四
【四】
さくらばのいえの暗がりの門から
むすめたちのでてくるのをまつ
きょうはどちらをみぎにしようか
ふたごであることは果実ににる
すこし酸っぱいにおいがただよい
くだもののふかいおくゆきがわかる
どちらかを弑すればともにない
平衡のさなかを傲然とあるき
あねであることの髪をなでて
いもうとのまゆげをあおくする
ちぶさのよっつある大仰な同道
ひとり多いむだがほこらしい
みずからにルフランをふくむ歌
【みずからにルフランをふくむ歌】
みずくさやうきくさの時節がおとずれ
みずのおもてのしられない箇所ができる
みどりやあおとはいえないいろの欠損に
くうきのすわる椅子がぼんやりあらわれる
葉のあぶらがしずしずしずくをころがせて
ゆっくりのかえってゆくいくつかもある
ひらたさやながさとは方向なのだろうか
ゆらゆらおのれの映るよどみあるじせつに
そこまでの水そこからのくさをかぎる
わざわいの藻もながれて水の水がむごい
みずくさやうきくさのそこだけがたまり
たまゆらかえってゆくひらたさのよどみが
くさりすらあるいろいえないあぶらなので
ひらがなのしずくにぼんやりあらわれるいす
はなやあやなきあやめのながさ、そのとがも
ぼんやりとがりにすわられてぼんやりととがる
星分
【星分】
星分という造語をかんがえると
それが海にあるような気がしだす
むげんの点綴がひろがり、とじて
粒が内外をゆきわたってゆくあふれ
このことから海中がスカートになり
水のぜんたいがくらげなしている
きはつが回収され回収が揮発する
ひだからひだへのまとまりのなさを
ただ星分がきらめきゆくのならば
海は声のもとであるのみならず
なりたたぬわたしをならせている
おおきさでは測れない外音機なのだ
分割をおもうことで声帯は外になる
かたちはひびくホトとして遍在し
正中のながれに声帯あることを
ひびく風や海にかなしませる
このような自他をくるわす構文に
やがてのきえゆきもしるされる
おぼえていてほしい在った声を
むだをきらい自嘲もけしてきたが
ほんとうは星分で発語ができていて
たえずそこに泡がわれているのを
ことばは顔のうらから眼にせりあがり
あわなすひとみが声と共鳴している
うごきを作曲する弦楽者たちにあって
耳を肉のしずくとしかとらえようとせず
顔にあったかげりもカンタータの組成だ
そういうものを、息をしてうごかしている
ひとつの顔が眼前の海をまねていること
とらえきれない星分のその顔がむごい
あるところをいなむべく星がわかれてゆく
それもこの次元ではうまれないうごきだ
すいぎん
【すいぎん】
水銀のつぶをつくえにころがしたことがある
それはみずからまとまろうとしてふるえた
たやすくころがりながらゆきどまるうごきに
うつくしいもののずるさをふとおぼえた
くろがねでできたいかめしさを呪うときには
みずがねのいとけないおもさがくすりのようだ
そこのひとつだけがべつのひかりと温度で
そのように生きて在るたましいがこごっている
もちいられた毒の大奥で(ごじゅんの逸脱だ)
この丸括弧もまたみずがねとしてもちいるべし
(くうかんを刺繍するもの)(いろとかたちなき)
(ふらここ)(液体に似ない)(きんぞく)(けんぞく)
(せつな)(個別となるもの)(未来はうつっているか)
(舌さきにのせる)(たちまち)(声が詩音になる)
こんなふうにつづるとみずがねの脈もいっぱい
あわあわと手より(わたしのほかが(ゆきかう))
音楽脳
俗に「音楽脳」といわれるものがある。瞬時瞬時にきえゆく着想を追いつづけるスリル。それのみに刺戟をうばわれ、構築的にしめされたものを面倒だとおもう。ぼくの中学・高校時代はまさにそんな精神状態で、音楽(演奏と歌ものの歌詞)、詩、詩的な小説、詩的なマンガや美術などにしか興味がわかず、学業での怠惰も徹底的だった。教科書とか参考書とかよばれるたぐいがきらい、「アイドル」は恥しい告白だが、ランボーとかジミ・ヘンドリックスとかだった。とりわけ夭折者にあこがれた。わるいことに、そこへ不良傾斜がからんでいた。飽きやすさ――いまでは田舎じみた、最低の恰好わるさだとおもう。
大学に入り、鎌倉から都内に彷徨環境が移って、名画座に入り浸って映画のとりこになり、哲学書や左翼文献をも読みだして、「音楽脳」が「綜合脳」へと変化していったようだ。濫読がつづき、インプットされる情報のおおさにからだが悲鳴をあげそうだったが、偏頭痛を我慢するだけで済んだ。それでも映像に魅せられたのが大学以降だったことの代償はおおきく、だから一篇の映画にかかわるぼくの記憶は、カッティングにまでゆかず、身体や主題や空間に限定されてしまう。文学的な記憶力はあっても、数学的な記憶力がないのだ。晩生の遅刻、というように、自分の能力を総括している。
夢みる時節はいつごろまでだったのだろう。「書くこと」が中心にあって、自分の書いたものが、自分のからだとまず契約をむすんだ。自作戯曲の演出をつうじ、自分のことばが他人を規定し、賦活し、「べつもの」があらわれるのにときめいていたのが大学時代だった。幼年期から継続していた「書くこと」がうるおいをむすんだ幸福期だった。星座をみていた。だが大学卒業後も芝居を目指し、就職に本腰をいれなかったことで、ぼくの「衰運」が決定する。以後、アルバイト先で「書くこと」が「稼ぐこと」に短絡して、リアルは涵養されたが、ときめきが消え、おおきくいうとそこで詩作が断念された。詩作再開までレビューを卒業して評論ひと筋で生きてきた経緯には、思索の組み立ての達成感はのこるが、性愛的なそれはあまりない。いまは自分の涸れた水路に水をながし、それが運河になるさまを他人事のようにみている。
七〇年代は不恰好な青春が横行していた。おもいかえすとネルシャツとジーンズと長髪の若い世代を、にじみと露呈において特有のひかりがつつんでいた。写真の褪色がなく、空のみを映した写真でも、これは七〇年代の空、とみわける自信があって、いまでもときどき通過した空気の感触にとらわれることがある。よわく、ちいさく、偏屈なねじれが身体と思考にしめされるマイナー七〇年代詩をみいだす嗅覚もそれにかかわる。泉谷明とか、ひかりのなかをつましく通過していたマイナーな身体、そのかけがえのなさもふとおもいだす。いまの詩とは発語の形式がぜんぜんちがった。ことばが沈潜のなかに平滑化していて、しかも縮減をえんじている。あれが衰退の七〇年代の奥底にぼくのみていたものだった。それは一般に予想されるようなフォークブームとはちがう。たしかに潜勢そのもののもつスリルが、にじむようにして、とおくに在った。
チェット・ベイカーの「ザ・スリル・イズ・ゴーン」は、いまでも日常のすきまで悔恨のようにくちずさむ。それでも「音楽脳」が思考に残存している。
鋲
【鋲】
とどめている位置があからさまになる
鋲にはいちまつのさみしさがある
だからむかうものを金色にとめながら
鋲同士はなれあった布置になろうとする
みずからが点綴であるあいまいな囲い
そこから貼りつけたひかりがもりあがり
磔刑がひとつのはらわたへと反れてゆくとき
とじられる季節もそれじたいからしたたる
こころをもつ固定はささげている
それがそうではない厳粛なふくれを
この事前が事後をしのいで鋲がもちあがり
藤の日の金髪がすぎさりへ落下してゆく
あらわれた鮮しい空白には微細な穴があき
写されていた白波の血がそこへ吸われる
公暁
【公暁】
てのひらのやわらかみを
いわばしる手の甲がかくす
あらゆるものに横たう二元は
じんたいのみぢかにもある
ささくれた樹皮をあわれむと
さきからばけものじみた柔軟が
めぶきだす人のみちがこわい
冥途は歩かれ、さわられてゆく
そんなふうに道ゆくことと
からだをたのしむことが
並行するのは手と眼をむすぶ
なまけにおかされたためだ
どこがやわらかいかと訊く
上腕のうちがわ、ひとつの家
けれどもそれはみあげられ
ほろびとして空へのびる
さねともが弑されるいちょうが
あられもなく夜を放っている
なんにんものくぎょうになって
いないさねともをめぐりだす
たおれるまえとたおれたあと
ふたつに挟まれ、たおれがみえる
ころしも、なにもかもが眼前だ
やわらかい部分には刀身がはいる
したたりにおいて血と星はにている
それが観想にとってだいじなこと
よぞらがたたまれひだをなすように
じんたいのやわらかさが折れこむ
あらゆる推移がゆっくりとみえ
前屈した顔からみあげる眼はない
おどるようにたおれる
それが生涯の詩句だ
海をのぞむ背後にたいくつな山を負い
たいくつな沖をみているやわらかさ
げしゅにんは舟のようにおとなう
樹間から樹間をみえかくれしながら
さやのなかにかくすみずからを
からだの本分を、かなしむ
かたさをほそくするとするどくなる
そんな陰茎をひたたれにかくしている
うたなすはこころのえやみ
やわらかさはひろがってならぬ
くぎょう、僧形にしてなまぐさい
たおれる者の首をわけたことが
そののちの同道をきめる
八方が逃げみちのはず
われこそはと音声をあげ
たいまつの林立をぬけてゆく
さんかくのかまくらをはしると
同道のくびがみぢかのままきえる
とおくのわたしがここのわたしを
真似ていることにおぞけがある
それでわたしのやわらかさのなかへ
同道のくびをたずさえてゆくのだ
やがてはもちおもりを追われ
みずからのいのちも塀できえる
あのときのいちょうのたかさがやわらかい
享年二十、あおむけになってみあげる
海流
【海流】
にんげんよ自分のうちがわにあるものは
そとがわにとりだしてはかたれない
うちにある方向のみをさししめし
主語を無言に、花のようにつなげる
環礁のふくんでいるうちがわも島でなく
かざりに似たかたちがあるとのみつたえる
それでも格助詞のうつくしさが溶出をなし
文を文いがいに分けないよう意をそそぐ
すべてからっぽの浪に手足があって
攀じてゆく書き板があるのと逆だ
構文がながれるだけのとうめいは
ことばそれぞれの位置がゆるしている
ひとつの再帰のごとには同語があらわれ
それらがまぶしいまでに同語でできている
うみのみやこ、とりどりの牛馬車がゆく
そうみえているくるまから水がわたるから
にんげんよ悔悛こそがひとよのあかし
くだされる罰もすでに自分であることの
とうとい救いにしかならないのだから
もともと罪があったかまるで意味がない
路地をみおろす
【路地をみおろす】
まどぎわにちいさく腰をおろすくぼみがあって
からだをはめて、みることを固定しつづけた
いずこにもとおいいずこは、そこでみられた
やわらかくふくらんだ胸のひとらがゆきかった
おもいをひめているかたちのあるふかしぎに
みおろす眼はおぼえの外をながれていった
たしてとけた思いで幼年期はあふれているものだ
そこには個別がなくほんとうはひとすらいない
あったのはとおくへとほつれてゆくからだだけ
だからもののすがたもふくらみへとどまった
ひとらの場所は手足ではなく眼でさだまるが
それらがみえないと半分へと自分を奏でた
六月のおわってゆく時節をはっきりおぼえている
ものの奥にひかりの正中というべきものが走り
たちまちひとらもただの吐息のみにちぢんで
おもいとわかれた胸の線がさらにきれいだった
みおろすときれいな流動は世にあまたある
そんなゆきかいを放つ路地がぬれていた
霊犬
【霊犬】
むかし飼っていた犬をおもいだすと
それはなごりの息をはいている
たたみの部屋などにぼんやりきらめいて
あごの上下をひらき歯をぬらしている
かたちに尾のようなもののあるおそろしさ
きんいろである身が救いになっていない
あしの下を覗きうずくまるまでのうごきを
くりかえすだけのまぼろしが焦げてゆく
そんなものうさから犬を手放すと
かならずことばには離散がうまれた
いかないでというさけびのなかで
ばらばらになっている犬が時の断面
舌をつまむと噛まれて激痛がはしった
かたほうのちぶさみたいな顔だったのに
ひとみはそのとき爛々とひかっていた
そのひとみの場にいまは穴があいている
ひたひたと前屈をはじめ(霊犬)
おのれを掘るもののけはいが(水)
索引
【索引】
いちばんのおわり、最終から
すべて名のあった場所が牽かれている
おおいなる天空に引き潮あることに
あらわれていた星がうるむそのふたえ
あつくふれていたのは紡錘のまわりで
一冊の閉じはそれら糸の向きにしたがう
あらゆるものの壮大な源流とあかしされ
ひとの名のひしめきあうところそれが
ならびでおもたげな索引の家ならば
よんだのも帰還のうごきある牧場だった
意をたどることと牧することの相似が
そのかなたにとおく星光をきらめかせる
のこされた一頭の牛に名はあったのか
それも白と黒になる撚糸だったはず
たてかかっている
【たてかかっている】
日に一行もかけないその日は
きみの外側へきみにしたしいものが
ふくらんでいて、それがどこかの
よわいすみにたてかかっている
きみはそのことにきもちをおおわれ
じぶんのうえからしたを棒にみる
おおいとたてかけの、ちがいもかんがえず
からだのなすべきしごとがまとまらない
くうかんがかたちをともなうこわさもある
しろつめくさのゆれはゆれのひくさがすべて
ひかりのなにかがもちあがってくる
そのとき風とひかりがわかたれてゆく
だから風のすきまにはくろいものが覗く
ハチの眼にならしろつめくさもしろくない
うでがためいきでできているおぼえがあるのは
あたまと手のあいだに翅がはいっているから
虫になってゆくことは謙譲にはひつようだが
ちいさな気門では蜜にふたがれてしまう
ふたがれるふしぶしがからだにあって
それがきみのこのごろのけだかさだ
ただの順行で再帰に沿わせるのさ
じぶんのなかのゆびでじぶんの岸に
ゆびがあるときにはおぼえはもう虫でない
そのゆびがひかって内側から性を鎖している
ゆれる草をつめば草はなお手にゆれる
それはたてかかってもおおってもいない
尾行者
【尾行者】
うすやみにひとを見分けるため
わたしをつかっているのはおそろしい
ふれあう正面をおもいあわせながら
じふんのうしろを分割しているのだから
それは鏡にじぶんの顔をうつすとき
ほんらいの鏡にある同調力をかんがえ
うしろむきの鏡に自分のうしろあたまが
うつっているとかんじるのににている
その逆光のひとも息をしていてよわく
よわいときこそ像がつよいとしめす
こころではなく像のもんだいがあって
みぎひだりには百合がこぼれている
よわいときのつよいこころではない
よわさそのもののつよさでそのひとは
うしろをみせてわたしをさそいだす
なぜゆきぬけるべき歩をひるがえすのか
うしろからだ、うしろからだと念ずると
そのひとのうしろあたまに顔が透ける
なにかの紋章のようだ、嵌っているものは
いつも前にみえている昔の硬貨みたいだ
宙にういているようにおもえてとりだせない
しり肉のふかい奥がうしろからの前を支え
もうじき昼の最後のひかりがなくなる
みぎひだりには百合がこぼれている
映画監督大島渚、本日発売!
本日、東京などではぼくの新刊『映画監督 大島渚』が店頭発売されます(院生に訊くと、札幌発売は東京より通常、二、三日遅れる由)。
――以下、データ。
阿部嘉昭著(著者の映画関係モノグラフの三冊め)
河出書房新社刊 2800円+税 四六判 310頁
装幀=市川衣梨 編集=西口徹
●
オビ文:
追悼・大島渚
過去の映画に
「否定」を突きつけ、
「同時代」性を自らに課し、
常に「問題」を提起し続け
しかし「答え」は求めない。
大島本人からの「読んでみたい」という要請に応えて書かれた論考を含む、戦後最大の映画作家と交響する大島渚論の決定版
●
目次:
大島渚とはだれか
初期の大島渚と吉田喜重
過激な平等主義――『太陽の墓場』
映画を貫通する知覚神経――『日本の夜と霧』
「代理」にまつわる思考はそのまま「代理」されてゆく――『飼育』
エイゼンシュタインの導入――『天草四郎時貞』
対象の刻々を取り逃がし残像を追わされる――『白昼の通り魔』
大島映画の呼吸、白土劇画の線――『忍者武芸帳』
創造社の六八年――『日本春歌考』から『新宿泥棒日記』まで
女自身が風景となる哀しみ――『東京戦争戦後秘話』
「順番」からの悲哀にみちた解放――『儀式』
表面の充満による欠性――『愛のコリーダ』
還相が往相を見つめる――『愛の亡霊』
「解けない暗喩」の幻惑――『戦場のメリークリスマス』
対幻想という他者――『マックス、モン・アムール』
母の写真、自己への懲罰――『KYOTO, MY MOTHER'S PLACE』
中間化する大島渚――『御法度』
「代位」をめぐる思考――大島渚vsゴダール
初出一覧/謝辞
●
『少年』が見当たらないとお思いの向きもあるでしょうが、「「代位」をめぐる思考」などにその論考がはいっています。
表紙写真には『戦場のメリークリスマス』時のスナップがつかわれています。ただし目次裏には『御法度』時とミスプリントされています。
二月末には脱稿していたのですが、版元が文藝別冊で大島渚の特集号を出すため、調整で刊行が後送りになったようです。ひとことだけいうと、この本はどの映画雑誌、ムック本の「大島渚追悼特集」とも似ていません。批評一本槍です。
どうぞ書店でお手にとっていただければ
峡
【峡】
あかるさはななめうえからくる
まうえからはこない、これが戒律
まなざしをなげる向きでからだが組まれ
ななめうえだけにひかりと音もある
とおくの空のとおいゆらめきに
すこしだけうらがえしがひそむように
そとをつうじてくまれたそのからだが
じぶんではなくむしろ息ににている
あらゆるものにみえてくるあまたの巣穴
とおってゆく息はそれじたいではない
おこないが気体となって透いている
その次段階にすいこまれるだけ
ひかりからからだが遅れをくみあげる
ひとみなは井戸としてならびあい
ななめしたの砂洲がきえてゆくのを
じぶんのながれのためだとおもいなす
あかるくぬける
【あかるくぬける】
あかるくゆれているばしょ
ひざしのなかの水紋の底とか
ちかいひとの、まなこの湯とか
わたる風の、とおいひとりとかを
ゆびにおもいなにごとかしるすのは
きえる順番を前からにすること
むろん語順がたいせつで、ことばが
足から埋められるなどありえない
だから天ツキに行を書いて
うつりをうすくならべてゆく
各行尾にきれいな脚がうかぶ
なつまえの高架駅をみあげるようだ
そんな女たちが改札から現れるから
こころだってまなつになってゆく
わたしらの重力の向きは特急がぬけて
あかるくゆれている頭上のかんぬき
最後
【最後】
ひもといてゆくことで
最後への近づきがわかる
さんざん歌がとどろいて
おわりのぺえじはさみしく
ぬがしていってなにもない
球根のようにあかりする
あるいはひとつの家の
とびらをみているみたいだ
よそよそしさで気遠いのに
ふたたびをのぞんでいる
それは奥つきの玄関で
矩形からはほそい裸が覗く
ひともとの草にある白光で
からだのあしたもぬれている
よつ足だったそれまでが
直立している読後のくらみ
くわえて跛行のゆらぎが
しずまりつつある波型の脚
億個もまたスカートだと
うしろのうすものがつげる
さようなら陰毛のかげり
遠目にそれも雲にすぎない
じんたいの天象がめぐり
あまりゆくだけの天族だった
けれども音楽になろうと
カデンツァでふるえもしない
ちいさなカットとつぜんのカット
たったいまの縮率がもどりきる
そういうすがたをおぼえる
ひとつの本のおわりには
栞
【栞】
しおりをはさんでいるぺえじのノド奥で
しおりは読み手の忘却を直立している
エポケーそのものをあらわすかたちの短冊が
そこまでとそこからをあわく区切っている
けれどもしおりは浪打ち際のように
それまでをみちあふれ辿りついている
朝にぺえじをひらき、しおりをはさみかえ
のちをよみだせばふかしぎの汐がもどる
ひとたびのエポケーはけして中断ではなく
みずからをよびかえる沖のしるべだった
しおりは一筆箋などぐうぜんの採取がいい
海辺のにおいをもってにじんでいるもの
かんがえもむしろにおいと親和されて
だからかんたんな境が往き来されてゆく
日録
【日録】
おもいだして日に日にとつづれば
日々のあつみがほぐれてゆく
ひとつひとつ日は内部で、その肉に
からだと過去がともにむすばれていた
ありつづけた日は日記されていたから
書くことはうすまりにうすさを付す
それらが日を継いでいるのなら
ものは日記のなかにほそまっている
ほそいことと影がかよいあうのも
日の質ではなく文字によるのだろう
日にわけられたしごとははらわた状だが
はじめとおわりがつながれば分離がきえる
それでも交叉したかんがえがわすれられず
ある日をうでに想い、そのうでがぬれている
ひと日とよんでみるその日は
ひとのようすをしている
これはゆめをいざなう擬人法だが
その抱擁で日になるじぶんのすがた
めぐり書いたというべきなのだろうか
じぶんとそれ以外のほかなにもない
新緑門
【新緑門】
おおく一五〇センチ台の背であるということは
おんなたちがうちがわをやぶれなかったのだ
もちあるくにほどよいそのからだはあたりを吸い
ならんだ灌木をうまくしたがえることもできる
くぼんである部分にうすいくらさをちりばめて
これをおもえばその一身は植物をこえている
ただの形象とおもえぬほど昼をふくざつにし
からだをつうじ、かんがえをはこんでいる
あしもとにある円のなにかをひろう屈みのすがたに
さみしさがゆれるならばそれもかたちのさみしさ
北方の六月にはからだにこびとをひめた性が
じぶんを鏡のおもてみたくぼやかしている
みえないだろうと慢心して蝋状にとけた内を
そのまま外がわにして新緑門をゆききしている
ながさにおいて足りないその一身のうえに
やなぎがたれこんでいる、ゆれる恩寵の絵柄
一からすべてが類推されるためにおんなたちはいて
このとき均されたサイズがみずみずしく分化する
はたらくことはあるだろうがサイズそのものも働く
伝達にふさわしい背丈があるということなのだ
うちがわが背丈になっているほどよいながさは
影のなかにひかりがあるせかいにつながっている
だからおんなたちはふたえのままにあるいて
しるされる身のすすみがその進展を退がってゆく
いってしまう、きえてしまうのは余韻だけではない
せかいにある門の奥行そのものも失なわれてゆく
洗っているひと
【洗っているひと】
たたえようとしている水をこぼしながら
こまかい指を洗っている階上がひかる
濯いでいるうごきにある繊い縦線が
そのひとのぜんたいにも反射している
かいなが伸び並行と交叉がかかわるとき
あふれる陽が二本をただの円筒にする
手が手であることを一心に流している
ゆあみでできているその生の部分
こすりあわす哀しみというものがあり
それが注がれる水にきれるのではないか
蛇口じたい手首をはげしい欠片としてみる
それでも消去そのものが消されてゆき
まなかいにふたたび姿をあらわした肌は
とよめいた浪をしずかにけみしている
すべてがかわくまで手は前方にある
そんなしぐさにある人でなしのすずしさ
おもうためにらせんなす階段をはさんで
洗い場をみあげる、くらい位置にいて
あらう音を聴くうちその両手がうかぶ
ひとの再生はこのようにくりかえされる
SIX
【SIX】
くちびるに雪がかかってあのときは
いいたいことがいえず、ごめん
さぞやくちびるのあおがむごくて
雪だけを眼にしていたんだろうごめん
そうさいつだってはんぶん消えかかって
ことばの六角形はくずれていたっけ
だらしなくじぶんにすいこんでごめん
六等星のみえなさにしずんでいた
たえずたえざるたえてなお、の活用形で
どもって雪をすいこんですまなかった
ろうそくのようにあのかどにたっていただろ
ほのおをゆらしてくれればよかったんだ
それなのにたったひとりでゆれてごめん
あれからはただの六さ、もえないろうそく
ソングをふきつけてくれてありがとうごめん
もうひとではなく楽器の仕舞い場だけど
ひからなくって昔のほのおだけあかるくごめん
みいらはじぶんひとりの代々でもないから
きみの眼前でひるがえってすまなかった
六の字でよわまったあのよるをおわびする
口吻
【口吻】
やせたいちじくのようにうみ、落とされた
そののちは腐りを祓う日々の幼年だった
へやのすみをこのみ次に路のかどをこのんだ
いればおらず、いなければいるからだが
とぶわたと親和するのをひとり知っていて
ごみみたいな起居の奥で眼が澄んでいた
絵をえがくと視ることの不調和がばれた
とおくの樹とちかくのひとがかさなるのだ
それですきまを温めようと口吻をのばしたが
とどかないばかりか不遜までもいましめられた
夏は透明につかった、じぶんのほか腐っている
あらゆる流体が肌をつつんでくる菓子だった
まずしい身では人工のあまみにも魅せられ
すでに嗜好のなかに罰がおしよせていた
着ているものをわずかでぼろぼろにした
きたなくひかって背には翅をむすんだ
蝶にしてちいさいながらあまる身は
あの近所から近所までをにじんでいた
あたらしい感情
【あたらしい感情】
あたらしい感情になれるかをおのれに測る
それは物質的な放心へわずかにさしこむひかり
ものみなの心ここにあらずが放心につたわり
わずかにずれているとまどいだったりする
たとえば舟ではこばれている仔馬がくびをたれ
かわもにじぶんの顔をうつしたときの悲傷だ
みずがどうしてこれほどとろけぬるんでいるのか
なげきながらみずかげのながさに馬は打たれる
だんだんと口がみずの夢へちかづいていって
ついにかたみにふれあうときの意外なゆらめき
みずにのまれるのかまたはみずがのまれるのか
くべつのないうごきでは双方がむすびあうだけだ
仔馬はあばれだし船頭とともにながれへのまれ
わずかにのこった馬の紋に物質的な放心がうつる
おこったことがしずかさに復すには数分が要り
あたらしさの単位とはそんな数分だとあかされる
ものからものへが場所から場所へとくくられる
そのさい刻まれたいっさいの移りをたしあわせて
あたらしい感情にするのならば感情に顔がなく
このことで仔馬はあたらしい自称にもふれた
それだけのこと喜怒哀楽いがいの鮮明は
川へさしのべられた枝のかがやきにすぎない
あたらしい感情になれば死がちかづいている
けれどもじぶんいがいのすべても息づいている
曲線
【曲線】
なでた手にまるみがのこるから
しぜん曲線はかたちのひびき
くびれるひとのくびれる線なら
へこむそんざいのふかさをつたえ
せかいでは湾曲のばめんごとに
いまのおもいでが鳴っている
まがっていることまでまがっている
まちがっているようなまるみをおびて
それでも連続は落ち着いている
からだの場をちいさいと知るので
まがるものは率をふくんでいて
それじたいのなかへと無限だ
まがりをおもいだせば減りもわかる
折れることをおそくするとまるくなり
曲線はながれへかえるのみなので
そこからこびとがおくれてゆくのだ
うつくしいというべきだろうか
あるとないのまざるそんな皮膚を
まがりあるひとのうすいまがり
ひかりを容れていたへりをおもう