ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

3月末にするお知らせ

 
 
本日は昼に『映画監督 大島渚』の再校紙がとどき、それに取り組む。三時間ていどでひととおり見渡し、本文については校了。コンビニにゆき、返却郵送の手続きをした。版元が「急ぐ」といっているのだが、実際の刊行は5月か6月、とのこと。

この本、写真(スチル)を入れない、ということになった。まあぼくの文章はこまかい細部に分け入ってゆくので、「代表スチル」を抽象的にうたうのもおかしい。スチルを入れ、それに正規の版権使用料がかかるとすると、おそらく定価も500円くらい、はねあがる。本が売れない現今、スチルなしの映画書を成立させるためには、文章で画(の推移)をしめさなければならない。自己採点ではそれができているとおもう。あとはDVDでごろうじろ、というわけだ。

去年末、ちからをそそいだ長稿がふたつ、このところあいついで刊行された。どんな原稿を書いたかというと――

ひとつは北大大学院文学研究科、映像・表現文化論講座の機関誌『層』6号に寄せた、「「女の子写真」と『OLの愛汁』」。田尻裕司監督の伝説的な傑作ピンク、『OLの愛汁』が、いかにそれ以前の「女の子写真」ブームを自己組成しているかを、「写真→映画」の手順で詳細に分析した。援用したのがドゥルーズとバルト。

いまひとつはアーツアンドクラフツ刊『吉本隆明論集 ――初期・中期・後期を論じて』に寄せた、「吉本隆明の悔恨」。吉本思考には厳密な一貫性があるという瀬尾育生さんの吉本への総括に、「悔恨の契機」をやさしく(?)上乗せしてみせたものだ。一貫性のほうを論証するのが、『言語美』と『最後の親鸞』『母型論』の連関だとすると、悔恨の具象物となっているのが『記号の森の伝説歌』(まあ、これは手短すぎる言い方ではあるのだが)。

で、これら「映像」「哲学=詩」、ふたつにまたがる論考にたいし、ぼくは共通した思考ツールをつかっている。それが、換喩=メトニミー論だ。「映像にとって換喩とはなにか」「言語的創造にとって換喩とはなにか」、いずれかに興味のあるひとに、上のどちらかを一瞥していただければとおもっている。

どちらの刊行物も、東京ではジュンク堂など大書店で入手できるはずです。以上、自己PRでした。

読みかけのアガンベン『バートルビー』はゲラの到着で順延になった。そのまえは、山崎ナオコーラの二冊を読んでいた。ぼくは「少女マンガ」を蔑称にもちいることがないが、それを前提でいうと、彼女の小説は少女マンガ的だ。余白と行替えから、一冊の小説が一冊のコミックと同等の時間で読めてしまう。その意味ではナオコーラの小説は、詩集の崇高な敵でもある(流通論的にいうと)。

 

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2013年03月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【筒】


わたしがなんの同時性かは
わたしにとどこおるしかない

みつめるいまがおなじ情をもつよりも
おなじあかりにあるほうがこころはおどり

その光源が星だとすればわたしらの顔は
それじたいひかるようにもおもえる

気に入った夜の、気に入ったぬれ場だ
もつれる形象のうつりをコマおくりにして

すべてをおぼえようとすればするほど
はだかは星のひかりとなりうすれてゆく

ひとのからだが充実というのはいつわりで
そこには幾何学的な筒がつながっているだけ

筒のなかをひかりの粒がゆききして
ここに裂けているのも愛恋なのだろうか

はやさをかえて音がきえた日からは
同時性のファンファーレが聴こえてくる

ふたりである対がすでに林立をなして
まだらする疎だけがまなざされてもいる

こうしたことはひとみの悲劇というにあまり
かててくわえ振り子のように首がふられる

微分されたものはなにか死んでいる
あらわれる自動がけずられているのだ

眼はつむるのではなくつむらされる
かたむいているちからが髪のまざりで

うつり絵のなかをかなしむ滞留は
そうであるかぎり回帰をなすだろう

ふたつの岸が同時にあることの川を
からだめいたなにかの筒とうけとれば

みずからをたえず追いつづける水は
とがったうごきだから序にもとどまらない

なびきをうけるわたしがなんの本章かも
わたしだけの同時性がくりのべてゆく

すながひかりの底にたまっているのか
それがまきあがる筒のただなかで

もはやわたしはおとといだ
きのうのくるのを、待つ
 
 

2013年03月30日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

中間性について

 
 
中間性とはひとつの「うれい」であるかもしれない。自己決定性をうばわれて、あいまいさにたゆたう領域。たとえばいま東京で満開のさくらなども、ぼくの視覚が特殊なのか、その花がさくら色にみえたためしなどほとんどない。だいたいがしろく、亡霊的に帯電していて気味わるい。そういえば葛原妙子はさくらに銀をみた。

うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在処おもほゆ

中間であることはそもそも日本語の属性で、中国伝来の漢字をそのままうつしながら、同時に和語の音を温存するため漢字から「かな」という表音文字をつくりあげたとき、視像と聴像の――意味と音韻の――男性性と女性性の――圧縮と延引の――二重性、中間性がその「文のからだ」に決定づけられた。言語的な宿命ともいうべきもので、この自覚によって詩の「よまれる速度」などを組織できるのだから、詩の作者は、日本語特有の、中間性の「うれい」と、面と向かうしかない。

ぼくは齢をとって「より淡いもの」に、このみを移すようになった。いったいに、文の地がひらがなであらわされるべき「あわいからだ」だとすれば、そこに嵌入してくる漢字はやはり概念性、図像圧縮性、イメージなのだから、それはがんらいの規定不能性にうがたれるイメージの窓、という気がしてくる。詩文は「眼もなくかなしいからだ」に、漢字のめだまを装飾的にうがつことに図像形成上は似てくる。漢字が暗喩的なら、ひらがなが換喩的だという双対性(デュアリティ)も感覚できるだろう。むろん齢相応にあわくなるということは、漢字の使用頻度が減り、和の音がにじんでくることで、いまのぼくのこのみでいえば、改行詩では一行に漢字が二、三箇所あって、行頭はひらがながいい、という感触になってさえいる。

あわい、ということでおもいだすのが、むかし「シティロード」編集部がインタビュー場所によく指定した「かひでん」(表記は失念した)でだすコーヒー。ぼくは映画の宣伝をしていてよく俳優などをともなってその店にむかったのだが、そこのコーヒーはカップの底がすけてみえるほど色がうすい――というより「さゆ」にちかく、インスタントコーヒーの顆粒を数粒いれて撹拌したような印象なのだった。

ところがいわゆるロシア・フォルマリズム用語でいう「最小可知差異」のなかに舌を設定してしまうと、そこから芳醇なコーヒーの旨さ――苦さ・酸味・あじわいが「微小のちから」となって、たちのぼってくる。にじむような味覚への刺戟に陶然とさせてしまう魔法があって、訊いてみると、アメリカンコーヒーのようにお湯をまぜるのではなく、そのような「うすさ」として細心に淹れあげてあるのだという。松田優作も「ここのコーヒーは旨い」といっていた。

あれはカップのなかのいろが中間性だったコーヒーというだけではない。なにか先行する味覚を基体に、嗅覚が、視覚が、聴覚が、触覚が、すべてあわさにむけて混ざりあい、ひとのからだをどこかに溶かしだして、自分の実存を残余にかえてしまう生成力をそなえていた。もういちどあじわいたい。店は新宿南口から甲州街道を笹塚方面に二、三分あるいた古いビルの二階にあったのだが、あのあたり高層化してしまっていて、後年はさがしだせなかった。都市開発できえてしまった名店なのだろう。

中間性のはなしだった。詩作はじぶんのおもうような中間性を、視像と聴像、あるいは漢字とひらがなで自発的につくりあげることができるが、評論となるとそうはゆかない。そこには論旨というものがあって概念性がたかまるから、どうしても漢字の使用頻度もましてくるのだ。ぼくのふるい友だちの武村知子さんなどは一時期、「むすぼれ」という和語をよく評論語の鍵にしていた。関係性の成立がそのまま結節となるようなあらたな概念がそこにうまれ、同時にそのむすぼれには、いわゆる臓器的=オーガニックな、身体的調和が指示されていた。そういう和語から評論概念を「中間的に」ふやしてゆくいとなみは、いまもあってもいいとおもうのだけれど、なかなかそれを展開するには勇気が要る。

アガンベンは『スタンツェ』のつぎに『裸性』を読んだ。短い評論的エッセイをつなぎ、そのエッセイじたい、序数を配した断章形式がつらぬかれているのをみると、形式的にも中間性をあらわした書物だったといえるが、アガンベンのいう、帰属をうしなった身体の疎外態的な単位(権力・暴力の最終的な作用客体)、「剥きだしの生」がここではたんじゅんに裸身にむすばれて、エロスと神学の概念が再検討されている。むろん裸身はキリスト教世界では「原罪」なのだが、ならばヴェールを剥いてあらわれた裸から、さらにヴェールをむくことができないのか。それはどうしようもない「剥きだし」にすぎないのか。あるいは「天国」に列聖されて「問題」から回避された身体では、生殖器はどのように思念されるのか。アガンベンのかんがえではそれは、中間性を具えられて霧のようにさえなる、ということだろう。そう、天国で表象される性器こそが、「うれい」なのだった。

いずれにせよ、アガンベンの『スタンツェ』と『裸性』をつらぬいているのは、「哲学」と「詩」を、身をもって中間化する「混合」の態度だといえる。もともと「哲学」と「詩」は一体化しているべきだったのに、いわばギリシャ以降の言説に「原罪」というべきものがあって、それで分離をしいられたというのだ。それに再縫合をかける使命をもったものが「批評」で、つまりアガンベンにとって批評は、中間化の媒体だということになる(「天使」なのだ)。彼はその骨法をベンヤミンからつかんだ。まえに書いたように、ベンヤミンのなかにアレゴリカーとメランコリカーが分離不能に同居していることが、アガンベンにとって決定的だったのだとおもう。

ともあれ、ぼくにとっても「中間性」がものごとに惹きつけられる指標となる。その意味で詩はおそろしい。たとえばかなと漢字の混在を一瞥するだけで、いわゆるベタかそうでないかが、即時に把握されてしまう。むろん漢字はおぞましい。
 
 

2013年03月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

四大によるわかれうた

 
 
【四大によるわかれうた】


ひるの時間をものうく映している
しずかな、水のような顔が眼前にあり

おそらく形象とはかたちそのものではなく
みずからにすこし遅れる淀みだとおもう

石のようになげられた風で紋ができても
いまが何かなどいっさい判読できない

ひふは情をつつむかにおもわれても
ひふそのものが情となってくぼむのだ

渦中をのむひとの、仕種のちいさな舟
やがてそれはきえる汀へと移動してゆく

このことがうごきのほのおとなるから
水火のあいだにはあらゆる誤認があって

木片がそらをゆくとみとめるのも
やがて鳶の春がくるといいなおせばいい

きみのひるはこれからどのピアノのまえで
ゆびさきのまに木片をかがやかすのか

鉋くずやおがくずをうまそうだと誤認した
ぼくは音をきけばすぐに木のひとになる

そのような直立でただゆれるものは
地上のろうそくになることをねがうのだが

水に多くかたむく水火のうるわしい顔は
もえることをあいまいなやけどにかえてゆく

水によってもえるもの、たとえばものがたり
ぬれ髪のひとがかわくまでのうすさを

ここからする、とおいながめとみつづけて
みつづけるなかに目の砦をつくってゆく
 
 

2013年03月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

渓と蝋の関係

 
 
【渓と蝋の関係】


とある王の、詩へのかんがえによれば
いただきに佇つとはことばの渓を

みずが斜面にあたえた疵とみおろして
そこが散る花をふきあげる時間差を

眼におりたたんで失語することだという
いずれにせよ身をたたんでいるのに

たかさをみずからのうちにかんじて
はずかしくおもうその空間失明が要る

なにもかも空間さ、やがて花はそれをつげ
みたしゆく涯までをその春でみちる

とある王の、詩へのかんがえによれば
みずくさの遍満と揮発にさほどのちがいもなく

からだはいつも顕われに対面しているという
ひとは空間から時間をとりだすために

かんたんに橋をわたりすぎているともいう
まずはうごきはじめた渓流を沿いおりて

蝋となり透けている馬を帯同し
ひらくこの世の扇へとことばをおろす

うけとめている音のない陽のひかりを
ひかりそのものにうけとめかえさせるように

つかずはなれず馬とのあゆみをつづけ
ふたつながらの影絵をこころにくらくうつす
 
 

2013年03月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

卒業

 
 
【卒業】


もほうする、毛布のしごと
くるまれたものをみなおなじにする

くる風にたちつくす姿勢まで
ふるさがつくる石筍のむれにかえる

おなじ肩を三十もくっつけあって
種族のなにをたしかめているのだろう

すぎさった師恩をみなとうぶんにもち
うつくしい内部は長幼でできている

繊毛のような先端がけっきょくはひとを
ゆらめかせているひゆのしわざなのだ

そのようにうちがわに偏差があるから
じぶんの異質にさわることをする

それだからみな、かなしむまえには
なだめるおのれを毛布につつんでゆく

おなじ舌なのかさけびでは口をあけろ
それはきみ以前にきみの鳥なのか

きぜつとねむりにどんな差があるのかは
からだが気づいている方角のもんだい

ひかりへおちてゆく自覚があるのなら
くらさに親和するねむりからとおざかる

もほうする、毛布や服のしごと
みみくりとみみずくも姿をとりかえあう

たっていることの意味にではなく
たっている場所に還元されるしかない

いまや身と身ではなく場所と場所が抱き
はだかさえ排中律とかさなっている

いまどこ、と地上で訊ねあうようになって
冬のおわりのなにが青さをましたのか

あそこにひとつ、わたしがひとつ
よばれてゆく身にのみ一致がうまれ

のこされる居どころの余韻だけが
そのままおもいでになっている
 
 

2013年03月27日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

真似の真似

 
 
昨日アップした詩篇「酒場を素描する」中の第二聯、《ふいにとけだしていってわらい/おのれからわきでるものを真似てゆく》は、藤原安紀子さんのあたらしい詩集『ア ナザ ミミクリ』(書肆山田、13年1月刊)の一節にある、動詞「真似る」の詩的語法を拝借したものだった。藤原さんの素晴らしい一節は以下。

《〔…〕しかし分身は奔って逃げ、顔面から顛倒する、だからといって不自由はなにもない。(ぼくは)ぼくは、(くりかえし)記憶を真似ていたい。》(105頁)

せつなくて、すごくいいフレーズだ。「こだま」もある。

この藤原さんの詩集は、藤原さんらしい繊細な語感が横溢している。そこにやはり語の部分消去(蚕食)、分離、誤変換、和語的なひびきのみを盛った不明語など、アルトー語につうじるような藤原語が豊富にはいりこんでいる。詩集標題どおり、語から語の伝達(模倣=ミミクリー)がanotherになっているのだ。

しかも、篇にわかたれた構成でありながら、詩集全体が長詩として構想され、分節が有機的に連続してゆく。

結果、白頁があるとおもえば、一頁一行の詩句があったりして、その一行が次頁の詩篇の扉のようにみえたりする幻惑的なつくりになっている。往年の稲川方人の詩集編集を意識したのだろうか。一読だけではとても把握できない、空白をはらむゆえの複雑な構成で、しかもその複雑さに魅惑が同居する点は、昨年度の現代詩のおおきな達成のひとつ、望月遊馬さんの『焼け跡』をも髣髴させる。まあ、藤原さんのほうは女性らしく、やわらかな透明感を志向しているのだけれど。

再読してもっと詳細な読解を得たいとおもうが、いまは『ア ナザ ミミクリ』からもうひとつ、ぼくがノックアウトされたディテールを拾っておくだけにしよう。これもぼくのさきの詩篇が影響されたところ。



単一が水の束や光りの棒にとまり飽きることなく嘯く
でたらめのうたも真空の音。ひとけのない窓辺をこの
目はいつも透りぬけて破る。ぼくはいま絶叫している。

ぼくはまだ絶叫で代弁し 代筆の順番を待っている。

(75頁)



《ぼくはいま絶叫している》というフレーズには、意味内容と書かれ方(たたずまい)に齟齬がある。ただならない内容が落ち着いて書かれている分裂に、クレタ人の逆説のような、自己再帰的な矛盾があるのだ。その自覚が素晴らしい。

ところで最初に話題にした「真似の真似」は、藤原さん自身の戦略でもあったのではないか。動詞「真似る」の破格的な使用については、2010年の最大の詩的達成のひとつだった高木敏次さんの『傍らの男』中の冒頭詩篇、「帰り道」の以下のラストフレーズが意識されているはずだ。



辻では
ぬいぐるみを抱いている女の子
市場からの帰り道を探している人
ぬいぐるみには慣れないし
帰り道も知らない
もしも
遠くから
私がやってきたら
すこしは
真似ることができるだろうか



高木さんはこのように、動詞などにあらたな語法を発見して、読者をはげしく動悸させることがよくある。そういえば「ガーネット」69号に掲載されている高木さんの詩篇「途方」では、動詞「油断する」にうつくしい語法拡張があった。



〔…〕
教会のバルコニーからは何が見えるのか
行きずりの私には見えない
幹が立てかけられ
何が獲れるのか
このまま階段を登ってゆけば
私に油断することができる
〔…〕



「油断する」という動詞は、怖くて詩にはなかなかつかえない。むろん石垣りん「挨拶-原爆の写真によせて」の達成があるためだ。その最終聯を念のために書いておこう。



一九四五年八月六日の朝
一瞬にして死んだ二五万人の人すべて
いま在る
あなたの如く 私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。
 
 

2013年03月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

酒場を素描する

 
 
【酒場を素描する】


ふたつであることはそびえている
たちがれの樹のならぶ位置にそうおもう

ふいにとけだしていってわらい
おのれからわきでるものを真似てゆく

植物や事故のおんとろぎーだ、まるで
いま起きることがそのまま起こりになって

ひえている寓意に水をめぐらせる同意
ならばあらわれているかたちが二度ある

ひとつひとつをおぼえたい毛も睫毛しかない
そんなものでかこわれている古代のひとみ

やがてさかずきをめぐらす腕によって
たがいの距離にうつくしい窓ができてゆく

「理念はモナドである」「モナドに窓はない」
きみの単一を、分割不能をそれでも束にして

根雪の下をあらわしてくるわらたばだけ
いまからの不吉をのべる繋辞にすれば

わらたばでできている脳の、めのうのいろ
もつれあう一瞥はほんしつをそのようにみる

ゆううつを愛にまぜすぎるんだ、それでも
まぜものの酒に予想をはずれたうまさがある

カップのうすいへりにくちびるをよせて
からだにくるっている鋏を想像する

たがいに同期している嚥下のじかんをつうじ
「われとなれ」が呑み消されてゆくのだ
 
 

2013年03月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

くやしたさんのふたつのからだ

 
 
【くやしたさんのふたつのからだ】


くやしたさんのふたつのからだの
うちひとつがしろくうるんで

どうやらやなぎの春がきたらしい
からだふたつで隻眼をあらわしている

しろめがたまごのようにひろがって
われるすんぜんにいるのだとおもうが

白磁などというひゆはつかわず
うるむかたほうは水よりもゆらめく

その立ち位置がすでにやまいで
どきどきするこころが春情になる

日のつづき、あたしかわるのよ
からだふたつは踊っていれかわり

あたしからあたしがでるのよ
いれかわるから黒もみえたりして

ロシアの下着つけてるみたいだ
「さしいれる」という動詞が好き

あるいている木の橋そのものに似て
くやしたさんはくやしたさんをわたす

花はないけど手をのばされると
そらにひかりのつぶがあらわれて

なんとこけっとの古典とは
服につつまれたわきのしただった

くやしたさんのからだふたつで
いったいがこもれびみたいになり

きょうは雪をふまずにきたの
わらうと耳のあることもさみしくなる

くやしたさんの三つ編みはなんの伸び
それを引くとおどろきが出そう

まわるためにうまれてきたひとさ
からだふたつとしてまわりつづける

どちらかを好きになることは
むろん両方にひきよせられることで

だからくやしたさんのふたつからだの
いれかわるあまいおんがくが好き

ぐるぐる手回し、ぐるぐるしろ黒
舌にいれかわってゆくあまさが好きだ
 
 

2013年03月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

アガンベン・スタンツェ

 
 
ジョルジョ・アガンベンの『スタンツェ』(ちくま学芸文庫、岡田温司・訳)は詩作をこころざす者には必携図書のひとつだろう。「スタンツェ」には、「部屋」と同時に、英詩でもちいられる「スタンザ=聯」とおなじ意味もある。

アガンベンの筆法は驚くほど自由で、「同時に」文献学的だ。上記からもわかるように「スタンツェ」とは一種の空間なのだが、そこに導入されるものはまず、メランコリーとフェティッシュだ。メランコリーはたとえばフロイトの「悲哀とメランコリー」から、喪失と獲得の同時性ととらえられ、相互離反する情動や事実がかさねられる場所がメランコリーのスタンツェとなる。フェティッシュでもフロイトが参照され、母親にあるとおもわれるペニスがフェティッシュの本質だというフロイトの所見から、「ないもの」だけが部分を全体化する契機とみなされ、それがフェティッシュのスタンツェとなる。アガンベンの論旨は、最終的にはソシュールを襲った、厳密性と不可能性の共存の「空間」へと伸びてゆく。

ぼくは近藤耕人の著作から『スタンツェ』を、ベンヤミンの『ドイツ悲劇(哀悼劇)の根源』の継承的思考と読む前は捉えていた。なるほど、アレゴリーにかかわる考察もある。ただし「比喩」でいうと、換喩=メトニミーへの考察のほうがつよく印象にのこった。ヤコブソンからイーグルトンにいたるメトニミー考察は、実際は逼塞的なのだが、それらへの突破口があきらかにアガンベンにあった。

換喩は「部分(フェティッシュ)」から「全体」への遠心運動をおりなすものだが、フェティッシュとはアガンベンによれば上記のように「ないもの」なので、その「ないもの」が外延されてゆく全体もまた「ないもの」だという逆照射をうける。であれば、記述される空間すべてが部分と全体に弁別など設けられない「ないもの」によって、逆説的に充実しているということにもなる。

つまりアガンベンによれば「ないもの」や「消え」によってすべてが平準化されることにもなり、ベンヤミン的に、廃物の蒐集によってアレゴリーができあがるというメシア論的な救済もないのだが、そこでアリストテレスの時代から黒胆汁(メランコリーの原資)とともにアガンベンが身体循環物質、血の本質として文献的に重要視してきたプネウマ(気息)が復活する。つまりメトニミーが全体の不可能性を切り裂いて現れる「部分」(=フレーズ)であるかぎりは、その実質もプネウマだとして、ヨーロッパ中世詩を衒学的に渉猟するのだった。そこでは暗に、詩が、詩だけが、救済になる理由もしめされていたのだった。

『スタンツェ』はアガンベンのスタートライン。たとえばぼくも、ベンヤミンのアレゴリカーとメランコリカーがなぜ「同時的な」現象なのかをかんがえてきて、不連続(アレゴリー)と相互相反(メランコリー)が「空間」においては同質的に把握されるからだとかんがえてきた。ただそれだけではベンヤミンに完全に魅了されることはない。なにか思考の型、身体の型に、根本的に牽引されるものがあるのだ。

アガンベンはそういう牽引物質のひとつをプネウマと規定した。これは「空間」をかんがえ、神性へと延長するうえですごくすっきりした議論で、しかも詩作実感にも合致する。だからアガンベンをこれからも継続して読みたいという気にさせる。ただしぼくは「気息」よりも、「ここ」と「あそこ」が同時的だという点に神性をかんじ、そのことを「作文」的に翻訳するものがメトニミーではないかとおもっているのだが。
 
 

2013年03月24日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

ゲラの奇妙さ

 
 
かんがえてみれば、ゲラとは奇妙なものだ。それはできあがる書籍の前段階であり、亜流だといえるが、可塑的で、著者はあがってきたゲラの正規の印字に、手書きの赤で、訂正をほどこしてゆく。思考過程と型式と説明手順がそこで磨きあげられ、同時にあらゆる短慮が中庸やおとなしさにむけて是正されようとしてゆく。印字と手書きは明視状態におかれつつ「同時的な二層」をなし、じっさいはそこにこそ「完成」にむけての作者の個性がはっきりとしるされることになる。この意味でゲラは、できあがった書籍よりもはるかにおもしろいものであって、書籍ではなくゲラが書籍化されないことは、出版文化の不当性をしめしているともおもわれるほどだ。

書き込みは書籍の最終形を実質づける動勢であり、つまりゲラは、書籍の静止形にたいして「うごいて(うごめいて)」いる。ゲラの一頁は一頁ではない。時間が多重化され、たとえば赤い書き込みによって削除された一節すら、亡霊のままにうかびあがって、著者の思考の弱点や身体的な癖を、できあがってゆく書物よりも生々しく露呈している。そこには消えてゆくものに多くともなう哀切すらかんじられるかもしれない。消さないでくれ、という節のさけび。

むろん入稿それじたいに、著者の個性がある。文章や詩句に神経質な吟味をかさね、ほぼ完璧な状態で入稿をおこなう潔癖主義者がいるかとおもえば、ゲラという客観材料をもちい、そこにときには巻紙状の別紙まで貼りつけて、厖大な書き込みをおこなう作家もいる。そうなると、それは原稿用紙への手書き草稿とも似てきて、作家の思考形式を計測する一級資料にまでなる(プルーストなどの場合)。逆に潔癖な筆者が赤字をほとんど書き入れずにゲラを返却するなら、身体性と思考の錯誤を編集者にもみせずにおく彼・彼女の、一種の過剰防衛が、これまた一級資料的な証拠物を形成するだろう。

ゲラでは章句や引用体系を、入稿後の見聞をつかい後発的に挿しこむことも多い。だれでも入稿後は謙虚になり、じぶんの入稿したものの関連域をゆきまよって、自己是正の材料をさがすのだ。ところがそれは入稿とゲラ到着のあいだに一か月ていどあるときに適宜なインターバルとなるにすぎない。もし入稿とゲラ到着の時差が十年なら、ゲラそのものが瓦解されるか、書き込みの有効性が無視されるか、どちらかになるだろう。その意味でゲラの組成は弱い。

本を出すのはいくら当人が否定しようと名誉にかかわることで、くすんだ勲章を周囲にふりかざすことに似てしまう。ところがゲラに取り組むのは、刊行の目的もわすれ、自分の書きものの修正にただ没我する、「労働」に回帰してしまう。そこに「手作業」が関連するから、書き手はゲラという閉じられた場が、自分をきりひらくひかりにつつまれていることを個別的に知る。するとゲラに取り組むことが、本を出すことよりも上位のよろこびにつつまれてかんじられる。このときゲラにある付属物、たとえば「トンボ」や「印刷所による分類のための無関係な文字」などが、遊戯にむけられた祭具となる。

つくることにかかわる一旦の達成(「まずは書く」ということ)があったのち、さらに「修正」を上乗せするということ。このばあい、創造の本義は、最初の「つくる」よりもじつは「修正の上乗せ」のほうにあるのではないか。この意味で、ゲラ作業は、音盤づくりにおけるミキシングやマスタリングをも髣髴させるのだが、それが原初的な「手書き作業」でしかないと見据えると、ゲラ作業の精神性がなにかも理解されてくる。つまりそれはエレガンスとアナクロニズムの交錯、つまり「キメラをつくる」いとなみなのではないか。世の中にあまりないことだ。

いずれにせよ、好きな作者のゲラは、書き入れが多いほど、実際は入稿前の草稿よりも興味の対象となる(草森紳一などの場合)。なぜなら入稿前の草稿はゲラにほぼ印字としてはいっていて、あらたにくわわった訂正にこそ、書き手の判断の最終形が露呈しているという二重状態を、ゲラはもっているからだ。とくに当初入稿のときの衝動的な文体が、直しにより、どのように落着きと精確さをえるのかには、ある種の教育効果さえ期待できる。

ところがゲラは文学資料館でなければ、ほぼ公開されない。それは郵送や手渡しなどで返却され、著者のもとにものこらない。著者はできあがった本から、自分が校正のときに入れた直しをうっすらと蘇らせるが、べつの本にとりかかれば、そんな厖大でありながら意味的に些末な記憶など、吹きとんでしまうだろう。編集者もまた、やがてはそのゲラを整理する。そうしてほとんどの場合「ゲラは消える」。価値をもっているものは、同時に「消える価値」までもっていて、その特権的な交錯点のひとつが、ゲラなのではないだろうか。

書籍を20冊ほども出せば、ほんとうは書物とは別の形式の、なまなましいゲラも20あったのだとおもいかえされる。ところがそれはみな手許にない。ゲラが最終的に収まる場所は、「自分自身の喪失」、そういったトポスだ。それは喪失を予定されたものだからありようは「薄く」、ただその現物性だけが厚かったりする(ゲラは実際の本よりも見事に嵩張り、それで保存を倦厭される)。その意味で古色蒼然とした矛盾をかかえもつ、本よりも動物的な感触にざらつくのがゲラなのだ。ほろびゆく種族の悲哀をたたえたそれは、ときに涙の海の水底に、おもいかえされることになるだろう。あそこにひかっている「うすいもの」はなにか、と。

書き手がファックスを手離さない理由の多くは、このゲラのやりとりがあるためだが、ネットコミュニケーション時代の現在は、ゲラのやりとりは添付PDFでおこなわれることも多くなってきた。その場合、「直し」は何行目の○○を●●にかえてください、といった返信メールの文書でしめされるようになる。つまりゲラが特権的にもっていた「存在の二重性」「それじたいが変更の指針をふくむ多時間性」「うごき」が、たんなる「分岐」にむかって平板に解除されるようになってきている。味気ないことだ。

ただいずれはPDFに似た形式の添付物に、書き込みができ、書き込まれた箇所が赤字になるようなネット技術が開発されるとおもう。そうすると、二色出版のゆるされる環境なら、書籍そのものより、そのゲラを書籍化したほうに、より読者のフェティシズムがあつまってゆくのではないだろうか。むろん書き込みが手書きでできる、という条件つきなのだが。
 
 

2013年03月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ふるい天使

 
 
【ふるい天使】


くらさのむこうに天秤皿がみえるということは
わたしらもまた天秤皿にのり、うかんでいるのだ

いくつかの砂がわたしらの肩から去ったおかげで
むこうの天秤皿はわずかにしずんでゆくはず

それでも平衡をくわだてる軸のみえないことが
感官のもつおそろしい躊躇か謙譲なのだろう

みえないといえばむこうの天秤皿にのる
あえかなものどももとおくにかすんでいる

かぞえあげることのできるものは百句をなすが
そうできない、どうぶつのけはいがぼやけて

規定できない視界にゆるやかに規定されてゆく
それがこころでする増幅なのかもしれない

ならびたつことに一身が数をこえてゆく契機があり
つりあうことは遠方から得られ、こちらをきめる

きめられたこちらは受け身のかなしさをただよわせ
くるべきものやことをただ春と総称してみるのだ

くらみゆくこれらの身には何いろがある
あいしあう以外の身には何いろがあるのか

きみもきっとからだをもつひとと結婚するだろう
そのからだはくらさのなかからただつかまれる

そういうことに星はふれはしない、たんにまたたき
むこうの天秤皿が星にまでちぢむ時をみている
 
 

2013年03月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

想像

 
 
【想像】


惨劇のまえに渚をはしったむすめがいて
その齢が惨劇を引きよせたかにみえた

それはうごきをともなう崇高な孤独で
ひと齣のさりげなさが忘れられない

おもいだすとそれがそれだったとわかる
ある時間のなかそのものが愛のようだから

濾過光があたって窓が反射している
雪もよいの午後ぜんたいが内部だった

どうしてそんな狂犬みたいな激情が
のびる背丈にもどっていったかしらない

そのまえのまえには路上の凸面鏡に
じぶんの(饒舌マイナス饒)をみあげていて

全身が舌へかわってゆくのを不如意におもい
かまえには階段があるのにと無念だったはずだ

むろんゆっくりと浸透しなければならない
事故前と事故後のあいだを追いつめるように

からだのなかへからだを容れてはしったが
それでも音が鼓膜をこすったのだった

というかこすれあうことが音楽となるよう
からだの不足までがさしむけられていた

ひとりでいるようにみえてそうではなかった
一秒前と一秒後をじぶんにぬいこむ予行さ

ひとにも前後があってひとそのものよりうつくしい
はしっているのはそれだ。ひとなどはみない

渚とひきあってから林をぬけようとおもっていた
このとき夢にちかくかたちのまぼろしがでた

湯殿ということばのきれいさには檜がかかわって
はいりこめば樹木が湯をたたえる箱なのだ

そこではだかになることは何段もの階段で
たたずまいなどじぶんのうちにかさねるしかない

しゃがんで泡にはだをつつんでみたその夜明け
ながいじぶんを、産卵の北限といってみた

おもいだしたのだ他界からみおろすと海通りの
はげしいカーヴが動物めいてうつくしい

ふうけいにはいくつかの蛇があって
そんなものがあらかじめけむりをだしている

あらいながらからだのつくるカーヴに酩酊し
どんどん分岐のための道になってゆく

あるいは部位ごとに管楽器がおりこまれて
かなでるためのただの機能になってゆく

はしらなければならないとおもったのは
からだがしるしたねがいだったのかもしれない

ひさかたぶりさ、なにもかも
音楽にある細部はいつもひさかたぶり

わすれていたものの代表がじぶんなら
その代表制も、個が個になるさだめだろう

給油して万全を期したまではよかったが
のちのち記録された点がふかい失敗だった

なげくうちに海はちかよってきた
バイクで逃げきるには前方が渋滞していた
 
 

2013年03月19日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ハネケ・愛、アムール

 
 
【ミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』】


時間の叡智とは、時間それじたいが抵抗圧をもち、褶曲し、複雑に、縮緬状になることだろう。ならばむろん老いとは、それを肌にあつめることだ。関節と神経と表情と発語は、時間特有の余白に浸食されて、きれいに、洗われるように緩慢化してゆく。むしろ時間の本質が緩慢化なので、老いは最終的に時間と同化する二重性をもって現れるのだ。それがこの世の二重性の最後のひかりともよべる。このことが次の世にむけての予祝ともなって、ひとを感慨につつむ。

ミヒャエル・ハネケ監督の2012年度のカンヌ、パルムドール作品『愛、アムール』で息を呑ませるのは、わかいころは由緒あるクラシック音楽学校で優秀なピアノ教師として鳴らしたという設定のエマニュエル・リヴァの美老女ぶりだ。少女的な含羞と厳格さと矜持、それらのものが彼女の顔に最初は多重化されている。

多重性とはメランコリーの属性でもあり、だから彼女の属性をそのまま瀰漫させたような作品の感触が、パリの高級アバルトマンの室内の混淆的な感触と綜合されてさらにメランコリックだ。玄関からの長い廊下によって二分された室内。知性ある暮らしをかたどる書架、グランドピアノ、CD再生コンポ、絵画、絨毯。リヴァの夫役ジャン=ルイ・トランティニアンはそうした室内の調整を終始おこたらないが、その「調整」をついに衰弱と譫妄のはげしくなった半身不随の愛妻にも適用する。撮影時の年齢はトランティニアンが81歳、リヴァが85歳。

冒頭は鍵のかけられた室内に、通報を受けた消防隊が侵入するところからはじまる。このとき二人暮らしの老人夫婦の家庭に襲った悲劇を、トランティニアンがどのように美的にまとめあげたかが端的に提示される。作品は倒叙法の仕掛けで、そのまえに夫婦がどのような生活変遷をたどったのかを、静謐に、しかも意外なほど効率的な話法で綴ってゆく。むろん基調になっているのは「ひとの尊厳」だった。

施錠と目張りをされたドアをこじあけて室内にはいること。そうなると、「内部」とは何かが作品の主題になっていることが、容易に判断される。冒頭での悲劇の簡潔な描写から過去へと一転したとき、場面はリヴァの教え子のピアノリサイタルに夫婦が臨席する画に移った。その留守の際、空き巣がはいっている。手口は乱暴・稚拙で、バールで玄関扉を破壊して侵入したというもの。彼らは帰宅後の一晩、ドアの修理もままならない(つまりアバルトマンの内部と外部が相互浸潤した)状態で、不安な就寝を余儀なくされる。そこで「内部」のつよい組織化が開始されたのだ。

換気のためだろう、彼らの住まいは中庭にむかう窓を高い頻度であけられているのだが、そこから二度にわたり一羽の鳩が侵入する。一度目はなんとかトランティニアンが導いて、ふたたび窓の外へ鳩は放生〔ほうじょう〕された。二度目はわからない。トランティニアンが一部屋に鳩を導いて、その鳥におおきなショール状の布をかぶせ、布ごしに鳩をつかんで(つつんで)その自由を奪った詳細が、ドキュメンタルな撮影で捉えられただけだ。彼はその顛末を、遺言書めいた書き置きにしるす。二度目の今度も鳩を窓から放生したと。その場面は、実際は描出されず真相はわからない。ただし鳩にたいするのとおなじ動作を、そのすこしまえ、トランティニアンが妻リヴァにしたのもたしかだから、観客の予想はむしろ不穏さにつつまれるはずだ。

リヴァを襲ってゆく異変をメモしておこう。最初、朝食用ボイルドエッグをトランティニアンにつくった直後、塩が食卓にでていないとトランティニアンに指摘される。彼が塩を台所にとりにもどった瞬間、リヴァは瞠目したまま意識を失って微動だにしない。頸動脈の異変がおこした発作だと診断され、安全とおもわれた手術に臨むが失敗する。

以後、リヴァは左半身の自由をうしない車椅子生活を余儀なくされる。リヴァはもともと病院や医者ぎらいで、夫婦は自宅看護を選択する。アバルトマンのひろい室内をつかってのリハビリにも精をだす夫婦だったが、やがてリヴァが失禁、彼女の尊厳がこわれはじめる。認知症の到来。童謡をうたわせるなどして賦活につとめるトランティニアンだったが、やがて彼女は水の摂取も拒否するようになる。トランティニアンは死を選択したい彼女の意志を暗黙につかむようになる。

頸動脈手術から術後退院したリヴァは、車椅子から椅子にからだを移すなど習いおぼえた身体補助のコツを夫トランティニアンに伝授する。手で背中を支えつつ抱きかかえるときに相互に身体密着しないと危険らしい。さっそくその動作でトランティニアンがリヴァを椅子に移す。このときたぶんリヴァの「内部」がトランティニアンの「内部」に「侵入」したはずだ。やがて食事介護で匙や水差しをあてがうことで、トランティニアンの眼前のリヴァの顔が、もはや内部と外部の弁別をなくす。

さらには前述したようにリヴァに痴呆のきざしがでると、リヴァの精神にも「内部」「外部」の弁別線がなくなる。トランティニアンはその精神にたいして童謡をうたい、少年時代の思い出話をすることで破裂しようとしている「外部」を内部性に押しとどめようとする。このときリヴァの、皺にうつくしく刻まれた顔が、まぶたに隈を生じ、ノーメイクの肌がさらに病的な白みをおびているのだが、その顔が内部と外部の境をかたどる崇高な懸崖だという感慨にも、観客が包まれるのではないか。

内部にあるものが外部化されること、それは痛ましさと同時に「やはり」エロティシズムを発現する。左膝をまげるリハビリをベッドのうえでリヴァがおこない、それをトランティニアンが補助するとき、あらわになったリヴァの片脚の肌の、白磁のようなうつくしさに息を呑む。

用を足し排水したあとのリヴァがトイレにトランティニアンを呼ぶときには尊厳あるフレームが採択されてはいるが、そこでは内部と外部が浸潤するように老女性と童女性が相互浸潤している。リヴァが失禁したときにも彼女の下半身が現れないフレームが採用される。フレームそのものが「内部」「外部」「現れてもよい内部」を再規定している。それでも看護師が来てのリヴァの洗身介護のシーンの一瞬で、80代のリヴァの豊満な胸部が捉えられる。内部を外部が突き破ったその刹那でも、外部が内部として再縫合されるという理解がえられるだろう。

リヴァは肌のひと、まなざしのひとだ。そのまなざしが譫妄により正常性を剥奪されてゆくくだりでは、衰弱する身体の宿命とともに、美醜の混淆ゆえのメランコリーが「やはり」現れる。感情移入して痛ましさをおぼえるというよりも、衰弱の質が粉飾なしに現れている威厳に打たれるのだ。

彼女は脈絡のある発語ができなくなる。カタコト化して、ことばよりも空白を「語る」頻度が危機的に高まってくる。声ではなく息になり、ことばではなく子音の乱れになる。そうした発語に「内部」を見出すのが次第にむずかしくなる。ことばの海が外部にさらされて息そのものが多島状になり分解しはじめたとき、ことばは線ではなく点、もっといえば汚点にさえ似てくる。娘役のイザベル・ユペールが衝撃のあまり嗚咽をもらすのもとうぜんだった。

どんどん「悪化」するうつくしい老妻。結果、イギリス人と結婚して俗っぽさを作劇上あたえられたイザベル・ユペールがどんなに心配して電話をかけても、トランティニアンが応答や留守録メッセージに返事をすることがなくなり、ついに夫婦ふたりの「内部」は、内部をより物理的にしたもの――すなわち「閉域」へと変化してゆく。その変化をたぶん観客は、依怙地という精神性としてではなく、「関係の必然」として捉える。トランティニアンは、そして正気になる頻度からいって「半分の」リヴァは、相互の内部性を純化するために、「外」を閉ざすよりほかはなかった。ところがその内部に寓意的に「外」が侵入した。それが前述した二度の鳩で、一度目と二度目が同等にえがかれなかったことにこそ、この作品の骨子がある。

典雅と衰弱と憂鬱をまぜこむリヴァの表情はふるえるほどうつくしい。トランティニアンの献身もうつくしい。ふたりの挙止が綜合されての「内部」はどんなに苦渋にあふれても親密な表情を絶やさないのだ。「それ」はトランティニアンの眼前にあり、リヴァの眼前にあり、つまりは観客の眼前にもある。

ところが内部はすこし離れれば、眼前性をうしない、「外部から想像される内部」へと変貌する。このとき外部に内部の色彩をあたえるものがなにかといえば――「音」だ。もともと最初、頸動脈手術のまえに意識をうしなう発作をむかえたリヴァに動顛して奥の部屋へ上着をとりにいったとき、シンクの水道水をトランティニアンは出しっぱなしにしていた。トランティニアンは離れた部屋から水道水の音がとまるのを聴き、いったん現出された外部性が、離れていながらも内部性へと「治癒」されるのをそこで知ったのだ。

やがて「音」は内部性/外部性の境界を通過することから、現実/非現実の境界を通過することへと、その審級を上昇させる。それで元気だったころのようにグランドピアノを弾くリヴァが現れ、やがて最終シーンのまえ、洗いものの音をさせるリヴァもよびだされる。そのまえのリヴァは寝室から「痛み」を訴えるさけびを、いわば外部から外部へと多くひびかせていたのだから、ハネケのほどこした審級移行も親和的といえる。とはいえハネケ演出の外部/内部の弁別は厳密だ。「外部の外部」を想定しているからにちがいない。その点で『抵抗』『やさしい女』のブレッソンを継承しているのかもしれない。

つまり『愛、アムール』で描かれている「内部」は「外部」とも可変的で、この意味でこそ、「内部の内部」が「外部の外部」とひとしくなるのだ。もっともうつくしいのは、ラスト前、洗いものの音をさせ、ありえない文脈で過去化・通常化したリヴァが、トランティニアンに一緒の外出をうながす場面だ(それは文脈上、トランティニアンの「たったひとりの」出奔を意味する)。ふたりが去ってアバルトマンの室内にできた「空舞台」をカメラは、小津――とくにその『晩春』のラストへの展開に敬意をささげるように、凝視する。

この画柄は二様に解釈されるだろう。つまり二人が消えたあとの「空舞台」が「内部の内部」なのか「外部の外部」なのかを、観客はいいあてることができないのだ。この「価値の落としどころのなさ」こそが、「老夫婦の愛の物語」という以上に、この作品のきびしい魅力なのだった。

そうしてできた空虚に、心配したイザベル・ユペールが再度訪れてくる。出迎える者はいない。カメラは居心地悪そうに椅子にすわったユペールを、内部性からも外部性からも永遠に放逐された者として、横からロングに捉える。そこで映画が残酷に終わる。

最後に、もうひとつ、「内部の恩寵」が作品に差し挟まれる点も特記しておこう。左半身不随ながらまだ意識のしっかりしている段階のリヴァが、食事中にもかかわらず夫トランティニアンに「アルバム」を所望する場面がある。そこで怪訝におもいながらトランティニアンがアルバムをとりにゆくと、リヴァは食卓にそれをひらいて、その写真から、過去の推移をなつかしく反芻する気色となる。

家族スナップが装われているが、少女時代のリヴァ自身の写真が現れたのち、『ヒロシマ、モナムール』のころの彼女、『素直な悪女』のころのトランティニアン、『勝手に逃げろ/人生』のころのユペールのスナップもあらわれ、時間の本質が、振り返られたときには「内部性」「内部的恩寵」だということが強調されるのだ。リヴァとトランティニアンのそのときのやりとり。「素晴らしい」「何が?」「人生よ。かくも長い、長き人生――」。この一連からレネ=デュラス、ヴァディム、ゴダール、コルピ=デュラスなどの固有名詞もざわついてくる。
 
 

2013年03月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

虎の虚数

 
 
【虎の虚数】


いいかえると群れのまえに個物には模様があって
それが群れのなかでおどっているということだ

けれども虎はおおむね一匹の孤独であらわれ
まわりの竹林と模様の和音を奏でたりなどする

しられるから吼えない。それでバターになるのなら
あふれる笹葉を眼にうつすのもなにの尖りなのか

たまらなくなって身を竹の節ぶしにこするとき
さやさやと天心の月が植生とともに鳴る。鳴って

笹鳴りとおなじいおのれに虎はひろがる空洞をみる
ぽたぽたしずくする青いろも月からてらされて

なにかふかいものが叡智に脱落しているとおそれる
おのれの縞をここで歯どめにするしかないのだ

うしろからみるな肛門の下には巴旦杏があり
それは縞よりもさらにいきる模様を裂いている

そこだけがしろくオスのようにけぶっていて
まるくめつむった霊魂のいくつかをひりだした

母なるうつくしい虎の、うつくしい虚数とは
空洞をもちい似すがたを雷鳴にうみおとしたこと

ひとときの苦境をおえれば即座に身をたちおこし
なにごともなかったあかしで咆哮してみせた

そだてはしなかった。横になりきったかんがえがあり
みひらきだした霊たちが死児のかたまりにみえた

ずっと壮大さを一個にまで統合された神経だった
それがおもむろによわまってゆく霊の粒を予想した

おもううちにまた空洞は神経とへだてなくむすばれ
笹葉を寝床にした夜の寝そべりがおのが餌となる

とどまってうごかないしずかさだけがおのれだ
肢八つ頭双つでした種族の本能すら何だったのか

たしかに蛇の流儀で縞は狂おしくまざった
だから種族の模様も死後の地につづくだろう

いまは縦すじの竹むらと和音をなしてねむるだけだ
つかれやさしく、ひらたく伏臥した虎丸となって
 
 

2013年03月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

なけて泣けてしょうがない

 
 
季刊「びーぐる」は大学図書館を経由してポストにはいってくるのだが、なにかの手違いなのだろうか到着がすごく遅れ、最新号をいまごろ読んだ。その第18号の特集は「名詩を発掘」。忘却にさらされている詩作者を、現在の目利きの詩作者たちがひろいあげ、ひかりをあてているのだが、掲載されている多くの詩篇がほんとうにすばらしい。忘れられている、ということが逆に価値へとひびく面も、ぼくにはあるのかもしれないが、客観的にみても、見事な選定だとおもう。そこから、「マイナーであること」にかんして思索もつむげるだろうが、いまはただ一篇の詩を「継承」しておくのみにしよう。

水野るり子さんがとりあげた次の詩篇が、なけて泣けてしょうがなかったのだ。



【帰る】
前田ちよ子


朝早くからバッタを捕りに出たまま
子供はふいに帰らなくなる
朝の食事をいらないと言って出て行き
夜にはその食事が本当にいらなくなる

どこにいるのと母は思っている
バッタになった子供を思っている
そこは秋でしょう すすき野でしょう
風が立ち上がっているでしょう
とんぼの赤い群が大きな流れになって
野原の上を高々と渡って行く

母は耳殻のない子供の顔を思う
緑色の眼を思う
舌の無い口を思う
口のきけない子を思う
何日も同じ事を繰り返し思い続け
やがてくたびれはてる
肩をふるわせながらアイロンを掛け
部屋を片づけ 一渡り見回し
そうして母もいなくなる

家は草むらの中にうずもれて
ふたをあけたままの虫かごになる
子供は
帰らなくなった時と同じように
ふいに帰ってくる
虫かごで暮らすうちに
ある時部屋の片すみに
アイロンの掛った
きちっとたたまれたシャツを
長い緑色の触角で見つける


〔『昆虫家族』所収〕



ラスト「触角」は、「触覚」が誤植ではないかとおもい、直して転記した。

なけて泣けてしょうがない。こんなさみしい詩を読んだことがない。ぼくは動詞「なる」の効果に執心するほうだが、ここでは「なる」の最上の使用法が連続している。しかも、「アイロン」の反復が、物質による語り(魅〔もの〕がたり)本来の、哀切な力を揮いつくしている。家と真葛原を同位するような、河原枇杷男的な、異様な廃墟感もある。カフカの『変身』と同様の着想が見事に詩篇化されているともいえるが、本来は病む自身を起点にしながら、家族の死が幻想されていて、哀切は「子供」にたいしてではなく、自分自身にこそむけられているのではないだろうか。自己への・生前の・追悼。

一篇の詩をそのような感慨も併せて、銘記する。ところがこの特集のすごいのは、「忘れないでおこう」というおもいが、「忘れられている作者」「そのことを忘れない知己」へのおもいと「同時に」銘記される、複合的な構造をもつ点だ。このことにもなけてしまう。つまりぼくが読んだのは、「作品自体」「忘却のむごさ」「伝承」の同時性だった。

それにしても第三聯冒頭四行の修辞的残酷を、どう処理すればいいのだろうか。
 

2013年03月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

春潮

 
 
【春潮】
 
 
にくたいからうまれた泥が層状の縄となって
ゆきやなぎをまきながら海への道につづく

水に伸管があることのうつくしい奇怪で
ひとのまなこにも春潮があふれているんだ

ひがさをさしたい殺しごころだ、柳に櫛に
とおりすがりを投げかけてむしろ消えてゆく

手にくつをはいた四つ這いの時節の尻も
さくら漬けのカブとしてみえようとしている

みえるがみえない、が、みえないがみえる、に
すりかわる椀の白飲みからまなざしをあげて

いまやたくさんの乳があの胸に腫れている
なんのたらちねと問うゆびすらもう過去形だ

はなれてはゆくが、はなれすぎる気負いもない
なんなら地におく足うらから頭頂が錐なので

空気へ身をおしこんで隣庭までをかんぬきにする
そのときのあぶくする口が喃喃となつかしい

ひとを算えるなという戒があった残雪があった
けれども樹下にたつとおのれのなかを算える

とりあえず尖端を岬としたおんならしさで
点がわらい、ちりめんが面にもくずれてゆく

ひとづまはよきかな献身の旋律があるほとけ
にくづきに夜ある腋から泥をこそげることをして

春情がどろぼうに似てしまうその逸脱すらも
かたじけない春隣のつらなりにさしかえてみる

せかいの和合に神の尾をつけて輪郭のみえない
ふくらみだけのおんなを視界の焦点にする

ながれはじめた時間にあるへそのくぼみ
そのようなせまさがあわいはなびらとふれて

精管をさいはてのしべへとのばしたこの花眼に
ひかりのひげものびた。あたりの老いはうるわしい
 
 

2013年03月16日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

メランコリカー

 
 
画像にまざっている憂鬱の形式についてかんがえるのが、今年の課題のひとつだろうとおもっている。ひかりと影がそこにどのように混ざっているか。窓や扉など、「眼」にあたるものがあるか。ひとに病勢とまごう愛の表情があるか。画面の推移が記憶可能な臨界をこえているか。断面として提示されているものに精神がきざしていないか。うけとりそこなうすべてが、すでに自分自身のうけとりそこないを逆照射していないか。南方からもどって森雅之との再会を果たしたあと、待合でのキス場面前後で高峰秀子がみせた、たゆたう表情の速さは、ほんとうは「顔」にまつわる恐怖を醸成させていた。

ベラ・バラージュは画面に「顔」をみいだした。この見解にはまだ多くを敷設できる。顔がなげいていないか、叫んでいないか。ことなる属性を多重化されているそのことがすでに叫びとなっていないか。かたちにまで精神をみとめてしまうのなら、顔を集団にさしもどす白面化や黒面化とはなんだろう。ひろがりとはなんだろう。さらに「奥」とは。そのうえでなぜうごきが動物性を経由して「愛」に似てしまうのか。反復=リトルネロの憂鬱がそこにある。視るべきものとは本質的に個体ではなく、群れだ。

畸形の本質をかんがえれば美の定型性までゆらぐ。そんなものが一旦はものがたりに従属してしまうとき、叙述の機能とはすでに選別を超えた悪意の配置ではないのか。しかもその配置もまた時間のなかで顔となるのだ。この顔も複数なのはいうまでもない。

憂鬱、行動を意気阻喪させるもの。行動のなかに「ふくろ」をつくるもの。それは視ることにすでに装填されている。黒胆汁、土星、サチュルスといった分類は、視ることの普遍にたっしていない。視ることがそのままなにかを混ぜることになるような、眼球下、神経上のはげしい充満。眼が脳におしこまれて、脳がそのまま眼になるような、ひかる逸脱。そうしてもののあいだに「粉」をかんじること。自殺と自然死の本質的な分別不能を憂鬱のひとネルヴァルは生きた。現在的メランコリーはそこからはじまる。

太陽がくろいことは重複だ。空虚と充満が心性において同時化することによって、重複は物質が思考をもつための容積ともなる。あるいは天上と奈落も位相重複される。ベルクソンの、任意立脚的イマージュの重畳が世界に充満しているというかんがえはこの点に接木される。この意味で視覚とはまずはおそろしい分離なのだ。それで喪失そのものが「喪失の獲得」となる。クリステヴァからビュシ=グリュックスマンまでの点検の系譜はそれらを詩的に確認した。そこに、これから読むアガンベンを導入しなければならない。いずれにせよ、画面から反射された「感情」を、自分のものだ、というために。現在の問題は以下のようにいえる。「筋金入りのマゾヒストになる以外、精神史にいったい何の昂進ができるだろう」。これらのことをフランシス・ベーコンと対話した。

詩作は、一詩集をまとめあげたという自覚ののち、はなやかに中断している。春の風が砂とともにふきあげた東京から札幌へもどると、路肩の雪にはさまれた路上は、水とかわきの混淆になっている。それでも粉雪が舞っているのだ。なにかの示唆がある。端的にいえば、自己撞着となるような、構文に相反する形容詞を自分の感覚の表面にのせることだ。それこそをみずからの身体性にするのか。けれどもその身体性の全体は「顔」ではないだろう。ならばねがっているのは無顔化なのか。

来週月曜に『映画監督 大島渚』のゲラが送付されるという。そこでまず自己診断をしてみよう。むろん自己診断とは自分の重複化だ。それだけで「意味的に」めまいを起こすかもしれない。
 
 

2013年03月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

フランシス・ベーコン展

 
 
肉はながれる。肥り肉だからというのではなく、肉そのものの属性が肉のうえをくずれる。色が飛ぶ。影まで色になる。ゆがむ。幽体が「受肉」して「姿」となっている存在の方式には、すでに超越性の惑乱が瞬間的に経由している。そうした動勢こそをとらえる。

肉塊。ハムのような断面。部位の交換。肉が肉によって顕れ、肉が肉によって消される。肉の盲目に視覚をあたえるために、肉はねじられなければならない。感覚に本質的にまとわりついている吐き気。だが眼は肉を視、耳は肉を聴き、鼻は肉を嗅ぎ、舌は肉を舐め、歯は肉を噛み、腕は肉をもぎ、手は肉を撫でるしかない。肉には再帰性があって、肉であることはそれを逃れることができない。肉は肉にふれる。それが吐き気だ。肉のなかでいちばん肉的なもの、舌。それは性器ではない。けれど舌は描かれない。性器も。舌や性器は形象の全体なのだ。

肉にまぜる。円弧を。檻を。矩形を。椅子を。組まれる脚を。反りを。ねじれを。毛を。脊髄を、ひいては性器や存在の「線」を。全体の舌を。それでもいかついふくらはぎが、いやにはっきり視えたりもする。顔の中央は隆起するか陥没するか二重化するかのどれかだ。ということは、肉はいつも褶曲のための素地なのだ。

肉をパン種のように加工変型して、しかもそれを焼かない。生のままにする。はだかのときの肌の色。あるいは着衣のときに着衣のまま肉を変型すれば、それは牡蠣の身のようなはしたなさまでおびて、おぞましい。これらのおぞましさは存在不安と合致するいっぽうで、聖性をわずかに逆照射する。威厳はあきらかだ。異言も。それでも細部は連環されて、かたちはねじれのままに自足となり、だから「みえているものはみえない」。かたちと色が、あるいは輪郭が、通常性をいつも超えているのだ。動悸がはげしくなる。

肉と肉腫に区別はない。肉と瘤にも。ケロイドになったり、皮膚を崩壊させる病となったりする肉に、肉の本質が宇宙的に顕れる。肉は骨格と神経と関節からなる、かたちの意志だ。肉は感官をおびない。だからこそ逆にかたちは自己再帰しながら、おのれを、肉と骨格と神経と関節とに分有する。けれども肉以外のものは動物的な気配になる。人間がいない、といえるのは、動物性があると直観するときだけだ。

画筆はうごく。描きつけた肉のかたちの着想が、つぎの瞬間、すでにべつの着想に「移行」するのなら、えがかれるべきは肉の静態ではなく、肉の移行なのだ。イメージを「それ」に限定する。移行はべつに扉やカーテンをくぐるからだの移動でなくともよい。肉そのものに、動作ではなく、「形而上的な瞬間の移行」があるためだ。ずるり、というオノマトペが肉から聴えつづける。

ふたつの肉の境はぼやける。ぼやけることはつめたい炎上に似る。教皇もぼやける。スフィンクスや犬までぼやける。肉の受肉がうたがわれたとき、霊体に復帰する「部分」がある。部分が真の部分であるために、その箇所は透明化されなければならない。そうして透明化のかなったものが、空間を泥棒のようにすりぬける。なにかがすりぬけつづける絵。それは画布だろうか、孔とよぶべきではないのか。

食人と性愛の相似、けれどもこの相似は、霊は食べられないという逆襲を受けて、視る者の舌を焦がす。黒のきなくささ。赤のにがみ。オレンジの酸っぱさ。色のみは瀟洒に配置されながら、構図の中心にゆがまされぶちまけられた肉は、「いま」から「つぎのいま」までのうごきにおのれをゆがませる。ところがタッチのはやさはまさに運動のながれとして知覚され、瞬間から次瞬間にながれる画筆の累積こそが絵画の本質だと告げてやまない。その意味ではタッチこそがイメージにたいして先験的だといってもいい。

背景と肉のあいだに緊縛はあるかもしれないが、物語的には背景は空洞だ。肉にとっての舞台はまず空洞がふさわしく、つぎに檻がふさわしいのだ。そう、檻と空洞の相似。画中画とともに、肉が自身の奥行きをひらくことがある。叫びをあげる黒い口腔がそれだ。有歯膣になることもある。あるいは漏斗状の肛門ともなるだろう。それでもメタモルフォシスの系譜には置かれないなにかがある。つまりメタモルフォシスが「うつくしい時間進展」を予定・内包しているとすると、画布のなかでの時間はいつも「宙吊りされた数瞬」、その無限のゆらめきなのだ。とどまらない。

ミケランジェロ、ベラスケス、マイブリッジ、エイゼンシュタイン。絵画、写真、映画スチル。ホモセクシュアリティ、泥棒をはじめとした犯罪。貧困表象と、禁治産者の奢侈。うらぎることと自己算段。それでも自分の愛するおとこが自殺したときには運命の悲劇性に崇高感がまいこんでしまう。記憶がそうして描かれるが、それらだって「数瞬のあいだにあるゆらめき」ではないか。大きな進化ではなく、わずかで、しかも空間を実際は裂いてもいる時間のゆらめきにこそ「神経」は無時間的にまどろんでゆく。

これらの絵が吐き気でも恐怖でもないひとびとは、自分の神経に麻薬をあたえ、無時間に肉薄することのできる智者なのだ。自分ののどちんこを心のなかの手がつかんでいて、けれどもその刺戟に耐える。眼前にしたのはそれをしいる猛毒の画家だろうか。ちがう、くりかえすが描かれているものは本質的にみえているものにすぎない。ところが「みえているものはいつもみえていない」のだ。そのあわいが、繊細に、あるいは超速で描かれているだけだ。

――以上は昨日、東京国立近代美術館でのフランシス・ベーコン展にておもったこと。なぜかきれいな女がいっぱいいた。会場から出ると、北の丸公園で白木蓮がつぼみを満載させていた。そういえばドゥルーズのベーコン論『感覚の論理』は研究室に置いてあって、帰宅後、すごく読み直したいのがかなわなかった。
 
 

2013年03月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

沖田修一・横道世之介・簡単に

 
 
沖田修一監督『横道世之介』の冒頭は新宿駅東口から高野方向に向けたロングショットで、ヨドバシカメラの横には、ビッグカメラではなく「さくらや」が「ちゃんと」あるのに感動してしまう。斉藤由貴の巨大ポスター、バブル時代の女の子の太眉メイク……そこに長崎出身の、周囲と温度差のあるニコニコ・キャラクター横道世之介=高良健吾が登場する。

モッズヘアーだがモッズ精神とは無縁の彼は、長崎の漁村出身、法政大学経営学部の新入生で、即座におなじ新入生の池松壮亮、朝倉あきと知り合い、サンバ踊りを中心とする南米文化研究会にはいるなど、冒頭の流れはそのまま80年代後半青春グラフィティだ。西武新宿駅前の太目の三人組アイドルグループのパフォーマンス(ラグタイム歌謡ともいうべきものを唄っている――音楽は高田漣)、石井明美の「CHA CHA CHA」など時代色をしめす歌もながれる。

だが画面にそのまま描かれている時間をA系列とすると、B系列というべき時間がやがて画面に侵入してくる。最初は池松と朝倉が結婚、すでに中学卒業前の娘がいて、かれらがふと横道=高良をおもいだす趣向となる。つまりA系列の時間をおもいだしている未来の時間Bが人物ごとに点綴されてゆくのだ。

つぎにはたぶん高級コールガールだった謎の女・伊藤歩がB系列時間ではDJに転身していて、そこで読むことを臆したニュース原稿がそのシーンの終わりにやがて判明する。「午後五時十四分」(この「ご」音の連鎖が読みにくいと彼女は言った)山手線新大久保の駅で酔っ払い男性がホームから転落し、助けようとした韓国人男性と日本人カメラマン「横道世之介さん」(33)も電車に轢かれて即死したと。2001年1月26日に起きた、自己犠牲美談ともなった新大久保駅乗客転落事故の犠牲者が高良健吾だったということになる。

この判明があってから以後、観客は現在(2013)年から事故時(2001年)をつうじて過去(1980年代後半)を覗くという複雑な視角を得ることになる。いわば「時間の二重底を覗く」ことによって、最初にあった80年代の「底面」のなつかしさ・唯一性に吸着されてゆく恰好だ。吉田修一の原作は読んでいないが、これも原作の趣向だろうか。ちなみに脚本には監督のほか、五反田団の前田司郎の名がクレジットされている。

高良はやがて、彼自身よりもさらに奇妙な成金一家のお嬢・吉高由里子と恋仲になり、舞台はノスタルジックな長崎の漁村にも伸びて、そこで高良の父母役のきたろう、余貴美子が「いい味」をみせたりする。「かつてあった時間」の真相をなんとか手づかみしようとする撮影は名手・近藤龍人によるもの。

ちいさな永遠の発見がいい。最初に高良と朝倉が階段教室で知り合ったとき、通路を挟んでぎこちなくなされる会話をふたりの後ろ側から捉える長回し。あるいは、吉高の家にはメイドとして広岡由里子がいて、一度目は館内の応接ルームを舞台にした吉高・高良の「告白」シーン(そこで吉高はカーテンでからだを巻く――つまり風間志織『せかいのおわり』での中村麻美とおなじポーズをとる)では広岡はいかにもお目付け役という感じでロングに固定されている。

ところが吉高がスキーで骨折した病室では、吉高と高良が遠慮せずに相互に心配をさせあう仲であっていい、名前を呼び捨てにしてもいい、とさらに「高次の」相愛確認をするのだが、構図上、ふたりの中央にいたロングの広岡に、やがてカメラはズームアップしてゆく。広岡は幼い愛の成行きにほろりと感涙していてそれが笑える。この広岡には科白がないのだが、一回目の「お目付け」演技へのご褒美として二回目のズームアップのあることがあきらかだ。

きわめつけは、高良がアパート隣室の井浦新からカメラを借り、写真をはじめて撮りはじめたとき吉高が二週間フランスに留学に行くということになり(そこで彼女はたぶんボランティア熱を吹き込まれて、以後、高良と別れて世界放浪人生にはいったと事後判明する)名残惜しい別れのデートをしているシーン(このとき撮られた写真の現像された状態を観客はすでにみている)。バスが来た、とロングに見たふたりは見たバスの反対方向に疾走、吉高のスーツケースをもった高良は階段を見事な運動神経で吉高と並走し、回り込んできたバスの到着に間に合う。このシーンの撮影も、階段のつかいかたが風間志織『メロデ』の1シーンをおもわせる。

そう、近藤龍人が捉える「かけがえのない過去」はみな「奥」「奥行き」に関連している。つまり階段教室の通路を中心にした構図も、愛し合おうとするふたりのあいだを中心にした構図も、その中心には「奥」があるのだ。そのような「奥」から最後、バスが垣間みえて、ところがそのときだけ奥が自分たち(高良・吉高)の眼前へと場所を変更する。なぜ場所が変更されたのかというと、そのやってきた西武バスこそが、ふたりが最後に互いをみた「器」となったためだった。時間の二重底を見下ろすとは、「器」状の媒介物を列聖することに実はつながっているのではないか。

長崎の夜の海岸では、高良と吉高が初キスをいましもしようとしている。そのとき「視界の奥」に吉高はベトナムからの難民(ボートピープル)が上陸してくるのをみる。吉高は勇躍、疲弊しきった母親と乳児を助けた。この行動原理の利他性がたぶん高良に「転写」され、のちの(作品には描かれない)高良が新大久保のホームから酔漢を助けようと飛び降りたとすれば、のちの高良の眼も、対象が現れる「奥」をずっと探していたのだという感慨になる。

以上のようにこの作品は撮影主題・撮影設計にひじょうにふかいかんがえがあるのだが、問題はコメディタッチの青春グラフィティが上映時間160分という長尺だということだ。まず演技テンポが悪い。高良健吾は、たとえばTVドラマ『最高の離婚』の瑛太、あるいは映画『舟を編む』の松田龍平同等の「へんなやつ」なのだが、キャラクター造型のなかに未記入部分・未開発部分をのこしてしまった結果、「謎」「不可知性」の奥行きができて、結果、カメラが「観察」をしいられ、カット尻がだらしなく伸びてしまっている。演ずる機能と撮る機能が映画において合致していないということだ。

あるいは吉高由里子の演技も不安定すぎて、これまた時間がさくさく進んでゆく快感を欠き、長尺の原因となっている。脚本は無駄なシーンはあまりないが、1シーンごとの撮影が、思い入れとは別の感覚で(運動神経が悪いように)長いのだ。それで効率性とからまって出現するはずの感興がうすれてしまう。時間論の本質にふれているだけに、勿体ない映画だとおもった。
 
  

2013年03月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

山口昌男さんが亡くなった

 
 
山口昌男さんが亡くなった。ぼくにとっては不思議な縁のあるかただった。というのも、キネ旬退社に山口さんがかかわったのだった。こういう経緯。○山口さんが雑誌『芸術倶楽部』でキネ旬が出していた『エイゼンシュタイン全集』の訳文を批判→○以後、山口さんは全集刊行グループの天敵となる→○キネ旬から『エイゼンシュタイン全集』が久しぶりに最終巻「無関心な自然ではなく」として出ることになり、阿部が編集担当となる→○阿部と東大院生グループが訳文を厳密にチェック→○訳文に確証のある刊行となったので、意図的に刊行記念対談に山口さんに出てもらう→それが旧「全集刊行グループ」の逆鱗にふれ、社主にあたるひとに「協調性のない編集者」として直訴するといわれる→○阿部、馘首→○山口さんが激怒、「社主」にあたるひとに逆提訴しようとしたが阿部がそれをとどめる

まあ、あの時期、キネ旬にいつづけてもしょうがなかったし、山口さんもその後のぼくの評論家デビューをすごくよろこんでくれた。そういえば、当該の刊行対談(山口さんの相手は鴻英良さんだった)を山口さんは「きみは対談記事の編集がうまいなあ。どこを削ったかわからない」と絶賛していたっけ。

むろんぼくらの世代は山口さんの読者だったひとが多いとおもう。「中心と周縁」理論というよりも、その理論に影響を受けた大江健三郎や中上健次を領導したひととして、振り返るようにまずは読まれたのだとおもう。それでたとえば「道化」について知見をひろめてゆくことで、ヨーロッパ全体にわたる民俗学を手中にしたひとが多かったのではないか。山口さんには『道化の民俗学』『道化的世界』があり、その関連本として晶文社から出ていたウェルズフォード『道化』やウィルフォード『道化と笏杖』などをみんな読んだのではないかとおもう。だから山口さんはニューアカの先駆というより、高橋康也や由良君美の同輩で、高山宏さんなどの先駆者という感じがした。

山口さんというと、蓮実重彦や浅田彰が天敵視したひととしても有名だが、ぼくは山口さんの映画評論が大好きだった。フェリーニを論ずれば、道化からヨーロッパ全体に論究の射程がひろがってゆく。学際性と祝祭性が抱き合わさったような、大スケールな著述はやはり日本人離れしていた。モーツァルトなどを書いても素晴らしかった。80年代まではすごくご多忙だったろうとおもう。よく試写などで上映を待つあいだ、ひざのうえに原稿用紙を乗せて原稿を書かれていたものだ。それで意と勢いがあまって、たとえば主語と動詞が精確に呼応していないなどの弊もでた。なにしろものすごい知的エネルギーのひとで、あれだけ対談などで滔々と喋りうる才能は、山口さんのほかは平岡正明さんしかぼくは知らない。

高山さんの師匠格の山口さんが、坪内祐三クラブの部長みたいになったころから、山口さんの著作に転機が訪れ、そこに大河のような流れと燻し銀のひかりという、相矛盾するものがなんなく同居できるようになる。『「敗者」の精神史』『「挫折」の昭和史』『内田魯庵人脈』。「精神史」というとなにか林達夫的だし、しかもここにはあきらかに日本回帰的な模様替えもあるのだが、花田清輝的ではない。陋巷に消えていった人々の生までもを稀覯書からつないでゆく方法は、実際はベンヤミン的な着眼=パサージュにたいするまなざしにもとづいていたとおもう。坪内祐三さんなどはこの山口さんの方法をさらに自己流儀化していくことになるが、ある言い方をすればまだまだ本の分厚さが足りない。あっとおもったのが、酒井隆史さんの『通天閣』だった。そうだ、歴史哲学的精神史、というジャンルを山口さんが確立して、ずいぶん後続の助けになっているのではないか。ただし山口さんにはとうぜん、アフリカのフィールドワークでつちかった文化人類学の筋金がはいっている。

ともあれ、伝説的な読書家だった。どのくらいの近眼だったのだろうか。そういえば蔵書が納められないため福島の廃校になった小学校を買って、それぞれの教室を書庫にしたという話があったが、それらの本は札幌大学学長赴任時に大学に移されたのだろうか。
 
 

2013年03月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

石井裕也・舟を編む・簡単に


 
昨日は石井裕也監督『舟を編む』の試写に。

なにか混淆的な配分があって、その配分への運動神経に驚く。たとえば旧い空間と新しい空間の織り交ぜ。あるいは松田龍平・宮崎あおい主演と銘打っていて、宮崎がなかなか出現せず、けれどもその出現した瞬間に「やはり」驚かせること。配役には伊佐山ひろ子と黒木華の新旧世代が配分されていること。あるいは配役でいえば、オダギリジョーからアクがぬけ、鶴見辰吾にはアクがあるかわりに「悪」がぬけていること。それらによって笑いが映画のリズム的推進力になること。辞書名「大渡海」の縁語として海や海中のショットが句読点的に出てきて、それが「正しい隠喩」となっていること。

原作の三浦しをんのベストセラー小説はもう内容も知られているとおもうが、辞書編集部が十数年かけて辞書づくりに奮闘する話だ。出版社の編集作業をえがくのはもともとは難しいが、辞書づくりなら起点も終点もくっきりしている。苦労も画にできる。それで成功が約束されたようなものだが、石井監督の繊細さは、ならぶ書冊をうつくしく捉え、しかも用例採取の字からゲラの字までを抜群のトリミングで接写、しかもすばやく散らす。字とこういうかたちで相性の良い映画は久しぶりだった。しかも「右」から「恋」まで語義につき観客自身にかんがえをおよばせることで、大海を渡るような辞書づくりの偏屈な世界へと自然に航海をうながしてゆく。そうして観客は人物たちへの自然な応援モードにはいる。とくに身の引き方のうつくしさをあてがわれたオダジョーは役得だった。

ちなみに上映中、まだ松田龍平の出ない段階でぼくがかんがえた「右」の語義は、「ひるま太陽にむかったとき、やがてその太陽が沈んでゆく方」だった。だから龍平には彼の最初の語義提示で親近感をもった。

松田龍平の挙止が一芸のみある者の放心をかたどって笑えるのだが、それが、庖丁を縁語にように配されている宮崎あおいの挙止のうつくしさと釣り合う。あるいはその宮崎を満月と捉えると、松田龍平はきれいな半月だ、という対比が出てきて、やはり配剤のアンサンブルが抜群なのだ。小林薫の再登場のタイミング、13年の時制の飛ばし、加藤剛の死がいったん物語の下にもぐる処理もいい。脚本はなんと渡辺謙作。話法が流麗で、かつ、「物質」のなにに肉薄すべきかの指針にみちあふれている。

良いもののうちでなにが最も良いのだろうとかんがえた。たぶんテンポだ。とくに演技テンポ。象徴的なのは、龍平が宮崎宛に書いた巻紙状の恋文がオダジョーの机にひらいたままになっているのを伊佐山ひろ子が折りなおして封書にいれる動作とか、その達筆の恋文を読めなかった宮崎が職場(高級割烹)の親方に読んでもらって恥ずかしかった(そこは関節描写)と龍平にじかに告げながら、こわばっていた顔がひかりにだんだん解除されるだろうと観客がとらえる時間の、予感的な実質だ。そういうもので作品の時間がいわば倫理的に織りあわされていて、同時にそういうものが傑作の実質なのだとおもいあたる。

この作品は公開前により精緻な文章で書こうとおもうので、ここでおしまい。試写のあと、プロデューサーの孫家邦と二時間ぐらい近くのルノワールで話した。もっとも話題はこの映画のみならず、あちこちへと飛んだが
 
 

2013年03月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

打合せ結果

 
 
昨日は思潮社の某編集長と、『みんなを、屋根に。』につぐ当方のオンデマンド版新詩集、『ふる雪のむこう』についての打合せ。このところ書いていた二行聯五つ、札幌の雪をテーマにした連作を計72篇にまとめたもので、某編集長には出来の太鼓判を捺してもらい、「思潮社オンデマンド」の第三弾詩集に決定しました。第二弾はもうH氏とW氏の詩集として現在進行中です。

確認しておくと、ポイントがいくつか。○既存詩壇の、詩集と評価の互酬制度に辟易していて、詩集流通に変革をもたらしたいという気概が前提。○書店には詩集がならばない。○ペーパーバック造本だが、ブックデザイナーは介入、コンパクトなデザインを目指す。○内容は編集者の是非判断をうける。○150頁程度の詩集なら著者負担20万円、定価1500円+税、が第一弾の実績。○アマゾンでの注文となる。○注文されると一冊ごとに造本され、注文者の手許にとどく。○版元には在庫リスク、書店・流通リスクがなく、アマゾンには製造リスクがない。○したがって定価レベルでいうと、一頁1円の廉価となる。○ちなみに第一弾として出たぼくの『みんなを、屋根に。』はまだ書評が紙媒体では出ていませんが、現状、販売累計100部を超えた。

思潮社の方針では一回につき二冊以上の頻度でシリーズ刊行したい由。ところが第三弾はぼくの詩集の対抗候補がまだない。自分の詩集をだしたいので、ぼくも候補を探してみる、と約束しました。書きためているのに詩集を出していないひとはいないか、あるいはこれまでの私家版詩集を集成・編集して自選詩集を出すべきひとはいないか、がポイント。しかも某編集長とぼくの望みは男女をとわず「中堅の詩作者」で、しかも再読誘惑性をもつ、穏やかでふかい詩風のひと。この記事で「わたしのことだ」とピンとくるひとがいるかもしれない。ぜひメールでご連絡をおねがいします。必要なら思潮社への仲介もいたします。 

ぼく自身は「雪の詩集」なので真夏の刊行はいやだなあ、とおもっていて、はやく候補者が出ないかなあとおもっているところ
 
 

2013年03月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

つなぎまちがい

 
 
大辻隆弘さんが佐藤佐太郎論で提起した問題は「つなぎまちがい」にも敷衍できる。

「つなぎまちがい」について一言しておくと、小津のイマジナリーラインをまたがないつなぎを宇野邦一さんが「つなぎまちがい」と書き、それをマネの一絵画の、人物と背景(人物)の不統一へとアナロジーしたとき、蓮実重彦がその論理の雑駁さに激怒したことがあった。人物の顔が同方向になり、視線が交錯しない小津のつなぎは、相似性にかかわる、小津の厳密な内在法則によっていて、けっして「まちがい」ではない。内在法則を「まちがい」というのは記述としてもともとヤバいのだ。あるいはジャンプカットの横溢するゴダール映画についても「つなぎまちがい」がよくいわれるが、ゴダールのカット接合も、概念か図像の相似性を換喩的に隣接させる法則にもとづいている点を、平倉圭がコンピュータ解析であかしたところだ。

短歌にはカッティングがある。塚本邦雄にたいしていう「短歌的喩」をまずおもう。そのカッティングはギザギザしているが、佐太郎のような、つなぎまちがいのかんじがしない。ところが俳句の世界では、名句につなぎまちがいが横行している。今日も文学老女さんがアップしてくれた橋閒石の一句に眼をみはった。

思惟の壺黒きを抱いて蛇熱し

詩でもつなぎまちがいを有効につかうことができる。創作実感をいうと、詩を書くのはもともとすごく恥しいことだが、このつなぎまちがいが、「抒情の恥辱」を回避する一手段ともなる。そういうものもなく恬然と発表されている詩篇をみると、こちらがあからんでしまう。しかしいまはベタな時代。そういう詩集が賞をとることが多い
 
 

2013年03月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

小島数子・大辻隆弘

 
 
小島数子さんは『等身境』が思潮社から刊行されているのをのぞけば、他の詩集が私家版刊行なので、その全体像を把握できるのは、詩集の恵贈をうけた、かぎられた人たちだけかもしれない。それでも発行所やわずかな地名で小島さんの生活地を類推できるていどしか個人情報がない。峻厳に潔く、ただフレーズのみがあって、「詩によって私性を遮断する」ことで、ぎゃくに詩の内在性にむけ読者の興味をひらく、書き手のポジションが終始一貫している。

しかもそのポジションは複合的だ。まずは換喩性がたかい。哲学的な思考を詩のフレーズに変幻できるたしかな技術ももつ。難解かというと柔らかい。そのなかで女性性が生成される。もっというと詩の女性性とはなにかを詩の渦中で、したがってスローガンではなく、かたりかける。むろん女性性に、自己愛的に淫することがない。それでも植物を中心にした自然が前面化され、全体の感触には寂寥感がつきまとう。そんなありようのなかで、ちいさな修辞の謎が、読後感に結晶のようにのこされる。全体像をそのなかから再編成するのは容易ではない。

その小島さんが、ふらんす堂から(つまり書店で入手できるかたちで)今年一月、新詩集『エンドルフィン』を上梓した。「エンドルフィン」は昂奮をつかさどる脳内(麻薬)物質だが、もしかすると「ドルフィン」(イルカ)の一種かもしれない。その題名のイメージによって、詩集ぜんたいも従来よりもはなやかにときほぐれているように、一読おもった。精緻に分析する時間の余裕がないので、小島さんらしい、しかも同時に従前とは変化のかんじられるフレーズを、詩篇名を省略していくつか抜いておこう。たぶんそれだけで全体のすばらしさがつうじるはずだ。



豆が出ていった後の莢でいいから
そこに納まりたいと思う、
鞘を失くしてしまった
焦りの刃物が光るときや、
悔やむことにさえ
拙さがつきまとうときがある。



どこか根元に
弓が隠されているような
矢車菊の花畑を、
心が通い合わない人といっしょに、
いつだったか、
つらい気持で歩いたことがあった。



渡らせる者のいる、
橋脚や橋桁のような躰と
橋板のような心になることが、
切実な望み。



ますます小さなものにしつつある地球。
人の力の蔓草は、
今が一番愉しい時代だから
邪魔しないでほしいとでも
思っているように、
地球を覆う。
小さなものにすることは、
磨きをかけることになっているのだろうか。



カボチャを切り分けるとき、
包丁に入れる力は黄色くなる。



去年、畏友から小島さんの私家版詩集をひととおりもらった。「阿部さんがもっているべきです」といわれて。『現の見る夢』『因果証明』『暗闇座のひかり』『標的の未知に狙われて』『明るむ石の糸』。即座にとおして読んで、ふかい感銘をうけた。それぞれの簡単な詩集評をフェイスブックに出す、と宣言した気もするのだが、日々にまぎれてしまった。いつか、この計画は実現しよう。

大辻隆弘さんから第一評論集『子規への溯行』の恵贈をうけた。96年刊、大辻さん35歳時。「若書き」と謙遜なさるが、文献の精査力、論の構成力、論争にたいする背筋、それに短歌の「私性」と「修辞」について考察した諸論文は、当時の歌壇にたいし活性をうながす真摯な角度を継続している。おこがましい言い方で恐縮だが、94年、36歳で第一著作『北野武vsビートたけし』を出したぼくは映画にたいしてだったが、立ち位置に共通するものをかんじる。世代もちかいのだが、資質のほうがもっとちかいのではないか。

一点だけ。集中の佐藤佐太郎論には震撼するほどうごかされた。佐太郎『帰潮』中の一首、

かたじけなく一夜〔ひとよ〕やどれば折々にかうべをあげて潮〔しほ〕の音〔おと〕きこゆ

はこびのなにかが折れ曲がっていて、ところがその屈折から情感やら情景やら身体やらがつたわってくる。大辻さんはこれを丁寧にわかりやすく解析する。全体をパート分けして、主格が最後に移動していると説く。読みの予想がはずされるちいさな衝撃を繊細に汲み取る。なにがあったのか。ふたつの「助詞」があるべき位置をたがいズレて嵌入しなおされていると大辻さんは見抜く。しかもそれは「文体」の問題ではない。えがくべきことにちかづくために選択されたズレだという。その移動やズレに似たものとして、省略ととらえられるものもある。大辻さんがあげたもののなかから一首。《島のごと見えし葦むらに近づきて葦ふく風は寂しくもあるか》。

こうした文体の不安定さのきわみで、自己離脱、自己消去などがさらに付帯されてゆく。不学なぼくは、佐太郎に以下のように恐ろしい歌があるとは知らなかった。ちょっと葛原妙子のある種の歌につうじる衝撃だ。

うつしみの人皆さむき冬の夜の霧うごかして吾があゆみ居〔ゐ〕る



以下はぼくの用語で。

換喩は単位化されてながれに置かれる。ながれのほうが先験的だ。だから換喩は相互に頭が尾を食むかたちで、たがいの接続をねがう。そのとき「葦」のように同語がちらりとみえたりするが、それらはながれにのまれる。そのうちに頭と尾との接続がきれて、べつの主格がうかびあがったり、主体の首が宙にはねあがって、ながれそのものを見下ろしたりする。恐怖の光景。けれどもそれが恐怖になるのは、小説のような、長さに恵まれた媒体においてではない。三十一音の矮小な詩型においてだ。たったこれだけの音数に錯視にむけた罠がしこまれ、しかもそのズレや移動や省略や遊離や省略そのものが、恐怖以上の魅惑になる、ということだ。そう、こうした短詩型の富は、詩作にむけて簒奪するしかない。大辻さんが掲げた佐太郎の歌からふっと類推した葛原妙子の歌はたとえばこうだった。

赤き花抱きてよぎる炎天下いくたびか赤き花のみとなる



そういえば、大辻さんの本には河野裕子論もあって、そこにはこんな歌も掲出されている。

横たはる獣のごとき地の熱に耳あててゐたり陽がおちるまで

大島渚『儀式』の一節と同発想の歌だ。これは大島本のゲラに入れさせてもらおう。
 
 

2013年03月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

一哀のあと

 
 
【一哀のあと】


その一哀のあとa grief later
ぼくのすがたがかわっている

鏡のなかをとおりぬけてきたんだ
じぶんの境をこだまさせながら

ひとおもいにものものしく照って
こけむした時よりも騒然とある

まなざしこそ銀の喇叭のもちおもり
ただぬわれている性の境目を覗く

きえてゆくものに枯雄となづけられ
ふる雪のむかしをわらう悔いる
 
 

2013年03月02日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【頁】


おれが東京にもどってもあいたくないと
たしかにきみのマスクがつげたようだった

搭乗まえのすうじつ、ふぶきのまに
からだのまぼろしがそらをちぎれまくる

はげしく電線のゆれる酪地帯のながめが
まなこを打って頭蓋まで知られる。にがい

なんてことはないおぼえなど閉じのなかにある
おれは本体でおもしされた頁ひとつにも似て

共鳴しないことをきしむ節へ伝えているが
突立ちはもうだれかにとおりぬけられている
 
 

2013年03月02日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

みすみ

 
 
【みすみ】


あたたかさが雪のかたちをしている日があって
てのひらでうけると水の遍歴がかんじられる

ずっと正午のない、欠けた日々だったのだが
そんなうしないが「やがて」の息吹へとむすばれて

さしだす手もおのれまで掬いあげる配置になり
ものあることのなかに循環のながれがうごきだす

くらいひるまの、くらいあかるみとはなんだろう
それは咲きだすうめでなく掌上のくぼみではないか

かたちよりもゆくすえが像となる三月の尖端には
ふりながらとけることを雪のみすみがつづける
 
 

2013年03月01日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)