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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

今年書いた映画評

 
 
今年、ネットに書いた映画評(備忘用、大島渚関連を除く)

●1月
いまおかしんじ監督『星の長い一日』
松江哲明監督『フラッシュバックメモリーズ3D』

●3月
石井裕也監督『舟を編む』
沖田修一監督『横道世之介』
ミヒャエル・ハネケ監督『愛、アムール』

●4月
西村晋也監督『Sweet Sickness』
上野俊哉監督『連続ONANIE・乱れっぱなし』(追悼)

●5月
渡辺あい監督『MAGMA』

●8月
テレンス・マリック監督『トゥ・ザ・ワンダー』
宮崎駿監督『風立ちぬ』
西谷弘監督『真夏の方程式』
西尾孔志監督『ソウルフラワートレイン』

●9月
小林政広監督『日本の悲劇』
大根仁監督『恋の渦』

●10月
吉浦康裕監督『サカサマのパテマ』

●11月
斎藤久志監督『なにもこわいことはない』

●12月
吉田良子監督『受難』
ロウ・イエ監督『パリ、ただよう花』
纐纈あや監督『ある精肉店のはなし』
アルフォンソ・キュアロン監督『ゼロ・グラビティ』

計20本。数量としては足りないが、トータルの長さなら、まあ合格かな
 
 

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2013年12月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ゼロ・グラビティ

 
 
パスカルの『パンセ』にある《この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる》という語句には、やはり不可逆な真実味がある。まずはアルフォンソ・キュアロン監督『ゼロ・グラビティ』を観ての、トータルの感想だ。

冒頭、宇宙空間上(地球周囲の衛星軌道上)で人工衛星のデータ通信システムの故障をチェックしていた宇宙服すがたのサンドラ・ブロックが、宇宙ゴミ=人工衛星の破片=スペース・デブリの飛来に襲われて宇宙空間へはげしい回転状態で投げ出され、それを同僚飛行士のジョージ・クルーニーがなんとか奪還、たがいのからだをロープにむすんでシャトルへもどると、デブリによってシャトルも、そこにいた乗組員も壊滅にいたっていた――と判明するまでが約20分の長回しで表現される。そのシーンを3Dで視るとは、知覚論にとって一体どういうことなのか。

まず宇宙の奥行は底なしで、しかも眼路にかたちをなすのは、俯瞰的にとらえられた青い青い地球表面でしかない。このふたつはこの映画にあってはいつも相補的で、それを保証するのが、宇宙空間をただよう俳優身体と、それをとらえるカメラ、その双方による「相乗化された回転」だ。

この作品ではスペース・デブリの飛来によっておもわず身を逸らしそうになる瞬間もあるが、3Dの立体感は、宇宙空間の、星のきらめく底なしの奥行の強調にあてがわれる。底なしの奥行が回転するときこそ回転が驚異=脅威になるのだ。このとき起こる身体感覚はむろん「酩酊」、視覚から三半規管へと直撃する上下/左右軸の混乱で、事実ぼくといっしょに丸の内ルーブルで本作を観ていた女房はジェットコースターに酔ったように上体をうずくまらせ、きもちわるくなって途中で鑑賞をやめてしまったほどだった。たしかにこの『ゼロ・グラビティ』は鑑賞する者の身体的資格をふるいにかける。

もうひとつ、長回しそのものの酩酊効果もある。時間軸上の分節化を幻惑させる長回しをつうじ、コンピュータ・アニメによって計算された、宇宙服におおわれた人体のうごき、それに複雑に結節しながら方向と軸のことなるうごきを連接させてゆくモーション・コントロール・カメラが、「時間侵入」的な脅威へとすりかわってゆく。酩酊感を基軸にしての錯視も計算されている。カメラは客観位置からいつの間にか宇宙服ヘルメットごしの主観位置にまで「侵入」してゆき、対象=事物の内外の秩序を深甚に狂わせることになる。

なぜそんなことができるのかといえば、3D映像が本来的に志向する基軸の喪失が関連しているのではないだろうか。たとえばそこでは映像にもともとある「フレーム」の感覚がかぎりなく惰弱になる。フレームはフレーム内の内実を一種、枠の張力によって保証するものでもあるはずなのだが、その機能が溶解しているから、回転によって遠近と上下左右が壊れるように、対象の内外の弁別までもが壊れるのだ。むろんこれはありえない感覚の付与なのだが、これにより、さらに酩酊感がふかまる。この内外への双方向的な侵犯を実現したのが、『トゥ・ザ・ワンダー』をはじめとするテレンス・マリック監督のカメラマン、エマニュエル・ルベツキだった。

無重力空間の表現は映像にとって幻惑的であり、禁忌的でもあるだろう。そこでは事物や人体が「こころもとなく」浮き、事物の根拠そのものを稀薄にさせる。ところが浮くことによって死んだ事物は、眼前を掠めるときに事物の深層をあらわにする――たとえば空気がなく腐敗もないから、壊れたままのかたちがそのまま保存されることによって。そういう恐怖をしめす場面が『ゼロ・グラビティ』にはいくつかあったが、無重力内の事物が生気を帯びる事例も描写された――宇宙船内、空気のある状態でながされるサンドラ・ブロックの「涙」がそれだ。それは表面張力によって眼から離れた途端に「粒」状になり、3Dの立体設計のなか、観客の手の届くような眼前にぶよぶよと輪郭を共鳴させて迫ってきた。

NASAの実現できる無重力空間では長回しの撮影が不可能だという。撮影はサンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニーの宇宙服に覆われたからだの基点部位12箇所にワイアーをむすび、全身を宙に浮かせ、それをモーション・コントロール・カメラと連動させコンピュータ・アニメが計算したとおりにうごかし撮ることで実現されたようだ。俳優たちの「背景」はCG合成前の人工的な一色。それが宇宙空間やら流動する地球表面などやらへと「のちに」合成によって変成する。むろん撮影の進展によって回転を中心にした視界がどううごくのかは、複雑な計算によっているのはたしかだが、宇宙服すがたの俳優がワイアーで吊られていることから単純に生じる「身体性の孤絶=幽閉」は、撮影事情を知らなくても、うごきの刻々に感知されるだろう。このとき身体の相の本質が孤絶にあるというあられもない真実が、観客をある種の窒息感をもって襲うことになる。ボンベの酸素残存量の減少というドラマ要素のみならず、身体の空間への「置かれ方」そのものが一種の「窒息恐怖」をもたらしているのだ。

『2001年宇宙の旅』での「映像革命」を端緒にした『ゼロ・グラビティ』は、キュブリックのような壮大で傲慢な宇宙哲学/時間哲学にはおもむくことなく、無重力状態に生じた危機を脱し、飛行士が地球にどう向かうのかを90数分のリアルタイムでのみとらえた、ミニマル=1テーマの危機脱出「物語」なのだが、けれども映像論的には物理学的な「ありえなさ」までもをふくみこんだ「享受感覚の不可逆的な改変」という大問題を実現している。

深遠と回転のとりあわせのみならず、その合間に地球の青い表面の移動俯瞰映像が織り合わされる点にも哲学的な意味があるだろう(これは高畑勲のアニメ『かぐや姫の物語』ではそこだけ発色感覚のちがう「青」によって表現された)。つまり――身体のアイデンティティの確認、故郷感の醸成、視覚自体の神格化による感覚の逸脱と狂気化(立花隆『宇宙からの帰還』参照)……『ゼロ・グラビティ』は宇宙(の無重力)空間の現実性に肉薄しながら、イデオロギー的には「地球中心主義」に回帰するしかない諦念をも観客の感覚に分与する。これを面倒くさがるかどうかは、そこにアメリカン・スタンダードの匂いを嗅ぐかどうかにかかわっているだろう。

前言したように『ゼロ・グラビティ』冒頭の長回しはワイアーによって浮力をあたえられた事物と人体にどううごきを付与し、それを回転カメラワークでとらえるかという密室的=孤絶の記録にすぎない。つまり夜の闇を接着剤にして、悪の町の外延性をレール移動とトラベリングによってしるしていったオーソン・ウェルズ『黒い罠』の冒頭の長回しとは位相がちがう。『黒い罠』では割られるべきカットが力と熱により融解して、幻惑的な連続性が生じていた。それはひとつの速さをべつの速さへとつなげる、「分岐点」での処理が基軸になっている。

これにたいして『ゼロ・グラビティ』の長回しは無重力特有の「ゆっくりさ」をそのうごきのぬめりのまま脅威化させたうえで、回転によって四方への領域侵犯を付帯させつつ、しかもとりかえしのつかなさが内出血のようににじむだけの長回しが実現されているのだ。これは「連接の事件」が可視化=可感覚化されないという意味では、「損失の長回し」とも呼べるのではないか。

『ゼロ・グラビティ』が観客に最初にあたえた長回しのにぶい脅威は、以後を鑑賞する観客の身体に沈潜するだろう。カットの変化にたいしても感覚が鈍化させられるのだ。むろんそれは「フレーム」を宇宙の闇の遍満と、視覚焦点からのはずしによって曖昧にさせるこの3D映像が用意する必然でもある。とりあえず『ゼロ・グラビティ』は、こうしたカットとフレームの無意識化によって「映画」の範疇を外れ、純粋な視覚アトラクションとなる。むろん刺戟がつよいから90分ていどの上映時間しかもつことができないし、物語も危機脱出の単線物語にしかならない。ジョージ・クルーニーの劇中での「ひとときの復活」に、神にまつわるメタファーが作動しないのも、作り手たちの意図するところだっただろう。むろんぼくには3Dが現状で現実化できる最大値がつつましく現れたこの作品がすごくおもしろかった。
 
 

2013年12月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

纐纈あや・ある精肉店のはなし

 
 
【纐纈あや監督『ある精肉店のはなし』】
 
 
纐纈〔はなぶさ〕あや監督、『ある精肉店のはなし』は、中高年層に大ヒットしているのもうなづける、ものすごく優秀なドキュメンタリーだった。大阪府貝塚市の具体的な場所に立脚して、肥育、屠畜、精肉、小売りまでを一貫しておこなう精肉店一家の歴史と、仕事への誇りをまずは清潔に、ふかく、観客の眼にしるしづけながら、同時に、被差別問題の伏在についてもしずかな覚醒をうながす。声高でないこと、ひとの捉え方にユーモラスさがあること、それらにくわえ、当該地区の往年の写真などに歴史的な悲哀があること(瓦屋根の重畳するなかをまさに「路地」が細道となってくねっている俯瞰風景写真の見事さなど)、盆踊り、だんじり祭り、正月前のかき入れ時など一年のながれがあること、子供の結婚(挙式は岸和田城でおこなわれた)、貝塚の屠畜場の老朽化と利用業者減による封鎖など、一家の個別的な歴史も刻んでいること――これらが見事な「配分」でおさまっていて、結局は観客を次元のたかい「生への肯定」にみちびく。

肥育した牛をちかくの屠畜場まで綱をついてみちびいてゆくようすから窺える、冒頭、牛の物質感。その牛が映画中のことばでは「割られる」。それはたしかに生死をわける瞬間だから物理的にも衝撃的なのだが、以後はそこから得られる「命の恩寵」を、一家の人々が見事な連携プレイと、手さばきの速さ、しかも重さと脂肪と闘いながら、ひとつひとつ作業のまとまりにむけて仕上げてゆく。そのすがたが活き活きと、かつ崇高に映るのには、映画的な原則も関わっている。まず場所にみちているひかりが清浄なのだ。それから流水が多用され、作業そのものに細心な清潔性が保たれているようすも伝わってくる。プロフェッショナルな熱気。往年、芝居のために冒頭で、中国人留学生を屠畜場で働かせ、その虚構性をめぐって上映禁止問題の生じた劇映画があった。それと、『ある精肉店のはなし』とはなにがちがうのか。閉鎖性のある屠畜現場、そこでの「仕事」の聖性を畏敬の念をもってとらえる眼差しがこちらにはあるのだった。労働と荘厳とはむすびつく。話題に出した劇映画の、薄っぺらな労働疎外論とは、神話形成のレヴェルがちがう。

監督の纐纈あやは、ほぼ一年、対象となる一家の労働や日常の奥深くに入り込み、撮影と録音を指揮した(彼女の質問の声もはいってくる)。ところが実際は撮影が開始される五年ほど前からこの一家にずっと付き添ってきたのだった。それで彼女は一家にとって取材者ではなく「同在者」となって、いわばカメラが自然化もしくは空気化し、一家はそのユーモラスでじつは思慮ぶかい日常を、粉飾も自制も作為もなしに、纐纈にさしだすようになったのだとおもう。台所で撮影されたシーンなど、まるでカメラが存在しないのに、着実に撮影が進行している不可思議な魔法感につつまれる。むろんこの流儀は、教室の一角に三脚の撮影カメラを置き、それを子どもたちに触らせながら、一週間撮影をせずに子どもたちの警戒心を解き、「いつの間にか」撮影を開始した羽仁進『教室の子供たち』の流儀ともかようものだ。

いろんなことをおもう。一家の屠畜・精肉作業は基本的に、兄・兄嫁・弟・妹の四人で現在連携されていて、その一家に隣接してさらにべつの兄弟たちが精肉・小売業をいとなむ地域一体性(凝集性)をなしている。この規模をつくったのは、先代だ。彼は、一家のきょうだいの回想や、写真でしか映画に登場してこないが、被差別的な扱いに立腹、小学校を飛び出し、腕一本で世を生きてきた、文字が読めなくても気概のしっかりした、一代の男丈夫だったことが如実につたわってくる。げんこつで愛情を表現をしたという子どもたちの述懐。写真での鉢巻、どてら、長靴すがたに、女好きのする男意気まであるのだ。一家の長男は、近所の屠畜場閉鎖を機に、自分の家の肥育小屋とともに生活空間全体を改築する選択をする。このときかつての棟上げ式で、日付と先代の名を書き込んだ板が大黒柱に打ちつけられていたのを発見する。それを解体業者から丁寧にもらいうける長男のすがたに、やはり仕種の歴史性がかんじられた。

舞台挨拶に出た纐纈監督のはなしでは、リピーター鑑賞者が多い、とのことだったが、なるほど、この作品の力は、すべてのシーンに事象、力、歴史、人員が「あふれている」――そうした充実感にあることもまちがいなさそうだ。それはさらに歴史に「分け入る」観客の知覚を呼び覚ますだろう。たとえばなぜこの地区の盆踊りは三日三晩つづくほどの烈しい狂奔をしめし、しかもそこでは仮装がたっとばれたのか。画面に映る、現在の仮装の余裕とユーモアとはちがう、本質的な仮装が往年にはあったのではないか。そういえば、外部から一家へ来て長男の嫁におさまった女性は、「赤毛のアン」への仮装をつうじてセルフ突っ込みの愉しい気品をみせるが、宇和島出身と作中で語られる。その宇和島と貝塚とをむすぶものこそが、歴史的な想像力だともいえるだろう。

なにしろ適確な位置にカメラがいるか、もしくは(字義矛盾だが)適確な位置にカメラが空気化しているかで、個々の場面につき感動でゆさぶり、しかも全体の個々が聖なる清潔さとプロフェッショナルな生の哲学で充実している(なおかつ「歴史」への眼差しを覚醒させる)見事なドキュメンタリーだった。しかも「作業の手順」については肉に特化せず、だんじり祭りの太鼓の皮の張り替えで代位するような巧みな換喩構造も内包された、自在な話法なのだった。むろん被差別問題がこの労働の歴史性描写に伴走することは監督にもともと承知で、それに委縮せず、労働に肯定価値をあたえる姿勢にはまったくゆるぎがない。だから告発などという身振りへと、軸足のぶれることもないのだ。作品はただ「一家の存在」に、原理的な郷愁と畏怖をあたえる。それにしてもこうしたテーマへの肉薄膚接は、ドキュメンタリーの近年の果実なのだろう。青原さとし監督の『タケヤネの里』の達成度の高さも鑑賞中おもいだしていた。
 
 

2013年12月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

今年の総括

 
 
今年の総括(かんたんに)

【出版】
・『映画監督大島渚』(河出書房新社)
・『ふる雪のむこう』(思潮社オンデマンド)
(思潮社『換喩詩学』は入稿済だが版元の事情で刊行が来年春先送りとなった。
思潮社オンデマンド用『空気断章』も入稿済)

【主な執筆】
・「換喩の転位、転位の換喩」(「現代詩手帖」七月)
・「俳句、驚愕をつなぐ声の力 ――正岡子規と安井浩司と」(「現代詩手帖」九月)
・「喩ではない詩の原理」(「ガニメデ」六〇号、刊行は来年)
・「フレームを、フレームに書き(描き)入れる ――『なにもこわいことはない』『愛、アムール』」(「層」七号、刊行は来年)
がっつりしたものはあまり書いてない。映画評のネットアップも例年に較べすくなかった。あ、『換喩詩学』用の書下ろし、「換喩的現在」(未発表)もありました

【授業】
・前期学部講義「国語表現法」
・前期院ゼミ「九〇年代後半日本映画論」
・前期全学講義「大島渚を観る」
・前期映画リレー講義「手の換喩」(五回)
・後期学部講義「吉岡実と石原吉郎を読む」(継続中)
・後期院ゼミ「つげ義春を読む」(継続中)
・後期映画リレー講義「遅延と恋愛表象」(五回、済)
「国語表現法」で跳躍したかんじ。このころアガンベンに熱中していた

観た映画、読んだ本についてはまだ総括ができていない

ということで、今日はこれから東京。着いたらまずは賀状書きかな? 年末、観逃している映画数本を女房と観にゆく。忘年会の予定なし、日々無常迅速

おとといは高柳重信「身をそらす虹」の、執念にみちた成立過程論考、高原耕治『絶巓のアポリア』を、きのうはリスボン大地震からアウシュヴィッツまで、ヨーロッパの思考と表象の破滅を多彩に追った哲学的年代記、飯島洋一『破局論』を、読みだして読み了えた。二冊トータルで千頁。圧倒感と困憊とで詩がでてこない
 
 

2013年12月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

奇怪さ

 
 
分身から託宣される――「奇怪さは論理と音楽が混淆したその箇所にある」。夢にかいた、「皿のあるところへゆけ。皿のながさにつけ。せかいでいちばんながい皿がつくえなのだから」という箇所を突かれたのだ。さすがに動顛した。それでも分身から得た託宣を再考してみると、それが植物のことをいっている気もしだした。祝日のつくえには、いけられた花があった。
 
 

2013年12月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ダウナー

 
 
ダウナーをめぐる毅然たる音楽哲学。まざりあう相互に再帰的にある厳格さを聴きとって、「在る」「きえる」をながれのなかにかぞえる。それでもフォルテの裏箔の位置にピアニシモがひしめいていると、くうきには皺のようなものがふるえ、頭蓋の側面にて蝋の耳がとけてゆくのだ。この鏡面と失墜とが音楽のある空間にたしかにひらめく傷だ。そのことは音楽の総体を身体にしない。むしろ空洞性を共鳴させるだけだ。うつろさまでを毅然と受けとるとき、からだの共鳴は厳格と曖昧のあいだを思慮のもんだいに変える。
 
 

2013年12月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

骰子

 
 
しぐさはひとにつらなり、そのつらなりを憶えきれなくなったところで、そのひとの場所にうわずみがみえる。ながれのなかの差異は蒸留されてひとの奥行を透かし、てまえにたたえられたあかるさを、みずからのくらさのかわりに、うつくしいとただ憶えてゆくのだ。手を卓に置いたポーズは、すでにその奥行じたいがさそう。それは子どものころによく気づいていたことだから、いまも坐りながらかすかにゆれるひとを、眼の底にそのままおさめたいとねがえば退嬰をかんじざるをえない。もうまくにおさめたものをさらに内にむけ骰子のように擲げても、奥行までのあかるさが塵のように舞うだけだ。それでも椅子に坐るすがたすべてが、ひとの骰子だと、眼に渦をまく力がひとまずまとめようとする。
 
 

2013年12月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

空身

 
 
あふれているとは、波打ち際のように境界線がひるがえりきらめきながら、ゆきつ戻りつしているときあたえられる、錯視への感慨だろう。数音の長短幅のある改行詩、しかも折り返し位置のそろわない列なりを、そのようにむかえ、ひとたびひろがっているかたちのそのときを愛した。前提のない断定と、同音反復、前提のない朝と、夜の変奏、それらによっていちじるしくおのれを欠いている「風琴と朝」、その欠けているものをみちあふれさす風の奏での撞着を愛した。たたえられてある水に、その水にまみれるためわけいってゆくまなざしの貪婪を、かたわらで否み、水をみないで汀にたち、ひとときを境界とする、このあやうさのからだを、うごく空気のながれる身を、他人に代えてただおのれへと愛した。
 
 

2013年12月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

あるきかた

 
 
きみにえらばれた、いくつかのかたち。たとえばそれは「あるく」ではなく「あるきかた」だった。かたちにそうして個別がしのびよるとき、きみのなかにゆらめいていた一行目と二行目さえうすく収束する。このことがおそらく精神のしめすズレを喚起するのだろう、きみはすでにきみなりの余韻として、きみの事後を尾けるようにまでなった。

それでふと気づく、個別とはある者の背後からそれとほぼおなじものが羽交い絞めするにも似た、形態と時間のあいだのひそやかな分泌なのだ。これが体言化してゆく。動詞だけの単純さをうばいとられた「あるきかた」などは、ひとりではなく、きみに現象するきみのふたりが謀りあってなしている、うすさそのものの厚みと、その樹間からはみとめられた。

ただし抽かれるのは分身の哲学ではなく、むしろかんたんな小人の文法なのかもしれない。ある者を裏打ちするのは、おもいかえればいつもその者の小人で、これこそを、うごきからぼろぼろこぼれる体言とも呼べた。そういう不確かな影がきみの「あるきかた」には居たのだ。
 
 

2013年12月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ゆらゆら

 
 
もうひとつの自我へむかうたび、気味わるく発動してゆくものがある。それは、もともとの自我と、次の自我との「あいだ」だ。ほんとうは自我などというものも存在せず、「あいだ」だけがあるのではないか。暗箱を例にとれば、ピンホールと投影された逆象のあいだにみちている空間が、たえずしたたるようにゆらめいているのを、横からうけとったときの衝撃に似ている。あれはなんのゆらめき、なんのひかりの裸身だろう。あいだは横からみると水分をふくむへだたりなのに、そのただなかをゆけば逆感をもしいる変化のぬかるみにすぎない。この雪上からあの雪上へとむかうながれにあってさえ、設定がたしかなら起点終点の自我がきえるのだ。すこしだけかもしれないが、確実にきえ、むしろその消えのゆらゆらのみが、自我に回収されぬ不気味なうつくしさとしてある。
 
 

2013年12月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

輪郭

 
 
まなざしがまわし撫でれば、そとがわからとらえたその腕も、つながりながら内らへおのずとむかう。まわるものこそ量感の表面とおもわなければならない。それでからだには秘めあふれるしろさがあっても、そこに輪郭などという抽象がないとわかる。ただしそうかんがえるときには、こちらの視が一点からであることが否まれていて、輪郭のないかたちのやわらかさは、こころもとなくみずからを、こちらへ投げかえし、あらゆる位置をまわし、こちらまでしろくさせる。量感のもつ外への拮抗ならはかなくなる。こうして視の愛はきえゆくたがいをさらに消す時のなかにあり、しめされるうごきも回転、色彩も白だと、その音楽に近似する腕の、まさにそのうちがわから、ただしずかに、したたりをもって、うれいはじめるのだ。
 
 

2013年12月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

なみだ

 
  
なみだはながす、あなたとわたしのあいだ、澱のようなものを。対面のなみだがそうあるのに、ひとりのなみだが何をながすか訊いてみる。ひとつのこたえは「まなこ」そのもの、それは全身の消えにまでひろがりゆくだろう。またひとつはそのひとの「めぐり」。ある夜ふとめぐりの欠けをおぼえ、とおくいるひとへ迫る部屋のくらやみを、ここに手許にする。気がつけばそのちいさな内らを、わたしみずからが湯さながらにぬくみ、ただよい着いている。
 
 

2013年12月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

フレーム2

 
 
【フレーム2】


視の構造と、視の内容がゆるやかに一致するフレーミングにおいては、世界の入れ子化という事後的事態が必然的に生じる。逆にいうと、この入れ子化によりまずは「視たこと」が保証され、そのなかに遡行的に「視ること」が浸潤してゆく。瞬間内における視の逆順が、フレームごとに現れ、それが厚みになるということでもある。それは「語ったこと」と「語ること」にまつわる縫合できない齟齬とも、とおく響きあう。

やわらかいフレームと、かたいフレーム。映画においてもっともやわらかいフレームは、漆黒の暗闇、あるいは抽象的に黒味をうつしとったときに現れるだろう。そこでのみ、フレームは周囲の闇に溶ける(理想的な映画館の環境をかんがえればそうなる)。フレームの本義は視ることの釘止めだから、手持ちの移動で対象の移動をとらえるときにもフレーム観念が粉砕されてゆく。そこで「残骸」の残像にたいして感覚が追走をはじめるのだ。あるいは、固定的フレームがつづく場合では、そのフレームに人物が「出入り」するときにフレームのやわらかさがもたらされることになる。そこではフレーム外への想像化がたかまり、「音」だけに支配されていたそのフレーム外が、現れないイメージと結託するのだ。これはよくかんがえると感覚の幸福とむすびつく。

むろん映画に特有的なフレームは、固定ショットのなかで、ひかりや人物動作の推移がゆるやかに起こるときにあらわれる。そこではゆるやかさこそがフレームの内容となるのだが、かんがえてみれば、このことだけが現実の視覚でも、あるいは絵画や写真でも実現できないものだ。そこでは建物の内部、外界、あるいはひとやひかりや構図よりも先験的に視られているものがあって、それがゆるやかさなのだった。これは時間性に属するもので、それにこころを奪われると、じつは視覚内容が逆に消滅してゆく。だから固定ショットを連鎖する映画がそれじたい演劇的だという見解は、ナイーヴで、誤っている。

視にかかわるフレームは、世界内次元に存立する「視のフレーム」までも貪婪に吸着してゆく。映画ほど窓や鏡をうつくしく撮る表現はその意味で存在しない。ここではさらなる「上昇=拡充」もありうる。つまり写真や監視画面そのもののフレームが、映画のフレームと一致してしまうときがあるのだ。このとき映画に一次的に期待されるフレーミングが死へと固着される。つまりこれはフレーミングの強固な二重化のようにみえて、映画的な視の内容を内面から平面へと差しもどすフレームの粉砕だろう。内容に厚みがあることがフレームの条件だとすれば、そうとらえるしかない。

もっとえげつない粉砕もある。登場人物がカメラそのものを視て、観客に語りかけるような、説話性にまつわる約束事の逸脱がそれだ。このときには与えられているフレームがかりそめ、虚構、詐術だという過激な種明かしを映画が目論むことになる。フレームはもともと映画のもつ語りの対象化能力を規定していたのだが、それが遡行的に壊れるのだ。

フレームは意味分化とともに映画では推移する。この意味分化もフレームを軟化させるものだ。このながれのなかフレームの固定によって、視えるものと視えないものが分離され、視えない人物になにが起こっているかなどサスペンスの醸成されるばあいもある。ここではもともとのフレーム=物語という信憑が試練にさらされる。これもフレームの部分的な粉砕ととらえかえすことができるだろう。

視えるものと視えないものの「分割」という別次元の招来は、意味形成においてまず起こるが、それがフレームにも律儀に反映されるとき、フレームにもともとは想定されていなかった「共謀の力」が付与される。これもフレームが非人間的・非中枢的な視の限定だという前提を粉砕する。フレームの人間化はじつは残滓を積み立てる。その意味でこれは手持ちショットと事態が似ている。これらは感覚論と精神分析にまたがる共通項なのだ。

この分割はさらに、間近な人物どうしの身体的なかかわりがしめされるときに、映画をなみだのようにすることへ貢献してゆく。眼前の身体の外部性がそれに対応する人物の反射動作によって内部化されることを、カメラこそが支持する。となると視えている純粋で身体的な外部に、想像的な内部というフレームが交錯することにもなって、フレームは自身の外枠を保存しながら、内破を迎えるしかなくなる。ところがこの内破が、映画が語る愛の保証ともなるのだ。これは客観ショット、主観ショットの区分を超えている。すでに観客の想像的な視線がそうした区分を触覚的に撫でているためだ。

フレームはむろんひとのからだの視えてはならない部分を、枠の外に置き去ってもみせる。そこから画面に映るあらゆるものの尊厳化というべつの局面がひらく。つまり写しとることの尊厳化と、写しとらないことの尊厳化がきしみあうことで、視の内実が分離してゆく感覚的な悲哀こそが、フレームのほんとうの「内容」なのだった。

以上述べた、幾段階にわたるフレームについての見解は、すべてミヒャエル・ハネケのこれまでの方法に刻印されている。『ファニー・ゲーム』――『隠された記憶』――『ピアニスト』――『白いリボン』――『愛、アムール』……ハネケの作品にはエドワード・ヤンの方法に上乗せがなされた映像論の層がある。
 
 

2013年12月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
湾から岬を遠望すると、視ることがなにもない先にまでのびてゆく。ことばのもんだいかもしれない。すなわち「視=先」がみずからの眼にまねかれるのだ。あのみどりの尖端は、在る形状が形状自体のさきゆきを消しているのだから、視えることが視えないことをふくんでいる。いっけん海へと仮託される眺望装置と映りながら、とがって終わる地形は、みずからへ折れもどるしかない。

いずれは岬が連続している海岸線がないだろうか。海の女性性を繍いこむべつの女性性が音楽のようにたかまっている場所、愛しあうための場所。むろん地形から性愛をかんがえてゆくと、あまりの迫真性に、ゆううつがもたげるしかない。岬の勃起のかたちは、ゆううつによる男性性の消去でもあり、それが視の筒状へと形骸化される。だから視ることをふやすためにおもう、岬の連続を。
 
 

2013年12月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ロウ・イエ『パリ、ただよう花』

 
 
【ロウ・イエ監督『パリ、ただよう花』】


一作ごとに性愛の根源的な哀愁を見事に画面推移に写しとる、中国第六世代の雄、ロウ・イエの新作がいよいよ公開される。『パリ、ただよう花』〔中国語題は『花』、英語題は“Love and Bruises”〕。作品は終盤間際になってパリ-北京間の「二都物語」的な様相を呈するが、それまではパリの空気感を定着するのが主眼かともおもわせる。

撮影はジャ・ジャンクー作品のユー・リクウァイ。手もちカメラで対象を分け入るように浮遊し、対象とその周囲の空気を切り取りながら、対象の「内部」へも入るような接近性までを、流動的な音楽のように刻印してゆく。撮影内容は短い単位で選択され、カッティングの多くは細密性にとむ。時空をつなげているのはショットに一貫する浮遊感、それと音。たとえば主役男女同士が出会うまでの冒頭、パリの雑踏の交錯をめまぐるしく撮りながら、空気がにわかに湿潤をはらみ、激しい通り雨になってゆく音の編集など、唖然とするほどに見事だ。むろん『天安門、恋人たち』以来のロウ・イエの流儀でもあるのだが。

タイトルにある「花」はヒロインのパリや北京における通名だ。「花」はアルファベット表記すれば“Hoa”。映画のヒロインと似た境遇をもつリウ・ジエによるネット小説の原作はみずからの性愛経験を赤裸々につづった一人称作品らしいが、そこではHoaの名はつかわれていなかっただろう。リウ・ジエの送ってきた脚本をロウ・イエが協議しながら書き足すうちに、たぶんHoaがまぎれこんだのだ。

周知のように天安門事件の「後遺症」を、当時の北京の学生世代の複数の「流離」としてつづった旧作『天安門、恋人たち』では、「花」にたいする言及が多かった。花は開花のよろこびではない。季節ごとに咲いて散って、年ごとにそれをくりかえす――いわばその時間上の流離に、中国人の宿命をかさねていたようにおもう。古くは食客、やがて墨子集団、さらには剣客、現在では農村から都市部への「盲流」、中華街の飛散が、中国人個々の流離の運命をつげている。ロウ・イエにあっては中国の花は中「華」思想ではなく、集団のはかなさの花なのだ。

パリにいる中国女性“Hoa”はグローバルな流離の涯でパリに「ただよっている」だけではない。なにしろ「H」が「無音のアッシュ」になる(つまりH音をはっきりと発音できない)フランス発音のなかでの“Hoa”なのだ。北京での彼女は知己に、H音をはっきりとひびかせ“Hoa”と呼びかけられるが、パリにいるフランス人は“Hoa”と“Oa”の中間にある、あいまいな発音でしかその名を語れない。いわば「無音のアッシュ」にようやく音(口をすぼめて発する息を子音化する)を組み入れるときの、フランス人にとっての口腔の違和感こそが、たぶんアジアなのだ。その位置にヒロイン「花(ホア)」がいることが意識されなければならないだろう。

フランス語が流暢で、しかも知性があり、さらにははげしい性愛の撮影を厭わない――それがリウ・ジエの原作小説『裸』から導かれるヒロイン像で、しかも映画的に美形である要請もあるのだから、とうぜんキャスティングが難航した。百人ていどのオーディションを徒過し、やっとのことで僥倖にも発見された「ホア」役は、モデル稼業を皮切りに、TVドラマの脇役を演じていたコリーヌ・ヤンだった。『パリ、ただよう花』が一定の精神的な図像性をもつとすれば、それはコリーヌの特異的な容姿にまさにかかわっている。それはベルトルッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』がマリア・シュナイダーの――ロング・カーリーヘアと年齢に合わない乳房のかたち、それとときにボーイッシュでもある子供っぽい丸顔――つまり容姿上の「意味」が分裂していたことによって、代替できない「精神的な図像性」をもっていたこととおなじだ。

『パリ、ただよう花』の「ホア」=コリーヌ・ヤンは瞳とその周囲の物質性、それに視線の質によって、彼女の顔の映る画面のすべてを、彼女の「様式」にまず刻印する。切れ長の眼は、文字通りその左右の切れが長く、その分、白眼も多く露呈するのだが、黒目部分が大きく、黒目が眼の中央に定位されたときには真率さがつくりあげる抒情性を湛える。特記すべきは瞼にある深い二重の皺と、眼袋部分の隈にも似た深い皺だ。それらが眉間の印象と相俟って、「老い=老獪」(ホアの役柄の設定は28歳)、「疲弊」「懊悩」「啼泣直前」「病性」「遅延」「不機嫌」「猜疑」「悲哀」「不幸予想」「暗色」「(亀のような)明察性」など、通常の映画ヒロインには期待されない諸感情をしるしづける(彼女の切れ長の眼が涙を湛える刻々を、ユー・リクウァイが息を呑んで捉えるながれもあった)。“Hoa”の呼び名にある無音のアッシュがやっと有音化されて、そこに「アジア」が漂うとすれば、コリーヌ・ヤンの眼の表情は、女だてらに「東洋的市隠」の物質性――よりひらたくいえば周囲から区別される不可侵性、還元不能性としてつよく有徴化される。

その眼の表情をエキゾチックと、彼女と出会い恋仲となる「マチュー」(タハール・ラヒム扮)はたぶん感じただろうが、それを馴致できない身体細部とはかんがえなかったのだろう。ホアの性愛描写に波状性をもって現れる痛ましい「受苦」の感触は、第一に、その眼の表情にあるのだが、からだをつなげていて、たぶんその近すぎる相手の眼を明視することがマチューにはできないのだし、あるいはホアが官能のたかまりによって瞑目していることも多かったかもしれない。それでも後背位のときマチューはホアに「(上体を反らせて)顔を見せてくれ」と懇願する場面があった。つまり観客こそが、マチューよりもホアの眼をみている点に留意が必要だろう。

コリーヌ・ヤンは頭頂にむけて傾斜した額をもつ。面積はひろくないと一見かんじるのだが、顔そのものの細面が物質的に際立ち、それが額と連動しているので、額からはやはり知性がひろがってくる。その顔をつつんでいるのが肩まである黒髪で、それは詰められていても横髪がゆれる。とくに性愛のうごきのなかでゆれる。むろん東洋の女の情感を、それは端的に表象し、マチューが性愛中ホアの髪に多く手をふれるから触感性もわきあがってくる。

ホアの顔には上述のように幼形成熟=ネオテニーがない。ところがその乳房は小ぶりで乳首もちいさく幼形的だ。逆に性愛は相手に愛着をかんじれば烈しく、脱幼形的だ。このように自己身体内の「長幼」の基軸が分裂的ななかで、黒髪もまたその毛根の繊細さによって幼形を、ゆれによって脱幼形的な情感を発散させる分裂をえがく。

眼と髪と小ぶりの乳房――それらの「ハーモニー」によって、「ホア」=コリーヌ・ヤンの性愛の質が、「分裂性にあたえられる受苦」と規定されてゆくようにおもえる。「ホア」「マチュー」の相愛成立までを確認しておこう。映画の冒頭は、ホアがフランス語教師に執着するが、相手が別れを主張する愁嘆場だ。「別れのまえに愛のないセックスでもいい」とホアは懇願するが、安ホテルで自分たちの出会いを最後に穢すことに相手が同意せず、抱擁だけでふたりは別れる。

雑踏を蹌踉とあるき、ひとにもまれてよろめくうち、前述のように俄か雨が画面を走ってきて、失意のホアはカフェに入り、やがてうつ伏せに眠りこんでしまう。店員にうながされ、通り雨も去って出た路上で、ホアとマチューの邂逅が用意される。マチューは金属材とビニール布で仲間との連携により、その日その日の街頭市場を設営する組立工(下層労働者なのに注意)のひとりで、彼の金属材がホアの額を打ち、ホアが転倒したことが出会いのきっかけになったのだった。

怪我を心配し、病院に連れてゆこうかと心配するマチューの善意をホアは固辞する。マチューのするのは「戻ること」の反復だ。まず一旦別れたのに地下鉄口で銀行をみつけなければとかんがえたホアに、マチューが辿りつく。名前を聴き、「ホア」の意味(=花)をマチューが知るやりとりがあって打ち解けたふたりは携帯電話の番号を相互に登録して別れる。ところが別れた途端にマチューからホアへ携帯電話が鳴り、一緒に食事をしようと切り出される。別れた直後なのに、元気?と訊かれることのユーモア。しかもホアが振り向くと、マチューは彼女の真後ろにいた。ゆきずりの者同士が、偶然と必然とをゆらしながら、互いに打ち解けてゆく手順が吟味されている。

ふたりは料理を愉しんだ。その後、名残惜しそうなマチューをホアは振り切る。ホアと出会うまえにフランス語教師と別れたばかりの彼女なのだから、一日の出来事の振幅をもう鎮めるタイミングなのだが、一緒の食事=その後のセックスと短絡するマチューにはそうした内情がわからない。そこでも互いが別方向に足を運んだのち、マチューがもどってきて、ホアを人通りのすくない場所にひきずりこみ、ホアのもつ存在の悲哀を被虐性と捉えかえて、レイプまがいに着衣のまま下着のみを下ろしての強姦というながれになる。それでも相手を承認するように、ホアもキスに積極的になり、その腕はマチューの背にまわされ、生じた官能の波を増幅するような声をせつなく響かせる。マチューのしたことは犯罪紛いだ。事が終わると、気おくれしてマチューは一旦その場を去る。ところが30メートルほど離れたところで足が停まる。相手のホアは茫然と塀の前に、事が終わったときのままの恰好で坐っている。放心状態。マチューは戻ってゆく。それで50センチくらい離れた隣に自らも坐る。するとおもむろに気配をかんじたホアが自分の上体をマチューにもたせかけてゆく。「起こったことすべて」にホアが「同意」した瞬間だった。たぶんその強姦まがいのセックスは、彼女の生にあって未経験の刺戟だったはずで、その後、そのままマチューのアパートにゆき、今度はたがいに裸身になって、ふたたび烈しい性愛をおこなうことになる。

展開をおおきく端折るが、ふたりはその後、マチューの仕事仲間のまえでも烈しいキスや路上性交を憚らない「兎のような」恥しさをふりまく。そのあいだに「暗雲」要素が加算されてゆく。大学で授業をうけるホアはパリのアカデミズムに溶け込み、パリの中国人社会でも社交性を発揮している。マチューはそうした彼女に直面するにつれ、嫉妬し、洗練されない社交性で自爆にいたり、しかもマチューの仕事仲間には、「賭け」とはいえホアを売るようなことをし(間接表現で消されているが、ホアはその男に強姦されたとみていい)、最後にはアフリカ出身の気性の烈しい女と別れているとはいえ書類上の結婚関係がつづいていて、離婚をすれば相手が強制送還されることに憐憫をかんじているという煮え切らない秘密までが露呈してくる。最初のふたりの性交が強姦まがいだったことは、マチューの仕事仲間による強姦に飛び火し、さらには手首を背中で縛られてのマチューとの後背位ではげしく欲情するホアにまで飛躍してゆく。

そのなかで最もうつくしいのは、離婚しきっていないマチューの黒人妻が、マチューの留守のあいだに部屋を滅茶苦茶にしたところにマチューとホアが帰ってきたあとの局面だ。部屋の混乱が片づいたのだろう、ふたりが並んで就眠しているカットへ跳ぶと、裸身のホアが高熱発汗して呻いている。異変に驚いたマチューが解熱剤を呑ませるなどの看病をし、小康に近づきながらなおもくるしむホアの髪を労わるように撫でる。精確ではないが、やりとりを再現してみよう。

「からだにさわっていると、したくなる」「したければしてもいいわよ」(マチュー、さすがに躊躇)「したら、もしかすると、あたしもラクになるかもしれない」。ふたりは行為を開始する。ここで性愛と受苦の分離不能が完全刻印される。しかもマチューに正常位でのしかかられて裸身を隠しながらマチューの肩の余白に顔を覗かせているホアは気持ちよさそうにもみえない。マチューの放精の気配。マチューの背中に腕をまわしたホアが泣きだす。「(結婚していたことをマチューが隠していた決定的な離反理由があっても――自分たちの境遇がちがいすぎても)どうしよう――マチューが好きでたまらない――離れられない」。

国籍・出自・教養に差異のある者どうしの性愛関係の成立とその破綻、というふうにむろん作品は最終的に要約できるようにもなるのだが、この要約を阻むのが、いま書き起こした、高熱のホアにマチューが挿入したこの場面だろう。強姦紛いの受苦のなかでこそホアは相手への愛着にいたり、自己を賦活させる。むろんマゾヒストの気味があり、それをインテリ特有ということもできる。あるいは孤独が異邦人の彼女を深く浸食しているということもできる。

ただし男が正常位で性交するときにその肩の余白にある相手の女の顔を俯瞰で捉えつづけたのは『天安門、恋人たち』にも前例があった。ヒロインが大学の学生寮の二段ベッドのうえではじめて性交したときだ。ということは男の後頭部(隠れている顔)と露見している女の顔が接触して並ぶのが単純に画面的には受苦ということではないだろうか。露見と脱露見が併存することは「世界のかたち」であって、これこそが受苦なのではないかということだ。

観客は上記の場面で、ホア=「花」の膣内の高熱を触覚転位される。身体・精神の両面にわたり、ホアはたえず「自己供与」をおこなう崇高な犠牲者でもある。ところがその犠牲性は彼女自身に還流して、彼女を賦活させる。こうして犠牲と賦活が併存することも、受苦ということばで括られようと、これまた「世界のかたち」なのではないか。この世界観はじつは淫乱な者にではなく流離する者に特有なのだとおもう。つまり流離する者にあっては、自己身体の侵入圧によって眼前の世界が分離される。このときに身体の侵入によって分かれてゆく空気の幅がそれじたい熱いのだ。

このことを自らの体温のなすわざと、意志的に誤解してこそ、世界が二重化する。逆にいうと、世界を二重化させる豊饒な感覚を得る者は、「流離する者」にかぎられている。ところがその特権そのものの価値も二重化される。つまりそれは「豊饒」であるからこそ、「悲哀」でもあるということだ。花=ホアの秘密は、「ただようこと」で自分自身の「埒外に」、「内部をつくる」点にある。ホアの身体はふたつの別のものを縫合した痕であり、こうした病痕が愛だということは、『天安門、恋人たち』『スプリング・フィーバー』と、ロウ・イエ作品に一貫する認識なのだった。

配給会社アップリンクは、この『パリ、ただよう花』にたいして、「ロウ・イエ版『ラストタンゴ・イン・パリ』」という惹句も謳っている。間違い電話がきっかけで、出自や現状もわからない中年男マーロン・ブランドと女子学生マリア・シュナイダーが「ゆきずりの性愛」関係を濃厚化してゆくあの作品は、フランシス・ベーコンの挿画がドラマとは別の「意味」をつたえていた。性愛で白熱する身体同士は、パリという街の属性のみと一致するのであって、たがいのからだと一致するのではない。マリア・シュナイダーの丸顔(ロング・カーリーヘアと併せるとマーク・ボランに似ている)に兆す「少年性」。それが脱領域的な「剥き出し」の性愛にあたえられた最初の開口部で、その開口部を、マリアへのマーロンの肛門性交という「処理」が埋める。このときに、いわば身体の力能による「充填」が起こった。このことに較べれば、マーロンの家人が自殺していたという物語上の判明は、充填にとって何ほどでもない。

ところがその肛門性交のまえ、マーロンがハーモニカでフォスターの「スワニー河」を吹奏する場面での「郷愁の前面化」も開口部をなしている。それは「少年時代への心情回帰→その少年時代を彩っていた女役としての自分の同性愛」といった「予想」をたしかに駆り立てるのだが、たとえそうだったとして、「自分の過去の少年性」を「豊満な少女である相手に開口している少年性」と錯視できる根拠がわからない。いや、根拠はひとつだけある――「剥き出しの性愛の脱領域性がいま・ここにあること」がそれだ。ちょうど『パリ、ただよう花』の性愛の根拠が、研ぎ澄まされた中国的流離にのみあるように。

通訳の臨時仕事のためにホアが北京にもどり、数々の場面でホアのアカデミックな知性が完全に描写されるようになる。ホアには院生時代、ステディになりながらも喧嘩で気まずくなった、無粋で若さの感じられない四角四面の先輩がいて、その男は准教授への昇進が決定している。その男が涙をながして過去を謝罪しホアに大学復帰への誘いとともに求婚した。ホアは承諾する。これでホアの相手は、映画がはじまって、フランス語教師、マチュー、パリの中国人社会の男、(強姦とはいえ)マチューの仕事仲間と数えてゆくと、じつに五人目ということになる。

ホアは乱倫をくりかえすbitchなのだろうか。ちがう――「乱倫」は流離する者の、躯の智慧であるにすぎない。ホアが成立した婚約者に熱情をかんじていないのは即座にみてとれる。熱情をおぼえるのはセックスで一体化できるという幻想をあたえる者(つまりマチュー)だけなのだ。そうした者だけが世界を「二重」にする。しかもそれが流浪のなかに自分がいるという感覚の恩寵、悲哀をもたらす。性愛とは流浪、流離だろう。乱倫ではなく、マチューだけが「別だったこと」は、『パリ、ただよう花』では解剖学的にえがかれている。

マチューがいたから、ホアの「旅の記憶」が核をもつことになる。むろん長い時間と多くの場所にわたり、天安門事件の後遺症世代の「愛と傷」をつづった『天安門、恋人たち』の流離の旅程にたいし、パリと北京のあいだでしか「ただよわない」この作品の規模はちいさくみえる。けれどもホアの身体に籠められた流離性は、その眼のふかさと相俟って、埋蔵量が莫大だという感触もある。ただしそれは、高熱時の性交場面のような限定的な場面でかんじられることなのだ。

パリを引き払うことを決意したホアが整理のためにパリにもどる。ちいさな「戻り」しかできなかったマチューにたいし、ホアが戻るときの振幅はおおきい。ホアと別れて行方不明になっていたマチューの居所は彼の田舎の実家だった。そこをホアが訪ねる。疎隔感をごまかせずに、マチューはホアに家族を紹介、自宅も案内し、全員での会食にいたる。ふたりはその後、田舎のラブホテルへクルマで移動する。

久方ぶりのセックス。マチューは性交の最中に、北京で男ができたのかと訊き、ホアは婚約の事実を明かす。マチューの無教養ゆえの狭隘な倫理観は、婚約が決定したのに、前の男と寝る「ふしだら」を難詰した。それで「いま」「このときの」性交が道義的な逸脱になってしまい、彼は不能化する。なんども励起しようとするが、うまくゆかない。彼は疲弊してホアの胴のうえに身を投げ出す。その髪をホアが撫でる。マチューに転写される幼形、ホアが獲得したかにみえる母性。

だが問題はそこにはない。性愛がいつも流浪であることを、マチューの定住者的、西欧的、無教養な思考はついに理解しない。もともと性交はマチューが怖気をふるった道義的な逸脱であることを離れない。同時に自己無化にまでいたる無償の愛着なのだが、それもついにマチューには理解できないだろう。ところがそれが彼の良さでもあった。だからマチューの頭髪をホアが愛撫する。そのホアこそが、流離の意味を知る哀しい認識者であって、じつはそこでは母性ではなく道教的な感触を発散しているのではないか。

本作は12月21日(土)より、渋谷アップリンク、新宿K’sシネマほか、全国順次公開
 
 

2013年12月14日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

ネオテニー

 
 
サルの赤ん坊がヒトそのものに似ているように、つぎに進化する動物がまえの動物の幼少期のすがたにデザインされることをネオテニー=幼形成熟という。これが創作的無意識ではおおきな領野を占めているとみえ、交配によるイヌのデザインの発展にもネオテニーの本質へちかづこうとする傾きがはっきりしている。

いっぽう種族内でネオテニーのあるばあいがあり、ヒトの性差ではこれをメスが負担する。輪郭と皮膚の内質のやわらかさによって、ヒトではメスのほうが、ヒトの赤ん坊に似ているのだ。その証拠に、瞳の分布率も一般にメスのほうがおおきい。「可愛い」の本質のひとつは庇護の欲望にまつわるこの点にこそあって、だから可愛さをめぐるサブカルチャーもまた幼児化してゆく。このことを直観しない分析は、愛することと食べることの弁別がなくなる愛餐にたいし無防備だといえるだろう。

ヒトのメスではすなわち幼形が勲章となる。となると乳房や下腹など、性徴のあらわれる身体部位は、受難や災厄としてうけとめられることにもなる。おんなを愛することは、たとえばその髪の毛に愛と食欲の入り混じったくちびるを這わせながら、その性徴部分を対象の身体内に「遠望」する分裂をはらむだろう。そこでこそ「愛と分裂」の対が決定的になるのだ。女体をほんとうに愛することは狂気をよびよせる。

おんなの身体がもたらす幸福とはなにか。それは産む母胎をもつ内部性がそこにしるしされながら、幼形という内部が存立されている種に、それ自身で内部的な緩衝帯の極点をつくりあげる点にあるのではないか。おんなは種の留保であり、種の避難地であり、郷愁だ。字義的なネオテニーがあたらしさの更新であるいっぽうで、幼形は種の記憶がかたむきたいとねがう「ふるさ」でもあって、おんなは形態上の意味でも分裂していている。このことまでを可愛いとおもうのは、文明上の原罪に属するだろう。性差上メスがネオテニーになっているライオンでは、むろん形態にかかわる新旧の撹拌などない。
 
 

2013年12月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

喩ではない詩の原理

 
 
「ガニメデ」へ一旦メールした詩論は、武田肇さんとの打合せの結果、字数の大幅超過が可能となった。「平成に詩は在ったか」という大命題にたいし、4000字の字数がすくなすぎて苦労した、とこぼしたところ、武田さんが斟酌してくれたのだった。最初の原稿は、4000字を若干超える、依頼された分量になんとか収めたのだが、じつのところ、論旨が圧縮されすぎていて、難解さや目詰まり感が出るだろうと、自信もなかったのだった。その内情を武田さんが見抜いてくれ、書き足していい、とやさしい再提案をしてくれたのだろう。

で、昨日はその書き足しをおこなった。けっきょく6000字を超えた(もとの1.5倍になったわけだ)。論旨はおぎなっていない。書くときにアタマをかすめていながら、字数節約の関係で実体化させなかった「段落」を10幾つか挟み入れただけ。まだ書いたときの記憶がのこっていたので、それができた。段落がふえ、「展開」がより具体化されると、論脈全体がやわらかく生き生きとしてくる。「詩」についてのもとの思弁的な記述は、いわば省略的な筆法によって鬱血していたのだが、血管が拡充して、全体にながれが生じた感触となった。

原稿は「中村鐵太郎→江代充→貞久秀紀→藤原安紀子→高木敏次」とつなげ、最後に中村鐵太郎+江代充に回帰する円形をしるす。そのなかで「喩ではない詩の原理」のひとつとして、自明性そのものが不明となる世界把握につき、侵入角度を変えつつ、さまざまをつづった。最初に引用した中村鐵太郎の文章がいわば透明性を高密度に実現しているものだったので、それにつられぼくの文の電圧もあがったのだが、書き足して細部をさらに補充してみると、自分の書いた詩論のなかでも、一記述の射程域が神秘的にひろがり、それがやわらかい間隙をはらんで連鎖しているような自覚が芽生えてきた。もともと「絶対に明言できないこと」を繊細にことばで組織している趣が中村鐵太郎にあって、それをぼくが、じぶんのことばのはこびで承継したのだった。

ぼくにとって本質的な詩論となったような気がする。来年の春まえに出るぼくの『換喩詩学』にも収めたいくらいだ。「ガニメデ」次号が出たら、ぜひ気にとめてください。

これもあり、授業準備もあり、買い物もあり、卒論チェックもあり、調整もありで(すべてパソコンをまえにしてのこと)、昨日はなかなか忙しかった
 
 

2013年12月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

背鰭

 
 
セヴィレエは背びれのまま岐れてひとりだちした。およぐ魚身の方向をあやつっていたやつだ。目鼻もないのに、せまるながれをじぶんの背後へ伏数にしてみせた。たりないかたちながら、きらきら生きるのが得手だったのだ。線のおおい日には、セヴィレエにぼくをはこんでもらった。おかげさまでぼくは淡水から汽水へ、そのときを鹹くすることができた。
 
 

2013年12月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

山椒

 
 
のどの痙攣が、嚥下のときにもちいさくあるとおぼえれば、さんしょうのわかばをあさっていったあの畠でも、もだしていたようで、体内の発語が始終あったのだ。ひびいているものを身に取りこむ不埒が、うしろすがたに光沢をつくり、それをみられた。うつむきに湿地まで呑もうとする飲食の異形が、背後そのものからまるごとつかまれた。
 
 

2013年12月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

伏数

 
 
――だれも「失語」などしない(藤井貞和)


肌のみの者にしか、ひらたさはおとずれないだろう。なべて量をもつ孤有は、日々がずれをもってあらわれるごと、あしもとへちがう網をなげ、虚実の伏数でゆきかうのだ。かならず化身はとかれ、それゆえ自悲が算えうるし、算えうるそのなりたちが、すなわち秘躍とも、さらにのぞまれてゆく。
 
 

2013年12月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

クライマックス

 
 
クライマックスはオーガニズムに似ている。どちらも「ものがたりが死にそうになる」、その消滅をまえにしてのあえぎなのだ。とうぜん世界ではなく自己にあらわれがむけられている。それらはみずからの来歴に乗じ、あらゆる光景やことばを同時にいい、それでものがたりを死なそうとする不穏な衝動だ。身体的には痙攣してわななく咽喉をおもわせ、しかもそこから起こるのが吐瀉ではなく、ありえぬことに放精だとも幻覚させる。咽喉と性器の倒錯。それでもかわりに到来するのは、ありうるとすればカデンツァのような高速分散でしかない。そうして真に価値ある量感がいわばパラパラマンガにまで貶価され、そのなかを俳優身体なども右往左往するのだから、笑ってしまっていいのかもしれない。ほんとうにおそろしいクライマックスは、平静をくずさず、内部重複の不可視性を、受け手に陶酔的ではなく不機嫌にさしだす。それも受苦の継続時間ではなく、寸刻の流し目として。
 
 

2013年12月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

HK

 
 
あるときからべつのときへ、ひとをつなげているのがうごきではなく記憶だとすると、まるで記憶が束になるようにひとがひとじしんを移っている。その記憶を知的な善し悪しが裏打ちし、だから時間にも出来のちがいがある。「語ること」と「語られたこと」が徹底的にちがうというのも、原動性をもつ記憶がからだの発話的刻々なのにたいし、定着された記憶がからだの死体だからだろう。ほんとうになまなましいのは、おさめることのできない現下の記憶で、それが切断と区別がつかないのが、おぼえのさだめなのだ。うつくしいものは不可能で、それゆえにうつくしい。この矛盾律的な同語反復がすべてだ。これは空間的には電圧差と同時に生起している電流で、それでひとのことばが部位にわけられることにも熟慮が要る。眼とくちのちがう男が、ちいさく叫んだ声をかくしておぼえている。
 
 

2013年12月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

電球

 
 
身体を思考する言語がそれじたいで身体的かと問うアポリアのように、鳥もちにつかまっているわたしの電球がある。それが夜、ともる。空間を思考する言語がそれじたい空間的なのは自明だが、かえってその自明性は点灯などせずに、くらいということまではわかっている。
 
 

2013年12月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

楽譜

 
 
ふるべき星の夜、帽子おんなが箱おんなにむけていう、「あんたを開けてあげる」。箱おんなが返す、「蓋をとれば、あんたのそこも虚空でしょ」。たしかに対話関係にある上下や現在・過去なのだが、ともに星をながしこめば、あいだの夜もひとつになる。立つおんなの脇にしゃがむおんなのいる双極は、かくしてぜいたくな背景をもつ。その背景がいわば楽譜なのだ。
 
 

2013年12月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

いずれ

 
 
千人か仙人か聞いただけではひとつわからないが、そのどちらでもいいとおもう、風のむこうに透るのは。いずれタオ市だかハオ市だかにある野で、とおくまちがえたことだ。
 
 

2013年12月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

鱗状について

 
 
わたしは、わたしの部下だ。よごれたものにも自分をむすんでゆく。そうしてたとえば気味わるい樹皮のうろこへふれる。やがて作用域のほうのわたしがむくむく龍となる。そう、わたしのけむりのような部下は、意志するわたしよりもおおきい。
 
 

2013年12月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

吉田良子・受難

  
 
【吉田良子脚本・監督『受難』】


前作『惑星のかけら』で渋谷の夜をさまよう男女が、どのような身体相互性をとるかを見事に展覧した吉田良子監督が、新作『受難』では、ひとりの女が、室内や路上でどのような身体運動を起こすかを見事な映画性で展開した。相変わらずの聡明さ、相変わらずのヒロインのうつくしさ。撮影は名手・芦澤明子(黒沢清監督作品など)で、これまたフレーミング(みえる対象との距離)、カメラ運動、光の摂取などが、しずかな展開ながらすべて生き生きと生動している。とうぜん観終わると形容の難しい幸福感が漂った。

原作は、破天荒さが話題になった姫野カオルコの同題小説(未読)。原作の設定ではヒロインはプログラマーのようだが、映画の設定では冒頭、事務所から解雇されることになるモデル(以後は短期アルバイト状態)。その解雇理由が、清楚な魅力があるものの辛気臭く、そのセックスアピールのなさに「すべての」男が敬遠してしまう(「おちんちんが懺悔してしまう」と称される)存在の敬虔さによるとわかる。彼女は作中ずっと綽名で呼ばれている。「フランチェス子」。実際に信徒という設定で、喜捨と清貧と癩者への接吻で知られる中世アッシジの聖者フランチェスコと二重写しになっているとやがてわかる(ロッセリーニの傑作『神の道化師、フランチェスコ』も参照)。映画は十字架上で瀕死のイエスが神にむかってついに悲嘆した「エリ、エリ、ラマ・サバクタニ(神よ神よ、どうしてわたしを見捨て給うたのですか)」をヒロインのナレーションにしてはじまった。

聖フランチェスコは、十字架に架ける際に釘打たれたイエスとおなじてのひらに、「聖痕」が顕われたことでも知られるが、こちらは原作が姫野カオルコだから、もっと聖痕が尾籠だ。「フランチェス子」の陰部に男の顔の人面瘡がとつぜん現れ、彼女という存在の性的無価値、世界との無交渉を、その「性の中心」から四文字言葉も多用して口汚く罵倒するのだった。それは無意識と意識の内的葛藤ではない。孤独な「フランチェス子」はそれでも容喙というかたちで自分に関わり、孤独を諌めてくれるその人面瘡を、仄明るむ表情で甘受するためだ。彼女はほとんど静穏を崩さない。このこと自体が彼女の聖者性を保証している。清貧は彼女に終始している。

やがて人面瘡の口汚さが、ある真実を射当てているとも気づかされる。たとえば女性陰部へと人面瘡は歴代取りついてきた。「フランチェス子」の前は、フランス女性イヴォンヌ。豊満な乳房が自慢の女だったが、男たちが自分の胸にしか興味をしめさない、と人面瘡に嘆いたといい、そのことを傲慢だと人面瘡は総括する。「フランチェス子」はその意味がわかる。「たとえ胸のみであっても、自分に興味をしめされることを歓びとしなければならない」。つまり存在は受け入れられることが本義で、愛されることはたとえ部分にたいしてであっても承認なのだ。これが世界承認との連続性を形成する。だから愛される者はつねに香気を放つ。ところが「フランチェス子」自身は閉じきっている。愛される相手のいないことがさみしいが、そのさみしさまで所与としてしまう。その装われた敬虔を人面瘡は憤る。

ところで陰部に取りついた人面瘡は「映画的に」どのように表現されたのだろうか。まず教会での祈祷の最中にフランチェス子は、至近に自分を罵倒する男の声を聴く。上方に声の出所を探るうち、「下だ、下、バカ」という指摘を受け、腰をおろし、膝をひらき(聖らかな内腿がすこしみえる)、下着をとり、そこから自分の股間を覗きこむ。やがて股間を叩くと、「痛っ、痛っ」という男声の悲鳴が漏れる。そうして異変の箇所が確定する。それでもまだ彼女の股間に生じたものが、彼女の眼にははっきりしないようだ。それでそこにあった鏡を操作して、鏡面によって股間を視る。その鏡面のアップに切り替わって人面瘡が顕われる。男の顔の輪郭は髭面、蓬髪に囲われている。それらが彼女にあるだろう陰毛とあいまいに共存する。男は額中央から鼻にかけ縦の傷がついていて、これが陰裂をあらわす。となると、喋りまくる口が、膣ということになるだろう。

これらは特殊メイク、特殊撮影による象嵌によって表現される。ところが絶対に一般映画(「R15+」指定だが)では表象できない局部を、男の顔の置換により換喩的にしめすことは最初の段階で成就されてしまう。それよりも、自らのじかの眼や、鏡、水面など媒介をつかって、しゃがみこんで自分の局部をみやる女の姿態の自己再帰的なはかなさ、うつくしさのほうが、監督吉田良子の興味対象のようなのだった。

おもいかえすと、ヒロインの仕種はすべて一枚岩ではない多元性をたもっていた。冒頭、横から突っ込んできたクルマにヒロインは一瞬にしてなぎ倒される。ところが急停車した運転手のほうから捉えかえされたヒロインは、ただちに起ちあがりその男に向かってくる。そしてこともあろうに、その運転者に「お怪我はなかったですか?」と額を血で滴らせながら訊ねる。注意すべきなのは、路上に倒れていることが、即座の起きあがりで覆されることだ。あるいは、モデル事務所の撮影スタジオで、自分の思い人である「クスさん」に、「あたしとセックスしてください」と懇願するときには周囲の驚きを尻目に、最敬礼をする。その最敬礼は懇願のように一見おもえるが、相手の困惑を察知しての「別れの挨拶」に即座に移行していった。

このように身体はひとつの表情に安住せず、その潜勢態をただちに展開してゆく。祈祷にかかわるものでは拝跪、五体投地、結んだ手から鞭を背中に向けての祓い打ちがあり、それらも展開的だ。この作品にはただ静観的に人物の語る場面がほとんどない。歩行にしても「ただの歩行」がなく、ヒロインが移り住んだ旧家屋から無職の閑暇に海岸を歩くときでも、おおきなピンセット型の物挟みをつかい、ごみを拾い、それをビニール袋に入れることを励行している。ここでは、そのたびごとに「あるき」に「わずかな蹲み」が加算される。屋内でもヒロインのあるきは運ぶことと複合される。あるいは清潔を旨とするヒロインは雑巾がけ動作の四つん這い歩行もおこなう。いずれの移動も「ただの移動」ではない。ともあれヒロインには動作面で地面や床への親和性があるようで、姿勢は俯こう、低くなろうとする謙譲をくりかえす。卑屈なのではない。仕種の潜勢態は自己再帰的な方向をもつと、ヒロインの身体、監督の吉田良子が知悉しているから、このような動作が繰り返されるのだ。

床への親和性により、ヒロインは坐り、床に横たわる。坐っている際の姿勢は背筋が張られ、うつくしい。そのことでとっくりセーターによってヒロインの胸部に程良く漲っている曲線に注意がむかう。また垣間みえる内腿を中心とした、肌のしろさからも清冽が発せられる(自己再帰性といえば、ヒロインは外から自分の家電に留守録メッセージを入れるのもこのんでいた)。

以上述べた多くの動作のあいだ、ヒロインは人面瘡と語りあっている。人面瘡は自分でも意志をもつから、ヒロインのからだを操る。人面瘡の意志と、ヒロインの意志とが反発関係になったときには、ヒロインの動作そのものが刻々の抵抗圧をうみだして、そのからだがよじれ、よろめき、反転することにもなる。人面瘡の存在が上記のように定位されているのに、それもまた仕種の自己再帰性の惑乱のようにみえる。

いずれにせよ、これらの仕種の極点に位置するのが、ひざまずき、脚をひらき、自分の股間に人面瘡の表情や存在を、歓びにみちてうかがうヒロインの低い姿勢だ。この仕種から第一に拝跪が形成される。だからそれは祈祷に似る。しかもこの祈祷に予定される視線は上方ではなく自分の深部へむかっている。自己愛的(自己再帰的)なのだ。彼女は人面瘡を古賀新一の恐怖マンガから「古賀さん」と愛称しているが、じつは股間を占拠した「古賀さん」に食餌をあたえ、養うことはできても、小用の際には「古賀さん」を溺れさせるし、何よりも愛しあう対象として古賀さんには隣接できない。それは自分の性器に載っていることで、逆説的に自分の性器の対象外となった表面なのだ(ヒロインはそれを「届かない」と表現する)。このときヒロインは自分の指を舐め、その指を(たぶん)古賀さんに咥えさせた。このことは自慰行為の換喩となるが、むろんそれはいつまでも換喩性であって直截性の行為ではない。

現在の信仰は上方(他方)への眺望を喚起しない。それはいつでも自分の深部へのまなざしだけを予定する。だから神性に否定斜線が引かれ、祷りの仕種だけが個別性に残存することになる。腰をおろして自分の股間をみやる姿勢は、祷りの孤独をつたえている。むろん股間=人面瘡とはヒロインはたとえばくちづけできない。このとき逆転が起こる。自己再帰性そのものに、むしろ祈祷の「無の厚み」があるのだと。むろんそれは仕種の錯誤だ。

ヒロインは「なんにもない、なんにもない…」と「やつらの足音のバラード」(園山俊二作詞/かまやつひろし作曲)を唄い踊る。これもまた「哀しいときには踊る」という、ヒロインの仕種のえらびの錯誤だ。しかもヒロインは友人の自主制作CDの売り上げ上昇を記録させるために自発的にこっそり、同一タイトルを二万円弱の出費になるまで大量買いする。それを拾ったラジカセで再生、ラジカセを抱えつつヘッドホンで聴き、まわり踊る。このときのヒロインがとくにきれいだが、自己再帰性は回転にむかいながら無音化することで、「世界」にたいしてなにもしるされない。「消滅の手前」だけが生動してゆくのだ。そこに慄然とさせる感触もある。つまり自己祈祷は、なにも喚ばない無為とも接触しているのだった。

行為の連鎖が聖性を帯びている点は如上あきらかになったとおもうが、ヒロインの顔そのものにも聖性が漂っている。紹介が遅くなったが、演じているのが、筆者にはバラエティ番組での破天荒さが印象にのこっている岩佐真愁子だった。額から鼻筋にしろいひかりを集めるその顔には高貴さがあって、しかも繊い三日月眉とやや重たげな瞼が倦怠をつたえてくる。ノーメイクにちかく、そばかすがみてとれる。くちびるの縦皺=ひだのこまかさが性的感受性をしめす。その顔がしろいひかりと馴染むとき、顔の「そのもの性」が解除され、聖なるものとの連絡を自然に多重化させる(照明は監督とおなじ映画美学校出身のカメラマン、御木茂則)。

岩佐の髪型は、前髪の揃うバイト先場面が一回あるが、その他はすべて真ん中分けのワンレン。撮影の芹澤明子の興味は、その長い黒髪が自然の風によってその輪郭をわずかに分岐させ、ゆれるようすを捉えることにも発揮されている。塩田明彦『害虫』の宮﨑あおいへの一画面にあった、魔性の刻印ではない。静態がそのなかに潜勢をくりひろげている崇高を定着しようとしていたのだ。

ほとんど物語にふれてこなかったので、すこしだけ。コミカルで破天荒な物語自体は、岩佐の股間に人面瘡を用意するとともに、もうひとつ、彼女の右手が欲情する男にふれるとその男のペニスを炎上させたり、血だらけに切断するといった「特殊能力」を付与する。この特殊能力が偶然要因となって、岩佐は連続強姦魔の逮捕に貢献することになる。その祝いで往時のモデル仲間を家に招きいれるうち、「ウィズ美」(伊藤久美子)が、かつて自分の思い人だった「クスさん」(淵上泰史)と恋仲になったと知る。性的に奔放で堕胎歴もある伊藤久美子に淵上が処女幻想を抱いていて、結婚はおろか性交もできないと、苦衷を打ち明ける伊藤。「好きだということは、相手の堕胎歴も何もかもを、すべて受容することだ」と励起する岩佐。いっぽうモデル仲間を呼ぶうち奥の部屋が未使用になっていることに興味をもたれ、そこがやがて愛の待合い部屋として使用されてゆく(岩佐はひとの性癖を記録し、やがて出会いの斡旋にまで手を染める)。ともあれ、それでその部屋を使用し、伊藤と淵上の「初枕」が目論まれる。

水槽から藻らしきものを食餌にあたえたことで、人面瘡の「古賀さん」(だれが演じているかはヒミツ)、その人面の一部がイソギンチャクとカズノコになってしまった(つまり性器としては名器化した)という前段があって、なぜか殉教の構図よろしくベッドに手足を縛られて岩佐が異変に目覚めるという、黒味からのジャンプカットになる。あとで判明するが、どうしても岩佐の処女を喪失させ、彼女を世界にたいして展きたい「古賀さん」のはからいだった。薄闇。その彼女のうえに、泥酔して意識混濁する淵上が乗っている。相手を彼は「ウィズ美」と呼ぶ。人違いだし、日付ちがいだ。だから岩佐はちがうと身悶えるが、猿轡を噛まされていて、明瞭な発語ができない。淵上はペニスを炎上させることもなく、岩佐の処女をうばい、その直後、昏睡する。人違いの強姦とはいえ、念願の処女喪失を念願の相手で果たした岩佐。感慨は複雑だ。いったんは間近に眠る淵上の背中に、いましめをやっと解いた両腕を回そうとしたが、躊躇する。理性を恢復したのだ。

この性愛シーンは何重にもわたり、多元的だ。相手としては「人違い」なのに、心情としては「ど真ん中」だということ。「ウィズ美=伊藤久美子」の乱倫の果てのゆるい性器にたいし、自分の性器が代理されたことで、「クスさん=淵上泰史」の「ウィズ美=処女幻想」に貢献したこと。つまり自己犠牲、他者扶助、利己、自己抹消などがふくざつに組み合わされている。代理こそが、殉教と救済の本質なのはいうまでもない。しかも岩佐にとっては、受難なのに悦びがあったこと。それでも彼女は自らを「喜捨」した。むろん相手は偽りの対象だったから、その相手への抱擁は癩者への抱擁のように、個別的ではなく普遍的だ。同時に、挿入に際して人面瘡=「古賀さん」が「痛い」と呻いた。つまり岩佐にとって挿入であるものが、「古賀さん」にとっては口淫だったという多重性も仕込まれていて、岩佐と「古賀さん」は方向性の異なる殉教を同時に演じたのだった。仕種が静態に収まらず即座に潜勢態を具体化して多重になるという、この作品の法則がここに極まったのだった。

しかし多重性だけがあればいいのか。本当に希求されているのは、仕種がそれじたいの仕種でしかない単一性なのではないのか。そこでさらに(一生)忘れがたいシーンが後続する。行為後、岩佐がシャワーを浴びている。ワンレンの髪が濡れることで、冒頭のほうで岩佐がおこなった自己洗礼が反復される。しかも岩佐のうつくしい裸身がここで初めて全体性を帯びて明示的になる。起きだした淵上が、風呂場のくもり扉ごしに声をかける。「すごく良かった」と(彼はまだ扉のむこうに気配のある存在を、岩佐ではなく、伊藤久美子だと人違いしている)。岩佐は「まだすべてを見せるのが恥しいから、扉をあけないで。先に帰って」と伊藤を装って懇願する。素直にしたがう淵上。岩佐はシャワーを浴びながら自責にうなだれる。

そのあとだ、行為が行為そのものと「一致」をみるのは――。彼女は海浜通りのトンネルを濡れたからだの全裸のまま全力疾走している。去って行った淵上を、時間が徒過してから必死で追っているのだ。追って何になるのか。あなたの相手がじつは自分だったと告白するのか。自分の恋人になってほしいと懇願するのか。それらは彼女自身にもわかっていないだろう。ただ理性のうながしによって双身にわかれた互いをふたたび一致させようと彼女は全裸のまま疾走している。正面からその疾走を捉えた画面に、大橋仁のすばらしい写真集『そこにすわろうとおもう』を想起した。力感の質がおなじなのだ。やがてカメラの前を岩佐の疾走する裸身が通過、カメラはパンして今度は岩佐の裸のうしろ姿が画面奥行に向かってゆくのを追う。臀部には鍛えられた獣の感慨がある。実際の夜の路上で捉えられた、ほんとうにすばらしい走りだった。

彼女は去っていった淵上には出会えなかった。彼女は淵上とは一致せず、彼女の走りのなかに、彼女の走りだけが一致したことになる。行為は孤独を研ぎ澄ますが、その自体性がじつは豊饒で、だから孤独がやがて解消されることになるだろう。終幕にむかうそこからの経緯を本稿では起こさない。ファンタジーの可笑しさ、奇矯さの法則だけは遵守されるとのみ、しるしておこう。

音楽は大友良英。画面の空気をそのままつくりあげ、たりなさの魅力をつたえる大友の映画音楽はいつもどおりだが、エンディングテーマは、『あまちゃん』にも劣らない傑作だったとつけくわえておこう。この本年度屈指の名品は、12月7日よりシネマート新宿で公開が開始される。
 
 

2013年12月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

秘められた生11

 
 
髪へのくちづけは、髪そのものに触感がないのだから、毛根と地肌をざわめかせ、あいまいに隠れているだけの場所のゆたかさを、知らしめるいとなみかもしれない。それは、ないものをさがすようにかならず連続する。一点にとどまらず這いながらうずまりながら、こちらのくちびると鼻もつながる。そうした連続でなにかの点火にまでおよぶとすれば、あいまいさのおおもとが脳にあるとつたえる「間接」が、すがたにえらばれているともいえる。耳介にも頬にもふれず、立ちすがたで髪あるいは神、または神経への愛着を、くちびるをもちい、しるしつづけるとき、肉と霊の中間にふれるこの身が、ひとつの点燈行為になっている。それをくらい窓に映せば、さらには降雨にまでなっている。
 
 

2013年12月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

樹について

 
 
かたちの善い樹はあるていど離れれば、いつもてのひらをおもわせる。そのてのひらがあって、つかめなかったすべても空とおもわれるのだから、かたちとは関係を反転させる潜勢なのだ。たとえば存在しないカメラをおもい眼がシャッターを切ることも、自分のいない場所を知るために「ここにいること」をただ逆回りでつくりあげてゆくだけだ。かたちにおいて――あるいは立つことにおいて、これら反転が祷りにまで似てしまうのだから、樹や空を視るのがおもいのほか、かなしい。
 
 

2013年12月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)