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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

詩のこのみにかかわる私的メモ

 
 
【詩のこのみにかかわる私的メモ】


――このみのもんだいかもしれないが、とりわけわかりやすい符牒をもとにすると、以下の類型の詩が、いちおう苦手だ(むろんなにごとにも例外があるのだが)。

・構文が鍛えられていない散文詩。体言止めの連鎖などがそれにあたる。構文そのものの運営には、もっと奥ぶかい魅力がある。とりわけ日本語の品詞上、もっとも難題なのが助詞の斡旋で、日本語詩はほとんどそこからその当否がきまる。

・感嘆符や命令形のある詩。不要な強度だとおもう。六〇年代詩におおかったとすれば、これらは過去事象かもしれない。

・約物やルビの多すぎる詩。約物は発声されない。ルビは発声を分岐させる。いずれもノイジーだ。

・一文ではなく短文節ごとにせわしなく一字空白のある詩。または一行の字数、その長短が極端な改行詩。いずれでも呼吸の推敲されていない判断がうまれる。むしろ等拍→等時、という日本語のひびきの特性を大事におもう。そこでまず短詩型が参照される。

・しなやかさが内部留保されていない詩。容積もながれも、そこにうまれないのではないか。このときのしなやかさは内発的な連続性、あふれに似ている。

・自然のない詩。その自然の最たるものを身体とかんがえている。

・おどろきのない詩。またはおどろきを強調しすぎている詩。ほんとうのおどろきは、おどろきに似ていないおどろきがあるという、再帰認識にこそかかわっているはずだ。

・謎や多義性や再帰性や意味脱臼のない詩。それらは速く読まれてしまう。ところが書かれ、読まれる詩とは、なによりも読解速度を読者にじかに促成することを、存立の第一条件にもっている(だから改行もある)。かぎりない高速読解を目指すリズミックな散文詩、この混乱のみに、例外的な栄誉があたえられるだろう。

・改行詩の各行頭がすべて漢字でうめつくされている詩。そんな簡単な硬直の徴候(けっこう有名だろう)をさけられない運動神経が疑わしい。和語も副詞も指示語も大切にされないから、このような錯誤が生じる。これにかかわるが、とうぜん詩は、語彙展覧の誇らしさでもない。

・「コモン(公)」とかかわっていない詩。そういう詩は純粋な特異性なのか。ちがう、天才神話の消滅した現在ではただの独善なのだとおもう。しかも特異性はコモンの内在的な組み替えからしかいまは生来しない。ただし「詩的コモン」をかんたんに定義できないのは無論だ。この点を悩む詩こそが現在的哲学的にただしいのではないか。

・「である」を構文語尾にもちいる詩。詩という文芸ジャンルが誤解されているのではないか。明治初期に発明されたもっとも醜いごまかし語尾で、これはつかうなら揶揄目的しかありえない。さらには引用が断片ではなく、スタンザ全体など、おおきな単位で生じている詩。これもジャンル意識という問題系にかかわる。ただし詩が「文」など別ジャンルと融合してよいとするなら、これらはいずれ忌避材料でなくなるかもしれない。

・ふくざつな字下げのある詩。引用しがたい点で、これもまた「コモン」に反している。あからさまなグラフィズム詩。デザインとの混同をみちびいている点で、読者を愚弄しているかんじがする。同様の意味で、改行詩の各行字数がそろっているいわゆる「幾何学」形の詩。読む眼から自然なうごきが殺がれる。

・静謐をみちびく修辞が吟味されていない詩。詩の声は、多弁とちがう。たとえば接続詞を多用すると詩が煩くなる。これは散文にもつうじる法則だ。さらには会話語尾=終助詞が陸続する詩。とくに女性の会話をしめすもののおおさが減退をみちびく。ことばの性差消滅にあらがう反動と見受けられるからではないか。

・ながすぎる詩。読者を威圧している。詩の権能が再考されるべきかもしれない。ルフランとは離れたところで反復の多い詩もまた、ながすぎなくても長すぎる粗忽な印象をあたえる。

・多幸症的な詩。はずかしさの徴のみちている詩。きつい言い方だが、当人いがいの誰にも防衛できない詩は始末にこまる。作者ではない者、等質ではない者、仲間でない者が、利害の外にある作品を防衛することこそが、希望の形態につうじている。この未来にむけられた導線を、多幸症、はずかしさの詩は、読者の眼前で台無しにする。
 
 
 
 

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2013年08月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ23

 
 
そこにうまれて、みずからが島にいるとわかるには、家窓から海のみえるだけではたりない。さまざまな海岸線を足裏で撫でるようにたどって廊下にし、しかも足どりがやがてまるく閉じるおそれを磨かなければならない。風のあたる面積ではなく、想像の水にしずむ硝子のもんだいなのだ。はじめにおおやしまと呼んだひとよ。もしゆく足が海岸をつぶさにおさめなかったのなら、きみだけが鏡を割って叛き、おそろしい渡来のむかしを神託したのか。
 
 

2013年08月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ22

 
 
ゆびよ、これからきみにするのは、くさい水へひたしたのちを岬とよぶことだ、たらいに張ったえきたいの藍から、星をあつめようとするきみの徒労を、夜にゆれる杉の秀とおもいかえることだ、やがてなんの有漏もうまない、さらにかたちでもないしずくをひきあげるときのまの、そのあたらしくあやしい音を、ぬれたゆびをけすための、音の化け物につらねることだ。
 
 

2013年08月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

西尾孔志・ソウルフラワートレイン

 
 
【西尾孔志監督『ソウルフラワートレイン』】

少女フェチで、観客のからだのおもて裏をひっくりかえすような変態映画『口腔盗聴器』を撮った上原三由樹、黒沢清『CURE』『回路』、それにエドワード・ヤン『恐怖分子』などを合体させたような狂気の破局映画『ナショナルアンセム』を撮った西尾孔志、このふたりがロビン西のコミックを原作に脚本を共作、西尾監督で、異様にこころにひびく感動映画が撮られたのだから、映画史の離散集合は予測が立たない。『ソウルフラワートレイン』。大分県の片田舎に住む初老の父親・平田満が、バレエ学校にて修業中という表向きで大阪に暮らす娘・咲世子の顔を数年ぶりにみるため訪ねる、小津『東京物語』的な大枠なのだが、ここでは予測不能の偶有性が「緻密に」組織されている。その意味では、泣けるけれども、決して催涙的な人情映画には終始しない。

もともと西尾監督作品は、室内空間を偶有的な間柄が共有する、という主題系を維持してきた。学生時代の作品『ループゾンビ』はルーレット賭博で尾羽打ち枯らせたサラリーマンのマンション住まい、そのシンク下から見知らぬ男が偶然現れて、なぜかその家を出ようとしても、「ループ的に」おなじところに舞い戻ってしまう、ブニュエル『皆殺しの天使』的な状況を基準にしていた。

前述『ナショナルアンセム』では物語の中心のひとつとなる一家の妻が帰宅した夫を迎えながら台所仕事をつづけ(幻想裡に)背後から浮気相手の男子学生に抱かれているショットがあった。フレームが男子学生までを捉えれば幻想、捉えなければ現実という、虚実を縫うフレーミングが驚異だが、その幻想の闖入も室内の固定性にたいして偶有的だった。レイプされたトラウマをもつヒロインがレスビアン傾向のある女のもとに転がり込んでいる『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』では、むろんその同棲形態を偶有的と呼べる。

偶有性によって共有され、人情が分岐されてゆく空間というなら、本来的には「乗合」が演じられる交通機関がおもいうかぶ。『ソウルフラワートレイン』ではその示唆が徹底している。たとえば冒頭、平田が妻・楠見薫から娘にあたえるための野菜をたくさんもたされ、大阪行のため軽トラックで駅にむかう場面では、途中で公民館でのカルチャースクールを終えた少年ナイフの現メンバー三人が拾われ、その荷台からマイクをつかって、娘の現状の不安を助手席の平田にあたえるやりとりがなされる。

大分から大阪へ向かう定期船で平田は、やたら善意を押し売り的に繰り広げるやくざ風の男(じつはハコ師=浅野彰一)と即座に昵懇になり、ビール缶ひとつで娘の幼いときの写真まではいった札入れを掏られそうになるが、機転の利く同乗者・真凛が浅野からその札入れを掏りかえすことで機縁が生じ、娘と合流するまえにできてしまった空白時間を、大阪・新世界案内をしてもらうことになる(ふたりはベタな大阪表象である串揚げ屋、スマートボール屋、ストリップ小屋、通天閣などを物見遊山する)。むろんこれも偶有関係で、ふたりのゆく場所それぞれが交通機関内部の空間と大過ない。

咲世子演じる娘に平田が合流、一献傾けて晩飯を愉しむときには、咲世子の女ともだち大谷澪が、平田にとっては奇妙におもえるようなかたちで(じつは咲世子と大谷のあいだには秘密がある)同席、結果彼らが酒食をともにした元遊郭建築を利用した居酒屋も、その同席者の同在が偶有感にみちあふれている。この居酒屋も見ようによっては「ここ」から「よそ」へと走りだす交通機関の内部、あるいはエドワード・ヤンのトレードマークのひとつだったエレベーターのような、不安にみちた走行過程をもっている(そういえば、『ソウルフラワートレイン』でもエレベーターが描出される)。いわば作品のすべての空間が「旅体」なのだった。

これらを土台に、大阪天王寺と堺とをむすぶ市電、阪堺電車(阪堺電気軌道)が、――さらには作品の終幕ちかくでは、そのレール軌道のうえを精確に走る軽トラック(前進移動で捉えられるそれはその背後に市電車両を隠すことでとうとう市電そのものと合体してみえる)も登場する。だが、それらの詳細はのちに述べよう。

西尾-上原が、あるいは未読だがもしかするとロビン西の原作もが用意するのは、空間共有の偶有性がもたらす「伝達」「照応」「点滅」の機微だといえる。たとえば手先に魔術師的な器用さをもつ真凛が、平田の掏られた札入れをハコ師自身への掏りによって取り戻したと前言した。これが伝達。

平田がストリップ小屋で見事な「花電車」芸を舞台で披露する天女のような踊り子(中村真利亜が演じる)に感動したのち、そのストリップティーズは作品が当初予期させなかった人物へと「照応」してゆく。さらには一日目の真凛が金髪の鬘(ウィッグ)でほぼ通したあと、二日目、公園で平田と再度待ち合わせるときには鬘がとられ、本来の黒髪となっている。ところが平田はその代わりにというように娘・咲世子から黄色のマフラーをプレゼントされていた。つまり真凛からいったん消えたアンバー色が、今度は平田の首を巻いている恰好だ。これを「照応と点滅との中間形態」と呼べるだろう。

さらにスマートボールで大勝した平田は巨大なテディベアのぬいぐるみを景品としてかちとるが、それはとつぜん盗まれて消える。このときには時間軸上の「点滅」が起こっている。こうした「運動」の数々の予測不能こそが、作品に多様性と現実感をあたえている。

けれどもタイトル「ソウルフラワートレイン」にふくまれている「花電車」は、こうした空間の偶有性から離れた、峻厳にして無人の真空空間だとひとまずいえる。真凛に案内された平田がストリップ小屋内で花電車の芸(花芸)を披露する踊り子に呑まれるなか、隣席にいた旧知の男からその言葉の由来を説明される。もともと花電車とは阪神タイガース優勝のような特別日に、車両をデコラティヴに飾って、客を乗せずに走る記念電車だった。この「客を乗せないこと」がストリップ舞台に転移する。ストリッパーが女性器をつかって、その機能的多様性の驚異をみせる自体的な芸(笛吹き、習字、産卵など)もまた花電車と呼ぶようになったと。つまり定期船、小トラックなどの具体的交通機関(平田が娘の運転する自転車の後ろに乗るディテールもあった)、あるいは元遊郭の居酒屋、さらにストリップ小屋の、照明・音響装置のあるオペレーションスペースなど、「交通性へもひらけた」疑似空間にたいし、二重の意味をもつ花電車そのものだけが、乗車不能の不可侵性に閉じている対比的な作品構造が看取できる。

乗れない電車、とは本質的にはタナトスへむかう電車のことだ。ストリップの花芸ではそれが形而上的に踊り子の膣口に特化される。そこに参入できるのはやがて膣圧で音色を吹かれることになる笛や、「お題」をあたえたリクエスト者にその習字結果を色紙プレゼントするため実際に挿入される毛筆だけだ。ところが一回目(一日目)のストリップ小屋では平田が踊り子に「お題」をあたえる羽目になり、結果、娘の幼少時の習字のお題「お正月」が書かれ、そこでまず時空が超越される。

ネタバレになるので間接的にしか書けないが、踊り子用の舞台に屹立して、花電車の侵犯不能性をさらに再帰的に侵犯する逸脱を演じる二日目の平田は、「頑張れ、ユキ」と舞台上、半泣きで連呼し、それがそのまま「お題」に「部分的に」採用される(このことは作品終末部でわかる)。感情による発声が他の観客の手前、「お題」として公式化される転位がここで見事に起こったのだった。

偶有性がなにか別の具体性に分岐する、この作品の運動は豊饒極まりない。それが一筆書きで描かれているような軽さと速さをもつ点が『ソウルフラワートレイン』の真の巧緻だろう。脚本の上原三由樹、西尾孔志ともに、ストーリーの速攻語りをそうおもわせないショットの定着力が素晴らしい映画作家だが、だからこそここでは物語ることが何かがふかく吟味されている。結果、新世界、天王寺を中心としたディープ大阪の、抜け目のない、それでいて落ち度だらけの人情と多国籍的な空間もがひらけてくる。

むろん阪堺電車や通天閣や将棋道場やビリケンさんが符牒となる大阪映画として、この作品は、伊藤大輔『王将』や阪本順治『王手』など通天閣系列映画(それぞれには作品内で具体的な言及がある)、大島渚『太陽の墓場』、田中登『マル秘色情めす市場』、市川準『大阪物語』等の系譜に列なっている。

これまでの西尾作品の特質は、すべてショットが創意的なことだった。たとえば『ナショナルアンセム』では移動ショットがどのように大阪の風景をとりこむかが創造的に計測されるが、短連鎖的なカッティングにあるショット単位も創意的だった。なかでも無理やりひらかせた眼に瞬間接着剤を目薬のように点じる、やくざ集団からストリートキッズへの仕置きのディテール、その暴力性などが忘れられない。

その西尾は、「見せない」フレーミングの名手という点では、性器部分をみせなかった初期ロマンポルノの群雄たちとも境を接している。『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』では、ヒロインが凌辱された自分の性器に手紙を出すという段階から、いよいよ男性との交接に踏み切ろうとする、暗闇に領されたくだりがあった。懐中電灯のあかりとフレーミングにより、そのときのヒロインの乳首、股間などが不可視状態を連鎖して、むしろ顔や肌の細部が時々で偶有的に特化された。この画面変転が、衝迫力とエロチックな幻惑に富んでいた。同様の「隠し」は『ソウルフラワートレイン』の舞台での踊り子の芸の描写にも活用されている。西尾の設計はいつも緻密だ。ちなみに撮影は高木風太。

さて、娘の女ともだちからの曰くありげな暗示や、娘の持ちものからの推理を働かせ、娘の現業に疑惑をもった平田(実際の平田は刑事役も多い)は、娘のマンションにのべられた寝床で悪夢をみる。このとき平田は花電車としての阪堺電車に「実際に」乗車しているのだった。だれも乗ってはいけない電車に乗り込んだことで、画面は死のにおいを放ちはじめる。

まずは車窓からみえる、電飾にいろどられた通天閣がゆれうごくことで異調が開始される。そのあと電車内は車窓外部が吉田喜重映画のようにハイキーにしろく跳ぶことで危うさをましてくる。駿河太郎の運転手と乗客平田の空間的な合致点のない、娘を話題にした会話。運転手は運転のため車両先頭で前方を向き、平田はがらんどうの車両中央で車両にながくのびている椅子に座りつづけながら(つまり相互に直角の角度をたもったまま)会話が「成立している」。やがて電車はどこにむかっているのかわからなくなる。このときの空間性の混乱という卓抜な西尾的演出は、前述した『ナショナルアンセム』での、夫の帰宅を迎えた妻が後ろから浮気相手の男子学生に抱かれている局面と、じつは質がおなじだ。

以上のようにしるして、作品の四つの「原理」も理解されるだろう――「流浪」「偶有」「結縁」「歓待」がそれらだ。歓待は平田と娘・咲世子に「二重に」起こるほかにも多々ある。まず真凛が平田に新世界の案内をしたことがそうだが、もともとふたりには「対照的な相似」が仕込まれていた。平田が「生きている」大阪の娘に会いにいったのにたいし、真凛の大阪行の目的は、阪堺電車の運転手からホームレスに墜ちて死に、警察に保管されている父の遺骨をとりに――つまり死んでいる「父親」に会いに――ゆくことだった。平田が新世界の映画館の任侠映画の看板からおもいだした高倉健の「仁義=啖呵」は、平田も同行した遺骨受け取りの際のひと騒動で、平田にさらに反復される。

そうなると、平田がみた花電車の悪夢も、さらにはストリッパーの性器開陳と花芸も、すべて歓待だったはずだ。ところがこの第二段階の歓待には、死のにおいがまつわりついて、それが充分に催涙的な「人情劇」を超えて、作品鑑賞後の静謐感へと直結する。これが作品の創意のたかさだった。一筆書きでさらさらとながれてゆく描写のあらゆる運筆にふかみがあって、これこそが今日的な映画の理知の設計図だったのだ。

平田満は『蒲田行進曲』「ヤス」の演技などが名高いだろうが、現在は善人役・悪役両輪の、脱規定性を誇るスリリングな俳優位置にかわっている。たとえば庵野秀明『ラブ&ポップ』での、裕福で援交好きのサラリーマンが、とつぜん理知的な変態性を閃かせる、ポーカーフェイスながらの変貌の不気味さなど忘れがたい。その平田を、この映画は、「偶有」性に富んだ短期の「放浪」のなかで「結縁」をよろこび、しかも正負双方の「歓待」にまみれる初老男のかなしさをもって活写した。作品そのものが平田をあたたかく、それでも峻厳に「歓待」していたのだ。

それでも「かなしさ」が作品のえがく女性たちにちいさくにじむ点がさらに忘れられない。平田の娘役、咲世子はいうにおよばず、その女ともだち大谷澪にも存在の不如意から発せられる現世的な悲哀がある。飲食後平田がコンビニにトイレを借りにいったあとで、ともに自転車をささえる咲世子と大谷がのこされる。このときふたりのもつ自転車がどううごいたかが素晴らしい。最終的にはともにかかえた自転車に挟まれたまま、ふたりは首を伸ばし、夜陰に乗じてキスをした。この首の伸ばし方が、前にある草を食む馬の、首の伸ばしのように生命的で切なかった。キスはもういちど出てくる。大阪の警察での遺骨受けとりで任侠の徒のように啖呵を切り、果ては娘の職業に直面し娘のうつくしさを全身に浴びる大任を果たした平田への「褒美」として、その頬に真凛がキスをする。これにたいしてさらに平田が、真凛に二重の褒美=歓待をあたえもした。

「二重性」というのが、『ソウルフラワートレイン』(もともとこのタイトルは「フラワートレイン」と「ソウルトレイン」の二重性によっている)の画像的な主題だった。ふたりの仕種という点では、物干し場か、ちいさな物見やぐらといった高みで、娘の仕事を見た父・平田、父に仕事を見せた娘が、たましいの疲弊にむしろ安堵したという風情で、ふたり、たばこをならんで吸う。そこには、そのようすを下からうかがう真凛をふくめた「配置のうつくしさ」がある。ふたりの遠景には大阪がそのままみえている。

もうひとつは、あらたに家族同士になると決意した長年の腐れ縁・大和田健介とともに、軽トラックの荷台(それはストリップ小屋のもつ機材運搬トラックで、ストリップそのものの宣伝看板までついている――書き落としていたが、大和田は作品に出てきたストリップ小屋の照明・音響係だった)に乗った真凛が骨壺をひらき、父の散骨をする掉尾ちかくのくだりだ。トラックは、かつてそこの運転手だった父親のために、阪堺電車のレール軌道の真上を前言したように走っている。このときトラック(の荷台)そのものが、前進移動で捉えたその背後の阪堺電車の車両とあわさり「二重化」するのだった。このことは「意味のうつくしさ」へと観客をみちびく。

最後に――父親のまえに、娘のうつくしい裸があったとすると、表現はそれをどう処理するだろうか。父親に「見させる」ことだけしかできないだろう。ところがその視線の侵犯を明示的にえがくと、表現が台無しになる。むろん『ソウルフラワートレイン』はこのことをみごと抑制的にえがいた。そういえば同じような達成が、廣木隆一の『ガールフレンド』にもあった――娘は河井青葉、父親は田口トモロヲだった。

『ソウルフラワートレイン』は、8月31日より新宿ケイズシネマにてレイトショー公開
 
 

2013年08月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

改行文7

 
 
あたえられた葉を採取地からくわけ
しょくぶつの傾向をうかばせる
ひとつ紐のようにながくたよりない
ねむりをひきぬかれた葉があって
髪にしてはみどりなそれが
どろみずへなびいていたと聴き
厚別区のことなりにおどろく
きっと胚芽がそのヘッドフォンから
糸状をひりだしたのだとおもうが
どの病斑が雌株のしるしなのだろうか
雨への境がいつもあかるむのに似て
ゆうれいをほのめかす逆草もある
 
 

2013年08月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

散文26

 
 
ひとには秘密があり、これほどの対象と恋愛していたのかという箔をつけるために、みいだされた写真にも箔がかさなっているのがのぞまれる。おもかげというものはすなわち眉目ではなく、巷路をかがやかせていた窓まどのなごりだから、その都市なりの、ひややかさの分布まで頬のつかれがつたえる。くびから下のからだが枠から外れている麗容も、おんなの掌がささえた銅貨に、すぐりや身売りのひびいていた暗示ではないか。
 
 

2013年08月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

散文25

 
 
だれが二人三脚などという奇態なきそいをおもいついたのだろう。ふたりなす門付が、いっぽうへ唄がたり、他方へ影の三味線弾きにひろがることを、巷路ではなく屏風のうえで挿絵にしたのだろうか。それなら岐路にて離れられない。ふたりのうちひとりが漢なら、ふたりから二本をくくってできた一が銀漢の爛れか。これすらくらい樹間をわたる幽の二人三脚ではみえないのだ。むしろ二人五脚めいた殖えを、みちゆくときの怖れにつかう。
 
 

2013年08月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

散文24

 
 
ひと雨ごとに涼気がますと肌がおぼえれば、それまであった夏がおのれに折れ曲がる猛々しい屈折熱だったと知れる。そういえばくうきには、こがねの蔓をみていた。それがこの時節ではものみなが解体され、ただのかたちになってゆく。あぶらのないせかいがはしごに林立してゆくのだ。ひとを裸に剥きたいこころも風がふいてはしご状にたかまるのだが、はだかは普遍だからそこで代理概念がみだれもする。たとえば、秋蝶はやぶれながらあやうくもつれる、というのはただの喩法だが、代理概念なら奇妙な構文をもたげさせる。一糸もまとわぬ、それによって糸になっているおんなに以前訊かれた、わたしはだれの孤独なの、と。へんな構文だが、この問によって風のむこうに糸までみえる、みえすぎておそろしい眺望が起こる。なにかのかわりに、という判断は希望以上に意外を連接させ、せかいをつめたく組みたてている。
 
 

2013年08月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

改行文6

 
 
かんじられる者になってゆく過程は
あおともむらさきともいえない
よるの樹の花のもとへあって
ものに託す身がまえをうみだした
樹下はくうきをおさめつつ
いよいよそのくうきでふくらんで
わたしはあたりからかんじられながら
葉の濾すもので肩を箔押しされた
かんじられつつ夜のわたしは
いきをすることまでくりぬかれ
樹からにじみだすもの音には
ただ身めぐりをきらきらにされた
背もたれは幹、頭上は花冠
それらみんなこなごなで
 
 

2013年08月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

散文23

 
 
あらたにつくられる楽器は、一個二個と算えられない点では樹林をおもわせるが、家そのものに装着されることから据え付け家具とみなされるべきだろう。鍵盤によらず、十人ていどの手で奏される作用部はあくまで弦によっていて、そこでは小石を混ぜられた水が可聴範囲ぎりぎりしずかにひびく。すべての音は音階から自由に、しかもおくれてあらわれるので、意味にならないことばを聴いている気もする。そこで生きもの特有の不如意がなぞられる。その家におもむかなければひくことも聴くこともできないので、歓待と離れられないそれは、渓流と名づけられている。別名、脳。
 
 

2013年08月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ21

 
 
サイレント映画などで人物を襲う運命の変転に、ヘビのうごめきをかんじることがある。手足のないものだから、のたうってゆく無方向への過ぎ去りが恩寵から見放されてみえる。きっとその上位にはなにとも名指せない消化器官もあって、それすらみだらに蠕動している。ころがるあれらはどこで時間なのか、性戯なのか。このように反省して時間に手足を修復すると、ついに汚物と人間と機械が一致する。すべて白黒画面では蒼褪めていない。
 
 

2013年08月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ20

 
 
詩型によって変えられたからだが一句二句とあゆむうち、さらにきえかかってゆくとかんじられる。それら倭人のもつ光暈の感慨からは、境涯のちぢみもにじみだしてくる。やがて栃の実と口にだせば、肌までしぶく黒ずむ可変。そんなふうに一冊を横行して、一句ごと必衰のなりゆきをみる。ちいささからくる五衰を拾うだけの眼だ。いきごんで稲の世をまたぎ越そうとしても、この三歩すら倭人の歩幅でつゆけくうるむ。
 
 

2013年08月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ19

 
 
詩作の暗色はみずからの死に顔を想像することからきざす。あおむくそれは天から放逐され、うすぼけていった果実におもえる。その瞑目も、あったまなざしが眼前のすべてをやわらかく中和していたすがたすら、ひらたく鎖すだけだ。盛夏のおわろうとするいま、はるか奥の秋がすけて、よわい木漏れ日のもと黒ずんだおおずみをひろいゆく分身のさまよいまでみえる。ならばたくさんある顔のひとつがやはり自分なのだ。
 
 

2013年08月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

藤圭子…

 
藤圭子自殺の報にはやはりこころ痛む。宇多田ヒカル-宇多田父の作歌コンビネーションからはじかれた彼女が買い物依存におちいっているなどのニュースも以前にあって、精神的に疲弊か病弊も生じていたのだろう。デビュー当時の凛としたルックスと声の凄味の落差から、五木寛之あたりがつくりあげた「物語」の重圧が、いまだに彼女の背骨を軋ませていたのではないかという気もする。

平岡正明は当時の演歌歌手をジャズとのアナロジーで語った。西田佐知子からいしだあゆみにいたるラインが、マイルス型のミュートトランペット。それにたいし、テナーサックス系の歌唱があって、藤圭子はこの系譜に属していた。ただし、歌じたいのストックは痩せている。森進一がいて、とりわけ青江三奈がいたからだ。とくに「あとはおぼろ」という虚無的なリフレインをもつ青江の「恍惚のブルース」の戦慄は絶品で、恨み節に傾斜せず生の流浪へととけてゆくあの「崩壊力」(ヘンな用語だが)を念頭に置くと、箔づけにつかわれた「物語」に邪魔されて、藤圭子の虚無はのびず、結果、歌手としては数年の大ブームのみに収束してしまった。だから「一人への愛」に殉じた青江のような、晩年の凄絶な苦闘もなかった。

前川清との結婚・離婚、宇多田父との結婚、ヒカル母としての再浮上……これらは「歌手という宿命」に藤圭子を雁字搦めにしない、負の作用力として働いて、彼女の生に、歌手・藤圭子を、空洞としてのこしてしまったのではないか。マンションのベランダから落下してゆく彼女が、歌手のすがたをしていたのか、それとも家庭から放逐された中年女性のすがたをしていたのか、想像するのは難問だが、前者のすがたをしていたとするなら、さらに事態は痛ましいとおもう。彼女は演歌系なのに、たしかに小6当時のぼくのアイドルだったのだ。――合掌
 

2013年08月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

散文22

 
 
ふるい夏帽子をかぶり、おもいだす頭蓋もふるくする。禾の字の風情で汽車にのり、低水をわたってゆきたいのだ。やがて夏帽子が車窓からとぶと、みはるかす木立の尖ざきがすべて帽子を負い、おまえの禾はどれか問うだろう。けいるいを捨て、八月尽には北地へひそむはずだが、ひかる禾はそのかんを地形となるべくあふれかえる。
 
 

2013年08月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

つぎの詩集

 
 
昨日の夜は「詩手帖」の亀岡編集長と、詩集ゲラを受けとりかたがた浅草で呑んだ。夏バテのままの過労で一部に健康を案じさせた彼だけに、炉端焼のカウンターでぼそぼそ話す感じがとてもよかった。

編集者と作者が、当該作者の話題をすることは、人世冥利につきる。亀岡さんの発言でとくにおもしろかったのは、「阿部さんの詩集は書評がすごくむずかしい」という指摘だった。書評をしるすにあたって焦点がさだめられない。それというのも、明快を表面的に印象させても、奥行きが何層もあることが如実につたわり、一種、底知れないその感覚が書評者を畏れさせるからだ、という。しかも基体となっている創作上の詩論が、変貌性を秘めていて単一視できない。それは阿部さんの最近しるす換喩詩学が、明快なのにやはり難しい点と軌を一にしている、とも指摘してくれたはずだ。

話題になっているのは、去年暮れ、思潮社オンデマンドで出した『みんなを、屋根に。』。そういえば、ぼくの詩集は送られてきた礼状でも褒め筋がかぎりなく分岐する。松岡政則さんのものには「荒川洋治に対抗できる詩集」といった一言があったはずだ。瀬崎祐さんは「悲哀」の感覚を称賛してくださった。貞久秀紀さんには「詩の瘤」という概念をぼくの詩集から見出していただいた。「詩手帖」に載った書評では、震災詩が震災前に書かれ、震災後にはそれが途絶する構造の不可思議を、江田浩司さんに見抜いていただいた。

しかも特別な佳篇と太鼓判をくださる詩篇が、それぞれで見事に異なっていて、この傾向はその他のかたがたでも同様だった。海東セラさんでも、期末レポートの余白に詩集の感想を織りこんでくれた某・北大生でも。ようするにそれぞれのかたの意見を綜合しても、「阿部像」が定まらないのだ。なかなか自分が不安定な場所にいるなあ、と妙な感慨をもつ。それが、賞と無縁なぼくの詩作位置を象徴しているかもしれない。

まあ私事を措くと、亀岡さんへはぼくのほうから、「詩手帖」の未来を提言した。とおからぬ未来に「詩手帖」は「戦後詩」世代のバックアップをうしなう仕儀になるだろうが、そのときのために詩は独善を捨て、「読んでつたわる」詩へと回帰し、読者をとりもどさなければいけない。それでないと「詩手帖」がつぶれる。そのための「誘導」が必要なのではないか。だからたとえば「アイドル」の場所にみずからを置こうとする文月悠光さんなどが現象的な逸材なのだ、とぼくは語った。編集長はこの発言ににこやかに応じた。たしかに「難解派」はいま詩集の売れ行きがわるいと補足もしてくれた。

そんなこんなで、今日は読書やフェイスブックへのポストかたがた、自分のつぎの詩集(これも思潮社オンデマンド)の校正をおこなう。詩集の校正が自分の詩作の最終判断となり、緊張もしいられるが、これほど愉しいこともない。判断ポイントはいつもおなじだ。○読んでいて疲れないこと(自分のリズムや縮約性で書いているのだからこれは当然のようだが、気張っている詩は阻害要因となる)。○読了後に爽快感やふかい余韻ののこる構成になっていること。それと、これがいちばん大事なのだが――○自分が書いているのに、他人が書いた感触があること。自分の癖や「独善」の峻厳な追放があったかどうかがそこでわかる。むろんぼく自身の記憶力がわるく、書いたことを忘れるから生じる判断基準でもあるのだが。

とりあえず校正してみての自己判断は「是」。自分でいうとバカみたいだが、「いい感じ」だった。完全入稿主義のぼくの校正紙はいつもきれい(編集者もラクだ)。ワープロ的な略字を正字にかえる直ししかない。ただし一箇所、語句の重複を改めた。

そのぼくの思潮社オンデマンド詩集のタイトルは「ふる雪のむこう」。初めての札幌で体験した「雪」のみを主題として扱っている。立脚の共通性は主題だけではない。型式的にもすべて二行聯が五つの作品で構成されている。去年の十一月から今年三月までになした連作をまとめたもの。方法としては、ぼくのいう「減喩」が駆使されている。順調に行けば、廿楽順治さん、近藤弘文さんの新詩集とともに、今年九月に出るはずで、不確定要因はそれぞれの表紙デザインのみということになるだろう。

そういえばこのあいだ、柿沼徹さん、廿楽順治さんと八重洲~日本橋で呑んだとき、そのぼくの『ふる雪のむこう』が話題となった。なにしろ全篇が「2*5」のスタチックな形式でまとめられているので、石田瑞穂さんのこないだのH氏賞詩集の二番煎じとおもわれないか心配だとぼくがいうと、廿楽さんが「そんなこと、絶対にないって」とわらったのが印象的だった。廿楽さんも、ぼくの詩業のつかみがたさをいおうとしていたのかもしれない。
 
 

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散文21

 
 
くちもとをしんみりさせるために酒精をはこぶ。すると背に気味わるくつばさが増殖してくる。それまでしゃべりすぎていた咎がかたちなすのだ。むろんはこぶことは天族の所業だから、ことばのはこびも酒精のはこびに凌がれる。このとき酒精のうちがわが酒精そのものによって増殖させられている全身をかんじる。しゃべりすぎるな、呑め、といっているうち、からだにはつらぬく無言棒までできていて、それが自分をはなれてぶんぶん飛ぶ。
 
 

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西谷弘・真夏の方程式

 
 
天才物理学者、湯川学=福山雅治を主軸に置いた、人気TVドラマ『ガリレオ』の、『容疑者Xの献身』につづくスピンアウト映画『真夏の方程式』は、いろいろな意味で隔靴掻痒の、それでも興味ぶかい作品だった。

名手・柳島克己の撮影を得て、監督西谷弘はとうぜんのことながらTVドラマを超えたスケールアップを目指す。しかしそれが構図的にはなるべくロングにしたい、という「傾向」へと即座に短絡してしまう。画面に俳優をふたり収めることで多くの映画画面が自充するという鉄則が守られず、「ひとり」をやや離れて映す構図選択の失敗がつづく。それで俳優の身体そのものに稀薄感が出てしまうのだ。とくに福山のように記号性に長けていても演技力が平板な俳優は、うつくしい海を基体にしたロケ地では空虚をさらすことになる。

かんがえてみればTVドラマ版は、湯川の大学内研究室というお定まりの閉塞空間があって、そこに渡辺いっけいらが配されることで、クリシェの展開そのものが充実するという約束があった。さらにストーリー驀進という話法上の「外連[けれん]」がからんで、「速さ」と「謎解きの理知」が両輪化する――それがTV版の魅力だったはずで、この法則が『真夏の方程式』では手放されている。

西谷弘は風景の選択に自負があっただろう。殺人が起こる中央線・荻窪あたりのほそい跨線橋には雪が降らされ、東京の風景に繊細な者の要求にこたえる。水晶のように透明度のたかい海がそのままにのこる(それがレアアース発掘のための利権の場に変貌する)主舞台「玻璃ヶ浦」は、そこにいたる海岸沿いの鉄路も、駅舎も、海も、たしかに風景上の魅惑に富んでいる。ところがきれいさがきれいさのままに映されてしまうから、いわば情念が充満しない。昼/夜の転換によって時間を推進させてゆく映画特有の話法も吟味されていない。フリッツ・ラングのフィルムノワールなどがもっと参照されるべきだとおもう。

ところで湯川の物理学者ならではの謎解きは、映画固有の主題系の「発見」と相即しなければならない。それはこの西谷弘の映画で確実に起こるのだ。ひとつは回想起点となる雪の跨線橋での殺人=トラウマ映像(犯行主体は一人称化されることで画面から消滅している――殺された西田尚美ははっきり視認できる)で、西田のもつ赤い傘が線路上にゆるやかに落ちて、それが走行してきた電車にはじかれる運動。この運動はやがて、杏ふんするレアアース発掘反対派=自然保護派にして、福山の投宿する民宿の娘、のトラウマとして蘇ってくる。杏がスキューバダイビングをしている渦中、海中から海面をみあげるカメラの視線方向に、その赤い傘が幻惑的に降下してくるのだ(CG合成による――この作品でのCG合成はこの場面と蠅の表象にきわまるとおもう)。

海中になにかが侵入して視覚性を織りなす――これが『真夏の方程式』の最初の主題系だ。しかしそれがどのように展開しているか、となれば、前段的な説明が要る。

冒頭、玻璃ヶ浦に向かうローカル線の車中にはケータイで通話をする小学男児「恭平」がいて、それがおなじ車中の老人の顰蹙を買う。ケータイが鳴ってしようがないと弁明する恭平にたいし、乗り合わせた福山は恭平のおにぎりを包んでいたアルミホイルにそのケータイをくるみ、こうすれば電波は遮断されケータイは鳴らない、と苛立ちながら解決法を提示する。ここから「くるむこと」という主題系が萌芽する。

恭平は民宿を経営する前田吟、風吹ジュン夫婦の甥っ子で、親の不在のあいだ預けられた子供だった。同宿の間柄となった福山と自然なやりとりがはじまる。夏休みの自由研究を重荷におもい、向学心も惰弱な恭平の「ダブルバインド」は以下の図式でしめされる。海岸から200メートル離れた海中の幻惑的光景がみたい。「けれども」泳げないし、舟も船酔いしてしまう。このとき福山は不可能とおもわれた課題に肉薄してゆく科学的方法を伝授する「父親の課題」を背負い込む。福山には身体的異変も生じている。TVシリーズをつうじ「その非論理性に蕁麻疹が出る」とされていた福山の子供アレルギーがなぜか恭平にかんしてだけは発動しないのだ。

福山はペットボトル10個程度を溶接して簡易ロケットをつくる(そのロケットの尻はリール付の釣竿と接続されている)。恭平と福山は海岸線からそのロケットを飛ばし、200メートルの飛行距離を得るまで、幾度も角度と起爆力を修正する。それからついに、ペットボトル内に福山自身のケータイを「くるみ」、それを飛ばす。ケータイはTV電話モードになっていて、コール音のなっていた自分のケータイを少年がひらくと、そこに海中の光景が映っている。しかも画は当該の海中そのものに切り返される。すると海中にある福山のケータイの画面にはTV電話モードによって、恭平の欣喜する顔が映っている。そこで、海中-浮遊する顔、という海中視覚が生じ、それがのち、スキューバダイビングをする杏(少年にとっての従姉にあたる)が海中からみあげた降下する赤い傘と「連動」することになる。

福山の同宿者には、引退した刑事・塩見三省もいた。彼は早々に死体として海岸線で発見される。誤っての転落死と当初判断されたその事故はとうぜんながら殺人事件に「昇格」する。彼には以前担当した事件で殺人犯として服役を終えた白竜をずっと追跡していた形跡があった。そこから白竜-風吹ジュン-前田吟という、杏の出生にからんだ「秘密」の領域が口をひらく。白竜は西田尚美殺しの犯人ではなかった。しかし冤罪を迷うことなく、確信的に受けいれた。だとすればそのときの真犯人は誰だったのか。塩見はそこまでを知っていたから、だれかに殺されたのではないか。

塩見の死因は転落の衝撃によるものではなく一酸化炭素中毒だった。中毒死後の死体を彼は海岸線に投棄されたことになる。福山は民宿のボイラー室と部屋の壁の亀裂から、周到に計画された殺人の経緯を見抜く。その実地検分に、恭平がからんでいる。塩見の死にさいしては同時に民宿の庭で、前田吟と恭平が花火に興じていて、その打ち上げ花火の軌道が、少年と福山がのちにおこなったペットボトルロケットの軌道と「共鳴」する。

前田吟はあっさりと自首する。一酸化炭素中毒で死んだ塩見の死体は、民宿を問題物件化させないために女房の風吹ジュンとともに短絡的に闇に乗じて投棄したのだと。つまりそれは死体遺棄の罪を負うためのだけの自首で、殺人にかかわるものではない。しかもボイラーを不完全燃焼させても、なぜかいる部屋を変えていた塩見にたいして、一酸化炭素が致死量にいたらないという実験結果もうまれる。どうやって前田は塩見を殺したのか――その「秘密」は福山だけが握っている。しかもそこにさらに恭平の無自覚行動がからんでいるのだった。

福山と恭平が宿で食事を摂るようすに前田吟が注意を払っている。そこから「紙」の主題が登場する。出汁を張って魚介類に火を通す「紙鍋」。その紙はなぜ燃えないのか。紙のうえに出汁があるかぎり、紙の温度は水の沸騰温度100度に保たれて、紙それじたいの発火点には達しない。そう福山が伝授すると、少年はアルコールランプの火に紙のソーサーをくべようとする。そのうごきを福山が咄嗟に阻止する。このときの手さばきの「速さ」はまさに映画なのだった。そしてここでは「くるむこと」が「おおうこと」に主題変化し、水中が紙に主題変化する点が見逃せない。

ただし東野圭吾の原作、福田靖の脚本を理知的に消化するのに急な西谷演出は、余禄を生まない。たとえば回想時制で塩見の死体を投棄する前田と風吹の行動が描かれるのだが、おなじように夫とともに死体を隠した風吹の往年の作品、黒沢清の『降霊』の記憶が召喚されないのだ(その場面では『飾窓の女』におけるエドワード・G・ロビンソンの死体投棄場面が二重化されていた)。残念ながら西谷演出は、ヴェンダース『パリ、テキサス』でハリー・ディーン・スタントンとナスターシャ・キンスキーによって演じられたマジックミラー場面の「転位」だけに集中している。

前田吟は脚を傷めていて歩行が不自由、という負荷をおわされている。塩見を一酸化炭素中毒にみちびくには民宿の屋根部分に目立たず存在している煙突に、濡れた紙で「蓋をする」必要があるのだが、それが前田の脚ではできない。それで恭平少年の善意を活用するという倫理的な逸脱をおかす。そこまでの「仮説」を、福山は拘置されている前田に語る。しかし証拠隠滅を果たしている前田は、それは仮説にすぎない、と自分の殺人をみとめない。みとめないのは、塩見殺しの動機こそを隠匿したいからだ。だれかが守られている。それが西田尚美を殺した者だ。福山は面会室で、その者の名をいう。それが杏(殺人時点ではまだ少女で、子役によって演じられている)だった。

杏の実の父親は白竜だった。彼が実娘の罪を「かぶった」。死期の迫る白竜の居所を、福山と刑事の吉高由里子は探りあてる。このとき西田殺しの犯人は自分だと病身ながら構えを崩さない白竜(彼は特殊メイクによって老人化させられている)の演技の、非福山的=非吉高的な情感がすばらしい。この情感は、なさぬ子を実娘同然に愛し抜いた前田の、面会室における隠された感情表現とも「共鳴」している。主題系の共鳴が、情の共鳴へと転位されるときに、物語の驀進とも情感とも当初縁のなかったこの『真夏の方程式』が映画性にむけて賦活する。

ところで想像力における物質的な足し算ということなら、「海中+紙=鏡」という数式が成立するだろう。じつは面会室における福山-前田の対峙には映画的な小道具が仕込まれていた。それがマジックミラー。ふたりのやりとりの一部始終は鏡の裏から、吉高由里子に付き添われた杏が眼にしていた。出生と殺人という二重の秘密をもつ杏をかばいつづける前田の気概に真の父性愛をみて泣き崩れる杏。その気配を前田がかんじて、杏のみえない鏡面(紙化している鏡面)に全身をふれ、その裏側から彼はガラス越しに杏の抱擁をうける。むろん映画史に連綿としるされつづけた催涙的な人物布置だが、前言したように、ヴェンダース『パリ、テキサス』のマジックミラー場面の「転位」でもある。そしてここでは「おおうこと」が「おおいきれないこと」へと多重に昇格する。

さて、ここまでなら東野圭吾-福田靖-西谷弘は主題系変貌の点で「策士の系譜」を織りなすだけだ。『真夏の方程式』のほんとうの感動は、「父性愛」の「共鳴=乱反射」にこそある。白竜、前田吟の、杏にたいする父性愛の拮抗については前言したが、それがさらに福山に、そしてあろうことか杏にも、反射するのだ。

福山、杏そろってのスキューバダイビング・シーン。そこで一旦、呼吸器を外した杏が海底に沈み、福山がそれを追い切れないという美しい自死幻想が挿入される。やがてふたりは海面に浮上する。余命幾許もない白竜の冤罪を晴らすため、杏は往年の西田尚美殺しにつき自首する決意をかためている。何重にも守れていた自分の少女期の「くるみ」を脱ぎ捨てようとするのだ。

このとき福山が諌める。いつか恭平は、殺人の間接的な道具にされた自分に気づく。その「気づき」をそのままに受けとめることの意義を「ただ」つたえるために、恭平の成長を杏が待たなければならない。「だから」杏は自首してはならないというのが福山の論理機制だった。この論理機制の「ずれ」が感動的なのだ。

福山はペットボトルロケットの連続発射によって、「真実に肉薄するための階梯」をすでに恭平に、「父性的に」つたえている。それがあるから恭平はやがて殺人の道具にされた自身に気づくはずなのだ。そのときには新たに「父性」を女ながらに装填された杏が恭平を守らなければならない。なぜなら杏とは、白竜と前田吟の二重の父性に「くるまれた」存在で、同時に父性そのものが乱反射する属性を備えているためだ。そのような複雑な読解に観客はいたるだろう。

魯迅『狂人日記』の結語は、「せめて子供を…〔救え〕」だった。中国的因習にまだ幼年であるがゆえに染まっていないと擬制される子供――無謬のやどりであると功利的にのみみなされる子供。「世界の推進力」はそこにしかないのだから、子供だけは治外法権にしなければならないというのが魯迅の論理だった。ところが東野圭吾の論理はちがう。子供は無謬ではない。しかもそのことは真理の科学的な探究過程のなか、子供の座から放逐された者にようやく訪れる試練の認識なのだ。このときにこそ「〔かつて存在していた〕子供を救え」という義務が今日的に発動する。しかもそれは自身の子供時代を「救われた」杏にこそ特有的に生ずる義務なのだ――このように受けとったとき、『真夏の方程式』が発するメッセージがかぎりなく深遠に映るだろう。

科学的な真理探究は、隠喩的な図柄として、『真夏の方程式』の画面に出現していた――それが「海中をただよう眼」だった(この逆元が、マジックミラーの裏側に真に必要なひとの気配をかんじながら、すがたを見出せない瞳、ということになる)。この意味で惜しいとおもうのは、眼の大きい、眼千両の俳優が作品に配されていないことではないだろうか(風吹ジュンがその類型だろうが、彼女の眼は作中で機能していない)。とりわけ杏の眼が、そして吉高由里子のちいさい眼がよわい。もしここに眼千両の柴咲コウが配されていたら、東野の原作を超える映画的な改変がさらに起こっていただろうか。
 
 

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宮崎駿・風立ちぬ

 
 
宮崎駿『風立ちぬ』が「ダブルバインド」をめぐる考察である点ははっきりしている。状態の発展をねがうことが、「同時に」、破滅への引き金をひく――それでも飛行機の設計にかかわる技術者は、技術の推進を宿命的に追わされているという絶対的な見解が物語を一貫しているのだ。だからこれを単純に「好戦アニメ」と指弾することはできない。吉本隆明のしめした「反・反原発」の見解が、「人間的な」居心地のわるさを産出してやまないのと、事態は相似だろう。

宮崎はそこに慚愧を織りこむ。たとえば軽井沢のホテルで主人公・堀越二郎は大盛りのクレソンサラダをパクつく、どこか諜報員めいたカストルプと出会う。カストルプは、飛行機の開発が即座に戦闘機の開発に転位してしまう時代的な逼塞のなかに二郎がいると示唆、中国を侵略、満洲国を捏造、国際連盟を脱退する日本の暴走をすべて「忘れる」ことで開発精神を保っている技術者の立場のあやうさについて念押しする。つまりダブルバインドにたいする自己処方が「忘却」だというのだ。もともとカストルプは、軽井沢という思索に適した優雅な避暑地そのものが「世界を忘れる」「魔の山」(トーマス・マン)だという皮肉な見解さえ述べていた。

ところで忘却が出来しない特権的な場所=トポロジーがある。それが建造物と空気の混ざり合う中間性の場所である点も即座にみてとれるだろう。最初の夢が開始される場所がまず屋根だった。鬼瓦の置かれるべき屋根の突端に飛行機が鎮座、そこから即座に墜落にいたる飛行機の飛翔が開始される。二郎と菜穂子の最初の出会いとなる場所も、二等車両と三等車両の連結部。そこでも二郎の帽子が風に飛び、菜穂子がそれをキャッチする。一種の「すきま」からこそ、ものが飛ぶのだ。

ふたりの再会では軽井沢近郊の高原から、そこで油絵を描いている菜穂子のパラソルが飛び、今度は二郎がそれをキャッチしようとする対位法的な運動が起こるが、ふたりの交情が濃密になるのは、菜穂子がホテルの宿泊部屋のバルコンにいて、これまた飛ぶ小道具として紙飛行機が活用され、投げる~受け取るの運動が反復されることによってだった。建物と空気の交錯する場所としては、のち黒川の家の離れで菜穂子が即席の花嫁衣裳を着て、能の橋掛かりよろしく婚儀の部屋に近づいてくる渡り廊下もある。あるいは菜穂子は結核療養に専念すべく長野の高原の療養所にはいるが、そこでは建物前部に療養者の寝袋がならべられ、寝袋の開口部からむきだしになった菜穂子の顔を降雪が見舞う細部もあった。これらでも内と外の弁別が滅却されている。

場所の中間性という主題とかかわって、機械の系譜という問題もある。この作品で真に夢見られている飛行機とはなにか。機動性がたかく飛行時間のながい飛行機の開発は、軽量化と空気抵抗の軽減、それにエンジンの高性能化という鉄則がある。このために戦闘機能すら除去できればというのが開発者のねがいで、それは「半端」を空へ飛ばすありえない希求へとつながっているはずだ。だからジェラルミンという軽量金属を駆使できるドイツ戦闘機にたいし、木材のままに天空の自由を謳歌できる「空飛ぶ炬燵」が夢見られたりする。ひとりの飛行家が孤独のままに空を飛翔することは、人間と無縁の昆虫になることにひとしい。いわば世捨てだ。それに作品の飛行機は、もうひとつ作品で頻繁にえがかれる「地を這う」機関車、その力感から浸食すら受けている。「飛ぶこと」が「走ること」の上位性を確保されているかも怪しい、というのが宮崎『風立ちぬ』の見解ではないか。

それでも飛行機は、「機械の連関」「人員の連関」によって飛ぶのだというリアリズムが作品を何度も襲来してくる。ナチズムにやがて傾斜してゆくドイツでの技術見学。あるいは飛行機の開発者として二郎の憧れの先達であるカプローニの飛行機は、その外部と内部の連関を刺繍するようなトポロジーの移動によってその細部を捉えられる。それでも夢の保証をうけて、空飛ぶ翼や機体のうえに立ってしまうカプローニや二郎は、身体の実体化というくびきを、「はかなく」除外されることにもなる。彼らは身体の実効性をどこかで奪われているのだ。

たしかに宮崎の想像力は加齢によって衰えている。宮崎は、戦前の日本の景観をニュートラルに強調するため色彩でいうと緑の点綴に腐心したと述懐するが、そのいかにも「塗ったような」(菜穂子のキャンバス内の色感と同等の)平べったさはどうだろう。飛翔運動そのものも、往年の『ナウシカ』『ラピュタ』『千と千尋』のようなエクスタシーがない。なによりも視界移動そのものが内発的に「アニメ―ト」の実質とわたりあうような驚異がいたましく縮減されている。かわりに資料に拠ったたとえば名古屋駅の駅前の風景の把握が堅実だったりする。

何よりも関東大震災を描出するにあたって選択された象徴表現のほうが、飛翔シーンよりも躍動している。当時の東京を瓦屋根の重畳として記号化し、それが揺れで波打ち、やがて黒煙を発する経緯は、内発的に物質性が変貌してゆく「真のアニメ―ト」とよべるものだった。「ダブルバインド」をえがく宿命を負ったこの作品では、法悦よりも災厄の把握のほうがより躍動している。こうした宮崎的想像力の現況が閑却されてはならない。

しかも大戦をつうじての日本軍飛行機の暴力的な戦闘は、特攻にせよ何にせよほぼ省略されているのだ。作品の終わりで二郎とカプローニが交わす対話は補足にしかみえない。「君の10年はどうだったかね?」「力は尽くしました…終わりはズタズタでしたが」「国を滅ぼしたんだからなぁ…」。ところがここに現れる「10年論」には、あきらかに日本の現状を憂う宮崎の「本気」がはいっている。

宮崎が自らの死後を想定し、ジブリのスタッフにたいし課題をあたえている点はスタッフクレジットからも看取できるだろう。まず宮崎自身の作画は放棄されている。同時に、CGの使用も最小限に抑制されている。そうして出来する「痩せ」が積極的に選択されている、と受け取ったのだが、どうだろうか。

ゼロ戦開発者・堀越二郎の開発過程に、堀辰雄『菜穂子』の世界を接ぎ木した点を、設定のキメラ合体とする意見があるようだが、そう捉えては作品の本質を見失う。作中、「ダブルバインド」の打開には、前言したように「忘却」がもちだされてはいるが、実際にもっとするどく機能しているのがエゴイズムなのはまちがいない。余命がカウントダウン状態になった菜穂子が、ゼロ戦開発で忙殺される二郎のもとに単身、輿入れしてくる行動原理には、死と引き換えに限定的な生を燃焼しようとする情熱が裏打ちされているが、その菜穂子に「乗る」二郎にはエゴイズムの業が投射されている。自分の幸福の実現が相手の死期を早めるこの運命布置もまた、飛行機開発と同等のダブルバインドであって、それこそが「肯定」されているのだった。菜穂子をまえにしての喫煙衝動もそうした二郎の宿命のために選ばれたディテールだし、その宿命が悲劇の見返りを生じるために、結核患者・菜穂子へのかさねての接吻描写もある。

堀辰雄訳のヴァレリーの詩句「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、「風が立てば」、いかなる意味においても生の本源が悲劇にむかって遂行されなければならないという道徳律にまで転化されている。ということは、エゴイズムこそが生の証で、そこでゼロ戦開発と、菜穂子との共生が等価に置かれているのだ。だから作品は、じつは戦前文学をつらぬいた結核表象のロマンチシズムを奥底で凌駕している。そのていどに宮崎『風立ちぬ』は価値の複雑をはりめぐらせた作品だった。この複雑性によって、夢想の推進力が「今日的=3.11以後的」に減殺されているのだ。作品のもつ傷、「実際と夢との分離」はまさにこの減殺のうえに現れている。

飛行機=飛翔の夢をはぐくむためには勉学に励まなければならない。結果、近視が昂進し、飛行家の夢を実際に断たれたというのが、堀越二郎を最初に襲った根源的なダブルバインドだろう。その意味で二郎は宮崎の分身だ。牛乳瓶の底のような眼鏡を少年時から着用せざるをえなかった二郎は、屋根のうえにあって妹のようには流れ星の推移を視覚的に謳歌できない。

その二郎の眼鏡ガラスの屈折によって、ふたつであるはずの二郎の眼は執拗に四つに表象される。ところで四つ眼といえば、中国で漢字を発明した伝説の人物(半神)・蒼頡がいる。このとき、漢字=飛行機(ゼロ戦)=文明が一本線でつながり、宮崎の世界観が垣間みえるのではないか。創造にともなう業が作品の奥底をしばりつけていて、この「私性」がじつは『風立ちぬ』の印象を窮屈なものにしている。しかしそれは誠実な窮屈なのだった。

「蒼頡」の名をもちだしたが、作品は『千と千尋』のようには漢字のもつアニミズム的な魅力へゆきつかない。代わりに算用数字が、二郎の画板上の設計図に頻出する。そのなかで特権的に描かれたもの――それがそこだけピントを合わせて精緻に描かれた「計算尺」だった。たぶん平方根の計算をも視覚的な実際として尺度化する計算尺の実体を、筆者は知らない。それでもそれが「飛行性」をもつ「人間の叡智の道具」だという点はたしかだろう。
 
 

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散文20

 
 
トラックの荷台に数人いて、陽で肌を灼きながら、ほとぼるすがたをながれゆく風にわけ。みえているをさらしつつ数人あれば、ちいさな棕櫚幾つを積む植木屋さながらで。こもれびを交わすけやき並木へ季節的に先行する。とりでのつながる頂までぶしつけな影でゆれ。古ることは葉から葉へとおよぼしあう。ひとはなんのそうもくだろうこすれて運ばれるのみ
 
 

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一日乗車券・八月十七日

 
 
町を見たい。それでも真夏は酷暑と外気のねばつきを避けたい。というときにお薦めなのが、「一日乗車券」をつかった、バスなどの乗り継ぎ行脚。冷房裡の車窓から移ってゆく町の景色が堪能でき、東京なら普段は地下鉄などでつながれた町の感覚が、バスによって微妙にかわる。まあ、貸切タクシーによる物見遊山を、偶然と必然で「縮減」した、暇つぶしといえる。

女房とよくやる遊びなのだが、ぼくも久しぶりに東京を眺めたく、昨日は都バスのみならず、都電(荒川線)、都営地下鉄、日暮里・舎人ライナー(モノレール)も一日乗り放題のパス、「一日乗車券・都営まるごときっぷ」(700円)を買っての小旅行となった。以下、その「旅程」を記録しておきます。

ひとこと言い添えると、出るのが遅くなったので(前日ぼくは柿沼徹さん、廿楽順治さんと深更まで飲んでいた)、最初、都営大江戸線でまず大移動したのがよかった。結果、乗ったことのない路線が多く混ざった。むろん路線選定はバス路線図をことあるごとに膝上に広げていた女房です。バスのつなぎがすごくよかった。

門前仲町 → 牛込柳町 (都営大江戸線、10時すぎ)
牛込柳町 → 若松町  (バス停ふたつほど徒歩移動、落ち着いたいい町。坂と道の湾曲がすばらしい)
若松町 → 早大正門 (都バス、大学は閑散としていた)
早大正門 → 早稲田 (わずかな徒歩)
早稲田 → 王子 (都電荒川線)
王子 → 西新井大師 (都バス、環七沿い。大師さんでは参拝、煎餅を買う。境内は盆踊りの準備中)
西新井大師 → 千住車庫 (都バス)
千住車庫 → 千住二丁目 (都バス)
千住二丁目 → 北千住 (徒歩、目当ての串揚げ屋が盆休み、非チェーン・ハンバーガー屋でランチビールと料理ハンバーガー)
北千住 → 駒込病院 (都バス。終点下車後、バスのくるまで風のとおる木蔭で涼む)
駒込病院 → 本郷三丁目 (都バス、東大前を通る。いつもながら感じのよい道。東大前の古本屋は軒並み盆休み)
本郷三丁目 → 大塚三丁目 (都バス、これもお馴染み路線。中央大医学部、跡見女子大前などをとおる)
大塚三丁目 → 池袋東口 (都バス、雑司ヶ谷墓地を遠望する)
池袋東口 → 渋谷駅東口 (都バス、少ない便数なのに、つなぎで簡単に乗れた。おかげでジュンク堂見物をスルー。明治通り沿いをゆく)
渋谷 → 新橋 (都バス、六本木・虎の門経由。自由劇場がなくなっているのを車中で確認。六本木もスクラップ&ビルドが盛ん。新橋・瀬戸内旬彩館で生の讃岐うどん、ジャコ天など買い物、烏森の飲み屋街にある、五時台から繁盛のモツ焼き屋で黒ホッピーとともに串ものをつまむ)
新橋 → 日本橋 (都営浅草線、下車後、日本橋のデパートでさらにすこし買い物)
日本橋 → 木場二丁目 (都バス=暮色のおおったなかを帰宅)

徒歩以外の行程は計14。ひとつに通常200円必要だとすると計2800円のところを700円でまかなった計算になる。
 
 

2013年08月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

テレンス・マリック、トゥ・ザ・ワンダー

 
 
【テレンス・マリック『トゥ・ザ・ワンダー』】


哲学があるようにみえて、テレンス・マリックの映画には美しかないのかもしれない。ある者は苛立つだろう。べつの者は「そんなことはこの世の構図じたいにありえない」と、ひたすら神秘をさぐろうとするだろう。いずれにせよ、そのようにしてテレンス・マリックの映画は、いつも「みえること」と「みえないこと」との葛藤のなかにある。

『地獄の逃避行』、背後の碧空にすこーんとぬけた風景が、突如あいまいな接写になって、朝露にぬれるあざみだったかを映す、気絶的にうつくしい一連。頁はめくられる、接写フィックスの連鎖として。やがてゆるやかな移動がくる。『天国の日々』で季節労働者=ホーボーが雇い主の屋敷にゆこうと三々五々なだらかな斜面をのぼってゆくとき、どの一瞬ですら人物群の布置=構図がなつかしさ、卑小さをたもったままゆるがなかったあの時間継続の奇蹟とはいったいなんだったのか。そして『シン・レッド・ライン』――。

テレンス・マリック監督『トゥ・ザ・ワンダー』におけるエマニュエル・エル・ルベツキの撮影はマリック『ニュー・ワールド』『ツリー・オブ・ライフ』にあったものを延長しつつさらに驚異だ。手持ちステディカムによってすべての画面に動勢をあたえ、対象をそのなかに賦活させ、しかもそれらは一瞬一瞬にして断ち切られる。つまり、すべてのショットは対象とカメラ運動自体がなす動線の、類似/延長によって、みじかい単位の連続としてつなげられてゆく。ところがたった二秒ていどのショットに、クレーンがつつましくもちいられていたりもする。なんとも贅沢な美の織物なのだ。

驚異=ワンダーは、みじかい単位のショットの、画角の奇異さ/斬新さで強調される。それは時間をつなげない。ところがシーン内をいわば間歇のままにはつなげる。接着剤もある。ヒロイン=オルガ・キュリレンコを中心としたヴォイス・オフの(仮定未来からそのときの画面をとらえなおした遡行性の)ナレーションが、画面展開に「いま」起こっている近似的な意味と仕種のゆれを、「統括」してゆくのだ。このとき人物は時間の不全をつげる媒質の位置にまでとうぜん不如意化させられるのだが、それは編集完成時点におけることで、編集を想像がほどいてゆけば、1ショットに対峙させられた俳優身体の自由はいつも/すでに、見事に確保されつづけていたはずとも理解できる。

水や、愛する者同士のたわむれを中心にしてカメラは細を穿ち、「そのものの」「関係性の」「内外」を、束を込めてゆくように繍いつづける。キュリレンコのゆたかに波打つ黒っぽい髪(ときにそれは滝になる)、その髪越しに恋人ベン・アフレックが捉えられるようなショットがあれば、それはキュリレンコの身体という濾過装置をつかって身体化されたアフレックが、自他弁別の閾を超えた角度=確度で瞬時捕捉されたということになる。「ちかさ」の唐突が映されているのだ。

となればショットは世界把捉の自在性・完全性を誇るようだが、実際はそうではない。たとえばパリの空気のにおいは視覚をつうじて奇蹟的な精度で共感覚化されながらも、たわむれながらあるくアフレックとキュリレンコの画面左右をとおりぬけてゆく間歇的ないくつかのショットは、彼らの背後のフランス式シンメトリーの並木を、そのシンメトリーの完成形でとらえるよう予感させながら、期待を外すのだ。それはアフレックがキュリレンコの連れ子に、空のとおい下部にマジックアワー特有の「地球の影」が映っている「ワンダー=驚異」をしめしても、その驚異認識そのものが却下されてしまうことにつうじてもいる。

キュリレンコ、アフレック。フランス女とアメリカ男の邂逅。パリ、モン・サン・ミッシェル。電撃的な恋におちる互い。娘をともない、キュリレンコがアフレックの家へゆくと、風景が広大にひらけてくる。「地球」の感覚がかわる。娘は転校するが言語の壁があって学友に馴染まず、「帰りたい」といいだす。ビザの期限切れが近づく。キュリレンコとその娘の帰国。ところが娘はまだ離婚できないでいる夫に取られてしまう。孤独。職なし。

見かねてアフレックがキュリレンコをアメリカへ呼ぶ。ところが彼女が不在のとき往年のクラスメイトと一旦恋仲に落ちたアフレックには、キュリレンコにたいする微妙な隔壁ができている。それでキュリレンコの愛が「押しつけがましく」なり、やがてその勢いが余ってキュリレンコはべつの男とからだをかわす。不貞の告白、激怒するアフレック、離婚調停の開始……

しるしたこれらはナレーションから得たものと、人物のうごき・表情から得たものを織り合わせてつくった「ストーリー」だ。要約されれば、いつに変わらぬ男女の仲の推移が、仏米の差異線に交錯されてあらわれるだけだ。しかももともとオルガ・キュリレンコの媚態そのものがうつくしさと愚かしさとを撚糸にしていた。みられることのうれしさ。自己身体の誇示。回転。スカートめくり。接吻。みつめること。さわられること。うるむこと。Childishなこと。それらすべてはやがて、その展開の驚異が次第に馴致されてゆくだろう予感をもともなって、「あらかじめ」痛ましい。

この痛ましさと共鳴するものが、画面の風景細部にもみちていた。水質汚染された川はうつくしいひかりで細部がゆれているのに、それは汚染をはらんでいる。それをいうなら、アフレックとキュリレンコの相愛確認の決定的な場所となったモン・サン・ミッシェル、この干潮時の干潟も粘土質の灰色でおおわれ、そこをたわむれるふたりの足は、のみこまれそうになりながら、あやうく次の場所へとうつされ、それでも「うごきのもつれ」は痛ましい音楽のように連鎖されていったのだった。

ショット運動と対象運動のもつ動線によって、全ショットは「おもいでのように」はりつめている。同時に大島渚の『白昼の通り魔』と比肩されるだろうショット数、ショットのゆらめき、ゆらめきのつなぎ、蛇腹がひらくときのような展開によって、すべてのショットが記憶不能性のむこうへとはかなく消えかかる。オルガ・キュリレンコにかんしてはその媚態の愚かしさ、うつくしさの印象がどんどん観る者のからだに蓄積してゆくのだが、ではその仕種の一瞬一瞬はどうだったのかといえば、忘却のなかにあいまいにほぐされてゆくしかない。「得たこと」と「得られなかったこと」のこうした意志的な折衷は、結局はテレンス・マリックが意図する「みえること」「みえないこと」の刺繍と照応するものなのだ。

それだけ、だ。たとえば愛する者たちの世界を触覚や嗅覚でつたえるショットの連絡は驚異的なのだが、たったひとつのひかりと闇の布置から世界をざんこくに換喩してしまう、「足りなさ=部分の宿命」によって厳格なショットはみとめられない。オルガ・キュリレンコはそのわずかにみえる裸身もふくめ「画面をいろどった幻惑」だが、彼女が彼女のままであることがそのまま寓喩となって映画表面を内破してもいない。ところがこれら「それだけ」が豊饒きわまりなく映るというのが、テレンス・マリックの魔術=詐術なのだった。この詐術の効果がせつなさと陶酔とであまい窒息感をあたえるのもたしかだ。
 
 

2013年08月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

改行文5

 
 
ふえるくすりを
視界にぬって
おもいでをひとりにしない
ならぶ脚にどぎまぎする
やがては枯れ葦になるから
いまのうち脚のあいだを
ひかりでくべておこう
どもるくすりを
のみどにあわくぬって
椀をすすってゆくと
ぬなわが倍になったみどり加減
ひとりのけむりを
胸ふかく呑んでいる
 
 

2013年08月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

散文19

 
 
写真がなにかということを写真じたいは知らない。あらわれてくる断面のてまえにどんな影がたたずんでいたかを意識できないのだ。空間化される時の尖端を、うすかわ一枚が耐える。それでもおもさのすべてをかるさへと還元する、極小の回帰とはなんだろう。なにが映っているかわからない写真までたくらみ、とりあえず呪いが眼にではなく空気にあったと、撮ってしまった時にちいさくしるしてみる。
 
 

2013年08月15日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

散文18

 
 
さよりを針魚と書いて、そのほそながさが、なみだにつうずると知れる。あおびかりする躯にたいし存外にあわい白身、くろいわたが時のくらさをただよってのち、いまさんま皿へ楽章のように回帰しているのだ。全身がなみだにぬれて勃っている。もぐって水の内を斬り、しかも海と共鳴していた、そのかたちのかなしさを、ただ単独のほつれにむかわせるためつまむ。
 
 

2013年08月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

散文17

 
 
ふたたびみたびとかさねるうちに、ひとが粉になってゆくことがある。それは労苦のあかしであり、消えのきざしでもある。そのすがたを家ぬちにおもえばあわれだが、いっぽうで天心にあるめぐりの、あらわれの位をたかめるためにも、いつも想像はこの粉をちりばめている。
 
 

2013年08月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ18

 
 
乞丐の歌、その系譜をわたしはこのむ。そこにながれているのは一身ではなく、情でもなく、まずは地勢だ。ながれてゆく地勢は、そのまま時間推移をなぞらないから、かならず想像のうえに褶曲をうむ。それこそが空間をおもう力となってゆく。この力のなかで無産の一身が砕け、そこへ星の散乱をみいだす。地の蝉を襲うに似るこのことが情のかたちにまで転化する。だからあらわれののちをふたえにする、回帰のずれのほうを、乞丐の歌の褒美としたい。
 
 

2013年08月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

散文16

 
 
うすやみは孵化をみちびく。つれこみの部屋にうすあかりしかないことは、卵が累卵になる、あやうさをささえている。それでもひとりのおんなに算えうるかずは一・五人までだ。ひとりの半数だけがすべてを八岐にわかれさせる。この影をいだくわびしさには、風のようなものもひらかれている。むろん刻々をわける卵殻の破裂音で、たましいは皺だらけとなる。
 
 

2013年08月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ17

 
 
はじまりなきものに終わりなどないというのはたしかに至言で、そこから訓えをかんがえる。ひとつはあらゆる時間が意識によるながさであること。ふたつはひとが生を享け死ぬまでにあたえられる容積も無惨だということ。ほんとうの乞丐がいるとすれば、これら限定のない者だろう。かわりに、ざんこくにも風韻や天籟の語が「風」をふくんでいて、ゆえに乞丐とはちがう視野にたいして、人外がのぞまれてゆく。
 
 

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メモ16

 
 
おおくの着想はおのれ一個の恥にまつわっているが、詩の書かれかたは局面すべてのなりゆきから恥をとりのぞくことでしかない。だから読者は知らずしらず恥辱という面で、ないもの特有の二重性をおぼえさせられる。作者と読者にまつわる共通の問い――恥辱は好きか。共通のこたえ――どちらでも。このようにして詩の体験は恥辱の微分なのだが、そうした約束が、かがやきすぎる陽光を蒼くまではさせないと銘記しておく必要もある。
 
 

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