書かれるとはいえ、それを方向づけるのは助詞なのだと補足する。助詞の勉強のためにも、吉本『言語美』はおおきな成果をもつ。とりわけ和歌の分析が適当だろう。
時間的余裕がないので飛躍するが、小説文、詩は、日本語では構文と助詞の葛藤、総合、離反として現れる。それら葛藤が時間軸上に生起する傾きのつよいのが詩で、空間軸上に隣接域の生起として組織される傾きのつよいのが小説、と一応はいえるだろうが、この区分は本質的でない。詩の生成においては隣接の分野が空間から、空間個々をつないでゆく時間へと移るからだ。つまりふたつに本当の差異などない(そのようにして川上未映子などは読まれるべきだろう)。
だらだらとした自己分岐性、あるいは、ことば以外のなにもないことは小島信夫から保坂に継承された。同時に保坂は『カンバセイション・ピース』ではプルースト/前田英樹の精度にもせまった。「ただひとつのことが書けないこと」、それが表現だ。だからそれは書き誤りを生む。保坂が小島に匹敵できないのは、この書き誤りを大胆に自分に引き込めないことだろう。そこでドゥルーズ的動物化(動物への生成)も話題にしなければならなくなる。
国語教育においては自己表出と指示表出、「それぞれをそれぞれとして最終分離できないこと」が提示されなければならない。綴り方が自己表出、文法が指示表出、といった因習的な二分法こそ脱力的だ。書き誤りが自己表出、構文が指示表出で、そのふたつはからまりつつ現れる、程度の示唆はしたいものだ。そのなかから構造的に読むことの愉しみ(この場合は『カフカ式練習帳』)が現れる。むろんあらゆる授業も、すぐれた詩や評論や映画とおなじように、「創作原理」を繊細に伝播することでしかない。
書き誤りが自己表出だという例。《むろん--なのはいうまでもない》。重複があり、この念押しのしつこさそのものが、透明性の観点から論難される書き誤りだ。批評にありがちなこのマチズモを回避することは、実際は批評対象や批評方法にかかわるマチズモを除去することにもつながる。そうして発語は健全化されなければならない。授業=国語表現法がたどりつきたいのは、もしかするとそのあたりまでかもしれない
北方派
【北方派】
雪中ではくちもとが禁じられる
たばこだって手袋で吸えない
粉ゆきが口腔へそのままはいれば
ひともあたたかい袋になってしまう
それでは内壁系の無惨なので
たがいはひびきのために並びたつ
身を捨てるほどの北の橋はある
からだすべてが肺の秘密なのだから
まぶたをひらかせてゆく雪などは
うかびあがることばの屋根で受ける
屋根から屋根へ
【屋根から屋根へ】
あけがた雪おろしする者たちの侠
うすあかねの空がその背後にちかい
雪の落下をさばきだすかれら点在は
ひとりひとりの屋根へ拠りながら
たがいを相似でわたしあう力にかえて
はなれたうごきからは多重奏も鳴る
はしごをたてかけそこへいたったこと
みな空にむかう途上の揮発をおびて
きえかかる身や男伊達のきらめきが
ながれゆく高さなどをうるませる
ダンス
【ダンス】
ひびきがふるえ、鼓膜をなでるのだろうが
ふくろのちかづいてくるかんじがする
そとへでれば雪が音をもたないさみしさから
頭頂へと垂線のおりてくるのも知っている
ふりつむ無音が音とちがうのはふくろがやぶけ
そこにじぶんのからだ全部がはいるためだ
知ることが知ることで測られる同心円には
おなじもののあいだのひびきが鳴りやまない
きよらかなひろがりは箔のちりばめにあり
そこへ手をさしいれてまぼろしを生もうとする
山鼻界隈
【山鼻界隈】
ものの箇所がかんがえの曲がりかど
みるうごきはけして単数をゆるさない
あたまにふくざつな天蓋をおろすため
雪かさでふくらむ路肩をおれてゆく
だれかの寝台であるようなたいらは
ふむ足にふれて寝るひとをうかばせる
それにしても山鼻の道にまがる悦びはなく
うすあおくくぼんだ女体もつかれている
たいくつをけしてくれる降りつみの退屈
とどのつまり層だけがおんなみたいだ
昨日は
昨日は体調不良、というか集中力不良。理由はいくつか自覚している。PC遠隔操作事件の容疑者逮捕につきワイドショーをハシゴしてしまったこと、連日の疲れ、自分の書いた詩にあたってしまったこと。
ながく、すくなく書くと、どうしてか書いたことのすきまが気になって、読みなおしたくなる。こうしるすと自己愛みたいだが、むしろ自分のこれからのくずれが、すきまにすがたをぼやかしてはいないかと、怖れにみいられたように書きものにまいもどってしまうのだ。なにもみえない。あるいはほとんどみえない。この感覚はなにかに似ているはずと記憶をさぐったら、デュラスの『死の病い』をおもいだした。そうか書いたのはレナード・コーエンではなく、デュラスだったのか。性愛は架空でも、書けばあぶない。
朦朧詩なのだが、詩篇のいちばん肝腎なくだりに、読み手をみちびく像がたりないと自己分析する。それで二行を書き足して、綾子玖哉さんに添付メールをしなおした。トータル101行になった。綾子さんからお礼メール。『みんなを、屋根に。』へのうれしい感想もあわせて。
詩篇を書き足すと、そこが気づかないまま重複になってしまうばあいがある。なにか心理上の罠といえる。「墓穴を掘る」の成語に似ている。そう知っているので、注意力をといだ。たった二行なのに。こういう作業が昨日はなぜか困憊をよんだ。
はやく大島映画の評論にもどりたい。『日本の夜と霧』論をしあげれば、既発表の「メモ」を精密化し、そのあとは68年前後の即興性のつよい連作的集団創作群にまつわる書下ろし、それから総論(これらはネット公表しない)へとすすんで、これまた発表済の大島にまつわる文章(ただしうちひとつは『キョート、マイ・マザーズ・プレイス』についての未発表講義草稿)を抱き合わせて全体が完成となる。
大島渚を書くことは神経をつかう。とりわけ既存の大島論、大島本(そのなかには大島さん自身の本や語りも目白押しにある)と論旨重複を避けたいからだ。つよく意識するのはやはり四方田犬彦さんの『大島渚と日本』。
映画に換喩論を導入するのが、いま映画研究の趨勢になりつつあるが、大島映画は暗喩映画で、しかもそれが「解けない暗喩」の電撃力をもつ点が彼らの独創だった。暗喩が文学的なのにたいし、「解けない暗喩」が脱文学的だという点はすでに書いた。
もうひとつ、大島映画の細部に亀裂を走らせる概念があるとすれば、それはやはりドゥルーズ(『シネマ』ではない)からもちだすことのできる、動物性の生成かもしれない。大島では画面展開が、あるいは俳優が動物化したときに、ぞっとするような運動線が生起する。このことはまだ誰も書いていないだろう。それを書下ろし部分で書きたくてウズウズしている。
あるいは大島渚の中心的な感情とは何だったかというもんだいがある。ひとは彼の立居振舞に幻惑されてそれを「憤怒」というだろうが、ぼくは悲哀だとおもう。それに、数学的な無感情がとりまいていたのが、彼の代替不能な個性だった。そこに「美」にたいする警戒心がくわわる。それがあって、彼は周囲とともにみずからを複数化させていったのだ。自作を信じることと信じないことのあいだには、危険な葛藤もあった。
「悲哀の調律」といったのは往年の中沢新一だった。感情になにか基本的なチューニングをおこなうときには、創作では悲哀が選択されてしかるべきだということ。とくにいまは、そのように創作原理が解かれるべきだとおもう。むろん評論は研究分析ではたりない。対象にわけいって、えられた創作原理によってみずからを再組織し、それを評論の受け手に反射させなくてはなんの意味もない。そこでふとおもうのは、詩作もまた書かれたもののうえに創作原理をむきだしにしている、あぶない二重性だということだ。
岸辺出し
金石稔(綾子玖哉)さん主催、北海道・北見拠点の詩誌「阿吽」へ、今朝、詩を一篇つくった。半日熟成して、さっきすこしととのえた。あすにはメールできるだろう。「一篇で、ただし長さは自由」という注文だったので、いつもは五聯でおえる二行聯連続詩を、三十三聯書いてみた。(33×2)+(33-1)、総計九十八行の比較的長い詩をしあげたことになる。
このごろはみじかい詩ばかりをつくっているので、ながさになるためには身体の転調が要る。とうぜん一行をかるくして推進力をだした。樹木の林立を草原にするかんじ。二行聯五つの詩篇では、いわば起承転結的なつつみを全体でなして、その「結」をかるくほどくとよい、とは発見している。となると、長さにむかうためには、物語り=魅〔もの〕騙りのゆびをなして、書かないが「そしてet」で連接してゆく換喩意識を、さらにたかめてゆけばいいとおもった。
換喩表現にある、「隣接域」からの語の取りだしは、詩のばあい、自分のおもう隣接が通常の時空的隣接とちがうという、違和表明となる。ところが二行聯詩では聯間行空白がおそろしい頻度で規則的にまいこんで、隣接時空をさらに切断する。すると映画でいうジャンプカットの連続となる。
それでは詩は修辞実験の並列になって、おもいがつながらない。このとき接合をはたすのが語調=音韻と、「書き」にまつわる自己法則、さらには物語的なもの、ということになるだろう。書いてみておもった、やはり物語か、と。
いつもながらのことだが、たいした主題はない。文法破壊と瞬時の哲学提示と音韻だけを書いたといってもいい。それでも長さに読み手が倦まないために、路上の交渉によって性愛が成立していったという架空の物語をもちいた。意識したのはレナード・コーエンの「チェルシー・ホテル#2」。そこに札幌の夜の空気をいれた(深更へとのびた昨日の院試採点作業ののち、タクシーの車窓からかんじたものだ)。タイトルは「岸辺出し」。
書いたものはたぶん永遠に詩集には帰属しない詩篇だ。こういう詩を書くと、疲弊がきわまり、同一形式の連作ができないので。
多くの詩はながすぎるとおもう。圧縮せよ、ということではない。それでは暗喩詩が復活してしまう。むしろこうかんがえる--みじかさ、ちいささ、すくなさの表情が、そのまま詩なのでないか。ふだんそうおもっているが、からだをかためないために長い詩篇づくりを実験してみた。それで現れたのは、「長いのに、すくない」「それでも物語の走行距離は、身体を軸にすればながく、それでもそのことが目立たない」という感覚だった。
雪の衝突
【雪の衝突】
こころのなかの足が空気をぐわぐわ蹴る
ひとがゆくとはこんなことでもあるだろう
ふぶきがうめいてふりかかる雪のすきまが
むきだしのぞうもつになっているはなやかさ
さかさが疾走してきて速さとは運動だけ
ではなく形象そのものだとも知ってしまう
とんでいる烏賊のおそろしさが夜にある
こころのなかの手を自分の腕骨につたわせ
あることは再帰においてなんらかの交接なのだ
そんなものが身のうしろへとちぎられてゆく
壺
【壺】
われてもつがれるのが壺のいのちだ
かけらのとびちったたまゆらをにれがむ
ゆかのわずかうえのひとところに
われのためにくぼんだ異なりがうまれて
まずそれがきえた壺のつやめきを吸い
ひいては裂け罅のようにもぼやける
そのないもののかたちの立ちが
あった内がわのふくらみにゆらぐので
あわれ雪の日のこわれからこわれへと
かけらのうえ壺がひらかれつづける
箱
【箱】
ものをとりだす手つきのために箱はある
ふたをあけることを「咲かす」というひとがいた
しまうことがかんがえをふくらますが
じっさいには箱はならべながら見較べるものだ
どうしようもない失態というほどでもないが
こうして数がならぶとからだまでがどうかなる
箱のゆいいつの昇華とは身のためいきだろう
それをかかえ鏡のまえでポーズをたしかめてみる
窓外は雪、あらわれる角度それぞれが咲いている
やがて手から箱のいくつかがすべりおちて、わらう
ぶらんち
【ぶらんち】
とおくをみすえ初めて首のかまえができる
ふる雪のむこうにそんなうつくしい犬をみる
朝はいつもはれている、昼まえからふる
うつむいたかまえで菜に塩をふってしぼる
炊いたものは崩れるまえのつやめきを盛られ
それを飯することもただ遅れへの盟となる
即興じたいに価値があるわけではない、それが
あらかじめの決めとこすれる細部がきれいなのだ
とおすまなざしにのぞみがあるなら希望も筒状で
ものではないことになる。食後は眼をつむる
ちりめん
【ちりめん】
ひと日にして路肩の雪かさがひくまり
ただならぬ水が道にあふれだした
くつの冬ぞこにあるこまかい溝が
水はかゆいと線をよじり春先をうむ
ただなかで交通を停め縄跳びをする
あのばけものからもれる音が煩い
おとの黒によって北都がひろがってゆく
ひとの顔もただ濡れきった藁になって
空気のはだしというべき縮緬にふまれる
みんな逆さだ、穴とわらいのさかしま
ドラマ演技
昨日は夜中に起きて、録画済ドラマを色いろみていた。
『最高の離婚』は第三回、第四回。前者では瑛太にたいし真木よう子がなぜ愛想を尽かしたかのエピソードを、眼前にいる瑛太が絶望の張本人であると特定せず三人の面前で語る。事情は、瑛太が、さらに真木の知らないことだが尾野が知っている。綾野剛は自分の知らない者の挿話として聞いている。八戸、父恋、ジュディマリ、鮫、ジョーズ…発語にある具体性が心を打つ。
後者では尾野真千子が、瑛太の鉢植え(盆栽)や書籍をひっくり返しながら、いかに共感に組み替えようとしても瑛太の日々の言動の質が自分を絶望に追いやったかを声を張り上げて告げる。
真木よう子の静謐な語り、尾野真千子の全身をもちいた情動、どちらも圧巻だったが、スイッチング的編集で瑛太など反応する表情が挿入されていたとしても、真木、尾野への撮影が長回しだったことは明らか。俳優演技のすべてを引き出そうとする演出の気魄をかんじた。長科白は橋田寿賀子ドラマとは質がちがっているし(実際は「長いけれども」圧縮されている)、映画のように無言の身体にたいしてではなく、語る身体にたいして長回しがおこなわれている。
オルタナティヴな日本映画が、俳優の身体を無名性のまま存在化して息を呑ませるのにたいし、TVドラマのほうは、有名性をもつ俳優身体を、「演技」の付与によって増幅している。俳優にとって演技台帳に貯えをもたらすのは、じつはTV演出のほうかもしれない。日本のメジャー映画はそうした富をあまりTVドラマから奪っていない。だから武井咲の「意味」を去年の日本映画が組み替えたことには大きな意義もあった。
『泣くな、はらちゃん』長瀬智也の、マンガキャラを「活人画」したような、からだの抜群な造形化と捌き、『dinner』倉科カナの、眼のうるみの、異常ともいえる抒情性。これらはじつは邦画メジャーではお目にかかれないものかもしれない。日本映画の価値は俳優の単独性の発見だが、TVドラマの価値は俳優の連続性の承認なのではないか。このふたつはじつは対照をえがいている。