散文35
アイもアイなき者も、とりかぶとのうつくしさにおののきよぎる。地獄の犬のよだれからわいた、そこだけべつにひかる青。あゆむかたわら群がゆれ、それらが根はおろか花房まで毒をおびていることで、ひえゆくすべてにまつわる世界の配置をおもいあたる。かたちをわたるくずれにも、茎のしなりにもひそかな変妙がある。みろ、いったんは軒並み青となって、やがて滅亡をたどる土のまぶたのかんがえ。
読売新聞書評
本日9/29の読売新聞朝刊、読書欄の特集コーナーに、小野沢稔彦さんの『大島渚の時代』(毎日新聞社)と抱き合わせで、拙著『映画監督大島渚』の書評が載った。執筆者は、アガンベンの翻訳や、クレーリーの監訳で知られる岡田温司さん。つい先日も彼の『半透明の美学』を読んで圧倒されていた偶然があって、この意外な執筆者選定がうれしかった。
記事は新聞書評を意識し、ながれるような可読性で書かれている。成熟した文章。岡田さんの京大学生時代の大島体験を枕に、ぼくと小野沢さん、ふたつの大島本を、ぼくの映像解析性・技術論と小野沢さんの歴史・政治意識が好対照としるす。その対照のなかで「他者」テーマが共通しているとも。どちらにたいしても、とても好意的な筆致で、おおきな記事で迫力もあるし、まあ著者としては嬉しかった。ただし文章総体は、二著の分析というより、大島監督作品の紹介に力点の置かれた感じもある。いずれ専門的分析的な書評が、映画雑誌などで出ないだろうか。
対抗馬とされた小野沢さんについてはじゃっかん面識がある。バリバリの68年世代。テマティスム構造批評の洗礼をうけたシラケ世代のぼくとは映画にたいするアプローチがもとよりちがうが、ずっと敬愛していたひとだ。「映芸」の大島追悼特集でも活躍していた。小野沢著作はこのあいだ本屋で見つけ、学校の図書館をつうじて注文、現在は到着待ちなので、まだ具体的なことは書けない。残念。
新詩集『ふる雪のむこう』
思潮社オンデマンドによる二冊目の詩集、『ふる雪のむこう』が、廿楽順治さんの『詩集人名』、近藤弘文さんの『燐の犬』とともにアマゾンで発売になりました。旧ネット詩誌「四囲」同人の揃い踏みというかんじ(高塚謙太郎さんの『カメリアジャポニカ』もすでにアマゾン発売済)。
まだ現物を手に入れていないので、自分で自分の詩集をアマゾンに注文しました。
オンデマンド詩集のつくりは簡素。いつも悩むのは、自己負担をすくなくするためオンデマンドを選んだのだから、寄贈負担もすくなくしたい、ということ。ひとにアマゾンで買ってもらえば、自分の買い上げ金も送料もきえる。ということで、ご購入をおねがいしたい、という告知をするのだが、このことにいつも気おくれがつきまとってしまう。寄贈の互酬ではなく、購買の互酬であるべきなのは承知なのだが。それで廿楽さん、近藤さんの詩集をさっそくアマゾンで注文した。彼らには自分の詩集をアマゾンで買ってください、と頼んだ。
寄贈はしたがって、今回も年長者か恩人で、具体的にお世話になって、自分がそのひとの書くものを好きで、そのひともぼくの詩が好きだとわかっているひとにかぎることにします。こういう送り方をするとなにか不安になるけれども、それが互酬制度にゆるみきった「詩壇」の正常化につながると信じて。送られるのでは?と心当たりのあるぼくの年長者のみ、買い控えていただければ(ヘンな言い方だ)。
ネット告知は寄贈終了のタイミングにしようかとおもったのだけど、廿楽さんがフェイスブックで、近藤さんがミクシィで告知されたので、ぼくも追随しました。
自分の詩集の説明を若干。
去年10月ごろから今年3月まで、書いた連作72篇を詩集にしています。主題は初めて赴任した札幌で経験した雪へのさまざまな感慨を中心とし、型式はすべて二行聯五つに統一しています。スタチックなつくりと一見おもえるでしょうが、やわらかさによって統一性が内破されている、と映ればいいなあ、とおもっています。ともあれ、主題的にも型式的にも、これまでのぼくの詩集のなかでもっとも「はっきりしたもの」になって、それが親密感となるかもしれない。
ご購入、よろしくおねがいします
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メモ33
あるとき椅子にすわれば、そのままひとは椅子のかたちになる。しかも内面にさえ腰かけているのだから、ひとの内側が直角に折れてながれる。さらさら音がこぼれるようだ。そろえた腿にひかりがあたると、せなかも背もたれに吸いついて、すわることは木と一体化する。休の字がふたつの部分になる安らぎ、こんなものがこころとからだなのだ。すわりながらさらに設問をかえてゆく。あるとき柱へもたれれば――あるとき寝床に横たわれば。
阿吽第九号
「阿吽」第九号が到着。藤原安紀子、河津聖惠、海東セラ、永澤康太、平川綾真智、黒崎立体、金子鉄夫諸氏の意欲作などが絢爛豪華にならぶなか、阿部はこの欄に一日だけアップした二行聯詩篇「一方が他方をふくむ歌」を掲載してもらっています。すごく不安定な、「減喩」による性愛詩です。ぼくの作では長いほう。綾子玖哉さんが日誌で褒めてくれています。さらには、たなかあきみつさんの訳詩もあります。ほか同人のかたがたも元気。
圧巻がもうふたつあって、まず紙田彰さんが編集した夏際敏生の一行詩篇集。九七年に病没、寺山修司、芥正彦、土方巽とかかわったこの夏際という詩作者をぼくは不勉強で知りませんでしたが、加藤郁乎『えくとぷらすま』をおもわせるその詩篇をいまの詩に風穴をあける試みとしてすごく新鮮にかんじました。それと松本秀文さんが、粕谷栄市『世界の構造』を「原作」に、例によって最大誌面を占める小詩集を寄稿しています。うちの一篇「旅程」には、とくにほろりときた。松本さん、この方向をさらにすすめてくれないかなあ
メモ32
ひとつの性交で相手の顔のみえなくなることがたくさんある。しろさのひらめくそのたびに、オスは黄泉落ちを余儀なくされる。犬の眼をあたえられるのだ。それでも反った顎のむこうへまぢかだった顔のきえるときには、おとがいの彎曲に鯨骨のけはいがみちて、じぶんが海浜でくずおれたとかんじる。あわの波がその秋からあふれる。うつろいゆくものは事前と事後とをまぜあい、すきな骨格のあいだからのみ、ちいさなおおきさがつたわってくる。
改行文8
えんげ、とは泰西女児の名のようだが
じっさいはただの嚥下にすぎない
からだの半球部分の化膿やまず
ぽぷらのしたでこっそりと服薬した
あまやどりをかねていたのは
世にあることがすでに下宿だからだ
ひとは左半身と半球でできていて
あやまたず中心を斬られている
その核に抗生物質がころがりつつ
右膝のほのおがいまももえやまない
えんげの音に沿い、ほそく立つのみだ
かたちなら円筒をこのんで円錐をにくむ
みれば水引のしずくがひかりぼやけて
えんげ、ただ人名がさびしいのだ
散文34
ほのあかるむ部位がひとにはあって、もろはだをぬいだ肩のかたちにそれをかんじる。そこでは尖端と途中がまざりあってそのまま肌のながれをなし、ほとんど余人とかわらぬ骨のささえながら、やはりそのひとのみの在をしずかにつたえている。ひかりが手をおいているのだから、そこだけが秋のなかおんなのようになげかう。その天とふれあう秤ふたつが首をたてて、とりわけ肩越しの構図ではかたちの肩が相の顔とおよびつくす。なで肩とみえるほそい彎曲は、すくなさにひとすべてをみちびくものとして、やがては神韻となる。
散文33
ただなかの野に駅を幻想する。そのものが移動するかたちのこぶりの駅舎がひとつあって、とうめいで人馬のくべつない乗客が、秋をおもう感情であふれだしてくる。それぞれがせなかに荷を負い、籠の枯草がやがての雪をよんでいる。わずかににじむむらさきがみなのひとみにあって、それが夢の市を草上にとげるだろう。とおい国の色彩論は、みえる色が眼底に先験されているとつげながら、いずれ色そのものの割合が減ってゆくさみしさにおもいめぐらす。この早い午後、すでに日もななめだ。そのななめが軌道となって、まなざしが枝状にながれさってゆき、駅前をひろがっていた人馬の骨すらきえる。
メモ31
よきこと、あしきこと、それらのねがいなく、かぎりあるその場の発想をおこなえば、ただちいさな持続にだけ、からだがひらくことになる。あるもののかたちをまっとうする、たとえば木陰に類するものを、木の底に置くような試みでは、ひとつの発想のおわりに、めんどうな善悪の色分けがおこらない。そんな不偏が帚木などを心眼にあらしめるのだが、いつも他人には、なにとあきらかにもせず、「わたしはおこなう」とつげるのみだ。
メモ30
みずからのかたちすら枝でささえないやなぎは、やはり髪系の霊異として異様なのではないか。枝ぶりをもってなにかにあらがうのではなく、鉛直方向をさわりつづけ、かすかにゆれるそのすがたは、地のふかみをしめし、よくみるとあたりへ粉までまいている。おおきくなるにつれいよいよあぶない微細にむかうやなぎの樹下が、ぜんたいを浮かす穴でないのがふしぎなくらいだ。かたち以外のかたちをかんがえるとき、ひとのまなかいにはやなぎの不逞が役立つだろう。それはこれまでいちども実現へいたらなかった予感だ。
散文32
おおくの俳書に「後姿論」が載っていて、その真諦は、あゆみさる樹のさみしさだ。ほんとうにはみえず、なにかがゆがんでかんじられる、視覚の亡霊状こそが後姿、という直観がはずせない。うしろが前方にとおくみえる異変をまるごと問うべきだ。十六日、髪神の地肌をふきわける野分アリ、夕暮にはそのタイフーンの後姿のわかれを、とおく雲の階下にあおぐ。かんたんな式とおもうが、やはり顔のみえない点には感ジ入ル。
メモ29
湯王と医王とが連れ立って、とおあるきしている銀のひろがりをかんがえる。めつむれば土手のようなそこでは刷毛で打たれた下草がなびき、きれいな秋虫がみずからひびいているだろう。きっとひかりすぎてみえない川が、かれらのあゆみに沿っている。そのなかにこの身も容れてほしい。壺としてある間柄のふくらみはいつもふたりがなすのだから、照りくもるまるみへとちいさく書きそえたいのだ、「持続の王はずっと息をつづけている」。
大根仁・恋の渦
ずっと観られなかった大根仁監督『恋の渦』をいまごろ観る。なるほど、この拡大ロードショーでも口コミで次々と若い客がはいっているのがうなずける、異様にリアルの目盛のこまかい爆笑映画だった。
この映画のポイントは、「類型」がどのように表現に活性として存在できるのかが熟考されていること。通常、「類型」をつくるには約束を「固めてゆく」。ありがちな「ことばづかい」「服装」「ルックス」「精神性」「運命の干渉性」「履歴」……そういったものをいわば外側からまずは塗りこめるのだ。そうして静態的な類型を準備したのち、役者なら役者をうごかしてゆく。ところがこの映画では逆に、固めず、対象をまずうごかせて、そこから「動態的な類型」を生じさせる(=高速で分岐させる)。「こんなヤツいるいる」と感覚しても、消え去りつづけるものが俳優同士のぶつかりあいのなかにただ運動として生起しているのだから、感慨を言語化するのは相当にむずかしい。事態はアフォーダンス理論で、諸行動を言語化するときの困難と似ている。あるいはマッハなものはマッハな言説に対応させるべきだとする、現在の批評様式のほうがここにのぞまれもするだろう。
原作はポツドール・三浦大輔の同題戯曲。たぶん大根版映画とは「類型性とリアルの葛藤」、その基準がおなじだろう。だから言語化の困難性はそういいたいところだが現在的な映画特有の現象でもない。むしろ現在的な表現すべての分野に、言語化=批評化の困難という問題がまたがっているはずだ。おおきくいうと言説中心主義を内破するように、「声」「仕種」「スピード」「異質性が次つぎ予想外に連絡すること」などを内実にもった表現が奔流しはじめたのだ。ぼくはラップや、十年くらい前のお笑い(たとえば笑い飯の登場時――たぶんいまならもっとマイナーなお笑いが舞台などに存在しているだろう)、現在の若手の詩の一部、大橋仁の写真(とりわけ写真集『そこにすわろうとおもう』)、富田克也『サウダージ』などにもそれをかんじる。演劇は不案内だが、三浦大輔主宰のポツドールもたぶんこのながれに入るのだろう。今後はこういった諸ジャンルにさらに融合が起こり、言語や音や映像で表現されているそれらに、対象化の困難が起こるようになるとおもう。批評はとうに死んでいるのだから、「なんかすげえ」だけで、対象が顕揚されてもいいのだ。
さらに具体的に大根仁『恋の渦』における「類型」の言語化のむずかしさに注視してみると、まずは登場人物が類別でいうとみんなバカでしかも脱倫理的、しかもみなに「どのへんで自分が収まろうか」と動物的に触手をのばしている気味悪い気配がただよっている点がおおきく作用している。承認願望と複雑な諦念といった「若者」への通常の標語をさしむけてもいいのだが、ぼくはそれを「動物性」と形容してみたい。
動物性は以下のように作動する。それぞれに黒い「腹蔵」がある。それは観察すると「見え透いている」。人物それぞれの「弱い」思考回路は、たとえば反意をしめそうとしていわんとすることを腰砕けにさせ、それでべつの反意が飛び出るといったかたちで顕れる。発語にあがき、不如意があるのだ。そこがまず転写しにくいリアル。あるいは得恋を錯覚した一青年は、恋愛カーストの存在に想到もできずに、対象執着を繰り返すが、それが自己執着をも再帰させていると気づかない。この再帰性の時間こそが磁気的に本能化=動物化されているのだ。しかも裏切り、浮気、予想不能の意趣返し……人物たちがおこなうことは、結果的にはいかにありふれてダサかろうと、どこかが革命的だったりする。
そうじていうと、人物たちは相互関係について性欲まるだし、かつ盲目だが、観客が観察すれば「手に取るようにわかること」が人物たちの「内心の計算」と干渉しあっている。だからいわば内破が兆した動物的な瞬間に、「類型の動態」が出現してくるといっていい。その言語転写の困難性は、ひび割れてくる瞬間を描写するさいにつきまとう、時間性の困難ともつうじている。それで「いるいる、こんなヤツ」と観客は自分の判断の高みにいったんは立ちながら、そうした透視力と離反する、奇妙な、くらい体感をも自身に刻みこむことになる。
うごくものの動物性=速度のみならず、バカという奥行のないものに奥行を感知させる立体感にもかすかに怖気をかんじる。これらがこの映画の、「類型提示の目盛のこまかさ」なのだ。ということはここでの目盛のこまかさは、「目盛のないこと」とほぼひとしいといって構わない。明視的なものの盲目性、盲目状態の明視性、この熾烈な感覚に、観客は笑いながらもさいなまれてゆく。だから鑑賞後に疲れをおぼえているのか否かがわからなくなる。ただし批評をできないものに批評をみた、といった充実感が着実にのこるだろう。
俳優たちは無媒介に、映画開巻と同時に画面へ生成しはじめなければならない。そのために認知度ゼロの男女俳優九人がまず集められた。彼らは前提のないまま画面に徐々に顕れてゆく。だから以下も、俳優名ではなく役名でまず書くことにする。
舞台はすべてマンションかアパートの室内。これが四つある。いっさい室外は登場しない。順にいうと、コウジ、トモコの同棲する一室。同郷のユウタとタカシがルームシェアする一室。これはセクシーピンナップで部屋の壁が飾られているが、オサムの部屋はさらにその度合いがつよく、鬱屈する彼自身の性欲を如実につたえていてとりわけ汚い。さらにコウジの弟ナオキがステディ・サトミと暮らす一室。この部屋が最もハイセンスかもしれない。暮らし向きが他より上なのだろう。それらがとっかえひっかえ作品に召喚される。いわば男と居住空間が結び付けられているのにたいし、女たち、とりわけトモコのショップ仲間カオリ、ユウコ、さらには意外性をもっと帯びてトモコ、サトミには空間横断性が授けられ、これがドラマにおおきな波をあたえるのがこの作品の法則だった。とりあえず描かれる男女九人は相互の部屋を行ったり来たりしている。
というようなことを書いて、この文を読むものには誰が誰だかわからない混乱が生じているだろう。この作品は演劇が原作だけにいったんえがく場所を固定、それを黒味+「*時間後(*日後)」の字幕表示を挟んでゆく話法を貫徹していて(この字幕登場時に、「ビー・マイ・ベイビー」のリズミカルなドラム音のイントロがながれる)、とりわけ主要人物がとうとう一堂にそろう(場所はコウジ、トモコの部屋)アヴァンタイトルシーンでは、混乱のきわみになる。それは音声的な混乱で、多人数が狭苦しく蝟集し、しかもケータイ通話もあることで音声がカブり、分節的な映画にある快適さが意図的に剥奪されているのだ。けれども最初からいた人物、そののち次から次へとはいってくる人物は視覚上はっきりと性質の差異を見分けられる。
ともあれそのアヴァンタイトルシーンでは恋人のいないオサムとユウコを引き合わせる目的があった。バカがあつまっているとはいえ善意が発動しているのか。のちにしるすようにオサムはヘンな類型だが、そのオサムにあてがわれるユウコは、篠田麻里子似で、篠田が「麻里子さま」と呼ばれるように「ユウコさま」と呼ばれていると、底意がなそさうで、素朴にやさしい(とおもわれる)トモコが形容するものだから「期待値」がかけられる。しかし現れたユウコが、男好きのしない微妙な「ブ*」だった瞬間、観客に爆笑が起こる。観客は明瞭さではなく微妙さを笑っているのだ。そうして冗談のように発露した「類型」学が、以後、その精度をさらにきわめてゆくながれにのせられて、観客は逆転だらけのこの作品の話法に鷲掴みにされてしまう。
この作品の物語をとても限定された字数で再現することはできない。そこにも言語困難性がまつわっている。よって、人物説明をすることで、作品全体の展開を代理しよう。これらはみなエイゼンシュタインのいう「タイプキャスト」だが、類例化が真に生じるのは姿ではなく、動態のなかからだとは前言した。
【コウジ】=眉間を神経質に痙攣させ、相手を睥睨する一見コワモテタイプ、女好きのする、といわれても納得するだろう。ところが「いいたいこと」はいつも発語能力不足で全うできない。あることにイラついている原因を特定できず、相手(おもにその同棲相手のトモコ)の「その瞬間」をいつも代理的に難詰するしかない。その言動のもどかしさは彼がバカだという事実を告げているが、やがてそのコワモテすら虚勢とわかってくる。価値観の幅が狭い。女を支配する。合法ドラッグにひそかに惑溺している。適正を印象される交渉の前では、言語能力がひくいため、からっきし弱い。それもそのはず、彼はフリーターで、現在の仕事もHメールで女を装うサクラという低劣なものでしかない。
【トモコ】=冒頭では美人にみえるが、ルックスは本当のところよくわからない。金髪に染めた前髪を垂らし、目許にかなり入念なメイクがはいっているためだ。世話好きで友だち思いの善意があるようにもみえるからともあれ最初は好感を観客にもたれるだろう。大柄。セクシーなのではないかともかんがえる。ところがそれらがすべて瓦解する。同棲するコウジに嫌われないよう必死で瞬間瞬間を取り繕う「相手依存」。しかも風呂上りのノーメイクの顔は目鼻の明示性が「ながれて」脱分節化している。叱られて泣くと、ことばも何をいっているかわからないかたちに脱分節化する。このドロドロ感がすごく笑える。徹底的な「敗け女」タイプのようにみえて、最後に大笑いを誘う逆転がある。その際の傍らの男への「耳打ち」動作、それが相手に聴こえる発声へ復帰するくだりなど、すべて別の基準の身体性が意表をついていて素晴らしい。セックスについては、同棲相手のシンジはマグロと評している。
【ユウタ】=この作品でえがかれる友だちソサエティのなかを一見クールに渡りおよいでいるようにみえる。コウジ、後述するタカシと往年は熱い「三人組」を築いていて、その後故郷から飛び込んできたタカシを引き入れて、そのタカシにも情が篤い。とみえてデリヘリ狂いの性欲アンちゃんだし、ある性的な局面で異様に「甘えん坊」になったりして予測不能の可笑性も発現する。かかってきたケータイを誤魔化す卑劣さはこの彼と、後述するナオキにあたえられている。
【タカシ】=無計画に上京、同郷のよしみでユウタの部屋をシェアさせてもらいしかもパラサイトしている彼は、ルックスは狐顔で冴えないのだが、サングラスをする自分を格好よさの極致と曲解している旧いナルちゃんタイプ。サングラス装着が「勝負」信号となっている。むろん話題の提供にも現在性がなく、しかもあかるくはしゃげばはしゃぐほど、暗さを感知されてしまうイタい類型で、バカのコウジにさえ煙たがられる。彼が後述するカオリに戯れの、気のないキスを授けられ有頂天になってからあとは、ケータイ連絡に執着して痛ましい。ところが作品の最後、母親が倒れたことで、深夜バスで彼は故郷に帰る羽目となる。このときには同室のユウタに仁義を尽くす。田舎くさい「純情」を貫徹した彼は作品内の唯一の「善人」だが、動物くささは「空気の読めなさ」に集中している。
【カオリ】=前述のトモコ、後述のユウコとショップ仲間。作品内の「女子」ではいちばん美形といわれるだろう。男を見上げる視線や性愛につながってゆくキス、抱擁、愛撫のされかたに天性といっていいコケットリーがある。「混乱」の種を蒔きつづける能力が素晴らしい。ただしショップ仲間同士の「友情」はとりあえずの処世で、すぐにリセットできる気配だし、性的昂奮をおぼえた相手には猛獣的なマキャベリズムを発現する。いわゆる「ビッチ」。トモコがフェラをいわれなければしないと聴けば、対抗意識で入念なそれをおこなったりする。とくに、サトミのルックスと自分のルックスを比較衡量し、サトミの恋人、ナオキに自分を仕掛けてゆくときの打算的な先読みが映画的にはスリリング。意外な気概もある。
【ナオキ】=コウジの実弟。弟思いの兄にたいし、こちらは裏で兄をバカ扱いするなど二枚舌オトコで、セックス好きの自信家。一応、大学で心理学を勉強している由で、浮気は同棲相手のいない間の自宅に連れ込むのがいちばん、ということを「木は森に隠す」の格言で表現するなど作中、唯一、教養体系を誇る嫌味なクールガイだ。それでも浮気後は消臭スプレーの散布に余念がない。また夜の接客仕事をする同棲相手サトミが帰宅後即座にシャワーを浴びるすがたに、あまりにもあからさまな浮気証拠の隠滅は、浮気していないことの逆証と、俗流心理学を楯に確信する男でもある。自身は浮気大好きだが、なぜかステディはサトミと思いつめている。サトミに内容を知られてはならないケータイコールがしょっちゅう鳴る。サトミの妊娠判明のときには、「追いつめられて」うれし泣きをするのだが、腕で眼を隠し、横を向くので泣きの真偽がついにわからない(演技的人格である点もそれに作用する)。そこが笑える。カオリとの駆け引きもふくめ真情を迫られたときの発言の「溜め」に一種の磁力があるが、それはやはり脱倫理性と軽薄さによって動物性の域を出ない。
【サトミ】=恋人依存ではトモコと変わらない。引っ込み思案なようすはアヴァンタイトルシーンに現れていた。ルックスも平凡で、いろいろと同棲相手のナオキを縛るだけ。造型が他のキャラクターに較べ弱いかな、とおもっていたら、最後、作品進展の意外性、その最大値の引き金をトモコとともに引くのが彼女だった。ベチョベチョ暗い女は怖いとおもわせる。
【オサム】=この作品の最大のヒットだとおもう。一種のバラバラ男。それはルックスにも現れている。逆立てた頭髪の中央を金色にメッシュしている髪型はパンク類型だが、着用している眼鏡はクラシック、座標化できないダウンジャケットを着て、ジーンズはビンテージ風。顔貌そのものはルーラル。そうしたバラバラな服装指標のうえで、コウジにユウコの歓心を買うための物真似芸を迫られれば不発を繰り返した挙句にキレるし、発声は子供っぽく、しかもデカい。幼児性の痕跡がいちばんのこっている。ともあれ篠田麻里子似と紹介されたユウコが激しい期待外れだったとは男子全員の認知だったが、場面がオサムのアパートに移った瞬間、そのユウコをオサムが自室に引き入れる場面となって、その意外性に爆笑する。ちょっと休むだけという体裁のユウコにたいし、「寝て」という唐突なことばを発し、ユウコも蒲団とは離れた畳のうえに着衣のまま横になるしかない。それがやがておずおずとした相愛確認を経て、ふたり四つん這いのまま顔と唇を伸ばしあい、キスをする奇天烈な仕種では、サイトギャグが何かが存分につたわってくる。しかもオサムはモテない男の侘しさだけではない。いったんユウコの存在がステディ化すると、肉まん所望のエピソードにあるように亭主関白化・暴君化し、しかもブ*=ユウコと肉体的に付き合っていることは沽券にかかわるので秘匿化されなければならない。それがユウコの独断でまずトモコに知れたときユウコへの暴言で情けないことに彼は、逆にユウコにボコられる。このあとの経緯がすごい。次第に失ったものを後悔して出て行ったユウコに切々と詫びる泣きごとをケータイメッセージに間断なく入れ続けるのだ。ユウコが帰ってきた気配に、また彼は平穏を装って寝たふりをすると、ユウコのケータイの蓄電が切れていたと判明する。ユウコが蓄電を開始すると、オサムの入れたメッセージがあからさまとなり、関係が復活する。こう書いてわかるだろうか。オサムの情緒はバラバラで、連続性を欠いているようにみえるのだ。ところがこのカップルだけがいわば作品内の完全なハッピーエンドで、実際、作品の高度な批評性ではなく心情的な作品への「好感」は、このオサム-ユウコの、変転と暖かさを奇怪に盛られた関係がもととなっているとしかかんがえることができない。
【ユウコ】=オサムとのいきさつはオサムの項に書いた。それ以外をいえば、悪心と裏切りが「渦」巻くこの作品法則のなかで、この動力をきっかけにして、ユウコにも価値逆転が起こるのではないだろうか。「篠田麻里子似→ガッカリな結果」という最初に盛られた反転は、その後、さらに逆転を経由して、じつはこのユウコがいちばん可愛くみえるのだ(ぼくだけかもしれないが)。ともあれ、容貌コンプレックス、便秘をスカイツリーのトイレで晴らしたいと女ともだちにいうときの口調の尾籠さ、あるいはオサムとのセックスでの乳首弄り、あるいは「もう一回のおねだり」などは他の類型(トモコのマグロぶりをつたえる大事なときの就寝、カオリの献身的な猛攻、サトミの性愛での得体の知れなさ)にたいし実際は「中庸」で、そのかぎりでも存在の聡明さがかんじられる。ただし、バラバラな人格のオサムとハッピーエンドを迎えたものの、作品の「その後」では間柄に暗雲をおぼえる。彼女ものち、トモコのように「泳ぐ」のではないか。
――とまあ、ぼくにしては例外的に、登場人物を評してみた。共通するのは、映画の細部の実際が、人物を説明するためのシーンに終始するのではなく、意外性にとんだ人物間の相互性を設定し、そのなかの動態が言語化しにくい類型性としてのみ生け捕られ、それがリアルへの直面となる点だ。この「生け捕り」は大根監督の、活性そのものへの崇敬と連絡していて、それで作品が意地悪な逆転にみちていても向日的にかんじられる要因になっている(とはいえ室内シーンのみで太陽は一切、作品に存在しない)。ところでこの「生け捕り」の感覚を貫通するためだったのだろう、信じられないことに撮影に要した日数は、たった四日間だったという。たぶん俳優たちはリハーサルによって個々の人物に「なった」のち、このノンストップ逆転の作品空間を、身をもって驀進するしかなかった。また驀進できたからこそ、撮影も四日間で完了できたのだ。
三浦大輔の原作舞台はもっと辛辣な類型学リアルに徹していて、観客に希望の余禄をあたえるポップさがなかったという。このときに映画特有の特性をかんがえる。俳優が画面に映ることは映画ではそのまま救済なのだ。ところが演劇での俳優の舞台出現は、もっと傷の露呈にちかいのではないか。ともあれ部屋から部屋へとわたりあるいた大根版映画にたいし、三浦演出版舞台は、部屋を複数、舞台上に分割していたのだという。その分割が批評性のつよさを導いたきらいもあるのではないか。
大根演出のもつ、「類型性」がそのまま希望へと転化する魔法にはじめて接したのはTV版『モテキ』だった。とくに満島ひかり。先輩新井浩文へこころの操を誓いながら、森山未來にも心を寄せてゆく満島は、映画おたくで泥臭いところがヘンに実在感をあたえてエロっぽく、いざ森山と初体験というくだりでの満島―森山の相互の手の距離のおずおずとした変転など、カッコ悪くて可愛くて痒くて視聴者反射的で、抜群の精度だった。その満島が失恋したときに号泣のまま、カラオケで神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」を唄い、周囲にドン引きされるときの現実感と批評性にも震撼した。たぶん『恋の渦』の親和性はそういうものとつながっているはずなのだ。ちなみに俳優を抜群の運動神経でやさしく鷲掴む、この作品の撮影には、柴田剛『堀川中立売』、西尾孔志『ソウルフラワートレイン』などの高木風太がくわわっている。
最後に、『恋の渦』の俳優名をしるしておこう。コウジ=新倉健太。ユウタ=松澤匠。ナオキ=上田祐輝。タカシ=澤村大輔。オサム=圓谷健太。トモコ=若井尚子。カオリ=柴田千紘。ユウコ=後藤ユウミ。サトミ=國武綾。
『恋の渦』は東京ではオーディトリアム渋谷で9月20日まで拡大ロードショー。札幌では蠍座で10月1日から14日に上映される。ぼくの学生はこれまた必見
改行文7
もうじき立っているここが
十月の国とみわたせるようになる
ほそい葉がかがやきながら
萩のさみしさもかしぐ
みじかいものがみじかくちぢみ
まがるむすびをむかえるとき
そのひとつきは翅を散りしいて
ゆくひとを待つあぶない底にかわる
あの峯でさえとおさをほどく
むこうへつなぐ露がこわいのも
すべてとなりがすきとおるからだ
十月の国ではおとろえがわたりすぎ
じぶんの身だけを湯殿とかんじる
季節そのものがおおきな漏刻となって
さまし湯のように草生の端をひたす
メモ28
このごろ、というときの思いのつながりには、ひとつのおなじ風がみちている。あるいはわたるおなじ風こそが、このごろをつくりあげている。筒のなかのひかりにはいっているようなものだが、おなじ照りかえしに憩うからだは、あらわれてくる異なりをするどくいなむ。いんとれらんすとはそんな堅い立ち姿だ。みなみにもどって竹群へはいると、このごろの気味わるさがあおくならび、たがいにそよぐ。おまえの筒とわたしらの筒はちがうだろうと脅しされる。このごろというのは情けのうえでは、日々そのものでなく、日々を泣くことへまで踏みだしてゆく。あおく着ているぼろのすきまを、ひかりがむごくとおる。
メモ27
待つ。やがてじぶんが岩になろうとも待つ。ものごとのうつりはいつでもゆるやかで、その緩慢さのうちがわに神経とまごうかたちで希望が帯電されている。けれどもそうした外界をかんじつづけるまえに、ゆっくりと岩になってゆく、じぶんの存在の変成にも法悦しなければならない。はじめ血管が肉へうまり、そのうち肉が骨に凌がれる。すべてをつらぬく塔のようなものがちいさく兆し、それをこころにめぐりがへってゆく。これら死物化がとおく雷を澄ませかつ凝らせるのなら、待つことは、ながめと消滅のあいだにかけられた均衡ともいえる。
小林政広・日本の悲劇
【小林政広監督『日本の悲劇』】
2010年7月、戸籍上は111歳の老人がミイラ化した状態で古い一家屋から発見される。東京足立区での事件。捜査の経緯は、その老人の娘が極貧状態に置かれて父親の死を秘匿、父親に支給されていた年金を長年不正にうけとっていた事実をあかるみにだした。この事件はセンセーションを呼ぶ。それで百歳以上の老人がいるとされる家庭で同様の不正がはたらいてないか全国的な調査が開始されると、似た事案が次々と浮上してくる。それで長寿国日本の内実が、経済的逼塞のなかで空洞化している虚無的な実態があきらかになった。
小林政広監督は、この足立区の事件を発想の手がかりにして脚本をしあげ、往年の木下恵介作品と同題の『日本の悲劇』を撮りあげた。手法ははっきりしている。昭和家屋と呼べる空間のそれぞれの特定箇所にカメラを据え置き、ときには延々15分にもおよぶフィックス=固定撮影で、俳優のやりとりを撮り切ってゆく(構図補正はたぶん二カ所しかなかった――それもわずかな補正で、パンとかティルトとかといわれるものとちがう)。画面は「ほぼ」モノクロ。
こうした手法は通常は演劇的と分析される。演劇にあっては、舞台正面性が保証されたのち、時空の連続が所与とされる。ただし平田オリザなどはそれに異議をとなえ、舞台正面性を廃したのち、おそろしく目盛のこまかいミニマル・リアリズムを導きだした。小林演出も平田の着眼と共通するだろう。限定空間での俳優どうしの事大主義的な「対峙」は描写の眼目にない。実際はカメラによってみつめられる時空にこまかい圧縮と飛躍が内挿され、演劇性にまつわる所与が「あるかなきかの」映画性へと着実に転化されているのだ。
とくに画面内俳優の正面性を「部分的に」剥奪してゆく画角の切り方が素晴らしい。とりわけ仲代達矢にあてがわれた「後ろ姿」の活用。かつての家族が食卓のどの椅子に坐るかの法則が「家族消失」後も遵守される一方で、切り返しカッティングのないカメラは、後ろ姿で置かれた仲代の所在を放任してゆくしかない。しかしそれで、固定画面いくつかでいわば「存在の穴」ともいえるものがしずかに吹き出していたのだった。
演劇的にみえて、静謐さをもりこまれた映画的=視覚的な表現。それでなければ空間的固定を連続させるこの作品が逼塞的におもえてしかたなかっただろう。小林政広監督はこれまでの作品でも長回しを多用してきたが、手持ちによって対象を追うものと、この作品の方法論はおなじ長回しでもまったく異なる。ただしどちらの場合でも逼塞は回避されてきたのだ。だから彼の手法を「重厚」と形容すると間違う。
空間が固定されて、フレームはいっけん強固になる。ところがそのフレームはそこへの俳優の出入りによって再=柔軟化をほどこされる。このとき外部/内部を縫う、身軽さの哀しさを帯びた俳優として、北村一輝が抜擢された(その彼がやがて閉じられた扉のまえにいわば釘づけされて朝を迎えるのだ)。画面外の「音」が優勢な、ひとつのシチュエーションがある。いまだに昭和中期の家庭習慣を踏襲して、家の電話は玄関口に置かれているのだが、その電話機が鳴る。画面は二度目の肺癌手術を拒否し強硬に退院してきた仲代の「死相」「衰退」を中心的につたえている。北村の行動はすべて画面外の音として描写される。洗濯物を打つ音。駆ける足音。玄関でサンダルを脱ぐ音。一回目のコール音では受話器を取った刹那に電話が切れる。また洗濯物を干す作業にもどると、二回目のコール音が鳴る。似た音の演出が反復され、今度は電話が切れるまえに受話器が取れたらしい。相手は無言。それで北村が相手を、いまは気仙沼にいる別れた元・妻と直観し、その名をむなしくよぶが、相手からは何の反応もえられない――これらの描出が「外部」の音だけの演出によって貫徹される。
音=声に拘泥をもつ作品だった。仲代は末期癌治療を拒否した余命幾許もない老人。しかも彼は部屋の扉と窓を釘で打ち付け、みずから即身仏となるべく家庭内閉所に籠城する。「即身仏」の「うつろさ」はすでにその生前のすがたに転位されている。だから彼は後ろ姿での取り込みを連続させられもするのだが、肺癌手術後の疲弊、しかも転移がもうあることは、その「声のよわさ」「表情のよわさ」で多重に表現されている。彼は「多重性の穴」なのだ。声の張りあげが符牒だった往年の仲代とはおおきな径庭をしめしている。
これにたいして、息子・北村は、いまの中年世代とくゆうのフランクで軽薄な親への饒舌を最初あたえられる。ところが父親の籠城と対話拒否に直面し、扉の外からの必死の語りかけへと移行、いわば語りの脱分節化を余儀なくされる。泣き声がことばの意味を底からぶちやぶるのだ。たぶんまだ生活が暗色化していなかったころの父親への彼の呼びかけは「オヤジ」だったのではないだろうか。それが「悲劇」が最終定着しようとしているその局面では「お父さん」の連呼にかわる。このとき北村の声が「子ども帰り」してゆく変化の機微、それがなまなましい感動をよぶ。
いずれにせよ、空間は固定化され、いちおうはフレームの閉塞性によって高度に磁力化されている。「画面外部」は如上あきらかなように「音」として描出される(「外部」はたとえばこの作品が駆使する、これまた固定画面でえがかれる回想シーンと「現在」とのはざまにも黒味画面でひびわれていて、そこに充満する「音」はやがてコラージュと多重化をほどこされて「現実」の符牒をうしない心情化されてゆくことになる)。
もんだいは画面内が「現在の悲愴」、画面外の「音」が外延の可能性をあらわしていることから希望の領域だという――そういった二分法がこの峻厳な作品に適用できるかということだ。内側の「うつろ」が外の「うつろ」を内在的に証し立てているとかんがえてはどうか。内-外は同在であり、すなわち外は脱出口ののちのひろがりでもない。うつろの浸食という法則が内外に適用されたのち、それでも外から内に「音」がひびく。それが希望の表象と「一見」似てくるというのが、この作品の時空設計だとおもう。
ところで仲代を捉えた画面、洗濯物を干す外部の北村が鳴っている電話を取ろうとした前述のくだりで、観客はしぜんにそのコール音をかぞえるとおもう。都合二回のそれらは20回ちかくまで執拗に鳴った。ここでこの作品に隠れている「数」の主題が露呈してくる。どんな生活でも実際は数値そのものが疎外の質を伝達するのだ。のちに詳述するが、倒れた母親大森暁美(たぶん意識不明の状態がつづいたのだろう)を北村が病院で介護した「四年」の歳月。しかしそれよりも、北村が一日1500円の出費で、失業状態をのりきっていた数値のディテールが胸を打つ。劇場パンフレットに掲載されている小林監督の脚本から、その部分を摘記してみよう。
確かに俺は、あんたの年金で食っている身だよ〔…〕実際、あんたが入院してた間、毎日毎日そこのスーパーで380円の弁当二つ買って、昼に一個食べて、夜は、焼酎〔※画面には「いいちこ」が映っている〕呑んで、もう一個の弁当、半分食って、残った半分は、翌朝の朝飯に回して……そうやって、やって来たんだよ……タバコだって、三日に一箱だ。一日1500円の生活費、ひと月4万と5千円! 水道光熱費入れて、6万! 切り詰めて、切り詰めて、爪に火をともすような思いで、やってきたんだ。
この数値の具体性が、この作品の最後、黒味に上乗せされる字幕、その数値の具体性と共鳴する。数値とは抽象のようにみえて、それが綜合されるまえは個々のむごたらしい「具体」なのだ。その具体にかかわって、たとえばこの作品では食べ物もある。暮らしの貧窮にたいして登場してくる寿司、あるいはにんにくスライスで食べようと北村が仲代にもちかける鰹の刺身なども、観客の記憶に強度として刻印されてゆくだろう。
北村一輝を基軸にして、この一家の「悲劇」がいかに「確定性が強固でないのに」なぜ「不可逆的だったのか」、それを振り返ってみよう(これらは固定的シーンが現在過去をとりまぜて連なってゆくこの作品の間歇的なディテールから綜合される事実だ)。北村は家庭重視の勤務態度だったため、傾いた会社からリストラ解雇された。ハローワークにかよっても、バブル崩壊後の不況下、あたらしい職がみつからない。徐々に自信喪失と厭世感がきざし、やがてリストカットをやりだした自らに気づく。それで妻・寺島しのぶと幼い愛娘のいる家庭を出奔、だれにも告げずに精神療養施設にはいる。北村はケータイの電源を切り、妻からの連絡手段も一切遮断してしまう。幼い娘を抱えたまま無産の妻は賃貸している住まいの家賃すら払えなくなって、娘を気仙沼の実家に預け、いちど訪れた北村側の実家ではみずからの分のみ署名捺印した離婚届をその父母に託す。北村の結婚生活はそうして瓦解した。
いっぽう北村の実家はどう瓦解したか。まず北村が出奔を完了、帰ってきたタイミングで母・大森暁美が倒れる。職のない北村が一身を尽くして看病に回り、離職後の緊張をそれで失う。四年後、母親死去のタイミングで、今度は「嫌な咳」を繰り返した父・仲代の肺癌が発覚、ところが一度めの手術ののちの延命治療を父親が拒否、自宅に強硬的にもどってくる。それ以前に北村が自分の年金を資に暮らしはじめていた実態を知っていた仲代は、自分が一室に籠城し、即身仏として死を遂げる決意をする。しかもその死を秘匿して年金を利用しながら次の仕事を得るまでをしのげ、というメッセージも直接的間接的に北村につたえられている。仲代の「緩慢な」自死選択にはこのようにして意義の尊厳があたえられている。どうじに彼は息子の無力を見越している。生にむけて息子を放生させようとはしていないのだ。
まずは緩慢性がもんだいだった。決断にむかい一直線化する仲代の「緩慢性」は、その「緩慢性」のみを抜き取られ、たぶん再就職に蹉跌をつづける北村の「生活不作為」「生きるだけ」の緩慢へと転写されてゆく。むろん北村は非運だ。だがその最大の非運は、日本経済の暗転によって他律的にあたえられた非運ではなく、年金支給という現実にたいし緩慢に惰性化してゆく内在性の非運なのだった。これを道義的に責めることはだれにも不可能だろう。ひとは、馴らされてゆく外圧の存在によって意志をうしなう。ゆっくりさが真の敵なのだ。それで北村も、内面から浸食してくる無為によって、たぶん密室のむこうにミイラ化して死んでいる無言の父親に、「今日もハローワークに行ってくるよ」と語りかけるアリバイをばらまくだけとなる。
そこでの北村は、末期の父ゆずりの「よわい声」をその声帯に反射している。ほんとうは、外部/内部の截然たる分離、というこの作品の法則にたいし、その境界線を内破する唯一の媒質があったはずだった。それが存在の「奥」から湧き出てくる「声」だったのに、それがついに家族内に弱性として浸透され、その効力をすべて失ったのだった。それをうしなうまえの最後のきらめきが、北村の「お父さん、お父さん」という号泣ながらの呼びかけだった。
小林監督が足立区の事件でまずかんがえたのは、死んだ父親の死亡届を出さずに、その年金を受けとりつづけた娘の、最初の段階の「心理」だとおもう。当為を惰性が凌いでしまうときの、自己逸脱性にたいするおののき。ところが傍らに緩慢な自殺をした親を配剤してみると、その自己逸脱の緩慢性すら、いわば人間的な所与として崇高性をおびてくる。
もとより、平田オリザ式の微分的なリアリズムを、半面で映画に奪還しようとする小林の脚本では、平田同様、人物間に交わされる会話に、多少劇的ではあっても、すべて生活に根差した日常性しか用意されない。だから観客は黒味を挟んでゆっくり連続してくる「シーン」の進展のなかから、人物の心理を「形而上的に」代弁しなくてはならなくなる。ベンヤミン『ゲーテ 親和力』の最終フレーズではないが、「希望なき人々のためにのみ、われわれには希望があたえられている」のだから、えがかれる人物にたいして代理的に、かんたんには語ることのできない人物の行動選択における思考を摘出しなければならない。ところがこの代理的な摘出こそを、希望の原理とよぶことができるとも気づく。
たった一箇所、北村・寺島・赤子・仲代・大森の、「全員揃った一族」初顔合わせの幸福をとらえた回想シーンだけがカラー化される。それは「幸福の最大値」のみをカラー化するというわかりやすい符牒付与だった。だがそこには「画に描いたような」展開によって、空疎さが潜まされている。それよりも台所-居間が使用されたフィックス長回しシーン、飲酒を禁じられた仲代と、燗づけ役・大森とのあいだの、銚子にいれられる酒量をめぐっての攻防のほうが生々しい幸福感をたたえていたかもしれない。むろん、閉じられた扉をはさんでの自死を決意した仲代と、仲代に呼びかける北村の必死の攻防、その演技の人間化のすごみは、実地にモノクロ画面で観てもらうしかない。
冒頭とまったく同じ位置・画角の長回しで、作品は終わる。北村は新聞に筆記用具でしるしをつけながらコンビニで得たものを朝食にしている。食卓はコンビニ袋や弁当のからなどが散乱して、生活に緊張がうしなわれたことがはっきり打ち出されている。明示されていないが、もう扉のむこうで仲代は、大森の遺影をまえに端坐のまま即身仏となっているだろう。この予想をなかったことにして、北村は「ハローワークに行ってくる」と扉のむこうの仲代に呼びかける。となると、北村が何事か書きこんでいた新聞の面は、求人欄だったのだろう。しかし新聞そのものがたとえば競馬新聞で、北村が自分の予想を書き込んだという錯視も起こるかもしれない。ともあれ、その段階での北村には頽落の様相が、むごたらしく付着している。
北村が出てゆく。無人画面――「空舞台」となる。しかしそれは小津『晩春』のラストシーンのような、幾何学的なコンポジションのうつくしさと無縁な、雑然とした室内への斜め構図にすぎない。「むごたらしさ」とはなにかを静謐さのなかにとらえようとした小林監督の、二重性の意図がこうしたことでもわかる。そこに電話が鳴る。むろんこの作品の電話は、母親の発作事故、死を告げた。このことからして、いつも電話は異変と不幸をつたえていたといっていい。
では最後の電話はだれからかけられているのか。さきほどかんがえた「代理性」からすれば、回答も明瞭だとおもわれる。それは、まさに「観客の位置」から鳴って、悲劇に参入してほしい、という映画の「依頼」こそをつたえていたのだった。
東京では現在、渋谷ユーロスペース2と新宿武蔵館にて公開中。札幌はシアターキノで9月28日から。ぼくの学生は必見
メモ26
ふだらくとかいのように、記憶が実在になってゆく逆行がすきだ。身のまえの経緯を逆行とかんじるときに、じぶんのからだからなにかがこぼれおちていて、それでもその漏刻がただしく作動しているのか否かわからないゆたかさがある。おもうのは、どうして一方向にひらけている空間がひろがっているのかということ。たとえば夕方という語をも「方」があかるくえぐっている。そうしてゆくさきのにじみでている時間の助けで、記憶もろもろは実在になってゆくのだから、西空でさえ郷愁であるまえに寸刻のこころにながくきえる逆行だろう。
神山睦美・希望のエートス
札幌→東京、の行程で、携えていた神山睦美さんの『希望のエートス』を読了。以後、圧倒されてことばにならない(むろん「詩手帖」での連載も読んでいたのだけど)。
理由のない死はだれにメッセージを送っているか、というのが最初の論点。そこでベンヤミン『ゲーテ 親和力』の例の最終行が何度も考察される。「希望なき人々のためにのみ、われわれには希望があたえられている」。そこにひそむ「代理」の方向性は、自己は非自己にたいしてのみしか行動原理をもたない、ということの傍証にもなるが、神山さんの本にはそのための手続きが原理的かつ多様に展開されてゆく。
ひつような感情は、他人の痛みや喪失を自己がほんとうには引き受けられないと気づいたときの悲哀だろう。それこそが弁別をとびこえて哀悼となるとき、やはり親和力がもんだいなのだ。この親和力が、ベンヤミンのいう神話的暴力から神的暴力へも進展し、あらわれてくる様相には絶対的な脈絡外しまでもがくわわってくる、といった神山さんの論旨の流れがすごい。ぼくじしんはそこから親鸞の悪人正機説をかんがえた。
災厄を語るときに、「希望を語ること」が代理される。それはポジティヴ・シンキングなのではない。もっと恐ろしく本質的なことだ。これがまず神山さんの本でわかる。
超越性のあたえる「理由のない」試練。聖書にはヨブの逸話がある。ネグリはその「理由のなさ」の「かわりに」、ヨブ自身が理由と闘う(労働)時間をあたえられた、といったことを書いていた。たぶん「代理」によって再導入されるものの第一が個そのものだとすると、他方では個の符牒すら剥奪されたただの時間も、同一の頻度で再導入される気がする。
くわえて、神山さんの本では、世界摂理の外部に原子力を掘り当てた人間の原罪がこれまたさまざまに考察されている。ここで小林秀雄と吉本隆明との多元的な衡量となる。こちらについては再読してかんがえみたい。再読するとキーワードが「最小」「最大」になりそうな気がする。それでモナドにも思考がむかうだろう。
『希望のエートス』に接して眼もくらむおもいがするのは、神山さんの災厄にたいする概念の繰り出しが高速だからだ。読む者のなかには換喩が生じてくる。またも本の論旨をなかば離れておもうのは、個人そのものが災厄になるのかということ。書くことにともなう上昇をみとめなかった安川奈緒の熾烈さ(神山さんはその彼女を浮上させて、3.11からの連続性として哀悼する)と、たとえばアウシュビッツからの連続性であるツェランはどう関わるのだろう。いまだに全訳がならない(大昔の「詩手帖」のブランショ増刊にのみ抄訳掲載されている)ブランショの『災厄のエクリチュール』を、関連本として再読したくなった。というのも最近再読したブランショのツェラン論(守中高明訳)がすごくよかったのだが、その初邦訳(飯吉光夫による)掲載もその「詩手帖」ブランショ増刊だったので。札幌に帰ったら書棚を探そう。
以上、簡単な印象記
メモ25
同期とはなにかということがトーキーのときよりかんがえだされ、それまでひかりでつくられていた時間の織物に、くうきがはいり、その天使状が音ととらえられた。けれどそこで音が声にのみ特化したのが、にんげんの限界だったかもしれない。かんがえてみれば、ひかりを音が分割しているこの星のぐうぜんを、ほんとうに生きる使命としていたのは、トーキーでなくやはりむかしからの詩だった。せかいをまえにすると自然化しているだけの同期を、かなしいことに詩だけが固有に、さらに希いつづけ、もうにんげんでなくなるまでの、音によるひかりの分割が、眼と耳のあいだでは終わらなかった。
メモ24
わたしは縄文をつくる。ふる日の、いれずむときに。かべを眼でななめに層して、なにをいつ埋めるか算「段」する。そのための窓だ。それから他人の詩を読みに、となりの領分へはいってゆく。ふたつていど内がわがとなりどうしでできていれば、場所は住める。このことが、からだを簡潔にしてゆく。いつからか往復に情がうすく、そのぶんかくじつな機能となっている。やおら操作子をとりだして、とりわけ換喩の構造をさらにずらす。匙。わすれていた縄文が同期しだして、しんけいがみずのほのおになってゆく。
散文31
ちいさな森をひとつとおりぬけた奥にむかしはすまっていて、てがみのなまえもすべて木蔭をちいさくぬれてきた。けれど本の小包に差出しびとの名があっても、なかに著しびとの名のない本のおさまることがあって、そとのみの名のうすさが、うちのふかい否みと羞じらいをつつんである、その着衣にまず照らされた。けっきょくはだれなのだろう。たずねくるひとのはなれたすがたが木漏れ日へひたされて半裸とみえる日もあったから、なまえの消えなど葉陰のしわざと、のちにはかなしんだ。
散文30
いもうとのはしら、あねのはしらで屋根をささえられた多孔の家があるだろう。しっくいを音がゆすりとおす海辺の陋屋だ。いえびとにもつれている髪の酸味はなにか。ひとりのだいだら坊がはなれて、その屋根と水平線をおなじたかさにのぞむ。じぶんの背丈をもちい眼前をひとつの束とする坊のまなざしには、もんたーじゅが大量にさしこんでいる。われた姉妹がまざる、海と音とがすでにそうしているように。ひとところはしっくいより滝をなす髪としかみえず、ざんこくなとおさに門がぽっかりひらいている。
散文29
磯と浜との差は、磯が濤とのたたかいなのにたいし、浜はおんなのようにみずから浸みだしながら、海の大容をみちびきいれていることだ。ぬれた浜からのみ陸は海をふかくとおす。それで浜にはなにもかもがはなれた同在となる、牽引的な夕刻がにあう。わたしはもとより斜面がすきで、そこは草もなびかう青とおもっているが、ゆるやかな斜めをかたどる浜だけには、みると泡のようなものがゆききしていて、ちいさな肌のひかりみたいだ。
散文28
おなじおおきさになるために、さんざんじぶんをなでている。手と肌のすきまにひかりがつるり灯って、ああへびのじぶんはきみのへびだともおもう。もううえからはのぞきこまないし、のしかかりもしないよ。だんだんおおきくなっていったむかしのぼくはあほうでした。いまはせかいのなかのきみと、きみのなかのせかいとをどうじにはかり、ずぶずぶ挿しいれてゆくはなづな、どちらののどともなく、きみとぼくのひかりがつながる。すき。
散文27
果断ということばに、くだもののわかれをおぼえて、すこしゆううつになる。たねをまふたつにし、断種こそをたっとぶ、刃物の精密が謀られたとかんがえる。なんごくにみのりはじめた堅いあお柿。それらが柿いろに憂うまえに、想像のゆううつがさきがけて分散を斬ってゆく。それでも分散とちがう分割があたまのなかにあらわれ、しぶくすくない果汁がかこむ。あおい。