メモ46
まぼろしのおのれをささえるようにねむるすがたをおしむ。しかもそれが夕闇へさだかならぬまでほぐれてゆくのを。かたちそのものがなにかをかかえているのならかたちも虚ろで、髪はそこからをくろくながれる。まどのむこうにこころをうつすと残照があり、おのれを散り敷く樹々の、ひとときだけのみちたりがとおい。たしかな線にすがりつつ降りる者の、内向のまるみは、あれら輪郭にも音なくゆれている。
メモ45
よわくなった秋のひかりのもと眼前の顔の向きを矯めゆっくりと陶器にしてゆく。おんなの曲線をもちいて構文をまるめ語関係に容積をつくりだすようだ。ひとの背面をなるべくまえにあつめる作業はしずかなリタルダンドだがこれを壺だとするとなかをさらさらながれやんでゆくのも灰だろう。それが骨からけむりあがって肌にさえみえるのならこころの視線は量感を単独で視ることがない。だんだんゆっくりあらわれてくるものがついに死後へとそれるかなしさ。
散文46
暗渠が町をだめにしているので、たてもののにぎわいから離れてゆく。やがてあらわれた川面に落葉もろとも木の実がうかび、ちいさなせせらぎがさらに雑多な音をふくむ。耳がけむりになってゆくこのかんじを、みえかたのにぶい川底の苔とわかつ。おもいでに粥のような細部があり、くもる日のながめなら雪虫がかすめる。《わうごんのとまらぬ秋の厠かな》。連作もおわりにちかづくと、舞いつづける綿に囲まれる。
散文45
まなざしを手許からとおくへと移すのは、顔向けのつねなのだろう。けれどそれがみずからを稀薄にするルフランなのかはわからない。ともあれ手許の文字が森林や草原にかわり、合点などは離れてつながりあう根にたいし単独的なものにすぎないと気落ちしてくる。ゆきにおおわれるまえの草原から歌の紋章をつくり、地中をはしる馬車にだれが乗りあっているかをおもう。気散じをみやびにして、ひとみの内奥へは青味がかったとおさまで容れる。
横浜聡子監督との対談
【北大学生による拡散を希望】
●『ウルトラミラクルラブストーリー』の横浜聡子監督が北大に来訪!
10月31日(火)~11月4日(月)まで、「期間限定北大映画館」が開催されますが、そのクライマックスの11月3日(日)、注目の女性監督・横浜聡子監督特集がクラーク会館にてあり、そのなかで監督と阿部が壇上対談します。当日の具体的なスケジュールは以下。
13時45分~ 横浜監督作品特集上映(『ジャーマン+雨』『真夜中からとびうつれ』『おばあちゃん女の子』)
15時45分~16時30分 対談:横浜聡子監督×阿部嘉昭
(以上、@クラーク会館)
18時~ 懇親会(横浜監督、阿部出席)
じつは横浜監督とは大阪市主催の映画祭CO2でぼくが審査員、横浜監督の『ジャーマン+雨』が大賞を獲ったとき以来の知遇で、ぼくが最も才能を買っている若手女性監督のひとりです。拙著『日本映画オルタナティヴ』に『ジャーマン+雨』『ウルトラミラクルラブストーリー』評がそれぞれ載っているほか、『真夜中からとびうつれ』『おばあちゃん女の子』もぼくの東京時代の終わりの時期、フェイスブックに簡単な評を書いた記憶があります。
当日の上映作品について簡単な紹介を。
『ジャーマン+雨』は、不思議な作曲能力をもつ少女・野嵜好美と子供たちによるユートピアの不思議な帰趨をえがく。ぼくは「ハーメルン伝説」など、ひそかに織り込まれている「ドイツ表象」に注目しました。
『真夜中からとびうつれ』は多部未華子主演のマジカル短篇。無声映画的な空間のなかを不思議な青色のコートを着た、最高に可愛い妖精=多部さんが冒険します。空間が「映画未然-映画以後」を貫通する入れ子構造にもなっていたはず。
『おばあちゃん女の子』は『ジャーマン+雨』の主演、野嵜好美の相変わらずの怪演が披露されます。家庭的な日常の別次元を捉えた31分の作品で、子供帰りした老婆を童女として表象した高野文子の短篇マンガ『田辺のつる』にインスパイアされています。野嵜の「身ごもり」が確実にえがかれているのに、彼女はずっと「おばあちゃん」と呼ばれ、対象性がどこにも帰属しない過激な不安定さがありました。そのなかで「猫探し」のエピソードがどう扱われているか、ぜひ注目していただければ。
なお、横浜監督は、12月に新作中篇『りんごのうかの少女』の公開を控えていて、その話も壇上ではおこなうつもりです。横浜監督といえば青森出身で、初監督作『ちえみちゃんとこっくんぱっちょ』『ウルトラミラクルラブストーリー』と、「青森モノ」の作品系譜があるのですが、『りんごのうかの少女』もその一篇。りんご栽培農家の不良少女に焦点をあわせ「地方の停滞」をえがくというのは表向きで、じつは「行進」「馬」「炎上」のとりあわせが幻惑的な、脱領域的な味わいに当然仕上がっています。ゲスト出演の永瀬正敏の死がどう描かれるか、そしてその葬列の最初の瞬間に何が映されるかだけでも横浜監督の稀有な感性が脈打っています。
イベントで横浜作品を堪能したあとで、ぜひこの映画もご覧ください
吉浦康裕脚本・監督、サカサマのパテマ
【吉浦康裕監督、脚本『サカサマのパテマ』】
地上人にとって「反重力」というものはなかなか想像できない。「浮力」なら容易だろう。たとえばわかりやすく、風船を手にもった童女をかんがえてみる。浮力をもつ風船は手から離されれば、空へと吸われ、女の子は喪失に直面して号泣するだろう。だが泣く理由ははたして喪失感のみなのか――つまり風船に「同調」しても、彼女ははげしい悲哀に襲われているのではないか。
ではじっさいに風船へ「同調」してみよう。童女の手から放たれてしまった彼は、地上から離れてゆく。離れることは「追放」だから、実際には上昇の気分もないのではないか。そう、ただしくいえば、彼は空へと「墜落」してゆく。むろん稲垣足穂の名言を拝借すれば《地上とは思い出》だ。ということは、彼=風船は、鉛直軸を水平軸に捉え替えれば、過去を凝視しつつ、どんどんその眼路がとおくなる「絶望」を、後ろ向きの遠心運動のなかに体験していることになる。こう書いてわかるように、その風船とは、廃墟を望見しながら未来への風に後ろ向きに吹きとばされてゆく、ベンヤミンの「新しい天使」(「歴史哲学テーゼ」)とも同位なのだった。そこまでかんがえると、風船を手放した女児の啼泣は、じつは形而上的でもあったということになる。
「天上への墜落」はバロック美学の符牒のひとつだった(たとえばクリスティーヌ・ビュシ=グリックスマン『見ることの狂気』)。仰々しくいかめしく、神域をまさぐろうと線状に空へと伸びたゴシックにたいし、直線ではなくむしろ円がその循環性によって無限にちかづくと知ったバロックは、再帰性にまつわる想像力を身に帯びることになる。「視ることそのものを視る」近代知がそこで萌芽するし、再帰的な感情、メランコリーもそこで価値化される。しかもそうなると視が無限化にむけて災厄性を付帯することにもなる。バロック時代、見上げれば鉛直軸の彼方にかがやく「天上」はどうなったか。天上は見神の法悦とも通底する領域だから、無限化によってかならず聖化されなければならない。それでバロック教会ではその円天井に聖書世界の宗教画がえがかれた。渦巻きをなすような構図のなかで、見上げれば「天上への墜落」が感覚されるような崇高があたえられる。その場合、空中を瀰漫して舞う「天使」が、天上への墜落を特権的に誘う反重力的な媒質ともなる。それで人々は「空へと墜ちる」法悦を体感した。眼こそが彼らの立ち位置を幻惑したのだった。
アニメにおいて「反重力」という主題を原理的に扱いぬいたのはご存じ、宮崎駿の『天空の城ラピュタ』だろう。その冒頭場面、王女シータが炭鉱で働く少年パズーのもとに夜空からゆっくり落下してくる。シータが首飾りにつける「飛行石」が青色の光を放って反重力を発効するがゆえの緩慢な落下(彼女は気絶しているが、おぼえられている体感はやはり法悦だろう)を、パズーは地上では間に合わず、炭鉱口の「穴」部分に潜って受け止める。そこが地上でなかったことがミソだった。結果、宮崎的想像力は、天空-地上-地底といった位階を「貫通」し、以後、作品のしるす運動が鉛直軸の自在性をも獲得したのだ。ただし反重力は鉱物的な特殊性に局限された。むろん、「理想の貴種少女が空から自分へと降臨してくる」というラクな恩寵は、オタク的な待望姿勢を甘やかすもの、と社会学的に批判されもした。
――前置きが長くなった。『イヴの時間 劇場版』(未見)の吉浦康裕監督の最新アニメ『サカサマのパテマ』は、宮崎『ラピュタ』の冒頭の設定を、反復し、シャッフルし、転位し、べつのかたちでアクション化し、しかも「天上への墜落」をつうじてアニメのバロック性を極限まで追求しながら「空への郷愁」を心情組織した、驚異の想像力の作品だ。設定された世界観が秀逸。次第にわかってくることは、重力そのものをエネルギーへと転換しようとした(これは物理学的にありうることだ)未来人がその壮大な実験に失敗、ひとはおろか事物にまで反重力を付与してしまったために、かけがえのない領域すべてを「天上へと墜落させてしまった」という前提なのだった(しかしそれは第一前提となるにすぎない)。
ところが、(初期設定的には)反重力化から身を守った君主国「アイガ」(この国は洗脳教育によって全体主義化している)が地上に残存、いっぽうで事物と身体すべてを反重力化させたまま地下世界に逃れていった流亡の民たちがいる。「世界」はそのようなかたちで二分されたのだ。この対立項が相互に出会うとどうなるか。直立する片方にとっては相手が倒立してみえ(むろんこれは相互間に現象する)、建物の天井など空への落下を防ぐものがなければ倒立する者は天上へと消滅することになる。つまり対立世界の住人の対峙が相互によってなされるとき、鉛直軸での身体「逆方向」までもが付帯するわけだが、そこには「他者の見え方」にまつわる真摯な暗喩化もともなわれている。「他者とはいつも自己のサカサマ」という排除論理、謬見が、残酷な牙を覗かせているのだ。
「アイガ」の独裁者が、地中国からの侵入者(それがヒロイン「パテマ」にとって大切な者だったことがのちに判明する)に死刑宣告をするディテールが具体的なドラマの始動を告げる(画面は切り返しなどの関係提示をおこなわず、独裁者の表情への注視を一貫させる)。このとき「徴候」があらわれる。事物が不可解にも上方へと墜落する細部があるのだ。そのつぎ、地中世界のディテールが出現する。軽金属製とみえる防護スーツを身につけ、お転婆な少女よろしく(年齢設定はローティーンか)地下世界の「長老」の血を引く「パテマ」が地下世界の涯までを日々、好奇心に駆られて「冒険」している。スピーディな身体移動。
「結界」をなす空間がある。鉛直方向、円筒形に穿たれた、岩石にめぐられている巨大なダストシュートをおもわせる「空虚」があるのだ。そこでダイヤモンドダストのようにみえる塵が、ゆっくりとだが、やはり上方へと墜落してゆく。そこで観客の鉛直性判断が審問にかけられることになる。
アニメ通例の「未来」表現と同様、多時間性の幻惑をあたえるため、未来には古色をおびたディテールが満載される。鉄板、配管などはすべて赤色に錆びて、総じていうならその地下世界はテクノゴシックの様式にこまかく細分化されている。それで一挙に作品の、世界設定にともなう画力に信頼があたえられる。パテマの移動にともなう背景の、空間的延伸も創意的だ。なによりもカメラワークに類するものが展開力と相即して、それこそが「画力」となっている点に注意喚起される。パン、ティルト、クレーン使用的な視野展開に加え、驚異的なのはピント送りだろう。映画のもたらしうる「ギリギリの人間的な視界移動」によって、描かれる非実在世界に賦活がほどこされているのだ。この段階で作品世界への「信頼」がうまれる。
貴種は流離しなければならない――しかも流離の試練と解決として、貴種は理想の相手と出会い、難関をクリアしなければならない――これが「物語」の鉄則だ。「アイガ」君主国の管理化された中学校へ通う「エイジ」の夢想と絶望にさいなまれた姿の短い挿入(やがて現れる草原内の通学路は「昭和」的な古色を帯びた「うごく歩道」になっていて、そのアイデアも秀逸)とパテマの動勢とが、シーンバックでしめされたのち、シーンバックの必然として、ふたりの邂逅が期待されることになる。パテマは地下世界の天井部分からぶら下がっているとみえる「蝙蝠人間」(装甲スーツと防護面を装着し、赤光を放つ両目部分が薄闇の画面内でかぎりなく不気味、威圧的にみえる)から攻撃を受け(観客はまずはそう捉える)、はずみでパテマが前述したダストシュート的な地中孔を落下する。とりあえず地下と地上の境界提示は、この最初の展開のなかで割愛される(もしくは曖昧化される)。
パテマがつぎの局面で登場するのは、草原を囲う金網にあやうくつかまり、空への墜落に抗っている姿だ。それは授業のあいま無聊をかこって金網前の土手に仰臥しているエイジの至近距離で起こった出来事だった。双方とも自らの身体を巻き込んでいる超常的な事情をうまく呑みこめないままに、パテマの「助けてよ」という「指令」にうごかされて、エイジはサカサマのまま天上へと墜落しようとするパテマの手に、自分の手を伸ばす。結果、上述の、「浮力をもつ風船を手にもつような」風船と子供の関係性が、パテマとエイジのあいだに成立する。手放せば空に消えてしまうパテマには「かけがえのなさ」と「はかなさ」とが掛け合わされている感触もあるが、そこはアニメ作品だ、パテマは水中から引き揚げられた魚のように、手足を悶えるようにうごかして姿態を躍動させ、少女的な身体へ生気をつなぐことも作品は忘れない。
下に伸びよう(降りよう)とするからだと、上に墜ちようとうるからだがどのように連結され、それがみたこともない様相で魅惑化されるかをこの作品はずっと追求している。その意味では主眼はいつも「ふたつの身体」にあって、発明力に富む世界観なども、実際はこの主眼のための前提にしかすぎないとさえ印象されるほどだ。
ところで先ほど列挙した実写映画にも可能な機械性露出のカメラワークのリストに、このふたりの出会いの場面であらたに発明的に加わるものがある。それが、観客の一旦把握した視界を、反時計回りに180度転がす(それで上方へと落下しようとする者が反対に下から安定的に支えられるように変化し、相手はその逆の位相に落とし込まれる)回転カメラワークだ。これは実際に眼にしてみれば、視界の自明性をゆるがす試練と驚愕を付与する、このアニメのバロック性の根幹部分をなす。「上が下に」「下が上に」という価値と位相の逆転は、以後もこの視野回転を中心に頻繁に起こるが、物理的な了解の稀薄な観客には「論理」にかかわっての幻惑と酩酊とをもたらすだろう。これが「天上への墜落」という逆転的想像力にともなう性的法悦とも関連している。
それだけが見事なのではない。サカサマのパテマを、手にもつ風船のようにして中空に浮かせたまま、パテマの倒立状態に安定をあたえようと、エイジは草原内の小屋(これがのちに、パテマが叔父にたいするような愛着をおぼえていた「ラゴス」と、エイジの実父の、飛行船制作のための工房だったと判明する)へと導く。このときふたりのからだに、「小屋の扉」が介在する点がすばらしいのだった。これまた説明が難しいが、それをおこなってみよう。
小屋はむろん閉域をなし、とりわけそこには天井がある。サカサマのパテマは通常とは逆に、その天井で身体全部を支える。彼女は見た目サカサマに(つまりはアタマを下にぶら下げている様相で)、その天井で足許を支え、歩いたり、しゃがんだりする。そのサカサマの驚異は、通常状態で小屋の床のうえや、小屋の扉のまえの空間で身をささえているエイジによって、「反照的に」強調される。
パテマは空によって表象されている天上を、一旦は自らの墜落を請け負う「底なしの奈落」として恐れた。ところがそれをどうしても見たい。そのとき天井を這って扉ちかくまで身体を移動させ、扉から首を突き出し、空を見上げる動作をおこなう(それはエイジが学校に戻る前後、つまり昼夜で繰り返される)。天井にサカサマの状態で吸いつけられているからだが、身体の仕種としては「見下ろす」かたちで、意味的には空を見上げるのだ。このときひらかれた扉の「介在」が、サカサマの身体の具体的な危うさと愛らしさを増強する間接性・迂回性として素晴らしいのだ。
むろん仮構的な「重力法則」が介在しないと成立しない身体関係だ。虚構性を排除しながら似た身体の関係をかんがえると、たとえば屋根のうえにいる者と、家の前に坐る者との、「おなじもの」を想定しての視線の合わない会話などがあるだろう。ところがこの扉から首をつきだしたパテマが空を「見下ろす=見上げる」一連では、ふたりを捉える構図が「カメラ視点」の設定によって卓抜に変化する。最初は空を見上げるパテマの驚きにたいし、エイジのからだは離れて「背中合わせ」の状態にあり、パテマの驚愕につられて自然に身を起こし、扉側に寄る。このときパテマ側から捉え、その奥行にエイジのいる鉛直方向の縦構図(=俯瞰構図)が出来し、つぎにその逆にエイジ側から扉の開口部にはいつくばって空を見上げている後ろ向きのパテマを、エイジ「込み」で捉えた鉛直方向の縦構図(=仰角構図)が後続する。ここでは成瀬巳喜男の映画にあるような、実際は当然の真実がアニメ的に露呈している。すなわち――《媒介的な間接性がなければ、「身体的な真実」は到来しない》。
こうしたやりとりのなかでこそ、「空(のあること)」の価値がふたりに共有されるのだ。ここでは扉がひらくと開口部をなすことの「意味」は、室内が空につながる可能性につきていて、この価値に向けてサカサマのパテマのからだが這いつくばっているのだ。しかも逆転が起こる。「地上とは思い出ならずや」と喝破した稲垣足穂にとっては地上こそが遊星的(=絶対的)な郷愁の根拠だった。ところが「サカサマな者が見おろすことで見上げの生じる」視線が想定されてさらなる逆転が到来、天上のほうが遊星的な郷愁の根拠となる。「われわれは天上から剥離された者たちにすぎない」という感慨がここに生ずるだろう。つまり作品はじつは人間の天上性こそを保証している。
パテマのまとう服装に注意しておこう。それは防備的なスーツ以外には、のち両肩をむきだしにしたタンクトップ(裾部分が腰に垂れているのでシュミーズのようにもみえる)を上体に包んだ姿だ。その裾からは微妙にフィット感から離れたフリルの縁取りの短パンが覗き、両脚もこれまた裸の状態だ(それは夏季、そのまま寝床にもぐれる部屋着にちかい)。この意味でローティーンの身体の生々しさは、成熟記号のないままに確保されていて、そのからだが、「アイガ」国ではすべての局面で天上方向に落下しようとして、逃走のたびにエイジによって支えられることになる。じつはその支え方にヴァリエーションがあたえられる点がすばらしいのだ。――説明しよう。
アイガ国の独裁者「イザムラ」の指示による捕獲のうごきを察知し、サカサマに浮上しようとするパテマと手をむすびあったエイジが逃走を企てる。このとき浮力あるパテマと手をつないでいるエイジからは重力が相殺され、彼は驚くべき跳躍力を身に帯びる(彼はそのようにして獲得した自己身体への「信頼」によって、当初、実父の死や管理教育によってスポイルされていた眼力を再獲得するようになる)。けれどもふたりは、「イザムラ」の腹心「ジャク」によって発砲された「投網」によって、地中国へ脱出する寸前に「捕獲」されてしまう。
アイガ国の司令「塔」のなかに囚われの身となったパテマはサカサマの状態のままその天井部分で身体の自由を奪われている。彼女には囚人にたいするBALL & CHAINと同様のものがその足首に装着されるのだが、反重力的な存在だからその鉄玉にあたるものもまた反重力物質(彼女に浮上=天上への墜落をしいるもの)でつくられている。つまり幽閉以後の彼女はより浮力がましている。この作品ではじつはアイガ国の住人(エイジ、イザムラ)と、地中国の住人(パテマ、それにパテマをひそかに思慕するパテマの身近な存在「ポルタ」)のあいだの体重差(つまり逆方向への重力差)によって鉛直方向へと相互に離れようとする身体がどうつながれ、どう均衡を保つかで繊細な姿態ヴァリエーションが表現されている。
やがてはパテマともどもの司令「塔」からの脱出(それは「天上への墜落」のかたちをとる)に成功したエイジだが、足首に装着されたままの「球」によってより浮力のましたサカサマのパテマとエイジは、互いの胴体に腕を回しあうかたちでないと浮上してゆく身体を固定できない。気づかれるように、それは相互の顔が性器箇所に接触していないだけの微妙な「69」体位――性愛的な体位に近づく(むろん「萌え」要素だ)。それがupside-downの状態を保ちつつ、地上から離れてゆくように空を性的に翔ぶのだ。しかも前言したようにパテマの服装は地肌の露出部が多い。ところが観客の性的妄想はたぶん「結実」しないだろう。夜の空中に「ふたりぼっち」のままの気絶状態でどこまでも空の「奈落」へと吸われてゆくふたりからは性的昂奮が意味的に減却されるのだ。ふたりは相互に内部をつうじあう「ひとり」へと変貌する。このときupside-downは意味的に近傍するinside outの痛ましさへとその内実をすりかえるのではないか。だから接触しあいながら冷えてゆくふたりからは「肌の感触」だけが分泌される。また、遠さへと消えてゆくふたりからは「崇高」もにじみでてくる。
エイジの地中国への到達、あるいはパテマ、エイジともどもの地中国への帰還、さらにはエイジとパテマが空に吸われたときに地上からは可視的ではない「空の島(廃墟都市)」へと落下すること、さらには最終的な価値逆転など、作品はアクティヴな分節変化を目まぐるしいほどにしるしつづけ、その展開にはずっと魅了がしいられるが、物語の転写はここでは割愛しよう。見てのお愉しみ、ということだ。ただし終始、画面は飛行船など、アニメ的な創造性の高い「意匠」をしるしつづけつつ、同時に空を基軸にした透明性と悲哀感を湛え、『天空の城ラピュタ』を起点にした発想逆転は、新海誠のアニメ的な「永遠の寂寥」とふれあってもゆく。終幕部分の急ぎ足さえなければ満点の出来だっただろう。
こうしたなかで主役ふたりと同等にキャラの立っているのが「アイガ国」独裁者のイザムラだ。彼は「司令」塔にパテマを捕獲幽閉したとき、その最上階部分のガラス天井に、地上性からはサカサマの姿で就寝するパテマの「寝床」をしつらえさせた。おかげで彼女はまるで星空のなかで眠るようにもみえるのだが、それは「天上への墜落」恐怖を常態化させ、それで彼女を馴致・調伏しようとする野心ゆえだと述懐される。ところが彼は「原理的に」パテマの恭順を得ることができない。年齢差や暴力行使の問題ではない。サカサマのパテマを――つまり少女的存在に伏在する「倒立性」を偏愛する彼は、捕獲をなしえた支配力への自負すら「超えて」、サカサマの少女性を溺愛する観念論者であるがゆえに、エイジがそうしえたようにはパテマの身体をじつは実在化できないのだ。事態はアリス・リデルにたいするドジソン先生に似ている。「観念性」をつうじて「絶対的に少女を取り逃がす悲劇的な類型」という意味では、イザムラはその外見に反し、内実が『千と千尋の神隠し』でいうなら「カオナシ」の類型にも属しているということになる。悪辣な彼の内面に交錯する存在論的な悲哀にはこうして味があった。そしてその憤死のやるせなさにも。
アニメファン必見の作品だ。11月9日より全国公開される(札幌ではディノスシネマズ札幌劇場にて)。
散文44
なまえをはぎとられて無名になった犬どもを商っている。そのゆううつなひとみへの命名権をただ売りとばすのだ。ひとたびひとたび新規化することは水に似せることで、犬の水なら恐怖にして夜道へとおくる。からだのないうめきがきこえるだろう。寓意のきえる四つ足によって詩の川沿いがひくくなる。それでも水より、からになった檻が大事。そこにつぎの犬がまた半分だけあらわれるから。
メモ44
じぶんがなにかはわかっている、どのていどひかりと影とがからだに錯綜している動物なのか、どんな中間的なあかるさに落ち着くのかがわかっている。おおかた鏡にみずからをみて慄然とするのは知恵の明度がかわらないと再認するためで、だからこそ鏡のなかにはじぶんとともにべつのだれかをみいだしたいのだ。他人のかがやきですぐにうすくなってゆくからだとは刺繍を待つひとつの間接性だろうか。すすんでだれかを縫った逸脱など皮膚は記憶しない。
メモ43
たばにもならず散っている詩篇はつたわらなさにうすぐもっていてほとんどが無惨だ。なにかの符牒であるにしても、つくりなした者とのみ契りをむすんでいて、細部はその者の垢か手足かすら判別しない。それでもそんなならびをこのむのは、もともと無縁なものがとなりあう錯綜に惹かれるためだ。なにかが植生とかよう構成。こうした理想とおなじように生きられる発語の間歇も、そもそも一音と別音とが区別される原理的幸福につうじている。「死者はいつでもひとりだ(たがいに溶けあうから)」という、かみしめればただしい直観でさえも、まずはあるきながら植物を眼が追うことがくつがえしてゆく。
散文43
同道すると相手のすがたをそんなにみない。より奥へむかう一体感だけが、むこうへふかみへと足されてゆくだけだ。枯草があり淀みがあらわれ日のかたむきがあふれる。それら個々が自分たちにもなり、ふたりであることがふたりのまま透ける。うつりゆくひわいろのならびは鶸のひとみのなかへこそ炎えて、やがてはそのまぶたまで閉じられる。だから最後の同道といえばうすく、秋にたいして横にこぼれている。
散文42
ひとみなはうごきの不穏をひとしくもっていて、あゆみゆく上体が、それを具体的にはこんでいる脚すら消すことがある。そんな部分の欠損によってエレガンスが歴史化されるのだから、ひとのからだへのあこがれはみずからの波打ちをつかもうとする川面に似ている。めつむれば流れているだけだ。ことしの最期をさきどるバラ園でも、花影にさえぎられて移動のみをしるしたひかりが、予感をこえた人波として、うしろへにじみひろがっている。
メモ42
ひかりのひんまがりをうけとめるために、そこにひんまがってある樹。おまえからいくつか笛をつくり、楽団の演奏でさらにくうきをまげよう。おもうへだたりはカーヴしていて、とおいものをちかくかんじる。そんな悔いの掟を奏でれば、ひんまがりすぎてみえない樹だって、はこびや諧のひみつとなる。
メモ41
しげっているようすの世界には、ゆくしるべごとに青が刺されていて、わたしはまなこをつうじ、みるものに似ることをいつもうながされた。こだかい頂に満開の梨の樹があるのをこのむ過去だったが、そこで樹下の身もしろい花びらのふるえるあつまりだった。それでももののかわりゆくめぐりがあれば場所に梨色の実がみちる。ちかしい肌をともにおぼえ似ることをふとやめると、じぶんへのよりふかまる相似がえられて、かかわりを断たれた果実色のこのたたずみが、ゆっくりとすがたまで減じてゆくとかんじられた。
散文41
浦のカーヴにさしかかると車窓からくびをつきだし、前方に列なる車両がのびまがるすがたをかならずみた。蛇身とか蛇腹とか、ならいおぼえたことばをあてて、そこにすすみのかさなりをかんじた。まどのいっぺんにみえるのが、列車というれんぞくがすき。おなじ年頃のこどもの顔がとある窓からこちらへふりむいている、しろくちいさな予感があって、それでもそのみえがたい小円はひかりの反映で、傍らの海にこそ属しているはずだった。
メモ40
左利きというのは、ひだりにむかい世界へ質問している風情があり、うつくしくかたむいている。さかさまにものごとをさわっている反転がからだへ織られていて、みえることはいつも鏡をふくんでいるともかんがえたものだ。筆記用具をもつわかいひとたちの光景ではいつもその反転をかぞえる。それでもたいせつなのはそれら鏡の徴をもつ者の、右の稀薄で、かれら彼女らのうすい右手こそ意想外をにぎろうとしているのではないか。たとえばその掌中に小石があったとして、それがあわくひかる。わたしもからだのよわい側から、そうしたものをもらおうとする。
散文40
わたしらは搬ぶ、おおく熱のないほのおのたぐいを。つよい雨にうたれている樹がたとえ濡れていようとそのゆれがほのおにみえるように、ときにわたしらは慮外へと運ばれ、しかもその受動をみずから搬びつくしている。ここに立ち、むこうに立ち、わたしらがはなれてあることも、野のわけられている空のしたでは、しろくけぶる髪の火災とおもえる。うたれながら眼をとざされながら、やはり会いにゆく。
散文39
のどをぶどうがとおるということは、まなこがとおるということだ。ほのあかりの、うすいおもたさが身に胎まれてゆく。ひとつぶ食すごとにまぶたのした盲目がふえる。つめたい火傷でもある内観が房状なのだ。いつかみえない百眼となって草へ伸びれば、みあげる星ぞらはみえなさをこぼすだろうか。そらのぶどう。とおい正面性がほんとうにみえるなどかんがえもしない。ものみなちいさな蜜でくるしみ、とうめいに炎えるだけだ。
メモ39
わたしらの視を転じたのはまずポルノグラフィだが、そのつぎにはたんに顔のないからだがそれをふかいところで変えた。それらはわざわいやひかりのなかにすがたをかすめ、いずれにせよ視ることのおそれを眼へむすんだ。ところがこの地ではそのしるしのないからださえ眼前でちぢみ、ただ顔のふえていた幼年とはいちじるしいことなりをおびている。帚木のいろづき。ひとつのからだからあらゆるからだを抽こうとする慾がひえだし、ひたすら視は減ることへとおのが秋扇をとじようとしている。
メモ38
わたる、という動詞のうつくしさは、それが空間救済的なうごきをなす点にあるだろう。おなじものの刻々がひろがり、うつり、しかもひとたびだけのことなりをうんでゆく。しまいにそれすらきえ、像のあることがもともと余韻をふくんでいたかなしみがにじむのだ。想像したものをどの面に映すかにも遠近のこのみがあり、わたしはなるべくとおくに、おもかげのみえなさを置く。それが草のように近づいてくるのなら、ひとをつつむ車窓けしきのながれも、その場の視覚ではなく、あふれる感情をわたっている。
散文38
にじみのふかい秋の例文。あのまちかどにたつと、くうきがながい。きみにささやこうとすると、うしろの萩がさきにささやき、わたしがきえる。そうだ魔法のことよりも、魔法なことをたっとぶ。みるくかもしれない。ながれへ魚身をまかすと水もながい。さいごには架線夫として、空にぞくするものをつないでゆく。その途中でさかさになり、影だって魚身だ。
改行文9
わたしの外にわたしの内ができる
あたかも断面のぬれた半球のように
出口だらけのかたちが時のこよみ
泥炭のしめりからあそこへむかうことも
ただ場所をなでるかるさでひしがれ
満了をさぐる気宇には鬆がはいる
みえないものがみえる頭上を窮死させる
緯度がたかければ空がせまいというと
みなひとりのおぼえとこたえられる
てもとならひとしなみにこまかく手折る
うまれたまがりをみずからへさしだし
あやしいこころの髪がしろくなびきだす
散文37
くだもののなかでは梨がいちばんすきだ。それは田のおわりを憂う、ひと肌のいろをしている。画布へうつしにくい、いろのゆがみ。無しとおなじ音なのがとまどいもよぶ。みずけだけが多く、かるく噛んで果肉がきえてゆく心もとなさがあじわいなのだ。梨で焼酎をすすめ、あぶらのない飲食をひろげると、あたまのうえで蜜と酒があいわたる。うすれゆく虫かごのなかで、天上からおれた腕がほそくのこり、もう食べる顔がない。
メモ37
わたしらが、あるもののみならず、ないものへもはたらきかけをするのならば、わたしらの手はどんな石狩をさすっているのだろうか。うごきはあるがミメーシスのないそれはダンスかもしれず、詩において手は川ともみえる聯間の空白から、砂洲のようなものを掬い、たしかにぬれる。詩をなしたひとのからだを映すべきはその断たれた郷で、ないおもかげがあるおもかげ、などとはじめの沢くだりもさいごに、さかいのない有無をもってさらにあぶなくひかってゆく。砂嘴をかたちづくり、書き手のいないことが読み手のいないことへとそうして胸いっぱいに反射する。そこが河口であってほしい、浪だけがのこるから。
坂多瑩子・ジャム煮えよ
坂多瑩子さん(以下、敬称略)の詩には、新詩集『ジャム煮えよ』(港の人、13年9月刊)に接するかぎり、以下のような特徴があるようだ。
1)現実と非現実の境目がない
2)やわらかい
3)措辞が屈折・蛇行しているのに一行の無駄もない(眩暈はここから生じる)
4)気味わるいユーモアが目立つのに、どこか可愛い
うちの3については具体例がひつようだろう。集中に「箱の文字」という一篇があって、「金模様絵皿」と、かぐろく墨書された木の箱は、そのおおきさゆえに「雨のあたらない庭のすみに出しておいて」、日ごろその墨書の角張りが眼についてしかたない、運筆が生きてうごいているようにさえみえるというふうにもつづられたあと、以下の展開となる――
箱のなかでは
紙をのばしながら小皿をつつんでいる祖母が
紙や背中は消えかけているが
祖母がいうには
息子たちの
出征の祝いをするたびに
赤いふちどりの
まんまるの金が三個もついている金模様小皿は
少しずつ薄くなっていったから
とてもていねいに扱わないとひびが入ってしまうそうだ
引用した冒頭の二行では、箱の入れ子のなかに祖母の過去の映像が生じている驚きがあるのだが、それが衝撃感なしにさらりと書きながされ、祖母の間接話法へとずれる。さらに「出征」という歴史と由来をかたることばがさりげなくはいって、しかも慶事をいろどる古式ゆかしい大事な小皿をあつかうときの「女の手つき」といった、仕種の暗がりめいたものまでが不測裡に浮上してくるのだった。詩脈がゆれている。ゆれているのに、その屈折によって、「時間の容積」といったものがかんじられてくる。坂多の独壇場かもしれない。まねてみたい、とおもった。
図像還元しうる記号的な対象から、「実在」がひょっこり顔を出す、というときの「見えかた」は、如上、なにかコロボックルのような「小さ神」に接したときめきをあたえてくれる。坂多詩のばあい、この「小さ神」がまずは女性だ。しかものっぺらぼうで、「からだつき」だけがある。そのことで女性の連鎖系は、それじたいが不気味――もっとつよいことばをつかえば、アブジェクション(←クリステヴァ)ということになる。詩篇「家」から――
九〇年前のおうちの平面図があったから
テーブルの上にひろげてみた
よれっとしている
まん中がすりきれて
小さな穴
そのとなりが押し入れ
色分けされて
炊事場
どこもかしこも四辺形で
七〇年前のおよめさんが立ち上がった
およめさんだけは
ころんとまるく
日本の家屋構造は俯瞰した間取りで矩形の連続だが、水平にみても矩形が重畳している。畳、襖、障子、欄間、雨戸、棚……それら「角張り」を緩和しているのが、女性のからだだとすれば、それは「まるければまるいほど」救済ともなるのではないか。からだが危機をはねのける。この詩篇の最終部分から、そういう呼吸がつたわってくる。行を送って転記してみよう。《テラサコチョウのおうち/いろんなことがあってねえ/ますますまるくなったおよめさんが/椿油で束ねた髪を/うしろでぎゅっと結わえて/太平洋戦争勃発》。
ラスト、歴史事実の体言止めが、詩篇全体のやわらかさにたいしてはいってくる縦棒のようだが、読んでもらえばわかるが、それは詩篇冒頭への回帰でもある。ところがほぼ無告のこの「およめさん」には仕種の気配もあたえられている。それが「うしろにぎゅっと結わえて」。嫁の歯ぎしりというわけではないが、女の無告がひそめいていた怒りと気合の実質がこんなみじかい措辞から着実につたわってくる。結わえにも、まるみがある。
記号から実在が飛びだす、という点では詩篇「私の家」もそうだ。冒頭一聯はこうだった。《土かべに釘で小さな家を描いたことがあった/ざらざらでほこりっぽく貧相の家/その家が引っ越してきた/玄関は狭いし糞尿の匂いはするし》。「その家が引っ越してきた」という突出する異調が、即座に「――し、――し」の平易な口語形でうけられて、異調性を消す。「しつこさ」のこのような瞬間的な回避によって、詩脈が蛇行するのが、おそらく坂多調だということだろうが、逆にとれば坂多の詩的資質は、荘重癖への冷笑、とかげのようなすばやさを湛えた、おそろしいものともなる。これが彼女のユーモアだとすると、似た資質におもいあたる。このたび『詩集 人名』をオンデマンドで出した廿楽順治だ。あるいは小池昌代の『ババ、バサラ、サラバ』ともつうじる女性時間の奥行もかんじられるが、坂多の措辞は大胆で、しかも端的というよりさらに「みじかい」。詩篇に短躯性があるのだ。きっぱりしているが、それが文学性をころす身体的ユーモアともなる。じかにお会いしたことがないが、じっさいの身長はいかほどだろうか。
現実/非現実の境界があいまいになるということでは、いろんな運動がよびだされる。まずはひとつの領域に、べつの領域が残酷におおいかぶさってくる「重複」の運動。「重複」はクリステヴァによれば、メランコリーの実質=時間的反復が空間性へと「翻訳」されたものだが(『黒い太陽』)、ここでは措こう。坂多からは引用しないが、この点では最後に夢オチとなる「草むら」という、詩の教科書にでも載せたい手近な散文詩がある。
「畳みかけ」がたとえば最後の余白をのこすこともある。そこに動物的な気配のただようことがあって、集中「母その後」の最終二行《あっ/ころんだ また》には、こんなに単純なのに、じつは震撼をおぼえた(くわしくは実地検分を)。容赦のない詩篇終結ならこれも夢の雰囲気のつよい「さがす」がある。最終二行が《あたしはまだこうしているけど/サンダル》とあって、詩篇が途中で鼻緒のようにブチ切れている。中断型終止形というのは通常はもっと文学的に野心的なものだけども、坂多のこれにはなにかやさしい、ハンドメイドのひびきがある(これもまた実地検分を)。
現実/非現実の境界除去という点では、「現実の地」になにか認識不能のものが叢生してくる感触もある。叢生が溶解になるのなら、こんなフレーズ――《親のいないときはうれしかった/あんたもあたしも親がきらいきらいだし/いつだって薄ねずみ色していてさ/えっ なにって/青みがかった薄ねずみ色って/雨がふると道どろどろとけちゃってさ/こまるね》。引用のまえ、「いわれた」という無媒介な語尾がつらなっていて、「いった」話者がしめされない。引用部分では会話の応酬があるようだが、説明的な措辞がえらばれていない。ただし、詩篇のタイトルで、あたしと誰が語りあっているのかが判明している。詩篇タイトルは「いとこ」だった。
「はえること」のおそろしさ、同時に無意味なおかしみを告げるのは、冒頭収録の、題名もめでたい「豊作」だろう。朔太郎の「青竹」のアンチテーゼなのはむろんだが(つづいていた鉛直連鎖が水平的な綻びへと帰着する)、ぼくはピエール・ガスカールの「挿木」についての幻想的な評論エッセイ、『シメール』もおもいだした。「交配」のヤバさがあるのだ。さらには「ホラ」の可笑しさもある。ということは、ぜいたくにも、いくつもの価値系列が並立外延しているゆたかさが、この不気味な詩の本懐ということにもなるだろう。
【豊作】(全篇)
坂多瑩子
雨が適宜にふる年はいい
こんな年は挿し木も成長がはやいのだ
園芸上手と
いわれている婆さんがいた
なにしろ薪を挿し木しちゃうというすご腕の
婆さんで
あたしだって
こんな才能持っていたら
どんなに楽しいだろうと思いながら
婆さんは生ゴミだって髪の毛だって
なんでも土にさしておく
なんでも根づく
指を怪我して爪がはがれたので裏庭にさしておいた
といっていた
キノコみたいなものがぬるっと生えてきて
指のかたちになって
手のかたちになって
それから
どんな風に成長したか
婆さんからはなにも聞いていない
バラを挿したらバラの花
スイカから赤ん坊
婆さんからは婆さん
世界はこうして同型分岐してゆく。世代交代という言い方もある。口語がひそかにまざり、ひらがなのやわらかさも生かされ、主語「あたし」があるから、全体はメルヘンともいわれるだろうほど「かわいい」。そうつづったあとでナンだが、巻末の著者プロフィールをみると、坂多は一九四五年生。むろんひとは「年齢」がかわいいわけではない。むしろ自在さがかわいいのだ。
この詩篇の「キノコみたいなもの」は、よくかんがえると、可視性と不可視性のあいだに巣食っている不思議などうぶつとおもえる。系譜としてはカフカの短篇「父の気がかり」中の「オドラデク」の親戚だ。この系譜をすすめてゆくと、坂多詩では、「家のなかのまるいお嫁さん(しかし、のっぺらぼう)」よりももっと、奇妙な「気配」が詩篇の主役をつとめることになる。「気配」とは、「あるのか」「ないのか」わからないものが、動物化される、ということで、詩集中のこの系譜の詩篇では「コレクター」「糸状藻」という二大傑作がある。「貝の身」と時間をかけて対話したという体裁の前者を全篇引用して、このささやかな詩集評をおえよう。惚れ惚れとする詩だ。
【コレクター】〔全篇〕
坂多瑩子
巻貝があちこちに
どこかが欠けたものばかりだったが
ひとつだけ
完璧なカタチがあったから
それも特大
のぞいてみたら奥まったとこに赤い脚
空家に入りこんだ住人ありか
それでも巻貝がほしい
ほっとけばいいものを持って帰ってきた
ヒトなんてきらいだろう
焼き鳥の串でつついてやった
どうしてそんなことをするかって
ヒトっていやだね
それでも塩水をつくってやった
海の水とちがうというから
沖縄の塩を足してやった
ケチョケチョとつぶやいている
助けを呼んでいるのだろう
朝 脚がだらんとしていた
ピンセットでひっぱりだす
やっと空家になった
あたしが住めるわけでもないんだけど
水で洗って
太陽に干す
メモ36
おさない恋にこころを焦がす日々、えらばれて読まれる本からは愛しあうしぐさのまぼろしが湧きかえってくるだろう。それじたいを読めないもどかしさと痛ましさ。しかも本は複数だから、やがては集団の恋のかたちへこころの蝶がとらわれてゆく。恋着はあのひとそのものに反映されているのではなく、あのひととさらに別のひととのあいだでゆれているとみえるのだ。結局つっかえ棒によってかこまれた埒に、ゆがんだ恋がかしぐだけと、移動をつうじ知ってゆくのは、蝶を終えたあとのからだの独立によってだ。それまでのからだは息を吸いきっていない、うつくしい未遂にすぎない。
メモ35
わたしらはみなわかりやすいどうぶつで、あいてに惹かれはじめた刹那のまなざしが気取られるようできている。けれどそれが悦びをあられもなくにじますかというとそうでなく、まなざしはよわい自分へとむけられ、あきらめやかなしみにあおくしずむことが多い。おののきのまざったひとみをかげらせ、それがすでにおおきさでなくなっているひとの、虹鱒のような、とあるわたり。ときのうつりに蜜をながし、ゆくすえの香りだけが盲いたしぐさへひろがってゆく。
メモ34
退潮する星ぼしを、うすあかりへかぶく空になげくよりも、星ぼしのなにがうしおをなして、しかもそれがしりぞいているのかを、それらの関係に問うてみたい。ひといきに不幸へおちてゆくひとらはみな個別だが、それでも背後がうすやみに一致している。おもえば溶明こそがざんこくにうごいて、おのれをこぼし、むすばれるはずの関係が粉砕されているのだ。むすうが圧搾されてゆく音を聴かねばならない、ひとのからだの仄ひかる夜明けには。
散文36
むかいあっているひとと、はやさのちがうばあいがある。しかもそれが眼瞬きのへだたりちがいでしめされることがある。ひとつのからだや感覚に沿う時間は、あいてを川とおもうのにも似て、こまかなかたちなす花が土手にゆれる。そこにおなじうできるくちびるをみいだせないまま、斜光だけがほそまってゆく。くちはどこだ。ひとは端的には、となりをさがしめぐった、いつかのしろい毛野、その道のむこうに。
オンデマンド詩集の個人収支
【オンデマンド詩集の個人収支】
以前にも書いたことだが、オンデマンド詩集を出す場合、寄贈がもんだいになる。
たとえば、前回ぼくは思潮社オンデマンドで『みんなを、屋根に。』を出したが、このとき制作にまつわる自己負担は20万円という事前約束だった。内訳は「デザイン費+編集費」で、じっさいはこのふたつが介在しないと、オンデマンド詩集が陳腐なものになったり自己批評性をもたないものになったりするから、プロのデザインと編集は絶対必要条件だ。
しかも思潮社オンデマンドのメリットは、その編集費に、ブランドの名貸し料と、「現代詩手帖」での自社広告料もふくまれていることだ。思潮社がそうしているのは、オンデマンドによる詩集出版に、やはり「詩壇」改変にむけての可能性をみいだしているためだとおもう。
ところで、自己負担は、従来の100頁A5判300部の詩集を、通常の取次径路で出せば100万円というのが相場だった。だからオンデマンド詩集はその点で五分の一の廉価となる。
オンデマンド詩集を寄贈するばあいはどうするか。1)自分でアマゾンから大量購入する。2)それを郵送費と手間の自己負担で郵送する。――こういった古典的なかたちしかとりえない。
贈呈費用はどうなるか。一冊1500円のものを200部謹呈するなら、まず自己買い上げ料が30万円。通常の書籍小包だと一送付あたりの単価は210円だから、郵送費負担も4万円を超えてしまう。製作負担20万円の詩集の謹呈費用が計34万円で、「製作費<詩壇社交費」という深刻な逆転が生ずることにもなる。これではオンデマンドで詩集をだすメリットがきえる。それで、廿楽順治さんのいちばん新しいポストのように、「買ってください」とひたすらお願いをするわけだ。ぼくじしんも寄贈先を、ネット適性のひくいと見込まれる年長の恩人にのみ、しぼることになる。
詩壇特有の、寄贈と評価の「互酬制」はどうなるか。それについては遅効性をかんがえればいいのだとおもう。たとえばぼくが出す――それをあるひとがネット注文する。そのあるひとがオンデマンド詩集を出す。それをぼくが買う。そこで必要になるのは詩作への本当の信頼のみしかない。詩壇的な政治意識はそこできえる。
むろんひとが買いやすく価格も設定されている。通常の詩集の価格設定は一頁20円ていどが主流だが、思潮社オンデマンドでは半額の一頁10円に設定されている。しかも簡単なネット注文で迅速に指定先に届く、いう利便性も加わっている。だから「買ってもらいやすい」わけだ。
価格が安くなる理由は、書店売りの詩集とちがい書店の棚で競合しなくていいから、デザインを簡素にできる点がまずひとつ。注文されたときが買われたときだから、他の誘導要素――オビも栞も要らない。これも低廉化の条件だ。製本そのものの簡素化もある。ペイパーバック装がそうして選択されている。あるいはおおきな%収入を得る取次の経由のないことでも、価格設定の引き下げが実現した。むろん詩集は一部例外の詩作者をのぞき書店ではほとんどうごかないから、「書店をはぶく」ことにはそれなりの必然性もあるのだった。そのかわりにネット告知などが要る。
従来のように、十年にいちどくらい通常形式の詩集をつつましく出せばよいではないか、という意見もあるだろう。ところが詩篇が量産されてしまうぼくには、とてもそのペースがかんがえられない。もともとは長生きするとおもっていたのだが、気候のきびしい寒冷地へ単身赴任となって、健康保持もガタガタ、長生きを常識的には見込めなくなってきて、毎日が「末期」となった。だから詩が「出てきてしまう」ときには、それにしたがうだけだ。詩集単位でいえばそれで手法別(定型別)に、詩集をつぎつぎ自己編纂することになる。そうなると詩集ひとつひとつの自己負担を低減してゆくしかない。このながれが、いつまでつづくかはわからないが。
とりわけ岡井隆さんの影響のつよいぼくは、あるときから「日録」という形式で詩を書きだして、詩が増殖してゆくことになった。これはぼくだけのもんだいではなく、詩が、「暗喩的戦後」から「換喩的現在」へと軸足を移している証左だともおもう(これについては今度、通常の出版形式で出す『換喩詩学』にもっと理論的に書いた)。そのながれのなかにこそ、ぼくもいるのだ。
思潮社オンデマンドのこれまでの面子をみると、ネット適性のたかい詩作者ばかりという特徴に気づく。とりわけ、高塚謙太郎、廿楽順治、近藤弘文、ぼくの四人は旧ネット詩誌「四囲」の同人だった。今後もべつのネット適性のたかい詩作者が、詩集のオンデマンド化に踏み切るのではないだろうか。
むろん、詩集一冊の価値は、読まれたときに、充実感とともに不可思議な不足感をおぼえ、ついつい再読してしまう体験反復性にある。つまりCDにちかいものが詩集にはもとめられている。だから音韻が大事だし、ぎゃくに目詰まりがくるしい。読まれて達成感をあたえつつ、以後は自宅の書棚に厳めしく鎮座したまま再読されない、といった、恫喝型の詩集は、オンデマンドの本義からはずれているとおもう。かるさのなかでネット注文され、かるさのなかで再読され、一読ごとにちがうものが「つたわり」、そのペイパーバックの簡易な造本が手に何度も馴染む、というのが理想ではないだろうか。
まあぼく自身そのように馴染まれるように、詩集『ふる雪のむこう』を、『みんなを、屋根に。』につづけて考案したつもり。オンデマンド詩集の触感を、眼と脳と手、それに、のど奥の共鳴可能性でためしてみたいというひとは、ぜひ購入していただければ、と、やはり廿楽さんどうよう呼びかけるしかない。
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