柳月
【柳月】
みあげることが月をみた
とおいちかさが空にあった
つちのうえでうえを踏み
やなぎとはとなりしていた
とどまっているが同行していた
いないひとともやなぎとも
月がゆっくりうごくから
なにびとかながれるようにみえた
ひと晩はやなぎをひとにした
このうすい善隣のおよぶかぎりで
なにをあんなにたれているんだろう
ふきだした芽がしずくにみえて
ならないふたりではなかった
かたちのくらさもひきあっていた
諧
【諧】
つくえに手を置いてすわれば
そのすがたにもう諧がある
たぶん調和というものは
おくゆきに階段をふくんでいる
それはとてもはずかしいかまえだ
奥から手まえにおよぶなんて
それでもききいることがあやうく
耳のなかも余白になってゆく
きみはだれのまぶたなんだろう
ときどきは瞑目になっている
せかいの椅子が半減している
すわることがけずられて
ゆっくりと全身が椅子へかわり
そうだ性は引き算を真似する
尻と尻のすきまでできている
あらゆるきみの忘れつつある支え
海に似たものだろうか
みつめる部位を移されるのは
前髪があるね、まなざしのうえに
そのおもさできっとねむるんだろう
すわってうつむくきみの就眠矩形
まゆのほどけゆく絵のようだ
かたちにあつまっている諧が
半減するのも諧、それをみている
観音力
【観音力】
非力というちからがある
なぎをまえに風がわかるようだ
そういうものにみちたとたん
ひとのあつみの窪みかたもわかる
だまっていることと恥ずかしさ
かんじるとこれらが並びだしている
こう綴りはじめ訓えにならぬために
かたちが色からわかれるのもみる
あがなわれるのだが救いではない
おもいえがいたものがうつむくだけだ
みたといわれる響きにそうはくがあり
かんのん力とは或る幾何ではないか
井桁のままに静止があらわれている
みあげてみたやはりそれも天心だ
(造語)うしろ耳をひかれながら
きくことがばんしょうにのこされる
やがて草をゆくのがやるせなくなって
あるく甘みに方向をおもいはじめる
あらゆるをいっときにとらえて
ないでいるあおいむぎのつらなり
点だろう、けれどじぶんがそうなら
よりおおきなひろがりもまた点だろう
ほつれ
【ほつれ】
ゆきがきえるとふたたび枯葉が舞う
とおい円陣にまなざしをなげる
まるいものの量とそれに反する空白
よるに映っているのはそんなほつれだ
かおと手のちがうひとをかんがえる
にんげんの細部とはなんの仙界なのか
ふしぶしが傷むというときのふしぶしを
のこっているべらぼうに寄せてみる
よりそってなった接触が循環する
おもうまま、すくなさになってゆく
いなかったことをほめられたかぎりは
きのうよりすくなく死んでいる
紙のまえに布の世紀があっただろう
いまはりんねるの肌ざわりにとけている
着衣もすきまにより成っている
そこに温まっているちぶさのなつかしさ
たしかに立体は平面よりおくれている
まねることを棺にしてゆくならば
手もとにはみじかい白魚があるが
これはさわってみたひとの手でもある
相互とはどこからほつれているのだろう
みつめずにしずかに息をはいてゆく
接続詞と第三項
【接続詞と第三項】
言語表現という「ぬえ」みたいなものを、対立する二概念ではさみこむ、というのは方法論的にはただしい。それにより、言語がいかに不定形で不確実なものかがとらえられるからだ。ソシュールの「ラング/パロール」、吉本隆明の「自己表出/指示表出」がまずそれにあたる。
吉本の概念はたとえば以下の例文で説明される。とおくから自分の旧知の「井上くん」があるいてきたとする。「あ、井上くんだ」。ここで「あ、」が自己表出、井上くんという存在によって発語された「井上くんだ」が指示表出となるわけだが、これでは対立する二概念に何の妙味もでない。吉本の天才は、まずは自己表出を、いうなれば自己再帰性のみえない萌芽としたことだし、自己表出/指示表出の区分を身体におろし、前者を内臓的な衝動・感覚(外界とはかかわらない自律的なもの)、後者を感覚器官から脳にいたる、外界から媒介される伝達性としたことだろう。
とうぜんその発想からすると、品詞の分類考察に思索がすすむことになる。それで吉本は、名詞を最も指示表出性のつよいもの、感嘆詞を最も自己表出性のつよいものとした。これもまたあたりまえのようだが、要諦は、感嘆詞のつぎに自己表出性のつよい品詞として助詞をおいたことだ。係り結びなどから発想されたのだが、実際は芸術的な言語表現を日本語でおこなうばあい、構文内で助詞をどう選択するかが肝で、これについてはいまやっている国語表現法でいずれくわしく解析をしなければならない。
すこし奇異におもうのは、指示表出と自己表出を交叉させてつくられた座標のなかで、品詞が種別にそれぞれの混入濃度分布をしめされているのだが、そこに接続詞がみあたらない点だ。むろんそれはとうぜんのことで、吉本はふるい和歌を用例にして、品詞分類をしていて、じっさいにその当時の和歌には接続詞が稀薄だったためだ。
ではこの接続詞の属性はどうかと現在的に問えば、それはとても指示表出性がたかいといわなればならない。
すこしまえに若手の気鋭評論家による映像論の単行本を読んでいた。丹生谷貴志が一時期はやらせた「そしてしかし」をいまだに接続詞につかう文体だった。これは文の接続が順接か逆接かは書き手自身もわからない恣意性のなかで文が「ただ」呼吸的に接続されている態様、もしくは二文が順接か逆接かは読み手が選択するという依頼を表示しているといえるだろう。文は読むことによってつくられ、書き手にはなんの先験性もない、という主張じたいは首肯できるのだが、もんだいはそう提示する構造のなかで、いわば構造の再帰性により、書き手の位置・存在感がたかまってしまう点だろう。
書き手が読み手をドライヴ感覚におとしいれ、語調で読み手の心理を操作する、というのが、接続詞的な問題だ。「つまり」「ようするに」ばかりを濫発する悪文。「だが」「しかし」ばかりを濫発することで文脈がバロック化してくるもの。ところが「現代」はより念入りになって、さらに「接続詞的なもの」が浮上している。醜いもの、それは副詞節でありながら接続詞的に作用して、書き手を底上げする、「誤解をおそれずにいえば」などではないだろうか。ブラフのにおいがある。あるいは蓮実重彦が一時期よく使用していた「まさか知らぬ者はいまいと思うが」にもいまでは吐き気がする。
これらと同様にきらいな言い回しがある。「――とおもわれてしかたない」「――とおもうのは、わたしだけだろうか」。これらはたんなる「おもう」にさらに「他」をたのんで、自説を補強する「操作素」ともいえるもので、読み手に反駁の余地をあたえない。読み手はこうした言い回しに直面したとき、書き手に排除されるのをおそれ、「同意」を強制されるような文勢にまきこまれる。これは文飾だろうか。ぼくのかんがえでは、「接続詞的なもの」は文飾を形成しない。むろん読み手の操作という方向性をもつかぎり、指示表出性があることだけはたしかだ。
SNSというアーキテクチャに蔓延しているのはソシュール的にいえば「パロール」だが、吉本的にいえば自己表出になるのだろうか。そうみえて、ちがうとおもう。実際に優位性をたもちつづけているのは、「名詞的なもの」――つまり指示表出のほうだ。ところが名詞は「情報」だから、その露出には仕方のない面がある。もんだいは、名詞とともに「接続詞的なもの」がこれでもかと付帯的に繰り出されていることではないか。「そして」「しかし」「あるいは」「つまり」は語調以上の冗語として、SNSの文面に「かくれながら」蔓延している。
文飾と「おもう」をからませれば、こういう逸話がある。堀口大学訳によって人口に膾炙したコクトーの短詩《わたしの耳は貝の殻/海のひびきをなつかしむ》をかつて西脇順三郎が酷評した。《おれの耳は貝殻だ/海鳴りをおもう》でいいではないかと。堀口訳は文飾があらわだが、同時に吉本の分類によれば、韻律あるいは文脈は指示表出的だから、ここでは文飾と指示表出がからみあっていることになる。では西脇が反駁して例示した訳詩のほうはどうか。じつは自己表出と指示表出が等分に拮抗(均衡)することで、乾いた文飾がそこに貫通していると、現在の視点からはとらえることができるだろう。むろん西脇のいいたかったことはこうだ――「ただ書け」。
通常、接続詞は詩からは廃絶される。文脈の論理性を強調する(=指示表出する)接続詞は、詩が「そのものであること」と抵触するのだ。だからとりわけ詩では接続詞を欠落させ、文脈ではなく「語順そのもの」として物質化(=自己表出)されなければならない。もっとも、散文においても多くの接続詞は、「誤解をおそれずにいえば」が不要であるように、不要だ。たとえば「そして」はほとんど要らない。とり去ってみると、文意がすっきりし、生き生きとしてくることは多くのひとに経験があるだろう。というのも、文がそのまま継起しているときには展開の順接は自明で、その箇所への「そして」の挿入は、「馬から落馬する」に似た冗語となるためだ。
「そして」のない詩として、もういちど以下を召喚する。
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永劫の根に触れ
心の鶉の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくづれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず
――西脇順三郎『旅人かへらず』最終番(一六八番)
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体言止めの連鎖、その次の段階での動詞の連用形の連鎖――これらによって継起性があきらかだ。継起性は散策のあいだ、あるくにしたがってとらえられた景物が順接でつぎつぎに展開されてくるためだが、詩の換喩性はその点のみにあるのではない。「くづるる」「くづれ」と同一語がしずかな間歇をもって重複しているのにまず気づく。用語はえらばれている。「砧」「樵路」「枯れ枝」「さがる」など、野趣か衰退相にある語がたくみにえらばれて、それで徐々に展開のなかで寂寥が水位をあげてきて、ついに「幻影の人は」「去る」というフレーズ(=部分)で、現実性をこえた主述が顕在化する。
ところが、この一行が生じた途端、それまで隠されていた動詞群の主体(主語)の位置に「幻影の人」が遡行的に装填される。しかも次行で「永劫の旅人」とそれが同格換言され、「幻影=永劫」という暗喩式が成立するが、この最終行の「永劫」が一行目の「永劫の根」とも協和し、結局、おおきな視座でいうと、「円環=永劫」というニーチェ的な感慨まで生じているとわかる。ありかたは読み手操作的ではなく、徹底的に自己音楽的だともいえるだろう。もんだいは具体(的列挙)のなかに高度な抽象が代位される瞬間が、ある種の「贖い」にみえることではないか。
今朝までディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお』を読んでいた。表象不能性の「権威」に硬直したクロード・ランズマン一派に、イメージの有効性を学識的に説いた著作だが、そこにゴダール『映画史』の喚起があった。たとえばホロコースト表象が即座にポルノグラフィ表象に接続される。このとき選ばれたホロコースト表象にもポルノグラフィ表象にも「事実の存在」=「それじたい」が曖昧だが、「編集」によって生じた像のうごきのなかには「それじたい」(この場合は「暴力」「おぞましさ」を指標する)がある――それがゴダールの主張だ。つまり編集は画像単位の衝突(衝突といっても相似性が呼びだされる場合もある)だが、衝突の材料となる画像単位には実際は意味の規定性がない。ただ二項の衝突によってたちおこる第三項(それは衝突するものどうしにたいし斜めの位置にある)は実体化される。それが「イメージ」だとゴダールはしめし、これをディディ=ユベルマンが論脈形成に利用するのだった。
さきほどの西脇の例でいえば、散歩中に見聞した景物には実際の意味規定性がなく(「情感」はある)、水位をあげて顕在してきた「幻影の人」「永劫の旅人」にむしろ実質がある、ということになる。イメージが現実を凌駕している、そのことが希望の原理だとディディ=ユベルマンは暗示する。ただしイメージは、「救済のない贖い」にすぎないとしるすことも忘れない。だから、「アウシュヴィッツからもぎとられた四枚の写真」は「表象として」緻密に読みとられ、ゴダールの映画も「編集」され――そうであれば西脇の詩も書かれる、とぼくも付言できる。
二項が衝突するその場に、第三項が斜めから浸潤し、それがイメージ=「救済なき贖い」になるという原理は、むろん俳句に最も適用できる。とりわけ、任意的な乱数配合と、ときに疑惑をもたれながら、震撼句を連発する安井浩司が適役だろう。安井句は「編集」の問題系を喚起する。編集は「自己表出をそのまま指示表出化する」(つまり作品化する)表現の高度な次元だ。そこでは「接続詞的なもの」などはじき飛んでしまう(ゴダールは「et」を原理とする映像作家だとドゥルーズは定義したが、単位の密着に隙間と亀裂と衝突をさまざまつくりあげる〔接続詞の位置を吊るしあげる〕、脱接続詞的な才能であることはいま承認されているだろう。そう、逆転的にいえば安井浩司的なのだ)。
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性交や野菊世界に放火しに
犬二匹まひるの夢殿見せあへり
麦秋の厠ひらけばみなおみな
一牛を揺らし二物を見るひるま
蒜を摘む裏返しに神背負われて
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もはや書くまえに予定した字数を超えている。これらの句の玩味は、あすの「国語表現法」でおこなおう。
腑分け
【腑分け】
ふわけのおそろしさを遂行している
めぶきはじめたやなぎにたいして
ながれている日はいつも眼にたりず
さくらのはらわたをみあげる幸をねがう
うつくしいむすめたちの髪にも体温があり
それがひかりに照ってくずれるのをみる
だからみずからがるつぼのなかに置かれ
たれてくる髪がこもれびのたぐいをつくるのを
みることのマゾヒストみたく切望するが
おもいのなかからはわらう顔がきえている
ふぇちとは嗜虐の眼にせりあがる無
せかいやからだに空白をあけているそれらを
ひとから離してせかいのしぐさとただよぶ
かの女らはむすめたちとしてふわけされている
それらがうつりゆくままであるならよいが
近景の髪が、遠景の髪とむすびあってはだめだ
そういうのがこの眼にははらわたとなって
胃と肺がつながるおそろしさをかなでる
ふわけとは楽譜からひとつの音符をうかばせて
樹下のくうきに木管のこえをひびかすこと
みちたりたひとりですることなのだ
寺のような胴からはらわたをとりだすのは
きもちわるい群れのひとりといわれる
ほんしつである刀身がにぶくきらめいて
同行二人
【同行二人】
やがて眼をやむみずからの詩に
はちどりの色響がまざりこむ
ひかってぼやけて時のつぎめが
とおくへのなだらかな空気にかわり
ひとはそのふくらみにおとろえて
だれでもいい色をただ放つ点だ
だから切迫するちかくをもとめる
ちかさをしいられてあえぐ肌を
それでも耳かざりが耳朶をほどけ
すわるひとのむかしへとおちるとき
スカートのその場から紋がひろがる
そんなふうに眼前もひだをつくる
みることを楯にして面となった身が
みることから退がってうすくなる
あいてにちかづきながらはなれだす
一瞥のなかの鋭気のようなもの
じぶんなどこんな紙だというと
けしてはえがく眼の厚みを問われる
眼中のけしカスにみたすべてがある
くるりまとまったそれもまなざし
じぶんをみているのよとなだめられ
ないた肩には耳かざりを置かれる
しゃりん、と店内に錫杖がひびく
同行二人としてたちあがる間を
草木人
【草木人】
ごくらくがまぶしく、くさいろなのは
くさきが往生してそこに吸われるためだ
かぜにふかれるだけのひとよをたえて
ごくらくでなびくことは根のこがねとなる
そこにはまいうかぶてふすらみあたらず
ただ葉のおんがくがかたみにひびく
ひとのいないふかさでものみながゆれ
こしかたとゆくすえにみわけもなくなる
ひとのいないふかさでものみながながれ
ひとはなきものとあやめられている
あやめ、かたちの刺客はごくらくの水辺にあり
ものおもうのはそのままをころすこと
おもいきれないでかたちがまっとうせず
いまだしにとどめておもかげをはんごろす
ゆれている天上のおおきなゆううつや悪
はかりの皿からこぼれない気絶のむらさきを
かいまのぞんで生を往く身もねどこでつき
ひとの往生はやはり枯れいろにそまる
それでくさきになれたのかよ枯れて枯れて
ねどこから上をみやればごくらくがおもたい
うでをからめたその日からもうくさきではない
かたちではなく身のうちをごくらくにかえて
上とはそらごとだ内がいちばん隣がにばん
そういい果てるくさきびとの、しぶいたまゆら
木下恵介メモ1
【木下恵介メモ1】
木下恵介を観るということは、なにか途轍もないものに耐えるということだ。悲惨の誇張、センチメンタリズム、性急な告発、人物たちの諦念というより不作為…… そうした「間違った」人性の把握と引き換えに、木下演出-楠田浩之の撮影-杉原よ志の編集、それらの連携によって映画性があざやかに創出され、おおむねは経験したことのない速さや空間把握が出来する。こうした不均衡を眼の深部に引き寄せて、感覚がずれることが、木下映画を観ることなのではないか。テクニシャンとよばれるが、一種の動物性がこのように横溢しているわけだから、「技術ではないもの」の不透明性のほうが先験的なのだ。
たとえばモノクロ画面に色彩の「部分」を加算した『笛吹川』の出来は、前近代的な芸能の把握が書割めいていて、たしかに悲惨だが、終盤、武士と郎党の敗走的な行軍過程に、老婆姿の高峰秀子がつかずはなれず歩きしたがってゆくときの「物理的におもたい運動矛盾」は、実際は芸能の本質と確実に並行している。それだけを確認すれば、映画の詳細はすべて捨て去っていいという不均衡な捌きが観客側に生じるのが木下映画の本質ともいえる。
小品『夕やけ雲』のすばらしさ。70分強という上映時間の枠組で語りの速歩調をしいられ、告発の念押しをし忘れたこと、脚本が木下自身でも松山善三でもなく楠田芳子だったこと――これらによって、この映画は空間と人物移動の素早い混合だけを実現し、木下的な精神、「犠牲」「行き場のない憤怒」「利己心」などがそれぞれ点景的なかるみを帯びだす。魚屋の内部から通りを見とおすショット、その内部から家屋間の通路を介して店裏の土手にゆき予感的に夕焼け雲が遠望されてゆく、主人公少年の後ろ姿を置いたメインショット、主人公少年の部屋の脇に物干し場があることで隙間だらけのスポンジ空間が予定どおりに充実するショット……。貧困表象のなかで、これらは「ありきたり」の材料から空間の連続性を創出してゆくしずかな驚愕にみちている。
だから逆転が起こる。悪女というか現代的なクールさをまとわされることの多い久我美子が、金持ちの男を籠絡することからファッションショー的な「着替え」をほどこされて、作品空間にたいし縫い込み/運針のうごきをする。それで表情に曇りをしいる木下映画には例外的な「女優のうつくしさ」に到達するのだ。こうした不均衡に撮影行為がさらに大がかりな力を貸す。結婚がなって花嫁衣裳の披露を目的に久我が高飛車なクルマで自宅そばを訪れたとき、元恋人の田村高廣が駆け寄って久我の頬を打つ(しかしそのディテールをしめすショットはない)という事件が起こる。自宅の魚屋に主人公少年が走って通報しようとして、作品に伏在していた不均衡を誇示するようにクレーンアップが開始され、商店街の通りを少年の走りが縫ううごきが、やがて点景となるまで俯瞰スケールを拡大してゆくのだ。
作品のディテールにはひとつもないのに、なぜか『夕やけ雲』は刺繍の映画ではないかとおもうのはこのときだ。「魚は縫われる」という奇怪な主題がうつくしさのなか悪魔のように潜んでいるのだ。あるいは臓物嫌いの木下映画には治癒できない臓物性があるともいえる(木下は大島渚の『太陽の墓場』で豚の臓物がぶちまけられるディテールを「汚い」と批判したのだが)。そういえば主人公少年には中村伸郎、山田五十鈴を父母にもつ金満家子息の親友がいて、木下は自分の同性愛趣味を、彼らが歩行中に手をむすぶすがたで表象する。ひそかにというより、これは電撃的に顕わなことだった。だが、「魚は縫われる」という錯綜した視線のもとでは、この露骨さもまた転轍されて、ちいさなうつくしさに着地する。こういう錯誤が木下恵介のもので、それが得難いのだ。
先行する成瀬巳喜男では「犠牲」は調整され、人間は行為選択のなかで香気を放った。後追する増村保造では、「悪」は「妄執」と対になりそれが速度化することで、実存にたいしての、するどく映画的な吟味と熱転化が起こった。どちらの立脚にたいしても木下恵介は「不足」しているが、不均衡が動物性にみえる点だけには独自の力がある。現在、このことをいえない木下論はほとんど有効ではないだろう。
古賀忠昭・金愛花日記
【古賀忠昭・金愛花日記】
昨日は意欲的な若手が結集した同人誌「子午線」の第一号を読んでいた。小峰慎也さんのミクシィ日記で存在を知って、編集部宛にメールを打ち、注文・購入したものだ。ボリュームたっぷりで、内容の隅々を堪能した。巻末の50頁強にわたっては、古賀忠昭の未刊詩篇も大迫力で収められている。稲川方人の解題付き。収録は全6篇だが、頁数の三分の二ていどを占める冒頭「金愛花日記」の「異様さ」にはことばをうしなった。
「金愛花日記」を要約的に紹介することにはほとんど意味がない。ただし、はなしのきっかけとして、あえてそれをしてみよう。ひとり暮らしをし、糞尿処理と悪臭で周囲に迷惑をかける鼻つまみの老婆・金愛花の「創造的=想像的」日記だ。文面には現在と過去が交錯する。過去は朝鮮人慰安婦として中国雲南省に引き出され、日本軍人の慰み者になった凄惨な記憶にいろどられている。性器の過剰使用で、「またぐら」の「あな」に「こぶ」があるという、冒頭から提示される負徴で、すでに対象との遠近感がぐらついてくる。その後は、慰安婦時代の苦界状況や上記した糞尿のほか、暮らしの極悪、ごきぶり、不敬、川、極楽を駆逐して地獄だけになる冥府観、両親の縊死など、恣意的な聯想のなかで細部を増殖させてくる。
数詞と自分の名以外はすべてひらがなで書かれる。無教育者の手になるもの、と古賀が設定しているのだ。読点もすくなく、しかも日付による分節のほかは、ひらがな選択の誤用、九州弁、朝鮮訛が混淆した、ひらがなを「酷使」した脱分節的なひろがりとして、ほぼ文面の全体が量塊化している。よって読者は音声を自分の内面にゆっくりと反響させながら、この膠着して異様な意味をなすひらがなのながれを「ほぐして」ゆかなければならない。この作業の主体化によって、「金愛花」は臭気と哀切をつうじ読者の内側に憑依することになる。ところが金愛花の形容不能性は終始、温存される。結果、形容不能性は読む者じしんの属性へとさらに転移するのだ。ここでは、「読むこと」が「感染」なのだった。
ある特異な立脚によって、日本的時間と日本的空間、それらの連続性に叛意がしめされているのはたしかだ。日記それ自体の連続性は、常識のオルタナティヴに位置する。ただしそれがほんとうに特異性かどうかは峻厳に吟味されなければならない。特異な血というものは血液の普遍にあって存在しないのではないか。そうかんがえなおしたとき、いわば選択される言語(ひらがな/無教養による誤用/九州弁/朝鮮訛)のマイナー性とともに、だれも否定できない設定(=想像力)のマイナー性が、情感の循環発動機となる。うねり。うねりの基体となる脱分節。
これらのことばの群れは、「現にあること」によって脱マイナーなのだという単純な事実が反面にある。交換可能性が伏在しているはずなのに、交換は内在的に相殺のかたちで起こって概念だけを減数化させ、結果、ひらがなの連鎖として締めあげられたものが交換不能な現前としてはげしく瀰漫している。むろんマイナー性とは想像が安易につくりあげた趨勢にむけての変換装置で、脱意味を決裁するが、それでも意味は金愛花の範囲でうごめきつづけ、それ自身との盟約を果たしつづける。つまり「金愛花日記」は叛意の存在を指摘するよりまえに、マイナー性とメジャー性の分離不能、聖なる膠着として構想されているのだった。
これが詩かという問いがとうぜんに出る。「通説」でも、創造的=想像的な日記文学は小説の範疇におさまるだろう。ところが古賀のしていることは間歇性をむすんでつながってゆく理路の提示ではなく、マイナー性をマイナー性によって内在的に組み替えることであり、同時に「声」の憑依的な全体化なのだ。だから「金愛花日記」は詩としてとらえられるほかない。スキャンダラスであることではなく、創造=想像が突破したものに、血の痕跡と同様の、詩の痕跡がまつわりついていて、石胎の金愛花はその存在じたいが異質をころげおとす「産道」なのだった。古賀の執念ぶかい憑依は讃えられるしかない。
癌で余命わずかと宣告された古賀が、途絶していた詩作を復活させ、編集・出版の命運を稲川に託したことは、詩の愛好者には「伝説」視されている。古賀の遺志をうけた稲川は彼じしんが産道となって、古賀詩集『血のたらちね』『血ん穴』、それに「スーハ!」4号掲載詩篇をころげおとしてきた。そうしなければならない使命の連絡を、古賀のオルタナティヴな立脚や声がもっていたが、これもまた詩壇に衝撃をあたえるためとくくると短絡してしまう。たぶん「それじたい」がその遠心力そのままに拡大しなければならなかったのだ。その意味で稲川は一見「媒質」だが、やはり古賀と同等の「産出者」だといえるだろう。だから「金愛花日記」をぜんぶカタカナ書きに変換してほしいという古賀の遺志を、稲川は無視して、ノートに書かれたオリジナル形態のひらがな書き状態を掲載にあたり貫徹した。負徴を過剰に重複させることの損失を、稲川は「ほとんど作者として」冷静に算段したのだった。
死の直前、なにへの伝達か不明のまま詩作を復活させた古賀の動機を、真摯な詩作者みなが自問するだろう。結論をさきにいえば、この答は出ない。古賀がルサンチマンで書いたのではないし、死の到来が目前になって奇怪なダイイング・メッセージを発したのでもない。むろん捲土重来でもない。書くことそれじたいの権能が、古賀自身のなかで問われたが、そこに野心的な根拠など一切なかったことは、書かれたものの異様がそのまま照らしている。たんにオルタナティヴ、マイナーが自身を裂開するように発現されなければならなかったのだ。
となると、古賀の個性よりも、書かれたもののほうが本源的で、古賀の問題は、マイナー化が詩文の状況にたいして起動し否定斜線を引いたのではなく、彼自身に否定斜線を引いてしまったということなのではないか。だから否定斜線のひと稲川が古賀を代理する。むろん書かれたものには古賀の人生、するどい語感覚のすべてが動員されている。これらすべてを統合したとき、地層のずれ、時空のずれ、自他のずれといった、要約しがたい動勢的な複合が感知されるだろう。
死がカウントダウン状態になってノートにつむがれていった古賀詩のうち、マイナー性の作用力がもっともつよいと一般がかんじたのは、『血のたらちね』所収の「ちのはは」だろうかとおもう。「金愛花日記」は量的にも質的にもそれに匹敵する。しかも不敬要素、グロテスク、スキャンダル性、哀切、声の貫通力は、私見では「ちのはは」を凌駕する部分もある。これが『血のたらちね』などに収められなかったのは、作品の禁忌性がおそれられたためではないだろう。おそらく、古賀が書く体力をなくすまで全体が書き継がれていて、結果としては「未完」だったことが顧慮されたのではないか。ただし聯想の恣意を推進力にもつ「金愛花日記」は読み終わっても未完性をかんじさせない。それでも稲川が解題でしめした古賀自身のその後の展開案を知れば、やはり未完がおしい、とはおもう。
「金愛花日記」の一節にある、それ自体への救済部分がわすれられない。「しろいぬの」が出てくる日録部分だ。そこで、「ちょうせんじん」であることが最終的に、高度にひきうけられているのだ。実地に読まれたい。
それと、古賀が選択する異様な書法は、べつだん宿命的なものではなく、字義どおりに選択的なものだとおもう。古賀が構成的で安定的な詩もみごとに書けたということは、掲載詩篇中の「古賀廃品回収所」がとりわけしめしている。
さて詩がなにかという設問は、たえず詩の拡張のためになされるべきだ。古賀はそれに身体と声をとおして応えている。そういえば昨日は、前田英樹さんから恵投をうけた講談社選書メチエ『民俗と民藝』も読んでいた。柳田國男と柳宗悦に共通しながらズレをかたどる語、「民」を、それぞれの思考の詳細から高次に交響させようとする前田さんの新著だ。前田さんの書くものはいつも思考を澄ませるが、ここでは最近の著作とつながって、やはり日本的な起源が稲への技術と、稲の植物的呼吸のふところへと、うつくしくはいってゆく。前田さんは柳田の資質にも柳の資質にも「詩」を意図的に濫発している。むろんこれも詩の拡張のためだ。それでも本の終わりちかくで引用される民藝運動の陶芸家、河井寛次郎の文章、またそれに呼応する前田さんの地の文は、「それじたいの詩」というしかなかった。
いいおとしたが、「子午線」第一号では、向井豊昭を論じた錦野恵太の長論「遊歩する情動」にもつよい感銘をうけた。
開閉
【開閉】
きたがれにすんでいたころ
うるしは海をただれた
かさごのようなかたちのくずれを
ほおかむりのなかおさめていた
おかされるものの推移にいつも
おかすものがある、あった
まなこはせりあがるうごきをみた
おおむねはおとの蘇りだった
まぶたのひらいてゆくなにかを
まぶたをひらきゆくなかにかんじた
かこけいだけでしるすあらいず
じぶんが深刻にうしなわれた
起きよととおりすがるすべてにいい
ばんぶつをよびかけの範囲にしぼった
われていった、からだを風がわれる
そんなひとつだけの抵抗だった
はまを海神のかわやとならわし
藻をあつめてゆくおこないだった
ゆびさきひとつでなす生の
ゆびにふれるかるさがくろかった
なぎをまえにしてせなかが逆光になり
おんなのもつ二分を身におぼえた
そういうことでわらいをないた
わらたばでゆこうか光束でゆこうか
じぶんをかくしおおせるたてものは
子のからだくらいにちいさかった
かこけいはなぜ生きていた頃になるのか
写真をとられればこんなにもつぶになって
あわとかそのていどのものだった
ころしをうらやんだあとは
がっこうののちはながいながい寛解
いきをすることでいきていた
上野俊哉・連続ONANIE乱れっぱなし
上野俊哉追悼のため、94年の国映ピンク作品、『連続ONANIE 乱れっぱなし』を、画質のわるいVHSで観なおした。展開される空間のふかさに往時とおなじように震撼した。
はなしの主軸となるのは、伊藤猛。「迦楼羅」の名義で台本を書いているのが瀬々敬久(瀬々は町の悪たれのひとりとして1シーンに出演もしている)。94年頃の瀬々は時制を複層させる語りへの移行が完了する時期で、この作品もふたつの時制が織りあわされている。伊藤猛が絶望にかられて雪中と温泉街を無為にさまよいながら、湧きあがる自身の悪辣な性欲、もっというと放精願望を処理しかねている「現在」と、それに織りあわされてやがてあきらかになってゆく、葉月蛍との「過去」。
場所の特定は、「オリンピックがくると、このあたりも変わるかねえ」という農家の中年の坂を越した女の科白と、雪におおわれた林檎園がみえ、行き倒れにみえた伊藤に林檎がふるまわれることからまず「長野」と判明する。長野五輪の開催は98年、それをまだ遠望している作品製作年の94年が「現在」ということになる。伊藤はハスの花飾りなど仏壇用の装具を売るという触れ込みの、しかしそういう実質のない営業者としてその女のまえに現れるが、女を林檎園が奥行きにみえる雪原で強姦する。妊娠を懸念する女は外出しを懇願するが、伊藤は女のなかに放精する。あろうことかカネを強奪、しかも女を殴打し(たぶん)死にいたらしめる。そのあとは雪原を走り、逃亡する。このくだりで、上野演出はフィックスでのロングを中心にした長回しだけを数パターンで選択し、風景内の人間の存在継起性を荒々しくつかみだす。それで即座に作品が「せつなさ」のモードに固定される。
その後、伊藤が迷いこむのは長野の湯田中温泉。長野出身の上野が監督だけに温泉街の地勢把握は自家薬籠中で、階段のある高低差、路地、さびれの徴候を顕わにしている歓楽街など、土地のもつ瀕死の霊力が画面に刻印されてくる。
駅の改札を出た伊藤を、TVによく出ている著名俳優と勘違いをしたのが、下元史朗。瀬々的人物を表象するように、彼には脚のわるい跛行という負徴がついている。彼は温泉街の射的屋の親父で、年齢差のある相川瞳と妙に昵懇な関係だが、やがて下元がまだ中学生の相川を「拾い」、各地をふたりでさまよった挙句、いまは湯田中に落ち着いているとわかる。
ところが加齢の兆す下元はもはや性的に相川を満足させられない。しかもストリップ小屋を差配し、ストリッパーと温泉客との売春を斡旋する佐野和宏(なんと彼は女装をとおす)に下元が借金を負っていることから、相川を佐野に人質として取られ、ストリップと売春を強制させられている。ただしこれらは、作品が進展するうちに間歇的に判明してくる事実をまとめあげたもので、作品は現実時間の悠揚たるリズムと、判明の恣意性を前面にだしている。観客は人物の存在を「場所」と綜合させながら、ゆるやかに、事後判明的に設定をつかんでゆくだけだ。すべてを「説明されてわかる」のではなく「ただ視てゆく」のだ。
伊藤猛もストリップ小屋に案内され、相川の客となる。伊藤がするセックスは冒頭の林檎園の中年女のみならず、相川にたいしても荒々しい(まず伊藤はまだ濡れていない相川に無理やり挿入する)。瀬々の脚本は中上健次の『蛇淫』中の短篇「荒神」を参照しているといわれているが、いまは異同を確かめない。
映画的なレベルでは大島渚が導入されているとはわかる。伊藤猛が林檎を齧るのは、『青春残酷物語』での川津祐介の遠い反復だし、やがて画面展開に判明してくる女にたいする伊藤の複数の絞殺も、「首」に強迫観念をもっていた大島映画からの交響だ。ただし最大の類同はこの映画の一節と、大島『日本春歌考』の一節が、女の「民俗語り」で呼応する点だろう。『日本春歌考』では小山明子が荒木一郎と高速道路の歩道をあるく場面で、一方的に荒木に、炭坑を舞台にした哀切な冥婚譚をかたる素晴らしい詳細があり、それと似たやりとりが、伊藤との性器の相性のよさを確認した相川が雪中で伊藤にたいし起こるのだった。
語られた内容は龍神譚だった。要約するとこうなる――長野の山間は水便がわるい。よって民は高地にある池から麓へと水を引こうとするが、池を総べる龍神の干渉にあって作業はままならない。民は一計を案ずる。村長(むらおさ)の娘をもとめる龍神に、人身御供のかわりにその娘の描いたハスの花の絵を湖岸から流したのだ。絵はみるみる湖心に移ってゆきそこで水中に呑まれた。ところが民が村にもどってみると、うつくしいその娘が絶命していた。龍神は偽りの生贄を見抜き、本当の生贄を頂戴したことになる。爾来、龍神は麓の村に水をあたえるかわりに、定期的に村から処女の命を奪う――。
長野の山間で女の命を首絞めでうばう伊藤猛は、「半分」、この龍神と織りあわされているのではないか。その伊藤の存在同定性をあいまいにするために、下元が伊藤を、有名TV俳優と誤解しつづける設定が下支えをおこなっている。極楽を象徴する「ハス」。作品では親鸞が参照されているはずだが、親鸞の教説、悪人正機説からさらに、のちにしるすような「畜生正機説」へと領域拡張しようとしながら、じつはその拡張の範囲と効果が計測できない。これも、伊藤の存在同定性があいまいとことと軌を一にしている。つまり『連続ONANIE 乱れっぱなし』は回収できないズレ、その哀しさを主題にもっていたのだった。それは気のはやい言い方をするなら、無救済と救済の弁別不能、人性と畜生道の弁別不能、それらをひっくるめてすべてを回収できる極楽浄土があるかという設問とも境を接しているはずだが、作品はただ、人間存在の根源的な悲哀へと熾烈に折れまがってゆくことになる。
仏壇装具とはいえ、ハスをあつかう者に極楽が約束されるかという問題は、龍神をハスの造花で騙そうとした民が、村の処女を消滅させられた厳格な原理と、横から接している。「神騙し」という原理的な罪障。それは二重形態としてあらわれる。作品で結果的に女を次々に死に追いやった伊藤は、龍神の化身であるとともに、同時に「神騙し」の罪障を問われて、畜生としてさまようしかないふかい悔恨なのだ。当時はこんな喩的な図式をもつ傑作が、瀬々のかかわるものを中心にピンク映画には横溢していた。
間歇的に差し挟まれる「過去」のほうをこれまでまだ記述してこなかった。長野を再訪した伊藤は、じつは湯田中を眼下に臨む山間地の出だった。そこで妹=葉月蛍と閉塞的なふたり暮らしをしていた。そのなりわいが仏壇用の装具づくりだった。神話的な設定はまだある。ふたりは近親相姦の禁忌に触れ、しかも妹は畸形の出生を怖れ、堕胎を繰り返していた。なんども自分らは畜生だ、という葉月の慚愧の科白が出てくる。その畜生道が是正されないのはふたりが孤独裡に相愛だったからだ。伊藤の「現在」の、絶望的に涯のない放精衝動は、この葉月との過去によって植えつけられたとわかる。
葉月の死への経緯には「極楽」の概念が交錯する。もう兄・伊藤と交わらないときめた妹・葉月。伊藤は葉月に、自慰のすがたをみせてほしいと所望する。応ずる葉月。切ない気持ちがきわまってくる。葉月はやがて仰臥し、脚をひらいた姿勢になるが、法悦はやはり「ひとりでは足りない」。上体を起こし、かたわらで絶望にさいなまれている伊藤に頬を寄せ、その姿勢で絶頂をむかえる。
上野演出は低光量の長回しに徹する。徹するから、ふたりの頬の接触が、この悲惨な性的シーンの救済になる。こうした接触のやさしさは、瀬々にはなく、上野に特有の感覚だったのではないか。のちにもしるすが、仏教概念を駆動力にして「荒々しく」映画を疾走させる「荒神」瀬々のレールにたいし、上野はそこに何度もやさしい逡巡と停滞を、穴、もしくはひかりとして穿ってみせるのだ。だからこの作品に瀬々映画よりも複合的な味わいが出たのだとおもう。
伊藤は、自慰で絶頂を迎えた葉月に、絶頂は極楽浄土に似ているかと問う。肯定する葉月。ところが仏壇装具のハスの花飾りをつくって、ハスとともにある時間も極楽に似ていると葉月は言い添える。伊藤は、それは工作用のボンドに酩酊した幻覚にすぎないと否定してみせる。だが伊藤にはふたり相互の哀切をするどく感じた瞬間がたぶんそこにあった。それで葉月に真の極楽浄土をみせようと、葉月の絞殺に踏み切る。この「殺」が救済か否かという判断が、いつでも仏教哲学上のアポリアを形成するのは周知のとおりだ。
しかもそれは葉月への救済可能性の問題であって、伊藤自身は爾後、地獄めぐりを余儀なくされる。だから伊藤の「現在」では、ストリッパー相川瞳を、葉月にあった「極楽性」との相似によって、やはり絞殺するのだった。こう書くと一切救いのない作劇と錯覚されるかもしれないが、実際は無救済とはあらかじめの救済だ、という「人間」に寄った峻厳な世界観が作品すべてにゆきわたっている。その保証をおこなうのが、場所=土地の個別性、さらにはその土地のひかりと闇だという点が誤られてはならない。この感触が『連続ONANIE・乱れっぱなし』の奇蹟的な凄味なのだ。たぶん語りが不安定なのも、そういう創造的な錯視に観客を導くための仕掛けになっている。
瀬々映画の画面符牒のひとつは、可視性ぎりぎりの低光量だろう。そこではとくに、性交する男女の裸体から、無名化された肉塊性、物質性が、闇と不可分のかたちで画面を占領する。「情動」が精神ではなく物質の域にあるという信念は、ときに錯視的に肉体を混ぜあわすことにも貢献し、画面内の肉体をフランシス・ベーコンの絵画のように溶融させ多元化させる。
この映画での上野の演出は、瀬々よりももっと過激に低光量を指向しているといえるかもしれない。ところが上野は肉体の物質性と溶融以外に、そこにさらに効力を上乗せする。低い光量によって瀰漫してくる闇は、いわば人物の「声」を伝播させる媒介質へと格上げされるのだ。結果、「闇にこそ声が響く」という強迫が、瀬々映画よりもずっとあらわになる。この感触こそが、上野演出のもつ「やさしさ」なのではないか。たとえば佐野和宏が画面に登場するときも、引き画かひくい光量で、佐野から人的特定性が剥奪されている。しかもそれは女装姿なので迷彩性がなおもたかまっている。ところが発せられる「声」が佐野のものなのだ。佐野にはみえないが、佐野だ、という認知。この感覚は、なつかしさを醸成する。そのこと自体が「人間」にまつわる難問のはずだ。
作品の最後、湯田中の知己を次々殺した伊藤は暗喩的ともみえる振舞をする。そこに冒頭の林檎農家の中年女が登場し、時間が円環する。伊藤は半分は女に、半分はカメラ目線という微妙な方向のバストアップ構図で(ここが上野らしい)、冒頭、女にしたのと同様の仏壇用装具にまつわるセールストークを反復するのだった。話題となった瀬々ののちの作品、『すけべてんこもり』でのラストの川瀬陽太の姿の、いわば前哨だが、直截性のないぶんだけこの『連続ONANIE・乱れっぱなし』の伊藤のほうが、かえって「質問提示力」がつよい気がする。この「質問提示力」も大島映画の符牒なのはいうまでもない。
ところで低予算をしいられるピンク映画のロケは、俳優・スタッフの撮影中の宿泊が余儀なくされる遠地では実現できない。つまり日帰り可能な場所にロケ地が限られることになる。瀬々映画でいうと、秩父困民党を現在に移し替えた秩父が当時の最大遠地だったはずだ。ならば『連続オナニー・乱れっぱなし』のロケ地・長野はなぜ可能だったのか。長野出身の監督・上野が、実家から親戚まで、宿泊場の提供をおこなったのだとおもう。それで作品のエンドクレジットには「上野」姓の協力者の名前がならぶ。むろん作品は生地・長野にたいする上野のやさしい感慨となった。
エンドクレジットといえば、実力を秘めている上野を広範に認知させようとする「同志」の名前が、瀬々以外にもひしめいていたのだった。端役にいたるまでピンク映画に馴染みの実力者や監督経験者がならぶだけではない。製作者「朝倉大介〔おねえ〕」にくわえ、プロデューサーにはサトウトシキの名前もあった。上野を支えようというこの温情の布陣に泣けてしまった(この恩返しに、のちの上野は監督補の仕事をひきうけつづけたのだろう)。ちなみに助監督は、女池充だった。
さようなら上野俊哉
フェイスブックへの川瀬陽太さんのポストで知ったが、評論家ではなく映画監督のほうの上野俊哉さんが亡くなった。瀬々敬久が中上健次を換骨奪胎して脚本を書いた『連続ONANIE 乱れっぱなし』などの大傑作がある、国映の七福神のトップバッターだ。からだのおおきい、やさしい風貌だが、ある時期からうつ病になやまされ、顔がむくんでいて、ずっと「元気になれ」と念じてきた。結局、寡作だった。
『猥褻ネット集団 いかせて!!』の初号試写のあとの打ち上げの席で話したのが、ぼくの出会った最後だったかもしれない。おねえさんが「阿部、上野に感想をいっておやりよ」というので、上野のほうにいくと、たしか上野は正座してぼくのことばを拝聴しようとした。そんなに偉くないんだから、と上野の緊張をといて話しだしたが、「ネット心中では、セックスは介在しない。セックスがメンバー同士に介在すると死ねなくなるんだよ。彼らはもっと契約的で匿名的な紐帯で、じつはピンクにはむかない題材のはず」と、作品の社会学的視点の欠落をそこはかとなく指摘した。上野も自分の不勉強を謝罪していたなあ。
当時、ひさしぶりの作品だったのにきついことをいったとおもう。むろん量産する監督だというこちらの見切りがあったからだ。ずっと知的にも体力的にもバイタリティのある瀬々敬久になりたかったやつだったともおもう。ピンク映画の人的結集は、先行者への崇敬でもっともつよく成立している世界だから、なおさらだ。その意味では「よわい存在」なのだが、だからこそ、『連続ONANIE 乱れっぱなし』は瀬々的でありながら、瀬々映画にはない謙譲と気弱さのうつくしさがあって、そこが猛烈に好きだった。俳優にたいする手厚さ、ふかい感覚でなされる空間把握の才能、撮り方のていねいさ。それでいて「凄味」も一目瞭然で、最初にその作品を亀有の年間特集でみたときの衝撃を基準に、上野さんとはずっと接してきたのだった。だから会うたびに、「撮ってよ」「また撮ってよ」といいつづけた。評論家はある意味で因果な欲望でしかない。そういう容喙が上野さんを追いつめたこともあったかもしれないと慙愧をかんじる。
国映がピンクの製作をやめたのは一種の歴史的な必然だけど、上野は他の方法の映画へと転進を図れなかった。女池も撮るのをやめてしまった。なんかいろいろが、くやしいなあ。ただむろん上野さんの生涯を、悲劇的といったことばで抽象化したり平準化したりはできない。ぼくの知らないエピソードは無限だろうし、川瀬からも指摘されたけど、上野さん当人はその飄逸な性格もあって、「仲間」のあいだでずっと幸福そうにしていたという。それとこれは葉月蛍さんのポストで知ったけど、死因も炬燵で眠ってインフルエンザをこじらせての急性肺炎だったという。勿体ない死にかただが、彼らしいともいえるのだろうか。外野からはわからない。
週末にでも追悼のため、VHSだが、『連続ONANIE 乱れっぱなし』を観なおしてみようかとおもう。合掌。
古代のしをん
【古代のしをん】
おんなというものはさほどかわっていない
ふるさのなかにさだめられている揺れだ
瘢痕からうまれて瘢痕をこだまさせるように
すまいのなかをわたってゆく足音のある生き物
すりあしにみえるほんのわずかのすきまに
ひかりをにじませていて、おんなははだしだ
まなこが川棚のかたちをおしんでいたり
春の池から階段をもちあげようとしている
きせつはずれに折れ枝をせおう日になれば
ならぶ坂越えが少年の群れとなり、こぼれる
こころにみがきあげるろうかんを朝にして
とおい透明にむけ、さゆをのんだりしている
くりかえしをみあげたりするとわらうらしい
そんなことをあかしするために桜桃もあるのだ
おもわれているほどには鏡のなかをみない
奥ふかい硝子のすべてを万緑とあきらめている
ほおにみずからでないあかるみがあって
ときのおわりまで視力をつづける凛のもの
たべさせる迎えにほころびのうごきをみたし
寝床や卓にみたことのないはちどりをならべる
うしろすがたにひとしずく甘露がこぼれる
珠のゆがみあるそのあたまが繭となりぼやける
くずれなど、やさしいことをかんがえている
熟れたあとの罅を字のようにとらえ返している
さいているひかりの音とかたる、むしろ
なゐはおんなにあるのでききちがえではない
五感
【五感】
あぶらのなさでできている生き物はあるのか
あれらかげろうの翅のつやめきもかなしい
もえおわるほのおのようになかぞらにういて
水生だったそれまでをあぶらにしている
そんざいが透いた橋になるあのはしらでは
身の前うしろがつながらずただゆびにみえる
わきみをしているなそのふかいターバン眼で
いまとそのまえをななめに繰る翅のぺえじ
うくからだが五感をおもいださせるのなら
ないことのにおいはなぜひかりにつづくのか
ぞうもつのなさがぞうもつだから音楽に似る
せかいの交尾のためになかだちするだけ
ないみずからをめんせきのない古刹といえ
生き物のひとみにさわられる、はしらの影と
うくあぶらのおくでいまのすべる音する
せさらんせさらん、川のせせらぎに和して
ときのあえものになるためにきえてゆく
つながるこまかさへしみわたる味のあぶら
散喩・減喩
【散喩・減喩】
「すべてを書けない」というのは自明だ。したがっておもうことや感覚されることの露岩部分が書かれるのだが、書くことのふしぎは、そうして書かれたものがそれじたいの物質的な露岩部分となって、たとえばもともとの海中や海底までもが自分自身にとって閑却されてしまうことではないか。露岩性は意図を消す。書かれたものは引き算の結果、同時に引き算そのものの演算過程(うごき)としてのこるだけだ。
それぞれの喩の機能というのは、「すべてを書けない」ことからの偏差だ。暗喩では書くべきことの核が前提されているが、それにみずからを類似とすることによって接近し、その接近の過程がそれじたい「肉化」してしまう。ジュネの初期小説にあらわだ。したがって暗喩は膠着の形式であり、それを救抜するのは、じっさいは記述の連接に「穴」をもうけることだ。ジュネが俳優を舞台に置くことで空間の穴を指示する演劇にむかったのもうなずける。
換喩は、こういう暗喩がおちいりやすい罠からあらかじめ身をまもっている。全体をぼんやりとおもいえがきながら、とりあえず部分を隣り合わせにかさねてゆくその書式では、全体は不可能と知られている。その不可能が部分個々におりてきて、部分には機能面からしてすでに「穴」があくのだ。問題はその穴が「意味」の喪失をも手助けすることで、したがって原理的な弁別をすれば、解読されるべき意味にむかう膠着の塊が暗喩、そうではなく、解読されるべきものはなく「それ自体」が連鎖的に編成されて「意味」をこえた、「ほぐれの痕跡」を露出しているのが換喩といえるだろう。そこでは単位的に推移するもの、たとえば時間や移動が利用される。暗喩が「肉」的であるのにたいし、換喩は「線」的で、しかも線それぞれは隣接域からの「欠如態」として書かれる。なぜなら「ここにいる」ということは、「そこにはもういない」ということと対だからだ。
こういう整理のなかでは、直喩など衰弱した単位にすぎない。類似記号で名詞同士を結合することは、それ自体でちいさく記述内容を「みたし」、しかもそれはつづかない。つづかないことに正直になることしか直喩には活路がない。アポリネールが「ルーへの手紙」に書くように、愛着が爆発して、内容が奇怪になった瞬間が直喩の最大振幅だろう。《きみの肛門は中国の太陽のように黄色い》。これは恋人の身体部分、そのフェチ的な礼賛だった。この記述の自足が、「自足することにおいて足りない」。だからcommeの連鎖が起こる。ロートレアモンも自家薬籠中としたやりかただ。
暗喩(の堅牢な膠着)が衰弱するとき(ほぐれるとき)にも、この直喩の連鎖とおなじことが起こる。昨日、水島英己さんから薦められた清岡卓行の好著『手の変幻』を読んでいたのだが、意識の底におとして忘れていたブルトンの「自由な結合」が引用されてあった。
ぼくの女の髪は森の火事
思うことは無声の電光
胴まわりは砂時計
ぼくの女の胴まわりは虎の牙の中の川獺
ぼくの女の唇は花の形の徽章 そして一番大きな星々の花束
〔…〕
清岡も書いているが、類似関係によって起動される隠喩が、脱類似をからげてゆく運動の一瞬(とりわけ川獺)がおもしろいが、それらが連鎖されると平板さの印象、退屈が即座に湧く。脱類似に飛躍や破壊がまだ足りず、実際にここにあるのも自足にすぎない。暗喩の連続起動は、みずからの類似への接近を破壊するために、理路をはずしてゆく自己脱臼を指向する。日本語の場合は、このとき助詞に負荷がかかり、ズレを結果することがおおい。そうした進化(退化?)の過程を、初期の平出隆の詩篇でまず確認しよう。
1
ぼくの花嫁は気絶する
くちづけと黒髪の水流に窒息して
あるいは正午
隣りの貴婦人とのはじめての過失の挨拶
その苦しむべきお世辞のなかで
死の舌あたり
ぼくの花嫁は失神する
懸命に笑いをこらえて卒倒する
――初期未刊詩篇「花嫁Ⅰ」部分
↓
2
病むひとの肩車で、梁にわたしは刻む《旅籠屋》。
ゆらめいてそのまま
雨ふる次頁へ傷む。
栞となって立って眠る。
〔…〕
――「微熱の廊」冒頭(『旅籠屋』より)
詩作の深化が、ことば同士の暗躍的な干渉を精緻化させることにむかわず、このように、こわれのなかにふと揺曳する抒情にむかうのはどうしてだろう。清岡『手の変幻』にはこのことをかんがえるためのキーワードがあった――「羞恥」だ。全体をいいおおせる野心がそのまま羞恥感にひとをさいなむなら、部分もまた羞恥を反射させて、みずからの論脈を不快におもうしかない。ところが羞恥というのは、それじたいがうつくしいという逆説もある。
むろん『手の変幻』は、美術、映画、詩、スポーツなどにわたって、表現などにおいて部分化している手がどのような人間的変奏をうちだすかの熟練した考察を継いでいる。虫明亜呂無や草森紳一にあった、六〇年代エッセイのもつ芳醇な全体感が清岡の書くものにも貫通していて、読みすすめるのがとても気持ちよかった。ぼくの学生のために補助すれば、清岡のしめす「手の映画」でとくに印象的な言及対象はアンリ・コルビ=マルグリット・デュラスの『かくも長き不在』で、そこでは手というテーマをつかった萌芽的なテマティスム構造批評が、「みること」の全体哲学へみごとに接続されている(アントニオーニの『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』は、現在からの視点からすると、あまりうまくいっていない)。
はなしをもどそう。全体が羞恥だからこそ、部分にも羞恥がやどる。ところがそれはなんら消極的なことではなく、むしろ羞恥をかんじることは自己運営のうつくしさとつうじている。清岡卓行が注視する「手」がそうしたかんがえの立証物となるとき、手そのものが換喩詩の最上の場所となる。
●
若さとか、美しさとか、あるいは力とかいった自己優越についての羞恥は、一体どこからやってくるのだろうか? これは、決して生易しい問題ではない。そうした羞恥の根源について考えようとすることは、ほとんど人間の生命の起源について考えようとすることに等しいようにぼくにはおもわれる。
○
〔※ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」にかかわる言及〕
とにかく、気品の高い官能性は、全体の調子をみちびいており、たとえば本能的に軽く合わされた両膝の羞恥も、それに応じる高雅で、詩的なリズムを保っている。そして、乳房をおおうようにしている右手のあどけなさ、さらに、焔を連想させるような曲線が戯れる、豊かで長い頭髪の先を押えるような形で、それとなく性器をかくしている左手のしなやかさ。
●
ボッティチェリのヴィーナスの手は、その全身の急所を秘匿するための部分のやわらかい露岩であって、それが露岩なのに否応なく表情をもってしまうのは、羞恥が反射を経由して、もののかたちへと精緻化されているためだ。全体が生命哲学だとすれば、部分の手は換喩詩の瞬間のゆらめきであり、全体を神性だとすれば、その部分の手は羞恥にみちた動物となる。だからヴィーナスの仕種は哲学と詩にあいわたる構造をしめしていて、ここには換喩が導入されるだけではなく、手を動物視すればさらに寓喩(アレゴリー)の起動をみることもできる。
はなしが二転三転するが、寓喩とは形成上は奥ゆかしさの産物だ。「Aを語るかわりにBを語ることをもってする」という寓喩の自己負担は、それでもBが物語の形式をとることからBにおいて自足してしまう。そこに羞恥があるから、寓喩はイソップなどの先例を進展させて、動物や怪物や少女などを登場人物にし、非現実化の操作をおこなう。これがカフカやキャロルや花田清輝の流儀だ。寓喩は韜晦とみられやすいが、打開点は「それ自体」になることしかない。寓喩が自分の組織を物語のなかにただ蔓延させて、教訓などの言外性を払拭したとき、それ自体の内部連絡だけがのこる。むろん「それ自体」のあらわれこそが謎のあらわれともなるのだった。
そうすると、連絡不能なもの同士(非連続の星の関係)を「蒐集」するベンヤミンのアレゴリーは、純粋な寓喩にある内部連絡がせりあがって、一種の爆発形態をとったものといえる。それが爆発しているのに静止しているのがベンヤミンなのだ。このベンヤミンの作法は、寓喩がかくしもつ羞恥を、物語の外側にまで拡大し、物語と切り結んで破壊にいたった形状ともいえる。蝸牛の殻を踏み割ったようなものだ。この「踏み割り」は眼の深部で起こる。だからボッティチェリのヴィーナスの処女的な優艶は、羞恥を軸線にして星座上の散らばりにまで破砕できる。そのようにこそ「ものの本質」が視られるべきだ。
「部分」あるいは「個物」に幻惑されること。結果、それらの脈絡を、脈絡なしに放置して、その散乱状態にむけて何度でも思考の再訪をおこなうこと。となると、ベンヤミンの指向するアレゴリーを、その原義「寓喩」から離脱させて、たとえば「散喩」といった造語で表現するほうがいいのかもしれない。
「喩」の分類の再編成は、じつは換喩にもつよく適用されるだろう。たとえば暗喩と換喩では、後者のほうに羞恥の意識がつよく、それゆえにぼくなどは換喩のほうを価値化するかたむきがある。ところが換喩それ自体にさらに羞恥を導入してゆくと、そこでは換喩の亜種として、たとえば(これまた造語だが)「減喩」というべきものが存在感をもってくる。じつは昨日の未明に書いた、「かすみのはしら」という詩篇は、そのような方法意識を介在させたものだった。
全体への透視が薄弱なために、「いまそこでなされている」部分の隣接加算が、それ自体で永遠への「単位」をつくるとしても、そういった自負は羞恥対象だから、とうぜんそこに減退がやってくる。減退は部分に浸透し、部分の自明性を剥奪してゆく。このとき、部分→全体という換喩の指向性が変化する。つまり、「部分」のなかにある(意味の)欠落が、そのまま詩性として読まれるようになるのだ。「欠けているもの」「減らされているもの」がフレーズ自体を多義化し、部分それ自体を鑑賞することが欠落を鑑賞することにずれる。
このとき換喩にもともとあった「部分→全体」という不可能性が、フレーズ内では「欠落→部分」の不可能性へと「再帰的に」内在してゆく。ところがこの「欠落・減少」はフレーズが進展するなかでさらに交響して、部分の自明性がないままに、フレーズの穴が、部分を超えて、全体にこだまする音響を飛ばしてゆく。ということは、部分ではなく欠落によって全体を喩える、「減喩」というべき書法がありうるのだ。それは、欠落に最大の力能を付与するフレキシビリティの産物だから、膠着・傷のひきつれを印象させる「縮喩」ということばではないほうがいいだろう。
この「減喩」ということですばらしい達成をしめしているのが、現在ではまず小峰慎也さんだとおもう。最後に彼の『二体』から次の詩篇を引こう。
●
【節】
小峰慎也
このような白いところで
バカがいて
庭を舐めていた
たぶんすることがないから
ズボンを焼いたのだ
馬を連れて
叔父をたずねた
叔父は目を洗っていた
手首ゲームをした
ずるい方法で叔父が勝った
桃食うか?
アート引越センターの箱に
目覚ましなどといっしょに
うどんが入っていた
桃ではなかった
かすみのはしら
【かすみのはしら】
はしらになろうとして背もたれるのだが
ひとばしらになる恥じらいもうまれる
あすかのときにはここになにもなかった
かんがえがかんがえにしずかにとける
はしらとささえあい一本の線になるとき
身のまえに手があまりだしてはゆらす
ゆらすそれにも左右のあるのが収められず
これはなんの踊りだろうと春をおもう
楽器にたいする仕種をじぶんにしている
それでもまわりは楽譜になってゆかず
ぼんやりしたひかりのなかにはさらに
ぼんやりしたひかりがにじんでいる
おんなになろうとしゃがんでみるのだが
背後のはしらをあつめるからだになる
もつれたり、もつれをひろったりする
この身の奥行きはなんの奥行きでもない
悔いが少々、でもからだには釘をうたない
あいまいにほどけることだけのおんなさ
死も少々、じぶんなりの「なり」とはなに
かたちではあるが布にかかわるかもしれない
そうしてこんどはじぶんを一枚の布にして
はしらの正面に、身の正面をあわせる
家のひとところにできたおおむかしの袷だ
着ることは着られること、のちが時計だろう
かすみということばが春になるとつかえる
せかいの前方には、かすみのはしら数本
リクール『生きた隠喩』と詩の時空
【リクール『生きた隠喩』と詩の時空】
廿楽順治さんの影響を受けて、ポール・リクールの『生きた隠喩』(岩波書店、84年――モダンクラシックスとして06年に再刊)を読んでいる。いま半分ていどまで読みすすめたところだ。
議論の発出、展開、参照系に見事な格調があり、リクールのしるす細部を堪能している。彼のいうところでは(これまで読んだところでは)、隠喩のうち「生き生きしているもの」は大雑把にいうと以下の形態をしているとされる。
類似類想によって文の一単位に転移が起きる。この転移につかわれた語が多義性の光源となり、それが文彩となって文をゆたかにするもの――それが生きた隠喩だ。隠喩こそが本源的で、「類似」を明示する直喩は隠喩の衰弱形、不完全な隠喩にすぎない。しかも隠喩は類や種といった、ちがう範疇のもとをすべり、範疇自体を組み替える。
組み替えということにかんして、たとえばリクールは換喩と誤認されることの多い提喩(シネクドキ)を隠喩に膚接させる。換喩が部分をもって全体を対象化(指示)するといわれるのにたいし〔指向性〕、提喩とは対立並行する上位概念と下位概念の組み替えだ〔層壊性〕。いっぽう隠喩の基本構造のひとつが「『A(主部)→〔B(生じた述部)』←〔組み替え〕C(常識上、あるべきだった述部)〕」だとすると、AはBにおいて、またBはCにたいして二重に組み替えられて、ひとつの多義的で、転移された論理=空間をつくっているということになる。
そう前提して、リクールの意見をみよう。
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隠喩を二つの提喩の産出に還元することは、綿密な吟味を要する。
付加と削除の操作を関連させて、三つの要因が考察される。第一に、削除と付加とは排除しあわず、累積されうる。第二に、両者の結合は、部分的か全面的かであり得る。その部分的結合は隠喩であり、全面的結合は換喩である。〔…〕第三に、結合は〈現前度〉を含んでいる。不在の隠喩〔…〕では、代替可能な辞項は言述に不在である。現前の隠喩では二つの辞項はともに現前しており、それらの部分的同一性の標識も現前している。
本来の意味での隠喩を論じることは、したがって、部分的で、不在の、削除=付加を論じることである。
そこで、二つの提喩の産物として分析されるのは、不在の隠喩である。
――久米博訳、122-123頁(※段落を空白行の介在する断章へと上位化した)
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なんとも難しいが、それは隠喩-提喩-換喩の相互関係そのものが難しいからでもある。だが味読すると、リクールの論旨は着実につたわってくる。リクール自身が引いている補助線をさらに加えておこう。
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意味素的交叉という観点からすると、換喩は「空虚の上に腰を据えている」。(125頁)
隠喩では中間辞項が包括されるのに対し、換喩では中間辞項は包括するものである。(126頁)
不在の第三項は、意味素と事物の隣接範囲に求めるべきである。その意味において、隠喩は、辞項の定義にふくまれている外示的意味素、つまり核となる意味素だけしか介入させない〔…〕。(同上)
提喩は、語に適用される代置の操作の限界内にのみ成立する。(同上)
隠喩は述語作用と命名作用の葛藤の結果であり、言語活動における隠喩の場所は、語と文の間にある〔…〕。(140頁)
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具体論でいいかえよう。たとえば隠喩構文の代表格と目されるものに、《時は金なりTime is money》がある。これは「時」を「金」の属性で固着させることから、ぼくは「死んだ隠喩」だとおもう。だから「時を大切に」などといった教訓にすりかわるのだ。これにたいして、加藤郁乎の次の一行詩(自由律俳句)を置いてみよう。
五月、金貨漾ふ帝王切開
ここではたとえば葉桜の樹下が対象化されているとする。きん色にひかる木漏れ日の図像細分性が「金貨」なのではないか。しかもそれは風による葉のうごきによってひかりのうごきにまで変化している。「漾〔ただよ〕ふ」の語はそのように作用する。
ではなにが「帝王切開」なのか。空間はそれじたいの動勢によって、それ以外を「産む」。これはむしろ空間に直面する感覚側からの「介入」なのだ――そうとらえて、「帝王切開」という読者の予想できなかった「辞項」が生気をおびる。
帝王切開に「帝王」という接頭辞がつくのは、最初にそれをほどこされて産まれた赤子がシーザーだったからだが(日本では帝王切開で最初に産まれたのが美学者の中井正一)、博覧強記の郁乎にもそこにまでいたる眼目はないようだ。むしろ「五月」という「時」にかかわる辞項がじっさいは空間にかかわるものに「転移」していると確認して、この詩行のうつくしさが確認されることになる。
以上のような書き方をすれば、この郁乎の一句はリクール的には「隠喩」作用を貫通している。あるいは「五月」と「金貨漾ふ帝王切開」の二元対立は、相互がどちらにも従属しない(要約されない)緊張的な均衡をしるしているとすれば、それは吉本隆明のいう「短歌的喩」にもなる。
ただしこの詩行全体を換喩ととらえることもできる。「五月」「金貨」「漾ふ」「帝王切開」は、それぞれ部分として相互に無縁に独立しながら、それでも相互が連接されることで、偶有的な隣接空間そのものの魅惑をつくる。こういう自体的な物質視が換喩にたいする作法だ。ここでの詩的な奇蹟(=全体)は、「時間(五月)」から、明示のないままに「空間(樹下)」が「切開」されることだが、そのことじたいに「帝王」的という形容が付されるような錯誤が起こることも奇蹟的だ。結果、「帝王切開」が「帝王が切開によって産まれること」から「帝王そのものを切開すること」にまで意味ずれを起こすようにかんじる(いや、それはぼくだけか)。
永田耕衣の名句をここに対比してみよう。
其処や此処日向数個は亜空棺
漢字使用の多い一句だが、膠着はない。読み手が漢字をこころのなかでひらくのにしたがって、句意のおそろしさが主情化されてゆく戦略があって、それに成功している。ぼくはこれも木漏れ日の句と読んだ。あちこちに、葉のあいだから漏れてひかる地面のちいさな埒があふれている。それは空間内空間だ。だから「亜空間」としてとらえうるものだが、そのうちの数個が妖気を発している。なにかが、その空間に「わたし」を引き入れ、わたしを死者として消滅させようとしているのだ。それで誤変換(転移)が起こって、「亜空間」が「亜空棺」に変成する。
ここでは空間が空間としての自明性を奪われながら、そのことがさらに空間の本質だとする上位概念が湧出している。手短にいえば「日向」が下位概念、「棺」が上位概念で、このことをとらえれば句全体は提喩ともなるが、わたしのわたしによる葬りは、わたしがちいさくなることを言外にふくんでいる。この言外性は隠喩ともいえる。むろん「日向数個」「亜空棺」の連鎖は、偶有的に生じた連接性がそれじたい空間=時間としてうつくしいことをあらわしていて、この点をとらえれば一句は換喩となる。しかもどう受けとっても、リクールの注意喚起した「不在」徴候はのこる。つまり、提喩/隠喩/換喩は、実際は弁別が不可能だということだ。だからリクールの書き方が難解をきわめた(むろん彼は詩的真実を懸命に腑分けしていて感動的だ)。
詩の要諦は、時間を空間にすることだ。あるいは逆に、空間を時間にすることだ。このとき時間と空間を、上位/下位をふくむ対立並行性ととらえれば、時間と空間にまつわる変成詩は提喩詩になり、たとえば時間を空間の部分ととらえればそれは換喩詩となり、時間と空間の類似を直観すればそれは暗喩詩となる。いずれにせよ、時間と空間という本来は離別的なものに「親和」が起こることが詩の創作価値となる。
はなしをTime is moneyにもどすと、そこにはTimeに親和が起こらない。だからその揚言は詩ではなく教訓にかかわった。逆に、無常迅速Time waits for no oneはどうか。そこではTimeに崇高な擬人化が起こり、「永劫の旅人」めいた寂寞の親和化が生ずる。それは詩なのだ。詩の読解(詩の獲得)はむろん錯視によっている。だからぼくはいつもアポリネールの「ミラボー橋」のルフランも読み替えてしまう。
月日はながれ わたしはのこる
↓
わたしはながれ 月日はのこる
こうするとわたしが「月日」化し、「月日」はさらに親和化されるだろう。交叉とはむろんあらゆる喩の本質だ。
「時の擬人化」が「時の空間化」につうじるしかない例を身近にみいだせる。以下、解説なしで、西脇順三郎『旅人かへらず』の最終番(一六八番)を、最後に引いておこう。
●
永劫の根に触れ
心の鶉の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくづれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず
直喩・暗喩・換喩
1) 直喩(シミリー)は類似連結が明瞭で、意味形成が固定的
2) 暗喩(メタファー)は類似が隠され、その解読をしいる、奥行への権力的な使嗾がある
3) 換喩(メトニミー)は部分の連結をながめるしかない美的無力だ
といった詩的な常識があったとする。それを覆すべく、出講のバスのなかで直喩・暗喩・換喩の例文(フレーズ)をかんがえ、「国語表現法」の授業で板書した。まあ、たいした例示でもないのだが、それらはこういうものだった。
1)月はむかしを映す鏡みたいだ
2)寝覚めの刻、狼の太陽がうかぶ
3)月光が羽を梳き、はんかちを痩せる
1は「みたい」が明示された直喩だが、フレーズの眼目は「月≒鏡」という関係式ではなく、その関係式から想像される「むかし」の様相のほうにある。ところがそれは、月をどうイメージするかで多様に分岐するしかない。つまり、月が天心にある凝縮した蒼白なのか、暖色をたたえた春の月なのか、血紅ににじむのぼりたての山の端の満月なのかなどで、映される「むかし」がかえって決定不能性におちいる。したがって、1のフレーズは「月≒鏡」という関係式を前面にだしたことによって、「逆に」フレーズのなかにある「むかし」を強度の謎に置き換えてゆく。
2の暗喩はどこにあるのか。「狼の太陽」が夜行性をもつ狼にとって行方と獲物の所在を照らす光源であることから、「月」を古来から意味すると知れば(かんがえれば)、そこに解かれるべき暗喩がわだかまっていたと知れる。ところがこのフレーズでは「狼の太陽が」の「が」が問題となる――主格助詞「は」ではなく、「が」がえらばれているのだ。「は」であれば、「寝覚め」の主体はそのまま狼だろうが、「が」であれば間接性がひそかに導入され、フレーズ全体が日本語特性に応じて一人称主語を秘匿している感触がうまれる。結果、フレーズは意味補足されてこう読み替えられる――《〔わたしの〕寝覚めの刻、狼の太陽がうかぶ》。つまりそこではあらたに、わたしに、狼(狼狂)の属性が架橋されているふくみがにじみだす。けれどもふくみはあくまでも「にじみ」のままだから謎を崩さない。それゆえ「狼の太陽」という暗喩解読は、あらたな解読すべき要素をくりこんできて、フレーズが「終わらない」。
3はけっして解かれない。月光の魔力・腐蝕力は、バシュラールの摘出のように、《月光は水をわるくする》など俚諺の域に達しているが、その認識をこえる「部分」配列のねじれがあって、「全体化」ができないのだ。確認のため、例示フレーズを文節単位の「部分」に分解してみる。《a「月光が」/b「羽を」/c「梳き、」/d「はんかちを」/e「痩せる」》。cの動詞「梳く」とeの動詞「痩せる」は、ともに減少を幻想させる縮減型の動詞であり(『東海道四谷怪談』の「岩」を想起)、c-eの関係を隣接性(縁語性)とよべる。またbの名詞「羽」とdの名詞「はんかち」はともに月光の作用客体であるほか、「うすさ」「しろさ」「はかなさ」などの属性によって、これまた隣接関係、縁語関係にあるように印象される。ところがその印象は成立した途端、「はんかちに羽がある」という奇怪な物質性を前面におしだす。問題は部分配列(の順序)というべきかもしれない。「A-縁語A」「B-縁語B」と穏当に配列されるのではなく、「A-B」「縁語A-縁語B」と価値領域が相互を「噛みこむ」ように配列されていることで、空間が安定しないのだ。
さらには《はんかち「を」痩せる》にある助詞「を」の誤用。結果、月光は「はんかちにある羽を梳きながら、はんかちのなかに入りこんで、はんかちもろとも自ら痩身化=弱体化する」という、空間の奇怪な入れ子性が浮上してきて、このフレーズは月光のたんなる腐蝕力ではなく、もっと作用範囲のおおきい浸透力と作用性に想像を移しているような感慨が生ずるが、それも「たしかではない」。「それのみの」分節配列をつうじ、読者を脱力させるだけだ。この脱力を克服するためには、「ねじれ」を呑みこんで、全体を部分に分解されうる全体として「そのまま」肯定するしかないことになる。したがってフレーズ3は解決されない語順なのだった。それでも3の「空間」はねじれと生成をかたどったものとして、それじたいは「たしか」だという逆説をももつ。
――以上、備忘メモでした。
そういえば昨日は才覚ある詩作者のリプロデュース仕事を完成させたという僥倖もあった。好結果が生じたら、いずれ報告をいたします。
列のあぶら
【列のあぶら】
くれよんでは黄の土色をこのむ、とりわけ
色があぶらをふくむ手ざわりをこのむ
えがくことはあぶらをふくんでいて
やわらかく苦しみながらてのひらを絵にする
もののうちにあるものを魔だとしんじれば
まどをこんにゃくの風がべろべろ叩いてゆく
日がくれていってかたちがわけられぬ頃に
くれよんのよれた線にはあやめがしずむ
よれているそれにもたしかにうごめきがあり
線がひそめている風の舌がお化けのようだ
遠目にはみえない絵を近くの眼でさわるが
それすら仄暗さでできなくなるのが終わりさ
つくえに紙を置いたままわいた風呂とまざり
えがくうちつかれにたまった木屑をながす
ゆらめくホトと向こうの絵がはなれて列なり
ひとりのなかにある列を絵にしたとおもう
手による換喩
【手による換喩】
昨日はひとり五回という枠組、教員三人で担当する、映画にまつわるリレー授業の準備として、ロベール・ブレッソンの『スリ』を観なおしていた。ぼくの前期のテーマは「手の映画」。映画が人体のうちの手をどうとらえるか、その手のえがきかたの差異によって映画性の深度がどのような眩暈を生ずるか、ひいてはひとつの手がひとつの身体全体を救抜することはありうるか、それら手はどのように連携するか、などが考察の眼目となる。
換喩型の映画作家として第一に例示されるのがブレッソンだろう。冷徹な編集。『スリ』ではスリをおこなう手と、そのスリの顔がすばやいカッティングで分断され、存在は部分化という契機によって残酷に寸断されてゆく。その「寸断」は、情緒によって身体細部が連合されることを拒むブレッソンの俳優政策があってこそだ。
「俳優」と書いたがブレッソンは出演者を俳優とよばず、やがては「モデル」と固定的に呼称するようになる。モデル、素材。カメラのとらえる動作を純化し、それを映画の運動と直結させるためには、モデルに感情の表出をゆるさない。声の抑揚、表情の誇張、手振りなどがきびしく禁じられる。身体の表面がそのまま内面になるのだ。このとき無表情をしいられた顔に唯一、動的な徴候が付与される――多くは一瞬の視線移動だ。
視線移動はまずは周囲の計測だが、緊張の証左とも把握される。たとえば競馬場で主人公ミシェル(マルタン・ラサール)が婦人のハンドバッグを気配なくひらこうとするとき、ミシェルの顔とその手はカッティングをつうじ寸断されるが、視線移動のみをしるされた顔は手を情緒化せず、むろん手も顔を情緒化しない。その意味ではブレッソンの換喩単位は「相互無縁」という法則をもっていて、このことが相互性(隣接性)の唯一の根拠となる「身体の所在」を、一種の中性性として幻象〔げんしょう〕させることになる。おどろくべきことに、観客は顔と手を同時に視ることを禁じられるのだ。寸断/分有こそが全体所持であることは、むろん想像力と換喩の問題とかかわっている。
中性性。なんの変哲もない場所。了解可能なシチュエーション。粉飾もない。たとえば貧困のためにやむなく、といった設定の下支えもほぼ除去され、行為は行為みずからの推移のなかでただ自体化される。対立項としてフェリーニ型の映画作家をもってくれば、身体的現実の感触を無慈悲に定着しつくすブレッソンの特異性がわかるだろう。
フェリーニの映画に多くあるのは、非日常性の充満だ。それを構成する個物は、球形、子供、放浪表象、祝祭、周縁、キリスト教下の象徴性、こびと、化粧、閉じられずに露呈してしまった突発的なエロス、道化の涙といったものなどで、それらはそれら個々の奥行をつくりながら、全体では加算があって美的に充満する。フェリーニ映画の「運動」は刻々のカッティングの鼓動ではなく、いわば画面の深呼吸によって生ずる宇宙のゆるやかな推移で、これがバフチン的なカーニバルの要件、季節推移と深層で同調する点に妙味がある。そこでは事物そのものが情緒化される。ブレッソンではそうしたものはすべて夾雑物として殺がれている。
はなしは飛躍するようにおもわれるかもしれないが、いつの時代にも承認願望的な詩作者のつくるものはある程度がフェリーニ的だ。学殖語、稀用語どれでもいいのだが、まずは「すきな感触のことば」で詩空間を充満させ、構文にみずからの癖を露出し、独自性の量塊として自分の書きものを独善的におしだす。
逆に詩作が成熟してゆくということはブレッソン的になるということだ。それは中立性の想起に負っていて、ことばや文節のつくりかたからまず自分の特有性を放逐し、単位をはだかにして、刻々の展開=運動だけを主眼に置くようになる。このときいわば鼓動といったものだけが最終的にのこるが、そこに自らの身体の保証を賭けるのだ。
以上がいささか誇張された二元論なのは承知だが、フェリーニ型の詩作で眼もあてられないのは、あきらかな「充満」によって、内部張力がまし、展開の運動神経が弱体化されたり無化されたりしている点だろう。読み手はことばには驚かない。展開に驚くのだ。
ブレッソン型の換喩単位の展開は、どのような脅威化にむかうか。それは速さによってだ。ミシェルにスリ仲間のカッサジができたときに、顔/手の二元性は、手→手の自走性へとシフトを変換する。そのスピードはカッサジの実際の職業、奇術のように幻惑的で、おそらく可視性の限界と接触している。
なにかに似ているとおもうのは、水面をおよぐ蛇の速さとうねりだ。速さは「手→手」のつながりなのだが、うねりは「手/顔」の分断から生じ、それらがすばやくカット連合されて、この記憶可能性を超えた、「ゆれながら前進する」接合運動のなかで、蛇のような動物性を電撃的に擦過させる。全体における部分=フレーズの接合運動に魅せられている者は、そうしたブレッソン的な運動提示を、換喩詩の純粋形ととらえるだろう。
「みえること」が「みえないこと」とこすれあうとき、視覚、運動把握などが主体の深層で審問にかけられる。「みたことはみたといえ」という命題のなかで証言力がひびわれて、証言は別次元の証言へと横超するのだ。このことが存在の進展にほかならない。
リレー授業ではいずれ黒木和雄が果敢にもブレッソンと同題で撮った『スリ』も俎上にのせるだろう。おなじスリ行為を素材にすることで黒木さんはブレッソン的な換喩をとりこみながら、「同時に」手に「性質」をくわえる。往年はスリの神様だった原田芳雄の、アル中でふるえ衰退した手。手は最初、自己復活のための部位となり、それは最終的には破砕される感情になる。ところが性質をもった手は、教示、連携といったスリ機能からの拡張をも付帯され、つまり黒木版『スリ』では手の拡張が眩暈材料となるのだ。
ブレッソン『スリ』の手も書くことをした。酒のグラスももった。ただそれは「つながれなかった」。複数者の連携スリでも、札入れは手から手、ときには背広の内側を滑ったが、泥棒どうしの手は札入れを峻厳に移動させるだけで、媒介に徹したそれらの手はつながれていない。
最後、ミシェルはやがて配偶者となるだろうジャンヌ(マルカ・グリーン)と拘置所の面会所で金網ごしに出会う。このときもジャンヌは金網をつかむミシェルの手=拳にくちづけをするが、可能であったのにふたりの手は触れ合っていない。手は孤立を純化する部位としてただあった。ブレッソン『抵抗』は最後、脱出を果たした牢の「外部」を現実表象のまま別位相化したとき、逆に牢は個別性の砦だったという遡行的な認知をうながした。『スリ』のラストも「手の外部」がなにかという設問にたいし、「手には手であることしかない」「この映画がとらえたのはそのことだけだ」というブレッソン的な拒絶を反響させている。
ところで、ひとのする創造が一筋縄ではゆかないのは、飽和と純化が相補的なことではないだろうか。吉本隆明の『言語美』にはハイライトがいくつもあるのだが、たとえば古代的な叙事詩が抒情詩に移行するのは、恋情語や性愛語の水面上昇によってジャンルが別ジャンルへと決壊するためではなくて、係り結びなどの助詞機能が機能性をたかめることによって対象変化をこうむったためだという卓見がある。そこでは飽和の徴候は具体物(具体心情)ではなく、もっぱら機能から算段されて、実際は飽和とは自己加算ではなく、減算にもつうずる純化をつうじて達成されるということになる。詩作の要諦に直観でつうじた吉本だからなしえた認識だろう。
ブレッソン『スリ』では手の機能はスリ行為において飽和し、同時に純化して、だからカッティングの鼓動によって推移する手の刻々が換喩単位となった。いっぽう承認願望者に多い「飽和」詩には自己減算が働かず、飽和を飽和として同型増殖するだけだから、中立性にむけての純化が生成せず、(助詞機能などの)運動神経まで消失して、絶滅前の恐竜のような巨体をさらすだけになる。このように「図体であること」「怪獣であること」は、換喩詩の「線であること」の峻厳さとは、おなじジャンルとはいえないほどの懸隔がはさまっている。きつい言い方だが、「怪獣」がすきなひとは、ブレッソンを観て、自分の視覚を是正すべきだとおもう。
リレー授業の一回めはオリエンテーションのなかに、ここには書かなかった一本の秘蔵の短篇、その鑑賞時間をさしこむ。手がなにかにふれることを主題にしたもので、そこにはロメール『クレールの膝』の男性的な手の接触の成就を、女性側に奪還して、なおそれが説明できない可笑性にまみれる前代未聞の(しかしちいさな)エンディングがある。受講希望者の反応が愉しみだ。
J
授業準備というか、忘れをとりもどすために、保坂和志『カフカ式練習帳』で付箋を入れた五十ほどの断章を拾い読みしていた。『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』の三部作からしてそうなのだが、保坂和志の書くものは、このごろとみに自分(これを書いているぼく自身)の書くものに似てきているとおもう。むろん倒錯した言い方なのを承知しているのだが。
断片であること。日録のにおいがするということ。キーボードをたたくなどして、「ゆびが書いて」、書いてからそれをあたまが計測しているということ。むろんそれらは「ある感触」にむけて書かれる。精確に書かれていないという渦中の判断があれば身もだえもする。取り払ったり、方向を是正したり、もっとひとのすがたにならないかと研磨をかけてみたりする。そうして書かれたものにみずから驚き、自分を計量できない一定の厚みにするのだ。もどかしいのは記憶だったり、自分が奇想としてかんがえている感触を、粉飾なしの物質性で奇想と「みずからにつたえてみせる」ことだったりする。
保坂は小説家だから、そのように書くことが小説性の誕生にかかわってくる。なにが小説かと大上段から託宣するのではなく、書かれたものが過不足なく小説性と合致するように書く。進展が磁力をおびることが小説性だ。しかもその単位が極小であれば、ちいさなもの特有の息もでてくる。一瞬の詩想の書き散らかしにまごうこともいとわない。箴言領域に呑みこまれそうになりながら、その口の手前で生還をつげるように宙に浮くことが肝腎だ。記憶が慰撫されるのではなく、書くことがその自立性をとおしてしずかに賦活されること。ぼくならばその点を、詩性に合致させるように、ただ書くだけだ。
筆順に似た問題が起こっている。たとえばアルファベット大文字の「J」を手書きしてみる。横に一本線をのばし、その中央から湾曲する髭をたらす。その髭のまがりの動勢の渦中で、書くことを吊りあげてしまう。それでも動勢がのこる。むろんそれは、ただ書かれたものだ。なにかのひかりがあてられているとか、なにかの甘味がまぶされているとか、そういう二次的な加算もなく、物質的に「ただ自立している」――屈曲が自立している。「自分が書いたのだ」とおもえる他人の文章を無遠慮に引用し、自分の空間に叩きこむのも屈曲だ。のべつ書いているわけでもないので、書かれるものは非連続をつくり、その非連続がじつは連続の実質となる。日録がそのように誕生する――それも屈曲だ。
こころもとなさ、の領域がある。たとえば夢で間近に龍の浮遊を実感したとする。そのときの翼と髭のうごめき、青びかりする一枚一枚の鱗、うねりかたととぐろを巻こうとする潜勢、たてがみのなびき、爪と眼光の威圧、全身がかたちづくる空気の冷えと乱流、鰐のようにひらいた口からあふれてくる蒼白の生臭さなどを、ことばに移そうとする。とうぜん、ままならない。わたしが龍ではないためだ。
わたしは仕方なく、龍の細部がうごきながら連関している感触の浮遊を、横ずれをしいられながら描出するしかない。夢を書く、とはおよそそんなことで、それをむりやり物語に還元してしまうと、こころもとなさが痩せることになってしまう。所詮、書かれるものとは語順なのだという諦念を、書くゆびにしっかりとくくりつけること。つまりそれは、想起順ということではないのだ。想起など不確かなのだから。
漢字のもつ放散力を混ぜるのに長けたひとびとのいた、筆致の時代があった。そのときは、ことばのなにをえらべば適確かが書くことの課題で、そのためにひとは呻吟し渋った。彫琢鏤骨ということが信じられた。いまことばは手近な場所からもちだされ、「それ自体」のままに連接されて、それでもこころもとなさにむけて軋むように配備される。駄目な詩は、語や着想の選定に手柄意識があり、承認願望がすけてみえる。こうかんがえたらいい――手近な語であることが文脈(詩脈)のなかでそうではなくなり、わたしというまずしさに一定の厚みをもたらして、わたしをゆたかに不透明化させる、と。
わたしが、移動している単位がつくりつづける間断のない場所だという孤立の実感があったとすると、あのひともまた身体であるよりも先験的に、場所なのだ。たぶんそういう場はうごきつづけるというわるい予感からしか、真実味をうみだす逆転がやってこない。さきほど書きつけた、龍を描出する流儀とおなじだ。
要約なしに細部の連関が、転写の不可能に身もだえしながら書かれるということは、ひとつの場所がどんな想像と隣接しているかを建設的に書こうとすることに似ている。むろん実際の建設計画は建設物としてやがては空間に固定されるだろうが、書くことにある建設性への接近は、建設が壊れてゆく過程をも建設に替えてゆく、そんな可逆性を自己組織するということだ。こういうことははかなさを道具にした創造にしか起こらない。詩がそうだとすれば、音楽もそうだ。保坂和志がやろうとしていることは、小説にも不可逆的な建築性ではなく、「建てる」と「壊れる」が相関的な、それ自体の内部にひろがる可逆性を構築しようとすることではないか。なにかこう書くと絶望的な熱情が介在しているようにもみえるが、それはそういう詩がそうであるように、さらりと実現できてしまう。
なぜそうできるのかを、割合かんたんにいえるだろう。一文という単位は、つぎの一文を喚起するのだが、それはインスピレーションなどにはよらず、手さばきのなかの単純な接合による連続なのだということだ。つまり「龍の浮遊」が、同時に「龍の壊滅の浮遊」であることは、手さばきのなかでのみ起こるのだ。書く、混ぜる。この単純なことが相反を呼ぶ。日録的な連続が、実際は不連続を連続させている組成の理由もここにある。
たとえば映画をおもいおこして書くことは、まずはそこに出てきたからだを再創造することだろうが、そうなると、そのからだがどんな場所に囲われ、何のひかりを反映していたかが検証の焦点となる。このことを具体的に書く必要もなく、「語順」がありうべき具体性を代理する。ところがインスピレーションによって書かれる評価は、語順という元も子もないものに眼もくれず、想起順ということに拘泥してみせる。むろん想起は大切だが、その十分条件が順序であるわけでもない。画面生起に存在していた順序は、想起の不順性によってまったく非対称に、ただ語順にずれてしまう有限性が意識されなければならない。このあとで、たとえば「はだか」の登場してくる時間の場所に映画それぞれの判断のあることを、「映画の身体」そのものとしてとりこんでゆかなければならない。そうしていえるのだ、あのはだかが好きだったと。
なにか文脈に馴染まない、つまり全体に解消できない独立した細部が異物のようにころがることがある。それが書き順の「J」だ。まがったまま、停止してしまったもの。保坂はそれを書いている。「それ」を書くことは「その向こう」を書くこととおなじだと知って、「それ」を書いている。ということは、映画評そのものの点数も、そうしたものの多寡できまる。むろん多いほうが高得点なのだ。
「ひとは傘」と書いたときの暗喩のいやらしさ。だから暗喩は、「我肉を食べ放題や神の留守」と書くときのような、根拠のなさでこそ生き返るしかない。これは金原まさこ『カルナヴァル』中の一句、「現代詩手帖」四月号の俳句月評から拾ったものだ。
隣接性を刻々織りなそうとする換喩単位が、急にそこに放りこまれた意味のない接合材=ボルトのようにみえることがあって、それがたぶん換喩機能がもっとも使用されている具体箇所だ。換喩になっていない換喩と、暗喩になっていない暗喩。保坂は猫に愛着しながら、同時に猫に、いまつづったようなものを感知しているはずだ。空間内空間がそれ自体の空間にも周囲の空間にも馴染んでいないこと、そのかけがえのなさ。そこにこそ生命があるとすれば、そういう猫を書くものに散らすことが執念なのだ。執念は点在形であらわれる。
たくらまないことを身上にしている保坂は記述のなかにそんな記憶の猫をぶっきらぼうに放つが、場所の場所性をかんがえる詩は、そうした猫を、猫でないものに多様にかえてゆく。それらはみな詩脈のなかで「しずむようにうきあがって」、語順のなかにある書き順へと変転し、よくみるとおしなべて「J」のような形状をしているのだった。
からだと空気のために
【からだと空気のために】
すこしへの参与でみずからがすこしになることは
ほんとうは断片ではなく空気のもんだいだ
いきをとめるみじかい時間にかたちをにじませて
それをたとえば風へ散らすがままにしてみる
こんなふうに身を延べるのは予行かもしれない
あまい濡れに棒がそりかえる森びとのおぼえ
すこしへの参与は食べることをしない検地に多く
この多さがすこしとまざりあい衡量がうまれる
こうした衡量はうつりゆくなかであいまいになって
水のうえをよぎるががんぼがあわれにもおもえる
あらわれの珠もかたちにこだまを円くおりなすが
すこしのすべてはおのれのすくなさへと閉じられる
そこにこだまがひびいたとしても七いろがもえ
ろざりおがころころほどける音を鳴らすのだ
空気と音、こぼれるものは袋の水のみではない
からだの割に大声をだす鴉をきらうゆえんだ
衡量というかぎりはならびまで裏箔されて
いつもあいだのみられる不如意があるだろう
その家のまえがみにあたる柳へあかりを吊り
ゆっくりとおとなう朝がにぶく照るようにした
すこしにゆらぐのはだから北向きの部屋ではなく
ほんとうはあるかなきかの門のほうなのだ
木底の靴でとおりすぎる門番のわきには
くさばなのする吐息がすこしなびいている
門にあるのは入所禁止というおきてでもなく
その門がかたちとしてすこしであることだった
すこし泣く、からだと空気のために泣く
じぶんに入れ替わるものだけ通らせてゆく
こんなふうに気づかぬうちに裁縫させている
それでもこのすこしは針のようにはひからない
入不二基義くんの連載
昨日は入不二基義くんから送られてきたコピー、講談社『本』掲載の「あるようにしてあり、なるようになる ――運命論とその周辺」の連載第九回分までを読んでいた。読むと気づく。これは入不二くんとぼくが高校以来の再会を果たした、数年前の立教大学での入不二くんの講演を、さらに緻密に書きついだものだった。「仮定」→「反証」→「《真》の提起」と論理が進展するうち、思考がどんどん精密化・微分化・厳格化・執拗化してゆく、いつもの入不二くん的な流儀が、なにかおそろしい成熟を迎えているとおもった。
国木田独歩の「運命論者」を最初の話題にして、入不二くんは、運命をめぐるトリアーデ(三者関係)=「人間の因果(社会)-自然の因果(自然)-運命(形而上)」を摘出する。その第三項めが、いわばその自体性によって神秘(最大の思考困難性)をつくりあげることを、ウィトゲンシュタインを援用して語りだす。ところがその第三項めは、それを批判しようとしたり同調しようとしたりした途端、みずからもそこにまきこまれるという意味では、自己と世界の分離不能性、その結び目に定位されている対象設定上の困難なのだ。
入不二くんの論理の懐刀は「排中律」だ。Pを措定すれば、論理的に非Pも追措定でき、Pと非Pの集合的な加算が「全」になる、というギリシャ論理学における思考の一道具を、アリストテレスにならって運命論にまつわる省察に「まず」適用して、そのきしみを算出するのだ。
もともと排中律は抽象性と「議論領域」の閉鎖性を前提している。P=黒色とすれば、P+非Pはむろん「全色彩」となるが、たとえばぼく自身の設問をしてみよう――Pを「愛している」としたらどうか。「愛している」と「愛していることはない」を加算しても全存在にはならない気がする。経験的には、そのどちらでもない中間項のほうが世界に充実していて、この充実によって、逆に最初の措定である「愛している」が感情の恣意的な極点だということがあかしされ、排中律ではなにか世界内を移動してゆく通常の人間のいとなみが消失してしまうような感触になる。
むろん「愛しているもの」は、意識を研ぎ澄ませばひとつの全一的な集合をつくることができる。ところがそのかたわらにはたとえば「生理的に拒否できないもの」「ふとおもいだしてしまうもの」「思考になんとなく使用してしまうもの」「性的に執着をおぼえるもの」などなどが、非「愛している」とは別の系で世界内部に無秩序に潜在していて、それらは「愛しているか否か」という一回一回の審問によって、眼前に同一系として、あるいは隣接系としてひらけてゆくものだといえるだろう。問題は隣接系のほうで、世界は仮定それ自体ではなく、仮定の重ならない(ズレる)範囲のほうが潜在的であり、また潜在的であるゆえに実在的なのだと、ぼくならいいかえる。これがいわばぼくの換喩詩学の根幹にある世界把握だ。さて入不二くんの意見をきこう。
《排中律を介して透かし見える、この「全一的で潜在的でもある全体」とは、何なのだろうか。それは、「現実」である。というのも、現実こそ、その外部が原理的にありえない「それが全てでそれしかない」ものであり、現実こそ、ありありと現れているもの(現前するもの)だけではなく、現に働いているが顕わにならないものまで含む全体だからである》(連載第三回、傍点省略)。
入不二くんは、排中律を現実認識の根幹に置くことに以下のように疑義も呈する。《この「Pではない」という「欠如」は、二重の欠落によって成り立っている。一つは「Pの欠落」であり、もう一つはP以外のものによる充実をカッコに入れて無視する「関心の欠落」である。「Pの欠落」とは、「P」が成立していない(欠けている)ことであり、実は「QまたはRまたはSまたは……」によって欠落は埋まっているにもかかわらず、その充実を棚上げにして関心の外に置くこと(無関心)である》(連載第四回、傍点省略)。
ひとは排中律的な思考方法をとることもあれば、なにか厳密な抽象性をかんじそれを忌避することも経験的にはあるだろう。たとえば措定Pを「私」としたとき、非Pは私を減算した「全」空間となり、P+非Pの「全」と、非Pの暫定的な「全」の差異が、卑小な「私」でしかないことを同一律のもつバカらしさともわらうからだ。むろん「全」空間は、刻々と移動してしか実際は把握できない「なにか」にすぎない。
ところがそのような未踏領域は、それを「欠如」というか「空白」というかで、意味合いをかえる。入不二くんが例にだすのはリング型のドーナツ。みためにドーナツは穴状の欠落をもっているが、それは、「ドーナツがない」という欠如型の認識もうめば、「穴がある」という空白型の認識もうむ。ぼくのメランコリー論でいうなら、「喪失」とは同時に「喪失を獲得すること」であり、結局は「喪失」と「獲得」が相互溶融して心の容積をつくってしまうことがメランコリーの原資となるということがあるし、また詩的にいえばドーナツを食べることの本義は、ドーナツそれ自体ではなく、ドーナツの内側の欠落を食べることでもある。
入不二くんの立論のすごいところは、世界の潜勢態(可能性)はそれが主観にとって未経験であるかぎり、《「欠如」と「空白」という二種類の「無」が互いに異なりつつ協働することを、排中律は教えてくれる》(連載第四回)とすることだ。それ自体が「まだない」ことと、無関心によって対象化されていないことは相互に織り込まれて、これら「欠如」と「空白」がかさなったときに、ある「厚み」を形成するといっているのだ。つまり一見すると、「無」+「無」の足し算が「有」になる逆転があるとおもえる。次に引く第四回の最後の入不二くんの文章は、おそろしい透徹に達している。とりわけ最終段落の詩性は只事ではない。
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観念論側から、実在論側へとはみ出るものが一つある。それは、空白についての「思考」である。「空白は経験することができない」とは、経験の範囲内に登場しないものとして、「空白」を思考できているから言えることである。この「思考」自体は、見たり聞いたり等の「経験」からは、はみ出さざるをえない。そうでないと「空白」もまた「思考=経験できる」ものになってしまう。この「思考」は、観念論的な「経験」の範囲からはみ出して、実在論側へと接近する。
しかし、その「思考」は、実在論側からすると、むしろ逆に観念論側に一歩接近したものに見える。というのも、現実は端的にベタであって、「空白」をいったん思考したうえで無いものとするという「思考の手順」自体が、余計なものだからである。現実は、そのような「思考」からも無縁なのである。こうして、「思考」は、実在論側からも、余計なものとしてはみ出して、観念論側へと接近する。
空白についての「思考」は、どちら側から見てもあちら側に見えるという「中間性」を帯びている。これが、「空白の非存在」をめぐる「厚み」の発生である。
(改行単位を、行空白を挟んだ段落単位とした。傍点省略)
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こうして「中間性」が登場した。ぼくなら中間性を組成上の混淆や溶融にみとめて物質としてあつかうところだが、入不二くんのそれは位相学的で、定義の回転性であり、空白のいわば活性材料なのだった。もうここでわかる。たぶん中間性が経験を分岐する場に参入することがいわば「運命」の産出であって、このとき主観と対象(場)に本質的な弁別ができず、主観も場もそれ自体だというしかなくなるのではないか。それが、排中律がぎりぎりまで諸関係を研ぎながら、ついにそれが失効することで、能動が生ずる非「議論領域」へと転じてゆく。それで世界の潜在性の肯定が、「運命論」をたちあげることと同時的になってゆく。もんだいは、世界の潜在性と「運命」がおなじ場をかさねていて、そのおなじ場とはさらに隣接関係の束だということではないか。
連載第六回以降から、とうぜん入不二くんの主フィールド「時間論」が導入されてきて、過去は変改できないという宿命論の硬直から離れるために、「時間の等質的な推移」と「時制的な視点移動」が相互によって規定されてゆくような「中間性」が掘り起こされはじめる。偶然と必然との差異はなにか。アリストテレスの運命論批判はそこに排中律を導入し、「現実的な必然性」が他の偶然性を廃棄したことに負っている様相に照明をあてるが、もんだいはそれを未来時制にも導入できるかどうかだ。ここで満を持して、「海戦が明日あるだろう/あるいは明日あらぬだろう」の二項は(それが「全」をなすゆえに)「必然」である、というアリストテレスのかんがえが審問に付される。海戦は明日、「ある」か「ない」のどちらかだということは明日に判明するのだから、適用されている排中律も意義をもっているが、もんだいは、海戦があることの「真」と、海戦がないことの「真」が、海戦の生起の事実以外に「排中律」をつくりあげている点に「偽」があるということだ――と。
この点を入不二くんがどのように捉えているだろうか。《しかし、この運命論批判は、ほんとうに成功しているのだろうか。批判は成功していないだろうと、私は考えている。失敗の原因は、必然性・排中律が「論理」だけではなく「現実」をも巻き込んで働くことを、十分に捉え切れていないことにある。また運命論側の「時間の等質的な推移」+「時制的な視点移動」という考え方に対して、批判的な視線を投げかけていないことも、原因であると考えられる》(第七回)。
以後の展開は、そのさきの連載での、入不二くんの文章に注視することにしよう。入不二くんは高度に抽象的な哲学者だが、この連載が「われわれがわるいから罰をうけた」といった心理的な因果論から、世界を再起動させるものとして運命論を分離したいという意図をもっている点は第一回連載の行間ににじんでいて、むろんそこには東日本大震災と原発事故にたいする想起があるにちがいない。このとき連載タイトル、「あるようになり、なるようになる」がぼくには不思議なひびきをもっているようにみえる。親鸞的にいえば「あるようにある」とは「自然〔じねん〕」であり、「なるようになる」とは「他力」だからだ。連載は総計数を何回に設定しているのかわからないが、仏教思想のほうにやがて肉薄してゆく目算があるのだろうか。
昨日アップしたぼくの詩篇「ひるまごえ」は、中間域をわたるときの「厚み」の感覚が、身体にどのように「充実」するかを主題にしたもので、むろんこの入不二くんの連載を読んでの感銘が化身したものだった(第六回めまでを読んだとき、中断して詩作した)。そこに赤尾兜子の超絶句《野蒜摘み八岐〔やまた〕に別れゆきし日も》をかさね、全体をさらに「中間化」した。中間に参入して、「べつの」中間を分泌してゆくのはいわば詩的書記の「運命」で、そのとき記述と心情が等分に曖昧化することで、心情がみたことのないものになるのではないかを賭けてみたのだった。
ひるまごえ
【ひるまごえ】
のりなどをこえてゆくうごきには
膜をつきやぶるようなふくらみがあり
ひとつの浸透となったじぶんにも
たずさえている多数があると気づく
この樹下からあの樹下へとわたしてゆく
そのことだけにもいわば峠をかんじ
ふみぬくのは中間ではなくニラの透明だ
水平の移動はわきいずるものにとける
もしもじぶんが伝達であるのなら
とどかない旨をつげるすきまのはがき
こえるうごきはその超えを束にして
杣道のすすみもただ、ひるまごえとなる
ひるぜんという地名のひびきをこのみ
野蒜をつみ、わかれる逢瀬をおもう
そういう山があのあたりにはあって
さびしいニラの花もゆびをさそうのだ
わけいって、かぎりを足がぬれてふむ
この身のうえをひとつの味噌とかんがえ
ひとの尖にあるニラのようなものすら
かすむまなこのなかへ草としてゆく
ひるまごえは昼をかがやく毛に負って
そのうしろではいつも声がながれる
しずかさに内心をよせるしかなかったが
声をけす諦めでからだがまた得られる
ニラ、野蒜、ゆれてにおうもののあふれ
まるでひとのようだ、たらのめも吹く
ひろがる
【ひろがる】
案ずるし生むのだからふたつに比較もなく
この身はただ広きへとひろがってゆく
まにまにうすくなりだす生にとって
きんいろは物のかくべつな輪郭だろう
それはそこにはないというしるしで
ために桃へ手ののばされる晩期もくる
なにかにむけてあげられる腕が空漠とふれ
そのしぐさこそが気のながれとなって
かざしもはかざかみを原理として恋う
ふくらみのなかにみえなくなるみずがね
この春、みおろす川にも岸がなく
ひとはそれを往来とよび不帰とよぶ
たったいまのきみをかんがえた途端
あらたまのまくらことばが頭に戴って
あかねさすからだの日がつながれば
すぎたるも棒とおもい、およんでゆく
あめいろはとおさのかくべつな厚みだろう
はじめのなやみだけがそこへ着くとき
声なくして生んだものがへただりをちぢめ
みずから膝をかかえるのに身はひろがる
石原吉郎とバートルビー
【石原吉郎とバートルビー】
このところ、廿楽順治さんが職場の昼休みに書いている、思索にとんだミクシィ日記がおもしろい。石原吉郎の詩が「韜晦」「暗喩」といえるだろうかという検証からはじまって、いまではハイデガーなども動員されて、手軽に書かれているようにみえようとも、複雑で厳密な詩論に達している。
石原の詩における「馬」「花」「くほみ」などはなぜ抽象性にかがやくのか。ぼくは石原詩を論ずるのに、その書かれ方が閑却できないとおもっている。石原はたとえば散歩中に詩の第一行をおもいつくと、つづきを脳内の頁に書いてゆく。そして「記憶できる範囲」で一篇が終わり、それを帰ってから筆記してゆくという。そこでうごいているのはまず「濾過」だろう。それから同語を駆使したリズム(これは記憶適性にかかわる)。ところが石原の「身体」が詩行連鎖をゆがませてもいる。フレーズそのものは一旦脳内に書かれるとうごかない。
この石原の、詩への「おもいかた」というのは、刻々の「部分」が連鎖していって「全体」をなしうるかどうかの賭けにもなっている。捨象そのものが詩作の動力で、だからそれは「刃の力」をもつのだ。石原の語調の特質は、むろん「断言」。この「断」にも「刃」が入っていて、ことばは世界を斬り込む「角度」として、それ自体は不全のままに(つまり説明不足なものとして)ある。それで「韜晦」がいわれることにもなるが、石原にとっては不足こそが全体であり、その全体は明視的なのに可視性を奪われる峻厳な逆説のなかにある。
つまり石原の詩作の動力は換喩だというしかない。それは不可能性と直結している、しかも「身体の」「声の」換喩であって、そこではツェランとの同質性も感知される。部分、寸断、それでも軋んでいる脈。よく比較されるが、吉岡実の詩の型はあるときまでは暗喩だった。その暗喩が飛躍と恣意と物質性によって臨界を超え、指示性をうしないフレーズのみ浮き上がる「逸脱」を鮮やかに演じていた。結果、石原が「不可能な換喩詩」であることの隣接域に、吉岡の「不可能な隠喩詩」が置かれることになる。これらが「荒地」を挟撃したものだ。吉岡の書き方は、「遅さ」「逡巡」「厳密」のなかで、ことばと像の「藁」をつかむことから生じる。結果、石原の詩の並立組成が光束なのと対比的に、吉岡の詩ではそれが藁束になっている。だから土方巽に親和してゆく。
あるときぼくは廿楽さんの日記の書き込み欄に以下のように書いた。AはBであるという断言は石原の場合、暗喩をふくんでいる常識があるが、廿楽さんはそれに異議を呈していて、それに同調、ぼくが書き込んだのだった。
●
創作実感からいうと、AはBだ、という直言は、いまはストレートすぎて恥しいんじゃないかな、AとBがどんなに隔絶して、あいだにスパークが起ころうと。つまり、A、B、C、D…という視像なり聴像なりを「斜め」に配置して、それが或るゆがみを形成するようフレーズがつながれてゆく。このときの文脈のきしみこそに、最も作者の意図した詩性がもられる。もう一個。このA、B、C、Dは一見「縁語」なんだけど、それは「隣接性」とおなじで、作者の想像力のなかだけにあり、一般には縁語性とみとめられない、といった領域にねらわれることになる。通常、詩作前段階のエクササイズとは、自身だけに適用されるこうしたアナロジーや隣接性の台帳を無意識のなかに蓄積してゆくことだとおもいます。ということでいうと、客観的な「根拠」などない。私的な蓋然性と傾向があるだけなんじゃないか。賭けられているのは、身も蓋もない言い方になりますが、言語的な人生です。
●
暗喩が類似から次語・次行・次節を創造(想像)するのにたいし、換喩が空間的隣接からそれを創造(想像)するというのは一般論だ。実際はフレーズ連鎖の「折れ線」がそれじたい空間化して空虚な容積をつくろうとするうごきそのものを――つまり「部分」をさぐってゆく手つきがフレーズになってゆく現前そのものを、換喩的な運動(現れ)というべきだろう。吉本隆明の分類によれば、自己表出性を品詞別にみた場合、感嘆詞のつぎに自己表出性がたかいのが助詞ということになるが、日本語の換喩詩をみわけるひとつの判断は、助詞の軋みではないだろうか。石原吉郎は、助詞の用法がゆたかで独自着想に富んでいる。助詞は創作前段階の「内臓的衝動」(吉本)であると同時に、フレーズの折れ線をつないでゆく接着剤でもあって、そこに「みえない負荷」がかかるのが、石原詩なのだ。
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数日前に月曜社刊『バートルビー』を読んだ。最近はよくある構成なのだが(ブランショ=デリダの本など)、ハーマン・メルヴィルの中篇「バートルビー」と、ジョルジョ・アガンベンの意欲的な論文「バートルビー 偶然性について」と、翻訳者・高桑和巳の詳細な論考「バートルビーの謎」の三部構成で本ができあがっている。中篇「バートルビー」自体は、カフカの多くの小説、魯迅の「鋳剣」などとならぶ寓喩小説の極北といえる。ある法律家が雇った書記生バートルビーが、書記業務を実直にこなしながら、それ以外の(些少な)仕事の依頼をうけると、「しないほうがいいのですが」という(この返答は原文ではやがて、I prefer notという簡略形に固定される)。
このことばがやがて法律事務所全体の気分にひろがり、同時にバートルビーの生の芯にも蚕食をおこなってゆく。法律家は一旦、「無為」への熾烈な下降者バートルビーから逃げ出すのだが、最後はその死をみとる。
履歴の不明だったバートルビーのたったひとつの前歴が最後に判明する。彼は宛先不明の郵便物を処理する下級局員だった。《死んだ手紙は毎年、荷車に何台ぶんも焼かれている。〔…〕希望もなく死んだ人々に宛てられた希望のこともある。〔…〕これらの手紙は死へと行き急ぐ。/ああバートルビー! ああ人間!》。
「バートルビー」は神山睦美さんが最近の見事な災厄論のなかで、アガンベンの「剥きだしの生」、ナチス収容所の「ムスリム」と呼ばれたユダヤ人とからめて省察されている。ぼくが「バートルビー」を読まなければならないと最初におもったのは、ドゥルーズ『批評と臨床』に見事な「バートルビー」論があったからだった。ところが現状はこの月曜社刊の『バートルビー』でしか翻訳が読めない。
ドゥルーズが、バートルビーがイエスを暗喩したとしたちいさな、しかし重大な誤りをアガンベンは突く。つまりアガンベンはドゥルーズにたいし、「折れ線」をつくるような換喩的な展開を果たしてゆく。「書記」とはなにかという原理的な考察がアリストテレスの「書板」からはじまって、潜勢力と現勢力の比較考察が展開されてゆくなかで、アガンベンは「非の潜勢力」というバートルビー的事態をつかみきる。《偶然的なものが、存在しないことができるという潜勢力(つまり非の潜勢力)のすべてを手放すとき〔…〕はじめて、偶然的なものは現勢力という状態へと移行することができる》。
実際は「潜勢力」「現勢力」二項の考察は、ドゥルーズの『差異と反復』にも綿密に考察されている。たとえば《潜在的なものは、実在的なものに対立せず、それ自体ですでに、まったき実在性を所有している》。ということは、アガンベンの「バートルビー 偶然性」はドゥルーズの『差異と反復』をつかって、ドゥルーズの『批評と臨床』中の「バートルビー、または決まり文句」を「書記」しかえたものなのだ。換喩が「発想礼賛」にみえて実際は主体の抹消をふくんでいることは先のぼくの書き方でわかるとおもうが、ドゥルーズという隣接域への、アガンベンの換喩的な介入も緊張感にとんでいる。アガンベンのしていることは、批評の換喩化なのだ。それは彼のいう「批評の媒質化=天使化」とおなじでもある。
『スタンツェ』によれば、換喩の刻々の生成単位である「部分」は、現前しながらも不可能なものだった。「部分」は、実際は隣接域を延長し自己展開することでは癒されない。そこには「部分」を置くことで、全体を「I prefer not」する、減退の契機がふくまれている。石原詩の正体もそれだった。このとき自己存在の部分性に執着することで、全体性が抹消されてしまう予言的な脅威がバートルビーなのだった。つまり換喩の死がバートルビーということにもなり、そこに衝撃があって、メルヴィルはそれを寓喩化している。中篇小説「バートルビー」の構造は、このような複層といえる。「I prefer not」のようなことばは実際いろいろある。アガンベンは見事に、「より以上ではない」という慣用句も採取している。
ともあれ、潜勢と現勢の問題を、換喩にひきつけて再考察するという自分の課題が生じた。
●
昨日は「図書新聞」用に、石井裕也監督『舟を編む』評を書いたほかは、詩篇「ニール、七二年」を書いてネットアップした。フェイスブックでの「いいね」数はふだんよりすくない。たぶんタイトルに幻惑されたのではないか。ランディ・ニューマンの「ルイジアナ、1927」みたいなタイトルを発想した。むろん「ニール」とはニール・ヤング。その1972年はアルバム『ハーヴェスト』の年だ。つまり『ハーヴェスト』収録曲の歌詞に「ありそうな」(潜勢的な)フレーズを構成して、換喩的にラヴソングを構成したものだった(映画監督の西村晋也さんが「いいね」をつけてくれたが、彼の傑作『ラブ キル キル』ではアシッドフォーク論も展開されていて、音楽好きが明らか――だから詩篇の構造を見抜いてくれたのだろう)。むろんこの年齢になって実人生にラヴ・アフェアがないので、そんな迂回的な方法でラヴソングをつくるしかなくなっている。
ニール、七二年
【ニール、七二年】
みつめあうことがそのまま鏡像の交換となる
そんな、ながいそれまでがあって
まなざしをあたえまなざしをうけるたがいでは
むごたらしく来歴がむしられてゆくのだ
それでもたとえば窓からみおろして知った
駐車場へと早足で逃げるきみのすがたは
どんな像の台帳にものこっていないだろうから
これをおもいえがき交換に歯止めをかける
あんなふうに脚と腕が交互したきみの悔いとは
からだからでてきた誰のむすめだったのか
ふだんならCAACと回帰してゆく音型に
歌のくぼみと水のたまるあたたかさをみていた
グラジオラスの花序をやがてたのしむために
ひとつの球根を春とし、植える手すら春としたのだ
それでも「この文は贋である」という表明が
きみのすわるうきくさの椅子をもつれさせ
しいられた中腰がしぐさのエポケーとなって
どこかに行こうとしても行かないひとにかえる
ひかりのたまる場所がからだだったんだろう
ひじの内側までもが笑顔そのものにみえた
はだのおもてでかまえの枠をつくってみせる
きみの気配のための、きみのみえない骨が
うつろにひびく木琴になるきみの通路だった
ゆく廊下にも音楽をきいていたのだった
ひとはだれでもそのかみに廊が縦横していて
たてものにすぎないから、在る窓をかんがえる
その窓を、息をかけてみがく日雇いみたいに
手にもつ布がさきざきへのあまりになってゆく
それでもならぶ窓からは春をつげる木の花をみた
駐車場へと早足で逃げたのはぼくかもしれない
これはみつめあうことの風の日のロンド
ひかるきみをぼくとのみいうための
西村晋也・Sweet Sickness
一週間ほど前に観た映画、『Sweet Sickness』が妙に心にひっかかっている。監督は映画美学校での瀬々敬久プロデュース、「エロス番長」シリーズのうちの一本、傑作『ラブ キル キル』を撮った西村晋也で、この『Sweet Sickness』は例の青春Hシリーズの第29弾。記憶がうすれかかって危ないが、書いておこう。
シーツかなにかの洗濯工場でベルトコンベアでの仕分け作業の深夜バイトをするのが廣木隆一『RIVER』の小林ユウキチ。彼がバイクで帰宅すると(作品は海を舞台にもっていて、バイクは海沿いを走る)、姉・細江祐子の部屋を覗く。細江が寝ていると安心すると、小林が就寝、今度は姉が起きて、弟・小林が起きたときのための料理をつくり、出勤してゆく。当初、作品は、そういうふたつの身体の、家屋内の明滅を静謐にしるしづけるだけだ。
のちに暗示されるが事故かなにかで他の家人がみな死んだ一軒家に姉弟は二人暮らしをしている。その家を基体にみると、家は多くの時間、茫漠と、姉か弟のどちらかを静かに、無為に抱えこんでいるだけになる。となれば、姉弟という人的要素のほかに、家そのものが作品の主役なのだ。西村はフィックスを中心に、人物の移動ごとにすごく丁寧にカットを割ってゆき、伝統的な昭和四十年代の家屋がしずかながらも海辺ちかくに息づいているようすを捉える。外界からはいってくる「ひかり」に、家の空間が微差をしるしづける姿がそうしてあとづけられるのだが、その作法から、いずれはハネケの『愛、アムール』のように、家空間の「空舞台」をクライマックスにもってくるのではないか、とおもわせる。
黒目が渇き、なにかをいいたそうでいえない、傍観の場に置かれる小林の眼が「痛い」。少年期に生じた両親の消滅、しいられた姉との共生――そんな運命が手伝って、弟はシスターコンプレックスという以上に、存在の芯に「姉依存」を抱え込んでいる。この謙譲の美徳にあふれた映画では、彼らの身体的距離は当初、保たれている。だから作品前半で唯一、身体接触の生じる、細江のリクエストにより、その肩や背中に、小林がマッサージするシーンが、妙に生々しい余韻をのこす。山下敦弘『ばかのハコ船』に出演していた細江の存在感もうまく要約できない。横顔がピノキオのようだ。さらさらと背中まである長髪が、把握しにくい存在感をつたえている。
小林にはステディ(片宮あやか)がいるが、姉に告白したところでは「永すぎた春」で結婚に踏み切れない。経済的な自立ができていないからと予想すると、小林の「姉依存」が片宮にも問題視されていると、小林-片宮の、待ち合わせの神社を舞台にしたやりとりからわかってくる。姉・細江もそうした小林を気に病んで、適齢期に突入してだいぶ経つのに結婚に踏み切れない。姉は、恋人はいないと弟にいう。ところが彼女には結婚の約束を交わした同僚の恋人がひそかにいて、その二人が連れ立って歩くのをみた、と片宮が小林に語ったことから、とうぜん姉-弟の家での「不在を分け合う」しずかな「平衡」がかたむく気色がうまれてくる。
市川崑『おとうと』にもつうじるような、古典的な「姉弟もの」の結構で、とうぜん看板=青春Hシリーズの、エロチックな動力からは逸脱している。だからそれがどう打ち破られるかでサスペンス感が醸されるのだが、作品が用意するのは、「不在の応酬」と、そこから数学的にはじきだされる「双対性(デュアリティ)」だった。その作法も古典的だが、そこにこそエロス表現がまきこまれる。
途中の展開を端折ると、姉は婚約相手を家に招いて弟に紹介する。弟は感情を表にしないながらも不穏な気色を隠さなくなる。しかも浜辺で、自分と姉はセックスをしたことがある、と虚言を吐く。これが虚言かどうかは当初わからない。姉・細江が婚約者をまえに狼狽して泣くだけだからだ。そののち、婚約者が帰り(その家は「空漠」をたもつために、がんらい二人以上の在宅を受け付けない)、なぜあんな出鱈目をいったのかと姉が詰問することで、弟の暴露が虚言だったという判断になる。
姉の部屋に入ろうとする弟と、そうはさせない姉の、扉を道具にしての攻防。だがついに闖入、はずみで姉を押し倒してしまった弟は、しでかしていることに戦慄し却って点火されたのか、細江のくちびるに自らのくちびるを「乗せる」。姉はそれを受け入れたかにみえたが、くちびるが離れると泣き笑いする。相互が「からだ」をもつことの「重さ」を笑うしかないのだ。笑うと行動原理が奪われる。「くりいむれもん」的な遊戯類型にはない「行動の間隙」が胸をうつ。つまり「切なさ」と「凌辱」を野合させようという意図は、脚本も書いた西村に皆無なのだった。
身体の相互接触は、この映画では双対性を形成しない。ところが「かたち」は双対性を形成する。婚約者の参加も念頭に置いていたが空振りになった「すきやき」を仕方なしに二人で食べる姉と弟。食卓に向かい合う二人を横方向からカメラはフィックスで捉える。すると、画面向かって右の姉が右利きなのにたいし、向かって左の弟は左利きで、箸をあやつる相互の腕は画面奥行に畳みこまれる。相互のうごきが双対的なだけではない。現れているからだが腕の奥行をもつことで、からだそのものが謙譲性において無防備になっている様相もまた双対的なのだった。からだは、現れては消える――物語とは無縁にそんな実感が観ているこちらを襲う。
物語はフックを用意している。画面にずっと登場してこないのに話題にのぼる物語上の「翳」を用意するのだ。ダンス練習場で見た、誰だったかおもいださない女の子として最初、姉に語られたその対象は、やがて片宮の示唆により、かつての小林の親友の妹だったとわかる。その親友の家庭は小林の家庭と「斜交いの同型」で、こちらは「兄妹」の二人暮らしだった(これも「かたち」の問題)。その兄が死んで(自殺とおもわれる)のこされた妹、というふうに、会話の進展のみで対象は来歴をくっきりさせてゆく。
あるとき――その妹が仲間とのストリートダンスの練習をしているすがたを小林は見やり、練習がはねて仲間が帰ってものこっている彼女をすこし離れた距離から見守っているものだから、見られている対象は「何だろう?」となる。小林は相手の名前を呼びかけ、相互が覚束ない知り合いだったと判明すると、その少女の普段の整序されていない日常を物語るかのように、即座に少女は「飲みません?」と切りだしてくる。
飲み屋ののち、ラブホテル内部に舞台が移る。躊躇の気配がある小林に向け、少女は錠剤を差しだす。「いちばん好きな相手とセックスしているように錯覚できるクスリなの」といったことをいい、二人はそれを服用する。押尾某の事件を知っているから何か妖しい動悸が生ずる。二人が出会った日は、細江が結婚式の前、弟との二人だけの最後の晩餐と小林にいいふくめていた日だった。姉は弟にケータイをかけるが弟は出ない。弟は葛藤のなかで、その少女に直面しているのだった。
少女を演じるのはAVモデルの綾見ひかる。少女っぽい挙止と口跡、細身、そして桜いろの乳輪をもつ、不釣合いに張りだした乳房が、心を射抜いてくるような類型だ。姉の背中まであるさらさらした長髪だけに「性徴」を押し込んでいたこの謙虚な作品は(その点では小林との長い付き合いの片宮さやかも「作品」の結構を補足する媒介に徹して「性徴」をもたなかった)、ここで序破急の「急」にいたり、作品の軌道をずらす。小林は綾見とのセックスにさいして「好きなひと〔すなわち「姉」〕の結婚をうべなう気持になっている」と、対象を明示せずに語っている。「そのひとのことは、もう忘れるんだ」と。
セックス場面。とりわけ綾見の騎乗位がはげしく、はげしいぶんだけ痛ましい。彼女は泣く。錠剤が効いてきたのだろう、小林は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と連呼される。小林は自分のアイデンティティに傷をつけられながらも、懸命に彼女の虚無的な熱情に「応える」。その綾見の裸身が、姉・細江の裸身にすりかわる。小林の主観に生じている異変。画面は性的刺戟というよりも悲哀を湛え、その水位を上昇させてくる。ただしフィニッシュまでを作品は描写しない。
ラブホからの朝の帰り。会話の主導権をにぎるのは綾見だ。彼女はまず告白する。親が死に、兄と二人だけになって、毛布にくるまり寒い夜をしのぐうち、あたしは兄とセックスをしてしまった、と。兄は死んだが、あたしはそのときの兄を「忘れないために」、いろんなひととクスリをつかってセックスするのだ、あなた〔小林〕が「お姉さん」を忘れようと懸命なのもわかるけど。秘匿されていた小林の懸想相手がつかまれている。ということは、おぼえていなかったが、小林にもクスリが効いて、綾見にたいし「姉さん」と連呼したはずなのだった。心中でたぶん照れている小林。ところが恬淡にみずからの不可能な願望を処理してじつは気概を崩していない綾見には、すでに救済があたえられている。この二人はいずれ、ふかい仲になるだろう。
クスリが効き、本心がばれるということ。おもいだしたのが、第二次大戦下の香港を舞台に抗日と青春に明け暮れる若者の三角関係を描いたレオン・ポーチの傑作『風の輝く朝に』だった。イップ・トンというアジア的な美少女を主軸に、周囲からは公認の恋人、アレックス・マンがいて、二人を見守る心優しいチョウ・ユンファがいる。アレックス・マンには男気はあるが無鉄砲で短慮、存在は粗い。対照的に何ごとにも控えめで思慮ぶかいチョウ・ユンファ。
そのクライマックスシーンではアレックス・マンが瀕死の重傷を負い、苦痛にのたうちまわっている。看護を申し出るユンファにたいし、アレックスの恋人のイップ・トンは恋人の責任だと自分主体の姿勢をくずさない。アレックスの苦痛を除くためイップは果敢にも阿片煙管から烟を吸い、それをアレックスに口移しして麻酔をおこなう。ところが麻酔により、隠された心情ももたげてしまう。彼女は「われ知らず」、じつはアレックスののちに出会っていらい心を移していていたチョウに、阿片に自制を消され抱きついてしまったのだった。ほとばしる思い。観客もそうなることを望んでいたのだが、そうした真の関係成立に、血と苦痛の悲劇が介在している点が見事に切なかった。イップ・トンという「規律」「奥行」をもったアジア的美少女だから成立した、凄愴な「乱脈美」だった(泉鏡花=坂東玉三郎『外科室』とは逆の発想ということになる)。
西村晋也『Sweet Sickness』に話をもどそう。煽情的なエロス表現では、姉弟、兄妹といった近親相姦は簡単に到達できる目標となる。そこでは血縁関係は主情性を格上げする機能的な媒質であるにすぎない。結果、「姉弟」「兄妹」という血縁上は斜めの「対」が侵犯されて、性愛的な双対へと浮上していっても、それはからだと心情の浮上であって、不可能性の侵犯とはみえないのだ。西村監督は、不可能性を温存する。だから「姉を慕う弟」と「兄を慕う妹」の双対によって、本来あるべき姉弟の性行為を代位させた。このときまぼろしの次元で、血縁の基軸が軋み、その基軸に一瞬だけ、細江祐子の裸身が上乗せされるという「算術」が繰り広げられるのだ。むろんこの算術は前面に出ないから謙譲性をたもっていて、結果、抽出されるのは、「かたち」が幻惑的にうごくなかにある双対性のみ、ということになる。侵犯が侵犯にならないことの侵犯。そこに「近親相姦」テーマがかさなって、それは非現実の次元で活性化されるのだ。脱ポルノグラフィックな、見事な戦術というしかない。
姉・細江祐子と、弟・小林ユウキチの間柄は「運命的」「選択不能な」双対だ。いっぽう小林ユウキチと綾見ひかるの間柄は「半・運命的」「選択可能な」双対といえる。ところが多くの近親相姦ポルノが誤っているが、映画的に最もうつくしいのは恣意的、偶有的な双対なのだ。映画はそれを過たず披露する。姉と約した最後の晩餐を打棄り、綾見と愛を交わして遅い朝帰りをした小林。姉は翌日の式に向け、準備のため結婚式場に向かってしまったらしい。姉の部屋の扉をあける小林。すると壁にかけてある白いレースのウェディングドレスと、白いレースカーテンが、換気のためにあけられた窓からの風により、「ともにそよいでいる」。この偶有的な双対性のうつくしさはなんだろう。「ともに」「そよぐ」ということが偶発の域に伸びて、それでゴダール『彼女について私が知っている二、三の事柄』のテーマ=《「ふたつのものは同時に映せない」が、そのことで「心情はそよぐことができる」》が、こんなにあっさりしたショットによって包括されたのだった。その画柄は小林の主観という契機をもっていた記憶があるが、むろん空ショット的だった。小津『晩春』の終景がべつのかたちで継承されている。
「家」が主体で、ラブホテルの空間だけが家の亜空間としてつつましく編成される作品だから(豊田利晃『空中庭園』のようだ)、むろん結婚式場の実際は『晩春』どうよう描出されない。小林も臨席したと間接的にわかる。あとは空舞台の家内部へのショットがつづき、そこに弟の後日譚を語るナレーションが入るだけだ。家は姉が結婚して出てからさらに空漠になって、結局は売り払ってしまった、古いので取り壊され、いまは別の建物が立っていると。そう、「家を売り払った」という述懐が、「家の(最後の)現存」の画にかぶるのだ。未来-現在「双対」の運動がここでしずかに起こっている。時制の双対。それはむろん人間の心情のなかにしか結像されない。そのことによって、それは「愛」を見やる視線をも擬制することになるだろう。
傑作だった。4月6日から12日、ポレポレ東中野にて、一週間のレイトショー公開。
このもの
【このもの】
両掌につつんだしずかなこのものを
あるいは珠とよぶべきなのかもしれないが
それはてのひらふかく隠されることで
みえぬ内部にうまれる鼓動をひからせる
うつろう時がしずくするましたで
この身の場所が照ってはかげるうち
このものの予感もりんごや梨になって
あることがへんげとつうじてゆく
だがそれはこのものを内に剰らせて
わたしの一環が欠けることにすぎない
およそそうした漆喰のはげおちに
わたしの家は内側をかすかにしてゆき
なにかかだれかを掌につつんでいる
じぶんのねむたい二重だけをかんじる
こんな、うすおもさがいわば発情して
わたしからころもがひるがえるのだ
つつむ両掌だけが場の核をなしながら
わたしは目先のカーテンとおなじになり
卓にむすぶ掌にとってからだがうしろと
じぶんの後退をさらに陣形にする
おわりからひとをおかせないから
うしろからおかす種になっていたのに
わたしは掌のなかの外に貶められ
うつりのなかで珠のいまもしらない
外側にあるすべてが球になろうとして
わたしは山脈のうまれるとおくのように
ただにひきつれなおも曲がりだそうとし
もはや掌中のくずれ柿をけすしかない
もったことのつめたい掟なのだろうか
はなからこれもひらいた門だったらしい