ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

跛行

 
 
【跛行】


ぎんいろの義足できらきらあるくひとは
わたってゆくその野をひろくみせる

せかいの草丈はいまだにみじかくて
うえから何かをうけとろうと焦がれている

ひとあしごとに視野がくずれを兆すのだろう
彼からはみえるすべてがやわらかいはずだ

あるきの形がそのままこころであるわけもなく
ゆらしては回収するだけが自身かもしれない

一方といま一方のやさしくそろわないことが
とおく四方が均されないひかりへとのびあがる

だから野のなかでひとり背が余韻をなして
ぎんいろをちらすあるきがタクトをふる

ふるえろ音をだせ、ふみしめるせかいの草丈
百線譜のなか、音符のようにあるいている
 
 

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2013年05月31日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

音韻・気息・換喩

 
 
【音韻・気息・換喩】


韻律は音韻(おとのひびき)と音律(おとのリズム法則)にわけられる。吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』で、音韻を自己表出の分野に、音律を指示表出の分野に、それぞれ微妙なかたちで分類した。それはぼくの創作実感からいっても、すぐれた直観だったとおもえる。まず吉本は、時枝誠記の『国語学原論』から、過たず以下の記述を摘記してくる。



音声の表出があつて、そこにリズムが成立するのではなく、リズム的場面があつて、音声が表出される〔…〕。音声の連鎖は、必然的にリズムによつて制約されて成立するのである。
(角川ソフィア文庫版『言語美』Ⅰ、58頁)



これを西洋の言語と、膠着語で音声的には等拍時音の日本語、その双方に適用できるかには吟味が要るとおもう。複合母音をもち、子音で語尾を終わることのできる西洋言語では、リズムはシラブル数とともに、子音連鎖の強弱が受けもつと常識的にはかんがえられるからだ。このとき改行によってしるされたソネットなどの詩篇では、呼吸(ブレス――息継ぎ)が、脚韻とともに、音で聴かれるばあいの改行箇所の指示となる。つまり文字上の改行は、音声表出のみによっても「読まれる」。

等時拍音による日本語の音は、頭韻などによって音韻の質を強調することはできるが、西洋語のように、母音、複合母音の組み合わせ、それらで変化する子音出来の頻度によって発語をうねらせることができない。日本語はだから「のべたら」に連続しながら、相互の音を消滅させてゆく感覚をもたらすようになる。これと、古い和語の音の相互浸透性をつうじ、いわば音のにじむような落着きのなかに情感を盛りこむ口承芸術が成立することになる――これが古代歌謡に成型がほどこされた和歌だったと、ひとまずはいえるのではないか。万葉集は歌の出来に巧拙の差があるだろうが、その音韻は諧謔が盛られていてもしずかに落着き、だから民族レベルでその音韻性が、とくに発生当時、快感とひびいたはずだ。発明漢語や、カタカナ表記にするしかなかった外来語が猖獗した明治以後ではかんがえられない、単一的な音声の楽園時代だったともいえるだろう。

のべたらで流暢に、かつ単調につづく原日本的発語の音韻は、等拍性から自然延長された音律性の付与によって結節点をしるされ、詩的に活性化されるしかない。それが七五、五七の音律だった。摘記した時枝の文のなかで、「リズム的場面」とあるのは祭式や古代演劇のたぐい、あるいは冠婚葬祭や国事などのたぐいだろうが、言語的な意味での「リズム的場面」というのは、やがて八分内在を基体にもつ「七」(=8-1)、「五」(=8-3)へと磁力化していったのではないか。この「七」と「五」の音数は日本的な耳にとって定数的で、この「リズム的場面」があって、そこからのズレも敏感に察知されることになる。

以前、この欄に正岡子規の短歌を引用したことがあった。ふたたびしるす。

瓶にさす藤の花ぶさみじかければ畳の上にとどかざりけり

そのときにはこの一首を像形成の観点からみたわけだが、これを音韻のもんだいとしてかんがえるとどうか。第三句「みじかければ」は「リズム的場面」としてみれば六音――つまり一音超過なのだった。しかも用字選択の面からは、第二句の「はなぶさ」は「花房」と表記されず「花ぶさ」となっていて、ひらがなが八字つづくことになる。これらが綜合され、意味的には藤の花ぶさは「みじかい」と表現されながら、その聴覚映像あるいは用字映像では「ながい」ということになる。それで、五句(結句)の「とどかざりけり」は「けり」の詠嘆をともなって、「ぎりぎりでとどいていない」という擬制を呼びこみ、結果、畳と藤の花の尖端がつくる「ぎりぎりの隙間」までもが印象されることになるのではないか。

字余りの効果は、この意味で、五七五七七の正調という基体が前提されて、そこからの偏差としてとらえられることになる。「リズム的場面」が日本的な耳を前提的に発露しているあかしだ。もう一例、今度は葛原妙子の『葡萄木立』から出してみよう。

奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり

馬の「幻視」とともに、というか、それと引き換えになるかたちで、だらしなく子を次々となしていったみずからへの女性的な慚愧がうたわれている。この「子」を実子ととるか、たとえば短歌作品ととるかは読者の裁量にゆだねられている。むろんここでは第四句《われのみが累々と》が十音あって、「リズム的場面」に著しい変調がかたどられている。むろん狙われた効果だ。「累々と」とされる現象が、意味から音数に転化して、ながさが精確に動員されているのだ。

葛原のこの音数にたいする感覚は、「アララギ」の土屋文明などにあった「ながさによる」破調美の感覚から学ばれたものかもしれないが、この「リズム的場面」を基底にして、葛原は歌作の振り子を逆に伸ばすこともある。つまり、音の欠落だ。おなじく『葡萄木立』から――

晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて

五・七・五・五・七と受けとるべきだろうか。すると四句での音数欠損となる。むろんこの畸形は、たとえば次のような斡旋をおこなうことでかんたんにくつがえる。「晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本のがらすの瓶の中にて」。ところが「がらすの」と挟みこんだ途端に、瓶と酢の関係にいわば間接性が生じてしまう。瓶が透明性をもっているかいないかの結像がうばわれるからこそ、瓶のくらい内部となった酢が、瓶と一体化して、夏の夕光を背景に暗然と食卓に屹立している、存在論的な恐怖が際立つのだ。それで光景全体が人間をも暗喩することになる。だからこの場合、酢そのものが米酢の黄金色なのか黒酢の暗澹色なのかが問題になることもない。むろんこの一首からたちのぼってくる「原不安」は四句にあるとみとめられる二音の欠落から生じている。ならば次の『原牛』所収の一首はどうか――

築城はあなさびし もえ上る焔のかたちをえらびぬ

五・五・五・十二としか把握できない内部分節で、破調度がきわめてたかい。それでも一行詩ではなく短歌としてかんじられるのは、五音を基調にして、句跨りをかんがえれば最後の十二音にも、「七・五」(焔のかたち/をえらびぬ)の内在的な分節があるとみえ、結果、全体が五・五・五・七・五、つまり二句と五句がそれぞれ基数「七」であるべきところ「五」に「減衰」されている構造が実感されてくるためだ。築城行為を男性性の誇示と見、しかもその形状そのものが無意識に炎上と似かよっているという、女性側からの不吉な直観的指摘は、そのままでは傲然で残酷ととられるが、実際はこの音数の欠落によって内破を経過、結果的には感情として「哀しみ」を立ちあげてくる。このように音律の設定によって一首の情を異化してしまう感覚的な天才こそが葛原だった。

くりかえすが「酢」の一首、「築城」の一首は葛原の傲然たる直観によっている。その「見なし」には対象を残酷に斬りつけ、斬りつけたあとに余韻を測りだす「生殺〔せいさつ〕」の気配がある。「酢」の一首の鑑賞ではおもわず暗喩の語をつかったが、これらの歌で「見なし」と「気息」が同時出来している「内動」構造をとらえると、換喩そのものが息として出て、音韻が音律を破壊した機微のほうがはっきりとかんじられてくる。いずれにせよ韻律の異調が、日本語の特質、等拍時音を基体にして、それに反する「あふれ」か「欠け」として現象されてくる例を以上にしめしえたとおもう。

はなしが迂回したかもしれない。時枝誠記の考察を前段階にして、吉本は『言語美』につぎのようにしるす。以下の直観が構築性によってさらに展開的になれば、『言語美』は韻律学と換喩学をむすぶ画期的なものとなっただろう。だが「分類知」のひと吉本は、直観を叩きつけたまま、自己表出/指示表出の混合濃度の考察へと行き急ぎ、品詞別にみたそれらの濃度のほうに視点を移してしまったのだった。



わたしたちは、原始人が祭式のあいだに、手拍子をうち、打楽器を鳴らし、叫び声の拍子をうつ場面を、音声反射が言語化する途中にかんがえてみた。こういう音声反応が有節化されたところで、自己表出の方向に抽出された共通性をかんがえれば音韻となるだろうが、このばあい有節音声が現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性をかんがえれば言語の韻律の概念をみちびけるような気がする。だから言語の音韻がそのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、言語の韻律は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる。

対象とじかに指示関係をもたなくなって、はじめて有節音声は言語となった。そのためわたしたちが現在かんがえるかぎりの韻律は、言語の意味とのかかわりをもたない。それなのに詩歌のように、指示機能がそれによってつよめられるのはそのためなのだ。リズムは言語の意味とじかにかかわりをもたないのに、指示が抽出された共通性だとかんがえられるのは、言語が基底のほうに非言語時代の感覚的母斑をもっているからなのだ。これは等時的な拍音である日本語に音数律とあらわれているようにみえる。
(同上『言語美』Ⅰ、59-60頁)



「母斑」ということばが現れたのが運命的だった。やがて吉本はこの文に現れる「非言語時代」を民族的な文脈から個体発生的な文脈に移して考察をしかえることになる。それが名著『母型論』でのハイライトだった。そこでは母親の乳房を媒介とする母子の密閉的な接触に、厳密かつ直観的な考察がなされ、やがて子の側の口腔と唇が乳を吸いあげる行為が、宿命的に呼吸の出入り口ともおなじ部位を重複させることから、吸乳のリズムと呼吸のリズムの同調が子の身体にしるされ、やがて泣きが喃語へと変化する際にも、喃語がまず声の強弱と呼吸中断のリズムとして出現する事態を、吉本はとらえてゆく。

前言語的な音韻衝動(=自己表出)が隣接域をまさぐり、それが発声器官に獲得され実現された途端に、リズム化をつうじて前・指示表出となる様相を、吉本はつかみ、それで「海〔う〕」の本質を考察しかえすことになるのだ。いまの言い方でわかるように、こうした喃語にある発声衝動は、隣接性を外延性へと再組織することだから、基本的には換喩活動の原型ともいえるものなのだった。

「声」はまず、その発声によっておのれをつかむ。おのれは(みたされない)充実だ。またその反響によっては、主体ではなく声そのものが環界をつかんでゆく。ということは、声こそが世界とおのれとを器官なき身体としてつなぎ、声は自己定位なきままに、なにものかへの自己内属をうみだすといっていい。哲学においてロゴスではなく、音声の優位性の原点へ差し戻しをおこなうことは、そもそもが哲学の原理なのだ。そのようにして、ジョルジョ・アガンベンは、ヘーゲルの細部をデリダに、そしてみずからに、「声」の論として還元してゆく。



形而上学の内部にあって、思考しえないものを思考しようとする試み、すなわち、否定的根拠そのものをつかまえようとする試みはあったのだろうか。見てきたように、言語活動の本源的な開示、人間に存在と自由を開けひろげていく言語活動の生起そのものは、当の言語活動のなかでは発話されえない。ただひとり〈声〉だけが、驚嘆すべきことにも無言のうちに、その〔言語活動の生起する〕接近不可能な場所を表示する。それゆえ、〈声〉を思考することが必然的に哲学の最高の任務とならざるをえない。しかしまた、〈声〉はつねにすでにあらゆる言語活動経験を分裂させて、指示することと発話すること、存在と存在者、世界と事物の関係を本源的に構造化している。そのかぎりで、〈声〉をつかまえるということは、これらの対立を超えたところで思考するということ、つまり〈絶対的なもの〉を思考するということしか意味しえない。
――ジョルジョ・アガンベン『言葉と死』(筑摩書房、09年刊、上村忠男訳)



アガンベンはここではメシアの声のような絶対性を論じているのではない。声が連続をとりこんで自ら組織化する存在の原義をまず語り、しかもその声の発生場所が口腔という穴であるかぎり、声は剥き出された傷が論理性をおびる逆転を経由して、そのまま世界に内属する避けがたい媒質であることを語っている。だからこそ、声は主客の対立をつなげる絶対的な思考の組織なのだ――あるいは声とは動物性を超えだそうとした人間がそもそももった空気内の宿命なのだ。だから声を思考することは極度に再帰的な視線をつくりあげ、結果、声への思考は思考の基盤を内破粉砕する本源的な恐怖をおびる(それで声そのものを弁別する語彙が発達しなかったのかもしれない)。

声の連続性、全体性にまつわるこうした不可能は、呼びだしてゆくこと――換喩がかかえる、全体にかかわる部分の不可能と表裏の関係にある、というべきではないのか。部分は露出することにより、その都度、全体を不可能にしている。ところがそうみえなくさせているのが「部分の連続」という擬制で、それを剥ぎとると、潜在しているすべてを、発語によって顕在化した部分が掠めることすらできていなかった、声の不可能性の様相が顕わになる。換喩が能天気に自分の原資とした「隣接域」と、潜在性とは、次元が本質的に異なる。異なるのに、そこに同質性が賭けられて、まず発語は換喩的に、あるいは吉本用語でいえば自己表出的におこなわれる以外にない。それは一瞬のことだ。声が指示性をもったばあいには、指示表出に転落してしまうのだから。だから上のアガンベンの文章は、喃語を語っている錯視をも同時にもたらすのだ。

潜在性についてのアガンベンの思考は、『バートルビー』にもうかがえるが、人間性と動物性の境(「声」が指示的連続として出現できる境域)を、結局、思考が潜在域としてしかとらえられないと綴った『開かれ』(平凡社ライブラリー、2011年刊、岡田温司・多賀健太郎訳)にも結実している。以下、部分摘記するが、これを換喩が不可能性と触れあうゆえに、部分の集積として実質化する経路を、潜在性の問題から解き明かしたものと読み替えてもらいたい。



可能性の不活性化においてはじめてそれ自体として立ち現われてくるものとは、すなわち、可能態=潜在性の起源そのもの――さらには、現存在の、つまり、存在可能性の形式のうちに実存する存在者の起源そのもの――なのである。だが、この根源的な可能態や可能化は――まさにそれゆえに――否定の可能態、つまり、無能性を構成する。というのも、できないこと、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである。
(121頁)



上のアガンベンが依拠しているのはハイデガーの議論なのだが、門外漢なので深入りは避けよう。それよりも、潜在領域を隣接領域と積極的に錯視し、そこからとりだした「部分」を連鎖する換喩は、吉本の立論とあわせれば前・自己表出的衝動と接触するが、それが指示表出にただちに転落する不可能の軌道にしかなりえない、詩作の原理について考察したい。

むろん換喩表現を「たんなる不可能にみせない」詩作が日本語文化のなかにいくつかある。さきにみたように、音韻性にとんで論理がゆるやかにあらわれる短歌がそれにあたるし、音韻を原理とした換喩詩、あるいは換喩を原理とした音韻詩もそれにあたるだろう。これらでは「不可能が可能にみえ」「可能が不可能にみえる」多重性を再帰的に組織している。ということは換喩と再帰性のなかにも簡単には評定しがたい通底性があることが理解されてくる。このことと「呼吸」――人間の身体活動のうち最も明示的に再帰性としてかんじられるもの――がさらにかかわっている。ということは音韻的な換喩詩の不可能性を救出するものとは、詩句に縦横している「生きているあかし」――呼吸なのだ。

西脇順三郎の『失われた時』(59)の圧倒的なコーダ部分が、日本語で書かれた詩の奇蹟なのはいうまでもない。それはラスト、「ちやふちやふ」とか「セサランセサラン」といった純粋「音韻」を提示し、そのなかに「永遠のただよい」を実体化するが、そのまえは縁語、頭韻、地口、引用など「隣接域」からすばやく換喩的にひきあげられた語が、「の」の接続機能をつかって脱イメージ的に展覧されてゆく。そこでは改行単位が「気息」単位になっていて、詩脈と身体性の交錯は、ことばによってなる人間のゆたかさをそのまま指標している。このことばを発想=換喩ととらえれば、換喩が詩作原理として豊饒ということにもなるだろうが、みられるような「あふれる」音韻の音楽的な全面化は、潜在性にたいする不可能性を同時に表象している点に注意を要する。



はてしなくただようこのねむりは
はてしなくただよう盃のめぐりの
アイアイのさざ波の貝殻のきらめきの
沖の石のさざれ石の涙のさざえの
せせらぎのあしの葉の思いの睡蓮の
ささやきのぬれ苔のアユのささやきの
ぬれごとのぬめりのヴェニスのラスキン
の潮のいそぎんちやくのあわびの
みそぎのひのつらゆきの水茎の
サンクタ・サンクタールムの女のたにしの
よし原の砂の千鳥の巣のすさびの
はすの葉のはずれにただよう小舟の
はてしなくさまようすみのえの
ぬれた松の実の浜栗のしたたりの
このねむりは水のつきるところまで
ただようねむりは限りなくただよう

――長詩『失われた時』コーダ部分



ここで「あふれ」「豊饒」がかんじられるとすれば、換喩的に喚起されたことばそれぞれが「自己再帰」して、つぎの語を、ズレをともなって喚起している機微を音楽的としかよべないからだ。ことばがそのように主体であれば、実際は作者・西脇はことばのむこうにやさしく溶けている。

音の「あふれ」は、音韻の多様性と同時に、一定の改行単位をつくり、一行ごとの音数に前後三音ていどまでの差異を盛り込んでゆくことでつくられている。しかも一行音数の基準は二十音ていどがいちばん効果を発揮するというのが経験則で、それが「音の換喩詩」の枠組となる。厳密な実証は難しいが、和歌の分節単位を円滑性に向けて引き伸ばし、内在律とするときに起こる、それはひとつの転位ではないだろうか。西脇『失われた時』のコーダ部分にはそれがあり、那珂太郎『音楽』の詩篇にはそれがなく、支倉隆子の初期詩篇にはまたそれがある。「認識論」的な改行ではそれがない。これらでは「同語」をあつかう作法にもちがいもある。

西脇の方法を敷衍した那珂太郎『音楽』(65)はたしかに音韻がすばらしいのだが、そこにある自己再帰性は「推敲」とうけとられ、陶然たる鑑賞の阻害要因となる。同様の手法を実人生にあわせ那珂が肩肘張らずに練磨したのは次の詩集『はかた』(75)においてだった。それでも『音楽』の音韻の「原理」は、次のようにすばらしい。



【作品A】

燃えるみどりのみだれるうねりの
みなみの雲の藻の髪のかなしみの
梨の実のなみだの嵐の秋のあさの
にほふ肌のはるかなハアプの痛み
の耳かざりのきらめきの水の波紋
の花びらのかさなりの遠い王朝の
夢のゆらぎの憂愁の青ざめる蛍火
のうつす観念の唐草模様の錦蛇の
とぐろのとどろきのおどろきの黒
のくちびるの莟みの罪の冷たさの
さびしさのさざなみのなぎさの蛹



頭韻以外に、「くちびる」と「莟〔つぼ〕み」の形状類似、あるいは「なぎさ」と「さなぎ=蛹」での音の転倒などがあるが、那珂の視線は、森→空→〔…〕海などへと領域を移し、そこで自分の内心のおそろしさと女性的なものへの憧憬を、同時に残余的にかたどってゆく運動をしるしながら、ぜんたいではウロボロス回転をしてゆくような趣だ。西脇『失われた時』のコーダ部分はおおきくは川のながれに乗って「うごいて」いたが、那珂のこの作では渦巻きが生じている感覚がある。自己再帰をしようとして「ずれ」、次の行が外延してくる運動性は西脇のほうにつよく、那珂のほうにはおなじ領域への重複の印象が不当にも生じるので、那珂の詩の再帰性を「推敲」とむすびつけてしまうのだろう。

音韻的な換喩詩は、発想の自由さとして表面的には現象される。那珂はその能天気をゆるさず、「虚無」に詩句展開を病ませたのだ。その意味で貴重だった。けれども「音韻」の自発は、本来なら那珂の詩よりも、「意味」をかすかであっても連動させる力能をしめすことで、自身の自由度を発現しなければならないだろう。以下の支倉隆子『琴座』(78年、国文社刊)所収詩篇は、だから意味性を生じながらも、おなじ音韻的換喩詩として、その自由度において西脇の詩と拮抗しているといえる。



【藤棚】

藤棚のみえるところで
だれかが手をはなしてくれた
彼女はうつくしい湯気になる
二重唱もきこえてくるだろう
姉のこえも
蕗のとうも
おなじ音楽をしっていた
おなじまぶしい切符を買って
袖のような
ひみつそしきをくぐっていく
小さな罪をうちけして
ちいさなつみは墓地のように
目だつから
じぶんを広げて
青春も蛇のめをかこっていく
死んだ顔より
ふきのとうがすこし明るい
だれかが綻んでいる
世界のはずれに
藤棚がある



意味の完全結像をはばむ朦朧な、それでもふくみと余韻をもった一行単位のフレーズに、連句でいう「匂い付」がなされるように次行がやわらかく添えられる。あきらかに詩行の起動原理は換喩だ。そのときに部分的に対句的な「おなじ音数」、あるいは「同語」がこだまのように反響して、最後にはもっとおおきな水準で、「蕗〔ふき〕のとう」「藤棚」が自己再帰する。ところが意味性はある。藤棚を遠目にみて自己解放の気運をかんじ、その藤棚に歩を向けたことが、「世界のはずれ」にじぶんを向かわせたという認識が全体をとおっているのだ。

それだけの感慨しか内心をしめす要素がなく、あとは音韻性にみちたことばの換喩展開があるだけ。それでじぶんに関係すべきはずの他者は、「だれか」という無性語、無限定語に脱色されるのだが、その脱色もまた解放ととらえられる点に、感性の女性価値による逆転がある。支倉はこのようにして、縁語展開ではなく、「同語」を、隣接、間歇の双方にもちいる。ということは、隣接と間歇が、奔放な支倉においては等価なのではないか。じっさい詩篇のうつくしさはこうした等価性に、ひそかに由来している。

西脇・那珂から支倉に移行してわかるのは、換喩が音韻に傾斜するとき(というか、音韻意識がもともと換喩的なのだが)、同語か類語かの選択で葛藤が生じるということだ。類語・縁語の連接が語のあいだの虚無をこすれあわせ音色を発する逆転をみちびくのにたいし、同語の連接は、自己再帰性の形而上学を練磨する。ここでは貞久秀紀を例示せずに、松下育男の『榊さんの猫』(77)所収の詩篇から拾ってみよう。周知のように松下詩は基本的にはことば数がすくなく、そのなかで同語使用をなるべく回避することで認識のひろがりをつくることが多いから、以下の詩篇は例外に属する。



【椅子は立ちあがる】(全二聯中の第一聯)

椅子は立ちあがる
椅子は椅子の中から 椅子でない所へ立ちあがる
理由は 足もとから
立ちあがられた
その分のはずみで
椅子は立ちあがる
椅子であったことがあった
その年月を束ねる
それでも束ねられなかった所から
椅子は
立ちあがる
椅子は 椅子であり
椅子でない
曲り角を曲る時に 曲り角も曲ってしまうので
いつまでたっても
ここにいる
ことの
ないように 椅子は今
立ちあがる



なにがいわれているのかわからない、と一読後かんじて、慌てて読みなおすだろう。そのとき「椅子」といわれているものが、定着に倦み「椅子」と属性をおなじくする人間ではないかという疑いがもたげてくる。自同律が矛盾律になる契機がともあれ椅子で測られているのはたしかで、そのとき松下が用意しているのが自己年月の否定なのだった。

そういう決意があれば椅子もしくは「椅子性」は自己離脱をしるすべく「立ちあがる」ことだけはできる。では詩篇のこの部分で、「立ちあがった」あと歩けるのかというと事態はおぼつかない。うつくしいが怖い詩句、《曲り角を曲る時に 曲り角も曲ってしまう》の自己再帰性は、空間を移行することそのものが深甚な錯綜をおびることを指摘している。いずれにせよ「椅子」という同語を反復させることで、自己再帰性のあやうさにまつわる哲学を、この詩が提示しているのは疑いない。「同語の使用とは、縁語使用の幸福にとおく、おなじものを踏み破った悔恨につうじる」。だから同語使用には間歇がひつようなのだ。それとここでは改行が呼吸=気息の単位にはなっていない。そう、認識の単位になっているのだ。

おなじく「曲り角〔まがりかど〕」の語をつかった松下のうつくしい詩篇を召喚しよう。ここでは換喩原理で詩行がすすむときに、同語ではなく縁語が遅延しながらやわらかく立ちあがってくる。「ぬれている」「海」「うみどり」「ぬれて」「しずく」「すいへいせん」「あお(ば)」「なみしぶき」というように。改行原理はやはり呼吸ではなく認識の分節単位といえるが、裏からかんじられる作者の「呼吸」は、さきの「椅子は立ちあがる」よりも随分とやわらかくなっている。そのことと音素そのままの文字であるひらがなの使用が相即している。この換喩性からは虚無がほぼ消滅している。



【ゆうびんうけが ぬれているのは】

ゆうびんうけが ぬれているのは
ふうとうのなかに
海がすこし はいっていたからだろうか

きみのうえで
そらはあくまでも
たかく
あてながきの まわりを
うみどりが きもちよさそうに とんでいる

びんせんを ひきぬく きみの
ほそいゆびも
もちろん ぬれてしまい
しずくをたらしながら
ぼくのおもいを
よみはじめる

めを とじれば
すいへいせんが ぐっときみへ
ひきよせられ

きみのからだに まきついてゆく

よこはまし
あおばく

きみがすむ まちでは
いつも
まがりかどの むこうから
なみしぶきが
くる

――『きみがわらっている』(ミッドナイト・プレス、2003年刊)所収



換喩詩における、葛藤をふくんだ同音の使用が、形而上学を引きよせる例を、いまひとりのすぐれた詩作者からみよう。柿沼徹『ぼんやりと白い卵』(書肆山田、09年刊)から詩集題名の由来となった詩篇を引く。



【コバヤシの内部】

眠りから放り出されると
昨夜の会話の足跡のように
食器が散在している
明け方の食卓

その上に
一個の卵がある
傷ひとつなくそこにあることが
うす暗い光のなかで
私に向きあっている
それ以外は夜明け
底知れない夜明けだ

ぼんやりと白い卵
せめて呼びかけてみたい
例えば…
コバヤシ、と呼んでみる
と、それは
見たことのない一個にみえる
手のひらのうえの
コバヤシの固さ
やわらかな重さ

コバヤシを床に落とす
コバヤシは落下のさなか、ま下に
今を見すえる

耳のなかで
かすかに列車の音がひびく
コバヤシが
床に乱れているコバヤシの内部が
明け方の光をうけている…



「例えば」と前提したうえで、白卵にコバヤシの名称がいわゆる「命名過剰」や「悪意」によってつけられたことから、モノが二重化する恐怖感覚がつづられる。それでも出てくる「一個」の措辞こそがほんとうは怖いのだ。卵は落下したのだが、「床に乱れている」のは「コバヤシの内部」。このとき葛原妙子では残酷で放りだすような無邪気さで発露していた「見なし」が、「見なし」内部の自己再帰性によって、それじたい対象を破砕する哲学がみえてくる。ところがそれは時間=「明け方の光」によって荘厳されるのだ。なぜなら、思念それじたいが自由度において無謬だから、というしかない。

この詩篇にいちど出てきた存在不安の措辞「ぼんやり」は時間の継起性把握にさいし柿沼のなかで決定的になる。「ぼんやりと――している」という構文は、その内実「――」の真偽を宙吊るのだ。それこそが時間のなかにひそんでしまった対象をあらわすにふさわしい構文だ。そうした哲学をいうために柿沼は飼い犬だった「コロ」、「祖母」、「父」に落差をあたえている。同時に、英語にあるような構文、「He has been dead for three years」がいかに奇妙かもえぐっている。

つまり保健所で始末された往年の飼い犬についての述懐とみえる以下の詩篇は、死にまつわる構文の偏差につき、哲学的に思いをめぐらした峻厳な詩篇だった。その哲学性によって、実はここには人称や命名されたものにしか同語が重複しない。それでも暗喩を生成しない「読んだまま」であることから、一篇を換喩詩とよぶしかない点が肝要なのだ。けれども吉本のいう自己表出の痕跡も見当たない。上の詩篇で「コバヤシ」が連打されたときの自己表出性はすべて抹消されて、指示表出だけがしずかに横たわっている。むろんおそろしい悲哀が穏やかな「声」「呼吸」の全篇を貫通してもいる。松下育男がいたった流儀と柿沼徹の身振りは共通している。そして峻厳にも、「リズム的場面」の共有性は松下の詩と同様、「ほぼ」壊滅している。あるのは、ことばをくりのべる場のやわらかさだけだ。この「だけ」の限定辞には虚無がひそんでいる。



【コロのこと】

庭先に「けいとう」が咲いていた
命令した祖母が
玄関の前で見送った

自転車に乗って
コロをひっぱっていく
父の後ろ姿
しがみついて瓦解できるような
大きなしくみは見つからない

保健所に着く前に
コロはいくどか座り込んだ
犬でも事情
はのみこめるから
抵抗したんだ、と
あとで父は言った

あれからだいぶたった

いまだにコロは死んでいる

その背後からこちらに向かって
祖母は死んでいる
父はぼんやり死んでいる

――『もんしろちょうの道順』(思潮社、2012年刊)所収



音韻意識を除外しているようにみえて、そこにしずかな音韻が透っている。現代詩の達成の一端は、あきらかにこういう表情の詩篇にある。この柿沼の一篇にいたり、「自己表出=音韻」/「指示表出=音律」の二分法が現代的に崩壊している。そうした崩壊がしずかでふかいことは、むろん柿沼の世代だけの特徴だ。
 
 

2013年05月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

めもり

 
 
【めもり】


あれやこれやのことなるながさを
ものさしがはかりだすわけではない

むしろすべてべつなるものによって
おなじみずからをものさしはきめられる

たいくつな目盛をくりのべるのみだから
日に日に移る遊牧にもそれは沿えない

ひらきゆく記憶とともにうかぶ法悦の顔も
配分としようなら気持わるくなるだけだ

いまごろはあの地をあじさいが彩るだろうが
にじんでいる球に縦を刺すのもむずかしい

ひとつめのとなりにただふたつめのある
そのことがなんの虹も内包しないから

ものさしはその目盛でおのれがはかれない
棒立ちにしるされる順序もうすくなるだけで

目盛がありつつ眼のないことのほそながさ
その上下すべてにはひかりなく縦が垂れている
 
 

2013年05月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

ぼんやりと青味

 
 
【ぼんやりと青味】


もちづきならそのあかるさからして
あの天上の過半をおおってもいい

じっさい画家にそう夢みられて
おおくの夜空の絵がえがかれてきた

それは天心に、はかない鏡をおいて
あおみがかった時間をみおろすことだ

とりわけおぼろなひかりに殴られて
ひと肌にうまれてくる痣のうつくしさを

布が皮膚をきりつけたまま癒着して
ころものつつみになったひとの円筒を

ぼんやりひえた縦としてみつめるとき
こころのかんじられない距離がこのみだ

月光のなかにそもそも痣や円筒がおりていて
ものもまたそれらで鋳られ反射をうしなう

すいこむだけのすがたじたいホトに似て
ぼんやり在ることが叡智につながっている

せんせんと鳴りつづくひかりのよわさでは
まずはにおいらしきものがほどけてゆく
 
 

2013年05月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

けいとう

 
 
【けいとう】


ほとんどもう筆記用具ではかいていないのに
十四五のころにできたペンだこがきえない

たてひざをひらいた脚のすぐまえで
つづったものをもやしてじぶんをささげた

とあるギタリストの流儀だ、けむりがながれ
やわらかな花びらがみえなさにまぎれる

じぶんであったものがじぶんのいまをみちて
それはだれもとおらない橋がいちばんの橋

であることに似ていた、けむりがながれ
橋は空域であるみずからに蝶を放っていた

ほとんど眉墨でひたいをかざっていないのに
十四五のころにできた異相だってきえない

じぶんとじぶん以外が浸透をくりかえすとき
そのふたつのぎりぎりの境がはりつめた

あれもじぶんなのか、あおやみどりの
おくゆきにかんじる十四五本のりょうかん

むすうのからだかもしれないとおそれても
ゆびにかたどられた胼胝のようなものはひとつ

それでもひとをふくろだとおもいかえれば
けむりがながれ、橋を幽体がわたっていった

すくなくとも十四ある、算えかたでは十五
面のはなしでもあり性のはなしでもある

あふれることは小数点以下をきりすてるのだが
きりすてたつながりものこり、憶えきらない

あいまいをおさめていたのはいつもけむりだ
おぼろなからだだったからこころをみつめ

字づらがまぎれる直前に十四五としるして
とどのつまりはひとつをもんだいにしていた

せかいはこのことを中心にまわっていたな
ひらくとてのひらもうすあかく円かった
 
 

2013年05月27日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

日の舟

 
 
【日の舟】


てもとをみおろすことが底をみている
しごとのからだがもんだいなのだ

みずがわれてうまれる断面は鏡だから
ゆらめくものにばっさりと切られてゆく

いかりをおろすいとまがあればこそ
欠かれるいまにただよいをつなぎとめて

それでもひだりめが随意なくとじてゆく
このはんぶんのねむりが木材のにおい

流木であるみずからが座立しながら
ふかい井戸との疎遠をしたためている

なんの緯度かよつづけるための中断で
しごとではなく中断がつながりつづける

洞だな、木のうつろやこだまがあらわれ
ひびき一帯のなかへとろける日の舟
 
 

2013年05月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

すりおろし

 
 
【すりおろし】


いちねんぶりに白を着た
からだがめずらしくうすい

さわっているのにちがうといわれ
しるふとはけむりたつものかな

春だからおぼろな白もたべたい
そういうとやまいもが擂られ

くうきを吸っているような
この呑みこみがいいねとわらう

わらうがそれもまたけむり
しわのふえたひだだらけの坐りだ

からだのうすさをばるこんに置き
露台としてかんじてゆくと

すまいはまえにもすすんでいるし
青海苔と鶉なら流しいれたばかりだ

へさきだな、感慨はそんなもので
うすさがうすさへと切れこんでゆく
 
 

2013年05月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

にこごり

 
 
【にこごり】


それじたいではなく、そのふるえをたべている
くずにおさめられたあめいろに透くたかさを

どこかに粉があるはずだのに口へおさめると
だしがにじみだし口腔がよくぼうになってゆく

天体のようなものがこごりに謀られている
ぎんなんがうかび繊いにんじんも春草をなす

ぜらちんに舌をまろばすことがあるきにも似て
せりのなびく川道に身をゆかす異装があわい

挽かれているなにかの魚肉その水のあじに
くちびるのすきまがうすあかりでわらうとき

にこごりのおとにたかいばしょのなみだをおもう
さだまらないかがやきを呑み眼のまえはきえる
 
 


講談社現代新書、渡邊十絲子さんの『今を生きるための現代詩』をいま読み了える。実体験と身体性、それと精緻でやわらかい詩篇の読みが縦横している、詩をとらえなおすための理想の書だ。それが瀟洒なすがたをとっているのに憧れる。それにしても、安東次男、井坂洋子などに別視角からひかりをあてるときのひそかな運動神経にうなった。中庸の徳を知るひとにみえて、捕獲者の運動神経をもつひとなのだった。あとがきに、詩篇は全篇を引用するものだ、という主張がみえ、じっさい本のなかでもそれが果敢に実行されている。ぼくとおなじかんがえ。これもうれしかった
 
 

2013年05月24日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

自己像と不可能な換喩

 
 
【自己像と不可能な換喩】


〔…〕もし、深淵の一端に意味だけをひらいている言語をかんがえ、他の一端に像だけをひらいている言語をかんがえれば、わたしたちが価値としてみている言語の表現は、すべてこの両端をつなぐ球面のうえに、この二端の色に二重に染めあげられて存在している。人間は、じぶんの〈恋人〉の現身を眼のまえにして、無限に多数の文章でそれを飾れるが、逆に〈恋人〉というコトバから無限に自在な恋人の像をよびおこせるのは、そのためだといえる。言語は、現実世界とわたしたちのあいだで故郷をもたない放浪者ににている。
(角川ソフィア文庫版、吉本隆明『言語美』Ⅰ、150頁)

過不足のない指摘だといえる――ある一点をのぞけば。吉本のいうのは、意味と像が縦軸横軸に交叉してつくる正座標のうえにすべての言語表現があって、像と意味は一種の「混合」としてそのどちらかに傾斜している濃淡をかんじさせ、しかもその表現のなかで像も意味も圧縮的に選択され、享受されるということだ。ただし、吉本はひとつのことを見逃している。像と意味がたがいに「相殺」関係となり、ぼくのいう「減喩」が起こって、言語表現が奇怪な怪物性を獲得してしまう異常がここでは話題にされていないのだ。像と意味は混ざりあうだけではない、消しあうこともありうるのではないか。

吉本の用語を借りて、像を自己表出の指示表出的な結果、意味を指示表出の自己表出的な結果、といってみる。あるいは像を隠喩の換喩的結果、意味を換喩の隠喩的な結果といってみる。ところがそこでは、世界の像をまず感官に容れ、それを外化(外延化)した主体の身体、それじたいが問われる前提があるのだ。このように言語表現には「だれがしるしているのか」の吟味が必須なのだから、意味と像との混淆ではなく、相殺がはかられてゆくばあいには、主体の危機的な抹消も付帯されることになる。

表現の自発性が不気味な自己離脱にすりかわり、発語衝動=換喩が自己再帰的な破壊になってしまう不能表現。むろん表現「内容」と表現「行為」もまた相互に隣接――換喩の関係にあるのだから、この種の表現は「脱換喩性が換喩となった表現反転」ともよべる。これは、じつは「解けない暗喩」とすがたが似てくる。

てのひらというばけものや天の川
――永田耕衣『闌位』

異常句としてだれもが震撼するだろうこの耕衣の一作を、換喩感応者なら「てのひら」「ばけもの」「天の川」という「ありえない」語の選択と順序によって「のみ」賞玩するだろう。隠喩感応者は、なんとか隠された意味にたどりつこうとする。ひらいたてのひらにある手相を銀河にたとえているのではないか。あるいは、銀漢にはいわば放精をちりばめたような空間の不連続性があって、星の点在の絶えているその「穴」がてのひらの形状をしていると直観されていて、結果、夜空にはそれじしんを蔽うてのひらが遍満しているという恐怖感覚がいわれているのではないか。いや、夜空に手をかざして天の川という巨大なものを隠すことのできるじぶんのてのひらに、卑小さから遊離する怪物性があると指摘されているのではないか、云々。

ぼくが意味を採るなら以上のなかの二番目と三番目のどちらかだろうが、たんじゅんにこの一句がひとつの意味に収斂しないと決定すれば、それで済む。だから換喩感応者がかんがえるのも次の一点でしかない。「作者」そのものが、表現された内容の換喩の位置にあって、その作者が壊れていることで、表現の意味性もここではゆれつづけているのだと。これを「像化しない自己換喩」とよびたい。

もんだいは、召喚されているはずの自己像が、自己表出側から出来している再帰的な自己像によってむざんにも消去されてしまい、「作者がえがかれているはずなのに」「読者がそれを定位できない」という、永田耕衣の掲出句からさらに一歩すすめられた条件だろう。これがたぶん「位置」をかたる現代詩のすばらしさの本質のひとつだとおもう。その逆に、たとえば大学の教員職にある作者が、職場特有の景物を詩篇におりこむと、鼻白むおもいがするのだ。「関係」をかたる詩。むろんそれはネット用語でいえば「リア充」となり、その「いい気」を非リア充はけっしてゆるさない。現代詩作者のある範疇がこの点にものすごく鈍感なのは、多くの傍観者にも実感されるだろう。以下、「いい気」ではない傑作を、いくつか例に出す。



【しずかな敵】
石原吉郎

おれにむかってしずかなとき
しずかな中間へ
何が立ちあがるのだ
おれにむかってしずかなとき
しずかな出口を
だれがふりむくのだ
おれにむかってしずかなとき
しずかな背後は
だれがふせぐのだ



《おれにむかってしずかなとき》という頭韻的なルフランに「ことば数」がついやされることから、まず「減像」が起こる。つぎに「おれ」と「だれ」とがじつは同一者で、「おれ」が問われたとき「だれ」に人称が変化したという読解が成立する。このとき主体と問われる者の同一性が設問の無効をつたえ、こうした無効性によって「中間」「出口」「背後」といった空間項までもが錯綜してくる。「おれ」をつつむ空間が、「おれ=だれ」という重複図式によって内破されるのだ。それで「中間」「出口」「背後」という空間表象にたいして原理的な審問が起こり(そういえば永田耕衣にも、《背後には髪抜け落つる山河かな》という震撼句がある)、同時に「じぶんに」「むかってしずか」とは存在のどんな態様なのかで吟味が生ずる。解は出ない。けれども「部分」の分節が連接・外延化されるときの、「指示表出なき自己表出」だけが伝播してくる。これが「像化しない自己換喩」だ。もう一篇。



【蛍光灯】
福田和夫

記憶に蛍光灯がともつている
できるかぎり記憶を遡及させても
スイツチは切られていない
記憶不明の壁の向うにも
白い光が 洩れている

ひとびとは 白い光を
絶やさなかつた 確実に毎日
スイツチを入れていた
そういえば わたしも
いつも蛍光灯をともしてきた
おもい当るのはこんな単純な事実である

有個なんて言葉をつくり
わたしは発音してきたが
出遭つている記憶は
蛍光灯をともしてきたわたしにすぎないのであつた

――『名前を呼ぶ』(77年、深夜叢書刊社)所収



70年代詩の「気風」をつたえているとおもう。現在の多くの詩のように用語が跳ねず、さもしい承認願望もなく、抑制的なモチーフがそのまま抑制的な表現に転化していて、だから行間や余白に、書かれたもの以外がさみしくきらめいている。「ことば」だけをモチーフにしない自己記録の詩は、つつましさがすばらしいのだが、このつつましさが「像化しない自己換喩」と、ここではひとしいのだ。だから戦慄もよぶ。「わたし」は蛍光灯との関係だけに縮減され、ここには一切の社会性、羨望期待性、誇示がまつわっていない。そういう自己とはなにか。あとで考察するが、これをアウシュヴィッツが明示されない/関係しない、「剥き出しの生」ということができる。しかもこの詩篇は、記憶の縮減という、プルーストとの逆の境涯についての考察へと、読者を「哲学的に」みちびく。

表現されたことがらによって逆照射を受け、作者の自己がきえることは「原理的に」すばらしい。これはむろんポストモダンが主唱した「作者の死」と関係がない。そのばあいはテクストにだけむかう解釈態度とつながっているが、むしろ「像化しない自己換喩」とは、たとえば万葉抒情歌をつらぬいている匿名表現の法則のほうだ。用例は『言語美』にも満載されている。たとえば《沫雪か斑にふると見るまでに流れへ散るは何の花ぞも》(駿河采女)〔※64頁〕。川のながれにうかぶ繊かい花弁を雪に見立てた一首だが、その光景をだれがみているのかを読み手が「自己表出」したとき、戦慄も生じるのではないか。像が浮かばないのだ。だからこの歌を鑑賞すると、読み手の自己抹消が「うつくしく」付帯してゆくことになる。

後年の『母型論』で吉本は、口唇・口腔を極点に、そこへ呼吸の喚起も繰り込み、「自己表出」と「身体」の関係を綿密に考察した。身体現象・身体形成が「創造」と不分離だという底流がこの好著には一貫してよぎっている。この点からして奇異なのは、『母型論』の源流ともいえる『言語美』に「身体」「肉体」の用語が見当たらない点だ。「だれが表現しているのか」の考察は、用語の局面に傾斜しがちだとはいえ、記紀歌謡から古代和歌まで一貫してある。ただ、「身体」「肉体」の語が書かれていないだけ、といえるかもしれない。

吉本は喩関係では隠喩を軸にして、その隠喩が破裂し部分が並列のままに拮抗するものを短歌的喩とよび、目覚ましい考察もみちきだしたが、そこではなぜか、もっと一般的に考察を枠組できる「換喩」の語をもちいなかった。ここで気づく。「身体」の語の不在と、「換喩」の軽視が、『言語美』にあってコインの表裏だったのではないかと。

主体に先験する自己表出衝動が指示表出をからげて構成的な表現定着をみる、というときに、指示表出の要素が主体の自己を抹消する「換喩運動」の逆行性がとらえられていないということだ。ぼくはそうした換喩を造語で「減喩」とよびかえてもいいとおもっているが、貞久秀紀なら「自己にまつわる」「明示法」とよぶだろう。ともあれ指示表出の盲点が自己(一人称)であり、指示表出によって遡行的に自己表出が変容するのだ。ということは、吉本は一人称を『言語美』でかんがえつくさなかったといってもいい。

ここでは「わたし」と「像」の関係をかんがえているが、さすがに藤井貞和は、一人称にまつわる「文法的詩学」を多様に考察しつくしている。「助動辞」が一人称とそれ以外で機能変化していると藤井がしめしている一例だけを、以下、文法書のように掲げよう――

 む……(一人称で)   意志
    (一人称以外で) 推量
という二つのピークが「む」にはあると言われる。同様のピークが「べし」にも見られて、
 べし……(一人称で)  意志を持つゾルレン
     (一人称以外で)推量性のゾルレン
となるようである。〔…〕

――藤井貞和『文法的詩学』(2012年、笠間書院刊)260頁

高校古典文法で「助動詞」の「む」は意志と推量の意味を文脈の個々ではらむと教示され、高校生の古典読解はおぼえた文法規則からの「適用」をこころみる。ところが藤井が強調しているのは、主語の性質によって自然に助動辞がその性質を自己分化して、それが自然に古典時代の読み手にうけとられていったという、生き生きとした経緯のほうだ。一人称が「特殊」で、一人称主語の構文が、指示表出的な構文とは別作用をするといわれているにひとしい。語り手が一人称のかたちで文にそのままに残存している再帰性は、指示表出的な論理を超越しているとしかいいようがない。

がんらい吉本も所属する「荒地派」は暗喩傾斜がつよい。ところがその党派的詩風からいちはやく抜けだした北村太郎は、社会性をもつ自己を主軸にして、世界の多様な分節を「やさしく」外延させてゆく詩作をかさねていった。北村は資質からいって「戦慄」「震撼」とほぼ関わりがない表現自足型といえるだろうが、それでもこんな自己像の抹殺をよびこんだ名篇がある。



黄が緑にちかいように
死は
どこまでも生にちかくて

きょうは一日
風がつよく吹いて
しかも
ひっきりなしに向きが変わり


倉庫、ホテル、ガントリクレーン
税関、県庁
どこにある旗もめまぐるしく揺れつづけていて

繊維の立てる音でも
けっこうそうぞうしいものだから

ひとり八階の喫茶店にはいり
ほくそえむ
つちけ色になって

――北村太郎による序数詩集『港の人』の「24」



タイトルどおり「横浜」の叙景を盛った詩篇が詩集内に序数をつけられてならんでいるのだが、掲出した「24」では認識者・北村の面目を躍如するように、世界が色やうごきや音の多様性によって織られているとする「観察者の幸福」が印象される。その多様性の芯に「死」があることもしめされている。この世界と像との安定的な布置が、最後の聯になって一転、落下する――「自己像の抹消」となって。第一聯で「死」を色によって表象するときには暗喩詩にかたむいていた呼吸が、二聯以降、視点の「隣接的」移動によって換喩性に転換し、その最後が「像化しない自己換喩」に転落的に収斂しているのだ。

この詩篇のなかの北村は「着衣」している。その着衣に反射されている「顔」が死者の色を発散することで、結像性を暴力的にほどかれる。北村の顔は一種の「糸束」へと価値下落する。ならば、「裸」に組み入れられる「裸」が脱像化する、その像の消去に「換喩的な進展」のある詩を、だれが書いているだろうか。たとえば井坂洋子だろう。

井坂の詩への立脚は箴言や散文や詞書までふくんだ多様なものだから、そのなかで性愛詩だけを強調するのは偏向だろうが、第一詩集『朝礼』(79年、紫陽社刊)、同題詩篇のあざやかなイメージと心情の「回帰的」定着からはじまった詩集空間に、恐怖感覚に富んだ以下のような「像化しない自己換喩」がまぎれこんでいるのはさすがとおもわせる。この主題も以後、連綿と井坂詩のなかに受け継がれるものだからだ。



【性愛】
井坂洋子

あなたの指と
あなたの頭とが
別々に動いている
指は指らしく
粘液をまとい
頭は
闇をかぶって
さらに狭い間道を
行ったり来たりしている



正常位性交をしているときの女性側の視点から「相手」がみられている――隠喩詩的な読解ではまずそうなる。ところが相手のうごきへの措辞は原理的・選択的・縮減的で、それゆえに「相手は像をむすんでいない」。なぜならそれは一人称にとっての相手だという、間接性の縮減を受けているためだ。一見、すべてが接触するふたつの身体の領域にあるようにおもえながら、腰を振って自分にのしかかる相手のぼんやりみえる頭部は、わたし自身の間道を往還する性器とは別に、闇に偶発的にもうけられた間道をはげしく往還していると「主体」がかんじる。性的高揚の渦中にあって冷ややかな観察力を主体がもちつつ、同時にこの詩篇がつよく捉えているのは性愛の外側にある(あるいは外側にあるがゆえに内在している)「闇」のほうなのだ。この闇が、主体そのものの結像力まで減衰させている。

むろんえがかれている性愛主体のうちのひとりが井坂自身であるかいなかは、まったく詩篇の享受に関係がない。行の生成がすごく換喩的なことだけがここではみてとられればいい。あとは性愛を穿っている「身体のあることの恐怖」を、読み手が「詩の指示表出を手がかりに自己表出すればいい」。いや、伝播されているのはやはり「書き手の自己表出→読み手の自己表出」という、それ自体が換喩的な関係だ。もう一篇、井坂の性愛詩を掲出しよう。解説は付さない。



【散見】
井坂洋子

緊張すると
むかし尾の生えていた部分が
左右になびくような気がして
落着かない
あなたは
おとこの姿で
宿した熱を敷き
くらがりを利用して
有無もなく
しんしんと行い始める
樹間を渡るときのように
いま 汗をつなぎ
肉の窪みを押しあげられる
刺激がつよくて
ほとんど何も感じなくなったからだに
ひとりずつ
心音をもどし
睡りへの勾配に向かうまで
いくどでもすがたを変える
昼の脱衣をそこに
散らしたまま

――『マーマレイド・デイズ』(1990年、思潮社刊)



「痛ましさ」とはなにか。たとえばふと眼にした低木にアケビがなっているときに痛ましいとかんじる。樹木の生の本質が果実に「剥き出し」になり、その実の割れた形状そのものにも植物の「性」が顕わだからだ。ところが実がなっておらず花の咲いていない、葉だけの樹木にはそうした羞恥がない。ならば人間はどうか。たぶんそのありようは、樹木でいえば幹と枝と葉を欠いた「剥き出しの実」として深層では意識されるのではないか。それは動作や眼差しや咀嚼嚥下などによって「うごく」から恥しいのだ。

ということは、人間は植物的な根幹・支えを欠いた「肉体だけの果実」としてそれ自身に吊るされている。人間は自分の身体をその起立から縊死に追いやっているのだ。そうした果実に眼をやれば、たとえば幹の不可視性も同時に意識される。性愛詩にある痛ましさとは、像的にはおよそそんなところだろう。いっぽう大学職員の生活を自負する高偏差値詩篇は、幹や枝を社会性のもとに誇示していて不純にみえる。「剥き出し」であることだけが、詩的真実にかかわっているのだ。そのことだけが、指示表出のなかにきえている自己表出を、読者自身の自己表出にかえて伝播をおこなう。これこそが換喩詩の読み方だ。学習効果ではなく創作原理が伝播されるのだ。そこではリア充にたいする反感が発露する余地がそもそもない。

自己再帰性と羞恥についてはジョルジョ・アガンベンが『アウシュヴィッツの残りのもの』(2001年、月曜社刊、上村忠男ほか訳)でみごとな書き方をしている。



『ヘブライ語文法綱要』のなかで、スピノザは、内在的原因の概念――すなわち作用者と被作用者が同一の人物であるような作用の概念――を、能動的再帰動詞と不定名詞というヘブライ語のカテゴリーによって解説している。うち、後者について、かれはこう書いている。

作用者と被作用者が同一の人物であることはよくあるので、ユダヤ人には、作用者と被作用者とに同時にかかわる作用をあらわすことができ、能動態にして受動態という形をもった、新しい第七種の不定詞を作る必要があった。〔…〕

これらの言語形態の意味を汲み尽くすには、「自己を訪れる」という単純な再帰の形態で〔…〕スピノザには十分でないように見えている。そこで、かれは「訪れるものとして自己を立てる」や「訪れるものとして自己を示す」という奇妙な連辞を作らざるを得ない〔…〕。(149-150頁)



〔…〕詩的体験は脱主体化の恥ずかしい体験であり、臆面もなく完璧な脱責任化の恥ずかしい体験である。そして、その体験はかれの発するいかなる言葉をも巻きこみ、この自称詩人を子供たちの部屋よりも低い地位に置く。(152頁)



はじめのほうの摘記は、平安時代の助動辞の機能・意味分類をめぐる、前述『文法的詩学』での藤井貞和の記述と、ふしぎに共鳴する。藤井は『竹取物語』を例に出している。以下〔藤井による、創意的な=平安時代当時の「現代語性」を蘇生させる見事な=現代語訳は省略する。〈 〉は藤井の注意付与〕――

 われわれが苦労するのは、尊敬語、謙譲語に上接または下接する「す、さす、しむ」が、本来の使役か、使役を利用して一段と高い尊敬語、謙譲語へと変えているかの判定である。
 かたちの上では区別が附かない。

 御門、かぐや姫をとどめて帰りたまわんことを、あかずくちをしくおぼしけれど、魂をとどめたる心地してなむ帰ら〈せ〉たまひける。(『竹取物語』「みかどの求婚」)

 帝がかぐや姫求婚に失敗して帰るところに、「帰らせたまひける」という「せ」がある。帰ってゆくのは帝そのひとであり、だれかに命じて帰らせるのではない。自身が帰る。なぜ「す、さす、しむ」は、使役の助動辞であるにもかかわらず、尊敬表現にもなるのか。〔…〕
 貴人が他人に命令するのではなく、「ご自身に命令される」と考えたらどうだろうか。
(347-348頁)


自分自身をうごかすときに再帰表現が強調され、基本文法が逸脱拡張するという点で、スピノザのかんがえるヘブライ文法と、『竹取物語』の帝を主語にした文法――つまりは下層視されるユダヤ人と高貴のきわみの天皇が同等なのだった。このふたつの領域を貫通する「人間のよびかた」が「聖なる」と「不可触」を同時にしめす「ホモ・サケル」で、ホモ・サケルは再帰構文によって文法化されるのではないだろうか。

アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』はアウシュヴィッツの獄吏(SS親衛隊)、生き残った者、無惨にも死んだ犠牲者の、何重にもわたる証言不能性――その精緻な考察だ(「表象不能性」を旗印にしたクロード・ランズマンのドキュメンタリー『ショアー』とは立脚点がまったく異なる)。寓喩的アガンベンから政治的アガンベンへと架橋した初期段階の画期的な考察のひとつ。そのなかで生の徴候を完全磨滅され、気力と倫理的判断力をうしない、動作が緩慢化し、恥辱にみちた悪臭をはなつしかなかった死の直前のユダヤ人たち(かれらはSSによって「回教徒」と綽名された)にかかわる衝撃をあますことなくつたえる。

証言不能性に貫通されたものが、なお再帰的に自己を語ることはできるのか。あらゆる社会性(身分、職業、属性、性格、出自など)を除外され裸の「剥き出し」となった身が、その「からだのまま」を綴りだすことができるのか。実際は『アウシュヴィッツの残りのもの』には「生き残ったひとびと」の証言不能性にみちた/証言不能性にあらがったことばが数多く蒐集されていて、息もつけないが、そのうちとくに「からだ」が主体に語られることで、主体が結像不能になってしまった痛ましい自己証言を、ひとつだけ以下に引こう。



わたしは回教徒だ。肺炎の危険から身を守ろうとして、ほかの仲間たちと同じように、からだを前にかがめるという独特の姿勢をとり、肩甲骨をできるだけ張って、両手で胸板を辛抱強くリズミカルにさすった。ドイツ兵が見ていないときは、そうやってからだを暖めていたのだ。(225頁)



衝撃を受けるのは事実の悲惨によってのみではない。自身を語るとき、「回教徒」という虚偽の綽名で自身を代用的に語ったのち、精神ではなくからだを主体としてしかものを語らず、そのからだが再帰的仕種をかたどるのみで、そのしぐさの「影」に「顔がきえていること」が、根源的な衝撃をつたえるのだ。しかしそれは「アウシュヴィッツ」という条件をぬけば、井坂洋子の性愛詩に換喩的に表現されていたものとかわらない。「剥き出しの生」とは自分の社会性を抹消したのちのあらゆる局面に、修辞的には再帰性をともなってしか表現できない、自分が自分を吊るす「換喩」として到来するのだ。

ところが本稿冒頭に引いた吉本『言語美』の一節に反するように、像と意味は、「剥き出しの生」においては調和しない。相殺を余儀なくされる。だから井坂の性愛詩は、相手を(動物的に/理知的に)感知することによって、自己像がきえるという熾烈な運動を経由するだけなのだ。これとおなじことが、かわいた換喩詩の名手・川田絢音がじぶんの妹についてしるした詩篇にも起こっている。気をつける必要があるのは、妹がそこで「剥き出し」にさらされているのみではなく、反映的に川田にちかい詩篇の主体も「剥き出し」によって、非像化している、その愛情ぶかい共同性にたいしてだ。



【春】
川田絢音

乳房は片方だけ
髪は枯れ
声も出なくなってしまった
追いつめられて
半身〔はんみ〕の妹が打ち沈む
心によって滅んでゆくということがあるだろうか
青鷺とわたしと
妹の暗い響きに浮かんでいる
湯は
崩れあふれ
月は満ちる
ただならないものを緻密に吹いて
その枝が
心を忘れよ と
わたしたちに差しのべられている

――『それは 消える字』(2007年、ミッドナイト・プレス刊)

「ただならない」のは脱像性が妹を起点に、崩れる「湯」や(腕に似てくる)「枝」にひろがって、そのなかで露天の温泉で妹にはだかで対峙しているはずの「わたし」の像も消去されてしまう点だ。乳がんで片方の乳房を除去したことと、はだかが、そのままに哀しいだけでなく、「剥き出しの生」が脱像性を分泌してしまう人間の真実が苦しいのだ。この詩篇には背徳はないが、いましるしたことはポルノグラフィにまで適用されてしまう。もう一篇、同様の「妹」を換喩的に詩化した川田のことばを摘記して、この稿を閉じよう。ことばがことば以前に帰ろうとしてみずからゆらぐうつくしさを賞玩されたい。



【妹の庭】
川田絢音

露天の湯に
妹が ぼうっと
魂の裸かで暗く満ちている
長いため息のなかで
解きほどかれ
忘れ
沈められているものに 養われてもいるのか
今は
胸の崖にぶつかり
突きささった崖を崩して流れでていくことができない
行き詰まらせ
見分けがつかないほどこなごなにして
息をあつめることができる
どくだみの白い花が
煙のような姿を護っているが
くり返しに まどわされて
どのようにしてそこを出られるのか
牛蛙の警告が
光る

――『雲南』(思潮社、2003年刊)
 
 

2013年05月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

一折

 
 
【一折】


みずを打ったようにしずかだ
これを、油よりもしずかだにかえてみると

部分をつないでいるけしきが油状にとろけて
しずかさとは黄金にある多彩だと知る

ここからあそこまでを油がわたり
さしいれる口もきらきらする

およぎからひろがる油紋がとじて
そのとじる合掌形にからだが吸われ

一折の固定がどこにもみえなくなる
きざまれる樹影のなかへまぎれるかたち

なたね油からもろこし油へとよぎるのだ
しぼったばかりのかおりで気配をみたして

つれの後姿がかたどるおおきな尾鰭へ
油を割りこんでゆくさきをかさねあわせる

だれかのたいらになったというのだろうか
他人の一行を横にみることからはじめる

池がひそめている横臥へのしたしみに
それとなく、うくことの油も反って

かあぷはいつでも遅れてきえるが
ひとしずくだけ多い恥しさがのこる
 
 

2013年05月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

広場についていわれること

 
 
【広場についていわれること】


そうさひろばがきっさてんだ
こんなふうに三々五々あつまって

ひのひかりによってはあおくみえる
くさを煎ったのみものを喫して

しりょくが旧に復したのをいいことに
からだにゆっくり色をまぜてゆく

三々五々はかぞえると十六人なのに
ふと十五人のかんじがするのがこわい

ひとり欠けているのだこれがひろば
たりないものをかがやかすそのために

ぼくらはあおくみえるのみものを
減数刑ののみどにながしこんで

みやるひとみもなみだに似ているが
このいきている日を失禁とはよばない
 
 

2013年05月20日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

「阿吽」第八号

 
  
土曜日に、北海道・北見が拠点、綾子玖哉(金石稔)さん主宰の詩誌「阿吽」第八号が届いた。その第一号では笠井嗣夫さんがぼくの『頬杖のつきかた』を絶賛してくれた、存続が嬉しい詩誌だ。

「阿吽」は同人誌ではない。編集部が書き手に毎回依頼して誌面を構成する硬派な「作品特集」雑誌だ。その「自由」度がすばらしい。だから書き手も小詩集とつながる連作形式で、字数・行数任意の依頼に意欲的にこたえている。ぼくも以前、「阿吽」の誌面を20頁以上、「占拠」してしまったことがあった。

びっくりしたのが「寡黙な」近藤弘文さんの詩が連作形式で大枚16頁にわたり、掲載されていること。松本秀文さんも相変わらず「阿吽」命、みたいで、こちらはもっと多い48頁の大作だ。

その他にも紙田彰さんの87年の未刊詩集が32頁、たなかあきみつさんのヨシフ・ブロツキイの訳詩集が26頁にわたり堂々掲載されている。

一篇単位の掲載にしても大作がそろう。平川綾真智さんの10頁、藤原安紀子さんの8頁、がそう。こういった大盤振舞だから、全体頁も200頁になんなんとする。これで定価千円は安い。安すぎる。

ぼくの掲載詩篇は「岸辺出し」というタイトルで、これは6頁の掲載。ネット未発表で、聯数の自由な二行聯詩という、現在の連作の端緒となった愛着ある作品だ。仮構=擬制形式で、ススキノで出会った女とのゆきずりの性愛をえがいている。わかるひとにはわかるかもしれないが、同時に過去(の方法)との訣別をしるし、ぜんたいに悲哀感が浮上するよう目論んでいる。

いずれ、この号の「阿吽」は5-10部、ぼくのもとに追加郵送される。いつもは詩の好きな学生に残部を配っていたけれど、この号ではほしいひと(詩作者)からリクエストをつのろう。メールください。

「阿吽」の誌面をみていると、最近の詩状況が「詩手帖」などとはべつのかたちにみえてくる。それぞれの詩は、上に言及しなかった高塚謙太郎さん、海東セラさんにしてもそうなのだが、モチベーションが「ことば」にあって、自分の身体の「記録」ではないようにみえる。そうなるとことばが壊れなければ、「詩を書くことの羞恥」が打開されてゆかない。だから詩作の原動力が自己破壊、それにある厚さと薄さの検証といったことになるのではないか。詩の現状に危機をおぼえずにはいない詩作者の、そういった気概がよくつたわってくる。

このなかで散喩ともいうべき書式にいつもつうじている藤原さんの詩篇が、とりわけさすがだとおもった。自分の詩篇も、彼女のように成熟しているだろうか。ご叱声を乞う。
  
 

2013年05月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

顔のきえている状態

 
 
【顔のきえている状態】


くらやみにいちごをほおばるよろこびで
ほねのすきまがおもくみたされてゆく

舌と口腔はあまい酸にぬれながら焦げて
あじわうとかんじるのあいだがきえる

眼がひかりだすようなのでそれを伏せると
たべるごとにある自裁がしばしうつろう

色ある異物をとりいれているこのからだも
はじまりだった実もやみにみえないのは

いわば貫通が身の管をさばいているのだ
だから食餌が格下げへとかわってゆく

いやしい、はずかしい、この汁がすべて
わたしは性の者でありやみにめくれている
 
 

2013年05月19日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【に】


はじめにふみこんだ足が後悔にそまる
ろうかの端の春田のようなところに

まどがあるのは眼にはよいきざしで
足をいなむためにやなぎがゆれている

ずぶずぶとあることがゆれることになる
それがからだにひそむあまたの序曲で

こんなふうに「に」ばかりをいっていると
やがては「二」もじぶんにはっきりする

きみの方角になにをたてているのだろう
じぶんのからだをいまの窓辺において

たくわえる回路がたらなくなった弱電の
ひとみたいによわいしめりをつたえている

裁たれるまえに布がみな矩形であるのは
からだのほんしつにたがえていて恐ろしい

しかくがくずれてりったいにふくらむとして
きみの着た窓もそれで服になりやなぎがみえる
 
 

2013年05月18日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

像と自己再帰性

 
 
【像と自己再帰性】




磯があって、海があって、白波が立って、吹き荒れる曇天を鴎がゆく…といったように、展開がそのまま視覚像に還元されてゆくような書き物がさほど上等だとはおもわない。「みえるもの」「みえないもの」が一種刺繍されて、それが織物になってゆくことが、書かれるもの特有の景物性だとおもうのだ。「織物」といえば、吉本隆明は、文学作品は自己表出と指示表出の経緯で、濃淡をかたちづくる織物だと喝破したわけだが、いずれにせよ、書き物はちがう二原理が拮抗し、せめぎあう場としていつもある。

正岡子規『病床六尺』にある一首《瓶にさす藤の花ぶさみじかければ畳の上にとどかざりけり》も、たんなる「写生」短歌ではなく、病床に仰臥する子規のひくい仰角視線を解釈に抱き込むのが通例だ。このときおもわれる子規の「位置」が、一首から読者がかんじる視覚像を矯める。藤の花ぶさの尖端と畳とのうすい隙間がそれでかがやく。ところが藤そのものの実在がそうして隙間の出現に転位したとき、「みえること」は「みえないこと」に微妙に浸食される。隙間ほど、みているのかみていないのか不分明になるものがないためだ。それで気づく。作者の位置を読解が自己再帰的に反映すること自体が、すでに「みえなくなる」ことを読解に生成するのではないかと。

吉本隆明は『言語美』で、「像=イメージ」を分析するにあたり、書字ということを前提にもちだす。指示表出で眼前にある「あれ」を喚起するときには、実際は像のもんだいが起こらない。視線を向ければ対象が実在するからだ。ところが書字されたものの原則は、えがかれた対象が書かれた紙から隔離・断絶しているということ。それでいわば補填が起こり、像らしきものがそこに代位されるようになる。



おそらく文字は、たんに歌い、会話し、悲しみをのべていた古代人が、言語についてとても高度な抽出力を手に入れたとき、はじめて表記された。語り言葉、歌い言葉との分離と対立と浸透とのわかれは、文字の出現からはじまったといっていいほどだった。(角川ソフィア文庫版『言語美』Ⅰ、110頁)

文字の成立によってほんとうの意味で、表出は意識の表出と表現とに分離する。あるいは表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつようになったといってもよい。言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめてほんとうの意味でうまれたのだ。文字にかかれることで言語の表出は、対象になった自己像が、じぶんの内ばかりではなく外にじぶんと対話をはじめる二重のことができるようになる。(同)

書き言葉は、〔…〕語につかえるのではなく、言語の自己表出につかえるようにすすみ、語り言葉は指示表出につかえるようにすすむ。(同)



あたりまえのことが指摘されているようだが、ちがう。書かれていることばは、実在しているもの(の喚起)を担保にしている。それが書くときの発語の原型だ。書かれていることばが現在形を装着していても、じっさい書かれてあることばは、実在しているものと僅少な時差をえがく。あるいはただ眼前に実在する/した外延と、書かれてあるものが展開されて生じてくる外延には決定的な落差がある。実在的な外延には「語順」がないのだ。むろんそれは視線を投げかけた順番でもない。意識が統合したという意味で、濾過ののちに現れる語的秩序そのものの組成だ。自己表出は内部的な吟味を契機としているだけで、書かれなければ指示表出を織りこまれた組織体にもならない。このように、吉本のいう書きことばの機能を、さらに敷衍することができるだろう。

とうぜん原理的な「分類者」吉本は、品詞分類と像の形成力の相関について、思考を研ぎ澄ましてゆく。



品詞区分をかりていいなおせば、名詞から副詞のほうへ、いいかえれば、指示表出からしだいに自己表出へアクセントをうつしてあらわれる言語ほど、〔…〕像の表象力や喚起力は弱まってゆくことが手やすく了解される。助詞とか助動詞とか、感嘆詞のような自己表出語は、それ自体で像を表現したり喚びおこしたりする力をもたない。(Ⅰ、113頁)



「助詞」「助動詞」は、「みたもの」=「指示表出の根源」=「名詞化されうるもの」を構造化する骨格そのものであり、しかもその骨格化に自己表出的な衝動が隠されている。となれば、書きことばが、「みえるもの」「みえないもの」の相互で織られるのは、文構造の必然ともいえる。あるいは「助詞」「助動詞」はニュアンスの精密な付加を果たす。ところが事物ではなくニュアンスは「みえてはいても書字再現が困難」ということだろう。むろん文学的作品は「視覚像の産出」だけに拘泥などしない。「ニュアンス」を展開のなかに分離的にちりばめてゆく「構成」が、たとえば小説の原理だったりする。

以前に書いたが、吉本は動詞を指示表出性のたかい品詞に分類している。ところがたとえば「はしる」は他の動詞と言い換えがきかない。身体を基盤とする動作動詞は、語彙がすくなく、結果、さまざまな動作の態様に濫喩的にもちいられるしかないのだ。「はしる」をニュアンス化するのは他の動詞との複合による。「はしりぬいた」「はしりぬけた」などがそれだ。ところが助動詞的なものと複合すれば、たちまち視覚性が減衰する。「はしるだろう」「はしらなかった」。これらはたんなる「はしる」との関係がわからず、実際はどんな動作を「指示」しているかまったく不分明で、じつはことばそのもののおそろしさは「複合」によって像の形成力がそこなわれるこの逆説にこそ存在している。



もしも言語が像を喚び起したり、像を表象したりできるものとすれば、意識の指示表出と自己表出とふしぎな縫目に、その根拠をもとめるほかはない。(Ⅰ、114頁)

音声は、現実の世界を視覚が反映したときの反射的な音声であった。そのときにはあきらかに知覚的な次元にあり、指示表出は現実世界を直かに指示していた。しかし、音声が意識の自己表出として発せられるようになると、指示は現実の世界にたいするたんなる反射ではなく、対象とするものにたいする指示にかわった。いわば自己表出の意識は起重機のように有節音声を吊りあげた。(Ⅰ、114-115頁)

こうして言語は、知覚的な次元から離れた。像は、人間が現実の対象を知覚しているときにはありえない意識だ。〔…〕言語に像をあらわしたり喚び起したりする力があるとすれば、言語が意識の自己表出をもつようになったところに起動力をもとめるほかない。(Ⅰ、115頁)

〔…〕言語の像をつくる力は、指示表出のつよい言語ほどたしかだといえる。この意味で言語の像は、言語の指示表出と対応している。いいかえればつよい自己表出を起動力とするよわい指示表出か、あるいは逆によわい自己表出を起動力にしたつよい指示表出に起因するなにかだというべきだろうか。(同)

言語の像は、もちろん言語の指示表出が自己表出力によって対象の構造までもをさす強さを手に入れ、そのかわりに自己表出によって知覚の次元からはるかに、離脱してしまった状態で、はじめてあらわれる。あるいはまったく逆であるかもしれない。言語の指示表出が対象の世界をえらんで指定できる以前の弱さにあり、自己表出は対象の世界を知覚する以前の弱さにあり、反射をわずかに離れた状態で、像ばかりの言語以前があったというように。(Ⅰ、118-119頁)



やや視点をずらすようだが、まず「観客モデル」のもんだいをかんがえてみよう。例示した子規の藤の一首にあきらかだが、近代以降の読み手は書きことばにたいして「観客」になる。そこでは原理的な模倣(ミメーシス)の力が作動している(ミメーシスが行動選択の原理だということは現在、現代思想の分野で数おおくいわれていて、その代表格が、大澤真幸の、イエスによるサマリア人への模倣を基盤にした、「弱者へのミメーシス」だろう)。

ところがミメーシスは、吉本用語のいう指示表出を対象にはしない。つまり子規の歌でいえば読み手は「藤」にも「すきま」にも自己変成できない。それらを構造化した原理、つまり子規の自己表出のみを、読み手はみずからに内在する自己表出の感覚=衝動に生成しかえすだけだ。ということはミメーシスの作用する領域は、つねに自己表出、もっというと自己再帰性のなかにある、といえる。

これをさらに換言すれば、あらわれている自己表出とは語順であり、換喩であり、構造であり、あるいは構造に滲んでいる再帰的な自己表出の痕跡のことだ。読み手はそれを自身に装填して、「観客の位置」から「作者の位置」に居場所を変成させてゆくのだ。しかもそうできるときの鍵がさらにあって、これが語調、あるいは音韻だろう。語調、音韻とは「みえないもの」の最たるものだろうから、読み手はまさに書かれたものに伏在する自己表出に伝染するといっていい。

『言語美』ぜんたいにおける吉本の議論の錯綜は、構造や語順を指示表出としたことではなかったか。それは自己表出/指示表出どちらにも還元できない、換喩性の作動する緩衝地帯というべきだったとおもう。

それでも掲出摘記した吉本の所説に、かれの卓見が瞭然としている。たとえば吉本のいう、自己表出と指示表出がひとしい混合度になる言語の場所は、たとえるなら至高点にしかならないのではないか。「満開になった白木蓮が陽光にかがやき、わずかにそよいでいる」は過不足のない措辞だが、書かれる像のおそろしい本質をつたえない。つまり像は、指示表出と自己表出の混淆において、度合が不均衡なときにのみ、ちからづよく作動すると吉本は語っている。むろんそれは、1「よわい自己表出+つよい指示表出」、あるいは、2「つよい自己表出+よわい指示表出」、これらどちらかに場合分けされるしかない。

1の例示として次の葛原妙子の短歌をかんがえる。《青き木に青き木の花 纖かき花 みえがたき花咲けるゆふぐれ》。ここでは「さだかにみえないこと」が「みえている」。つまり像そのものの本質がみえている。「青」「木」「花」の重畳は、そのかさなりにおいて像の出現力を減衰させていて、それらをみあげるか遠望している夕暮れの作者は、書かれたものの外側にあることで自己表出力がよわい。書かれてある指示表出は重畳性から一見つよいのだが、かえって重複は弱視性を結果している。かんがえれば、草の花ではなく木の花で、青に分類されるものをひとが思い描けない点には、にわかに恐怖にちかいものまで滲んでくる。

2の例示としては、西東三鬼のつぎの一句がどうか――《われら滅びつつあり雪は天に満つ》。句跨り・一音過多のこちらは、最初の十音に自己表出の痕跡がつよくのこり、それに音数をついやしたために、指示表出となるべき「雪」の表象が雑駁、寸詰まり、あるいはべつの言い方をすれば抽象的と捉えられるだろう。ところが自己表出と指示表出の強弱、その「不均衡の均衡」が絶品で、実際は天心までみあげた雪の舞いのしろいかさなりが、「われら」の亡びのすがたと照合しつくす。結果、対象の「上方」に指示表出が起こり、つよいとみえた自己表出の根拠「われら」が弱像化する点に妙味がある。

「像」における自己表出/指示表出混合での強弱の不均衡は、「像」に消滅/再生成をうながす「傾き」とよぶべきではないか。もんだいは、「像ばかりの言語以前」という、吉本のふしぎな用語だろう。「在るものが在る」「それ以上でも以下でもない」「それ自体」。それへ命名をおこなうことには、つねに「命名過剰の罪障」(ベンヤミン)がともなう。ところが罪障は「むろん」貫徹されなければならない。このとき指示表出分野の「像」が命名原理の厚みに耐えきれず「割れる」。だから葛原は「青」「木」「花」といった原理的用語にすべてをとどめたのだし、三鬼も「天」「雪」とだけつづった。ところが三鬼はそのことで動詞「満つ」に、自己表出的な像の「みえがたさ」をも付与したのではないか。

こう指摘すれば、つぎの吉本の所感もすんなりと読者の胸にとおるだろう。



言語の美のもんだいは、あきらかに意識の表出という概念を、固有の表出意識と〈書く〉ことで文字に固定された表現意識との二重の過程にひろげられる。(Ⅰ、120頁)

このことは、人間の意識を外にあらわしたものとしての言語の表出が、じぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程と、外にあらわされた意識が、対象として文字に固定され、それが〈実在〉であるかのようにじぶんの意識の外に〈作品〉として生成され、生成させたものがじぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程の二重性が、無意識のうちに文学的表現(芸術としての言語表出)として前提されているという意味になる。それは文字が固定され〈書く〉という文学の表現が成り立ってからは、文学作品は〈書かれるもの〉とかんがえられているからだ。(Ⅰ、120-121頁)



二番目の摘記にある、《じぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程》が重要だとおもう。吉本が自己表出をいうとき、その別様の言い方を綜合すると、「前言語的な発語衝動が最初にしるす自己再帰的な体内反響」ということになる。それとぼくは作者-読者の関係では、指示表出ではなく自己表出=自己再帰性が反映しあうミメーシスが原理となるともしるした。そこに「像=イメージ(イマージュ)」がどうかかわるかといえば、像はそれ自体、自己再帰的なかさなりにおいて自己蚕食をきたし、その過程が像をさらに強度化させるという指摘をおこなってきたつもりだ。むろん文学「作品」の「書字」行為では「構成」にむけて、多くは「推敲」とよばれる自己再帰的な影もまつわる。これら何重の意味にもおいて、自己再帰性は作品から複雑に嗅ぎとられ、読者の感覚を幸福に充填するというほかはない。

構成化とは作品化のことだ。このとき吉本が構成を指示表出としたのは早計で、それはむしろ自己表出と指示表出のあいだにある緩衝地帯のことではないかと前言した。ところがこのぼくの言のほうが、ひとつの局面からは早計だということが、『言語美』Ⅱの諸部分からわかるから事態は厄介だった。



抒情詩は〔※土謡詩・叙景詩からの〕〈転換〉としてみればそれほど複雑になったわけではなく停滞したとみていいのだが、構成としてみれば表出の奥行きのほうへと立体的にのびていったことを意味している。口承時代の言語のその場かぎりの響きはなくなり、文字からつぎの文字が喚起されるかたちにはいった。詩の構成が、いわば有機的に統覚されるようになった。(Ⅱ、73-74頁)

〔…〕芸術の形式は、〈架橋〉(自己表出)の連続性からみられた表現それじたいの拡がりであり、芸術の内容は〈架橋〉(自己表出)の時代的、個性的な刻印からみられた表現それじたいの拡がりである〔…〕。(Ⅱ、244頁)



二番目の摘記は、吉本が実際にそのことばをつかっていないとはいえ、「換喩」機能をまず語り、そのあとで換喩そのものが作品化にいたる要件として「内容」をもちだしている機微がかんじられる。自己表出になく、指示表出(作品性の客観的な外観)にあるものの第一は、語順、構文だろう。換喩として衝動された語順は、自己表出の域から「即座に」指示表出の域に立脚を移す。この瞬時性が「書くことの魔術的な生成」そのものだともいっていい。吉本は芥川龍之介の次の言を引く。



わたしの並べかたと言ふのはさう言ふことを言ふのではない。「秋深き隣は何をする人ぞ」と言ふか、「秋暮るる隣は何をする人か」と言ふか、或は又「何をする人と隣りて暮の秋」と言ふか、――と考へる時の並べかたであります。つまり辞の達するか達しないかと言ふ並べかたではない、生命を伝へられるか伝へられないかと言ふ並べかたであります。(Ⅱ、248頁――吉本による芥川龍之介の引用)



ぼくはいわば自己表出と指示表出にかかわり、折衷案を提起した。「構成」にかんしては結局、指示表出の領域に位置させるのにやぶさかではないが、その単位となる「構文」「語順」にかんしては換喩が機能を発揮している以上、自己表出として惹起されたものが瞬間的に指示表出へと反転するとしるした。この「瞬間の厚み」が「書くこと」を実質化しているとさえいえる。自己表出/指示表出の刺繍的な二元論に終始した『言語美』も、実際は峻別的な二元論ではなく、折衷を志向している。それがもっとも顕わなのが、以下にある、「言語の自己表出の指示的展開」だろう。玩味されたい。



文学の内容と形式は、それ自体としてきわめて単純に規定される。文学(作品)を言語の自己表出の展開(ひろがり)としてみたときそれを形式といい、言語の自己表出の指示的展開としてみるときそれを内容という。(Ⅱ、250頁)



そうして、『言語美』Ⅱは、以下の結語をもって、いわば「創造的な中途半端さ」でまさに中断的におわる。



わたしたちは像を言語の構造にくっつけてかんがえてきた。それは、まず像を表出の概念として意識にむすびつけることによって、つぎに表出を還元から生成へと逆立ちさせることでできるとしてきた。(Ⅱ、327頁)





「像」を生成しつづける文というものは原理的にありえない。ところが「像」の形成力を減衰する創造的な工夫ならありえる。「あなたは――する」という二人称構文によって生起する事象が「同時に」読み手への「指示」とも錯視されるマルグリット・デュラスの『死の病い』、あるいはデュラスの声の交響性を導入したモーリス・ブランショの『期待・忘却』などがたちどころにおもいうかぶが、現代日本の詩作者として独自の境地から、このことをふかく思索したのが、畏敬やまない貞久秀紀だろう。まずは彼の文を引く。



 小さなことから思い出してみようと思う。ある年のあるとき食卓でワサビの葉を食べた、というほどのことである。
 それは早春のこととして記憶していたが、メモには十二月十日とあるから、その頃にはもう葉ワサビは出まわっていたのだろう。爽やかな苦みが春らしいので、記憶もそれにあわせて変えられたのにちがいない。ふだんは忘れている風味が、毎年この頃から春にかけてこれを食べるたびに思い出されるが、食べるまでは忘れていて、口にふくんではじめてああこんな味だったと思い出される。それがこのときは、その初々しく張りのある歯ざわりと風味をたのしむうちに、この香りから何か葉ワサビではないべつのものが思い出されるように感じられ、それを思い出そうとして思い出せず、しかし味をたしかめながらかんがえるうちに、それがほかでもない当の葉ワサビであることに思い至ったのである。(貞久秀紀「明示法について」(上)、「現代詩手帖」2010年6月号)



探したものが現下にあった。だが、それを探したこころもとない感覚が、充実として残存しつづける。貞久のいう、この妙な感触・感慨は、たえずこころもとない人間を肯定する世界観と接触している。何度かつかわれている「思い出される」の措辞は、よわい自発の感触をつたえていて、そこに自己再帰性がとおさからの反響という感慨をもちながらも、それが決定的な内部体験としてある矛盾が顔を覗かせている。この葉ワサビ体験を契機に、貞久は(詩)文の自己再帰性が像を減衰させて不安定にゆれ、その「ゆれ」が実存的かつ感慨的につかまれる詩の本質をかんがえはじめる。



「枝が風にうごき、そのうごきにあわせてゆれる。」

 という文も、読者の注意は暗示された枝の「うごき」とは何であるかをかんがえたり推量したりしようとして発動するが、それが文中に明示された「ゆれ」と同じであるとわかるや否や、この文のいい表していることが結局は「枝が風にゆれうごく」ことであるのにすぎないというひとつ所に落ち着く。しかしひとつ所に落ち着きながらも、「そのうごきにあわせてゆれる」という妙な記述があるかぎりは、この「うごき」が「ゆれ」とはべつの何かであることが依然として暗示されつづけるのではないだろうか。そして、何かが暗示されているかぎり、その何かをさがしもとめて注意はうごき、はたらきつづけるのではないだろうか。

 この文を読み、この文のいい表していることがらを思い浮かべようとするとき、読者の注意はそれが単に「枝が風にゆれうごく」ことだとわかり、そのひとつ所に落ち着くにもかかわらず、この妙な記述によって暗示された何かを読み解こうとするはたらきが発動したままであるために、その何かをさがそうとして落ち着くことがない。いわば、この文のいい表していることがわかるとともに、わからないでもいるような、宙ぶらりんの不安定な状態でありつづけるのである。この文は、ひとつ所にとどまりながらうごきまわるという注意の矛盾したあり方を説明しているというよりは、ネッカーの立方体がそうであるように、文そのものがそのようなあり方になっているといえよう。(同(下)、同7月号)



散文体で書かれている貞久のこの文章そのものを詩とよべる。法則がある。同語反復の横溢だ。あるいは論理の迂回にみえて、螺旋形に進行してゆく文意が、ゆっくりとつぎの思考をつかんでゆく時間的/非時間的実質だ。ともあれ、貞久は葉ワサビ体験から、この「枝のゆれ」をつかった例文までをつらぬく感覚と思考が、文としては聞きなれない「明示法」という分類にはいるのだという。



〔…〕明示法の文では、暗示されているものがすでに文中に明示されていることを、読者みずからの注意がはたらいてかんがえたり推量したりして読みとることができなければならない。なぜなら、葉ワサビによって暗示されるものの正体を知ろうとして注意が生き生きと働きながらも、結局はそれがその葉ワサビのことだとわかるという遠まわりな発見――いわば発展性のない発見の体験は、読者もまたそのように注意をはたらかせてみてはじめて体験できるからである。(同)



「そこに在るもの」が物質性、形象、体積をともなって「当のもの」を実質化していながら、「当のもの」は「それ以外」の外延をふくみ、自己否定に傾斜している。その自己否定を掬おうとすると、「そこに在るもの」がふたたび感覚において実質化される。この感覚は、「在るもの」が「それ以内」と「それ以外」を同時に体現しているとする(古代インドの)融即哲学とつうじている。あるいは言い方をかえれば、ヴィトゲンシュタインのいう「語りえないもの」とは、まさに眼前の「それ」「それ自体」だということでもある。吉本のいう、《像ばかりの言語以前》も当然に想起される。それは、通常は気づけないが、途轍もなくかがやいているものなのではないか。貞久はこの「明示法」による言語哲学を自分の詩作へとあざやかに実践してみせる。



【石のこの世】
貞久秀紀

この石はひとよりまえからこの世にあり、ながめていてあきる
ことがない。思いがわいてくるでもなく、
 みていてこの石でなしにみえることもない。
 ここに石としてひろがり、
 みえるもの、ふれうるものとしておおい隠されずにありながら、
この石でないところではひろがらない。
 にもかかわらずあきない。そして、思いがわいてこない。

(『明示と暗示』、思潮社、2010年刊)



「思いがわいてこない」という詩句のふかさを戦慄的に賞玩すべきだろう。「石=在るもの」が吉本のいう指示表出である以上、それは自己再帰性を反射しない。それで自己表出=「思い」の外側に、存在が峻厳に存在するしかない。ところが書かれているものは練りあげられた哲学的な構文の連鎖だ。しかも「発想の詩」「換喩詩」に通常ありがちな語彙の飛躍はなく、どこまでも用語は「石」へと再帰的に着地して、みずからがみずからに重複することによって「像」を熾烈に消してゆく。みずからがみずからを蚕食する影になっているものが物質なのだ。その影は外延ともよばれる。石が石の範囲にしかひろがっていないとき、そのひろがりは唯一で、その唯一性は一面でまったく唯一でもないから、こういう感慨が起こる。

同時に構文の連鎖のなかには哲学性とともに「かすかに」詩性がにじんでいて、読者はその詩性のかたどる自己表出性・自己再帰性を伝達されて、自身のなかに自己再帰性をともす。それで「思い」がみちてくる。ところがそれは、「思いがわいてこない」という「思い」なのだ。それでも伝達そのもののゆかたな充実が読者の身体に装填されてゆく。これこそが、作者と読者とに真にあるべき換喩関係ではないだろうか。とりあえずこの詩篇では、読者は暗喩詩のように作者の手許など探らない。「在るもの」は「在るもの」としてかがやくように「みえている」。ところがその満足は、換喩が再帰性へと割り込むことで、「存在」の像を厳粛に縮減させている。ここでは語彙も縮減されていて、とりわけ固有名詞が遮断されている。

私見ではこの貞久の詩篇は、まど・みちおの以下の著名な詩篇ととおく交響している。「それがそれとして在る」ことの恐怖と充実という点で、着眼がひとしいのだ。



【リンゴ】
まど・みちお

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさと
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにもない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

(1972年)



ここでも「リンゴ」は「みえている」ようで「みえない」。「みえるもの」と「みえないもの」を考察したメルロ=ポンティが結局、「世界の肉」(世界の組成は隙間だらけなのに、その隙間は肉状に充実している)といい、「間主観性」をもちだすのは、それが「みえない」からで、その「みえなさ」が「みえるもの」すべてを高度に保証するためだ。

貞久が方法論的な「明示法」を主張するまえにも、同語反復によって語彙を限定化し、そのことで世界を哲学的に規定、そこに詩性を交錯させる独自の方法を達成していた。これを換喩というなら、換喩は想起による外延を志向せず、みずからに折れ曲がることで停滞をつくり、その厚みに世界を流入させるまぶしさをもって、世界と同等の充実をミニマルかつ極大につくりだしていたということになる。

「像」は峻厳に忌避される。「関係」の提示が主眼になる。その「像」の縮減のためにひらがなの使用が発効し(漢字はほんらい象形性をもって成立したから結像性がたかい)、音韻そのものの換喩性のみに換喩効果も限定されてゆく。しかも「改行」という、吉本なら指示表出とよぶべきものが余韻(脱視覚性)と呼吸に忠実なことから、自己表出的な「みえなさ」(透明な盲目性)を錬成しつくす。日本語の詩でこういう達成をみせるものは、むろん稀少だ。その例示――




【全体に並ぶ】
貞久秀紀

ひとり
のときひとり並んでみよう
そうおもうことがあった

並べるようにおもわれた
木や
そらにではなく
全体に
けれどみずからが
全体にふくまれるかぎり
並べないようにもおもわれた
桑をとりにゆき
ひとり
口をよごしている
ひとりよごれていると
ひとりでも
群がることができた
木や
そらとともにいて
ときに
よごれたまま
しずかにあおむいている

全体
をみずからがふくんでいる
そんなふうにもおもわれて
いつまでも
並べないのだった

(『昼のふくらみ』、思潮社、1999年刊)



「なにに並ぶのか」。「木」「そら」「全体」に、と詩篇では「明示」されている。ところが「並ぶ」にふさわしい対象は「列」を形成しているはずで、「木」がその要件をみたすにしても、「そら」「全体」といった瀰漫する形象はその要件から「みごとに」はずれてゆく。そうして動詞「並ぶ」にある実質が漂白されてゆき、結果、「並ぶ」と発語された自己表出が、「並べない」に帰着する。この相反するものの動作・動態の重複は、「みえているもの」が「みえなくなる」こと、あるいは「明示」されているものがわからなくなり、探されてふたたび「明示」の域に復帰することと同位だともいえる。

「在る私」がなくなったその場所に、肉状に充実した世界(のすきま)がかがやいていて、読みなおすほどに一篇の感慨が増大してゆくことになる。この読了直後の再読誘惑性こそが詩の本質だろう(貞久が尊敬する江代充の詩作にもそれがある)。それは読了が疲労をともなった達成感と「絶対に一致しない」詩だけが志向する秘術でもある。

貞久のこの当時の詩篇は身体的なあからさまさでは露呈していない呼吸を、その改行のなかに探ることで読解が成り立つ。それは端的にいえば、改行単位のどこで読解が「。」を打つかという試練へとずらされる。この詩篇でいえば、とくべつに打つべき「。」は、三行目「そうおもうことがあった。」と四-五行目「と/並べるようにおもわれた。」とを「。」で分離し、八行目に「全体に。」というように「。」を打つことで倒置構文をみてとれば、それで済む。こういう読解作法はおなじ『昼のふくらみ』に収録された傑作詩篇「夢」にも適用できるものだ。

措辞における自己再帰性は、主体を消し、主体像を縮減する。その縮減のぶんだけ、読者のふところに力がはいりこむ。このとき形成されるのは、読者が読者自身をみやる視覚のようなものだろう。自分の影になっている自分の視野の、原理的な親しさ。ぼくじしんも最近、ある詩篇の書きだしを《みあげることが月をみた》とした。そこでは「かれは月をみた」「わたしは月をみた」よりも「像」の形成力がすくなくなっている。むろん「明示法」そのものの、自己領域への迂回的な再着地もある。短歌でいえば、この自己再帰性は、葛原妙子につよい影響を受けた初期の水原紫苑にみられる。

足拍子ひたに踏みをり生きかはり死にかはりわれとなるものを踏む
(水原紫苑『びあんか』1988年)

「踏む」「かはり」のルフラン(リトルネロ)がやはり像の減殺効果を喚起しているが、「われ」の像が減ってゆくことにはナルシズムと脱ナルシズムの同時性がある。ナルシズム一辺倒の詩歌とは別次元のものが水原のばあい初期段階から志されているのだ。たぶんこの一首は能の足さばきを練習した過程からうまれていて、だから能役者における「自己」「非自己」のもんだいとも抵触している。結果、能役者の非自己が死の領域にひたされているというおそろしい見解までにじんでくる。

自己が自己を打ち消すことは、むろん詩のもんだいにかぎらない。まずは詩と「隣接」する箴言から例示をおこなってみよう。



三種類ある――
自分を、なにか未知のものとして見つめること
見たということを忘れること
しかし、得たものは記憶にとどめること
あるいは二種類だけかもしれない、三番目は二番目を含むのだから。
――フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』(平凡社ライブラリー、吉田仙太郎編訳、106頁)



最初に「三種類」を提示して、その二番目と三番目が類似するから、種類を二種に訂正したという「うごき」をもつ「構成」だ。吉本でいえば訂正は自己表出の領域にあるが、それが即座に「書かれて」、指示表出へと転位している。「自分」を「未知のもの」として「見つめる」ことには自己離脱、自己幽体化、離人化の契機がふくまれていて、それでもその自分は「見つめ」られる領域に一旦定位される。ところがその「見る」に「見たということを忘れる」、それでも「得たものは記憶にとどめる」というさらに二種の格言(自己法則)が重複する。すごいのは、この重複が、重複の通常に志向する暗喩ではなく、換喩として生起している点だろう。

第二項と第三項の「相殺」が意味的におそろしい。仔細にながめると、「見たということを忘れること」こそが「得ること」だという見解が隠されていて、つまり獲得の本質は喪失だという逆転がここに介在しているのだ。しかもそれは世界の事象すべてに通約されてゆくものではなく、カフカはそうした相殺をただ自己領域に限定している。このときこそ、「自分」を「未知のもの」として「見つめる」ことが完成される。ということは、数式でいうと、「3-1=1」という正解ではない数式が自己ということにもなる。なぜそんな誤謬が出来したのかというと、当初の段階で自己領域に「3」を設定した慢心・倨傲がもんだいだったのだ。カフカはこのようにして、「自己による自己の打消し」を三重化していて、これを哲学的な文章にすれば、キルケゴールでも数頁を要するだろう。そうならなかったのは、換喩のもつ喚起力が箴言に駆使されたためだ。

次は、カフカとも関連のある石川淳の小説から――



 国の守〔かみ〕は狩を好んだ。小鷹狩、大鷹狩、鹿狩、猪狩、日の吉凶をえらばず、ひたすら鳥けものの影に憑かれて、あまねく山野を駆けめぐり、生きものと見ればこれをあさりつくしたが、しかし小鳩にも小兎にも、この守の手づからはなつた矢さきにかかるやうな獲物はついぞ一度も無かつた。さういつても、弓は衆にすぐれてつよきをひき、つねの的ならば百発あやまたず真中を射ぬく。しかるに、これが狩場となると、その百中の矢はどうしたことか、まさに獲物を射とほしたとは見えながら、いつもいたづらに空を切つた。ただ不思議なことに、あやふく矢をまぬがれたはずの鳥けものは、とたんにふつとかたちを消して、どこに翔りどこに走つたか、たれの目にもとまらない。いや、その矢までがどこの谷の底、どこの野のはてに落ちたのやら、かつて見つけ出されたためしは無い。ひとびとの耳にしるくのこるのは、はげしい矢音だけであつた。
――石川淳『紫苑物語』書き出し



弓矢の名手として国の守がいて、「百発百中」がうたわれながら、それが記述のなかで次第に自己否定され、ついには矢も射止めた獲物も空中にきえるといった経緯だ。いわば貞久秀紀の「明示法」の逆がおこなわれている。古典もしくは古典的講談を模して、なるべく和語の語彙が蒐集され、七音、五音を分節単位にちりばめ、その調子によって説話が驀進してゆくとみえながら、読む者はいわば「見消〔みせけち〕」をつかまされる。この虚無感、徒労感はじっさい石川淳『紫苑物語』の総体を「矢のように」つらぬいていて、そこでは「矢の力」「歌の力」の拮抗が、中世的な壊滅感のなかで熾烈に無化される。「それでも」説話の躍動は刻々にしるされて読者を魅了するという複雑な結構に全体がある。

吉本もむろん『言語美』のなかで石川淳をあつかっているが、「小説体」よりも「話体」のつよい書き手として石川淳をとらえるだけで、「像」の消去力と説話驀進性という矛盾的両輪を石川淳の本質とするまでにはならなかった。むろん矢音だけがひびき矢が「みえない」という設定は暗喩的だが、「精神の運動」として一行目から最終行までをただ「順に」書いてゆく石川淳は、小説に「構成」(≒指示表出)ではなく、換喩(=自己表出)をもちこんだ作家といえる。むろんその換喩が空間的な隣接性ではなく「精神の気合い」に拠っているのだから、石川淳の小説は、ロマン・ヤコブソンのいう意味での換喩性を実現しているわけでもない。

最後に、否定だけが像を消すのではないという確認のために、もういちど詩を俎上にのせよう。



【韮】
八木幹夫

にらの花はかなしい
にらの茎はおいしい
にらのにおいはくさい
にらの畑はさみしい
西日にゆれるにらの花

(『野菜畑のソクラテス』、1995年、ふらんす堂刊)



俗謡・童謡的なものが北原白秋や西條八十などへとつらなる系譜が、「現代的に」模されている。もんだいは、ここでの「にら」が可視的かということだ。「にら」の語が重畳したことで、じっさい「にら」は「像」の不可視性を帯びてくるのだが、貞久秀紀的な「自己再帰」はここにみとめられない。あくまでも叙述の「並列」だけがおそるべき単純さで実現されている。ということは、たぶんここでの「像」の消滅は、構文の仕組む構造にではなく、ただ音韻のみによっているのだ。

「聴覚映像」と訳され、いまはシニフィエ〔意味されるもの〕と呼びならわされているソシュールの概念をおもう(むろんそれは、視覚映像=シニフィアン〔意味するもの〕=概念と対立する)。言語学の学術性を無視すれば、音韻もまた疑似的な、しかし視覚化できない「像」をもつのではないか。「なめらか」/「ごつごつしている」、「あかるい」/「くらい」などの弁別は、聴覚的な音の舞い込みに経験的に存在していて、むろんこれが詩作の起動力のひとつになっている。

ということは、この八木幹夫の詩篇では、平明な叙述で一旦定位された「にら」の諸相が、聴覚映像(聴像)から抹消をほどこされ、像の可視性をうばわれたというべきなのではないか。ただしこの検討にはさらに時間を要するだろう。

ともあれ、この「像」の消滅を捉えなければ、この詩篇の根源的かつ生理的な「さみしさ」が読者に自己表出しない。ところがゆいいつ、この詩篇を指示表出的に捉える見方も存在する。全体を暗喩詩とみなす、というアプローチだ。このときむろん「にら」は「人間」の表象となる。それでもかまわない、という身軽な気概が、八木幹夫の選択した措辞にはあふれている。だからこれは「みじかさ」なのに、「みじかさではない」詩なのだ。それも「みえている」のに「みえていない」ことと精確に対応している。
 
 

2013年05月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

羽田美智子vs板谷由夏

 
 
次の院生面談試験までの待ち時間ができたので、前回(今週の火曜日)の『第二楽章』の話を。

このドラマ、ダブル主演の羽田美智子と板谷由夏の相互身体性が、ほんとうに泣けるほど良い。この回では、自分の夫にアプローチをかけたという羽田の「泥棒猫」的な振舞いに衝撃を受けて板谷が、勇躍、似合わない「家出」をしでかしたが、羽田との携帯連絡で、「出会いの場所」にいるといったことから、板谷の家族ではなく、羽田「だけ」が板谷の居場所をつきとめる。幼児期の板谷がバイオリンと出会った逸話を羽田が精確に憶えていたからだ。その地での二人だけのシークエンスが放映時間の半分を占めていただろうか。そこでこの二人、とんでもない「二人芝居」を披露した。

最初は見つけられたことに嬉しさと諦念をおぼえた板谷だったが、羽田と話すうち、彼女と自分の夫(谷原章介)の仲がどう成立していったかの確認でディテールがあふれかえり、それが売り言葉と買い言葉の激突になって、ついに罵倒の応酬と取っ組み合いまではじまる。通常のドラマならそれをスペクタクルにして視聴者をゲンナリさせてしまうところだが、演出の眼目は罵倒と組み合いによる疲労のほうだ。中年の坂をのぼりはじめた二人は格闘に息切れしはじめ、羽田の「タイム」の申し出(これがすごく可愛かった)をきっかけに、ともに湖畔でゼーハーいっている。そのときふと、眼の下に疲弊の隈をつくった板谷の顔をみて羽田が大笑い、それで空気がほぐれて、また二人の仰臥や座る姿が並びはじめる。心情よりも相互の身体性のほうが優先するというこの演出は、往年でいえば『竜馬暗殺』での原田芳雄と石橋蓮司に適用されていたもので、それを女優同士がこんなにクリアに実現できたから、もう感動で泣けてしまった。

泣かせのための波状攻撃は終わらない。楽団時代の板谷の自由な感性とバイオリンの音色のすごさに本当は畏怖恐怖していたと、国際的なコンサートマスターまで経験した羽田が心中を正直に開陳する。世辞とか餞ではなく、自分の勤勉さを否定する「外部的」な存在がたしかに楽団時代の板谷だったのだ。谷原との子を妊娠して一旦はバイオリニスト生活を中断した板谷もこのドラマで初めて出産当初のことを、つられて述懐する。本当は自身もバイオリンの才を自負していて、じつは復帰しようと育児のかたわらバイオリンの練習を再開した、ところが自由だった時代のあの音色がどうしても出せなくて、それで自分はバイオリン演奏を封印した(それで娘にバイオリン修行を託した)のだと。この告白には才能と運命にまつわる悲痛さの本質があり、それでも泣けた。

この二人の長いやりとりがどう収められるのかというと、夫(谷原)のどこが好きだかわからなくなったという板谷に、羽田が記憶を誘導するのだ。「あのころ何があったのか」。羽田の助けを借りて、板谷の記憶が舟のように航海しだす。するとどの局面でも、往年の板谷と谷原がシンクロニシティの兆候をかたどりつづけていたことがよみがえる。だから板谷は家にもどったときに、叱責も気にせず笑顔で谷原とすぐに寄り添う神秘的な仕種をえらぶのだが、じつは寄り添いにおいてこの回先行していたのは板谷と羽田だった。そこに今後の展開を解く鍵があるとおもう。

羽田の視線演技(眼瞬き、伏目、視線移動)が高峰秀子など黄金期の日本映画女優のメソッドを奇蹟的に継承しているとは以前、この欄にしるした。ところがこの回の深い層で目論まれたのは、格闘しながら同調する女同士の身体に刻まれているやわらかい「赦し」の顕在化だった。そのドラマ上の同調を契機に、身体の「部分」にはさらなるべつのシンクロが起こる。おわかりだろう、あかるい、いたずらっぽい視線をしめすというかたちで、羽田の視線との「対比」を選択していた板谷の視線演技が、この局面では、羽田と「同等に」、繊細で微分的な視線演技を敢行したのだ。結果は、羽田にも劣らない、「視線演技」巧者だった。つまりドラマ上のバイオリン演奏の才が、俳優の身体レヴェルでは「視線演技」の才に、実体的に転位しているのだった。じつはそのことにいちばん泣けた。

ともあれ、このすぐれた女優二人の場面では、三回、というか三重に、ぼくが泣いたことになる。テレビドラマには稀有な福音だった。
 
 

2013年05月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

上下をわたる音楽

 
 
【上下をわたる音楽】


じゅずをのんで閊えているくび
そのかたちが上下へのびてきれいだ

じゅえりーとおもわず讃美すれば
おんなにもあるちいさなのどぼとけ

点てんとつながり輪郭となってゆく
ころなともいうべきそんな配剤に

うごきうごかない、笛やへびが
ながほそさからただこぼれてゆく

じゅ、のろんじ、おんなの部位のほそさは
あるものとないものの泣きだすつなぎめ

つなぎめというかぎりそこに目があるが
くびれていることでは上下をもわかつ

くびれは綱をひきよせて総身をつるし
じゅかはもうひとつの天上となった

ひとつめの上、ふたつめの上もろもろ
わかれてゆく縦がおんがくでしめされる
 
 

2013年05月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

十人図

 
 
【十人図】


まひるまのほのおがみえる時節となった
それらは身を十ほどへだてた処にたつ

あかるさをみずからもやしているのだ
たまゆらにしてきえぬ持続が春といえる

あかるさは複数であり光音なので
さだめられた十人くらいの起居となる

ある者が見あげ別の者がひざまずく
しぐさのしずかな展覧が眼をすいこむ

ひかりの網を着るだけだから裸身が透け
かいなをあげるすがたも骨ではなく塔

うしろの幹や葉とともにあるうつくしさを
ひとではなくかたちだとかんがえると

矯めることからしたがうことへと
こころのなかに十人図がめくれだす

はじめは図で息づく数もあったが
楽興なのだろうやがてそれがきえる
 
 

2013年05月15日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

平出隆・遊歩のグラフィスム

 
 
昨日は平出隆さんのすこぶるつきの名著『遊歩のグラフィスム』を「いまごろ」読んでいた。07年、岩波書店刊。目次の章題と幾何学的なレイアウトのうつくしさに惹かれ、「勘」で買い置きしていた著作だった。

おおきくいうと、随想にかかわる随想、だ。この再帰性に知的な眩暈の生じる仕掛けがある。第一の随想が第二の随想に到達するときに媒介されている想像力とは何か。それはどの人生にもある時空の囲い(限定)を、詩的に肯定する力だろう。しかも「日録」型随想がピックアップされ、それが「月刊」の「図書」に随想として連載する形式がとられてもいて、再帰性は微妙にずれている。

このずれがいわば襲ね模様となって、そこに高山宏なら「テーブル」と呼ぶだろう画板の矩形(それは病で仰臥生活をしいられた子規が掲げながら書いた「机」だ)、さらには「罫」や「方眼型グリッド」といった幾何学形が付随してゆく。日録や遊歩がいかにグラフィスムのうえに建てられるかを自在な類想でつづってゆく平出の文には、随想家の名文に方法論的な詩性もが上乗せされていて、その見事さに唸った。平出は、いまは詩をあまり書かなくなっているが、すこしもことばの造型力が減衰してはいない。やわらかい措辞のうちに尖ったエッジがあるとすれば、それらはみな幾何学からの原理的な由来なのだ。

出だしのほうで、「一行なしに一日なし」(一行も書かない一日なぞありえない)というプリニウスの格言に、ベンヤミンが「一方通行路」で「だが、数週間となると、どうだろう」と付け足して、それを箴言化した「書記的な」事実が強調される。平出のしめす格言/箴言の弁別法がすばらしいので、まずはそれを摘記しておこう。



〔※格言の〕「格」の第一義は「いたる」である。「きわめる」「ただす」がそこから来る。〔※箴言の〕「箴」の第一義は「しつけばり」である。「いましめる」「さす」の意味がつづく。「さす」があらぬ次元への通路を感じさせるというのは、私だけの語感かもしれない。

「アフォリズム」aphorizmeの語源探索をすれば、限界線horizeinを離れたapoもの、ということになる。このことばには、地平線horizonが隠れている。〔…〕それは、読書の宙に亀裂をひらいて走り去る稲妻のごときものであって、そのことばがなにを意味したいのか、ついには分らないことさえある。分らないが、出現して消滅するばかりの叡智のかたちは、たしかに生を変えるほどの力を示してくることがある。



出現し、消えてゆくもの。それは「こちら」からはどこへともわからない通路をもしめす。再帰性の策略に富んだこの『遊歩のグラフィスム』では、平出の書式もまた「一旦は書いて」それが消滅することで「通路」の所在をあふれさす全肯定が志されている。いろいろなものが「連絡」する。まずはグリッド(タイル)のなかに日本的裸体の土俗性を捉えた「浴室」シリーズの天才画家・河原温が、日本での名声を捨て海外渡航し、当地のことばで、それをえがく日の日付のみを精緻なレタリング文字で(無味乾燥な)「絵画」にした、「日付ドローイング」シリーズ(それは当日の24時を過ぎて完成しなければ廃棄される)と、病身の正岡子規のいとなみが二重化されてゆく。世界各地という「空間」がただの「日付」に圧縮還元される河原の「絵」と、脊椎カリエス等から根岸の簡屋で一切うごけない病床での仰臥生活をしいられた子規の所業。かれらは、いわば「遊歩」の実績/願望を、書かれるべき基底材の矩形のなかに消滅させる日録形式をとったことで、表現のありようが一致している。

平出が注目するのは、子規の画文『仰臥漫録』中の「絵」だけではない。地図やランプへの「書き入れ」が子規にとって手近なドローイングに転化していることを読者に想起させたうえで、家屋にほどこした障子硝子や蚊帳や糸瓜棚が、子規を「矩形」で取り囲み、そのグラフィスムの「装置」のなかで子規が「みえていること」を「みえてはいないこと」に架橋していった、「一方通行路」をひそかに浮上させるのだ。屋内を限定的ではあれ世界的なパサージュとした子規の逆転力。

平出の文。《ところで、子規が小さなガラス板を透かして対象を見つめていた、という話は、子規が写生になにを求めていてのことであったか想像させて、興味深い。/ガラス板の効用として第一に考えられるのは、構図を得るためということであろう。一枚のガラス板という矩形によって現実の配置を切り取るということが楽しまれていたのかもしれない》。子規の文。《ガラス障子にしたのは寒気を防ぐがためが第一で、第二には居ながら外の景色を見るためであった。果してあたゝかい。果して見える》。この「見える」には、存在がどんな原理によって世界に対峙しているかの深遠がひそんでもいる。

『遊歩のグラフィスム』は平出が河出の編集者時代にふかいかかわりをもった川崎長太郎の話題になると色調がかわる。平出においては、川崎のぐらぐらしている挙止のほうが、「私小説の極北」といった一般通説よりも優先される。脳の障害で半身不随となり、「左手」で原稿書きをしいられるようになった川崎の、フキダシと消し線に富んだ生原稿そのものにある不安定なグラフィスムは、それでも通して読むと遊歩の呼吸をみごとに一貫させている。となれば、小田原から消滅した遊郭「抹香町」の路地をあるいていた川崎には、からだが不自由になっても温存された身体があって、それはやはり「みながらあるく」ことで錬成されたものだったはずだ。このとき川崎が文学的な「書く」という用語を否定し、「記録」と自分の作品を規定していたことのふかい意味がたちあがってくる。

平出の随想がこの川崎からベンヤミンにふたたび飛び火したとき、『遊歩のグラフィスム』はプルースト的な大団円を迎える感がある。まずはベンヤミンが盟友ヘッセルの文から抜き出したことば、《私たちを見つめているものだけを、私たちは見る》に注意喚起がなされる。このことばにたいする平出の変奏が執拗で、その執拗さがじつはうつくしい――

《私たちは、私たちを見つめるものだけならば、見ることができる。/私たちがものを見るのは、私たちがそれを見つめているからにすぎない。/私たちを見つめているものがなんであれ、ただそれらのほかに、私たちは見ることができない。/私たちを見つめていないものを、私たちは見ることができない。/私たちの見ることができないものは、私たちを見つめてはいないだろう。/私たちを見つめているものを見ないことには、私たちはなにも見ることができない。/もしそれらが私たちを見つめてくれていなかったら、私たちには見るということさえないだろう。/私たちを見つめているものたちは、私たちのほかをも、見つめているのか。/見つめあっているのではない、見つめているものを、私たちは見るばかりだ。》。

事物からのまなざしは、メルロ=ポンティやラカンも考察したことで、ベンヤミン自身も、「まなざしは見つめ返される期待を内包している」としるしているが、見ることの恣意性によって世界が出現し、見ないことの恣意性によって世界が消滅する経路を平出は問題にしている。綜合すれば、視線とはいつも「創造的に」半盲なのだ。このときベンヤミン『ベルリンの幼年時代』における「乞食と娼婦」の章を過たず平出は対象化する。



少年〔※ベンヤミン〕の目の前で、街路は宗教的儀礼をこなごなにし、代りに神話と呼び交わす聖なる経験を現前させる。/「実際に目に捉えているもののうち、その三分の一は見ていないかのようなまなざしが、このときは私に役立ってくれたものだ」とは、自身のまなざしを指すのだろうか、それとも街に立つ娼婦のそれを指すのだろうか。/主体と客体とがまだ融合しているような陶酔的経験の状態にとって、それは文章の曖昧さではなく、その両方を同時に指すというべきかもしれない。〔…〕

病床での仰臥から得られた子規の限定的な視角は、ベルリンの悪所をぬけ相互値踏みの磁場にはいったベンヤミンと娼婦との限定的な視覚場に転位される。この転位に、物理的なものが質的なものに変幻する移行がはいりこんでいる。ところがそれらは時空の限定をうけている以上、薄暗くても明るみのなかにある、といえるのではないか。それが人の生なのだ。その生の質が、いわば日録の根拠となる(これは平出と親しい岡井隆にも援用できるだろう)。

平出は子規とベンヤミンの共通項をこうつづる――《子規とベンヤミンは本質的に通うところがある。断章形式を選んだところ、収集と分類に熱をあげたところ、ジャンルの畑をかまわず横切り、道のないところに道を見出したところ、道のありすぎるところにも道を見出したところ、言語と絵画の相互浸透に惹かれたところ、手当り次第に神話を剥奪していくところ、遊歩を好んだところ、などである。その詩学はともに、現実的な距離感覚によって冷却される。》

この文の前のほうにしるした、プリニウスの「格言」につけたしをしたベンヤミン「一方通行路」の箴言はこうだった。《一行なしに一日なし――だが数週間となると、どうだろう》。平出はこれにたいする新訳をみつける。こうだ――《ひと筆もなき一日があってはならぬ――とはいえ、そんな数週間はあってもよい》。この新訳から、なにか別のものが生じてくる。ぼくのことばでいってみよう――日録は創造の自然な形式だが、日録しないことも日録ととらえうる。その日録のない日々はいわば創造の緩衝帯となって、日録に励んだ日々全体を夢想的に「内部」化する。このとき「日録のない日々」の最大値を死後とよぶこともできるだろう。

平出が引用したベンヤミンからショーレムに宛てて書かれた手紙文面に、以下のようなものがあった。《カフカは究極の失敗が確かに思えてから、途上のすべてが夢の中でのようにうまくいったのだ》。カフカの全長篇小説は、完成のしるしという点からいえば失敗をしめしている。ところがその細部、その微々たる過程はすべて峻厳で精確だ。いわば失敗の壺に、成功の水が盛られている奇異がカフカ小説のひとつの眺めであり、それは表現が「内部」をもつことの恩寵をそのまましめしているといってもいいだろう。

「内部」は内部にいる人間には「みえている」と信じられている。ところが外部にいる者には、そうとはおもえない局面がある。ということは、自己を自己が査定できない以上、「内部」は内部者にとって、「みえている」と同時に「みえない」ものとしてしか規定できない。それが子規の家屋内であり、ベンヤミンにとってのベルリンの悪所の内密性であり、カフカにとっての長篇小説の「中身」ということではないか。そのどれもにたぶん、矩形やガラスがかたどられている。だがそれは表面的な事柄だ。実際は、ライプニッツのいうように、「モナドに窓はない」。

最後に日録的な表現にかかわる平出の具体的な詩論を、ややながくなるが摘記しておこう。



いったいどうして、〔…〕句集や歌集というものはあんなにも次々と刊行されてゆくのだろう。〔…〕一般的な行替えのかたちをした自由詩形の詩をあつめた詩集は、けっして循環的な時間とその日付、すなわち季節のめぐりや歳月のめぐりとのあいだに、暗黙の契約を交わしていない。対照的に句集や歌集は、客観的な(と見える)時間軸をうちにふくんでいて、この時間軸との連係が、一書の編纂にとっては大前提としてあつかわれる場合がほとんどである。〔…〕

〔…〕自由詩のごく短い散文形式もまた、大きな時間との接触において、多産に結びつくことがある〔…〕。とくに断章やフラグメントといわれるかたちに近づくとき、日記的合図とともに火花をつくることがある。〔…〕

〔…〕「一行」という短さに近づくとき、「一行」が反復を求め、多産を呼び出す〔…〕。



じぶんの詩業の質を指摘されているような気がした。自由詩はみじかいことで日録的になる。同時に改行意識を研ぎ澄ますことで、みじかくなくとも多産が生じる。それらは可視性と不可視性の織り合わせとしてあり、散文詩の乱射的な垂れ流し(垂れ流しそのものが「みえている」)とはちがう境位にあると、ぼくはこの平出の一節を志向的に読んだのだった。
 
 

2013年05月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

消長

 
 
【消長】


夜のとおくにある、遠くへの投光性
まなざしのはてが傷つくのをみている

きえるものの唯一のありかをしめし
ありえたすべてに区別がないのと似る

あれは足し算できえる諸項ではなく
引き算でのこる答がひとつだということ

ことばでもぼくらは一音をつなげるだけだ
いわばこの口がサックスをふくんでいる

あんなとおくを、またたく星ともよばない
なげられているのは悪運なのだから

夜空にへだてられた消長をただながめ
ながめる眼のうしろにはあたまをのこす
 
 

2013年05月13日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

藤女子

 
 
【藤女子】


よりほそく細くあるひとが
藤のしたに立つのはよいことだ

梳かれるための糸のたばとなり
じぶんに最後の複数をゆるしている

かさねてみると狂ってしまう図像が
こことむこうの藤棚に透かされて

あれはだれのひかりの髪だろう
ぜのんの滝はむごく静止している

撮られるためえらばれたポーズは
まつげをぬく手と眼のちかさ

顔などにどれだけの穴があるのか
うちへ指をむけるとこわしたくなる

もうもくになる潰れをそう表して
さわることがいよいよ細くなる

しかもそれはさけんでいる羽虫だ
左右の指のちいささが開閉する

藤棚にも空間があるならそんな
なみなみとおそろしい求心だろう

顔がきえ着物がみえる短冊のたぐい
そこにも隙間ある屏風をとどめて

おとろえる金箔がひび割れてゆく
ひとの連立にある藤のようなとおさ

そのひととそこに垂れている藤だ
ほそいひとはみずからでふたりいる

波を矯められている樹をしたがえ
ほそいひとは曲がりによってふえる
 
 

2013年05月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

渡辺あい・MAGMA

 
 
この土曜から映画美学校所属の女性監督計八人の短篇・中篇を披露する「桃まつり」がはじまる。今回は「presentsなみだ」、「涙」を織りこむという条件だけの、多様なジャンル、多様な布陣だ。いずれも秀作ぞろいだが、とりわけこのみだった渡辺あい監督の『MAGMA』についてしるしておく。そのまえに――

ぼくにはどうかすると、ものごとのうごきをスローモーション映像に接するように分解的にとらえる衝動の生じることがあるらしく、小学生のころ、運動会での女子の徒競走で、懸命に走る女子たちの頬が疾走の反作用でぷるんぷるんゆれているのに、わらってしまったことがあった。どういうか、すごく新鮮な「肉の顫動」で、それは存在と分離的だった。分離というからには、「女子」を貶価的にみることと崇拝的にみることとが、自分のなかでも分離していたはずだが、そういうことにはまだ性徴年齢の手前では気づかなかった。やがてそうしたひそかな眼の悦楽は女子マラソンのTV観戦で終わりを遂げる。トップランナーたちは身体を現前させながら、峻厳な一元性、つまり抽象として走っていて、頬肉のふるえはいわば不可視性の領域にはいったのだった。

渡辺あい監督の『MAGMA』は、高橋洋『旧支配者のキャロル』がスポ根のビザールな変奏だったことを継承している。十年前、有望なマラソン選手を練習中に過労死させた隠者のような元コーチが、たまたま万引が発覚して逃走する女子高生の「脚」をみて、そこに秘められた才能に惚れ込む。丹下段平と矢吹丈の邂逅を模した、そんな語りのクリシェではじまり、以下、彼=舩木壱輝(絵にかいたような美男子俳優)と、彼女=五十嵐令子(闘志を剥きだしにした表情が凛として、うつくしい)のマラソン練習生活へと、展開は急激にスイッチする。二人だけの師弟関係が一年あったと間接的に説明されたのち、そこに栄養士として舩木の元・マラソン指導選手だった中原翔子が入りこむ。疑似的な三角関係。これもサブカル的な目配せのあるクリシェだ。

瞠目すべきは、スポ根ドラマとして開始された作品が、これまた『旧支配者のキャロル』のように「あらかじめ」ジャンル崩壊/ジャンル移行する点。富士山の裾野・山中に限定された練習場所で、高低差トレーニング、高地トレーニングを励行する五十嵐は、走る自分の脇を人間的な能力を超えて走りぬける赤いランニング=短パンの長宗我部陽子と、ことあるごとに遭遇する。五十嵐の闘争本能は視野狭窄になり、長宗我部に勝つことだけが目標となる。この長宗我部こそが十年前、舩木が過酷な練習で死なせた有望ランナーだった。つまり長宗我部は、回想シーン以外は幽霊として画面に出現していることになる。

幽霊は「出る」「祟る」(非)存在であって、それが走ることは、黒沢清の『ドッペルゲンガー』でドッペルゲンガーが撲殺されたように、あるいは大島渚『愛の亡霊』で幽霊・田村高廣が饅頭を喰ったように、奇異だ。幽霊が存在の抽象化なら、走ることと幽霊の結合は、走ることを線型性に向けて強度に抽象化する。肉体が走っているのではなく、線が走っているのだ。ところが舩木がペースメイクしながら並走用に運転させているクルマの窓から、走る五十嵐、それを無下にも追いぬく長宗我部をとらえる限定的な画角のショット(撮影=星野洋行)が見事なので、ありえない美に接したような感慨になる。そこではいわば「擦過」が二重化されていて、幽霊の本質とは「出ること」ではなく「擦過すること」だという直観の倒錯が生じるのだ。

それにしても無駄のない抽象美に達した長宗我部の走行フォームは抽象性そのもののようにうつくしい。ふとおもったのが、田尻裕司『淫らな唇 痙攣』における「走る」佐々木ユメカだが、ユメカの人間的力感にたいし、長宗我部は「人間以外」の異様な直進性をその走りに実現している。したがって才能を秘めた新人ランナーの五十嵐令子は、幽霊というよりも高度な抽象性との速度競争をしいられることになる。この設定が見事だ。なぜなら「人間的な」競争心を顕わにする五十嵐があって、走る機能だけに縮減された幽霊・長宗我部の「内心」を忖度する情動が観客に起こり、結果、「抒情」が「人間の枠」を凌駕してしまうからだ。

ここまでの書き方から予感されるように、この作品の登場人物は閉鎖的に、コーチ舩木、人間ランナー五十嵐、幽霊ランナー長宗我部、それに栄養士でペンション風の合宿所のオーナーでもある中原翔子しかいない。面魂からわかるだろうが、人物の均衡性に波風を立てるのは中原だ。彼女は往年の練習仲間で、死へと駆けぬけた長宗我部に、その死後も嫉妬している。同時に舩木が寵愛する五十嵐にも嫉妬している。だから五十嵐が長宗我部を「幻視」していることを嗅ぎつけて五十嵐を挑発し、同時に走りにおいてではなく愛において勝者となろうと舩木を性的に籠絡する。「むろん」五十嵐の盗み見も知っていた。五十嵐が合宿所から出て、ひとり下山をかんがえる。こうしてトレーニングの共同性が瓦解してゆくことも中原は厭わない。つまり中原の行動原理は「破壊」もしくは「不穏の加算」なのだった。

そう書いて、この作品は「走り」と同時に「顔の偏差」を選択的に分岐させているともわかる。舩木の美男、五十嵐のスポ根ぴったりの意志をもつ美少女ぶりにたいし、のこり二人の表情に降格、もしくは交換が起こるのだ。長宗我部は幽霊から抽象へと変化するため、その表情がゼロ度になる。彼女は表情において「幽霊ではない」。対する中原は「悪心」と「放心」をその表情に点滅させ、表情において「表現主義的な幽霊」へと降格するのだ。つまり作品が隠しもつ機能は「転移」だった。「転移」はホラー映画の属性だが、同時に笑劇や感動劇の属性でもある。このことによって、『MAGMA』はジャンル分類が不能になる。

四人しか出ない、としるしたが、付帯的に登場する「モノ」がある。ランニングシューズだ。最初、コーチのいうことをきかない過度な練習で脚を傷め、また舩木と中原の性的接触にも衝撃を受けた五十嵐は、自分に馴染んだランニングシューズをストーブにくべる。代わりに靴箱にあった古いシューズを履き、ひとり下山を決意する。作品には明示されないが、その靴は往年の長宗我部が愛用していたものではなかったか。「だから」脚をひき下山をこころざしていた五十嵐がまた走りだすのだ。それは五十嵐ではなく、靴そのものが走りだすといってもいい。ここにはバレエ恐怖譚『赤い靴』からの遠い引用がある。その靴を、五十嵐、もしくは「走るもの」への嫉妬に駆られた中原が鋏で切ろうとする。そこでは「靴一般」への非人間的な貶価が起こっている。

四人しか出ない――四人が主要人物、という結構からは、原田芳雄、藤田敏八、大楠道代、大谷直子を配し、そのうちに誰が幽霊かも不分明になっていった鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』が想起されるだろう。じつは『MAGMA』には、大楠道代の「影」がまとわりついている。むろん大楠と姓をかえるまえの安田道代が百メートルランナーを演じた、増村保造の倒錯的でビザールなスポ根映画『第二の性 セックスチェック』があるからだ。そこでの緒形拳と安田の関係が、この『MAGMA』での舩木と五十嵐の関係に部分的に導入されている。

安田は『第二の性』当時は豊満な部類だった。だから描写される「走る安田」は少しも速そうではない。走るときは、頬のみならず胸を中心に全身がぷるんぷるんふるえて、それは笑いの対象でもあった。その彼女が猛練習によって頭角を現し、陸連加盟の資格を得たのち、セックスチェックでひっかかる。すると緒形が安田を「女にしようと」セックスをおこなう(これも「練習」だ)。走るロボットにしようとしていた安田が、今度は女性化される。ところがこの作劇すべてを、野卑さの印象のつよい安田の肉の豊満があらかじめ裏切っている出鱈目な無前提性こそがこの傑作の本質だった。そこには監督増村の女性への冷笑、女性価値を貶めることで逆に女性性を現実から分離する策略が貫通している。

『MAGMA』のしていることは、これと部分的に似ている。まず「走ること」と女性性は単純に結合しない。それは「幽霊性」という媒介を経て結びあわされる。このとき幽霊性が、走行性/女性性どちらにころがってゆくかで、結局は女性性に貶価が出来する「捌き=裁き」が起こるのだ。この点で、増村同様、『MAGMA』の監督・渡辺あい、ならびに脚本の冨永圭祐は「不道徳」だといえる。ところがもっと「不道徳」なものがあるだろう。

増村はロングショットで『第二の性』のヒロインの走りを撮るときは安田に吹き替えをもちいた。『MAGMA』の渡辺は、超人的な走りに達し、ついに幽霊の長宗我部を追いぬいた五十嵐の走りにコマ落とし的な速度変調をほどこした。こうしたフィルムでいうオプチカル処理的なものは作品のそこかしこに不敵に顔を覗かせる。ストップモーション、地震を表現する画面全体のゆらし、さらには唖然とする「合成」……

初見の衝撃をそこねるだろうからラストの詳細は書かないが、作品の「不道徳」は、マラソントレーニングの世界から富士山そのものに主役が「転移」することで極まる。そこではマキノ正博の「次郎長」シリーズの各ラストにあった銭湯の書割めいた富士山が、まったく別の書割に変貌する。このとき理解される――この『MAGMA』が「配剤=デザイン」において不吉さを追求する映画だったと。ひとつの「色」が富士山、あるいはランナーの頬に「配剤」される。それはマラソントレーニングに幽霊を「配剤」した、この作品の変態的なレイアウトと同位でもあった。
 
 

2013年05月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

うららかな日に

 
 
【うららかな日に】


まないたを膝において
ずっとメモをつづる

この板の淡白なうつくしさ
日のめぐりにかがやく

ぶったぎられることのなかに
書くさきをかがめている

手のかまえへさしだす
じぶんの骨の配膳と似ている

いつも携行しているものは
枝えだに透く画板ではないか

ちいさく小さくなって
なにものかに浮く生をおぼえる

けれどそのまないたは重い
割ったさかなの数ほどに

おちてくる先年を方形でうけて
ひたいにも痛みをあてている

こわきへ板をかかえつくして
ほとばしる岸を足早にゆく

ささげる文で料ることになる
おのれを以内にした譲歩を

くうかんも味なのだろうか
いつも歯痛が控えている

馳走とつぶやいてみると
おかのいろくずが鳴りだす

舌、舌。手でない部位も書く
身が胸乳でいっぱいになる

まとめきれないものがあり
まないたへ泪がこぼれる
 
 

2013年05月10日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

無数について

 
 
【無数について】


列があれば参列する
むすうとなるため

この地では遅れが生じている
たがいが気圧ということだ

かききえるうごきは
うごきのなかの逆流だから

みあげる鳥の群れがこわい
そのなかの不測の一羽が

そうだ一羽から話がはじまる
ふでの鳥影を放つ特異について

迅速を知られてはならない
だから列も員数をかくす

散弾のようにひろがるので
みしらぬ眼に掃射される

やるせない一点からくずれてゆく
その直前に見返るすがたがある

もやしかえすのは事故の一点
ほんとうに無尽なのは

ならぶものに超えて生じる
よこからのつよい接触だ

きえたあとのひかりがきえない
むすうをかぞえさせるため
 
 

2013年05月09日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

辻斬り

 
 
【辻斬り】


じぶんからスリルがきえた
うごきがくりかえしになっている

ゆきかうひとを刃でわけるが
じぶんのかたちは辻にもみたない

せめて橋へなだれこんで
水上のうすさ、そのなかにありたい

背後にかくすのが影なのだから
じっさい斬ることなど尽きている

一身のあやめをにおわせて
ただの着物にかわる日がきた

あたりいっさいの南中
ばんぶつがふかく一致している刻を

まじゅつしゃめいてまめつしてゆく
まめがないようにまほうもない

このからだは殺意の莢だ帯びている
それでも動詞でいえば葺いている

とおりぬけできるたてものだった
もう結構には屋根しかないのだ

くりかえすことで知る反響を
じぶんひとつに帯びている

スリルがきえ日の移り以上でもない
しかたなく眼のなかを閃いている

それでも乞う、ただの移りをくれ
ここからそこをからだが証してくれと

ひとをじぶんのたてものに容れて
その血のひろがりを内部にしている

これが斬ること
だれも果ててはゆかない
 
 

2013年05月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

耳にばちをあてる

 
 
【耳にばちをあてる】


やがて藤のたれる山門をくぐりぬけ
じぶんの揮発が空に吸われるのをかんじる

くもり日にあからさまにある耳の停滞
ひろいながらあるくことが瘡をふやして

札幌市指定ごみ袋のようにゆきにくくなり
がさこそと音をたてるすがたもみられる

じぶんのきいろがひとつの王字であるなら
くさかんむりをいただくまでになりたい

町には耳の接写カタログをあらわにして
たがいの耳差をむしろ失念させる罠がある

かたちが脈絡していてふくざつなそれは
音をあつめるためなにをめくれているのか

ひとに最終の境地があるとすれば
それは屈葬であってもうひとではない

それでもト音記号に似せられる上体が
ぜんたいを耳にさせるかたちの過程だろう

ずっと聴いていることとずっと視ていること
このふたつが一致する身体をさがしている

それが輪とよばれる前方のなさなのか
ならばひとは視線を内にむけて死んでいる

そういえば蓄音にある蓄の意味もわからない
あの椅子にすわっていたことがそうなのか

ひつぎのなかにあるおのれをたえまなく想像する
それでたてものをとおりすぎる中間がこわい

からだをけす文とからだをよぶうた、じぶんに
ぬれてひるがえるものがみえだしている

やがて髪のたれる山門をくぐりぬけ
うはつとうれいがひとつになる時も知る

袖と襟と裾、それらでできているあらわれ
はごろもの美とは衣をいだく手ごたえだろう

ないものなのに散文的にあふれている
なみのようなものをひかりと聴きちがえる

経ると減るがひそかにつうじるから
耳のかたちもわざわいごとに簡略になる

じぶんから色彩がながれるようゆらしてみる
このときこころのなかでは耳が像をむすぶ
 
 

2013年05月07日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

四月期新ドラマ

 
 
 
今クールは火曜日のTVドラマをとくに愉しみにしている。それで出てきた中間結論は、「女優の好き嫌いにかんして自分は理不尽だ」ということだ。

まずはNHK枠火曜22時の『第二楽章』。羽田美智子、板谷由夏のダブル主演。羽田にかんしては、このあいだ三國連太郎の訃報があったとき、森崎東の『美味しんぼ』で三國、佐藤浩市の親子共演の記者発表の画が頻繁に画面引用された。ふたりのあいだには羽田がいて、当時の女優としての彼女に悪感情をもっていたことをおもいだしていたのだった。演技力のないことが最大の要因だったが、いまでは「愛をかたる」視線に最も機微があり、同時に加齢による容色のおとろえを最も共感にかえる女優へと成長している。びっくりした。自分の不明を恥じた。

ドラマがしつらえた羽田、板谷の関係は複雑だ。往年のふたりはおなじ楽団でバイオリニストのライバルにして親友、ソリストの座を争っていたが、板谷は羽田のひそかに思いつづけていたビオラ奏者、谷原章介との子供を宿した。その妊娠を羽田が串田和美に「通報」したことから、無競争で羽田がソリストの座を獲得、以後、腕に磨きをかけつづけ、第一回放映時点ではシカゴの名門楽団のコンサートマスターにまで上り詰めている。一方の板谷は楽団を辞めて谷原と結婚、平凡な主婦に自らを封じ込めている(谷原もビオラ奏者から旅行会社の社員に転じた)。

第一回ラストシーンは、羽田が凱旋帰国をして、妊娠の告白いらい疎遠となっていた板谷と、往年のわだかまりを解き、女同士で泣きながら抱擁しあう場面。身体にいったん刻まれた相互愛着がかくもふかいのかと感涙を誘った(つまりそれは女の友情復活という理性の問題ではなく、身体性復帰の問題として見事に演出されていた)。板谷の演技にふかい情が裏打ちされ、その情の伝播力が視聴者をみたすのは彼女のファンなら先刻承知だろうが、羽田の肚にもいまでは情の力があって、ふたりがたどった警戒、対峙、懺悔衝動が「身体的に」泣きながらの抱擁へと結実するときには、ひとの身体がなにによってひらかれるかが確実にあらわれていた。物語が用意する情よりも、仕種や顔の表情の型・ゆらめきのほうが先験的なのだ。

板谷の瞳はおおきくあかるい。動物のような輝きがある(ぼくは大好きだ)。対して羽田の瞳は疲弊によってよわく薄く、そのよわさが眼瞬きや視線移動、伏目への変化により「女らしい」情緒へと変換されている。つまり羽田に装填されているのは、高峰秀子に代表されるスタジオシステム時代女優の視線演技で、しかもそれに弱体性のともなっている点が現在的なのだった。

案の定、板谷との再会は、谷原との再会をも付帯的に結果して、繊細で奔放なアーティストタイプの羽田は、俗にいう「好き好き視線」を「自制もままならず」谷原に注ぎつづけ、心中を周囲に無防備に気取られることになる。谷原も彼女から湧いてくる恋情を防御できない。しかも羽田にはコンサートマスターの座から転げ落ち、日本の往年の所属楽団に復帰せざるをえない経歴上の挫折が舞い込み、それとおなじタイミングで実母・森山良子(最初誰が演じているのかわからなかったほど、「やつして」いる)の心臓疾患が顕わになる苦境も訪れる。「守る」本能のつよい谷原のふところに羽田がなだれてゆくとき、羽田は一面では崩れた布のようにみえるが、もう一面では懐刀のするどさのようにもみえる。これこそが「魔」の状態で、周囲の理性がそれをどう査収するのかがドラマの眼目となる。むろんそうした身体上の二重性を表現できる女優へと羽田は確実に変化していた。

副筋を形成する人物に、バイオリンを羽田に習う谷原・板谷の娘(門脇麦)、それとステージマネージャー田中圭がいて、彼らの「うつくしさ」は、羽田の恋情を感知する「勘の良さ/繊細さ」に現れる。ところがその「勘の良い」人の群れに、おおらかで主婦やつれもしている板谷もさらに入りこんで(じつは彼女は気づいていた! ということ)、展開急をつげたところで第三回が終わった。板谷がもういちどバイオリンを奏で、封印した才能を復活させる場面があるのか、親友羽田と最愛の夫・谷原の恋愛推移をどう「自己抑制的に」見守るのかなど、板谷に設定されつつまだ顕在化していないドラマ上のフックが今後、開花してゆくことだろう。絵に描いたような「大人用の」三角関係ドラマなのにサスペンスフルなのは、「仕種」「表情」の繊細な展開がさらにそこへ期待されるためだ。脚本・金子ありさ。

火曜のお愉しみドラマのもう一本は、フジ系21時~『鴨、京都へ行く。』で、主演は松下奈緒。身長180センチを超えているとおもわれる彼女は、基本、怒る局面で「プンプン」とやりそうな学芸会演技なのだが、その身長による画面への「余り感」によっていつも憎めない。財務官僚、自信家のキャリアウーマンだった松下が、実母・市毛良枝の死去により、京都の老舗旅館「上羽や」の女将を継ぐことを余儀なくされる設定で、「高ピーキャラ」が鼻っ柱をへし折られてわらわせるのは、往年の松嶋菜々子主演『ヤマトナデシコ』ゆずり。しかも彼女には旅館の赤字累積にたいして財務通の実績があり、同時に母親生き写しの「頑張り」が彼女を素人扱いする板場・仲居・男衆からひそかに瞠目されている。

旅館売り渡しという予定がずれて、結局、仲居頭のかたせ梨乃らを中心にして「上羽や」復活のための女将に祭り上げられながら、同時に仲居の仕事を周囲(むろん京都人らしい「底意地のわるさ」が、満載というほどに描写されている)により一から叩きこまれている段階が第四回までの現在なのだが、松下にひそかにぬきんでている統率力と客思いの萌芽性、それと風呂の洗い屋、京野菜の仕入れ先、漬物への手入れ、生け花、掛け軸、掃除、水打ち、旅館組合など、京都の「伝統」のうえにのった接客業の諸局面がいかに「もてなし」の厚さと文化的奥行きをもっているかを「学ばされて」プライドを折られる姿とが、いわば対位法にのっとって「音楽的に」展開され、毎回、クライマックスで感涙に導く作劇が見事だ(脚本は森ハヤシほか)。そのなかで、向日性と負けん気と不器用を装填された松下に魅惑が集中してくる。それと成長への「予感」といった未来時制が、ドラマの現状に透視される。これらのために、松下奈緒の「高すぎる」身長が配置されているともいえる。アクション爆発の水位上昇までの「遅さ」をその身体にみたしてゆくクリント・イーストウッドの背の高さとは、だから意味がちがう。

脇役をふくめた演技アンサンブルによって、出演者すべてを活かす作り手側の温情、それと作劇の速さも相俟って、この作品の出来の質は、前クールでの秀作、『dinner』を髣髴させる。俳優はみな二律背反を負わされていて、それで複雑な輝きを放つ。出色は、旅館買収を画策しつつ、松下を「つい手伝ってしまう」コンサルタント椎名桔平(肚のうちはむろん明かさない狡猾キャラ)だが、その他、高ピーの松下をえげつないほどに「訓育」しながらひそかに母ゆずりの血の完全開花を「期待」している仲居・調理場・男衆の歴々も、実際は、「松下にたいする洞察力」が繊細なために、みなうつくしい。たとえば松下が「謝ること」をおぼえたら、未払い仕入れ業者に「連座して」みなも平身低頭で謝るというように、ここでも仕種が「音楽的に」伝播してゆき、それで泣かせるのだ。それにも京都らしいギヴ&テイクがからまっているから、作劇は甘くない。旧いタイプの「女将もの」とはここで一線が画されている。

とぼけていて、しかもモノが最も良くみえていて、生け花への愛着を隠さない寡黙な男衆の笹野高史も、椎名桔平に負けず劣らず「いい味」で、松田優作のそっくりさんで脚光を浴びながら以後、キャリアをうまく積めなかった板前役・高杉亘にコミカルで男気のある実在性が温かくあたえられ、賦活を導いている点も素晴らしい。

じつは仲居のなかに格別のフェイバリット女優もいる――色白で丸顔、中年ながらエロい仲居役、現在の演技派の代表格・堀内敬子だ。第四回では一人前多く料理を注文する二人客を「陰膳」と見込み違いして、松下同様の「反省」を負わされる「役得」があるが、松下が従業員をいったん解雇して、しかも大事な客をとったことから、こっそり仲居たちがサポートした以前の局面では、他の仲居たちとともに慌てふためきつつ、ちょこまか隠れるうごき全体を、彼女が煽動していた(「ネズミみたいに」とでもいった演出上の指示をうけたのだろう)。これがものすごくコミカルで、彼女は演技アンサンブル的音楽性の中心に位置していた。花田清輝の「ミッツィー・ゲイナー論」が適用できるアルチザンが彼女なのだ、と最大の敬意をおくりたい。

その他のドラマについては、今クールはコンサバな選択となった。『ガリレオ』『遺留捜査』という再開ドラマ(『ガリレオ』については、ダウジングがテーマの第二回がこれまでのなかの出色だった――柴咲コウの後釜で、これまた「学芸会演技」が心配された吉高由里子もだんだん良くなっている)、それに『潜入探偵トカゲ』を観ている。唯一の変わり種が、演劇性をそのまま温存して驚異的な長回しで俳優たちの勢いを撮りきってしまう深夜枠の実験コメディ『間違われちゃった男』。ぼくは大好きだ。
 
 

2013年05月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

濫喩と動詞

 
 
【濫喩と動詞】


比喩は古典ギリシャの修辞学がこまかく分類したものだが、換喩と隠喩の対立いがいの比喩分類はじつは些末だとおもっている。換喩=外延と、隠喩=膠着の対立だけが創作実感からいうと本質的なのだ。書いている「いま・ここ」を時空のなかにずらしてゆくその動勢が換喩的だとすれば、書いている「いま・ここ」に重複をくりかえして、その奥行きをもつ構造のなかに「書かれるべきもの」への接近を企てようとするのが隠喩的だ――まずはそう結論してもいいのではないか。

これを吉本隆明の「自己表出/指示表出」の分類に接続すれば、換喩では「ずれ」への前言語的な衝動が自己表出、暗喩では「かさね」への前言語的な衝動が自己表出で、それぞれの指示表出は、隠喩では現れた意味形成になるだろうが、換喩では意味形成のすきまそのものがむしろ眼目になる。動詞でいうと、隠喩ではbe動詞に権能が極端に集中するのにたいし、換喩では動詞の多様性にむけ用語が分岐することで「時空のばらけ」が目論まれてゆくことになる。

もうひとつ、つけくわえるものがあるとすれば、詩では音韻が換喩原理=自己表出となるのにたいし、音律=「型」は隠喩原理=指示表出になるということだろう(ただしこれについては、今回は扱わない)。

ロマン・ヤコブソンの「小説=換喩」/「詩=隠喩」の抽象的な二分法に対立する実例はたとえばプルーストの『失われた時を求めて』のいたるところに見出せる。



〔…〕欲望の満足は、〔※シャルリュス〕男爵が訪問者に面と向ってぶつける猛烈な叱責のお陰で得られた、あたかもある花がバネのしかけで、無意識に荷担者になった虫をはねとばして面くらわせるように。〔…〕要するに、倒錯そのものも、倒錯者が、いろいろ有用な関係を得ようとしてあまりに女性に近づくことから起るので、その点で、多くの雌雄同株花が受胎せずに、すなわち自花受精の石胎状態に留まるようになっているもっとも高い一法則に結ばれているのである。一人の男性を求める倒錯者がしばしば自分と同じほど女性的な倒錯者を相手にして満足するということも真実である。しかし相手が女性に属していないということがあれば十分なのだ、女性の胚珠なら彼らは内にもっていてそれを使うことはできない、このことは非常に多くの雌雄同株花に、また蝸牛のようなある雌雄同体の動物にさえあることだ、それは自身によって受胎することはできないが、他の雌雄同体者によって受胎する。〔…〕それの痕跡は女性を解剖すれば男性の器官が、また男性を解剖すれば女性の器官が発育不全で残っているのが示しているように思われる。私はジュピアンとシャルリュス氏の、最初私にはわけのわからなかった身振りを、ダーウィンによれば、遠くから見えるように小さな複花弁を高く上げるいわゆる複合花のみならず、雄蕊を曲げて昆虫の道をあけたり、また昆虫に灌水礼を与えたりすることや、さらに今中庭に昆虫をひきつけていた蜜の音、花弁の華やかさなどと同じようにおもしろく思うのであった。

――新潮社・全七巻版旧単行本シリーズ第四巻『ソドムとゴモラ』33-34頁



なんとも錯雑とした(それゆえに意趣にみちた)文章だ。最後の一節は直喩構文になっているが、プルーストがここでなそうとしていることは、男性同性愛者の内なる女性性を外面的には雌雄同体性と断じて、その受粉行為にみられる植物的叡智を奇怪さに遮二無二むすびつけることだ。植物学と男色観察の境界を消滅させるこの点には悪意がある。だからやがて小説は、「蘭」という花が感覚的にはなつ悪趣味を特権化し、さらには虻の羽音を男色に必然的な死の予兆にかさねてもゆくことだろう。

「むすびつけ」「かさね」というからにはとうぜんこのくだりは暗喩衝動が猖獗していることになるが、文中の「主述」単位を仔細にながめてみると、どれひとつとしてある特定の主語に、単純に動詞がむすばれて主語を動態へと解放するうごきが遮断されているとわかる。さまざまな動詞は関係節のなかにくりこまれ、関係節の括弧=窮屈さのなかでちぢこまって配列されている。個々の動詞機能は矮小化され、一連全体が「男色とは奇怪な植物性」だというbe動詞形成のなかに編成されて、そこでおなじ所見が言い換えられているのだ。この言い換えはじつは外延にむけての「ずれ」を呼びこまず、結果的には重複が繰り返されてゆくだけなのだ。

むろんシャルリュス男爵はロベール・ド・モンテスキューをモデルにし、その機智、羽振りの良さ、驕慢さで忘れがたい小説内人物だが、話者=プルーストの露悪的な化身でもある。この化身性が「書く」自己との重複性になっていて、だからここにあるのは、最終的には「自己への悪意」ということにもなるだろう。

ポール・ド・マンの『読むことのアレゴリー』は、デリダ由来の「脱構築」をアメリカに伝播させた歴史的名著で、「読むこと」がオリジナルテキストにたいしアレゴリー(別のもの)をかならずつくりだす以上は、テキストそのものにアレゴリーが内在化されているという所見を、リルケ、プルースト、ニーチェ、ルソーにたいしてしめしたものだった。記憶にまだ細部ののこっているリルケ、プルースト、それにルソー『告白』にたいしては説得力があるとかんじたが、ド・マンの書き方は厳格なまでに中立的で、読解には苦労を要した。

そのなかでド・マンはプルーストの「水とひかり」が同体化する一節(その同体化によってプルーストは「夏」を表現する――そこには「蠅」も出てくる)を引きながら、プルーストの本質は、「暗喩の換喩化だ」という。このときド・マンのいう換喩は、換喩の一本質、聯想による連打力からひきだされていると理解できる。ところが吉本のような品詞分類への注意が稀薄だった。だから、プルーストの隠喩がbe動詞を内包して、それが全体に架橋されて巨大なbe動詞の量塊をつくるとはかんがえない。つまり隠喩が換喩的に連打されているというだけでは不充分なのだ。あるべき換喩性が隠喩によって弱体化され、動詞に予定されるはずの多様性が不具化している点をド・マンは分析していない。

「隠喩の暗喩化」「読むことのアレゴリー」といったド・マンの用語から印象されてくるのは、ギリシャ修辞学の比喩分類のうちの「濫喩」(カタクレシス)だろう。これは喩というより、「転用」とかんがえればいい。辞書的な言い方をすれば、濫喩は椅子やテーブルの棒状の支えが当初から命名されず、「脚」と誤用的に言い換えられ、それが蔓延していった現象を指す。ということでいうと、濫喩は文の構造や創作原理を、隠喩や換喩のようには解き明かさず、たんに語用現象の領域に帰結するといってもいい。テーブルの棒状の四本の支えを脚とよぶことで、テーブルが四足獣へと生気化されるわけではないのだ(それでもビクトリア王朝ではテーブルの脚が女性のナマ脚を聯想させるとして、そこにストッキングを履かせたのだが)。

ところが複雑な見解がここでやってくる。濫喩は以前にぼくがしるした減喩としても作用するのだ。たとえば「主述」単位でいうと、述部の動詞は主部を「展開」する。「かれらはゆく」としるしただけで、「ゆく」は「かれら」を時間的・空間的に解放するのだ。ところが「ゆく」を「すぎる」「あるく」などに「転用」しようとすると、実際は転用ストックがまずしいとかんじられる。つまりbe動詞にむすばれた「AはBである」という隠喩構文だけが錯雑化にむけての特権を帯びている。とりわけ動作をしめす動詞の語彙は身体に負っているかぎり縮減されていて、それはテーブルの脚のように、濫喩的に主語それぞれに「転用」されてゆくしかない。

ましてや、「かれらはゆく」という構文では像がみえるが、「わたしはゆく」という構文では結像性がうすくなる。なぜなら、「わたしはゆく」のどこかに自己以外に作用力をもたない再帰性が嗅ぎとられるからで、再帰性は動詞力の本分を減退させるのだ。「殺す」と「自殺する」では「殺」の気迫が前者につよく、だから「自殺」を「自死」にいいかえようとするうごきまでおこる。

現代詩では一時期、詩語としての「水」の使用が流行していた。「水」とつづれば詩性が確保されるだろうという安直な錯視。これも濫喩現象とよべる。ところが動詞本来を再帰性の文脈に置いて、動詞にのがれられない濫喩性を、自己縮減のための厳密な道具とするときには、「水」の濫用に観察される「恥しげもなさ」が、つつましい羞恥へと復帰する。(独居?)老人の無聊と悲哀にみちた週日を、主部「私」を日本語的に省略して、再帰的な動詞の「脚」としてならべた以下の詩篇は、おそらく詩が衰弱し、その衰弱こそをむしろつづるべきものとした90年代以降の本格的な詩作者の、「羞恥」にみちた最高の達成とよぶことができるだろう。



【週日レッスン】(全)
西中行久


蛇口をひねって流れを見た
魚をさばき 箸でつつき苦いものも食べた
果実の皮を剥きカレンダーをめくる
シーツを濯いで陽に曝す
朝はまず一歩出ること

一日音のなかで首を揺らす
何度も弾力のあるものに突き当たる
跳ね返ったものが波になる
声を投げ捨てている街の呼吸
何を越えてきたのか
階段を登り降りしてくる

塀に沿って長く伸びる影
こぼれているのは私ではない
丘までゆくと
贋の青く汚れた空
余所目にはたぶん空きビンが立っている
閉じているものの栓を抜く
スポンと音のする日
下方で川は騒いでいる

細い管を伝って触れないものの声は届く
浮き沈みする海へ
身体はいつも遅れて現れた
久しぶりの生のまま運んでゆく
多くの声はどこを通っているのか
海には洗い物の音を聴く

――『街・魚景色』(思潮社、98年)



泣けてしまう詩篇だ。朝の厨房での家事、そのあとの散策で出会う空虚な光景(景物)。「他人」は出ない――そこから再帰性が匂いだす。最後は海に出会うが、その海は洗濯機内をみつめた記憶と、縮減的にアナロジーされる。孤独のなかで、それでもよわい身体が充実している(これは音韻の作用によるところがおおきい)。

再帰性については、吉本は自己表出の要件だという。西中は自己身体の推移を再帰的に動詞の束に分解してゆく。みえないが、他者の位置から自己に向け、間歇的なシャッターが切られている。そうして「動詞」の「脚」が、行の下部を中心に「ならない脚韻」として「並立」する。これが時空の「ずれ」「展開」を外延させてゆく換喩的な原動力になっている。ところが再帰性をにじませた動詞群は、プルーストの措辞とは真反対に、「徹底的に貧しい」。この縮減性がたぶん詩の現在的な要件と合致するのだ。つまり、再帰性、換喩性、縮減性がトリアーデになっている詩行の組成が、作者の慎ましさ=羞恥と複合して「泣けてしまう」といっていい。

「私」は一度だけ詩中にでてくる。ところがそれが「私ではない」という限定を受けている。そう確認したうえで、主語「私」が省略されながら、「私」の動作として展覧された自己再帰性のつよい動詞群を抽出してみよう。現在形・過去形は分別し、すべてを終止形にすればこうなる――

「見た」「さばく」「つつく」「食べた」「剥く」「めくる」「濯ぐ」「曝す」「出る」――(一聯)

「揺らす」「突き当たる」――(二聯)

「ゆく」「抜く」――(三聯)

「運んでゆく」「聴く」――(四聯)

どれも日常的で、意外性にとぼしく、「意図的に」まずしい。とくに二聯に注意を向けたい。「突き当たる」の動詞が「跳ね返る」へと換喩され、以後、「(波に)なる」「投げ捨てている」の動詞の主語は、行中でさがせば「街」へとずれるのだ。結果、日本語的記述として消えていた主語「私」が「ほんとうに」消え、次の三聯の「私ではない」という措辞へとやがて結実する。それからは「私」主体の動詞と、景物主体の動詞とが錯綜し、その消長がまさに「世界の音楽」になっているのだった。

最終聯中の三行が驚異的だろう。《身体はいつも遅れて現れた/久しぶり生のまま運んでゆく/多くの声はどこを通っているのか》。行の渡り=連絡が破砕されたままつながっているといっていい。そこでは「私」と「世界」に区別のない述部=動詞が、ともに縮減型になることによってふかく同調するという哲学が、峻厳にかたられているのだ。その意味で縮減にかかわらない西脇型の換喩詩と、この西中の詩は達成の質がちがう。

吉本の『言語美』における品詞分類によれば「指示表出>自己表出」の図式の強固な品詞から順にならべると、以下のようになった――「名詞」「代名詞」「動詞」「形容詞」「副詞」「助動詞」「助詞」「感動詞」。

ここでは「動詞」「形容詞」の順序に吟味が要る。「形容詞」のほうに自己表出性がつよいのは、たとえば「うつくしい」などの形容詞が感動詞的にもちいられる事例が世上多いことが念頭に置かれているだろう。ところが単純な「海はうつくしい」は述部の形容詞から主部を「再規定」する構文だから、ここでの形容詞は補填性という自律的なつよさをもっている。

ところが西中の《一日音のなかで首を揺らす》の「揺らす」は消えている主語「私」にたいし何の再規定もおこなわず、自律性から「ほどけている〔ほぐれている〕」。「揺らす」は意味の余白を生成する「それ自体」――つまり換喩特有のパーツだということだ。このことによって、それは指示表出から離れ、自己表出に近づいてゆく。

ということは、動詞は再帰性・縮減性・換喩性のトリアーデをなした場合のみ、形容詞よりも自己表出性がたかくなるという結論も得られるのではないか。
 
 

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